2020年6月の地平線通信

6月の地平線通信・494号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

6月17日。朝から気温25度。今日も暑くなる。こんな季節にマスクは、そろそろ御免とさせてほしい。しかし、昼、近くの郵便局に行くと9割5分の人が変わらずマスクを装着していた。これからの猛暑、マスクをほんとにどうするのか。通勤は大丈夫なのか。そして、夏休みは? 2020年夏。本来なら「東京オリンピック」開幕直前で燃えているはずのこの時期、市民の関心は、いつ自由に動き出していいか、に絞られている。

◆新型コロナ・ウィルスの勢いがどんなふうか、毎月、ここでお伝えする。きょう17日現在、世界各国の死者は死者436,899人。感染者は8,034,461人。回復者3,857,338人。日本の感染者は17,638人 死者938人。相変わらず大爆発の状況は抑えられているが、危機を脱したと思われた東京周辺のこの数日の感染者が二桁、それも40数人というのか続いているのが気になる。とりあえず、夏はウィルスは目立つ動きはしないだろうが、秋、そして冬になるとどうか。

◆昨日16日、横浜港に停泊中のクルーズ船「飛鳥」(50,142トン)で火災が発生、客船に関心が深い私は一瞬緊張した。幸い、3時間で鎮火し大事にはならなかったが、客船の夢のイメージが次々に破られているさ中、ヒヤリとしさせられた。だが、ほんとのヒヤリはその直後に起きた。北朝鮮の開城(ケソン。昔、取材で訪問したことがある)工業団地にある南北共同連絡事務所が北朝鮮により、爆破されたのである。

◆つい2年前、韓国の文在寅大統領と金正恩朝鮮労働党委員長が2人で仲睦まじく語り合うあの平和な風景は何だったのだろう。この連絡事務所こそ2人が初会談(2018年4月)で設置に合意した南北交流の象徴的な建物だったのだ。今回、激しい口調で韓国を非難、爆発を指示したのが、もっぱら穏やかな人柄が強調されていた金正恩の妹の金与正(キム・ヨジョン)だったことも注目点だ。金正恩、ほんとうに健康に問題があるのではないか。彼が倒れてこの妹が後を継げるのか。

◆北朝鮮拉致被害者の横田めぐみさんの父、横田滋さんがさる5日午後亡くなった。あれほど人生をかけて娘の救出を訴え続けたのに、ついに生きて対面とはならなかった。87才、老衰だった。直接の面識はないが、何もできなかった自分を恥じた。状況は全然違うのだが、昨年暮れ、アフガニスタンで銃に倒れた中村哲医師を思い起こした。鮮烈に生き抜いた人、という意味でお2人には深く語りかけてくる何かがある。

◆ことしは新型コロナ・ウィルスで登山もなかなかしにくくなっている。富士山は、早々と登山禁止になってしまった。あちこちの山小屋も閉ざされたままだ。そういえばもう10年になる。太平洋から歩いて富士山頂まで3日かけて登った。北アや南アの縦走を共にしていた神戸在住のタフな後輩T(といっても当時66才)と近年復活した「村山古道」いうコースを探しながら歩いたのだ。テントのほか、ピッケル、アイゼンまで持った重装備でえっちらおっちら。

◆途中2泊して、予定通り「古希」を迎えた日に3776メートルの頂きにたどり着いた。海から歩いてきたことに達成感はあったが、ひどく感動したほどではない。年取りは仕方ないことなのに、もう一度抵抗してみた、という気分。地球上を新型コロナ・ウィルス旋風が吹き荒れるいま、さあ、ことしは何ができるのか。あるいは何もできないか。

◆以下は、ここだけの話である。かれこれもう4か月、私は“夜の徘徊老人”に徹している。「全員、篭(こも)れえ!」と言われているような日々、家に篭ったままで身体にいいわけはない。せめて医療のお世話にならないようにせねば、との使命感から夜の10時過ぎ、家を飛び出し、ラジオを聴きながらひたすら徘徊するのである。長めのニュース番組に合わせているので大体90分。雨が降ろうが風が吹こうが実行している。皆さん、約束を守っているので人に会うことはほとんどない。

◆ずっと上智大でやっていたロシア語上級をなんと「オンライン」で再開している。生徒は私を含めて5人。女子学生、現役の中堅OLを除き、年金世代が中心だ。はじめzoomというのに慣れなくてひとりモタモタしたが、皆さんの親切でだいぶ慣れてきた。一度女子大生がバイオリンの腕を披露してくれ、こういう方式もいい面があるのだ、と再認識した。地平線会議もいろいろ試行錯誤があっていいかもしれない、と思う。

◆地平線報告会、早けれは夏には再開、と思っていたが、まだ会場の制限は当分続くとのこと。しばし様子を見ます。しかししかし、皆さんが本格球を投げ込んでくる地平線通信という“戦場”が私には一番刺激的だ。(江本嘉伸


新型コロナ2020

「冒険研究所」こどもたちに開放

■昨年10月、神奈川県大和市に「冒険研究所」を開設した。大層な名前を付けているが、私の事務所兼装備置き場である。小田急江ノ島線の桜ヶ丘駅目の前の、前は雀荘だったテナントを借りている。これまでの私個人の極地遠征の装備類に加え、昨年の若者たちを連れての北極行で一気に装備が増えたことで置き場に困り、せっかくなら広めの場所を借りようと思い立って始めた場所だ。「研究所」と名前を付けているのは、新しい装備開発なども積極的に行う気持ちの表れと言える。

◆昨年の北極行にカメラマンとして同行してくれた柏倉陽介と、テントの中でそんな話をしているうちに現実となった。私自身、北極を歩く中で徒手空拳の一人旅を行い、情報を求めてあちこちの人に会いに行った覚えがある。若く冒険を志す人たちやベテランを問わず、人や情報が交差していくような場所にできればいいなぁという思いがある。昨今はコロナの影響で不意の来訪は乏しいが、是非みなさんも遊びに来てください。いつでも歓迎します。

