2021年9月の地平線通信

9月の地平線通信・509号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

9月29日。気温25度。この通信の8月号を出したのは8月18日だったから1か月半ぶりの通信になる。この間にパラリンピックが開幕、終了し、新型コロナウイルスの第5波が勢いを増した。508号を出す直前の8月13日には東京の新たな感染者は5773人を数えた。830人だった1か月前(7月13日)の7倍だ。

◆それが9月に入って急減した。9月13日は611人、28日は248人と8月の23分の1まで減り、政府はきのう28日、19都道府県に出している「緊急事態宣言」も、8県に適用中の「まん延防止等重点措置」のいずれも明日30日で解除することを決めた。そもそも高温多湿の夏にウイルスが活性化したのが意外だったのである。「今年の夏に新規感染者が急増した理由は、自粛疲れで、感染症対策の気の緩みから人流が増えたため」といわれるが、日本全体では感染者は170万人に達し、死者は17564人となった。

◆3、4年前から字が読みにくくなっていた。新聞はもちろん本を読むのもパソコンのやりとりも相当ムリしてやっていた。目が弱っているのは承知していたが、数年前2度にわたって網膜剥離の手術を受け、その後眼科には定期的に通っていたので医師が言わない限り大丈夫、という間違った安心感を持っていた。

◆しかしあまりに見えにくくなったので8月末、紹介されて新たな眼科医を訪ねたら、たちどころにこれは白内障の手術を受けねば、と専門のクリニックを紹介された。そう、白内障には手術専門病院があるのだ。9月1日、秋葉原のそのクリニックで手術を受けた。

◆普通は3、4分で終わるという手術だが、私は右目だけで16分、左目で23分もかかった。白内障が進行していて目の膜が固くなりつつあるとのことだった。入院は不要だったが、連れに迎えに来てもらい、直後の歩行には杖を必要とした。

◆字が読めるようになるまで我慢していた一書がある。玉川大学出版部が刊行した森本孝さんの『宮本常一と民俗学』。4週間も前に届けてくれたのにまさに手術と重なり、開くことができなかった。おととい、なんとか細かい字も読めそうになったので慎重に包みを剥がした。

◆「日本の伝説 知のパイオニア全12巻」というシリーズの第1回配本4冊のひとつ。数ページ読み進めて、「森本さん、すごい本を書いた!」とわかった。といっても森本さんが自身の文章で書いているのは「はじめに 宮本常一と民俗学」の12ページだけで本文では終始、師である宮本常一が自分のことを回想するかたちで書いている。たとえば、次のような書き出しだ。

◆「わたし、宮本常一は一介の百姓として、また民俗学の学徒として人生をすごした。でも、民俗学徒としては曲がりくねった道を寄り道しながら、よたよたと歩いていたのではないだろうか。いったいわたしはなにをしてきたのか、と思うことがしばしばある」。「観文研3バカたかし」と呼ばれた森本さんが宮本常一に成り代わってこのように書いているのだ。

◆内容の迫力に刺激されてさきほど私は思わず本人に電話してしまった。「森本さんすごいよ! 素晴らしい本を書いたね!」。相手の体調も気にせず、自分の率直な思いをぶつけていた。森本さんとは今年に入って何度か電話で話しており、目のことで私が今になってこの大事な本を読んでいる事情もすでに伝えてあった。作品を無事仕上げた安堵の気持ちもあっただろう、書き手は私のやや興奮した口調を受け止めて末期のガンと戦う身とは思えない力のこもった口調で、「江本さんにそう言っていただけて嬉しい。私は生き延びますよ」と言った。

◆いま、この本については地平線会議の皆さんにひとことだけお伝えしたい。税込定価は2750円ですが、この本は宮本常一という旅する民俗学者のことを理解する上で最適な本だと思う。ぜひ手にしてほしい、と。「小学校高学年向け」というのは、実はおとな世代に最も頭に入りやすいコンテンツだ、ということでもある。つけ加えれば、私はこのシリーズを企画した編集者を高く評価したい。宮本常一さんのほか岡本太郎、今西錦司、平塚らいてう、寺田寅彦、岡倉天心、ほかが登場するそうだ。

◆菅首相の退陣に伴なう自民党総裁選がきょう29日午後1時から東京都内のホテルで行われ、1回目の投票で大方の予想に反して岸田文夫前政調会長が1位、河野太郎氏が1票差で2位となり、この2人による決選投票が行われた。結果的に岸田が圧勝した。前人気が高かった個性の強い河野氏が激しく失速し、無難だが印象の薄い岸田氏が主役に躍り出た。この違いは大きい気がする。今後日本と世界の政治にどのような影響が出るのか。見守りたい。[江本嘉伸


2021 わたしの夏

海流の中の島から思いを馳せる

■2021年の夏、5月28日から8月31日まで小笠原諸島母島で過ごした。仕事のメインは世界遺産の森林の外来種駆除。炎天下での2〜4時間の歩行と道なき森の中での作業は63歳の腰痛持ちの体にはラクではなかった。

◆潮風と汗と泥もつれになりながら、いつもヘミングウェイの「老人と海」を想っていた。アメリカの文豪の遺作「海流の中の島々」の一編だったとの説があるこの短編はシンプル&クリアな英文で読みやすい。舞台はキューバの漁村、時代は1940年代、大リーグ・ヤンキースのジョー・ディマジオが全盛期で現在も破られていない56試合連続安打中。かつての名漁師も年老いて仲良しの少年にも去られる不漁続き。一人で漁を続け、3か月ぶりの釣果の巨大カジキをしとめての帰途、船に横付けした大魚がサメに食い尽くされ骨だけ残る。その死闘の物語。老漁師はディマジオのファンでラジオで試合を聞いている。「ディマジオだって足のケガを押して頑張っている、俺だって負けてはおれない」と老体をふるいたたせる。

◆私のディマジオは大リーグ大谷翔平選手。10年前の高校球児のときから応援している。太陽が炎と燃えようが、腰が痛かろうが、弱音をあげては、肘の手術からリハビリ中なのに投打二刀流で世界中のスポーツファンを感動させている大谷選手に恥ずかしい。と「老人と海」の老漁師のように野球のスター選手の活躍に元気と勇気と根気をもらっていた。

◆私の腰痛は35年来の付き合いだ。青い地球二大行動計画の一つ、地球一周河川行の第一弾パンアフリカ河川行をスタートしたのが1985年。当時は「飢えるアフリカ」といわれた2年続きの大干ばつの年で、ヤギやヒツジも痩せて硬かった。セネガル川からニジェール川にカヌー旅を続けていたある日の夕食に村で振る舞われたヤギ肉は板のように硬かった。アゴの力に自信のあった私は気にせず噛み砕いていた。ガキっと粉砕音がして歯茎に激痛があり、石のような肉が奥歯の間に挟まった。歯の外見に問題なく、一か月ほどのち肉は外れたが、その後固いものを食べると激痛は足先から脳天に走り、背筋がガチガチに固まるようになった。1990年代、アフリカのチャドやルワンダで植林支援の仕事をしている頃は、いつも腰痛と付き合っていた。痛くない方の歯で噛むようにしていたのだが、間違って噛むと激痛と腰痛が残った。30以上の歯医者に行ったが、「レントゲンでは異常ないですね」「よく歯を磨きなさい」「噛まないと歯茎が弱るので、できるだけ噛むように」と言われるだけ。

◆2005年、チャドでのスーダン・ダルフール内戦難民キャンプの植林事業の時は、食後の腰痛が頭痛にまで及んだ。四万十に帰ったときに歯医者でくだんの歯を抜いてもらった。「問題ない歯を抜くのは気がひけるなあ、抜きますよ。なんだこりゃ!」。見せてもらった歯は、歯茎の中でクサビのように割れて、幼児の小指の爪先ほどの破片が神経に刺さって癒着していた。レントゲンにもうつらないような微妙な角度で。「こんなの初めて見た」と歯医者は言った。

◆その後、腰痛は和らいだ。しかし、食後に左右の背筋は背骨と同じくらい硬くなり「俺は背骨が3本ある触ってみろ」というほどの状態が20年続いたので、今でも血行悪く慢性腰痛は残った。だから、アフリカのことは固いヤギ肉とともに忘れない。骨と皮だけになって死を待つだけの子供達のことは忘れてはいけない。

◆以下余談、ジョー・ディマジオは元祖セクシー女優マリリン・モンローと結婚して新婚旅行で来日している。才女でもあったマリリン・モンローは「おやすみになる時は、何を着てますか?」との記者の質問に「シャネルの5番」とパリで一番人気の香水の名前で答えて唸らせた。「マリリン・モンローはシャネルの5番。俺は下着代わりに夏は温感サロンパス、冬はホッカイロ」と、白根全、藤原章生、高野秀行とペルー飯を食べたときに言ったら「モンローを貶めるようなことは言わないで」と藤原氏に叱られた。以後、言わないように気をつけている。[山田高司

カソリ、バイク復活す!

