2020年7月の地平線通信

7月の地平線通信・495号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

7月 15日。朝から、衆院予算委員会新型コロナ閉会中審査が首相なしで進められている。コロナ問題は今、国家にとって最大の問題、首相が出ずにどうする? アメリカ、ジョンズ・ホプキンス大学によると、新型コロナウイルスの感染が確認された人は、日本時間の14日午後3時の時点で、世界全体で1310万3290人、死者は57万3042人となったそうだ。

◆感染者の多い国としてはアメリカ 336万3056人(死者13万5605人)、ブラジル 188万4967人(同7万2833人)、インド 90万6752人(同2万3727人 死者数はイギリス4万4915人、メキシコ3万5491人、イタリア3万4967人の方が多い)ロシア 73万2547人(同1万1422人)となっている。

◆日本は、感染者22578人、死者は984人と、依然世界的には少ないが、東京はここに来て非常に厳しい状況が続いている。一時は1日の感染者が数人となり、そろそろ自由に動けるかも、と期待をもたせたものの7月に入って連日200人を超える感染者を数え、ついに「第二波」到来か、との緊張が走った。東京都は今日15日午後、緊急専門委員会を開き、4段階のうち最も深刻な「感染が拡大していると思われる」との見解をまとめた。GO to キャンペーンに行け行けの菅官房長官とは真っ向から食い違うスタンスだ。

◆いまや、都民、まして私のような新宿区民は何とも居心地の悪いことになっている。「とにかく来ないで」そうあちこちから言われている気分なのだ。そんな中で政府が打ち出した「Go Toキャンペーン」が集中砲火を浴びている。このキャンペーン、Go To Eat、「Go To Event キャンペーン」「Go To 商店街 など5つのキャンペーンの総称らしいが、目立つのはやはり新幹線やホテル代が半額でいいらしい「Go To Travel」だ。

◆しかも、目前の22日から実施するというのだ。よりによって東京がかなりやばいことになってきた時点で本気で旅のすすめをやるのか?

◆家に籠るしかない日々、日本山岳会に頼まれ「エベレスト半世紀」というタイトルの文章を書いている。1970年5月11日、日本山岳会隊の松浦輝夫(36)、植村直己(29)の2人が東南量から日本人初登頂をなしとげた。イギリス、スイス、中国、アメリカ、インドに次ぐ6か国目の登頂国となったが、第一の目標だった南壁は登れなかった。

◆エベレストは南北双方からたどった、私には思い出深い場所。ふるい資料を読み、取材ノートを繰る日々は、思った以上に面白く、夢中になった。ひとつには、1970年という年の面白さが ある。この年、大阪で国際万国博覧会が開かれ、この機会を活かして三浦雄一郎のエベレストスキー滑降の企画をたくみに支援した人たちがいた。そのあたりの現代史をとくことが、刺激的なのである。

◆7月に入って近くのプールで泳ぐことをたまにしている。その初日、水にドボン、とつかった途端、耳にキィーン、ときた。しまった、補聴器を外してなかった。何年か前、講演を頼まれた際、会場からの質問がまったく聞こえないのに狼狽した。聞こえが悪いことは気づいていたが、これはほんとうにやばい。補聴器を注文し、以後身につけている。風呂に入る時はもちろん外すのだが、あまりに久々のプールだったのでそのまま飛び込んでしまった。

◆もうダメかもしれない。片耳15万円は痛いが、仕方ない。翌日、新宿駅南口にある補聴器センターに向かう。もちろん歩いてだ。この5か月、電車に乗ったことは一度しかない。どうせなら緑に包まれながら歩きたいので新宿御苑を通って行く。御苑は昨年から入場料金が200円から500円に上がった。外国からの旅人、つまりいちげんの客が多いせいだが、私のように頻繁に通う者には年間パスポートというのがあり、これは2000円で何十回も入れる。

◆雨にうたれた後でみずみずしい緑がほんとうに気持ちよかった。気分がいい時には美味しいものを、と出入り口近くの店でソフトクリームを買いに敷地内に入った瞬間、体が浮いた。日頃からグリップのきくビブラム底の靴を履いている。それが水たまりのできたコンクリートの床で逆の作用をし、もろに滑ったらしい。かなり派手なかたちで叩きつけられ、頭をゴン、と打ち付けた。

◆アイスクリーム屋さんの店員、居合わせて人々の反応で相当派手な転倒だった、とわかった。脳震盪を起こしたのか、気がついたら温室に近いセンターの簡易ベッドに寝ていた。頭に傷ができて、少し出血しているが、この感じなら大事ではないだろう。しばらく休ませてもらった後、お礼を言って新宿にむかった。補聴器は大丈夫だった。1円もかからないことに感謝し、近くに来ているはずの連れに連絡し、顛末を伝えた。

◆緑に囲まれ、御苑でランチ。老人はコロナだけじゃないよ、気をつけて生きなさいね。そう言われた気がする午後だった。はい、気をつけまする。(江本嘉伸


新型コロナ2020

庭に3本の白樺を植えた

 世界に恐怖を巻き起こしたコロナウイルス。その流行の当初、フランスを初めとする各国指導者が「これは戦争だ」「コロナに打ち勝とう」と言うのに違和感を覚えた。コロナ以前にも、欧米人の優越意識と傲慢さにあきれることがあった。例えば、米国のトランプ大統領を初めとする白人系米国人が、移民や外国人に「ここは俺たちの国だ。よそ者は出ていけ」と言った時。先住民を殺戮し土地を奪った歴史、そして自らも西欧からの移民であることを忘れたような物言いに私の方が恥ずかしくなった。

 産業革命以来、その物資生産力で他の文明圏を圧倒した西側文明だが、大きな欠陥があると思う。それは「人間は地球に生かされる」という意識が希薄なことだ。ブラジル先住民アユトン・クレナックがこんな話をしてくれた。「森で野豚とヤマアラシが出会って、ヤマアラシが『最近、人間を見ないよね』というと、野豚が『そういえば、そんな奴もいたね』と答える」。そう、その程度の存在なのだ。人間が明日にいなくなっても地上の生き物は誰も困らない。それなのに、我が物顔に「快適さ」のために山や川を作り変え、欲望のためにさまざまなものを破壊してきた。アユトンは「太陽は私たちの信仰の対象。でも、人は太陽が近くにあったらゴミ焼却場にしていたかもしれないね」とも話した。

 今朝、テレビの海外ニュースが、ハイノに金1トンを使った高級ホテルが誕生したと報じていた。外壁、内壁、机や便器と金がふんだんに使われている映像が流れた。南アフリカでは、トンあたりの金含有量3〜4gだったが、それを得ようと地下3600mまで掘り進み、50万以上の労働者が懸命に働いていた。南米の熱帯雨林では違法採掘人が高圧ポンプで地面をえぐり血眼で金を探していた。彼の地で暮らす狩猟民族ヤノマミのシャーマン、ダビは「ヤノマミが天を支えているから世界がある。我々が滅びれば、白人も滅ぶ。地球を休ませないと、いつか空が落ちてくる」と話した。

 「熱帯雨林保護団体」を主宰する南研子さんと昨年末、久しぶりに会った時、「40回以上、アマゾンに行ったけれど、今回ばかりは死ぬかと思った。火災が広がり、シャバンチ族が暮らすセラード(草原)の温度は50度近くに上がり砂漠のようだった。多くの先住民が暮らすシングー川流域。その源流部も干上がった。破滅の時が近づいているのかもしれない」と彼女が話すのを聞いて危機感が募った。コロナがパンデミックス(大爆発)を迎え、経済活動も止まったのは、その直後だった。そのあとで、送られてきた活動報告誌の中で、彼女は「コロナ様」という表現を使っていた。「このまま行けば、森も先住民も死に絶える。その破壊を止めることができるのはコロナだけかも知れない」という思いが透けて見えた。

 私たちは便利で豊かな社会を維持するために、多くのことに見て見ぬふりをしてきた。福島の原子力発電所爆発で今も続く地域住民の苦しみ、中国共産党によって、民族の誇りばかりか存在すらも抹殺されようとしているウイグルとチベットの人々。経済関係を優先させる政府の政策を変えさせることができなかった私たち。そして、自分だけが安全圏に留まることができないことを思い知らされた。誰にでも平等といえるコロナによって、世界の有り様、人間の赤裸々な姿が照らし出されることになった。

 と、書いてきたが、翻って私自身はどうなのか。ちょっと体調が悪いと気に病んだり、怪我をすると大騒ぎする臆病な人間だから、当初は慌て、不安に陥った。世界がどうなってしまうのだろうか。いままでのように海外取材に行けるんだろうか。そして、自分自身は生きられるのか。テレビを見、新聞を開き、インターネットで解説や論評を読み漁った。

 しかし、ある時、「結局、行く末など誰にもわからない」と思い至った時、情報を漁るのをやめた。識者たちにそれぞれの知見はあるだろうが、事象の重なりや偶然で物事は決まっていく。そんな未来を誰も予測することなどできない。せいぜい、後付けでわかっていたかのように解説する程度だ。「マスク、手洗い、混雑を避け、あとはなるようにしかならない」と腹を括った時、すっと霧が晴れるような気持ちになった。私は、まだ生きている。「この瞬間を逃がすな」と思い、やりたいことが次々と浮かんで来た。

 まず出したかった写真集や単行本の企画書を書き、実現してくれそうな出版社に送った。また、北海道で一人暮らしをする母のそばにできるだけいようと故郷での時間を長くした。実家の庭に3本の白樺を植えた。目覚めた時に、空にまっすぐに伸びる白樺を見たかったからだ。実家の隣には小さな貸駐車場を持っていたが、そのコンクリートを剥ぎ木立にすることにした。「お前は何を楽しみ、どう生きたいのか」と再度、問い直した結果だった。遠い先の話ではなく、まず、目の前の一歩を踏み出そうと思った。人は常に、何かを選び、何かを捨ててきた。そんな決断を繰り返しながら、人類は長い歴史の中を生きてきたのかもしれない。(長倉洋海

「リニア」に見る「異論」を言う人、言えない人

■先月、新幹線で静岡まで出かけた。行き帰りもかつてないほどガラガラだ。ここしばらくは、自由席でも余裕である。ところで、コロナ感染後、会社やNPOなどに勤務する知人の多くが在宅テレワークとなり、清掃や郵便物・FAXのチェックなどのために順番に出勤するという労働形態に変わった。

◆かくいう私も、生まれて初めてオンライン会議を経験。移動時間はゼロ。満員電車に乗っての立ちっぱなしもない。こりゃあ楽だ。だから、コロナ禍が収束しつつある今、知人の多くは「もうこの労働形態でいいような気がする」と語る。

◆さて、リニアである。総工費9兆円という超々巨大事業のリニア中央新幹線。完成すれば、2027年に東京(品川)・名古屋間を40分、2037年には大阪までを67分で結ぶ。推進理由は様々だが、その一つとして、「東京・大阪の半日日帰り出張が可能になる」ことでのビジネスモデルの変革を謳っている。

◆1999年の初取材時には、まさか20年以上も「夢の超特急」の問題点(環境破壊、地域分断など)をコツコツ取材するなんて予想もしていなかった。だが! 20年間のオレの努力は何だったのと思うくらいに今、「リニアいらないんじゃね」との声が一般人から普通に聞こえるようになった。「東京・大阪の半日日帰り出張」も移動時間ゼロのテレワークにはかなわないからだ。

◆現在、東海道新幹線の乗客は、その7割がビジネスマン。その多くがここ数か月で「オンライン会議」などテレワークを経験したはずで、コロナ収束後も、新幹線のガラガラ状態は続くはず。JR東海の収益は確実に落ちるが、それでも名古屋までの建設費、5兆5000億円も放出してリニア建設に励むのかは注視したい。ところで、その取材だが、リニアは東京から愛知県までの1都6県を通るので、全域の取材は財政的に無理。そこで今、取材の半分は静岡県に集中させている。理由は、1都6県のなかで唯一、未着工だから。

◆2013年、JR東海は静岡県北部の南アルプスでリニアのトンネル工事をすると、地下水脈が断ち切られ、県の水源である大井川が「毎秒2トン」減ると予測した。これは中下流域の62万人分の水に相当する。ところが、県知事の「失われる水はすべて大井川に戻せ」との要請に対し、6年以上経った今も、JR東海は具体的な水対策案を示していない。で、知事が着工を認めない。

◆今年6月26日、初めて静岡県知事とJR東海社長との会談が開催され、「6月中に工事させて下さい。それで2027年開通に間に合います」と訴えるJR東海社長への県知事の回答は「No」だった。当然の回答ではあるが、このとき、県庁前では、南アルプスを愛する登山家や自然愛好家、NPOメンバーなどが終結し、知事に応援エールを送っていた。

◆その一人に、登山家の服部隆さんがいた。静岡生まれの静岡育ちで、南アルプスに人生を捧げるベテラン登山家だ。服部さんを見かけるのはこれで5、6回目だが、彼はいつもこう訴える──「私は物言えぬすべての命に代わって、リニア・トンネル工事がいかに南アルプス南部の自然を破壊するかを訴えたい。JR東海は、動植物保全措置として『重要種の移植』を打ち出すが、いったい『重要種』と『重要でない命』とは何なのか? 南アルプスには、きれいなものも、わけのわからないものもいる。すべて含めて山は素晴らしい。無駄な命は一つもありません! 形式的に命を選別するJR東海に、私は心の震えが止まりません。生き物の生息場所には、みな理由があるのです」

