2021年4月の地平線通信

4月の地平線通信・504号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

4月14日。正午の都心のお天気は雨。気温19度。東京オリンピックの開会まで今日でちょうど100日になるというのでIOC(国際オリンピック委員会)はビデオメッセージを公開し、「大会は確実に開催される」と断言した。そんな言い方して大丈夫か、と思うが1年延期された「2020 東京オリンピック」はともかく開催の方向を変えず、走り始めている。

◆ただし、五輪を前に本番を盛り上げる意図の聖火リレー、新型コロナウイルスの脅威で大阪ではついに「無観客」となった。きのう大阪では感染者が1000人を越え、東京以上に変異ウィルスの脅威が強調されている。このため大阪で聖火リレーが予定された13日、14日ともランナーは万博記念公園(同府吹田市)内の周回コースをゆっくり走るだけ。公道での走りはいっさい認められなかった。1964年の東京五輪の現場に居合せ(取材記者として毎日駒沢競技場に通った)一部始終を見た私にはなんとも不思議な光景である。

◆さらに言えば、オリンピックをやろうといういまこの一瞬、日本だけでなく世界のほぼ全ての国で人々がマスクを着用して生きていることも現代史の重要な史実として繰り返し記録されるべきであろう。そして、もう一つ、深刻な事態が。きのう13日、国の関係閣僚会議が東京電力福島第一原子力発電所の「処理水」について海洋放出の方針を正式に決めたのだ。放射性物質トリチウムを含む処理水の海洋放出は、国内の漁業者だけでなく、韓国、中国をはじめとする近隣諸国の猛烈な反発を買い、間違いなく厄介な事態になるだろう。こんな危険な液体を保管しなければならない原子力発電というもの、小泉元首相ならずとも「全く無用なり」と言いたくなるが、では当面の目の前の状況をどうするか

◆年度が変わる3月の最後の日の深夜0時過ぎ、大したことしていないのに80才になった自分を褒めてやろうと、ビールをお気に入りの陶器のコップになみなみ注いだ。細身の美しいコップで、我らが彫刻家、緒方敏明氏が作った逸品である。整理整頓という言葉とは無縁な我が仕事場は、日頃から机の上にもいろいろなものが積み上げられている。立ち上がった瞬間、右手がかすかに触れてしまい、美しいコップがゆっくり傾いた。その瞬間、多額の出費を覚悟した。

◆コップはまさに愛機マッキントッシュのキーボードの上に惜しみなく金色(こんじき)の液体を注ぎ、拭き取ることは手遅れとわかったのである。ちょうど10年前、丸山純さんに進められて買ったマックノート。翌4月1日朝、忙しい丸山君に電話して事情を話すとすぐ新宿のヨドバシカメラに急行し、機種を確保してくれた。この通信を出すためにパソコンが生命線―しかも一刻も争う、―であることは彼が誰よりも知っている。私も必死だった。最新の機種を購入するため18万なにがしかを払って惜しいとは思わなかった。丸山君が自宅に新しいマックを持ち帰った。

◆翌日、必要な立ち上げ操作を終えたパソコンとともに丸山君が我が家に来てくれた。私はずっと「親指シフト」というやり方で文章を書いている。ローマ字ではなく、ひらがなを打って漢字変換するので、ほんものの日本語表現ができる気がする。つい先日まで愛用していたマックと同じ機種とは信じられないほど使いやすく、スピード感溢れる新たなマックノートでの仕事が始まった。これだけ致命的なミスを短時間で回復させ、いつものようにこの地平線だろうか。新たなマックで文章を書いているとなんと楽しいのだろう。

◆春4月。旅立ちの時だ。今月の通信は意識して若い世代に多く登場してもらった。最近知り合った人も、5、6年になる人もいる。大学生だけでなく、中には中学、高校に入ったばかりの仲間も。私が仲間とともに地平線会議を始めたのは38才の時だった。報告会に集まるのは、探検部、山岳部の現役か若いOB、OGが多かった。当時はたち前後の元気者もいまや還暦を過ぎた。そうした中、どのように若い感性をつないでゆくかは核心の問題だ。それがない、年寄りの繰り言ばかりの通信だけは作ってはいけない。

◆4月11日。小松由佳さんがトルコ南部のオスマニエという街から貴重な原稿を送ってくれた。今回も2人の男の子を連れてトルコの難民キャンプ取材。よくも世界がこんな状態になっている時に……、と思う。旅立ち直前の忙しい時期、我が家に来て、カレーを食べ、雑然とした部屋と私の写真を撮っていった。フォトグラファーである彼女はどんな時にもシャッターチャンスを逃さない。写真に残したい、という思い、使命感のようなものが小松由佳には常にあるのだ、と思う。由佳さん、サーメルとサラーム、元気で帰るのを待ってるよ。(江本嘉伸


旅 立 ち の 春

2人の子を連れて再びシリア難民取材の旅へ

■昨年12月の半ば頃だったろうか。なんの前触れもなく、「明後日に来るから」の一言で、夫の親族が2人、1年の労働のために来日することを知らされた。最初の1か月ほどは、我が家で生活するという。シリア人の夫と暮らしていると、事態の突然の急変や、計画の頓挫、または想像できないことが突如起きるのには慣れたが、これには私も驚いた。

シリアから突然の客で終わった別居生活

◆というのもその時期、夫と大喧嘩し、2週間近くにわたって子供を連れて家出し、別居していたのだ。そこに「明後日に来るから」と、夫から何事もなかったかのような電話がかかってきたというわけだ。来日するのは夫の親族のマフムードと夫の甥のムハンマドだ。二人とも夫と兄弟同然に育ち、私にとっても10年来の友人だが、生活に困窮、家族に仕送りをするため出稼ぎに来るのだ。

◆これまで私は、シリア難民の取材を通し、シリアやその周辺国に逃れた夫やその親族から大変な歓待を受けてきた。ご飯を食べさせてもらい、家に泊まらせてもらい、親切にしてもらった。今度は、来日するムハンマドたちのお世話を私がしたいし、当然のごとく親族もそれを期待しているだろう。ということで、ムハンマドたちの来日に伴い、別居生活も突然終了した。

◆伝統色の強いアラブの文化にどっぷり浸かってきた彼らが来日する。これは大変だ。まず、我が家が汚すぎる。そして私の作るアラブ料理は悲惨である。さらに私は仕事も抱えていて、育児も家事も一人でこなしながらの暮らしは、一言で言えばサバイバルパニックだ。そんな渦中に、しかも別居中で冷え切っている我が家に来るというのか! 目眩がしたが、覚悟を決めるしかなかった。

◆初めに12月の終わり、マフムードがシリアから来日した。彼は最近まで、シリア政府軍に10年も所属し、上官となって200人ほどの部下を抱える身だった。シリア内戦の渦中で、政権支持側に身を置いた一人だ。一方、トルコからやって来るムハンマドは、2012年に徴兵されていた政府軍を脱走し、難民として暮らしていた。同じ年の同じ月に徴兵されながら、その後のマフムードとムハンマドの境遇を分けたのは、配属先の地域性と、本人の意識の違いだったようだ。これについては(宣伝となってしまうようで恐縮だが)拙著『人間の土地へ』(集英社インターナショナル)の後半を読んでいただきたい。実はムハンマドもマフムードも、この本に登場している。本を執筆中は、まさか二人が来日するとは夢にも思わなかった。

入管の対応のお粗末さに愕然とする

◆そんなわけでまずマフムードが、その後でムハンマドが来日した。ところが今度は、別の問題が起きた。ムハンマドが、到着した羽田空港の入国審査で引っかかり、「入国拒否・強制送還」の判断を下されたのだ。原因は、招聘先の日本企業から説明を受けていたはずの業務内容を本人が理解しておらず(大雑把で全てにおいてアバウトなアラブ人にはありがちなことだが)、入国審査で詳細を聞かれ、しどろもどろになり、これは怪しいと判断されたのだ。

◆その後、「携帯電話を取り上げられる」と本人から連絡があった後、一切連絡が取れなくなった。そのため、難民問題や入管問題に詳しい弁護士に連絡をとり、入国管理局に問い合わせて安否確認をした。ムハンマドはトルコ出国時、「2年間の入国を禁ずる」という書類をもらっており、トルコには戻れず、さらに母国シリアに送還されれば脱走兵として処刑されることもあり得る。シリア国籍の者がビザの発給なしに入国できる国は2020年12月当時、地球上にほとんどなく、もし日本から強制送還となれば、どこかの空港の乗り継ぎロビーでしばらく生活するしかないという、考えるだけでも気が遠くなる事態が待っている。

◆そのため弁護士をたて、ムハンマドが強制送還されないよう、あらゆる措置を講じることにした。その後、11日間の拘留の後、「一時上陸特別許可」がおり、ムハンマドは上陸を許可された。しかし、本人が片言の英語で主張しているにもかかわらず、24時間近く一切の食事や水が出されなかったことや、入管職員と現場の職員の説明が食い違っていたこと、拘留した外国人の食事の管理に誰も責任を負っていないことなど、政府機関である入管の対応のお粗末さに愕然とした出来事でもあった。

◆これを機に、牛久などの入管施設で発生している拘留者の自殺や病死も深く興味を持つようになり、国内にも深刻な難民問題があることを知ることとなった。11日間の拘留の末のムハンマドの解放に、我が家は喜びムードに包まれ、皆手を取り、涙を流して喜び合った。いつの間にか、最近まで別居していたことなど忘れ去られ、まさに「ムハンマド効果」というべき幸福な心境となったのだ。人は、たとえ問題の渦中にあったとしても、より困難な問題に直面すれば、団結して向き合おうとし、過去を清算していける生き物らしい。

アラブ料理の味付け問題

◆こうしてシリア人の2人の親族との賑やかでワンダフルな共同生活が始まった。彼らは日本の家の狭さと、ものの多さに驚き、また隣人が誰かもわからない相互不干渉状態に戸惑い、さらに私が、シリア人の一般的な妻に比べ、ほとんど掃除をこなせていないことに驚き(自分としては一生懸命やっているつもりではあるが。何しろシリア人女性は一日中掃除をしている)、私が深夜までかけて洗濯をして服を畳んだり、早朝からパソコンで原稿を書く生活に驚き、私の作るご飯がすべて手っ取り早くできるものばかりで、手間暇をかけて作られたものではないことに不満を漏らした。

