2021年6月の地平線通信

6月の地平線通信・506号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

6月16日。朝方、夜からの雨が音を立てて降り続いた。7月23日の東京オリンピック開会まであと37日だ。IOCも日本政府も「やる」、と言い続けているが、戦争でも政治ボイコットでもないのに、4年に1度の五輪が今なお迷い続けているなんて誰が想像しただろうか。もちろん、新型コロナ・ウイルスのせいだ。たぶん開かれることになるだろうが、観客はほんとうに1万人入れられるのか。

◆この通信の507号が出る7月後半には決まっているだろうが、とにかく「毎日100万人のワクチン接種を」との国の号令が効果を出し始めているのは確かだ。高齢者である私自身もこの3日、新宿区下落合の会場で1回目の接種を受けた。左腕はかなり重くなり、2日は腕が上がらなくなった。2回目はこの24日だ。老人ばかりが優先されるやり方は違うと思うが、まあ、ありがたいことではある。

◆梅雨入りしたおととい14日、大和市に本屋を出した北極冒険家と仲間たち6人が来て、私の書籍をごっそり運んでいった。先月ここに書いたことを実践してもらったのだ。一行は先月末にも来て価値ある本を運んでいってくれた。私の本はエリアでいえば、極地、ヒマラヤ、モンゴル、チベット、ロシアなど5つのジャンルに分かれている。河口慧海の英文『チベット旅行記(THREE YEARS IN TIBET)』など希少本も少なくない。段ボール100箱になったというから宝物を見つけるまで整理は大変だ。私も手伝うつもりだが、最終的にどうやって生かすかは書店を考えついた荻田君にまかせよう。

◆5月31日朝、東北道であの不死身のライダー、賀曽利隆が事故に遭った、との一報を聞いた。本人に非はまったくなく、後ろからぶつけられたらしい。夫人から話を聞き、足利の病院に運ばれ、とりあえずしっかりしていると知り、安心した。常人では考えられない行動力の持ち主だが、ただ、こういう時73才のバイク乗りというだけである種バイアスがかかるのはいた仕方ない。にしてもほんとうに良かった。

◆ことしの植村直己冒険賞の授賞式が7月3日に延びた。4月5日、都内での記者発表の時は、受賞者の稲葉香さんとお会いして話ができたのでどの道、現地には行かないつもりだ。しかしその後、とんでもないことが起きていた。植村直己冒険賞の発表、「演劇のまち」など数多くのアイデアと実行力で4選を果たした豊岡市長、中貝宗治さんが4月25日の市長選に敗れ、すでにどこにもいないのである。

◆当時の神戸新聞によると、「任期満了に伴う兵庫県豊岡市長選は25日投開票され、無所属新人の元市議会議長の関貫久仁郎(かんぬきくにお)氏(64)が、無所属現職の中貝宗治氏(66)=自民、公明推薦=を破って初当選した。投票率は62.14%で、前々回(前回は無投票)を14.3ポイント上回った」。関貫氏21256票、中貝氏19591票だったという。

◆関貫氏は現市政が進める「演劇のまち」づくりを「市民の感情と合っていない」と否定。0〜3歳児の医療費無料化など子育て支援を主張、結果的にこちらが市民に受け入れられることとなった。ただ、これまで豊岡は中貝という個性が全てを舵取りしてきた。新市長にはとてつもない苦労が待っているだろう。市民の中には「選挙で勝った人はいない。ただ、中貝さんが負けただけ」と言い切る人もいる。

◆地平線会議がはじめて植村直己さんの故郷、兵庫県日高町(現豊岡市)に集まったのは、まだ日高町が豊岡市ほかと合併する前である。1999年7月「地平線発」という写真展を催した際、そのうちの7月24日を、冒険館を借りて「冒険の瞬間」のテーマでフリートークをやったのだ。夜は外にテントを張らせてもらって寝るという、贅沢なイベントだった。その後2005年4月1日、 城崎郡城崎町、竹野町、日高町、出石郡出石町、但東町と合併し、改めて広くなった豊岡市が誕生した。中貝宗治という人がリーダーになってコウノトリの繁殖(事実は県の仕事だが)独自の道を歩きはじめた。

◆最近では劇作家の平田オリザさん(彼も地平線報告者である。1981年3月第18回地平線報告会「503日間自転車世界一周」)を学長に招いて県の事業として「芸術文化観光専門職大学」を開設したのも中貝さんの腕である。その判断に市民はノーを突きつけた、と言える。あまりにも視野広く、思慮深く見える中貝市政への強烈な違和感だろう。しかし、広げてしまったスカーフをどうたためばいいのか。いい知恵は簡単には出ない。当選した側も実は地獄ではないか。うーむ。

◆きのう、浜比嘉島から電話をもらい、犬のゴンとポニョと電話ごしに“会った”。ゴン、もう20才。2人のわんこたちが幸せな余生を過ごしていることが嬉しい。(江本嘉伸


地平線ポストから

どえらい取材だ!

 こんなにどえらい取材はこれまでなかった。コロナ禍、そしてラマダンとロックダウン、さらにワイルドな小さな子供を二人連れていったパニック。加えて、何事もうまくことが運ばないのが当たり前のアラブ文化。見事に色々重なり、もう、“やってみなければわからない境地”としか言いようのないどえらい日々だった。

ラマダンが始まった

 まず現地に入って1週間でラマダンが始まった。日中の食を断つため、人々の生活は夜型に切り変わる。皆、朝4時頃に寝て、昼過ぎに起きるので、取材も昼過ぎからになる。さらにラマダン中の人の移動・密集を警戒してロックダウンが行われ、なんと終日外出禁止となった。

 しかし、「ハイわかりました」と、大人しく家で自宅待機する私ではない。経済的にも身体的にも、相当なリスクを負ってここへ来たのに、自宅待機していては何のための取材なのか。現地のルールをリスペクトしつつも、現場の人々と同様、パトカーが来たら建物の影に隠れ、いなくなったらぞろぞろと出てきて移動するという毎日だった。

 それでも、17時以降の夜間の外出は特に高額な罰金が科せられるため(トルコ南部の平均月収に相当する高額な罰金)、取材に同行する通訳や、トュクトューク(電動三輪車)の運転手に迷惑がかからないよう、17時には帰宅せねばならない。彼らは皆シリア難民で、トルコで警察沙汰になれば大きな問題だからだ。そんなこんなで、取材期間の半分を占めるラマダンの間、1日の取材可能時間は4時間弱に限られた。

 そしてもっとも「どえらかった」のは、同行した二人の子供たち、長男のサーメル5歳、次男のサラーム2歳が巻き起こすハプニングだ。今年はこれまでの子連れ取材のなかでも、群を抜いて深刻だった。まず、取材先の家の子供と取っ組み合いの喧嘩をする。子供たちは顔中、いつも傷だらけで血が出ることも毎日だ。また、現地の家族に与えられるがままにユーチューブを見せてもらい、依存症のごとくなり、口癖は「ユーチューブちょうだい」になった。深夜3時に2歳のサラームが起き出して、一人ユーチューブを見ていたこともある!

子どもたちにとんでもない量のお菓子が

 さらに、毎日とんでもない量のお菓子やジュースを難民の家族からいただき、子供たちは飴やチョコレートがなくては1時間ももたない依存症のようになった。シリア難民の子供たちは、ユーチューブを見るのも、お菓子を食べ続けるのも普通なのだが、私の子供たちは、日本で保育園に通い、規則正しい生活習慣と決まりを守って生活してきた。それがこの2ヶ月で、全て崩壊したのである。

 ルールがほとんどない自由なシリア難民の子供社会に放り出され、サーメルもサラームも次第にワイルドになり、目がギラギラしてきた。ここでは、強くなければ生き残れないので、強くなる。いじめている子ではなく、いじめられている子が「なぜやられるんだ!」と怒られる。そのようななか、夫の兄たちに「男なら強くあれ!」と説かれた子供たちは、本当に心身ともにギラギラになってしまったのである。

ママ、鬼婆と化す

 「子供は伸び伸びと育てたい」と思い、普段あまり子供たちを縛らないようにしてきたが、さすがに何でもやりたい放題のこの状況に危機感を感じ、私は一気に口うるさい鬼婆と化した。その姿に、子供たちは「ママきらい」と言い始め、「シリア人はみんなユーチューブやお菓子をくれるから大好きで、ママは制限するから悪い人」だと長男に言われた。もう、色々通り越してショックである。

 子供と一緒に差別を経験し、一緒に対処法を考えたことも忘れがたい。私たちのように東アジア系の人間に対し、心無い言葉をかけるシリア難民もいた。道をすれ違い様に、「コロナの国からようこそ」「コロナ」などと言われたり、子供たちが、「コロナ〜!」と言われて顔を叩かれたこともあった。突如として、子供たちは知ったのである。世の中には差別というものがあるのだと。

「コロナと言われたら、どう返せばいいか」とある日、長男が聞いてきた。なんと難しい問いだろう。悩んだうえで、「アハランワサハラン(アラビア語で「ようこそ」)」と返すようにアドバイスした。無礼に無礼で返すのではなく、例え相手に悪意を感じても、その悪意をはねつけるおおらかさで相手と接する経験をしてほしいと思ったのだ。彼らはこれから、日本人のハーフとして、シリア人コミュニティでこうした経験をたくさんするかもしれない。その時、屈することなく、凛とした姿勢で、ありのままの自分を生きてほしいのである。

 そんなこんなで、取材する以前に、子供パニックで取材が始まらなかったり、また差別を受け、自分たちが何者なのか、共生のあるべき姿などを子供と一緒に考えさせられた。

レインハルに秘密の取材

 この2か月をかけて取材したのは、シリア難民の多様なあり方だ。3年ほどかけて取材を続けている家族も多い。シリア国境のレイハンルでは、秘密裏の取材も行った。シリア側から国境を越えて逃れたばかりの人々や、元IS兵士など。シリア難民のコミュニティとの信頼関係ができてきたことで、これまでは接触できなかった人々との取材が可能になってきた。なかなか表には出ないこうした人々の証言を集められたことが貴重な経験となった。

