11月17日。東京の朝の気温は10度。ひんやりした空気が心地よい。新聞を取りに8階から歩いて昇降する日課に慣れてきて最近はゆっくりなら、一気に登れるようになった。目の前の森の紅葉が見事に秋色に染まり日々、自然の息吹を受け止められるのも四谷ではできなかった贅沢である。
◆新型コロナウイルスの猛威が治まりつつある。8月19日には4923人を数えた東京は昨日16日はわずか15人! 全国では154人におさまっている。このまま収束してくれればいいが、冬に向けて第6波はやはりくるのだろう。世界の感染者、死者の累計は、アメリカで4722万人(死者76万人)、インド3445万人(同46万人)、ブラジル2196万人(同61万人)、日本は172万5000人(同1万8332人)にとどまっている。
◆昨年2月以来のコロナ禍で「オンライン」というシステムが職場、学校などで普及している。地平線報告会もオンラインで、との提案はあったが、この通信を紙の発行にこだわっているようにやはり「報告者の話を直に」という思いが強く、踏み切れないでいる。
◆しかし、世界的にオンラインは普通になっていて、その最たるものが、きのうバイデン=習近平の間で行われた米中首脳会談だろう。中国の台湾“武力奪還”が遠くない未来に現実となるかもしれない事態に両国のリーダーが3時間半も話した事実は大きい。オンラインという方法の成果と言えるだろう。
◆先日、テレビのニュースにびっくりした。「クライマーの山野井泰史さんにピオレドール賞……」え? 山野井君、どこ登ったんだ? ピオレドールは、あの谷口けいさんも受賞している最高の賞だが……。どうやらそれより高い評価の、彼の生涯のクライミングに対して特別賞が授与されるらしい。そういうことならお祝いを言わなければ。電話してしまった。「やあ、お久しぶりです。いつも地平線通信読んでますよ」と元気な声。よかった。山野井君が元気でいることは日本にとって大事なことだから。
◆「今回は、親はじめまわりの人が皆喜んでくれるので自分でもよかったな、と思ってます。フランスやドイツの人たちが失敗したのも含めて私の登攀について詳しく調べているので驚き、嬉しかったですよ」。12月はじめには帰国するらしいのでまたコンタクトさせてもらおう。この件の顛末は、16、17ページを是非。
◆10月30日、長野市の信濃毎日新聞社で「第10回梅棹忠夫山と探検文学賞」の受賞式が行われた。梅棹さんがご存命の時に決まった文学賞ももう10回。第1回の角幡唯介の『空白の5マイル』、2回の中村保の『最後の辺境 チベットのアルプス』、3回の高野秀行『謎の独立国家 ソマリランド』、5回の服部文祥『ツンドラサバイバル』、7回の大竹英洋『ノースウッズ 生命を与える大地』、9回の荻田泰永の『考える脚』(コロナのため授賞式ができていない)など地平線報告会でおなじみの顔が多かった。
◆しかし、今回は違った。“民話採訪者”小野和子さんの『あいたくて ききたくて 旅にでる』(PUMPQUAKS 2700円+税)という本が選ばれたのだ。宮城県に住む86才の女性。民話の世界に惹かれ、35才の時に民話採訪の旅を始めた。まったく知らない家を訪ね「ご存知の民話があれば教えてください」とお願いする。断られることも多いが、家に上げてもらい、じっくり話してくれることもある。360ページの本にはそうして集めた18の民話が納められている。
◆受賞式のあと、小野さんは「民話の おもしろさ やさしさ つよさ」というタイトルで記念講演を行なった。凛として、しかし、しみじみ語りかける口調で。その語り口に日頃の「民話採訪」の姿勢が伺われ、私はひきこまれた。ああ、地平線報告会でこういう方の話も聞きたいな、と思いつつ。
◆小野さんは、東北を襲った3.11東日本大震災も目の当たりにしているが、この本を刊行した出版社とは宿命的な出会いだったのだろう。社名の「PUMPQUAKS」とは「PUMP(汲み上げる)」「PQUAKS(地割れ・地震)」からつけたという。小野さんのこの本が小さな出版社の最初の仕事になったそうだ。86才の小野さんの仕事にふれて私などまったくの若僧で、年寄りじみたことを言ってはいけない、と日頃の生き方を反省させられた。
◆そして1週間ほど前、「193コンサート」という小さなヴァイオリンコンサートをオンラインで鑑賞する機会があり、さらに衝撃を受けた。「193」とは2人のヴァイオリン演奏家の合わせた年齢でお1人は92才、もう1人は101才というご高齢の方なのだった。ピアノ伴奏に合わせ、お2人はソロで、時には2人でクラシック曲を弾き、ついには朗々と歌いあげたのである。当分、年寄り面するのはやめよう、そう決意させられる11月だった。なお、101才のヴァイオリニストとは丸山純さんの義父である。[江本嘉伸]
■手塚治虫が描くブラック・ジャックは凄腕の一匹狼の外科医だ。彼は、請け負った手術は絶対に失敗しない。そんな外科医はいないと思いつつも、患者を決して見捨てない姿勢に共感し、漫画『ブラック・ジャック』を夢中で読んでいた時期がある。こんな医師がいてほしいと思う。さすれば腎臓がん、すい臓がんを患い、都内でも有名な民間がん病院の治療を受けながら2013年春に亡くなった『エビと日本人』の著作で知られる村井吉敬さん(当時、早稲田大学大学院教授)は、今もなおインドネシアの多島海やアラフラ海からニューギニアの島々を巡っているのでないか。
◆だが、凄腕の外科医は漫画の世界だけでなく実際にいた。最近TVで紹介されていた名古屋セントラル病院院長の中尾昭公医師がその一人。他病院で治療を断られたすい臓がん患者を引き受けている。昭和23年の生まれだから御年73歳くらいか。中尾医師はメセントリック・アプローチという手術方法を考案した。すい臓につながる動脈にはりついた腫瘍を電気メスで丁寧にはぎ取り、血流を止めたうえ腫瘍部を切除する。そうすると血流に乗ってがん細胞が全身に広がるリスクが少なくなる。職人技だが、中尾医師はその職人技を磨きぬいた。手術の度に「俺はまだうまくなっているか」と自問し、今よりもっと手術がうまくなることを目指しているという。患者をなんとか助けよう、患者にはとことん尽くしたいとの気持ちだからだそうだ。
◆私はこの5月に3度目の余命宣告を受けたがん患者だ。来春まで生きられるかどうかというのが、二つの病院の5人の腫瘍専門医と画像読み取り医師の標準医療マニュアルに基づいた見解である。だが私は標準医療に与しない。それは2016年8月に末期がんを宣告され、緩和ケアーかリスクがあるが抗がん剤治療いずれかを選べと医師に迫られた(と感じた)ときからのことだ。ネットで代替医療の勉強を開始し、延命治療として陽子線治療を受けた。標準医療にしたがっていたら、私は今この世にいない。
◆現在の私は、慶応大学医学部先端医科学研究所の佐谷秀行医師に命を託している。佐谷先生は、標準医療で余命宣告を告げられた患者でもなんとか救いたいと研究を長年重ねた医師だ。標準医療で余命宣告を受けた私の治験も受け入れてくれた。この先生の治験で死ぬのなら納得できる。
◆もう一人、当てにしている医師がいる。近赤外線光免疫療法という画期的ながん治療方法を開発した米国がん研究所の小林久隆教授。小林先生の治療方法は今春から全国の15か所の医療機関で実施されているが、まだ肺がんの治験まで届いていない。私はこの二人にネット上で出会ったことで、生きる希望をもてた。
◆生への希望をつないでくれたのは、友人知人の力も大きい。がん患者は孤独だ。一人でがんと闘っている。私が孤独感に陥いるのを防いでくれたのが、かつての観文研(日本観光文化研究所)の『あるくみるきく』編集長だった宮本千晴さん。宮本さんは罹病以来、物心両面で私をささえてくれ続けてくれている。また宮本さんの山仲間で地平線通信編集長の江本嘉伸さんも通信上で励ましてくれている。地平線会議の同人たちの励ましも生きる力になった。地平線通信508号の地平線ポストで賀曽利隆さんが「頑張れ、森本孝さん!」を、岡村隆さんが510号の「地平線の森」のコーナーで、また509号では編集長の江本さん自身がフロントページとあとがきで拙著の刊行を喜び広報してくれた。丸山純さんも月刊『望星』11月号(東海大学教育研究所)の著者インタビューで、私の宮本常一への思いのたけを語らせてくれた。こうした励ましが私に生きる気持ちを奮い立たせてくれている。宮本さんや江本さん他の地平線のみなさん、ありがとう。
◆通信510号によると、賀曽利さんは3度目の致命的事故から奇跡的生還を果たしてまたバイクにまたがっている。私も3度目の余命宣告から奇跡的生還を果たすつもりでいる。そしてインドネシアの多島海を歩き、水平線の彼方から地平線の仲間にエールを送りたい。[森本孝]
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡(最終ページにアドレスあり)ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。
■島田利嗣(10000円 5ネンブンデス)/江川潮(5000円 江本さん! 同年生、80代お互いにがんばりましょう!)/秋山貞子(50年ほど前、武蔵美にて、宮本常一先生の講演を受講したファンの一人です)/三羽八重子(10000円 いつも楽しみにしています。10月は、花田さんの知見に触れることができて嬉しかった。昨年からささやかな登山(トレッキング)を楽しみ始めました。74才で)/長谷川昌美(10000円 通信費として)/田中雄次郎(10000円)
■江本さん、住み慣れた四谷から府中へ、人生の大仕事といっていい引っ越しを乗り越えて、よくぞ『地平線通信』の10月号を出しましたよね。江本さんの『地平線通信』に対する熱い想い、執念を強く感じました。
◆10月号の『地平線通信』で圧倒的な感銘を受けたのは、岡村隆さんの書かれた「地平線の森」での『宮本常一と民俗学』(森本孝著・玉川大学出版部刊)の本の紹介です。「これは宮本常一や民俗学を知らない大人が、その実態を知るのには最良の本だ」とあるように、宮本常一先生の元で、日本観光文化研究所(観文研)で同時代を共に過ごした森本孝さんと岡村隆さん、お二人の間柄だからこそ書き得た一文だと思います。
◆それにしても岡村さんは文章が上手いですね。森本孝さん、岡村隆さん、それと賀曽利隆の3人は「観文研の3悪筆タカシ」といわれてました。それは単に字が下手だというだけでなく、文章も下手だという意味の悪筆だったのです。その森本さんと岡村さんはいまや「名文家」。文章の達人になっていることに驚かされます。