◆6月26日も、服部さんは県庁前でこれを訴えたが、私は、自身の登山よりもそこに生きる小さな命のために叫ぶ人たちに出会って、登山家には2種類いることを知った。「山を愛する登山家」と「登山を愛する登山家」。もし大井川が枯れたら、南アルプスの生態系に多大な影響が出る。その物言わぬ生き物の代わりに服部さんは叫ぶ。

◆だが「登山を愛する」登山家は、決して「大井川を守れ」とか「南アルプスを守れ」と声を上げない。むしろ、リニアができれば山へのアクセス時間が短縮されると歓迎する輩もいる。「登山を愛する登山家」は「登山を楽しむ」のが目的であり、山は自分の人生を充足させるための舞台でしかない。また、南アルプスの山小屋経営者も、史上初めて南アルプスに超巨大トンネルが掘られることには無言を貫いている。

◆山岳雑誌だって、この南アルプスの危機にはほぼ無言。誰もが「異論」はあるのに「異論」を言うことを怖れている。私がリニア取材に関わり痛感したのは、日本は、都会や田舎に関係なく、いかに「異論」を言わない地域社会なのかということだ。日本の地域社会では、「正しいこと」や「間違っている」ことを言ったか言わないかは評価の対象にされない。対象にされるのは、皆と「同じことをする」か「しない」かだ。

◆だからこそ、そのなかで「違う」ことに対して「間違っている!」と声を上げる人には注目したい。人生、そっちの方が面白い。さて、全国的に移動自粛が解除されたので、7月はあちこちに出かけよう。そういう人たちに会うために。(樫田秀樹

現在は過去を解く鍵

 巣ごもり状態の日常は三食(奥さん担当)、昼寝、家中の階段登山、テレビを見て「政府はなにをやっているんだ」とブツブツいい、FBやZoomで友達を確認するという日々だった。

 そんな中、10万円を当てにして43インチ4Kアンドロイドテレビを購入した。中国製品なので躊躇したが五輪延期による価格(3.9万円)と高性能さに勝てず購入。奥さんは「前の日本製の方がいい」というので自室に移動させた。実はこれは巨大スマホで写真は巨大画面で見えるし今日歩いた散歩道のルートも示される。NASAのWebサイトからはリアルな地球の風景が見える。コロナの感染地域の広がりまで示されている。LINEをつないで孫とも会話できる。

 スマホは画面が小さいので私は敬遠していたが大きい画面で見るとすごい世界が広がっていた。5Gを使えば4Kの画面を見ながら手術もできるそうだ。世の中のデジタル技術はこんなにも進んでいたことを発見した。

 上海では人の顔を認証して、「あなたの乗った車両にCOVID-19感染者がいました」とスマホに連絡があるそうだ。位置情報、顔認識、銀行口座、全部登録されているからできることだ。「スマホ持っていない人はどうするの?」と昨年上海で聞いた。「そんな人はいない」という。地下鉄に乗った時にすぐに席を譲られた。周りを見ると年寄りはほとんどいない。スマホの使えない老人は田舎に帰って一段低い生活者になるしかないと聞いた。デジタル化が良いとか悪いの論議を端折って世界はこの方向に進んでいる。

 今回のコロナ禍で日本社会のデジタル化がいかに遅れているかが露呈した。中国や韓国では一日千件以上のPCR検査をやっているのになぜ日本ではできないのかと思ったが、感染者数をFAXで送ってデジタルに入力している。何それ? ドイツなどでは休業補償が即日外国人にも支払われたそうだ。日本は? 4月1日に発表されたアベノマスクは、6月末にやっと届いた。10万円はいつ届くのやら。役所の人は徹夜作業でやっているがとても追いつけない。システムがデジタル化してないから人海戦術しか方法はない。実状を知らない政治家がポーズをつけても動けるはずはない。役所の人はもうへとへとになっている。

 富岳が世界最高のコンピュータになったと言うが日本はデジタル化に関しては開発途上国並みである。一見スマホ所有は多いが高齢者はほとんど使えない。なにせIT担当大臣(78歳)が「ハンコ文化を守る会」の会長で、デジタル化は難しいと語っているのだから。台湾の若い(38歳)IT大臣とは大きな違いだ。彼女の指示で台湾ではほとんどマスク騒動は起きなかった。

 もし私が総理大臣だったら、コンピュータは使えないのでハンコをもって近くの役所へ10万円とりにくるように言う。役所では1週間全員出勤でお金を袋詰めして配る。臨時職員に町内会のヒマなジジババを任命すればことたりる。二重取りする不正が心配と言うが、マスクや補償金などの委託費ピンハネに比べればはるかにましだ。日本人は非常時になればみんな助け合うよ! 政府よりもはるかに信用できる。今のデジタル状況ではこのやり方の方がはるかに効率的だ。コンピュータに負けない人海戦術を試してみればよかったのに。

 と言っても、露呈した弱点のデジタル化を改善しなければ他国に伍していけないことが分かった。まずIT大臣を更迭して専門家を入れる。マイナンバーは全員が登録しなければ意味がないことは今回分かった。今の若い人たちはLINEやGoogle、Amazonに個人情報を売り渡すことに抵抗がない。LINEは韓国、他はアメリカ企業だ。これら企業より日本国政府の方が信用できると私は思うが、今の日本政府の状態では進まないだろう。マイナンバー嫌いの私にとっては好都合だが、経済は疲弊していくだろう。

 WHOでも諸外国でも「COVID-19」で統一しているのに日本だけ「新型」と言う。最初は未知のウィルスだったがすぐに「SARS-CoV-2」(2月11日)と命名された。サーズの仲間とわかればワクチン製造もできる。各国は競って研究にとりかかり始めた。「新型」という語を使う理由は新型ウィルスに関する特措法を作るためだった。前の特措法は使えたのにメンツにこだわった。そのためにどれだけ対策が遅れたか皆は知っている。

 幸いなことに日本では第一波の感染は小さかった。しかし世界では無教養なリーダーに率いられ感染爆発に突き進んでいる国もある。これまでも世界では多くの疫病がまん延して世界の人口が減るほどの被害が出ている。どの微生物やウィルスがパンデミックを引き起こすかわからない。しかし何年かおきにパンデミックは必ず起きている。専門家はその知見によって対処法を指導してくれた。手洗い、マスクをするだけで感染は激減する。しかし専門家会議が「8割削減」などと煽ったとして突然それを廃止し、経済専門家中心に改組された。経済第一でCOVID-19に対処できるか、アメリカ、ブラジルを見れば自明の理なのだが。第二波の兆しは迫っている。いったいどう対処するのだろう。

 私が昔に学んだ地質学の根本は「現在は過去を解く鍵」という言葉である。斉一説と呼ばれ、過去も現在も同じ自然現象が続いているとする考え方である。大地震や大噴火が起こってもそれは一連の地質現象である。神さまが突然人類を出現させたり恐竜を滅ぼしたのではない。そこには何らかの因果関係があるのだ。それを学ぶことが現在や未来を考えることになる。

「新型コロナ感染症を克服した証しとして、(来年の)五輪を開催したい」

 この言葉を聞いて「現在は過去を解く鍵」を思い出した。言葉尻をとらえたくはないが、歴史に学べばコロナ感染症は克服できない。共存するしかない。克服の証などあり得ない。ということはオリンピックはやらないという意味だろうか。何を意味するのかよくわからない。第二波も幸運で乗り越えることを祈るだけだ。(三輪主彦

登山講座・糸の会の場合

■6月から開始した[コロナとともに]シリーズの計画書には次のように書いています。

『持ち物……周囲の人たちを刺激しないハイキングスタイルで結構です』。その意味をホームページ上では次のように説明しました。『従来から、多くのみなさん(とくに主婦のみなさん)が周囲の目を気にするのは自宅から駅までのようですね。シリーズ初回の八王子城跡ではYさんが大きなショッピングバックで登場して驚かされましたが、中からザックが出てきました。考えてみれば多くのスポーツ用具同様、ザックも現場のはるか手前から背負って歩く必要はないわけです』。

◆私は長年100リットル級のザックに日帰り・山小屋泊まりを区別せずにすべてを入れっぱなしにしていましたし、夏に北アルプスの稜線を歩くために「10キロ背負って10時間行動」を目標にしてみなさん「大きめのザック」を常用してきました。そういう「慣習」を一度断ち切る機会として「いざという場合の備え」ははずして、なにか障害があったら臆せず逃げ帰るという、コロナさま対策というべき新しい危機管理があっていいじゃないかと思うのです。

◆だから雨具だって「万全」じゃなくていいんです。たとえば私がかつて用意していた70Lゴミ袋2枚の(極めて合理的な)雨具は、超初心者がわけもわからないまま2万円のゴアテックスを買わされるのをしばらく待ってもらうための支給品でした。不完全な雨対策を計算ずくでやってみるという勇気がありさえすれば、過剰防衛している部分に気づくと思うのです。

◆どうしても譲れないのは靴とストックかと思いますが、それだって、歩き方を別のかたちでチェックしてみるいい機会になるかと思います。軽登山靴の技術論的矛盾を指摘したいがために、私は最初こそ「履きなれた運動靴できてください」としていました。だから「跳んだり、はねたりできる運動靴」の登山性能をほとんどの皆さんは知っています。が、雨靴としての軽登山靴にもたれかかっている部分がありはしませんか?

◆猛暑というべきこれからの季節、低山歩きでも想像以上の清涼感を期待できます。登ると「山の風」が待ってくれているからです。もちろん汗はかきますが、下山後の入浴と(ビールと)食事を「健康ゆえの至福」と感じる場合には、精神的なリフレッシュメントは極大値に跳ね上がると感じます。

◆山歩きは単なる運動ではないのです。「軽い運動を長時間続けられる(たぶん最も合理的な)エクササイズ」です。また「月イチの山歩き」が運動理論としては間隔が広すぎるし、負荷も軽すぎるはずなのに、多くの人を健康にし、生活を変え、人生まで変えていくという驚きが、じつは私も変えてくれたのです。

◆……と、ここまでが糸の会の皆さんへのメッセージ。以下は地平線会議の皆さんへ。

◆じつは私にとっては、今回のコロナさま降臨は、75年間の人生と、物心ついてから50年間の「たんけん会議」感染症による浮草稼業、そしてこの25年間に1500回を超えるカルチャーセンター流山歩きの、新しい区切りとして与えられた天変地異だと思うのです。

◆昨年の7月「山旅図鑑」がひとつの形をつくったということで何人かの皆さんにお知らせしたところ、江本嘉伸さんが発表の場をくださって、11月に地平線会議で「山旅を“量”で残す」という報告をやらせていただきました(ホームページで過剰再現しています)。

◆今回のコロナ休暇では穴だらけの「山旅図鑑」を整備しようと考えていたのですが、5月になって突如「5月に見た花」をぜんぶ拾い集めて見てみようと思ったところ、丸々1か月かかりました。ホームページ上の『山の道、山の花──5月』には約2,000点の写真が日付順、山別に並んでいます。

◆そこで6月に「8月に見た花」に着手すると、ひと月半(すなわち7月中旬まで)かかる大仕事に。規模は4,500点というお騒がせサイズです。

◆……そして6月から再開した山歩きの[コロナとともに]シリーズで提案しているのが指サック作戦です。

◆今はマスクが対コロナ防衛の象徴ですが、本当の突撃戦が行われる場は「利き手の人差し指」だと思うのです。だから反対側の指に使い捨ての指サックをはめてみていただくことを始めました。若干インド風ですが、指先にやらせる汚れ仕事を利き手でない側の人差し指&親指(&中指?)にやらせたいと思うのです。コロナウイルスに対する防衛戦を勝ち抜くには、利き手の指にコロナウイルスを接近させない努力が重要だからです。

◆まずは千円札と小銭を左手にまかせようとするのですが、これがむずかしい。ダブルストックを左右均等に使うとか、二足歩行のそれぞれの足を同じ負荷で使うのと同様の難易度だと思うのです。わたし(たち老人)は残りの生存日数を賭けたコロナさまとの見えない遭遇戦を指一本で乗り越えようとしています。(伊藤幸司

新型コロナウィルス後の世界と野生動物

2006年4月に北海道を離れて東京農工大学に着任したおり、江本さんからのお声がけで、7月の第326回地平線報告会で「狩って食うシステム」との演題でエゾシカの管理システムの話をさせていただいた。江本さんとは、1985年夏に黄河源流探検隊に参加したおりに知己を得、今回、新型コロナウィルスと野生動物について執筆する機会をいただいた。

 日本では縄文時代から江戸時代を迎えるまでは大量絶滅を起こさないで、野生動物とヒトはそこそこ共存していたといえる。しかし、江戸時代以降、ヒトと動物の関係は一変する。大神として信仰の対象だったオオカミは、馬を襲いまた狂犬病に罹患して害獣となって根絶される。江戸時代の人口3000万人を支えるため新田開発が行われ、燃料や肥料などのために森林資源は過剰に利用され、全国にはげ山が広がり、獣害が深刻になった。江戸時代に農民は火縄銃を獣害対策の農具として用い、シシ垣を設置して防衛し、林業も獣害対策なしにはなりたたなかった。

 明治を迎え、狩猟が大衆に解放され、新式の村田銃が普及し、シカ・イノシシ・サルなど資源的価値が高かった大型獣は東北地方を中心に姿を消した。それが一変するのは、1960年代半ばの燃料革命である。薪炭林に依存していた燃料は石油にかわり、山から人々は撤退するとともに、拡大造林政策と呼ばれる大規模な針葉樹の植林を行った。また構造改善事業として水田は畑になり高標高まで牧草地が造成され、大規模な草原的景観が形成され、シカの餌場となった。人口減少と高齢化の進行によって農林業は衰退する一方、シカ、イノシシ、クマ類、サルなどの分布拡大と生息数増加が生じた。最近は都心にまで、これら大型動物が侵入するようになった。野生動物とヒトとのせめぎ合いの前線が里地里山から都心に接近した。

