2021年2月の地平線通信

2月の地平線通信・502号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

2月17日。東京はあたたかいが風が強めだ。羽田空港付近では20メートルの風。午後からは日本海側を中心に「冬の嵐」になりそうだという。北海道はじめ北の各地はあらゆる種類の警報がは出てところによっては見通しが全くきかない所もあるという。

◆新型コロナウイルスのワクチン接種が今日から始まり、テレビのニュースは繰り返し、医療関係者にワクチンが接種される現場を伝えている。薬事承認された米製薬大手ファイザー製のワクチンが、とりあえず全国の国立病院など100か所で医療従事者約4万人を対象に先行接種される、とのことだ。

◆腕の付け根、ほとんど肩に注射する風景が珍しい。いわゆる「筋肉注射」というもので、皮内注射、皮下注射、静脈注射、そして筋肉注射の4種類がある中で日本では珍しいようだ。毎冬の季節性インフルエンザの予防接種を含め、一般的にワクチンは針先を皮下組織にもっていく「皮下注射」で打つことが多い。4月1日からは65才以上の高齢者について接種が始まる予定で、私などは真っ先に恩恵を受けることになるのであろう。ありがたく「筋肉注射」の恩恵に預かりたい。

◆毎日午後3時になると、東京都の新たな感染者数が発表される。今日17日は「378人」だった。一時は2000人を越えた1日当たりの新規陽性者がこれで11日連続で500人を下回ったことになる。東京が下がっただけではない。希望が持てるのは、世界的に感染が減りつつあるというWHO(世界保健機構)のレポートだ。今月1日の週まで4週連続で前の週を下回り、世界の新たな感染者数は減少傾向にあることがわかった、という。

◆2月13日23時07分、久々に大きく揺れた。しかも長い揺れだった。東京でも震度4だから震源地に近い宮城、福島あたりはかなりだったろう。思わず南三陸の佐藤徳郎さんに電話していた。2日前、ちょうど話したばかりだったのだ。「揺れたね。ちょっと驚いたけんど、この程度は大丈夫、ご心配ありがとう」とのことだった。

◆宮城県南三陸町志津川でホウレンソウを栽培していた佐藤さんは地元中瀬町地区の区長を務めている時に3.11に被災し、家を失った。皆が家をなくした中で、佐藤さんは地区でまとまって行動しようと提案、長い仮設住宅暮らしを区民のまとまりで乗り切った。2013年3月の地平線報告会(407回)に「究極のリーダーシップ」のテーマで報告者になってもらい、3.11当時の生々しい話を聞いた。

◆アルコールはまったくダメなのでやはり下戸の宮本千晴にも来てもらって荒木町の我が家で小さな慰労会をやった。その時に佐藤さんが強調したことがある。「ひどい災害だったけんどいいものもいただいた。人との新しいつながりです。江本さんたちともそうだね」。以後、毎月この地平線通信を送り続けている。小さなこの通信が誰かの心に火を灯すならなんという幸運かと思う。

◆10年ぶりの東日本大震災の「余震」がおさまった頃、アメリカではトランプ前大統領の弾劾裁判が行われ、あっという間に57対43の票決で「無罪」ということになった。国会議事堂突入を煽ったあれほどの事件なのに何もおとがめもないのだ。そんなことでいいのか、と思う。

◆しかし、敗れたとは言え、史上最高の「7400万票」を取った、この男の人々を突き動かす力は、おだやかな日本からぼんやり眺めているだけではわからないのだろう。トランプは直後に無罪評決を歓迎する声明を発表し「光り輝き、無限の可能性を持つ米国の未来に向けたビジョンとともに、われわれは近く現れる」と表明した。いまだやる気十分なのだ。

◆先月のこのページで九州大学の「世界が仕事場」という講座で話しをした際、最後に「関心を持たれた方は、私にハガキを書いて」とお願いした顛末についてもふれた。通信を読んだ方々の反応は私をがっかりさせない配慮から「今時の大学生がはがきなんか出しません」「残念ながらひとりも来ませんよ」というのがほとんどだったが、そんなことはなかった。来たのです、ハガキが。それも2通!

◆私信なのでここで全文を紹介することはしないが、何のつながりもない年寄りに大学生が心のこもったハガキをくれたのだ。私の思いが伝わったのだ、と嬉しかった。お2人には最近の地平線通信を送り(1人には今から)、関心あればこれからも送り続けますよ、と伝えた。

◆若い新型コロナ・ウイルスで青い志に燃えて大学に入ったのに期待に反してひたすら篭るだけの日々。そういう青年たちに少しでも自分の世界を広げてほしい、できることなら応援したい、と心の底から思う。お節介ではあるが、人生、一期一会でないか。実は、先にハガキが届いた19才の学生はこの通信のどこかに早くも登場している。地平線会議をやってきて良かった、と思った瞬間であった。(江本嘉伸


地平線ポストから

コロナ、吉川謙二、山スキー

<コロナ>

 年が明けて間も無くの頃、札幌の友人から電話がかかってきた。いつになく神妙な声に緊張が走る。聞くところによると、60台後半の東京の知人がコロナに感染してどうやら肺炎を併発しているらしいが、保健所に連絡しても入院させてもらえないらしく、何人かで伝手をたどってパルスオキシメーターを探しているという。

 私は以前、登山やトレッキングで毎年のようにヒマラヤに出かけていた時期があり、その際に持参していたパルスオキシメーターが手元にあったので、住所を聞いてすぐに宅急便で送ることにした。翌朝宅急便が届き、パルスオキシメーターで示された血中酸素濃度を保健所に知らせたところ、すぐに入院先が決まり、その後転院、治療が進み、17日後に退院となった。

 退院の連絡メールには、血中酸素濃度が70%であったこと、その数値を聞いて保健所が入院の判断を下したものの、重症者ということで大学病院に転院となり、一命をとりとめたということが書かれていた。正に間一髪のタイミングで間に合ったということだろう。

 丁重なお礼の言葉にかえって恐縮してしまったが、人のお役に立てて何よりと思うと同時に、患者自らが血中酸素濃度を申告しなければ入院できないという事態に空恐ろしさを感じた。今回のケースは、たまたま血中酸素濃度を測れたから良いものの、もしそうでなければ最悪の事態に発展していた可能性がある。医療現場で働く人たち、患者と医療現場を繋ぐ役割を担っている人たちのご苦労は察するに余りあるが、「自助」が危うい一線で成り立っている現状に即した体制の構築が急務であることは間違いないだろう。

<吉川謙二>

 吉川謙二と出会ったのは、彼が北大の大学院に入った頃。当時私は札幌の手稲山の中腹にある山小屋っぽい所に住み、山から市内の職場に通っていた。同居人が吉川と同じ研究室にいた関係で、研究室の仲間とともによく遊びに来ていた。仕事を終えて家に帰ると、焚き火を囲んで学生たちが赤ら顔で迎えてくれ、ネクタイを外してその輪に加わったことは楽しい思い出だ。

 その後、吉川が南極へ歩きに行くときは、彼の口車に乗せられて後援会北海道支部長を仰せつかり、札幌で講演会を開催したこともあった。私の結婚披露宴の司会を吉川に頼んで大いに盛り上がったり、私の妻の作る揚げ出し豆腐を死ぬほど食べたいと豆腐20丁持参で遊びに来た挙句「案外食えないもんですな」なんて宣ったこともあったし、彼が北極に旅立つ前には苫小牧港に停泊していたホキマイ号に幼子の手を引いて遊びに行ったこともあった。

 北極海の氷が融けず、ポイントバローで止むなく越冬している最中にちゃっかりと伴侶を見つけたと思ったら、いつの間にかアラスカ大学に職を得て落ち着くのかと思いきやさにあらず、その行動範囲はとどまることを知らず、地球狭しと駆け回る行動力は周知のところだ。

 そんな吉川の連載は、毎号楽しみにしていたので、地平線通信500号で打ち切りとなったのは寂しい限りだが、突然大学を辞した報に驚かされ、アンデスにいるのかと思っていたら、ハワイにいるらしいと江本さんから聞いて、いったいどうなっているのかと相変わらずの彼の行動の意外性をこれからも楽しめるのかと思うと一友人として嬉しい限りだ。

<山スキー>

 雲ひとつない晴天のもと、リフトを降りてスキーにシールを取りつけ、ゆっくりと歩を進める。寒い日が続いた後の春めいた陽気の中、久しぶりの山に気持ちが高ぶる。年が明けてからの初めての山スキー。コロナ禍の影響で運動不足ということもあり、まずは足慣らしに根子岳を目指す。広い尾根を辿りつつ振り返ると北アルプスの山並みが美しい。

 「あっ! しまった!」10分も歩いた頃突然思い出した江本さんとの約束。地平線通信の原稿締め切りが明日に迫っている。思い出しはしたもののここまで来たら仕方がない。明日は鍋倉山が待っている。気持ちを切り替えて目の前の山と対峙する(江本さん、ごめんなさい)。

 江本さんに侘びのメールを入れて締め切りを1日延ばしてもらうお願いをする。快く了承していただいたはいいものの、お題がひとつ追加された。やはり江本さんは侮れない。

 という経緯で、何とも締まらないタイトルとなってしまったが、どうかご容赦を。

 もちろん2日目の鍋倉山も楽しませてもらいました。(樋口和生

梶原一騎のマインドコントロール

梶原一騎のマインドコントロール

■連載を終え、もうしばらくは日本語を書かないと思っていたが、意外に早く書くことになった。これはひとえに感想を書いてくれた外間晴美さん、白根全さんと原田鉱一郎、松原尚之の両氏への感謝の気持ちからだ。みんなありがとう。感想だけではない。江本さんがハワイまで送ってくれた、私の連載すべてが掲載された14か月に及ぶ通信を手にとってみると、なんと、長野さんまでが漫画の題材にしてくれているではないか! もう感激してしまいコンピューターのキーボードを日本語設定にまた変えることになった。