■8月16日は我が記念日になりました。東北道での事故から77日目のこの日、ついにバイクに乗れるようになったのです。カソリの奇跡の復活です。スズキの250ccバイク、ジクサーSF250に乗って東北へ。2泊3日で福島を一周し、1129キロを走ってきました。

◆最後は白河ICから東北道で東京に向かいましたが、危うく命を落としかけた佐野藤岡IC近くの事故現場を通過したときは感無量でした。「バイクにまた乗りたい!」という一心で伊勢原協同病院に通院し、リハビリに励んだおかげだと思っています。

◆先生も驚くほどの回復ぶりでしたが、これからは1キロでも多くバイクで走ることが一番のリハビリになると思っています。[賀曽利隆

境界を超えるZoom会議

■コロナ禍でオンラインの会議が増えた。多いときは1日中パソコンに向かい合って、目が痛くなることもある。しかし、良い点もある。それは国境を超えて、まるでそばにいるかのような感じで話し合えること。同じ大きさの枠の中におさまって、顔が並んでいると、何千キロも離れていることを忘れてしまう。

◆この夏はミャンマー問題を憂える人々の間でのオンライン会議が頻繁に開催された。日本各地だけでなく、ヤンゴンからもメルボルンからも参加がある。ただ、居住している国によって発言に気をつけなければならないこともあるので、その点はみんなで気配りしあった。

◆もうひとつ、境界を超えるオンライン会議で感心したできごとが最近あった。私の所属する大学女性協会では、70年以上にわたって、意思がありながら様々な障害により高等教育に進めない女子学生を応援するための奨学金をだしてきた。その中には親の反対など社会的障害だけでなく、視覚や聴覚などの身体障害者も含まれている。

◆その奨学生たちがコロナ禍でどのような研究上の不便があり、どのようにそれに対処したかの報告会がオンラインで行われた。そのため、視覚障害の学生は音声で、聴覚障害の学生は手話でのプレゼンテーションであった。まるで私一人に話しかけられているかのような音声や、間近での手話は、大勢の会場での報告より、はるかにインパクトがあった。そのかわり会議を中心になって準備された会員の方々はご苦労されたようだが……。

◆大好きな旅ができないなど、何かと不便を強いられた2021年の夏であったが、新しい世界が開けた夏でもあった。[向後紀代美

コロナを忘れ、南北アルプスを満喫できた夏

■先月号に書いた夏山合宿の「その後」です。

◆8月15日から9月1日まで行われた夏合宿は、自然の雄大さを身にしみて感じさせられた経験だった。剱沢周辺での合宿では、不安定な天候ではあったものの21日に源次郎尾根からの剣岳登頂、24日に八ツ峰六峰Cフェースアタックの成功、と最低限の結果を残すことができ、26日には立山も楽しむことができた。

◆初めて目にした夏の北アルプスは文字通り、血沸き肉躍る場所だった。そして山岳警備隊の方々や小屋主の方々と初めて関わりを持ち、自分は確かに登っているがそれ以上に、登らせてもらっているのだということを感じた。後半は28日から南アルプスに入り、入山日に甲斐駒ヶ岳、翌29日に仙丈ケ岳、30日に間ノ岳、31日に北岳、9月1日に農鳥岳、という雄大な峰々を、肌を焼く太陽のもと歩くことができた。

◆尾根は長く高く、沢は清く、森は深く、そのことに身をもって気付かされた経験となった。山梨県にまん延防止等重点措置が発令され、8月20日から9月12日まで市営の山小屋にテント場をふくめた休業要請がでていたが、仙水小屋、両俣小屋、農鳥小屋に幕営をすることができた(農鳥小屋のみ2泊)。合宿中、部内でコロナの兆候らしい体調不良に陥る者は出ず、合宿期間中も小屋やテント場から感染者が出たとの報告を耳にすることもなく、ひとまずよかった、と思ってよいのだと思う。

◆しかし下山してみれば、世の中は私の想像を超える感染拡大に見舞われていた。テント場では電波がつながらないことがほとんどだったのだ。下山してからは、知っているべきことを知らないような恐怖感を感じたり、合宿の反省を記録したり、父と母の実家へ赴き墓参りをしたり、アルバイトに励んだりしてすごしている。この合宿を終えることができたことに最大限の感謝をし、次の雪山に向けて強くなりたいと思う。皆様の無事を祈っております。[安平ゆう 九大山岳部]


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛てに連絡(最終ページにアドレスあり)ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。

■永井マス子/絹川祥夫(10000円)/秋山卓士(「地平線通信」1部希望。よろしくお願い申し上げます)/国際マングローブ生態系協会(20000円 いつも地平線通信をお送り頂きありがとうございます。通信費をお支払いしたことがないので20000円お送りします)/宮部博(10000円)/古山里美(4000円 2年間分です)/田島裕志


コロナ禍の中の南極越冬準備

■7月に立川にある極地研究所に南極観測隊準備室を開設した。以来11月初旬の出発にむけて、昭和基地に持ち込む物資・食料・燃料の調達と梱包、それぞれのミッションに応じた慣熟訓練や資格取得講習などの業務をこなしている。隊員は皆その道のプロぞろいで、彼らの仕事ぶりは傍目にみていてもなかなか気持ちがよい。

◆とはいっても、皆が南極の専門家ではないので、ミッション・オプティマイズの局面では、文字通り「指南役」として隊長の出番が回ってくる。少数精鋭で隊員が選抜されているため、各員で請け負う業務範囲が広くなるばかりでなく、多くの部門との協調・調整もそれぞれにこなさなければならない。それを補助するのも隊長の仕事だ。

◆こうした多様で濃厚な準備作業を、わずか5か月の間に抜かりなく完結させることが準備室の目下の使命。しかもコロナウイルスに感染することがあってはならないという、重い足かせが付けられている。幸い、懸念されていたワクチン接種も、立川市の協力により職場接種枠をいただき、出発前までには全隊員の免疫獲得が実現できそうでほっとしている。

嬉しいサンクラスのプレゼント

◆この厳しく慌ただしい準備の間に、たいへん嬉しい出来事があった。地平線報告会とその二次会でご一緒させていただいていた塚本昌晃さんを通じて、氏のお勤め先である福井県のめがねメーカーから観測隊へということで、隊全員分のサングラスを寄贈いただいたのである。

◆ご存じの通り、夏期の南極は、極寒の雪と氷の白銀の世界に白夜の太陽が出っぱなしの季節で、しかもオゾンホールのために強烈な紫外線が降り注いでいる環境にある。紫外線から皮膚や目を守ることは、観測隊員の重要な自己防衛スキルの一つとなっている。

◆各員には隊から支給品としてサングラスが手渡されることになっているとはいえ、予備はいくつあってもありがたい。寄贈いただいたサングラスはどれも、支給品よりも高機能でスタイリィシュなので、こちらのほうを常用する隊員も多くなりそうだ。ご寄付いただけるという知らせをうけた瞬間、観測隊準備室には一斉に喜びの声があがった。こんな太っ腹な企業さんとお知り合いなんて!と隊員一同から感心もされて隊長株もおかげでずいぶん上げていただいた。

探検の歴史に欠かせないあるクラウドファンディング

◆以下、恥ずかしさ紛れの問わず語りに隊員諸氏に伝えたこと。それは、日本の南極探検や観測の歴史を振り返ってみるに、探検隊にしろ観測隊にしろ、常に大衆からの寄付行為によってその活動が支えられつづけてきた、今でいうクラウドファンディグのような、そういう文化が探検の世界にはもともとあるのだということ。

◆かつて、アムンセンやスコットが極点到達競争を繰り広げていたまさにその同じ時期に日本人として初めて南極に赴き、「やまとゆきはら」と自ら命名することになる雪原に足跡を残した、かの白瀬南極探検隊も、篤志家の支援や新聞報道に感化された読者からの義援金によって成立していたのだった。

◆戦後復興をかけた国家事業として始まった南極観測隊ですら、新聞社を中心に繰り広げられたキャンペーンによって、小学生から主婦・老人に至るまで多くの市民や企業から寄付が寄せられて、ようやく出発にこぎ着けたという経緯がある。

◆今でこそ南極観測隊は、景気に左右されることなく安定して国家予算が配分され、そのおかげで60年以上にわたって途切れることなく継続されてきているのではあるけれど、南極観測事業を応援したい、という市井の熱意もまた絶えることを知らず、常連・飛び入りを問わず、例年多くの企業や個人からの寄付がつづいている。

◆寄付を受け付ける側の文科省や極地研究所はお役所なので、ありがたく受けるけれどもそのために寄付いただいた方々に特段の便宜を供与することはしない。そのことをご理解いただいた上での受け入れだというのにもかかわらず、それでもよいから、と快く寄贈いただいている。

報道、広報の大切さ

◆人は夢に支えられて生きている。自分ではかなわぬ希望あるいは自ら日々関わってきたものを、見返り抜きの寄付として託すことで、探検者の体験を自らのものとして共有したいという心理。人類はそれを本質として進化し、未知を開拓して世界を広げていったにちがいないのだ。

◆かくいう私自身も、越冬隊長という責を負っている身でありながら隊との雇用関係は一切ない。文科大臣から一枚の委嘱状を受け取っただけで、給料はあいかわらず法政大学からいただいている。私立大学から初めての越冬隊長という特殊事情があるとはいえ、見方を変えれば、これも法政大学からの人材寄付なのかもしれない、と手前味噌なことを思ったりもしている。

◆寄付行為とならんで、裏舞台で南極観測隊の横顔を形作ってきたものに報道や広報がある。大手新聞社の名うて記者たち、某公共放送局の越冬中継、不肖・戦場カメラマンなど、さまざまな様相を呈しつつも同行取材者は第一次隊の時代から南極観測隊の一部であり続けてきた。

◆その一方でここ数年では、ブログやSNSを活用して隊員自らが情報を直接発信するようになり、その量も増えてきている。実際、この3か月足らずの間に、準備室の状況を伝える公式ブログ記事だけでも十数編を送り出している。GIGAスクールへの参画や初等教育からの人材育成、無関心層の掘り起こし、コアなファン層への充足体験など、既存メディアにはできかった多様なニーズへのきめ細かいチャンネル構築ができつつある。

◆とはいえ、まがりなりにも国家事業として公費を投じて実施されている側からの発信である以上、手放しで発信を許容するわけにもいかず、手綱の締め具合を調整するのもまた隊長に課せられた仕事の一つ。もうお察しの通り、公式ブログ上に観測隊員たちが投稿している記事は、全て隊長の監修を経ている。

◆稼業柄、日頃から1000人規模で学生のレポートを添削しているし、自ら論文を書いたり査読したりもしているので、物書き仕事はまさに自分の本業そのものではある。けれども、各隊員たちから寄せられてくる粗稿に向かう度に、検閲になってもいけないし、仕事面ではいっぱしのプロでもある書き手のプライドを損ねてもいけない。

◆達人ならではの独特の視点を大切に生かしつつ、それでも関係者だけにしか通じないような表現はさけて平易に誤解なく読み手に伝えたりもしたい、といった様々な思いが交錯して、相当に悩ましい添削を強いられているのが実状である。おそらく、こうした裏方としてのデスク役は、この先に待ち受けている本格的な基地運営の中でもかなりのエフォートを割くことになるだろうと、「覚悟すべき事項リスト」に追加しているところ。

◆63次南極観測隊は、10月最終週から二週間の検疫隔離に入り、11月初旬に横須賀港を出港。12月中旬には昭和基地沖に到達して南極での活動を開始する予定。無事昭和基地にたどり着いて一息ついた頃にまた寄稿させていただきます。[澤柿教伸


荒木町物語

冒険研究所書店、思わぬ展開に?