◆さて、その冒険研究所では、コロナウイルスが猛威を振るい出した3月は、休校となり行き場を失った子供たちの受け入れを行った。2月27日(木)に安倍首相が「全国の学校の休業要請」を行い、私はその夜にNHKのニュースでそれを知った。我が家にも小学1年生(当時)の息子がいる。夕飯を食べながら私は思わず「来週から学校休みだって。お前、どうするの?」と冗談交じりに息子に尋ねた。幸い我が家は私も妻も家にいることが多いが、冷静になってみれば今時は共働きの家庭の方が多いはず。これは、困る人が続出するぞ、と瞬時に頭をよぎった。

◆翌28日に、私は冒険研究所を開放して、行き場のない子供達が過ごすための場所として無償で利用できるように呼びかけを行った。果たして必要とする人がいるのか? どこまで呼びかけが届くか? 分からないが、持っているSNSなどのツールを使って呼びかけると、少しずつ反応が出てきた。中には介護士のお母さんが「学童保育に行ってない息子がいて、急には学童も預けられず困っている」と、最後の駆け込み寺のようにやってきた方もいた。いざ始まってみれば、3月の平日は毎日子供達がやってきて、1か月で延べ100名ほどの子供達が利用した。その間、行政に対しては憤懣やるかたない思いを持ったが、ここでは多くは書かない。

◆4月になって世間では本格的に外出を控えるようになり、子供達も自宅で過ごすようになったようで静かな冒険研究所に戻った。6月になって学校が徐々に再開を始めたのだが、大和市では分散登校という形をとり、3地域に分けて「3日に一度の登校」となった。すると、変則的な子供たちの登校日時で親御さんの毎日の仕事時間とタイミングが合わず、3月同様の行き場に困った子供達が発生した。

◆再び3月にやってきていた子供達が冒険研究所に来るようになった。「久しぶり、また会ったね」なんて、喜んでいいのかどうか分からない挨拶を子供達としている。親御さんと子供達に聞くと、学校やその他の施設で過ごせるような対策も特にないという。安倍首相の急遽の休業要請の時には行政の対策が間に合わないのも仕方ないが、あれから3か月経って「同じ家庭が同じ悩みで同じように困っている」という現状を見るにつけて、行政は3か月も何をやっていたのだろうかと、いよいよ私の頭も爆発寸前だ。ボーッとしていたのだろうか。と、こうやって書いているうちに自分の考えの狭量さに気付いて、自分に対してがっかりしてしまう。

◆子供達の受け入れを、私は自分のためにやったつもりだ。私自身の価値観において、子供達の行き場を作りたいと思い、行動に移しているに過ぎない。自分の好きでやっていることを、やらない人に対して文句を言うのは筋違いである。こうやって考えてみると、冒険も同じことだ。冒険とは本来が利己的な動機によって始められるものである。自分の内側から湧き出る力のベクトルによって、「自身」はまるで第三者的に動き出してしまう。

◆探検は、どちらかと言えば利他的とは言い過ぎだが、対外的に始められることが多い。個人的な動機の他に時代ごとの社会的要請があり、それを実現するための先遣隊として探検家が存在し、また科学と手を結ぶこともあった。私は最近、この内なるベクトルの源泉に興味がある。これは、なぜ人は冒険するのか、という昔からの命題でもある。私はなぜ北極を歩くのかと問われれば、致し方なく歩いている、と答える。行かずに済むのならば行かないのだが、そうではないので致し方なく北極に行っている。

◆子供の受け入れも、全く同じ理屈だ。やらずに済まないから、やっている。人は大いなるものに導かれるように生きている。それを宗教に見ることもあれば、心理学から読むこともある。冒険や探検に求めているのが、地平線会議に集う人たちだろう。そんな人間普遍の営みを、新しい冒険研究所という場所を通して考えたいと思っている。(荻田泰永

トラック運転手もジャーナリストも「必要不可欠な働く人」

■フリーで戦場ジャーナリストをしている桜木武史と申します。とはいっても、ジャーナリストでは稼げるどころか、毎回、赤字を出しているため、取材費はもっぱら国内での仕事でまかなっています。その仕事とは、トラックのドライバーです。コロナが騒がれている昨今、僕の生活に大きな変化はありませんでした。

◆「エッセンシャル・ワーカー(essential worker)」という言葉がよく聞かれるようになりました。直訳すれば、「必要不可欠な働く人」ですが、この中に運送業も含まれます。物流が滞れば、人々の暮らしに大きな支障が生じます。そのため、コロナに限らず、様々な災害の現場でも、物流は常に動き続けています。そんなわけで、緊急事態宣言が出されても、僕は相変わらずトラックの配送業に従事していますが、あるとき、ラジオからアメリカのロックダウン(都市封鎖)の状況下を伝えるニュースが流れてきました。

◆興味深く聞いていると、ロックダウンで様々な制約がされている最中でも、決して動きを止めない仕事があると現地の記者は伝えていました。エッセンシャル・ワーカーです。僕は思わず「運送業だ」とラジオに向かって声をあげました。予想通り、物流はロックダウンの対象外であり、誰もいないニューヨークの街中でもトラックは見かけるそうです。そのあと、思わぬ職業がエッセンシャル・ワーカーに指定されていることに驚きました。

◆外出制限がされている中、街中でレポートを続けているその記者に、ラジオのパーソナリティーは「外を出歩いても大丈夫なんですか」と質問します。記者は「一般の方は必要最低限の外出以外は許されていませんが、私は問題ありません。実は、こちらでは、ジャーナリストはエッセンシャル・ワーカーに指定されているのです」と。その言葉を聞いたとき、僕は、初めて、これまでやってきたジャーナリストという職業が必要不可欠な仕事であることを実感しました。同時に、国内ではトラックのドライバー、海外ではジャーナリスト、この二つの顔を持つ僕が、どちらの職業もエッセンシャル・ワーカーなのだと、まったく異なる業種でありながら、根っこの部分で繋がっていることに感動しました。

◆コロナで世界が混沌とする中で、僕はふと取材を続けてきたシリアのことを思います。これまで当たり前のように享受してきた平和が、実はすごく貴重なものだったのだとは、壊されてから初めて気が付くものです。でも、コロナの日本と戦争のシリアとはまったく状況は異なります。例えば、「三密」があります。換気の悪い密閉された空間、多数の人が集まる密集する場所、間近で言葉が交わされる密接する場面です。具体的には市場、学校、病院があげられます。シリアではこうした場所に、爆弾が落ちてきました。

