10月20日。このところ冷たい日が続く。今朝は見事に晴れ、気温はきのうより7度も上がる予報だが、正午前、正確には午前11時43分、熊本県の阿蘇山(1592メートル)が噴火した。火砕流が火口から1キロ以上の場所に達したのが確認され、気象庁は阿蘇山に火口周辺警報を発表して噴火警戒レベルを3に引き上げ、火口からおおむね2キロの範囲で大きな噴石や火砕流に警戒するよう呼びかけている。
◆現場からの映像はすごい迫力だ。いまから5年前に起きた御嶽山(おんたけさん、長野、岐阜県境)の噴火を思い出す。2014年9月27日11時52分、で火口付近にいた登山客ら58人が死亡した、戦後最悪の火山災害。秋の行楽時期の土曜日の昼どきだったため火口付近に居合わせた人々が死亡し、いまだに5名が行方不明である。火山国日本、あの富士山でさえ、いつ噴火するかわからないのだそうだ。
◆ありがたいことにここにきて新型コロナウイルスの勢いは、急速に落ち込んでいる。東京都は19日、新たな感染者を36人、と発表した。全国では368人である。8月20日に東京都で1日の感染者5773人を記録したことを考えると信じ難いほどの鎮静ぶりだ。ワクチンの普及、マスク着用の徹底効果などが指摘されているが、ほんとうのところ理由はわからないそうだ。
◆冬に向けて予想される「第6波」がどの程度の猛威を奮うのか、意外におとなしいのか、気になる。いったい、マスクをいつになったら外していいのか。そんな中できのう19日、衆議院選挙が公示され、31日の投開票目指して選挙戦が始まった。きょう20日には期日前投票が始まり、異例の短期決戦が進む。
◆おととい18日、国立競技場近くの小さな画廊で開かれている長野亮之介画伯の個展「わたりの川風見行(かざみこう)」を見に行った。画伯、今年3度目の個展というから驚きだ。今回はイラストではなく切り絵中心の展示で武蔵野を流れる川に集まる野鳥を題材にしている。画伯の切り絵の才は定評があるが、今回のは猫ではなく鳥。私が強く惹かれたのは、その舞台だ。
◆不思議な名の川や森が実は新らしい我が家のご近所ではないか、と気づいたのだ。画廊には不思議な川や森を描いた地図も展示されているが、そこにはたとえば、家のすぐのところにある浅間山(せんげんやま)も、川幅のあんなに狭い野川も多彩な野鳥の住処として名を変えて登場している。
◆先日、府中市に住む宮本千晴が初めて新しい我が家に来た時、彼は20枚もの周辺のさまざまな地図、概念図をプリントアウトしたものを私にくれた。浅間山だけでなく野川公園、多摩川上流、下流、昭和公園、平山城址公園、長沼公園などなど知らない広がりがあちこちにある。ああ、自然に恵まれる、とはこういうことなんだ、と以前には持てなかった不思議な感覚に浸る。東京のど真ん中に住み慣れた自分、その暮らしが一変し、今では1時間足らずで3つの小さな丘を往復できるこの浅間山にほとんど毎日足を運んでいるのだ。
◆10月7日に81才になった。この年齢でもこの環境なら毎日だって小さな登山はできる。そう考えて突然「毎日登山家」、東浦奈良男さんのことを思い出した。私は地平線の仲間に話を聞かせたいと思う人に出会えば多少強引でも説得して報告会に出てもらってきた。鹿児島におられた93才の野元甚蔵さんに1940年当時のチベットの様子を話してもらったのも、人前で話すことが苦手のマッシャー、本多有香さんにカナダからわざわざ来てもらったのも一つには地平線報告会への思いからだ。
◆しかし、いろいろ作戦を考えたけれど、どうしても東浦さんの報告会だけは実現できなかった。山が好きで59才で退職した日の翌日から「毎日登山」を開始した東浦さん。目標は1万日連続登山で、「高尾山報告会」など工夫してみたが地平線のための時間は作り出せず、新聞で東浦さんのことを紹介するにとどめた。
◆三重県のご自宅を訪ね、毎日登山に付き合わさせてもらったのは、2000年2月だった。交通機関は使わず自宅から歩いて山の麓まで行く。この時は家から2時間歩いたところにある大日山(302メートル)を目指した。伊勢小富士と呼ばれる低いが姿のいい山だ。途中の湧き水で水を飲むほかは弁当もお茶も持たない。冬でも手袋、靴下をつけない。もちろん、そんな彼を変人、奇人という人は少なくなかった。しかし、その後もう一度小さな山行に付き合い、克明に書かれた彼の日記を見て私はひとつの大事な記録がここにある、と感じた。
◆目指す1万日連続登山はならなかった。2012年12月、東浦さんは「9738日の毎日登山」をなしとげて倒れた。86才。彼の人生は『信念 東浦奈良男一万日連続登山への挑戦』(吉田智彦 山と溪谷社刊)に詳しい。
◆毎日登山なんて根性を持ち合わせない私、連続毎月通信をめざそうか。[江本嘉伸]
■裏話は書かないことにしているが、今回は書く。明日から所持金ゼロの北海道狩猟サバイバル登山(第二弾、前回の体験は2020年1月の地平線報告会で発表)に出発する。このタイミングで江本さんから何か書けと依頼がきた。明日からの北海道登山は某国際芸術祭に出展する「作品」である。そのことは説明すると長くなる。私が北海道を歩いている間に、おそらく日経新聞の日曜版に私の書いた説明が掲載されると思うので読んでほしい。
◆その日経のエッセイはふた通り用意して、日経新聞は「芸術祭登山」を選んだ。以下は、選ばれなかったボツの原稿である。
◆できるだけ装備を少なくし、食料や燃料を現地で調達しながら、道のない山塊を長く旅するという登山をおこなっている。「自分の力」で登ることにこだわって行き着いたスタイルであり、サバイバル登山と名付けた。
◆山小屋はもちろん、キャンプ指定地にも泊まらないので、宿泊費はかからない。水は沢の水を飲み、燃料は薪を拾い、食料はイワナを釣ったり山菜を採ったりする。お米や調味料などは事前に購入して最低限背負っているのだが、山の中ではお金をまったく使わない。
◆そんな山旅で、自分の食べる物を自分で捕まえて殺すということをはじめて体験した。そこには、食べ物を得た喜びと、命を奪う畏れが入り乱れていた。
◆そして気がついた。食べ物とは本来、この地平で共に生きる命であり、食べるためには捕まえて、命を奪わなくてはならないのだ、と。
◆その体験そのものも衝撃だったが、その体験をせずとも30年近く自分がのうのうと生きてこれたこと(現代の社会システム)にも同じくらいびっくりした。
◆自分で殺すのが本来的な食べ物だ、という言葉を返せば、誰かに殺してもらって購入する食べ物は本来的ではないということになる。少なくともスーパーに並んでいる生鮮食品を買うときに、命を奪うことに付随する複雑な感情は湧いてこない。
◆「買う=ニセモノ」なのだろうか。水も食料も燃料も、山から自分で調達してくるかぎり無料である。お金の代わりに自分の労力を払って手に入れる。そして身体を使った体験には必ず何らかの感情が付属する。サバイバル登山で私が求めていることの核心はそれなのかもしれない。
◆都市生活では物質から労力まで、さまざまなものごとを購入することができる。逆に、買えないものはなんだろうと煮詰めていくと、食べ物を消化吸収すること、呼吸すること、脈動すること、排泄すること、眠ること……になる。自律神経系の代謝循環だけだ。これらはお金を払って他人に代わってもらっても意味がない。
◆サバイバル登山中は、面倒くさいと思いながら薪を集め、煙いと思いながら焚火を熾し、8時間の快眠のために10分の手間を惜しまず寝床に落葉を敷く。明日も明後日も自分の身体能力を十全に発揮しないと登山はままならない。疲労から来る小さなほころびは、雪だるま式に膨らんで、危機的状況を呼び込むことにもなる。サバイバル登山において生活は代謝循環と同じように、生命維持に直結するずっと繰り返される営みである。
◆いまこのときにやるべきことを正しく積み上げておかないと悪循環に陥って死ぬかもしれない。そんな淡い恐怖に包まれていると、世界が鮮明になっていく。死の可能性とは、そのまま自分が生命体だと実感することだからだ。面倒くさい生活の雑事を一つ一つ重ねた先にだけ、自分の未来が続いていく。そこには自分で自分の命を保っている快感がある。なにより、身体が良好でないと登山は面白くない。
◆ところが街では、水・燃料・食・住・排泄と「生活的代謝循環」をすべて購入している(排泄=下水道利用料金はけっこうな額である)。生活の無駄や手間をできるだけ少なくし、賃金労働に集中してお金を稼ぎ、そのお金でまた生活の雑事を買うという循環が、都市では生活のようだ。
◆サバイバル登山的に考えれば、生活の雑事を自力でこなしていないということは、生活していない=生きていないということになってしまう。実際に現代社会において生きるとは、お金を稼ぐこととほぼ同義になっている。
