2021年5月の地平線通信

5月の地平線通信・505号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

5月26日。正午の気温24度。いつになく遅い月末の通信発行となったのは、印刷、封入など発送作業にお借りしている新宿区榎町地域センターが先週はワクチン接種会場となり私たちが事前予約していた日は使えなくなったからだ。地平線報告会はまだ開けないので報告会の予告と結果を伝える通信が1週間遅れてもそんなに気にする必要はない。ともあれ、ワクチン問題でこの通信もとばっちりを食ったことはしっかり記憶しておこう。

◆それにしても、だ。いまや、世界の関心事は「ワクチン接種」なのに、小さな島国ながらサイエンス部門で毎年のようノーベル賞を獲り、医療については世界トップレベルと思っていた我が日本がこれほど後れを取るとは誰が想像しただろうか。「ワクチン敗戦」という表現が沁みるのである。そんな中でアメリカの国務省が24日、日本の危険度を最も高いレベル4の「渡航してはならない」に引き上げたことは驚きのニュースだ。やはりそう見られているのだ。

◆そして、きょう26日の朝日新聞朝刊の社説である。「夏の東京五輪、中止の決断を首相に求める」との見出し。メディアの一角で東京オリンピックの協賛を表明していた大手新聞社がついに「新型コロナウイルスの感染拡大は止まらず、東京都などに出されている緊急事態宣言の再延長は避けられない情勢だ。この夏にその東京で五輪・パラリンピックを開くことが理にかなうとはとても思えない」と書いたのである。

◆1964年の東京オリンピックを新聞記者として取材した私には不思議な展開である。オリンピックを実行した時の熱気をどこかさめながらも体感している私にはあの時とは違う風景を見てみたい気持ちが不謹慎と知りつつある。新型コロナウイルス渦中の五輪とは何か、という未曾有のテーマがいま目の前で進行しているのだ。いいか悪いかは別にこんな事態が2021年の世界で起き、それはオリンピックの開催を吹き飛ばすかもしれないのである。

◆さて、ワクチンだ。80才になった私自身は、いいのかどうなのか、優遇されている。「接種クーポン券」が届き、2回目の予約申し込みでなんとか打てることになった。接種予定日は6月3日、場所は新宿区落合第1地域センターという施設だ。3週間後あたりに2回目の接種がある予定だが、詳しくはわからない。もしかしたら、1か月あるいはそれ以上先になるのかもしれない。ワクチンを打ってもらえるのは安心だが、自治体の長とか議員とかが「優先接種」されたことが判明すると大騒ぎになるのはどうしてなのだろう。1週間早いおそいはあるにしてもどのみち皆にまわってくるのではないか。

◆地平線通信で世界のワクチン接種率を毎月記録するなんて想像したこともなかった。荒木町の我がマンションに住んで42年になる。地平線会議はここで生まれた。1979年8月17日、ここで徹夜の話し合いをし、「地平線会議」という名を決定、探検冒険年報『地平線から』の刊行、地平線報告会の開催、その告知と記録を中心とする地平線通信の発行を決め、継続してきた。当時、私は38才だった。もちろんこんな老人になるまで地平線をやっているとは思いもつかなかった。

◆最近地平線に来た人には想像できないだろうが、地平線会議を立ち上げた動機の1つとして、冒険探検年報『地平線から』の刊行があった。はじめ森田靖郎、次に白根全と2人の編集長が頑張り、8冊まで刊行した。その1冊1冊は、民衆の旅と冒険の記録として今も光を放っている、と思う。8冊目の年報『地平線から・第八巻 1986〜88』に「地平線会議の10年」という大型の座談会の記録が掲載されている。賀曽利隆、恵谷治、岡村隆、宮本千晴、向後元彦、森田靖郎、白根全ら17人が荒木町の我が家に集まり、長野亮之介が司会進行した。10年も経って同じ顔ぶれかよ、この10年後も同じじゃないの?というこのときの率直な声は、まさにその通りになった。

◆荒木町を拠点のようにして続けてきた地平線会議。3月号のフロントで書いたが、真向かいの2階建ての割烹料亭が相次いで壊され更地となった。年内にビルが建つらしい。もう青空はのぞめないだろう、潮時だね、と連れと話し、引っ越しを決意した。しかし、どこに移り住むのか。そんないい場所が得られるのか。比較的速く府中の眺望のいいマンションと決めた。問題は結構ふるい我がマンションに買い手がつくか、であったが、それもなんとかなった。地平線会議はもうすぐ住所を変更する。

◆一昨日の24日、神奈川県大和市に行った。荻田泰永の冒険研究所書店がオープンするというので見に行ったのだ。小田急江ノ島線の桜ヶ丘という駅の東口のまん前にある歯科医の2階。明るく、広々としたいいスペースだった。引っ越しを機に私は自分の書籍をどうするか迷いに迷った。あたらしい場所にスペースは取れない。そうか。次の世代につなぐ仕事をやろうとしている荻田君に協力しよう。そう決意した。(江本嘉伸


祝! 山本美香記念国際ジャーナリスト賞同時受賞

「設定」について

 チベット人は、どのくらいのひとが輪廻転生を信じていますか?

 5月のはじめ、長野県の老舗映画館、上田映劇でチベット映画特集があった。上映された映画のなかに、輪廻転生にまつわる物語があった。上映後、アフタートークでお話をしたとき、観客のかたからいただいた質問が冒頭の問いだった。

 チベットにまつわるトークをしているとき、「輪廻転生を信じるか?」という質問をよくいただく。きっと、ダライ・ラマ法王やチベット仏教の高僧の生まれ変わりが後継者になるという「化身制度」が、スピリチュアルで不思議な世界にみえるからだろう。この質問をもらったとき、わたしの答えはいつも決まっている。

 けれど、この日は一緒に登壇していたチベット研究の猛者たちがどんなふうに答えるか興味深く、黙っていた。すると、一緒に登壇(リモート)していた東京外大の星泉教授が秀逸な回答をした。

 「チベット仏教を信仰することにはいくつか設定があります。輪廻転生もそのひとつ。“設定”と呼んでいます」と。なるほど、信じるか、信じないかではなく、“その設定のなかで生きている人びと”という星教授の表現に思わず唸ってしまった。

 デンマークの人類学者レーン・ウィラースレフが、この設定を、精霊にたとえている。「どこに精霊がいるのかと問うならば、それは人々の活動の関係的な文脈のなかであり、精霊は世界のそこに『実在する』と同時に人びとの精霊を含み込んだ活動によって『作られる』」(『「シェルパ」と道の人類学』より)。

 この“設定”に科学的根拠やエビデンスなんて必要ではなくて、こうした設定があって、この設定で生きる人びとのなかに、ある習慣や所作が実在している、というだけなのだ。

 先日、第8回山本美香記念国際ジャーナリスト賞を受賞した拙著『パンと牢獄 チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』に登場するチベットの人びとは、まさにこの設定を生きるひとだった。

 とりわけ狂信的にチベット仏教を信仰している、というより、生活のなかにするりと取り入れ、自然体なひとたち。わたしがなぜ、チベット亡命政府があるインドのダラムサラに住まい、チベット語を学び、彼ら彼女らにカメラを向けたのか。その理由をひとことで答えるのなら、この設定のなかで生きるひとがとても魅力的に思えたからだ。

 小さな虫だって前世で、あるいは来世で自分の母親かもしれないと思えば慈しむし、無下に殺生したりしない。雨あがり、道ばたに飛び出てしまったミミズを、誰かに踏まれないようにと隅によけてあげたり、部屋に入ってきてしまったハエには「パギュ(あっちへ行って)!」と窓の外へと誘導したり。この細やかな優しさがいたるところに散りばめられていて、それに虜になってしまった。

 そして気づいたら、10年の歳月が流れていた。そのことを文章に書いたら、賞をいただいてしまった、と書くと怒られてしまいそうだけれど、わたしはジャーナリストでもなければ新聞、テレビの特派員でもなく、ただわたしの興味の赴くまま流されるままカメラを向けてきた、というのが違和感のない表現だ。

 この賞を受賞し、あるチベット出身の友人から「ダラムサラの“パン”の人びとのために、ありがとう」と声をかけてもらった。本のタイトル『パンと牢獄』。この“パン”は、主人公の女性ラモ・ツォが「パン売り」だったから、ということだけでなく、“市井のひと”の象徴としての言葉だ。どうしても、その“設定”で生きる生活者のいま、を描きたかった。

 そうはいっても“パン”だけでは語りきれない。ダラムサラに暮らす人びとが、なぜインドに亡命せざるをえなかったのか。そこに個人の物語だけでは語れない、歴史の悲劇がある。この歴史の悲劇から逃げてはいけないことだと思った。それが“牢獄”に象徴される、ラモ・ツォの夫ドゥンドゥップ・ワンチェンの物語である。

 ただ、彼とは何度語り合っても、きっと分かり合えないだろうとも思う。いまも頭から離れない、ドゥンドゥップの言葉がある。彼の獄中の経験や命がけの亡命について「恐怖はなかったのか」と問うたときのこと。

 「もともと仏教では現世は“苦しみの大海”であるという教えがある。だから、刑務所のなかを“苦しみの大海”と思って、やり過ごしていた」

 苦しい表情で語ったドゥンドゥップが生きる“設定”は、よりストイックで悲しい歴史を背負っていた。

 いま、ドゥンドゥップは自身が逮捕されてから米国へ脱出するまでの空白の10年を映画化するべく映像の編集を進めている。わたしが撮影してきた映像も使われる予定で編集など協力している。ちょうど先週、編集した現段階の映像データが届いた。完成にはほど遠いけれど、気長に伴走したいと思う。“苦しみの大海”から、ドゥンドゥップがすこしでも解放されるように……。

 ところで、冒頭の問いに戻る。輪廻転生を信じるか? わたしがいつも決まって答えるのは、「信じるか、信じないかではなく、わたしはこの考えかたが好きです」。(長野市在住・小川真利枝

国境の街レイハンルで山本美香さんの言葉を思う

 現在、5月23日の午前0時。取材先のトルコ南部、シリアとの国境の街アクチャカレにて、このレポートを書いている。

 外では、トルコ人やシリア人の子供たちが、こんな時間ながら路上でサッカーをして自由に遊んでおり、その歓声が聞こえる。

 私は宿泊先の家のこじんまりとした庭にマットレスを敷き、座っている。すでに電灯は消え、心地よい夜の暗がりに、この家の家族はめいめいにお茶を飲んだり、横になって眠っている。