◆コロナがクラスターを引き起こし、多数の感染者をたたき出すのと理屈は同じです。三密の場所には大勢の人が集まるため、一発の爆弾で多数の死傷者が発生します。効率よく人を殺すための手段です。戦闘員だろうが、一般市民、老人、女性、子供だろうが関係なく殺すのは、コロナが人を選ばないのと同様に、シリアの戦争も似ていました。

◆三密を避けるために、日本に限らず世界では、学校やレストラン、娯楽施設が閉鎖に追い込まれています。それは単に人の不自由を強いるだけでなく、経済を停滞させ、失業者を生み、結果、人々から希望を奪うことにつながります。シリアはさらに事態が深刻で、学校、病院、住宅街、市場を空爆して、再起不能にすることで、需要なインフラを根絶する。これも人々から希望を奪うことですが、戦争は物理的な破壊です。コロナと違い、収束したところで再開できるような無傷な建物はありません。

◆日本ではコロナの感染者が減少傾向にあり、非常事態宣言が解除されました。コロナ以前の日常が徐々に取り戻されつつあります。シリアでは、市民の政府に反対する声をテロリストとしてアサド政権は弾圧してきました。コロナを根絶するのと同様に市民を虐殺してきたのです。その結果、シリアという国はアサド政権が勝利を手にしつつありますが、戦争以前とは程遠い廃墟と化した世界が広がっています。

◆希望が芽生えつつある日本の状況を見ながら、まだしばらく先になるかと思いますが、世界からコロナの脅威が抑えられたとき、エッセンシャル・ワーカーとして、トラックからジャーナリストに身を変えて、また世界の止まない紛争地に足を運べればと思います。(桜木武史 2016年9月「日常茶飯戦争のリアル」報告者)


報告会の会場について

■地平線報告会は新宿区の施設を原則お借りしている。会場の「新宿スポーツセンター」は「6月30日まで休館延長。7月1日以降は未定」。何度かお借りしている三栄町の新宿歴史博物館は7月14日(火)から制限付きで施設利用を再開するが、最大収容人数は通常の定員の1/2(椅子席のみの場合60席まで、机も利用する場合45席まで)に制限される。地平線会議としてはできれば自由な感覚で使いたいので焦らず様子を見守っている。(E


「中学生なめんな」

■3月3日の期末試験が終わり、突然の臨時休校。本来ならば翌日には全校生徒での学校行事「3年生を送る会」で「さくら」を2年生全員で合唱するはずだった。先輩たちに門出の言葉を贈ることも出来ず、3年生は中学を卒業していった。そしていつの間にか桜の季節も過ぎ自分は最高学年になった。正直実感がまるでない。4月の休校延長が精神的に追い打ちをかける。3年生と言えば入学式で最高学年として新入生を迎え、部活動でも最後の試合に向けてスタートをきるはずだった。

◆4月に予定されていた奈良・京都への修学旅行、中学最後の運動会など、大きな行事は軒並み中止になった。中学3年生にとっては学校での日々、行事の一つ一つが最後の思い出になる。そんな当たり前の学校生活が突如として失われてしまい、やり場のない気持ちをどこに向けたら良いのか途方に暮れた。

◆4月下旬に学校からダンボールで教科書と課題が届く。失念していた訳ではないが、自分は受験生になったのだった。昨年度までの復習を中心にとりあえずできるところから自力で予習も開始した。5月に入りMicrosoftのTeamsというアプリを使いオンライン授業が始まった。画面越しでもクラスメイトの顔が見られたことが純粋に嬉しかった。

◆スケジュールは1回30分の授業を1日最大3コマ+学活。各コマの間には30分のインターバルを挟む。授業時間としては少ない気もするが、眼科の先生には適切な時間数だとほめられた。授業はただ動画を視聴するだけではなく、先生に指名されれば問いに答えたり、板書の代わりにPower Pointのスライドを作ってくれたりと工夫されていた。生徒が自由に発言できないことを除けば普段の授業とさほど変わり無く行えていたと思う。

◆チャット機能を使えば先生方への質問もスムーズで、課題のフィードバックも早いというメリットもあった。学活ではクラスメイトのペット紹介などオンラインだからこそできることは意外にも沢山あり、普段は味わえない楽しさもあった。しかしながら、各種報道などを見ているとオンライン授業を行えている学校は極僅かだという。そういった点では僕たちの学校は大変恵まれている環境だと思う。

◆6月1日から漸く分散登校が始まった。生徒は偶数番と奇数番に分けられていて午前か午後のどちらかの登校。人は半分のはずなのに何故かいつもより賑やかだった。みんな人恋しかったのだと思う。密になるなと指導されているが、普通に濃厚接触していた。中学の授業は本来1コマ50分だが、半分しか時間がないので現在は1コマ30分となっている。いつも以上に超集中して授業を受けなければならず、大変疲れる。しばらくはこれで我慢していかなくてはいけないと、気持ちを奮い立たせている。

◆僕たちには平等に教育を受ける権利がある。ただ勉強するだけならば、登校しなくてもオンライン授業で事足りるかもしれない。だがしかし、学校は学びの場であると同時に、人間の基礎を築く場所だと思う。学校に戻ればいい奴もいれば気の合わない野郎もいる。それも含めて自分達を高めていくために必要不可欠な場所であると思う。9月入学なども取りざたされているが、そんなことよりも1日でも早くいつも通りの学校生活に戻れることを願っている。

◆そんなコロナ禍にあって1つ良いことがあった。僕たちのクラスには1年前から不登校になっていた2人がいたが、オンライン授業で久々に顔を見せたことがきっかけで2人とも学校に戻ってきたのだ。コロナ君まことに痛み入ります。(長岡祥太郎 中3)

「しあわせな死」を求めて

 今回のコロナ禍の混乱で講演会の中止や延期に追い込まれる中、3年前から大西夏奈子さんの助けで準備をしてきた「糞土師の対談ふんだん」が5月1日にスタートしました。これまでずっとウンコとノグソ限定のイメージでしか見られなかった糞土師ですが、その真の狙いは人と自然の本物の共生を目指し、全ての生き物が安心して暮らせる地球環境を取り戻すこと。そのために、これまでの価値観や意識の大転換を図る手段として最適なのが、ウンコとノグソなのです。とにかく最低と見なされてきたものをテッペンに持っていくのですから。