◆連載は白根さんの言うようにかなり突っ込んだ辺境の地名、人名、それに加え、だらだら書かず飛びすぎるほど話の展開を早くした。なんと言っても地平線会議は旅の猛者集団、その媒体での連載なので当たり前のことやそこらの本の受け売りじゃ話にならないと思った。そこが一般向けの新聞などの連載と決定的に違い、引き受けた一つの理由だった。特に原田氏の4000字に及ぶ長い感想ありがとう。彼の言うとおり確かに今と80年代が中心で、過去30年間の極地のエクスペディションにはあまり触れなかった。穴埋めありがとう。

◆今でも最も付き合いがあるのがこの時期の出会いで、喜び、苦難を共にして、またある時は交渉相手、それをシェアして今初めて懐かしい記憶になる。そういった出会いは運だけでは語れないものがある。最近南極の頃のロブ(スワン)やアン(カーショウ)ともカリフォルニアの田舎町で再会するチャンスがあった。当時アンはアドベンチャーネットワークの社長で交渉相手、皆30前後だった当時、彼女と品川プリンス最上階で食事をしながら息詰まる資金攻防が続いたが、今はみんな丸くなった。

◆まだ世の中が呑気に食べ物をシェアしていた2年ぐらい前だろうか、首里から那覇に降りたひどく狭い道沿いに1軒の流行らないラーメン屋がある。外は蒸し暑く、クーラーの効いた昼下がり、他に客のいないラーメン屋で頭を丸めたサングラスの2人の男たちがカウンターに座りラーメン屋のオヤジをひやかしている。一人は本当の住職でもう一人は私だ。

◆ラーメン屋のオヤジの大村はもともと記者だったが今は有機ラーメンを打っている。一緒に北極に出かけた頃、最後の寄港地苫小牧では大村はその風貌から地方記者が勝手にイラン人と間違えて新聞に書かれたものだ。今でもそう言われれば、人は信じるだろう。住職の糸数は我々3人がホキマイの出港準備をしている頃はまだ大学の先生だった。大学を辞め、家を継いで今は那覇一の檀家を持つお寺の住職だ。久しぶりに大村のラーメン屋で落ち合ったのだ。

◆話はまたいつもの海賊の隠し金塊の新情報に変わっていく。沖縄は私にとって縁が深い土地だ。いや、そういう運命だった。私が小学生だった頃、巷では“17歳”がヒット曲として流れ、その南沙織似の密かに心を寄せていた隣の席の女の子が、1972年5月15日の朝礼の後そっと“私今日から日本人になるのよ!”と耳元で打ち明けられたのをかなりショッキングに覚えている。この告白がなければ、具志堅用高がいた上原勝栄さんの銭湯でボクシングをしながら暮らし、ナナサンマル(1978年7月30日沖縄は右側通行から左側に変わる)から間もない、まだ左ハンドルの日産ブルーバードを乗り回し、小張先生との出会いもなかったであろう。

◆北極に出たヨット“ホキマイ”は実は私の2艇目の船だ。最初のヨットは私が沖縄で予備校講師をしていた時、西表島で手に入れたものだ。本州からアジアに出かけようとしたヨットマンが、将来外国にヨットで行く若者にタダでくれるというものだった。たくさんの応募があったが、すでに1級船舶免許があり、具体的に準備をしていて、また、西表にすぐ受け取りに行ける若者ということで私になった。

◆そしてヨットでの生活が始まり、早朝授業前に一回り航海練習してから授業をする日々だった。そこで学んだことは言うまでもなく、ヨットの選び方、その後の北極航海に大きく役立った。こうしてみるとジョッブスの言う通り、点と点はいつか繋がっていく。

◆我々の世代は、良くも悪くも梶原一騎のマインドコントロールの世代だ。貧乏でも努力すれば必ず成し遂げられる。できなかったら(根性という名の)努力が足りなかっただけだとスポ根漫画が盛んに教えてくれていた。そう、あと努力には人に言わない見えないところでの秘密特訓が不可欠だったのだ。修行僧のような暮らしをして3か月、パパイヤ、島バナナ、マンゴーすっかり体臭がフルーツ臭に変わってしまったと気になる今日この頃、体重計は持っていないが、ウェストも間も無く10cm減だ。

◆4000mでドリルを担いでも苦にならなくなってきた。ペルーの学生たちはほとんどアルチプラーノ出身なので高所に極端に強い。私のコロナ後のために高所トレーニングもそろそろ佳境に向かう。それでは皆さん今度こそはこれで終わりにしよう。感想ありがとう。(吉川謙二

ついに登頂された冬のK2

■江本さんから冬のK2初登頂について何か書けとお電話をいただいた。私には荷が重過ぎるが、お引き受けすることにした。2021年1月16日現地時間16時58分、14座ある8千メートル峰で唯一冬期未踏だったK2(8611m)が、冬とは思えない無風快晴の下10名のネパール人に登られた。頂上直下で10名がそろってから一緒に頂上を目指す様子はいろいろなところで動画が配信されていたので、ご覧になった方も多いと思う。

◆その後、2月に入って頂上を目指した登山者たちは冬本来の寒気と烈風に阻まれ断念したが、2月5日に体調不良のため父親からボトルネックで離隊を勧められてBCへ下降したMuhammadの息子Sajid Ali Sadparaを除くアイスランドのJohn SnorriとチリのJ.P Mohr PrietoそれにSajidの父親のMuhammad Ali Sadparaの3人は頂上を目指したまま消息不明、ヘリコプターでの捜索でも発見できず、3人が登頂したかどうかも不明のままである。Muhammadは2016年の冬期ナンガ・パルバット初登頂者の1人。

◆この冬のK2登山申請は4隊との事だったが、パキスタン山岳会への正式登山報告の登頂者名から追ってみると、セブン・サミット・ツアー公募隊に退役グルカ兵ニルマル・プルジャ他が合流した様で、最終的に同隊の隊員数は男性43名女性5名の計48名、内2名死亡2名が中途で断念して隊から離れたとの事。ニルマル・プルジャは昨年、「189日以内に14座を完登した」ことで話題になった人物でもある。

◆事前に高所順応やルート工作をしているとはいえ、1月12日にBCを出発、順調に途中4つのキャンプに滞在して16日に登頂とは快挙であるし、彼らの体力とバイタリティは驚異的ではある。しかし、過去の登山者が力量がなかったから14座完登に日数がかかったのではない。

◆初めて14座全てに登頂(全座無酸素)したのはイタリアのラインホルト・メスナーだが、当時は「1シーズン1座1隊」+人数制限などもあり、また、現在のように登山許可をシェアすることはできなかった。パキスタンでは「同一人物の8000m峰は1シーズン1座のみ」などの規制もあった。メスナーの1982年のブロードピークとガッシャブルムU峰の登山は特別許可をもらってのもので、一般的ではない。

◆メスナーの翌年に7年11か月14日かけて14座を無酸素で完登したポーランドのイエジ・ククチカは10座は新ルートから、4座は冬期に登っている。また、韓国のキム・チャンホは8000m峰以外のバリエーション登山の合間に7年10か月6日で14座全てを無酸素で完登しているが、エベレスト登山はベンガル湾から開始しているように、その登山スタイルが全く異なっている。公募隊全盛となり、2年前までに申請しなければならないK2登山がうやむやになったり、登山許可のシェアや同一国内での数座登頂が可能になってきて、8000m峰登頂者や14座登頂者がいきなり増えてきている。

◆ところで、<冬季>ではなく<冬期>という表現をしたことに対しては「漢字をまちがえている、メディアでも全て冬季と表記している」との指摘があったので、少々弁明したい。かつてネパール政府は冬の登山期間を12月1日から2月15日までと規定しており、当時冬のヒマラヤを目指していた登山者の多くはこれを<冬期>と記していた。もっとも、登山隊が<冬期>と記しても山岳雑誌によっては<冬季>と書き直したこともあるとか。

◆ちなみに、クライミングや高所登山の専門誌だった『岩と雪』は「冬期」を採用していた。期間前から登山活動をして1982年12月13日に冬のダウラギリ初登頂を果たした某大学山岳部隊の記録には日本国内でも疑問の声が上がったりしていたが、ヨーロッパでは同峰の冬期初登頂は1985年1月21日のポーランド隊としている人が多い。

◆現在は「一年の間で昼が最も短く夜が最も長くなる日とされるWinter Solstice(日本でいうところの冬至)から、昼夜の長さが等しくなるとされるVernal Equinox(日本でいうところの春分の日)まで」となっているようである。このような「期間限定」があるので、私は敢えて<冬期>と表記した。

◆K2を含むパキスタンの場合は、一応登山規則の中に<冬の登山>という規定はあるものの、明確な期間を明示していない。1987〜88年に初めて冬のK2を目指し、7300mで猛烈な烈風に阻まれて断念したポーランド・カナダ・イギリス合同隊の隊長、ポーランドのA・ザワダ氏によると、彼らの登山は年末年始だったのでなんの問題もなく冬の登山としての許可だったとのこと。

◆当時のパキスタン観光省の認識では「ネパールと違いパキスタン北方地域は9月の声を聞くと急激に冷え込む」ので、1988年9月下旬からガッシャブルムU峰を目指した我々は<冬期登山>とされ、連絡官費用やポーター賃金は規定により倍額となった。K2へのアプローチ一つとってみても、現在はジープ道がアスコーレまで続いている上トイレなどが完備され快適になっているが、1980年代はスカルド先のダッソーから歩き始め、アスコーレに到着してようやく半分という感じであった。

◆その上、冬のポーター雇用は難しいため、ザワダ隊は荷上げのためにパキスタン軍のヘリコプターを利用、数年かけてその費用を軍に返済できたという。当然ながら当時と現代の装備の違いは大きく、一例として2018年K2に登頂したある日本人が「2000年に登頂した山野井泰史氏が真直ぐなアックスでも大丈夫と言っていたがとんでもなかった、やはり自分たちが使っているカーブのあるアックスでないと……」と語っていたことが印象深い。(寺沢玲子

