1月20日。大寒。6時の都心の気温は0.7℃だった。皆さん、ことしも地平線会議をよろしく! 全国の新型コロナウイルス感染者は19日、5303人増え総数で33万8,669人、死者は103人増えて4,685人となった。日本の感染症対策はこれまでのやり方でよかったのか、午後から国会で審議が始まっている。
◆アメリカでは死者が40万人を越え、世界はコロナ禍で緊張が続いている。感染力が高いとされる変異型の広がりが懸念されているドイツではメルケル首相が19日、各州首相との会議で、新型コロナウイルス対策の強化で合意したそうだ。なんと買い物時や公共交通機関では「布マスク」の使用を認めず、「医療用マスク」の着用を義務づける」という。
◆“世界が抱える10大リスク”という恒例の調査の中に「メルケルなき後のヨーロッパ」があげられるほど、発信力ある政治家である。うーむ、日本ももう少しきつくなるのか。ないものねだりだが、存在しているだけで、何かを語れる指導者にいてほしいな。そんな中、いよいよ46代アメリカ大統領、ジョージ・バイデンの就任式がはじまろうとしている。バイデンがかなりの差で勝つか、と思われた今回の選挙、トランプの追い上げは凄かった。
◆結果的にバイデンが51.4%の81,283,485票を取り、トランプは46.9%の74,223,744を獲得した。歴代の大統領選と較べると両者とも大善戦であった。しかし、5人の死者を出した6日の議事堂乱入事件を煽ったトランプに2024年の再出馬を含めてもはやいかなる目もないだろう。
◆篭りきりの日々、外食もしないので毎日のように食べるものをつくる。エモカレーは少し知られているが、毎日カレーを食べるわけではない。野菜、肉、魚となんとなく食べ合わせを考えながら自分流でやる。最近はごぼう、人参、タケノコ、鶏肉にこんにゃくの相性がいい筑前煮を大量に作って小分けしてあるほか、太めの大根をふんだんに使ったブリ大根もお気に入りだ。
◆暮れのある日、待望の鹿肉が届いた。北海道に行っていた服部文祥が仕留めたばかりのエゾシカを解体して届けてくれたのだ。「175頭目のシカです」と文祥は言った。「1頭目のシカ」の話を聞いたのは随分昔のことだ。イモ、人参、なす、セロリなどの野菜と煮込んで鹿肉シチューとすると、なんとうまい肉であることか。スーパーでは買えないこういう味がいまは最高の贅沢だ。
◆実は本日2時半から、九州大学の学生たちにzoomで講義をすることになっている。スーパーグローバル大学創成事業の一環として開講される2020年度後期「世界が仕事場」というもう4年も続けている講義で担当の方から今年の人気課目の一つと聞いた。引き受けた以上、本気でやるしかない。
◆ふりかえってみれば地平線会議の発足もできるだけ未来の青年たちに刺激を与えたい、との思いからであった。テーマは具体的な方がいい、と思い「エベレスト、チベット、モンゴルで見たもの」とした。ただし、はた、と困った。冒険者の象徴とも言っていい植村直己という人間を知っていないかもしれない、ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)やモンゴル人民共和国というかっての「社会主義国」はまったくイメージできないかもしれない。
◆地平線会議や日本山岳会に集まる人間ばかりと付き合ってきた自分の日々があらためて問われると思った。そして、世界を「新型コロナウイルス」という予期しない旋風が吹き荒れた。私たちは世界とどう繋がってゆけばいいのか。つくづく自分が問われる場なのだな、と理解した。
◆3時から1時間、パワーポイントを使ってエベレスト、チベット、モンゴルの何十年前かの話を一方的にし、質疑を終えて4時40分頃、ここに戻った。黙って聞いていた学生たちに、これは課題ではないけど興味ある人は、はがきで短くていいから感想を、と呼びかけたがはたして? 地平線会議的なものに惹かれる人はすくないのでは、と率直に思うが、直後に講義を脇で聞いていた人からメールがあった。
◆「ご苦労様でした。よかったです。特に最後に現役の山岳部の学生さんの質問とか、対面に近い実感があったのではないでしょうか。学生たちに良い記憶が残ったと思います。忙しいところありがとうございました。通信頑張って下さい」。なんとハワイにいる吉川謙二からだった。この講義の担当の生田博子准教授に私を紹介したのは吉川本人で、その縁で彼も私の講義を聴く立場にあったのである。私がこの地平線通信を書いていることを伝えると「私も明日4時起きでマウナケアの4100m地点の雪サンプルに出かけます」と返してきた。そんなわけで今月の通信は「吉川謙二特集」である。(江本嘉伸)
■みなさ〜ん、あけましておめでとうございます。昨年は新型コロナに痛めつけられましたが、今年はコロナ禍を吹き払いましょう。昨年の『地平線通信2月号』ではカソリ、全国の「一宮めぐり」を終え、これからは10年計画で旧国の「国府めぐり」を始めますと、みなさんにお伝えしました。その「国府めぐり」を10年どころか1年で終わらせることができました。これは「コロナ禍」のおかげです。新型コロナの影響で、カソリ登場のイベントが次々にキャンセルになり、そのおかげでまとまった日数が取れるようになったのです。ぼくは「これは絶好の好機だ!」と、とらえました。
◆ということで昨年の11月28日に「国府めぐり日本一周」の最後となる「九州一周」を終えることができました。4月10日に「北海道一周」を開始して以来、7か月半で終わらせた「国府めぐり日本一周」では、日本の「五畿七道」の68か国をめぐりました。北海道を入れれば、五畿八道の78か国になります。
◆残念ながら北海道11か国目の千島国には足を踏み入れることはできませんでしたが。バイクで正味63日間、2万5945キロを走りました。「九州一周」は、北九州市の門司港を出発点にしました。反時計まわりでの「九州一周」。まずは筑前の「国府めぐり」です。筑前の一宮、筥崎宮と住吉神社の2社を参拝し、筑前の国府所在地の太宰府へ。太宰府では、壮大な規模の「大宰府政庁跡」を歩きました。
◆ここは筑前の国府というよりも、西日本最大の都城跡といった方がいいですね。じつは筑前の国府跡はよくはわかっていないのです。総社も不明です。国分寺跡には「文化ふれあい館」がありますが、そこには七重塔の模型が建っています。七重塔は全国の国分寺のシンボルなのです。国分尼寺跡には案内板がポツンと立っているだけで、近くの「国分公民館」の前に国分尼寺の礎石が置かれていました。
◆国分寺跡の西側は水城跡です。ここには唐・新羅の侵攻に備えてつくられた大規模な土塁と濠が残っています。当時の日本の国防最前線基地でした。最後に太宰府天満宮に行きましたが、コロナ禍などどこ吹く風で、西鉄の太宰府駅前からの参道はあふれんばかりの人の波でした。拝殿前には長蛇の列ができていました。人影もまばらな太宰府政庁跡と参道を埋め尽くす人、人、人の太宰府天満宮。あまりにも対照的な太宰府の2つの顔でした。
◆筑前につづいて筑後へ。九州一の大河、筑後川を渡って久留米の町に入っていきました。久留米が筑後の国府所在地。まずは久留米の町並みを見下ろす高良山に登り、筑後の一宮の高良大社を参拝。そのあと山裾のJR久大本線の久留米大学駅に行きました。駅前には国府跡の「横道遺跡」の碑。駅の近くにある小さな祠の味水御井(うましみずみい)神社は筑後の総社です。
◆国道210号を越えた合川にある合川保育園前の広い草地は筑後の国府跡です。このように国府は筑後に限らず、時代とともに変遷しているところが多いのです。最後に県道752号沿いの国分町へ。国分寺にちなんだ「国分」の地名が、ここでもしっかりと残っています。国分日吉神社に隣接する国分寺跡には現行の国分寺があります。こうして国府、総社、国分寺の3点セットを探しまわるのは、「国府めぐり」の一番のおもしろさなのです。
◆久留米から筑後川を渡って佐賀県へ。筑後川が筑後・肥前の国境になっています。肥前の一宮、千栗(ちりく)八幡宮と與止日女(よどひめ)神社の2社を参拝すると、肥前の「国府めぐり」の開始です。長崎道の佐賀大和ICのすぐ近くに国府跡があります。南門が復元され、前殿、正殿、後殿の跡を見てまわりました。西脇殿跡、東脇殿跡もあります。
◆国府跡の「肥前国庁跡資料館」を見学。ビデオでは肥前の国庁(今でいうところの佐賀県庁)を詳しく紹介しています。それを見ると、中央から送られてくる国司(今でいうところの佐賀県知事)が絶大な力を持っていたことがよくわかります。国府跡の近くには国分寺跡、国分尼寺跡がありますが、総社は廃絶しているようです。国府跡から国分尼寺跡、国分寺跡を通る細道は古代西海道です。日本中の旧街道をめぐっているカソリは、「おー、これが!」と、感動してしまうのでした。
◆佐賀から背振山地の観音峠を越えて唐津へ。唐津東港からフェリーで壱岐の印通寺港に渡り、壱岐の国府をめぐりました。壱岐の「国府めぐり」は難しいですよ。総社などは地元の方に入口まで案内してもらい、そこから台風で大荒れに荒れた山道を登り、ついに総社の石の祠をみつけたのです。
◆壱岐の郷ノ浦港から対馬の厳原港にフェリーで渡りました。厳原が対馬の国府所在地。対馬市役所は対馬の国府跡に建っています。3年前に来たときは韓国人旅行者であふれかえっていた厳原ですが、今回はまるで吹き消したかのように、韓国人旅行者の姿はありませんでした。
◆対馬からフェリーで福岡に戻ると、肥後の国府(熊本市)、薩摩の国府(薩摩川内市)をめぐり鹿児島へ。鹿児島からは大隅の国府(霧島市)、日向の国府(西都市)、豊後の国府(大分市)、豊前の国府(みやこ町)をめぐって出発点の門司港に戻りました。最後の国府となった豊前の国府は、「京都(みやこ)郡みやこ町」にあります。豊前の国府所在地の旧豊津町は、今は合併してみやこ町になっています。郡名も町名も「みやこ」。
◆すごい地名ではないですか。「ここが豊前国の都ですよ」と高らかに言っているようなものです。整備された国府跡の豊前国府跡公園では毎年、「豊前国府まつり」が開かれています。千何百年もの歴史を越えて、国府は現在でも大いなる誇りなのです。