 ちょうど半世紀前の1970年に自然保護運動を始めた私は、73年秋に偶然キノコの写真を撮ったことをキッカケに、分解して土に還す菌類のはたらきと生態系の命の循環の仕組みを知りました。その直後に起きた屎尿処理場建設に反対する住民運動に強い憤りを覚え、自分のウンコに責任を持ち、さらに自分自身を生態系の循環に組み込もうと、74年1月1日から信念のノグソを始めたのです。

 その後、目立たない存在ながら自然の中で重要な役割を果たす菌類と隠花植物を専門に写真活動をしながら、理想的なノグソの探求を続けました。そして人と自然の共生を実現するうえで最大の障害になるのが、生態系のバランスを大きく崩した人口増だと思い至りました。写真の限界を悟り、本格的にウンコで発信しようと写真家を辞め、糞土師に転向したのが2006年。そこには予想以上の無視と非難だらけの被差別民の世界が待っていたのです。

 様々な場面で差別されながら糞闘するうちに、夢や希望、人間性や良識、人権など、これまで人間社会で良しとされてきた多くのものに、偽善的な陰が見えてきました。それらは自分(人間)にとって好都合なだけの、相手(自然や他人など)のことなどお構いなしの、無責任で身勝手な価値観ではないかと感じるようになったのです。

 美しいものとして語られる夢や希望の実体は、その人の望みであり欲望にすぎません。善悪に至っては、その人の好きなものが善であり、嫌いなものが悪になるだけです。たとえば雑草や落葉を汚らしいと嫌がり、除草剤という毒を撒いて枯らし(殺し)たり、樹や枝を平気で切る人が大勢います。しかし植物は、この地球上の全ての生き物を生かしてくれる、命の大本にいる最も大切な生き物です。太陽の光エネルギーを捉えて有機物(食物)を作り、その際にウンコとして酸素を排泄してくれるからこそ、私たちも生きていけます。その命の恩人を平然と殺しながら、自分は正しいとふんぞり返っているのが人間ではないでしょうか。

 かく言う私自身、良識は大切ですばらしいし、人権は崇高なものだと思っているのです。しかし実社会で見聞きする良識や人権の多くは上辺だけのものだったり、自分の人権意識を絶対の正義とばかりに他に押し付ける傲慢さに、むしろ危うささえ感じてしまいます。そしてなによりも、自分にきちんと向き合わず、自身の責任をしっかり果たそうとしない意識の低さには苦々しさが募ります。

 時々私は講演会などで、軽犯罪法(公園などでのノグソ)や不法侵入(無断で他人の林へ入る)、廃棄物(ウンコ)の違法処分などを理由に、ノグソの違法性を批判されることがあります。現行の法律を厳格に適用すればそうなるのでしょう。しかし私が毎日しているノグソは自然と共生するための、食べて奪った命を自然に返す行為であり、奪った命に対する責任の果たし方です。その逆に、地主個人の利益のために林を皆伐してソーラーパネルを敷き詰め、元々そこで暮らしていた全ての生き物を殺し追い出しても、それは合法なのです。むしろ遵法精神(正義)の中に、危険な狂気を感じてしまいます。

 現行法のほとんどは人間同士の揉め事を解決するためのものであり、人間以外の生き物や自然への配慮が足りないどころかその存在すら無視した、完全に人間中心主義でできています。昨今大問題になっている気候変動やマイクロプラスチックの海洋汚染、大規模な森林消失や多くの生物の絶滅危機、そして今回の新型コロナウイルス禍などまで、全てはこの人間中心主義の傲慢さが根底にあります。さらにそれを加速する最悪の要因が、私が生まれた1950年の25億人からわずか70年で77億人へと急増した人口爆発ではないでしょうか。

 自然界では極端に増え過ぎた生き物は、最後は生存環境を破壊して絶滅しますが、それを防いでくれるのが天敵です。しかし人類は自然の法則を破って科学や医療を発達させ、多くの天敵を排除して生物界の頂点に登り詰めました。そして最後に残った天敵がウイルスなのでしょう。だったら今現在のためにコロナと戦うよりも、その力を借りて人類の適正な生存維持を目指すのも一つの答えかもしれません。こんなことを言うと「死ねと言うのか!」と叱られそうですが、私自身も感染して死ぬことも考慮したうえでの発言です。ここで重要になってくるのが「対談ふんだん」の大きな目的、「しあわせな死」の確立です。

 じつはガンで2年前に亡くなられた長野淳子さんとは、しあわせな死をテーマに亡くなる半年前に対談を行いました。その時の記事を6月18日の淳子さんの三回忌に合わせて、「対談ふんだん」にアップする予定です。淳子さんを偲びつつご覧いただければ幸いです。

 古来から人々の望みは不老不死。つまり生きることにしあわせを求めてきました。それを単純に言ってしまえば、金や物、快楽、さらに権力や名誉などを「得る喜び」です。しかし皆さんご承知のように、それらを得るだけでなく、たとえば愛のように相手を喜ばせる「与える喜び」もあります。実は金や物などは喜びを得るための手段であり、最終的に喜びを感じるのは心の中です。そして得る喜びの裏には、奪われて不幸になる相手がいます。だから糞土思想は共に喜びあえる共生を目指しているし、そこに「しあわせな死」に至る大きなヒントがあると考えています。

 生き物にとって最も大事なことは、生きることと子孫(種)を残すこと。その意味で、交尾しながらメスに食われるカマキリのオスは、最高の嬉びを得ながら全てを種の維持に捧げるという、しあわせな死をすでに実現しているオスの鑑です。それに比べて人間のオスどもは、特にオッサンは……。

 命を返すノグソだけでなく、新たにしあわせな死が加わることで、ようやく糞土思想の完成型が見えてきました。この糞土思想を広めて共生社会に一歩でも近づくために、私の持っている全てを使い果たして破産し、野垂れ死んで土に還るのが、私にとってしあわせな死を叶えることなのです。(糞土師 伊沢正名