二人して受験生だったこの冬

■昨年の夏以降、我が家にとってコロナ自粛は非常に都合がよかった。本来なら遊ぶの大好き、旅も大好きな私と娘だが、この冬二人して受験生だったのだ。いつもなら山に呼ばれている気がしたり、北へ向かって旅したり、遊びのネタを見つけてはウロウロ出歩いている。しかし受験勉強には真剣に取り組む覚悟だったので、コロナ禍で何の誘惑もない約一年は心置きなく勉強だけに集中できた。

◆そしてまた、二人で受験生というのもポイントが高かった。勉強したい人が一人と遊びたい人が一人だったら、我慢を強いられてストレスが溜まったり誘惑に負けて勉強がはかどらず自己嫌悪に陥ったりしていただろう。一日8時間以上机に向かう中で、時には集中力が欠けることもあるのだが、もう一人が勉強している姿を見るとあとひと息がんばろうと気合が入るのだ。

◆さて、娘の柚妃ががんばっていたのは都立中受験(娘が受けた学校の場合正しくは“受検”だ)。将来南極観測隊に入るため、進んだ勉強ができる中学校を受検したいから塾に行かせてほしいと4年生の時にお願いされた。小学生ライフを楽しめるのは小学生のうちしかないんだから塾に行くのは週1日だけと決めて、思考力を高める特別な勉強に取り組み始めた。

◆というのも、適性検査型の受検というのは複数の教科が組み合わさった問題で、読解力や総合的に解く力が試される。例えばお父さんと娘の旅行に関する長い会話文に、折れ線グラフや割合の積み上げ棒グラフなどが絡み、ある年とある年を比べた時の変化の割合と特徴を数値を挙げて説明せよ、のようなものだ。

◆会話が進むと台風や降水量のことにまで発展する。この大問だけで6ページにわたり、出てくる表やグラフは9個もある。じっくり取り組む、丁寧に情報を読み取る、文章を端的にまとめる、などの力が問われる。作文もあり、あるテーマに対する意見、理由、それに関する体験を盛り込みつつ400字を25分程度で仕上げなければならない。

◆原稿用紙に手書きなので、字数の調整も難しい。初めのころは箸にも棒にもかからないへたくそな文章を書いていた子でも、練習を重ねるうちにまともな意見を述べられるように成長した。さらに、地平線的な体験は柚妃だけの特長なのだから、それを入れない手はないねという話をしてからは、飛躍的に内容が充実した。

◆もう一人の受験生である私の方はというと、10月と1月に二つも国家試験を受けるという無謀ともいえる挑戦をした。しかしこの二つを組み合わせるとEPA(経済連携協定)に基づいて来日する介護福祉士候補生のフィリピン人、ベトナム人、インドネシア人が国家資格を取るお手伝いができると踏んだのだ。とにかくがんばるしかないと2年間学校に通い、仕事のない日は朝から晩まで勉強しまくり、10月に「日本語教育能力検定試験」を受けて狭き門を突破した。この合格は涙が出るほど嬉しかった。

◆実はこれ、私が受けた回から国家資格になるはずが、コロナの影響もあって法案が成立せず、今年以降に持ち越しになったので厳密には国家資格ではないけれど将来的には同等に扱われるので私はこれを国家資格とみなしている(汗)。もうひとつは「介護福祉士」である。高齢者や障がい者の介護をするのはもちろん、介護者に対して知識や技術を指導する介護のプロだ。

◆そしてこれはまさに、EPA介護福祉士候補生が滞在4年で取らなければいけない国家資格なのだ。私は介護職に就いていたので実技試験は免除になる。実務者研修を受講するためにまた学校に通い、復習やレポートと並行して試験勉強を朝から晩までやる日々である。気力が続かないと弱気になりそうなとき、隣の部屋で受検勉強に取り組む娘が励みになった。知識の積み上げの試験なので、満点を取るつもりで勉強した。さすがに満点ではないだろうが、いい感触だったので合格発表はまだ先だがおそらく大丈夫だろう。

◆最近家のあちこちで落書きを見つける。冷蔵庫のホワイトボード、私のメモ帳の後ろのほう、鏡餅の横にも、ハチマキを巻いて「ガンバル!」「絶対合格!」と言っている丸顔の子の絵が描いてある。柚妃なりにこっそり決意表明していたんだな、とちょっと笑ってしまった。

◆さて、今朝9時に都立中学校の合格発表がインターネット上に出た。結果はまさかの不合格だった。ここまで読んでいただいた方はびっくりだろうが、私も相当驚いている。他に私立中学の東大・医学部進学コースも受検して、こちらは特待生として合格したが、きっぱり地元の市立中に進学することにした。なぜなら、小学生ライフを満喫するために塾は週一日だけだったように、中学生は中学生ライフを満喫しないといけないからだ。特待生で私立に行ったら、尻を叩かれまくってガリ勉だけが思い出という悲しい青春になりかねない。

◆模試を受けたことがきっかけで、塾生でもない柚妃を何かと気にかけてくれる別の塾の先生がいる。気になって電話をくれたその先生に結果を報告したら、あの子は強い意志が眼に表れている、夢をあきらめずにがんばれる子だ、と言ってくれた。柚妃が年初に絵馬に書いた「二人で受験合格!」は叶わなかったが、前向きな気持ちは少しもぶれていない。(瀧本千穂子

2021コロナの復習問題
   梅雪、春を争う……コロナ人生

 春の訪れを待ちきれない梅のほころび、「まだまだ春は遠い」と、春の雪が立ちはだかる季節のせめぎ合い「梅雪、春を争う」は、コロナ人生そのものだ。

 “活きる”経済や行動活動を、“生きる”コロナ緊急事態宣言が引き戻す。命かカネか……一得一失の葛藤、雪解けはコロナの暦にはない。

 文明は人間を幸福にしたかを問う「文明末の旅」も、(第二の文化)子宮籠りとなった。先行きが見えない時代に、「日本人であるということ──Being Japanese」とは何かを求めて、バカのひとつ覚えのように「歴史をやれ、旅をしろ」に従って、「日本という国は、どこから来て、どこへ行こうとしているのか」、この国の来歴を辿ってみた。

 ニッポン人のスーパー免疫“うまみ成分”を追って北前船のルートに沿い、酒田から修験者の背中を見ながら羽黒三山を越えて真冬の日本海を越前へ、戦国の世を一変した鉄砲の国友村、遥か万葉の“まほろば”の里、この国の始まり出雲へと……。キリシタン仙境五島列島を前に、人生を運命を探す旅人はいつしか巡礼者に。コロナ・リベンジ=技術立国ニッポン復興へ源流を探り、島津尚古集成館、佐賀、長州インキュベーションの幕藩“産業革命”へ、桜前線に乗って太平洋岸を北上するつもりだ。

 コロナ禍で世界に見せつけた「日本人であるという生き方」、その底流はどこにあるのか、ニッポン・リボーンの旅は始まったばかり……。

人間と共生したがる母なるコロナ

 ウイルスの生きがいは増殖すること。ヒトや動物を宿主にして、次つぎと変異しながら生き延びる。ウイルスはヒトを動かす。新型コロナには、宿主を操り、人の多い場所に行きたくなる衝動を駆りたて、宿主に巣食って変異したがる性質がある。世界のあちこちでエピデミックをくり返し、変異を重ねたコロナは弱体化して、やがて消えていく。が……、母型コロナは、宿主の致死率を低くし、変異もせず弱体もしない。母型コロナにとって、無症状のある意味健康体の宿主が、居心地いい。誰にも気づかれず密かに母なるコロナは、さらなる“新種株”へと連鎖を繰り返す。

 コロナ“負のスパイラル”を断ち切るには、これまでのコロナ対策を総括し、戦略、戦術を見直さなければならない。「不要不急の外出の自粛」「時短営業の要請」のお題目、“夜の街”“若者たち”“外食産業”を標的にする無意識の偏見は、Z世代、Y世代と呼ばれる1995年以降生まれの若者には届きにくい。

 医療崩壊の危機を避ける“当面政策”だけでなく、コロナ連鎖を断つ“将来政策”を視野に、無症状の感染者を徹底的に検査であぶり出し、母型コロナを引きずり出すしかない。

精神の毒“コロナ禍”──世界を全体主義に巻き込もうとしている

 コロナ感染者数に一喜一憂する軽信(軽々しく信じる)、無視するシニシズム(冷笑主義)の共存するコロナ社会。コロナは、個人の利益よりも全体の利益を優先し、社会全体を増進させる政治体制“全体主義”に巻き込もうとしている。コロナを大義名分に、コロナショック・ドクトリンが、時には民主主義の手順を踏み越えて政府独断で、個人の生活全般にまで統制を強いる社会が到来している。

 「コロナは疫学的な現象にとどまらず、人々を相互不信に陥らせ、社会の連帯を分断する“精神の毒”」と断じたドイツの若き哲学者マルクス・ガブリエル氏は、「“人間の尊厳は不可侵である”という価値(ドイツ基本法第一条)をドイツ人は誰ひとり疑っていない」と、国民の行動を大幅に制限しているメルケル首相を信頼する国民性を高く評価する。

 一方、国家権力を集中している中国だからできると……。だが、デジタルで国民のコロナ健康状況をリアルタイムで国家が集中管理、国民の意識改革、コロナ社会の編成と受け皿など、“コロナ未来図”に限り、中国を評価せざるを得ない。

 ぼくらは強くもない。賢くもない。自力で運命を左右することもできない。変わらなければ生き残れない、コロナで気づいた実存的変容=コロナ同時代。人も社会も国家もどのように変わればいいのか……、コロナで浮上した国家、地方政府の存在感。「三密回避」「ステイホーム」をくり返し、ダメ尽くしのコロナ火消し役に徹する小池都知事から「コロナ同時代の器」はまだ見えてこない。

 民主主義とは、大衆の合意つまり民衆が権力でもって、決定を下すことだが、一方、立憲主義は法の価値観に基づいてそれを制限することもできる。全体主義か立憲主義か、人類史上最大の有事こそ、国家権力、国家の指導力の発揮どころだ。