■今年も夏休みの100マイルアドベンチャーを行った。小学6年生と、日本国内を夏休みに100マイル踏破する冒険旅である。10年目となる今年は、江ノ島から諏訪湖までの第1ルート200kmと、諏訪湖から上越市直江津までの第2ルート190kmとの2回開催だった。

◆甲府で39℃の猛暑に襲われた第1ルート、お盆ごろの大雨に遭遇し、毎日雨に降られた第2ルート。それぞれ特徴はあったが、2ルート合計15名の子供たちは全員無事に踏破し、ゴールすることができた。

◆冒険研究所書店を開店して4か月が経った。神奈川県大和市、小田急江ノ島線の桜ヶ丘駅目の前に書店をオープンさせたのが、5月24日。途中に100マイルアドベンチャーを挟んだが、新米書店として頑張っている。

◆江本さんの蔵書すべてを預かり、ここに移動させたことは以前に書いた通りだ。書店として古本と新刊の販売を行っているが、販売用とは別に、閲覧専用の資料書庫を設けたいと考えている。

◆江本さん宅から引き上げた段ボール100箱の大量の蔵書と、地平線会議40年分の紙資料。これらは日本の冒険探検界の宝だ。責任を持って再編集を行い、これから旅に出ようとする若者たちにとって、貴重な資料となるようにまとめたい。また、私自身の蔵書も資料として書庫に入れるつもりだ。集めてきた極地関係の書籍が大量にあるので、これらも誰かの役に立つように活用できれば本望である。

◆と、そのように考えていたら、書店の近所にとんでもない方が住んでいらっしゃった。ある日フラリと来店された年配の男性。色々お話ししていると、冒険や探検に造詣が深い。「家に、チベット関係の本がたくさんあって」と、さらりとこぼしたその先が凄かった。

◆「チベットだけで2000冊くらいあるんだけど」と言うではないか。後日再来店された時に、ご自身の蔵書をリスト化しているものを見せていただいたのだが、明治時代の古書から最近の漫画、チベットと名がつけば洋書和書関わらず、学術書から漫画やDVDまで、ありとあらゆるものがリストに記載されていた。「おそらく、日本で手に入るチベット関係本は全部集めてるはず」と言う。

◆ゴルゴ13がリストに数冊あり「ゴルゴ13って時々チベットがテーマの話があるからね」と話す。なぜそれだけチベットなのかとお話を伺うと、1960年代に一人で小さなオートバイを持ってインドやネパールを旅し、カトマンズにしばらく住みながら、ネパール語ができたことで、日本大使館の仕事をしばらく手伝っているうちに、ヒマラヤ周辺にどっぷりハマってしまったという。

◆1970年のエベレスト登山隊も手伝ったという。「槇有恒さんのマナスル隊の先遣隊長で小原勝郎ってのは、私の義理の親父なんですよ」と言うではないか。実はその少し前に、近所に住む年配女性がお一人でフラリとやってきて、冒険や探検のお話をしながら「あら、槇さんの本なんかも置いてられるのね」と仰るので「山の本お好きなんですか?」と伺うと「槇さん、私が若い頃に毎年遊びに来られてて」とお話しされるのでびっくり仰天。「父親がマナスルの時の先遣隊長だったの」ということがあった。その女性のことをお話しすると「ああ、それうちの家内ですよ。来たんだね、知らなかった」とお話しされた。

◆書店に江本さんの蔵書を預かってきたこと、これから資料用として、閲覧専用の書庫を作ることなどをお話しした。「僕もそろそろ終活っていうの? 考えないといけなくて、でも、これまで集めてきた本をバラバラにしたくもないし」そう言うので「散逸させるのはもったいないです。これはすべて揃っていて価値があるものですよ」と返した。

◆そんな会話の中で、私は意を決して言ってみた。「正直言うと、この貴重な本すべてを買い取るとなると、お金がいくら必要か見当もつきませんし、そのお金もありません。ですが、これから資料庫として丸ごと活用させていただければ、こんなに嬉しいことはないです」。そう言うと「お金は問題じゃないですよ。ぜひ、私の蔵書全部ここに寄贈しますので、有効に使ってください」と仰るではないか。「江本さんはお会いしたことはないけど、西蔵漂泊はあれは名著ですよね」と仰っていた。

◆最初はその男性も、私のことやこの書店のことを様子を伺うように見ていたはずであるが、江本さんの蔵書をすべて預かってきた、という話をした後から途端に目が変わった印象がある。「あぁ、この男に任せていいのではないか」そう思っていただけたのかもしれない。すべては、江本さんの蔵書がここにある、という圧倒的な信頼感と説得力の賜物だ。

◆現状は、書店にすべてを置くスペースはない。江本さんの蔵書も、まだ段ボールに収められたままである。まずやるべき事は、江本蔵書の総点検と再編集。書店内に閲覧用の書庫を作り、あらためて2000冊のチベット関連本を寄贈していただく。もはや手狭になっている感もあるので、もしかしたら別の場所を借りる必要があるかもしれない。これらはすべて、私が好きでやっていることだ。しかし、必ず未来に繋がる仕事になるだろう。

◆大量の本を保管し、管理するにはなかなか費用もかかる。が、それは書店の利益から頑張って捻出していこうと思っている。書店はみなさんご存知の通りに、薄利多売である。薄利でも多売できればまだ良いが、このご時世で世の人は外出を控え、若者はスマホ代を支払うのに精一杯で本も買えず。なので、ぜひ、地平線会議の皆様、冒険研究所書店で本を買ってください。たくさん買ってください。というか、お気軽に一度遊びに来てください。また、これから江本さんの蔵書と40年分の地平線会議の過去資料の編集作業もあるので、手伝ってください。とても私一人では、手が足りません。[荻田泰永

島ヘイセンvol.3
学生が本当に本当に怒っていることを大人たちは解って欲しい

■夏休み8月3日、神津島よりジェット船で3時間半かけて懐かしの内地に帰ってきた。その後恐ろしい光景を目撃する。竹芝のターミナルから浜松町駅へ向かって歩き始めると、とんでもない数の車と人がいた。島で感覚が麻痺してしまったかもしれないが、高層ビル群とその横を通り過ぎていく無数の車を見て島とのギャップを改めて感じた。おもわず友達に「建物デカい、車と人多い、怖い」とLINEした。

◆帰省中は中学時代の友達にも会った。島に来てから中学の友達とはLINEで連絡を取り合っている。やり取りの内容は主に近況報告や恋話など、高校生らしい?会話をしている。実際に会うと特に変わった様子はなく、懐かしさと安心感があった。直接会う機会は限られるが、それぞれの場所で頑張る友達の新たな一面などが感じられ嬉しくもあった。

◆何故だかわからないが、会った友人にはたびたび「なんか変わったね」と言われた。まだ4か月しかたっていないのだが……と思っていたが、どうやらその4か月で僕は変わったらしい。

◆そしてまた島に戻り二学期が始まった。今考えると内地と島では比較すると相違点だらけだなと思った。まずは地域の人々。島ではすれ違う人の誰もが「おはよう」などと声をかけてくれたり、学校の話をしたりする。寮に野菜や魚などをお裾分けして下さったりもした。

◆しかし東京では挨拶どころか目すら合わない、冷たさのようなものを感じた。僕は中学生の時に技術・家庭科の「考えよう!わたしたちの快適な住まい」という作文コンクールの作品の中で、快適な生活環境とは地域コミュニティーの豊かさであると発信した。内地では様々なコミュニティーは細かくカテゴリー別になっているとでもいえばよいのか、横断的な繋がりは少ない。

◆老若男女雑多な島文化はなんとなく温かい感じがする。次に物価だ。島では基本的にすべてのものが高い。食料品や日用品など内地から仕入れているものがほとんどなので、輸送費がかかり少々高いのである。反対にとても安いものがある。魚だ。神津ではカンパチや鰹、金目鯛などがよく捕れるのだが、内地のスーパーの2分の1〜3分の1くらいの値段で刺身のサクが売られている。帰省中に母とOKというスーパーに買い物に行った。安心・安全・安さが売りのこのスーパーで、主婦目線で物価を比較することに夢中になっていた。

◆学校では島ならではの授業もあった。ビーチクリーニングとシュノーケリングだ。地域の特色を活かしたこのような授業は島ならではだし、一回一回を大切に楽しみたいと思った。そして、最も注意が必要なことは噂の拡散スピードだ。高校生あるある話としては、例えば誰と誰が付き合ったとかいう情報は、2、3日後くらいにはもう学校内にとどまらず、島全域に広まっている。この情報伝達スピードは恐怖でしかない。特に花火大会に2人きりで行くときは万全の策を練らなくてはならないのだ(経験者は語る)。