◆しかし特に彼らを困らせたのは、私のアラブ料理の味付けが和風アラブ料理であることで、特に「ママの味と違う」という問題だった。初めこそ、それでも一生懸命に調理していた私も、毎日のように「ママの味と違う」「うちのママは……」と言われるうち、「私はあなたのママじゃないよ!」と跳ね返した。それでも味に耐えかねたムハンマドが、次第に食事作りの場で存在感を増すようになり、やがて私は食事作りをムハンマドに丸投げすることにした。そして尊敬と感謝を込め、「マーマ・ムハンマド(ムハンマドお母さん)」と呼ぶようになった。

大食漢たち

◆彼らは信じられないほど大食漢で、一食に米なら約7合、パンなら食パン4斤を食べる。日頃、なんとか維持していた我が家の食費は通常より3倍近くかかり、経済的打撃ははかり知れなかった。さらにせっかく私が作ったご飯が「ママの味じゃない」と言われ喜ばれないとなると、必死に捻出した食費も無駄になる。皆にとって一番いいのは、もう、調理が得意なマーマ・ムハンマドに丸投げすることだ。

◆それからは、調理をマーマ・ムハンマドが行い、私はお手伝いに徹した。その間の子供たちの世話はマフムードがし、夫は何もしないという役割分担が生まれた。ムハンマドたちとの共同生活で知ったのは、夫はシリア人だから何もしないのではなく、元来何もしない人であり、しかし何を作っても、「ママの味と違う」などとは言わず何でも食べる人であるという発見であった。

男たちがついに家事を!

■ムハンマドたちは、我が家で暮らす間、自転車の輸出業を手がける夫の仕事を毎日手伝っていたが、時に帰りが遅いとやむなく私が調理をした。すると、疲れて遅く帰ってきたところに悲惨な料理が出されるということとなり、何度かそのようなことがあった結果、その日の夕食後、マーマ・ムハンマドと私とで、翌日の夕食を深夜までかけて作るようになった。アラブ料理は元来、大体において非常に手間がかかる料理で、女性たちが世間話に花を咲かせつつ、手間隙をかけて作るのが良しとされる。しかし私たちは、マーマ・ムハンマドの有無を言わせないスパルタ料理指導のもと、ちゃぶ台を囲んで向かい合い、眠気と戦いながら無言で作り続けることとなった。

◆さらに私の仕事が遅くなるときは、ムハンマドとマフムードに、調理から子供たちの面倒まですべてお願いしたこともあった。マフムードは、息子たちをトイレに連れてお尻を拭いてあげ、オムツを取り替え、歯磨きまでして寝かしつけてくれており、通常、アラブ人男性がここまでやるのは考えられないことだった。さらに彼が、最近まで悪名高いシリア政府軍の上官だったことを考えると、さまざまな意味で奥深い。

◆彼らは当初、女性である私が(シリア人の妻のように)家事も育児もすべてやるべきだと当然のごとく考えていたが、次第に私ができない人だと理解し、やがて自分たちが率先して家事をやるようになり、さらには彼らの文化では男性が関わることのない子供の世話や日々の調理にまで率先して関わるようになった。2か月の彼らとの共同生活を振り返ると、私たちも彼らも、互いに文化的なショックに直面しながら共生を図ろうとしたことが感じられ感慨深い。

◆そして今年2月、ムハンマドたちは元気に建設会社の仕事へと旅立っていった。彼らとともに過ごした日々は、一言では言い尽くせない財産となった。彼らの旅立ちとともに私は虚脱状態となり、疲労も達成感も、異文化に埋没した複雑さも、すべてが混じり合った恍惚の心境となった。これからもムハンマドたちは、文化の異なる日本で困難の連続となるだろうが、彼らが日本を去る日までサポートをしたいと思う。

『人間の土地へ』の印税でシリア難民取材に

■さて、ムハンマドたちが去り、生活が落ち着くと、ようやくシリア難民の取材をしている自分の活動に落ち着いて目を向ける余裕が生まれた。時代はコロナの真っ盛りで、ワクチンが開発されたとはいえ、収束の予測がつかない状況だ。「コロナだから海外には行けない、取材には出られない」と人は言う。だが、取材をするならば今だからこそ行きたいし、行く価値があると思う。世界的なコロナの流行は、時代をものすごい速度で変化させていて、その激動は、やはり現場に立たなければ見えてこない。フォトグラファーとしての私の信念は、現場に立ち続け、丁寧に人と向き合うこと、それに尽きる。

◆そうして4/5から5/30まで、トルコ南部にシリア難民の取材に向かうことを決めた。なぜ今なのか、と問われれば、本音は、今なら行けるからというのが実際のところだ。拙著『人間の土地へ』が、ありがたいことに3刷となって印税をいただき、数年ぶりに、カンパを募らなくとも取材に向かえることとなったのだ。このタイミングを逃せば、あとあと経済的にまた困窮し、取材費を捻出できなくなるだろう。取材に行けるなら行く。タイミングを見計らって、できるときに突き進む。つまり登山のアタックと同じだ。

◆取材は、今回も2人の子供たちが一緒だ。子供を連れることについて慎重に考えたが、子供は比較的重症化しにくいこともあり、十分気をつけて連れることにした。こんな時期に、強制的に海外に連れていかれて彼らも大変だが、取材先に親族が多く暮らしており、こうした多種多様な難民との出会いは彼らの感性を豊かにするだろう。

◆実はもう現地に入っている。現在トルコ南部のオスマニエという街にいるが、ここオスマニエ県ではコロナの罰則が厳しく、マスクのつけ忘れは900トルコリラ(日本円にして約13,000円!)、土日や夜9時以降の外出が見つかれば、3,200トルコリラ(日本円にして約45,000円!)の罰金が課されている。3,200トルコリラと言えば、この辺りでは平均月収に相当する大変な額だ。そうまでしないと人々の意識を高めるのが難しいようだが、実際ここに来てみると、コロナは存在しないと信じている人もおり、また外ではマスクをしていても、屋内の密になる不特定多数の前ではマスクを外していたりと、日本とは常識が違っていて興味深い。

◆さて、今年も取材が始まった。帰国までの2か月を、駆け抜ける。

 皆さま、長文を読んでいただき、ありがとうございました。また昨年は、皆様から取材カンパをいただき大変助かりました。元気に取材にあたります!(小松由佳

「旅する百姓」を目指して

■「糸島で中学生の女の子がひとりで企画したマルシェがあるんだけど行ってみない?」。 昨年12月、ちょうど福岡にいたタイミングで友人に誘われて訪れたのが第1回のLANIマルシェ。会場は海岸沿いに建つ築100年の古民家。こだわりの美味しいごはんやお菓子、手作りの作品が並び、和気あいあいとした心地の良い空気に包まれていた。そしてそこで出会ったのがマルシェの企画者、さよちゃん。

◆さよちゃんは、子ども達が自分達で海外旅行を計画&実行する「ねっことはっぱ塾」の元メンバーでもあり、それで訪れたフィリピンとインドネシアで大きく変わったと言う。その国の文化や歴史、食べ物、交通手段などについて徹底的に調べあげて作られた、手描きの絵が満載の手作りガイドブックをめくりながら、目をキラキラさせて話してくれたさよちゃん。イベントの企画、広報、出店者の募集、運営。それを14歳のこんなに可愛らしい女の子がひとりでやったなんて。

◆彼女のやりたい!を形にするエネルギー、それをサポートする周りの大人たちも含めて、素敵すぎる! わたしが以前に自転車で海外を旅した話をすると、ますます目をキラキラと輝かせていた。そんなさよちゃんから、「第二回のLANIマルシェを企画しているので、よかったらお話しに来てくれませんか?」なんて言われたら、行かないわけにはいかなかった。

◆そんなわけで最近買ったボロボロのサンバーバンを4日かけて廃材でスペシャル車中泊仕様に改造し、横浜の実家から大阪まで愛車を転がし、そこからフェリーに揺られて九州へ上陸。12月にも同じフェリーに乗って仲良くなったトラックの運転手のお姉さんと、フェリー内でまさかの再会を果たすなどのドラマもありつつ、2日半かけて1,000km離れた福岡県糸島市へやってきたのだった。前日からさよちゃんファミリーのおうちにおじゃまして、一緒にご飯を作って食べ、はじめましてとは思えないくらい笑い転げた。

◆マルシェ当日も、さよちゃんの純粋な想いとエネルギーに突き動かされた人たちが集まり、子どもから大人まで思い思いに楽しんでいた。終わったあともその場を離れるのが名残惜しく、残ったメンバーと砂浜で夕陽を眺めながら、ジャンベ(アフリカの太鼓)とその辺にあった竹やフライパンでセッション。翌日はその流れで朝から山登りに行くことに。

◆しかしそこで愛車が早くも故障。バッテリーランプとブレーキランプが点灯しっぱなしで消えず、しばらく走ったら直るかも……なんて甘く考えていたけど、車屋さんに見てもらったら、充電がうまくいっていないので発電機の交換が必要とのこと。部品の取り寄せなどに数日かかるそうで、その日のうちに大分に移動しなければならず、泣く泣く預けることに。代車は同じ軽バンだけど、サンバーよりも荷室が短いようで、せっかく作った車中泊仕様も全部は載せられず、前半分は置いていくことになり、ダンボールで高さを合わせて寝ることにした。

◆大分では竹細工をしたり、友人と材料を持ち寄って料理をしたり、素焼きの鉢で作った自作の釜で焼き芋を作っている友人の絶品焼き芋をいただいたり、お米とさつまいもで作る奄美大島の発酵飲料・ミキのワークショップに急遽参加することになったり、前日や当日の流れで思いがけない展開が次々と巻き起こる。わたしのFacebookの投稿を見たカノンちゃんという子から、「南阿蘇にも寄っていってください?」とメッセージをもらっていた。当初の予定では南阿蘇を通る予定はなかったが、流れに導かれて気付けば南阿蘇のすぐ近くまで来ていたので、おじゃますることに。