[自立支援のためのショートムービーを作る]

 また、トルコ南部オスマニエでは、シリアでの空爆の後遺症と癌の痛みを抱えながら四人の娘を育てているシリア難民、ムスタファ・カービースさんを今年も取材した。ムスタファさんは、路上で資源集めをしながらなんとか生活を維持しているが、子供の学校の教科書も買えないほどの困窮状態が続いていた。

 一家の窮状を目にし、彼らを取材してショートムービーを作り、生活自立のためのカンパを募ることを考えた。ムスタファさんは、バイクとその後ろにつける荷車を買うことを切望していた。これらがあれば、より効率よく働くことができ、困窮した暮らしが改善される可能性があるからだ。

 こうして、ムスタファさん一家を取材し、現地で徹夜を繰り返しながら製作したショートムービー、「ムスタファと小鳥」を公開したところ、多くの方々からサポートをいただいた。ムスタファさんがバイクと荷車を買うための目標金額4000トルコリラ(約6万円)を超える金額が集まり、トルコで直接ムスタファさんにお渡しすることができた。「私は決して自分の人生を諦めません」、サポートを渡す時のムスタファさんのその言葉が胸に響いた。

動画の力を考える

 また、ムスタファさんの取材や表現法を通して考えたことがある。私はこれまで、写真という表現法にこだわってきた。写真は、流れていく時間の一瞬を切り取るからこそ、その切り取られた世界の外側に意識を向けられ、見る側が想像し、感じる余地が多分にある。そこに惹かれてきた。だが、目の前にいる誰かをより多くの人々に知っていただき、さらに支援に結びつけたいと願うとき、圧倒的な情報量を持つ動画の力もまた再認識するに至った。

 写真だからこそ伝えられることがあり、動画だからこそ伝えられることがある。自分はフォトグラファーだからと表現の可能性を線引きせず、伝えるうえで、その方法に柔軟でありたいと考えるようになった。

 ムスタファさんは今、バイクと荷車を購入し、収入を得て家族の生活をより良いものにするべく動き出している。集めさせていただいたサポートが、ムスタファさん一家の子供たちの未来に続いていることを思い、幸せな気持ちとなった。

86才になった夫の父と固い握手

 シリア難民をめぐる状況は、年々変化している。内戦から10年。難民の多くは、言語の違いや不安定な収入、差別など、多くの問題に直面しながらも、少しずつ異郷に根を張ろうとしている。2016年からトルコ南部に暮らす夫の家族、アブドュルラティーフ一家も、この5、6年で生活が安定してきている。兄弟で助け合って家を建て、牛や羊などの家畜を飼い、かつてシリアで送っていたような大家族での賑やかで平和な日常を実現しつつある。

 86歳になった夫の父ガーセムは、そうした家族の姿を安心して見守っているように見えた。

 昨年、彼は、家の屋上に毎日座り、ひたすら焚き火をしてシリアの砂漠を懐かしんでいたが、今年は、家の裏口に座り、ぼんやりと道行く人を見つめていることが多くなった。息子たち(つまり夫の兄たち)は生活を維持するのに忙しく、夜になれば父を訪ねてくるものの、日中はガーセムはいつも一人だ。彼は大体昼寝をしているか、椅子に座って遠くを見ていた。

 その横顔から、やはり彼は、過ぎ去った土地、パルミラの砂漠を思い出しているのだと思った。ガーセムは、自分が先祖から伝えられた沙漠に生きるための知恵や経験が、内戦という生活の断絶にあって、息子たちに伝えられる機会がないまま時間が経つだろうことに気落ちしているようだった。彼の心は、今もオスマニエではなく、故郷のパルミラにあった。

ガーセムの突然の死

 オスマニエを去る日、ガーセムと固い握手を交わした。彼は杖をついて歩くようになっていたが、頑丈な体つきはそのままで、握手したその手が痺れるほど、力も強かった。「お前だけ日本に帰って、サーメルとサラームはここに置いていきなさい」といつものように冗談も言った。いつも通りの彼との別れだった。

 それから3日後のことだ。イスタンブールから日本に帰国する当日の朝、信じられない知らせを聞いた。今朝早く、ガーセムが亡くなったという。

 ガーセムは朝7時、泊まりに来ていた友人とお茶を飲んだ。そして、バケツを取りに庭へ出た。「ちょっとラクダのところへ行って乳を絞ってくる」と冗談を言って出たらしい。それからガーセムは戻って来なかった。30分ほど経ち、不審に思った友人が彼を探したところ、ガーセムは庭のオリーブの木の下に倒れていた。86歳、沙漠に生まれ、激動のシリアを生き、難民となり、子供たちや孫たちの生活の安定を見守りながら、トルコでその生涯を閉じた。70年以上かけて築きあげたものを内戦で失い、故郷を追われ、どんなにパルミラに帰りたかったことだろう。

 ガーセムの亡骸は、2年前にオスマニエで購入した墓地に埋葬された。死ねば、自分の魂はパルミラに帰るのだから、お墓はどこでもいいのだと言っていたらしい。それほどまでに彼は、故郷に帰りたかった。

 日本へ帰国する飛行機の中で、私はガーセムのことばかり考えていた。ガーセムに聞きたいことが、まだまだたくさんあった。もっと写真も撮らせてほしかった。彼との時間を何故もっと持てなかったのか悔やまれたが、彼が亡くなる最後のタイミングで彼に会えたこと、その姿を胸に刻めたことの幸運もまた考えた。

 ガーセムのいなくなったアブドュルラティーフ一家を、私はまだ想像できない。私たちの周りは、ガーセムが残したもので溢れている。夫との出会いや困難な結婚を受け入れ、祝福してくれたのもガーセムで、夫やその兄弟に、その命だけでなく、生き方そのものを与え、導いてきたのもガーセムだった。威厳に溢れ、誇り高い沙漠の人。そして私の子供たち、サーメルやサラームのなかに、ガーセムから引き継いだ命がある。私は子供たちの中に、これからもガーセムを見るだろう。

 こうして取材は、最後にガーセムの死という予想だにしない形で幕を閉じた。トルコでの取材は終わったが、旅は終わることなく続いていく。夫や子供たちが、シリアというルーツを刻みながらここに生きている限り。(小松由佳

山小屋美容室いよいよ

■江本さん、こんにちは! いつも声をかけて下さること嬉しく思ってます。お知らせしましたように、2019年の遠征「西ネパールドルポ越冬122日間」が2020年植村直己冒険賞をいただくと伝えられ、その授賞式と記念講演会が来る7月3日(土)が豊岡市立日高文化体育館で行われることになりました(12時半開場、入場無料)。さらに特別展を7月17日から開催予定です。ほんとに驚きしかなくて、ただただ感謝の思いでいっぱいです。

◆そんな中、ようやく山小屋美容室改装の工事がいきなりスタートしました。宣言してから1年、「やります宣言」だけでは「やるやる詐欺」になりかねないので、今月、ようやくスタートをきりました。予算のない私を知人の親方ができるだけ抑えて改造する方向を考えて下さり、親方のメインの仕事の合間を縫って実行するということです。床、壁、屋根のベースの基礎をお願いして、あとは自分達でなんとかやります。完成はまだ未定ですが、年内目標です。

◆ここでのコンセプトは、「ヒマラヤとヘナ」。パーマはやりません。インドの草木染ヘアーカラーのヘナを使用し、ヒマラヤに通う美容師として私が関わる事でヒマラヤとリンクする。山のようなあるがままの美しさを追求していきたいと思います。場所は大阪唯一の村・千早赤阪村の奥千早の金剛山の登山口から徒歩10分、標高約450mです。冬は大阪なのに雪が積もる地域で車はスタッドレスが必要です。そんなところに美容室?という感じですが、逆に今後は頻繁に来ないでいいような美容のスタイルも築きあげる作戦でもあります。

◆さらにご年配の村人、特におばあちゃん達のカットもしたい。これがヒマラヤの村人と話してるようで面白く感動します。この地域は冬の寒さを利用して昭和48年まで凍り豆腐の産地でした。私の住まいは当時湯葉を生産していて美容室を作る場所はその小さな工場だった小屋です。先日、家の前で青空カットした近所のおばあちゃんは、ここで湯葉を作っていた方でした。

◆改装する前の状態を見ていただいたら懐かしさのあまり涙を流されました。当時の思い出が蘇ったようで大変喜んでおられました。そしてまた来月もカットしてねと予約をいただきました。私も同時に貰い泣きするほど感動しました。いつか通信で「山小屋美容室オープンしました」と書けるように頑張りたいと思います。(稲葉香

通信5月号の感想

■こんにちは。地平線通信5月号の感想です。今月号を読んでみて抱いた思いは、まるで今現在を切り取ったスクラップのようだ、という感想です。

 シリアから小松さん、インドから延江さん、そして全国津々浦々から届く、現場からの声。この通信が物質として残るということはこれからも読まれるということです。そのことが嬉しいのです。

 沖縄からの、お便りも印象深いです。染織一本で生きていけるか。自分の作りたいものにかける時間を、アルバイトに捧げる。それで金銭的な余裕は生まれるが、それでいいのか。