◆こうして全国の「国府めぐり」を終えて思うのは、生涯で4000日を旅された偉大なる旅人、民俗学者の宮本常一先生のことです。毎年、1月30日に東京・西国分寺の東福寺で先生を偲ぶ会が催されています。ぼくはいつもは、JR南武線で登戸駅から府中本町駅まで行き、そこでJR武蔵野線に乗りかえて西国分寺駅まで行っています。ところが昨年は時間に余裕があったので、府中本町駅でフラッと降りてみました。
◆いやー、驚きましたね。何と改札口を出たところが武蔵の国府跡。そこには国司の館の復元模型があったのです。府中本町駅で目にしたこのシーンは強烈なインパクトを与えてくれ、「国府めぐり日本一周」をスタートさせる原動力になったのです。「カソリ君、頑張ってやってみたらいい!」と宮本常一先生に声をかけていただき、背中を押してもらったような気がしてならないのです。(賀曽利隆)
■静岡でも1日の新型コロナ感染者数が100人を超えたが、買い占めなどの混乱がない分、落ち着いて過ごせている。息子が先月1歳になった。あっという間に過ぎた1年だった。日本では、乳幼児や子どもがコロナで重症化したという話は聞いたことがない。学校や子育て支援施設では様々な対応をしてくれているが、どうしても密になったり、共有のおもちゃを舐めたりする場合がある。これは仕方のないことだから、とにかく大人がかからないようにしなければと思う。
◆私の知っているいくつかの学校では、イベントが中止になったり、縮小したりしていた。かわいそうという意見もある。しかし、今できることに目を向け、一生懸命取り組む子どもたちの素晴らしい姿もたくさんあったようだ。息子が生まれてから、育児についてアドバイスを受けることが増えた。ありがたい反面、時々モヤっとすることも。例えば母乳について。私は、母乳が出ず、ミルク育児を選んだ。
◆親戚や店先のおばちゃんに「母乳?」と聞かれて、無駄に落ち込んだ。母乳は出るのが当り前だと思っていたが、違ったのだ。私は自分が劣等生のような気がしてしまった。今は全然気にしていないが、あの時は神経質になっていたと思う。他にも「まだ〜なの?」「〜したらダメよ」という言葉で不安になっていた。
◆落ち込みそうになる時、地平線通信を読むとホッとする。読み終わると、「私はこれでいいのだ! 何でも楽しもう!」と思うことができる。私は、20歳頃から約13年間、通信を読ませていただいている。四万十ドラゴンランでお会いしたエモーン、山田高司隊長、ウルトラじいじ原健次さん、広瀬敏通さん、熊沢正子さん……。地平線の方々の生き方や考え方に刺激を受けてきた。青年海外協力隊でカンボジアに行くことができたのも、地平線通信を通して世界とのつながりを意識し続けられたからだと思う。
◆2008年10月の報告会に初めて参加し、関野吉晴さんのお話を生で聞いた。「私たちはどこからきたのか」学生と一緒になって「本気で追求している」姿は、今でも教師としてのお手本だ。小松由佳さんの「どんな土地に行っても何をしていても直感を働かせる」という言葉も、好きだ。
◆1歳児は今までできなかったことを急に突破してくる。私は息子の成長を喜んだり、ひやひやしたり、イライラしたり、忙しいけれども楽しい毎日を送っている。4月から職場復帰予定のため、息子に負けないように成長するときが近づいている。これからも地平線通信からヒントを得てがんばります。(静岡県 杉本郁枝 クエ)
■地平線通信、500号おめでとうございます。先週から病院内でクラスター院内感染が発生しました。今まで他院でクラスターが発生したと聞くと、大変だろうなと思ってはいましたが、いざ自分の身に起こると想像以上でした。患者を守り、スタッフとその家族を守り、自分も倒れずに頑張るのは本当に大変です。病院は年末年始の休みになりましたが、しばらくまだ仕事です。江本さん、元気に体力つけておいてください。いつコロナになっても負けない準備をしてくださいね。
追伸:クラスターは落ち着きましたが、以前よりさらに感染対策が厳しくなり、毎日悲鳴をあげながら頑張っています。余裕がない状況で詳しいメッセージ書けずすみません。また、連絡させて頂きます。(河野典子 下関市)
■皆様、ご無沙汰しております。山田淳と申します。10年以上この地平線通信から遠ざかってしまっていたように思いますので、最初に自己紹介させてください。学生時代に世界七大陸最高峰の登頂をして、その縁で地平線会議でも発表させていただき、その後、登山ガイドとして富士山やネパールの山々、キリマンジャロなんかを登っていたのですが、2006年に大学を卒業した後、3年半ほどマッキンゼーというコンサルティング会社でサラリーマンをしていました。
◆トムラウシでの事故(2009年7月16日大雪山系でツアー客ら8人が亡くなった山岳遭難事故)をきっかけに、2010年に登山の世界に戻ってきて、フィールド&マウンテンという会社を起業して、今に至ります。フィールド&マウンテンでは、「登山人口の増加」と「安全登山の推進」をミッションに、「やまどうぐレンタル屋」という登山用品のレンタル事業、「yamakara」という登山ツアー事業、「山歩みち」というフリーペーパー事業をしています。装備、情報、きっかけがあれば人は自然に山を楽しむようになる、そういう想いで10年事業を続けてきました。
◆さて、コロナです。実は弊社のやまどうぐレンタル屋、年間4万人弱の方にご利用いただいているのですが、そのほとんどが富士登山。富士登山者が年間25万人ほどですから、その2割弱がレンタル利用のお客様、となるわけです。それが今年は一気になくなってしまった。うちも大変ですが、山小屋含め多くの観光業が大きな痛手を負いました。
◆そんな中、今はライターの柏澄子さんにお声がけいただき「teamKOI」という集まりで活動しています。「teamKOI」は、登山業界が、いや、登山という行為そのものが、社会全体の中で独りよがりな理解できない人たちのもの、と見られないようになんらかの活動ができないか、という想いで集まっています。
◆そのためにコロナの中、ドクター、山小屋、山岳ガイド、旅行会社などから9人のメンバーを集め、多くの企業にご協力いただき、議論し、メディアでの呼びかけ、ポスターの掲示などを行なっています。皆さんも、もしかしたら今シーズン、どこかで「山で働く人々の声に耳を傾けて(準備編)」と「登山者同士、思いやりをもって(山登り編)」のポスターを見ていただいたかもしれません。
◆私は、「teamKOI」に、今後の山登りの明るい未来を見ています。このコロナは、ウイルスには意志はないとはいうものの、密集、都市化、効率化という走りすぎた資本主義の弱点を巧妙についてきました。ただ、そもそもその都市での過度な効率化、資本主義化から抜け出して癒しを求めにいくのが山だったり自然だったりしたはず。もともとこのコロナ禍の社会と登山というのは相性が良いはずです。
◆ただ、二つのことに注意しなければならないと思っています。一つは、やはり山小屋は今までの形態では立ち行かないだろうということ。今言われている3密回避という点でももちろんですが、そもそもあの青天井の受け入れによる混雑具合はあるべき姿ではないことはみんなわかっていたはず。そんな混雑しているのは年間数回だと思いますが、その混雑はやはり定員制を入れるなどして避けていかないといけないでしょう。
◆もう一つは、山登りはコロナ禍でリスクの低いレジャーだとはいうものの、社会とのコミュニケーションを業界がしっかりとっていかないといけないということ。そうしないと、独りよがりなニッチな集まりになってしまいます。所詮日本の人口の1割もいかない人たちしか楽しんでいないものなわけで。ポテンシャルは日本の半数以上の人が山登り楽しんでもおかしくないと思うんですよね。
◆ワクチンの報道も多く流れるようになって、直近ものすごく大変なことはありながらも、アフターコロナの社会を想像、創造していく段階になってきたかと思います。先にも書きましたが、今後の山登りは明るい未来が待っていると信じています。なぜなら、ウイルスが過度に行きすぎた資本主義の弱点を突き、社会が進む方向を密集・効率化一辺倒から変えるとすると、その逆側にいる最先端、それが山登り、自然と楽しむ行為そのものだと思うからです。
◆自然の中で遊ぶという、人として当たり前の行為が社会の中で認められるように。そして、山という、先鋭的な冒険野郎から健康のためのハイカーまで、幅広い人を楽しませてきたものが、これからもより多くの人を魅了し続けてくれるように。コロナとはちょっと長い付き合いになりそうですが、その先を見据えて、いろいろなことをしていきたいと思っています。またぜひ山でお会いしましょう!(山田淳)
■遅ればせながら、新年のご挨拶を申し上げます。2020年2月の報告会でインド北東部について話をさせていただいた延江由美子です。今度は現地からの近況報告を! と思っておりましたが、結局2020年はそのままずっと日本にいることになって、なんだかんだと事欠かない日々のあれこれにとらわれているうちに、あっという間に2021年になりました。1月6日。海を越えたアメリカの首都ワシントンで前代未聞の出来事が勃発。その日はキリスト
◆インドはアメリカに次いでコロナ感染者数が多いのですが、その感染状況は地域によって大分異なるようです。私がここ数年関わってきた北東部のアッサム州にいるシスターと時々SNSで話すのですが、「どんな感じ?」と聞くと、「もう前と同じになってますよ。市場だってフルスイングだし、マスクしている人はほとんどいない。検査だって、なんだかテキトー」という返事。クリスマスに送られてきた動画では、修道院に村の人たちが集まって(確かに誰もマスクをしていない)、大いに踊って歌っていました。
◆一方で、西のマハラシュトラ州はプネに住むソーシャル・ワーカーの友人は、コロナで食糧がろくに手に入らない人たちへの支援活動に今も駆け回っています。彼は自分も家族もコロナに感染して12月には隔離施設に入っていましたが、皆無事回復しました。プネにいるもう一人の友人は看護師で、「コロナ患者がどんどん増えるにつれシフトも増えて、もうクタクタ」。コロナシフトの1週間は近くの宿泊施設に滞在しなければならず、小さな娘のことをいつも心配しています。彼女も感染してしまいましたが、無事復活。なんかすごいなあ、みんな……!