◆聞けば彼女は以前に自転車で岐阜から知多半島まで走り、そこにある素敵なゲストハウス、ほどほどさんでわたしのことを知ってくれて、昨年わたしがインド旅のオンライン報告会をした時にも参加してくれたのだという。このとき知ったがなんと翌朝引っ越しするそうで、1日遅ければ会えていなかった。現役の大学生の彼女は、昨年鹿児島から東京に帰ろうとしていた矢先に緊急事態宣言で飛行機が欠航となり、知人を頼ってやってきた南阿蘇が気に入り、農家さんのところでアルバイトをしたりしながら気付けば1年がたっていたという。

◆ちょうど授業がリモートになったので、草引きしながら授業を受けたりしているらしい。「わたしはコロナがあってよかった。正直大学をやめようかと思っていたタイミングで、自分を見つめ直すことができたし、友人も訪ねて来てくれてより深くお互いのことを知ることができた」と話す彼女。今後は電気自動車で全国の農家さんのところを訪ねて回るのだとか。

◆大学を卒業して先週からここに住み始めたばかりだというなっちゃんも、普通に就職することに疑問を感じ、1年間は「ギャップイヤー」としていろんなことにチャレンジする年にしようと思っている、と話してくれた。二人とも有名大学なのに常識にとらわれず、周りに流されず、この状況を逆にうまく利用して自分のやりたいことをどんどん形にし、何よりも自分の意志で選択をしているのがすばらしい。わたしが彼女たちの年のころはそんな勇気はなかった。こういう若い人たちに出会うと、未来は明るいなと思う。

◆翌日も熊本でお米つくりをしている友人や韓国の薪で焚く床暖房・オンドルを作った友人のもとで初のオンドル体験をした。糸島で無事に直った愛車と再会を果たし、お話会に来てくれて知り合った方のお宅に呼ばれて、翌日はその流れで一緒に竹細工をすることになったり。そして今日からは昨年住んでいた長崎の上五島へ炭焼きをしにいく。すでに抗原検査もして対策はバッチリ。

◆めざすは「旅する百姓」。衣食住、身の回りのものをなるべく自分の手で作れるような、カッコイイおばあちゃんを目指して。修行の旅はつづく。(青木麻耶


世界が同じ雨に降られている
お め で と う

植村直己さん、ほんとうにありがとう!

■とんでもないことがおきた。「植村直己冒険賞受賞」! 目が飛び出た。恐れ多すぎる! どんぐり(植村直己氏の学生時代のあだ名)ストーカー出身ですけど、って言おうかなと一瞬思ったけれど、そんな余裕はまったくなかった。その方の賞を頂くなんてしばらくボー然として頭の中グルグルと回り最終的に素直に嬉しい気持ちが込み上がってきた。

◆私は、「植村直己ストーカーの旅」と自分で名付けてデナリが見たくてアラスカの旅をした頃がある。直己さんのおかげでヒマラヤに出会えて山を歩けるまでに復活した。18歳で膠原病のリウマチになり、毎朝強張る手足、その痛みと戦う生活を送っていて真っ暗闇を彷徨っているようだった。そんなとき、諦めていた人生に生きる光を与えてくれた方なので勝手に恩人だと思っている。

◆今から20年前、28歳のときに直己さんの著書『青春を山に賭けて』を読んで、山の知識ゼロだった私は直己さんの人柄に惚れ込んでしまった。その頃の私は、持病のリウマチ生活が10年目に入っていて、どうしようもない痛みに死にたくなるぐらいだった。当時、マンションの5階に住んでいて、飛び降りたら死ねるかな、死んだらこの痛みから解放されるかなと思うほど痛くてたまらなかった。でも私には死ぬ勇気はなく、痛み止めを飲むしかなかった。

◆ドラック中毒のように、薬が切れる瞬間がわかるほど飲み続け、切れるのが怖くて重ねるようにして飲んでいた。その痛みがマックスに達するときは、薬なんて効かない。耐えるしかなかった。ひたすら耐えて耐えて動かない体を無理やり動かして仕事に行っていた。普通だったら引きこもり生活だろうけど、私は将来一人で食っていけるようになるには何か技術を身につけないといけない、と小学生の頃から思っていた。そのおかげでハングリー精神が生まれていた。そんなとき、直己さんの本を読んで惚れ込んでしまったのだ。

◆直己さんが眠っているデナリをひと目見たいと思い、アラスカへ旅に出た。寝袋の存在も知らない、アウトドアの世界なんてまったく無に等しい状態でアラスカへ行き、本場の自然を身体で体感した。それはもの凄く衝撃でもっと山の中に入りたいと思った。帰国後、次の年はネパールでエベレストを見に行こうと決めた。それはちょうど直己さんが日本人でエベレストを初登頂した29歳と自分の歳が同じだったからだ。同じ感覚でエベレストを見てみたいと思った。

◆そのとき初めてトレッキングという存在を知り、行くならできるだけ近くまで行きたいと思った。日本の山を登ったことない状況で、いきなり5,545mのカラパタールを目指す2週間のトレッキングに行った。ツアーになると私の身体では迷惑がかかり、気を使って無理をしてしまう、だから単独で行き現地でネパール人のガイド兼ポーターを雇った。その初日のことは今でも覚えてる。痛みがまったくなく体が動く朝、リウマチになって以来そんな朝はなかった。信じられないほど動いた。

◆高度順応も順調にいき最後まで登りきった。5,000mの世界で私の体が動いた。平地ではあれだけ痛かった、動かなかった体が動いたときは言葉では表現できないほどだ。ヒマラヤトレッキングのような環境の厳しいところでは、眠っている人間本来の力が蘇る。それをヒマラヤの大地が教えてくれたのだ。私はこの経験により、「山で病気は治せる」。そう思った。すべてにおいて意識が変わった。

◆薬に頼っている自分に気づき、医者に治らないと言われるから治らないと思ってしまっていた。そうではない、まったく違うということに気付いた。諦めなかったら可能性が無限にあるってことをヒマラヤの大地が教えてくれた。この気づきは非常に大きい。だから、人一倍の思いがある。どのぐらいかというと、まずは植村直己冒険館に、そして直己さんの兄の修さんに手紙を書いていた。

◆その思いが通じたのか冒険館ではその手紙が展示されたり、お兄さんの本にも手紙が掲載されたり、最終的にはお兄さんから電話を直接いただき泊まりで遊びに行くようになった。最初の頃は1人じゃないと嫌だった。それは直己さんと対話がしたかったからだ。冒険館ではしっかりと一つずつ1日中見ていた。見学の後は直己さんが育った家の前を通り、ピンポンダッシュしそうになりながらグッと我慢してお墓のある高台に行きそこで1年の報告と次の目標を言って帰るという、自分の中で「儀式」と名付けて楽しんでいた。

◆ちなみにこれは今も続けている。なぜかというとここで報告して次の目標を言って帰ると必ずできるからだ。これを今年はドルポ越冬の報告に行こうと思っていたところ、まさかの受賞報告となる。まさかすぎて信じられない。山の世界を知るきっかけを最初に与えてくれた直己さんからとんでもないギフトを頂いたような気がする。今回の賞を励みにまたさらなる目標に向かって一歩ずつ歩んでいきたいと思う。本当にありがとうございました。(稲葉香

写真集『ノースウッズ 生命を与える大地』、第40回土門拳賞を受賞!

 この原稿を書いている4月7日は授賞式だった。正賞として頂いた佐藤忠良作のブロンズ像「少女」が、机の隅からこちらをみつめている。昨年2月に出版した写真集『ノースウッズ 生命を与える大地』が第40回土門拳賞を受賞したのだ。自身初めての写真集で、まだ新人の気持ちが強かったので、ベテランによる長年の仕事が認められるイメージの土門拳賞に選ばれたときは、正直自分でも驚いた。でも、確かに「20年の集大成」と謳った写真集なので、知らぬ間に歳を重ねていたということなのだろう。

 正式な発表は3月19日付の毎日新聞朝刊だった。が、それまで内密にと数週間前に連絡を受けていた。その時、ぼくはとある自然番組のリサーチを兼ねて北海道の大地にいた。できたばかりのウポポイの敷地内だ。前日に爆弾低気圧が襲い、新千歳空港から帯広へいく予定だったが、吹雪で日高の峠を越えることができなかった。雪は止んでも風が強く、外は身を切るように冷たかった。手に持った携帯電話の向こうから受賞を告げる声を聞いたとき、体の中をその寒風が吹き抜けていくのを感じた。これまでの努力が報われた嬉しさと同時に、まだまだやり残した仕事の多さに、身が引き締まる思いだった。

 昨年の2月からコロナに翻弄される日々だった。写真展は途中で中止となり、人を集めるトークイベントもできない。出版したクレヴィスの担当者は青ざめていた。しかし、受賞を伝える紙面では、「全世界がパンデミックに襲われ、地球規模の温暖化対策が叫ばれている今、この作品には大きな意義があると高く評価された」とあった。つまりコロナは迷惑な話だが、今回の受賞に限れば追い風となったようで、複雑な気持ちである。

 発表があると、お祝いのメッセージが続々と届いた。その多くは、これまでに講演や写真展に呼んでくれた図書館、博物館、文学館、書店、読み聞かせの会、家庭文庫など。つまり、ぼくの話を仲間や地域の人々に聞かせたい、写真を見せたいと努力をしてくれた方々だ。皆が一様にまるで自分のことのように喜んでくれた。“職場で盛り上がっている”、“嬉しくて泣いている”、中にはぼくに“ありがとう”と告げてくれる方もいた。賞というものは受け取って終わりではなく、発表になった瞬間に応援してくれた人々の中に波紋のように広がっていくものなのだ。

 本来なら学士会館や如水会館で行われる授賞式も、今回はコロナで、毎日新聞社の地下の研修室で行われた。呼ばれたのもごく近い関係者だけ。でも、むしろ参加者との距離が近く、心温まる会になった。受賞のスピーチの最後には、共にこの写真集を作り上げたクレヴィスのチームへ個人的な謝辞を述べた。ぼくの夢のために労を惜しまず、外注している地図製作や翻訳、印刷所の担当者に、ぼくに代わって何度も頭を下げてくれた仲間だ。つい先日3刷が決まったが、少しでも恩返しができていれば嬉しい。