 生活のこと、社会的体裁などと冒険、挑戦への欲求の間で模索されている様を垣間見、冒険には覚悟と自分の納得がいるなと感じました。

 今ふと思ったのですが、地平線に向けて「発信」できる、というのは、あらためて不思議ですごいことですね。

 私の祖母も、二回ワクチンを接種しました。福岡の大学でも、ワクチン接種が始まっているところがあるそうです。読んでいただき、ありがとうございました。(安平ゆう

『書くことの喜びと難しさ』

■縁あって、はじめて地平線通信に執筆させていただくことになりました。谷山宏典と申します。地平線会議の発足は1979年とのこと。実は私が生まれたのも1979年です。私が生きてきたのと同じ歳月、毎月欠かさず発行されてきた地平線通信に書かせていただくということで、少々緊張しております。

◆高校生のころから山に魅かれ、大学では明治大学山岳部に入り、4年間みっちりと鍛えられました。大学を卒業した2001年には、若手OBでパキスタンのガッシャブルムT峰(8068m)とU峰(8035m)に登山隊を出すことになり、私も参加させてもらいました。それまで高所登山はおろか、海外に行ったことすらなく、いきなり8000m峰に挑戦したわけですが、ほかのメンバーに支えられて何とか目標だった二座連続登頂を果たすことができました。

◆帰国後は、「書く仕事」がしたいと編集プロダクションに入り、執筆や編集の経験を積み、30歳でフリーに。フリーになってからは趣味と実益を兼ねるべく山の雑誌をメインにしつつ、知らない分野のことを調べたり、人に話を聞いたりするのは好きだったので、編プロ時代のつながりを活かして「何でも屋」的なスタンスで今日までライター稼業を続けてきました。

◆これまでに何冊か自著も出させてもらいました。『登頂八〇〇〇メートル』(2005年/山と溪谷社)は、明治大学山岳部の学生・OBによる8000m峰14座完登の軌跡をまとめた本です。『鷹と生きる』(2018年/山と溪谷社)では、地平線会議でも報告をしている鷹匠の松原英俊さんにインタビューをして、その波乱万丈な半生、揺るぎない生き様について書かせていただきました。

◆今回、投稿するにあたって、あらためて過去の地平線通信を読ませてもらいました。そして、そこに綴られている、地球をフィールドに活動してきた方々の膨大かつ貴重な「記録」の集積に今更ながら圧倒されました。江本さんの講義がきっかけとなり、寄稿することになったという大学院生の平島彩香さんは「記録はとても尊いものである」と書いています。この言葉に私も激しく同意します。

◆私自身、ライターという仕事柄、また大学で歴史学をかじった者として、取材を通して見聞きした出来事や、話を聞かせてもらった人の想いや人生を、「記録」として正しく残していかなければという気持ちを強く持っています。記録には、それに触れた人に影響を与える力があると考えているからです。

◆20年間、物書きをしてきた中で、「書く仕事をやってきて、よかった」としみじみ感じた出来事が2つあります。ひとつは、2008年。その年、学生時代をともに過ごし、ヒマラヤでも一緒に登った大学山岳部の先輩が、海外の山で亡くなりました。葬儀のとき、先輩のお父様に挨拶をすると、「あぁ、君が谷山くんか」と言って、次のような話をしてくれました。「息子は、家では山の話をほとんどしなかった。自分の息子がどんな想いで山に登っていたのか、あなたの本を読んで知ることができた。今ではあの本は、私にとってかけがえのないものになっています」

◆お父様が読んでくださったのは、先述した『登頂八〇〇〇メートル』です。その中で、亡くなった先輩にもインタビューをしていて、仲間とともにヒマラヤの高峰に挑む、その想いを「記録」していました。お父様の言葉によって、私は自分にとっての書く仕事の意義を明確にすることができました。

◆2つ目は、「山歩みち」という山のフリーペーパーで、山岳ガイドの花谷泰広さんが主宰するヒマラヤキャンプに関する記事を読んでいたときのこと。メンバーの一人が、ヒマラヤ登山に興味を持ったきっかけとして「高校山岳部時代に『登頂八〇〇〇メートル』を読んだから」と答えているのを偶然目にしました。自分の書いたものが、知らないところで、知らない人に影響を及ぼし、その人生を変えてしまう。それは書き手としてこの上ない喜びである一方で、背筋の伸びる気持ちにもなりました。

◆もちろん、私が書いたものに何らかの力があったとすれば、それは私がインタビューをして、本に書かせてもらった人たちの考え方や行動によるものです。私は書き手としてそれを伝えただけに過ぎません。ただ、だからこそ、私は取材し、文章を書くとき、「相手の考えや想いをちゃんと表現(記録)できているか」と幾度となく自分に問いかけます。「自己」ではなく、「他者」を表現すること。それが私にとっての「書く」ということであり、難しさでもあり、やりがいでもあるのです。

◆取材をして記事をまとめたあと、インタビューした相手から「オレ(私)が言いたかったのは、そういうことなんだよ」「上手く言葉にしてくれて、ありがとう」と言ってもらえることがあります。そんなとき、私は心の裡で小さくガッツポーズをします。これからも、人に力を与えたり、寄り添えるような文章を、ひとつでも多く書き残していければなと思っています。(谷山宏典

6月のひかりに

「現代の冒険者たち」

 地球永住計画(https://sites.google.com/site/chikyueiju/hajimeni)を始めて6年目になります。江本嘉伸さんや宮本千晴さん、向後元彦さん、平靖男さん、岡村隆さんに登場していただいた「賢者に聞く」などの対談シリーズはまだまだ続きますが、私が一人で語る「映像で観るグレートジャーニー」と「写真で見る極限の民族」は先月末で終了しました。

 現在は新しい対談シリーズとして「現代の冒険者たち」を準備しています。山、洞窟、海、極地などで、現在活躍している冒険者たちと対談して、冒険あるいは冒険家の現在と未来について考えてみたいと思っています。

 その前に、新しい対談シリーズを始めるにあたって「過去の冒険、現代の冒険」(仮)というテーマで、角幡唯介氏と対談しました。

 最初は私の提案で、各自が気になる冒険者を、過去現在を問わず何人か選び、選んだ冒険者たちの特徴を俎上に挙げることで「冒険とは何か」「これからの冒険とは何か」を考えていこうと提案しました。

 それに対して、角幡氏は「個別の行動は、じつはあんまりよく知らない。ここに挙がった人のなかでも知っている人もいれば、知らない人もいる。あと、本を読んだのが昔すぎて、あまり覚えていないのもある。だから個別のことについて判断できるか、あまり自信がない」ということでした。

 ちなみに、私が俎上に挙げたのは以下の人々です。コロンブス、マゼラン、河口慧海、大谷光瑞、シャクルトン、植村直己、三浦雄一郎、中村哲、グランマ号の冒険のフィデル・カストロとチェ・ゲバラ、渓谷登攀の大西良治、洞窟バカの吉田勝次、山野井泰史、風船おじさん、冬季エヴェレスト登頂の後に遭難死した加藤保男、ナンセン、ピアリー。

 冒険とは言えないものもあるが、その場合は「なぜ冒険と言えないか」を話すことを提案しました。

 また、角幡氏からは「もういい加減、どっかに到達するという視点から脱却したほうがいいのではないか。個人的にはここ3、4年はそれを実践している(極夜行)ので、近代到達主義からの脱却をテーマで話したい」という提案もありました。

 角幡氏からは続けて、「最近の冒険や探検って、山なら山、洞窟なら洞窟みたいに、ジャンル化して、それ以外の常識外れの行動、常識の枠を広げるような行動が少ない」と言います。

「たとえば、山なら山というジャンルで先鋭的な冒険をした人は昔からいた。加藤さんや山野井さんや大西さんは、みなさん多少毛色が違うが、山の冒険者だ。こういう分野の最先端の人は、もちろんすごい危険のなかでやっているので冒険だと思う。でも今は、あまりにジャンル内行動が多すぎる。ジャンルが確立するとやり方が決まってきて、最先端の人は冒険だが、それ以外は画一的で、マニュアル的になる。日本全体でそういう傾向が強まっていて、マニュアルのない、ジャンルの決まってないような行為が全然なくなってしまった。そうじゃなくて、もっと自由な発想で、これは山でもなければ川でもない、みたいな行動がもう少しあってもいいのではないかと思って、脱システムということを言った」という意見もありました。

 角幡氏は『新・冒険論』(インターナショナル新書)のなかで、自分の極夜行のほかに、服部文祥さんと、狼の群れと暮らした男のことをとりあげています。

 それは、角幡氏によれば、「服部さんは山だけど、近代アルピニズムではないポストモダン的なことをやっているので」。また、ショーン・エリス(ロッキー山脈の森の中に野生狼の群れとの接触を試みた英国人が、現代人としてはじめて野生狼の群れに受け入れられ、共棲を成し遂げた希有な記録『狼の群れと暮らした男』の著者)は完璧に脱システム的だ」とも評価しました。

 角幡氏が極夜を選んだのも、「極地なんだけど、普通の極地探検とは違うことをやりたかったから」で、角幡氏から「対談では、そういう話がしたい」という提案がありました。

 対談当日、「私は生きていたら会いたい冒険者」3名を挙げました。

 チェ・ゲバラ。8人乗りのプレジャーボートで82人の革命戦士と共にメキシコからキューバに航海、出迎えた軍事独裁政府軍の攻撃に会い、12人が助かった、グランマ号の航海。生き残りにカストロ、ゲバラがいて、この後マエストロ山脈にこもり、やがて革命を成就した。

 河口慧海。鎖国下のチベットに潜入(見つかれば死罪)し、サンスクリット語またはチベット語の経典を多数持ち帰った。

 中村哲。パキスタンにハンセン病の根絶を担い赴任したが、井戸掘りで飲み水確保、さらに荒れ果てた土地を緑の大地に変える用水路事業に着手。彼は土木工学を独学で学び、用水路事業を成功に導いた。