 ここアクチャカレでは、5月半ばに入ると日中の気温はすでに35度以上だ。屋内では暑くて、夜もとても寝ていられず、涼しい屋外に座り、食事をし、眠る。取材に連れてきた二人の子供たち(5歳と2歳)は、今日もエネルギーを消費し切って、蚊の襲撃にも反応せず、寝息をたててぐっすり寝ている。見上げると星がチカチカ光り、綺麗だ。内戦前に足繁く通った、シリアの沙漠の夜空を思い出す。

 この家に住むのは、シリア難民として暮らす夫の姉の一家だ。以前、地平線通信で書かせていただいたムハンマド(労働のため来日し、羽田空港の入管で11日間拘留された後、解放されて現在千葉で労働中)の実家でもある。この家で、ムハンマドの年老いた父親と母親(夫の姉)、姉の3人が、ムハンマドの身を案じながら、彼からの仕送りで暮らしている。

 ムハンマドの家は国境からわずか30メートルの距離で、コンクリートの壁の向こうには、国境の証であるトルコとシリアの両方の旗が、堂々と風にたなびいているのを見ることができる。

 国境のこの街の、それも極めて国境に近いこの家を選んだのは、少しでもシリアの近くで暮らしたかったからだと言う。一家は、2016年、ISの統治下だったラッカで、ムハンマドの弟である次男レドワンが行方不明になっている。彼の携帯電話の中にあった写真が原因でIS戦闘員に連れて行かれた後、消息が分からなくなった(詳細については、拙著『人間の土地へ』の「もう一人のレドワン」に詳しく書いております)。

 以来、一家は次男レドワンの無事を祈り続けている。

 シリア難民の取材のため、4月初めからにトルコにやってきて、まもなく2か月。もともとコロナ禍の中で、相当のリスクも覚悟していたが、長男のサーメルが寄生虫に感染したり(ある意味、コロナ以上の衝撃だ)、ラマダンとロックダウンとが重なり、とにかく動きづらい日々である。

 ラマダンとは、太陽が出ている間、すべての食を断つというイスラム教徒の恒例行事で、この期間、人々は夜型の生活に切り替わり、日中起きなくなる。大体朝の5〜6時くらいに寝て、13時頃に起きるのが普通だ。そしてラマダンが明ける19時〜19時半頃までは、女性たちは食事作りに忙しくなり、男たちはさらにゴロゴロして(!)過ごす。

 ラマダンの間は、親族間の訪問が夜間に激増することから、コロナの感染を抑えるため、20日間近くにわたるロックダウンが施行された。毎日17時以降の外出、土日の外出は禁止というもので、違反者には高額な罰金が課される。

 このラマダンとロックダウンのなかで、取材に出られるのは人々が起き出す13時頃からだ。しかもロックダウンの取り締まりが始まる17時には帰宅していなければいけない。

 さらに、子連れ取材のため、ただでさえ効率が悪くなるのに加え、「ワクト・アラビー(シリア時間)」と呼ばれる、アラブ人のかなり大雑把な時間感覚(1時間の遅刻は当たり前)もあって、約束の時間に通訳が来ない(起きられず!)、運転手が来ない(起きられず!)、さらに取材先に行くと、家族が起きていない(!)などの事態も毎日起こった。ことが全くうまく運ばないのが当たり前と考えなければ、とてもやりきれない。

 さらに1か月を過ごした国境の街レイハンルでは、シリア側から越境してくる難民の存在や、両国の軍事施設がある関係から厳しい監視体制が敷かれ、外国人である私がカメラを持って歩いているだけで住民に通報され、警察署に連れていかれる(実際、この街での路上での撮影は禁止されている)。こうした監視体制と、子連れのドタバタ、コロナ、ラマダンとロックダウンの行動制限、さらにもともと取材しにくいイスラム文化の世界観とが重なり、これまでで最もえらいことになった取材の日々となった。

 また昨年までは、取材に子供を連れるメリット、デメリットについても考える余裕があったが、今年はもうそれどころではなく、子供たちが喧嘩して毎度取っ組み合いになり、鼻血が出たり顔中傷だらけになり、「取材を中断する」のではなく、そもそも取材が始まらないという事態になっている。えらいことだ。

 そんなどうしようもない日々の中で、山本美香記念国際ジャーナリスト賞受賞の報をいただいた。昨年9月に上梓させていただいたシリアをめぐるノンフィクション、『人間の土地へ』(集英社インターナショナル)を評価いただいたとのことで、まったくもって光栄としか言いようがない。

 知らせを聞いてまず蘇ったのは、2012年に、シリアの取材中に亡くなった山本美香さんをめぐるドキュメンタリーの記憶だ。山本美香さんの死後に、関係者の取材からまとめられたその番組で、山本美香さんのこんな言葉が紹介された。

「(これだけやりがいのある)この仕事に出会ってしまった。もうやめられない」

 そこに、自分にはこの道しかないという、強い覚悟と生きがいを感じ、長らく忘れられずにいた。私もかくありたいと思ったものだ。

あれから時が流れ、私もまた、山本美香さんのその言葉の如く、唯一無二の自分の道を、必死に追い求めてきたように思う。そして追い求め続けてきたら、いつのまにか道ができていたことも、最近になり実感している。

 この原稿を書きながら、何度かウトウト寝てしまい、一度、シリア側から聞こえた銃撃音に驚いて起きた。爆発音や銃撃音も、この家の家族にとっては当たり前のことのようで、彼らは寝続けている。気づけば外は明るくなってきた。小鳥が起き出し、囀り、遠くのどこかで鶏がコケコッコーと鳴いている。さあ、今日もパニック取材が幕をあける。一体どんな出会いや、不測の事態が起こるのだろう。

 今しかできないことをやり、今、目の前に開ける世界を、今日も見つめよう。(小松由佳


特別レポート

インドで起きていること

■新緑の美しさが目にも心にも染みとおる季節。でも心は晴れません。このところ私たちが日本で直面している現実は目も当てられませんが、インドもまた非常に危機的な状況に陥っていることは皆さんご存知でしょう。

 今年の2月でしたか、「インドでは感染者がいきなり激減してきている、集団免疫が獲得されたのか?」というようなニュースが報じられました。インドはやっぱりすごいなあ〜、なんてちょっと浮かれていたところが、4月になって驚愕する感染爆発が始まりました。感染者も死んだ人も発表される数字よりはるかに多いことは想像にかたくありません。

 とにかく広いインド。私が聞き及ぶことは実に限られているのですが、もう十分すぎるほど悲惨な状況が伝わってきます。西部マハラシュトラ州・プネに住んでいるシスターから数日前に連絡がきました。「虫のようにどんどん人が亡くなっています。祈ってください」。

 デリにあるMMS修道院の7人のうち、5人が陽性。東部ビハールの州都パトナからも、イエズス会の神父さんたち(それも30代、40代の若い層)が次々と“no more……” という知らせ。当たり前のことですが、1日の感染者数が何十万、死亡者数が何千、というのは数ではなく、1人1人の人間なのです。

 「どうしていきなりこんなことになっちゃったのかわからない……」「誰かが操作して、でっち上げてるんじゃないのかって言う人もいる」。スマホ先のシスター(デリに戻れずプネで待機しているもう一人のシスター)は為す術もなく途方に暮れているようでした。同じくプネを拠点にするソーシャルワーカーの友人(マハラシュトラ州出身)が送ってくれたメールを訳したのでシェアします。

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 インドのほとんどの政治家にとって医療制度の充実は重要事項ではなく、今の緊急事態にあって国民、とりわけ貧困層や社会的に無視された人達への医療提供はほとんどなされていない。製薬会社には病院に配給すべきコロナの治療に必要な薬を買いだめするものもある。

 ワクチン接種がなかなか捗らないのは、地方の貧困層や読み書きのできない人々は正しい情報が得られないのでワクチンについての偏見があることや、諸々の宗教団体が誤った情報を広めているといったことも要因だ。

 1962年と1965年に結核やポリオが流行した時は、ワクチンは無料で提供された。今回、政府は当初ワクチン接種は無料ですると言っていたが、数日前になって料金を公表した。私立病院でもワクチン接種は有料で(金額はそれぞれ異なる)、いずれにしても貧しい人たちにとっては手が届かない金額。

 教育も大きな問題だ。政府は去年の7月からオンライン授業を許可。ほとんどの裕福な学校はオンラインに切り替えたが、スマホやラップトップやタブレットを持つ子供だけの特権であるし、そもそも、貧困層や社会から取り残された先住民族や電波の届かない、届いても極めて不安定な地方の農村部に住む子供達にとっては到底不可能なことだ。

今年になってからヒンズー教の大きな宗教行事がいくつかあった。そして選挙を控えての大規模な集会も様々な州で執り行われている。一方で大学や学校を始め教育施設は閉鎖を余儀なくされた。市場も日用品を売る店も閉鎖か厳しい時間制限を敷かれ、経済活動は崩壊状態だ。

 我が国の感染状況は国際社会に広く報道され多くの国々からの支援が寄せられることになった。それと同時に、コロナ・パンデミックがいかに無秩序に対処されているかが露呈されたわけだ。

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 モディ政権はこれまで自分たちに都合の悪いことはなんでも隠し通してきた(とりわけ国際社会に)というのが私の印象でしたが、今回ばかりはそうはいかなかったようです。

 北東部の状況はというと、かなり楽観的? アッサム州にあるMMSの修道院で労働者のパトロン、聖ヨゼフの祝日である5月1日に若い労働者の集まりがありました。その時の写真を見ると、ソーシャルディスタンスなし、マスクをしている人もなし。シスターたちは「気をつけている」というけれど……。

[追記] 

 上記の原稿をお送りした翌日には、西部グジュラート州(モディ首相の出身地)でコロナ禍の収束祈願にとマスクなしの女性たちがぎっしりと大行列をつくって寺院までお参りする様子がTVニュースで報道されました。それはもう、 Oh, no!!と叫びたくなるような光景でした。それから一週間。インドの状況は日を追うごとに酷くなる一方で、「人々の苦しみは想像できる域を超えている」と国連も支援に乗り出しています。

 そして北東部も決して例外ではなかったのでした。地元紙は11日付で「ミシガン大学の研究によると、北東部は次のコロナバンデミックのホットスポットになるだろう」

「これまでほとんど感染者が出なかった、先住民が多く住むヒマラヤ地域の村々にまでも及んでいる。そこは医療設備がほとんど整っていない地域だ」

「メガラヤ州も、もともと医療体制は脆弱で医療機器も極めて乏しいが、その上の負荷制限 ( 註:電力の使用量が増加したときに需要が供給を上回り過負荷になって全体が停電するのを防ぐために、一時的に決められた場所や装置への給電を停止すること)は深刻な懸念だ。酸素の供給には電力が欠かせないからである」と伝えています。