 2020年の初め、地平線会議の報告者としてのレポートにも書いたが、一度は写真家への夢を諦めたぼくに立ち直るきっかけをくれたのは、東横線学芸大学駅近くの喫茶店・平均律のマスターである。5月9日までそこでささやかな展示をしている。週末は混むが、よかったら足を運んでみてほしい。2017年4月末、意識が遠のいていくマスターに、病室で「また写真展がしたい」と告げた。反応はなかったが、4年後の今その約束を果たす時が巡ってきた。命日である4月27日は奇しくもニコンプラザ東京で行われる受賞記念作品展の初日だ。(大竹英洋

第40回土門拳賞受賞記念作品展

ニコンプラザ東京(新宿)
  4/27〜5/10 (日曜、5/3〜5休館)
ニコンプラザ大阪(心斎橋)
  5/27〜6/9 (日曜休館)
土門拳記念館(山形県酒田市)
  10/6〜12/22


マスクあるある
旅 立 ち の 春

被災地で奔走されている方々の実体験を読み、自身の共感力に危機感

■前回の地平線通信で初掲載して頂いた、九州大学修士二年の平島です。2020年度に受講した大学の講義“世界が仕事場”がきっかけで、江本さんと知り合いました。今回は4月という日本では始まりの月にふさわしいよう一年間の抱負を書きたいと思いますが、その前に3月号の地平線通信に触れたいと思います。大学の講義“世界が仕事場”や同大学に所属する安平さんの登場、江本さん宛てに送った講義の感想を書いた手紙に触れている記事があり、私も皆様と繋がれたように感じ嬉しく思いました。江本さんが、地平線通信の感想を伝えてほしい、と訴えられている意味をおかげさまで体感することができました。そこで私も先月の通信の感想を述べたいと思います。

◆3月号は東日本大震災が起きた3.11の記事が多かったですね。被災者やボランティア活動をしている方の記事を読み、自問しました。私は、記事を書いた方々のように世の中のことを自分事として捉えられているでしょうか。最近『私はマララ:教育のために立ち上がり、タリバンに撃たれた少女』という本を読みました。命の危険にさらされながらも女の子の教育のために声を上げ続けているパキスタン出身の女性のお話です。私と同じ年に生まれた彼女は2014年にノーベル平和賞を受賞しました。

◆その本によると、世界ではとても2000年代のこととは思えないショッキングな出来事がたくさん起きています。紛争が起きていることは知っていましたが、こんなにも凄惨な状況だとは知りませんでした。今は、インドネシアで大変な水害が起きている様子がテレビで流れています。私は、人々の苦悩を想像する間もなく、出来事をひたすら情報として見ているだけではないでしょうか。そんなことはない、と思いたいですが、日本で奔走されている方々の実体験を読み、自身の共感力に危機感を覚えました。私の人生の大きな課題となりそうです。

◆私は4月に農学府修士2年になりました(九州大学では大学院の分野を”学府”と呼びます)。学生生活は今年度いっぱいまでです。卒業後、建設業界の研究員として引き続き植物の研究をします。こう言うと「建設と植物になんの関係が?」とよく不思議そうな顔をされるのですが、今やどの業界でも“環境”というキーワードは欠かせないものになっていて、どれだけ環境に優しい活動をしているか、は企業にとって重要なアピールポイントになります。

◆私は、大学で農業土木を学び持続的社会のため自然環境に考慮した建築に興味をもちました。また、私は食育を推進する“創食倶楽部”という学生団体を運営しています。“おいしい”の裏にある作り手の想いを伝え、日々の生活の中に小さいけど豊かな幸せを見つけてもらおうと、手前みそづくりイベントや対談イベント、地元の食材をつかったオリジナル商品開発などをしている団体です。この活動を通し、食や自然、環境の関心が高まっている一方、都市開発などにより自然に触れる機会が減っていると感じ、人々の暮らしを囲む建築にもっと自然を増やせないかと考えました。目指すのは、限られた人だけではなくもっと多くの人が農業や自然に触れ、それらの魅力を感じられるようなまちづくりです。

◆そこに進む前に、学生最後の年をどう過ごすか考えなければいけません。“世界が仕事場”で1人の講師に、最高の卒業式に至るまで何を成し遂げたのか妄想するよう言われました。すると、私の中で引っかかっていたことがはっきりとしてきました。 ひとつは、代表を務めている“創食倶楽部”の運営。もうひとつは大学での研究です。どちらも代表や大学院生という肩書をもちながら責任を全うできていないことです。創食倶楽部は年に数回食育イベントを開いていますが、去年はコロナ禍で活動がほぼできませんでした。

◆大学では 3Dカメラを用いた植物の生育状態のモニタリング技術を研究しており「深度カメラで計測した個葉の傾斜分布に基づく葉面受光量の日変化の評価」と題して卒業論文を書きました。この技術が発展すれば都市緑化や都市農業などを活用したまちづくりの展開に寄与できると思います。しかし、昨年は大学に行けない期間もあり研究が捗りませんでした。今まで色々なことに手を出してきましたが、せめて今年はこのふたつを優先し、責任を全うしようと思います。そしてやがて、思い描いた最高の卒業式を迎えたいものです。(九州大学農学府修士二年  平島彩香

穂高をめざした春

■「十九の春」がやってきた。今年度の九大山岳部としての活動は佳境を迎え、3月の中旬に行われた春合宿をもって幕を閉じた。昨年の夏には部活動は全面的に停止されていた。しかしコロナ禍であっても、大学側は「試合」のための合宿に対しては許可を出してくれるようになった。いわゆる試合はないものの、山岳部にとっては春、夏、冬の長期合宿が「試合」である。学務の理解があり、決行された合宿だった。

◆行き先は西穂高岳である。といっても私は本峰手前のピラミッドピークまでしか行っていない。私を含む1年生は、アイゼン歩行や稜線歩きが未経験であることから、安全面を考慮し、稜線上ではザイルにフィックスを張り歩行した。回収と支点構築を何度も繰り返すこととなり、行動時間が長引くため、隊全員で本峰まで行くのは断念することになった。

◆本峰へは先輩方からなるアタック隊が合宿2日目に到達した。その後2日沈殿をした後、隊全員でピラミッドピークに向かった。今合宿は天候に恵まれていた。この日も朝まで雪が降っていたものの、9時頃からみるみる雲が晴れていった。歩行中ふと足元から視線をあげたときには、雪と空のコントラストのなかで雲海が山肌を這うように進んでいるのが見えた。大げさかもしれないが、生きていてよかったと思えるほど美しかった。今回私は先輩方に連れて行っていただいたが、知識も、技術も、判断力も身に着けて、たくさんの山に登りたいと思った。勉強と実践を繰り返そうと思う。

◆先月号の地平線通信で、私の原稿に触れてくださっている方々を見つけ、胃が締め付けられるほど驚いた。自分の文章を読んでくださる方々が存在することがわかり、原稿作成時にはなかった他者の視点を感じた。そしてやはりうれしかった。温かいお言葉、本当にありがとうございました。『世界が仕事場』という講義からご縁に恵まれ、2度目の投稿をさせていただいた。通信を読み進めるほど多様な行動者に巡り合い、その生き方や志に心惹かれることが数多くある。

◆私には明確な将来像がなく、そのことにここ1年間焦りを感じていたのだが、この場所に来ると、自分の核心を見つめ、行動しようという気持ちが沸き立つ。今は一つ一つの行動がどこかにつながると考え、将来を急いで考えることは少なくなった。まずは行動の先々で考え、逃げずに生きていこうと思う。(安平ゆう 九大2年)

思わず読み入ってしまった……

■前号の印刷作業手伝い中、手を止めて読み入ってしまったのは17ページの平島彩香さんの文章だった。名前の所に記された九州大学修士1年という文字がまず目に飛び込んできた。私自身も定年退職後に、憧れていた自然科学分野の修士の門を叩いたが、ちょうど論文を出し終えて心が晴れ晴れしていた時だったせいもあると思う。その前の号に載った安平さん同様に、江本さんの「世界が仕事場」のオンライン講義の感想を書いたはがきが縁での寄稿だ。

◆「今からなにか始まるようなわくわく感を感じながらしばらくぼうっとしていた」。この一節がとても気に入って、私も作業の手を止め、しばしぼうっと、その気持ちを想像した。感染の拡大によって留学の中止や研究できない期間が続くが、「たとえ、いくつかの機会が失われても、今の世は新たなチャンスに溢れており」と、平島さんは失われたものより、得られた機会の素晴らしさを綴っているではないか。

◆私も遅れて味わった束の間の大学院生活の中で、研究室の若い仲間たちから教わることが多々あったが、平島さんの文章からも刺激を受けた。きっかけは「梅の絵が描かれた一枚のはがき」。私も誰かにこんな世界が広がるはがきを出してみたい。(久保田賢次


花に見つけられる

九大のお2人の投稿、3冊の手帳、ロング・スレ村

 大学卒業の年度を終え、やっと冬眠から目覚めるかのような気持ちを経験しています。色々と訳あって、こうして地平線の皆さまに近況をお伝えしたいなと、心から思えたのは久々のことです。

 これからの事を書く前に、先月と先々月の地平線通信に掲載されていた、九州大学の学生だという安平ゆうさんと平島彩香さんからのお便りには反応せざるを得ません。この一年間、ずっと停滞感から抜け出せないでいたわたしには、同世代のお二人の真っ直ぐな文章は強く響きました。彼らが歩んでいた間に、自分の足が止まっていたことを痛感させられたのです。案の定、江本さんもそんなわたしを長いこと心配されていたようです。

 前年度はちょうど大学卒業の準備や、進路決定のタイミングでした。昨年の2月まで通い続けていたロング・スレ村(ボルネオ島奥地でプナン族の人達が暮らしている農村。現地で義理の両親を得て、滞在を繰り返してきました)も、コロナが猛威を振るう状況下で再訪はあり得ませんでした。この間、来る数年のうちには働き始めることなどを考えると、第二の故郷となった場所でさえ、自分のもとからそっと遠のいていくのを感じざるを得ませんでした。