 コロナ不安を裏返すように史上最高値をつける株価市場の熱狂──「コロナ禍でも市場は安定している」「財政出動はマジックマネー」など希望的観測の口車に乗せられて株価は上がり続けるパニック・ナラティブ(巷の予言)症候群だ。「働きたくても働けない」生活実態と乖離(かいり)したコロナバブルは、救世主かそれとも精神の毒か。

 人種や世代など、あらゆる分断がコロナによって深まる“コロナ・トラウマ”、10年先も不透明なんて、人類の歴史上かつてないことだった。命かカネか、とまれ!「命もカネも」へ、2021越年コロナの復習問題だ。

 地球誕生とともにカウントが始まった地球終末時計──23時58分20秒、残り時間が2分を切った。核実験、原発さらに地球温暖化による気候変動、グローバリゼーションなど、この1世紀で1分以上時計を進めた。コロナが一瞬時計の針を止めたが、時計の針を戻すことはできない。

 人類の驕りが自然のルールを無視し、地球環境を変えてしまった。気候変動による異常気象の深刻化、ウイルス感染の脅威に、ひとりの人間ほど脆いものはない。

 人類の活動は、後戻りができない一線を超えて、地球の地質そのものを変えつつあるという。人類が農耕を覚えた“農業革命”以後1万年におよんだ完新世(ホロシーン)が終わり、新たな地質時代“人新世(アントロポセン)”へ。それって何だ?……問題意識も見えていない旅は無間の闇で彷徨い続けている。

人生には、“自分史”という作品がある

 旅先でふっと出くわすデジャブ(既視感)、人生は「自分史の器」だろう。未完成の自分史を締めるエピローグ“コロナ人生”、書き直すことのできない自分史を、プロローグからリセットした過去への旅は、気がつけば未来への旅となっていた。

 人生は一度かも知れない。でも、いくつもの人生がある。コロナで、狂わされた人生、やり直した人生、さまざまな人生を、運命を探すハメになった。

 人生を「溜まった時間をひっくり返すと、また新しい時間が始まる」砂時計にたとえてみた。砂時計は、過去と未来をなんども行き来する。人生は一度じゃないんだ。大切なのは、いくつもの人生を積み重ねた過去の時間だと──。

 “地球自分史”は残り100秒のエピローグ、地球終末時計は、砂時計のように積もり積もった時間をゼロにリセットすると「地球と人類“新世紀”」のプロローグが再び始まる。

 人類の誰もが遭遇したことのない「地球時計の折り返し点」、戦後、少年時代を過ごし、高度成長で育った昭和人間として、モノ書きとして最後の大仕事だ。(森田靖郎

「きょうよう」と「きょういく」

■何事もなく過ぎる毎日、でも高齢者仲間の合言葉「きょうよう」と「きょういく」だけは心がけている。むろん「教養」と「教育」ではない。「今日用がある」と「今日行くところがある」である。コロナ禍時代になっても状況は変わらない。そんな私に、思いもかけない新たなコロナ禍が降りかかってきた。

◆いま私が所属する“大学女性協会”は本部がスイスのジュネーブ、100年の歴史を誇る団体だ。その日本支部、さらに東京支部、さらにその一部の海外大学生奨学金事業の手助けが私の仕事。生計と就学の両立が困難ななか、将来社会のリーダーとして活躍する人材を応援するという立派な目的がある(今回の奨学生は村の保健師となることを目指している)。

◆奨学金の年額4万円(額は少ないが心はこもっている)は、これまでNGO“マングローブ植林行動計画(ACTMANG)”の活動でミャンマーを訪れる際にとどけていた。そこにコロナ禍である。現地に行きたくても行くことができない。奨学金はなんらかの方法で送らねばならない。

◆海外からの出稼ぎが利用する安くて簡単な送金方法は知っていた。だが公的な法人格をもつ当協会、銀行送金が望ましい。担当委員が大手MU銀行に数回足を運び、申請書を整えた。送金の段階で財務に詳しい前委員長と相手国に詳しいということで私との3人で銀行に行ったのは理由があった。申請書1枚を書くだけで大変だったのだ。一行毎に「これはどういうこと?」と文句をつけられ、そのたびに上役に承認を受けにいく。

◆「今日こそ送金できてスッキリできる」と張り切って出かけた。だがあれこれあって約2時間、それでも解決せずにいったん終了する。すでに正面口は閉まり、脇の出口から外にでた。疲れた。

◆数日後の2月1日、ミャンマーのクーデターのニュースが飛び込んできた。どうしても送金できなかったのは、銀行の親切なはからいだったのかもと思いいたる。古くからの友人とは、「悲しい出来事が起こりました」とのクーデター直後のメールを最後に今現在連絡がとれない。10年間の民主化が破られたのだ。私たちは送金ひとつで頭に来たり、落ち込んだりした。しかし、ミャンマーの人たちは今、どれほどの困難に遭遇していることか。

◆2015年11月村での選挙を見た。投票を終えた人は指につけたインクを誇らしげに見せてくれた。二重投票などの不正を防ぐためである。正義を平和的に実現して、ミャンマーに一日も早く明るい未来がきますように……。(向後紀代美


けもの道とひとの道

岡村 隆 

第2回

■バリケードストライキとロックアウト続きで講義もろくに受けなかった大学を卒業するとき、自分は他年代の人々に比べて勉強が足りないのではないか、という殊勝な心配など私にはなかった。社会改革や文学や探検について熱く理念を語っていたクラスや探検部の仲間たちが、当たり前のように理念とは無関係の企業に就職していくのを横目で見ても、とくに思うことは何もなかった。私の心配はただひとつ、心に宿った目的を果たすための資金と、その時までを食いつないでいく生活費をどう工面するかということだけだった。

◆大学3年目の1年間を休学してモルディブへ行き、独立直後で実質的に鎖国していた「未知の国」への入国と半年間の滞在を果たすという成果は上げたが、それよりも大きな宿題を背負って帰ってきたという実感があった。モルディブへの行き帰りに入国拠点として4か月を過ごしたスリランカで、いずれ必ず探検しなければならない「目標」と出会ってしまっていたからだ。

◆「マハウェリ川の中流域のジャングルには古代シンハラ文明の遺跡が埋もれている――」。そんな話を最初に聞かせてくれたのは、コロンボで偶然に知り合ったセイロン観光局の役人だった。「いいですか、あの有名なアヌラーダプラもボロンナルワも、すべてジャングルの中から掘り出された遺跡都市なんですよ。ほかにもまだ未発見の遺跡は多いはずです」。役人はそう語り、無知で妄想力豊かな探検部員の血を騒がせた。

◆熱帯のジャングルを割いて滔々と流れる川、鬱蒼とした樹林の間に人知れず埋もれる巨大な遺跡。まさにアンコールワット発見物語のような情景が目に浮かび、耳には平家物語の冒頭の文句が琵琶の音とともに鳴り響いた。さらには妄想に導かれるまま、中途半端な探検に乗り出したのが、決定的にいけなかった。

◆まだモルディブ入国交渉の途中ではあったが、仲間2人とマハウェリ川にゴムボートを浮かべて中流域への偵察を試み、そのゴムボートが激流で転覆、私たちは装備のすべてを流されて激流中の岩場に這い上がったところを、ロープを伸ばしてやってきた村人たちに救助されるという醜態を演じた。その恥ずかしさと悔しさが、未知の遺跡への思いと絡まり合って、私の次の目標は決まってしまったのだ。

◆幸いにモルディブ入国を果たし、半年を過ごした後でスリランカに戻った私は、コロンボで資料を漁り、地図を購入して日本に帰った。翌年、復学して探検部の主将になり、夏は日高山脈のヤオロマップ川上流部を探って主稜南部を縦走する長期合宿を主導したが(このとき尾根を挟んだ隣の沢で福岡大のヒグマ遭難が起きた)、これは探検部員としての「浮世の義理」で、本来ならスリランカの密林遺跡探検に向けて準備に全力を注ぎたいところだった。

◆秋以降は少しずつスリランカの歴史や地理、仏教などについて勉強を進め、翌年には隊を組織しようと考えていた。しかし、2年前のモルディブ遠征の報告書もまだ出せずにいて、仲間も集まらず、卒論も考えなければならないなか、翌年になっても遠征の準備は進まなかった。要するにモタモタしていて機運が盛り上がらなかったのだ。これはひとえに私の怠惰な性向のせいだった。

◆そして遠征にも行けず、アルバイトで日本観光文化研究所 (略称・観文研、後述) に通っていた1971年の夏、希望や予定をすべて打ち壊すような事件が起きた。最上川で川下りの訓練中だった探検部のゴムボートが滝下で遭難、後輩2人が死亡したのだ。遭難直後に、部は休部となった。

◆大学側からすべての活動は禁じられ、遠征どころではなくなった。私には前年度主将としての責任があり、悲しみのなか、仲間とともに遭難を総括し、報告書をまとめ、部の再建に努めなければならない責務が生じた。同時期に卒論もあり、アルバイトもあったが、部の運営や安全管理システムの再構築、大学側との交渉などで忙しく働いた。半年があっという間に過ぎ、おかげで翌春からの部活動の再開は見通せるようになった。

◆しかし同時に、私は卒業という形で何の準備も感慨もないままに大学から世の中へと放り出された。人が、なにがしかの仕事で金を得て食って生きていく道と、心に宿った夢や理念を追う道が、ぴたりと重なり合うなら、こんな幸せなことはないだろう……。何の「けじめ」もなく、ただ学生という身分を失っただけの私は、そんなことばかり考えながら日々を送った。

◆振り返ってみると、自分にあるのはスリランカの未知の遺跡への思いだけだった。3年前からのその宿題だけが、細い糸で過去と未来を繋いでいた。その糸は、「食うこと」の現実の圧力で、いつ切れてもおかしくはなかっただろうが、実際はそこから太いロープに育っていった。育ててくれたのは、バイト先でもあり、登山、探検、冒険界の先輩方との交流の場でもあった観文研という「場」の存在と、先輩方の存在そのものだった。 (つづく)