 アッサム州では5月12日から厳しい外出禁止令が敷かれ、トラックもバスもストップ。ワクチン接種は行われているようです。でもシスターは「病院は大変な混雑。順番が回ってくるかもわからないまま、あんなところに何時間もいる方がむしろ危険だと思うから、もう少し落ち着いたら行くつもり。料金? 250ルピーくらいかな、でも老人は無料らしい。村の人たちは病院を避けてなんだかんだってここ(MMSの診療所)にくるから大忙しなの!」と言います。ナガランドも然り。ロックダウンで人の行き来はパッタリ途絶え、近所には感染者が確実に増えて亡くなる人もあちこちで出ているとのこと。自分が今そこにいたらどうしているだろうと思うと、正直言って怖くなります。

 でもここ日本とて極めて悲惨な状況なのであって、大阪で蔓延している変異種が東京でも猛威を振うことになればどうなるか……。恐ろしいです。

 デリのMMS共同体で感染した5人のうち、4人は回復に向かっています。

 亡くなったシスターは、その昔プネの共同体で一緒でした。ヒンズー教徒のお家に生まれた、大変ユニークな人。75才のお誕生日に青い蓮の花を描いてほしいと頼まれたことを恋しく思い出します。

 未曾有の現状下では本人が希望していた火葬は叶わず、コロナで亡くなった方のための墓地に埋葬されたとのことです。

[追記の追記]

 コロナ禍でも自然は容赦ありません。最近北東部では午後になると強烈な雷雨に見舞われる日が続き、5月13日にはアッサム州で20頭もの象が雷に撃たれ即死したとのこと。送られてきた動画には一帯にあちこち大きな象が蹲ったまま息絶えている悲惨な様子が映し出されていました。

 インドはこれからモンスーンの季節。近頃は毎年超大型サイクロンが甚大な被害をもたらしていますから、ますます懸念されます。そんな中でも、修道院の敷地にあるライチ、ジャックフルーツ、マンゴ、それからチクーはみんな食べ頃だと明るい声で話すシスターでした。(延江由美子


日本・コロナレポート

◆下関から
ベッドの空きがもうすぐなくなります

■医療者はコロナワクチンを優先接種できます。ありがたいことです。3月末とその3週間後に無事に接種しました。2回目は接種後はかなり強い倦怠感で辛かったです。若い人ほど副反応が出ると聞いていましたが、私も先輩方も高熱が出たりした方がいて辛そうでした。

◆これからは高齢者から一般の方まで早めの接種が望まれますが、冷凍保存のワクチンを無駄のないように6人に接種出来るよう予約して、さらに1人2回接種することはかなり大変なことです。事務的な処理から接種会場で働く医療者の確保など問題が山積みです。コロナ感染患者が増えているこのタイミングに、会場に医療者を派遣することは本当に厳しいことです。海外では一般の方が研修を受けて筋肉注射していることに驚きましたが、今は理解できます。

◆娘が大阪に進学した途端に、大阪のコロナ感染が増えていて心配しております。下関も増加してベッドの空きがなくなりつつあります。いつどこで感染してしまうかわかりません。感染しても耐えられるようにワクチン接種と免疫力アップです。(河野典子 下関)

◆千葉から
きつかった2回目の接種

■医療従事者として優先され、3月に1回目、4月に2回目のコロナワクチン接種を受けました。そこで先駆者として今後受ける方へのアドバイスです。1回目。同じ日に受けた同僚は5人、このうち私を含めた3人が4時間後に37.5℃まで上昇しました。私は出ませんでしたが若手の半数以上が、1日とはいえ五十肩のように腕が上がらなくなったとも訴えています。2回目はさらにきつく、両回とも休日の前日接種としていたのですが、翌々日も仕事にならないほどだるいと早退者続出です。

◆一般に副作用は若い世代に多く私の世代では少なくなるとはいえ、2回目の12%に37.5℃以上の発熱を見て、6%が業務に支障をきたしたとの報告もあるのですが、若くない私でさえ38.2℃まで上昇、むろん翌日は寝たきり。風邪ではないので、頭痛も関節痛ものどの痛みもなく、ただ熱っぽくだるいだけでしたが、供給するファイザー社や厚生省の報告によれば接種後の副作用は1%以下になっているので、この程度は副作用としてカウントされないようです。

◆まもなく高齢者の接種がはじまりますが、これから受ける方は3日ぐらい仕事できないつもりで接種に臨むことをお勧めします。(埜口保男

◆大阪から
「旅立ちの春」の投稿、どれも清々しかった

■大阪はコロナ感染者数が多く、累計死者数も2000人を超した。大阪市内の我が家の周りも美術館や地下街や商店街なども休業状態で、会社もリモートが多いようで人もまばらだ。でも自分の周りには感染した人が1人もいないので、正直恐ろしさの実感がなかった。それでも、マスク、手洗い、うがいは欠かさず、なるべくステイホームする様にしていた。が、ちょっと運動不足なので、最近は、1日1万歩を目指して、夫婦で散策する様になった。

◆すると、飲食店が軒並み休業しており、「食い倒れの街」の活気がなくなっており寂しい思いがした。また一方で、オリンピックや万博需要で新設した数多くのホテルがコロナ禍でオープンできずにひっそりとしていた。その中には、コロナの軽症患者の隔離療養施設として使われている建物もあった。玄関ロビーは封鎖され、外部から人が入ることはできないが、客室を見上げると窓から明かりが見え、その明かりの数だけコロナと戦っている人たちがこの場所にいることを実感した。ワクチン接種の受付が始まったようだが、まだまだ収束するには時間がかかるようだ。1日も早く、コロナのない活気あふれる街に戻ってほしいと思う。

◆先月の地平線通信の「旅立ちの春」のそれぞれの投稿が清々しい気持ちになってよかった。旅立ちとは、旅に出る。物事を始める。新しい生活に向けて出て行く。という意味がある。本当にこの通信は旅立ちにぴったりだ。みんなそれぞれに地平線を知って、関わって、わくわくしている。そして、これからも色々影響されながら、悩みながら、楽しみながら、自分らしく前に進んでいくんだろうなと思うと、読んでる私も「わくわく感」でいっぱいになった。(岸本実千代

◆岡山から
 コロナ、嫌な予感が

――1信 4月27日

■岡山の北川です。ワクチンのクーポン券の到着、おめでとうございます。早い時期に打てるといいですね(私たちは、いつになるやら。これでオリンピックやったら暴動をおこすよ!)。さて、返信するつもりが忘れていました。地平線通信4月号は「とても」早く着きました.いつもはお知らせが来てから3日〜4日かかっていたのが、翌日だったかには着いていました。

◆先月号にあるように、地平線の活動紹介は大学の講義などで若い人が聞く機会を作れば、本当に食いついてくる内容です。しかし、なかなか自分から接近はしてこないのが今の若者ではないでしょうか。そういう意味では、小学校から大学まで、学習指導要領の中だけの教育が主な内容というのがずーっと続いているのかなあと思います。

◆大学は自由のようでいて、大学設置基準というのがあり、それに従った基準を満たさないと認可されませんし、また、私学は学生数を集めるために時代に即した、または産業界からの要請の強い専門内容の学科構成になりがちです。そういう中でリベラルアーツの一環として、「人間と冒険」などというものは、なかなか受け入れてもらえないのではないかと思います。

――2信 5月18日

■兵庫県、大阪府が変異ウィルスにより3月後半から4月にかけて感染者数が劇的に増加している中、隣接する岡山県でも、4月後半から連休前半にかけて、平均して50人を超える感染者が出ることに私としては危機感を感じていました。岡山県の第3波の時のピークが55人(7日平均)でしたから、それと比べ嫌な予感がしました。

◆連休後半から100人を超える感染者が確認され、連休明けから連日の100人超えとなり、伊原木知事が5月12日に政府に対してまん延防止等重点措置を要請しました。これは国が示す5つの指標全てでステージ4の条件を満たすことを見ての判断でした。私としては、出すなら緊急事態宣言だろうとは思いましたが、休業要請等のことが見透かされる要請でした。

◆知事は地元百貨店天満屋の創業家社長からの転身だからです。2日後の5月14日、政府の判断も異例といえる、まん防ではなく緊急事態宣言の発出となりました。市内の飲食店や大規模商業施設の時短や休業要請もどたばたで決まり、対応もてんやわんやの様です。スーパーではいつもより人出が少なかったと妻が言っていました。図書館や美術館、公民館などの公共施設も軒並み休館となりました。知り合いの公民館職員に聞いたところでは、課長から全職員に電話による保健所への応援要請あり、閉館中に予定したことができなくなったということです。

◆大学でも4月からは文科省の要請により対面講義を中心に行う方針が示され、多くの講義がキャンパス内で実施されてきました。しかし、緊急事態宣言を受けて、知事から学長に対し可能な限りオンラインに切り替えるように電話で直接要請されました。対応可能なものは極力オンラインに変更したようですが、任意対応という位置づけですので、大学に通ってきている学生もいます。私の講義は4月当初よりオンラインで実施していたため、何ら影響はありませんでした。

◆5月初めに見たGoogleの感染者予測では6月初めには岡山県は500人を超えるものでしたが、緊急事態宣言を出したあとも、下がるどころか500人を超え、更に6月10日には700人(広島は1600人)の予測になっているので、戦々恐々としています。(北川文夫 岡山)

◆福井から
風のような電話に応えて

 5月17日昼過ぎ。江本さんから突然の電話。「通信は、読むだけじゃなくたまには発信もしなくちゃ、とにかく本気で」と短い会話の中でも江本さんの熱さが伝わってきた。言いたいことを伝え終えると「それじゃ、よろしく」と電話を切られた。風のような電話だった。

 福井県でのコロナの状況、通信の感想の件、お送りします。

(1)コロナウィルスの状況

 新型コロナウィルスの騒ぎが始まり、はや1年半になろうとしている。昨年の2020年1月ごろは中国・武漢での感染流行、日本への限定的な流入であり、対岸の火事といった印象だった。しかし、たった2ヶ月後の3月には福井県内でクラスターが発生した。4月には1日10名前後の感染が相次ぎ、人口10万人あたりの感染者数が東京を超え全国1位という状況になった。隣の敷地の会社でもクラスターが発生し、そして小学校に入学したはずの息子の初登校は6月まで延期となった。