 国は2023年までの10年間でシカ・イノシシの個体数、被害を与えるサルの個体数を半減させると宣言し、法律を改正して捕獲強化に取り組んでいる。しかし半減策から5年を経過した現在、個体数半減の実現には現在の2倍の捕獲数が必要な状況だが、狩猟者の減少と高齢化によって実現のめどはたっていない。

 獣害対策には自らの田畑を守る自助、集落などが共同で柵を設置し、藪を刈り払うなどの共助、市町村が行う有害獣駆除や都道府県の行う個体数調整などの公助の3つが重要と言われている。行政が行う捕獲事業は、地域で野生動物を寄せない自助や共助での対策がないと効果的ではない。一方、さまざまな獣害防除技術が開発されてきたが、技術を伝授する専門家が不在で現場では活用されていない。獣害対策の大きな問題としては、さまざまな対策が連携を持たずにバラバラに行われていること、戦後の日本の農林業が獣害対策なしで発展してきたので、農林業の生産体系に獣害対策が位置付けられていないことがあげられる。

 今回の新型コロナウィルスのもたらした問題は、これまでかろうじて維持されてきた集落の活動の停止を全国規模でもたらし、おそらく、コロナ騒動が終息してもその後は復活しないことである。また、人口縮小によって進行してきた野生動物の分布拡大、生息数増加、農林業の衰退が加速されることも懸念される。

 このような時代に私たちは農林業をどのように維持し、野生動物とつきあっていくべきだろうか。ひとつは、国土利用の空間デザインが必要だろう。農林業を維持していく地域、耕作放棄地などを半自然に戻して生態系機能を高める地域など、土地利用計画の再編の検討が必要だ。

 拡大造林によって植林した森林は現在、伐期を迎えている。森林伐採はシカの餌場をつくることにもなるので、ドイツの林業経営で実施しているように森林施業とシカ管理と一体的に進める必要がある。また、野生動物の生態特性によって、シカは個体群管理、イノシシは被害管理、サルは加害レベルに応じた個体群管理、クマ類は個体管理と管理の対応の仕方も異なること、自助・共助・公助をコーディネートし、野生動物を資源として統合的な管理を進める必要がある。その実現には、野生動物管理の専門家を育成する大学での教育プログラムが欠かせない。

 その実現を目指して大学に異動したのだが、昨年3月に定年退職を迎えて道半ば。現在も農工大に研究員として籍をおき、兵庫県森林動物研究センターの所長(非常勤)を拝命し、ミッション実現を目指している。本内容については、日本学術会議会長山極寿一氏の公開対談『新型コロナウィルス後の世界』(内閣府共通ストリーミング)をベースにしている。

 なお、2月の報告会で発表したシスターの延江由美子さんは北大クマ研の後輩。先日、長野淳子さん3回忌で長野宅を訪問したおり、延江さんの実家がすぐそばというので、偶然に10年ぶりの再会がかないました。(梶光一

山小屋の助っ人と私の山旅

 「5月17日のイベント、やはり中止になってしまいました」。山梨県の登山基地の町に暮らす“ごっちゃん”こと後藤郁子さんからそんなメッセージが届いたのは4月の半ば。充分予想はしていたものの、やっぱり少しショックだった。かつて奥秩父の山小屋スタッフだった彼女は、現在は切り絵作家として山がテーマの作品を制作しながら、友人知人の小屋に頼まれれば手伝いに行ったりしている。いわば「山小屋業界の助っ人」だ。仲間たちと「山のたのしみ方」を提案するイベントを地元の商業施設で開催するので、トークショーに出演しませんか、と打診されたのが1月の末。まだ新型ウイルスの深刻さが日本では認知されていない頃だった。その後、ごっちゃんたちが企画を煮詰めていくうちに、コロナ禍もぐんぐん広がった。

 その間、私もトークの内容をあれこれ考えていた。人前で話すのは久しぶりなので、ちょっとドキドキしながら。山の専門家ではない私が伝えられる「山のたのしみ方」って何だろう。2012年の秋ごろから山へ頻繁に通うようになった。月に3〜4回程度。うち、月初めの1回は2泊以上の長めの旅に、下旬の1回は1泊程度で。テント泊や避難小屋泊、あずまや野宿などが中心だ。最初は東日本大震災被災地へのボラ活通いに精神的な区切りをつける気持ちもあった。そのうちに、泊まらないと出会えない時間帯の景色や、「泊まる旅」によって日常へ非日常をぶっこむワープ感がヤミツキになり、「どうせなら、もっと長く歩き続けたい。ならば体力を」と、奥秩父主脈縦走路踏破を目標に、自己流の“鍛錬ごっこ”を積みだした。ごっちゃんと出会ったのは、そんな練習山行のなかでだ。

 五十代も半ばから始めた山通いだったので、いくら練習を重ねても、思うような成果は出ない。というより、加齢による退化のほうが大きくさえ感じられる。四十代後半の2年ほど、自転車旅行のトレーニングとして隔週・日帰りで近場の山を歩いていたが、そのときは歩けば歩くほど縮まったタイムが、今回は全然そうならないのだ。あせる。もっと精進しなければ。日常的に走り込むとか? いや、めんどくさい。酒、やめる? いや、ストレス溜まるし(山に通いだしたのはちょうどグループでの新しい仕事を始めた時期で、通勤生活や人間関係にかなりのストレスを感じていた)。かろうじて自分に課したのが「十日以上は間をあけずに山を歩くこと」だった。

 今年3月上旬の旅は、日程が長く取れなかったので、1泊2日で丹波山から大菩薩峠を越え、また大菩薩嶺を登り返すという形で歩いてきた。上部に予想以上に雪が残っていたり、テント場の水が凍って出なかったりと、ままならぬことも多かった。でも2日目の早朝、尾根を登りながら見た光景はあまりに素晴らしくて、記憶というより心に焼き付いている。シカがピーッと鳴いて、ふと視線を上げると、遠くのほうの木々が銀色に輝いていた。何だろう? しばらく考えて、それが霧氷だと気がついた。晩秋の八ヶ岳で見た「エビのしっぽ」とはまた違う、繊細な銀細工みたいなものだ。登っていくにつれ、あたりの草や登山道を区切るロープにまで白い毛羽立ちのような結晶が付いている。薄日が射すなか、時折パラパラと雨粒のようなものが降ってくるが、それは俄か雨などではなく、木の枝に付いた薄い霧氷が日の熱に融けているのだろう。とすれば、まもなく融けきって、あの銀細工は消えてしまうのか。「泊まってよかった」と思うのはこんなときだ。しみじみ喜びに浸る私を、少し離れた斜面の草原で1頭のシカがじっと見ていた……。

 それが最後の山泊まり旅になってしまった。私でも三千メートル峰が歩けるようになる夏山シーズンまで、例年はだいたい奥多摩・奥秩父界隈をぐるぐる旅するのだが、日帰りでさえできていない。最初はコロナのことなど個人的に無視して、行きたいところへ行ってやれ、ぐらいに思っていた。でも、まずは電車に乗るのが怖くなった。次に「もしも足が滑ったら」と思うと動きだせなくなった。緊急事態宣言が発出して以降、春山にこっそり行った人が滑落して救助要請、といったニュースがネットで目立ってきたからだ。よく行く雲取山への途中にある七ツ石小屋(東京に一番近い山のテント場がある)も休業してしまってからは、時々心が爆発して「よし、明日あの山中でゲリラキャンプしてやる!」と妄想するのだが、少し冷静になると「こうも人が山に入らない現状では、ツキノワさんたちが羽を伸ばしているんじゃないか」と、暴走にブレーキをかけるのだった。

 緊急事態宣言や東京アラートは解除されたが、東京都を中心に新型コロナ感染者数が暴力的に増加している。開業に向けて準備をしていた山小屋の運営者さんたちも悩めるところだろう。夏山で山小屋といえば、ぎゅうぎゅう詰めが当たり前。それを、定員をはるかに下回る人数に限定しての営業では、赤字になるのは明らか。ただでさえ、書き入れ時のGW前後も営業できなかったのだ。そんななか、山小屋を応援するクラウドファンディングも立ち上がった。オンラインショップを開設してその山域に関連するグッズを販売し、少しでも赤字を補おうとしている小屋も少なくない。……あれれ? Twitterを眺めていて目に留まったのは甲斐駒ヶ岳・七丈小屋のアカウントだ。手ぬぐいに描かれた黒戸尾根のシンボルの鉄剣、このタッチ、ごっちゃんの切り絵じゃないか! さらに後日、今度は七ツ石小屋のサイトにも、ごっちゃん作のオリジナル手ぬぐいが登場した。おや、金峰山小屋にはごっちゃんグッズ販売コーナーが特設されている! 「山小屋業界の助っ人」はコロナ禍の下、この不吉な黒い雲がどうか一日も早く晴れますようにとの願いをこめて、静かに切り絵に向かっている。ネットの画面の向こうにそんな後藤郁子さんの姿が見える気がするこの頃である。(いつだって「山で泊まりたい!」熊沢正子

コロナで変わる支援のかたち、ながの龍神Tシャツもよろしく!

■コロナ禍で起きた今回の豪雨災害は、熊本を中心に66人が亡くなり15人がいまも行方不明という。一日も早く雨がやみ平穏な生活に戻られるよう祈ることしかできない。テレビから氾濫する河川や泥だらけの家の映像が流れると去年の千曲川決壊を思い出す。しかし今回の災害支援はコロナの感染拡大防止のため全国から支援活動に行くことができない。被災者・高齢者の命と生活を守るため、被災地へのボランティア受け入れは県内に限定されている。県外から泥出しや家の片付け、避難所での炊き出しやマッサージで被災者の手を取って励ますことができないのだ。

◆NGO・NPOの支援活動やボランティアは自らの自由意思で行われてきたが、これまでの災害対応とはまったく違う現場の対応をしなくてはいけない。注意すべき点として、被災地で支援をすることで感染拡大につながる可能性があること。ボランティアや被災者を守るため感染防止の装備を十分に用意しなくてはいけないこと。そのマスクや消毒液などの入手が難しいこと。避難所など住民と接する活動が厳しいこと。多数の支援や三密(密閉・密集・密接)となるような屋内の活動が制限されること。感染した場合ボランティア保険の証明が難しいこと。感染者が出た場合風評被害の恐れがあることなどが考えられるのだ。だから支援団体には事細かく災害対応のガイドラインが示されている。

◆昨年の千曲川が決壊した長野市では住宅被害は3800件で当初5万人のボラさんが必要とされていた。実際は6.3万人で3か月かかったが今もまだ終わらない。その半数が県外のボラさんだった。今回の九州豪雨では1日2000人で1か月、およそ6万人と予想しているようだが、九州県内だけで行っていたら何か月かかるのだろう。これから夏場で高齢者だけではできない作業も多い。せめてダンプや重機を持ち込んで長期に活動する技術系の団体は受け入れて欲しい。自分も仕事が無ければ飛んでいきたい気持ちだ。実際あの土砂降りの中、長野から熊本へ向った支援者も悩みながら支援活動を始めている。

◆自分は中越地震からボランティアで片付けや支援物資を届けている。3.11からは長野市災害ボランティア委員会に所属しながら仲間と活動を続け、会議や打ち合わせにも呼ばれるようになった。昨年の災害では県外からも大勢の人が長野市に駆けつけてくれた。災害支援のプロとして重機やダンプを持込で片づけてくれる技術系の団体も大勢やってきた。本当に頼りになったし献身的な活動だった。

◆ただその会議での話しぶりや泥のままミーティングにやってくる彼らの姿を見て「この人たち楽しそうだなぁー」とひそかに感じてしまった。支援仲間と再会し水を得た魚のように生き生きしているように見えた。助けてもらって感謝するより自分の尻が自分でちゃんと拭けないような惨めな気持ちにもなった。我が家は無事だったが被災者目線になった自分に驚きながら、いつも被災地へ嬉々として飛んでいく自分を重ね合わせ気づかされ反省もした。

◆被災後、災害ボランティアセンターが立ち上がり、アクセスの良さでもあって長野市は全国から延べ63,000人以上の人がボランティアに来てくれた。自分も週末だけ受付前のオリエンテーションを担当した。受付で混まないようにするためと、熱い気持ちで来てくれたボラさんに少しクールダウンしてもらうため活動の諸注意を伝えた。最初に来てくれたことに感謝を述べどこから来たのか手をあげてもらった。長野市から来た人は2〜3割、長野県内も2〜3割、半分は県外だ。

◆その県外からの人たちへ長野市民に感謝の拍手をしてもらった。そして神戸や広島・九州から来たことを聞いて驚いた。初めての参加者には社協のボランティア保険が無料で入れること、だからもう1回来て欲しいとお願いした。10回以上参加してるボラさんにはみんなで拍手をした。それからケガをしないこと、被災者の気持ちに寄り添って欲しいこと、そのために活動中の写真撮影を禁止していること。早くやるより丁寧な活動を心掛けて欲しいことなど声をからして伝え続けた。

◆北海道から沖縄まで本当に多くの人が時間とお金をかけて来てくれた。最初は苦情もあったがほとんどのボラさんは活動を終えると清々しい笑顔で帰って行った。それが一番嬉しかった。父島から2日かけてやってきた60代男性、ムスリム協会のスリランカ団体、聾学校から来た3人の若者、兵庫の高校の先生と生徒たち。自分たちも助けてもらったと、神戸や広島・熊本や福岡から何日も車中泊しながら活動支えてくれた人たちも多かった。

