8月19日。きょうもひどく暑い。きのうは、浜松市で日本歴代最高となる41.1度を記録した。日本列島の過去の高温の記録上位はほとんどが2000年以降のもので、いかに夏の暑さが厳しくなっているかがわかる。その上で、今年はマスクだ。信じられないことにこの私でさえ、この暑さの中、近くの店に買い物に行くのに必ずマスクをつける。8月のど真ん中ですよ。
◆2020年の地球の記録としてマスクの着用は大きな“事件”として記憶されるだろう。日本だけでなく、大統領選に湧くアメリカ(トランプがどう負けるかに関心がかかっている)でも、プーチンの信じがたい長期独裁が固まりつつあるロシアでも、EU脱退が秒読みのイギリスでもマスクの着用が“新しい生活様式”の一つとして存在している。熱が体内にこもりやすく熱中症の危険が増すと指摘されている
◆メディアは毎日「新型コロナウィルス最新情報」を伝え続けている。時事通信によると今朝の日本の数字は「感染者数57766人 死者1135人(前日比18人増)。東京都では新たに207人の感染が確認された。20代が77人で最も多く、70代以上も20人いた。きのう18日時点の重症者は31人で、前日から4人増えた。重症者が30人を超えたのは5月30日以来だそうだ。新規感染者は東京に次いで、大阪(185人)、神奈川(84人)、愛知(47人)の順に多かった。大阪は少し深刻で死者は6人増え、医療体制が懸念される沖縄は33人だった。
◆コロナの蔓延とはいえ、世の中動いている。今月5日、知人の勧めでトークをオンラインで聞く機会があった。ゲストが劇作家の平田オリザさんだった。植村直己冒険館があり、地平線にとって馴染み深い兵庫県豊岡市にオリザさんは最近移り住んだらしい。2021年開学予定の国際観光芸術専門職大学(仮称)学長に就任するとのことだ。豊岡市のことは、近著『下り坂をそろそろと下る』(講談社現代新書)の中で「小さな世界都市」として好意的に紹介している。話の中で今回の新型コロナ・ウィルスの嵐の中で,アーティストたちがいかに大事にされているかドイツの例をあげて話した。
◆今年3月11日、モニカ・グリュッタース文化相(女性)が「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要だ」と発言したことが世界に共感の輪を広げた。オリザさんはまさにそのことを伝えたかったのだろう。
◆考えてみれば、地平線会議とオリザ少年との出会いからもう40年が経っている。1981年3月27日、第18回の地平線報告会に「503日間の自転車旅行」のタイトルで登場してもらった。当時もその後も地平線最年少記録だったかもしれない。報告会200回記念に出した『地平線の旅人』という本の中で旅先で忘れられない食べものは?とのアンケートに答えて「一番最初にアメリカに渡ったとき、ロスアンジェルスの一般家庭で食べたアイスクリーム。ボール一杯のアイクリームを食後に食べる彼らを見たのが、アメリカの大きさを実感した最初でした」と答えた。
◆オリザさんに報告会をやってもらった当時地平線通信はハガキによる報告会案内だけで話された内容は詳しく伝えていない。あの自転車旅のことは『十六歳のオリザの未だかつてためしのない勇気が到達した最後の点と、到達しえた極限とを明らかにして、上々の首尾にいたった世界一周自転車旅行の冒険をしるす本』という長い長いタイトルの本に詳しい。地平線のあと、留学先のソウルでもお会いしたが、その後は遠くから大きくなってゆく様子を見ているだけだったので。今回私たちとも馴染み深くなった豊岡との縁を知って感無量である。
◆コロナの問題であらためて痛感させられていることに世界の中でこんなにも小さな存在になってしまった日本の姿がある。ああ、私たちはもうこの程度のものになっているのか。それでも、坂を登り続けてきたつもりのジジイの私は長い間、半信半疑だったが、アジア、ヨーロッパ、アメリカの一線のアーティストたちと交流の深いオリザさんには自明なことだったのだろう。前記した近著『下り坂…』には司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」の叙述を引用した箇所が随所に見られ、締めは、この二行。「しかし、そろそろと下る坂道から見た夕焼け雲も、他の味わいがきっとある。夕暮れの寂しさに歯を食いしばりながら、「明日は晴れか」と小さく呟き、今日もこの坂を下りていこう」。
◆今月も厚めの通信となった。毎月、白紙の地平線通信を出しそうなのにいざ印刷、となるとページ数が増えている。東京オリンピックが実行された場合にそなえてことし8月11日を8月10日に前倒しした「山の日」は、コロナのおかげで実行されずに終わった。地平線には山関係の人が少なくないので今回小さな特集を組んだ。来年もオリンピックの開催はほぼ不可能ではないか。代わりにオリンピックをやらないことによる何かがあるのではないか。(江本嘉伸)
■そのときはなにも気にならなかった。だが、異変の兆しはあったのだ。パナマ・シティ。紀代美(妻)とぼくは入国手続きの列にならんでいた。「あなたたちは中国経由できたのですか」。空港職員から聞かれる。「いいえ」と答えた。その場はそれで終わった。以後、パナマでも、コスタリカでも、なんの問題もなく旅がつづいた。今年(2020)2月のことである。
中米旅行の目的のひとつは、ミャンマーにつくろうとしているマングローブ大学(英名Mangrove UniversityもしくはInstitute for People and Mangroves、以下マ大学)設立のための調査である。
2001年8月、シュピッツベルゲン。スヴァールバル大学を訪れたのは、東北の大学で教えていた紀代美のつよい関心からである。小さな大学だが北極に特化したユニークさに感心した。そこでひらめいたのがマ大学である。北極をマングローブに代えればよい。マ大学をつくろう。アイディアは明快だ。日本とミャンマーの仲間もおもしろがってくれた。
しかし、ことは簡単ではなかった。軍事独裁政治、それが終わってからの行政上の混乱……。気がついたら20年がすぎていた。
今回の旅では、スミソニアン熱帯研究所(パナマ)と国連平和大学(コスタリカ)を訪ねる。参考になるいくつものことを教えられた。
もうひとつの目的は古生物学。この10年、マングローブの起源と進化をさぐるため、紀代美とともに地球のあちこちの旅を楽しんでいる。
蛇足ながら一言を加える。どちらも前人未踏、パイオニアワークの仕事である。ぼくの好みにぴったりなのだ。
「異変」が明らかにされたのは、帰路のメキシコ・シティ。現地の新聞をみて紀代美が声を上げた。新型コロナウイルス(コロナ)の流行が報じられていた。そうか。だからパナマ入国のときおかしなことを尋ねられたのだ。中国で発生し、世界に広がっているらしい。だがぼくは軽く考えていた。メキシコ人が敏感なのは国民的ビールCORONA(ぼくも大好き、毎日飲んでいた)との関係にちがいない。
しかし現実はちがった。帰国して9日後の3月11日、WHO(世界保健機関)がコロナ(COVID-19)の世界的感染拡大pandemic(-deにアクセント)を宣言する。それから今日に至るまでの5か月間、ぼくらは自宅軟禁の身になった。むろんぼくらだけではない。日本国中、いや世界中がおなじ境遇になったのだ。メディアは休むことなく感染の状況を伝えてくる。
経済の悪化、心理的不安定、外出禁止……、多くの問題が表面化する。人びとは先行きがみえない状況にいらついていた。だが人づきあいの苦手なぼくには自宅軟禁の不安はない。むしろ楽しさの方が多かった。
この10年住んでいる中古マンションは結婚して半世紀余、家賃を払わないですむ初めての住まいである。せまく、都心まで時間がかかるとはいえ、まわりの環境に恵まれている。多摩丘陵を造成した土地だが、まだ自然が残っている。12階建て2階の角部屋、どの部屋の窓からも木々の緑が目にはいる。バルコニー直下には大きなモミジの木、小径をはさんで常緑と落葉の広葉樹たち、小さな「谷」をへだてた向かい側はコナラとクヌギの混交林の丘だ。白山神社の鎮守の森だから伐採されることは考えられない。
有り難いのは、丘陵を歩く散歩コースがあることだ。静かな小径をつなげばハイキング気分、健康にも精神の安定にも欠かせない。
だれでも同じだろう。やらねばならぬことは、やりたくない。とはいえ部屋の乱雑さも困ったものだ。歩くこともままならない。長い間、気持ちよい空間を夢見ていた。
本の整理は頭痛の種である。まるで「賽の河原の石積み」だ。古い本を始末したと思うと、すぐに新しい本がたまってくる。
急ぎたいのは現状改善、方針を決める。居間の本棚2つには手をつけない。壁いっぱいに本棚を備えた2部屋を片付けよう。はみだした本と資料類、中身不明の段ボール箱……。悪戦苦闘。本にしみついたほこりのためだろう目がかゆい。鼻水が止まらない。たくさんのティッシュペーパーの浪費と共に状況は改善にむかった。
1か月後、つまずかないで歩ける程度の空間が取り戻せた。やっと楽しい作業に着手できる。
エクアドル北部、コロンビア国境ちかく。その一角には想像を絶する巨大マングローブの原生林がある。実測したヒルギの仲間(Rhizophora harrisonii)のひとつは樹高64m、世界一のっぽのマングローブに違いない。マングローブ林保護と近隣のオルメード村の地域おこしがプロジェクトの課題だった。ぼくらは年数回のペースで10年間通うことになる。
マングローブ湿地は古代ラトリータ文明 (600BC〜200AD)が栄えた土地でもある。エクアドルの国の象徴ともいえる黄金の仮面が発見された。驚いたのは宗教儀式に使われたらしいプラチナの装身具が出土したこと。プラチナの融点は1,700℃と高く、加工がしにくい。紀代美の調査によれば、燃料としてタグアヤシの実が使われた可能性が示唆される。油性分が多く火力がつよいからである。ぼくは想像する。優れた技術をもつ古代人の文明はいかなるものだったのか。
子ども時代、蝶々採りや土器拾いに夢中だった。マングローブ研究をはじめてからこれまで、考古遺跡があるいくつものマングローブ湿地を訪れた。カンザー(ベトナム)、インダス河口(パキスタン)、ケシェム島(イラン)、ピンダイェ(ミャンマー)などである。そして古代の土器破片が散在するここラトリータ。マングローブ植林とのつきあいは40年になる。別の視点からもマングローブをみてみたい。いつかの日か「マングローブ考古学」をまとめたいと願っている。
ラトリータの出土品は段ボール箱3つ、コロナ禍のおかげでやっと箱を開けることができる。出土品は122点、殆どは土器だが(赤と青の着色がわずかに残っていた)、黒曜石の刃物や小さな水晶のビーズもいくつかあった。土器は人・神・動物・トリ・魚を模したものが多い。偏りがあるのは一点一点選んで地元民から買ったためである。ぼくの好みが反映している。
特筆すべきは2点の木彫だ。神像と思われる。材はヒルギ科のマングローブである可能性がたかい。専門家に調べてもらおう。興味深いのは土偶の頭部後方が細長く変形されていること。古代エジプトでもみられる風習だが、両者の関係はあるのか、ないのか?