とよ家のいちにち by 竹村東代子

イラスト TOYO_ke
3.11から10年

保護ねこ、サスケと耐えた“2.13地震”

 ちょうど、寝入りばなに起こった、2月13日(土)夜の地震。

 天井まである本棚から本がバタバタと寝床に落ちてきて、そのうち本棚も倒れてきて、下敷きになっている状況だというのに、「これは、東日本大震災の地震より大きいかも?」なんて思いながら、自分でも不思議なほど落ち着いていていました。福島県民は地震慣れしているのかもしれません。

 物置きやクローゼットはモノが落ちて足の踏み場もない状況でしたが、庭に亀裂も入っていないし、道路も割れてないし、マンホールも飛び出していません。我が家周辺は断水も停電もないし、近隣の家屋被害もほとんどなし。10年前は「震度6強」、今回は「震度6弱」。2階に居たので、揺れを強く感じたようです。

 ところで、この1か月、私は脱走した保護猫「サスケ」の捜索に追われていました。

 福島原発被災地でトラばさみに掛かり、右前足を根元から切断した、3本脚の猫です。12月初め、骨が見えている状態で保護して断脚手術し、抜糸も済んだ1月初旬、自分でレバー式のドアノブを引きさげて脱走してしまったのです。

 いろいろ手を尽くし、2月8日に3キロ離れた場所で保護できて一安心。その「サスケ」がいる部屋で、一緒に寝ているときの地震でした。

※「サスケ」は、福島弁の「さすけねえ(大丈夫、問題ない)」から命名。

 「サスケ」のことが一件落着したばかりでしたが、地震翌日の14日午後、今度は、協力してもらっているNPO団体の方から「郡山市内で葛尾(かつらお)村出身の保護猫が脱走!」と連絡が入り、お借りしていた捕獲器やらセンサーカメラを返却がてら、少しお手伝いしてきました。里子に出て1週間、地震で開いてしまった窓に気づかず、そこから脱走してしまったそうです。たしかに、我が家の出入り猫も驚いて飛び出して行き、翌朝戻ってきたし、東日本大震災時も、飼い猫が脱走したため一緒に避難できなかった被災者の方がたくさんいました。

 このほか、原発被災地での給餌レスキュー活動も継続しています。

 コロナ禍が始まって1年。県外からのボランティアが来られなくなり、原発被災地での動物保護活動は福島県民にのしかかって厳しくなりましたが、現在は、被災地・富岡町にあるNPO団体と協力しながら続けています。昨年は保護活動費用のクラウドファンディングにも挑戦、多くの方からご賛同もいただきました。

 その一方で、あちこちプチ旅もしています。海外にこそ行けないものの、「ツーリングマップル」(バイク旅行向け地図)の取材で昨年も1か月間、担当エリアの関西をバイク旅してきたし、山旅も、雪山も、ツーリングも楽しんでいます。

 旅をするからペットは飼えないという人も多いですが、犬や猫のいる生活は楽しいし、癒されます。一人でも多くの人に、そんな暮らしを知ってほしいと思っています。そのために、「旅を続けながら」、「犬や猫と暮らし」、「動物保護活動にも関わっていく」ことを自分なりに体現していきつつ、普及活動に努めていこうと企んでいるところです。(滝野沢優子 福島県天栄村村民)

10年前のあの日

■13日夜、寝入りばなにグラグラと 過去に体験したことのない揺れに急いで飛び起きた。地元は震度5弱、慌てて階下に降りて行ったら家内からあの時の方がもっとすごかったと言われてしまった。

◆2011年3月11日、今から10年前のその日その時、私は九州出張中だった。最後の訪問先から福岡空港に向かう同行した商社の車の中で会社からの連絡を聞いた。携帯基地局がパンクして固定電話から福岡の取引先経由で大きな地震なので落ち着くまで戻ってくるなとの連絡だった。

◆その福岡空港ではカウンターに人の列ができている。状況を尋ねると丁度のタイミングで臨時便が飛ぶという、勿怪の幸いとすぐに手続きをして機上の人となった。しかし羽田に近づくと機内のアナウンスで各交通機関は止まっていることを知った。しかし車は空港に置いてある、公共交通機関が止まってもこちらには足がある……ラッキー、と思いながら空港に降りるとなんだかベンチや階段に人がたむろしている。新聞を敷いて寝ころんでいる人もいる。

◆そんな中、一人空港の駐車場に向かうがなんだか活気がない、停電なのか華やかな光がない静かな駐車場から外に出ても車が走っていない中、 数人の人がカート付きボストンバックを引いて真っ暗な歩道を歩いている。高速は通行止めになっているので一般道でつくばへの帰り道を選んだけれど、市街地に出た途端渋滞にぶつかった。

◆信号機があちこちで停電しているのだ。歩道には帰宅難民があふれている。とにかく地元に帰るには都内を通過しなくてはならないのだけど遅々として進まない。鈍い頭もここでやっと悟った、様子を見てから帰りなさいというその言葉に逆らった結果がこうだ。こんなことなら中洲で飲みながら様子を見とけばよかった。

◆車内に閉じ込められたまま、とにかく次女が住んでいる浅草までたどり着いて泊めてもらおうと……! やっと日をまたいで浅草にたどり着いたけど彼女もまた帰宅難民となり都内某所で朝まで飲んでいたのこと。ガス欠寸前の水戸街道で長蛇の列ができているガソリンスタンドでかろうじて5リットルのガソリンを補給し、ついでにトイレを借りてつくば到着。

◆途中の水戸街道で通勤着に真新しい運動靴の人や新品の子供用自転車に乗った通勤着の人を見かけた。おそらく子供と約束した自転車をこのタイミングで購入して乗って帰宅しているのだろう。皆何らかの足を見つけて帰路についている。そして我が家、大した被害もなかったがどういうわけか大事にしていた銘入りの陶器や高級ガラス器はことごとく割れ、XXパンで当たったお皿やお酒の景品のグラスはしっかりと生きていた。

◆まあそんなことは東北で罹災された方々には全く関係ない話で、毎日のようにメディアに流されるニュースを見て何もできない自分に腹立たしくうつうつとした日々を過ごしていたことを思い出す。

◆その年の7月末、今度は全国に広がった豪雨災害で福島の山通りと呼ばれる会津地方の各所で洪水と土砂災害に見舞われた。福島の原発のある辺りは海通り、郡山市や福島市の新幹線が通るあたりは中通りそして山が多い会津は山通り、その海と山が被害にあいダブルパンチだ。そして中通りを含む福島は太平洋岸の地域は原発事故による放射能被害とその風評被害のトリプルパンチだ。

◆我が会津の小屋の横に水場となっている小さな沢が流れている。その沢が大雨で決壊したのだ。山の斜面がえぐり取られ砂防堤の桁が小屋の下を流れる西根川まで流され電柱1本が破壊され道路から駐車スペースにかけて土砂の山ができあがってしまった。

◆2010年に海宝さん主催の南会津の第一回の伊南川100キロマラソンが開催された。その前年の秋にこの悪魔のコースを設計した3〇先生他が我が小屋に訪ねてきてこの小屋がエイドステーションになった……との事後承諾的な事前通達があった。丁度家の前の杉林の間伐材で駐車場所の横に薪小屋兼用の道具小屋を製作中だったので突貫工事で完成させたのだった。

◆天の恵みか悪魔の計らいか、その小屋は2011年の土石流の流れをうまくせき止め分散して母屋本体への被害は全くなかったのは幸運だった。道路の復旧と駐車場の土砂撤去と護岸工事は翌年までには終わったが、水場の復旧は数年前までかなわなかった。目の前の災害跡が片付けられるとあの時あった荒涼とした災害の爪痕の記憶が殆ど全て消え去ってしまうというのか、悪いことは忘れるようにできている。

◆コロナ禍の緊急事態宣言は3月7日まで延長されたけど、そうこうしているうちにワクチン接種だとかなんだか話は切り替わって泥縄式に元の生活に戻ってゆき話題にも出なくなってしまう。おそらくこの自粛生活で定着したデジタル決済と通販そしてテレワークは簡便だからシステムとして生活に根付くだろうけど、禍についてはこれを教訓にという声もだんだんトーンダウンしているうち忘れ去られ、また次の禍が来るのかな?(河村安彦

廃炉作業がどうなるか。震災から10年、報告会を2回やりましたね

■2011年3月の東日本大震災から丸10年を迎えます。10年という響きに改めて時間の早さを実感します。この10年間で福島を舞台とした報告会を2回開催していただきました。初回(2012年7月)は全村民が避難していた飯舘村を訪問し、南相馬の上條大輔さんから当時の状況をお聞きする内容でした。

◆2回目(2015年4月)は貸切バスで津波により被災したJR常磐線富岡駅〜浪江町内〜請戸小学校を見て回りました(同小学校は震災遺構としての保存が決定しています)。とにかく“現場に拘る”という江本さんの思いを体現したような報告会に携わらせていただいたこと、また多くの方々に参加いただいたことをいまも感謝しております。

◆10年経過した現在でも帰還困難区域として立入ることができないエリアが残されています。JR常磐線「夜ノ森駅」や「大野駅」周辺はバリケードで仕切られ、駅前の自販機も当時のまま、倒壊した建物もそのまま。10年間時間が止まったままの状態です。既に多くの住民は避難先での生活基盤ができておりますので、なかなか住民の帰還が進まないという課題に自治体は直面しています。

◆防潮堤、道路、鉄道、商業施設、病院等日常生活に必要な様々な設備はほぼ整備されましたが、原発事故の対応はまだ先が見通せない状況が続いています。福島第一原発敷地内には溶け落ちた燃料を冷却した後に発生する処理水を貯めた巨大なタンクが乱立しており、来年夏頃にはほぼ敷地を埋め尽くすとの見込みです。国は更に希釈して海への放水を求めておりますが、漁業関係者からの反発が強く決定は難航しています。