◆そしてコロナ禍の今でも、住民票を移し自転車で支援活動を続ける千葉の青年。地域おこし協力隊に就職しながら写真洗浄の活動を続ける九州の当時大学生。休職中毎日やってきた40代のボラさんも被災者支え合いセンターに2年の契約職員として就職し、仲間と任意団体を立ち上げて活動を続ける。将来を悩みながらも、コロナで自粛中、細々と活動を続ける人たちがいる。そんな人たちにも被災地長野は支えられている。

◆だから今回の九州豪雨災害では自分が今できることとして寄付を始めた。1団体3000円程度だが九州で活動をする団体・知人など2件、コロナ困窮者へのクラウドファンディングに2件、地元長野に1件、会員のタイ・アフガニスタン・マリの活動者に3件、ほか1件。給付金が振り込まれて本当に助かった。

◆寄付と言えば、地平線メンバーに応援いただいた「鮭Tプロジェクト」は長野亮之介さんデザインの「ながの龍神Tシャツ」として、被災した長野市の小中学校を支援する新たなプロジェクトを開始した。今回は1枚につき1000円の寄付をお願いしている。長野さんには昨年決壊現場を見てもらいZoom会議を重ね何回もデザインを描き直してもらった。前回の地平線通信に漫画を載せていただいたことで、地平線関係者からも多くの注文とメッセージをいただいた。7月14日に1回目の発送をするが、およそ80件350枚の支援をいただいた。本当に感謝です。

◆鮭Tは大勢の人が普段から着てくれたこと、活動自体が本当に愉しかったこと、たくさんの応援が身に染みて嬉しかったことが長く続けられた要因だ。「ながの龍神Tシャツプロジェクト」も来年10月まで寄付金200万円を目標に仲間と被災地長野を盛り上げたい。たくさんの寄付金が集まったら長野だけでなく、熊本や復興途中の被災地にも支援出来たら嬉しいと思う。どうか龍神Tシャツの応援をよろしくお願いします。(村田憲明 長野市)

こんなにも「いのち」にあふれた世界

■ご無沙汰しております。ここのところ、山梨、大分を動き続けており、先ほどネットで6月号のti地平線通信を拝読させていただきました。コロナ感染症のひろがりのなかでの地平線会議につながる方々の在り方、なぜか仲間のような、同志のような不思議な感覚になりました。

◆私は、山中湖(山梨県)をベースとした野外学校FOSの活動と共に4月から郷里・宇目(大分県佐伯市)のうめキャンプ村の運営を開始。キャンプ場は、山に囲まれながらも空へとひらかれ、それぞれの「そら」を体感できる場と観じ、「そらのほとり」というサブネイムを付けさせていただきました。

◆感染を避けるため、山中湖から完全陸路で1,300kmを車で移動。この10数年は、四国周りのフェリーに乗船することが多かったのですが、ひとりでの完全陸路は意外に走りやすく、関門海峡を越え、九州入りする度に不思議な感動を覚えます。そしてなにより走りながらのひとりの空間は、インスピレーションが湧きあがるミラクルな場になっています。

◆キャンプ場の方は、指定管理の引継ぎでリニューアル作業の連続。ようやく準備ができたところでの市からの1か月ほどの閉鎖命令。7月初旬に再開した山中湖での活動と合わせて少しずつですが、いま、自然のなかに身を置くことを求められる方々にお出でいただいています。

◆いまあらためて、シンプルに自然そのものにふれる体験の意味を考えます。というのも、活動休止や閉鎖期間中に山中湖の自宅周りの自然にふれる度に、身の回りの自然が生まれ変わったように瑞々しく、清らかなエネルギーに満ちている気がしました。目にするすべてのものを構成する分子や原子、さらにもっと微細なレベルから。想像でしかなかった遥かな昔に生きていた人々は、実はこんなにも「いのち」にあふれた世界に暮らされていたんだとの実感。この感覚を大切に、そしてこの自然との共振から新たに1日1日を、一瞬を生きてゆこうと思います。(戸高雅史 K2無酸素登頂者)


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください(先月も記載漏れがありました。すいません)。送付の際、通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。3月以来人を集めての「報告会」は開きにくい状態ですが、その分通信は内容あるものを心がけています。

扇田孝之(4000円 それにしてもコロナ渦の「地平線通信」、休信することなく、しかも内容も充実し、大したものです。各位のご協力の賜ですね。偶然ですが、本日(5月24日)信濃毎日新聞の書評欄に小生と小松由佳氏の書評が隣り合わせで掲載されました。(←すいません。先月掲載漏れでした)/鈴木泰子(5000円 通信費2年分 残りはカンパです。いつも通信を送っていただきありがとうございます)/水落公明(3000円 毎月地平線通信をお送り頂きありがとうございます。引き続きよろしくお願い致します。通信費2000円と、些少ではありますがカンパとして1000円。コロナウィルスの感染、まだまだ収束には時間が掛かりそうですが、スタッフの皆様、健康に十分お気を付けて下さい)/日置(山畑)梓(10000円)/松浦たか子(5000円 賀曽利洋子さんより入金。「松浦たか子さんの通信費2000円、残りはカンパ」)/三森茂光(ツウシンヒノフリカエデス)/長瀬まさえ(5000円)/新野彰典(5000円)/戸高雅史(4000円)/高橋千鶴子/松尾清日春(10000円 地平線通信たのしく読ませてもらっています。冊子は薄くても壮大なる厚みのある内容にはいつもながらすごい、と感謝しています。やっぱり紙はいいですね)


人吉水害に大きなショック

■地平線会議・熊本の川本です。最近部屋の片付けをしていて2004年発行の『地平線大雲海』を発見しました。熊本で地平線を名乗る私達には、この様な素晴らしい記録はないのですが、35年以上まだ旅好きの仲間は繋がっています。本家?地平線会議とはパソコン通信の時代に丸山さんが主催されていた地平線HARAPPAに参加していたのが縁で何度か報告会に参加し、毎月の地平線通信を楽しみに待つ身となりました。

◆熊本というと5年前の地震から今回の人吉水害まで何かと自然災害のイメージが強いと思います。個人的には被災という程の経験をしないまま還暦を過ぎましたが、今回の人吉水害には大きなショックを受けました。洪水の原因となった球磨川上流ではなく支流の川辺川に計画されていたダムの反対運動に長年参加していて現在も活動は継続しています。何度も訪れた場所であり、地元の知り合いも多い土地が大きな被害を受けている報道に接し、特に人的被害が明らかになるにつれ気持ちが重くなりました。

◆この週末は友人の軽トラに道具を載せて片付けの手伝いに行きます。昨夜はWeb会議で治水に詳しい運動メンバーから現地の様子や降水データの話を聞きました。今回の様な想定外の雨が降った場合にダムは時限爆弾にしかならないと改めて思います。

◆さてコロナ禍のせいなのか自然災害のせいなのかよくわかりませんが、以前にもまして日常の中で人とのつながりを意識する様になりました。自分の人間関係を時系列でみると何本かの柱があり、地平線会議もその一つです(東京に住んでいれば毎月の発送を喜んで手伝っていたでしょう)。気付けばいずれの柱も20年とか30年とかの話になっていました。小心者の開き直りですが、どの柱も大事に過ごしていきたいと思っています。

◆久しぶりの投稿でしたが冒険とは真逆の結論になってしまいました。でも久しぶりと書きつつ、実は初めての投稿なんじゃないかと自分で頭を傾げています。(川本正道


豪雨被害について支援金のお願い

■RQ災害教育センター(江本も運営委員の1人です)では、九州等豪雨被害について、支援を開始しました。いまは、県外からは現地に入れない状態ですが、活動する方々を支える「支援金」は大きな力になります(被災者にお金を届ける義援金ではなく、ボランティアの行動を支援する目的です)。

 「RQ災害教育センター」は、7月10日付で以下のように発表しました(https://rq-center.jp)。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

■2020年7月4日未明から、九州地方に降り始めた大雨の被害にあわれたみなさまに心からお見舞いを申し上げます。未だ雨の予報は続き、心配な日々が続きます。

 RQ災害教育センターでは、甚大な被害を受けた九州ほか各地の支援実施を決定し、現地RQ九州等の活動を支える支援金の募集を開始します。皆様には、ご協力をお願いできれば幸いです。

 新型コロナウイルスの影響で、全国からボランティアの皆さまに来ていただくにはこれまでにないハードルがありますが、現地で活動する仲間たちの後方支援につとめ、JVOADさんが公開しているガイドラインを参考にしつつ、多くのボランティアの皆さまのお力を借りられるよう取り組んでまいります。いただいた支援金は大切に使わせていただきますので、お力を貸していただけますようよろしくお願いいたします。

支援の内容

●RQ九州等のボランティア募集への協力(当初は近接地域に限り募集、コロナ感染対策を徹底する)→RQネットワーク等への継続的な呼びかけ
 ●活動が長期に渡ることが予想されるため、活動資金の援助(RQ災害積立金からの支援、及び支援金募集)
 ●ボランティアセンターの運営サポート(RQのボラセン運営のノウハウを提供、新型コロナウイルス対策を講じた上で、経験者の派遣)
 ●その他必要に応じた支援活動

 支援金は以下の申込みフォームにご記入のうえ、お振込をお願いします。
 *領収書が必要な方は、メッセージ欄でお知らせください。
 *資金の使途は活動支援金で、被災者への義援金ではありません。
 *いただいた支援金が余った場合は、次回災害が発生した際の活動支援金として活用します。

■以下の口座にお振込をお願いします。
◆振替口座
 ゆうちょ銀行: 00130-8-267185
 口座名称: 一般社団法人RQ災害教育センター
 カナ: シヤ)アールキュウサイガイキョウイクセンター
◆他行から振り込む場合
 ゆうちょ銀行: 〇一九支店(読み方:ゼロイチキュウ支店)
 ATMから振り込む場合は支店名の頭文字「〇(ゼロ)」の「セ」を選択してください。
 当座預金: 口座番号:0267185
 口座名称: 社)RQ災害教育センター
 カナ: シヤ)アールキュウサイガイキョウイクセンター
 *振込手数料はご負担ください。
 *振込明細をもって領収書に替えさせていただきます。
 *領収書が必要な方は、事務局までご連絡ください。


「ダンス・ウィズ・ウィルス」

 武漢発の新型コロナウイルスの蔓延の中で、書棚に50年近く眠っていたカミュの『ペスト』を再読した。1970年代の学生運動が華やかし頃、「実存主義」が一世を風靡し、カミュはサルトルと並

んでそのシンボルであった。

 題名の「ペスト」とは「不条理」の象徴。小説の中で、主人公のリュー医師は、パンデミックに立ち向い、誠実に任務を遂行する。それはカミュ自身の仮託ともいえる。カミュの心の中は、以前から「ペスト」に苛まれていたようだ。 自己の内なるペスト=不条理とは、自分の人生に疑念を抱かせるもの。思い通り行かずに敗北しようとも、それでも闘いは放棄してはならない。不条理にもかかわらず、生きなければならない。そのような不条理へのメタファが、随所に散りばめられていることを、あらためて認識した。         

 「ペスト」の感染は、元(中国)からイタリアへと広がり、中世ヨーロッパの人口の3分の一が犠牲となった。「シルクロード」が感染経路である。今回の新型コロナ感染もまた、中国・武漢に発し、「一帯一路」の道から蔓延して行った。グローバリゼーションの軋み。まさに歴史は韻を踏むのである。国境と運命共同体、メメントモリ(死を思え)という根源的な問いが、ふたたび浮かび上がる。 今回の武漢のウイルスを巡っては、昨年の12月30日に、アウトブレイクの可能性について、いち早く警鐘を鳴らしていた医師がいた。武漢市中心医院の眼科医、李文亮氏(34)である。しかし、彼の告発は封殺され、「デマ」として処分を受けた後、自らも感染して、無念にも不条理の死を遂げた。

 国民の健康や生命に関わる真実でさえも、不都合な真実として封印される。新型コロナの感染拡大の深刻化と悲劇の背景には、中国の一党独裁政治による隠蔽が要因となっていることは明らかであろう。

 新型コロナは、奔流となって世界を席巻し、パンデミックとなって深い淵の滝つぼへと落下している。その中で、日本の死亡者数は10万人あたり0.6人、欧米に比べて50〜100分の一近くと極めて少ない。世界水準からみれば防疫の優等生である。この差異の背後には、ウイルスの変異や日本人の持つ免疫の記憶など、山中教授がいう「ファクターX」が隠れているのかも知れぬ。その解明が次の処方箋に繋がろう。

 感染者の約80%は無症状か軽症で経過するが、15%が重症肺炎となり、5%近くが致死的な急性呼吸促拍症候群となる。この重症化には、「サイトカインストーム」が関連する。サイトカインとは、免疫機能の調節するたんぱく質。これが過剰に産生され、嵐(ストーム)のように免疫細胞が暴走することをいう。

 血中のサイトカイン、IL6(インターロイキン-6)などの炎症性物質が上昇し、その作用が全身に及ぶ結果、呼吸不全やショック・播種性血管内凝固症候群・多臓器不全にまで進行する。本来身体を守るべきたんぱく質が、肺をはじめとして全身に戦場を広げて行くのである。

 重症肺炎に罹患すると、低酸素血症が出現する。このときに集中治療室で使用されるのが「人工肺・ECMO(エクモ)」である。この装置のおかげで、多くの感染者が生還している。エクモは恐竜から鳥に受け継がれたシステムを応用したもの。効率的に酸素を利用する進化の名残が、ヒトの命を支えるツールとして現代医学に活用されているのである。病院の中で、未だに生き続けている恐竜の肺を、さらに有効に生かす体制を整えたい。