◆インドで生活していつも感心するのは、人々の逞しさ、しぶとさです。そして本当に頭がいい。今朝のニュースではプネからインド各地にワクチンが搬出されたとのことでした。COVID-19のパンデミックのために渡航制限がしかれて以来、私の生活パターンも変わリました。もともと日本での生活は家にいることがほとんどだったので、そのこと自体はさほど変わらないのですが、これほど長く日本に滞在したのはいつだったか思い出せないくらい昔のこと。良し悪しは別としてなんだかまた根っこが生えてきたような気がします。
◆今年がどんな展開になるのか、相変わらず全く予測できません。世界のありようはコロナ前に戻ることはないだろう、といろいろな方がおっしゃっています。インド北東部に戻れた暁にはどんな現実が待っているのやら。神様だけがご存知です。(延江由美子)
■屋久島のガイド、野々山です。ついに一都三県に非常事態宣言が出ました。やっとかよ、という感もあるが、いろいろな兼ね合いでタイミングも難しいところです。屋久島では、年末12月に、陽性反応者がドドドっと出て、累計10名となりました。ただ、幸いなことに、クラスターには、繋がっておらず、ガイド仲間の感染者も、今のところ、出ていません。
◆でも、昨年、秋には連日何百人もの方が、縄文杉に来られており、誰かは(ウィルスを)持ってるんだろう、とは思います。しかし、まあ、ガイドなんてみんな、身体だけは丈夫ですから、もし仮に感染しても、重症には至らず、元気に山行を続けているでしょう。ただし無症状であっても、他人に移す可能性は当然あり、関係ないなんて、とても言えません。
◆10月、11月はGo Toのおかげで、いつにない忙しさでした。まるで例年の夏休み並み。ガイドになって24年になりますが、こんな秋は初めてです。大変ではありましたが、仕事のないこのご時世、ありがたいことです。12月になったら、逆にガッタガタでしたが。
◆屋久島は、都会に比べれば、割とのんびりとしており(とはいえ、結構、身近に陽性反応者がいたりするのですが)、ギスギスとした雰囲気は、あまりありません。しかしながら、もちろん、この島だけが良ければそれでいい、なんてことはありません。これからどうなるのか? 誰にも、まったく読めないでしょう。としたら、逆にどうであっても、日々の生活をまっとうしていくしか、なさそうです。(屋久島ネイチャーガイド 野々山富雄)
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。カンパしてくださった方もいます。新型コロナ・ウィルスの猛威で報告会が開けない以上、通信はその分、読ませる内容で発行し続けると決意している地平線会議。通信費とカンパはその志を理解くださった方々からの応援歌としてありがたくお受けしています。万一、掲載もれ(実は意外にそういうミスが多い)ありましたら必ず江本宛て連絡ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。
高野久恵(佐渡 5000円)/大野説子(10000円 通信費5年分です。毎月、通信をお送りいただき、ありがとうございます。コロナ禍で報告会ができないことは残念でしたが、中身の濃い通信が届くのを楽しみにしております)/五十嵐宥樹(10000円)/吉竹俊之(楽しいひとときをありがとうございます)/城山幸子(20000円 いつも通信を楽しみにしています。長くお支払いできないうちの5年分の会費と、残りは寄付させていただきます。→城山さん、ありがとう。昨年5月にも頂いています)/金子浩(10000円 巣ごもり時期にとても楽しい地平線通信をありがとうございます) /中村易世(4000円 地平線会議誕生前夜の「法政大学の3日間」に“仕事”で参加。以来今日まで部外者意識をまとったまま、柱の陰から覗き見しているような気持ちで毎月通信を楽しみに拝見しています。500号!ありがとうございました) /白方千文(10000円 通信費3年分+カンパです。住所変更ありがとうございました)/辻野由喜(今年もよろしくお願いします)
■10年前に日本を襲った東日本大震災と大津波は、日本の長い歴史のなかで繰り返し起こってきた「自然災害」だった。原子力発電所の爆発は、人が作り出した技術に絶対的な安全は無く、絶え間ない更新とフィードバックをもってしても破綻を防ぐことができないことを示した「人災」だった。
◆そこで考えるのだが、感染症とはなんだろう。生命あるものが病原体を受け入れ、その病原体が増殖することで生じる病気のことだという。そして、病気を起こした個体から病原体が別の個体へ到達し、連鎖的に感染者数が拡大するのが伝染病で、ヒトの歴史においては「天災」と受け止められてきたという。生命ある限り、感染症に罹るリスク、他者にうつしたり、うつされたりするリスクもまた生命あることの証といえる。
◆感染症は人類史上、繰り返し起こってきた状態で、人間社会では「医学」が対応してきた。しかし感染爆発となれば、政治、経済、社会、文化等々、あらゆる分野での対応が必要であることはいまではだれの目にも明白であるが、どの国、どの民族においても感染症に対する蓄積した「智」はなく、世界中があわてふためきながら対応している。そこに、それぞれの国家の個性が如実に出ている。
◆政治の力で押さえ込もうとする中国。国家的危機だと警鐘を鳴らしながら民主主義の抵抗にあい効力を発揮できないフランス。厳しい状況のなかでも愛ある社会が維持されているイタリア。何もしないことに価値を置くブラジル。そして経済重視を変えられない日本……各国のそれなりの対応から「感染症に対し正解はない」と思えてならない。
◆どの国、どの民族が何を大切に思っているのかがパンデミックをとおして映し出され、そこにこそ意味があると思われる。各国の対応とは、その国に暮らすひとりひとりの思いが政策になったに過ぎず、日本の対応にしても然り、である。だらしない対応、首尾一貫していない政策であっても、それは政治家がつくったものではなく、私たちが求め、作り出した結果といえる。
◆今では袋だたきのGo Toキャンペーンも、大方の国民が諸手をあげて支持していたはずだ。そうした自覚をもちつつ、私は現在進行形の世界の対応を記録したい、また記録すべきと思っている。
◆この時代を生きる指針として、ジャック・アタリ氏の言葉を紹介したい。それは「隣人愛をもって生きよ」というメッセージだ。感染症は「人と人との接触を悪」としてしまう社会的な病であるが、だからこそ「隣人に対する愛が大切」というアタリ氏の言葉は、人間社会が感染症に負けないための強力な治療薬といえよう。新型コロナの時代には、医学だけではなく社会的な治療薬が求められているのだ。
◆いま、このような言葉を発信できる人がいることに心から感謝し、自分自身が「隣人愛」をいかに実践できるかを試行錯誤する日々が続いている。(佐藤安紀子 編集者)
■江本さん、ご無沙汰しております。2020年3月以来のお便りとなりました。まずは地平線通信、500号おめでとうございます! 毎月文字や絵を地平線通信という形にし、紙で配信するというとんでもない作業を40年以上も続けて来られたこと、並大抵じゃないと感じています。正直なところ、最近は今月は来るのかな……?とひそかに心配しながら月の中ごろにポストをのぞいていましたが、毎号来るたび、江本さんお元気でよかった……となんだか生存確認でもするかのような気持ちでした(メールも電話も連絡できるんですけどね)。
◆そんな風に常に、この人とも次はもしかしたら会えないかも?などと、前よりさらに考えるようになったのも、この1年ですね。良くも悪くも、「生きて会えること」「(透明な幕越しであっても)直に顔を見られること」の重さを感じざるを得ません。私の近況ですが、基本ほぼ在宅勤務で、会社に行くときは電車でなく、自転車通勤にしました(ゴツいママチャリ)。感染防止に加え、時間的には約20分削減、交通費もかからず、外は気持ちいいし、一石「多」鳥です。
◆子供3名はそれぞれ、学校・保育園へと通っています(今回の緊急事態宣言では閉鎖・登園自粛にならず、涙が出るほどありがたい)。長女(10歳)は「学校から言われているし、怖いから外に出ない」と学校と習い事以外はほぼ家にいてゲームかネット動画……足腰が弱くなっている様子です。真ん中の息子(8歳)は「コロナが治まったらさ、モンゴル行ってイトウを釣るのが夢なんだ」と数日前、話していました。売ってボロもうけしたいんだそうです。末娘(5歳)は先日、服の下に水着を着て公園に行き、最終的には水着になって歩いていました(それを許す親も親ですね)。コロナどころか風邪も怖くないようです。
◆たったひとつの家庭の中でも新型コロナに対する価値観は多様ですね。いつの日かまた、エモカレーやエモ〇〇を味わえることを願っています。どうか、お互い、みんな、生きていられますように。
追伸:夫がこの前、「最近流行りの“エモい”って言葉見るたびに江本さん思い出すんだよね?」と言っていました。江本さんは“エモい”」の意味ご存知ですか?(三羽宏子 関野吉晴とモンゴルの少女との交流を描いた映画『プージェー』翻訳担当)
■年が明けて新型コロナ・ウイルスの猛威は収まる気配はありません。毎月続けてきた「地平線報告会」は、当分見合わせるしかない、と判断します。ただ、地平線会議の活動は1秒たりとも止めたくありません。そこでお願いです。