 角幡氏は後者2人の行動とグランマ号の航海を、冒険である条件の「命の危険」「主体性」に合致し、真に冒険だと認めましたが、鈴木嘉和氏(風船おじさんで知られるピアノ調律師)も冒険に値するとの評価をしました。角幡氏が冒険の条件として、「命の危険」「主体性」のほかに「無謀性」が必要だと言っています。そうすると風船おじさんも冒険に値するというのも納得できます。

 実際の対談は私と角幡氏の思惑通りには進まず、多岐にわたり話が広がってしまいました。この抄録はビーパルの8月号(7月10日発売)に掲載され、同時期に地球永住計画のオンライン講演で、全編を配信する予定です。

 ちなみに、「現代の冒険者たち」の最初のゲストは登山家の山野井泰史さんで、今月下旬に対談する予定です。その他。渓谷登攀家の大西良治さん、洞窟バカの吉田勝次さんとの対談を済ませています。毎月、私が選んだ冒険者との対談の抄録を月刊誌ビーパルで掲載、同時期に地球永住計画で全編を配信する予定です。

 また、2か月間トルコに行き、シリア難民の取材をしてきたフォトグラファーの小松由佳さんの最新報告を、地球永住計画でオンライン講演していただく予定です。

 また、9か月前からYouTuberになってしまいました。「グレートジャーニーをもう一度」というタイトルで毎週土曜日午後7時に配信しています。35週目になります。フジテレビで放映したグレートジャーニーを観てもらい、その後私が解説またはゲストと対談します。今までゲストとして地平線会議でお馴染みの坪井伸吾さん、服部文祥さん、高野秀行さんに登場してもらいました。

 今週はユーコン川水源地帯での罠猟師一家との交流、来週はようやくベーリング海峡をカヤックで渡ります。半分終わったということですね。(関野吉晴

東北道でバイク吹っ飛ばされ10回転も……

■江本さん、このたびの東北道での事故では、大変なご心配をいただきましてありがとうございます。

◆5月31日午前6時10分頃のことでした。東北道の佐野藤岡IC近くの下り車線を250ccバイクで走行中、車線変更をしてきた車にぶつけられ、吹っ飛ばされました。路面にたたきつけられ、10回転ぐらいして立ち上がりました。そのときは何が何だか、まったくわかりませんでしたが、「自分は生きている!」ということだけははっきりとわかりました。

◆救急車で足利赤十字病院に収容されました。全身を強打しましたが、頭部にはまったく異常はありませんでした。「頭さえしっかりしていれば大丈夫!」。足も大丈夫。両手がひどくやられましたが、ラッキーなことに右手は動きます。そのおかげで、こうして江本さんに原稿を送れています。

◆足利赤十字病院に駆けつけてくれた息子の車で、いったん神奈川県伊勢原市の自宅に戻ると、地元の伊勢原協同病院に入院。左手の手術を受け、昨日(6月7日)、退院しました。左手の5本の指のうち4本が折れ、金属を入れて固定し、腱をつなぎ合わせたとのことですが、これからはリハビリに励みます。一日も早く元通りの体にし、もう一度、東北道で東北に向かっていきますよ。(賀曽利隆)

 私もなんと湘南に引っ越します!

■江本さん、引っ越されるんですね。5月号の通信フロントを読んで、もうあの場所へは行けないのだと思い泣きそうになりました。東京に暮らした20年間の後半(1990年代)は、荒木町に何度も何度も伺いました。

◆報告会や大集会についての打ち合わせは緊張?、でも最高に充実して面白かった。どんどん参加者が増えてギューギュー詰めの忘年会や新年会。料理自慢の各国の味。憧れの探検家が目の前にいる不思議。あの時間を思い出すと幸せで、ちょっと切ない。

◆最後に伺ったのは、2年前の4月。滝野沢優子さんとかとうちあきさんの3人での報告会の時です。お引っ越しはいつなんでしょう? 東京の実家が無くなるような気分。ありがとうございました。今後ともよろしくお願いします!

◆通信は、特に最近、各地の方々の興味深いお話がたっぷり。先月は、沖縄の染織家渡辺智子さんの文章にびっくり、自分のことかと思いました。安定収入と染織の仕事の間で揺れてる。私も長年そんな生活をしていました。どちらも中途半端で、結局、経済的安定に重きを置いてしまいましたが……。琉球舞踊の帯が織れるなんてうらやましい。模索は続くと思いますが、技術を持っていらっしゃるから、必ず良い方向に向かうと思います! いつか作品を見せてくださ〜い!

◆江本さんのお引っ越しをさみしく感じているくせに、私自身も引っ越しが間近です。4月末にアトリエを引き払ったので、家の中は糸や布で溢れそう。7月、母のワクチン接種が終わったら、山国の高山から相棒の住む湘南茅ヶ崎へ移ります。今、新たな生活を始められることは本当に嬉しい。染織作業は、狭い部屋でもできることをやっていくつもり。今年は、住まいを大きく移動する友人が何人もいて、なにかが動き出している? いやそれとも落ち着くべきところに納まろうとしているのかな。

◆関東の皆さんとお会いできる機会が増えそうなので、ものすごく楽しみです。(高山市 中畑朋子

冒険研究所書店始動す!

 突然ですが、書店を始めました。去る5月24日、神奈川県大和市に「冒険研究所書店」という名前の、実店舗を構えた書店をオープンさせました。事務所として使用していた100平米のワンフロアを改装し、書店にはギャラリーを併設させています。

 話の端緒は2年前。2019年に若者たち12人を引き連れてカナダ北極圏600kmを歩く旅を行い、それまで約20年での私個人の極地行で増え続けた装備類に加え、12人分のソリやウェア、テントや寝袋などが加わったことにより、いよいよ膨大な装備類の置き場に困りました。その装備保管場所兼事務所として借りた空き物件に「冒険研究所」という名前を付け、時々トークイベントを開催するなど利用していました。事務所開設から1年半ほど経った今年の1月末、いろいろ考え続けていた私の頭の中で、様々な想いが交錯したその交差点に「そうだ、書店をやろう」というひらめきが生まれたのです。

 それから約4か月後の5月24日、冒険研究所書店は営業をスタートしました。古本を主体に新刊も揃え、約3000冊。全体のテーマの軸は旅や冒険探検ですが、私の頭の中の興味の対象を取り出して並べたような書棚のラインナップとなっており、哲学や宗教、科学やノンフィクション、小説や絵本もあります。

 「なぜ北極冒険家が書店を始めたんですか?」と、この短い期間に何度尋ねられたか。問われる当初は、そういえばなんでなんだろうか?と改めて考え、答えをひねり出そうと頑張っていました。その回数も重なると、次第に頭の中で言葉が整理されてきます。

 1年ほど前、コロナウイルスが蔓延し始めた2020年3月。全国の小中学校が当時の安倍首相の「休業要請」により、急遽一斉休校となりました。そのニュースを自宅で夕飯を食いながら息子と見ていた私は「おい、来週から学校休みらしいよ。お前、どうするのよ」と冗談交じりに話していました、が、次の瞬間には「これは冗談で済まない人が続出するな」と感じました。

 学童保育に急には入れない、近所に子どもを預けられる人がいない、でも仕事も休めない、そんな人たちが多いだろうと感じ、その翌日には私のSNSを通じて「冒険研究所を開放するので、行き場のない子どもたちの居場所として提供します」と呼びかけました。神奈川新聞でも記事を書いてもらったことで、それを見て近所の子供達が毎日やってくるようになり、3月中は毎日4〜5名、多い日で12名ほどを受け入れたということがありました。

 不動産情報で空き物件を見つけ、事務所として利用し、大和市という土地には特に縁もゆかりもありませんが、そうやって顔と名前が一致する子どもたちの存在をリアルに感じる体験を通して、改めて「冒険研究所」のある小田急線桜ヶ丘駅前を眺めてみると、昨今の日本各地の実情同様に「書店がない」ことに気づきました。駅前にあるのは年寄り御用達の各種医院と、それに紐付くチェーン店のドラッグストア、パチンコ屋、居酒屋、コンビニ、といった具合。うーん、文化の香りが全くしない。あの子たちは、どこで文化と触れるのか? そして見知らぬ他者と出会うのか?

 そもそも事務所として「冒険研究所」を構えた理由は、極地装備を保管して半分展示するようにしながら、旅や冒険を考え、そこに人が集ってくるような場にしたいという思いがありました。ところが、1年以上経ってみると、やはり「事務所」には人が気軽にやってくる理由がないし、入るには敷居が高くなると感じていました。

 他には挙げればたくさんの理由がありますが、様々な想いが交差したところに「書店」のアイデアが生まれました。「そうか、書店の体裁にすれば、人は気軽にやってきやすいな」。そう感じました。私は「書店」をやりたいでのはなく、その深層は、人と人、人と本が出会い、化学反応を誘発させるような「場」を作ることでした。その体裁としての「書店」なのです。

 100年ほど前、アプスレイ・チェリー=ガラードは「探検とは、知的情熱の身体的発露である」という有名な一文を書き記しました。冒険や探検と聞くと、一般の人たちのイメージは身体活動の一面ばかりです。しかし、その前には見たい、知りたいという知的情熱が存在し、その知的情熱を醸成させるのは好奇心や想像力、未知への誘惑です。読書というのは、冒険や探検に続く大きなきっかけであり、私がこれまで続けてきた極地冒険の文脈に完全に一致する、新しい冒険が「書店」なのです。

 これを書いている前日、私と書店の仲間たちは、四谷の江本さんの自宅で作業を行なっていました。江本さんの大量の蔵書を冒険研究所書店に移設するための、搬出作業です。地平線会議が生まれ育ってきた、四谷の江本さん宅がこの6月末で引っ越され、府中に移るのは通信で書かれたとおりです。ある日、江本さんから電話を受けました。「荻田君、俺の本が大量にあるんだが、次の府中の家にはそんなスペースがないから、色々な人に分けて散逸させるよりも君のところにまとめて全部預けたいんだが、どうだ?」