◆賃金労働が自分にとってライフワークといえるほど面白く、やりがいがあるのなら、生活の雑事を購入して、仕事に集中する人生は幸福といえるだろう。だがもし、住宅ローンや生活費のために賃金労働に追いかけられているのなら、いつのまにか目的と手段が逆転しているといえるかもしれない。
◆現実には、承認欲求、子どもの教育費、趣味や娯楽などなどのために、誰もが、多少の矛盾には目をつむり、経済活動へ参加して世間並みの人生を楽しんでいる。
◆「身体の代謝循環」は購入することができないと先に書いた。極論するなら医療という形(点滴、人工呼吸器、胃瘻など)で循環代謝さえ購入することも可能である。だが、呼吸や嚥下が面倒くさいから買いますという人はあまりいない。自己保存の本能に直結する自律神経系の活動は、そのまま生きる喜びなので、省略すると、生きることを省略する(=死ぬ)ことになってしまうからだろう。
◆さてそれでは、生活の代謝循環は省略しても、生きることを省略することにならないのか。最近、廃村の古民家に籠ってそのことをまじめに検証している。
■以上これまで地平線会議や通信で書いてきたことのダイジェストである。明日からの登山の準備があるので、ゆっくり別の原稿を書いている暇はない。最後に近況をお知らせすると、先日、山野井泰史さんと下田川内山塊に未踏として残っていた岩峰を登ってきた。この模様は流行のYouTubeで報告する(よかったら見てください)。また、私の猟師小屋が映画のロケに使われた。私も大物俳優に混じって猟師役で出ている。これも発表できるようになったらお知らせします。[服部文祥]
■冒険研究所書店のバックヤードが、今大変なことになっている。われらが地平線会議代表世話人、江本さんの蔵書がそっくりそのままやってきたのだ。冒険研究所書店とは、北極冒険家・荻田泰永さんが大和市に作った古書中心の本屋だ。
◆9月号の地平線通信で荻田さん本人が書いているように、バックヤードに積まれた段ボールの数はなんと100! 江本さん宅に行ったことがある人は納得だろうが、蔵書の山というよりあらゆる紙類の巨大な山脈が、選別されることなく箱に詰め込まれ運ばれてきた。
◆整理初日に集まったのは、地平線関係を中心とした8名。まず荻田さんからざっと方針のようなものが発表された。荻田さん自身も蔵書整理は初めてなので、とりあえずこうしよう、というようなものだ。箱の中には、地平線会議40年の歴史が詰まった資料の数々、写真集、辞書、日本語ロシア語モンゴル語何語か分からない言語の本、本、本、雑誌、同人誌、新聞の切り抜き、写真やネガ、原稿や書簡やその他もろもろがドサッと入っている。
◆それらを書籍、資料、資料にならないものに分けていく。作業を始めると、自然にもう少し細かく分別するようになっていった。和書、外国書、地平線関係、同人誌、雑誌、スクラップなどの資料、個人的なもの(江本さんに返却)、たぶん不要なもの(一応もう一度確認するけど)という感じだ。誰も手を止めることなく作業するが、貴重な資料や珍しいものを見つけるたびにあちこちで歓声が上がるような、活気あふれる作業現場だった。植村直己さんの肉声入りレコード(サイン入り)、司馬遼太郎さんからの直筆はがき(読んでませんよ)、小松由佳さんの未発表の原稿など、宝がわんさか出てくる。
◆整理の仕方にも性格が出る。地平線の高世泉さん、中畑朋子さん、私は手早く(ただし少し大雑把)、声をかけながら仕分けていく。資料にならないものに仕分けられたものを、必要なもの、個人的なもの、不要なものに分ける細かい性格の光菅修さん。この雑誌のシリーズどの箱にあったっけと聞くとたいてい答えてくれる、記憶力と整理力抜群の国会図書館勤務の人もいた。テーブルに積んだ本を箱詰めする人、あちこちを回り足りないものを補ってくれる人、力仕事を一手に引き受ける人など、なかなかのチームワークだったと思う。
◆私の目の前で作業していた光菅さんが驚いたような声で言った。「なんだこれ? 誰かの死亡届が入ってる。鳥山さんだって」。思わず大きな声で「それ私の!」と言い、光菅さんが持っていたファイルをブン取った。
◆私の父は東京外語大山岳部の江本さんの後輩で、“神戸在住のタフなT”という名前で何度か江本さんの原稿にも登場していたが、8年前に悪性リンパ腫で亡くなったのだ。父の葬儀をその時初めて会った江本さんと一緒に企画、準備した縁で私は地平線会議と関わるようになった。
◆その葬儀に関する資料や手紙が入ったファイルの中には、江本さんに貸したまま行方不明になっていた、小学生の私が書いた登山日記もあった。今回の蔵書整理でこの日記を取り戻したいと切実に願っていた。なぜなら私と父が二人で写っている北岳山頂で撮った写真が貼ってあるから。いつも写真を撮るばかりだった父とのツーショット写真は、唯一これだけなのだ。
◆見つかったことを江本さんに報告したら、見つけてくれて本当にありがとう、鳥山稔は私にとって生涯の大切な友だから、登山日記を抜いたらファイルはかならず返してね、と言われた。
◆江本さんのこと、知っているつもりだったけれど今回改めてそのジャンルの広さ、持っている顔の多さを知り驚いた。唸ったり感動したりびっくりしたりたまに呆れたり。そういうことを共有しながら進める作業のなんと楽しいことか。今回の整理で開梱できたのは、100箱中のわずか10箱程度。この先何回もあるであろう蔵書整理の日には、できるだけ参加したいと思っている。[瀧本千穂子]
■時々、彫刻家の緒方敏明さんから、自身の作品の絵葉書が届く。素敵な絵葉書なのに文面は非常に弱々しく、もうボロボロだとかダメだとか。その緒方さんから、工房の雨漏りがあまりにも酷く、どうにか修理ができないだろうかとSNS経由でメッセージが届いた。思いつく限りの応急処置方法を伝える。しかし状況は非常に深刻なので、一度様子を見に来てもらい、雨漏り修理を手伝ってもらえないだろうか、と。絵葉書に書かれた住所を見れば、緒方さんの工房は家からそれほど遠くはなく、コロナによる外出自粛期間ではあるものの緊急事態だし、バイクで移動すれば特に問題はなかろうと、ある晴れた日にバイクで工房へと向かった。
◆工房の外見は、子どもの頃住んでいた共同住宅のようだが、森のような庭があり、室内には作品や道具が詰まった「夢の空間」だった。あちこちに置かれた作品にぶつかって壊さないように注意しながら工房の奥へ。「この部分、雨が降ると天井から滝のように水が落ちてくるんですよ」。壁に近い天井からの雨漏り。その付近を外から見ると、瓦がずれ、軒下の材が腐ってなくなっている。梯子を登り、瓦を動かして屋根の状況を確認すると、予想通りその付近の材は全て腐り、屋根を流れてきた雨水が壁に直接流れ込むようになっていた。
◆修理方法を打合わせた後、ホームセンターへ行き、必要な資材を購入。腐り落ちた部位にベニア板やプラスチックの板を挟み込み、その上から瓦をふき直す。果たしてうまくいっただろうか? 緒方さんとともに雨漏り修理をしながら、アンカレジで毛皮屋をやっていたジャックさんのことを思い出していた。
◆彼の店は、いつの頃からか雨漏りが止まらなくなっていた。ある夏の雨の日、天井裏へ入って雨漏りの原因を探ってくれと頼まれた。結局原因はわからなかったものの、雨水の経路はある程度把握できたので、雨漏りの修理も頼まれたのだった。その後、年に数日、数年かけて修理したが、雨漏りは一向に直らなかった。ある年は、店の看板の色が褪せてきたので塗り直して欲しいというので、数日かけて大きな看板を塗り直したこともある。
◆ジャックさんの店はアンカレジのダウンタウンにあった。多くの日本人登山家や冒険家たちが彼の店に立ち寄っており、壁一面にその冒険家や登山家の名刺が貼り付けてある。中には著名な方の名刺もあり、「植村直己」と自筆で書かれた名刺もあった。ある日、ジャックさんから「シンゴさん、シンゴさんを知っていますか?」と聞かれた。当時、そのシンゴさんのことは全く知らなかったのだが、そのシンゴさんとは、今や地平線仲間の坪井伸吾さんのことだった。
◆ジャックさんは既に引退し、毛皮屋の店舗も数年前に取り壊され、店のあった敷地は駐車場になってしまった。今夏、友人の車でダウンタウンの彼の店があった場所を通りかかった。ショーウインドウ越しに店の奥で本を読んでいるジャックさんの姿が、自分が塗り直した店の看板が見えた気がした。そう、今年はアラスカへ行ったのだ。
◆昨年、2020年は新型コロナウイルスの影響で日本からの出国、米国への入国が難しく、ポイントホープへ行くことができなかった。年が明け、ポイントホープの友人と話をしていると「今年は何としてでも来いよ」と言われた。しかし日本や世界の感染状況は改善されるどころか悪化傾向にあり、春までに状況がどうなるのかまるで予測がつかない。