《糞土師の対談ふんだん》

意外に脆い現代人の生活

■「偉いことになりましたね」「あと一月で展覧会なのに……」全紙50枚のプリントをようやく終わったというのに、新型コロナウィルスは容赦なく日本に上陸、正体不明のまま全土に広がっている。非常事態宣言が発令され、3密は厳禁とされる。大小の集会や行事、ひとが集まるところ、商工業などが突然活動停止となっている。展覧会どころか、これからの例会も撮影会も予定の総てが総崩れだ。

◆「人に会うな。話しかけるな。といったって……」「一体仕事はどうするの……」自由気ままに社会生活を楽しんでいただけにみんなそんな生活なんて想像もできないようだ。しかし私にとってはそれほどのショックではなかった。山岳写真家という仕事に集中していた60才代まで、単独行の冬山で1人だけの日々を過ごしていたからで、3000メートルの吹雪の毎日に較べたら何の不安も不自由もない。水も火も食料さえ自由に手にはいる。何も人と話しをする必要もない。

◆そんな経験は米寿をすぎた高齢者、という年齢を考慮に入れてもちょっと特殊過ぎるかもしれないが、個人的な事情で孤立になれやすい体質があるのかもしれない。酒飲みの多い登山家や写真家の中で、全くアルコールを受け付けない下戸なのだ。長年「帰りに一杯」という付き合いに無縁で、人恋しさという情感が薄いのかもしれない。

◆そのうえ米寿を超えた高齢者だから長生きしようなどという欲もない。まあ、消極的ながら新型コロナの中間宿主にならないように外出をひかえておこう。「今年は全部諦めた方がいいよ。なにしろ正体のわからない相手だから」。 これも冬山の教訓なのだ。天気図を書き観天望気で激しい雪雲の動きを見定め、後は第六感をはたらかせて晴天を待つばかり。晴れを待つ姿勢はコロナも冬山も変わりはない。

◆それにしても、便利すぎる現代人の生活が意外なほど脆いのには驚くほかない。わずか90年足らずの私の人生経験から見ても今度の新型コロナ騒ぎはそれほどの大事件でもないと思う。僅かな緊張感の持続さえ守ればいい。「欲しがりません、勝つまでは……」という少年期に刷り込まれたスローガンは青壮年期の山岳写真修行時代に磨きをかけてきた。「三密禁止」と言われても戸惑いも不安もなく静かに新型コロナウィルスの消滅を待つばかりだ。前のめりにせわしなくなっている現代社会にとって、思いがけない空白の時間が生まれたのがチャンスではないか。少しでいいから減速し、歪みの見える世の中の整形にハンドルを切ってもいいような気がする。

◆もっともワクチンや特効薬の開発だけは早ければ早いほうがいい。流行の第一波が静まる頃までが一般の若者たちの我慢の限界ではなかろうか。この先第二波第三波のウイルス攻撃や夏に向かって熱中症などマスク使用の功罪など、多くの問題が起きるのにどこまでじっと耐えられるのか。情報のアンテナは鋭敏に、反射神経は鈍く眠らせてゆったり焦らない時間を過ごしてみようではないか。

◆冬山で磨いたはずの忍耐力も危険を察知する第六感もいささか錆び付いてきているところだからこの機会にもう一度研ぎ澄ましてやろうと思う。アナログ時代に積んだ経験もすこしは役にたつだろう……。たっぷりある時間、といっていいのか、残りの時間をせめて有効に使い果たしてみたい。(三宅修 山岳写真家 1月25日で88才になりました)

通信のおかげで世界が広がります

■お久しぶりです。外出は最低限にして、静岡で育児をしています。我が息子は5か月になりました。コロナも怖いけど、それ以外の感染症も怖い!ということで、息子は毎月病院で色んなワクチンを打っています。一度に3本とか……。がんばれー、息子よ。これも生きるためだ!!と大泣きする我が子を励ましています。生後5か月になってから、何かをじっと見たり、つかもうとしたりすることが増えました。「快か不快か」だけの世界から、自分の周りの世界に興味を持ち始めたらしい。赤ちゃんは知識が無いから、よく観察して試して考察しているのか……と理科の教師っぽさを思い出すこともあります。

◆育児をしながら、テレビでコロナ情報を時々チェックしています。ネットやテレビの情報は必ずしも正しいとは限りません。発信者の都合のいいように編集されていることもあるようです。でも「きっと、そうだ」と思ってしまう自分。そんな時、地平線通信は冷静に考えるきっかけを与えてくれます。その方自身の経験や現地での生活が基に書かれていて、大きなニュースに隠れた一面を知ることができます。別の視点を与えてもらえるのです。これは教育でも大事なことだと思います。物事を、多面的にとらえて判断したり話し合ったりする力を生徒にはつけて欲しいです。

◆4月号に掲載された森田靖郎さんの報告会でのお話は今の中学生に考えてもらいたい題材ばかりだと感じました。復帰したときのネタだ! とメモしました。コンテンツモデレータ、ポリコレ社会、持続可能性、ポジティブランキング……。私自身、知らないことが多く、勉強になりました。日々、目の前の息子の世話で精一杯でしたが、地平線通信のおかげで私も世界が広がります。いつもありがとうございます!!(杉本郁枝 中学理科教師)

定額給付金はこの際、腰痛治療に

■「風が吹けば桶屋がもうかる」式に、5月5日の朝、わたしはコロナでぎっくり腰を再発した。うちの前はだだっ広い防災公園で、窓を開ければ一面の緑。鳥のさえずりで目覚め、ステイホームはちっとも苦にならない。だが、コロナで学校が休みになってから急激に人が増えた。ちょうど季節もよし、外出自粛や在宅勤務が進むにつれ、完全な「3密」に。ウォーキングもままならない混みようだ。すると中には不届き者がいて、家の前のごみ集積所に飲食のごみを置いていくのだ。

◆この集積所を使うのは10数軒で、持ち回りの「ごみ当番」がある。ちょうど4月はうちの番だった。集積所には折り畳み式のネットが置かれ、当番はごみの収集が終わったらネットをたたみ、周辺を掃除するのが決まり。しかし公園の不届き者は、収集日に関係なくごみを置いていく。誰かが捨てると、ごみがさらにごみを呼ぶ。仕方なくポイ捨てごみは家で預かり、集積所は常にきれいにするよう気をつけた。