 何事にもあまり積極的になれない毎日で、その背景で世の中を完全に覆ってしまったコロナウイルスの存在は、空に重く被さった分厚い雲のようでした。毎日頭も手も動かしているはずなのに、結局なにもできていない。時間はたっぷりあったはずなのに、なぜこんなにも中途半端なんだろう。そんな負のスパイラルから抜け出せないまま冬を迎え、「人に会えない」は「人に会いたくない」に変わっていました。

 ついに嫌気が差して、やっと、「ねじを巻き直そう」と思い立ったのは昨年末。

 この一年を繰り返さないためにと、マメなことは得意でないわたしが数年ぶりに手帳を買いました。これまでスケジュール管理といえば、すべてスマホで済ませていましたが、日々の予定や出来事をイラストを交えて手帳に記録するようになると、毎日は思っていたほど単調ではないのだと気付くに至りました。鑑賞した映画や、新たに手に入れたものなども、一つ一つ記録するようにしています。これが小さな歯車となって、しばらく消極的だった人との約束も、元のように楽しみにできるようになりました。今日までにこの手帳に加え、バーティカル式になった手帳と、自由帳の2冊が仲間入りをし、3冊を小さな手提げ鞄に入れて毎日持ち歩いています。

 最近のもう一つの変化は、ずっと抵抗感があった「就活」に乗り出したことです。探検部出身なこともあって食わず嫌いをしてきましたが、いざ始めてみると案外楽しいものだとわかりました。丁寧に準備をすれば、自分が役に立てる仕事が見つかるような気がしています。自分の過去を幼少期から振り返ったり、過去の選択の理由を言葉にしたりしながら(就活の世界では、このような「自己分析」という作業が、働きたい企業とのマッチングに役立つとされています)、関心のある業界を調べるようになりました。どのような仕事に就き、どのように働きたいかという自分の将来について、少しずつですが想像を膨らませています。

 これまでボルネオにどっぷり浸けていた片足を一旦外して、日本に両足を置いて立てるようになるまでにだいぶ時間がかかりました。これにはコロナの影響も少なからずあるけれど、いつかはそういう生活へと移行しなくてはいけない。これは、以前からわかっていたことです。この春はそういう意味で、一つ成長できたかな、と思います。

 話がだいぶ逸れましたが、このように過ごした一年には良くも悪くも想い入れがあり、地平線の寄稿から思いがけず同世代の歩みを知ると、それが大変心に染みたのです。そしてお二人が共通して書かれていた、「こんな世界があるのか」、「こんな大人がいるのか」という地平線への「わくわく感」。わたしもこれに吸い寄せられて地平線会議の場に参加したひとりです(安平さんのような大学1年生の冬でした)。しかし今回、文章から溢れる新鮮なエネルギーをもろに受けて圧倒されてしまい、この集いの一員として、初心を忘れてはいけないな、と思わされました。今後この通信や報告会を通じて、お友達になれたら嬉しいです。

 さて、わたしはこの春に早稲田大学教育学部を卒業し、同大学大学院の人間科学研究科へ進学しました。

 大学2年生になる頃から繰り返し通ってきたボルネオ島のロング・スレ村ですが、現地に暮らす家族との繋がりをここで中断する覚悟はできませんでした。進学によって、ボルネオで培ってきたことを消化する時間に加えて、それらを学問の世界で通用する形にして修めるという数段高い目標を得ました。わたしの友人の多くは社会に出て働き始めており、この選択は両親からの理解と、経済的な支えなくしては成し得なかったことです。

 この春からわたしの研究をサポートしてくださる井上真先生は、東南アジアの熱帯林地域(とりわけボルネオ)をフィールドに国際的な環境問題に長年取り組まれながら、現地に暮らす人々のことを誰よりも考えておられる研究者です。そんな先生のもとで修行するので、現地での研究期間を念頭に、卒業までは3年計画でいます。

 これまでと確実に変わるのは、「居候」だったわたしが「研究者」として村に入るようになることです。しかし既に「村の娘」であることに代わりはなく、現地の人達との信頼関係はこれまでに築いてきたものがあるので、それほど心配していません。今はただひたすら、これ以上時間が止まることなく、向こうにいる家族や友人たちとの再会が叶うことを願うばかりです。

 実のところ、スレ村には恋人がおります。プナン族の男性です。コロナが話題になる半年ほど前からお付き合いしているけれど、いかんせんそれに阻まれて、現地で一緒に過ごせた時間はこれまでに2か月足らずです(苦笑)。それでも2015年に建てられたという電波塔のおかげで、なんとか連絡をとることができています。毎晩、村で起きた出来事や、森での仕事や狩猟のことや、一昔前暮らしのことなどを彼が語って聴かせてくれ、自分はそのうちに寝入ってしまいます。ほとんど村から出たことのない彼ですが、今は約2週間の初来日に向けてお金を二人で貯めています。それが実現したときには、またここで報告させてください。

追伸:ミャンマーから悲しい知らせが止まず非常に心が痛みます。現状、募金という形でしかアクションできていませんが、市民の人達が本当には何を必要とし、自分には何ができるのか、この地平線通信が有効な情報交換の場となって、何か知ることができるだろうと思っております。この状況を一刻も早く打開できますように。(下川知恵

ソーシャルディスタンス!

■地平線通信3月号で、宮城県南三陸町より、ひーさんこと石井洋子さんのレポートを読みました。ペンギンやアザラシと人間が距離を取ることについて、「ソーシャルディスタンス!」と言った子どもたち。子どもの世界観って、時に大人より的を得ているなあと思います。屋久島でも、昨年度の小学4年生の社会科のテストで「地域の伝統芸能を残していくためにはどうしたらいいでしょうか」の問いの答えに、「コロナが早くおさまること」と書いていた子が何人かいました。た、たしかに…!

◆ちなみに解答例は「地域の行事に積極的に参加する」「次の世代に伝えていく」等です。子どもたちにとって、コロナに踊らされているこの世の中はどう見えているのだろう。案外、彼らは冷静に構えているのかもしれないなと思います((屋久島 新垣亜美 小学校教諭)


番外編

手紙をしたためることの心地よさ

 この春、友人Kが新米記者として福島に赴任する。法政大探検部出身の彼と北大探検部出の私は、本来なら肩をならべて記者2年目の春を迎えているはずだった。結局、それぞれの事情で、彼は1年遅れてデビューをし、私は林業の道へ進んだ。

 そんな彼が、互いの近況を知るのに「手紙を書き合えたら面白いと思う」と提案してきた時には、驚きはしたものの嬉しかった。最近の地平線通信で「はがきの感想」が話題になったが、「昭和的」なスタイルに惹かれ、実践する若年層は、確かに一定数いるのだと思う。

 筆まめな相方に触発されて、私も近頃手紙を書くようになった。コミュニケーションの常識がメール、LINE(私はやっていない)と変遷していくなかで忘れていた、手紙をしたためることの心地よさを思い出す。手汗がにじんだ文を投函するときの「とどけ?」という想いと、返事の直筆文字を目で追う時のドキドキする気持ち。そうだったそうだったと、文通が普通だった少年時代の記憶が蘇る。デジタルが跋扈する世の中で、アナログの手触りを感じる時間を増やして生きていきたい。

 この原稿が載った地平線通信に、門出を祝う手紙を添えて、Kに送るつもりだ。私は、林業の専門学校入学を目指して受験準備の1年になる。私は、私の旅だちに向けた荷造りをはじめよう。(北海道遠軽町 五十嵐宥樹

説明会で出会った教育系の会社に

■地平線通信500号のお祝いコメントを寄せさせていただいたのがおよそ4か月前。時が過ぎるのはあっという間だ。とりわけ大学4年生、駆け抜けた1年であった。大学はしばらく休講になり、もともと受験するつもりだった公務員試験は延期になった。大学4年生になった時点で私がやらねばならないことは3つ。「卒業単位の取得」「公務員試験」「就職活動」。私が通っていた千葉大学の法学コースは単位の取得がとても厳しく、4年生だとしても手を抜くことはできない。授業形態も変わり、コロナですべてが例年通りとはいかず、自分が何をしたいのか改めて考え直さねばならなかった。

◆私は何になりたいのか。公務員試験を受けたかったのは、日本の教育制度に関わる仕事をしてみたいと考えていたからだ。私は勉強することは好きだったもののとにかく協調性がなく、学校が嫌いな子どもであった。常に楽しく生きていたい、小さい頃からの私のモットーが、学校に行くことで阻害されると感じていた。もちろん協調性を学ぶことが学校の醍醐味であるとは理解している。だが、あまりにも自分の個性や趣味が否定される学校生活というものに疑念を抱いており、周囲と馴染めない子どももきちんと学べるような、そんな教育制度の改革をしてみたいと考えていて、その一番の近道が公務員だった。しかしながら公務員試験の延期で大学の試験と公務員試験が重なる可能性が高く、公務員試験を断念した。

◆今年はコロナのおかげで民間の就職活動の多くがインターネット上でできるようになっていた。民間の就職活動をするには遅い時期であったため、毎日必死で様々な会社の説明会を見て、エントリーシートを書き、テストを受けた。面接までもたどり着けない会社ばかりで、落ち込む時期もあったが、在宅勤務になった父に叱咤激励され、改めて企業説明会をみたところ、心惹かれる教育系の会社があった。

◆今まで説明会を見たどんな会社よりも、自分がなりたい「何か」になれる気がして迷わずエントリーをした。そして、初めて面接までたどり着いた。1時間の面接はとても楽しくあっという間に終わった。面接が楽しかったと伝えたときに父から面接の内容を再現させられたことは正直面接よりもよほど怖かった。それでも、そのとき父が「私は面接で話して楽しくない人は採用しません」と父なりの応援をしてくれ、楽しむことを目標に何とか最終面接も乗り越え、無事に就職活動が終了した。

◆実は公務員試験を断念したことを、心のどこかで後悔していた。しかし、地平線通信502号にあった受験生のお母様方のお話を読み、娘さんが自分の信条に基づき決断を下したことを見守っている方や、将来のために決断を下した息子さんを見送る方がいて、胸のつかえがとれた気がした。現在私は会社の研修中で勉強に追われているが、日々新たな知見を得ることができ充実した毎日である。自らの決断は間違っていなかったと、そう言い切れる社会人になれるよう成長していきたい。(松本明華 社会人1年)