◆また、溶け落ちた燃料の回収等廃炉作業がどれ程の時間を要するのか、安全に作業を進められるのか、いまだに全容がはっきりせず復興には程遠いのが実情です。今年は10年という節目、区切りの年となりますが、私の専門でもある長距離ラン、昨年走れなかった分、今年は更に東北の地を走り、その変遷を皆さんへお伝えできればと思っております。そんな中で東北の地に思いを馳せていただければ嬉しいです。(渡辺哲


コロナ専門病棟、ついに我が病院にも

■コロナ禍のいま、移動してなんぼの地平線関係者の生活状況が気がかりです。一方こちら(病院終末医療担当看護師)はコロナのおかげで輪をかけたような忙しさに陥り、過労死しそうです。そんな医療環境に同情したらしいある政治家が、だったら潜在看護師や看護学校教員も動員したらと提案しましたが、現場からすればやめてほしいですね。現役の私でさえちがう「科」になると対応できるまで最短でも1週間は要します、単に有資格者というだけで投入したら、ただでさえ忙しい現場に教育という業務まで加わってしまいます。

◆某中核病院からは「コロナ担当、ECMO(エクモ『人工心肺装置』)操作にたけた看護師募集、月給50万円」で求人広告を打ち出したところ、応募者皆無だったと嘆くというはなしが伝わってきました。政治家といい、この人事担当といい、体を張って戦おうとする看護職をその程度にしか見ていないのかと思うと情けなくなります。

◆そういえば医師看護師の所在を恒久的に把握するため免許所持者の住民票提出を義務付ける法案のニュースも、有力紙の一面を飾りました。有事動員のための予備役軍人的発想なのでしょうが、これまた猛反発されることでしょう。とはいえ増える一方の患者、放置されたまま重症化で手遅れ続発の現実に、ボランティア精神旺盛の医療従事者は葛藤します。

◆とてもじゃないがそれだけの余力はない、でも社会は要求している、それを断るなんてできない。かくしてコロナ専門病棟、ついに当病院でも開棟しました。ただしがんセンターですからいきなり感染性呼吸器科救急に対応するのは厳しく、対象者は入院を必要とする中程度者を、高齢者に絞り最大66床までとし、スペースは隔離に最適な閉鎖中の旧棟を改築転換しての稼働です。

◆最大の問題は対応する現場の人員。このような特殊現場で即戦力になる看護師など、そう都合よく転がっていません。とにかく集められたスタッフだけで可能な人数だけでも受け入れようと、2月1日より始動しました。いまのところその部門からは外れていますが、初動期に対応した人にやらせっぱなしともいかないので、いずれ私も最前線に立つことになるでしょう。現時点で分かっているのは以上で、今後の変化は追って連絡したいと思います。

◆それはそうとコロナのあおりを食ってか、どこに行ってしまったインフルエンザ。例年なら学級閉鎖が話題になるこの月、なんと例年の0.1%の発症率ですから、いかに手洗い3密回避が重要かということを人々は学習したことでしょう。それと教訓として知ってもらいたいもうひとつが、地平線関係者の何人もが報告会で利用したと思われる地下鉄大江戸線の事例。

◆運転士の間でクラスター発生、人員が足りずダイヤが組めなくなり間引き運転に追い込まれたケースの主犯は、なんと詰所の洗面所の蛇口でした。歯磨きしたときに飛んで付着した唾液内のウイルスにとって、温度といい豊富な水分といい、さぞかし住み心地がよかったことでしょう。保健所は触れずにすむセンサー式に変更せよと指導しましたが、みなさんの職場はどうですか。

◆蛇口をひねるときはハンカチなり紙タオルなりを使い、直接触れないようにしてください。いくら完璧な手洗いだったとしても、そのあと水を止めるのに蛇口を素手で回したらアウトなのです。仕事とは、忙しいといっているうちが花なので現状の多忙さはむしろ望むところですが、思うように走れないのが痛い。

◆昨年来というもの自転車を踏めるのが通勤と帰省、および千葉県内のポタリングに絞られてしまい、浦安まで来て江戸川をみては、しかたなくディズニーランドを周回して帰ろうかの日々が続いています。(埜口保男 本来は自転車旅達人)

私と新型コロナ

■2019年12月23日夕刻、横浜。中華街へ行く前に、出航を待つダイヤモンド・プリンセス号を見に行った。まるで高級ホテル。光り輝く船内の様子を想像してみた。寒さの中、楽団が晴れやかに演奏し、手を振る人たちがいた。すでに武漢では発症者がいたけれど、1か月後のことは想像できるわけがなかった。

◆2020年4月10日、岐阜県は非常事態宣言。遠出をしなくなっただけで日常生活は変わらない。自宅とアトリエと勤務先とスーパーマーケットと古着屋。日常の骨格がよくわかった日々だった。

◆2021年2月2日、緊急事態宣言の東京都で「にわう飛騨展2021」。状況がすぐによくなるとは考えられないから、迷ったけれど開催を決めた。でも、無理はしない。これからも、できることを探りながら行動していこうと思っている。(高山市 ナカハタトモコ

登山中はマスクなんかしません!

■夫婦で楽しむ冬のお出かけの定番は、雪山登山。混雑を予想した年越しは避け、元旦に八ヶ岳の麦草ヒュッテに泊まったら、客は私達を含め4人のみ。前日の年越しでは18人いたそうだ。続けて縦走し、2日(客は3人)3日(客は私達だけ)と双子池ヒュッテに連泊し、コースタイム45分の双子山に、トレースなくラッセルで2時間かかって登頂した。誰も登ってなーい、密じゃなーい!

◆以降の週末も雪山三昧だ。唐沢鉱泉に個室泊での八ヶ岳天狗岳、ロッジタイプの宿利用で群馬/新潟県境の三国山や赤城山などに。八ヶ岳青年小屋のご主人(山岳ガイドでもある竹内敬一氏)からも毎年恒例の冬季登山ツアーのお知らせが届き、先日2月8日は参加者4人のアイスクライミングを楽しみ、3月は私達夫婦2人のみ参加の西穂高に行く予定だ。マスクを外す食事時は気を付けるが、山での感染はないでしょー。もちろん登山中はマスクなんかしませんよ!(古山里美

息子が下した決断

■受験生の母として疫病に翻弄された一年。昨春の志望校選択の序盤から苦戦を強いられることになるとは予想もしていなかった。というのも対面型学校説明会が人数制限のため、申込み開始から数十秒で即締め切りに。動画配信のみの学校も多数であった。密を避けるためのやむを得ない措置だが、何かモヤモヤとした気持ちが晴れない。基本的には偏差値で輪切りにされる高校受験。担任教諭との面談では「この辺りが妥当です」と数校を提示される。

◆しかし学力だけでスタートラインが決められてしまう選択肢しか与えられないことに疑問を感じていた私は立ち止まって思いを巡らせた。息子は何がしたいのか。彼にとって今できる最善の選択とは何か。そして偏差値という呪縛から解き放たれた息子が下した決断は「離島留学」という道である。地平線会議で本物に触れてきた彼は、自らの意志で本物の何かを見つけに今春巣立ちます。母としては、お弁当作りが終わってしまうことに淋しさがこみ上げてなりません。(長岡のり子

世界に餃子がある限り

■世界各地の餃子料理を食べながらユーラシア大陸を10年越しでランニング横断する「ギョーザ・ジャーニー」プロジェクト。これを2021年秋から開始する予定でしたが、この情勢ではとても実施するわけにもいかず、冷凍餃子となって凍結状態。しかし、せめてもの布石をと、旧東海道560kmを《餃子の王将》の餃子だけで走破する「東海道餃十三次」は、11月上旬に9日間で無事完走してきました。もともと誰かと比べたり競ったりするわけでもないし、世界に餃子がある限り、いつか走れる日が来るでしょう。そのときをお「餃儀」よく待つことにします。そして世界で「修餃」してきたら、そのときはエモカレーと一騎打ちだ!(二神浩晃


先月号の発送請負人

■地平線通信1月号(501号)は1月20日印刷、封入し、21日、新宿局から発送しました。静かな作業でした。いまは人を「集める」ことはほぼ禁じられている。常連たちが意を汲んで小人数ながら粛々と作業をしてくれました。 もっとも、今月は江本のフロント原稿がいったん消えてしまうという大事件が起き、開始時間は予定より1時間以上遅れてしまいました。しかし、小人数ながら作業の進行は素早く、なんとか榎町地域センターの時間表を守りながら作業を仕上げました。馳せ参じてくれたのは以下の皆さんです。ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 白根全 江本嘉伸 落合大祐


「感想コーナー」をスタートさせます
   ━━地平線会議からの「お願い」

■新型コロナ・ウィルスでなかなか自由な行動ができない中で、毎月毎月、地平線通信、フレッシュな内容で発行できること、心からありがたい、と感じています。10代から80代まで仕事も生き方もまったく別々の人々が本気で関わっていることが何よりも嬉しい。

◆ただ、書き手と読み手の“談論の場”のようなものがもう少しあっていいのでは、と最近感じています。感じたら動き出してみよう。来月3月から挑戦することにします。と言っても重くしたくないので、1人300字の見当で。通信に載った諸兄姉の原稿についての感想をおもなものとしますが、基本は自由です。ただし、掲載については編集長にお任せを。(E


反応の仕方について考える

■江本さんから電話をもらった。長野市で被災した子どもたちを支援する「龍神プロジェクト」の活動報告がメールで来たという。地平線通信に書かないか?と嬉しい電話だ。すぐに電話をくれるのも江本さんらしい。昨年の6月からおかげさまで2000枚以上を販売し、令和元年台風19号で被災した小中学校5校にまずは160万円を届けることができた。地平線の皆さんにも応援いただき感謝している。