◆ところが5月。次のごみ当番のお隣が掃除をしない! お隣は夫婦ともに勤務医で、小さな子どもが2人いる。どうやら育休中の奥さんが過剰にコロナに敏感で、子どもが玄関を開けると「コロナ、コロナ! 外はバイ菌がいっぱい。出たら死ぬよ!」と、ヒステリックに叫ぶのが聞こえる。そして、ごみの収集日、集積所のネットを足で蹴ってたたもうとする奥さんの姿が……。散らばったごみは、そのまま。「外はコロナで危険」だから、触りたくないのね。仕方ない、4月の続きで掃除するか、としゃがみこんだとたん、腰がギクッ! とんだ因果応報でした。

◆ぎっくり腰とは10年以上の付き合い。柔術整復や「神の手」と呼ばれる整骨にも行ったけれど再発する。ならば西洋医学かと、整形外科も試したけれどダメ。今回は、湿布でももらおうと、近所に開業したばかりの整形外科に行ってみた。すると、コロナのおかげで待合室には誰もいない。リハビリ室もガラガラで、5人もいる理学療法士が暇そうにしている。タイミングのわるい開業は気の毒だけれど、待ち時間ゼロはハッピーすぎる。昨年通った近所の別の整形外科は常にめちゃ混みで、1時間待ちは当たり前。痛みがひどい時には待ち時間を耐え抜けず、受診できないのが腹立たしかった。

◆さて、今回も診断の結果は「原因不明のよくある腰痛」。理学療法に週2回通うことになったが、2週間たっても痛みがとれない。むしろ右半身がガチガチに固まって「これまでの腰痛とはフェーズが違う?」と、ちょっと怖くなった。たまたま、スポーツ選手のケアの経験がある友人に話すと、「YouTube を見てよさそうと思っていた」という整体院を教えてくれた。

◆そこは遠いので、弟子が院長だという都内の整体院に行ってみることに。ところが、担当になったのは、学校を出てまだ2年の兄ちゃん。院長の姿はなく、かわりに「オーナー」だという平服のおっさんがウロついて胡散臭い。さらに施術が終わるや「治療は11回コース、鍼のオプションつき1回13,200円がお勧め。一括前払いなら約11万円でお得です」というので唖然とした。体に合うかどうかわからないのに、そんな大金払えるはずないでしょう!と、保留してこの日は帰った。だが、施術後に体はぐっと楽になり、友人の目利きも捨てがたい。

◆そこで、スポーツ整体について調べたり、東京都の消費生活相談センターに電話したり、もちろんこの整体院にも治療方針やオーナーの件などアヤシイことをダイレクトに質問したりして、まああま納得がいった。2回目の施術後も調子がいいし、11回の施術でほとんどの患者が「卒業」するというので、一発ここに賭けてみることにした。コロナで暇なので、体のメンテナンスにはいい機会かもしれない。もっともお金もないが、「不労所得」の定額給付金10万円をつぎ込むと思えば、まあいいか。

◆コロナの因と果の巡りには、こんなこともあった。先日、北海道積丹の漁師さんが、都会者を憐れんで魚を山ほど送ってくれた。サクラマスのフライ、ホッケと宗八カレイの一夜干し、ゴッコ汁、アワビの炊き込みご飯……ああ、何という口福。近くに住む友人におすそ分けすると、お返しにマスク10枚と「腰が痛い時は、買い物に行ってあげるよ」という心強いお言葉が!

◆新潟県松之山の友人からも、巣ごもり見舞いにと山菜がどっさり届いた。棚田で特別栽培米を育てる農家で、実家も妹一家も彼のおコメを食べている。私が定期購入を仲介した友人もいて、その1人がパン屋を開業したので、山菜のお礼に彼のパンを贈ることにした。ところがこのパン屋さん、「おコメの縁があるから自分が贈りたい。お金は要らない」という。何とまあ。結局、山菜のお礼におコメを買って、積丹の漁師さんに送ることにした。こういう因果の巡りなら、わるくない。

◆コロナで仕事がないので、何年も温めていた本の執筆を始めた(版元探しはこれから)。テーマは、宮古島で今も続く素潜り追い込み漁。82歳の親方の漁師人生を軸に、30日以上同行したサンゴ礁での漁の様子、素潜り漁の身体性、漁師さんたちの縁起かつぎやユタ(民間巫女)の話、サンゴ礁の雑魚を食べる食文化(チョウチョウウオも食べる!)などをまとめるつもり。今年は腰を治して、この本を書き上げるぞ!!(大浦佳代 海と漁の体験研究所)

世界中で一斉に自由な移動が規制された特別な経験

■暮れの報告会「北の森(ノース・ウッズ)にオオカミを追って」で報告させていただいた大竹英洋です。3月の通信では、フジフイルムスクエアでの写真展がコロナの影響で中止になったことについて書いた。その時、もし状況が良くなれば6月の大阪展に来てほしいと心の内を叫んだのだが、その後もコロナ禍の勢いは増すばかりで、ただ虚しく嵐の音にかき消されてしまったように感じていた。

◆しかし、約ひと月半の巣篭もりを終え、6月に入った今、急に社会が動き出した。緊急事態宣言の解除を受けて、大阪の写真展も開催する運びとなった。治療法が確立したわけでも、ワクチンができたわけでもないのだが、結局はリスクとともに生きていかなければ、社会が回っていかないということなのだろう。都道府県をまたいでの移動は難しいかもしれないが、もし家や職場が近くて、状況が許すようであれば、写真展を見てもらえたら嬉しい。

◆ステイホームを合言葉に、世界中で外出規制が続くなか、撮影フィールドである北米の森からも、興味深い報告が届いている。カナダ・マニトバ州にリトル・グランド・ラピッズという先住民コミュニティがある。そこに暮らすデニス・キーパーは腕利きの罠猟師。普段から野生動物を追っている彼が3月末に森を歩いていると、8頭のカリブーの集団と出会った。かつてはよく見られた場所だが、ここ10数年ほどは見たことがないという。外出規制の影響が早くも出始めたのかと感じたらしい。さらにそこは近年、夏から秋にかけて釣りやカヌールートとしても人気の場所。このまま訪問者が少ないようであれば、動物たちが戻ってくるかもしれず、注意して見守っていきたいと語っていた。