◆アラスカへ行く方法を調べてみると、日本出国時にCOVID-19の陰性証明書が必要、アラスカへ入った後は1週間の自宅待機。待機中にPCR検査を受けて陰性であれば、アラスカ州内の移動は特に問題はないとのこと。アラスカに自宅はないので、アンカレジ在住の友人(アラスカ出身の現地の方)に、どこかに1週間待機する場所はないかと尋ねると「陰性ならうちにいればいい」と言われたので、その言葉に甘えることにした。
◆待機期間中は暇を持て余すかと思ったが、友人宅の雑務の手伝いなど居候にはやることが多く、退屈することはなかった。ただ、毎日のようにポイントホープから「○○がクジラを捕った」と電話があり、忙しくも楽しい時間を町の人たちと共に過ごせないことが残念でならなかった。1週間の待機が終わり、アンカレジからジェット機、小型機と乗り継いでポイントホープへ。小型機に乗るためには陰性証明書が必要で、さらにポイントホープの担当者に陰性証明書を提出して、入域許可証を発行してもらわなくてはならない。
◆幸いアラスカでは、あちこちでPCR検査を実施しており、誰でも自由に、無料で検査を受けることができる。そして24時間以内に結果がEメールで送られてくる。ようやくポイントホープへたどり着いたが、アンカレジで待機している間に今期のクジラの捕獲枠11頭を取り尽くし、クジラの猟はほぼ終わっていた。しかし、猟に出られなかったことが残念と思う気持ちよりも2年ぶりに友人たちに再会できた嬉しさの方が勝っていた。
◆この時期、クジラ肉の処理、狩猟道具の手入れなど、やることは山ほどある。外へ出て、北極の澄んだ冷たい空気を堪能しながら黙々と作業をする。ふと顔を上げれば、青い空の下の馴染みの町並み。雪の上に何台も止まっているスノーマシン。うっすらと漂ってくるクジラの脂の匂い。気がつけば2年の間隙はどこかへ消えてしまい、自分にとってのいつもの生活が戻ってきていた。
◆今年は氷の上でクジラを待つことはなかったが、ほぼ例年通りの時間を過ごすことができた。ハクガン猟に出て、その後5日ほどかけて30羽以上のハクガンの解体処理。アゴヒゲアザラシ猟のあとは「そうじゃないでしょ! こうやるのよ!」と母ちゃんに怒られながら、初めて皮と脂肪の処理を手伝う(アザラシの皮の処理は繊細な作業のため、基本的に女性の仕事で、あまり男性がやることではない。しかし今回は人手が足りず手伝うことになった)。ロープにぶら下がり崖を降りてのウミガラスの卵採りでは、若者の活躍がめざましく、そろそろ引退してもいいかなと思うようになった。カリブー猟には出られなかったが、他の人が獲ってきたカリブーの解体を手伝う。こうして2か月半のポイントホープ滞在は終了した。
◆さて、日本への帰国に際しここでも陰性証明書が必要となる。外務省のサイトを見ると陰性証明書の「書式」が掲載されていている。そんな日本独自の書式をこちらの医療機関が出せるわけがないだろう? とアンカレジの領事館に尋ねると、内容さえ合っていれば、書式にはこだわらないとのこと。というわけで、アンカレジで取得した陰性証明書を日本へ向かう便の搭乗口に提出すると「この書式には『検査手法』が記載されていないため、搭乗させることはできません。日本国政府の方針です」とのこと。
◆「綿棒で鼻の粘膜を採取した」と口頭で伝えたが、検査した医師による記載がされていないために無効なのだと(アラスカではこの内容で通用した)。結局、当日の便には搭乗できず、翌日の便の待機者リストに載せてもらう(日本国政府の方針により大型機に50人程度しか乗せないそう。そのため搭乗できるかどうか直前までわからないとのこと)。空港内でPCR検査をして書式通りの陰性証明書を出してもらい(高額だった)、翌日無事に日本への便へ搭乗することができた。
◆日本への入国に際し、滞在先、期間、健康状態、日本での待機先など、同じような内容の書類を数枚書かされ、さらには携帯電話、あるいは空港備え付けのパソコンを使い「Web入力」なるものに、上記書類と同じような内容を入力させられる。ただしこれはオンライン入力などではなく、入力内容をQRコードに出力し、空港内に設置された端末に改めて読み込ませるもの。とてつもなく無駄なことをしている感があるがこれも「日本国政府の方針」らしい。
◆飛行機を降り、到着ゲート内に作られた迷路のような長い通路を延々と歩いた先に時々現れる即席で作られた受付。たくさんの職員の方々が待機している、いくつも並んだ簡易窓口の一つで書類を渡す。それを何度か繰り返し、最後に唾液採取式PCR検査。ここで陰性が証明されると、ようやく税関検査を受けて入国。ここまで飛行機を降りてから2時間弱。
◆入国後は公共交通機関での移動ができないため、友人に自動車での出迎えを頼んでおいた(空港内の張り紙によれば、レンタカーの利用も可能とのこと)。帰国後2週間は自宅待機をしなくてはならない。空港で携帯電話にダウンロードさせられたアプリを通じて、毎日のように所在地ならびに健康状態確認の連絡がくる。2週間も退屈だろうと思っていたが、意外とやることはあり、あっけなく自宅待機期間は終了した。アメリカへ行くのは意外と簡単だったが、帰るまで、帰ってきてからが非常に面倒臭い。いつまでこんな状態が続くのだろう。
★追記 私が滞在中、アラスカ全体ではコロナ陽性者は比較的少なく、ポイントホープでも町に入るためには陰性証明書が必要ということもあり、陽性者はいないこととなっていました。しかし9月頃からアラスカ全体で陽性者が増え始め、ポイントホープでも一時、人口の2割程度が陽性者となり、発症して大きな町の病院に送られる人が出てくるなど、非常に落ち着かない状況となりました(現在は多少落ち着いてきた模様)。[高沢進吾]
■森本孝さんが、師になり代わって一人称で物語る『宮本常一と民俗学』は、出版前から手に取るのを待ち望んでいた一冊だった。それがようやく届いたとき、「これが森本さんが、がんとの壮絶な闘いのさなかに、いのちを削って書き上げた本か……」と、しみじみとした思いが胸に広がってきた。
◆そして一読、これは名作であると思った。さらに名文であると思った。澄んだ川の流れが優しく体を洗ってくれるように、心地よい文章が心に豊かな潤いを残しながら脳裏を通り過ぎていく。過不足のまったくない簡潔な文体。省略の妙が逆に際立たせる行間の豊かさ……。宮本常一という人物を教えるためだけでなく、日本語の完成されたありようを示す典型として、どの一章でもいいから、小学校の高学年か中学校の国語の教科書に載せたい、いや載せるべき文章だと思った。
◆ジュニア版ではあるが、これは宮本常一や民俗学を知らない大人が、その実際を知るのには最良の本だ。『忘れられた日本人』や、その他の本で宮本常一を断片的に知る人が、その人物や生涯の概要を丸ごと、確実に理解できるようにも作られている。それも、ただ「外側」から大づかみできるというのではない。森本さんが、宮本常一になり代わって一人称で物語ることで、読者は宮本常一の柔らかな心に感情移入しながら、「内側」からその生涯を、そして民俗学という学問の具体的な営みを丹念になぞれるようになっているのだ。
◆それは、残された膨大な資料のなかから、森本さんが選びに選び、意を込めて文中に埋め込んだ印象的なエピソードの「ディテール」の効果だが、それにしても、この「巨人」をそこまで簡潔に、しかも過不足なく造形するのに、この人はいったいどれほどの心血を注いだのだろう。がんと闘い、入退院を繰り返し、重い体で床と机を行き来しながら――。
◆本の内容については、ここでは触れない。とにかく読んでもらいたい。その代わりに別の話をひとつ。宮本常一の生涯を描いて大宅壮一賞を受賞した佐野眞一の『旅する巨人』に、こんな一節がある。「立命館大学の探検部から観文研入りした森本孝は、宮本常一の魂はいまも本当に生きているかを探すため、50歳をすぎたいま、日本の海岸線をすべて歩きたいといった――」。
◆佐野眞一は、そんな森本さんの言葉に師の遺志が継承され続けていることを感じて、やがて長い物語を閉じるのだが、それから25年後のいま、読者は「感じる」どころではなく、森本さんの文章中には、いまも宮本常一が生き続けている姿があることを「目撃する」に違いない。
◆私には、森本さんの文章から、宮本先生のあの懐かしい柔和な笑顔が立ち現れて、周防弁の声がいま語られているように耳に届くのが感じられた。若い日に多くの時間を一緒に過ごし、飲み、語らった親しいはずの森本さんが、先生に重なって見えるという不思議な読書体験をした。そして、才ある弟子が多いなか、森本さんが師になり代わって「自叙伝」を書いたことの「必然性」を考えた。