500号を越えた地平線通信を一層充実させるために「私と新型コロナ・ウイルス 2021年冬」のテーマで原稿を募ります。2月10日締め切り、字数は今回も300字程度とします。内容はかなり広く考えています。旅、冒険、仕事、子育て、遊び、本の世界、などなど。
今回のパンデミックについて地平線会議を含めた市民は、未来の人たちのため、国家や医療機関とは離れて市民の記録を残す役割がある、と私は考えています。どうかご協力ください。(E)
■当分地平線報告会は開けそうもないので、年内で打ち切る予定だった「10・29 地平線報告会」江本嘉伸さんの「地平線の根っこ」のネット配信を2月末まで延期します。
ご希望の方は でお申し込みください。折り返し担当者からアクセス方法をお知らせします。
休憩を挟んで前編70分、後編60分の熱い語りが期間中ならいつでも無料で繰り返し観られます。エベレスト、チベット、モンゴルなどいまでは歴史の記録ともいうべき数々の貴重な写真が意外に好評で、知らない方々に再度お知らせする次第です。受付は手作業のため、お申し込みいただいてから数日かかるかもしれませんのでご容赦ください。
みなさま、お元気ですか。心身ともに健康でいられることを本当にありがたいと思う毎日です。緊急事態が各地で宣言される厳しい状況ですが、展示会を開催することになりました。飛騨で活動する三工房のグループ展です。感染予防に細心の注意を払ってお待ちしていますが、様子をみてご無理のないようお出かけください。また、急な変更の可能性もありますので、お出かけ前にご確認ください。よろしくお願いいたします。(中畑朋子 飛騨高山)
「今日はにわっとるな」「にわるな」。旧暦の元旦前に立つ市には飛騨言葉が飛びかいます。「にわう」「にわる」はにぎわうこと。愉しくにぎわう、木・陶・布の工房の市に、ぜひお越しください。
■期間:2021年2月2日(火)〜2月7日(日)11:00〜19:00(最終日は17:00まで)
■場所:ギャラリーモーツァルト
東京都中央区京橋1-6-14 YKビル1F
電話 03-6228-6848
参加工房:
木 kino workshop 皿・盆・ブローチ・スツール・テーブルなど
陶 しずく窯 マグカップ・皿
布 月の舟(ナカハタトモコ) 裂織タペストリー・草木染スカーフ
*『月の舟(ナカハタトモコ)』は今のところ全日在廊予定です。
★500号で「至福の鯛焼き修行」を書いた車谷建太は、いまやこの通信にいなくてはならない“通信印刷のプロ”。短時間で20ページ、を超える通信を何千枚と刷り、終えるとB4の用紙を折り機で4ページにする作業を、最近は応援がいることが多いが、応援がいない時は1人でこなす。本業は津軽三味線弾きである彼が印刷の地味な仕事に誇りを持って当たってくれているのがありがたい。「車」と打ち込めば即座に「車谷建太」と変換されるのだが、先月の通信ではじめて「車谷健太」と「建」の字を間違って印刷してしまった。人名は間違えたくないのに稀にこんなこともある。申し訳ない、車谷君。(江本嘉伸)
■江本さん、寒中お見舞い申し上げます。丑年で牡牛座の稲葉香です。昨年は、ネパール・ドルポ越冬の長期遠征からの帰国、そしてコロナ禍と非常にアップダウンの激しい年でしたが、それをバネに今年は心機一転を考えました。今年の2月で「Dolpo-hair」(自身で個人経営している美容室)は開業10周年を迎えます。正直なところ経営状況が非常に厳しく、年内で一度は閉めようかと思いましたが、常連様とのご縁が切れず、もう一度お店を立て直そうと作戦を練りました。
◆独立する前は、間借りで12年ぐらいやってきており、フリーランスのスタイルを始めて、気が付いたら20年を越してました。お客様と言うよりも、私の日々の応援者そのものであり、理解者であり、大事な存在です。今回こんなにも美容室の経営戦略を真面目に考えたのは実は初めてでした。今までは、「旅やヒマラヤ遠征に行く」ただそれだけしか考えてこなかったです。
◆「Dolpo-hair」を立ち上げた10年前も独立した理由は、2012年にドルポで行われる12年に一度のチベット仏教の大祭に行きたかったからで、ヒマラヤ遠征に行きやすいように独立したわけでした。そして今、コロナという誰もが厳しい状況の中、いろんな意味で生き残るには、少しでも進む、動き続ける、立ち止まってはならないと私は思いました。
◆山はずっとそこにいてくれるけど、チャンスとタイミングは流れる。ドルポ越冬が成功して痛感しました。私はこれからの計画のために、行きやすい環境をこのコロナ禍の中で作り上げておくチャンスだと思いました。山や岩を登っている時、ちょっとした足場を変えると、届かなかった岩に手が届いたり、ほんの少しで数ミリで世界は変わる、あの感覚と同じで少しでも進めば見えてくる、岩に張り付いてしまうと見えてこない。
◆そして、手放すことも時には必要、決断しなければならない時もある。この厳しい状況を山のように考えると、何事でも楽しくなっていくのではと思いました。私はやはりネパール、ドルポ、河口慧海師に関わって生きていきたい、自分の心に問いただすと、やはりそこに辿り着きます。だからこそ今やるべきことは、逆算したら見えてくる。限られた時間の中で、コロナ禍でどうなるか?ではなくて、どうしたいか? で、私は生きていたいと思いました。
◆世界の流れはとんでもないことになっているけど、自分軸、自分の世界観も大事にしていたいと思いました。これからも遠征に行き続けることを意識して、この厳しい状況をヒマラヤ遠征のように考えたら、面白いんじゃないかと思い、また大きな壁を乗り越えるべき作戦を考えました。具体的にお伝えすると、美容室のメニューに「ヘナ」という草木染めの白髪染めを本格的に取り入れる。そしてヘナ専門の美容室を千早赤阪村の山の家の敷地内の小屋に作り、物販もはじめる。美容師のリモートワーク部門を考えたわけです。
◆ヘナは植物名Hennaという低木樹木です。紀元前の古代エジプト時代から髪染めに使われてきた植物でインドのアーユルヴェーダでも使用されています。ヘアーケアの商品としては葉を摘み取り乾燥させて粉砕したもので、お湯で混ぜて利用します。日本で多いのはインドのもので、古来より眉毛や、爪、髪を染めるものに、用いられてました。
◆今の私のお客様の年齢層で9割が白髪染め、さらにこれからの時代を考えると増えるのは間違いない。でも毎月美容室に染めにくるのは経済的、時間的にも厳しい、さらにコロナ禍のようなまた別のウイルスなどこの先何がやってくるかわからない。時代は自然派思考が増えており、そこでヘナという身体に負担なく白髪染めができるものを、山の美容室で取り扱う。
◆体に優しく環境にも良い、さらに抗菌作用や、活性酸素除去などの様々な効果がある。これを普段は自分で染めてもらって、数か月に一度だけお店に来てもらい、自分で染めきれてない部分を綺麗に美容室で染めるという、スタイルを提案します。そこで染めるもの、ヘナは必要だから購入する。その購入するための物販をwebショップで行う。その製品は徹底したオーガニックで、ヘナを日本に初めて導入されて30年の美容師の先生と信頼のおける製品に出会いました。
◆さらに私のヒマラヤに通うスタイルを応援してくださるという、思ってもみなかったことに展開し、将来的にはネパールにもお店を!と夢が広がりました。今年はヘナのワークショップと私の講演とコラボでお店の立て直しをやります。以前地平線通信で発表させていただきました住居の一部を美容室としての大改造計画。
◆具体的な工事はまだこれからですが、今の大阪の市内のお店をやりながら将来的には山の美容室だけでもやっていけるようにする! その体制が整えば、目指すネパール探求家として通い続けることができると思いました。私にはまだ考えていることがある、こんなところで立ち止まるわけにはいかない。いつでも動けるような体制をこのコロナ禍の中で作り上げる。それが今年の目標であり、やるべきこと。またこちらで報告が出来るように頑張りたいと思います!(稲葉香)
■私は長い間「けもの道」を歩いてきた――。これは行動上の実態であり、人生の比喩でもあるのだが、けもの道を歩くことで探検を続けてきたとも言えるし、けもの道に踏み込んで踏み迷い、多くの時間と労力を空費してきたとも言えるだろう。
◆たとえばスリランカのジャングルでは、遺跡探査のために歩くのは、ほとんどがゾウの群れが作った道だった。ジャングルの下藪には弾力のある細枝に鋭いトゲを生やした低木の密生地も多く、ナタで切り開いて進むには怪我の危険と困難が伴うからだ。それよりは多少遠回りになったとしても、ゾウがあの巨体で藪を押し分け、枝をへし折り、地面を踏み固めてくれた跡を辿って進んだほうが良い。そうやって遠回りで目的地に着き、目当ての遺跡を発見したこともあれば、途中で偶然、想定外の遺跡に遭遇したこともあったから、これがいつの間にか私の探検の様式となってしまった。
◆ある日、最奥の村に入って基地を築くと、村人からの情報を集め、あるいは地図上の地形から判断して、目的の場所を定める。そこを目指して、ハンターなどの村人を先導に立て、その方向に少しでも近づくようなゾウの道を探して進んでいく。進むうちに方角が大きく外れることも多いから、そうなる前に別の道を探し出すのが先導役の村人の仕事だ。ゾウの道には「現在の道」だけでなく、すでに棄てられた「旧道」も混じるが、2年ぐらいは痕跡が残って歩きやすいから、優秀な先導役はそれを上手に見つけて目的地へと繋いでくれる。