開門岳の麓に眠る野元甚蔵さんを訪ねて

■半年以上遅い私の「夏休み」は、九州出張ついでの鹿児島ということにして、新幹線に自転車を積んでいった。薩摩半島を一周するのに、山川は素通りできない。野元甚蔵さんが眠っている。1939年、関東軍の密命を帯びてモンゴル僧に扮してチベットに入り、若きダライ・ラマ14世を目撃した野元さんは2001年の「日本人チベット行百年記念フォーラム」、2009年、2010年の地平線報告会で若き日のこと、その後のダライ・ラマ法王とのふれあいについて存分に語ってくれた。そしてそれ以上に薩摩の農業振興に尽くした偉人だった。2015年1月に97歳で亡くなって、もう6年が経つ。

◆鹿児島中央駅から快速「なのはな」で薩摩今和泉駅へ。雨上がりの無人駅で自転車を組み立てて、知林ヶ島、指宿、山川港と海岸線をたどっていく。大隈半島の根占からこっちに向かってくるフェリーが見える。海峡は意外と狭い。指宿の温泉街はコロナ禍でほとんどがシャッターを閉めている。以前は屋久島と合わせて観光する外国人で賑わっていたらしいが、いまどき観光に訪れるのは春休みの大学生ぐらいだ。

◆シラス台地の上に上がると開聞岳が見えてきた。本当に富士山のようだ。手前にはまた不思議な形をした竹山、そしてもうもうと湯気を上げる九電の山川発電所。青年がひとりでキャベツの積み込みをやっていた。その後ろ姿が若い野元さんに見えた。まだ東京は緊急事態宣言下。そんなところから甚蔵さんの娘さん、蓉子さんと菊子さんを訪ねるのは気がひけていたのだが、江本さんに聞いてもらったら「皆さん待っている」とのことで、寄らないわけにはいかなくなった。坂を上がってカフェ「紫苑」に着いたのは昼前だった。きょうは水曜でカフェ定休日。蓉子さんも菊子さんも「ちょうどよかった」と口を揃える。営業日ならこんなにゆっくり話せない、と。甚蔵さんがかくしゃくとしていた頃の昔話に花が咲く。

◆甚蔵さんが40年前に建てた家を改装して2019年4月にオープンしたカフェは、まもなく2周年を迎える。こんなところにカフェが、と通りがかる人たちでいつも賑わっているそうだ。ランチは菊子さんのプレートに、蓉子さんの月替わりケーキとコーヒーがつく。鹿児島の人たちがうらやましい。甚蔵さんは生まれ故郷でもある浜児ヶ水地区の共同納骨堂に眠る。海が見渡せるいい場所だ。区営の温泉に隣接していて、墓参りを終えた私に「温泉入りに来たのか」と係の男性が声をかけてくれた。ちなみに夕方からの営業で「まだ入れない」と。また今度お邪魔します。(落合大祐

モンゴル旅を続けたい!

■3月24日、私は小学校を卒業した。卒業前にクラスメイトひとりひとりのいいところを書くという企画があり、私はみんなから「リーダーシップがすごい」と書いてもらって嬉しかった。小さいころはみんなと同じように結構もじもじしていたのに、いつから変わったのか考えてみた。まず最初のきっかけは小1の時に冒険フォーラムで案内係を任されたことだ。思い切って大きな声を出せば達成感につながることを発見した。

◆さらにもう一つの大きな理由は、5年生になってみんなが反抗期になったけれど、私が一足先に反抗期を抜け出したことだ。反抗期とコロナ自粛が重なって、死にたいぐらいモヤモヤしていたときに母ととことん話したことでモヤモヤが晴れ、6年生の夏休みに荻田泰永さんが主催する100マイルアドベンチャーに参加したことで親から自立し自分が変わった。

◆将来私は、いろいろな実験器具を使って実験をする研究者になりたいと思っている。家でもたくさん実験がしたかったので、父に実験キットを買ってもらって遊びを兼ねた実験をしてみた。それがものすごく楽しく、もっと本格的な実験がしたいと思い、クリスマスや入学祝いで本格実験用品をもらった。私は地平線会議や植村直己冒険フォーラム、そしてたくさんの本を通して極地の魅力を知った。だから将来は研究者になり、さらに南極観測隊員としても研究ができたらいいなと思っている。私には地平線を通して知り合った南極観測隊や極地冒険家の友だちがたくさんいる。その人たちに積極的に質問したり話を聞いたりして、自分が将来したいことに少しでも近づける努力をしていきたい。

◆この1年はコロナによる外出自粛、そして受験勉強に忙しかったこともあり、あまり地平線的な旅や登山ができなかったが、春休みに私と母は5泊6日で神戸の祖母の家に行った。しかしただの旅行ではない。コロナ禍で一つの家に人が何人も集まるのはよくないと考え、祖母の家の庭にテントを張ってそこで暮らしたのだ。夜は布団ではなくもちろん寝袋で寝る。食事も登山用コンロを使って庭で作り、トイレやシャワーのみ山小屋的存在の祖母の家を借りた。食事は簡単なものしか作れないが、外で星空を眺めながら食べるからこそのおいしさがあった。

◆昨年はコロナの影響や100マイルアドベンチャーに参加したこともあって行けなかったが、5才から毎年夏休みにモンゴルに行って遊牧民生活をしている。初めてモンゴルに行ったときに運転や料理をしてくれて仲良くなったナラさんというおじさんがいた。母にナラさんと結婚してほしいと泣いたぐらい好きなおじさんだった。その人と毎年モンゴルやロシアの旅をしていたが、ナラさんが病気になり、どんどん進行し、残念ながら亡くなってしまった。しかし、ナラさんの甥や兄弟たちが私たちの旅を受け継ぎサポートしてくれている。私の地平線的活動の根っことなっているのがこのモンゴル旅だ。だから中学生になって部活などでまとまった休みを取ることが難しくなっても、私はモンゴル旅を続けたい。(瀧本柚妃

「鵜ノ子岬→尻屋崎2021」

■3月号の『地平線通信』でみなさんにお伝えしたように、東日本大震災から10年目の3月11日、「鵜ノ子岬→尻屋崎2021」に出発しました。鵜ノ子岬は東北太平洋岸最南端の岬、尻屋崎は東北太平洋岸最北端の岬です。第一夜目の宿は四倉舞子温泉(いわき市)の「よこ川荘」。ここで渡辺哲さんと古山里美さんと合流しました。翌日、3台のバイクで北上。古山さんとは相馬で別れましたが、渡辺さんとは3日間、一緒に走りました。東日本大震災から10年目ということで、行く先々の被災地の10年間の変化を見てまわりました。

◆福島県の双葉町では廃校になった双葉高校に立ち寄りましたが、ここは渡辺さんの母校。東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故で、100年近い歴史のある学校は廃校に追い込まれたのです。校庭に設置された線量計は0.191マイクロシーベルトと、放射線量は小数点以下に下がっていました。双葉町では海岸近くに復興の拠点となる「伝承館」と「交流センター」が完成し、震災遺構の請戸小学校が公開に向けて準備中でした。

◆福島県から宮城県に入り、第二夜目は石巻の「サンファンビレッジ」に泊まりました。石巻から牡鹿半島を一周し、女川からは雄勝に行きました。雄勝は震災以降、まるで見捨てられたかのようでしたが、ここにきて急ピッチで復興が進んでいます。高台移転した町が姿を現し、道路も高台に付け替えられました。見上げるような防潮堤に囲まれた海岸には「雄勝硯伝統産業会館」と交流施設が完成。志津川(南三陸町)では「南三陸さんさん商店街」と「震災復興祈念公園」を結ぶ歩行者専用の中橋が完成しました。

◆宮城県から岩手県に入り、第三夜目の宿は山田の「うみねこ温泉湯らっくす」です。三陸鉄道陸中山田駅の駅前温泉です。駅前にはスーパーマーケットもできています。この日は大雨に降られたので、湯から上がると、駅前の居酒屋「四季海郷」で渡辺さんとご苦労さん会の飲み会。大津波に襲われて壊滅状態になった山田の町は、10年間でここまで復興しています。翌日、陸中山田駅前で渡辺さんと別れ、さらに北へ。宮古を過ぎると、雨は雪に変わりました。田野畑村に入り、国道45号から海沿いのルートを行くと通行止。う回路を行くと、路面に積もった雪でまったく坂道を登れず、来た道を引き返すという場面もありました。春まだ遠い東北でした。

◆国道45号に戻ると、雪に降られながらバイクを走らせ、青森県に入りました。八戸では雪が止んで助かりましたが、三沢から尻屋崎までは雪。3月の北東北は冬同然です。吹雪に見舞われて、尻屋崎まで行くのを断念したこともありましたが、今回は尻屋崎に到着できました。岬への道は冬期閉鎖中なので、尻屋の集落を走り抜けた尻屋漁港をゴールにし、漁港の岸壁にバイクを止めました。第4夜目はむつ市内の石神温泉に泊まり、「鵜ノ子岬→尻屋崎2021」を走り終えた喜びで、自分一人で生ビールを飲み干すのでした。

◆尻屋崎から鵜ノ子岬への復路では、太平洋岸を縦貫する高速道路を南下しました。東日本大震災以降、「復興」の旗印のもと、驚異的な速さで高速道路が開通しています。まずは下北道。むつ市内の1区間が開通。つづいて横浜吹越ICから終点の野辺地ICまで走りました。国道45号経由で上北道に入ると、第二みちのく道路→百石道路→八戸道で八戸JCTへ。ここからが三陸道で、仙台までの全線開通が間近です。開通直後の気仙沼を走り抜けましたが、「時代が変わった!」と強く実感しました。三陸道から仙台東部道路経由で常磐道に入り、いわき勿来ICで常磐道を降り、鵜ノ子岬に戻ったのです。この間、宮古→盛岡と相馬→福島の横断道路は開通目前でした。