◆若い日に日本観光文化研究所で出会った森本さんは、探検部の世界では3学年先輩。しかし、大学を出ても就職もせず、茫漠たる夢を追って私の先を歩いていた。世界バイク旅の賀曽利隆さんを加えて、道の定まらない3人は「観文研の3ばかタカシ」と呼ばれたが、やがて森本さんは師の後を追って民俗学の道へ、私は編集と偏狭な探検の道へ(賀曽利さんはバイク世界の英雄へ)。
◆だが、折にふれて道が交差するとき、私が感じるのは森本さんの変わらぬ文学的感性の豊かさと繊細さ、剛直な純情さ、漂泊への思いといったものだった。
◆思えばそれは、浪人的立場に身を置いて、文学志向を根底に民俗学への道を実直に歩き始めた宮本常一の姿と重なるところがある。残された資料から宮本常一の「思い」までを手繰り寄せ、その人生を再構成するには、やはりこの人しかいなかったのではないか。無駄のない、端正で分かりやすい文章が師に似ている点も含めて、森本さんを選んだ編集者、あるいは推薦した人の慧眼には感心するほかない。
◆その森本さんは、病身の自らを「夕日のgunman」と呼ぶ。この9月、宮崎県綾町でパン屋を営みながら環境保護活動をしていた観文研の古い仲間、小川渉(早大探検部OBでナイル川水源の発見者)が急死したときには、こんな哀切なコメントを寄せた。「なんと悲しい知らせだろう。小川渉さんが夕日のgunmanの私より先に逝くとは!(中略)観文研で見ていた穏やかな小川さんの笑顔がまぶたに浮かぶ。きっとまたお会いできるでしょう。それまで待っていてね」。
◆亡き友は懐かしいが、何も再会を急ぐことはない。森本さんには、何が何でもまだ生き延びて、あと一冊、いや二冊と書き続けてもらいたい。『宮本常一と民俗学』は名作だが、まだその一里塚に過ぎないのだし、私たちはもっと森本孝を読みたいのだから。[岡村隆]
■地平線会議世話人各位。地平線通信509号ありがとうございます。
◆コロナ禍のせいか、これまでになく跳躍する紙面。隅々までじっくり拝読しました。江本さんの目の患いのことも、落合大祐さんの突然の災難がこれほど深刻なものだったとも知らずにいて、ごめんなさい。落合さんはしばらく自重、ステイホームだろうと心配していたのに、もう自転車! 地平線会議の本懐がアウトドアにあることをまざまざと見せつけられました。
◆澤柿教伸さんの南極行が間もなく。ランタンプランも休眠中とはいえ、いつも実効性ある助言をいただいていた事務局メンバーが、かくも長期に辺境の地へ移動されるとは。南極行の前にランタンプラン関東支部(樋口和生さん、澤柿さんの3人)で森の家にて会合しようという約束も果たせぬままです。
◆文面によれば頻繁に彼の地より情報発信されるようなので、そちらに期待しています。観測隊が取り扱うものは、雪氷、水文、気象や生物など自然科学の領域のみだと思っていたけど、普通に登山隊などが行う財政的な支援へのPRや各種電子ツールを使った広報活動なども重要な部分だったのですね。隊員たちの活動を支える極地の「衣・食・住」も格段に進化しているのではないかと思います。これも南極観測の文化の側面、そういうことももれなく記録しておいてください。ミッションの成功を祈っています。
◆さて、あっという間に秋が来て、森の暮らしも1年が過ぎました。紅葉はもう少し先ですが、鳥たちの動きが活発になりました。当地へ来て初めて出会った鳥類はオオルリ、ジュウイチ、ミソサザイ、ヤマドリ、キバシリなど。オオルリとジュウイチはいつの間にか南へ飛び立ち、代わってキビタキがやってくるはずです。
◆その他、クマにはまだ出会っていませんが、常住のサルやシカたちは頻繁にうろうろするようになりました。シカは夜ともなれば、信じられないような高音を発します。恋のシーズンがやってきているのです。ちなみにオスは「ピーー」と空気を引き裂くような鳴き声。メスは私の耳には「キャッ、キャッ」と短く。パートナーに「お猿が来ているよ」と知らせると、「お猿は人間と同じ。夜は目が見えません。今、寝ています」
◆最後に万葉集(第八巻秋の雑歌)からの歌を一首。
秋萩の散りの乱(まが)ひに呼びたてて鳴くなる鹿(しか)の声の遥けさ
◆昔も今も変わらない野生の営みですね。作者は奈良時代の人・湯原王(ゆのはらのおおきみ)。[貞兼綾子]
■突然ですが、8年半の屋久島生活を終え、10月初めに実家のある埼玉に帰ってきました。島の小学校で3年生の担任をしていた6月、余命数か月と思われるような母の病気が判明。父は13年前に他界しており、実家には妹と95歳の祖母と叔父がいますが、通院や介護、家のことを考えると、もう自分が帰る選択肢しかありません。年度の途中でしたが、母に残された時間を一緒に過ごすためにも、夏休みいっぱいで退職して島を出ると決めました。
◆ところが急展開、色々と検査をした結果、7月末になって母の病名が変わりました。入院しての辛い治療を覚悟していましたが、自宅での服薬治療で大丈夫ということになり、しかも薬の効きが良く、食欲も体力もみるみるうちに取り戻し、10月にはパートの仕事に復帰できるほど体調が回復しました。完治することはないのですが、また以前のように一緒に美味しくご飯を食べ、出かけることができる何気ない日々を、本当にありがたく感じながら過ごしています。
◆その一方で、母の介護が必要ないとなると、自分は何のために全てを手放して帰ってきたのか?と思う気持ちも出てきてしまいます。たった4か月間での別れとなったかわいい教え子たちの顔も目に浮かびます。屋久島での生活は、言葉で言い表せないほど素晴らしいものでした。もちろん大変なことも数多くありましたが、島の自然や出会えた人々と過ごした時間、その尊さはこれからひしひしとわかってくるような気がします。
◆本音を言うと島暮らしに未練は大ありだけれど、きっと今このタイミングで、天が私に「家族と向き合う」チャンスをくれたのでしょう。数年ぶりに家族と住むことになったと友人知人に話すと、どこの家庭も様々な問題?があるようで、うちの家族の場合、お互い気をつかいすぎて、一緒にいるとしんどくなる傾向があるような気がします。
◆思えば私は、父が亡くなった直後に会社員を辞めてから、北アルプスでの山小屋仕事、宮城での東日本大震災ボランティア、そして屋久島と、この13年間自分のやりたいように生きてきました。それは好奇心を満たしたり、誰かの助けになりたいという思いを形にすることだったりしましたが、突然父を失った自分の心を癒す時間でもあったのだと思います。
◆同じように心に傷を負っている家族のことを心配しながらも、一緒にいるとその姿を見るのが辛くて耐えられず、距離をとって逃げていたのだと、本当はずっと前から気づいていました。避け続けていた家族との時間は、私がいちばん望んでいたものなのかもしれません。家族といえど人それぞれなので、無理をしてまで向き合うことはないとは思います。でも、後悔のないように、しばらくは家庭をフィールドにして、自分にできることをやってみようと思います。こんなチャンスをもらえるなんて、本当に幸せ者だなあ〜。[新垣亜美]
■あれは確か2013年8月中旬のこと。暑い、暑い夏。瀬戸内海は太陽をいっぱいに浮かべてまばゆく光り、大小の島々がプカプカと波間に浮いていた。
◆手島は香川県丸亀市、塩飽(しわく)諸島の小さな一島だ。一日3便しかない船で丸亀港から約1時間半のその島が、旅の目的地だった。戦後まもなくは1000人近かった島の人口も当時わずか29名、住民のほとんどが60代、70代だ。
◆戦国時代は塩飽水軍の拠点として、近世に入ってからは多くの船大工を輩出したことで知られるこの島は、過疎化・高齢化が急速に進んでいた。
◆当時、それまで熱中していた登山から次第に離れ、人間と風土の繋がりに視点を向けつつあった私は、それぞれの土地で、人間がどのように生きているのかを、自分の体で知るために旅をした。そうして手島にたどり着いた私は、毎年のようにこの島を訪ねていた。
◆普段は瀬戸内の海のように静かな手島の暮らしが、年に一度、“島が沈むほど”人がやってくる時期がある。先祖を弔うお盆の頃だ。
◆島には「金之丞踊り」という盆踊りが伝えられている。関ヶ原の戦いに敗れて島に逃げ延び、傷が癒えずに亡くなった「金之丞」という武士を弔う踊りだ。
◆夕刻、島の広場の櫓(やぐら)に灯された提灯が、赤や黄色の光を放つと、どこからともなく人々が集まってくる。最初こそ離れて見ていた人々も、男たちがドンドコドンドコ太鼓を叩けば、触発されるように一人、また一人と踊りはじめる。それはまるでひとつの生き物のように伸びたり縮んだりしながら櫓を周る。
◆櫓の上には提灯が掲げられ、そこには名が記されている。亡くなってから3回目のお盆を迎えた島民の名だという。盆踊りは島民の魂を共に感じ、ここで共に時間を過ごす場でもあるのだ。