 当時は県内で新規感染者が1名発生するだけでも知事が緊急記者会見を開いていたのを思い出す。

 地方では地域のつながりが深い分、感染するとどこでだれが感染したのかとあっという間に口コミで広がってしまう。また、高齢のおじいちゃん、おばあちゃんとの3世帯同居も多い。コロナに関しては、他人の目、家族への懸念とが入り混じり、全体としては抑制的な行動につながっていると思う。

 現在は、県内の新規感染者が1日平均3名ほどに落ち着き、コロナ慣れの中、飲食店もかつての活気を取り戻しつつある。周囲でワクチンを打った人の声もちらほらと聞こえはじめてきた。

(2)最近の通信の感想

 この話を振られた時、真っ先に頭に浮かんだのは、九州大学の安平ゆうさん、平島彩香さんからの「ハガキ」による感想。そして、長岡祥太郎君の離島留学という選択、瀧本柚妃ちゃんの将来への目的意識を持った受験勉強。どれも若い人たちの投稿だ。

 コロナ禍での特異な学生生活、若い年代特有の壁にぶつかり、自分の考えを持って乗り越えて、一回りも二回りも大きく成長している様が行間から伝わってきた。小さい頃から地平線に接した経験と親御さんの考えが糧となっているのだろう。報告会や二次会で見かけたあの子たちが、たった数年でこんなにも強い意志としっかりとした考えを持っていることに驚き、そして頼もしさを感じた。どの内容も純粋で新鮮で逞しかった。子供の時代を経て大人になった私たちが、子供や若者から見習うことは多い。温かい目で挑戦を見守りたい。

(3)地平線報告会とは何だったのか?

 少し話が脱線するが、私はメガネ・サングラスの企画会社に勤めている。デザインや構造を企画提案し、それを主に海外の工場で製造し、メガネ店へ納入するまでが仕事だ。

 コロナ以降、出張を控えざるを得ず、否応無しに顧客とのオンライン商談を実施している。しかし今までの商談とは決定的に違うものがある。パソコンの画面越しでは、熱気や臨場感、微妙な表情の変化が互いに伝わらない。要は「話が進まない」のだ。

 そのため、コロナが落ち着く度に、移動時間がかかっても対面での対話を求め、出張を重ねた。

 地平線報告会にも同じことが言えると思う。報告会ならではの熱気。新宿スポーツセンター2階への階段を上ると、会場に入る前から聞こえてくるワイワイガヤガヤ。会場での長年の親友に再会したかのような挨拶と会話。報告者の熱量と研ぎ澄まされた意志の力。そして真剣に聞き入る参加者たち。

 今回のコロナを通しオンラインやリモートはあくまでも代替手段であり主流にはならないと感じた。パソコンやスマホは道具であり、道具に使われてはいけない。今回のコロナで変わるものもあるだろうが、どんなにテクノロジーが発達しても大事な場面では人と人が「対面で」やりとりするという根本を変えてはいけないと改めて教えられたように思う。それが報告会に参加する意義なのだから。

 コロナを乗り越え、皆が膝を突き合わせて集まる報告会、そして密な状態で大声で会話しながらビールが飲める二次会を心待ちにしている。(塚本昌晃 福井 遠隔地居住者にして報告会常連)


通信を読んで

◆沖縄から
染織一本で生きていけるか

■江本さん、先日はご連絡頂きありがとうございました。実はゴールデンウィーク中に交通事故に遭い、ここ最近は保険会社や、病院、修理工場など方々と連絡を取り合っていました。先日着信があったときは「板金屋のオヤジだな」と思ってかけ直したのですが、朴訥なオヤジの声ではなく、江本さんのキビキビとした声が響いてきたのでびっくりしました。そして私が江本さんの番号を登録していなかったことがバレてしまいましたね、お恥ずかしい限りです。

◆「あなたも頑張っているけど、もっと頑張っている人もいるんですよ」とのお言葉、痛いほど胸に染みました。前回通信に投稿した昨年の秋から今日まで、私にとっては停滞、あるいは後退と言ってもいいような日々を送っておりましたので。染織一本で生きていく、という目標を一旦脇に置いて学校事務のアルバイトを始めたのが丁度1年前。平日フルタイムで働きながら、染織の仕事は休日に細々続けるという生活をスタートして一番大きく変化したこと、それは経済面での安定です。毎月必ずまとまった金額が振り込まれることの安心感と言ったら!

◆お金があるということは素晴らしいですね。回らないお金を回そうとしてキリキリすることもないし、お金があれば無くて済んだ迷惑を人にかけてしまうこともない。年金も払えるし、リンガーハットに行けば長崎ちゃんぽんに餃子を追加することもできます。バイトを始めたのはコロナ感染が拡大している中で染織一本に仕事を絞るのは厳しいだろうと判断したからなのですが、図らずもコロナ以前より経済的にも精神的にも余裕が生まれ、「この生活も悪くないかも……」と揺らいでしまう自分がいます。

◆一方でこのままでいいのか、という焦りもあるのです。バイトのない日、機に座って杼を左右に飛ばしていると、毎日染織の仕事をしていた頃と比べて明らかに感覚が鈍っているのがわかります。「すばらしい仕事だから頑張ってください」「沖縄の伝統を内地の若い人が継いでくれて嬉しい」といった、応援してくれる人たちの言葉と、現在の自分とのギャップ(何も継げていないし頑張ってもいない)に、自己嫌悪に陥ってしまうことも。

◆つくりたいものがあるはずなのに安定した生活に流れてしまうことに、これじゃダメだ、と焦りを感じる一方で、バイトを辞めたらまたミニちゃんぽんだけで我慢していた頃に戻ってしまうんじゃないか、という不安が頭にチラつきます。こんな定まらない状態の中でもありがたいことに注文を下さる方がいて、最近はずっと琉球舞踊の帯を織っています。

◆制作は植物を採取してきて糸を染めるところから始まります。草木染めは毎回微妙に色が変わりますが、舞踊の帯は群舞で使用することも多いので極力色を揃えるように言われていて、これがなかなか難しい。その分、思う色に染まったときの喜びはひとしおです。そういえば、先日お話したときに私が通信を隅々まで読んでいない不真面目な読者であるということもバレてしまったわけですが、全く読んでいないわけではないんですよ! 世界がコロナに振り回され混乱の収まる気配がない中でも、自分の目指すもの、やるべき仕事に正面から向き合っている先輩方、そしてひたむきに前進する若い皆さん、本当に尊敬します。

◆私も、アルバイトの契約が終了する来年3月までには迷いを振り切ってしまいたい……ああでも金欠で眠れない夜はもう嫌だ……。経済とやりがいと、どうやってバランスを取るか、模索する生活はしばらく続きそうです。(渡辺智子 浜比嘉島民)

◆福岡から
福岡から小さな感想です

■4月号通信の感想です。まず印象的だった記事は、小松由佳さんのものです。コロナ禍だからこそ、取材をする価値があるし、現場からしか見えてこないことがあるとおっしゃっていました。本当に、そうなんだろうと思いました。私はいま、比較宗教学の研究室で勉強をしていて、フィールドワークについて学ぶようになりました。そのなかで、フィールドワーカーの、対象を観察をして記録するという活動は、何に注意がひかれ、何を記録するかという、本人の経験から形成された視点と選択により行われている、というような説明がありました。

◆小松さんは多忙な日常の当事者でありながら、本文においては、そこから距離をおき、自身とムハンマドやマフムードのカルチャーショックや行動の変化に対する洞察が光っていました。フォトグラファーや新聞記者は、記録者であって、どんなときもカメラとメモを備えているのだろうと思いました。プロフェッショナルって本当にかっこいいですね。

◆ときめきを覚えた記事もありました。下川知恵さんのものです。地球規模の恋模様で、ご本人の葛藤とは裏腹に、とてもロマンティックだと思ってしまいました。ボルネオと日本、それぞれで過ごされた経験を持つ下川さんには、きっと地球規模の多方向的な視点があるのだろうと、憧憬の念を抱きました。会ってみたい人です。さらに、瀧本柚妃さんの便りには、自己へのまなざしの鋭さと、しなやかな意志が溢れていました。そのエネルギーに圧倒され、背筋が伸びる感覚になりました。

◆ 終わりには長岡祥太朗さんの便りもありました。自分で将来を選んでいく姿勢、自分を成長させる高い意識。私より若いお2人ですが、面白く、なんとも爽快なエネルギーをいただきました。「私はどう生きていく?」。同世代の方の声を聞き、そう自分と会話しながら読み進めた通信でした。地平線会議、なんて素敵で刺激的なのでしょうか。改めて、素晴らしいものづくりを目にしているなと思う次第です。今月も通信を送ってくださり、ありがとうございました。これからも、よろしくお願いいたします。(福岡 安平ゆう 九大2年 8月、20才に)


先月号の発送請負人

■地平線通信504号(2021年4月号)は4月14日印刷、封入を終え、その日のうちに新宿郵便局から発送しました。今回は、印刷、封入、即発送という試みです。コロナで「密」はダメ、と言われ続けているさ中、通信を印刷、発送することは簡単ではありません。そんな中、先月も志高い同志たちが駆けつけてくれました。◆汗をかいてくれたのは、以下のみなさんです。
森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 白根全 伊藤里香 光菅修 久保田賢次 下川知恵 高世泉 江本嘉伸

印刷の仕事に率先してあたり、車を運転して新宿局まで運んでくれた車谷建太さん、重い通信の束を担いてくれた白根全さんとりわけありがとう。これまでは一旦江本の家に運びこんで翌日の木曜日、局に取りにきてもらっていましたが、今後は、できれば毎回本局へその日のうちに運びこんでしまいたいです。


日本・コロナレポート

◆福岡から
コロナ禍の福岡で暮らす大学院生の日常

まるで物語の世界、地平線通信

 九州大学農学府修士二年の平島彩香です。先月号は国内外、幅広い年代からの筆記が集まり、内容も様々で大変面白かったです。まだ地平線会議の存在を知って数か月しか経っていない私が語るのもおかしいかもしれませんが、先月の地平線通信は、誰かの行動、はたまた過去の地平線通信の投稿についての感想が多く、まるで公開文通のようでした。私の投稿に対する反応もありうれしはずかし、といった感じです。