もう1箱はマンタ(マナビ州)でまとめ買いをした出土品である。マンタはラトリータの南西およそ500km離れた海岸の町、古代マンテーニョス文明(600〜1534)の中心地だった。この文明は航海術に優れ、南はチリ、北はメキシコまでが交易範囲だったらしい。ラトリータの出土品との共通性が多いのは、ラトリータ文明の大きさの証しとも考えられる。
特筆すべきは円筒印章である。古代シュメールで知られるそれがマンテーニョス文明に現れたのだ。違うのは石製ではなく土器であること。時代も大きくちがう。だが、同じアイディアをもった2つの文明があったのだ。両者の社会・文化的背景に興味がひかれる。
連日コロナ禍の報道に接するうちに、恐ろしい思いが頭から離れなくなった。地球規模の飢饉である。気候変動が農作物の不作をまねく。どの国の穀物倉も空になることが察知されたとき、世界はどれほどのパニックになるか。
温暖化による海面上昇はゆっくりと進行する。予測ができる。しかし気候変動による異常気象の発生はちがう。恐ろしいのは「同時多発テロ」ならぬ「同時多発異常気象」。それが明日おこる可能性も否定はできない
インターネットで飢饉を拾ってみた。信じがたい歴史があった。一部を紹介する。
・ウクライナ、1932〜33年:ソ連共産党による過酷な徴収で1000万人が餓死した。
・ロシア、1932〜33年:スターリンによる農民集団化計画(コルホーズ)によって何百万もの農民がシベリアに送られ500〜700万人の餓死者がでた。1941年からのレニングラード包囲戦では、ドイツ軍による900日の包囲で食糧の補給が途絶え、70万人の餓死者をだした。
・ドイツ、第二次世界大戦中:ナチスがスラヴ人に対して行なった飢餓計画で数百万人が餓死。
・インド、1943年:ベンガル飢饉で死者300万。
・中国、1960年代:毛沢東の大躍進政策により大飢饉が発生、2000〜5000万人の死者をだした。
・エチオピア、1972〜74年、1984〜85年:大飢饉が起こり、100万人が餓死した。
・北朝鮮、1990年代中頃:大飢饉により毎年100万人以上の餓死者をだした。
人類は多くの飢饉を経験してきた。しかしだれもが自分の問題としては考えていない。アフリカで何十万の餓死者がでても、それは遠い国のこと、自分には関係ない。
だがコロナ禍を経験したいま、状況が変わった。不幸にも罹患すれば、死にいたる確率は低くはない。ずぼらを自認するぼくでさえ、マスクをつけ、外から帰れば必ず手洗いをするようになった。死が身近になり、飢餓の恐ろしさが実感できる時代がきたのである。
いうまでもなく気候変動は地球温暖化によるもの。海水温上昇で巨大台風がそだち、乾燥化が山火事を頻発し、長雨や洪水が増えている。バッタの大群が農作物をおそう。オックスフォード辞典が選んだ2019年の言葉はclimate emergencyだった。
昨年11月、ヤンゴンで開催された国際会議に招待された。主催のWIF(ワールドヴュー国際財団、ノルウェイ)からWorldview Climate Prize 2019なる賞をいただく。授賞理由は“マングローブ植林のパイオニア”として。
なぜマングローブが賞の対象になったのか。いうまでもなく、マングローブのCO2蓄積能力からである。この20年、マングローブ植林でパートナーシップを組んでいる東京海上日動火災保険(株)はこう書いている。
「熱帯降雨林の地下部(地中)に蓄積された炭素は、1ヘクタール当たり100トン以下といわれていますが、マングローブ林の地下部には1,300トン、中には1,500トン以上の炭素が蓄積されている場合があることもわかってきました」
会議中、議長であるアーニーさん(Dr. Arne Fjortoft)が何度も繰り返した言葉がいまも耳に残っている。「時間がない、時間がないのです」。後戻りできないtipping pointが近くまで迫っている。
ぼくにできることは何か。ミャンマーの仲間たちが提案した「マングローブ研修センター」の設立を急ごう。植林のパートナーである地域住民にマングローブの重要性を理解してもらうために、そしてマ大学の実現のためにも……。(向後元彦)
■今春、現場で気象予報をしながらエベレストに登頂する予定を立てていた。何十回と予報を発表しているエベレストという場所を17年ぶりに訪れることで、その空気感を感じたり、登山現場で情報収集の様子を見聞したり、何よりも世界最高峰とそこから連なる8,000m級の山脈における雲の変化や動きをこの目で見たい、というのが一番の目的である。
◆私は、自分の限界を引き上げる、あるいは新たなレベルに挑戦するという登山を、2005年の慢性骨髄炎発症以来、休止してきた。国際的な名医に巡り合い、奇跡的に回復することができた2011年からも、そうした登山は再開していない。もちろん、それはヤマテンという気象会社を立ち上げて毎週毎週、山に行ける環境になくなったこともあるが、モチベーションがなくなった、というのが一番大きなところである(元々、大した登攀はしていなかったが)。それよりは当時、ツアー登山やガイド登山による気象遭難が相次ぐ中、引率者に気象遭難を防ぐための技術を伝えたいという気持ちが強くなった。
◆慢性骨髄炎を発症している5年間は、杖を突きながらの歩行で、年間2、3回症状を抑えるための入院中には、まったくの寝たきり生活。体力はもちろん、ちょっとヤバイ所を歩く感覚も失ってきている。寛解して登山をする機会が増えてからも、講習会の参加者やツアー参加者との山行であるから、体力やスピードは戻らない。また、持病が高所に与える影響も気になる。
◆そこで、2019年2月にキリマンジャロへ行き、同年9月には日本山岳会の「日本・エクアドル外交関係樹立100周年記念登山隊」に参加して、エクアドルのチンボラッソ、コトパクシに登頂した。その結果、持病による高所での影響は限定的で、今なら酸素を使えば、何とか行けるという手ごたえを感じることができた。チンボラッソでは体力強化をしないでのぞんだ登山だったので、体力の衰えを痛感した。そこで、2019年12月から毎週、山に行くことを計画した。
◆蓼科山の冬季ハイキングからスタートし、阿弥陀岳、甲斐駒黒戸尾根と少しずつ負荷をかける登山にしていったが、持病の影響もあって登山の後は疲労やだるさが何日も抜けず、無理して計画を進めると抵抗力が落ちて風邪をひいてしまうことの繰り返し。それでも一人で雪の山を歩くのは楽しい。大勢と登る山も大好きだが、一人で自然と向き合う時間は、優しいルートであっても少しはプレッシャーがあり、山とじっくり対話ができる。中断をはさみながらも、2月下旬からは富士山でのトレーニングを実施。果たして体力強化になっているのか、ただの疲労の蓄積になっているのか分からなかったが(笑)。
◆そんなとき、新型コロナウィルス(COVID-19、以下コロナ)の世界的拡大でエベレスト行きがなくなった。また、オリンピックの聖火ランナーに決まっていたが、それも延期。そして、他県への移動自粛が要請されるにいたって近場の八ヶ岳や守屋山などに行先を順次変更する。昨年、病を苦にして母が自殺し、今年、父の病状が悪化して介護を続けていく中において、私が前向きになれたのも自然の中で汗をかく、無心になれる時間がある、ということが大きかった。その後、山に行けなくなったのは、父親の病状が悪くなり、埼玉県と往復せざるを得なくなったためである。
◆コロナ感染が広がる中でも登山を止める気はなかったが、感染を防ぐため、あるいは周囲に感染させないために自分なりのルールを作った。父が間質性肺炎のため、絶対に感染させられない、ということもあった。もちろん、その時点では医師や感染症の専門家などの意見を聞いたわけではなく、模範となる対策とは思っていないが、そのときのルールをここで紹介させていただく。
★ ★ ★ ★
・一人での登山に限定する
・事故は自分持ち。自ら責任で行う(通常以上に装備のチェックから、一歩一歩、神経を集中することまで、リスクマネジメントを徹底する)
・体調不良時の登山は行わない(過去10日間を含む)
・日帰り山行に限定。山小屋、避難小屋は使わない
・行動食、飲料などの買い出しは地元のスーパーやコンビニで行い、必ずマスク着用
・途中、温泉施設などに立ち寄らない
・登山者が少ない山を選ぶ(冬季ということもあり、ほとんど登山者と出会うことはなかった)
・登山者とすれ違う際は、マスクを着用し、ソーシャルディスタンスを保つ
その後、「SNSに登山内容をアップしない」、「県境をまたがない登山に限定」、「アルコール消毒液を持参」などを追加した。
◆ここに掲げた対策の根底にあるのは、「コロナは、登山行為の中でいくつもあるリスクのひとつ」であり、コロナ感染が広がっていることが登山を禁止する理由にはならないというものである。そんな中、3月下旬頃からだろうか、自粛をせずに登山活動をおこなっている登山者に対して、SNS上などでバッシングする行為が増えてきたり、感染者に対する嫌がらせも増えてきた。4月20日には、山岳四団体が登山の全面自粛を呼びかけることになる。この発表には違和感を覚えた。
◆「全面自粛」というのは、世間からの批判を避けるにはもっとも簡単な方法である。しかしながら、登山者が登山する権利を奪う行為でもある。そして、登山者が登山行為を行う人を攻撃する格好の口実にもなり得る。一部の人にとって、「登山=レジャー、趣味」ではなく、「登山=仕事」であったり、「登山=自分の生命そのもの」という人もいるはずだ。
◆そもそも人間は野山の中で生活してきた動物である。登山行為は自己責任であるべきだし、登山行為によって、救われる人もいるはずだ。絶望的な状況に追い込まれたり、精神的に追い詰められている方が、登山をおこなうことで「頑張ろう。一歩を踏み出そう」という勇気を持つキッカケになることもある。また、禁止することでむしろ、増えるリスクもある。学校現場でも子供たちが色々な遊びを禁止されるようになった。川遊びや、公園での花火、ボール遊び、木登りなどが禁じられ、子供たちから次々と自由が奪われていく。“危険”だという一見もっともな理由で。
◆もちろん、禁じることによって、それらの場所においては事故が起きる確率は減るだろう。しかしながら、川に行かないことで、増水したときの恐ろしさや、どこで深くなっているのか、どこで水流が激しくなっているのか、水の中の石が滑りやすいことなどを知ることができなくなる。水に対する怖さを知らないからこそ、水難事故は毎年のように起こり、増水した川に流されて死亡する登山者の事故が後を絶たない。
◆花火は、火を扱うことの危険性、火の後始末の方法を学ぶことができる。木登りも然り。“危険”から身を遠ざけることで一見、安全に思えるかもしれないが、実は、自然界に内在する本質的な“危険”を知らないという、リスクが増えているのである。私たちは、コンクリートに囲まれて、安全な場所で生活しているように錯覚しているだけなのかもしれない。想定外のときが起きたときの、都市の脆さがそれを示している。
◆こうした“危険”を子供の頃から身をもって感じることは、地球に生きる、自然の中で生きている人間としての自覚を持つうえで、また災害から身を守るうえで、“生命力”をつけていくうえで、とても重要なことに思える。そのために、何が必要だろうか? 昔は小学1年生から6年生まで、近所の子供たちが皆で川や山で遊んだ。大人はいなかったが、5、6年生は1、2年生の面倒を見て、危険な行為をしないか目を見張らせていたし、それだけの力があった。1年生はそういう6年生の姿を見て信頼し、「6年生はやっぱりすげぇ」と年長者に対する尊敬の念を自然に抱いたものだ。
◆そうした関係性が失われている今、子供たちだけでリスクを管理する環境を作り出すことは正直、難しい。だからこそ、そういう場を演出する機会を作ることが大切だと思う。今、“森のようちえん”を始めとして、野外教育が見直されている。私は、予めスケジュールを組んで、その通りに子供たちを動かしていく“管理型”の教育ではなく、子供たちが自発的に、その場にあるものから遊びを発見していく。そして遊びの中でリスクを学んでいく、そういう学校を作りたいと思っている。カヌーイストの野田知佑氏が設立した「川の学校」などはまさに、そうした学校である。
◆新型コロナと登山の関係についての話に戻そう。登山を自粛すべきだと訴える理由として、逼迫している医療ソースにさらなる負担をかけてしまうことや、救助隊を感染リスクに晒すこと、山小屋などでの密が避けがたいことなどを主張する。もちろん、体を張って救助活動を行っている救助隊を感染リスクに晒すことは極力避けたいし、また万が一、事故を起こして医療機関に負担を強いることもしたくない。
◆しかしながら、コロナがあろうとなかろうと、登山は救助を当てにしてはいけないと思うし、事故を起こすリスクを最小限に減らす努力をするのが登山者の責任だとも思う。タクシー代わりにヘリを要請するような遭難者も増えていると聞く。だからこそ、コロナの広がりは登山者にとって、リスクマネジメントを今一度、考えてもらう良い機会になるのではないか。登山を全面自粛するということは、登山者がリスクについて考える機会も奪ってしまうことになりはしないだろうか。
◆また、山に行かない期間が長くなればなるほど体力、スピードが落ち、危険な場所を歩く感覚も失われ、事故のリスクはむしろ高まっていく。山の中に入ることで私たちは自然の恐ろしさ、偉大さ、複雑さ、神秘性を理解することができ、それが地球温暖化やその他の人類による環境破壊をやわらげるための知恵にもつながっていくと思う。そういう思いもあるので、批判を受けながらも私は、ヤマテン代表として「登山行為そのものを禁止することには賛同できない」ということと、緊急事態宣言解除前に、山岳医療救助機構の大城和恵先生などのご意見も頂戴しながら、コロナの感染リスクをできる限り抑えながら登山行為を行うための指針を発表してきた。
◆緊急事態宣言の解除とともに、日本山岳ガイド協会やteam KOIなど、多くの団体が「withコロナ」時代の登山についての提言を行っている。医療関係者など専門家の意見を入れながら、実現可能な対策を具体的に示しており、これはとても良い傾向だと思っている。
◆最後に、誤解を恐れないで言えば、未知のウィルスというのは必要があって生まれてくるものだと思っている。人類があまりにも増えすぎないように、人口抑制のために現れているのかもしれないし、地球環境への破壊を続けている人類にとっての警鐘かもしれない。コロナによって自然破壊活動が中止され、経済活動の縮小によって温室効果ガスの排出も抑えられ、地球にとってはむしろ好影響を与えるという見方もある。私はあらゆる現象には意味があると思っている。必要があるから存在する。人間もそうだ。その人間は、他の動物にはない理性と知性、慈悲の心がある。人間の存在意義であるこれらの行為によってこそ、コロナは克服できると思うし、多くの生命が人間とともに暮らせていける地球にすることもできるはずだ。地球も動物も人間も運命共同体。それを忘れてはならないと思う。(猪熊孝之 2014年3月「宙(そら)の原理」報告者)