◆翌日、島の西にある浜へ向かった。古くから「マイソ(埋葬)の浜」と呼ばれる土地だ。塩飽の島々では、死後、人の魂は海へ還るとされ、死者の魂を灯籠流しによって海に送ってきた。死者は、お盆を3回迎えるまでは魂となって島にとどまり、3回目の盆に、海へと旅立つのだという。
◆足元には、木製の小舟が何艘か置かれ、出航を待っている。魂が無事に極楽へたどり着くよう、どの舟にも「極楽丸」と筆で記されていた。故人の名が書かれた提灯も舟に積まれ、あとは僧侶による読経を待つのみだ。まもなく年配の僧侶が到着し、島民に一礼をすると、海を背にお経を読み始めた。
◆「ちょっと待って」初老の島民が、突然それを制止した。「島に向かってではなく、海に向かって読んでよ。魂は海に向かっていくんだから」。僧侶は海を向いて合掌すると、再び始めからお経を読んだ。蝉の鳴き声が、後ろの山から響く。風のない暑い午後、そこに立つ誰もが、海の彼方を思っていた。
◆「極楽丸」が海に流されるのを今か今かと待っていた私は拍子抜けしてしまった。かつては乗せられるだけの食料を舟に乗せて海に流したが、現在では、他の島に舟が流れ着いて迷惑をかけるからと、舟は浜で燃やし、それをもって灯籠流しとするという。
◆僧侶の読経の間に舟は燃え上がり、みな黙ってそれを眺めた。瀬戸内海の青い海は悠然とそこに横たわり、島々が遠くにかすんでいた。やがて舟のあとに、ただ一握りの黒い灰が残った。
◆隣に立っていた島の男性が、20年前の灯籠流しの日について話してくれた。「あの頃はまだ海に舟を流していた。その日、舟がなかなか沖に流れていかなくてね。それで亡くなった人の息子が自分で海に入って、その舟をずっとひいていったんよ。首まで水に浸かった深いところまで、舟をひいて父親の魂を送っていった姿を今も覚えている。その彼が亡くなって、今ここで弔われているんよ」
◆数時間後、潮が満ち、浜は海に飲み込まれた。灰となった「極楽丸」はようやく海とひとつになり、人々の魂は海へと還ってゆく。
◆人は死してなお、還りたい場所に還っていく存在なのだ。手島で見たお盆の光景から、人が風土と結ぶ、目に見えない関係性に興味を抱くようになった。目に見えないものこそを、写真によって記録し、表現できないだろうか。やがて、新しい旅が始まった。
■しばしご無沙汰です。毎月の通信素晴らしいです。とくに先月号の「山に生きる人間になりたい」という小口寿子さんの一文はよかった。いたく感動した、通信の愛読者でもある妻は、こういう人に燕山荘で働いてほしいなぁとつぶやいていました。
◆その燕岳に関わる話です。
◆「カモシカ新道は生きている!」これがこの時の我々の合言葉となった。カモシカ新道とは北アルプス南部燕岳に至るルートだが、ポピュラーな合戦尾根の反対側の高瀬川から上がるルートで、今は“無い”ことになっている。私は12才の時に秩父の三峰登山を計画、登頂したことから登山を始め、13才の時に1人で登った秩父御岳山の頂上で登山を一生やっていこうと決心したが、そのころから何故か人の行かない山やルートに惹かれてきた。そして15歳の時に買った三宅修氏の槍・穂高のガイドブックを読んでいて出会ったのが燕岳のカモシカ新道だった。
◆その本の地図には高瀬川から燕山荘まで無造作に破線が引かれ、そこに“カモシカ新道 廃道”と書かれていた。印刷なので無造作などという表現は当たらないのだが、私には他の夏道の破線と比べると何だか投げやりに見え、文章による説明は一切なかったことが余計に私の気を引いたのだと思う。当時はまだ申し訳ないことに、その後深い縁になろうとも知らず燕岳には興味はなかったが、この“廃道”には惹かれた。
◆しかしその後めぐりあわせとタイミングが合わず、いつでも行けると思うと逆に行かなくなるもので延々と先延ばしになり、15才で行こうと思ったここに行ったのは何と46年後、ことしの7月末になってしまった。山は逃げないとはよく聞くが、やっぱり逃げる。いや、山は待っていてはくれるが自分が離れるのかもしれない。そして今夏、とうとう長年の宿題を一つやっと果たした。そして最初の合言葉になるのである。
◆メンバーは明大山岳部の後輩を含む4人。取り付きこそ平凡な藪漕ぎだったが、小尾根に上がると明らかな踏み後があったので仕事道と交錯しているのかなと思っていたのだが、それが何処までも続くのである。しかも明らかに尾根上の踏み後で、ところどころの木は明らかに道具で切られているし、テープの残骸まで随所にある。
◆正直いうと少しがっかりしたが、元々のカモシカ新道は沢から上がっていたようだしこれは違うのかなと思いつつ、そして実は少しは楽ができてラッキー感を感じながらどんどん上った。しかしさすが廃道、途中先が見えずにロープを使ったところもあり懸垂も2回ほど行った。
◆しかし楽勝ムードが漂った後半、2400mを越えた辺りからこのルートも本性を発揮、上部は猛烈な這松の藪漕ぎとなった。枝の伸び具合を見ながら、枝の力を逃がすように漕ぐのがコツなのだが、中々楽しめた。
◆しかし夕方になり強い雨に降られ、流石に陽が暮れてきたので這松と露岩の間で膝を抱えたビバークとなった。濡れていたのでさすがに寒かったが翌日は素晴らしい好天に恵まれ、北の剱岳と南の槍ヶ岳が微笑んでくれた。
◆今回は当初、実は剱岳に行く計画を変更してこちらにきたので、剱岳はさぞかし怒っているだろうと恐縮しながら、コマクサの群落を踏まないように細心の注意を払って主稜線に出た。ビバーク地からは1時間ほどだったので、最初からその気で登れば一日で抜けたかもしれない。しかし這松中のビバークがあってこのルートもより輝くのかなとも思った。
◆10代の時に決意したささやかな計画は、コマクサの群落と素晴らしい眺望に恵まれてフィナレーレとなった。それから燕山荘に寄って赤沼健至社長にルートのことを報告してから下山した。
◆ささやかな山行だったが、とても贅沢な時間を過ごしたような満足感でいっぱいだった。これも燕岳に縁があってのことかもしれない。「山に生きたい」という若い人の一文に感動した妻が、こういう人に燕山荘で働いてほしいなぁとつぶやいた所以です。
◆蛇足かもしれないが、今回のように道がないと思っていたのに一部あった例では昨年行った有明山もそうで、これはちょっときちんと調べる価値があるかもしれない。[山本宗彦 中学校教師 日本山岳会副会長]
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(最終ページにアドレスあり)。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。
大嶋亮太/近藤淳朗/澤柿教伸(20000円 リアル報告会がなく会場に行けずにたまっていた分とこれから留守にして参加できない期間の通信費をまとめてお送りしました。越冬している間に復活してほしいとの願いもこめて。それでは行ってきます)/藤原謙二(5000円 2年分、残りは些少ですが感謝の印)/山本宗彦(10000円)/嶋洋太郎
■今年のある大学入試の小論文課題で、この世で不条理だと感じていることを15挙げてくださいというのがありました。いくら何でも入試テストの時間内に15も思いつけるわけがないし、そもそも不条理だと普段感じていることがそんなにあるわけがない、と瞬間思いました。趣旨は論理的にあり得ない問題を発見して、合理的な答えを導き出すことが大事で、生きていけば必ず不条理なことに向かい合う日がやってくるからというものだそうです。
◆模範解答には、世界に飢えている人々がいるのに大量の食品が毎日すてられているとか、東日本大震災を経ても原子力発電所の運用が続き、再稼働が進んでいるとか挙げられています。これを見て、私はたちどころに20を越す不条理を思いつくことができ、83歳の肉体に血が漲る思いをしました。
◆私が不条理だと思いつつ、生来ずぼらなので是正の動きをしない現象二つに触れたいと思います。
◆日本は自由と民主主義という価値観をもつ法治国家だといわれますが、民主主義の祖国アメリカにあてはめて見ると、最近ひどい例をいくつも報道されました。その点、映像も新聞も頑張ってくれていてありがたいと思います。
◆誰のための自由か、誰のための民主主義か、そうして法律は被害者を護ってくれているのかというと、多くの疑問が寄せられています。日本しかりです。主として途上国勤務が多かったので、日本は民主主義と思っていても、ローマ的で、仲間内だけはどうやら悪平等民主主義で、他国人(ローマで他国人の捕虜は奴隷)とみれば蔑視、差別、見下しがすごくあるように思いました。北東アジアを対象に活動していると、最大の障害はこのアジア人蔑視で、これで悩まされました。もちろん欧米人にもあります。米国でも英国でも、もっとひどい仕打ちを経験しています。根っこにあるこの差別感が生んだ最近の事例をあげます。