◆森本孝さん、岡村隆さん、それと賀曽利隆の「観文研の3悪筆タカシ」は、「観文研の3ばかタカシ」と呼ばれていました。3人とも生意気で、怖いもの知らずで、人生を甘く見ていました。何ら不安を感じることもなく、やりたい放題でした。それが我々のパワー源になっていたと思います。定職につくことなどはもってのほかで、カソリは3人目の子供が生まれてもなお、「いや〜、私は無職ですよ!」と胸を張って言ってました。生涯、日本中を世界中をフラフラしつづけたかったのです。「何して食っているのですか」と聞かれるたびに、「カスミを食ってますよ」と平気な顔をして答えていたものです。
◆前書きが長くなりました。10月号の『地平線通信』で「地平線、すごい!」を書かれた外間晴美さん、「カソリの復活」を喜んでくださってありがとうございます。我々は「日本一周」の同志ですものね。これからもよろしくお願いします。5月31日の東北道での事故ではあやうく命を落としかけましたが、さすが「強運のカソリ」、事故から77日目の8月17日には、またバイクに乗れるようになりました。
◆このときは「やったね〜!」という気分でした。そのおかげで長年の懸案だった東北の全式内社をめぐりを達成することができました。式内社は平安時代の「延喜式」の『延喜式神名帳』に記載されている神社のことですが、日本中に3132座あります。式内社は名社の格付けのようなもので、いずれも1000年以上の歴史があるのです。そのうち東北には陸奥国に100座、出羽国に9座ありますが、陸奥国最北の式内社は志賀理和気神社(岩手県紫波町)、出羽国最北の式内社は副川神社(秋田県八郎潟町)で、簡単にいうと盛岡と秋田を結ぶ線あたりまでが大和朝廷の勢力圏だったということなのでしょう。
◆東北の式内社の中には東日本大震災の大津波で流され、社殿の土台だけが残っている浪江町の神社や、地元の人たちに聞いても誰も知らないような陸前高田の3社もありました。陸前高田の式内社3座は氷上山(873m)の3峰、東御殿、中御殿、西御殿のそれぞれの山頂に祀られていることをつきとめました。麓の古社、氷上神社を参拝しましたが、今度は氷上山の三峰に登らなくてはなりません。東北につづいて関東、中部、関西……の式内社めぐりをしたいと思っています。
◆東北の式内社めぐりでは、地平線会議の仲間の渡辺哲さんに助けられました。渡辺さんは東北道の事故でカソリがバイクに乗れなくなったと知ると、車で我が家まで来てくれたのです。7月2日から3日間、渡辺さんの車でまわりました。伊勢原から高速道で新潟県の柏崎まで行くと、国道252号で十日町、小出(魚沼市)を通り、県境の六十里越を越えて福島県に入りました。そして只見から南会津へ。一夜目は民宿「田吾作」に飛び込みで押しかけ、泊めてもらいました。名物女将の酒井富美さんも地平線会議の仲間ですが、我々の突然の出現をおおいに喜び、大歓迎してくれました。
◆南会津からは奥羽山脈を越えて白河へ。白河をスタート地点にして福島県内の式内社をめぐったのです。渡辺さん、おかげさまで東北の全式内社をめぐりましたよ。これも東北道での事故のおかげ?ですが、「カソ散歩」(カソリ散歩)で「江戸探訪」を始めました。まずは「深川探訪」です。清澄庭園や門前仲町、富岡八幡宮をまわり、昨日(10月27日)は小名木川沿いに歩きました。
◆小名木川は江戸幕府が開削した隅田川と中川を結ぶ運河です。行徳(千葉県市川市)の塩を江戸に運ぶ「塩の道」だったのです。隅田川との合流点近くには芭蕉庵があり、小公園には芭蕉像が建っています。葛飾北斎の「富嶽三十六景」に描かれた万年橋が小名木川にかかっていますが、この橋の南詰には幕府の船番所が置かれました。それほど多くの舟が行き来したのです。小名木川はおもしろいですよ。「日本のパナマ運河」といわれる閘門があり、大横川との川と川との交差点があり、都心のミニ水力発電所があり……で、驚きの連続でした。江本さん、このあたりが事故後のカソリ報告になります。江本さんの新しく移られた「府中」には「国府めぐりのカソリ」、おおいなる興味を持っていますよ。[賀曽利隆]
■中間試験を終えた翌日の10月15日、僕は実家へと一時帰省した。翌水曜日には初めて地平線通信の発送の手伝いへ行った。通信がいつもどのように発送されているのかを知った。お手伝いの皆さんの連携プレーは見事で、毎月の通信が島に届けられることに改めて感謝である。そして約2年ぶりの北京での食事は本当においしかった。餃子最高。江本さん先日はごちそうさまでした。
◆そもそもなぜ実家に帰ることになったのか。心配をおかけしてもいけないので、通信発送の手伝いの折、皆様方には「試験休みです」と言っておいたが、実は過度の体調不良のため療養に帰っていたのである。
◆皆さま大嘘をついていて、ごめんなさい。9月に島に戻った後の、コロナ対応による自主隔離期間が終わった辺りから、何となく体調が優れない日が多くなり、シルバーウィーク後に発熱。その後も立ち眩みが頻繁におこったり、食欲不振になり夜も眠れなくなったりしてしまった。
◆島の診療所を受診したが、いきなり「白血病かも」と言われ血液検査をするも異常なし。完全に自律神経が乱れてしまったらしい。全く回復の兆しが無く、翌週には頭のCTまで撮った。もちろん異常はない。
◆自主隔離による目に見えないストレス、多忙を極めた学校行事の準備。人数が少ないので本当に一人何役もこなさなくてはならないのである。気持ちは前進したいのに、身体が思い通りに働いてくれない不安。挙句の果てに下された診断は「原因不明」であった。これによって僕はノックアウトされた。
◆担任の先生の勧めもあり、帰省した僕は近所のかかりつけの診療所で診察を受けた。僕の離島留学も承知している先生は会うなり「ただのオーバーワークによる過労でしょう。君は病気ではないと思うよ。血液検査の結果は良すぎるくらいだし。メジャーリーグの大谷選手だって毎日は登板しないでしょう、中5日とか開けるんですよ。張り切り過ぎたのねぇ」と、ちょっと関西なまりで話してくれた。
◆先生によると、疾風怒濤の青年期に位置する高校生には、こういうことはよくあるらしい。若いうちは前頭葉が発達しきっていないせいで歯止めが利かず、全力疾走しすぎてしまうようなのだ。島生活の中で、やるべき事、やりたい事がたくさんあり過ぎて、どうやら僕は4月からずっと120%で走り続けていたようだ。そのような訳で1週間の実家休養を経て10月23日、無事に島へ帰還を果たした。
◆島に戻ってきてからの1週間は本当に忙しかった。10月31日に黒潮祭(文化祭)が控えていた。クラス企画や全校ダンス、軽音楽部の発表、文化祭運営委員の仕事など、やるべき事が多過ぎて、結局はまたオーバーワークになってしまった。
◆今年も感染対策の観点から、黒潮祭はオンステージと展示発表のみの開催だったが、保護者や受験生の参観は認められたので、気合いが入った。
◆まずはダンス。本来ならば村民大運動会で披露するはずだったダンスなので、全校生徒でサカナクションの「新宝島」を、次に子ども向けにアニメの「おジャ魔女ドレミ」を女子チームが、「妖怪ウォッチ」を男子チームが担当、最後は全生徒でBTSの「Butter」。この4曲メドレーを全力で踊り切った。
◆自分はButterではソロパートも務め、とても楽しかった。クラス企画では「ばかっこいい動画」を制作、上映した。総編集をすべて自分が受け持つことになり、オープニングとエンディングの画像編集作業でラスト2日間は修羅場だった。他の編集の人も睡眠時間を削って作業してくれて、何とか当日には間に合わせることができた。
◆軽音楽部ではback numberの「高嶺の花子さん」を演奏した。自分はドラム担当。少ない練習時間の中、少々不安もあったが部員全員で楽しんで演奏することができた。クラス企画も軽音楽部の発表もかなり切羽詰まっていて、終わるかどうか心配だったが、火事場の馬鹿力は本当だった。夜の打ち上げも最高だった。
◆初めての文化祭が終わり、ホッとしたのも束の間、11月8日からは高校男子バレー部チームとして村民バレーボール大会に絶賛参戦中である。12チームの総当たり戦で、試合は週に4日間、平日の夜に行われており1か月間にわたって開催されるらしい。
◆いつになったら休息できるのか、またぶっ倒れるかもしれないが気合と根性で乗り越えようと思っている。とにかくこの1か月間は大変だったが、沢山の人に支えられ乗り越えることができた。これからも飛ばしすぎないように日々を過ごせたらと思う。[神津高校1年 長岡祥太郎]
■ディスプレイの進化であたかもその街を歩いているような気分になるバーチャルツアー。アバターが出席するリモート会議。便利な世の中になったけれども何かが物足りない。そんなときに届く地平線通信は木や土や獣の匂い、人の息遣いを感じさせてくれる。510号の服部文祥さんのサバイバル登山の記事を読んでまずそんなことを強く感じた。そして思わず昨年2月の服部さん報告会の中嶋敦子さんの文章を読み返していた。すると最後に服部小雪さんのことが書かれていて2019年の通信を探す。まずい! 通信無限ループにはまってしまった。
◆画伯の個展でiPadで描くイラストに興味津々でおられた緒方敏明さん。緒方さんの工房がんばれ!と思っていたら大きな助っ人・高沢進吾さんが! コロナ禍でのアラスカ行きの顛末も興味深かったし、2015年の「クジラとり修行中」の報告も読み返してしまった。まずい! またもや無限ループ。
◆昨年、森の中に移住したランタンプランの貞兼綾子さんが書かれていた万葉集の歌の「鹿の声」に先日観たチベット映画『一人と四人』を思いだした。雪深い森の森林警備員のもとに密猟者と警察がやってくるというサスペンス。チベット人の監督でさえ、本当に寒かったという過酷な撮影だったようだ。極所……極所といえば、ランタンプラン事務局のひとりでもある第63次南極地域観測隊越冬隊長の澤柿教伸さんはこの通信ができるころには出発されているだろうか。
◆6月の江本さんの引っ越しの際、2度ほど参上した。前日に冒険研究所書店にドーンと蔵書が運ばれていて少しだけすっきりした部屋で江本さんは「みんな持ってっちゃったよ」と少し寂しそうだったが、すぐに気持ちを切り替えて次を見据えられ「多勢の人が手にとってくれるからよかった」と仰っていた。四谷では引っ越し用段ボールに「オレ」というカテゴリーを作って、個人的な物を入れていったのだが、瀧本千穂子さんのレポートで、うっかり大和行きに混じってしまっていることがわかった。書店での整理の様子が目に浮かぶレポート、次回にも期待してしまいます。
◆また、萩田さんのnote(https://note.com/ogitayasunaga/n/n27d0cfe21279)の記事で書店の近所に膨大なチベットの蔵書を持っておられる方がいることを知り、チベット好きの間で話題になりました。ワクワクしています。[田中明美]
■お世話になっております。プロ冒険家の阿部雅龍です。南極へのフライト直前ではありますが一言だけでもお伝えしたいと思いメールしております。
◆南極の天候次第ではありますが現地時間11月10日予定でチリにある世界最南端の街プンタアレーナスから南極へ飛び立つ予定です。