■7月号のフロントページに江本さんが「いま日本山岳会から依頼され『エベレスト半世紀』のタイトルで原稿を書いている」とあるのを読んだ。世界の最高峰をめぐる日本の登山界、挑戦者、登山者の表裏を江本さんらしい視点で書くのだろう。それに先立って、私(成川)は日本人として初めて頂上に立った松浦輝夫さん(故人)のことを紹介したいと思った。登頂者の植村さんについてはよく知られているが、松浦さんってどんな人?と思う向きが多いに違いない。そこで……。
◆松浦さんは早稲田大学の山岳部で私が新人だったころの4年生だった。夏の北アルプス縦走、積雪期の日高山脈合宿がいっしょだった。戦後10年、「シゴキ」という言葉と体質が残っている山岳部のなかで、松浦さんは近づきやすい上級生だった。いわゆるリーダータイプでなく、仲間を大切にし、グループのなかで自分らしい山登りを極めよう、という存在だった。教育学部で「地理」を専攻した。卒業論文は「日本に於ける氷河地形の研究」。400字詰め原稿用紙120枚余の卒論を清書したのが私で、1枚につき幾らかのアルバイト代がありがたかった。北海道や北アルプスの山々に残る氷河地形を写真に撮り歩きし、レベルの高い内容と評価された。卒業して大阪に帰り、家業の材木店を継いだ。子どもは男ばかり3人。
◆松浦さんは日本人として最初のエベレスト登頂者にふさわしい人だったと思う。入部の時、部室を訪れ「自分はエベレストに登るために早稲田に入りました」と言って受付の上級生たちを驚かせた。長身でしなやか、重い荷物を背負って強かったし岩登りもうまかった。垂直の壁・北穂高岳滝谷のP2フランケに新ルートを拓いた。1970年、日本山岳会隊の松浦さんは36歳、東南稜隊のリーダーを任され、29歳の植村直己さんと組んで登頂した。
◆アタックの日は快晴無風。朝6時に最終キャンプを出て3時間。トップの植村さんが振り返り、「いよいよ頂上です。松浦さん先に登って下さい」と言う。先輩を立てる気配りをうれしく思いながら、ふたりは肩を組んで地球上の最高点を踏んだ。しっかり抱き合い「息が詰まるほど背中をたたきあった。植村のやつれた顔から涙がとめどなく流れ出ていた」(登山隊の報告書より)。その翌日、平林克敏さん(35)とネパール人シェルパのチョタレーが第2次登頂を果たす。
◆松浦さんのエベレスト登山にはもうひとつの動機がある。その5年前、早稲田はヒマラヤの未踏峰ローツェ・シャール(8,383m)に登山隊を送った。7,000mを越え、ルートを先に延ばそうとしていた急斜面で事故が起きた。100m以上転落した隊員は繋がっていたローブで命は取りとめたが、救出は困難を極めた。強風が吹き荒れた。安全なキャンプにおろすまでの10日間、作業は副隊長格の松浦さんが指揮した。
◆転落し、仲間のおかげで救われたのは28歳の私である。隊は食料も燃料も乏しいなか態勢を立て直し、松浦さん、井口昌彦さん、シェルパのピンジューの3人がアタックした。しかしというか、「やはり」というべきか。ベストを尽くした3人は8,100mで力尽きた。登れなかった悔しさが、目標を変えて、松浦さんをエベレスト登山に向かわせた。
◆1981年、早稲田は再び松浦さんを必要とした。世界第2の高峰K2(8,511m)を未踏の西陵から登ろうという、極めて難しい大きな計画である。47歳の松浦さんは5,350mのベースキャンプに陣取って指揮をとり、中盤、7,000mを超える第3キャンプまで登って若者たちを励ました。結果、大谷映芳ら2人が頂上に立った。「努力と幸運が結果をもたらした」(松浦)。「ほかのどこにも負けないチームワークの成果」(元監督、部長の濱野吉生早大教授)。
◆充実した日々のあと松浦さんは突然屋久島に行くと言い出し、その自然と暮らし方が気に入って移り住んだ。ランを育て、近所の人に手伝ってもらって窯を築き、作陶に励んだ。素朴な感じの湯飲みや皿が評判を呼んだ。ひとり暮らし10年。松浦さんは健康を損ねて大阪に戻った。
◆2000年の初め、ネパールの山村に宿泊施設付きの学校をつくる計画があり、大阪・竹中工務店の建築技術者か中心になって建設を支援した(NPO法人AAF)。かねてからネパールに恩返ししたいと考えていた松浦さんはこのボランティア活動に加わり、子どもたちに育英資金を提供した。2003年の竣工(開校)式典には松浦さんも出席して子供たちの笑顔をみた。その後も支援活動は続き、いまはコンピュータールームの工事中だという(AAF=Asian Architecture Friendshipでは賛助会員募集中)。
◆松浦さんは2015年11月、81歳で亡くなった。師走の東京で「偲ぶ会」があった。植村さんの公子夫人も同席して松浦さんの和子夫人と初めて顔を合わせた。「お互いに苦労しましたね」とでも話していたのだろか。(成川隆顕 稲門山岳会々員、全国山の日協議会前監事)
■私は山岳ガイドを仕事にしている。早い方だと2月後半くらいから山行をキャンセルされるお客さんもいたが、大多数の登山者が登山の自粛を考えるようになったのは、3月後半の3連休が終わり感染が急速に拡大した頃だった。所属する日本山岳会では3月31日に登山は当面自粛すべしという通達がメールで回った。3月最終週には業務の休止を宣言するガイドが現れ、4月に入ると多くのガイドが休業に入った。
◆私は4月4日(土)〜6日(月)に仕事が入っており、行くべきか中止にすべきかさんざん悩んだのだが、お客さん3名におそるおそる打診したところ、みな行くというので催行した。前日の4月3日に予定していた友人との日帰り登山はどうしようか半日逡巡していたら、友人の方からやめようと言ってきた。もっとも4日に日和田山の岩登りゲレンデに行くと、意外に多くの人が登りに来ていたのでちょっと拍子抜けしたのだが。
◆4月7日に緊急事態宣言が発令され、私も9日にガイド業務の休止を告知してステイホーム生活がはじまった。山に行っていいのか悪いのか、仕事に行くべきかやめるべきか、お客さんのキャンセルで収入が減ってしまう心配……。そうした悩みやストレスを感じていたのは自粛生活に入るまでだった。休業することを決めてしまえば、もうあれこれと思い煩う必要はないのだった。
◆ガイドの場合、仕事をしなければその途端に収入は途絶えてしまう。だが今回は不可抗力であり、自分が悪いわけではない。それに収入がなくなるのは自分1人ではなく、すべてのガイド(やそれ以外の多くの方)がそうなのである。これは精神的に大きい。目の前に広がるのはまるまる1か月の完全休暇、5月連休明けに緊急事態宣言が解除される見通しは薄いから、おそらくそれ以上に長い休暇になるだろう。正直に言ってしまえば、これは私にとって不安よりも喜びの方がはるかに大きかった。
◆怪我や病気で長期の入院をしたりしないかぎり、こんなにまとまった自由時間を得られることはないだろうとずっと考えていた。まさかこのような100年に1度クラスの事態が出現し、体が元気な状態で長期休暇を得ることができるなんて、誰が想像できただろう。本格的な山や自然の岩場に行けないことは私にとって問題ではなかった。山にも岩場にもどうせそのうち行けるようになるのだから、トレーニングさえできればそれでよかった。ステイホーム中は多くの方同様、私も家の周りを走るようになり、スマホのアプリで走行距離を記録した。
◆あとは近所の山に出かけて5〜6時間、全力で登って下りてくるといったトレランまがいのことを月に3回くらいやっていた。クライミングの方は肩を痛めていたので4月半ばまでは休んでいたが、その後は自宅のボードでトレーニングし、5月に入ると行きつけのボルダリングジムが営業再開したのでそこで登れるようになった。結果的にステイホーム期間中、体力は向上させるところまではいかなかったが、クライミングの方は少し上向かせることができた気がする。
◆本もふだんよりはたくさん読むことができたし、パソコンに向かってゆっくりと原稿を書くこともできた。クライミング雑誌には前から懸案となっていたアメリカのハイシエラを紹介する長めの記事を書くことができ、『山と溪谷』7月号には新型コロナ特集の中で「コロナを契機にポジティブな変化を」と題したオピニオンを書かせてもらった。あとは誰かに依頼されたわけではない原稿をちびちびと書いていた。夕方になるとジョギングや散歩をし、夜は冷やした紙パックの日本酒をささやかに飲みながら自宅で夕食をとった。なんだかリタイア後の生活を先取りしているみたいだな、などとも思ったけれど、それは平穏だが幸せな日々だった。
◆良かったか悪かったかは別にして、「コロナ」が自分の仕事や生活を見直すきっかけになった人は少なくないと思われる。私はいつのまにか陥っていた“貧乏暇なし”の毎日から久しぶりに“貧乏暇あり”生活に戻って、その良さを思い出すことができた。日々の生活の中で自分がどこにどう時間を費やすべきなのか、その時間配分を考え直す本当によい機会をもらったと思っている。
◆楽天的で能天気な私でも、今の感染拡大状況やそれに対する国の対応などへの不安や不満がないわけではない。けれども私が考えるのは結局は自分自身のことである。世の中がひっくり返るようなこれほど大きなできごとが、自分が現役のうちにふたたび現出することはおそらくないだろう。この特別な体験を、千載一遇とも言えるチャンスを、私は何とか自分の人生に活かしたい。何より思うのはそのことだ。(松原尚之)
■河口慧海師の足跡を辿ることをライフワークとし、ネパール・ドルポ地方の越冬を無事に終えてコロナ禍の中、運よくスムーズに帰国できた稲葉香です。2019年11月11日に出発し、雪が降り積もる前にドルポ内部へと入りこみました。ヒマラヤの奥地に住む人々と、100日間を超えて厳冬の暮らしを過ごして、2月の天気が安定していた合間に降りてきました。予定では3月の下山でした。早く下山した理由はいくつかありますが、あの時下山してなかったら帰国難民でした。
◆私は普段、大阪唯一の村千早赤阪村を拠点に大阪市内で美容室を1人で経営してヒマラヤに通ってます。遠征に行くときは店を閉めて、ヒマラヤへ長期で行きたいからという理由で、なんとかお店を回している状況です。今回だけは長年経営してきたお店を辞めることも考えましたが、越冬に行く準備で頭がいっぱいで先のことは考えず出発しました。そして、帰国後コロナ時代に突入です。
◆緊急事態宣言が発表されて美容室は自粛要請外でした。私の頭の中では???でした。毛を切ることがそんなに大事か? 毛を切らなくても死にはしない。自粛要請中、誰がカットに来る? そんな時期に営業? どう考えても濃厚接触なのに、意味がわからないと思い、家賃交渉もいってみたが受け入れてくれず、廃業するなら3か月前から言わないといけない、コロナだからと言ってもダメだという。
◆しかし、よく考えたら私の場合は、長期遠征のためにお客様が減ったということも考えられる、それは覚悟して出発したのでいいとして、そこにコロナ禍のダブルパンチである。帰国後、報告書作成に没頭したかったけど、お店のことを考えると手がつけられず、完成するには時間がかかりました。でも個人経営、自分が動かないとどうにもならないと思い、これは単独のヒマラヤ遠征と同じ、この大ピンチをビックチャンスに変えるぞ!と思いはじめた。
◆辞めても継続しても同じ借金するなら楽しい借金がいい! 住居の横の小屋を改造して「山美容室」を作ろうと思いました。以前から5月から10月にかけては、月に一度、家の軒下で青空カットをやってきました。ハサミさえあれば、どこでもカットはできる。いつの日か山美容室ができたらいいなと思って続けていたのを毎週日曜日やりました。すると近所の方や、常連様、毎週誰かがやって来てくれました。
◆「市内に行くのは怖いけど、ここなら安心だね、オープンエアーカットだ」と言ってくれてありがたかったです。4月はなんとか耐えられたけど、5月の家賃がやばいぞと思い、使いたくない遠征費の残りを家賃へと回すしかなくなりました。でもこれはご支援くださった方から頂いたもの、でも そんなこと言ってられなくなり、正直な状況をご連絡しました。するとまた救いの手を差し伸べていただき、本当にありがたいこととなりました。
◆これは絶対無駄にはしない、何がなんでも踏ん張ろうと思いました。こんな大ピンチな時だからこそ、自分の心には正直にいたい、「ドルポ越冬を終えて、何がやりたいんだ」と改めて自分に問いかける。私は持病リウマチを持っていて、18歳で発病し10年間薬漬けで色んな関節が激痛でした。固まっていく体は時間の問題で動かなくなるだろうと思うほどの生活でした。しかし29歳でヒマラヤトレッキングにより大地の力に目覚めて山を登るまでに復活しました。完治したわけではないけれど、旅と山のおかげで自分でバランスが取れるようになり、リウマチとは寄り添って生きています。
◆そこで私の答えは一つ「死ぬまで歩き続けていたい」と思いました。「歩く」ことが、私の中では「ただ歩く」だけではないのです。今一度、自分の生活を見直してみる。先のことは全くわからないけど、身軽になるのがいい。市内の店の維持費が厳しいので将来的に山へ移す。有難いことに、日本には給付金というものがある。家賃に消える前に改装費にしよう。
◆ドルポ越冬が大成功したのだから、できないものは何もない、やろうと思えばなんだってできる。それだけドルポ越冬は、私にとって最大の壁でした。今の都会の美容室を山へと移そう! こんな山奥に誰がわざわざカットに来る? と言われるけど、それが面白いじゃないか? 万人に受けようとは思わない。今は山へ移すことを考え始めています。山に暮らして14年経ちますが、仕事は都会へ行っている、それをドルポの人達のように山から降りなくても生きていく術を自分なりに山で築いてみようと思いました。
◆そんな中、最近またとんでもないことが起こりました。日本山岳会東海支部の元支部長であり慧海ルートの研究者である和田豊司氏から、慧海ルートの未調査地域であるチベット側、国境越えてからカイラスへのルートの貴重な情報を提供していただきました。先人の方々が他界された今、残された未調査部分、これまた壮大な旅の課題、また目指すものができて、私の旅は終わりそうにないので、今後もまたいけるように仕向けて行きたいと思ってます。(稲葉香)
■この春から山に出かけることもなく、ただ遠くから眺める日々が続いた。私は都内東北部の足立区に暮らしているが、近くを流れる荒川の土手は空も広々と心地よく、冬の晴れた朝など真っ白な富士の姿に感銘を受ける。さらに左には丹沢、右には奥多摩、奥武蔵などの山々が。荒川放水路として人工的に開削されたこの川も、完成から90年の歴史を経て、河原に木々も生い茂り、林のなかに居るような錯覚さえ抱かせてくれる所もある。
◆春には満開だった桜も、いつしか葉桜となり、いつもの年と変わらずに飛来してくれた燕にも感謝した。菜の花の黄色い帯や芝桜のピンクの絨毯が鮮やかな季節も過ぎ、紫陽花が雨に映え、この夏も百日紅の花が咲いた。普段なら雑草として顧みることもない小さな草花に歩みを止め、その清楚で可憐な造形に見入ることも。もともと人づきあいは得意ではないが、誰とも会わず、話さず、植物や鳥や風景と対話を続ける日々は、小学校に入る前、野原や田畑で一人、蝶やトンボやメダカたちと戯れていた頃に戻ったような懐かしさすら感じる。
◆思えばこの40年間、なかば意地になって山を歩いてきた。山好きが高じて登山の出版社に職を得たが、技術や体力に自信がないこともあり、せめて回数だけは負けたくないと、年100日を目標に躍起になって登り、達成できなかった年は挫折感にさいなまれた。もちろん初心の山で得た爽快感や、仲間たちのとの感動の分かち合いも思い出深い。