 驚いたのは、突然2人のシリア人と共同生活することになったというフォトグラファーの小松由佳さんの投稿。私が最近見た映画「ターミナル」に似た状況がまさか起きる寸前だったとは……。「ターミナル」は、アメリカへ渡航中の男性の祖国クラコウジア(映画の中の、架空の国です)でクーデターが起き、パスポートが無効となり入国も帰国もできず空港に取り残されることになった男性のお話しです。私が本や映画で知ったことが語られる地平線通信という場のすごさを改めて感じました。

3度目緊急事態宣言が出された福岡

 江本さんからコロナ禍における全国の現状が知りたいと承りましたので、そのことを中心にお話ししたいと思います。

 私の現住所である福岡で3度目の緊急事態宣言が出されました。ただし、夜9時頃からシャッター街に変わる様子は緊急事態宣言前後であまり変わりがないように見えます。

 1度目の緊急事態宣言の際は、昼間でも普段からは想像できないような人も車もないガランとした街並みでしたから、人々のコロナに対する意識が変わってきているのかもしれません。とはいえ、細かい目で見ると政府の方針や状況によって対応に追われている機関や飲食店の様子も伺えます。

 感染状況や政府の方針が変わる度に大学から、今後の授業を対面でするのか、全面オンラインにするのか、出張や課外活動を許可するのか、ガイドラインに関する通達があります。対面授業も積極的に実施していく、と言った翌週に感染状況が悪化し、ほぼオンラインで授業をする、と連絡が来ることもありました。先が読めないため、学生同様もしくはそれ以上に大学機関も講義する先生方も心労が多いことと思います。

コロナ禍での活動1――留学生サポーター

 今年3月、コロナで断念した交換留学の代わりに、アメリカの大学で実施されていたオンライン留学に参加しました。その期間、現地の大学生がオンライン交流会を開いてくれました。九州大学でもオンライン留学を実施しており、今は立場が変わり留学生をサポートする側にいます。九州大学に来られない留学生のために、交流会やオンラインオープンキャンパスを企画しています。一度参加する側を経験しているため、オンライン留学生が何を知りたいと思っているのか、何を求めているのか、ということは身を持って体感しています。それを今度は海外にいる学生に提供していきたいと思います。

コロナ禍での活動2――農業現地調査

 福岡県糸島市で農業法人を運営されている方にお話を伺う機会がありました。米や麦を生産されている方で、米価の下落を憂慮されているようでした。コロナ禍でガソリンや株、マスク、オンライン講座、食材などあらゆるモノの価格が大きく変動していますね。私は経済については詳しくないのですが、価格のコントロールは本当に難しいなと思います。

 その方は私が大学で専門としている農業気象学についてもよく勉強されておられ、さまざまな研究機関の調査や研究とも頻繁に交流・議論し、協力されているそうです。なんと自身で栽培試験を行い、その成果を研究機関に見せ、栽培方法やより良い品種を提案することもあるとか。学ぶことが楽しいと言いながら、私の質問にも何でも快く答えてくれました。

 日本は他国に比べて産学連携が課題だと言われていて、現場の要望や現状に沿った研究が為されていない、研究で成果を上げても現場の実用化までには至らない、などの問題があります。今も大学卒業後も研究を続ける予定の私は、研究者は現場を知らなければいけないということにばかり目が向いていました。それは事実だと思いますが、この度、生産者のお話を伺ったことで、産学連携の課題は研究する側だけにあるのではないのかもしれない、と新たな知見を得た気がします。現場に学ぶ意欲があり、研究価値を知らなければ研究は実用化に繋がりません。研究者に対して現場の課題や要望を伝えることも難しくなります。もはや研究する側、生産する側などの垣根がなくなることが産学連携の理想なのかもしれません。

コロナ禍での活動3――母の日はイクラ

 5月9日は母の日でしたね。一週間遅れの昨日、母のもとに母の好きな冷凍イクラが届くよう手配しました。「夢みたい」「イクラ丼にしよう」「おいしい」と母から実況LINEが続けて送られてきて、大変嬉しかったです。何が欲しいか事前に聞くといつも「悪いから何も要らない」と遠慮する母なので、今度からこの手段でいこうと思います。(九州大学農学府修士二年 平島彩香)


通信を読んで

九大生の登場に「ピースボート」を思い出した

 毎号トップにある地平線の題字が楽しみです。今回はどんなテイストなのかなぁと。泥臭く、ルールなし……という感じが魅力で、長四角の中の遊びゴコロを大いに楽しんでいます。4月号のねこさんの不思議な感じのマンガも嬉しい。これからも登場してほしいです。

 文字でぎっしり埋めつくされた「地平線通信」。普段は文字に圧倒されるようなものは読めません。でも「地平線」は読み始めると引き込まれ、それぞれのこだわりの人生の一端を経験させてもらっています。

 最近多く登場する大学生たちの記事も、生の気持ちが伝わってきて読み応えありますね。ふとしたきっかけで、人と出会い、場と出会い、自分のみていた世界が広がっていく感じが頼もしいです。大学の「世界が仕事場」の講義がきっかけて地平線に繋がったという若者たちも登場しますが、私自身が大学時代に関わった「ピースボート」の経験を重ねました。

 1982年の「教科書問題」で、歴史の書き換えを知った若者たちが、「自分たちの目と耳で過去の戦争を見つめ、未来の平和を考えよう」と、船を出したのがピースボートのスタートです。出航前の事務所はボランティアスタッフで溢れ、作業や会議や勉強会が開かれていました。グループを堂々と仕切っている人が数週間前に加わったばかりであったり、中学生が大人を引っ張るチラシ配りの隊長だったり、交渉未経験のスタッフが何も整わない現地に飛んでパートナーを見つけプランを作っていったり……。

 「できるからやるではなく、やるからできるようになる」「道がなければなんとしても道を拓く」という現場に刺激され、「人権」「戦争責任」「労働問題」「環境破壊」……それまで深く考えたことのない社会テーマの議論に加わっている自分がいました。仕事も背景も年齢も異なる様々な人が入り混じって働き語り合う混沌。スッタモンダもあっちこちで勃発。そんな活気の中で「こんな多様な生き方がある、こんな多様な仕事がある、こんな多様な価値観がある」ということに気づき、心が踊り、見える風景が変わりました。紐解いていくと今の自分に深くつながっています。(三好直子 青年海外協力隊環境教育分野担当顧問)


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパを含めて送金してくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの心としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれ(実は意外にそういうミスが多いです)ありましたら必ず江本宛て連絡(最終ページにアドレスあり)ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。

河野典子(10000円)/田中良克(10000円 通信費の切れたところから、3年分。他は寄付。 少々本があり送りますので希望者にさしあげて下さい。→どこに送りましたか?目下未着です。江本)/小高みどり(4000円) 稲森一彦(5000円)/京馬伸子(10000円 稲葉香さん、植村直己冒険賞、おめでとうございます! なんと、地平線通信をちゃんと読んでおりませんでした。TBSラジオの荻上チキの番組で稲葉さんがインタビューされてるのを聞きました。小松由佳「人間の土地」、買いました。シリアの男の人は、家事を何もしない。のではなく、料理を作る人もいる。幼児の面倒をみてくれる人もいる。偏見と断定はいかん  とおもったことでありました)/金子浩(10000円 コロナ禍の中、「地平線通信」楽しみにしております。皆さんお元気に過ごされている様子。後期高齢者になりました。通信費外、お役に立てれば)/田立泰彦/瀧本千穂子(10000円)/梶光一(10000円 通信費3年分とカンパです。いつも楽しく読ませていただいています)/小村壽子(10000円 江本さん、いつも通信からGenkiを頂いています。パソコンが災難でしたね。通信費、残りはpcのために!10000円送金しました)/奥田啓司/小長谷雅子/天野賢一/横山喜久(通信いつもありがとうございます。感謝いたします。報告会を心持ちいたしております)/滝村英之(3000円 通信費+カンパです。若い人達の発信する力に刺激をもらっています)/田村隆孝/森美南子/村田憲明


けもの道とひとの道

岡村 隆 

第5回

■約3か月をジャングルに暮らし、27か所の遺跡を発見調査した1975年、隊と別れた私はスリランカからインドへ渡って1か月ほど仏跡巡りをしてから帰国した。羽田に着くと、探検部の後輩たちが迎えてくれたが、そのうちの1年生ばかり4人が固い表情で私を取り囲み、「話があります」と言って無理やり車に押し込んだ。

◆「来年の遠征を決めました。隊員は1年生しかいません」「全員が海外へ出るのも初めてです」「だから隊長として来年も一緒に行ってください」――。免許取りたてのひとりが運転する車内で口々に懇願され、私は困った。翌年は行きたくても行けぬ事情があって、私も帰りの機中であれこれ考え、行かないことを決意したばかりだったからだ。

◆その事情とは、妹の結婚だった。式は東京で翌年の夏。田舎の両親や親族も出てくる。私が兄や長男としての務めを果たすのは当然だろうが、それには私の「外観」の問題があった。住所はあっても無職で、将来展望も不透明。これではよそ様に向けて家族も肩身が狭いだろうが、私自身も帰りの機内で、ある喪失感を味わっていた。

◆遠征前や旅の現場ではいくら「探検家」や「旅人」を気取っても、終わって帰ればその「肩書」は外される。その陽炎のような肩書しかない人生をどう受け止めるのか……。いま思えば笑止なことで、そんな思いを振り切るのには、考える間もなく次の旅へ、次の旅へと自らを振り向けるしかないのだが、俗人の私はそこに足をとられてしまったのだ。

◆結局、私は翌年の遠征には参加しなかった。4人の2年生だけがスリランカに渡り、しかし立派に探検調査をやり遂げた。すでに交渉や入域のルートができていて、探査の方法論も確立していたからでもあっただろうが、彼らの意識とスキルが高かったからでもあったろう。

◆一方の私はといえば、妹の結婚式に合わせて急きょ身分を作るために『週刊つりニュース』という会社に就職し、式が終わるとすぐ辞めた。バイト身分の『週刊朝日』の仕事より安月給だったこともあるが、渓流釣り担当記者だったのに渓流には行けず、記事執筆のために5万分の1地形図を買うと、「そんなものは話を聞いた釣り人にチョチョイと描いてもらえばいいんだよ。余計なことに金を遣うな」と叱るような会社だったからだ。

◆その後はまた、ビル掃除などのバイトをしながら、スリランカの遺跡調査報告書を作るため観文研に通う生活が始まった。宮本千晴さんの協力で、帰国したその年の隊の分まで含めた報告書は2年後の1978年に観文研から『セイロン島の密林遺跡U』として発行されるのだが、私はその間にまた身分を作る必要に迫られて、今度はそれなりに調べた上で、1976年末に『トラベルジャーナル』という海外旅行の専門誌に就職した。今度は自分の結婚のため、相手の親や家族を安心させて、納得させるのが目的だった。