◆冒険を志して17年間。人生の全てを賭して冒険の道に一途に生きて来ました。その集大成となる最大の冒険遠征をようやく実行に移せることを嬉しく思います。
◆長く苦しく辛い遠征になります。ですが、それを出来る限り楽しみ、達成して無事に笑顔で戻ってくるべく尽力して参ります。
◆長年変わらず応援して頂き有難うございました。男の夢とロマンを生きてきた幸せな人生でした。またお会いできます日を。[プロ冒険家/夢を追う男 阿部雅龍]
南極冒険中のGPS位置情報・写真・日記は南極冒険特設ページでご覧になれます。https://www.jinriki-support.com/abe/southpole/
また本遠征の詳細もプレスリリースとしてこちらからご覧になれます。https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000088695.html
出発前の私のメッセージはnoteに記事として上げました。言葉遣いがごく私的なものなのでこちらには掲載してませんが、出発前最後の私の素直な気持ちを読んで頂ければと思います。https://note.com/masatatsu/n/n55e9e42a3b19
■10月6日より、山形県酒田市にある土門拳記念館での写真展がスタートした。期間は12月22日まで。土門拳賞の受賞作品展としてはニコンプラザ東京、大阪に続いてこれが最後となる。一昨年の10月にカナダから帰国してすぐ写真集の制作に取り組んだので、ちょうどまる二年海外へ撮影に出ていない。その間ずっと、幾度も押し寄せるコロナの波に翻弄され続けたが、こうして作品をみてもらえる機会が間隙を縫うように続いているのは本当にありがたいことである。
◆展示の設営とオープニングトークのため、約一週間酒田に滞在した。大学卒業後に北米に通うようになった最初の2年は、冬が来ると蔵王スキー場に篭って、寮と賄い付きのアルバイトで渡航資金を貯めた。それもあって山形のことを少しは知っているつもりになっていたが、初めて酒田を訪れて南北に広いことを知った。芋煮といえば牛肉に醤油とばかり思っていたが、酒田や鶴岡といった庄内では豚肉に味噌。完全に別の料理で驚いた。
◆土門拳記念館は美術館建築で著名な谷口吉生設計による、日本で初めての写真専門美術館である。コンクリートの質感と直線が生み出す凛とした印象のモダニズム建築であるが、背後に森、正面には人工池を配して、美しい自然環境のなかで穏やかに佇んでいる。入ってすぐは洞窟のように暗い廊下で、作品保護のため自然光の入らない主要展示室には今回、しっとりと濡れた岩のように重厚なトーンの『古寺巡礼 京都』の巨大なプリントが並んでいた。さらに廊下を進むと、徐々に幅を変えて刻まれた窓から望む中庭に、土門拳と生前交流のあったイサムノグチによる彫刻「土門さん」が鎮座していた。やがて目の前が明るく開け、水面が広がる大きな窓の向こうに見えるのが鳥海山だ。
◆1981年に始まった土門拳賞も第40回という節目で、無理を言って特別に会場を広くしてもらった。いつもは主要展示室に隣接する企画展示室1のみの使用だが、今回は草月流・勅使河原宏による庭園「流れ」に面した展示室2も使うことができた。おかげで念願であった大型パネルを上下二段掛けにせず、ゆったりと見せる展示が可能となった。設営が終わり、迎えた初日は静かな平日。入り口から最奥まで、水辺からの光の反射が揺らめく廊下を何度も往復し、この素晴らしい空間に写真を展示できる幸せを一人で噛み締めた。
◆オープニングトークまで日程に余裕があったので、宮本常一の観文研に関わっていた酒田市在住の平靖夫さんに案内をしてもらった。実は僕の義理の父母は川喜田二郎の移動大学で出会った仲で、講師として参加していた平さんとは古い友人だったのである。僕の方でも、関野吉晴さんの動画で法政大学探検部創設者として登場していた平さんの話を伺っていたし、高校で地学を教わった三輪主彦先生も昔からの親しい友人ということで、このような機会にお会いできたのは幸運だった。
◆平さんによると、写真展の初日はちょうど新月で、大潮に合わせて隣の遊佐町を流れる川に鮭が遡上してくるかもしれないという。そこで、翌7日にウライと呼ばれる漁場へ行くことにした。吹浦港で日本海へと注ぐ月光川水系には、鳥海山の湧水に端を発し、梅花藻の生い茂る透き通った支流がいくつもある。収穫の終わったばかりの田んぼの脇を流れる幅5メートルにも満たない牛渡川のウライに、体長80センチを超える鮭が本当に泳いでいた。まだ数は少ないが、今季の遡上第一陣である。この辺りでは鮭は縄文時代から捕獲され、古くからヨオと呼ばれている。ヨオとはつまり魚(ウオ)のことであり、魚の代名詞となっているほど重要な存在なのだと平さんが教えてくれた。
◆明治期にはすでに人工孵化が始まっており、雪解け水とともに春には800万もの稚魚が放たれる。それが4年をかけて、日本海からオホーツク、アリューシャン、そしてアラスカ沖まで旅をして、今まさに故郷に帰ってきたところだ。僕たち人間が新型コロナによって水際対策などと国境の問題に翻弄されている間も、当の水に生きる鮭たちは生命を繋ぐ旅を脈々と続けていたのである。鮭の遡上は年が明けて旧正月ごろまで続くという。コロナの落ち着いている今、晩秋〜初冬の庄内へ出かけてみるのはどうだろう。その足でぜひ土門拳記念館にも寄ってもらいたい。[大竹英洋]
地平線会議誕生の時からの仲間、北海道で酪農をやっている田中雄次郎さんから高校の恩師、三輪主彦さんご夫妻に近況が届いた。地平線の若い人たちに読んでほしいのでお二人の許しを得て今月の通信に掲載させてもらう。[E]
■ご無沙汰して失礼しました。早いですね、1年なんて。今年春3月、末っ子晴大は専門学校卒業、4月に晴れて、晴れ晴れで大工の小僧として旭川の工務店に就職できました。一昨年に牧場の借金返済が終わり、昨年次男サネ独立、長男雄馬とダブル就農し、三男寛大が結婚し、何やら肩や背の重荷がとれて、うれしいはずなのに、物足りなさが大きいのも事実かな、とも感じています。
◆が、日々牧場の牛たちの世話は待ったなし、大好きな牛たちと遊びながら毎日農業にのめりこんでいます。私は本当にこの牛飼いや野菜作り、山や木のことが大好きです。仕事なのか遊びなのか区別がつきません。このことに没頭している毎日です。体の動きは年々目に見えて悪くなるのですが、自分なりの工夫でチンタラ動いています。
◆野菜作りは昨年「有機認証」を取得したのですが、これが事務手続きがハンパなく時間も書類の枚数(100枚以上)がかかり、費用も13万円かかるのです。これが毎年かかるというので、今年はあっさり取得やめました。昨年の売り上げは8万円、素直に喜べません。取得しなくてもやり方は無農薬、無肥料、自然の力栽培です。
◆全国的にそうでしたが、ここ道北地方も今年は異常気象でした。本州が雨雨、災害の中、道北は6月から干ばつ高温、7月に入ってからほぼ一か月間雨が降りませんでした。8月に入ると30℃を越え、内地並みの33〜35℃が10日間など高温続きで、人も牛も野菜も熱中症でした。野菜になかなか手を向ける余裕もなく、多くが枯れ、また枯れかけました。9月になると気温は高めで推移しても雨が適度に降るようになり、死にかけた野菜たちが息を吹き返しました。出来はいまいち小さかったり細かったりしていますが、収穫できたものを送ります。
◆温泉街に町営の道の駅のような施設「湯の杜ぽっけ」というのが数年前にでき、うちの野菜を買い上げてくれます。無農薬、無肥料野菜と言えば全国的にだいたい高価格ですが、1個あるいは1袋80円で納品、売り価格100円(税込み)。出来のいいものは市場のものより大きい。朝採れが基本ですから新鮮です。湯治の人が年々増えているので、その人たちが圧倒的なお客さんです。本業の牛飼いがあるのでできる範囲ですが昨年は1000袋(8万円)売りました。もし近い将来牛飼いができなくなったらこの野菜で食っていけたらと思っていますが……。
◆今年64歳になりました。来年から年金のはずですが、私たちは国民年金だしまともに積み立ててなかったし、借金と子育てに追われて貯金もないし、でも野菜を作ったりしていたら餓死はしないだろうと……。あまり先のことを考える余裕はなくただただ雪が解ければ種を播くという、本能のような生活になっています。燃料はすべて薪です。
◆牛飼いも昨年11月からは草だけで飼っています。水と草と塩少々です。家畜に人間が食べる穀物をやるのはやはり間違っています。牛には草、いいことだらけです。牧草畑も堆肥と天然肥料グアノ(これも近いうちにやめます)。
◆最近の牧場は当たり前のように広く日本中で行われている超穀物多給酪農です。我が家のように草だけしかやらない牧場は日本では極めて少なく、せいぜい10戸あるかなしか! 体が続けば、私は大好きな牛飼い、自分の牛飼い、自分の農業を彼らに見せたいと思っています。息子たち娘たちにも、今この土地に生活している限り、創造的な農業を見せて、少しでも長く種を播き続けたいと思っています。でも自分の頭の余裕は数か月先までで、その先は分かりません。
◆息子たちもちょくちょく子供たちを連れてきてくれます。典子はグループホームにパートで土日祝日、年末年始にも行っています。さらに人とのつながりを作っています。あっちが痛いこっちが痛いと言いながら牛舎も手伝ってくれています。
◆私はこの土地の牛舎、山、野菜畑から出ることはほとんどありません。ますます話すこと、書くこと、きわめて少なくなりましたが、牛語、犬語、野菜語は極めて堪能になりました。
◆足手指は関節がどんどん変形し、動きも悪くなっているので、ちらしや農協広報誌で売り物の野菜を入れる袋を折るのをリハビリのつもりでやっています。今月は1000枚ぐらい折っていいます。どうかお二人、お体を大切にしてください。[北海道・豊富町 田中雄次郎]
■地平線通信510号は、10月20日印刷、封入作業を終え、その日のうちに新宿郵便局に預けました。コロナの猛威がだいぶおさまったこともあり、3時過ぎからの作業なのに、頼もしい助っ人が次々に駆けつけてくれました。とくに今回は、島の高校生、長岡翔太郎君が父竜介さんと参加してくれたのが嬉しかった。たまたま数日のお休みが取れたので帰京した、とこのときは聞きましたが、どうやら違うらしい。詳しくは『島ヘイセンvol.4』に。珍しい人が来てくれたので久しぶり、「北京」に行きました。このこところコロナの感染者は劇的に減少しているので大丈夫と判断したのです。隣に座って翔太郎君に私が言ったのは「10メートル、よくやった!」でした(岬での飛び込みのこと)。
◆そんなわけでこの日は以下の皆さんが参加してくれました。お疲れさまでした。久しぶりのビールが沁み入りました。