◆私がマレーシアのペナンで領事事務も担当していたときのことです。ペナンのマレー人高等学校の女性の先生が、日本の正月に滋賀県に住む友人に招かれ訪日しました。彼女は学校がはじまっても帰国せず家族が探して欲しいと言ってきました。探していましたら、名古屋の出入国在留管理局、いわゆる入管に日本で男性を対象とする歓楽街の仕事をしたのではないかとの疑いで拘留されていました。ひどい目にあわされていたと帰国後聞きました。その女性の友人がたまたま日本の女性弁護士だったので、釈放帰国のため奔走中でした。先生が帰国後、私は先生に対して、査証官として日本の落ち度を深く謝罪しました。先頃そのようなことがまたもや名古屋入管でおこり、スリランカの女性が拘留施設内で命を落としました。まだこんなことをと憤りました。
◆世界には人権でひどいところがたくさんあります。日本はそのような国の人権問題を解決するために、知的支援、技術支援を行っていますが、このような入管問題が発生すると、日本人が上から目線で指導したり、追求したりする立場にないということを思い知りました。人権喪失国と本質が同じなのではないかと思うと、とてもたまらない不条理です。
◆そしてもう一つの不条理について書かせてください。
◆コロナの前、三浦半島の北部、付け根付近に住む私は妻のミチコの運転で(私は免許なし)、半島を横須賀方面に南下して、あるファミレスに昼食をとりにいきました。食後駐車場のメーターにコインを入れ金属の発車防止板を解除しようとしたら、解除できません。店員さんいわく、「ここは横須賀に近いので、こうゆうことがちょいちょいあります。原潜が入ったのでしょう」といいました。原子力潜水艦が入るとこうなるというのを、当たり前のように地元が受け入れているのにもまたびっくりしました。付近の小柴や池子に米軍武器庫がかつてありました。核兵器が保管されていそうな物騒なところですが、なりゆきでここに住むようになりました。
◆私が6歳まで育った世田谷の北沢は裏が満洲皇帝の東京別邸で桂(ケイ)さんという満洲貴族のご夫妻が住まわれていました。桂さんの裏がミツカン酢の社長さんの広大な屋敷でした。そのほかご近所に山下大将、加納大将のお屋敷もあるという環境でした。そこのどれかに落ちるべき爆弾がそれて小さなわが家に命中し、家の一部がぶっ飛んだり、残りは戦火でやられたりしました。爆撃の翌朝、近所の私の友人でお不動さんの息子が家の前の泥水に頭を突っ込んで死んでいるのを父が抱き起こしたといいました。戦火が続いて私は疎開先で生き延び、やがて恐ろしい新型爆弾で敗戦となりました。その謎の新型爆弾が広島長崎の原爆でした。
◆中学三年のとき憧れの社会科の先生のご指導のもと、社会科学研究会の部長をしていました。文化祭の出しものに苦慮しているとき、幼稚園時代の友人の兄が出し物商売をしているということを聞きつけました。友人の紹介で20枚ぐらいのパネルを貸していただけることになり、広島原爆展を開催しました(中学での広島原爆展を日本で初めてやった中学生です)。
◆その後、私はなぜか原爆、核問題とは縁がありました。
◆太平洋上で日本の漁船第五福竜丸が米国の水爆実験で被爆して、久保山愛吉さんが他界されました。高二の夏休みに父が印刷済みの未刊の本を持ち帰りました。ジャーナリストがビキニ環礁に現地調査に向かった俊鶻丸の報告『われら水爆の海へ』でした。読んで感想を書けというので書きました。その一文が同書の帯になっていました。
◆外務省で、モンゴルからの賓客を先方のご希望であきるほど広島にご案内しました。そして、モンゴルでは珍しい広島の市街電車に乗っていただき、市内の海に行って、近くで瓶詰めの牛乳を買って、みんなで飲んで、空き瓶に海の水を採取して、モンゴルへのみやげにしたものです。モンゴルには海がないので、その塩辛さを含め驚きのようです。原爆資料館と海水は私には離れがたい思い出です。北米局で働いたときに、米国は原爆展を受け入れないと聞きました。過去の戦争で犯したことに正面から向き合わないのは日本だけではないと知りました。
◆それで疎開した福島のいわき。F1のメルトダウンの4か月前に、顔がきくという疎開先の小学校時代の友人がアレンジして、同窓会で参観するはずでした。結局ほかの用事で行けなかったのですが、今、元気なF1を見ておけばよかったと悔いています。やはり私にとって核問題は縁続きのように思われます。どうして日本人ばかり核の被爆を被るのだろうと不条理を感じています。
◆原水爆禁止運動というのがあり、毎年広島や長崎で組織別だったり、統一したり大会が開かれてきました。大学生のとき、モンゴルからも代表団がきて、下駄をカラコロ言わせてホテルに面会に押しかけました。ホテル側に下駄での入室を断られ、それを知った一行の通訳ガルサンジャブさんが裏からでてきて「なにがいいの? ジュース?」といって振る舞ってくれました。後に外国貿易省の事務官となった同氏とウランバートルで懇意におつき合いさせていただきました。
◆原水爆を全面禁止といっても核保有国、特に中国が鋭意核増強に向かっているとき、むなしさを覚えます。友人が運動をしているので毎回賛同して署名をしますが、存在する不条理に原水禁が実現するとは思っていません。唯一の被爆国日本が核禁条約に参加しないことを世界は非難しています。日本を今もって敵国としている敵国条項がある国連で、常任理事国5か国が核をほぼ独占し、核軍縮といいながら、あまり進まない状況がそもそもあります。
◆日本政府が米国の一部の知日派アーミテージ氏とかナイ氏の言うことを聞いて飼い犬のごとく同条約に参加しないのも納得できず不条理です。彼らは米国の一部の見方を代表しているに過ぎません。彼らに会えたと得意がっている人を見たことがあります。米国の大多数は、核の傘と核禁条約は別と思うでしょう。そしてそうする日本の方が一目おかれ、飼い犬扱いから脱却できるのではと思います。
◆核を持つ、持たないの間で現実的な動きがありました。2013年6月19日にオバマ大統領がベルリンのブランデンブルク門前で、戦略核の削減を提唱し、核なき世界を目指すとの方向性を示しました。残念ながら前任者の成果に嫉妬する小さい人間の後任はどこにもいて、トランプ氏が破壊しようとしました。
◆岡田克也外務大臣のとき、同大臣のご苦労の末、日本のイニシアティブで、非核主要国の集まりが結成されました。NPDIです。軍縮不拡散イニシアティブというものでオーストラリアと共同で核兵器のない世界を目指す途上で、「核リスクのない世界」をまず目指すことにしました。これはとても現実的な動きだと思います。残念ながら世の中に喧伝されてはいません。核リスクのない世界の実現性でいうなら、これを進めるべきと思います。日本とオーストラリアが主導して、当初(2010年)幹事国に10ヶ国(日本、オーストラリア、ドイツ、カナダ、メキシコ、チリ、オランダ、ポーランド、トルコ、UAE)が参加しました。その後フィリピンとナイジェリアが参加して12か国です。
◆南半球は非核地帯になりましたが、北半球で非核地帯は少なく、ユーラシア大陸東部ではタイなど東南アジアを除けばモンゴルだけです。モンゴルは大変な苦労と外交力を発揮して非核を達成しました。影響力がないとして声をかけなかったのかも知れませんが、この付近でモンゴルが唯一理想を達成しています。その価値を評価してNPDI幹事国に加えてほしいと思います。非核国が強く結束して核大国や核テロ潜在国に対する働きかけを強めていくのが現実的な筋と私は思います。日本が唯一の被爆国の地位を活用できる場ではないでしょうか。広島出身の岸田総理誕生で、日本が能動的にNPDIを活用する日がくることを願います。
◆核不条理に対する合理的な私の答えはこれではないかと考えました。[花田麿公 2021.10.10]
■地平線通信509号(2021年9月号)は、さる9月29日に印刷、その日のうちに新宿局にもちこみ、発送をお願いしました。9月号といいながらほぼ10月に皆さんの手元に届く結果となったのは、9月中旬の2週間、印刷、発送作業に使わせてもらっている新宿区の施設「榎町地域センター」がワクチン接種会場となり、使用できなかったこと、そして、何よりも月初めに江本が白内障の両目の手術を決行し、視力の快復を待っていたためでした。
◆今月も、印刷、封入という地味な仕事に以下の9人が馳せ参じてくれました。作業を終えてもビールも餃子もないです。ただ、誰かがこの仕事をやらなければ通信は出せない。つくづくこれらの人こそ英雄なのかも、と思います。ありがとう、皆さん!