◆コロナ対策に関しては内地には負けない対策をしていると思う。島は医療体制が脆弱であり、治療が難しい場合はヘリコプターで都内の病院に搬送される仕組みになっている。だが、この夏の都内入院ひっ迫により、島でも基本的には自宅療養になるとの知らせがあった。

◆マスクと消毒の徹底はもちろん、学校では新たに、給食中の黙食や部活動の時間短縮などが行われている。僕たち離島留学生も帰島前にはPCR検査で陰性を確認し、かつ帰島後2週間は寮での自主隔離生活を行った。とても窮屈な2週間だったが、何とか乗り切った。

◆神津島ではいまだ感染者は2人しか出ておらず、いずれも軽症だったとのこと。島民が一丸となって感染症対策に努めている証拠だと思う。しかし、この頑張りもむなしく、昨年に引き続き今年の村民運動会は中止が決まった。一昨年は台風で中止になったという。3年生の先輩方は一度も村民運動会を経験することなく離島留学を終えることになる。

◆「それはもう仕方ないよ」と言ってはいるが、相当な未練があるのだろうということはわかった。文化祭は実行に向け準備をしているが、昨年同様に大幅な規模の縮小は否めないであろう。内地でも次々に学校行事が中止になったという話を耳にする。悲しさと同時に怒りも覚える。

◆僕たちは日常の楽しみや青春を犠牲にして我慢しながらも日々生活している。大人だけ音楽イベントなどで騒いでいる場合ではないだろう。学生は本当に本当に怒っているのだと大人には解って欲しい。また、8月には伊豆諸島と本土を結ぶ東海汽船の乗組員の感染がわかり八丈島航路が2日間欠航するという事例があった。島嶼町村会では各島で余ったワクチンを港区へ譲渡し、都の一般接種に参加できていない乗組員や従業員の方々へ接種を開始した。島にとっての生命線を守る素早い地域連携の対応だ。

◆コロナが完全に終息するのは4〜10年後ともいわれているが、それでも希望を持ち続け、今できることを精一杯積み重ねていくしかない。将来「あんな日々もあったな」と笑える未来にするために。

◆最後に島ヘイセンvol.2にて「島には娯楽施設は一つも無い」と書いたが、その後カラオケはあることが判明した。ここにお詫びして訂正する。そして前回の寄稿後に、赤崎海岸10mの崖からの飛び込みに成功した。動画をお見せできないのが残念である。[神津高校1年 長岡祥太郎

山に生きる人間になりたい!

■こんにちは。大変長らくご無沙汰しております。大学4年生になりました、小口寿子です。スタッフの中嶋敦子さんから紹介いただき2019年4月の地平線通信に文章をはじめて書かせていただいた者です。久しくご連絡できなかったのに欠かさず通信を送ってくださり、本当にありがとうございます。毎月の地平線通信は、自分も前向きにやっていこうと気を奮い立たせるきっかけとなっております。

◆引っ越しされたんですね? ご縁に恵まれ江本さんの四谷の住まいへ伺ったときのこと、忘れられません。部屋中埋め尽くす資料に囲まれ、ここにはどれほどの人の知恵や冒険、熱い志が集まっているんだろうかと圧倒されました。凄い場所に来てしまった。そして内心緊張ではち切れそうだった私の話をじっくり聞いてくださり、ほんとうにありがとうございました。

◆近況について話をさせていただきます。昨年末のスキー合宿で膝の靭帯を断裂する怪我を負いました。手術を受けこの1年は登山はできないと言われ(軽いハイキングは可能です)、ワンゲル部の次期主将となる予定でしたが怪我で引退者となりました。コロナ禍になり去年の夏に全国的にほとんどの学校の合宿が停止となった後、冬から徐々にその制限が解除されはじめたところで今度は自分の怪我で山に行けなくなるという、なぜ自分はこうなのだろうかと自己嫌悪で一杯です...…。

◆一方で、怪我をしてある程度休養する間があったことは、これまでの自分の生き方やこれから私がやっていきたいことについて改めて考える機会となりました。これまでネガティブ思考が酷くここぞというときに逃げ腰な性格でしたが、徐々に本当の意味で前向きになれてきていると感じるのは最近です。人間は問題に直面した時にどう対応できるかでその人の人間性が現れる、と言いますが私はまだまだ根っこから弱かったと痛感しました。

◆また、改めて過去の地平線通信を読み返し、江本さん、そして地平線会議との向き合い方についても考えました。多様なフィールドを生きる方々のお話を聞けること、一期一会の繋がりを持てたこと、とても幸せに思います。たとえばですが、去年の8月の「窓」で角幡唯介さんがうっ憤を晴らされた文章では、私自身も開き直れたといいますでしょうか、やりたいことをやっていこうと元気をいただきました。角幡さんの率直な考えをお聞きできるのもこの通信だからこそですね。出会えてよかったと嬉しく思います。

◆来年3月に大学を卒業いたしますが、その後はどうにかこうにか山で働いていく道を模索しております。コロナや怪我で、やむを得ず思うように山や旅に行けなくなり、このままではなんだか許せない。自分が山に行けない状態をつくりたくない。できる限り山に居られる状態をつくるにはどうしたらよいだろうか。

◆そうして、山に登るにはどうするかより、先ずそもそもずっと山に居られるにはどうしたらよいのかを考えるようになりました。とにかく山に居たいのです。なぜそれほど山に拘るのかというのは、自分でもうまく表現できないものです。山で働き、山で生きる人・暮らす人になりたい。

◆卒業後は、山に居ることをベースにしつつも暫くは一つにとどまらず、まずは山のいろんな世界を知りたいと考えています。山で働くといえばガイドや山小屋、林業はもちろんですが、山の世界を深掘りしていくと多様な分野で意外にも多くの人が、山に携わって生きていることに気付きました。狩猟、農業、歩荷、研究者...…地平線の方々もです。でもやはり手っ取り早く山に居られるのは山小屋スタッフでしょうか。来年、どこかの山にいることと思います。

◆そして山の生き物をとったり畑を耕したりして、半自給自足、山で生きる生きものになります。自然界では生き物は次へ次へと循環していきます。自然へ還っていくように私も生きられたらと思います。

◆長くなってしまいました。お読みいただきありがとうございます。たいへん多くのことでお世話になりながら、長らくご連絡できなかったこと、もう一度本当に申し訳ありませんでした。[小口寿子 法政大学4年]


先月号の発送請負人

■地平線通信508号(2021年8月号)は、さる8月18日に印刷、封入作業をし、同夜、新宿局に渡しました。今回も以下の皆さんが粛々とこなしてくれました。ほんとうに、ありがとうございます。
森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 白根全 久保田賢次 八木和美 伊藤里香 江本嘉伸 武田力


高校山岳部をどう育てるか。――2年ぶりのインターハイ登山大会を終えて

■コロナ禍第5波のさなか、全く予断を許さない状況の中で、8月19日から5日間、全国高等学校総合体育大会登山大会(以下IHと記載)が、福井県勝山市を舞台に2年ぶりに開催された。私自身、定年退職を潮に、2年前の宮崎大会を最後に8年間務めた全国高体連の役員を退任し、もう参加することもあるまいと思っていたが、再任用教諭として雇用継続、幸いにも生徒に恵まれて県大会優勝、監督の立場で参加することができた。

◆めぐりあわせとはいいながら、県大会の段階から出場機会を奪われた昨年度の3年生のことを思うと、今でも胸が痛くなる。その思いを汲んだうえで、様々の感染対策を施して行われた大会であった。全国ならびに福井県高体連登山専門部が大会開催までに費やした労力に敬意を表したい。大会直前に蔓延が全国的に広がり、関係者は開催には大きな危機感や不安感を持ち、神経を使った対応を迫られたことだろう。もちろん、参加する側とて気持ちは同じであった。登山大会は他の競技とは違い、宿泊(幕営)や食事(炊事)も競技の一部であり、他競技に比してリスクは大きい。

◆今年の大会は、新型コロナウイルスの感染に配慮した結果、日程の一日短縮、炊事審査なし、テント泊なし、と大きく変容を迫られた大会となった。大会参加にあたっては、2週間前からの健康チェックの徹底、コロナ対策に関わる装備の携行が義務付けられ、期間中も従来とは異なった形式のコロナバージョンの健康チェックが実施された。

◆幸いにもその後、大会関係者の中からコロナ感染が出たという連絡もないので一安心である。私自身に関しては、勤務校ではIHから帰った日にはすでに夏休みは終了し、授業が始まっていた。しかし、大会開催地の福井県が県の指定する往来自粛の対象県だったため、参加した生徒・顧問は、帰宅した日から5日間の隔離・登校禁止措置、帰宅5日経過後にPCR検査を義務付けられた。

◆当然、費用は県が負担したが、このような対応をしている県は、聞いた限りでは長野のみだった。その点では、長野の取り組みは、一定の評価ができると思う反面、他県については無防備であり、そういった対応が実は現在の蔓延状況を象徴しているような気がした。

◆北陸地方の山の蒸し暑さは信州のそれとは違う上、低山での大会とあって暑さ対策には万全を期して大会に臨んだが、盆明けで秋の気配が漂い始めていたこともあり、それほどの暑さでなかったのは幸いだった。また、大会前に停滞していた秋雨前線も消え、天候にも恵まれた。

◆以下、女子チーム監督として大会に参加した感想である。大会中は、炊事が一切できないため、朝夕の食事は大会本部が提供する弁当を、ソーシャルディスタンスを確保した決められた場所で摂った。バランスの取れた食事ではないにしても、選手にとっては落ち着いて食事ができたことは大会中の精神面、肉体面に一定の効果はあっただろう。また、女子隊は、宿舎が青少年自然の家という恵まれた環境であったことから、睡眠環境が十分に保障されていたこと、入浴もできたためだろうか、大会中のトラブルは過去数年の大会からすると格段に減った印象がある。