◆だが、仕事として山と向き合ってきたなかでは幾多の反省もある。自らも推し進めたさらなる登山大衆化のなかで、遭難も大きく増加してしまった。退職後、岳連救助隊の一員として、行方不明となった人の捜索などにも出させてもらってはいるのだが……。情報過多の傾向を促進した点でも、山本来の魅力である未知への憧れや夢を奪ってしまったと省みている。
◆コロナ禍を受けての行動自粛は、登山でも例外ではなかった。せめて山への思慕と体力だけは失わぬようにと、毎日、上流の山々を遠望しつつ歩き回るうちに、「交通機関に頼って遠くまで出かけなくてもいい。山は眺めるだけで充分だ」という心境にすらなってきた。最近は羽田に向かう飛行機が都心上空を飛ぶようになった。夕陽に輝く大きな機体に驚きつつ、西に連なる山々の稜線を目で辿っていると、うっすらとした記憶が蘇る。
◆祖母の背に負われて聞いた子守歌と、生まれ故郷、筑波嶺の茜色の空だ。「夕やけ小やけの赤とんぼ」という詞が似合いそうな光景だが、耳元に残っているのは「若い血潮の予科練の……、今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ……」という若鷲の歌を、ゆっくりと静かに口ずさむ声。戦争が終わって15年近くは経っていた頃だが、息子の一人を戦地で亡くした祖母にとっては、大切な歌だったのだろう。そういえば、地平会議発足40年の節目の報告会で、山岳写真家の三宅修さんが、戦争の悲惨さを語りながらも、「今でも自分を励ましたいときに、口から出て来るのは軍歌です」と言っていたことも忘れられない。
◆「山に出かけられない時だからこそ、山を想う」。そんな気持ちを反芻しつつ思い出したのは、比較は妥当ではないかも知れないが、前職で、雑誌編集部に異動できたら、ぜひやりたいと温め続け、やっと実現できた「戦時下の登山者」という記事のこと。戦後50年に当たる年と、55年目の夏の二度、特別企画を組んだ。きっかけは20代前半に出会った平和と登山のあり方懇話会という集まりだった。太平洋戦争の戦火に散った岳人たちのことや、発禁となった山岳書のことなどを知るうちに、山の雑誌でぜひ取り上げたいという使命感がわいた。祖母の背中で聞いた子守歌の影響もあったと思う。
◆出征を余儀なくされたり、趣味など許されない暮らしのなかで、当時の人たちは、どのように山を見つめていたのかを綴ってもらった。登山界にも、その頃の記憶を語れる人たちが、まだご存命の頃だった。読者の方々からも多くの声をお寄せいただいた。「あんな無茶ができたのも、若さと、これが最後の山行になるかもしれぬという焦燥感のためだったかもしれません」「日々暗く厳しい戦時色のなかにあっても、山に在る日だけは天国が味わえた」。記事でお世話になった方々は、空の彼方から今のこの状況をどう見ているのだろう。
◆ここ数か月、まともに人と話をしていない。例え人と会わなくとも、山には登らなくても、遠くから眺めるだけで、時間や空間を超えて思いを巡らしたり、亡くなった人と対話することもできる。ただ、それも体験を重ねることが許されたからこそ可能なこと。バーチャルや電子的つながりも含めた新しい生活様式は根付いていくのであろう。しかし、行動や実体験は絶対に必要なものだ。私はそうしたことを大切に思う人たちの生の声を聞きたくて、回数は限られるものの39年間、報告会に通わせてもらっている。(久保田賢次)
■近年爆発的に増えた鹿の食害調査の手伝いで伊那山中に行った。鹿は植物を根こそぎ食べつくすので水源地の土砂が流出し、下流域に被害を起こす可能性がある。まず鹿の生態調査が始められている。鹿が通りそうな山や谷に雨量計、流量計、監視カメラが取り付けられている。計器のメンテとデータ吸出しに定期的に巡回しなければならない。
◆人跡なしの山中で、不要不急にみえる仕事を彼らは黙々とこなしている。私も鹿の歩く道、「萬丈の山、千仞の谷」を3日間上り下りしてきた。彼らにとっては日常だが今の私にはとてもきつい。コロナ災渦でも休まず働いている人がいる。驚異と敬意の思いだった。閉店国会の議員たちに見せてやりたい。(三輪主彦)
■地平線通信7月号に梶光一先輩(東京農工大名誉教授・前哺乳類学会理事長)が寄稿された論考「新型コロナ・ウイルス後の世界と野生動物」に感服しました。野生動物管理と林業、そして土地利用、さらに人材育成まで概説されて、さすがでした。
◆私は最近4年間、国交省からの受託業務で、ニホンジカによる環境変化と土砂流出の関連を、梶先生のご指導のもと、信州伊那谷(主に南アルプス山中の高遠、大鹿村等)で調査しています。シカは爆発的に増え下層植生を根こそぎ食べ尽くします。そのため林床の植生被覆度を激変させ土砂流出に影響し、冬眠しないので積雪期に樹木の成長の原点である冬芽も食べてしまい、長期間に及ぶ森林被害をもたらします。
◆現地に設置した流出土砂捕捉箱やシカ観察用センサーカメラをサンプル回収・保守し、得られたデータの判読・解析に加え、関連調査(植生、シカ道分布、食痕・痕跡)の結果から検討しています。現地計測・調査から自然を解明するフィールドワークにあこがれ、土石流、地すべり、火山噴火、雪崩など防災技術に40年近く携わっている私にとって、「シカの視点」から見た森林・渓流は全く別世界です。
◆最後に記載されているヒグマ研の後輩・延江由美子さんの兄上が『大鹿村騒動記』の原作者と知りましたが、平成元年駒ヶ根に赴任して以来、私は大鹿村と強く関わってきました(大鹿歌舞伎「花と緑の博覧会」での上演、「中央構造線博物館」の開館、「中央構造線サイクリング」など)。先日、「走る地質学者」三輪主彦さんらと、シカ調査と大鹿村の自然・風物、当博物館、映画聖地巡りなどの小旅行しました。(花岡正明)
■確か昨年の12月上旬に中国武漢でコロナ発生の報があった。過去にSARSや新型インフルエンザも経験しているので、アーまたかと日常を過ごしていたのだった。今年に入り1月に長女が結婚することになり相手方のご両親にご挨拶するために大阪に向かった時は、なんだか世の中が少しざわざわし始めていた。2月日本に入港したクルーズ船に発症者が出て大きなニュースになっている中、出張で山口に向かった。40才までお尻から煙が出るほどタバコを吸っていたので軽い慢性気管支炎を患っている。
◆都合よい体にできているらしく山に登ったり走ったりしている時は全く問題ないのだけれど、あいにく出張の間、空気が乾燥する中にいると咳が出るというなんとも場の悪い状況となった。案の定長時間に及ぶ会議で咳が出始め、中座することもあり相手方を困惑させてしまった。翌日仕事仲間と別れ一人福岡に向かったが、電車移動中でも咳が出る。こいつは困った。訪問先に入る前に自販機で飲み物を買って気管のイガイガを取ってから訪問しないと迷惑をかける……と、なかなか気の疲れる出張だった。
◆ 政府の自粛勧告が出てから周りの様相が一変した。昭和30年生まれ、ベビーブームも落ち着いて、まさに昭和元禄を過ごして来た身にただ事ではないことが起きていると実感した。歴史の中では疫病との戦いや付き合いは何度も起こっているので今回のコロナ禍を越えてもまた次の禍が起きるのは目に見えている。自粛期間中に資料を整理していたら1978年11月25日土曜日の読売新聞の切り抜きが出てきた。これはこの地平線会議の代表世話人の当時読売新聞の記者だった江本師が学生探検会議の紹介をした記事だけど、その記事の隣はコレラ終息宣言の記事だった。ナンダカナ?、いつの時代もあることなのだけど気が付くと忘れているという都合の良いのが人間なのだ。
◆禍は疫病だけではない、ここ数年世界がきな臭い。グローバル化であまりにも地政が接近してしまっているからか。国民性も政治も宗教も自然も違う国があまりにも近くなりすぎた。疫病でも技術でも何でもかんでもグローバル化が人の生活を激変させている。現代の生活は人の生き様を全く無視しているように思える。生活の中では携帯電話がそうだし通販もそうだ。そんなに性急に物事を完結させなくてはいけないことなんて普通の人の生活にはないはずだ。考えたり検討したりするそんな時間の使い方をするのが人という生き物なのだと思っている。
◆自分が若いときは、通販はアルインコのテレビショッピングぐらいしか知らなかった。だから通販とは町で手に入らない“王様のアイデア”的な物の販売をするものだと思っていた。しかし今や事務用品やら一般消費財や産業用機器まで幅広い商品が単純な流通で世界中からすぐに届く、企業も当たり前のように通販で直接物を仕入れることができるよう独自の購買体制を持って少しでも安価に物を入手する。情報屋(商社)というその道のプロがユーザーに生きた情報を提供するという人間的な行為が今やできない。情報だけを要求されて購入は少しでも安いところを使う。中小商社は既に絶滅危惧種なのだ。
◆そこには製造、販売、購入という単純でドライな関係しか存在せず、サービスという人が介在する隙を与えなくなってしまった。そうするとメーカーはサービスの必要な商品は隅に追いやり、売って売りっぱなしですむ“適度な品質”の製品に注力し、さらにコストカットしながら大量に製造をする。また大量生産による適度な品質のものが商流を無視した直販に近い形で大量に出回ることによって購買側の人の個性まで奪ってしまう。町を歩いていたら同じような??同じデザインの服を着た人たちがあちこちにいる。確か数日前にU社の広告パンフが新聞に挟んであったっけ……!
◆このコロナで官が民を後押しして大量のマスクなどを製造すると、それ我先にマスクの大量生産合戦が始まる。3月には入手困難なマスクが確か1万円以上ものボッタクリ価格で販売されていたが今では500円又はそれ以下で入手できる。踊らされた企業も購買する人も熱が冷めてみて初めて無駄を意識するけど後の祭り、人の危機意識に便乗した詐欺だ……これは!
◆私事で恐縮だが、私は親から受け継いだ小さな商社で電子技術の発達を担ったツールを扱っている。そんな人間の言うことでは無いのかもしれないが、理想を言えばテクノロジーは弱者を助けるためにあるはずだ。 しかし本末転倒で、簡便で安易な生活の技術だけが進みすぎている。寝る間を惜しんでまで目的地まで連れて行ってくれる自動運転なんかいらないではないだろうか! そんなことを言っている私もアイサイト付きの車に乗っているけど既に老人の域に達している弱者なので前を走る車の後についてはしる“金魚の糞走行”は許していただきたいのであるが……!!
◆このシステムも困ったもので自分の車には3段階の前車との距離設定ができる。田舎の道でずーっと同じ距離を保ってついてくる得体のしれない後続車はアオリ運転と思えて恐怖を覚えるかもしれない、とそんなことを考えていると前車に申し訳なくて時々3つの距離をマニュアルで切り替えて後続する。そこら辺の配慮は人間にしかできないのであるがおそらく将来もAIには配慮なんて言葉は通じないだろう。
◆人は個性と努力、そして成り行の中で人間らしい生活を送っていたのだ。しかし今は違う。「グローバル化」と「デジタル化」で瞬時を惜しんで一気に「大量の情報や物のやりとり」を行っている。初めて行く大都会で指定された場所や時間にたどり着くなんて至難の業だと思っていた自分にとって携帯片手に周りも見ないでそこに着くなんて、既に人のやることとは思えない。大量のセンサーが個人や物の全ての情報を集めてそして分析し解析しながら発展し続けるトリリオンセンサーユニバースの世界はすぐそこまで来ている、既にAIに支配された世界に突入しているのだ。
◆“ペンは剣よりも強し”はもう死語になって“情報は行動よりも強し”の時代だ。聞きかじっただけの情報でも常に発信し続けているとなんだか自分が行動したように思えてくる人が多いらしい。情報に踊らされて発信し続けるなんて危険だ。間違った情報もたくさんあることを理解しなくては。新製品の開発もスピード勝負だ。情報が瞬時に行き交う世界で他社よりも一歩先んじることが現代社会なのだ。
◆アーつまらない……。人の熱い思いはスピードに取って代わられてしまい、生産物には本来ならば作った人の思いが感じられるはずなのにそれがない。気になることのもう一つは、大量生産だ。先に記した“個性のない適度な品質”の物を大量に市場に投入するから同じような価値観の人間ばかりの世界になってしまうのだ。個性も何もあったものではない。
◆先日次女が孫の動画を送ってきた。雨が降っている中、あーでも無い・こーでも無いと無邪気な行動に制約をかけ過ぎる昨今の親とちがい無邪気に水たまりでびしょ濡れになってピッチピッチチャップチャップではなく、ビッシャビッシャグッショグッショキャッキャキャッと、喜んで遊んでいるのを呆れて笑ってみている。汚れたら洗えば済むことじゃない、人に迷惑をかけないで無邪気に遊んでいるのを手助けしてあげるのが親なのだもの。ウン、これが人の本来の姿、良く育てているぞ。だから地平線の集まりに参加するとホッとする。信念をもって人らしく、周りに流されない生き様を見せてくれるからだ。(河村安彦)
■江本さん お久しぶりであります。こんばんは お忙しいなか いつもほんとうにありがとうございます。数日前に実家に帰省して母親介助に復帰しました。
◆長期関西滞在で介護鬱になって、そのまま六月に上京して鬱バランスしてたら、6月末に食中毒に成ってしまって、それがけっこう重症で歩けなくて救急車に来てもらいました。腹痛と発熱が長く続いて、3回救急受診しました。10日目くらいから粥が食べれる感じ。2週間経っても、体力がイマイチで巧く歩行できなかったです。死ぬかも と 想いました(笑)。コロナだったら死んでたと想う。コロナ感染だと、もっとヒドいんだろうから、ぼくは独りで対応できないと想う。鬱で、自炊の衛生面を抜かったとおもいます。
◆まだ、心臓ダメージが残ってます。心臓は、風邪を引いただけでも、不調になります。めんどくさい持病疾患です。鬱は、精神科の紹介状を書いてもらったので、お守りのように持ち歩いております。鬱は、午前中が特に辛い感じです。バランス中。活躍中のアーティストの中には、重度の「鬱」を体験してきた人たちが居るので、相談してます。という近況であります。
◆確定申告ができておらず、ベラボーな健康保険料の請求が来て、7月中に上京して、申告と保険証の更新を成したいです。こういう日本のシステムなんとかならんもんかなー と いつも想う。いろいろ手続きが、めんどくさいです。警察署発行の許可証とかは、本人が行かねば成らないのが有るし。難病や障害者とかの書類作成や申請とかも、なんだか、手続きをわざとめんどくさくしてるみたい。
◆独居老人や障害の重度の人たちは、申請書を作成するのが大変だと想います。あれこれ申請の季節は、印鑑コレクションが増えるし 自分写真も増える。ぼくはアホです。鬱も食中毒も なにもかも悪政のせいだと おもいます。現行政権のコロナ対策によって失業させられた方々も、なんだか、余分な忙しさを背負わされてるのではないでしょうか? 悪政の影響は、隅々まで出てると想う。しかし、ついつい、どうしようもできないイライラを身近な人へ、ぶつけてしまうんだと想う。「政治が悪い」んだよ〜〜〜〜っ。
◆実は、ぼくもね。母親が半泣きで「なんで帰ってきてくれないんだ」と言うので、発熱しながら電話で事情を説明するのだけれど。母親が「母親を施設に入れるために あんたはウソを付いている」と言うので、なんだか、悲しいやらガッカリやらで脱力。だけれど、母親もまた 悪政の被害者だと想います。