◆こうして「鵜ノ子岬→尻屋崎2021」を走り終えると、今度は「青春18きっぷ」を使って東北の太平洋岸を見てまわりました。東京から常磐線で水戸へ。一昨年の台風19号で大きな被害を受けた水郡線は3月28日に全線開通し、それに合わせての東北なのです。郡山からは東北本線で福島、仙台を通り、一関へ。一関から大船渡線で気仙沼へ。「一関→気仙沼」は鉄路です。気仙沼の駅前ホテルに泊まり、翌日はBRT(バス高速輸送システム)の赤いバスに乗って陸前高田から大船渡へ。終点の盛までが大船渡線になります。

◆盛から三陸鉄道で釜石へ。釜石からは釜石線で盛岡へ。盛岡からは山田線で宮古へ。本数の少ない釜石線、山田線で北上山地を横断できたのは大収穫でした。宮古から三陸鉄道で久慈へ。久慈からは八戸線で八戸へ。最後は青い森鉄道で青森へ。「東京→青森」は「青春18きっぷ」2日分の4820円と、三陸鉄道「盛→釜石」の1100円、三陸鉄道「宮古→久慈」の1890円で、合計7810円でした。青い森鉄道は青森まで途中下車しなければ、青春18きっぷが使えます。また明日からは、まだ残っている2日分の青春18きっぷを使って東北をまわってきますよ。(賀曽利隆


先月号の発送請負人

■地平線通信503号(2021年3月号)は3月17日に印刷、封入し、18日、新宿局に託しました。3月は、お知らせしたように朝日新聞の夕刊一面トップで「地平線通信500号」が紹介されました。そこで、朝日新聞の了解のもとに3月3日の朝日新聞夕刊一面コピーを通信の真ん中にはさみこみました。経費をかけたくなかったのでカラー写真はモノクロですし、活字も読みにくいかもしれませんが、どんなかたちで伝えられたのか知りたい、という人が多かったのでこのようにしました。協力くださった朝日新聞にお礼を申し上げます。発送請負人は、以下の方々です。ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 白根全 久保田賢次 光菅修 坪井伸吾 伊藤里香 加藤千晶 江本嘉伸


けもの道とひとの道

岡村 隆 

第4回

■1973年のスリランカ遠征では、ジャングルの最奥の村にベースキャンプを設け、マハウェリ川中流域の右岸側を探査した。そこは紀元前から、島の北西にあった王都がインドから侵入してくるタミル人の軍勢に荒らされるたび、王侯僧侶がこぞって南へ逃げ延びた敗走路に当たり、また勢いを盛り返したシンハラ人がタミル勢力駆逐のために南から攻め上った進軍路に当たっていた。

◆何度も繰り返された王都廃棄と奪還のため、王族が行き来したことから「王の道」と呼ばれたその一帯は、しかし13世紀にシンハラ文明が滅びたのちは無人の密林と化し、華やかな歴史を偲ばせるものは何も残っていなかった。私たちは4か月間、ビバークを繰り返しながら、ほぼ毎日密林をさまよい、58か所の寺院遺跡や貯水池跡、用水路跡などを発見したが、史書の記述と崩れ果てた遺跡とがどうしても結びつかず、もどかしい思いをしたものだった。そのもどかしさもまた、私をこの地域にのめり込ませる要因になったのかもしれない。

◆雨季が迫って現地を去る日が近づくにつれ、私はある決断を迫られるようになっていた。4年前に頭に浮かんだ「妄想」から始まった探検だったが、ひとつの夢を実現させたいま、これで終わってよいのかという自問が頭の中でこだました。ジャングルを歩いてみると、出くわす遺跡の数には、まだまだ限りがなかったのだ。ここでは歩けば歩くほど未知の遺跡が発見できた。史書の記述を裏付ける貴重な証拠、世界に広がった仏教文明の一大拠点……。その遺跡がここでは人知れず密林に埋もれ、崩れるままに捨て置かれている。必要なはずなのに、この国には「遺跡の発見と調査」にかける予算などなく、人員も育っていないからだった。

◆よし、そういうことなら、我々が彼らに代わってこの必要な仕事をやろうじゃないか。学者でもなく、考古学の初歩さえ知らないアマチュアの私たちだが、未知の遺跡の発見という分野でなら、いくらでも協力できるし、力も発揮できる。これからも人数と時間をかけてこの密林を歩き、できるだけ多くの遺跡を発見して世の人々に知らせよう??。いまで言えばボランティアの発想に近いのだろうが、そう思わせたのは、単純な性格ゆえの一種の義侠心だったのだろう。その裏側にはもちろん、ジャングル暮らしの魅力と、遺跡の向こうにもっと何かを見たいという欲求が貼りついていた。

◆帰国した私は、次の遠征は2年後と決め、まずは報告書の作成に取り掛かった。観文研で遺跡の図面や写真を見せ、経験と今後の希望を話すと、宮本千晴さんや伊藤幸司さんが応援してくれた。宮本さんは「こういうことは、始めたら10年は続けてみろ」と言い、報告書の発行を観文研で引き受けてくれたうえ、版下にする網点写真100枚ほどを自ら加工し、現像・焼き付けまでしてくれた。伊藤さんは数種のロットリングで描く版下図面の仕上げ方やレイアウトの工夫を教えてくれた。

◆相変わらず住む家はなく、後輩たちのアパートを転々とする毎日だったが、ときにビル掃除や倉庫仲仕のアルバイトに出る以外は大半の時間を報告書作りに費やしたため、やがて完成の形が見えてきた。スリランカでの体験を新聞や雑誌に発表する機会も増え、そうなると次の遠征への夢も膨らんでくる。しかし、同時に膨らんできたのは、またしても遠征に出るまでの生活をどうするかという心配だった。それに加えて、将来、探検を続けるために定職には就かないとして、何をすれば食って生きていけるのか、その道も考えなければならなかった。

◆そんな折、上智大探検部ОBの鄭仁和さんが、所属する「ぐるーぷ・ぱあめ」に誘ってくれたのは、観文研で報告書のレイアウト作業に没頭している私を見かけたからでもあったのだろうか。「ぱあめ」は上智大探検部創部者の礒貝浩さんがつくった会社で、編集プロダクションの草分けであり、日本の出版制作のシステムに革命をもたらした存在でもあった。「雑誌や本の編集を覚えるといいよ」と引っ張っていかれた「ぱあめ」から、私はいきなり朝日新聞社に行かされた。「ぱあめ」が請け負い、鄭さんらが担当していた『週刊朝日』のレイアウトの仕事に放り込まれたのだ。

◆商業誌の経験など何もないのに、見よう見まねで始めた週刊誌の仕事は面白かった。いま思えば驚くべき安月給だったが、それは手に職をつけるための修行でもあったのだから仕方がない。それよりは徐々に仕事を覚えて腕に自信がついていくことと、空いた時間には遠征の報告書を仕上げ、次の遠征の準備ができることで充実感すら抱いていた。この仕事でなら将来も探検をしながらやっていけるか……。そう思った私は中野区の野方にアパートを借り、新聞社のある有楽町と観文研のある秋葉原、大学のある飯田橋を、決まった頻度で行き来するようになった。そうして1年以上があっという間に過ぎた。

◆細かな遠征計画が仕上がり、ビザが下り、出発が間近になったころ、観文研から報告書『セイロン島の密林遺跡』が刊行された。同じころ、トップ記事のレイアウトを任されるようになっていた『週刊朝日』の仕事をやめた。礒貝さんは残念がったが、まとまった餞別とともに送り出してくれた。2年ぶりの遠征は順調に滑り出し、結論から言えば、現地での活動も順調だった。探検への道が順調でなくなったのは、その遠征の帰国後だった。(つづく)


地平線の森
宮本常一生誕130年記念

「宮本常一ふる里選書」

宮本常一記念館(周防大島文化交流センター)編 森本孝監修 みずのわ出版 1,200円+税

周防大島の宮本常一記念館からまもなく発刊します!

■地平線の皆様へ。もうずっと昔、インドネシアの島々を機帆船で航海した記録をスライドで紹介させていただき、水平線から地平線にエールを送らせていただいた立命館探検部OB、元日本観光文化研究所所員の森本孝です。当時の地平線通信の「次号予告」で長野亮之介画伯に、船のマストに登って獲物の船を探す海賊船の下っ端の私を描いてもらいました。大変気に入った私の宝物です。

◆2011年の東北大震災の後には、昭和50年代の三陸漁村の写真も見ていただきました。それももう10年も前のことになり、日月の進む速さを感じています。その老いし私から今、地平線を歩いている皆さんに読んでいただきたい本のお知らせです。宮本常一生誕130年記念の「宮本常一ふる里選書」が、周防大島の宮本常一記念館より4月28日に刊行されます。宮本の著作の中でもふる里に関連した原稿を集めた選書です。

◆絵や写真を加え、難しい漢字や語彙にルビをふり、意味を書き添えて中学生でもすんなりと、かつ興味を持って読めるように工夫しました。その一巻目は、古老の聞き書き、明治生まれの旅をし躍動する庶民たちの語りを、宮本が聞き取ってまとめた宮本民俗学の骨ともいえる原稿を集めました。文章の理解の助けのために宮本の小学校時代に描いた画や、宮本撮影の写真などを添えて、「著作集」のように、これから読むぞ、と力まずともすんなりと、読み始められます。

◆宮本は文章の達人です。上智大学探検部OB鄭仁和さん(故人)と私が一緒に草案を企画し、編集を引き受けていた日本商工会議所の機関紙「石垣」の3号に、宮本先生に石垣についてのエッセイをお願いしたときのことです。私が日本観光文化研究所の本棚を渉猟している2、3時間に、20枚の原稿を書いてくれました。なんというスピードでしょう。それでいて直しはなし。このときほど宮本先生の文章力に驚かされたことはありません。

◆以後、宮本先生の文章をたくさん読み、それにちかづけるような文章を書くように努めました。結果は遠く及ばなかったのはいうまでもありません。宮本先生の文章は口に出して読んでもリズムがあるいい文章です。原稿を書くこともない方々もおられると思いますが、お子さんやお孫さんがいられたら、この本を勧めていただければ幸いです。