 新型コロナの「感染力」はそれほど強くはないが、「拡散力」に長けている。いわゆる「三密」という環境がこの拡散を助長する。「三密」とはウイルス感染予防のためのキャッチコピーだが(習・近・閉に近づくな、というブラック・ジョークもあるようだ)、本来は仏教用語である。

 すなわち、手や指で印を結び仏の姿をまねる「身密」、口で仏のことばを唱える「口密」、心に仏の姿を描く「意密」の三密であり、仏と一体となるための修行を指す。空海さんもさぞや驚いていることだろう。三密をスムーズに受け入れる日本人の精神風土・公徳心は、こうした仏法への「刷り込み」も背景にあるのに違いない。

 私たちのヒトゲノム(人間の遺伝情報)の45%近くは、「ウイルス」や「ウイルスのようなもの」で構成されている。ウイルスと共通の分子構造が化石のように刻まれており、「ウイルスがいたからこそヒトはここまで進化できた」ともいわれる。例えば、子宮で子供を育てることは、ヒトが繁栄するための根源であるが、この子宮の胎盤形成に必須の遺伝子の一つは、ウイルスに由来しているのである。

 新型コロナと共生(ダンス・ウイズ・ウイルス) して行くという戦略のためには、いわゆる第二波に向けて、医療崩壊にならぬ体制を確保し、安全有効なワクチンと特効薬の開発、抗原と抗体検査の充実が重要となる。完全な封じ込めは難しく、どこまで集団免役が獲得できるかも収束へのカギとなるだろう。 「楕円の哲学」という考え方がある。中心が1つの円でなく、楕円のように二つの焦点を持つことで、社会のありようは安定するというもの。対立する事象がともに牽制しつつ共存することで、全体の調和がもたらされるというのだ。 この楕円になぞらえれば、「医療」と「経済」の二つを焦点として、楕円上の点Pをいかに動かすか。それがコロナ禍の「政治」における課題ということになろう。共感しながら生きていく先に、不条理な新型コロナとの「停戦協定」が結ばれることを信じたい。(神尾重則 医師)

ステイホームは、いやではない

 地平線会議のみなさん、こんにちは。コロナによる外出自粛要請を律儀に守り、3月以降、ほぼ福島に留まっている、滝野沢優子です。

 福島県内の新型コロナ状況ですが、7月9日現在、感染者は82名。その全員がすでに退院しているので、目下、福島県はコロナ無菌地帯となっています。特に会津地方は岩手県同様、感染者0というコロナ優等生。大半の人は車通勤だし、町中も密とは縁遠いので都会に比べて圧倒的に感染リスクが低いのも要因だと思います。

 そんな福島県なので、一般県民感情としては首都圏、特に東京に対しては神経質になっているように感じます。

 というのも、県内最後の82例目の感染者が出たのが6月18日なのですが、感染源はいわゆる「東京由来」。福島大学の女子学生が、東京から遊びに来た友人を3日間も福島市内の自宅に泊めたことが原因でした。首都圏からの移動自粛が解除される6月19日よりも前だったので、それを無視して福島に不要不急の用事で来てしまったんですね。その前の81例目が5月8日で、それまで県内感染者0が40日間続いていただけに、82例目のときの、県民のがっかり感はかなり大きなものでした。

 それ以前にも、東京のライブハウスに行ったり、東京の友人宅で過ごしたことから感染し、家族や同僚にも感染させてしまってクラスタ―化しているので、東京の人には申し訳ないですが、東京から来た、と聞くと気構えしてしまう、というのが正直なところです。

 登山関連では、東北の山では、富士山のように登山客が密になる状況は少ないためか、登山道の閉鎖などの登山そのものが禁止されることはありませんでした。尾瀬や裏磐梯の雄国沼など、一般観光客も行けてしまう人気エリアでは、駐車場閉鎖やシャトルバス運行を止めるなどの対策はしていましたが、7月からはそれも解除されています。登山中にマスクをしている人もいません。

 一方、動物保護活動をしている知人らはかなり気を使っていて、シェルターボランティアは当面受け付けないとか、県内在住者に限るなどにしています。コロナに感染してしまったり、濃厚接触者になって隔離されてしまうと、保護動物のお世話ができなくなるため慎重にならざるを得ないのでいたし方のないことです。首都圏との往来自粛が解除になっても東京の感染者が増えている状況なので、まだしばらくは同様の措置が続くと思われます。そのため、首都圏に住む仲間のボランティアが福島に来られない状況がかれこれ3か月半続いています。仕方がなく、ごくわずかな福島県在住のボランティアだけで活動しているので、私もコロナ以前より忙しく動いています。

 ステイホームに関しては、まったく苦になっていません。もともと3〜6月は仕事の少ない時期なので、友人がやっている那須のペンションのアルバイトが無くなったことと、二輪車用地図『ツーリングマップル』の先行取材を延期したくらいで、仕事的には今のところはそれほど大きな影響はありません。毎年恒例の山スキー遠征も県外に出られず、尾瀬にも入山できず、吾妻山にも行けず。

 で、何をしていたかというと、マスクを作ったり、大工仕事をしたり、庭の手入れをしたり、家庭菜園をしたり、不用品をネットで売ったり、アマゾンプライムで映画を観たり、気になっていた本を読んだり。やること、やりたいことは山積みで、暇を持てあますなんてことはまったくありません。かえってステイホームを楽しめていて、私って、意外とインドア派だったんだなと認識できた次第です。

 私的には、このコロナ禍で一番衝撃的だったのは、岡江久美子さんが亡くなったことです。

 というのは、私も昨年乳がんを患い(ステージ2)、10月に手術、12月に放射線治療を終え、ホルモン治療をしているところで、岡江久美子さんとまったく同じ状況だったからです。乳がん治療との関連性は証明されていませんが、がんの脅威よりも、新型コロナの脅威を身近に感じた出来事でした。

 それにしても、私が乳がんを罹ったことも晴天の霹靂だったし、新型コロナウィルスで世界がこんなに混乱する状況になるとは、1年前は予想もできませんでした。しばらく海外の旅はできないのは致し方ありませんが、行けるうちに行ける所へ、やりたいことはできるうちにしておこうと、コロナ禍のおかげで改めて思い知りました。まあ、その通りに生きてきたので悔いはありませんが、まだ余生を楽しむという段階には少々早すぎるので、原発事故同様に、コロナ禍がどう収まっていくのかを、しっかりと見届けていこうと思います。(滝野沢優子)

追記:
 動物保護活動では、富岡町のNPO法人「栖(すみか)」さんと協力して、クラウドファンディングもやっています。7月19日までですが、もし地平線通信の発送に間に合うようなら、ひとこと入れていただけるとうれしいです。https://readyfor.jp/projects/fukushimasumika

 福島原発被災地に未だ残されている猫たちの保護・見守りを!(NPO法人栖 代田岳美 2020/06/05 公開) - クラウドファンディング READYFOR (レディーフォー) 福島原発被災地の浪江町と葛尾村で、私たちの給餌で命を繋いでいる猫たちに不妊手術を施し、必要な場合は保護して里親につなげる。

ノジュラーにとって、新型コロナ・ウィルスとは何か

■私は、いまいちよくわからない新型コロナってやつに翻弄されたり、個人の自由とは相反する防疫についてどう捉えてゆくのか悩んだり、日本の政治にぷんすか腹を立てたりしながら、日々暮らしています……。今年はオリンピックの年(になりそうだった)ということでギリシャでの採火式と同時に、地元・横浜でノジュリンピックの生なる寝袋リレー(色んな人が一つの寝袋をリレーして野宿する)を開始したのが3月12日。知人たちと「五輪反対」でデモ申請をして、デモをやったのが3月14日でした。自粛の空気が広がり始めていた頃だったので、五輪反対はほっぽって「自粛しねーぞ」の掛け声でみこしを担ぎ、ほぼ無人のみなとみらいの街を練り歩きました(後日ネットで微妙に炎上して驚いた)。

◆数日後、東京オリンピックは失墜。聖火は日本に運ばれるも聖火リレーは中止となり、やった〜、時代はノジュリンピックだ〜って得意になったのも束の間、コロナは無症状でも感染するってことがわかってきて、とりあえず飲み屋兼スペースとしてやっていた「お店のようなもの」を休業してみることに決めたのが4月1日でした。「自粛しねーぞ」って叫んでいた人間が半月後には自主的に休業しているわけで、介助の仕事をしており気を付けざるを得ないのもあるけど、なんなんだって感じです……。

◆普段からあんまり働いていないので、月収は手取り10万円ちょい。店舗の家賃5万円(交渉して3か月間は4万円にしてもらいました)を、支払ってくのはたいへんだー。4月から6月まで、近場での野宿や補償を求めるデモをした以外、なるべく家にこもっていたのはわりと楽しくもありましたが、人と会わないと予測を超えたことが起こりにくくて面白くないって気もするし。私の生活は現金以外のところでどうやら、人からなにかもらうことから始まり、それをまた別の人にあげてまたもらうという繰り返しによってなんとかなっているところが大きくって、人と会わない状況が続くと、今後立ち行かなくなりそうだぞって感触もありました。

◆とはいえ私は、まだまだのんき。緊急事態宣言後、横浜周辺でも目に見えて野宿者が増えてきたので、顔見知りになった人達へ作りすぎたごはんなどを、時々持ってゆくようになりました。たまに一緒に食べたり、公園で呑んだりして、物乞い時のコツとか、横浜の炊き出しや生活保護申請の状況など教えてもらったり(その方は6月中旬に生活保護申請が通り、アパートに引っ越しました。よかった!)、ビックイシューの販売員さんに売れ行きの変化を教えてもらったり(経済不安と人通りが売り上げに直結するとのこと。いまも厳しいそう)。

◆ほかにも私が横浜に越してきた6年前から既に商店街と公園を寝床にしているホームレスのおじさんとも気軽に喋れるようになって、「店のようなもの」のお客さん以外で、地元に知り合いが増えたのは嬉しいことでした(おじさんは最近、気の合う友達ができてよく深夜まで一緒に楽しそうに喋っていて、見かけるとますます嬉しくなっています)。

◆年季の入ったホームレスのおじさんは、コロナ禍もどこ吹く風でぜんぜん動じていないけれど、今後、経済的に困窮する人は増えていくだろうし、心が痛い。いっぽう、今後しばらくは室内より野外のほうが活動しやすそうで、よりいっそう、野宿や路上での遊びがイケてることになるんじゃないか、と思う次第です。声を大にして言いづらかったのもあり、生なる寝袋は全国を回っていませんが(いまは京都にあります)、東京オリンピックを安心して中止していただくべく、7月24日〜26日には「ノジュリンピック2020」を横浜で開催予定です。

◆そういえば、「店のようなもの」は早々に休業していたため、最近、神奈川県の「新型コロナウイルス感染症拡大防止協力金」(休業補償)なるものをもらえちゃって(ひと月10万円。私は大喜びですが、食い扶持として店をやっている人には全然足りない額だと思う)、調子に乗って、今後は国の店舗の家賃補助も申請してゆく予定です。拠点となる場が欲しいというのもありつつ、路上でなにか売ったり遊んだりしているとすぐ警察が来るのに室内だと意外と無法地帯だってことが面白くて「店のようなもの」をやっていたところもあるのに、いまは「店」をやってる気、満々。もらえるものはもらって、しぶとく維持していくぞって気持ちになっています。

◆わからないことや腹立つことがいっぱいですが、状況を見つつ、なるべくじぶんが愉快に思えることを、やっていきたい。みなさんはいま、どうされているのかなって、興味津々、地平線通信を読んでいます。(加藤千晶


先月号の発送請負人

■地平線通信494号、6月17日印刷、封入作業を終え、翌18日新宿局に出しました。今月も多くの人が書いてくれ、ページ数は先月と同じ22ページとなりました。印刷はいつもの榎町地域センターの印刷室を借りてやれましたが、ほかの部屋は使えず、封入作業は今月も森井祐介さんのマンション会議室を借りて行いました。手薄の割にはベテランの素早い仕事振りに感謝。車谷君は印刷と車での運搬作業に汗をかいてくれました。仕事してくれたのは、以下の皆さんです。ほんとうにありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 白根全 光菅修 武田力 江本嘉伸


高山は、今日も警戒レベルの雨……

■現在、7月11日0時。全国ニュースで繰り返し飛騨地域の様子が流れています。たくさんの方から、安否確認の連絡をいただきました。感謝。ウチは家も家族も無事です。でも、あちこちで家屋の被害が明らかになってきました。また、それ以上に幹線道路の状況が悪化しています。名古屋から富山までを走る国道41号線が崩落。松本と高山を結ぶ国道158号線が土砂崩れ。どちらも今のところは復旧の時期不明。JRも飛騨地域はしばらく運休。COVID-19の感染を防ぐために6月中旬まで宿泊施設は休業。やっと、動き出したところだったのに……。観光だけじゃなくて農産物の流通にも影響が出そうです。

◆実は、7月4日から神奈川茅ケ崎に出かけていました。7日に戻るはずでしたが、名古屋からの高速バスもJRも運休。翌日も動かず、名古屋で二泊、36時間の滞在。日本でこんな状況になるとは! 留守宅の老母のことを考えながらも、ぽっかり空いた時間に、以前も旅行中に災害があったのを思い出しました。1999年秋、中国麗江。安宿の暗い部屋のテレビから濁流を牛が流れていく映像が! いったい中国のどこ? とよく観ると、なんとそれは日本国高山市! 東海地方を襲った台風でした。2004年秋、ネパール・カトマンズで観たNHK。高山市で土砂に流された方が亡くなられたのを知りました。遠い町で、家族や友人たちの安否を心配していた不安な時間でした。