◆て 感じです。ぼくから 「便りが無い」ときは、たいがい悪い知らせですので(笑)。ほんとうに 超不調でした〜〜医師は、数人に診てもらいましたが、全員、「コロナでは無い」と云う。しかし、ぼくは、いまも、ちょっと、疑ってます。だって、途中、臭覚無く成ったし。病院へ行くのに、何度も救急車を呼ぶと、近所から「コロナを疑われる(村八分にされる)」って想ったから、往復タクシー使ってたら、すごい出費に成った。ようやく復活期、椅子に座ってパソコン視られるし、活字が、書けるようになってきました。
◆母親の介助は、やっぱしめんどくさいです(笑)。まだ、長時間起きるとしんどい。長距離、歩けないし。まあ、でも、食欲充分だし、徐々に快方です。江本さんは、とにかく 健康第一で お元気に活躍し続けてください! コロナは、そうカンタンには、解決しないと想います。長期を見据えて、地平線会議のさらなる「活路」を歩み続けてください。(緒方敏明 その後千葉の自宅に戻り、間もなく母親の介護のため宝塚の実家に帰る予定)
敗戦記念日がめぐって来ます。差別に焦点をしぼって述べてみたいと思います。差別は残念ながらどこにもあります。例えば、この新型コロナウィルスとの闘いの中でもそちこちに見えていました。コロナとの闘いが始まったころ、薬剤店、薬剤量販店、薬局などではないといいながら、マスクも、薬用アルコールも少量ではあるが入荷していることは確かなようでした。ないと答えたある店ではレジに立った店員さんの後ろの床に日本薬局方エタノールが2本、厳然としてあるのを発見したりしました。たぶん本人か、知人友人に行くのだろうと想像されます。つまり、物資が不足すればコネがなければ必要品が入手できないという状況は、あの戦争中と何も変わっていないことを知りました。
そもそも自分の仲間でないものを排除する本能とは、人間がもつ悲しい性であり、それを克服することはなかなか容易ではありません。アメリカでは白人警官が黒人を殺害したとの報道がときにあり、今全米で黒人を中心に抗議運動が広がっています。若い頃熱中した『風と共にさりぬ』が黒人差別の書とされたりしています。日米では、「法の支配と民主主義という価値観を同じくする」とよく言われますが、差別がある現実の中で空疎に聞こえます。
最近、「元寇」のとき樺太方面で「元軍」と接触した日本人のことを調べていて、アイヌの人々の運命に関心をもちはじめました。金田一京助先生、遡っては、間宮林蔵、外国人の小シーボルト、クライトナーなどの紀行を読んで、彼らの運命に心を大いに動かされました。日本でアイヌ人やギリヤーク人は差別されてきました。最近アイヌ人について存在が公的に認められたのは喜ばしいかぎりです。アイヌ民族と寄り添ってきた先人のご活動の賜でしょう。このような機運の醸成には、アニメにもなった『ゴールデン・カムイ』の影響も無視できないものと思います。主人公の少女アシリバさんが可愛いだけでなく、アイヌ民族の知恵を半端でなくもっているのも魅力だと思いました。地平線の仲間がもつ自然の知識は大変なものと思いますが、アシリバさんは、あるいは皆さんを上回る自然にたいする知識をもっているようで圧倒されます。
ひるがえって自分自身が経験した被差別について思い出しています。何度も書いて耳たこで恐縮ですが、戦時中福島のいわきの玉山に疎開しました。疎開当初は差別がありました。大家さんはじめご近所に私どもの家族に食料を売らないよう暗黙の了解ができていたように思いました。大家さんはきっぱり食料は売らないと言い渡し、その言のとおり、庭に大量に栽培して余って枯らしている野菜をへら菜一枚、ナス一個も売ってくださいませんでした。これは最初から最後までしっかり掟のように守られていました。
ただし、公平のために言えば、正月のみならず、年に何度もある餅つきには、餅米をよそで手にいれて持参すると、餅をついて下さいました。また、こんにゃくなど作ったときには下さいました。桜桃の畑開きのときや、秋の松茸山の開業のときには、大家さんの子供たちとともにつれていってくれたりしました。五右衛門風呂には大家さんの家族と一緒に入ることもあり、自家の子供のように育ててくださいました。ですから大家さんが悪いのではなく、そのような村の掟があったと理解しています。
母は朝早く私たちをつれてリュックサックを背負わせ5〜6キロも離れた山間の部落に行って、米、麦、味噌など入手し、自分のみならずわれわれにも背負わせて帰りました。裏が豆腐屋さんですが、うちではバスで一里の四ツ倉の街に出て、豆腐などの食料を高く入手していました。でも四ツ倉は楽しく、村の暮らしから離れてしばし、文明に浸ったように感じました。実態は駅から200メートルぐらいの吉田医院までの間の街路で、現代からみれば、ただ道路の両側に家があるだけなのに、部落からでてくれば、その間に、お菓子屋、肉屋、医院が二軒、果物もある八百屋、魚屋、本屋などがありました。やがては豆腐屋さんも内緒で夜間に食料を売ってくださるようになり、ご近所の何軒かには助けられました。
同級生に農業科学に進学して、残念ながら早世してしまった長寿君という友達がいて、彼の指導で4年生ぐらいから、小川の土手に、カボチャ、キュウリ、トマトを栽培したので、夏は新鮮な自家野菜をとっていました(一度畑を夜間に壊されたことがありました)。大家さんのアーチャンの指導で、小川にヒサシバリをかけてうなぎ、なまず、時に大型のフナを捕っていました。こんなことをするのはご近所で私だけで、農家ではドウという捕獲道具を使用してドジョウなど大量にとっていました。これらの川魚も私どもがたまにとるタンパク源となっていましたし、たまに東京から来る父も楽しみに注文してきていました。
私は国民学校の一年(小1)の三学期から転入したのですが、疎開の私に差別させない気の強い大和田先生がおられ、当初は大丈夫でしたが、二年生になったとたん、同級生が男女とも一斉にリズムをとって足を踏みならし、「疎開!」「疎開!」と囃子たてました。仲良かったと思ったあの子も、勉強のできる女の子のあの子も足を踏みならしているのを横目で見てショックを受けました。やがて、新担任の背のすらっとした美人の金子先生が入ってこられ、一喝され、いまお国は未曾有の戦いに臨み、犠牲もでている。疎開者はお国のための犠牲者であり、あたたかく迎えるべきであるのを、その態度は何ですかとたしなめ、以後差別、いじめは皆無となりました。
疎開は私のように個別なものだけでなく、集団疎開という学校ぐるみの疎開がありました。玉山の奥に袖玉山というところがあり、石灰石輸送のトロッコの始発駅になっているところがありました。そこに鉱泉の湯宿が3軒あり、東京中野区の桃園小学校が疎開していました。母の友達の娘が桃園小学校に通っていたので、探しに行きましたが、集団疎開は個人的な抜け駆け的なことには応じられないとのことではねつけられました。彼らはまったく村人から隔離され、相手にされず、さげすまれて生活していました。食料の獲得に先生方が苦労されたと後で聞きました。引率の先生が作詞し、彼らが歌っていた替え歌の一節を覚えています。
「ふたつとせぇ、二親離れて来てみれば、集団疎開も国のため、そいちゃ剛毅だね」
東京へ帰ることになった前夜はどんちゃん騒ぎだったそうです。
いま、福島のF1の被災者の方々が避難されて差別を受け、学校では子どもたちが放射能がうつると言っていじめに遭った末、放射能が残ろうとも生まれ故郷に帰る方がいるというのは理解できます。差別は日本中普遍のようです。
他方でコロナ騒動以来、過疎の村に移住する方々がいて、村の方でも手取、足取り受け入れ準備をされている様子が映像となっています。その方々がうまく移住地に順化されることを祈りたいと思います。
いま日本のみならず世界に差別が横行しています。とくに隣近所の国民の間で始末におえない段階になっているように感じます。人間はこれを処理しなければ未来はどうにもならないだろうと思います。コロナ以上にやっかいな病巣をもっているようですね。(花田麿公)
■今日、久しぶりに走りました。10年前に薬の副作用で太ってしまいダイエット目的で走り始めました。走ることは体重コントロールだけでなく、何か考えたい時に良い案がひらめくことがあるのです。
◆さて、下関もコロナ陽性者が毎日出始めました。1日数人なので東京の比ではないけれど、なんとも言えない不安が高まっています。病院の状況としては、玄関での検温や問診、入院患者の面会制限や外出外泊禁止などは続いています。スタッフも患者も慣れたようで大きな問題や苦情もなく経過しています。周辺でのコロナ患者はまずウチに入院しますが、人数が6人以上にならないのでいわゆる「感染病棟」と呼ばれている病棟のみで対応できています。
◆ただ、直接患者と関わって働いているスタッフは毎日宇宙服のような防護服を着て汗だくです。防護服は資材的にも金銭的にも貴重だから1度着たらしばらく着て業務します。飲食もトイレも我慢です。高齢者は「肺炎」が多くコロナとの鑑別をしなければなりません。当初はPCR検査の結果が12時間以上かかっていましたが、最近は抗原結果ができるようになり結果も30分くらいで出るので業務的にも精神的にもスムーズになっています。
◆コロナを受け入れながら通常の医療もしなければなりません。急がない手術や治療を先伸ばしする患者や、病院で受診しなくなった患者もいます。病院はもちろん経営的にマイナスです。コロナの影響で儲かった企業もあるけど、倒産した会社があったりボーナスカットなど厳しい会社がある中、今のところ給料はもらえているので幸せです。高校3年の娘は大学受験ですが、今回から共通テストが導入されるだけでも不安なのに、受験日程が変更になったりオープンキャンパスがwebだったりとコロナの影響も大でさらに不安になっています。
◆しかし、そんな状況でも、地平線通信を楽しみにしています。届いたらまずざっと読み、その後何日かかけてじっくり読みます。地平線会議はコロナではぶれませんね。さすがです。皆さまの今までの戦争、冒険、災害などの命懸けの経験があるからなのでしょうか。コロナの不安やストレスと上手に付き合っているし、動じないなと感じて不安が和らぎます。次の地平線通信を楽しみにして、また明日もゾモTシャツを着て走ります。(河野典子 下関 病院看護師長)
■いつものお風呂上がり。1歳の娘との入浴は、戦場のような騒々しさ。ふと気がつくと、部屋が静まり返っている。まさか娘よ、溺れた!? と娘の姿を探すと、ソファーの上で背中を丸めてじっとしている。なんと、地平線通信を広げているではないか! 大人顔負けの真剣な表情で、熱心に。「高山は、今日も警戒レベルの雨……」の記事を見つめている。
◆弱冠1歳にして、隣県の岐阜を心配している……! このとき娘は突発性発疹を患い、日がな母娘水入らずで自宅に缶詰だった。そんな折に届いた通信。私は間隙を縫って通信を読み、ひとときの小旅行を楽しんだ。きっとその母の背中に憧れたのでしょう。娘も母と同じようにソファーで通信を広げ、高山へと旅に出かけていた。(小川真利枝)
■8月7日、新型コロナウイルスの新規感染者数は全国で1598人を数え1日の最多を更新した。山形県は感染者ゼロのいわゆる「田舎選手権」でベスト4まで残ったが、3月31日に初めて感染者が確認されて以来1か月にわたり感染者が増え続けた。三世代同居率が全国一の山形県では、家族の1人が感染すると全員に広がる可能性が高い。その後いったんは沈静化したものの、県をまたいだ移動自粛が解除されると再び増加し、現在までの感染確認数は累計76人(うち75人は退院)となった。
◆県内で初の感染者が出た3月31日、38年間勤めた仕事を定年退職した。通常なら退職セレモニーをやるのだが、当然ながら中止(縮小)となりひっそりと職場に別れを告げた。退職後は再雇用や再就職する人がほとんどだが、自由の身を選んだので、4月以降は地平線報告会へ行ったり好きな映画を観たりして気ままな日々を送れるはずだった。ところが、移動自粛で5月末までは自宅の片付けと庭の草刈りに専念するステイホーム生活、映画館は休業となりしかも地元の鶴岡まちなかキネマ(まちキネ)は再開を待たずに閉館!という想定外の事態が待っていた。
◆山形県には「飛島」という小さな離島があり、そこを舞台にしたドキュメンタリー映画『島にて』が全国に先がけて上映される予定だった。全国的に映画館が休業したためオンラインで新作を上映する「仮設の映画館」という仕組みが創られ、『島にて』もそこで上映されたので観てくれた地平線の仲間もいる。まちキネは前々から経営状況が悪く、コロナの影響で将来の見通しが立たなくなったため閉館に追い込まれたようだ。
◆昭和初期の絹織物工場をリノベーションして10年前に創られたまちキネは建物も文化財級で、保存と再開を求める署名活動も行われている。しかし、数億円と言われる債務の返済や仮に再開しても採算がとれる見込みはないのが現状だ。映画館の経営が困難なのはまちキネに限らないが、地方にとって映画館が無くなることは一つの文化拠点が消えることに等しく、残念の一言では済まない寂しさが募る。
◆7月上旬の九州や岐阜・長野の集中豪雨は、河川の氾濫による浸水や土砂崩れで大きな被害をもたらした。7月下旬には山形県も大雨に見舞われ、県土の75%を流域とする最上川が数か所氾濫し住宅等1000棟以上が浸水した。人的被害が避難途中で怪我をした高齢者一人だけだったのは不幸中の幸いだった。その理由としては、堤防が決壊しなかったため比較的ゆっくり越流した氾濫だったこと、直前の九州等の豪雨被害を受けて自治体が早めに避難を呼びかけたことなどがある。
◆これまで山形県は災害の少ない地域といわれてきた。出羽三山や鳥海山の神々が守ってくれているからと信じられているが、昨年6月の山形県沖地震や今回の大雨被害をみると、さすがの神々も近年多発する災害には手がまわらないようだ。30年ほど前に読んだ大熊孝(新潟大学名誉教授・『阿賀に生きる』製作委員会代表)の『洪水と治水の河川史 ―― 水害の制圧から受容へ』には、生きている間(約50年)に一度くらいは水害を経験したほうがいいと書かれていたと記憶している。
◆その大熊教授が5月末に出版した『洪水と水害をとらえなおす ―― 自然観の転換と川との共生』では、人と川・自然との関係性の変化をもとに、頻発する水害の実態と今後の治水のあり方を具体的な事例で検証している。学問のあり方を、時や場所にかかわらず常に成立する「真理探究型」と、自然と人・人と人との関係が対象となる「関係性探求型」の二つに分類しているのも興味深い。学問を仕事に置き換えれば、自分がこれまで関わってきた農業土木はまさに関係性探求型だ。昨年12月に惜しくも亡くなられた中村哲さんはある講演で「農業土木は人類にとって最も大事な仕事の一つだ」と語っているが、治水を扱う土木も命に関わる大事な仕事といえるだろう。
◆最近ようやく少し外出するようになったが、今も家の片付けや草刈りに追われている。先日書類を整理していたら、2000年1月に鶴岡で開催した地平線報告会「出羽庄内みれにあむ集会」の資料が出てきた。20年前なので知らない人も多いと思うが、山形県で報告会を開催したことがあったのだ。第一部のメインゲストは鷹匠の松原英俊さんとアマゾン民族館館長の山口吉彦さん。第二部は再開前のつるおかユースホステルに場所を移し、遅くまで飲みながら議論したことも懐かしい。