森井祐介 中嶋敦子 車谷建太 坪井伸吾 白根全 久島弘 長岡竜介 長岡祥太郎 伊藤里香 久保田賢次 武田力 江本嘉伸 落合大祐
■みなさん、こんにちは。5月号でインドの惨状をお伝えした延江由美子です。あれからはや半年が経ちました。その間にインドでは40万とも50万ともいわれる人々が犠牲となりましたが、それを乗り越えてコロナ感染状況はかなり良くなったようです。折しも今はディワリの季節。いつもインドの状況を教えてくれるマハラシュトラ州在住の友人によると、今年は以前とほとんど変わらない賑わいを呈しているそうです。数日前 NDTV 24x7というテレビ局のニュースでも、デリーでは19か月ぶりに学校が再開したと報道していました。ネット環境のよくないところに住んでいる、あるいはそもそもスマホやPCを持っていない子どもと親たちにとっては朗報です。一方インドの経済はますます厳しくなっていて、軽油は安いはずなのにどんどん値が上がっているし、食料品も衣料品もとにかく高い。そして相変わらず医療提供はとんでもなくお粗末だと嘆いていました。
◆かれこれ2年も彼の地から遠のいてしまっていますが、ずっと日本にいるからこそできたこともいろいろありました。その一つがインド北東部の2冊目となる写真集の作成です。A5サイズで本文は260ページほど。写真はもちろん、日英併記のコラムや長めのキャプションがあり、地図は長野亮之介氏にお願いしました。完成した暁にはまたお知らせさせていただければと思います。
◆地平線通信をこうして毎月拝読できることも嬉しいです。特にこの頃頻繁に掲載される中・高・大学生そして大学院生さんたちからの投稿記事は新鮮でいいなあと思います。そしてお名前を見てどんな方なのかを想像しています。私は学生時代に北大ヒグマ研究グループという団体に入って「フィールドノート」なるものを知り、まったく出来損ないのメンバーではありましたが、山の中であれこれ自分なりに書き留める習慣を身に付けることができました。以来どこかへ行く時は必ず小さなノートを持参します。写真集を纏めるにあたってもこのジャーナルが大いに役に立ちました。「三つ子の魂百まで」よろしく(ちょっと違いますかね??)、若い時の経験は末長く貴重な財産になること請け合いです。
◆飼い猫の看取りもまた然り。我が家にはクロとトラの兄弟猫がいます/いました。どちらも今年で15歳、外をパトロールするのが大好きでした。トラは去年、心不全による肺水腫でERのお世話になったとき、体のあちこちに腫瘍があるようだと言われましたが、それ以後も彼らしく生を謳歌し今年の2月に旅立ちました。クロは数年前に猫エイズと診断され、口内炎治療のためのステロイドで糖尿病になり、なんだかんだと幾度か死にかけましたがそのたびに復活してきました。しかし今度ばかりは口にできた肉腫が目と鼻までどんどん広がっており、どうしようもありません。どんなに長く不在にしても帰国するたびに変わりなく迎えてくれた愛しい猫たち。日に日に衰えてゆく姿をみているのは非常に辛いことですが、最後にこうしてずっとそばにいて、精一杯可愛がってあげられるのは幸いです。
◆……と挙げていったらきりがありませんが、インドがますます恋しい今日この頃。来年こそは渡航できることを心から願っています。[11月4日東京にて 延江由美子]
追記:
◆11月6日の朝刊に、社会人類学者である中根千枝先生の訃報が掲載されました。彼女の著書『タテ社会の人間関係』は私が1981年に交換留学生として渡米するにあたっての課題図書。深い感銘を受け、その後も中根先生のことはずっと頭の隅にありました。先生は1950年代にナガランド州、アッサム州、メガヤラ州の調査に入っておられたので、私共のインド北東部での活動をもとにした写真集『Moving Cloud Flowing Water』が完成するとドキドキしながらもすぐに謹呈しました。するとお心のこもった丁寧なお返事を頂戴して大感激。2015年のことです。後日アッサム州の州都グワハティの、とある本屋に写真集を売り込みに行ったとき。店主は私が日本人と知ると言いました。「ナカネ・チエという学者を知っていたら連絡先を教えてほしい。彼女のガロについての論文は実に貴重だ。インドでぜひ出版したい」と。今回の写真集でも先生の『未開の顔・文明の顔』を参考にさせていただき、是非ともまたご覧に入れたかったのですが間に合いませんでした。残念でなりません。心よりご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
■こんにちは! 今回はご報告がいくつかあります。地平線通信で何度かお伝えしました、いくつかのプロジェクトが一気に動き始めました。まず最初に、10月17日に私の自宅がある大阪・千早赤阪村のDolpo.BC(はなれの山小屋)で「新・河口慧海研究プロジェクト」の第1回目を行いました。
◆「新」としたのは、2004年に慧海プロジェクトを立ち上げ活動されていた私の師匠達の熱い思いを受け継ぎたいという思いからです(当時の座長:故川喜田二郎氏)。ようやくこの秋に第1回を行うことができました。参加メンバーには、慧海師のご親族のY様までお越し頂き、奥山直司先生(高野山大学教授。日本の仏教学者、専攻は、インド・チベット仏教文化、密教図像学、日本近代仏教史)、和田豊司氏(日本山岳会東海支部元支部長)、そしてドルポやムスタンに行ったことがあるメンバーも参加していただき、私は1人で興奮してました。
◆というのは、このDolpo.BCには、私の師匠達から頂いた本がぎっしり詰まっているからです。写真も飾っており、師匠たちが絶対聞いていてくれていると思うからです。奥山先生の始まりの挨拶から、和田氏のチベット側の地図を中心とした解説、そして私の冬のDolpoの報告と続きました。今回、和田氏は、お寺と瞑想窟は別の場所にあるだろうという新たな仮説を話してくださり、私はすごく納得しました。さらに様々な意見を尊重され、その寛大な心に本当に心から感動しました。
◆今後、目的はいくつかあり、先日、奥山先生にやりたいことのリストをお渡ししました。それは、(1)慧海越境ルートの解明、(2)大西保氏関係資料の整理と公表、(3)「河口慧海日記ヒマラヤ・チベットの旅」新版の作成、(4)その他。
◆勉強会は、シーズンに1回、または 年に2、3回の予定で、一般公開もできたらと考えてます。私は、残された時間はそう長くないと感じています。亡くなったらもう聞けない、話せない。だから今、生きてるうちに先人の皆さんの声を私は聞きたいと思っています。
◆続いて、山小屋美容室計画。コンセプトは、私の大好きな「ドルポの暮らし」をイメージしてます。何度か書かせていただいてますが、改装が始まったと思いきや止まっていたことが多々ありましてようやくです。母屋の横にある湯葉の工場だったところを改装してます。だいぶ傷んでいたので補強は知人の職人にやっていただきました。これから自分達でDIYです。
◆そもそも、ネパール・ヒマラヤの暮らしに憧れてこの地にやってきて「大阪のネパール・ヒマラヤ」と勝手に呼んでました。それは奥千早の村人が山岳民族のように感じられるからです。ドルポと奥千早がリンクするところを、私なりに自分の中で落とし込み表現できたらと思ってます。
◆それは、できるだけ千早の廃材などを使ってDIYしたり、周りの繋がりの中で手伝ってもらったり、新しく買うのではなくあるものを最大限に活かして作りあげるというコンセプトです。DIYは日程を決めて、先日作業1日目が終わりました。ボランティアで人が集まり一気に掃除と片付けが進みました。ひとまずの完成は年内で、オープンの日はチベット暦のお正月となる2月の予定です。
◆道路が凍結している可能性があるけど、それがまたドルポっぽくていい。その活動はFacebookで詳しくアップしています。また今回の基礎作りで貸付した予算をここで全部使ってしまうので、セルフ・クラウドファンディングも立ち上げました。今後もヒマラヤ遠征に行けるようなシステムを作りあげようと思います。
◆Dolpo越冬がラストかと思いきや、そうじゃなかった。そろそろ落ち着こう〜と思っていた矢先に植村直己冒険賞を頂きました。以前にも何度かありましたが、落ち着こうと思えば思うほど、面白いことが目の前に転がってくる。それが今年は強烈でした。賞を頂いたことで、想像もしていなかったことになり、でも、これがまた私のこれからの歩む道へと導いてくれたのだと思いました。
◆「あんたの道はこっちやで、まだやるべきことがある」と、教えてもらったような気がしています。今後も遠征を続けることができるように、50歳になるまでにそのベースを作りあげます。[稲葉香]
■こんにちは。10月の地平線通信、拝読しました。9月号で山への気持ちを書いた私の文章について山本宗彦さまよりリスポンスいただき、とても嬉しく思います。自分の想いが伝わるということ、そして反応をいただけることは、幸せなことです。本当にありがとうございます。
◆さて、足の怪我の様子を見つつ、来月から林業のインターンシップに行く予定です。林業は人間が生きるのに必要な資源を得るための重要な行為で、そのような森林と直に向き合う林業の知識、技術を得ることは、山に生きるための基盤の一つとなると考えます。体力的にきつく危険を伴う仕事ですが、そこからどのような山の世界が見えるのだろうかと今から気持ちが高まっております。
◆また、先日は東京都の狩猟免許試験の事前抽選に申し込みをしました。東京都では受験資格を得るのにまず抽選に通る必要があるので、こればかりは落ちないことを願うしかありません。怪我をした足を強くするためにも、このところ週に一度は日帰りで低山に通うようにしています。怪我をした直後のまともに動けないころに比べれば歩けるだけでも素晴らしいですし、しかも週一で山に行けるなんてありがたいことです。
◆でも、やはり本音を言えば、もっと奥深い山や標高のある山に行きたい……。治るまでもう少し我慢です。牛歩のごとくですが、進んでまいります。またご連絡いたします。いつもありがとうございます。[法政大学社会学部社会学科4年 小口寿子]
■私が書いたアフリカのすり身プロジェクトに、7月号の通信で「アフリカのかあさんのすり身を食べてみたい」と書いてくれた人がいて感激しました。地平線の仲間はありがたいですね。うーんと力が湧いてきました。いまアフリカに行くには、さまざまなワクチン接種やマラリア予防薬、さらにコロナ対策のワクチン接種で体への負担は結構大きい。加えて1回の旅で2回のPCR検査、14日間の待機期間が課せられ待機場所から動けない、という苦行もあります。自分で考えたプロジェクトですが、よし!と自ら気合を入れないと参ってしまう日もあります。正直に書くと、毎回、激しい下痢が襲ってきて体力が消耗するのが一番辛い。ただこれは免疫があるらしく、3回目の9〜10月はやり過ごす方法を編み出しました。もう大丈夫!