 悩む理由がわからないくらいに「もちろんです。引き受けます」と即答していました。「冒険研究所書店」は、本を販売する書店ですが、旅や冒険の資料室としての機能も併せ持たせたいと思っていました。誰でも気軽に過去の旅の資料を閲覧でき、相談し、話が聞ける。そこに行くと誰かが旅の計画を練っていて、見知らぬ誰かがそこで出会い、新しい発想が生まれていく、そんな「場」にしたいと思っています。あれ、これは地平線会議がこれまでやってきたことそのままで、これから先もやるべきことだと、書きながら気づいています。

 2日に分けて搬出された江本さんの蔵書は、ダンボール箱にして100箱以上になりました。これから、この大量の蔵書と紙資料を細かく整理し、再編集し、閲覧可能な状態にしていきます。書店経営という面からは、全くお金にならない仕事かもしれませんが、確実に未来を作る仕事になります。江本さんの蔵書と地平線会議のこれまでの歴史全てを手元に預かり、事の重大さに一晩明けて改めて気づいているところです。

 これから、地平線会議の先輩諸氏には江本資料の再編集に関して、知見と助言をお借りしたいと思います。お力添えをいただけたら、大変有難く存じます。

 100箱以上の段ボールを搬入したことで、冒険研究所書店のバックヤードは江本蔵書で埋め尽くされました。書店を維持するためには、売上げも必要になっていくので、ぜひみなさんお気軽に来ていただき、本をジャンジャン買って行ってください。という、書店の宣伝で最後は締めさせていただきます。(荻田泰永

「冒険研究所書店」
  小田急江ノ島線桜ヶ丘駅、東口徒歩20秒。駅前ロータリーに面した青い看板の「大川原歯科医院」の2階。月曜定休。10時〜19時

父 親からの電話――   コロナが教えてくれたこと

■「お前が何をやろうが知らん。自分だけで勝手にやれ!」。父からの珍しい電話で一方的に叱られた。「なぜ俺の体を心配せんのだ、俺がどうしてるのか何も聞いとらんのか」。昨秋から施設に入り気が沈んでいるらしい父を気づかい、努めて明るい調子で書いた便りが裏目に出た。数少ない親孝行だと、書いたり書かれたりする度に送り続けてきた新聞、雑誌、地平線通信記事も、すべて打ち捨てられていたらしかった。

◆大型連休中に四国を走るにあたり、父に手紙を送った。高知で生まれ育った父を理解するため、そしてぼくのランニング活動ZEROtoSUMMITを理解し、認めてもらうために。じつは某ドキュメンタリー番組の企画を持ちかけられていた。そのなかで四国を走る意味を問われ、この父と子の相互理解を挙げた。しかし本当の目的は、静かに老いていく父に感謝の念を伝えること。いま伝えなくてはいけない気がした。そのためにも父の昔語りに耳と心を寄せたつもり。そこで返ってきたのが、思いもしない父からの電話だった。

◆度重なる緊急事態宣言の影響もあり、番組企画は見送られた。それだけでなく、いくつかの報告会等の企画も軒並み流れた。どれも父へのメッセージを宿すつもりだったが、すべての機会が閉ざされてしまった。いや、たとえ伝えても受け取ってはもらえなかったのだから、これでよかったのだろう。

◆とここまで書いて気がついた。何かを介して父に伝えようとするから伝わらなかったのではないか。きっと自分の手と声で父に届けなくてはいけなかったのだ。父の健康をいたわり、自分の現状を知らせ、そして今日があることを感謝する。それができて初めてぼくの活動に心を開いてくれるのかもしれない。様々なことをいまも奪い去りつつあるコロナはたしかに恨めしい。しかし、本当に大切なことを教えてくれたのもまたコロナではないだろうか。

◆連休中のZEROtoSUMMITでは、香川篇(瀬戸内海〜土器川〜竜王山)、高知篇(土佐湾〜物部川〜三嶺)、愛媛篇(土佐湾〜仁淀川〜石鎚山)を走った。これで1都1道1府23県計26座を走り終わり、残りは21座。活動開始6年目でいよいよカウントダウンが見えてきた。父が元気なうちに国内篇完遂の報告をしなくては。その頃には気兼ねなく岐阜に会いに行くこともできるだろう。(二神浩晃


けもの道とひとの道

岡村 隆 

第6回

■ヘイエルダールが発見して世界的に大きく報じられたモルディブの「古代太陽神殿」は、じつは仏教遺跡の「仏塔」だった。それを証明した1983年の探検(拙著『モルディブ漂流』に詳述)は、その成果だけでないさまざまなものを私にもたらした。

◆14年ぶりに訪れたモルディブで、私は、かつての秘境の島国が一大リゾート地に変貌し、首都のマーレ島にはビルが林立するなど景観が激変しているのを目の当たりにしたが、歩くべき道は「足が覚えている」ということを実感したのだ。それは、ごく単純化していえば、たとえ何年期間が空いても、戻るべきフィールドには必ず戻れるという自信につながった。また、遺跡の島への航海で競合し、のちに帰国を共にした植村直己さんとの会話からは、探検人生にはたとえ不運な時期があったとしても、志を持続させることが最も大事だと改めて実感させられた。

◆そのモルディブへ、会社には2週間の休暇届を出して出かけたのに、実際は1ヵ月後に帰国した私を待ち受けていたのは、以後何年にもわたって続く大波小波の連続だった。会社では当然、私の懲罰が議論されたが、数日後に関野吉晴の仲介で取材に来た藤木高嶺さんが朝日新聞で私の探検成果を (所属会社名入りで) 大きく報じると、すべては不問になった。そんないい会社だったが、その会社を私は半年後には辞めた。著書の原稿を書く時間を確保するためと、もっと直接に「自分たちの旅」に関わる出版・編集の仕事をするためだった。

◆同業他社の仕事仲間だった南条史生(のち森美術館館長)と辻原康夫(のち流通経済大教授)との3人で「見聞録」という編集プロダクションを立ち上げ、出版各社から仕事を請け負った。金を稼いで、実際に旅に出られる環境も整えようとして始めた仕事は、各校探検部OBや地平線会議の仲間の力を借りて、当初は順調なように見えた。実際に1985年には遠征隊を組織してスリランカの密林遺跡探査を実現し、のちに同国では「20世紀最後の大発見」と言われるようになる摩崖仏の三尊像を発見することもできた。探検部の後輩らとサハリン島のポロナイ川を下ったり、義父を俘虜の地だったニューギニアのセピック河畔に連れ出すこともできた。探検ではないが、取材費をもらってアジア各地やオーストラリア、ユーゴスラビアなどを歩き回った。だが……。

◆迷走の始まりは、『モルディブ漂流』を出した後、スリランカの探検記を書こうとして挫折したことだったかもしれない。出版各社に企画を打診したが、フィールドも活動も地味だとして断られ続け、俺の探検はそんなに地味なのか……と自信をなくした。以前から恵谷治らとともに根城にしていた新宿ゴールデン街の店で夜な夜な飲んだくれて愚痴を吐くうち、それを聞きつけた船戸与一さんが真顔で言った。「お前、それなら小説でスリランカを書いてみろ。フィクションでも書きたいことは書けるんだぞ……」。そのひと言で何かが変わった。

◆私が当時、書いて同時代の人々に伝えたかったのは、自分の探検そのものを別とすれば、そこで出会った自然の深みや、分厚い歴史の残り香、人々の暮らしの匂い、町や村の「体臭」といったものだった。それらのすべてが私を捉えて離さなかったからだ。それを表現しようとして夢中で書くうち、「見聞録」の仕事は次第におろそかになり、1年余を経て船戸さんの推薦で『泥河の果てまで』と題する長編が出たころには、会社の有名無実化は決定的になっていた。

◆当時は家でも、第2子の長男が生まれ、その子らを保育園に送り迎えする以外は昼夜逆転の引きこもり生活となったため、数か月おきに文芸誌に書く短編の原稿料を除けば、ほぼ無収入の状態が続くようになっていた。当然、旅からも遠ざかるようになったが、それでも1993年にスリランカ政府考古局からの要請に応じて遠征隊を組織し、現場へ出かけられたのは、自分の探検への執念と、女房の援助のおかげだったのだろう。

◆この遠征では、8年前に発見した三尊像摩崖仏が盗掘者に破壊されているのを再発見して、スリランカ国民の悲憤を呼ぶところとなった (日本でも江本嘉伸さんが読売新聞で報じてくれた) が、この遠征を境に、私の探検も長い中断を余儀なくされることになる。

◆スリランカでは内戦が激化し、フィールドも戦場と化す一方、私は売れない作家の生活に内心、憎しみに似た感情を抱くようになっていた。後になって数えてみれば、雑誌に発表した短編が7本、出版された長編が2本、ボツになった1000枚超の長編が2本で、それだけの作品のために10年近くを費やしたことになる。いずれも小説で成功したくて書いたというより、旅で得たものを何かの形で表現したくて、そのためだけに書いたのだから、後押ししてくれた船戸さんには申し訳ないが、もともと「作家」ではなかったのだ。

◆編プロの編集者をやめ、実質は作家でもなく、内戦で自分のフィールドにも行けなくなった私は、1990年代のこの時期、本当にけもの道を踏み迷っている心境だった。お金だけではなく、スリランカや探検に繋がる何かに飢えていた。だから、せめて細い糸でも繋がろうとして、探検部OBらと研究会を作り、歴史や仏教の本を読み、関連の学者さんたちに会い、渇水の村に井戸掘りの資金を送る活動などを続けた。その間、私と子供2人の生活を支えてくれたのは外で働く女房だった。(つづく)