◆鶴岡市田麦俣で暮らしていた松原さんはその後天童市田麦野に居を移したが、いまも鷹狩りを続けている。アマゾン民族館は2014年3月に閉館し二万点にも及ぶ収蔵品は移転先が見つからず同館で保管されていたが、新たに設立したアマゾン資料館への引越しが進んでいると聞く。6月上旬、地元の博物館で開催されたアマゾン展で久しぶりに山口さんにお会いした。アマゾンの話になると目を輝かせて饒舌になったが、少し疲れているように感じた。
◆ユースホステルとは疎遠になっていたが、7月中旬に管理者の菊池さんの訃報が届いた。コロナの影響で訪れる人も少なかったのか、死後約一か月経過しての発見だった。彼と親交のあった有志とともに鶴岡市内で火葬しお別れ会を開いたが、このご時世にもかかわらず100人を超える人が訪れた。46歳の早すぎる旅立ちだったがこの地に残した足跡は大きく、自分の人生にも少なからぬ影響を与えていたことにあらためて気がついた。
◆コロナの影響がいつまで続くかはわからないが、落ち着いたら国内外へ出かけたい気持ちはある。その一方で地元をもっと知りたいという欲求も年々強くなっている。お国自慢ではないが、庄内には『島にて』のように映画の題材になりそうな魅力ある場所や人がごろごろしているので、四季折々にそこを訪ね歩くだけでも残り時間が無くなりそうだ。いずれにしても当面は自宅で静かに暮らす予定なので、近くに来る機会があればお立ち寄りください。(酒田市 飯野昭司)
■古代ローマの詩人ユウェナリスは、愚民政策を「パンとサーカス」と詠った。広大な属州からの略奪と、初期キリスト教徒のカルト信者どもをライオンに齧らせるといった嗜好の娯楽で、おかみに楯突くローマ市民はほぼ絶滅した。時を経て次に登場したのは3S、すなわちスポーツとセックスとスクリーン(=当初は映画、後からテレビも)である。愚民支配体制はほぼここに完成し、思考停止と脊髄反射の過剰適応社会が出現。現代ではそれにSNSを加えた4Sを、5Gなど新規テクノロジーが並走補強し、鉄鎖なき奴隷制封建ネット社会は盤石の鉄板と化している。アナログは絶滅危惧種となり、紙媒体が死滅しつつあるコロナ時代に、部外者が手にして「小学校の学級新聞みたい」とのたまわった地平線通信は、暗黒の闇を切り裂く一条の光である。
◆15年前にテレビを屋上から地べたに叩きつけて破壊し、SNSの類は拒絶して連絡はハガキを採用した今日この頃、語るに落ちる状況を目にした。ドヤ顔の某知事がイソジンうがい薬を、とガセネタを披露したとたん、全国650万か所(大幅に推定)の薬局の棚が空になったという。前回トイレットペーパーが消えた際に、さんざん空騒ぎを煽りながら批判したのはどこの誰だ。その半歩先を想像してみようと誰も思わないのだろうか。
◆「美空ひばりと山口百恵の距離は19キロ」と喝破したのは、敬愛してやまないアナーキストの硬派評論家、平岡正明氏であった。この数値に関しては長野淳子女王さまと激論を闘わせたことがあったが、話のネタはひばりが生まれた横浜滝頭と百恵の育った横須賀不入斗の距離に由来する。原典は平岡マチャアキ著『平民芸術』(三一書房刊、全634ページ)で、その論旨は推定重量2.2キロの大著を熟読の要あり。
◆おっと話が滑ったが、19キロならぬ半歩先のさらに3.5歩先には、関東大震災の際に不逞朝鮮人が井戸に毒を投入し云々、という流言飛語を意図的に広め、「壱拾五円五拾銭」の発音が「ちゅうこえんこちゅせん」に聞こえた旧会津藩士を含む数千名(注:ゼロから6000人超まで諸説あり)を嬲り殺した自警団=自粛警察が待ち構えている。これ以上戯けたことを抜かすと Go Toすんぞ、こるぁ〜とばかり、言葉を失うほどに美しい国!である。
◆その段で言えば、某現役都知事がステイホームだアウトブレークだトキオアラートだとか言って喜んでいるのと、戦時中に敵性語のパーマを電髪、サッカーを蹴球、ホームランを万塁打なんぞと言い換えたのとは0.6歩差でしかない。さらに言えば全滅を玉砕、退却を転進、無条件降伏を終戦と誤魔化す大本営チックな神経とは0.9歩差。イソジンうがいで感染者が疑似陰性化し、さらにウイルスが蔓延する可能性を想像できぬ某アホたれ知事と、コロナを業病と言い晒したゲスな某元都知事との差は、ぎりぎり半歩すらない。この末期症状と慣れ合いジャレ合い放置するマスゴミは、もはや生ゴミ以下だ。これこそ、地平線通信が光輝く所以なり。
◆てなわけで、通信の発送で月一度、完全思考停止の超単純作業に没頭するのはかなり楽しい。ただひたすら無駄な動きを排除した最低限の動作で、最大効率と最速を目指す世界である。このところ、発送歴30年オーバーの技を競いあう天敵タケダとのバトルが、毎月のように繰り広げられている。
◆そういえば、その昔ゾモTシャツ絡みで、ヤツを怒鳴り倒したことがあった。お代を先払いしたのに、いつまでたってもブツが届かない。恵谷治御大の向こうを張って、こるぁ〜、なめとるんか〜とカマしたが、反応はボ〜。ボケを怒鳴っても無意味、という一言につきるのであった。そんなヤツが秘密兵器の指サックを駆使すると、処理能力に約22パーセントの差が生じて敗退するのが何とも悔しい。とはいえ、無残なディストピア状況下で正気と精神の安定を保つのにも、地平線通信の存在は欠かせない。(Zzz-カーニバル評論家@長期連続ニポン滞在記録大絶賛更新中)
■娘は6歳、双子の息子たちは3歳になりました。小学校の入学式は、式前日の緊急事態宣言により飾り付けされた体育館で休校の説明を受けるだけになりました。都内通勤の夫は在宅勤務に、私は元々在宅。保育園も自粛要請で、4月〜6月は家族全員在宅の毎日でした。
◆家は集合住宅ですが住民専用の駐車場で近所の子供好きな中1のお姉さんが遊んでくれ、徒歩3分の私の実家の庭でも遊べたので子供達は楽しんでいました。しかしGW明けにはオンライン授業開始。慣れない在宅勤務で苛立ちがちな夫を傍に、群がる双子を阻止しながら宿題の意味もわからない小1に宿題をさせ、下手な授業動画を見せ、終わったら子供たちを実家に連れて行き遊ばせ、少し仕事をし、昼を食べさせたら連れて帰ってきて双子を昼寝させ、起きたらまた遊ばせて夕飯を作り。間にしょっちゅう起こる喧嘩(噛み付いたりつねったり!)。怪我。散らかる部屋。あちこち破損。
◆くたくたになって1日が終わり、持病の腰痛の悪化と頭皮の謎のできものに悩まされました。そんな日々の終わりが見えた5月末、私の親が持つ那須高原の森に行きました。家族以外の人に会わず、森の中で駆け回り、岩に登り、木の枝に作ったブランコに乗り、マスクなしで思い切り呼吸をして過ごしましたが、あちこち怪我をし、双子の片方が目の上をブランコにぶつけてしまいました。さらに、ツタウルシにかぶれたのか帰宅して数日経ってから顔中が赤く腫れはじめ、目の上は青く、顔中は赤く、体はあざだらけというひどい状態に。帰宅して保育園に連れて行くと驚かれましたが、怪我の経緯をかいつまんで説明し、眼科や皮膚科に連れて行きました。
◆その数日後、家のチャイムがなりました。「区役所の支援課からきました。ご近所から大きな物音と子供の泣き声があったと通報があったんですが」正直「ついに来てしまった!」という感じでした。「お母さん、大変なんじゃないですか?」と訊かれ、「大変だと言ったら何かしてくれるんですか? 今更じゃないですか?」と思いながらも「今はだいぶ楽になりました」と答えました。
◆事件はそれで終わらず、翌日、小学校から帰るはずの時間になっても娘が帰ってきませんでした。30分以上過ぎ、おかしいと思って探しに行きましたが、小学校の校庭、通学路、何往復してもどこにもいません。血の気がひいて行きました。校庭で春休み中預けていた学童の先生を見かけ、一緒に職員室まで行ってくれることに。職員玄関に行くと、なんとそこに娘の靴が!
◆意味がわからないまま待っていると、しばらくして応接間に通されました。とにかく娘がそこにいる、ということを確認すると安心して涙が出てきました。またしばらく待たされた後「娘の体にあざがあり児童相談所に通報したところ、職員の方がきて娘と話をしている」と説明され、児相の職員と話をすることになりました。
◆「小学校からの通報があったので来た」と言っていましたが関係機関が情報を共有しているのは知っていたので「保育園の先生にきちんと説明しなかったのも悪かったが、那須高原に自由に遊ばせられる森があり、こういう経緯で弟が怪我をしたりかぶれた。毎日お風呂上がりに保湿しながら確認しているが、娘の体に心配するほどのあざががあるとは思えない」と説明。6歳やんちゃ娘と3歳男子双子。今まで私の実家やヘルパーさんやご近所などに助けられて育児してきたことを一時間半ほど話し「本当は一時保護をするつもりできたが、その必要はなさそうなので保護はしないで帰ります」と言って解放してくれました。
◆帰りの職員玄関でようやく娘に会えました。当たり前のように6年間そばにあった小さなぬくもりに触れられなくなるかもしれないと思った時間は、本当に辛いものでした。双子を保育園のお迎えに行き、夕飯を食べさせ寝かしつけたあと、一時保護について調べました。子供を保護された親は誤認であっても虐待したとみなされ、言い分を聞く猶予はないこと。最低2週間程度、長くて数年、連絡を取ることも面会することもろくにできないことがわかり、知れば知るほど恐ろしく、その夜は眠れませんでした。
◆一時保護は虐待の疑いのある家庭に対して調査を繰り返したあとやむを得ずするものだと思っていましたが、こんなにスピーディに、ろくに調査もしないで行われることに驚きました。明らかに虐待してないのに子供を一時保護され苦しんでいる親が沢山いることも知りました。詳しい知り合いに相談したところ、区役所支援課からの訪問は保育園の通報だそうです。自粛中の虐待発見のために少しの違和感でも通報するように各機関に通達があったようで、怪我したタイミングが最悪でした。保育園とは翌日すぐ話し合い、落ち着いてから小学校とも話し合いの時間を持ちました。校長先生はあまりにも拙速だったと謝ってくれましたが、しばらくは心が収まらない出来事でした。(竹村東代子)
■娘の柚妃がコロナ禍中に進級し、6年生になった。報告会が定期的に行われていたころは、いつも真っ先に質問をする素直でハキハキした子どもという印象が強いと思うが、4月ごろからとてつもなく陰険な方法で反抗する可愛げのない子になってしまった。しかも夜中にこっそりSNSをやったり、急に「生きる意味が解らない」と泣き出したり……。
◆ご存知のようにSNSは13歳以下の子供がアカウントを得ることを禁止している。しかし年をごまかすのは簡単なので親が見つけなければ誰も見つけられない。iPadに親がかけるフィルター機能があるので安心していたが、パスワードに関して夫がチョンボをやらかしてしまい、フィルターは実質機能せず。5種類のSNSを夜な夜な駆使して朝までチャット→朝起きても半病人のような元気のなさ→サッカーもスイミングもなくなり、日課が宿題だけという盛り上がりに欠ける毎日→学校もないので誰とも遊べずしゃべれず、来る日も来る日も顔を突き合わせるのは母親だけ→たまったストレスを唯一吐き出せるのがSNS→5種類のSNSを……という悪循環。
◆今まで子どもがSNSを使うことの危うさをさんざん家でも学校でも聞いて知っているはずなのになんで?と一瞬虚無感に襲われたが、虚しがっていても問題は解決しないので長丁場覚悟で話し合いを持った。SNSのいいところややりたい理由を娘から聞き、それが本当に必要か、なければどれくらい困るのかを考えさせ、なぜ子どもにとって危険なのか、大丈夫だと思っている子でもだまされるのはなぜかを教え……、ようやく本人が納得して自らアプリを捨てたのが明け方の4時。
◆その間には生きる意味が解らないから死にたいと言われて相当うろたえ、かつ落ち込んだ。なぜなら私自身ずっと生きる意味が解らず何年も鬱病で苦しんだ経験があり、子育ての唯一無二といっていいぐらいの大きなテーマは自己肯定感を育てることと強く心に決めて実行していたから。うろたえつつも「そうかー、解らなくなっちゃったかー」と言いながら思わず手が伸びた。
◆頭をぽんぽんすると、感情が高ぶって熱くなった娘の頭がそこにあり、涙ぐんだ瞳が明確な答えを求めていた。何ができてもできなくても柚妃が生きているだけで私は嬉しいんだよとは思っても、それは言わない。柚妃がこの世に生まれて生きているのは神様の計画なんだよ、とも言わない。「生きる意味が解らないけど生きるのと、生きる意味が解らないから死ぬのは全然違う。今生きる意味が解らなくても、あ! このために私は生きているんだって思える瞬間がこれからきっと何度もあるよ。だから生きなさい」。こんな説得力のない言葉でも、娘は反応してくれた。
◆この話し合いの日から、どんな言葉を言えば私の怒りが沸点に達するかを予想して実行し、予想通りに怒りだしたらニヤニヤほくそ笑むという陰険な反抗もすっかり姿を消した。子供っぽい反抗はしょっちゅうするが、むしろそっちは大歓迎だ。折よく学校が再開し、友達と会って話せるようになるとあんなに没頭していたSNSにも未練はまったくなくなり、なんだか元通りというより前にも増して元気で明るい子になった気がする。6年生になったら男子とも仲良くなって大勢であそぶようになり学校が心底楽しいみたいだ。2か月遅れで始まったクラスでは、やはり代表委員に立候補して三期目を務めている。
◆8月1日から夏休みが始まった。また暗黒の世界に入ってしまうのではないかという心配はしていない。一度底まで落ちてしまったら、ちゃんと抜け出せたときには二度と落ちないように心が機能するのだ。だから柚妃は元気だ。そんな中、元気のダメ押しのように北極冒険家の荻田泰永さんと行く100マイルアドベンチャーに参加できることになった。
◆181kmを新しい仲間たちと歩きながら何を感じ、何を心に残すのだろう。いいこともクローズアップされるだろうけど、欠点や苦手なことがバーンと前面に出てきて劣等感が生まれるかもしれない。それをどう克服するか、どう付き合うかを考えるのは本人の頭の中の世界だ。泣くようなことがあったとしても、積極的な行動の中でなら成長の過程として健全だし安心だ。昨日、初対面同士の6年生8名の隊列が、小田原城を元気に出発した。10日後には何を持って帰ってくるのだろう。(瀧本千穂子)
地平線通信7月号(495号)は7月15日印刷、封入作業をし、16日に郵便局に渡しました。「密」を避けたいので事前に呼びかけはしませんでしたが、なんとなく嗅ぎつけて集まってくれた方が来てくれました。以下の人たちです。このところページ数が増えているので助かりました。
森井祐介 車谷建太 久保田賢次 白根全 光菅修 高世泉 武田力 八木和美 長野亮之介 江本嘉伸 落合大祐 大西夏奈子
■今年2月から急速に広がった新型コロナウィルスの感染拡大。水産業も新型コロナに大きな影響を受けている。「高級魚が売れないんだよ」というのは東京湾の漁師。東京湾の夏の魚といえばスズキ。それなのにスズキが売れない。「サバや太刀魚、カマスなんかでなんとかやってるけど、夏の東京湾といやあスズキ。困ったもんだよ」。福島の浜のかあさんも「春はヒラメが暴落して弱ったねえ。その後、持ち直してきていまは休漁期。9月からまた父さんとがんばるよ」。