◆就職、そして結婚という生活の変化は、私に何をもたらしたのだろうか。他人が見たら、表面的には何も変わらなかったに違いない。住所も最初は変わらずに、年に1、2度、海外への取材にも行き、雑誌の編集をして、時折は観文研や探検部の部室にも顔を出したし、新聞雑誌に探検やスリランカの記事も書いた。

◆そんなある日、読売新聞の江本嘉伸さんから電話があって社に出向くと、各校探検部の学生たちが江本さんを囲んで座っていた。学生たちは「全国大学探検部報告会」というイベントを企画して江本さんに協力を求め、江本さんは、それを相談するために関西学院大探検部OBの森田靖郎さんと私を呼んだのだった。

◆そこから、法大学生会館での3日間の報告会を経て「地平線会議」の設立へと繋がっていく日々、そして設立後の日々は、一方に仕事を持ちながらも、私にとってはますます学生時代と変わらないものになってしまった。毎月の「地平線報告会」や年報『地平線から』の編集作業に集まってくるのは、旧知の仲間ばかりで、人生の関心事である探検の話題は尽きず、そこに関わることで日々の充実感すら味わっていた。

◆それはもちろん、月給が入って食う心配がなくなったことで、安逸な学生時代と同じ感覚が甦り、そこに安住したということでもあったろう。自立して働いていた探検部後輩の女房もまた、それを当然のように(?)許していた。そして気づいてみると、私は同じ会社にもう6年もいて、探検の現場を離れ、村での漁師生活を忘れた「竜宮城の浦島太郎」になっていたのだ。

◆竜宮城から村へ帰ろう、いや、探検の現場に戻ろう……と強く思わせたのは、1982年の暮れも近いある日の新聞記事だった。「コンチキ号で有名な探検家ヘイエルダールが、モルディブで太陽神殿遺跡を発見!」というコロンボ発AP電の記事は、私に思いがけない動揺をもたらした。

◆その動揺は、同時期に女房の腹が大きくなっていて、2か月後には自分が父になるという初めての事態とも共鳴した。ヘイエルダールの記事に「そんな馬鹿な」と疑念を抱き、「生まれてくる子供には、どんな父の姿を見せるのか」と悩んだ私は、結局、昔の道へ、本来定めていたはずの探検人生に立ち返ってみようと決意した。だが……、「太陽神殿遺跡」の正体を確かめるため、勤め人ゆえのさまざまな障害を乗り越えた末、女房の背に負ぶわれた娘に見送られてモルディブへ旅立つことができたのは、翌年も秋になってからのことだった。(つづく)


健在なり!「3ばかタカシ」

■江本さん、『地平線通信』4月号は4月21日の16時に神奈川県伊勢原市の我が家に到着しましたよ。4月14日に発送されたとのことですので、1週間後の到着ということになります。さっそく読ませてもらいました。まずは自分のことからですが、「青春18きっぷ」を使っての東北列車旅、今回をもって東北内のJR線全線の完乗を成しとげました。2018年以来、4年をかけての東北の全線完乗です。ひきつづいて東北の全地方鉄道12路線に乗ろうと思っています。

◆「宮本常一ふる里選書」は何と森本孝さんが書かれた原稿ではないですか。ガンとの壮絶な戦いで生死の境をさまよう森本さんの執念を見るような思いがしました。つづいて岡村隆さんの「けもの道とひとの道」の第4回目を読みました。岡村さんの原稿に出てくる観文研は宮本常一先生がおつくりになった「日本観光文化研究所」のことですが、賀曽利隆と森本孝、岡村隆は観文研の仲間なのです。観文研で我ら3人は、「3ばかタカシ」とか「3悪筆タカシ」と呼ばれていましたよ。森本さんにしても岡村さんにしても、人生をかけて「我が道を行く」その姿には感動します。(賀曽利隆

 シールエミコさん、おめでとう

■自分のFacebookにエミコさんからの「いいね」がついている。エミコさん? どうしかしたの?と、エミコさんのページを開ける。そこには最高の笑顔と「20年が経ちました!!! 「余命半年」と言われ、癌の摘出手術から今日で丸20年。最初に生き還った日です」の言葉。ああ……、そうなのか。知らせてくれてありがとうございます。自転車世界一周中だったスティーブさんとエミコさんに出会ったのは1995年のナイロビ。それから何度も会っているから、すでに記憶を順番通りに並べられない。ただその中に細部まで再現できるほど強く印象に残っている瞬間がある。もう今なら言ってもいいと思う。

◆2012年、日本ではこれ以上の治療が望めないのでオーストラリアに行く、と、決めたエミコさん。しかしオーストラリアの受け入れ病院はまだ決まっていない旅立ちだった。その時エミコさんは、可能性を求めて新天地を目指した。なのに僕はそれを信じ切れず、日本で無理な治療がオーストラリアでできるとは到底思えなかった。大阪で送別会の後に梅田の改札を抜け、手を振りながら歩いていくエミコさんを見送る。階段の途中にある壁の向こうに姿が消えた時、隣にいたNさんと二人、その場で身動きできなかった。少し間があってNさんがポツリと「行っちゃったね」と言い、僕はNさんの顔を見ることもできず、「うん」としか言えなかった。二人とも、その夜の新幹線で東京に帰らないといけないが、Nさんから別々に帰ろう!と提案されてホッとした。一人で自分の気持ちを整理する時間が必要だった。

◆それからガンと戦い復活していくエミコさんを見てきた。いったいどれだけの精神力で笑顔を維持しているのか、と思うときもあるし、いや、そんなのは邪推だとも思う。会えばいつもエネルギーを感じるが今回のFBの写真を見ると、もう目の前にいなくてもそのパワーは届く。

 エミコさん、術後20年、本当におめでとう。

エミコさんに人の持つ可能性を教えてもらえました。(坪井伸吾 5月4日)


道東からミャンマーの人々を思う

 今年2月1日にミャンマーで起こったクーデターから間もなく4か月になる。以来、非暴力の抗議運動を続ける市民に対して国軍は弾圧を強め、実弾の発砲や空爆にも乗り出している。「暴徒鎮圧」の名目で殺害された国民は810人、拘束者は4212人に及んでいる(今月20日時点、いずれも人権団体の政治犯支援協会:AAPP の発表による)。

 国軍は今月8日に、アウンサンスーチー氏らが率いる国民統一政府(NUG)やその下で組織された国民防衛部隊を「テロリスト」認定したが、日々の惨状を見聞するにどちらがテロリストかわかったものではない。

 実際、抗議活動をする市民は、国軍を「治安破壊部隊―自称国軍」と呼ぶほどだ。国民の大多数がクーデターに反対しているにも関わらず、国軍は一貫してクーデターの正当性を訴え続けている。疑問を感じながら市民に銃を向ける軍人が、良心の呵責に耐えかねて軍を離脱するケースも徐々に増えているという。

 日本を含む世界各国に広がりを見せる抗議活動では、具体的に以下の3つの目的が掲げられている。

 (1) 拘束されたアウンサンスーチー氏をはじめとする議員らの釈放。

 (2) 2020年総選挙の結果を尊重して、国軍が敗北したことを認めること。

 (3) 議会を招集し、憲法、法律、民主主義の原則を厳守してミャンマーの平和な社会を構築すること。

 私が住む北海道でもすでに3度のデモが行われ、そのうち4月24日と5月2日のデモに参加することができた。

 北海道のデモを主催したのは、「CDM Supporters from Hokkaido」というSNS上にあるグループで、 2月のクーデター後すぐに、江別市に住むミャンマー人男性が発起人になり設立された。

 今では20名ほどの若者が中核メンバーとなってデモの準備や運営を行う。これまでのデモも日本人は準備に参加しておらず、道路使用許可書の申請や現場での警察官とのやりとりなど、すべて自分たちで完結させているという。

 4月のデモに集まった人数は400人ほど。そのほとんどがミャンマー人だった。札幌だけで900人ほどのミャンマー人が暮らしているというからかなりの数だ。20〜30代くらいの若者が殆どで、遠く函館からも参加した。札幌で鳶の仕事に就く20代前半のミャンマー人男性は、「こんなにミャンマー人が北海道にいるとは知らなかった」と笑う。

 「日本政府は国民統一政府、NUGを?」「認めてください!」「ミャンマー軍事の残虐行為を?」「やめさせてください!」。集会場所となった大通り公園から、終点の赤レンガテラスまでミャンマー人たちと列をなしながら歩き始める。シュプレヒコールに合わせて、気が付くと隣のミャンマー人男性に重ねるように自分も大声を張り上げていた。

 たまたま隣に居合わせた彼は、市内で自動車整備士として働いているという。「抗議活動するにあたってなにか困ったことはありますか?」と尋ねると「仕事を休めない人たちは参加ができないこと。(道路使用)許可を取っているのかと疑う上司もいる。飲食の人は、コロナ感染予防を理由に、「デモに行くなら2週間は自宅待機を」と求められて集会に参加できない人も多いよ」と教えてくれた。

 続く5月のデモにも再び400人規模のミャンマー人が集まった。軍の暴力で亡くなった方への追悼の意を示す黒の服装と、右手で立てる3本指(抵抗の意志を示すサイン)の先を赤く染めた手袋を揃いで着用して、本土で流れる血を表現した。このデモは、日本だけでも札幌、東京、名古屋、神戸、岡山、沖縄などで同時開催された(世界では、米英豪台湾など17の国と地域40都市)。

 先月と同じコースのデモ行進を終え、大通り公園で集会が開かれた。降りしきる雨のなか、代表団の「本土の辛い状況を思えば雨なんか関係ない」との激励に促され、ミャンマーの自由と、リーダー・市民の解放などを訴えるシュプレヒコールが起こる。

 重なる声に降りしきる雨をはじき返すかのような勢いを感じる。コールを先導した20代女性ミャンマー人は、声を上げる度に感情を高ぶらせ、時折仲間に怒声を浴びせるような様子もあった。もっと本気で声をあげろ、といった趣旨の檄を飛ばしたのだろうか、取り囲むミャンマー人たちは口々に「ごめんね」と彼女に謝っていた。

 この日の一週間前に両親が国軍に連行され、安否がわからないという不安が、彼女をそうさせていたのだろう。集会後、彼女に対して励ましの言葉をかける日本人もいたが、私にはかける言葉など到底見つからず、ただ見つめることしかできずに帰りのバスに乗り込んだ。