◆さて、すり身。7月から8月にかけて1か月、9月から10月にかけて1か月、西アフリカ・コートジボワールのアビジャンで魚をすり身にし利用価値を高める、すり身技術により漁村女性の生活改善を図る、というワークショップを開催してきました。1週間毎に20〜30人の漁村女性に指導する、という計画です。集まってきたのは10代から60代と年齢も生活歴も多様な女性たち。
◆赤ちゃん連れも多く、床に寝かしていて危うく踏んでしまいそうになったり、小学生くらいの娘さんが赤ちゃんを背負って廊下で子守をしていたりと、お昼ごはんを何人分用意したらよいか、わからないぐらいです。はじける笑顔の女性たちですが、文字がわかる人は約半分。国の調査では識字率は90%ですが、漁村エリアは教育が行き届いていないと実感します。
◆今回は米国の食料政策研究機関との共同プロジェクトなので、研修生はすでに説明会を聞いて集まっているはずですが、やる気を高めるために、私たち自身が「やる気アップ面談」の機会を持ち、個々の暮らしを聞き取りました。
◆ほとんど全員がシングルマザーで3〜5人のこどもを育てているというのですから、そのたくましさにまず脱帽。自分や家族が病気になったら生活が成り立たない、というギリギリでがんばっているかあさんたちは「健康的なすり身に関心を持った」「新しいチャンスをつかみたい」という意欲で参加してきています。毎日9時スタートですが、8時前に一番前の席を陣取る人、朝の仕事を終えて10時頃に駆けつける人、アビジャンまで片道2時間、3時間かけてくる人など、それぞれの事情を呑み込んでの実施です。コロナ対策も必須なので、男子大学生2人に玄関での検温とマスク配布を頼みました。
◆すり身の栄養や加工技術、食品衛生、販売・PRなどマーケティングを指導するのは、7〜8月は日本人の講師陣でしたが、9〜10月はコートジボワール人の先生が半分に。これは実にうれしい展開です。私たちが日本から通い続けることはできないので、なるべく早い時期に現地化したいものと人脈づくりに努力を続けてきましたが、本当に素晴らしい先生たちが次々と現れてくれるので感激しました。
◆7〜8月のワークショップに参加した幼稚園の先生もその一人。自分が学んだことをこどもたちに伝えたいと、魚の栄養学を「人形劇」に仕立て、歌いながらの実演を見せてくれてビックリしました。自分で考えたというすり身入りグラタンも実に美味しい。即、秋からの講師をお願いしました。
◆アビジャンにも篤志家という人がいるもので、2016年のワークショップの際に知り合った大学創設者がその一人。コートジボワール初のコンピュータ技術者という女性です。2016年にはわずか19人の学生だけの大学でしたが、いまでは小規模ながら幼稚園から大学までの総合教育機関に育てていました。この学長が、次々とやる気のある栄養士や衛生管理のプロを紹介してくれて、しかも全員、熱意ある人ばかり。これはもう、何かに守られているにちがいないと神様の存在を感じることもたびたびでした。
◆研修生たちは、浜の女性が多いので、魚さばきやすり身加工はすぐにマスターします。ただ衛生管理を徹底すること、つくったすり身を創意工夫して加工すること、さらに販売するために経営者マインドを持つこと、PRも必要と、座学と実習、演習を組み合わせ、わずか1週間で一人前にしよう、というのですから、毎日が強行スケジュールです。でも文字が書けない、読めない女性が半分ですから、座学は長くはできません。また同じことを長く続ける、ということも得意ではない様子。
◆そういうときどうするか?というと、私たちはちゃんと考えていて、歌うことにしたんです。日本人の栄養士がすり身の栄養価を歌にしてくれたので紹介しました。案の定の大喝采。ところが驚いたことに、次々とアフリカらしい歌と踊りが創作されて、もう全員がアーティスト、まさに「すり身の歌の歌合戦」に。「踊り合戦」でもあります。そのセンスのすばらしいことったら! 授業の中断はしょっちゅうですが、歌と踊りがないとワークショップもない、と考えて、ワークショップに「歌合戦」「踊り合戦」の時間も組み込みました。
◆すり身で浜の女性たちの生活を変えるためには、すり身がまず、美味しい食べ物と認識され、それが定期的に売られていて……という状況づくりが必要です。そこに一足飛びに行くのは大変ですが、モデルをつくりながらやろうと考えて、町の良い場所でサンドイッチを売っているサラに声をかけました。
◆サラに「あなたのお店を研修生の販売実習先としたい」と協力を求めたところ、「ぜひとも手伝いたい、自分もすり身を学びたい」という非常に前向きな言葉が返ってきたことから、毎週後半、サラの店で朝の1時間だけ、販売実習を行うことができました。そこからすり身ハンバーグやすり身入りのサンドイッチにお客さんがつき、お弁当の注文があり、と少しずつ、広がりつつあります。研修生のなかの小さなレストラン経営者がお店のメニューに入れてみたり、ということも始まりました。
◆どれもまだまだこれからですが、夏と秋のすり身プロジェクトはグングンと成果をあげつつあります。次回ワークショップは1月半ばからの予定。いまも次に向けて現地と連絡をとりながら、さまざまな実験を続けているところです。[佐藤安紀子 編集者]
■先月の高沢さんのアラスカポイントホープについての記事中に、アンカレッジの毛皮屋、ジャック・キムさんのことが書かれていた。もう何年前になるのか。報告会会場で「アナタが坪井伸吾さんですか。アラスカのジャックさんが、シンゴ、シンゴとアナタのことをよく話してました」と声をかけられた。それが高沢進吾さんだった。
◆高沢さんに、ジャックさんが話してくれた言葉は今も自分の中に残っています。そう話すと「それはお店に来た人、みんなにしている話ですよ」とバッサリと切り捨てられてしまう。高沢さんの語る近年のジャックさんは僕の記憶の中に住むあの人とは少し違う。高沢さんが言葉を濁すとき、語られなかった部分は自分で埋め合わすしかない。亡くなった人が年を経るごとに美しく感じられるように、会えない人も同じなのかもしれない。
◆26才の僕にとってジャックさんは「先生」だった。今でも記憶の中にいるジャックさんは先生である。1989年夏、僕はバイクで北中南米を縦断しようとアラスカのアンカレッジに来ていた。運よくバイクはすぐに買えた。しかし保険に入るには北米の免許が必要らしい。試験は週に2回。その貴重なチャンスが何度も雨で流された。落ち込んでいたらYHで会った日本人ライダーが、ヒマなら面白い毛皮屋があるから行けよ、と勧めてくれた。
◆その店は町の東はずれにあった。扉を開けると、カウンターの奥に東洋系の店主がいる。彼は嬉しそうに両手を広げ、「いらっしゃいませ、まぁどうぞ」と言った。なぜ日本語を? 店主に聞くと、父親が韓国人、母親が日本人だからだという。さらに奥さんがフランス人で、8か国語話せる、と聞き、この人に俄然興味がわいた。ついでもらったコーヒーを飲みつつ、壁一面に貼られた名刺や寄せ書きに目をはせる。日本の山岳会や大学山岳部の名前の中に「植村直己」という名がある。
◆「植村さんですか、何度か来ましたよ。貴方の座っている椅子に座ってました。静かな人でした。マッキンリーで行方不明、の報が出たとき、私も信じられなくて、自分のセスナで探してみたんですけど……」。そんな話をされたら帰れない。もっと聞きたいと思っていたら、「アナタは面白いですね。うちに来てくださいよ」と声がかかり、それから3日間、2人で「世界」の話をした。
◆アラスカから走り出して2年後、僕は南米の端までたどり着き、ジャックさんに絵葉書を出した。それがジャックさんと接点のあった最後だった。時は流れて2001年。河野兵市さんが北極で亡くなった後、河野さんのwebサイトにアラスカの毛皮屋という書き込みがあった。これはジャックさんだ、と直感した。あれから12年……、もう一度話してみたい。そんな思いがよぎる。しかし訃報のダメージは大きく、こんなきっかけを利用する気にはなれなかった。
◆2003年、アラスカにいける機会が巡ってきた。旅行会社にいる後輩が「坪井と行くアラスカ釣りツアー」という企画を作ってくれたのだ。思い切ってジャックさんにメールしてみると「もちろんアナタのことは覚えている」とすぐに返事がきた。久しぶりに会ったジャックさんは何も変わっていなかった。高沢さんにジャックさんとの物語があるのと同じように、僕には僕のジャックさんとの物語がある。たとえそれが店に来た人すべてに話された定番だとしても、受け取った側には個別の関係性の中にある物語だ。
◆今、ジャックさんのお店があった場所は空き地になっていて、高沢さんはその前に立つとかつてお店の修繕をした自分が見える、という。高沢さんの話を聞くと僕もジャックさんの入れてくれたコーヒーを飲んでいる26才の自分が見える。冷たい雨の降るアンカレッジであそこは暖かい場所だった。1989年にお店で言われ、ときおり思い出す言葉がある。「これだけは覚悟しておきなさい。世界を回ればアナタは寂しくなる。なぜならアナタを理解できる人がいなくなるからです」
◆そうである、と、思うときもあるし、そんなことはない、と、思うときもある。[坪井伸吾]
■「リニア中央新幹線」のことを話す・書くのに、我ながら、地平線会議という場を利用していいのかとの場違い感を覚える。だが、リニア工事で初の死者が出た今、書き留めておきたい。
◆10月27日夜。岐阜県中津川市にあるリニア工区の一つで、「瀬戸非常口」というリニア本線に至る斜坑(長さ600m)が発破後しばらくしてから崩落し、作業員1名が死亡、1名が腰骨を折る重傷を負った。さすがに、「人が死んでから初めて動く」マスコミはすぐに現地に集結したようだ。私も行こうとしたが財布が「行っちゃだめだ!」と許してくれず、あえなくステイホームとなった。
◆現場に行ったフリー・ジャーナリスト数人に連絡を取ると、情報らしい情報は何も出ず、JR東海はマスコミ相手の記者会見はしたが、フリーは門前払いされ、会見での配布資料をもらうだけが成果だったようだ。
◆今回の事故は、偶発的事故か、労務管理や安全管理の不備かは、警察が「業務上過失致死」の疑いで調査中なのでいずれ明らかになるが、強調したいのは、リニア関連事故はこれで4度目であること。
◆1度目。2017年12月15日。長野県大鹿村と松川町とを結ぶ県道の拡幅工事の一環として、JR東海は中川村でトンネル工事を行ったが、出口近くの法面が崩落し県道を塞いだ。復旧に1か月。この間、大鹿村にガソリン運搬車は入れず、住民生活と観光業に深刻な影響を及ぼした。
◆2度目。2019年4月8日。今回の事故現場から3.5キロ離れた同じ中津川市の斜坑「山口非常口」の地上部が直径8m、深さ5m陥没した。作業日でなかったので幸いに死傷者ゼロ。事故原因は、掘削を始めたら、とても柔らかい地盤だと判ったのに、補助工法は「不要」と判断して掘り進めたから。
◆3度目。2019年10月7日。山梨県都留市のリニア実験線にあるリニア車両基地で、保守点検のために停車中のリニア車両から発火。3人の作業員が火傷を負って入院。当初マスコミは「火花が出た」と報道したが、そもそも火花で入院するかあ? で、調べると、作業中に過大電流による「アーク放電」という太陽表面温度に近い約5000度の熱が作業員を襲ったのだった。うち一人は今もリハビリ中。
◆そして今回の事故。事故原因は警察の調査を待つしかないが、私はJR東海の過去の資料を読み直し、以下の事実を掴んだ。今回の現場は、予定では2020年3月頃から掘削の予定だった。ところが整備ヤードで巨岩が出現したことで難工事になり、掘削開始は2021年6月と1年3か月も遅れた。この遅れが現場で「急げ急げ」との安全管理の緩みにつながったのだろうか?