◆この一年間のコロナ禍での部活動の中で、テント生活ができていた学校はほとんどなかったはずである。したがって従来通りのテント生活や炊事などをしていたとすれば、こうスムーズにはいかなかっただろう。だが、大会運営やコロナ感染のリスクを考えればこうせざるを得なかったとはいえ、これがスタンダードな姿になっていってしまうことには大きな違和感を持った。

◆今回の大会が新たな形での大会へのターニングポイントになるのかどうかはわからないが、もしこのまま設営に関わる部分の方式が変わっていくと、単なる審査のための幕営や炊事となり、その部分については全く画餅の笑止な大会となってしまう。この一年半、感染回避のために出された登山医学会等の「ソロテント推奨」を受けてテント生活の制限がかけられ、高校山岳部の一番の楽しみであるテント生活が奪われた。

◆他県の監督と話をしていても、「テント生活をさせてあげたいが県から許可がおりない」、「日帰りしかしたことがない」、「やむを得ず山小屋泊で合宿を組んだ」、「テントで寝た経験はない」、「炊事はしたことがない」などの切実な声を聞いた。

◆高校山岳部という登山文化の消滅を危惧する。健康チェックのより厳格な実施、ワクチン接種の普及、PCR検査の実施なども踏まえて、生徒たちが同じ釜の飯を囲んで、一日の山行を振り返り、友と明日を語るようなテント泊ができるような方向性を探りたい。何人かの先生とそんな話をした。

◆ともあれ大会は終わった。厳しい中で開催に向けて尽力されたすべての皆さんに、改めて厚く感謝を申し上げたい。[(公財)全国高体連登山専門部顧問、長野県大町岳陽高校山岳部顧問 大西浩

新作ドキュメンタリー映画『明日(あす)をへぐる』をへぐる

■現在、新作のドキュメンタリー映画『明日をへぐる』が公開中だ。公開を記念して、『鳥の道を越えて』が7年ぶりにリバイバル上映された。この映画は、祖父が語った渡鳥の大群の話を実証するために様々な人を訪ねて記録を重ね、次々と出てくる謎を解いていく旅のドキュメンタリーだ。その過程で多くの人に支えてもらい、おかげで僕はドキュメンタリー映画監督になれた。

◆僕にとって『鳥の道を越えて』は、作らなければいけない映画だった。というのも、この映画の制作中、姫田忠義(民族映像研究所長)さんをはじめ、大切な恩人を相次いで亡くした。ただただ、悲しかった。なんとしても映画監督にならなければと、我欲が先立っていた自分が虚しくなってしまい、映画を作ることを辞めたくなってしまったのだ。

◆そんな時、自分の心を奮い立たせることができたのは、子供の頃に体験した、お祭りや行事など故郷の生活文化の記憶だった。その記憶は気力を無くしていた僕の心と体を温めてくれた。自分のために生きるという自信は今はないけど、誰かのためにという目的だったら再起できるのかもしれない。自然にそう思えた。民俗の映像記録を自分の生業として、続けていく決心もこの時期についた。

◆しかし、どうだろう。民俗の映像記録について、この7年間で僕の心は揺らいだ。生前、姫田さんは「記録は未来のためにある」とよく言っていた。僕自身も標語のようにこの言葉を疑わず記録を続けていた。でも各地で映像記録をする度に、この記録は本当に役に立つのだろうかと疑問が湧いてきてしまったのだ。やがて消えゆくであろう行く末が想像できてしまうのだ。次第に記録することの大義すらわからなくなってしまっていた。

◆そんな中、僕は高知県いの町で和紙の原料・楮を守り育てる山里の暮らしを記録することとなった。今から26年前、高知県出身の絵本作家・田島征三さんの原作で、原田美恵子さん主演の『絵の中のぼくの村』(制作/シグロ)がいの町で撮影された。それ以来の縁で地元の有志からシグロに声がかかり、そして僕はシグロのプロデューサーとともにいの町を訪ねた。実際にいの町で知らされた現実は深刻なものであった。楮農家の多くが、90代の人たちであり、毎年一軒また一軒と楮農家がいなくなってく最中であった。今にも消えてなくなってしまいそうな現状を「なんとか記録して欲しい」という地元の方からの要望で、ドキュメンタリー映画『明日をへぐる』の制作がはじまった。

◆取材で最初に出会ったのは、楮をへぐる90代の女性たちだった。「へぐる」とは、和紙の原料作りの工程の一つを指す。一年かけて育てた楮の幹を刈り取る。幹を束ねて蒸す。蒸し上がった楮が冷めないうちに皮を剥ぐ。そして剥いだ皮の外皮を包丁で削りとる。この削り取りの作業を、方言で「へぐる」というそうだ。そして楮が和紙の原料になるまでには、へぐったのちに、煮る、水にさらす、繊維に残った余分な異物や傷をとる、そして叩いて繊維を一本一本に解す、といった長い工程を経て紙漉きによって和紙が誕生する。彼女たちは、皮に刃先を当てて何度も何度も外皮を削り落としながら、白い繊維質の部分だけを残していく。このへぐり作業は、機械では出来ない。1枚1枚を丁寧に手作業で行う必要がある。

◆僕はへぐり作業を見ながら、不思議に心地良くなっていくのを感じた。女性たちの手わざはあまりに手際よくて無駄がない。実際に自分も包丁を借りてへぐってみたが、外皮を削ることはおろか、刃を当てることすら、手を切るのではないかと力がうまく入らなかった。しかし、女性たちは実に優しく刃を当て、外皮もまた抵抗なく剥がれていくような感じなのだ。一人一人リズムも違うし、作業スピードも人それぞれ。でも一人一人の佇まいがとても美しいのだ。いま僕が目撃している女性たちの作業は、彼女たちだけが習得したわざではなく、世代を越えて受け継がれてきたであろう山里の暮らしそのものが凝縮しているかのようだった。

◆そして彼女たちは、手を動かしながらも口を動かすことを忘れない。一つの皮をへぐるのに3分から5分ほど。一皮一皮削るたびに、自分が嫁いできた頃や子育ての苦労話、家に電灯がついて夜が明るくなった頃の話、村のお祭りの話、などなど90年に及ぶ山里の暮らしが止めどなく語られる。彼女たちが楮に包丁の刃を当て、余分な外皮を削り飛ばしていくたびに、山里の歴史(真実)がよみがえる。そんな感慨がわいてきた。

◆山里の人たちが守り育てへぐった楮は、千年以上の耐久性があると言われている和紙へと生まれ変わる。そういう時間軸の中でへぐる彼女たちの時間が、とても意味深いものに思えた。一方で、自分を含めた現代人の時間の物差しがあまりに短いことを思い知らされた。はたして僕たちの暮らしを削り取ると何が残るのだろうか、残った真実は何だろうか。

◆今回、僕自身にとっての初めての試みは、(1)自分でカメラを回す、(2)これまでの民俗的な記録姿勢から離れる、(3)エンターテイメント性を探る、の3点。そういう意味では、いかに記録するかということに悩んだが、同時に結果を考えず現場を大いに楽しんだ。

◆楮栽培という素朴で手の抜けない地道な作業を暮らしのなかで営んできた人々の姿が、単に消えゆく姿としては見れなくなっていた。豊かさとは、いったいなんだろうか。現代社会の方こそ、豊かさの虚像でありやしないか。『明日をへぐる』の取材を通して、僕ははじめて自分の記録作業は「未来のためにある」と素直に思えるようになった。

◆とはいえ記録することの意味の「答え」を、僕はまだ問い続けている。[今井友樹

アイスクリームを食べたとたんに、強烈な船酔いに襲われた……

■五輪開会式が始まった7月23日(金)19時頃、突然左耳が聞こえなくなった。耳鳴りがする。2キロヘルツの高い音がしばらく続き、途切れるかと思うと、15キロが聞こえ出す。そんな感じ。すべてが右耳から聞こえるので、包丁がまないたに当たる感触とか、遠近感がつかめなくて困る。

◆家族と話していてもつまらないし、五輪はもっとつまらない。早めに寝て、翌日耳鼻科に行くと「かなり悪い。早めに大学病院に行ったほうがいい」と言われて、その足で順天堂病院へ。困ったのは、その3日前にモデルナのワクチン2回目を打っていたことで、「心当たりはありますか」と言われても、そのワクチンなのか、解熱剤のカロナールなのか、57年ぶりの東京五輪を貶した呪いや新型コロナのストレスなのか、心当たりがありすぎて困る。その前の週には北海道出張のついでに自転車で狩勝峠を攻めていた。その報いかもしれない。「突発性難聴」と病名がついて、地獄だったのはその日の夜からだった。

◆夕食後にアイスクリームを食べたとたんに、強烈な船酔いに襲われた。いきなり外洋のマグロ漁船に放り込まれた感じで、世界がぐるんぐるん回る。あっというまに胃の中が空になり、あと吐くものは胃液だけになる。診断するだけでなく、「あなたにはこの後めまいが訪れます」「アイスクリームを食べても無駄です」と予言してくれよ、と順天堂の医師を恨む。外洋航海は2日間続いた。

◆目をつぶると二風谷にいる夢を見る。ああ、魂がまだ北海道にいるのか。置いてきてしまったから、いまの私はカラッポなのか。取りに行かないとと、うなされる。目を覚ませば五輪メダルラッシュのニュースばかりでうんざりする。7月27日の新型コロナ感染者、東京は過去最高2848人。菅首相は五輪を「中止しない」と明言したが、この発言を掘り下げずに、メダルの数を嬉しそうに伝えるNHKニュースに呆れる。