コロナ禍、長い巣ごもりの中の通信愛

■2020年2月初旬、横浜港に停泊したダイヤモンド・プリンセス号内で新型コロナ陽性者確認。クルーズ船の中にだけ起こっているウイルス感染だと対岸の火事のように思っていたが、あれよあれよという間に市中に広まり、1年4か月が過ぎた。私自身はもともと仕事上のやりとりもリモートが多いので、普段の生活が大きく変わることもなく、気づかないうちにコロナの日常に慣れてしまったように感じていたけれども、長い巣ごもり状態の日々、変わらず毎月届く通信は何だかホッとさせてくれ、ページをめくると想像をはるかに超えてニッチな日本中、世界中の様子を知らせてくれた。生の報告会が開催できない今、その存在感は大きくなるばかり。

◆コロナ禍直前の通常報告会の報告者・延江由美子さんが無事にインドに戻れたのだろうか?と気になっていたが、その後を知ることができたのも通信のおかげ。505号ではニュースではけっしてわからないインドの状況も延江さんのレポートで知ることができて暫くボーッ、とインドのことを思っていた。報告会で初めて知る様々な地域や人々は少しだけ身近になり、通信によって心に染み込んでいくような気がしている。報告会が種を撒き、通信によって耕されるといった心境だ。

◆「植村直己冒険賞」を受賞された稲葉香さんの報告集『WINTER DOLPO 122 Days』、「山本美香記念国際ジャーナリスト賞」を受賞された小川真利枝さんの『パンと牢獄』、小松由佳さんの『人間の土地へ』。これらの著書とは趣きがちがうチャーミングな文章が通信に寄稿されていて、身近に感じることができ、とても嬉しい。いずれもが「おーい! 巣ごもりに慣れるなよ!」と私の頭をガチン!と叩いてくれた。

◆私は以前よりチベットにはまっているので小川さんの映像作品や映画など彼女の目が捉えているもの、寄り添っていること、その表現の仕方にいつも感銘を受けている。報告会が再開したらぜひお話を聞きたい。稲葉さん、小松さんは報告会を通して存じ上げた。延江さんもそうだが、みなさん、立ちはだかる壁を軽々と越えて(実際には苦労の連続なのだろうが)魅力的だ。あ、女性ばかり!!

◆女性といえば……私が尊敬してやまないランタンマイスター、貞兼綾子さん! 人生の半分以上の日々を費やしヒマラヤの谷に生きる人々の調査と村の発展に身骨砕いてこられた。地平線有志メンバーは2015年のネパール大地震で壊滅したランタン村をゾモTシャツで応援してきたが、5年が過ぎひと区切となった。この間、貞兼さんはランタン村に通い、キャンチェンゴンパを再建、ゾモを買い、チーズ作りや酪農組合の活動を再開させたが、ミッション完了には至っていない。昨年はコロナの影響でランタン村に行くことは叶わなかったが、アグレッシブにも住まいを鎌倉から日光の山の中に移された。昨年秋、冬がくる前にあっという間に移住して、山の神にチベット式にご挨拶し、シンシンと冬を過ごして、春には孵卵させた烏骨鶏たちとコロナ終息を待っておられるようだ。私には次のフェーズに向けて何かを準備されているように思えてならない。

◆このところ通信は年齢という距離をも超えて他者を知ることができることを私に教えてくれている。江本さんから滝本柚妃ちゃんや長岡祥太郎くんまで。いったい年齢差は?? そして九大生。本当に逞しい! 新鮮な発見に自分の目が輝くのがわかる。漠然と感じていた「若い人がコロナで傷ついている」といったことも下川千恵さんのオープンな文章によって、ぐんと響いてきた。ロマンスも応援しています!! ありがとうございます。

◆本に関する仕事をしているので、毎月の編集作業の大変さもフロントページの工夫も想像がつきます。コロナ禍にあって、変わらずに毎月届くということにどれだけの励ましをもらっているのかな……。感謝です。ありがとうございます。(田中明美

「遅れて来た読者」たわしのたわごと2

新 緑

恵瓊(えけい)行くぞ
はい恵心(えしん)様
二人は安国寺を出発する
向かうは毛利元就の郡山城

恵心は元就の外交僧
だが恵瓊は
元就に滅ぼされた名門武田氏のプリンス
幼時落城する銀山城から対岸の安国寺に逃れた

恵心様見事な新緑でございますね
恵瓊の心の中で何かが崩壊したのは
この時である

のち恵心の後を継いで
毛利家の外交僧として活躍することになる
恵瓊十八歳の春であった

 一昨年8月の地平線報告会の案内で三宅修氏の「最初の合宿で谷川岳のマチガ沢を登り、雄大な風景を見ていた時“あの日”のトラウマがすーっと溶けていくような気持ちになりました。『ヤシの実の殻が壊れるような感じ』でした」が気になりました。当日の久保田賢次氏の報告(地平線通信485号)でも、「なぜか、ヤシの実がぱかっと割れたように、いやだという思いが消えた。山に戻っちゃった」。それに先立って、土合山の家で、「串田先生が、山の家の主人、中島喜代志さんと、「お久しぶり」なんて会話している様子を見て、「これは大変なことだ。ただの人ではない」と思ったという。

 三宅氏は、敗戦の年8月5日に、学徒動員の現場で米軍機に攻撃された列車の救助活動をしたことがトラウマになって、山から遠ざかりたい気持ちであったという。友人に懇願されて、名前だけ貸すつもりで山岳部員になったという。

 さらに気になって、『雲をつかむ話』(三宅修、恒文社、1991年)を入手して読むと、三宅氏が深く関与された雑誌「アルプ」300号、終刊号に掲載された「アルプ夕映え」と題する随筆が収録されていた。終刊号まで秘められていた想い。以下引用します。

「串田さんが昔登っていたらしい」
 いったい、この重大な情報を誰が持ち込んだのだろう。たぶん神が囁いたに違いない。こうして東京外語の山岳部は、串田孫一部長をいただいて出発した。それはとりも直さず、私の出発でもあった。昭和二十七年のことである。
 この一年は事もなく過ぎた。
 昭和二十八年五月。創部に参加したものの、相変らず山に向うと目まいのような不安を感じていた私は、大勢の中に入ることで少しもはずんでこない心を慰めながら、上越線土合の枕木のプラットフォームを歩き、山の家に入った。
 その頃、今の高尾山のハイカー並の装備があったらどんなに良かったろうと思うほど、私たちは山道具を持っていなかった。懐具合が、時には一食減らしても帳尻を合せにくいほど乏しいのと、登山用品そのものが乏しかったというのがその理由だった。
 一行の中で、一人別格は串田部長だった。いかにも使いこんだナーゲル(鋲靴)やピッケル(山ノ内作)ニッカーホースにチョッキと上着。百鬼夜行のような一団に同行して、いささか参ったのではないかと思う。
 土合山の家で中島喜代志さんと楽しそうに昔話をしているのを聞きながら、私たちはわが部長が山の世界でも只のネズミではなかった事にようやく気づき始めたのであった。
 この日、天気はすばらしいの一語につきるほど晴れ渡っていた。仮眠してさっぱりした私たちは、噂にきく魔の谷川岳とはどんな山かと思いながら出発した。
 旧道を歩く。樹々の新緑が鮮やかなのに私は内心驚いていた。町の樹とまるで違うと思った。新緑を透して陽光がふりそそいでいる。何か心を揺り動かすものがあった。
 そして、道はマチガ沢に曲りこんで行った。プラチナのような発行体が若葉の向うできらめいていた。緑の炎が燃え上がったようであった。それがマチガ沢を埋める雪渓だと判ってからも、私の心の中に若緑の炎があった。
 その時、突然、何かが音立てて崩れたようであった。山と私とを隔てていたものが、五月の谷川岳の光の中で、実にあっさりと消滅していたのである。たぶん私は笑っていただろうと思う。そうでなければ、その日、何も知らないままでシンセン尾根に登ってしまうような無茶をするはずもなかったのである。

 安国寺に逃れた恵瓊が勉学に励む時、朝夕眺めていたのは銀山城のあった武田山であったであろう。なぜ彼は親の仇、毛利氏のために尽くそうと決めたのか。心の師(串田孫一)と新緑の取り合わせが、トラウマを破壊する威力があるのであれば、三宅氏の心で起きたようなことが、恵瓊にも起きたに違いない。それはどこで起きたのか。その場所を特定する旅に出た。(以下次号 豊田和司 広島在住詩人登山家)


今年も『山小屋ケーナコンサート』やります

 ■通信、お送りいただきありがとうございます。楽しく島留学生活をしている祥太郎の様子、皆様にお知らせできる機会をいただき、心より感謝申し上げます。

 通信の到着、私の所は発送の次の日、神津島は中一日後でした。

 さて、神津島ではワクチン接種が進んでいます。6月1日時点で、65才以上の島民への第一回目が完了。順次それ以下の年齢の人々へ移行とのこと。

 祥太郎を含む高校離島留学生には、特別枠ですぐに順番が回ってきます。祥太郎はまだ15 才ですが、これも特別措置で、親の同意書があれぱOK。いろいろな特例があることを知りました。メーカーはファイザー社製とのこと。

 全島民への接種完了予定は8月中だそうです。速い。

 さて、今年も『山小屋ケーナコンサート・アンデスの笛の音色を楽しむ』を開催いたします。今年で43年連続開催です。

  場所 北八ヶ岳「黒百合ヒュッテ」
    (JR茅野駅下車、バス渋の湯下車、徒歩3時間)
  日時 2021/7/10(土)19:00より
  料金 要宿泊 宿泊者無料
  出演 長岡竜介/ケーナ・サンポーニャ
     長岡のり子/ピアノ
  問い合わせ
    黒百合ヒュッテ直通 090-2533-0620
    長岡音楽事務所 03-3709-1298