◆漁業界における新型コロナの影響は、生産・加工・流通のどの分野に位置するかによりかなり異なる。また漁法や漁業規模、追いかけている魚によっても違う。新聞でも報道している「高級魚が売れ悩んでいる」のはホテル宴会が自粛になり料亭、料理店が休んでいるから。高級魚を獲る沿岸漁師への打撃はつづいている。
◆イワシ、サンマ、サバ、アジ、イカ等の大衆魚をとる沖合漁業は、水産物全般への需要の落ち込みによる魚価低迷、缶詰など加工原料需要の減少、養殖向け飼料等の需要減少と、こちらも打撃を受けた。さらに水産庁から「予防対策の徹底」を求められ、狭い船のなかでソーシャルディスタンスやマスク着用にてんやわんやで対応していた。しかし国民全般の巣ごもり生活がスーパーでの購入を増加させ、保存がきく缶詰や冷凍魚の需要も増えてきていることから、水産物流通・消費量全体では対前年比最低時の3〜4月の40%減から6月には10%減まで回復したという。
◆一方、養殖漁業は大変だ。生け簀の魚は売り先がなくてもエサは食べるし環境整備も日々必要。また美味しいタイミングで出荷しなければ価値はない。3月、4月は私のところにも「弁当屋でもどこでもいいから紹介して!」と四国や九州の養殖業者から悲鳴のような連絡が相次いだ。スーパーではブリの切り身が1枚100円、刺身盛り合わせが300円といういつもの半値で並んでいる。なんとかしてあげたくても紹介できるのはひとつかふたつ。私にできることはとにかく食べて応援すること!と思い至り「養殖魚はいまが食べどきだよ、魚を食べて免疫力をアップして!」とあちこちに呼びかけ、自分でも大いに堪能することにした。7月からは政府施策で複数のキャンペーンが立ち上がり、“目詰まり”状態は改善し出している。
◆漁業界ではヒトの問題も大きい。沿岸の家族漁業をのぞき、日本の水産業はもはや外国人なしでは成り立たない。定置網漁業では現在全国で178人のインドネシア人技能実習生が乗り子として働いているがインドネシアからの新規入国はいまも制限されていることから、人手不足による休業が懸念されている。
◆沖合漁業も同様だ。世界を漁場にする遠洋漁業では、トロール船、マグロはえ縄船、海外巻き網船等219隻がアフリカや太平洋諸国の沖合で操業しているが、世界各国が事実上鎖国状態になったことから、都市封鎖や入出港制限、乗組員の乗下船の禁止、入国禁止に遭い、魚の水揚げもできず現地の港に係船しているという。船主や協会が水産庁、外務省に働きかけ、特例的に乗組員を下船させチャーター便で帰国させたり、出入国できる国へ船を回航して操業再開を目指しているが、どの国も規制が緩やかになる見通しはなく、経営破綻する事業者が出る前に対応を、と政府に求めている。
◆私は27年間、漁業を応援する活動をしてきた。仕事で漁業界をインタビューし、漁業は私たちにとって身近な食べ物を生産している産業なのに、その仕事の中身が見えない、課題山積なのに社会に伝えられていないことに気づいたことがきっかけだった。消費者サイドから漁業を応援しようと活動を始めたが、当時すでに衰退の一途をたどっていた漁業界は消費者側の動きを歓迎しつつも、自ら改革することはできず漁獲量も漁師も減るばかり。
◆水産界内部でも「このままではもたない」とさまざまな提言が出されたが、改革は既得権者の変更を意味する、企業参入は漁村の秩序を乱すということで押し戻された。2000年代に入ると事態はますまず深刻化し、ノルウェーやニュージーランドの成功事例が研究され、資源管理と魚価上昇を実現する方策が提言されたが議論は混迷するばかり。
◆10年以上の激論を経たのち2018年12月改正漁業法が70年ぶりに成立、昨年12月に施行された。「目的は水産資源の持続的な利用、儲かる漁業を目指す」という方向性には大方が賛成するものの、「大規模漁業者に有利になり小規模伝統漁業には不利ではないか」「漁獲枠調整を行う海区調整委員が選挙制から知事任命になった。当事者が排除されるかもしれない」という懸念がいまも渦巻いている。ともあれこうして成立した改正漁業法がスタートした今年初頭、100年に一度という新型コロナ禍に見舞われた。水産界はいま、大きな転機を迎えている。
◆ただこの事態をプラスにしようとする漁業者もでてきている。資源管理手法のひとつ「水産エコラベル」は、これまで日本では関心が低かったが、消費サイドのなかに「自分が食べる魚がどこで獲れているか、どのように流通しているのか」に注意を払う機運が出てきた。また「末永く食べるために持続的な漁業を応援したい」という関心もいままで以上に高まっている。水産エコラベルは欧米発と日本発があり、日本発のMELジャパンは伸び悩んできたが、新型コロナ禍をきっかけに思わぬ広がりを見せている。
◆私はこのMELジャパンに発足から関わった者として「水産エコラベルは生産者と消費者が一緒に資源管理に取り組める仕組み」とこれまで苦労してきた漁業者に光があたるようあれこれ作戦を練っているところだ。(佐藤安紀子)
■こんにちは、テンカラ食堂です。今はお店を休んでいます。もともと5月の6周年を期に、ひと月休もうと決めていました。母と墓参りに仙台に行って、ウミヘビ食べに沖縄、そこから石垣の知人を訪ねて……。チケットもホテルも店の予約も準備万端。で、コロナがやってきました。3月の末に店内営業をやめて持ち帰りに切り替えました。大阪では早い方だったと思います。
◆お客さんも「え?」って感じでしたが、カナダ留学中の仲間からの情報や、店の常連さんや近所の店主さんたちとミーティングをして、「状況はわからないけど手遅れにならないようにできることをしよう」と。それから少しして緊急事態宣言が出て、いろんな不安はあったけれど、時間の流れがゆっくりになったようで嬉しい日々でした。ハードワークの常連さんが在宅勤務になって「テイクアウトのコーヒー買いに行くけど、いりますか?」と声をかけてくれたり、早朝キャッチボールが始まったり、知らない人たちともコロナ渦という共通の状況の中で声をかけあうことがよくありました。
◆この感じ、もう少し続けていたいと思いましたが、予想より早く緊急事態宣言が解除になって、どういう形で店を開けることができるのか分からず、とりあえず休むことにしました。そしてとりあえずが2か月になってます。私自身は今、ちょっとコロナ疲れを起こしてる。先週、合唱をやっている常連さんのマンスリーコンサートが再開されたと聞いて行ってみました。歌の前に、リーダーの男性がどのような感染対策をして今日を迎えたかを話し始めたとき「うへ〜、もうコロナの話は勘弁。歌を聞かせて〜!」とココロが叫んだ(感染対策の説明は必要なことだと思っていますが)。
◆そろそろ営業再開を考えていますが、どこまでできるかな? 席数減らして、窓も入口も開けて換気して……きっと暑いよね。検温、追跡QRコード、マスク着用、共有物の消毒……ひとりでできるんかな? 「感染対策やってます」と言える状態をつくる自信はありません。いっそのこと「感染リスクのある店」としてやっていきたいくらいです。
◆明日の日曜日、久しぶりに営業します! 一日限定イベント「赤てん定食の日」。島根県のB級グルメ「赤天」を手作りして定食に。感染対策もやってみます。お客さんにとっても私にとっても心地いい形を探りながら、ゆっくり再開していこうと思います。(大阪 テンカラ食堂 井倉里枝)
★追伸:イベントは8月9日12:00〜18:00、予約制で行いました。満員御礼! 楽しかったです。8月はウォーミングアップでちょこちょこ開けて、9月からフル再開しようと思いま〜す。
■8月5日、いま神奈川の自宅でこれを書いています。例年であればねぶた祭に参加するために青森に滞在している時期ですが、今年はほかの多くのイベントと同じようにねぶた祭も中止になってしまいました。この時期に自宅にいるのは実に18年ぶりになります。
◆私が初めてねぶた祭に参加したのは2003年のことですが、それ以来17年間、毎年青森に通い詰めてきました。ここ最近ではねぶたを中心に1年間のスケジュールを立てているような状態だったので、ねぶた関連のイベントが一切ない今年はまったく季節感がありません。
◆青森ねぶたの本祭が開催されるのは8月2日から7日までの6日間ですが、関東近辺でのねぶた絡みのイベントはそれよりももっと早くだいたい5月くらいからスタートします。各地の夏祭りやパレード、青森市やJRなどのPRイベントや、遊園地のステージなど、ほぼ毎週のようにどこかでねぶたをやっていて、それで徐々に気持ちを高めて本祭に挑むわけです。当然ですが、今年はこれらのイベントもすべて中止になりました。もう半年以上、一度も生でねぶた囃子を聴くことがなく、跳人の浴衣にも袖を通していません。いつもならば8月の本祭に向けて走り込みなどをして体つくりに努めるのですが、それも今年はやっていません。
◆こんなときこそねぶた囃子でも聞いて少しでも気分を盛り上げようとも思うのですが、実際にCDでねぶた囃子をかけてみても、頭に浮かぶのは「今年は無いんだ」という悔しい思いだけです。ご多分に漏れず青森ねぶたもオンラインでさまざまなイベントが行われていますが、正直言ってどれも気持ちが乗り切れません。こんなにも色褪せた夏は経験したことがありません。
◆青森ねぶた祭は毎年行われます。今年が無くても来年があるだろうと思われるかもしれません。でもそうではないのです。毎年必ず行われるからこそ、その年にだけしか経験できない一期一会のねぶた祭を感じることができるのです。そういう意味で、行われなかった「2020年のねぶた祭」は、決してあって欲しくはない一期一会でした。この「2020年のねぶた祭」が自分のねぶた人生にとってどんな意味を持つのか、次の夏までの長い一年間でちゃんと向き合わなければならないのかもしれません。(杉山貴章)
■大阪に住む岸本です。6月に仕事を辞め、今は完全に年金生活者になっています。
コロナのおかげで時間はあっても遠くに出掛けられないので、時々地平線会議のメンバーとオンライン飲み会をしています。先月寄稿された熊本の川本さんとは球磨川の洪水の話もしました。「ダムさえ作っていれば洪水は防げたのに」とテレビで語る人がいましたが、実は「ワクチンさえできればコロナ問題は解決する」というのと同様、そんな簡単に結論が出る訳がないと私は思っています。ここは反対運動に携わってきた川本さんに詳しく聞いてみたいところです。実体験を踏まえた意見を聴けるのが地平線会議の良いところですからね。(岸本佳則)
■先月の地平線通信で樫田秀樹さんの文章が印象に残った。喧伝されたリニアの利便性がテレワークにより無に帰す滑稽さもさることながら、反対運動を続ける服部隆さんの「無駄な命は無い」との言葉に触発された。
◆私は、春から北海道の遠軽町で造林作業員として働き始め、今時期は専ら、山に植えられた針葉樹の苗木に日光を当てるための下草刈り作業をしている。春にはご馳走になるウドやタラなどの山菜や、カンバ等の広葉樹を残さず切りまくることに罪悪感を覚えていただけに、「選別されない命あっての山の素晴らしさ」を訴える言葉が胸に響いた。私は単一の樹種を残すため、日々命の選別を行っている。山仕事はまだまだペーペーの一年坊だが、山の仕事を通して、そこにすむ数知れぬ生き物たちのことも考えていきたい。(五十嵐宥樹)
■いつも通信ありがとうございます。コロナ渦でのみなさんの暮らしぶりや思いに、自分の暮らしぶりや思いを重ねながら読んでいます。報告会がままならない中、毎回文字ビッシリの22ページはすごい。地平線通信は「時代を記録する」のだとしたら、まさに今、それぞれの立ち位置で書かれているありのままが「時代の記録」なのですね。
◆私の毎日もすっかり巣ごもりですが、次々宣告される研修やイベント中止に抗って、「Zoom」を慌てて学んで研修をしたのをかわ切りに、画面越しの交流は激増しました。ITなんて大の苦手といっていた仲間が、Zoomをクリアすると常連となり力になってくれる。今まで近場で集まれる数人で考えていたことが、地域を超えて気軽に相談しあえることが嬉しく楽しく、これまで以上のつながりや協働が生まれています。
◆とはいえ、この1週間久しぶりに北海道帯広を訪ね、海岸べりの原生花園で色とりどりの花々に出会ったり、道産子に乗ったり、手打ちそばを教えてもらったり……。昨年まで当たり前にしていた直接体験を子どもたちと一緒に行うかけがえのなさを思い、からだの芯から感じるよろこびを満喫してきました。コロナを超えて、ネットの活用と直接体験の組み合わせで、私たちの活動も考えていくことになるのでしょう。集まれないことを悲しんでいても前に進めない。頭を柔らかくして知恵を絞る楽しみが今あります。(三好直子)
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください。送付の際、最近の通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。
渡辺智子(浜比嘉島)/豊田和司(3000円 広島 通信費1年分+寄付です。6月号服部小雪さんの母上、詩人の服部葵さん、衝撃のデビューに驚きました。詩集『ぜんぶ耳のせい』は読みごたえがありますよ)/佐藤泉(いつも楽しみに待っています) /津川芳己/石原卓也/帰山和明(ステイホームで今まで以上にじっくり読ませてもらっています)/吉岡嶺二(4797円 このところの『通信』毎号、アジア会館以来の一堂が益々のご活躍痛快です。自分は今「江の島の海ひとりぼっち」少しだけ漕いでいます)/永田真知子(3000円 樫田氏の「リニア」の記事を読み、トンネル工事により豊富な水を永久に失った丹那盆地を思いました。カンパ少々)/村田忠彦(10000円 1989年7月18日、読売新聞の記事に惹きつけられアジア会館に参加したのがスタート、伊南村、四万十遠征、女川ボランティア活動、皇居マラソンなど思い出が盛りだくさんです。数年前、不整脈、一昨年は脳梗塞を発症し、幸い後遺症もありませんが、夜遅くなるイベントは控えています。にも関わらず地平線通信を送り続けていただき、感謝しています)
地平線発足の1979年、私は大学を卒業したものの就職など頭になく、旅の資金稼ぎに肉体労働の日々を送っていた。1人暮らしなので、旅費のみならず、留守中のアパートの家賃、諸々の維持費、帰国後しばらくの生活費なども必要になる。東南アジアには何度か出かけたが、次の少し長い旅のためにあえいでいた。この時期1ドル230円くらい。バブル期なんて遥か先だ。
日大探検部にいたころ他大学探検部と合同で海外遠征の報告会を行うという企画に関わっており、そのときオブザーバーとして参加してくださった先輩方が中心となって地平線会議なる活動をはじめたらしい、との話は仲間の誰かから聞いたが、じっさいに地平線に参加するまでほば3年くらい間がある。
江本さんから連絡をいただいたかもしれないが、結婚前まで住んでいた木造四畳半のアパートでは隣の大家さんちの玄関の黒電話だけが唯一の連絡手段。電話が鳴ると大家のおばさんがアパートの出入口に駆けてきて「渡辺さーん、お電話ですよー」と大声で呼びかける。返事がなければ駆け戻り「お留守でーす」という昭和の風景。連絡がつくのはほぼ奇跡に近い。
翌80年は1月から4月がネパールとインド、5月から8月が北海道でトラックで竿竹の行商、9月から中南米に出かけた。帰国した翌年春に江本さんに連絡し、地平線に顔を出すようになった。で、定職もないのにその翌年に結婚。ふたりでアジア、北アフリカ、南米などを旅するようになった。地平線webサイトの表紙右上の写真がかあちゃん(京子)です。ペルーのワイワシュ山群を荷運びのロバと10日間歩いたときのもの。ネパールでもアンアプルナ一周、ランタン谷、ヘランブー、ゴザインクンド、ララ湖などを歩いた。知り合うまで山なんか登ったこともなかった京子がこんな旅についてきてくれるなんて感謝と驚きでいっぱいだ。