◆めまいは1週間でほぼ治った。身体は元通りになって、むしろ持て余している。あとは平衡感覚の基準がずれているのが治ればいい。ずれているというのはどういうことかと言うと、目をつぶって歩くと進路がどんどん右に寄っていく。目を開けて常に補正しなければらないので、どうしてもヨレヨレ歩きになってしまうし、おまけに目が疲れる。

◆難聴経験者は意外に地平線会議はじめ周りの人たちにも多く、経験談を聞いて勇気づけられた。そういえば、と昔話のように話す人もいれば、実はいまだに耳鳴りが離れないという人も。順天堂病院に毎日通って耳下注射と点滴。森龍一さんにも鍼の先生にも診てもらったが、時間がかかりそうなことだけがわかった。1週間の耳下注射が終わっても改善しないので、高気圧酸素療法ができる日本医大に転院した。

◆一度に4人が入れる4畳半ほどの広さのタンクの中に入り、密閉されて圧力がかけられる。口には酸素マスク。2気圧に達するのに15分、その間は耳抜きをしないとならない。乗ったことはないが、潜水艦で深海を目指すようなもの。この効用を最初に発見したのは米国海軍だそうだ。30回の治療までは健康保険が効くそうで、それだけ通わないとならない。まだその途中で効用はわからない。毎朝自転車で病院へ行き、その深海で1時間を過ごして、また15分かけて浮上する。おつかれさまでした、と看護師に言われて、90分の旅を終えると、耳の通りが少し良くなった気がする。

◆平均聴力は95デシベルから70デシベルに向上していた。「聴力の改善に伴って、まためまいが出ると思いますから、胃薬を出しておきますね」。外洋航海ほどではないけれど、たしかに目が回る頻度がまた増えてきた。パラリンピックも閉会式が終わり、虫の声が右耳から聞こえるようになってきたが、左耳からは耳鳴りが続いている。それでも先週は鹿児島の出水から天草を抜けて、長崎の島原半島まで3日間ひとり自転車旅ができた。平衡感覚はもう大丈夫。あとはこの耳鳴りを「自分にしか聴こえない天から降ってくる音楽」と思えば、当分は共存できそうな気がする。がんばろう。[落合大祐

雨漏り、という緊急事態

お忙しいなか、いつもありがとうございます。
ちょっと、あれこれ有って、なかなか連絡を成せませんでした。

今、千葉の「ぼくの工房」が、屋根崩壊で、雨漏りがハンパじゃ無くて、、、。
豪雨の際は 天井の隙間から 滝のように漏ることもある。畳が困る。
普通の降りでも、洗面器やバケツが、一日で一杯に成ります。

専門業者に「下見」してもらったのですが、「(少なくとも)100万円、かかります」……って、言われて。茫然自失、四面楚歌。

大家さんは、物件を売却する方向なので、「家のメンテはしない」とのことです。
だから、「なるべく早期に引っ越してほしい」と、以前から言われています。
しかし、コロナ社会に成ってから、引っ越し準備は、停滞してます。というか、後退してるくらいです。引っ越し先は、まだ、めどが立たないです。身動き取れないし、母親のことも、忙しくなってます。

大家さんの会社も、コロナ社会の長期化で、経営が低下してるそうです。大家さんは、やさしいひとです。ほんとうは、ぼくに住ませたいけど、自分の会社が危ないとのことです。展覧会も視に来てくださって、褒めてくださいました。
大家さんは、さいしょに立ち退きを伝えに来たとき、話しながら泣いてました。「おがたくん、しかたがないんだ。」って。ぼくも、泣きました。

大家さんは、ほんとうにやさしいひとです。
ぼくが、家賃を払えなく成ると、大家さんの会社でアルバイトをさせてくださいました。
ある日は、炊き込みご飯を炊飯器に仕込んで、持参してくれて、「電気だけ使わせて」って、ぼくの工房で炊いて、食べさせてくださいました。「炊きたての方が美味いからな」って言って。

あるときには、工房の庭に「ツリーハウスを創ろう」という計画も いっしょにしていました。此処は1アールほどの森が有ります。ノグソ実験などもしていました(レポートは、伊沢正名さんの発行通信に掲載してくださいました)。
大家さんは、建築関係の会社の社長さんですが、「ダンサー」で、ぼくは、舞台美術や演出補佐みたいなことを お手伝いさせていただいてた時期もありました。

昔は、余裕が有ったとおもいます。
今、想うと、ずいぶん昔のことのようですが、15年前くらいまで、かなり余裕が有ったとおもいます。「ぼく」は、のどかな人間であれたと おもいます。
311災害あたりから、なんだか、生活がやりにくくなってきたように想います。画廊関係も閉まりはじめて、仕事も発表できなくなりました。
そして、コロナ社会に成ってから、どんどん追い詰められている感じ。あまり 笑えなく成った。日常が ふつうに 疲れてしまう感じ。

なんだか、
雨漏りから、話がスベってしまいました。

話を戻します。

修繕費に100万円も ぼくは用意できない。
下見してくれた業者さんに、ブルーシートなどで屋根を覆うような、災害処置みたいなことができないか? と聴いたら、「責任が持てないから請けることができない」とのことでした。

なので、いま、地平線の仲間たちに相談しているところです。
知恵を貸してほしいです。

高沢進吾さんにも相談しました。高沢さんは、カヌーを創ってるので、防水のスペシャリストだし、工作や機械に すごく詳しい。
9月23日、その高沢進吾さんが、朝からバイクで来てくださいました。
午前中に下見、会議、道具素材の買い出しのためホームセンター行き、
午後、1日仕事で ヒドい箇所から優先 治せるところを治す。
17時半、一区切り。
東角の、「イチバン最悪」の穴空き難所が、瓦復旧しました。
「屋根修繕のスタート」という感じです。
今後も、手伝ってくださるとのこと。超 嬉しい 感謝恐縮であります。
天才技術者「高沢さん」の、臨機応変な発明がすばらしかったです。
去ってゆくバイク。夕日に輝く神様のようでした。[緒方敏明 彫刻家]

モロッコのパラ・アスリートが教えてくれたこと

■パラリンピック最終日の9月5日は霧雨の降る少し肌寒い朝から始まった。空は雲に覆われ、日差しはない。マラソンコースを走るアスリートには最適な気候だろう。国立競技場に向かう外苑西通りの沿道には選手を応援するためにやってきた人達が並んでいた。思ったよりも人出は少ない。私はまだ人が立っていない沿道に立ち、1人のランナーがやって来るのを待っていた。

◆私がそのランナーを初めて目にしたのは、羽田空港のPCR検査の結果を待つエリアだった。彼、ヒシャム・ハニン選手はそこで大きく目を開き、放心したように椅子に座っていた。彼の周りに同じモロッコの選手団は既にいなかった。陽性反応が出た他国の選手のそばにいた彼が濃厚接触者と判定されたためだった。

◆その日羽田空港はトルコ航空で日本にやってきた中央アジアや中近東、アフリカ諸国のパラリンピック選手団でごった返していた。選手達は空港に着いて直ぐにOCHAと呼ばれるアプリを起動し、検疫で必要となるQRコードを係官に示さなければならない。大抵の選手や関係者は事前に必要事項を入力し、空港でWiFiに繋げば直ぐにQRコードを出せるようになっていたのだが、中にはそうでないものもいた。そんな人達を弱視ながらも献身的にサポートしていたのが、ヒシャム選手だった。

◆OCHAを起動し、QRコードの提示を終えると選手達はPCR検査に向かう。検査結果が出るまでは約1時間。検査を終え、自身の結果を今か今かと待っていたヒシャム選手に届いたのは、OCHAのサポートをした他国選手のコロナ陽性の知らせだった。知らせを聞き、茫然自失の状態となった彼はそのまま濃厚接触者として隔離されることになった。

◆それから約1週間後のパラリンピックも半ばを迎えようとしていた頃、私のところに再入国者サポートの依頼が来た。正確に言えば、再入国ではない。正式に入国するためのサポートだった。指定された場所に行くと見覚えのある顔がそこにあった。ヒシャム選手だった。

◆隔離期間を過ぎ、自身の陰性が証明されたため、正式に入国するために空港にやってきたのだった。アラビア語しか理解しない彼に身振り手振りでこれからの作業を示し、上長と共に職員専用通路からイミグレーションの前まで彼を先導した。少し興奮気味の彼は目を輝かせ、時折アラビア語で何かを呟きながら私達に着いてきた。

◆イミグレーションでは彼がアラビア語しか理解できないという問題はあったものの、弱視の彼の代わりに私が必要書類をその場で代筆することで事なきを得た。彼のパスポートに日本のビザが貼られ、入国できることを係官が示すと彼の喜びが爆発した。「これで9月5日のマラソンに出られる」と彼はパスポートを受け取りながら何度も繰り返した。

◆そして、その日がやってきた。パラリンピックのマラソン競技はオリンピックとは違い都内を走るコースとなっていて、選手村から出られないアスリートにとって東京の街並みを楽しむことができる唯一の競技だった。そんな街並みを1番で走り抜けてきたのは、ヒシャム選手とは別のモロッコの選手だった。

◆20キロ地点までメダル争いに絡んでいた彼の姿はしばらく現れなかった。「もしかすると棄権したのかもしれない」という考えが脳裏をよぎる。しばらく隔離されていた彼はその期間練習することもできず、調整がうまくいっていない可能性もあった。不安に駆られ、テキスト速報で彼の状況を確認しようとした私の耳に遠くから応援の拍手の音が聞こえ始めた。拍手の方に視線を移すと12位と順位を落としながらも力強いストライドで国立競技場のゴールへと向かう彼の姿がそこにあった。椅子に座って放心していたときとは別人の険しいアスリートの顔をした彼が私の脇を走り抜けていった。