 それでは、ご報告まで。(ケーナ奏者・長岡竜介


  いいね、マンガ家、ねこさん

 こんにちは。4月号の、ねこさんのマンガ、良かったです。

 「世界が同じ雨に降られている わけでもない」になるほどと思い、

 「マスクあるある」にニヤリ。せっかく知り合っても、なかなかその人の素顔が見られない時代ですね。

 通信で地平線大画伯が個展前に奮闘している絵を見て、コロナに警戒しながら電車に飛び乗り、京橋に駆けつけました。長野亮之介さんの絵から伝わってくるエネルギーに、じんわり心をあたためられました。会場で初期のガリ版の『地平線通信』のファイルを発見! そこに封じ込められた時代の熱量に圧倒され、しばし釘付けになっていました。

 家に帰って、自然の中で伸び暮らす猫たちが描かれた『地平線カレンダー』を台所の窓に置きました。絵の中のいい景色を眺めながら、毎日皿洗いをしています。(服部小雪


遠くまでスイッチ。

 妻を樹木葬に

 江本さん、お久しぶりです。読売新聞時代は大変お世話になりました。毎月、妻の加計千穂宛に送られてくる通信を、隅から隅まで読ませていただいています。

 実はその加計が、昨年秋に他界しました。56歳でした。5年前にがんと診断され、しばらくは病気と共存できたのですが、急に病勢が進みました。最期のひと月は、彼女が好きな八ヶ岳が見える緩和ケア病棟の一室に移り、「ありがとう」「幸せだった」といって静かに旅立って行きました。

 大学山岳部時代に知り合った加計は、でも基本的にはインドア派の人でした。イラストレーターなどの編集ソフトを独習し、江本さんと連絡を取り合いながら、愛機MacBookを駆使して日本山岳会の会報作りに励んでいました。

 また手仕事が大好きで、映画「君の名は。」にも出てきた組みひもを、せっせと織って帯締めを作っていました。私がバンコク特派員だった時期は、タイやラオスの山奥を夫婦で旅し、少数民族が織る伝統的な布を、熱心に集めていました。

 加計は50歳を過ぎて得た病を、自分で治そうとしました。手術・放射線・薬には極力頼らず、食事を工夫し、気功を学んで生活に取り入れていました。外科医でありながら漢方に精通する主治医に巡り合うことができ、長い時間をかけて医師と議論し、最後まで人生を自分の手でコントロールしていました。

 私はこの春から、八ヶ岳中腹、麦草峠近くの森で暮らしています。「死んだら樹木葬がいい、石の墓には入れてくれるな」という遺言に従って、これからゆっくり時間をかけて、彼女が好きそうな場所を探します。

 突然の電話で「加計について1000字以内で書いて、明日までに送れ」と言う江本さん、相変わらず新聞記者ですね(笑)。いつでも遊びに来て下さい。(宮坂永史

★宮坂君は、読売新聞写真部で活躍した人。立教大学山岳部で鍛えた山記者でもあったが早期退職した。年代の違う私は一緒に仕事したことはないが、立教出の夫人の加計千穂さんが日本山岳会の会報『山』の編集者だったことから親交があった。私は毎月「海外の山」という連載コラムを担当していて、加計さんはその担当者であり、その縁で地平線通信を読んでいただいてもいた。そういえばしばらく音信がないな、と思っていたが……ショック。合掌。(E)

通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださったのは以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志をご理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれ(実は意外にそういうミスが多いです)がありましたら必ず江本宛てに連絡(最終ページにアドレスあり)ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。

宮坂永史(10000円 近況は別記。小田原から松本に引っ越しました)/佐々木陽子(20000円)/滝野沢優子(6000円 3ネンブンデス)/小澤周平(10000円 5月31日 送金が遅れて申し訳ありません→2019年12月に1万円いただいているので特に遅れてはいませんよ)/高野政雄(5000円 いつもお世話になっております) /長瀬まさえ(5000円)/前島啓伸(10000円 いつも地平線通信ありがとうございます。もう30年以上通信に親しみ、報告会も何回かお邪魔させていただきました。が、だんだん小さな字がよめなくなり、行動もおとなしくなってしまって、通信をいただくのはもう止めていただこうかと思います。皆様の益々の活やくを祈っております)/岡村真(10000円 お支払いが遅れておりお詫び申し上げます。毎号楽しみにしております。紙媒体の良さも楽しみを深めております。「活字」とは良く的を得た単語ですね。書き手の方の想いが活き、体感するような感覚になります。→去年の2月に2000円いただいているので言うほど遅れてはいないです)


社会人2か月、なんだか充実している

■前回この通信に寄稿した時期はまだ肌寒い日もあり、トレンチコートなど着て外に出ていたが、あっという間に季節は移り変わり、半袖を着ても汗ばむようになった。社会人になり早2か月。現在は入社後1か月の研修も終わり現場に配属され、コロナ禍でも対面で社員の下積みの一環として個別指導の講師として働いている。塾講師の経験はなかったため、受験知識を必死に掘り起こし、隙間時間に知識を頭に叩き込みながら多い日は1日に4人の生徒を教えている。生徒の受け持ちはかなり変動があるものの、とりあえず継続的には14人の生徒を指導している。今、受験をしたら自分が受験したときよりいい点数が取れそうな気がする。

◆私の勤める塾には、小学生から高校生まで幅広い年代の生徒がいる。1人1人に様々な個性があり、ありきたりな感想かもしれないが、その豊かな発想力に日々驚かされる。目をキラキラさせながら、「琥珀って、はちみつでできているんだよ」と私に伝えてくれる生徒。彼の素敵な世界観を守ることができる先生でありたいと強く願う。生徒によっては大人でも驚くような経験をしており、自分も生徒から学ばせていただいている。

◆勿論いいことばかりではなく、理想通りにはいかないこともある。生徒が授業に飽きてしまい授業中に腕立て伏せを始めてしまったり、生徒との相性が合わずに上司と相談の上担当をあきらめることもあった。

また、生徒たちの実力が発揮される機会にまだ恵まれておらず、私の授業がどこまで生徒のためになっているのか悩むこともある。それでも職場内では上司から積極的にコミュニケーションを取ってくださり、ストレスをため込むことがなく仕事ができ、充実した社会人生活を送ることができている。

◆社会人になり、外に出ることで久しぶりに季節の移り変わりを体感することができることを思い出した。初夏の香りがほのかに漂い、近所の家の庭には夏にふさわしい鮮やかな花が咲き始めている。買い出しのために寄ったスーパーに梅が売られていた。実家では毎年、ウイスキーで付けた梅酒と、梅シロップを母が作っていた。特に梅のシロップが好きだ。あのシロップを炭酸水で割ったジュースより澄んだ飲み物を私は知らない。久しぶりに飲みたくなり、梅仕事をしてみることにした。

◆これほど心に余裕があったことは今までなかった。仕事自体は忙しいが、仕事のおかげで生活リズムが作られており、自分のための時間も作ることができている。そういう時間は生徒との会話のネタにもなる。たとえば、私は3才からヴァイオリンを習っており、そこでロシア音楽と出会った。父から借りたCDの説明書はロシア語のみであり、なんとしてでもその言葉を読みたいと考え、千葉大学の法学部に入学後、第2外国語としてロシア語を選んだ。

◆ロシア語の先生があまりにも素敵な先生ばかりで、さらにロシアに興味を持ち、1か月ではあるがサンクトペテルブルクに留学までした。文学部の授業まで乗り込み、法コースで取得できる単位はすべて取り切ってしまった。大学でこれ以上学ぶ術がなくなってしまったため、大学で募集していたロシアのホストタウン事業を手伝いながら、何としてでもロシア語を続けるためにロシア語を喋れるボランティアの方に話しかけ続けた。そこで本当に素晴らしい先生を紹介していただき、さらにロシア語に対して真剣な、江本さん含め数人の素敵な人たちに出会うことができた。

◆さらにロシア関連全般にのめりこみ、ロシア大使館内への(もちろん公式的な)潜入や、ホストタウン事業の一環でお料理動画を動画サイトに上げることもした。このような体験は一般的な民間企業に生きることは珍しい。しかし、現在の職場では今まで学んだことや、短い期間でもロシアに留学したことが生徒の興味を引くことや、解説の際にも非常に役に立つ。ここまで生かせる職場はそうそうない。氷砂糖の解ける様子を楽しみながら、今日も私は仕事に向かう。(松本明華


先月号の発送請負人

■地平線通信505号はいつもよりかなり遅れて5月26日の水曜日、印刷、封入、発送しました。こんなに遅れて発送が月末になったのは、会場の榎町地域センターが新宿区のワクチン接種会場となってしまったためです。できるだけ早く局に引き渡したいため、今月も作業時間を早めにして夜7時過ぎには終え、車谷建太さんの車で新宿局に運びこみました。発送時間を早めたせいか、いつもほどには人は集まらず、当初は森井さん、車谷君、中嶋敦子さんの3人で進めていましたが、久保田賢次、光菅修というベテランが加わり、そして最後には久島弘さんが駆けつけてくれて一気に捗りました。再度確認しておくと、汗をかいてくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。
 森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 久保田賢次 光菅修 江本嘉伸 久島弘


今月の窓

いま、地平線通信のすごさに打たれています

  ――アビジャンの浜のかあさんたちとの再会を報告しつつ

 最近の地平線通信はすごい。熱量がただごとではない。多種多様な書き手の登場に圧倒される。ローカルだ、グローバルだなんて関係なく、世界を股にかけた小松由佳さんのホットなレポートの隣に日本の地方都市の現場から、その地の実情や生の声が同じトーンでつづいている。

 高校生、大学生が自分の足元を見つめ、いま自分が伝えたいことは何かを考え考え書いてくる。それらを受け止めて地平線通信を毎月、しっかりつくりあげ、届けてくれる江本編集長、カッコいいし、すごすぎます。でもね、編集作業にのめりこみすぎると江本さん、動けなくなってしまいますよ、気を付けて。とメールを送ったら、ウワサの“風のような”原稿依頼が届きました。あらあらなんて光栄なことでしょう。