そうそう、85年には江本さんにくっついて黄河源流探検隊に参加させてもらったりもした。
やがて娘(あすか)が生まれた。めちゃくちゃ可愛い。これからは将来を考えて、しっかり地に足のついた生活をしなくては、などと思いつつ、もうガマンができない。
89年、1才のあすかを抱っこしてボルネオのキナバル山(4101m)に行った。まもなく頂上というときあすかが嘔吐。声も出さない。あわてて降り始めるとぎゃーと大声で泣いた。大声が出るなら大丈夫、と頂上に引き返し登頂。
翌年はエアーズロックに登りたくてキャンプしながら車でオーストラリア縦断。あすかは車が苦手のようでドライブ中ずっと泣いていた。
その翌年に2人目目妊娠。しばらくは旅もむりかと思ったが、ひどいつわりの時期を過ぎ元気を取り戻したかあちゃんは「8か月になれば安定するから」。で、大きなお腹を抱え、当時バンコクに住んでいた高世仁・泉夫妻のお宅を足がかりに、ようやく個人旅行が許されはじめたベトナムへ。あすかは何度も下痢をした。
ふたり目の子、陽太が生まれてからも中国やラオスに出かけ、94年にはケニアへ1か月半の旅。あすか6才、陽太はケニヤで3才になった。旅が終わるころ、とうちゃん、あすか、陽太の3人がマラリアになった。
収入のありったけを旅につぎこむような生活がなんとか破綻せずにいられたのは、ケニヤから帰って、かあちゃんが特養老人ホームに看護師として就職したおかげだ。経済破綻寸前のもがくような日々。3人目の子、圭太が生まれた。圭太1才の夏、一家で北海道へ出かけてすぐ圭太の風邪が悪化して肺炎に。とうちゃんが付き添って富良野の病院で2週間入院した。
それでも懲りず、夏になるたび借りた車にテントを積んで北海道、東北、四国・山陰などを3週間くらいかけて旅をする。いや、子供たちを引きずりまわす、というべきか。大雪山旭岳、八甲田山、姫神山、伯耆大山などに登った。就職したかあちゃんはいずれも途中参加だ。
2002年の夏、大好きなインドへ。あすか13才、陽太10才、圭太6才。車をチャーターしてラジャスタン地方を1週間ほどまわり、象やラクダに乗った。仕事が待つかあちゃんをデリー空港で見送ったあとは、1か月余り、3人の子供達と旅を続けた。まずはカトマンズまで飛び、あとはバスと列車を乗り継いでポカラ、バラナシ、アラハバード、そしてデリーに戻るというコースだ。子供達は皆どこかで発熱と下痢の洗礼を受け、圭太など高熱のため錯乱状態になった一夜もあったものの、3人とも、けっこう淡々と旅を楽しんでいた(と思う)。
子供を連れて旅をするのはなぜ?と聞かれると困る。お金も手間もかかるし、行動も制限される。子供達もけっこう辛い目にあう。家族だから一緒に行くのは当たり前、としか言いようがない。親のしたいこと(うちの場合は旅)ができない理由を子供のせいにはしたくない。
今は子供達も仕事を持ち、家を出た。展示会やイベント会場設営が仕事の私は、2月末から失業状態で、主夫業に専念し、かあちゃんは特養ホームで働き続けてくれている。待てよ、昨年の3月にあすかが男の子を産んだ。だからもう、とうちゃん、かあちゃん、ではなく、じいちゃん、ばあちゃん、ではないか。
つぎはいよいよ孫連れ旅か。(渡辺久樹)
■とりあえず今年もイクラ欲しさに海までサケ釣りに出かけた。ピンクサーモン(カラフトマス)は、身はイマイチだがイクラはうまい。なぜなら産卵地が河口に近いから釣った時は卵がすでに熟している。この時期アラスカからカムチャツカ、サハリンまで色々な魚卵の食べ比べは癖になる。旧南樺太では5年ぐらい前からイクラ、カニなどを道端で安く売るようになった。というのは今まで北海道に密輸をしていたのが、取り締まりが厳しくなったためだ。
◆巨大タラバガニが1杯2500円ぐらい、サハリンの学校まわりという名の海鮮三昧はやめられない。サハリンといえば戦前トナカイ王と呼ばれた実業家がいた。敷香(ポロナイスク)郊外で先住民を取り仕切っていたビノクーロフ、ヤクーツク対岸から流れてきた男だ。幻の日本軍トナカイ部隊の世話もした。ソ連建国時、サハ独立を求め日本政府にソ連攻撃を嘆願したり、女優岡田嘉子に国境の越え方を教えた張本人だ。今でもサハリンの少数民族はトナカイを飼っているが、そのやり方はヤクーツク郊外のエヴェン族スタイルなのは彼が呼んだエヴェンの影響だろう。因みにロシア軍トナカイ部隊はヤマールのネネツ族のやり方だ。
◆どこでも辺境は昔から都市に馴染めない変わり者が流れつく場所だ。中でも90年代アラスカ最北の街に特筆すべき問題児にシーラがいた。40歳前後金髪で遠くから見たらブリトニー・スピアーズ似の彼女はキャデラックに乗り、街で違法のタクシー業務をしていた。地元のタクシー会社や男たちといつももめていた。当時のバローは禁酒だったのは幸いだった。こういう人に多い特徴として、お金にはおおらか(適当)で、寛大(忘れっぽい)。
◆なぜ彼女をよく知っているかというと、キャデラックのガレージに何度か泊めてもらったことがあるからだ。我々の観測機材を二つ返事で無償で暖かい所で預かってくれた。ある夜遅く例によってトラブルを起こし、私に車の鍵を投げると、彼女は“逃げて!” と言って走り去った。タクシーと思って手をあげる人を横目に、私は夜霧のなかキャデラックを街から連れ出すことに成功した。車高が低く、4輪駆動ではないキャデラックをツンドラの道にハマらぬよう走っては移動し、人の目を避けながら明け方まで過ごし、おそるおそるガレージに戻ったことがあった。まあ、そんな彼女だから97年頃だったか街を追放され、アリューシャンのダッチハーバーで懲りずにキャデラックを乗り回していると噂で聞いたことがあったが、2010年にダッチハーバーへ行った時にはキャデラックの姿は見なかった。
◆そのほか冷戦当時、潜水艦でも戦闘ヘリでもなんでも即時に呼ぶことのできるザ・キング・オブ・ザ・アークティックと呼ばれた海軍研究所所長だったマックスも変わった男だった。1950年代彼の趣味は戦車でツンドラへ行き、永久凍土の温度を測ることだった。晩年彼と昔の穴探しの旅をしたことがあるが、当時78歳でヘビースモーカー、ステーキに塩をかけるときも1分ぐらい振り続けていた。中国で飲んだときも中国人たちがとっくに潰れても、いつも最後まで残るのはマックスと私だった。こんな不健康な男だったが結構長生きした。
◆カナダの北でもかつて変わったインド人が住んでいた。我々にとってレゾリュートといえば当時永久凍土研究の第一人者のリンク・ウォッシュバーンがフィールドにしていた島だが、日本人に一気に有名になったのは、80年代インド人のベーゼルさんが冒険にきた人たち相手に商売をしていたからだ。日本からも南極物語の撮影や、女優さんとかが泊まっていた。
◆当時私はイグルーや気象観測のウェインの家で暮らして卒論をやっていたが、優しいベーゼルさんはイグルー生活を不憫と思ったのか私を夕食に何度か招待してくれた。ちなみにイグルー文化がまだかろうじて残っているのが北東カナダのイグルーリックの村だ。春先にバフィン島西側の無人地帯などへ行くと時々イグルーリックの人が狩猟中に使ったイグルーを見ることがある。去年この村のイグルー作りコンテスト優勝タイムは35分だった。初心者がテントを設営するより早いかもしれない。
◆話をサケに戻そう。サケの内臓はアニサキスだらけだ。このあいだアニサキスが奥歯に引っかかり、ひどい目にあった。まあ、飲み込まなくてよかったが。サケの冷燻を試食しながら作っていた時、3〜4時間ぐらい奥歯に毛が挟まった感じがして気になっていた。噛んだ感じも硬くて髪の毛そっくりだったが、挟まるような髪の毛は鮭にもスキンヘッドの私にもないしと思い、鏡で見ると“白い毛”が動いていた。
◆嫌がるアニサキスを指でつまんでようやく引っ張り出す。折角なのでウオッカに漬けると平気で20分泳いでいた。だんだん弱ってきたので水を与えたら、すっかり元気を取り戻した。すごい生命力だ、見習いたい。寄生虫のいた歯ぐきや内ほおの皮膚がざらついていたのでちょっと気になったが翌日起きると顔が動かない、こぶとり爺さんのように激しく腫れた。実は2匹いて1匹はすでにほおの内に入ってしまったのではないかと医者に言われる始末。皆さんも気をつけてください。
最近、うっ憤がたまっているので、そのうっ憤について少し書かせていただく。
何のうっ憤がたまっているのかといえば、コロナである。より具体的にいえば、コロナに関連しての原稿だとか意見だとかをもとめられる機会が多くて、そのことにうっ憤がたまっている。
この原稿も江本さんからコロナについて何でもいいから、といわれて書いている。とはいえ、ここで私は江本批判を展開しようというわけではないから、そこは勘違いしないでいただきたい。このようにコロナについて漠然と原稿執筆をもとめられるのはまだいいのである。私がイライラするのはコロナ禍で混乱している現行の社会状況と、私がやっているような探検・冒険活動を関連付けられることだ。つまり、このような自粛して感染リスクをおさえることだけに関心がむかっている社会状況のなかで、あえて北極に行くような行為をどのように正当化するのか、探検と社会をいかにして結節させるのか、そこを問うてくることに非常なストレスを感じるのだ。
考えてみれば、最初のこの要求をつきつけてきたのは私の妻だった。今年の3月、コロナ禍が全世界的に最隆盛をむかえようとするそのとき、私はシオラパルクの村を出発して長い犬橇の漂泊旅行にでた。6日後に衛星電話で妻に最初の連絡をいれたときに世界がとんでもないことになっていると伝えられ、えー、まじでー、と驚く私に、彼女は「世界がこんな状態にあるときに探検に出る意味を考えてほしい。物書きとしてそれを書いてほしい」と言ってきた。そのときは、またこの人はとんでもなく高い要求を課してくるな、鬼嫁か、と途方に暮れたものだが、今思えば、その点、私の妻は編集者としてすぐれた素質をもっているのかもしれない(ちなみに彼女は編集者ではなく、ライターでもなく、出版業界と何ら関係のない普通の主婦である)。というのも、同じようなことを帰国してからプロの編集者やテレビ関係者にいわれたからである。
旅の途中に妻にいわれたときはまだよかった。私も本を書いて生きている人間であるから、表現というものについては考えることが多い。本が表現である以上、受け取り手である社会との関係なしには成立しないわけで、自分の行動と社会との結節点はどこかで見定めておかなくてはならない。なので、この北極漂泊旅行とコロナ禍の社会はどこでつながるのか、ということをテントのなかでしばしば考えた。私も20年近く前に地平線会議で最初に報告したときにくらべて多少は成熟しており、その意味では大人になったのかもしれない。
だが、日本に帰ってきてから何度も同じことを要求されると、正直、腹が立つのだ。最初に20代のときに報告会をしたときと同じ、旅や探検というものに対する原核的態度がむくむくともたげてきて、叫びたい気分になる。
これは地平線の人にもあらためて考えてもらいたいのだが、旅でも登山でも探検でも何でもいい、なんでわれわれがそういうことをやるのか、それをやらないではいられないのか、というと、それはこの社会がクソだからだ、と思う。少なくとも私はそうだ。社会があまりにクソすぎて、生きている実感がえられないから、その外に飛びだす。これはコロナとは関係がない。コロナ禍で自粛だとか感染者にたいする心ない排除だとか、そういうことをクソだといっているのではなくて、コロナ以前からこの社会はクソだといっているのである。
クソな社会の外側にある領域に生きることに関する何か真実のようなもの、それが面白いから探検みたいなことをずっとやってきた。そしてそれは今も変わらなくて、さきほどの社会との関わり云々でいえば、私はずっと、この社会の外側に広がる領域こそ真に生きることを実感させられる場所があり、そこと比べるとこの社会はじつにクソであり、クソであることをみんなに気づいてほしい、みんな気づけば多少はマシになるかもしれん、でもならなくてもかまわない、そんなこと知ったことか、という気持ちで本を書いてきた。
それなのにみんな、私の行動がコロナ社会でどのような意味があるのかを問うてくる。あらためていうが、社会がアフターコロナだろうとビフォアコロナだろうと、旅や冒険のなかにはそもそも社会への還元的要素など存在しない。旅や冒険は個人の内部の問題で、社会との関係が生じるとしたら、その報告を読んだり聞いたりしたときに受け手側が何を感じるか、そこにしかない。
私は好き勝手やっているだけだし、これからもそれをつづけて本を書いていくだろう。そしてそれを読んで、読者が好き勝手やってこいつムカつく、と思ってくれても結構だし、面白がってくれても構わない。それは受け取り手の感性の問題であって、このクソみたいな社会との関わりとのなかで私の行動それ自体が変わることはない。私の行動に変化をうながすものがあるとすれば、それは今の旅の対象である北極の地であり、家族である。その意味でこのクソ社会は私の人生や行動のなかでは本質的な場所をしめていない。
今コロナに関して言いたいことはそれだけである。うっ憤を吐きだしたらちょっとすっきりした。(角幡唯介)
■長く続けているといろいろな問題で面白い出会いがある。フロントで書いたトーク番組は金子勝教授が中心となって進めている「ヨナオシフォーラム2020」という企画の一環でたまたま「We(ウィメンズアイ 石本めぐみ代表)」という3.11をきっかけに東北の女性たちを支援する活動を続けている仲間たちの総会で顔をあわせた(もちろんオンラインで)。1人、田島誠さんから聞いて知った。
◆実はこの田島さん自身、地平線会議の報告者で、1982年4月30回報告会「国境 難民村からの報告」というテーマで話をしてもらった先日までの青年。若く志を抱いて行動した人は必ずどこかでつながってゆく。最近はそう思うことが多くなった。年寄りはさっさと退場せよ、との声はわかっているが、どうしても大きな画板で見なければわからないことがあるんだよね。
◆花岡正明、三輪主彦の文章、そして上の長野亮之介画伯の漫画、なんの打ち合わせもなく3人が思い思いに書いてきた。たまにはこういうのがあってもいい。なんのことか勝手に想像してください。地平線報告会、通常のかたちではすぐにはできないかも。とりあえずゆっくり考えます。
◆地平線通信の記事への感想、300字でお願いします。最大で500字まで。(江本嘉伸)
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今月も地平線報告会は延期します。9月以降いつ再開できるか、情勢を検討しながらどこかで決定したいと思っています。
地平線通信 496号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2020年8月19日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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