◆新しいゾウの道と複雑に交差しながら、入口は藪に塞がれて分からないその「旧道」を、微細な植生の違いから見つけ出す目を、当初の私は持たなかった。ましてや、その道がどの方角へ伸びて行くのか予測することなど、いまでも自信があるとは言い難い。地図もコンパスも持たずに、次々と現れる新旧のゾウの道を見つけては、まるで村道を歩くような速度で歩く村人を、私が尊敬の目で眺め、全幅の信頼を置く仲間として接してきたのは、そうした現実があるからだが、一方ではもちろん、このやり方が遺跡発見のための最良の方法だなどと言うつもりはない。
◆それはとにかく、時間のロスが大きいからだ。なかでも2016年のスリランカ・ヤラ地方のジャングルでは、先導役を村人に任せるというこの方法を踏襲したため、距離と時間ばかりを空費して探査はことごとく失敗に終わった。直線でわずか10キロ先の目的地に何回アプローチしても到達できずに、2年近くの準備期間や注ぎ込んだ経費のすべてが無に帰したのだ。
◆これにはもちろん、コンパスやGPSを使っても進めないほど有棘植物の密生地が広がっていたという悪条件もあっただろう。ベースキャンプに日帰りしなければならないという入域許可の条件も足かせになった。しかし、先導の村人も私たちも、方角を大きく外れるゾウの道を辿るばかりで、目的地に続く古いゾウの道を見つけられなかったことが最大の原因だった。
◆周知のように、ゾウのそれを含む「けもの道」は、動物たちが「ねぐら」と餌場・水場を行き来する道だ。餌場や水場、それに「ねぐら」が変われば、けもの道も変わる。小さな子供が生まれたり、群れの構成が変わっても、辿る道は変わるだろう。私が頼ってきた「けものみち」は、そうやって獣たちが日々生きるために使ってきた道であり、よくよく考えれば、私はそれを探検という人間の、しかも日常的に「生きるため」とは少し異なる目的のために利用してきただけだった。
◆いくらかの失敗や目標への遠回りがあったとしても当然というものだろう。そして、さらによくよく考えれば、私の場合、探検のための遠回りはジャングルのけもの道だけでなく、人生の時間のなかにも多く含まれていたようにも思われた。ある時から探検を続けることが人生の目標となった私にとって、その目的地への道、探検への道は、いつ辿っても常に迂遠な道だったのだ。動物のように、食うため生きるために辿る道とは別のところに、あるいはその道の途中に、探検への道を置いていたからである。
◆食うための道、経済、生計の道は「けもの道」、頭に宿った理念を追うのは「ひとの道」――。そんなことを考えたのは、コロナ禍で「もの思う時間」が増えたからだろうか。それならば、この災いの時を奇貨として、自らの過去をもっと深く内省してもいいだろう。仕事や家庭を持ちながら、そこに多くの時間と労力を費やしながら、他方で常に手放さず、断続的に実践してきた探検と、浮世の義理や煩悩を多く含んだ踏み迷いの回り道。その長年の実態を次号から辿り直してみたい。(つづく)
■記念すべき地平線通信500号で惜しまれつつ(?)終了した吉川謙二さんの連載「凍った大地を追って」。北極圏での生活から過去の探検の歴史まで網羅している、非常に興味深い内容であった。私も、一読者として、また長く調査研究を通して吉川謙二という並々ならないスケールの大きな冒険学者と接してきた者として毎号楽しみにしていた。私は現在宮城県で大学教員をしている。大学では物理学や統計学などの基礎教育を中心に教えており、研究テーマとして国内の凍土(冬だけ凍る季節凍土)の調査を続けている。
◆江本さんとは、北極調査隊でお世話になって以来の縁である。北極調査隊は、吉川さんを中心とした環境調査隊で、アラスカで永久凍土環境の調査を行った。私は副隊長兼陸上隊長を務めた。カナダ船籍であったヨット「Hoki Mai(ニュージーランドのマオリ族の言葉で「帰還」の意味)号」を、宮崎県日南市大堂津ドックで極地調査用に鉄製のヨットに改造し、この船を中心として陸上と海中の調査を1993年から実施したものである。
◆あの時、江本さんには宮崎まで取材に来てくれ、北極調査に関して記事として紹介していただいた。東京のどまん中にある読売新聞本社の社員食堂でカツ丼をごちそうしてもらい、北海道育ちの私は都会の雰囲気に緊張しながら食べたことを、今でも鮮明に覚えている。3年前の2018年の秋、吉川さんが日本にやってきた際に四ツ谷の焼き鳥屋さんで約20年ぶり再会(地平線通信476号を参照)。すっかりご無沙汰してしまった失礼を感じつつ、楽しい時間を過ごすことができた。それ以来、「地平線通信」を本格的に読むようになった。
◆さて、吉川さんの連載では、「今」が中心となって描かれており、過去は南米が中心であった。若いころの南極、北極での活動はあまり描かれていないので少しだけ触れてみたい。私自身は、山岳部にも探検部にも所属せず、「山に登る」ということを北海道大学の大学院時代に、北海道大雪山での永久凍土の調査をするために始めた。その後、だんだんと山登りが面白くなってきて、プライベートでも北海道の山を登るようになった。当時は、ただ漠然と「南極に行きたいなあ」と考えていた程度であった。
◆その頃吉川さんは、「アンタークティックウォーク南極点探検隊」の隊長として準備に奔走していた。「アンタークティックウォーク」は、南極大陸をそりを引きながら人力で移動して空気や積雪などのサンプリングを行い、南極点を目指すものであった。歩行隊は吉川さん、法政大学OBの松原尚之さん、明治大学OBの佐野哲也さんの3名であり、サポートとベースキャンプ周辺の調査隊として、私と北海道大学大学院での吉川さんの後輩である石丸聡さん(私とは大学院で同期)がいた。
◆当時の吉川さんとの付き合いは、私の研究室の先生である曽根敏雄さんが吉川さんの先輩だったこともあって、たまに札幌にいる時に吉川さんが研究室に訪ねてきて、一言二言話す程度であった。その後、石丸さんと一緒にベースキャンプでの活動を行う隊員を1人追加するかもしれない、という情報を曽根さんから聞き、しかし「行きたいなあ」とまだまだ憧れの先の話であった。
◆ある日、研究室の電話が鳴り、出てみると「オー、原田か、久しぶりだな。どうだい、南極に行かないかい?」と、まるで昼ご飯に誘うような感じの吉川さんの話しっぷりだった。驚きながらも「はい、行きたいです」と即答した。それが1992年の夏。それから今日までの付き合いである。後で聞くと、曽根さんが私のことを吉川さんに推薦してくれたようだ。周りの人に恵まれていると感じた。
◆南極までの準備、南極での活動、すべてが新鮮だった。準備の大切さはもちろん、先を読むことの重要性など、普通の(?)学生生活を送ってきた私には刺激的な毎日だった。しかし一番の驚きは、67日間の南極大陸の徒歩調査を終えて、南極点で再会した際、吉川さんから「次は北極に行くけど、一緒に行かないか?」と。こっちは無事に到達したことを、サポート隊として喜んでいる真っ最中なのに、もう次のことを考えているのだ!と。
◆私にとっては短い南極隊としての活動であったが、吉川さんにとっては濃い期間であり一区切りして次へ、というのは十分な長さだったのだろう。根底には地平線通信498号に出てくる木崎さんの言葉「10年やって本を出して次へ行け」があるのだと思う。詳しくは、南極環境調査報告書と英文の学術報告書を参考にされたし(または山岳雑誌『岳人』に連載された永田秀樹さんの「氷原の彼方へ」参照)。
◆連れて行ってもらった南極と違い、次の北極調査は最初から最後までの参加。計画立案後は、まずは資金集めから。スーツを着て企業を回る日々が続いた。企業回りの合間に打ち合わせをして、夜はそれぞれ事務作業をして。翌朝会うと、いかにも夜は寝ないで作業をしていたように見せて、隠れて仲間とフルーチェやバナナの食べ比べ競争をするなど、適当に息を抜いていた。
◆あの頃は、若く、体力もあり、とにかく前に進んでいた気がする。それを支えているのが、吉川さんの好きな言葉であるパッションだと思う。同じようにパッションが原動力になっている人も多いことだろう。また、その燃えるようなパッションが見つからなく、迷っている人もいるであろう。強烈な印象を与える連載を書いた吉川さんも、新たなパッションが見つからずに、もやもやしていた時期があったようである。
◆その後に見つけたのが、アウトリーチ活動である。アラスカでは、自分の住んでいる土地の下に一年中凍っている永久凍土があることを知らない子供が多い。そこで、学校を回って永久凍土の話をすることにした。ただし、子供の集中力には限界があるので、吉川さんはひと工夫した。全容を5分程度の音楽に乗せてミュージックビデオ風に紹介する「Tunnel Man」を作成したのである。興味のある方は、ぜひYouTubeで「Tunnel Man」を検索してください(私もEpisode 5に出演しています)。スキンヘッドのTunnel Manに出会えます。
◆この「Tunnel Man」を引っ提げて、アラスカの200を超えるすべての学校、シベリア、モンゴル、極地カナダそして日本の学校を回った。移動手段は、スノーモービル、改造した極地用の車、犬ぞり、そしてトナカイである。気が付くと、トナカイファームを作ってしまう行動力は、見習うことすらできない。
◆トナカイファームは、それは普通のファームの域を脱している。何せ露天風呂、サウナ、作業小屋、永久凍土を利用した半地下冷蔵庫、ニジマスが飼われている池などがあり、番犬のシロもいる。周りには建物もないのでオーロラ鑑賞にはもってこいの環境。電気水道ガスは引かれてないが、全く問題ない。こんなところで住むなんて、うらやましい限りである。