◆事故から数日たつと、知人のトンネル技術者や見知らぬ地質専門家からSNS経由で連絡が入る。地質専門家は「テレビ放映された事故現場を見ると、トンネル断面にロックボルトが4本しか見えない。足りない。安全管理に問題なかったのか」との疑問を呈し、トンネル技術者は「切羽(掘削面の最前線)で誰がいつどういう『号令』を発したかが問われる」と語った。「急げ急げ」が招いた事故か……? 調査結果を待ちたい。
◆話は変わるが……、「オール沖縄」という言葉は誰もが知っている。玉城知事以下、複数の自治体や市民、企業が一体となり普天間飛行場の辺野古移設に反対する体制のことだ。そして、「オール静岡」も熱い。知事を先頭に県下の自治体が一体となって国や大企業と対峙するのは沖縄と静岡だけかもしれない。
◆オール静岡ができたのは2014年。その前年、JR東海は県北部の南アルプスでのリニア・トンネルの掘削で、県の水源である大井川が「毎秒2トン減流する」と予測した。これを承服できない川勝平太知事は、JR東海に協議に参加するよう呼びかける。ところが、この協議、7年経った今も続いている。JR東海が、県が要求する「工事で失われる水を全量戻せ」との要求に具体策を示せないでいるからだ。つまり、知事は静岡での着工を許可していない。
◆この協議で感心するのは、御用学者ゼロ、単なる事務手続きで臨んでいるような県職員もゼロであること。なんとしても水を守るとの強い意志を感じる。昨年は、ついに、JR東海の社長が5月に、国交省の事務次官が6月に知事との対談に県庁までやってきた。だが川勝知事は「着工はさせない」と一歩も引かなかった。この静岡の粘りにJR東海はこう言い出した――「静岡のせいで、リニアは当初予定の2027年までに開通できない」。
◆だが、瀬戸非常口もその一つだが、リニアのルート周辺では、2年遅れ、3年遅れの現場はいくつもある。あるとき、私はJR東海の副社長に問い質した。これで2027年開通は間に合うんですか、と。副社長は「どの現場も間に合うよう努力している」と、あくまでも静岡だけが遅れの原因であると回答した。これはある意味での静岡へのプレッシャー作戦だ。だが当の静岡県は冷静だ。言わせておけと。静岡県では、6月の知事選も、10月の参議院補選も、総選挙でも、リニア推進の自民党議員はいずれも落選。民意も定まっている。
◆JR東海が今後も、水問題や安全管理の問題よりも事業推進を優先するとすれば、対する静岡の動き、そして他県の動きは今後も追いたい。できれば来春にはリニアに関する3冊目の本を出す。これが目標です。[樫田秀樹]
◆8月末、南極観測隊向けにサングラスを寄贈させていただいたところ、9月の地平線通信に載った南極越冬隊隊長の澤柿教伸さんからの感謝と御礼のメッセージ。隊員の皆さんに喜んでいただけた様子が手にとるように伝わってきて本当に嬉しく思った。と、同時に極限の環境で視界を左右するサングラスに万が一のことがあってはと身の引き締まる思いがした。
◆寄贈のきっかけは澤柿さんが越冬隊の隊長になられたのをFacebookで知ったことだった。何年か前、二次会の「北京」で連れてきた学生と共に円卓を囲んだあの時の澤柿さん。南極越冬隊を率いられると知り、メガネ会社に勤める自分なりに、なにかお力になれることがあるのではと思い連絡させていただいた。
◆澤柿さんが事前に調整してくださったおかげで、対象のサングラスは国立極地研究所での審査を経て受け入れが正式に決まった。寄贈に至っては、偶然にも会社の代表が年頭の経営方針発表で「特殊プラスチックを使った自社の代表製品で極限下の耐久テストをしたい」と言っていたことが背中を押してくれた。代表もまさか南極で使われることになるとは思ってなかったようだが、せっかくなら観測隊の方全員分の寄贈をと話が進んだ。
◆澤柿さんからの事前のアドバイスとして3点あげてもらった。(1)オゾンホールのある南極対策としての紫外線カット性能、(2)通常のサングラス以外にメガネの上から掛けるクリップオンタイプもあると便利、(3)ユニセックスデザインでM-Lサイズを中心に(隊員は男性が多い)、というものだった。自分なりの工夫としては、レンズは太陽のギラつきをカットする機能がある偏光レンズ仕様。雪と氷の眩しさでも使いやすいように色の濃いレンズ。フレームは、マイナス30度まで耐えられる特殊プラスチック素材(それ以上の寒さはテストできていないが)で、光が侵入しにくいよう顔の周りを覆う形状のモノを中心に手配した。
◆能力は無いのに、何にでも首を突っ込みたがる。コダワリが強くて、ついつい時間をかけすぎて、時間に追われる。厄介な性格だと自分でも思う。人よりも失敗や回り道が多いが、それを糧に少しずつ次につなげてきた。それでもなんとか成り立っているのは周囲の理解や協力のおかげだ。
◆仕事では、これまで会社の専門であるメガネ以外に、サングラスにも関わってきた。仕事と称して好きなことをしたいという思いが強く、登山メーカーや釣具メーカーへサングラスの提案に通い、そして製造を担ってきた。縁あって昨年からは鉄道会社の運転士向けのサングラスフレームを作る機会に恵まれた。ものづくりはまさかのトラブルがつきもので、何度繰り返しても納品までは気が抜けず緊張が続く。しかし、その状態に対してどう取り組むかが本質なのかも知れない。
◆今回の南極観測隊のサングラスでの心残りは、専用モデルを開発できなかったこと。自分なりに今できるベストは尽くしたが、次回チャンスがあればなんとかカタチにしたい。もちろん一社員の力では難しく周囲も巻き込まねばならない。メガネでは後発の自社が差別化・特化しているのは、金型を使って製造する樹脂成型のメガネ。金属と違い特殊プラスチック製のメガネフレームは軽くて弾力性がありサングラスとも親和性が高く、製造する際もノウハウがそのまま活かせる。メガネならではの技術もサングラスに投入できる。
◆これからの夢は、自社で登山専用のサングラスを作ることだ。市場には数多のサングラスがあるが自分のコダワリを満たすモノはなかなかない。よいと思ってもあとちょっとが惜しいということが多い。ないなら作るしかない。周囲の人たちに長く大事に使ってもらえるお気に入りの1本ができればと思っている。それが世の中への自分なりの恩返しかもしれない。[塚本昌晃 福井市]
◆大学4年の夏、タイでバスジャックに遭った。実習でブータンへ行った帰り、メンバーのひとりと連れ立ってバックパックを担いでの旅だった。骨休めにと、タイの島で波にでも揺られましょうと向かった深夜バス。そんな簡単には休ませませんよと、バタフライナイフが登場したのだ。ほんの数時間前、友人は19歳から20歳になっていた。
◆バスの中で子の刻を迎え、ふたりでささやかにお祝いしたばかり。乗り合わせていた観光客に窃盗を疑われた人物が豹変し、ナイフを振り回し、「騒ぐな」と脅してきたのだ。水を打ったように静まり返る車内。運転手も仲間のようで、そのままバスは消灯し、ぐんぐんと真っ暗な田舎道を進んだ。神にも(仏か?)すがる思いで、ブータンで覚えたばかりの真言「オンマニペメフム」を何度も唱えた。どうか無事に着きますように……。
◆翌朝、解放されてバスから降りたときに見上げた太陽の光が忘れられない。20歳になったばかりの友人と、「いま、生かされたのだから、これからの人生を大切に生きよう」と誓い合った。大袈裟のようだけれど、当時は心からそう思った。その友人が、今夏、不慮の事故でこの世から去った。たったひとりで。3人の子どもに恵まれ、3人目は生まれて間もなかった。「大切に生きようね」と誓ったあの夜から、15年が過ぎていた。
◆輪廻転生を信じるチベットでは、死者の魂は49日で生まれ変わるといわれている。生まれ変わってしまうのだから、墓も建てない。そして、良き転生ができるようにと、亡きひとの死を悲しみ過ぎない。死者が今生に後ろ髪引かれないようにと。来世でも幸せに生きられますようにと、ただただ祈る。そこには、肉体の死があるだけで、魂の死は存在しない。魂は生き続けている。チベットの死生観に、わたしは、たびたび救われてきたように思う。きっと、山が好きだった友人の魂は、コロナ禍なんてなんのその、夏のチベットの聖山をずいと登っていたかもしれない。
◆死者の魂とともに生きていくことを、教えてくれた夫婦がいる。ふたりは、宮城県北東部の港町、女川の海辺に立つひとだ。女川は、詩人の高村光太郎がはじめて足を踏み入れたとき、“ぎゅっとくびれて取れ相な処”と表現したほど、深い入江の奥にある。どこまでも続くコバルトブルーの海が、此岸と彼岸の境界をとかして、ふと死者の霊と会えるのではないかと思わせてくれる。蒼い山々に囲まれ、つんとする潮の香りが、柳田國男の『遠野物語』の世界を想起させる。
◆ただ、この女川という地名は、その美しさゆえではなく、全国に知れ渡ることになった。東日本大震災の津波は、この複雑な地形ゆえに高さが増幅した。町は根こそぎさらわれ、死者575人、行方不明者340人の魂が眠る地となった。この夫婦の息子も、そのひとり。当時、25歳だった。
◆息子は、ある企業に勤め、その勤務中に命を落とした。走れば1分でたどり着く町指定の避難場所があったにもかかわらず、上司の命令で会社の屋上に避難し、そのまま社員全員が津波で流された。なぜ、彼らは高台へ避難できなかったのか? あのとき、何があったのか? 遺族たちは、ただただ事実を知りたかった。企業側も、当初は非を認めていたものの、態度が一転。「想定外だった」「仕方なかった」としか応じず、謝罪もなければ具体的な再発防止策も示してくれなかった。