◆もうひとつ忘れられない雨の日があります。3年前の7月、詩人のアーサー・ビナード氏の講演会を企画。半年前から準備をして迎えた当日、甲信越地方は豪雨に見舞われました。北陸新幹線は長野駅で2時間停車。アーサー氏は携帯電話を持たないため、あちらからの連絡を待つしかありません。高山本線が止まっている区間はタクシーを使ってもらい、開演30分前に到着! これは奇跡的な幸運の思い出。雨の被害ってこんなに多かったかしら? 山を削りすぎてメガソーラーを作りすぎて……という結論にしかなりません。

◆また雨が降り始めました。自宅は土砂災害警戒レベル3の地域に含まれています。山の直下ではありませんが、土砂が勢いよく流れ込むであろう場所。ウチだけは大丈夫だろうと思って、パソコンに向かっています。そして、14日まで断続的に降り続けるとの予報です。関東では数日前に地震がありました。油断大敵。皆様もお気をつけください。それにしても、オリンピックをやめて(?)よかった。(高山在住 中畑朋子

<近況>

■江本さん、お電話ありがとうございます。ご多忙だろうとこちらからの連絡を控えておりましたが、やはりお声を耳にすると<なにやってんだよ!>と叱咤激励される思いがします。けいちゃんのお墓参りを口実に計画した「ポトラックランチ会」も中止になり、江本さんとお会いできる機会が無くなってちょっとがっかりしておりました。

◆毎月通っていた青森県十和田市の母の施設にもコロナ騒ぎで行けずにおりましたが、7月2日に制限付きで面会できることになったと連絡をもらい、その日のうちに移動して翌3日に4か月振りにケアマネさんの携帯電話を利用して建物の窓越しに話すことができました。さぞ寂しがっていただろうと不憫に思っていたのですが、不幸中の幸いと言ってよいのかどうか……進んだ認知症のおかげで娘との対面は数日ぶりと信じ切っている笑顔の母でした。

◆外出自粛の間、親しい友人の引っ越しの手伝いはおろか、この間に旅立った7人の縁戚や友人知人の葬儀参列もできないままでした。このような状況になるとは想像もしておりませんでした。山仲間などは殆ど外出しない私を心配してくれていましたが、今回、実は私は引きこもっていることはそれほど嫌いじゃないことを<発見>しました(笑)。

◆あまり得意ではない原書の山岳書を手に取るとあっという間に一日が過ぎてしまい、個人的にはとても良い時間を過ごしたような気がしています。皆さんがご存じだったようなヒマラヤ登山史も、翻訳された書物からばかり情報を得ていた私はその中のミスにもいまさらながら気づいたりして、結構有意義な時間でした。孫引きは極力してはいけない……とかつて言われ続けていたことを改めて思い出しました。

◆とはいうものの、やはりたまにはのびのびと野外の草木を愛でたい思いはつのり、かといって今の自分の体力を思うと山へ出かけるわけにもいかず、ひたすら入院中の恩人の庭の草取りや竹切りなどの掃除で鬱憤張らしをしておりました。その恩人も入院先で誤嚥性肺炎を併発、7月2日に旅立ちましたが、その方からはこれまた沢山の<宿題>を託され、その課題解決のために今しばらくは<書籍の山>に登り続けることになりそうです。ああ、早くエモカレーをごちそうになりに行きたい!!(寺沢玲子

自分が差別の対象になりうることに気がついた

■新型コロナウイルスが日本に上陸し感染者が急激に増え始めた2月、私はアフリカにいた。早大探検部で、第3次ナイル川源流調査を行うべくルワンダに行く予定であった。大学からサークル活動が禁じられた時期と微妙な感じであるので、これ以上は明言できないが、少なくとも私個人としてはアフリカに行っていた。トランジットで1日だけ滞在となったエジプトで、ピラミッドやスフィンクス、カイロ市内を観光することにした。

◆世界的に観光客が急激に減少しはじめていた時期で、観光地といえどアジア人顔の我々はかなり目立ち、あからさまに目の前で口や鼻を手で抑える仕草をされたり、顔を背けられたり、後ろから指をさされて「コロナ」と言われたりした。今まで人種や性別、その他の理由で差別されてきたことがなかった私には衝撃であった。自分も差別の対象になりうることを改めて自覚したし、自分が差別の対象になるという認識がなかったということにも気がついた。それと同時に、今までの海外遠征は周りの人間が常に我々を暖かく迎え入れてくれていただけであったことも痛感した。

◆探検活動として海外にいき、現地の人たちの土地や生活に入り込むという行為は、少なからず彼らに影響を与えることで、今まではその(悪い)影響が顕在化していなかっただけだと感じた。探検行為の持つ暴力的な側面について、言葉では理解していながらも、肌で感じたことはないし、早大探検部は割と目を背けてきた。だからと言って歩みを止めろということではないが、後輩の学生探検部員たちは是非そのことを気に留めておいた方が良いだろう。

◆ところで私は、探検部員としては非常に珍しく大学を4年で卒業し、就職した。日本でも屈指のお騒がせ企業の一つである、ソフトバンクで働いている。研修は全てオンラインで行われ、配属後も半分ほどは在宅ワークとなっている。新卒なので、以前と比べることができないが、私としては快適である。「仕事をする=会社に行く」という考えではなくなり、「サラリーマン=会社に缶詰」というイメージはなくなり、働くということを考えるうえで、仕事内容に目を向ける割合が上がったように感じる。この調子だと、探検部の一部の先輩方のように、すぐに仕事を辞めるといったことにはならなそうである。

◆社会全体が、半強制的に生活、働き方を変えることになり、かつてないスピードで多くの物事がwithコロナに対応してきているだろう。その変化や副産物として出てきた多くの気づきに対応できなければ時代に取り残されることは必至である。フィールドである世界は刻々と変化している。探検の仕方を多少見直さないと新しい価値につながるような活動を続けて行くことは難しいかもしれない。(早稲田大学探検部OB 走出〈そで〉隆成

就活より銭湯の番台が好き

■お久しぶりです。2017年11月に「早稲田大学探検部 ロシア カムチャツカ半島未踏峰登頂報告」で一度壇上に立たせて頂きました、早稲田大学探検部の野田正奈です。現在私は就職活動中です。オンラインでの面接、説明会、従来の就職活動とは全く違う!みたいです。友人から聞きました。というのも、私は就職活動にあまり身が入らず現在は銭湯の番台さんとして働いています。

◆就活塾にまで入り、一時は頑張ろうとした就職活動では、どうしても手と足が動かず、予定が入ると動けないという拒否反応が現れて、応募の時点で難しいものがありました。番台さんのお仕事は性に合っているのか楽しいです。コロナ禍でも銭湯ではご近所さんが集まり、憩いの場となって体と心を暖めています。

◆私はそんな銭湯に携われることが本当に幸せです。皆さんの安心な銭湯生活よ、早く戻ってこい!という気持ちで番台に立っています。就職活動が人生のゴールではない、私は居心地の良い銭湯かサウナをいつの日か経営したいです。(野田正奈〈せいな〉

地平線通信(紙版)では野田さんの名前がオーバーフローして印刷されませんでした。申し訳ありませんでした。

地平線報告会について

■地平線報告会会場として長く利用させていただいている「新宿スポーツセンター」は本日7月15日、再開しました。ただし、100人は入れる会場には厳しい人数制限が課せられました。「必ず30人以内」だそうです。地平線報告会は常時60〜80人、時には100人越えでやってきたのでこの制限では当面開催できない、と判断します。抽選で参加者を決めるなんてこともさびしいし。

 何度かお借りしている三栄町の新宿歴史博物館は昨14日(火)から施設利用を再開しましたが、最大収容人数は通常の定員の2分の1、つまり椅子席のみの場合60席まで、机も利用する場合45席まで、に制限されるそうです。

 「密」はダメ、というのなら皆さんすでに体験されているオンライン方式でやるしかないです。が、報告会の良さをなくさないでやるには、どんな方法があるのか。できるだけ自由な感覚で報告会をやりたいので秋になっても仕方ないか、と開き直っています。

 いまやウィルスの巣のように見られている新宿区。我らはそのど真ん中でやってきたきだな、とつくづく思います。当面、この「地平線通信」というメディアに力を傾注して、これまでにない“紙の報告会”を続けたい、と考えています。(江本嘉伸


「Zoom」への挑戦

■WTN-J、ワールドツーリングネットワーク・ジャパン。略してワッツー、という海外ツーリング愛好者の会をバイク仲間とやっている。ワッツーは地平線会議をお手本にしているので、行動者に発表していただく報告会(僕らはお話会と呼んでいる)も不定期に開催している。そのお話会が去年12月に70回を迎え、3月には71回目になるはずだった。ところがコロナ騒ぎである。開催か延期か。お話会担当は悩ましい決断を迫られる。なので強行突破しようとする。すると仲間内から、絶対反対の意見が出た。そして会の中で意見が割れ、最終的には延期となった。

◆4月になり、5月が過ぎ、そしてとうとう半年が過ぎる。過去にこれほど長く活動しなかった経験はなく、お話会担当はついに巷でウワサのネット講演会をやるしかない、という結論に至った。しかしそれってどうやればいいのだ? 一応バイク乗りを自称しているが機械は超苦手だ。幼少のころからなので、すでに半世紀、これはもう適性がないんだと思う。

◆運動音痴は「仕事には関係ないからいいです」と開き直れる。でも機械音痴は開き直れない。時代は容赦なく機械化に向けて進んでいて、分からないでは許してくれない。いい機会だ。Zoomとやらと戦ってやろう。というわけで技術担当スタッフにZoom飲み会&勉強会を設定してもらう。第一回飲み会のメンバーは5人。部屋でビールを飲みながら画面上の仲間と話す。画面越しでも懐かしい顔が見えるとホっとする。これはこれで新しいコミュニュケーションの形だと思う。

◆Zoomを使って初めて分かったことは話せるのは一人。同時に複数の会話は成立しない。5人なら、なんとかなるが人数が多いとどうなるのだろう?というわけで翌日今度は30人で飲み会をやってみる。人数としてはこのくらいが限度な気がする。パソコンならギリギリ全員が同じ画面内にいるが、携帯の人はスライドさせないと誰がいるのか確認できない。そしてこの人数だと、自由な会話はできない。誰かが中心で仕切る必要がある。

◆二回の飲み会で、ある程度Zoomのイメージはつかめた。今度は学んだことをどうお話会に生かすかだ。お話会では、質問のとき以外は、話すのは話し手と司会だけ。そこはネットもリアルも同じ。ただネットだと、自分はまるで無能だ。うかつにボタンを押すと、どこかに飛ばされて、帰れないかもしれない。それに今回の話し手は司会もできるぐらい。もう自分はいらないのではないか。

◆漠然とZoomお話会の形が見え始めてきたころ、話し手から、自宅の電波状態が不安定で、途中で繋がらなくなる恐れがある、という話が出た。その問いに、それはもう話し手に自力で対処してもらうしかない。最悪、途中で電波が切れてしまったら、もうお客さんに謝るしかない、と、スタッフ側から意見がでる。それに対し、そんな無責任な話はないだろう。それでは話し手の負担が大きすぎる、と、話し手側から反論が出る。

◆「ネット講演は危険なんです。自分は大学で悲劇を何度も見ました。ファィルを開けようとして間違って保存してあったエロ系ファイルを開けてしまったり、検索かけたら履歴にヤバい記録が残っていたり。男ばかりの学部だったんで笑い話で済みましたが、誰が見てるか分からない状態でそれはマズイです」。それは確かにマズイけど、Zoom講演会以外でも起こるのでは? ネット環境の問題は結局、話し手がより安定している友達の家から中継するということで解決した。

◆そして迎えた当日、誰よりも早く画面に入る。入れるかどうかが不安だったので、これでとりあえず安心だ。やがて人が次々とやってくる。すると突然、海外の方が5、6名入ってくる。それぞれが何語か分からない言語で話し始め、後ろでは音楽も流れている。誰かの知り合い? それとも何かいたずら? 少し様子を見るが、あまりにもやかましいので、スタッフが追い出す。

◆何が起こっているのか、初めてなので誰もよく分からない。お話会はその後、問題なく進行。最後にこれから旅立つライダーを参加者に紹介する。紹介したライダーは長崎の人で、以前から一度は東京のお話会に参加してみたい、と、言ってくれていた人。緊張した面持ちで画面に現れ、旅立ちに向けた今の想いを存分に語ってくれた。

◆Zoomお話会を開催すると発表した後、有料でも構わないので過去のお話会の録画があれば見せて欲しい、というメールが何通か来ていた。いずれも遠方の方で、東京に泊りで行くにはハードルが高すぎる、と書かれていた。僕自身の機械に対する苦手意識が、行動を起こすうえで大きな壁になっている。Zoomお話会へのチャレンジは、ワッツーにも自分にも、新しい扉を開いた。ネット開催にすれば物理的な距離はもう関係ない。今後、コロナが収束すればお話会は復活させる、と、同時に、ネットお話会も継続したい。(坪井伸吾

米軍基地の感染が心配!