◆私のできることは、このアウトリーチ活動を日本で一緒に展開することくらい。この冬で、北海道での活動は10年目を迎える。木崎さんの言葉を使うと、そろそろ次に向かうタイミングなのだろう。新たなパッションを探したい。
◆20代で出会って、南極に連れて行ってもらい、北極に一緒に行き、30歳を過ぎてお互いに大学で職を得てからは研究仲間として、40歳を過ぎてからはアウトリーチ活動を、と付き合いが長くなった。とにかく、大きな影響を受けたことは間違いない。甘いものが好きだという共通点もあるが性格はおそらく真逆で、のんびりな性格の私をいつもイライラしながら見ていたことでしょう(今も?)。多忙を極めているのに毎年私の誕生日にはメッセージを送ってくれる。まだぼけていないなあ、と年に一度の確認作業であるが、嬉しい限りである。現在は次に向かって準備中とのこと。予想のつかない、新たな展開が楽しみである。
■先にも書いたが、私は若い頃に南極に行くことに憧れていた。どうしたら行けるか、地球科学の研究をすれば行けるかも、などと考えてきた。永久凍土の研究に出会い、南極隊に参加し、北極隊として活動し、その中でいろいろな縁でいろいろな人たちに出会うことができた。おそらく、研究一辺倒ではなかなか出会えなかった人たちと出会えた。これは私にとっては、もちろん大きな財産である。「縁」という言葉は好きな言葉である。大切にしたい。
◆南極隊に参加して、地平線会議の存在を初めて知った。私が地平線通信を読んでいるのはここ数年ではあるが、500号まで到達したのはすごいの一言。それ以上の言葉は見つからない。私自身は、報告会で話すようなことは持っていないが、もちろん報告会での内容には興味津々。通信を読むだけで「いいなあ〜」となる。特に、コロナ禍で海外に行けないとなると、なおさら海外の話を聞きたくなる。地平線通信はその役割を果たしてくれており、楽しく読んでいる。
◆私自身も、海外での調査を研究対象としているので、日本から出国できない状態は歯がゆい。調査ももちろん、国際学会も国内の学会もほとんどがオンラインで開催された。移動時間がないので楽な部分はあるが、やはり学会の楽しみの一つは仲間と会って飲むことであり、それができないのは寂しい。大学生にとっても、オンライン講義だと移動時間がないのはいいかもしれないが、人と会えないオンライン講義だけではやはり寂しいことであろう。
◆また、特に困ったのが実験実習である。さすがにオンラインでは難しく、私の勤務する大学では前期の実験実習をすべて後期に移動した。おかけで、後期は実験が多くレポートも大変だったと聞く。もっとも、前期のオンライン講義でもいつも以上にレポートが多かったようだ。とにかく、学生にとっては全くの非日常であったのは間違いない。
◆我が家の高校球児の息子も高校3年生で、通常の年とは全く異なる生活になった。学校の休校に始まり、目標である夏の甲子園大会はなくなった。ただ、野球は7月に代替大会を開いてくれたのでそれが区切りとなり、次に向かえるきっかけになったようだ。その区切りもなく、次になかなか向けえない高校生を周りで多く見かけてきた。一日も早く日常に戻ることを望みたい。
◆同じ非日常でも、地平線会議はいい意味での通常状態での非日常の活動の集まりであり、早くいろいろな活動が再開されるのを楽しみにしている。また、報告会に参加してみたいと考えても、金曜の夕方からの東京での開催。仙台に住んでいる身では、参加が難しいかなあ、としているうちにコロナ禍である。考え込む前に、まずは行動!と改めて認識した。落ち着いたらぜひ報告会に参加したい。もちろん二次会の「北京」まで! (原田鉱一郎 宮城大学準教授)
■「もしあのときジムがつぶれなかったら、まったくちがった人生になったかもしれないな……」フェアバンクスの自宅の作業場で、吉川謙二は私に語った。ボクシングに熱中した沖縄での大学時代を振り返るとき、吉川は今でもそう思うことがあるという。琉球大学に入ろうと思った理由はいくつかあった。一つめに東京や親元から離れてみたかったから。二つめに南の島と沖縄という土地への憧れ。そして三つめに、「ボクシングをするなら沖縄だ!」。そう考えていたから。
◆沖縄に上原勝栄というボクシング指導者がいた。実弟で元世界王者の上原康恒らを育て、高校に入学したばかりの具志堅用高をボクシングの道に引き入れた人物でもあった。野球部に入りたかった具志堅がボクシングをはじめたのは、上原勝栄が営む風変わりな銭湯に下宿したのがきっかけだった。
◆上原湯は中にボクシング練習場がある世にも珍しい銭湯だったが、3食付きで家賃は無料という、石垣島から出てきた貧乏学生には他に替えがたい下宿先だったのである。その代わり風呂掃除と薪割り、そしてボクシングの練習をするというのが、下宿生に課せられた義務なのであった。
◆しばらくは練習に身が入らなかった具志堅だが、さりとて無料の下宿を出ていくわけにもいかず、やがて真剣にボクシングに打ち込むようになった。高校3年時にはインターハイを制し、卒業後は東京の名門・協栄ジムに所属して世界へ羽ばたくことになる――。
◆1982年4月、琉球大学入学のために那覇へ渡った吉川がまず足を向けたのは、他ならぬその上原湯であった。吉川はボクシング経験こそなかったが、高校までに柔道初段、合気道で二段を持っていた。具志堅用高がついに世界王座から陥落し、引退を表明してからちょうど一年後のことである。
◆昼間は大学に行って勉強し、夕方からジムで練習。その後上原の3人の子供たちに勉強を教え、一緒に夕食をごちそうになるというのが、その頃の生活パターンだった。銭湯の就業時間が終わると、練習生たちはその床をせっせとスポンジで磨いたものだ。左手に持ったスポンジを出しては引くという動作は、ジャブの練習でもあったからだ。沖縄空手出身の上原は元がボクサーではなかったから、その指導法も自己流によるところが大きかった。上原に言わせれば、ボクシングはルールのある喧嘩であった。喧嘩が強くなればボクシングも強くなるというわけで、だから最初は喧嘩を教えた。
◆具志堅が上原のジムにいた頃、隣町は荒くれ者の多い漁師町だった。具志堅たちは毎夕のごとくその町に繰り出し、ヤクザに喧嘩をふっかけた。毎回ボコボコにするものだから、しまいには隣町からヤクザがいなくなった――。吉川が入門した頃はさすがにこの喧嘩トレーニングは行われていなかったが、吉川もまた上原の考案した数々のユニークな練習を実践した。
◆1万円札を右脇にはさんでのスパーリングや両足をひもで結んだ状態でのスパーリング、あるいは那覇の夕方の繁華街をあえて人の流れに逆行し、行き交う人々を右に左にかわしながら全速で駆け抜けるという、はた迷惑な練習もあった。ダンスのステップはボクシングに役立つとの言を受け、一時は社交ダンスにまで通ったものだ。
◆吉川は自分にボクシングの才能があるとは思っていなかった。ただそれでもプロにはなろうと思っていた。上原もまた、腕力があり、真面目に練習に取り組む吉川に、ゆくゆくはプロ試験を受けさせようと考えていた。転機は唐突に訪れた。吉川が大学2年生の夏、上原湯が突如閉鎖されたのである。人のよすぎる上原は知人の保証人になって借金を背負いこみ、家も銭湯も手放す羽目になったのだった。突然行き場を失った吉川は仕方なくアルバイトに精を出すようになった。
◆人間味にあふれた「勝栄さん」を、吉川は誰よりも慕っていた。そのユニークな発想力は今も吉川の中に生きている。2019年1月、上原勝栄は病を得て還らぬ人となった。その直前、吉川はアラスカから沖縄を訪れ、恩師と最後の時を過ごした。
◆プロボクサーにならなかった吉川は、二十歳の時のオーストラリア自転車縦断を皮切りに、サハラ砂漠リヤカー縦断、北磁極徒歩行&アマゾン河遡行〜南米縦断などを試み、北海道大学大学院に進み研究者の道を歩みはじめてからも、グリーンランド徒歩横断、南極点徒歩到達、北極圏ヨット航海&越冬……と冒険旅行を重ねていった。その後アラスカで大学の職と伴侶を得て、フェアバンクスに暮らすようになった。そしていまアンデスへと、吉川謙二の人生の新しい旅がはじまろうとしている。
◆冬のフェアバンクスの吉川の自宅のまわりには、漆黒の闇にとけた針葉樹の森が広がっていた。このあまりにもスケールの大きな友人の存在は、さながら極夜に瞬く北極星のごとく、この困難な世界における一つの希望の光だ。私はその旅の航跡を仰ぎ見ながら、自分も一歩前へ進みたいと思う。(松原尚之 登山ガイド アンタークティックウォーク南極点探検隊副隊長)
■吉川さんの連載が終わってしまった。毎回楽しみに一番先に読んでました。私が一番印象深いのは、「その10 変わり者たちの世界」。ブリトニースピアーズ似のシーラと吉川さんのやりとり! トラブルを起こしたブリトニー、いや、シーラが吉川さんにキャディラックの鍵を投げつけ「逃げて」と言い残し走り去り、戸惑いながらもツンドラの道を雪煙をあげながらキャディラックを走らせるゴジラ顔の吉川さんの姿が目に浮かび、まるで映画だね! いやはやつくづく変わり者には変わり者が吸い寄せられるのでしょうかと(失礼)。
◆変わり者といえばこの浜比嘉島も、変わり者の巣窟と言えるかもしれません。昇や私をはじめ、島の人は一癖も二癖もある人ばかり。地平線あしびなーに関わったメンバーは頷いている人もいるかもしれませんね。北の地でトナカイを飼う吉川さん、南でヤギを飼う私とは比べようもありませんが、破天荒な科学者、吉川さんの今後が楽しみです。今後はアンデスからの連載を希望します!