◆1年後、夫婦ら一部の遺族が、企業を相手に訴訟を起こした。「金銭目当て」、「モンスターペアレント」などさまざまな誹謗中傷を受けた。「息子を失うこと以上に、どん底なことはない」。事実を明らかにし、二度と同じことがくり返されないようにと訴えた。けれど、事実はうやむやのまま、企業の “経済的合理性”を理由に敗訴になった。
◆2021年8月12日。ふたりの姿は、群馬県の御巣鷹山にあった。36年前、日本航空123便が墜落し、520人もの魂が眠る地。夫婦は、慰霊登山に参加していた。ことしで6回目。道ゆく遺族たちと親しげに挨拶を交わす。じつは、ここは日航機墜落事故の遺族のほかに、シンドラー社エレベーター事故で息子を亡くした遺族や、JR福知山線脱線事故の遺族など、不条理にかけがえのない家族を失った遺族たちが集い、慰霊をする場になっている。夫婦の妻が目を赤くしていう。「ここに生きているんだわ。何年経とうと。わたしたちが女川でやっていることと重なるよね」。かつて焼けただれていた山肌からは、若木がささやかに芽吹いていた。
◆夫婦はいまも、女川の海辺に立ち、手づくりの慰霊碑の前で語り部を続ける。わたしがはじめてふたりに会ったとき、高台だったその場所は、かさ上げ工事が終わり、平地になった。この夫婦の軌跡をたどるため、わたしはいま、陸奥の国へと通っている。ご遺族、目撃者、弁護団……たくさんのひとの声を聞き、段ボール2箱分の裁判資料を読み漁っている。この原稿を書いている翌週も、新たなひとに会いに、女川へいく予定だ。死者の魂とともに生きること、を、考え続ける旅の途上だ。[長野市・ドキュメンタリー作家 小川真利枝]
■11月6、7日、子供と一緒に風間深志さん主催の地球元気村が企画した「がれきの学校2021」に参加した。「がれきの学校」とは東日本大震災を「知る」企画で、2011年には家族3人で、12年には1人で参加している。10年前は11才だった娘はさすがにもう来ないだろうと思ったが、声をかけてみると意外にも付き合ってくれる。
◆震災当時、地球元気村は宮城県南三陸市の神割崎キャンプ場をベースにバイクを活用した支援をしていた。何かをしたいと思いつつ直接現地に関われていなかった僕は、元気村のおかげでお手伝いさせてもらうことができた。現地で神割崎にいたライダーと再会すると戦友にあったような気分になった。
◆南三陸の海岸線に立つホテル観洋。ベースがあった神割崎キャンプ場。ボランティアさせてもらった場所。実際にそこに立つと、懐かしいと共に少し誇らしい気分だ。
◆北上川の河口から3.7キロ。児童74名と教師10名が死亡、行方不明となった大川小学校が最後の立ち寄り場所だった。ここに来るのは初めてではなく、思い入れは現場にかかわった地域の方が強い。着いたときには、これですべてのスケジュールが終わりかと気持ちは現地から離れていた。
◆赤いペンキを塗りなおされ、アートのようになった南三陸防災庁舎とは対照的に、大川小学校は津波に破壊されたままの状態だ。校舎の横には大川震災伝承館ができていた。前回来たときは、時間もさほどなく恐々と覗いただけ、今日は震災当日、ここで小学校6年生だった三男を亡くされた佐藤和隆さんが話してくれる。
◆語り部到着まで校庭を歩く。奥の山に白い目印が見える。あれが津波の到達点と隣の人が話している。目印の斜め上の方に人が数人見える。どうやって山に登ったのかは分からないが、あそこまで避難できていれば子供たちは助かったはずだ。
◆語り部の佐藤和隆さんが到着する。自分と同じ年ぐらいだろうか。亡くなった雄樹君も娘と同じ年だ。「津波の後、私たちの一番の関心事は遺体の発見でした。遺体が見つかってよかったなぁ、と、普段じゃ考えられない会話をしていました。まだ見つかっていない家族は今日もあてもなく探しています」。「今日」という言葉に身が引き締まった。
◆地震発生後校庭に集まった先生と児童はなぜかその場で50分待機。津波到達1分前に川の方に移動をはじめ、民家の裏の行き止まり道で被災している。山に逃げよう、と、先生に訴えた子供たちに「勝手なことを言うな」と先生は怒る。児童を迎えに来た親御さんからは「早く山へ逃げて」と忠告される。ラジオからは避難の放送が流れている。スクールバスも待機している。話を聞けば聞くだけ、なぜ校庭で待機し続けなければいけなかったのか意味が分からなくなってくる。
◆ひと通り事実を話した佐藤和隆さんは「見ていただきたいものがある」と校庭の奥に向かって歩き出した。辿りついたのは先ほど、斜面に人が見えていた裏山。裏山には道がついていて、少し傾斜が強くなったところが津波に最高到達地点だった。
◆校庭の集合場所からゆっくり歩いて5分ほどだ。ここで毎年シイタケ栽培の体験学習をしていた。そこから二股の道を右に折れ、少し上がると先ほど下から見上げたときに人が立っていたテラスに出る。コンクリートで固められ幅は5メートルほど、長さは70メートルあるという。ツアー参加者の70代の方も難なくその場に来られた。
◆学校を見おろしながら、湧き上がる疑問が止められない。過去にテレビの検証番組では、小さな子供もいて、山には避難できなかった、と言っていた。写された画像では確かにそう見えた。実際この場に来たときも、校舎の入り口付近からでは山に登れる場所は見当たらなかった。しかしそれは入り口付近の山を見るからで、校庭の奥の山はそうではない。そして山に逃げられることもその場にいた全員がわかっていた。
◆もう一度、校舎の前に戻った佐藤和隆さんは説明を続ける。「コロナの影響でこの2年ほど、学校を訪れる人は減りましたが、それ以前は他県の教員の方も視察に来てくれるようになっていました。宮城県は来ませんが」。
◆他県は来るのに当事者である地元は来ない? 逆ではないのか。地元での検証は済んで、そこで導き出された結果を学ぶために他県の教員が研修に来るのでは。すでに10年もたっているのだ。
◆何を言われているのか意味が分からない。恐る恐る「なぜ宮城はこないのでしょうか」と聞くと、「さぁなぜでしょうね」とイラッとした答えが戻ってきた。
◆帰りのバスの中で頂いた「小さな命の意味を考える」と題された61ページある冊子を必死で読んだ。中には予想だにしないことが書かれていた。
◆なぜあの日、先生は生徒を山に避難させなかったのか、子供を亡くした親御さんたちは現場の状況とその理由が知りたい。まず正確な状況把握が基礎のはずなのに、当日学校にいなかった校長先生と石巻市の教育委員会が責任の追及を恐れて、証拠となるものを消している。
◆冊子から抜粋。「3月16日、校長が市教育委員会に報告した『引き渡し中に津波』『油断』と書かれた報告書が1年間隠蔽。学校と市教委が『山は倒木のため避難できなかった』とウソの説明(倒木は一本もない)。助かった児童への聞き取り調査のメモ書きを一斉に廃棄。『記憶は変わるもの』と子どもの証言を否定。時間の経過とともに情報が集まるどころか情報は消されていく」。
◆「公文書偽造」や「桜を見る会」と同じ構図がこんなところにもある。大川小学校。知ってるよ。行ったから。そう思っていた。でも本当は何も知らなかった。
◆今さらながらでも見聞きしたことを書きたい。大川小学校を訪れた人間がすべて呟けば、それは力になる。「なぜ大人が誰も判断できなかったのか? 動けなかったのか? 亡くなった先生たちも助けたいという思いは同じだったはずなのに……。悔しい」
◆あの裏山に登れば誰もがそう思うはずだ。[坪井伸吾]
■こんにちは! 一昨日の10月22日(金)の夕方、ポストに入っている地平線通信を確認しました。送付作業をしてくださる方々、毎月通信を発信してくださる江本さん、本当にありがとうございます。
◆先月の通信は、同世代の方々が多かったからか、自然と今を生きることの意味について考えさせられました。山でいきる、山にいきる、山と共にいきる、そう言い切ることにはその人のなかで時間と経験を経て醸成された覚悟があらわれていると思います。
◆地平線通信を読んでいると、何より皆さんの生きるエネルギーに圧倒されるのです。またその源にある精神についても日々考えさせられます。
◆私はなにも決めきれずにいますが、学生として、山岳部員として、地平線会議と関わる人間の端くれとして、今感じる日々の疑問や心惹かれる書物等々を見落とさずに考え行動しよう、しなければ、と思います。
◆大学の近況を少しお伝えさせていただくならば、オンライン形式と、対面形式、そしてオンラインと対面を選択できるハイブリッド形式、がまぜこぜになって10/4から講義が始まりました私に限っていえば、オンライン形式は7コマ、対面形式は1コマ、ハイブリッド形式は4コマ、という具合です。
◆緊急事態宣言の解除とともに課外活動の自粛が解かれ、3密の注意喚起に留まるところまで緩和されています。山岳部内では、年末から年明けの冬合宿の行き先が北アルプスは燕岳、大天井岳に決まりました。本当にひよっこなので、体力、筋力だけは最大限鍛えて入山し、雪山で身に付けられるものはすべて自分のものにしたいと思っています。
◆簡潔にと思っていてもつい書きすぎてしまい、申し訳ありません。こうして送信させていただくメールは、恐縮ながらも現在の自分の記録でもあるのだと今気がつきました。最後に、江本さんの視力が回復されたこと本当によかったです。今月号も紙面を這うように読ませていただきます。[九大2年 安平ゆう]