◆その2日後の晩、羽田空港にモロッコ選手団の仲間と談笑する彼の姿があった。走っていたときとはやはり別人のような柔和な表情をした彼がそこにいた。

◆この夏私は東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会のメンバーとしてサーフィン会場と羽田空港で働く機会を得た。空港では日々新しい出会いがあり、その中で触れることができた数々の物語があった。そのひとつがモロッコからのパラ・アスリートの物語だった。自らの優しさで失意の日々を招きながらも最終的にTOKYOの街を駆け抜けたヒシャム・ハニン選手のことをこれからもずっと忘れないだろう。[光菅修


新 連 載
石ころ
その1 「面打ち師」

■狭い我がアパートの一室に、シリアの砂漠で生まれ育った三人の男性が同居している。一人は夫で、二人は夫の親族で居候中だ。2歳と5歳の二人の子供を抱え、三人の男性の世話まで焼かねばならぬ生活はカオスというほかない。

◆コロナ禍の今日、気軽に土地から土地へとめぐる旅がしにくくなったが、だからこそ、これまで歩んできた道に大小様々な石ころがあり、つまずいたり、何かを得ながら今日に至ったことを思い出す。本連載では、そうした幾多の小さな物語をここに書き留めていきたい。それらは過ぎ去った遠い日々のものであるが、今も光を放ち、私の心を捉え続けている。

◆もう15年ほど前のことだ。東京都八王子市、甲州街道沿いの古い一角に、「田中園」という茶店があった。ガラス戸をのぞくと、いつも老人が一人座っていた。こじんまりとした店の奥には茶葉の入った藍色の壷が並び、色あせた壁に能面が飾られていた。夕暮れの光が、その能面の陰影を見事なまでに浮き上がらせる。

◆老人の名は瀧澤良一さん、当時82歳。茶店を営みながら、能面をつくる面打ち師(めんうちし)として生きてきた。終戦直前の昭和20年8月2日の八王子空襲では、市街地の8割が消失し、一面の焼け野原のなかで一からの出発を経験した。終戦の貧しさから抜け出したころ、能面の世界に出会い、八王子の面打ち師に師事して面づくりを始めた。

◆瀧澤さんは半世紀にわたり、約400に及ぶ面を作った。だが自身がつくった面以上に、集めた面づくりの道具が自慢だという。「日本の職人の力は素晴らしい」が口癖だった。

◆面づくりには、ひとつの用途にしか使わない道具がたくさんある。だから、自分の技量を高めるしかない。「のみ」ひとつをとっても用途がそれぞれ違う。そのあり方を「きれいだと思う」と話していた。道具のなかで最も大切なのは砥石だ。よい砥石で道具を手入れすると心が満たされる。道具により、まず心が満たされること。それが大切だそうだ。

◆「田中園」は、ほとんどお客さんの姿を見ない店だった。だからよく店の奥の畳の間で、様々な面を見せてもらった。うら若い女性を表現した面、小面(こおもて)。輪郭がふっくらし、曲線が滑らかだからこそ、つくるのが一番難しい面だ。瀧澤さんによると小面が「完成された美」だという。

◆般若は、怒りのあまり角を生やし、鬼と化した女性だ。その目は怪しく光り、口は耳までさけている。目は「金眼」といって金色に縁取りされ、死んでいる亡霊を表わす。能の中では、こうした亡霊が現れ、生者に過去を語る話が多い。

◆なかでも「これが一番怖いよ。怒りが心頭にきちゃってるから」と見せていただいたのが、橋姫(はしひめ)の面だ。頭にろうそくをたてて丑の刻参りをし、自分を裏切った夫と相手の女性を呪い殺そうとする女性だ。能が成立した室町の昔から、いつの時代も、女の恨みつらみほど恐ろしいものはなかったのだ。

◆般若の面には、怒りや恨みだけでなく、深い悲しみが表現されている。そして怒りなのか悲しみなのかは、見る人の心のあり様によって見え方が違い、そういう曖昧さこそが能の世界で大切なのだという。

◆また面の表情は、目や口などの部分の要素ではなく、表情全体の雰囲気、調和にこそ本質があるのだと教えてもらった。それは能面を作る過程にもいえることで、ひたすら能面だけに向き合っても、本当に奥深いものはできない。花を愛でて自然の細やかさを知り、かつ大きな摂理を感じること。そうした自分を取り巻く世界を知ることが、面づくりに生きるのだ。「直接つながらないように思えるものの中に原点がある、豊かさがある」。それは一つの道を追求してきた者の言葉だった。

◆能面をじっと眺めて気がつくのは、表情が左右非対称であることだ。そこには意図がある。生前のいろいろなものを背負い、人物は右側の顔を見せながら悲しそうに舞台に現れる。僧と話をし、身の上を理解してもらい、生前の心残りが晴れると、今度は左側の顔を見せ、晴れやかな表情で舞台裏へと戻ってゆく。右が陰、左が陽だ。なるほど、右側の表情がやや暗く、左側がやや明るい。この左右非対称を意識し、角度によって表情に微細な変化をみせるのが、演じる者の技なのだ。なんと細やかな仕掛けか。しかしそれを感じるために、見る者の心も問われるのだ。

◆能の舞台にあるのは松の並木だけで、大道具、小道具も一切ない。情景は自分で感じ、想像するものという観念があるからだ。能面も同じだ。面はいたって簡素で、あとは自分で感じとるものだ。「表面的にきれいだ、美しいというだけでは能面にならない。人間の心が、その能面の内的なものを感じとることで、初めて能面は能面になる」。当時、写真家を志し始めていた私にとり、自分がこれから見つめていきたい世界の片鱗が、そこにあるように感じられた。それからも瀧澤さんは、私が訪ねると毎回決まってゆで卵とお茶を出し、面打ち師の心を語ってくれた。

◆それから数年後、瀧澤さんは突然亡くなった。茶店も8年ほど前に解体され、今ではマンションが建っている。目に見えるものは全て移ろった。だが私はそこに、往年の面打ち師の面影を思う。「面の美しさとは、そこに自然にあるもの。美しさとは目で感じるものではなく、心でこそ感じるもの」。瀧澤さんが残した言葉は今も、写真家として生きようともがく私に、幽玄の世界への答えのない思索を与えてくれる。

沢登りの夏

沢登りは楽しいが
沢の入口ではいつも恐ろしい
沢の奥に向かって
今日一日の無事を祈って
手を合わせる

水たちが
微笑しながら流れる
ワルツの浅瀬を渡り
緑の陰を思慮深く流れる
夜想曲の淵をへつり
激情に沸騰する
交響楽の滝壺に出会う

むせるような
山椒の香りの洗礼を受け
気の遠くなるような年月に磨かれた
なめらかな岩の上に立つ

尾根道にたどり着くと
ユリが向こう向きに咲いていた
その姿に見とれていると
自分も
誰かに見つめられているような気がして

振り返ると
木々のこずえの向こうに
残照を返り血のように浴びた
巨大な入道雲が
立っていた
豊田和司


長野亮之介画伯、ことし3度目の個展!!

■10月16日から今年3回目の個展「わたりの川 風見行(かざみこう)」を開催します。今回のモチーフはネコではなく、トリ。武蔵野を流れる謎の川「わたりの川」を歩き、途中で出会った様々なトリたちをカラフルな切り絵で描きます。COVID-19感染予防に留意して開催の予定です。期間中は終日在廊予定です。[長野亮之介

場所:ギャラリーヒッポ(渋谷区神宮前2-21-5)
期間:10月16日(土)〜24日(日)[20日は定休日]
時間:12時〜19時(日曜は17時まで)
 実際の在廊情報は専用ブログ(https://moheji-do.com/watarino)をご覧下さい。


死の際(きわ)に立つとき、人は何を思うのか

■未知の世界に旅をする人は、死の際に立った経験があると思う。自ら選び取った旅に進むなかでの「死の際」で、あるいは強いられた旅(病気や紛争など)の「死の際」で、人は何を思うのか。死の際で人間の本質が見えるのかもしれない。あるいは「真理」を垣間見ることがあるかもしれない。自分の命が100パーセント自分のものであった頃の旅のなかでの偶然の死は恐れるものではなかった。しかし、重い障害を持って生まれた娘の母親になってからは、「この子よりも先に母親が死ぬわけにはいかない」というプレッシャーのなかで旅をしてきた。

◆2020年8月コロナ禍にあって心臓の定期受診を受け、「突然死の波が出ている」と言われた。遺伝性の肥大型心筋症というのが私の病名であるが、通常「予後」がよく、この病気に気づくこともなく他の病気で死んでゆくことが多いそうだ。突然死への対処は、カテーテル治療、入院による薬物療法などあるが、「お子さんのこともあるし」と、確実性の高い手術を勧められた。最終武器であるICD(駅などにある自動体外式除細動器AEDを超小型にしたもの)を胸に埋め込み、電気ショックをするための電線を心臓のなかの壁に埋め込む。

◆10月の手術までの2か月間「もしかしたら突然死をするかもしれない」という日々を過ごした。発作に前兆はない。夜、眠るとき「このまま目を覚まさず、朝死んでいるのかもしれない」とも思ったが、心臓のための安静を保つよりも「走る」ことにした。やりかけの仕事、特に島の人を撮った写真を写っている人にさしあげるという作業をした。

◆妹のようにつきあっている島の女性たちに宛てた手紙も書くことにした。夜は疲れて眠り、朝、目が覚めた時に「おお、生きている! 今日も一日楽しく生きよう!」と思った。5年は生きられないかもしれないと診断された娘の夏帆は、幾度も命の危機をくぐり抜け33年間生きてきた。島の仕事をする「河田真智子」と障害を持つ者の未来を拓く役目を担った母親としての「榊原真智子」と、二人分の人生を送ってきたように思う。突然死もまた、あり。充分に生きてきたではないか、と思う。