◆若かりし頃、共に夢を成し遂げるためにいっときを過ごした日々は今、宝物です。前に私が書いた文にありがとうと書いてくださってめちゃくちゃうれしかったです。こちらこそありがとうございました。これからのご活躍を期待しています!(浜比嘉島 外間晴美)
■コロナ禍の新春を寿ぎ、地平線会議のさらなる発展を祈念して鶴亀の舞を、と思ったが、リモートでツルは千年カメは万年というのも味気ないので、またの機会に譲りたい。で、以前に地平線通信は素晴らすぃ〜と褒め倒したのには、もちろん人には言えぬ深〜い訳あってのこと。学級新聞のような通信の存在が意義深いとは書いても、掲載内容に関してひとことも触れてはいない。闇夜に輝く一条の光とまで絶賛したが、学芸会並みの戯言やコトブキ老人倶楽部のお達者便りに付き合って、限られた時間を浪費するのは無駄だろう。
◆この記事も勧進元のE本氏から吉川の凍りつく連載が反響なさ過ぎて薄ら寒いので、熱い大絶賛感想文を書くよう半年も前から申し付けられていたのが発端だ。が、その段でいうと、記事の内容があまりに濃厚過ぎて通信読者のうち約15名(大幅に推定)しか反応できていない、というのが実態だろう(個人の感想です)。連載その10で紹介された変わり者たちはもとより、ナンセンからリフィングウエルまで登場する綺羅星の如き人物像、ノボシビルスクやウランゲルなど超絶辺境行動域の地名、トンネルマンの活動内容ほかあまりに高度かつ豪華絢爛で、いくらやさしく解きほぐした表現を以てしてもその文脈を把握するには並み大抵の知識では追いつかない。
◆機会があれば頭の中をぜひとものぞいてみたい、という存在は多々あれど、リストの3番目に位置するスキンヘッドこそがその吉川謙二氏である。はち切れそうにでかくて立派な御鉢のなかにいったいどんなノーミソが詰まっているのか、気になって夜も眠れず昼寝している今日この頃。お賓頭盧さまを撫でるとご利益が、というのは十六羅漢に数えられる仏弟子の一人だが、何か神々しさすら覚える重量感の漂う頭蓋骨の持ち主だ。
◆最初にその名を目にしたのは、サハラ砂漠をリヤカーで徒歩縦断しようとした1985年の記録だった。立命館大生の山本栄治氏と2人、アルジェリアからニジェールに抜けるホガール・ルート約1800キロを踏破したが、砂にタイヤが埋まり国境手前で断念(『地平線から・7』掲載「リヤカー、サハラを行く」を参照)。その2年後に同じルートを50t原チャリバイクで走破しながら、ヤツらはここをリヤカーで歩いたんだとあきれつつも感動したのだった。
◆今は亡き「焦げつく青春」の河野兵市氏は、サハラ楽勝〜とか言いながら改造リヤカーと驚異的体力で、地中海からギニア湾まで約5000キロを軽々とクリアした。その二人を吉祥寺の喫茶店でE本氏に引き合わせ、両人にギャラ無しデビュー作お原稿を書いてもらったのは、やや少しは自慢のタネになるかも知れない。まだワープロすらない時代、汚い字の手書き原稿を解読しながら苦労して制作した地平線年報は、現在さらに輝きを増している感すらある。
◆次に何をやらかすのかこっそり期待していたら、やっぱりやってくれたですよ、はい。北大大学院に進学後、そりを曳いて北磁極まで踏破、その足で南米アマゾンを河口から源流部に近いマチュピチュまでカヌーで漕ぎ上ろうというバカ丸出しの企画だ(『地平線から 第8巻』掲載「二つの単独行」を参照)。こんなことをいくらやっても世の進歩発展には一切貢献しない、という素晴らしく潔い思想で、これは偶然にも小学校4年生の私が心に誓ったポリシーでもある。
◆3極制覇を目指した明大山岳部OBの大西宏氏がナムチャバルア峰で遭難した後、南極遠征隊長を引き継いだ際には、丸半日間スポンサー探しの相談に乗ったこともあった。オウム真理教南青山東京総本部の3軒裏のボロ屋@第一次白根文庫で、マスコミを絡めない方がいいことと楽しく創意工夫を、などとエラそうに伝えたが、その一部は吉川ビスケットやウンコ分解ベストなどにつながったのかも知れず。杉田晴美嬢を紹介したのが、結果的には最大のサポートとなった。
◆直接その雄姿を見かけることは絶えていたが、南極半島のチリ空軍基地やら極東シベリアのコリマ街道ほか、思わぬところでその名を耳にすることもよくあった。ヤクーチアでの遭難騒ぎの際には今度ばかりは魔が差したかと心配して、グレートジャーニー偵察行の際に知り合った地元民や琉球大時代の共通の知り合いに連絡してみたり。結局、最新鋭ランクルのテスト走行がガセネタというのは、この連載で知ることとなった。
◆およそ20年ぶりの再会を果たしたのは、河村安彦氏が間違えて参加した新宿の夜だったが、圧倒的な熱量と迫力は変わらぬまま。それより何より、2次会で彼が熱く語るキューバ方面の話題には感動させられた。やはりちょいと気の利いたヤツは、誰しもが自動的に世界の例外キューバが気になってしまうのだろう。こちらは南から、彼は北から眺めていてベクトルは真逆ではあるが、そこがまた奥深い。永久凍土からトロピカル・キューバまでカバーし、もはや巨人の領域に達した趣すらある彼の今後の展開が楽しみである。 Zzz-カーニバル評論家
■最初に、『地平線通信501号』という大きな節目に教育現場からの報告を書かせていただくことに感謝します。COVID-19の流行によって昨年3月から学校現場が休校にさせられたが、当初は休校にさせる根拠や決定権の所在等に関して特に強い関心があり、決定権は県と市の教育委員会にあるにもかかわらず独自の判断を放棄して首相の要請になびいた形になったことに憤りを感じていた。
◆しかしその視点は休校をさせる側からのものであり、休校させられた側からの視点から考えれば、それは教育を受ける権利の剥奪ということになると気付いた。しかも直接の当事者である生徒は反論する機会さえ与えられておらず、大人の決定に黙って従うほかはなく、以降、感染拡大防止と安全と健康維持のためという大義にそって、生徒不在のままで現場は振り回されることになった。
◆第一回目の緊急事態宣言は5月27日に解除され、6月1日から登校が始まったが、最初の2週間ほどは分散登校で、学級を2つに分けて午前と午後に別々登校させて密集と密接を避けようとした。当初これは同じことを2回すればすむのだと単純に考えていたが、ことはそんな単純ではなく本質的な問題があることに気付いた。
◆当たり前なのだが、そもそも“同じこと”自体があり得ないのだ。仮に“同じこと”を伝えたとしても、その時の雰囲気、反応、一人ひとりの感情のあり様、そしてそこから生じる一見ささやかな行為等は決して“同じこと”にはならない。つまり“同じ”学級の構成メンバーでありながら“同じこと”を共有できないという事実は理解しづらいかもしれないが、学級という特殊な集団を作っていく上では致命的である。
◆しかも学級スタート時の2週間なので影響はかなり大きい。仮に人生100年時代だとすると、人格形成に重要な5歳までは人生の最初の約5%に当たるが、新学級がスタートして約5%に当たる2週間から20日間は、人間における人格形成の土台作り期間に匹敵することになるので、その時期に同一体験を共有出来ないことの影響を集団作りの視点から考えてほしい。
◆機械的な対処法は見えないところで大きな影響を与えるので、見えない影響はかなり深刻であったのではないかと思う。そして私は今回、学級という集団を作るにあたり、構成メンバーの一人であるという自覚と実感を持たせられないことを少しでも乗り越えるために学級通信を方法の一つとして利用した。
◆休校にさせられた(私は「休校になった」とは言いません。あれは自然現象ではなくある立場にいた人たちが決定して実行された具体的な行為だと考えていて、戦争が自然現象ではないのと同じ)理由の一つが感染拡大阻止であったことから生徒を学校に来させることはできないため、ならばこちらから持って行けばいいと考えて一人ひとりの家庭に宅配して回った。
◆郵送しなかったのは単純に経済的理由からだが、登山をやっていると歩いて配るなどは全く大したことには感じない。最初に地図を貼り合わせて学区内全域を俯瞰し、そこに生徒の家を特定してマーキングして最も効率的なルート取りを考えるのだが、これはまさしく登山の応用だった。うちの学区は広いので、学級の36人全員の家に歩いて宅配すると約2時間半かかり、どの教員も驚いていたがたった2時間半なので山に比べたら全く大したことはない。
◆私はもともと家庭訪問も全て徒歩で行ってきたが、何回も歩くことで生徒の生活圏の状況や学校までの距離感を自分の実体験として実感できたことは大変な収穫だったので、是非全ての教員に勧めたいくらいだ。今の教員のほとんどは自家用車による通勤なので歩いて回るなど想像もしない様だが、登山をやっていると何の違和感もない。