 こうしたデモの報道に対して「アジアの問題を日本に持ち込むな」とか「コロナ禍に密集をつくるな」とかいった文句も寄せられる。

 私に言わせれば、そういうなら「技能実習とかいうお為ごかしの名目でアジアの労働者に日本は頼るな」とか「コロナに加えて人が殺されているんだぞ」とか言いたくなってしまう。

 こうした言説には、「他所の国のことなんか関係ない、日本の問題ではない」という意識が通底しているのだろう。しかし、彼らは私たちと同じ町に暮らしている。先週、あなたの愛車のタイヤを交換してくれたのは、ミャンマー人だったかもしれない。いつも、老人ホームであなたのお母さんの寝返りを介助しているのは、ミャンマー人かもしれない。

 そんな彼ら彼女らの親兄弟、友人、恋人たちが命の危険に晒されている。一昨日も、昨日も、今日も。眠れない夜を過ごしながら、彼らは日常の仕事をこなして、私たちの町で暮らしている。もちろん、他の国の人も、共に暮らしている。

 ミャンマー市民の要求が呑まれない限り、今後もデモが止むことはないだろう。コロナがぶり返している近頃の様子を見ると、勧誘しづらい気持ちもあるのだが、それでも、感染状況を気にしつつ、近くの町で行われるデモに参加してみてほしい。

 私も、北海道に暮らす立場から、外国人の一人として、できることを探してやっていく。今後は自分が住む地域の近くで働くミャンマー人を紹介してもらい、仕事やコロナで札幌に往復できない地方でなにかできないか、相談していこうと思っている。

 「私たちは世界とどうつながっていけばいいのか」。その問いに、とりあえずの答えを見つけたような気がしている。

 最後に、自動車整備士の彼が日々利用しているというニュースサイトをいくつか共有します。

「BBC Burmese」「Myanmar Now」「Mizzima news from myanmar」で検索(いずれも英語)(五十嵐宥樹


報告会について、地平線会議からのお知らせ

 地平線活動の柱として続けてきた地平線報告会は新型コロナウイルスの影響で会場を借りられないまま実施できないでいます。5月いっぱいはいつも使用してきた新宿スポーツセンターが緊急事態宣言により休館、6月に入っても利用禁止となる可能性が強いです。

 ワクチン接種が順調に進めばいい展開となるかもしれません。

 なお、この機会に新宿スポーツセンター以外の場所も探しております。


ワンデーパス
地平線の森
シリアの戦場取材体験が小学生向けの本に

「シリアの戦争で、友だちが死んだ」

桜木武史著 ポプラ社 1,650円(税込み)

 2021年1月末、僕は一冊の本を刊行しました。

 「シリアの戦争で友だちが死んだ」(ポプラ社)。ちょっとゾッとするようなタイトルですが、これは児童書であり、対象年齢は小学生高学年から読めるように設定されています。僕がなぜ戦場ジャーナリストを志したのか、そして実際に戦場を訪れることで何を思い、また戦争とは何かを優しい文章と漫画家の武田一義さんのほのぼのとしたイラストで綴った一冊になっています。

 さて、冒頭から本の宣伝をして恐縮ですが、この本を刊行するそもそものきっかけが地平線会議にありました。僕は知り合いの編集者の紹介で地平線会議に2016年9月に登壇しました。これまで書くことだけに専念してきた僕は、正直、話すのは苦手です。最初は断ろうか迷いましたが、地平線会議のメンバーの丸山純さんが司会進行役を引き受けてくれて、何とか無事に話し終えることができました。

 会場をあとにする際、一人の男性から声をかけられました。大木ハカセと名刺には書かれています。しばらくして、彼からトークショーをやってみないかと声をかけられました。主に冒険家を招いてトークショーを主催していたのが彼でした。僕は地平線会議で知り合った縁もあり、引き受けることにしました。

 それからしばらくしたある日、大木さんから紹介したい人がいると連絡をもらいました。誰だろうか。渋谷のカフェで紹介された男性はフリーのディレクターの方でした。ディレクターが僕に何の用だろうかと疑問に思いながらも、話を聞くと、TBSの人気番組「クレイジー・ジャーニー」に出演してみないかという打診でした。

 一瞬、何かの間違いではないだろうか。それでも資料として過去の取材の写真や動画をお渡しして、しばらくは何の音さたもありませんでした。そんなある日、ディレクターの彼から正式に出演のオファーがありました。内気で臆病な僕がテレビに出るなんて、そう考えただけでも、緊張で足が震えます。それでも、地平線会議からつながったこの機会、無駄にするわけにもいかないと思い、引き受けることになりました。

 放送されると大きな反響がありました。これまでまったく誰からも相手にされなかった僕、むしろ世間からは戦場に足を運ぶなんて周りに迷惑や心配をかける、それに取材費は毎回赤字だし、何のためにジャーナリストをしているんだと周りからも冷たい視線で見られていました。それが、テレビの出演で、僕が命をかけて取材をしてきたことが人々の心を動かし、価値のあることだったんだと実感がもてました。

 そんなとき、「本を出版してみませんか」と連絡をもらいました。児童書を専門に手掛けるポプラ社さんからの誘いでした。クレイジー・ジャーニーを見たポプラ社の編集者さんから桜木さんの経験を通して子供たちに戦争とは何かを伝えたいということでした。

 約2年近くの歳月を費やして、それが形になったのは今年の1月です。「シリアの戦争で、友だちが死んだ」。僕が取材中に仲良くなったシリア人が銃弾で倒れて遺体となって運ばれてきたときのエピソードがそのままタイトルに反映されました。

 もし地平線報告会に登壇する機会に恵まれなければ、形になることがなかった本です。コロナ禍でなかなか海外に取材にいけない今、僕だけに限らず、地平線会議に参加している様々な職業の方々も、苦しみながら、今後の展望を思い描いていることだと思います。

 ジャーナリストを志してから20年が経ち、毎年のように海外に足を運んでいた僕が、3年近く、日本に閉じ込められたままです。でも、コロナは収束すると信じて、今もトラックのドライバーをしながら、取材費を貯める日々に、希望を見出しています。(桜木武史 ジャーナリスト)


「島ヘイセンvol.1」

この環境で島のため、クラスのためにできることはすべて成し遂げたい

■離島留学で神津島に来ておよそ1か月が経過した。今回は学校生活について報告しようと思う。4月6日に入学式を迎え晴れて神津高校の1年生となった。今年度は新入生が18名、全校生徒53名である。私が学校生活で一番に魅力を感じたのは、先輩方との壁がないことである。学年が違っても皆ファーストネームで呼び合い(それは恐らく同じ苗字の人が何組もいるからだと思うのだが)、敬語を使う人もほとんどいない。もちろん親しき中にも礼儀ありはみな心得ている。生徒会主催の新入生歓迎会では、全学年混合で7チームに分かれて島めぐりをして「映え写真コンテスト」を行った。いきなりのチームミッションで一体感を味わった。

◆少人数を活かした授業では、授業の中で一人一回は必ず発言できる。例えば数学ではわからない問題に直面した時、誰とでも相談したり教えあったりできるし、先生との距離も近いため質問も気軽にできる。これは授業についていけない人を極限まで減らすことに繋がっているのだ。私自身は難しいと感じた問題も積極的に解決することができるようになってきたし、自分が教えたところはより理解を深めることができた。苦手意識のあった科目もだんだんと好きになってきた。皆が自信を持つことができる授業展開は神津高校ならではの魅力の一つだと思う。

◆また私はクラス代表委員兼、文化祭実行委員に立候補し、選出された。離島留学にあたり私は「三つの自りつ(自立・自律・自率)の確立」という目標を掲げている。これは小学校のときに出会った言葉で、私はこの三つを担っている人は本当の意味で強い人間だと思っている。特にその中の自率は簡単ではない。自ら率いるということは単純にクラスを引っ張るということではない。本当の意味でのリーダーシップには周りからの信頼と、自分自身にもそのプレッシャーに耐える力が必要になるのだ。自ら率いるということはすなわち、チームの軸になることであると私は思う。それにはそれ相応の時間と努力がいる。私がどこまでこの「三つの自りつ」を成長させることができるかはわからないが、人事は尽くそうと思っている。

◆部活動では一人一人のやる気があふれ出ていた。加入率は120%。特別な理由がない限り部活をさぼる人はいないし、一つの目標に向け一致団結していると思った。私はバレーボール部と軽音楽部に入部した。バレー部は部員が7名になり、20数年ぶりの公式戦出場を目指して基礎を怠ることはなく、つらい筋トレも全員最後までやりきる。先輩方の気迫が伝わってくる。軽音楽部ではドラムを担当。1年生と2年生で同じ曲を練習し、完成度対決をすることになった。

◆ミーティングでも特段先輩方との壁はなく楽しくやれている。音楽室に入るときと帰るときに「ごきげんよう」と挨拶しなければならないという謎のルールもある。軽音楽部は文化祭に向けての活動が主になるのだが、活動日以外の自主練に参加している人も数多く見受けられる。授業・委員会活動・部活動、すべてにおいてとても充実している。

◆島での生活は想像以上に楽しく、自分の力を最大限発揮できる場所だと思う。私はこの環境で島のため、クラスのためにできることはすべて成し遂げたいと思っている。そのための努力を日々意識し、より充実した生活を送れたらと思っている。努力が必ず報われるわけではないが、報われるまで努力するのが努力だと感じている。(長岡翔太郎 神津島高校1年)


 緑の美しい季節となってまいりましたが、いかがお過ごしでしょうか。

 通信、若々しく新鮮な文章が多く、楽しく読ませていただきました。また、祥太郎の文、『今月の窓』欄に掲載いただき恐縮です。神津島へもお送りいただきありがとうございます。

 それから、通信の落手日、世田谷区のわたしの所は15日。神津島着は16日です。

 さて、都立神津高校は全校生徒53名。創立50年。太平洋を西に望む広大な敷地に建っており、船形山とでも名付けたくなるような天上山が東に控えています。離島島留学制度は今年で6年目とのこと。新入生は18名、内留学生4名です。少人数を生かし、生徒それぞれに合わせ、きめ細かい教育ができるのが特徴のようです。

 離島留学生の寮は天上山麓の高台にあり、学校までは歩いて20分。築3年で真新しく、各自個室、冷暖房完備で至れり尽くせりの待遇です。寮生は1年から3年まで11名。土日は寮生が自分たちで炊事しますが、普段の日は昼給食、朝晩は賄い付きです。寮長ご夫妻が住み込みで面倒をみてくださっています。夜の時間は、勉強していないと叱られるとのこと。