◆また同じくマニトバ州のフクロウ学者ジム・ダンカン博士は、営巣の準備にあたる3〜4月にフクロウの声を報告してもらうという市民参加型のリサーチを率いる一人。ちょうどその時期がロックダウン中だったためか、街中でフクロウの声を聞いたという報告が多かったらしい。本当にコロナの影響なのか、それとも単に家にいる時間が増えて、いつもは見過ごしていたものに注意を注ぐようになっただけなのか。その点はきちんと見極める必要があるが、興味を引くデータには違いないとのことだ。

◆いずれにしても、これほどまでに世界中で一斉に自由な移動が規制されたのは特別な経験だ。マニトバ大学では、さっそくコロナによる規制がどう野生動物に影響したかを調べる研究が立ち上がった。ホームページはwww.c19-wild.org。個人的に気になるのはやはりオオカミ。発信器のついた個体もいるはず。人間の気配が少なくなった森で、その行動パターンに変化があったとしたらぜひ知りたいものだ。(大竹英洋 写真家)

     ◆     ◆     ◆

<写真展情報>
 大竹英洋写真展
「ノースウッズ──生命を与える大地──」
 開催期間:2020年6月26日(金)〜2020年7月9日(木)
 開催時間:10:00〜19:00/入館は終了10分前
   6月28日(日)は休館 7月2日と最終日は14:00まで
 会場:富士フイルムフォトサロン 大阪 スペース1
 入場料:無料

写真展「原宿1980 ─日曜日のヒーローたち─」から見えてきたこと 

■6月1日〜7日に上記タイトルの写真展を開催。当初は5月初旬予定でしたが、新型コロナの影響で会期が2度変更。DMや世話人ニュース等でお知らせした方々には、御迷惑をおかけしました。40年前の原宿歩行者天国に集まる若者たち、「竹の子族」「ロックンローラー」たちの写真を展示。若い方々に、「竹の子族」や当時の熱気ある若者たちの姿を見て貰いたいと思いました。決めたのは昨年夏。当時は、まさかこの時期にコロナ騒動が起きるなんて思いもしませんでした。

◆当時、代々木公園横の通称オリンピック道路は、毎週お祭り騒ぎでした。「ピーク時には竹の子族、ローラー合わせて7千人、日曜日1日のギャラリーが10万人」という報道もありました。観光バスも止まっていたそうです。あちらこちらに置かれたカセットデッキから、大音量で流れるロックやディスコサウンド。無心に仲間と楽しく踊る若者たち。いかに目立つかを競い合っていた。殆どが中学、高校生。幸いポジフィルムの色は残っていて、奇抜な衣装、メイクの色は、ほぼ忠実に再現されました。

◆写真展会場に来て、初めて竹の子族の存在を知ったと言う若者に「どうですか?」と聞いてみた。「この当時がうらやましい。いま、自分を出すことが難しいし、人に自分を知られるのが嫌だ」と言う。これは、今は、ネット社会だからなのかと思った。情報がすぐに流れ、知られたくないことまで伝わっていく。警戒心がそう思わせるのか。

◆当時は携帯電話や、スマホも無い。約束しなくたって、日曜日原宿に行けば友達に会えた。余計な情報交換なんていらなかった。いろんな事に縛られない時代だったと気が付く。他にも「こんな時代はもう来ないでしょうね」と、言う方が数人いた。今、新型コロナウイルスの影響で自粛、規制と様々なことが制約され、収束の時期も見えず、疲弊した毎日を過ごしている私達。このタイミングでエネルギーに満ちた若者たちの写真をお見せすることになったのも偶然ではありますが、逆に、今が見えるきっかけになったのでは?

◆時代が変わるのは当たり前ですが、次世代の若者たちが、少しでも明るく伸び伸びと出来る時代になるように願うばかりです。(渋谷典子 写真家)

長野亮之介さんのマンガ、いいです

■江本嘉伸さま。42年間、毎月通信を出し続けてこられたのですね。そして、毎日夜10時を過ぎると人気のない町に出られる、江本さんてどういう方なの? 私たちには理解できない人生を生きている方、けれどなぜか近くに感じる、それが江本さんです。

◆長野亮之介さんの、「ゴンのヤーグマイの巻」、8コマのマンガ、いいですね。ハートの飛んでる「サンポのじかん」ステキです!「ここのところほとんどやぎと犬にしか会っていません」浜比嘉島からの外間晴美さん、「やぎの競り」を読んでいます。

◆南三陸町に4年半前に移住された石井ひろこさんも。煮炊きのために小枝を拾う、冷蔵庫のない暮らしをする人。イベント活動がこのところなくなって、暮らしは穏やかになったと書かれていました。吉川謙二さんの、カイト野郎の話、家畜護身犬シロ、ゴアテックスとGPS、遠いところへ行けます。ありがとうございます。文祥さんに申し訳ないけれど、ウイルスにまだやられないで長らえています。(服部葵

インドの写真展やります!

■地平線会議の皆様、こんにちは。延江由美子です。5月号でお伝えした恩師からの志は、江本さんのお手元に無事届いたとのことです。先生は奈良女卒のキリッとした真面目な方。長年にわたって化学を教えてこられ、大らかなお人柄を慕う生徒は大勢いました。もちろん私もその一人です。

◆インドでの活動は当面保留ですが、東京でできることは継続しています。先日、S大学のオンライン授業でインド北東部についてお話をさせていただきました。思いもしなかった初めての経験で、私の方が勉強になりました。今度は6月末から調布市北部公民館で開催される平和写真展です。場所はなんと小学校から高校まで通った母校のすぐそば。全く違う経路からお誘いを受けたのですが、公民館の方々も私もあまりの偶然に驚きました。よろしければ、時期とご都合に合わせてどうぞお越しくださいませ。(延江由美子

 展示期間:前期 6月27日(土)〜7月16日(木)
      後期 7月18日(土)〜8月8日(土)
 展示時間:午前9時〜午後5時(最終日は正午まで)
 場所:調布市北部公民館(調布市柴崎2丁目5番地)
  ◎つつじケ丘駅北口発「(丘21)深大寺」行きバスで「晃華学園」下車徒歩約6分
  ◎調布駅北口発「(調36)上ノ原小学校」行き又は「(調37)深大寺住宅」行きバスで「上ノ原公園下」下車徒歩3分