■地平線の皆さんこんにちは。先々月の通信に、ゴンの漫画をのせてくださりありがとうございます。ゴンは夏バテ気味ですが相変わらず元気です。先月末に、昇のお父さんが92歳で亡くなりました。若い人と話すのが好きで、地平線の皆さんの中にも覚えてくださってる方も少なくないでしょう。私もあのお父さんじゃなかったら、こっちに来なかったかもしれないと思うほどです。島人みんなから慕われて、晩年はデイサービスで太鼓やカラオケで活躍して人気者だったお父さん。いい人生だったと思います。

◆さて、またまたコロナ感染者が増えてきましたね。沖縄でも2か月ぶりに出ました。あのまま鎖国状態を続けておけばよかったのかもしれませんがそうも行かず、なんですね。なんくるないさー(どうにかなるさ)精神のうちなんちゅーは最近はすっかりゆるんでビーチも人や車であふれてましたが、さあどうなるか。

◆目下一番私が心配なのは、アメリカ基地内での感染です。3日前に普天間基地で6人、昨日キャンプハンセンで5人(テレビニュースでは複数人としか公表せず)。みんな海兵隊関係とか。そんでもって隔離施設がなんと、基地の外の民間アパートらしいことがわかり、問題になっています。うちの牧場の来訪者は何を隠そう、約80パーセントが基地の外国人家族なんです。ここ数日も、嘉手納基地の外人家族が20人くらいきています。今後どういう対応をしたらいいか、悩んでいます。やぎと遊ぶのは密ではないけど、みんなマスクしないし、暑いからねー。

◆今年はハーリー大会も、豊年祭もエイサー祭りも中止になってしまいました。でも命があれば、いつかまた楽しいことがあるはずですよね。命どぅ宝。皆さま、体に気をつけて、またいつかお会いしましょう!(外間晴美 浜比嘉島)

植村直己冒険館のリニューアル

■地平線会議関係者のみなさん、ご無沙汰してます。植村直己冒険館も平成6年にオープンして26年、植村直己スピリットの継承を中心に全国のチャレンジャーの応援を進めてまいりました。お陰様で、「植村直己冒険賞」をはじめ植村直己冒険館が全国に認知していただけるようになりました。これも、オープン当初から地平線会議の方々からのご指導やお力添えをいただいた賜物と感謝いたしております。

◆数年前から、江本さんはじめ関係者の方々に「30年後、50年後の植村直己冒険館を想像すると不安になります。今やっておかなければならないことは何でしょう?」と何度も何度も相談させていただいてました。皆さんがおっしゃるには、「若い人は、植村さんを知らない。植村さんの偉業をきちんと伝え、そして植村さんが歩んできた道を風化させずに、もっともっと際立った方法で子供たちの進んでいく道を示すことが大切と思う」と……。

◆豊岡市は、それらのアドバイスもふまえ、植村直己冒険館で子どもたちの生き方にもっともわかりやすく、間違いのない指標を与えていけるような構想で、大リニューアルを只今行っています。リニューアルの内容は、

(1)老朽化する全体的建物リニューアル
(2)展示リニューアル
(3)チャレンジャーを紹介する研修等の整備
(4)機能強化施設の新設

の4つに分け、リニューアル工事を4月から進めています。

◆具体的なリニューアルは、本館の展示では、単に出来事を羅列するのでなく、見出し、写真、イラスト等を組み合わせ体感的な理解を導くように植村直己の生涯を紹介します。研修棟では、植村直己冒険賞受賞者や、全国のチャレンジャーの情報をテーマ立てして紹介したり、植村直己さんと交流のあった人々の紹介もします。新しく建設する機能強化施設(仮称)では、大型遊具(ネット遊具)を中心に、子どもたちの発育を促す遊具や立ち木、芝広場を利用し、脳科学的に研究された運動遊びが展開できるコーナーをつくり、子どもたちが「生きる力」を身に付け、たくましく成長することを願った施設を建設します。

◆工事は予定どおり進み、屋根・外壁の改修を終えて新築する機能強化施設の建設に取り掛かっています。来年の4月中旬のオープンを目指しています。また、これを機会に植村直己冒険館の運営を一部民間に委託させていただき、官民連携をとって植村直己冒険館を創りあげていく所存ですので地平線会議の皆さんのお力添えを一層いただきますようよろしくお願いします。(植村直己冒険館長 吉谷義奉

地平線通信(紙版)では吉谷館長の名前がオーバーフローして印刷されませんでした。申し訳ありませんでした。
「日本冒険フォーラム」報告書、残部あります

■昨年の11月に開催された「2019 日本冒険フォーラム」の報告書『新たな自分の発見――植村直己の精神をつなぐ』がこの4月に完成し、明治大学の会場に当日いらっしゃったみなさんにお頒けしましたが、まだ少し残部があります。参加していないけれども読んでみたいという方に無料でお送りしますので、お届け先をまでメールするか、地平線ポスト(巻末参照)まで葉書などでお知らせください。A5判フルカラー・全112ページのムック形式の本です。先着順ですので、お早めに。

【目次より】
はじめに「植村直己の精神をつなぐ」/プレゼンテーション「小さな世界都市をめざす豊岡の挑戦」(豊岡市長:中貝宗治)/基調講演「人類を進化させた冒険の精神」(霊長類学者・京都大学総長:山極壽一)/フォトアルバム「チャレンジャーたちのメッセージ展」/パネルディスカッション「挑戦し続けるこころ」(パネリスト:山極壽一・田口亜希・小松由佳・角幡唯介/ゲスト:市毛良枝/司会:神長幹雄)/メッセージ「植村直己語録を描いて」(イラストレーター:黒田征太郎)/植村直己冒険館・植村直己冒険賞紹介(丸山純)


凍った大地を追って

その9“Kenji?”と若い女性は言った

■いま冬を迎える南米はコロナがすごいことになっている。週一度のミーティングで聞いた話だが、チュキカマタ銅山のあるカラマはロックダウン、医療崩壊、死者は冷凍車に詰め込まれているという。アラスカもここへきて徐々に増えてきている。検査に1週間以上かかるのがまずい。この米独立記念日の連休で一気に増えるだろう。

◆独立記念日といえば浮かぶ苦い思い出がある。ヨットでアラスカにやってきた26年前、当時ノームの港はまだスネーク川河口を利用していて、入り口が浅く毎夏土砂を掻き出して利用していた。沖で錨を下ろし、小船を出し、港入り口の測深偵察をするとヨットの喫水とほぼ同じ6フィートだった。微妙だけど次の嵐もそこまできているので、気をつければ港に入れると踏んで、入港準備をする。が、やはり入り口で座礁した。

◆漁師たちがヨットにロープをかけ沖へと引っ張り、ガフ(棒)でヨットから岸壁を必死に押す。ちょうど独立記念日の週末ということもあり、多くの見物人がビール片手に歓声をあげている。漁船もガフも無力であわや岸壁に激突するその瞬間大波が来て、気がつくと港の中に入っていた。これがアラスカ到着の初日だった。ちなみに港を出るときは、水、燃料、食料を空にして、喫水を浅くし脱出した。

◆次の係留地テラーは、北西アラスカ唯一嵐を避けられる深い入江があり、古くはキャプテンクック偵察、北米初のトナカイステーションの設置、北極横断ノルゲ号着陸など歴史上いろいろなことがあった地域だ。ここではサイドスキャンソナーを曳航し、海底地形や沈没船を発見した。我々がいた夏はまだアムンセン着陸から68年後ということもあり、アムンセンやノビレに会ったことがある年配の人もいた。あの時イタリア人がくれた新鮮なオレンジに感動したと言う。

◆ノビレの機関士ポメラはここで恋に落ち、地元の娘セラに来年もう一度イタリアのため飛行艇で北極点へ行ったら、戻ってきて一緒に暮らす、と約束した。しかし、ポメラはこのイタリア号の墜落で帰らぬ人となる。捜索に行ったアムンセンも行方不明。アムンセンとノビレの不仲は有名だが、ノビレはノルゲ号で横断中にすでに次の具体的な構想を部下に話していたのだ。そのセラも1997年に他界し、全ては歴史の中に消えていった。

◆その後、船はエルソンラグーンで越冬した。ときどき、ヨットから20km離れたウトキアビック(バロー)にスノーモビルで買い物に行くのだが、グリーンランドで昔作ってもらったカリブーの服を着て、街に行くとお年寄りたちが、懐かしい服を見て大喜びで型を取らせてくれと頼まれたことがあった。アラスカもだが、グリーンランドも然り、時代の波は気がつく前に去っていく。

◆あの服をトナカイ旅行用にもう一度使いたくて、グリーンランドの村人に最近尋ねたが、もう誰も作らないし、着ないという。 たった30年の年月は数百、いや数千年という伝統の衣類をも変えてしまうようだ。この服を着れば吹雪の中テントなしで獣のように転がって寝ることができた。当時服を作ってくれた老夫婦とは、漁を手伝って、ひと夏一緒に暮らした。

◆あれは、私が修士論文を書いていた頃、刺し網は4時間おきに網を見ないと北極イワナが刺さりまくって死んで鮮度が落ちる。イワナは背開きで燻製にして街に持って行って売る。これが抜群にうまくて高値でもすぐ売り切れる。西グリーンランドの夏の風物詩だ。当時その老夫婦は他に5歳の孫娘と一緒に暮らしていた。

◆10年前、グリーンランドを再訪した時、その老夫婦は村を離れ、地域のハブであるイルリサットの介護施設に入っていると聞いていたので挨拶に行こうと思っていた。穴掘り仕事を終え、街で最初に通りかかった若い女性に施設の場所を尋ねると、意外にも戻ってきた答えは、“Kenji?”だった?! そう、この女性はあの時の5歳の女の子だったのだ。何と言う偶然だ。それにしてもあれから20年以上会ってなくて、なぜ一瞬でわかったのだろう? たぶん顔がでかいからだろうか。結局彼女と一緒に施設を訪ねることができた。その翌年その老夫婦は他界してしまった。

◆そんな訳で村での私の仕事は穴を掘り、学校の先生を手伝い、村人に永久凍土の話をすることである。北極圏の村では永久凍土の上に住んでいるにもかかわらず、南で作られた教科書を使っているので凍土のことはちょっと触れるだけだ。最近うちにやってきた工学部の地元学生のほとんどがトンネルマンに会ったことがあると言うのには驚いた。彼らが小学生の時、私が村にやってきたのを覚えていてくれたのだ。

◆村の学校は実に様々だ。アルコールが蔓延している村などでは妊娠していても呑むのをやめないので、子供の脳に悪い影響が出て、集中力が続かないことがある。最初は日本のような礼儀正しい子供達が教えやすいと思ったが、荒れた学校の方が反応がすぐ出て、チャレンジングだ。かつて「トンネルマン」という昭和的なヒーローが出る永久凍土教材ビデオシリーズを作ったことがあるが、3分間で終わるようにしたのは、アルコールシンドロームの子供達が見ていられる時間を考慮してのことで、まるでウルトラマンみたいだがここでは3分間の連続が勝負だ。


火星の暮らしと思いやり

■こんにちは、横浜市在住の杉田明日香です。普段は小学校の教諭、趣味でアドベンチャーレースを楽しんでいる者です。2017年1月の地平線報告会(第454回)で、海外アドベンチャーレース参戦についての報告させて頂きました。今回は、小学校の教諭として、子どもたちに伝えていること、なぜ火星移住計画に心奪われたのか。この2点についてお伝えしたいと思います。

◆2020年2月、この頃はまだ、今のような状況になるとは思っておらず、通常通りの学校生活を過ごしていました。そして、3月。社会情勢が一変してから、小学校でも、子どもたちが安心に学校生活に戻れるように、日々さまざまな話し合いがされています。緊急受け入れ体制、授業の時数、教える内容の組み替え、給食の運営、共有物の衛生管理、心のケアなどなど。これらの方針を検討しながらも、やはり個人の働きかけが一番大事だと思い、私にできることをしていこうと思いました。

◆私にできることは、「相手のことを想像し、相手を思いやること。それを、ことばや身体でお伝えすること」です。主に、以下のような趣旨のことです。「今の社会は、色んな立場の人、色んな気持ちの人がいますよね。だから、相手の立場にたって想像することが必要です。例えば、お医者さんの立場にたって想像したり、悲しい気持ちの人の立場にたって想像したり。例えば、友達がアサガオの鉢植えを持っていて重たそうにしているときに、手伝おうか?と声をかける。例えば弟がジュースをこぼしてしまったときに、一緒に拭いてあげる。正解はありません。あなたが相手のことを想像して行動することが大切で、それが思いやりになります。みんなが少しずつそう考えると、大変な中でもあたたかな気持ちで暮らしていけると、私は思っています」という内容です。そのように伝える中でふと周りを見回すと、この世は相手を思いやる心によって成り立っていることに改めて気づかされます。想像することが起点となって、思いやりの気持ちが生まれ、そしてそれが巡っていく。あたたかな気持ちを巡らせていくことができるように、私にできることを日々想像しながら、行動している毎日です。

◆さて、話は少々さかのぼります。まだ、コロナ禍が今ほどの状況になっていなかった2020年の冬。【MARS】というナショナルジオグラフィック社が監修しているドキュメンタリー・ドラマを見ました。舞台は2042年の火星。火星移住計画をテーマとした物語です。この【MARS】を視聴した同タイミングで、とある美術展に出展することが決まっていました。よい機会だと思い、作品のテーマは【火星】としました。この美術展用に創った作品は3点です。@火星経済新聞A 『38億年前の火星』と『2020年の地球』のパステル画B絵本『次の引っ越しは火星にしようかな』。これらの作品を創った理由は、「火星で暮らしたら、どんな生活なのかしら?」を自分なりの解釈で表現してみたいと思ったからです。

◆火星経済新聞を例に挙げます。これは「火星で経済圏を作ったら、こんな感じかしら」ということ想像したパロディ新聞です。日経新聞風に記事を書き、写真風の手書きのイラストを載せ、虚構の広告も掲載しました。ここで意識したことは、空想63対リアルさ37の割合になるようにしたことです。ただのファンタジーだけじゃ面白くない、でも全部リアルだらけじゃつまらない。そのちょうどいい塩梅になることを目指しました。作品を創るための情報を集めたり編集したり表現手法を考えながら、私は火星の厳しさ、美しさ、自由さにだんだん惹かれていきました。