◆ところで老いた下っ端海賊は、2016年に末期の肺がんになり、1年の余命宣告をうけたのですが、不死身のカリブの海賊ジャップ・スパロウのように、まだ人生を続けています(この映画を撮影したのはカリブ海のセントビンセント島ですが、私が訪ねた時はまだ映画のセットがそのまま残っていました)。この8月がくればがんとの遭遇から6年目にはいります。寝込む日も多いのですが、末期がん探検記「がんと向き合う日々」を書く日々を送っています。すでに9万字を超えましたが、まだゴールの目的港まで半分の位置にとどいたかどうか、というところです。早く上陸し、地平線の方々に水平線からエールを送れる日があらんことを願っています。(森本孝


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださったのは以下の方々です。別にカンパしてくださった方もいます。地平線会議の志を理解くださった方々からの応援歌としてありがたくお受けしています。なお、印刷能力に限りがあり、長期間、振り込み、連絡ない方は発送リストから外させてもらいます。万一、掲載もれ(実は意外にそういうミスが多い)ありましたら必ず江本宛て連絡(最終ページにアドレスあり)ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。

北村敏(5000円 2年分と残りはカンパです) /宗近郎(10000円 瀬戸内の小島でいつも楽しく拝読しております。5年分です。お願いします) /西島錬太郎(3000円 うちカンパ1000円  いつもごくろうさま)/城水千明(朝日で知りました。楽しみにしております)/野沢邦雄/石田昭子(通信が届くといつもホットします。1頁から終わりまで楽しく勉強させていただいています) /齋藤聖一/森愛子/野元菊子・中橋蓉子(10000円 こんな時期にはるばる開門岳の麓まで訪ねてくれた落合大祐さんに託します。嬉しかったです)/猪股幸雄/菅原茂(10000円 いつもありがとうございます。退職しましたが、いましばらく読み続けさせてください) /小林由美子(遅くなりスミマセンでした。知らない世界の面白い話、楽しみです)/大槻雅弘(5000円 一等三角点研究会も昭和48年から続いて、私が会長をして今年15周年になります)/坂本順哉(40000円 いつから払っていないか覚えていないので、数年分+α。毎月届くのが楽しみでしたが、また払い忘れそうなので、今後はウェブで読むようにいたします。これからも楽しみにしております)/藤本亘/市村やいこ/長岡竜介(10000円 いつもありがとうございます。1日も早い報告会の再開を願っております。皆様もご自愛下さい)/水嶋由里江(10000円 通信費、本の代金とカンパ)/黒澤聡子(6000円 確か、2、3年ほど前に報告会に伺った際に通信費をお支払いしたように思いますが、その後うっかりし続けておりました。6000円振り込みましたので、ご連絡します。今年分までというつもりですが、足りていますように! 子どもたちは4年生と2年生になりました。外の世界を見せたいと思いますのに、出歩くこともままならず、相変わらず近所で生きています。私はリモートで、大学の留学生の日本語をサポートする仕事などをしています。また、趣味で短歌を始め、五七のリズムを探る毎日です。これはとても楽しいです。またいつか、報告会でお会いできるのを楽しみにしています)


今月の窓

私が選んだ高校

■北緯34度13分1秒、東経139度9分15秒。面積18.48km2。総人口約1800人。東京から南へおよそ178kmに位置する一つの島。主産業は漁業、農業、観光業の三つ。漁業ではキンメダイやイセエビ、農業ではパッションフルーツやレザーファンなどが代表的な特産品で、観光は年間約4万人の人が訪れる。海水浴や釣り、サーフィンはもちろん、キャンプやダイビング、星空観察、登山に温泉まで楽しむことができる。透明度の高い海に囲まれたこの島は、はるか昔に近隣の島々の水の配分を話し合うために神々が集まったという神話が残されている。神話に由来する古い歴史と豊かな自然に溢れるこの島に存在するとある高校。私はその高校へと進学することになった。東京都立神津高等学校。私がこれから3年間を過ごす場所は伊豆諸島の神津島である。

◆中2の秋頃から私は様々な高校を調べていた。最初は在学している附属の高校に進学するつもりでいたのだが、自分の力が最大限活かせる高校は本当にそこなのかと考え始めた。外に出て一度リセットしてみるのも面白いのではないかと思った私は都立の合同学校説明会に足を運んだ。普通科、総合科、工業・商業・農業科、各高校のパンフレットが配布され、興味を持った学校は個別に説明を受けることができる。様々な高校が並ぶなか、体育館の隅に「島の高校に行ってみよう」というブースがあった。そこで私は離島留学というものを知った。

◆それは本土から生徒を受け入れることで閉塞的になりがちな島の生徒たちと共に多様性を育み、学力だけでなく、人間性をお互いに高め合うという目的のものだった。中学の友達とはまるで違う選択になるが、それでも島での高校生活に心を惹かれた。そして私は神津高校を受験することを決めたのである。

◆そもそもなぜ島留学に魅力を感じたのか。理由は主に2つあり、1つは幼いころから登山やキャンプなどの自然環境に触れる機会が多い中で育ってきたので、島という自然に囲まれたこの地で高校3年間を過ごしたいと思ったからだ。2つ目は自分の力を120%発揮できると思ったからである。神津高校は生徒数が1学年約20人と少人数なのが大きな特徴でもある。日々の学校生活、委員会や部活動、学校行事も誰かがやってくれるのを待っているわけにはいかない。

◆1人1人の役割も多いし、学年の垣根を越えて常に全校生徒の一致団結が必要不可欠なのだ。自校だけの枠にとどまらず、伊豆諸島や小笠原諸島の各高校の代表生が集まり、より良い島づくり、高校づくりをするためにはどうしたらよいかなどを話し合う「島しょ高校生サミット」という活動の場もある。一つの島で完結せず、他の島と連携をとるということに私は興味を持った。

◆他校の生徒同士が集まるということ自体はあまり珍しいことではないかもしれないが、伊豆諸島と小笠原諸島の高校を合わせて10校近くが参加することになるのだ。一つ一つの高校では生徒数も少なく、島の過疎化も進んでいるが自分達高校生が島のためにできることを多角的に考えることができるようになると思うし、社会生活の基礎も実践的に学べるのではないかと思う。私はそんな活動に参加してみたいと思った。

◆より良い島づくりをするためには何ができるのかを島の人たちと一緒に考えてみたいと思ったのである。また、島での生活で楽しみにしていることの一つとして村民大運動会がある。学校単位の運動会はなく、小中学生や地域の方々と共に行う運動会は地域独特のものだと思う。小中高校の児童・生徒のみならず、地域の人たちとも一緒に触れ合える環境があるというのは都会では体験することが正直なところ難しい。近年の日本で失われつつある大切な文化が、島では決して義務ではなく必然として受け継がれているのだ。

◆一つの場で完結させず、様々な場で、様々な環境でより良い島をつくる。これが神津島のプロセスである。少人数を活かした取り組みと、自分の持ち味を最大限発揮するには十二分の環境である。島は内地とは全く異なる環境で、おそらく壁にぶち当たることもあるだろう。それでも島に行って自分の力を試してみたいと思った。この1年間の受験準備の過程において、どこの高校も進学実績のアピールが際立っていた。しかし、私は進学実績が学校や個人の価値を決めるものではないと思うのだ。

◆どこの高校に行こうとも主体的に頑張るのは自分自身で、過去の自分から学び、今、そしてこれからどれだけ頑張れるかということだと私は思う。島に行くことによって私はどのように変化するのか、どう成長できるのか。先にならないとわからないが、島に行くという選択をしてよかったと思える3年間にしたいと思っている。最後にこの決断を応援し送り出してくれた両親には心から感謝している。(高1 長岡祥太郎)


4月始まりの「地平線カレンダー」、今年もあります!

お待たせしました。「地平線カレンダー 2021.4〜2022.3」、やっと完成です。タイトルは『佳猫遊月(かびょうゆうげつ)』。長野亮之介さんが絵を担当した絵本『おつきさんとねこ』から6点を載せました。4月始まりなので、来年3月まで1年間フルに使えます。判型は例年と同じA5判横、全7枚組。頒布価格は1部500円。送料は1部140円、2部以上は200円。お申し込みは地平線会議のウェブサイトか、下記まで葉書で(〒167-0021 東京都杉並区井草3-14-14-505 武田方「地平線会議・プロダクトハウス」宛)。お支払いは郵便振替で。振込用紙を同封しますので、カレンダー到着後にお振り込みください。


あとがき

■新型コロナウイルスから逃れて在宅の日々、「最高の日本の歌20曲」という、YouTubeにある1時間に及ぶメドレーを繰り返し聴いている。韓国のボーカル、ソプラノとテノールによる「Hue(ヒュエ)」というデュオの澄んだ声がとてもいい。日本語の美しさを教えてもくれる。「♪氷解け去り 葦は角ぐむ さては時ぞと思うあやにく 今日も昨日も雪の空 今日も昨日も雪の空」なんて意味がわかるようでわからない言葉が随所に出てきてほんとうに楽しい。

◆この地平線通信の印刷、封入、発送作業をいかに目立たせず、ひっそり実行するかがこの1年あまりの地平線会議の課題となっている。とにかく密集してはいけない、というわけで皆で目配せしながら小人数で粛々と作業をする。終わった後のビールも餃子もない。面白くも何もない作業を毎月こなしてくれる仲間たちに頭が下がる。今月は、封入したままの郵便物をいきなり新宿局に運び込み時間の節約をはかるつもりだ。

◆今月は、詩人でもある大阪の中島ねこさんに漫画を描いてもらいました。なんとなくほのぼのするいくつかのカット。私は我が家の歴代犬たち、ワンダ、くるみ、雪丸、麦丸を思い出してしまいました。ぐすん。(江本嘉伸


『地平線大画伯個展直前的日常』(作:長野亮之介)
イラスト 地平線大画伯個展直前的日常

《画像をクリックすると拡大表示します》


■今月の地平線報告会は 中止 します

今月も地平線報告会は中止します。
会場として利用してきた新宿スポーツセンターが再開されましたが、定員117名の大会議室も「40名以下」が条件で、参加者全員の名簿提出や厳密な体調管理なども要求されるため、今月も地平線報告会はお休みすることにしました。


地平線通信 504号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2021年4月14日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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