◆誰にとっても、死ぬまでのプロセスが難しい。イザとなったらジタバタするのだろうか。自分が死んでゆくのはそれほど怖いことではないと思ったが、夏帆の顔を目の前にしたとき、死ぬということは、この子の前から姿を消すことなのだと思ったら、体が凍るような恐怖心が襲ってきた。胸にICDを埋め込んだら突然死はしなくなる。が、だんだんと心臓が弱っていくのを受け止めながら生きてゆかなくてはならない。

◆手術の前日、入院担当医に「ICDを埋め込んだ後、外からスイッチオフにすることはできますか?」と聞いた。医師は「それは……延命に関わること。ご本人の意志と家族の了解があれば」と応えた。夏帆がいなくなった後ならば、自分への延命はいらない。手術は部分麻酔でやるので手術中の様子がわかる。実はわくわくした。血管のなかを電線が通り心臓に入った感覚がわかった。

◆2021年7月16日、夏帆が34才になった。私が娘を生んだ歳になった。親としての成人式を迎えたような気持ちになる。

◆先日、長倉洋海さんの写真集『MASSOUD(マスード)』が届いた。350部限定、すでに完売という。これは2001年9月9日に自爆テロに倒れた、アフガニスタンの指導者マスードの没後20年の追悼として作られた本だったが、今まさにアフガニスタン情勢はタリバンの武力制圧によって厳しい状態になっている。マスード亡きあと息子、アフマドがリーダーとして渓谷を死守している。マスードは子どもの教育に重きを置いた。マスードの没後、長倉さんは渓谷の学校の支援を続けてきた。私も夏帆も「山の学校支援」に参加してずっと子どもたちの成長を見てきた。戦禍のなかにいる子どもたちは無事でいてくれるだろうか。長倉さんの写真集はマスードの息子のところに届いたのだろうか。

◆写真集『MASSOUD』は瑠璃色の布張りの本で真ん中にペルシャ語でマスードと書かれている。今まで見た写真集の中で、「最も美しく、切ない」写真集である。写真集の最初にはマスードが戦況の最前線に向かう、死の際に立ったときに書かれた日記がある。この日記と、40年にわたり写真を撮り続けた長倉さんの写真が融合して、「人間とは何か」「生きる真理とはなにか」を伝えてくれている。

◆私自身も夏帆が懸命に生きてきた34年間を記録したいと思う。2005年から温めてきたテーマ「医療への信頼」の写真展を11月19日から三重の写真家・松原豊さんのギャラリー「gallery0369」で開催する。この写真展は三重展のあと沖縄の島を巡回する予定。同時進行で図録写文集『医療への信頼』を作っている。島の会「ぐるーぷ・あいらんだあ」の活動を共にしてきた清水良子さんのデザインで小さな、美しい本になると思う。生きていることは喜ばしいことだと、夏帆と夏帆を支える医療者たちが伝えている。[河田真智子


今月の窓

ネットとコロナに心身の自由を預けたいま、改めてしみじみ思うこと

■昨年暮れに古本屋で見つけた文庫本を、いまも繰り返し読んでいる。「大海原の小さな家族」の小っ恥ずかしいタイトル(原題は「海の上の幸せ」)に、表紙のイラストも手抜きで、哀しい。が、中身は真逆。著者の若いフランス人は、夫と生後6週間(!)の赤ん坊、義弟と共に、1967年11月30日、小型ヨットのアルファ号でカサブランカを出港。約1年かけてタヒチ島に到着した。そのワイルドな体験が、瑞々しく感性豊かな文章で描かれている。

◆ヨットの航海記には優れた作品が多い。この本も例外ではなく、海旅経験のない私も夢中になった。ネットやメールのない時代、心は体と一緒に国を出て、二人三脚で移動した。家族や友人の消息は、寄港先で待つ郵便が知らせてくれる。数か月遅れの最新ニュース。しかし、私がそうだったように、距離感や隔絶感はあっても、4人に孤独感は皆無だった。

◆心が母国に「ひも付け」されていない分、他の旅行者との距離は近くなる。出会えばすぐに仲良くなり、地元の人たちとも温かい交流が生まれた。傷んだヨットの修理や、様々な情報収集も、人々の助けなしでは不可能だった。

◆陸旅の場合も、国境通過やビザ取得の裏技、闇両替の相場、旅行者をカモる詐欺師たちの流行りの手口から安全な宿まで、押さえておくべき項目は多々ある。私も反対方向から来た相手を見つけては互いの情報を交換した。同書には、難破したり、還らなかったヨット仲間も登場する。行く先々での「一期一会」感が行間に滲み、陸旅以上のその深さに胸打たれた。

◆海の上では甲板と船内が全世界だ。航海中に壊れたり、うっかり海中に落とした装備は、手持ち材料の遣り繰りで切り抜けるしかない。だから彼らは、寄港地の離島でも路上に注目した。そうやって拾い集めた釘やボルトやナットに、出航後、窮地を救われている。

◆あの当時、モノが何でも揃うのは一部の「先進国」だけだった。もちろん「アマゾン」などなく、陸旅の私も、身の回り品の修理や手作りに追われた。宿の布団から長いナイロン糸(縫製時の処理忘れ?)を切り取ったり、市場のゴミ捨て場でワイヤハンガーを拾ったりしたけれど、それらは律儀に恩返ししてくれた。

◆何時間も駅の窓口に並んで切符を手に入れ、町のインフォメーションで貰った地図を手に、テクテク歩いて宿を探し、そこで旅仲間とバッタリ再会して感激する。書き上げた手紙は郵便局に持ち込み、切手を盗られないよう目の前で押印してもらう。旅費のドル札やTCも、衣服のあちこちに分けて隠し持つ。旅は偶然・非効率・不確実でできており、未知の世界へ踏み出す小さな一歩の、その不安とワクワク感が妙味でもあった。

◆21世紀に入り、状況が一変した。2006年、久々に海外に出た私は、旅先も旅行者もすっかり様変わりしているのに面食らった。かつては至る所で目にし、それが土地の魅力でもあった「知恵と工夫に満ちた生活術」は、大量消費文明に呑まれて殆ど姿を消していた。

◆旅行者も然り。安宿に到着しても互いに挨拶がない。中庭から絵葉書を書く人の姿が消え、代わりに居場所となった町のネットカフェで情報を集め、予約も済ませ、故郷の人たちとのお喋りに興じている。皆さん、心は自分の住所に、軸足も国に置いたままなんですね。初めて旅先で孤独を感じたが、その私も便利さには勝てず、ネットカフェに通った。

◆最近、若い旅行者と話す機会があった。彼はネットで見つけたドイツの小さなNPO団体と連絡を取り、そこをネグラに活動を手伝った後も、オンライン上で渡りを付けながら旅を続けたという。既にネットカフェも絶滅し、知りたいことはIT水晶玉みたいなスマホやタブレット端末が教えてくれる。行く先は既知となり、そこへ怯むことなく飛び込める。彼の言葉のどこにも不安や躊躇は窺えず、その無駄のない軽快なフットワークは、泥臭い旅しか知らない私には羨ましくさえあった。

◆この夏の「バーチャル修学旅行」のニュースには驚いた。コロナ収束後の旅は、ますますデジタル度を高めることだろう。将来、「世界旅行史」みたいな本が編まれるとしたら、旅の分岐点として、「コロナ禍」や「西暦2000年頃のインターネットの爆発的普及」に1章が充てられ、そこに1行、「旅は非日常から日常の延長に変質した」と明記されるかも知れない。

◆旅心に限って言えば、それ以降の旅行者より、我々は遙かにマルコポーロやビーグル号のダーウィンに近かった。足で情報を集め、全てが手探りのアナログ旅は、スマホやタブレットの紛失・故障、ネット障害などで即アウトのデジタル旅より、文句なくタフだった。そんな「2000年以前」の知恵が、地平線には蓄積されている。若い仲間たちも、ぜひ、それらに触れて欲しい。そして、半世紀後の読み手をも魅了する旅や記録を残してくれれば、と思う。[久島弘


あとがき

■目が見えるようになって、今から秋の野山の散歩が楽しみになった。実は、新しい住処(すみか)のすぐ近くには浅間山(せんげんやま)という標高79.6メートルの小さな山がある。我が家の裏手に広がる多摩霊園からすっと入って行けるので.毎日の散歩の日課が楽しみだったのだが、その矢先の手術だったのだ。

◆見える、という能力はなんとありがたいのだろう。パラリンピックで目が不自由なアスリートたちの活躍に感動したことを思い返しつつ、普通の能力を保持し続けていることに感謝する。

◆大相撲で横綱白鵬(36)が引退するとのこと。歴代最多の優勝(実に45度!)を誇る大横綱だから大騒ぎで惜別のセレモニー、かと思ったら「品格」の問題が出て、そうでもないらしい。白鵬には69連勝の双葉山に次ぐ「63連勝」の大記録もあるのにマイペースな“白鵬流”がどこかで評価に影を落としている。モンゴル的には問題なし、なのだが。

◆秋篠宮家の長女眞子さま(29)との結婚の準備を進めている小室圭さん(29)が米国から一時帰国した。この2人、どうされるのか。そんなことまで私は心配しない方がいい?[江本嘉伸


『メダカの逆襲の巻』(作:長野亮之介)
表4 イラスト メダカの逆襲の巻

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■今月の地平線報告会は 中止 します

今月も地平線報告会は中止します。
会場として利用してきた新宿スポーツセンターが再開されましたが、定員117名の大会議室も「40名以下」が条件で、参加者全員の名簿提出や厳密な体調管理なども要求されるため、今月も地平線報告会はお休みすることにしました。


地平線通信 509号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2021年9月29日 地平線会議
〒183-0001 東京都府中市浅間町3-18-1-843 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp(江本伸方)
■メールかハガキでお願いします。ファクスはありません。


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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