森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 長岡竜介 白根全 光菅修 伊藤里香 武田力 江本嘉伸
■江本さんこんばんは。眼はいかがですか?
◆9月号の地平線通信、思わずメールしちゃいました。だって、すごすぎます、この豪華な執筆者の面々。大御所から若手まで、地平線の層の厚さを感じました。そして話題もすごい!
◆長岡祥太郎くん、いいですねえ! 島暮らし楽しんでますねえ。考え方も文章力もすばらしいですねえ。南極越冬隊の隊長が地平線の仲間。すごいですねえ! コロナ禍のご苦労、大変なことと思います。
◆小松由佳さんの面打ち師との話、いやー、これからの連載も楽しみ! 久島弘さんの文ではうんうんとうなずきながら大共感! 久島節炸裂! 荻田泰永さんの本屋さん、行ってみたい!
◆緒方さん、がんばれ! 大西浩さんの高校山岳部を憂う話も、ほんとそうですよね。そして河田真智子さんの文に、しみじみ、です。
◆でも一番はやはりなんと言ってもカソリ復活ですね! うれしくてしかたないです。報告会が開けなくともこの内容! やっぱり地平線会議はすごい。
◆でも、一番すごいのは、江本さん、あなたです。目の手術とかで大変だったでしょうに。ほんとに毎回ありがとうございます。
◆こちら浜比嘉島はコロナで行事もなく、ひっそりと、ただただ時間だけが流れていくようです。島人が集える機会がもう二年もないというのは、ほんとに寂しくてつらいです。[浜比嘉島 外間晴美]
ハイ! アメリカ アメリカ合衆国
元気かい? ありがとう
僕は元気だ
僕らは友達だ We are friends.
それは自明なことだ It is self-evident.
でもね
心の底ではこう思ってる
文化人類学が発達したおかげで
君の酔っぱらったガキ大将みたいな文化も
ミリタリー メディア マネーの3Mを基調とした
二十世紀のひとつの典型的な文化として
将来博物館のガラスケースに
説明付きで収まるだろうけど
そしてそのそばには
その属国であるニッポンの文化が
まるでIC基盤みたいに狭いところに
あれもこれもごちゃごちゃ詰まっているので
拡大鏡付きで展示されるだろうと……
イスラムの自爆テロのニュースがあっても
今じゃ見て見ぬふりをしている僕らだけれど
僕らのおじいさんたちも
昔似たようなことをやっていた
特攻(バンザイアタック)だ
君たちのおじいさんたちは
それを「FOOL」と呼んで恐れていたという
その事実を知ったとき
悔しくて涙があふれてきたんだ
いくらなんでもバカはないだろう……
特攻は間違ってる 多分……
でも それをバカと呼ぶのだけはやめてくれないか
いくら過ぎ去ったことでも
それは悲しすぎる
これをお願いするのは
僕らが友達だから
ハイ! アメリカ アメリカ合衆国
病気かい?
お大事に お気をつけて
良くなったら今度イスラムの友人を紹介するよ
とっつきにくいと思うけど
決して「FOOL」なんかじゃないよ
僕らは友達だ We are friends.
それは自明なことだ It is self-evident.
■えもとさん、遅くなりましたがお誕生日おめでとうございます。お元気ですか? 新居の住心地はいかがでしょうか?
◆わたしの近況ですが、7月末から友人と一緒に大分の耶馬渓というところに住み始めました。なんだかんだで九州には縁があるみたいです。
◆耶馬渓は紅葉や青の洞門をはじめとする景勝地が有名ですが、下郷農協という30年以上前から有機農業宣言してる農協や、パンクな移住者や地元のおじいちゃんたちがいて、とても魅力的なところです。
◆庭を耕したり、納屋に眠っていた廃材で家具を作ったり、竹細工したり、かぼすの収穫や草刈りのバイトをしたり、地元のおじいちゃん(82才!)に誘われてバドミントンクラブに入って汗を流したり、毎日がとても充実しています。
◆インバウンドはまだまだ戻らなさそうなので、最近は某旅行会社の添乗員としても働き始めました。本来は海外の秘境トレッキングなどが有名な会社ですが、コロナ禍は専ら国内ツアーに徹しています。
◆おとといからは日本で最初のロングトレイルである「信越トレイル」80kmを歩いています。10月末は沖永良部でケイビング&サイクリングツアー、来月は国東半島のロングトレイルトレッキング、といった感じです。あとは耶馬渓でも来月個人的に女性限定のサイクリングキャンプを企画したりしています。
◆こんなご時世でも相変わらず動き回っていますが、今までのような根無し草ではなく、拠点があるというのはとてもありがたく、暮らしと仕事、静と動のバランスが適度でいい感じです。
◆これから紅葉の美しい季節。日本三大紅葉のひとつとしても知られる耶馬渓の紅葉もぜひ観に来ていただきたいです。[青木麻耶]
■今年3回目のアビジャンから帰る途中のアムステルダムです。夏の地平線通信に私の書いた報告がよかった、と書いてくれた人がいて嬉しかった。アビジャンの女性たちはすり身のハンバーグを屋台で売り始めています。自立する女性たちの活躍が頼もしいです。[佐藤安紀子]
■江本さん、お久しぶりです。ロシア語の授業で江本さんが手術でしばらく来られないことを知り、驚きました。手術お疲れ様です。現在はお元気そうで、安心いたしました。
◆さて、入社してから早半年になりますが、実は8月1日に異動しました。私の勤める会社は個別指導塾です。必ず1対1で生徒を指導するため生徒1人1人と会話する機会が多く、どの生徒に対してもとても思い入れがあります。前の校舎でも13人ほどの生徒がいましたが、異動のことは全員に内緒にしなくてはならず、お別れを告げることもできずに去ることになりました。5月から現場配属されてたったの3か月でしたが、これほどまでに寂しいものとは。
◆心機一転、異動先はなんと新校舎でした。首都圏におよそ90校舎ある塾ですが、入社数か月、それも新卒の社員を初期のスタッフに起用することは異例だそうであまりの大役に緊張などしない私が、動悸がするほどでした。
◆着任当初、生徒は多く入塾してくれたものの、まだ教室自体は安定したものではなく、講師の方々も不安そうな顔をしていました。
◆まずは「教室自体を明るくする」という挑戦をしました。生徒や保護者の方だけでなく、働いてくださる講師の方々が気持ちよく過ごせるように、明るく挨拶をし、笑顔で声をかけることから心がけました。意外と当たり前のように感じることですが、当たり前というものは非常に難しいものでした。
◆異動前は二つの校舎を行き来していたのですが、明るく挨拶をする校舎では生徒とのコミュニケーションを上手に図れており、講師とも意思疎通ができていました。しかし、明るくない挨拶をしていた校舎では生徒とのコミュニケーションも少なく、講師との連携も難しく生徒・講師共に塾から去っていく人数が非常に多かったのです。
◆着任してからしばらくは私の受け持つ授業が少なかったので、できる限り塾を訪れる全員に声をかけ、70人以上いる生徒と数十人いる講師全員の顔と名前を覚えました。毎日受付に立ち挨拶をし、声掛けをし、自分から話しかける。繰り返すうちに、だんだん生徒も講師も私の顔を覚えてくださり、向こうから声をかけてくれるようになりました。
◆気が付くと生徒は百人を超え、教室の体制も安定してきました。ありがたいことに自分の授業も増え、現在小学1年生から浪人生まで延べ20人の生徒を毎週教えています。ほとんどの生徒に国語を教えているのですが、生徒が問題を解けたときや、成績が上がったときの笑顔を見ることが一番の喜びです。
◆勿論、楽しいだけではありません。小学1年生を最近担当することになったのですが、小学1年生と話すこと自体数年ぶりのことで、自分がそのくらいの頃どうしていたかも覚えておらず、授業のたびに大慌てです。一度授業中に寝られてしまい、しばらく落ち込みました。生徒との関係だけでなく、保護者の方にクレームをいれられてしまうこともあり、まだまだ自分の未熟さを痛感させられています。
◆急増した生徒に対応するため、他校舎と掛け持ちで来てくださる先生がいるのですが、最近、数名の方が「この校舎は明るくて、一番働きやすい」とおっしゃってくださいました。保護者の方からも、授業の指名をいただけることが増えてきました。慣れてくると何か基本を忘れてしまうときがありますが、「明るく、笑顔で」をこれからも続けていき、私らしく仕事を楽しもうと思っています。[松本明華]