 祥太郎はさっそく学校になじんでいるようです。バレー部と軽音楽部に入り、部活も頑張る模様です。

 それでは、今後とも宜しくお願いいたします。ご報告まで。(長岡竜介


今月の窓

大学教育の現場と地平線会議そして南極越冬

 「世界が仕事場」という九州大学のオンライン講座で講義された江本さんへの手紙を発端に、ここ数回の地平線通信紙上で受講生との交流が続いた。同じ大学人としても読みふけってしまう内容の連続だった。私が地平線報告会にゼミ生を連れてくるようになって、かれこれもう5年。学年も一巡したところでコロナ禍となり、地平線とゼミとのつながりもすっかり停滞してしまっているが、それに対する江本さんなりの突破口を示していただいた気がする。

 報告会に通っていた頃には、ゼミ生たちに報告を書かせてみてはどうかと江本さんから提案いただいたこともあった。その際、書き方を問い合わせたゼミ生に、「通信は個人としての文章の集積」「個人個人の率直な感想がほしい」と江本さん自ら返信されていたのを思い返している。学生同士の議論を経ながら理解を深めていく側面もゼミにはあるのだが、「相談したことを書く」ような書き方は地平線の趣旨にやや反している、とも江本さんはコメントされていた。

 オンライン授業に切り替わったことで、学生間の相互交流はほぼ絶たれてしまっている。この状況は、図らずも学生が自らの内面を一人で見つめる機会を作り出しているともいえる。そこに、地平線という、ある種異質で刺激的な情報が入ってくるとなると、そのシナジー効果は相当なものになるのではなかろうか。実際、山岳部に入ったという安平さんも、大学院で研究している平島さんも、自分の内面としっかりと向き合いつつ、江本さんの意図を的確に受け取っている。

 自分でもオンラインで講義をしていると、学生たちが仮想現実の世界に身を置いて一聴衆としてエンタテイメントを傍観しているように感じることがある。江本さんが、あえてリアルな手紙で感想を送るようにリクエストしたことで、学生たちは現実世界とのつながりを意識せざるを得なくなったのではないかと思う。私はかつて通信475号への寄稿の中で「語りや記述を実感へと変換する受容体=vについて言及した。当時は我がゼミ生を念頭に、学生の受容体は発展途上、と書いた。江本さんが繰り出した秘策によって、彼らの中の受容体≠ニ江本ワールドとが化学反応をはじめたに違いない。まさにその現場を、通信紙上の交流が見せてくれたのであった。

 さて、そうこうしているうちに、南極観測隊の越冬隊長に委嘱されてから、はや半年が過ぎてしまった。11月の出発を控えて、準備期間の丁度折り返し点を迎えている。「段取り八分仕事二分」とはいうものの、大学の学務と二足のわらじで進めてきて、すでにお腹いっぱいの気分になっている。

 この間、年末年始に隊員の選考を行い、3月上旬に長野県の湯の丸高原に候補者を集めて冬季総合訓練を実施した。隊員の正式発表は7月で、それからようやく組織として本格的に始動するのだが、この3月を逃すと国内で雪氷や寒冷に触れる機会は出発までもうないため、正式決定を待たずに集合してもらった。丁度2度目の緊急事態宣言が出ていた時期と重なり、ソーシャルディスタンス・飲食時の会話は厳禁、という感染防止の鉄則に忠実にならざるを得ない中で、野外行動スキル向上とリスク管理知識の研修に努めてなんとか形だけは整えた。

 本来なら、日中の真面目な訓練のあとに、夜な夜な酒宴を設けてお互いの気質を知り合う機会とするところなのに、それもできずじまい。越冬中の閉鎖空間における少人数での生活では隊員同士の腹を割った協力関係が不可欠なことは、これまでの2度の越冬経験でも痛感しているだけに、チームワーク作りの相互交流が十分にできなかったことが気がかり。

 この越冬隊は6か年区切りで進められている全体計画の最終年を担うため、これに積み残されることは計画を断念することを意味する。冬季訓練の時点では、急遽縮小編制とならざるを得なかった前次隊からのリベンジ組も含めて、六十余年の観測隊史上最大となる人員編成を想定した遂行の可能性を残そうともしていた。しかし、4月になって3度目の緊急事態宣言が出され、頼みの綱のワクチン接種による集団免疫の獲得も遅々として進まず、変異ウィルスの拡大も続いている、というこの現実。そろそろ先も見えはじめてきた中で、各観測テーマの責任者からはぼちぼち自主的な撤退の申し出も届きはじめた。

 南極観測計画遂行の律則条件は、なんといってもロジスティクスにある。従来の寄港地であるオーストラリアは外国人の受け入れを厳しく制限しており、豪州本土への寄港はほぼ絶望的。東南アジア諸国やタスマニアなどでの補給寄港に最後の望みをかけている。

十年ほど前から、南ア・ケープタウンを起点として、諸外国が南極に設けている基地を結んだエアネットワークが運営されている。昭和基地はこの航空網の最東端に位置しており、この路線を使う道も残されてはいる。ただこの経路でも、ケープタウンでの検疫隔離は避けられず、その日程的ロスと南極での活動時間との駆け引きで実効性が問われることとなる。

 さらに難題は続く。南極に到着できたとしても、諸々の野外観測に不可欠な、足回りのよい小型ヘリコプターをチャーターすることはほぼ絶望的となった。砕氷船「しらせ」に搭載されているヘリは海上自衛隊の運用で、越冬を成立させるための物資輸送がメインのため、野外調査向けフライトの優先度は高くない。こうなると、一旦野外に送り出してしまえばあとは自律的に活動できるような猛者揃いの調査パーティを優先させるしか手はない。

 こんな非常時での組織作りの篇首にあたって、真っ先に頼りにしたいと思ったのは、自立した活動スキルを持つ行動派研究者たちであった。この要望に応えてくれる人選がかなったのはまったくの僥倖であったのだけれど、この逆境の中で、ここぞ!と言うときに連帯感をもてる極地研究コミュニティの存在を本当にありがたいものだと感じている。

 残る半年をかけて、物資調達や積み込みなどを行い、11月中頃に南極に向けて出発する。隊員たちがプロとしての誇りを持ち、実力を十分に発揮できうるよう、様々な精神的・肉体的困難にも一致団結して協力し支え合える体勢を整えることを目指して越冬隊長職に臨む覚悟をしているところ。(澤柿教伸 法政大学社会政策学科准教授 63次南極地域観測隊越冬隊長)


4月20日植村直己冒険館リニューアルオープン!

■植村直己冒険館は、既存施設の改修と新たな機能を追加する施設整備を終え、4月20日リニューアルオープンしました。

◆今回、展示は植村直己さんの「人となり」に触れられるような構成に一新しました。併せて、子どもたちが天候に左右されることなくさまざまな冒険体験ができる遊戯施設「どんぐりbase」を新設し、冒険館は、植村直己さんの冒険精神と偉業を伝え、夢の実現に向けてさまざまな挑戦(チャレンジ)をする人々を応援する拠点として再始動します。

◆具体的な施設改修・整備は、本館を植村直己さんの幼少時代から世界的な冒険家とよばれるようになるまでの様子を実際に使われた装備品やエピソードを交えながら紹介し、植村直己さんの「人となり」を感じられるような構成にしました。研修棟では、自分の“夢”に向かって挑戦する沢山の人たちを、冒険館は応援する施設として、冒険者・挑戦者の“挑戦”情報を集め、展示等で紹介します。また、交流広場(カフェコーナー)をはじめ、多くの皆さんが立ち寄る憩いの空間を提供し“挑戦する心”を後押しします。

◆新たに新設した「どんぐりbase」では、体を使った活動ができる大型ネット遊具やクライミングウォール、ロープと専用金具を使ったツリーイングに加えて、寝袋を使った宿泊体験もできます。立ち木、芝生広場などを利用し、よじ登る、駆け回る、転げ回るといった、子どもたちの発育を促す運動遊び体験プログラムを提供します。

◆なお、リニューアルオープンイベントとして、「エベレスト登頂50周年記念フォーラム」(平林克敏氏の基調講演、重廣恒夫氏のエベレスト解説、黒田清太郎氏のライブペインティング、蘇武岳登山、エベレスト写真展ほか)を計画していましたが、「写真で振り返る日本人のエベレスト展」以外は、緊急事態宣言発出のため夏以降に延期することとなりました。日程が決まりましたらご案内させていただきますので、ぜひ足をお運びください。(吉谷義奉 植村直己冒険館館長)


あとがき

■毎号、自分に課していることがある。フロントの原稿は当日になって書く、ということだ。今日なら2021年5月26日、大袈裟な言い方だが、この日に見える地球の風景の何かをフロントでは取り込んでおきたい。そう思って書き続けている。レイアウト、印刷と雑務を押し付けられる仲間には非常に評判悪いが、若い書き手にあれこれ注文することが多い編集長としての意地でもある。

◆自分に課しているもう一つは、一昨年の秋に始めたヨガだが、これはとんでもなかった。覚悟していた以上に体は曲がらない。YouTubeの画像見ながら女先生のポーズを真似るのだが、到底ついてゆけない。ただ、1年半繰り返すとダメはダメなりきにほんの少しずつではあるが、改善はある。何よりもコロナで外出が自由にできない時期、体を動かすことだけで意味がある気がする。

◆毎号毎号、長野亮之介画伯の奮闘に感謝です。今月の1ページの題字はソマリ語。8コマ漫画の登場人物は高野秀行、その先輩格の山田高司です。こたつにもぐりこむわんこ。長野家の猫たちにフリーズしてしまうなんてかわいいね。今月はねこさんの4コマ漫画も再登場。意味は不明だが、コロナの日々、ああいう感じ確かにありますね。今月は森井祐介さんの古いパソコンが動かなくなり、またまた丸山純さんが緊急出動、蘇生させてくれました。皆さん、ありがとう。(江本嘉伸


『ハナタレ亭 花見の宴にて』(作:長野亮之介)
イラスト 地平線大画伯個展直前的日常

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■今月の地平線報告会は 中止 します

今月も地平線報告会は中止します。
会場として利用してきた新宿スポーツセンターが再開されましたが、定員117名の大会議室も「40名以下」が条件で、参加者全員の名簿提出や厳密な体調管理なども要求されるため、今月も地平線報告会はお休みすることにしました。


地平線通信 505号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2021年5月26日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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