◆電話で地平線通信の反応について「あんまりリアクションがないんだよねぇ〜」と江本さんポツリ。「その気持ちわかりますよ」と自分。「いいね!も僕は苦手なんだよね」と江本さん。「コメントが欲しいですよね〜」と自分。たぶん江本さんにとって地平線会議がライフワークであり、500回を超える地平線通信の読者から反応が欲しいのだろう。そしてそれ以上に人生と身銭を切って地平線する本物の活動者たちを知ってリアクション(応援)してやって欲しいのかもしれない。

◆自分も10年前から地区の祭りや地元のイベントを記録しYou Tubeで公開している。苦情があって削除もするが、「いいね!」よりコメントは100倍嬉しい。You Tubeには昨年辰野美術館で話を聞いたチャリダーの青木麻耶さんや、長野リョウノスケさんが副委員長を務める信州森フェスの登壇者、糞土師の伊沢正名さんやサバイバル登山家の服部文祥さんもこっそり公開している。さすがにグレートジャーニーの関野吉晴先生は恐れ多くて非公開にしている。昨年から急に再生回数がふえた服部さんにはコメントまで書き込まれて、ちょっと本人から怒られないかビビっている。

◆コメントと言えばつい先日、パルピル村からフランス語でコメントがあった。20年以上前に青年海外協力隊の隊員として活動していたセネガルの井戸掘り動画に反応してくれたのだ。ホントに世界は近くなったものだ。どうやって返信したらいいか現在思案中。江本さんならすぐにリアクションするのだろう。

◆コロナ禍の中、毎月あれだけの内容を出し続けるのはすごいことだし、発送請負人や校正スタッフ、それにリョウノスケさんの漫画も、長く続けている地平線メンバーらしいチームワークだ。組織も個人も「継続は力、経験は強み」と地平線を見ていてよく感じる。いまコロナの経験が自分たちの生活(生き方)を見つめなおしながらも、早くリアルな地平線報告会が開催されることを祈っている。(長野市 村田憲明

追記: 春になったら龍神Tシャツもよろしくお願いします。 

軽んじていた「式」という概念が気にかかる

■平安時代の陰陽師、安倍晴明は呪法で生み出した式神を使役して悪霊退治や祭祀の手伝い、家事労働までさせていたという。式神とは呪法という式により、気とか霊とか念とかの目に見えないものから現実社会に作用する何かの力を生み出したものなのだろう。数式、化学式の式も、混沌、茫漠たる数字や元素のありさまから何かしらの法則や現象を引き出すという意味のようだ。

◆入学式とか卒業式の式も、雑多な子供の集団が式を経て小学生になり高校生になり会社員になる呪法ということになる。いま、これまで軽んじていた式という概念がとても気にかかる。昨年、次男の圭太が結婚したが、式もハネムーンもできないままだ。人生の新たな局面に移行する儀礼としての式、さらには混沌たるコロナ禍になんらかの解を見出すための式を探してゆこうと思う。(渡辺久樹


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。別にカンパしてくださった方もいます。通信費とカンパは地平線会議の志を理解くださった方々からの応援歌としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれ(実は意外にそういうミスが多い)ありましたら必ず江本宛て連絡ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。 

福原安栄(本年度通信費として送金いたします)/庄子レイ子(6000円)/吉田文江/中村鐵太郎(4000円 チヘイセンツウシン イチネン ト ノミダイ)/世古成子(このところ8月に報告会で通信費を納めるようにしておりました。遅くなりましたが、500号をお祝いして納入します。紙面の充実さに地平線会議の多様性奥深さを感じております。毎月楽しませていただいています)/江口浩寿・由利子(10000円 毎号読ませて頂き大きなエネルギーを頂戴しています。ありがとうございます)/中村和晃(10000円 5年分お送りします。よろしくお願いします)/北川文夫(2021ネン ツウシンヒ)/北村昌之(5000円 ごぶさたしております。1人暮しの母親と同居することになり、住所がかわりました)


不思議な出会い

■2月10日、2020年度「世界が仕事場」の全日程が終了した。最終日の今日はグループディスカッションを行い、講義を通して何を学んだのかという問いに関して、他者と意見を交わした。発表の中には、江本さんの講義が一番印象的だったという声もあった。他人に嫌われても、好きなことをするという考えが強烈に響いたという。私も学生として江本さんの講義を受けた。

◆江本さんはエベレスト、チベット、モンゴルでの取材経験に基づき、現代における極地の質の変化や、冒険者や冒険そのものについて話されていた。見た写真はどれも自分の物差しでは測ることができないスケールを持っていた。写真だけではない。社会に役に立つ技を会得すること、コロナ禍を前向きにとらえること、というメッセージには深く考えさせられた。この講義では学生が講師に「問い」を投げかけ、講師が「答え」を示すということでもって、真に受講とみなされるのだが、江本さんの「答え」を読んでいると、他の学生も最後のメッセージが心に残っていたようだった。

◆忘れられないのが、チベットの高原で、3人の少女が水を背に、羊の毛を撚りながら談笑しつつ歩いている写真だ。「技」という言葉との強い結びつきを感じた。いつでも糸を紡ぎ、手を休めることはないと聞き、生きることと技がつながっているのだとわかった。そしてこれは現代でも変わらないことだということにも気づいた。江本さんの講義を受けた後、自然とハガキを送ることになった。今話しているこの人は、自分が知り得ないことを知っている、という講義中に感じた興奮と、直接質問をさせていただいた流れとがあいまった結果だった。これがきっかけで、地平線通信と出会うことができた。これまでの日常ではありえない、とても不思議な出会いだ。

◆というのも私は昨年九州大学文学部に入学したのだが、大学1年目を振り返ると、コロナと付き合わざるを得ない一年だったと思う。画策していた旅は1つも実現せず、同級生に会うこともなく、自室にこもり、PCとにらみ合う日常だった。閉塞感が募り、どうしようもないやるせなさを感じることもあった。

◆このような状況があり、何かとコロナのせいにすることが多かったので、江本さんのコロナ禍を前向きにとらえること、というアドバイスが強烈だったのだ。少し内面に目を向けると、悔しさも感じていた。自分で現状のとらえ方を変え、もっと行動しなければならなかったのだ、という気づきに対する悔しさだと思う。

◆送っていただいた地平線通信(2020年8月号〜2021年1月号)を読んでいても、似たような感情がわいた。こんな世界があるのか、こんな大人がいるのかと思った。発言者は存在している立場も環境も全く異なるけれど、志ある行動者だという点で共通していた。あらゆる言葉が、自己への反省と新しい世界の見方を与えてくれた。私は山岳部に所属しているので、この通信からコロナ禍で登山を我慢する人が一定数いることを知ったとき、山岳部の活動について考えさせられた。

◆入部したのは昨年の6月で、オンラインの新歓を経てのことだった。予算内で山靴、レインウェア、クライミングシューズ、パンツ、ソックスは購入したが、そのほか高額な装備はOB、OGの方々が貸与してくださった。歩荷訓練では会話を控え、現地解散とするなど、できる感染対策をし、トレーニングを行っている。

◆しかし学内で感染者が出たり、福岡県内で感染者数が急増すれば、部室が閉鎖されたり、活動は全面禁止という達しが届いたりする。こうなると、ザイルやテントなどの装備が回収できず、クライミングや合宿は内密でも不可能になる。活動に参加するにしても、自分が感染してしまったら周囲にどんな影響が及ぶのか把握できていないという自覚があるために、後ろめたさがある。大学側からの指示と、部員の意志と、社会的モラルとの折り合いのつけどころが難しいと感じる。

◆そんな中ではあったが、学務からの許可もあり、昨年の年末に初めて日本アルプスに行った。山靴、アンダーウエア、ソックス、ダウンなどは購入したが、ここでもそのほかの装備は部や先輩方のものを使わせてもらった。白馬岳を目指したのだが、ヤマテンの予報通りの悪天で到達できなかった。

◆それでも胸部まである積雪のなかでのラッセルや吹雪の中でのトイレ、ホワイトアウト、夜中の雪かきなどを通じて、自然のなかで人間がいかに小さいのかを実感できたことは、ありがたかった。山に登ると生きていることが実感できる。精神的に救われた気がした。コロナ禍での登山に関して模索は続くと思う。私も地平線通信から多くのことを学び、考えていきたいと思う。

◆この大学にいなければ江本さんの講義は受けられなかったし、山に登っていなければ今ほど地平線通信に強い関心を持つこともなかったと思う。地平線通信を読むと、出会って数日の私が志ある行動者になることが使命のように感じられる。江本さんがおっしゃったように、一枚のはがきで人生が変わったのかもしれない。この場所に連れてきていただいたことに本当に感謝している。江本さん、講義していただきありがとうございました。(安平ゆう 九大1年)

「遅れて来た読者」たわしのたわごと

   〜地平線通信の感想〜

夜明け

ほとほと
深夜 下宿のドアが鳴る
またあいつだ
今何時だと思ってるんだよ

あれ 読んだか
ああ 読んだ
すげえな
すげえよ

夢中で感想を言い合った
「あれ」が
何の本だったのか
もう思い出せない

それからは
僕ら自身の旅について
計画を語り合った
夜明けまで……

 豊、通称「たわし」でございます。十年前から詩人のふりもしています。昨年1月服部文祥氏の報告会に初参加し、地平線通信2月号に「地平線会議初見参記」を書かせていただきました。実はその翌日、江本さん宅を訪問し、伝説のエモカレーを御馳走になったのですが、新入りのくせにそんな特別待遇を受けて!という非難を浴びせられることを恐れて、これまでひた隠しに隠して参りました。ようやく時効(1年)が成立したようなのでこの際白状致します。江本さん、おいしかったです、ありがとうございました。

 江本さんとは、国際山岳年だった2002年に第1回広島県「山の日」県民の集いで、初めてお会いしました。本州から四国まで渡る100キロマラソンを終えての翌日で、スポーツ・マッサージを多少かじったことがある小生がマッサージして差し上げたのが、御縁の始まりです。「山の日」県民の集いは、昨年はコロナ禍で中止となりましたが、担当する県下の自治体が順調に引継ぎをし、今年は第19回目が予定されています(どうなるかは未定です)。毎回、担当する自治体が工夫をこらし、楽しい集いに成長しています。私の所属する広島県山岳・スポーツクライミング連盟も何回か運営面でお手伝いさせていただきました。