■フロントでも触れたように、新型コロナウイルスの感染がようやく収まり、東京だけでなく人々の行動が通常に戻りつあるようです。旅の日々を取り戻す人もゆっくりと増えるでしょう。地平線通信と並ぶ地平線会議の大事なかたちである地平線報告会は2020年3月に森田靖郎さんの「渡りケーナ吹きの文明論」を録画方式でやった後は中止、10月には江本が「地平線の根っこ」と題してはがきで参加申し込みした人に限って報告会をやりましたが、その後は開催していません。
◆パンデミックがこのまま完全に終息するとは到底思えず、とりあえず年内はお休みのままにいたします。予想される「第六波」が果たしてどの程度のものなのかわかりませんが、地平線報告会は二次会を含めまさに“密集”の場なので、慎重にならざるを得ません。また、年が明けて報告会が開ける状態になってもどういうかたちでできるか考察が必要でしょう。
◆ただし、この間、地平線通信は発行し続けるつもりなのでいましばらく「記録する地平線」を見守り、支援してくださるようお願いいたします。[E]
■秋です。恵みの秋、食欲の秋。栗、クルミ、アケビ、柿などなど、南三陸では今年は「生りもの」が豊作です。狩猟採取も取り入れて自給自足に近い暮らしを目指しているわたしは、嬉しい秋です。山から分けてもらった実りは、そのままいただいたり、干したり焼いたり、パンやケーキに入れてみたり、季節に追いかけられる忙しさもありますが、ほんとうに豊かです。自分ひとりでは食べきれない分は友人知人と分け合ったり、物々交換で違うものに化けたりします。そうそう、調理はもちろんすべてロケットストーブです。
◆今年は本格的にさつま芋を育てています。ひとりでは大変だから数人で、できる時にできることをという方針で、あまり儲けも欲張らない畑です。こちらも今年はいい芋ができました。収穫した芋はみんなで分け合いますが、わたしは少し小さめの芋をもらいます。というのが、そのくらいがロケットストーブ で焼き芋するのにちょうどいいサイズだからです。
◆江本さんがおいしいと言ってくれた焼き芋を、あいかわらず焼いています。あのころの朝市はなくなってしまいましたが、震災後の「とりあえずできることからやってみよう」という時期からいろいろなものが生まれては消え、震災前にあったものが復活したり、新しいことが生まれたり、コロナで縮小したり、どんどん時は流れています。先月から、ウィメンズアイさんが立ち上げた「たがい市」にも出店しています。地域の人のための、売上よりも交流が楽しみな、そんな「ちいさな市」です。
◆お客さんと一緒にベンチに座って、震災前や高台に移ってからの暮らしについてお話を聞いたり、ロケットストーブ で火遊び(?)したり、一期一会を大切にしようと思っています。芋ですか? おかげさまで毎回完売です。ありがとうございます。なんとか完売しましたが、今月は暑いくらいの気温で苦戦しました。畑にはまだゴーヤやトマトが実り続けていますし、なんだかおかしな秋だねと言い合っています。
◆田畑や森林や海など自然との関わりの多い土地柄、気象や気候への関心は高いと感じます。まして今は「おかえりモネ」で登米、気仙沼を舞台に気象予報士が活躍し、IPCC第6次報告書が公表され、ノーベル賞で真鍋淑郎さんが物理学賞を受賞と、話題は豊富です。といっても、一度も見てないです「モネ」。見なくても色々な人が気象予報士ということで声かけて教えてくれたり、気象や気候の講演の機会もいただいたりしますので、あらすじは把握できているつもりです。
◆今に限らず気象は暮らしと切ってもきれないものですが、気候変動の影響で「極端な気象現象」が増え、災害の危険が増え、気象情報の重要性も高まっています。3年前の西日本豪雨では、気象庁が異例の早期会見を行っていたことにとても驚いたのですが、それだけのことが起きてしまいました。わたしが勤めていた頃とは気象庁も変わりました。民間の気象会社の役割も重要となっていますし、わたしも在野のいち気象予報士として何ができるか考えさせられます。ここのところ気象や気候についてのわかりやすく面白い本もいっぱい出ています。気象の面白さ、空を見上げる楽しさを共有できたらいいなと思います。それは身を守ることにもつながりますし。
◆地平線報告会でお話ししたかどうか忘れましたが、阪神大震災の時、弟が神戸にいたにも関わらず「何もできなかった」という思いが、モネほどではないにしろあったりしました。いろいろな人が色々な思いを抱えて生きているということを、ドラマや「たがい市」のおしゃべりなどを通じて、あらためて思う今日この頃。
◆と、ここまで書いて、はじめて少しだけですが「モネ」を観ました。朝岡気象予報士の「祈るしかできないという経験をなんどもしてきた」で、あの日潮位データを何度も見ていた自分を思い出しました(潮位はどんどん上昇しながら最高点を記録する前に限界に達し途切れました)。当事者とそうでない者との溝に苦悩するモネたち。
◆南三陸にもいろいろな立場の当事者とそうでない者たちがいます。津波に遭った人、遭わなかった人。大切な人をなくした人、そうでない人。家を流された人、家が残った人。今では意識することが少なくなりましたが、忘れてはならないそのことを忘れていたことに気づいて、ハッと怖くなって落ち込むこともあります。
◆町は、多くの立場で当事者でないわたしのような移住者をも受け入れてくれています。移住に迷いはありませんでしたが、町の人たちの人生により関わっていくことへの恐れや覚悟はありました。「モネ」はまもなく最終回を迎えますが、きっと単純なハッピーエンドではないでしょう。脚本の安達奈緒子さんは「よい未来を作っていく、そういう人間の集合体としての力強さを信じたい」とおっしゃっています。被災地に限らず、ひとりひとりの中でなにかが変わるきっかけとなるに十分な物語だと思いました。
◆最終回の翌日、登米で「モネの空を見上げてみよう」という講演をさせてもらいます。軽はずみに受けてしまったのではと緊張してきました。[石井洋子 南三陸町]
★気象予報士。第49次南極越冬隊に気象観測員として参加。帰国後、福島気象台駐在中に東日本大震災に遭遇。ロケットストーブを持って被災地支援に飛び回るうち南三陸町の豊かな自然に惹かれ、仕事を辞め、2tトラックの荷台に住居を手づくりして移住した。第441回地平線報告会(2016年1月)「焚き火サバイバル」の報告者。
■10月14日、1か月半経った白内障手術の最終チェックに眼科に行った。とても順調なようで視力は右目が1.0、左目が0.8と大幅に改善していた。もう活字も自由に読める。ああ、よかった、ほんとうに。
◆森本孝さんの『宮本常一と民俗学』について岡村隆さんが心のこもった文章を書いてくれたのは嬉しかった。観文研をよく知る者だからこそ、の文章でもあるが、自身の本質と重なる森本孝という探検部的風来坊の持ち味を見抜いた成果とも言えるだろう。
◆これとは別に、月刊『望星』(東海教育研究所)という雑誌の最新刊に丸山純さんが森本さんにインタビューした記事がなんと8ページにわたって掲載されている。[この人の“実感”を聞きたい・望星インタビュー]というコーナーで、「いま語り継ぎたい宮本民俗学の精神」というタイトル。「日本中をくまなく歩いた民俗学者・宮本常一――その門下生の森本孝さんが子ども向けの伝記『宮本常一と民俗学』を上梓した。民衆の知恵を集め、地域振興にも尽力した宮本の生き方に、現代の子どもたちは何を見出すのだろうか。」(リードより)
◆漁船や漁具の収集を宮本さんにすすめられるくだりなど非常に内容の深い、そして面白いインタビューです。『バナナと日本人』で知られる鶴見良行とのインドネシア、マレーシアの船旅の顛末など貴重な情報にも溢れている。是非入手して一読されることをすすめたい。[江本嘉伸]
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今月も地平線報告会は中止します。
新型コロナウイルスの感染が収まりつつありますが、地平線報告会の開催はもうしばらく様子を見ることにします。
地平線通信 510号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2021年10月20日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp(江本伸方)
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◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
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