◆火星の風が創り出す地表のマーブルチョコレートみたいな模様、火星の青い夕陽、火星で嗅ぐラベンダーの香り、地下に築かれるであろう大都市や住居、火星での食事などなど、いったいどんな感じなのかしら。具体的に想像すればするほど、より一層細部が気になり出して、情報を調べたり人に聞いたりしました。そしてまた、想像して、気になって、調べる。想像→調べる→想像→調べる……の繰り返しでした。火星移住を想像すると、そこには必ず人がいて、コミュニティがあり、思いやりや助け合いがありました。

◆このことはドキュメンタリー・ドラマの【MARS】でも取り上げられていました。登場人物たちは、相手のことを想像し、思いやり、助け合う。そうやって火星での暮らしが営まれていることが描かれていました。それを見て、私は「どこで暮らしても、人と人がともに暮らしていくことは、相手のことを想像することなんだな」という当たり前のことに気づき、今の暮らしの尊さを実感しています。(杉田明日香

上五島の「月夜間」の楽しみ

■長崎県の上五島にきて早くもひと月半になろうとしている。五島にはずっと行ってみたいと思っていたけれど、まさか島民になる日が来るとは思わなかった。

◆ここ数年ずっとニートのような生活をしていたわたしも、昨年の秋からようやくツアーガイドの仕事を見つけ、これで当面お金の心配はしなくてすむな……やれやれだぜ……と思った矢先にコロナさんがやってきて、仕事再開の目処は全く立たなくなってしまった。新型コロナウィルス以前から、毎年のように“100年に一度”の大雨による土砂災害や大地震がどこかしらで起こり、もはや先の予定や計画などというものが体をなさない時代になった。そう、安定なんて端から幻想だったのだ。

◆そんな折に、知人のゲストハウス&カフェで求人をしているというので、こんな機会もなかなかないし、これはいっちょやってみるか〜とバックパックとスーツケースを担いでやってきた。当初は4月から働き始める予定が、緊急事態宣言が明けるのを待ってようやく5月末に移動。だが島にはまだ1人も感染者が出ておらず、お年寄りの方が多いこともあり、最初の2週間は家から一歩も外に出られない監禁生活となった。

◆仕方のないことだとはわかっているけれど、日当たりの悪い暗い部屋で1日中過ごしていると気持ちが鬱々としてくる。世界のあちこちで同じようにロックダウンとなった人たちもこんな気持ちで日々を過ごしているのかしら……と思いながら、待ち望んだ解禁日。ようやくシャバに出られたー! と思ったその日からまさかの梅雨入り。前日まで続いていた晴天が嘘のように、今年の梅雨は容赦ない。

◆でもその分、時折の晴れ間がありがたく、海の美しさにはいちいち惚れ惚れしてしまう。パタゴニアで見たような、トルコブルーやエメラルドグリーンがそこかしこに広がっている。上五島の魅力は自然だけではない。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一部として、世界文化遺産に登録された頭ケ島教会を筆頭に、潜伏キリシタンの歴史を物語る教会が島内だけでも29ある。島民の中には今もキリシタンが多く、日本の墓石の上に十字架が乗っているような和洋折衷のお墓も多く見られる。

◆食文化も非常に豊かで、釜炊きの塩を作っている工房がいくつもあるし、その塩と、これまた特産品である椿油を練りこみ、そうめんのように伸ばして作る「五島うどん」はつるつると喉越しがよく、日本三大うどんの一つ。五島うどんにはあご(トビウオ)の出汁を使う。ほとんどのところがガス焼きになる中、今も昔ながらの炭火焼きかつ手作業にこだわる生産者さんもいる。

◆「自給自足な老人ホーム」という面白い取り組みをしている人たちもいる。お米や穀物、野菜、醤油や味噌などの調味料はもちろん、鶏や豚も飼っていて、椿油の搾油、炭焼き、染物、そして自家用のお酒まで、なんでも作ってしまうパワフルなファミリー。自給率はなんと9割以上。面白すぎて最近は田畑の草取りを手伝いにいったりしてよく通っている。

◆そして特筆すべきは魚のおいしいこと。もともとこの島は5つの町にわかれていて、2004年に合併するまではほとんど交流もないほど、それぞれが独立していた。だから面白いことに同じ島の中でも獲れる魚も食文化も、地域によってだいぶ違う。わたしが今住んでいる奈良尾地区は、アジやサバなどの青魚をよく食べるが、西の若松島ではマグロやブリ、北の有川地区ではクジラがよく食べられるようだ。

◆奈良尾は西日本随一の大型巻網漁業の基地で、地元の人たち曰く、かつては日本一の漁村だったそうだ(何をもって日本一なのかはいまいち不明だけれど)。巻網漁では集魚灯を使うそうで、灯りの効果が薄れる満月の前後数日間は漁をお休みして一斉に船が帰って来る。この期間を「月夜間(つきよま)」と呼び、昔は月夜間の時期は毎月お祭り騒ぎで、通りには人があふれかえり、すれ違うのもやっとだったという。港には数十隻の大型漁船が並び、毎月のように新しい船が造られ、その都度「もち投げ」が行われ、神主さんは大忙しだった。

◆常連のおじちゃんたちからはそんな話をよく聞くのだけれど、残念ながら今やそんな光景も想像できないほどに人通りもまばらになり、商店街のほとんどはシャッターが閉まったまま。その一角にあるわたしたちのお店は1日中開けていても誰も来ないことすらある。今年はとりわけコロナの影響で観光客も少なく、来たいと言ってくれる家族や友人はたくさんいて、気持ち的にはとっても来て欲しいのに、大手を振って「いらっしゃい!」というわけにもいかない歯がゆさ。きっと世界中の人たちが同じようなもやもやを抱えていることだろう。

◆旅に出ることも、人と会うことも制限されたこれからの世界は一体どうなっていくのか。オンラインで簡単に繋がることはできるようになったけれど、それでも、いや、だからこそ直接会うことに勝るコミュニケーションはない。とはいえ、そもそもコロナがなければこうしてこの島で働くことも、暮らすこともなかったわけだから、不思議なものだ。

◆私にとっての現代版・月夜間の楽しみは、仲良くなった船長さんのお家に呼ばれて、おいしいお刺身や奥さまの愛情たっぷりの料理をいただくこと。船の上でしめたというアジやサバ、手のひらの半分ほどの大きさの牡蠣フライ、アンコウの味噌汁、唐揚げ、すき焼き……毎回食べきれないほどのご馳走が並ぶ。そして漁師さんたちの武勇伝を聞くのはとても楽しい。折しも今日(7月9日)の朝、また一斉に船が出て行った。次に戻って来るのは1か月後。どんな話が聞けるのか、今からとても楽しみだ。(上五島で 青木麻耶


今月の窓

「上に言われたからしょうがないんだよ」
    ──疫病の流行が可視化する私たちのありよう

■2020年2月27日夕方、職場の若い職員が素っ頓狂な声を上げました。「来週から休校だって!?」そこにいた職員の皆が驚いて集まるとLINEニュースで首相の休校要請のことが書かれていました。もちろん誰もまともには受け取りませんでした。でも、一応19時のNHKニュースを皆で観ることとなり愕然とします。

◆首相は翌週3月2日から全国一斉の休校要請を発表しており、各都道府県市町村が混乱に陥っていて、いくつかの市長は反対声明を発するという前代未聞の様相でした。しかし独裁者じゃあるまいし、木曜日の夜に突如発表して翌週の月曜日から一斉休校など実現するわけはないし、土日を挟むのにそもそもその是非を検討する時間も準備する時間もないままに決定して実行するわけはないと、正直言ってタカを括っていました。

◆しかしこういう事を「寝耳に水」とか「青天の霹靂」というのでしょう。休校は現実になります。翌日の午前中には決定されてほとんどの公立中学校は休校とされ、私たちの職場も例外ではありませんでした。それはまるで自然災害の様な唐突な出来事でした。この様な前代未聞のことは記録する価値があると思い、私はそれ以降学級通信紙上に書くようにしましたが、年度の終了にケリをつけられないままに終わり、更にそのままなし崩し的に新年度のスタートが休校にされた事実から色々なことが見えてきました。というよりも分かってしまった!

◆疫病の流行は歴史的にはいくらでもあり珍しいことではありませんでしたし、近い過去にも修学旅行の延期くらいはありましたが、今回の混乱から、私たちの国の政治が無能なことと、社会システムの脆弱性が明らかになり、私たちのレベルでも同様のことが露出した様に感じます。個々に頑張っている人がいることは当たり前ですが、鳥の眼的な視点から日本という社会と我々の傾向が可視化されたことの意義は大きいと思うしこのことも記録に残すべきだと考えました。

◆話は戻りますが、首相の休校要請を聞いたときに真っ先に思ったことは首相にそんな権限はあるのかということです。そもそも公立学校の休校決定権はどこにあるのか。つまり“休校決定の法的根拠”と“要請発表までの過程”はどうなっていたのかということを疑問に感じ、知る必要を感じました。これは誰しも同じかと思いますし街頭インタビューなどでは誰も口にしていなかったので不思議に思いましたが、きっとカットされていたのでしょう。

◆夜19時のテレビニュースでは幾人かの市長が休校反対を発言していましたので、単純に市立学校の場合は市長が決定権者だと思っていましたが、法的根拠をきちんと調べたらそれは「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」にあり、決定権者は教育委員会だということが分かりました。つまり首相がいくら要請をしても、首相には決定権はないのです。ならば現場の混乱を最も知る立場にいる人たちは首相の鶴の一声で何故休校をあんなにも短時間で決めることができたのか本当に不思議でした。

◆また翌日の大手新聞の一面等を見比べると微妙な差異があることが分かり、そのことが一層混乱のあることを証明している様に感じました。なお私の中学校の3月2日からの休校決定は、首相の要請を受けて検討した県教育委員会の意向を加味して検討した市教育委員会決定を受けて、職員には翌日の2月28日13時20分に伝えられ、生徒には28日15時35分に学校長から伝達されました。このスピード感には驚きを覚えます。

◆休校を検討しなければならない状況の説明とその分析結果、そして休校決定の根拠についての説明は一切なく、結果の伝達だけでありました。学校長には「県から市へ」そして「市から各学校へ」の状況や分析の説明はあったのかを質問したところそれはなかったとのことです。これでは当然私たちから生徒への説明もできるはずもなくただ結論を伝えるだけという子どもの使いのような有様。これが日頃“信頼”を口にする世界の一側面であることは何とも皮肉なことです。

◆しかし状況が「休校に値する状況」だから休校するのではなく、休校の根拠はまさに「要請」そのものなのであれば説明できないのも当然で、同時に「言われてやるのなら責任はない」と考えているのではないかとさえ感じましたが、これではまるでアドルフ・アイヒマンと同じ様です。

◆縮小になった卒業式で合唱の伴奏をやることになっていた生徒にある教員が合唱の中止を伝える中で「上に言われたからしょうがないんだよ。」と言っていたことは何かを象徴しているようで、聞いた時は眩暈がしました。教育に携わる者が一番言ってはいけない言葉だと思っていましたがそれが我々の現実なのかもしれません。

◆今思うと、すべてにおいてウイルスという自然の状況にこちら側(人間)が合わせるのではなく、常に人間の側の都合を優先して決定して現実を見ないことにする姿勢はこの時からあったのかもしれません。そしてこの混乱は学校という組織のあり方や教育について考えさせられていく幕開けに過ぎませんでした。COVID-19は、私たちが日ごろ見ようとしなかったものを嫌でも見るようにしてくれたのかもしれません。ただ、見ようとしない人には見えないかもしれませんが……。(山本宗彦 埼玉県中学教諭 日本山岳会副会長)


あとがき

■今月も多数の書き手たちに登場してもらった。意図したわけではないが、3か月連続22ページの通信となった。報告会レポートがないのにページ数がここまで増えるというのは、大したこと、地平線会議だからこそ、できることだな、と思う。内容が濃いからね。

◆関野吉晴さんに頼まれ、12日夜、不慣れな“オンライン対談”をやった。宮本千晴と私が自分の幼い頃からどんな人間や本に影響を受けたか、後進をどんな思いで導いてきたか、などについて率直に語ってほしい、というのだが、うーむ、そんなにいい話はできないよ。

◆渋沢家の書生としてくらした千晴さんの具体的な体験は面白かったし、穂高の岩場での遭難体験もリアルで印象に残ったが、対談そのものは進行役の岡村隆のおかげでなんとか2時間もたせた、という感じである。私には常時、千晴、関野、岡村しか見えないという「会場設定」そのものが珍しかった。140名も参加してくれたと聞き、なるほど、とオンラインの長所を感じた。

◆本来、地平線会議が企画していい内容であり、いつかかたちを変えてやってみたい気もする。その思いはここしばらく実行できないでいる地平線報告会の明日にも重なる。当面、地平線通信を充実させ、毎月「紙の報告会」としていろいろな人に登場してもらうつもりだが、もっといろいろな挑戦があってもいい。

◆皆さん、いい通信のために面白い文章をどしどし書いてね。(江本嘉伸


■地平線マンガ『旅欠乏症ノ巻(ジャガイモのワンカヨ風)』(作:長野亮之介)
マンガ 旅欠乏症ノ巻

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■今月の地平線報告会は 延期 します

今月も地平線報告会は延期します。8月以降いつ再開できるか、情勢を検討しながらどこかで決定したいと思っています。


地平線通信 495号
1 制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2020年7月15日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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