 2016年、日本山岳会広島支部が江本さんを講師に招いて講演会を開いた際、「実はこういうこともやってまして」と楽屋で差し出されたのが、できたての「地平線通信8月号」でした。私はその号からの謂わば「遅れて来た読者」です。

 唐突ながら、立花隆の膨大な著作の中に、「青春群像もの」と私が勝手に呼んでいる一連の書物があります。(1)『青春漂流』(2)『二十歳のころ』(3)『武満徹・音楽創造への旅』です。

 (1)は立花氏の最初の著作で、「自分の人生を語ることが、論を何もたてなくとも、そっくりそのまま人生論になるような人生、そういう人生を目指している男たち」(エピローグ)11名にインタビューしたもので、鷹匠の松原英俊氏(当時33歳)や、ソムリエの田崎真也氏(当時25歳)が登場します。

(2)は著者が1996年秋から1998年春まで東大教養学部で開講していた「調べて書く」というゼミナールの共同作品で、「二十歳のころ、有名無名の人たちはどうしていたか?」を複数のゼミ生にインタビューさせ、まとめたものです。(3)は武満徹氏への「おそらく百時間くらい」(はじめに)のインタビューと、関係者への徹底した取材によって書かれた、「それは武満の青春彷徨の記録であり、音楽的精神形成の歴史でもあった! そしてそれは武満の仲間たちの青春群像の軌跡を追う音楽的同時代史でもあった」(P577)と著者自身が語っているものです。

 (3)は無類に面白い評伝で、徹底的に武満徹について書かれているのですが、私が音楽用語等に暗いせいもあってか、読んでいて、これはある特定の人物ではなく、今も世界中で生起しつつある、ある青春群像の普遍的な物語だ、と感じる瞬間が何回もありました。あることに憑かれたように熱中する人物と、それに巻き込まれながら、結果として彼を支援する青春群像。それは今この瞬間も世界中で生起し、消滅し、やがて忘却されていくのでしょうが、ある分野で傑出した才能が現れると、後世その人物をトレースする形で(3)のように記録されることになります。しかしながら、「地平線通信」は、そのようなことを現在進行形で行っている、とはいえないでしょうか? 

 月に一回、500回以上の長きにわたり、1度の中断もなしに……。これまで通信に登場されたおびただしい人物たちによって編まれた、広大な青春群像のタペストリー。江本さんを見ていると「死ぬまで青春」という教えをいただいたように思えます。ご縁をいただいたことにひたすら感謝致します。

 春一番いきたいやうにそのやうに 

 たわし(豊田和司 広島在住詩人)

(1)『青春漂流』立花隆 講談社スコラ 1985年のち講談社文庫1988年
(2)『二十歳のころ』立花隆+東京大学教養学部立花隆ゼミ 新潮社1998年 のち新潮文庫2分冊、2002年
(3)『武満徹・音楽創造への旅』立花隆 文藝春秋 2016年


今月の窓

伊豆大島で聞いたミャンマーのクーデター

 朝6時に4畳一間のコンテナハウスで目を覚ますと、カセットコンロで温め直した味噌汁を冷や飯にかけてかきこむ。冬の伊豆大島特有の強烈な西風に突き飛ばされるようにして、朝礼が行われる資材置き場へ重い足を運ぶ。厳冬期の北海道から避寒できるとの甘い考えを見透かすかのように、2月9日の今朝降った雪は、三原山の北側を白く染め上げていた。

 造林作業の閑散期を利用した出稼ぎ労働者としてこの島で生活を始めて1か月が過ぎた。東京とはいえ離島らしく、地域住民は密でない人口を活かしてそれなりにコロナを意識した生活を続けている。緊急事態宣言の効果もあってか、土産物店が連なる港も人影はまばらだ。現場では、用事で本土へ往来した人のみがマスクを着用する以外は、取り立てて感染対策は行われていない。

 特定外来生物のキョンを駆除するために、捕獲用の網を張ったり、ハンターの猟場を確保したりするのが今の仕事だ。キョンは中型犬サイズのシカの一種で、1970年秋の台風によって大島公園内にある動物園の檻が壊れ、脱走したものが繁殖したと言われている。草食性のキョンは特産物の明日葉や農作物、サクユリをはじめとした希少植物を食い荒らし、厄介者扱いされている。そういう訳で我々は今日も山に網を運び込む。

 人間を歓ばせるための見世物として島に運ばれたキョンが人間のミス(台風で壊れるような檻で飼育しているのは福島原発のそれと同じで人災だと考える)で野に放たれると、今度は害獣としてその命を奪われる。

 人間の都合で愛玩から憎悪の対象へ変わる理不尽を感じつつも、私はその殺しに加担して今月の飯を食っている。ちなみにこの動物園からは戦前にタイワンザルとタイワンリスが脱走して繁殖し、こちらも駆除の対象とされている。杜撰な管理体制には呆れるしかないが、元凶となった都営の動物園は現在も営業中である。

 駆除の仕事は、島の課題の一つである雇用不足に寄与するかに見えるが、皮肉なことに雇われているのは私のような出稼ぎ労働者や外国人技能実習生だ。大都会を目の前にした島の若者が地元の土建屋に就業することもなく、土木作業員の高齢化と人手不足は常態化している。

 人手不足を補う技能実習生は、不利な立場に置かれている。報道で見ていたことが現実なのだと、私はこの現場で目の当たりにする。日本人の作業員が「ベトナム人は危険な任務を任されることも多い」と語るとおり、キツイ作業や、雑用(例えば、資材置き場のゴミ捨てや機械の整備など)を優先的に割り当てられている。なぜかはわからないが、来日1年目の実習生の寮費は数か月間滞在するだけの私のそれよりも高く設定され(2年目以降は漸減とのこと)、来日前に現地の仲介業者に払った120万円で、初年度の給与も相殺されてしまう。それでも、「現地の土建屋なら年収は70万円ほどにしかならないから」と、南ベトナムから来ている先輩作業員は教えてくれた。

 先月、島内の他の工事現場で2件の事故が起きた。いずれも被災者は外国人で、「何かの下敷きになって意識がなくなった」とか「クレーンの回転部に巻き込まれて下半身が潰れた」とかいった生々しい噂を作業員や島民から聞いた。「危ないからどけろ」という日本語すらわからない実習生が、危険な現場の最前線に立たされて犠牲になったらしい。技能実習生制度の功罪に関する報道は散々耳にしてきたつもりだが、すぐ近くで起こった凶報に二の句が継げないでいる。

 そんな生活を送るなか、「ミャンマー(ビルマ)でクーデター」とのニュースは飛び込んできた。学生時代から探検活動の場として関わりを持ってきた国の動乱はまさに青天の霹靂だった。軍政が終わった後の現地しか知らなかった私は、このまま国が緩やかながらも安定していくだろうと完全に楽観視していた。

 当時カレン人は、国軍への不信感を散々私に語っていた。平和ボケした私とは違い、彼らはこの事態を現実に起こりうるものとして危惧していたのかもしれない。途切れ途切れになっているSNSを通じて現地の友人らに状況を尋ねるほか、何もできない無力感に苛まれている。

 夜は政変に不安を抱える現地からの連絡を待ち、日中はベトナム人と肩を並べて働く。存在を身近に感じるアジアの彼らと私との間に、「関わり」はあっても、「つながり」はあるのだろうか。先月のフロントにあった江本さんの文言「世界とどうつながっていけばいいのか」が胸に刺さっている。私にとっての世界とは、つながるとは何なのか。すぐ隣にいる彼らと手を携えられている実感はなく、なんとなく居心地の悪さを感じている。言ってしまえば、彼らと混在している日常に混乱している情けない状態にあるのが私なのかもしれない。三原山に積もる軽石のように脆く、スカスカな私の思考を固めるために、そのフレーズを反芻しながら、明日も山を歩き考える。(五十嵐宥樹


あとがき

■この通信に書くことにはかなりプレッシャーがかかるという人が多いのに、書いてみると意外に読む側はクールで滅多に書き手に感想が届くことはない。14回もとてつもなく面白い連載を書いた“マッドサイエンティスト”が1月号の「感想特集」を読んで大いに嬉しかった、という話しには身につまされる思いがした。

◆皆、素晴らしい,面白い!と思ってくれているとしても言葉で表現しなければ書き手には届かないのだ。もちろん、お世辞がほしいわけでもない。ほどほどに通信をもちあげてね、というだけのことだが、とはいえどんな方法で? そういうきもちを込めて3月から「感想コーナー」を設けることにした(13ページ参照)。短い感想をぜひ書いてください。

◆1月号に短い感想を書いてくれた沖縄の外間晴美さんから。「今回も吉川さんのことをゴジラ顔と書いてしまい、しまった!会ったことのない人はゴジラを思い浮かべると思い、本人の名誉のため次号で加筆をお願いします」とメールがあった。正確には「当時人気があった巨人の松井秀喜がゴジラ松井というニックネームで、吉川さんが松井に似ていた」というのがあたりです。吉川さん自身が、確か講演先で子供達にゴジラ松井だ!と言われた」と言っていたことがありました。よろしくお願いします。」

◆よろしくお願いします。(江本嘉伸


■地平線マンガ『初夢の巻』(作:長野亮之介)
マンガ 旧正月の巻

《画像をクリックすると拡大表示します》


■今月の地平線報告会は 延期 します

今月も地平線報告会は延期します。
会場として利用してきた新宿スポーツセンターが再開されましたが、定員117名の大会議室も「40名以下」が条件で、参加者全員の名簿提出や厳密な体調管理なども要求されるため、今月も地平線報告会はお休みすることにしました。


地平線通信 502号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2021年2月17日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


to Home
to Tsushin index
Jump to Home
Top of this Section