◆なお宅配時には、学級通信を入れた封筒に、近況報告や質問などを書いて私宛に送れる様に葉書を入れておいたが、返信された内容とそれへの私の返信を学級通信に書いて紹介し、それを再度宅配することで生徒と言葉のキャッチボールができ、それを全ての生徒と共有することができたことはとても有難かったし、集団を作る一助になったと思う。休校中の約50日間に5回の宅配を行ったが、この経験と返信された葉書はお金で買えない宝物だ。葉書は3回同封し、半分くらいの返信率は想像以上だった。なお、当たり前だがかかった経費は全て自腹を切った。
◆分散登校のあとは修学旅行の延期(1月の段階でほとんどの学校が中止を決定)、体育祭や合唱祭の縮小等の影響はあるものの、基本的な学校活動は疫病の流行前と殆ど同じになり、三密の解消は密閉くらいとなったが、生徒の感染がないことに加え、もともと学校は社会の動きや雰囲気から隔絶しているところもあって危機感は徐々に下がり、窓を開けて換気することさえ気にしない学級が増えていった。そのうちに文科省から教室の生徒個人の机と椅子は消毒しなくてもよいという連絡がくるとそれもなくなった。私はどちらが真に正しいのか分からないのでいまだに机と椅子の消毒もしているが、その最も大きな理由は、そもそも国が言っているから信用できないというところだ。
◆さて、目に見える変化や方策は実はあまり大したことはないが、3か月の休校は大変なことで、その間授業ができなかった補填をしなければならないので授業数は当然増えていく。うちの現場では1学期は7時間授業と土曜日授業があり、2学期は7時間授業のみになったが、実は対処方法は学校ごとに任されているため学校によって、または市によってかなり違うことを知った。
◆隣の学校では7時間授業も土曜日授業もないとか、隣接する市のある学校では50分×6時間授業ではなく、40分×7時間となったため、授業のコマ数は増えているが実際に授業をやっている時間数は減っているというよく分からないことも起きていた。私は個人的には3か月間も休業させられたので、8時間授業や夏休み返上は当然だと思っていたがそこまで至ることはなく少々拍子抜けをした。この辺は子どもの生活や健康を考慮してのことだったと思う。
◆授業時間の確保は当然のこととはいえ、3か月分の授業数を補填できるわけもないところに、なんと国からは市教委を通じて残り実質8か月で1年分を消化せよという指示が伝えられたのである。私は仰天し、思わず管理職に「できないものはできない、と言うべきだ」と言ったがそんな末端の声が届くわけもなく、授業は消化することが第一義となった。
◆消化試合をすることになれば当然のごとく授業の質は低下する。それでも一般的には試験や受験の結果などで学力や教育の質を判断しがちなので学力の本質を見誤ることが少なくないが、最も大事なことは実は目に見えにくいところにこそあるのではないかと考える。教科書を終わらせることをないがしろにするつもりはないが、教科書を終わらせるという目に見えるところが最大の目的になれば、当然のごとくそのひずみは目に見えないところに及ぶことになる。
◆極端な言い方をすれば、教科書を読んで若干の解説をすれば“やったこと”になりしかもその影響はすぐには出ない。まさにかつてどこかでよく聞いた「直ちに健康に影響するものではありません」と同じ。しかもそのことが検証される気配はなく、検証されないことも大きな問題だと思う。
◆その様な中で、市教委に休校の是非に関して訊く機会があり、「そもそも休校決定の権限は市教委にあり、3月からの休校を決めたのは市教委なのだから、その是非についての検証結果を知らせてらいたい」と訊いたのだが「検証などしていない」と一蹴されて唖然とした。ほぼ全国一斉休校という未曽有の事態に対して、現場に根拠の説明もなく休校をさせた方がいまだに検証をしていないという事を聞くと呆れる気持ちを通り越して、途方にくれて悲しくなる。
◆現在2度目の緊急事態宣言が発令された中で、学校現場は表面的にはほぼ平常運行をしている。しかし、3月に変更した修学旅行は東日本大震災から学ぶために東北を予定しているが、その実施の可否はきっと緊急事態宣言の有無に左右されるだろう。おそらく具体的な感染状況が同じであったとしても、この国は目に見えるタイトルで判断し、物事の本質で判断しない傾向がある。
◆宣言がなければ実施できて、宣言があれば実施できないということになりかねないし、それが民意かもしれないと危惧している。そして、国会議員選挙の投票率に端的に現れているように、私は日本国民は基本的に政府を信用していない一方でお上の言い分を都合よく利用して自身の判断ではないという逃げ道を用意する傾向が強い、と感じている。
◆それは残念ながら教育現場も例外ではないということをCOVID-19は改めて暴露したと思うからだ。しかし、そのことにどれだけの人が気付き、教訓にできるのだろうか。更に私は「今更何が緊急事態宣言だ!」とさえ思うこともある。勿論医療機関を始め真に緊急事態のところはあると思う。しかし非難されることを承知で言えば当然予想できたことに備えの対応をしてこなかった政府の責任なのではないか。
◆私はCOVID-19は政府の無能と勘違い(能天気)をも暴露したと思うが、例えば入院施設にしても浅知恵を承知で言えば、自衛隊が持っている野戦用の大テントを使えばいいと思う。それを自衛隊の広大な演習場やどこにでもあるゴルフ場を借り上げてそこにどんどん立てればいくらでも収容できるのではないか。勿論医師と看護師の確保は重要課題だが、その上での提案だ。
◆私はチベットでチョモランマ(1988年)とマカルー(1995年)の登山の際、BCでは常に中国人民解放軍の大テントで数か月生活した。その経験からすれば大テント活用は全く問題ないと思う。風通しはいいけど寒くはないし、開放的で、しかも自衛隊の装備だから国が使う分にはタダだろうから、金もかからない。本当に緊急事態なら見栄えにこだわらずもっと柔軟な判断をしてほしい。
◆最後に、私は生徒に「4月7日と1月7日に緊急事態宣言が出される前から、実は日本はずっと緊急事態だったことを知っていますか?」と必ず訊く。大人も意外と知らない人がいるのだが、日本は10年前の東日本大震災の時に「原子力緊急事態宣言」が発令されて、それは未だに解除されていない。つまり日本は、COVID-19が上陸する前から緊急事態だったのだ。だから私はそんな時に浮かれている場合ではないと感じてオリンピックには反対の立場でもある。原子力発電とCOVID-19では背景も対応も課題や問題点も違うだろう。しかし、今度こそそれらを考える機会にしなくてはいけないと思う。(山本宗彦 中学校社会科教員・3年生担任 日本山岳会副会長)
■「最近流行りの“エモい”、江本さん知ってますか?」と三羽宏子さんに聞かれた(7ページ)。「emotional」という英語から作った若者のスラング、という程度は知っているが実際、どんな時に使うのかあまり知らない。Wikipediaでは「感情が高まって強く訴えかける心の動き」などを意味する、とあるから悪い意味ではないのだろう。
◆幼い頃、主食かおやつに「いもだんご」という食べ物があった。さつまいもを薄く切って干し、それを粉にして水で練り、だんごか饅頭のような形にして蒸す。出来上がりはそのまま食べられて黒光りするだんごで結構美味しい。小学校に上がって時に弁当箱にこれを入れて持たされることがあった。ほかにいもだんごをもってくる生徒はいないので目立ったのだろう。たちまち「いもだんご」のあだ名をつけられ、それが「えもだんご」になった。
◆こどもは残酷だ。メロディーまでつけて「えもだんご」と囃し立てるのを聞いてこちらは怒りはしなかったが、しみじみ「早くおとなになってこういうアホとは付き合いたくないな」と思ったものだ。今月はフロントとあとがきの文章が突然消えてしまうという事故が起き、かなりの遅れとなった。申しわけなし。(江本嘉伸)
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今月も地平線報告会は延期します。
会場として利用してきた新宿スポーツセンターが再開されましたが、定員117名の大会議室も「40名以下」が条件で、参加者全員の名簿提出や厳密な体調管理なども要求されるため、今月も地平線報告会はお休みすることにしました。
地平線通信 501号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2021年1月20日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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