 江本さんに伝えたことは、実は私自身のこの半年の実感からなんです。編集作業は大好きだけど、自分で企画したことに足をとられ、動けなくなってしまいました。

 新型コロナ禍で苦境にある漁師さんたちを応援しようと、日本中の魚を使い、多彩な料理人に魚レシピを考案してもらう事業を立ち上げ、イベントやリモート教室、レシピ集づくりに奔走するつもりが、走り回る役目は仲間たちに頼むことになり、私自身はひたすらキャッチャー役にならざるをえなくなってしまいました。

 うーむ、これはイカンイカンと思っても、どんどん球がとんでくる状況を自分が作ってしまったので、内容がわかっている自分が受け止めざるを得ず、本当は浜の今を見て歩きたかったのに、書き送られてくるレポート、写真、多彩な魚レシピを受け止めるばかりになってしまいました。

 全5か国語の外国語版もつくることにしたので、デザイナー、翻訳者との打ち合わせがひたすら続き、室内、徹夜続き、マスク装着という状況下、呼吸がどんどん苦しくなりました。

 それが4月に一転。上記の企画がほぼ形になり、あとはまとめ作業と報告業務というタイミングで、1年遅れのアフリカの仕事が急遽、再スタートになったんです。

 私たちだけでは再スタートのタイミングをつくるのが難しかったけれど、チームを組んでいる米国の研究機関が「新型コロナのワクチンを接種したから現地へ行く」というのです。

 日本のワクチン接種は遅れてるよー、まだ行けないよーというところでしたが、一方だけが現場へ行くのはプロジェクトにとって非常によくないことを体験的に知っているので、「ここは私たちも行かねば」と腹をくくりました。

 現場はコートジボワールのアビジャン。4月時点ではまだ新型コロナのワクチン接種の目途はないため、メンバーのうち3人の命知らずの女たち(87歳のボスと58歳の私と54歳の栄養大教授)が覚悟を決め、コロナ以外の4本のワクチンを打ち、PCR検査を受けて飛行機に搭乗。アビジャンに降り立ったら、ようやく呼吸ができた気がしました。そうなんです、本当に半年ぶりに深呼吸ができた気がしたんです。やっぱり現場はありがたい。

                 *

 アフリカでの活動は2011年、西アフリカの国際機関から熱いラブコールが届いたのが始まりでした。若くエネルギッシュな事務局長がある日、「22か国の漁村女性を集めた組織をつくった。最初のワークショップに日本の知恵を借りたい」と山のようなメールを私に送ってきた。

 国際会議でたった1回、会っただけの人から、こんな熱いメールが届くなんて……。日本のNGOだからといって、こちらが零細NGOだとわかっていないんじゃないだろうか? 世の中にはいろんな出会いがあるけれど、これは行かねばならない出会いなんじゃないだろうか。さかのぼること18年前、日本で魚の価値を考え始めたのも突然の出会いからだったけれど、今回アフリカがいきなり身近に迫ってきたのもきっと、何かの導きに違いない。ボスとふたり、もはやアフリカへ行くつもりで議論を重ね、手弁当でモロッコへ駆け付けました。

 アフリカ女性に伝えたいと決めたのは、魚の「すり身」加工技術。じゃこ天、つみれ、さつまあげ、という日本各地の漁村で1000年以上前からつくられてきた魚のすり身加工品をアフリカの浜の女性たちがそれぞれの浜でつくったらどうだろう。

 バラエティが広がり商売の糧になるし、栄養改善にもなる。環境問題にも寄与できる。アフリカの沿岸は日本と同じように多様な魚がとれるけれど、加工法は「干す」か「燻す」かばかり。燻す木材は使い果たし、古タイヤやごみまで燃やして加工している、と聞いていたので、これはすり身の出番だ、と考えた次第。

 すり鉢とすりこぎを背負ってアフリカへ出かけ、22か国から集まってきた浜の女性たちに「こうして魚をスリスリ……」と説明すると、歌いだす人、踊りだす人の輪ができて、とにかく楽しいワークショップ。

 できあがったすり身でハンバーグをつくって食べたら、はじける笑顔で「もっと教えて」「商売にしたい」。さらに「こういうことを教えてほしかった」「次は私の国にきて」という女性たち。間違ってなかった、来てよかったと実感した瞬間でした。

 以来、年1回のワークショップを細々と続けていたところ、米国の食料政策研究機関と出会い、一緒にやりましょうというありがたいオファーを受けて、今回のアビジャン・ワークショップはいままでにない大規模なものが予定されています。これはもう、現地にとっては大変なチャンス到来です。ところが新型コロナ禍でまったく事業が進まないまま1年が過ぎ、どこかのタイミングで活動を再スタートさせなければ……というのが今年春の状況でした。

                 *

 そうして訪ねたコートジボワール。4月29日、アビジャン空港に降り立ち、懐かしい浜の女性たちと再会すると、みな一様にやせていて、新型コロナ禍を実感しました。コートジボワールは感染者が少ないため、影響は小さいのではないかと想像していましたが、感染症が経済活動を停滞、破壊させるのはいずこも同じ。

 腸チフスになった人、乳ガンで倒れた人、経営していたレストランをたたんで物売りになった人など、泣けてくる話ばかりの再会になってしまいました。それでも再会を喜び思い切りオシャレして来てくれた浜の女性たちのたくましさ、明るさに「よーし、今年の夏はアビジャンでみんなを励ますようなワークショップをやるぞ」とあらためて気合が入りました。

 「小さくても仕事づくりをしよう」と、予定にはなかったアイディアも頭に浮かび、いま日本に戻り準備を進めているところです。

 この半年間、事務局にこもる形で作業してきて、企画したことがかたちになり、目的だった「日本の漁師さんを応援する」を多少とも実現できたのはありがたかったけれど、アビジャンへ急遽出かけた実感は「やっぱり現場にいたい。からだを動かせるのはありがたい」。考えて、行動して、記録する、がバランスよくできたらいいですね。

 江本さんは記者もデスクも経験され、新聞社とモンゴル国を巻き込んで「チンギス・ハーンのお墓をさがす」なんて一大プロジェクトも立ち上げてしまった大ベテランだからきっとうまくサイクルができているのだろうと思うけれど、それでも名編集長になればなるほど、動けなくなってしまっているのではないかと勝手に心配しています。江本さん、思い切って「地平線通信」の1回分をどなたかに預けてしまってはいかがでしょう。

 江本さんはフロントだけ書いて、行動者・江本にもどる時間を取りもどすこともまた、地平線会議という“生きもの”にとって大切なことではないでしょうか。本当に僭越ながら、そんなことを思い、冒頭のメールを書き送りました。地平線通信の充実ぶりに心からの感謝と敬意を表します。(佐藤安紀子 編集者)

 長野淳子逝って3年

 妻の淳子が盲腸がんで亡くなり、今月18日で丸3年になります。彼女が通信に書いた【生ききりたい】の文章を最近読み返しました。強い心の人でした。闘病期からコロナ前まで、我が家には友人知人が毎週のように訪れて賑やかでした。今の世の中を天から見て彼女はどう思うのかなと、ときどき思います。

彼女が臨終を迎え、僕が今も住んでいる家は淳子の実家です。彼女の幼少時は周辺にまだ家も少なく、武蔵野の雑木林の面影が色濃く残っていたとか。近所の団地に当時住んでいた地平線仲間の神谷夏実さんは、「あの辺は森みたいで怖くて近寄れなかったよ」と話してくれました。

そんな自然の中でのびのびと遊んでいたからか、淳子は野の花が大好きでした。我が家の野性的な庭も愛し、近所で家が立て直されて庭が消えて行く中、この風景がいつまでも残って欲しいと願っていました。その想いを汲み、命日に掛けて開催する今年のミニ個展のタイトルを「J...花めぐる庭で」としました。

雑草をモチーフにした新作を8点ほど展示する予定です。

  /会期:6月18日〜23日
  /場所:器とカフェ「ひねもすのたり」
     阿佐ヶ谷駅から徒歩2分。詳細は
特設ブログにて


あとがき

■荒木町でつくる最後の地平線通信をお送りする。あまりにもここに長くいたので多くの人が寂しいと思ってくれているようだが、42年も同じところとは異様ですよ。

◆確かに便利ではありました。地平線会議を欠かさず続けてこられたのは一つには住環境に恵まれていたことがありましたね。新宿区という地域のいい一面でした。

◆しかし、目の前に新たにビルが建ちそうになって割り切れました。もう、ゆっくり暮らせる場所を探そう、と自然に思いました。ただし、こういう時の決断力は連れの方が断然優れている。私には思いつかない府中の家をたちまち探してくれた。が、ほんとに来月は荒木町にいないのだろうね。

◆1964年の東京オリンピック、新米記者だったのでよく覚えてますが、今回と違ってあの時は10月だったので気候的にはほんとうに良かった。しかし、当時の私の印象は、六本木から空が消えた、というものでした。高速道路というものが空を覆ってしまい、なんとも無機質な世界が登場したものだ、とため息をついたことを覚えています。

◆では、オリンピックというものがほんとうに始まるのか、来月見極めましょう。荒木町よさようなら。(江本嘉伸


『水の道を歩くの巻』(作:長野亮之介)
イラスト 水の道を歩くの巻

《画像をクリックすると拡大表示します》


■今月の地平線報告会は 中止 します

今月も地平線報告会は中止します。
会場として利用してきた新宿スポーツセンターが再開されましたが、定員117名の大会議室も「40名以下」が条件で、参加者全員の名簿提出や厳密な体調管理なども要求されるため、今月も地平線報告会はお休みすることにしました。


地平線通信 506号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2021年6月16日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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