◆その知らせを耳にしたのは知床半島、羅臼岳の山の中だった。夕暮れ迫る下山道にスマートフォンの着信音が響いた。薄暗い森の中で画面を見ると、相手は日本山岳会国際委員会委員長の和田薫さん。ヒグマが餌を求めて動き回る時間帯なので、スルーして街に下りてから返信しようと思ったが、着歴には本日3回目の電話とある。急ぎの要件であることは間違いない。経験上、この手の電話は9割がた、よくない知らせに決まっている。ああ、また誰かが遭難したのか……。立ち止まり、覚悟を決めてリダイヤルボタンを押してみた。
◆すると、受話器の向こうから興奮気味の声。「萩原さん、たいへん。フランスのピオレドール事務局から連絡があって、山野井さんがLifetime Achievement Awardを受賞することになりそうなの。ご本人に受賞の意思を確認してもらってもいい?」。それは、日本の登山史に永遠に刻まれることになるであろう吉報であった。
◆ピオレドールとは1991年にフランスの山岳団体、グループ・ド・オートモンターニュと山岳雑誌『モンターニュ』によって創設された山岳賞で、Piolets(ピオレ)とはフランス語でピッケル、Or(オール)は金、つまり「金のピッケル賞」という意味。サッカーの世界年間最優秀選手に贈られるバロンドールやカンヌ国際映画祭における最高賞パルムドールと同義で、その年の最も優れたアルパインクライミングの記録に対して贈られる賞である。
◆日本人では2008年に平出和也と谷口けいによるカメット南東壁、ギリギリボーイズの3人(天野和明、佐藤裕介、一村文隆)のカランカ北壁を始めとして、2010年には横山勝丘・岡田康によるローガン南東壁、2012年には馬目弘仁、花谷泰広、青木達哉によるキャシャール南ピラー、2018年、平出和也と中島健郎によるシスパーレ北東壁、2020年には同ペアによるラカポシ南壁などがこれまでに表彰されてきた。
◆それってどこの山? すごい記録なの?と、一般には耳慣れない山名が続いたかもしれない。しかし近年の登山界では山の高さよりもルートの内容と登攀スタイルが重視されており、世界のトップ・クライマーたちは「より困難で美しい独自の登攀ルート」を探し出しては、酸素やシェルパたちの手助けを得ることなく、急峻な壁に挑み続けているのだ。
◆今回、山野井さんが受賞することになったLifetime Achievement Awardとは、長年にわたりアルパインクライミング界で目覚ましい活躍を見せ、その業績が後世のアルピニストたちに多大な影響を与えた人に対して贈られるものである。直訳すれば生涯「業績」賞でもいいのだが、単純に登った記録だけではなく、クライミング界の発展に寄与した労を汲みこんで、設立当初から『ROCK & SNOW』誌では「生涯功労賞」の訳を当てている。
◆ピオレドール生涯功労賞がどれほど高い価値を持つものなのか。それはこれまでの受賞者の顔ぶれを見てみれば、登山に少し詳しい人であれば充分におわかりいただけることだろう。エベレストを初めて、フィックスロープや前進用のテントなどの助けを使わずに単独・無酸素で登頂した“超人”ラインホルト・メスナーや、当時、最も険しいとされていたエベレスト南西壁を初めて登ったダグ・スコット(わかりやすくエベレストの記録を引き合いに出したが、両者とも他に困難な山々での初登攀記録が多数ある)など、いわば登攀界の「レジェンド」と呼ばれるに値する12人のクライマーに対して贈られてきた。
◆今回、13人目の栄誉を受けることになった山野井さんは、1988年のバフィン島トール西壁単独初登攀、1990年のフィッツ・ロイ南西稜冬期単独初登攀、1994年のチョ・オユー南西壁新ルート単独登攀といった輝かしい登攀記録を残されている。そして2002年のギャチュン・カン北壁登攀時に激しい嵐に遭い、凍傷で10本の手足の指を失ってからも、今日まで精力的に登り続けてきた。ヒマラヤやアンデスの高峰に、あるいはカナダや中国やイタリアの高難度ルートに挑み続ける姿が、これまで多くのクライマーたちに刺激を与え続けてきたことは間違いない。今回の受賞を機に、彼の業績とその精神が、あらためて多くの国の人々に認知されていくことだろう。授賞式典は、11月26日からフランスのブリアンソンで開催される。私も元ピオレドール審査委員として同行し、その様子を各種メディアで紹介していきたいと思っている。[『ROCK & SNOW』元編集長 萩原浩司]
◆江本さん、お電話ありがとうございます。お声を耳にして、2002年秋に山野井夫妻がギャチュンカンで重度の凍傷を負って入院した白鬚橋病院に江本さんがいらして下さったときのことを思い出しました。あのころはソフトテニスボールを握ることさえできず、どこまで回復できるものかと心配していましたが、<山>への思いを消すことのなかった泰史氏のこのたびの受賞は本当に嬉しいものです。
◆泰史氏のピオレドール生涯功労賞受賞に関しては、山岳ライター諸氏があちこちでいろいろ述べているので、素人の私がコメントすることは控えます(「生涯功労賞」という邦訳もそぐわないと話題になっていますが、ここでの表現はこれまでの呼称を踏襲しておきます)。
◆公式発表は現地フランス時間の10月27日、事前に受賞について打診されていた泰史氏は「嬉しさより戸惑いを感じた」とのこと。過去の受賞者を思えばそれもそのはずです、彼が尊敬するV・クルティカ氏も同賞を受賞しているし……。
◆日本人初のピオレドール受賞者で過去三度同賞を受賞した平出和也氏は「自分たちの受賞は山野井氏のような先人がいたからこそで、氏のこのたびの「生涯功労賞」受賞は氏をきちんと評価してくれている人たちがいたという思いがして心底嬉しい」と言ってくれました。
◆多くの人たちが受賞に対するお祝いの言葉を掲げていますが、私は、氏自身に対しては元より、氏の父上に対して「よかった、本当におめでとうございます」という思いの方が強いです。実は父上が28日早朝、興奮して電話してきました。江本さんもご承知のように、泰史氏はこの手のことはたとえ親子でも公式発表まで話さないので、父上もニュースで知って大分驚いたようです。ひとしきり興奮して話した後に、恥じらうように「俺も親バカだね〜、もう少し長生きしようと元気が沸いてきたよ」。
◆良くも悪くも「天国に一番近い男」と言われ続けた泰史氏の登山行為に「邪魔もしないが資金援助はしない」と内心ハラハラしながら見守り続けた父上、「最高の親バカですね」と返答した私の言葉にも嬉しそうでした。そうそう、それ以前に出ていた情報なのですが、『ビッグコミック』に「山野井泰史物語(仮称)」が12月25日発売号から約2年間連載されるそうです。
◆ギャチュンカン事故後、多くの人々に知られて「有名人」になってしまった泰史氏ですが、これからも世間の目は気にせずに自分の納得いく<山>を続けていくことを願っています。[寺沢玲子]
■今月はヒヤリとした。毎月通信の最後は、レイアウト一手引き受けの森井祐介さん(本業は碁会所勤務)の腕に任されるのだが、弟さん名義だったその森井さんのネット回線が期限切れで突然止まってしまったのだ。
◆いろいろ試みたが、ネット回線は回復せず、結局、編集デスクの武田力さんがUSBメモリに本文原稿を収納して一昨日15日夜に森井さん宅に届けてくれた。事態を理解した長野亮之介画伯も題字イラストと8コマ漫画を昨日16日のうちに描き上げ、送ってくれた。
◆今日になってフロントをなんとか書き上げ、このあとがきとともに落合大祐さん以下デスクスタッフにメールで送る。取材で忙しい大西夏奈子さんが別のUSBメモリに保存したのを仕事の現場まで印刷担当の車谷建太さんが行って受け取り、さきほど森井さん宅に届けてもらい、レイアウトが完成、すぐに印刷に入り、18ページの通信がなんとか出来上がった。
◆この機会に“解説”しておくと、画伯の描くイラストは、地平線に登場してきた人物の特徴を見事につかんで毎号実に面白い。たとえば今日の漫画を理解するためには、先月の通信510号4ページにある「2年ぶりのポイントホープ」という記事を是非読んでください。そこに登場する、屋根の雨漏りに泣く彫刻家・緒方敏明さん、頼まれて修理に行ったアラスカ鯨取り助っ人・高沢進吾さんの表情が8コマにユーモラスに捉えられている(表紙の題字のくじらもその意味です)。
◆連載『石ころ』、「今月はちょっとお休みをいただきます」と、小松由佳さんから。了解です。ゆっくりやりましょう。[江本嘉伸]
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今月も地平線報告会は中止します。
新型コロナウイルスの感染が収まりつつありますが、地平線報告会の開催はもうしばらく様子を見ることにします。
地平線通信 511号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2021年11月17日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp(江本伸方)
■メールかハガキでお願いします。ファクスはありません。
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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