通信費をありがとうございました

■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください。送付の際、通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。3月以来人を集めての「報告会」は開きにくい状態ですが、その分通信は内容あるものを心がけています。

城山幸子(20000円 大変ご無沙汰しています。通信費ですが、何年(何十年)分お支払いできていないかわからない程不義理をしていました。こんな大変な時にも変わらず届けていただけることを感謝しています。とりあえず5年分の通信費と残りは寄付させてください。残りの通信費はまた改めて)/モリサチコ/小川真利枝(通信費1万円振り込ませていただきました! 毎月、あれほど読み応えのある記事をまとめられるのは大変かと思いますが、今後も楽しみにしています!)/瀧本千穂子(4ガツ二フリコムノヲワスレテシマイマシタ)/湯浅ふみこ/延江由美子さん恩師(5000円)


凍った大地を追って

その7 厳寒の地の巨大貯蔵庫

■ことしは雪が多く、折角いい雪の状態だったけど春のトナカイ旅行はパンデミックで中止した。融雪水使い放題の露天風呂で気を紛らすしかない。これから夏至過ぎまで晴れた日が続く。薪割りの季節だ。この時期に薪を割って乾かさないと雨の多い8〜9月ではもう遅い。今住んでいるキャビン(36平方m)でひと冬におよそ2〜3コードの薪を使う。コードという薪の単位はアメリカ(とカナダ)で使われる単位で薪を綺麗に積んで4×4×8フィートの量をいう。日本でも柵という単位があったがだいたい同じぐらいの量だ。ここでは針葉樹と広葉樹の薪を使い分ける。広葉樹の方が密度もあり、価値も高い。

◆夜10時過ぎまで太陽が眩しいこの季節、ソーラーパネルの電力供給はほぼ無尽蔵だ。冷蔵庫のスイッチを入れ、地下2mの貯蔵庫の食料やビールをキャビン内に移す。私の村訪問の仕事は基本的に穴掘りだが、極北の住民が使っている地下貯蔵庫に興味があり、機会があると温度計を設置したり、見せてもらったりしている。多分永久凍土とその上に住む住民の一番のつながりは貯蔵庫だろう。

◆貯蔵庫でも中に入れる“もの”や使い方で構造がだいぶ違う。透き通った氷、薪のように積まれた魚などはまだ序の口、放って置いた(ように見える)発酵した巨大セイウチや目玉を見開いた凍った馬の反面など、人の死体が混じっていても違和感がない暗闇から浮き上がる多彩な食料がすごい。うちの貯蔵庫は、ヤクーチア盆地で湖の氷の保存のため、広く使われている15度の傾斜の階段式貯蔵庫だ。ヤクーチアでは夏でも美味しいお茶を飲むため、初冬に湖の氷が40cmぐらいの厚さになると切りだし、春までに入れておく。氷を入れる前に雪を床に敷き、汚れないようにする。

◆アラスカのクジラ漁の村の多くは、はしごで降りる垂直式の貯蔵庫で、やはり雪を敷いてから小分けしたクジラ肉を入れる。セントローレンス島に2つある村ではクジラをとるが貯蔵庫がない。島にあるシャフトのような小さな貯蔵庫は、セイウチの皮で包んだイグナックという発酵用だ。これはチュコトカからカナダ東部まで広く作られているかなり臭い食べ物だ。バフィン島近くでは、これをビーチに埋めて発酵させる。貯蔵庫は家族や狩猟チームごとに所有することが多いが、村や会社で共有することもある。

◆一方ソ連時代は巨大な地下貯蔵庫をコルホーズ運営で管理していたが、ソ連崩壊後放棄されたところが多い。最低温度のおかげで観光地になったオイミヤコンではこれを氷ミュージアムにしている。チュクチ半島の共同貯蔵庫は、フルシチョフ時代にトンネル掘りでエリートだったモスクワメトロがわざわざ極東までやって来て、穴を掘った。トロッコが走れるレールまである。貯蔵庫の壁は凍土中の氷が昇華する(固体から直接気体になる)ため、ちょっと触れただけで、ボロっと土が落ちる。これを防ぐため、シベリア北部では2〜3年ごとに水を吹きかけて、氷の膜をつくる。

◆冷戦時アメリカ軍も永久凍土に巨大なトンネルを作り武器倉庫にしようとしたが、この昇華防止のよい解決策は見出せなかった。ツングース系エヴェンキ族の貯蔵庫はすごい。彼らの貯蔵庫には高さの違う換気孔が2つある。一つは貯蔵庫天井から地上背丈ぐらいまで立ち上げ、もう一つは貯蔵庫床近くから地上まで設置されている。これで冬季貯蔵庫内の暖かく軽い空気は自然に排出される。

◆だがそれだけではない。地表より風の強くなる上方のパイプ内は負圧が増し(ベルヌーイの法則)、空気が排出され、貯蔵庫内の空気が循環される設計だ。私が最初にみたコリマ川沿いのこのエヴェンキの貯蔵庫から2000km以上離れたバイカル湖近くのエヴェンキ農家にも同じ構造のものがあったのは驚いた。このような広範囲画一的な設計はソ連時代の指導のせいではないかと想像し聞いてみたが、昔からあったと言う。1825年のシベリア送りのデカブリストたちの影響かも知れない、謎は深まるばかりだ。

◆ベーリング海に浮かぶ絶海の孤島米領プリビロフ諸島にも古い地下貯蔵庫が小さな湖の辺りにひっそりとある。島の長老が言うには、氷を切り出して、夏の冷蔵庫(アイスハウス)として使っていたとのことである。多分ロシア統治時代に作られたものであろう。この島はかつて陸続きで 5600年前までマンモスがいたところだ。ちょうど中国やメソポタミアに文明が始まった頃、ここにはまだマンモスがいたのだ。結局マンモスは乾燥化で絶滅した。

◆以前この島の先生と子供たちを連れて永久凍土探しに出かけたことがある。島は草原で木がないが永久凍土もなかった。洞窟のように日射が当たらず、冷たい空気のこもるところには凍土がある可能性があるので、いくつかのケーブを歩き回ったが、結局、洞窟内にも凍土はなかった。北極には他にも面白い村がたくさんある。インディギルカ川のほとりにはかつてソ連時代スキー板作りの専業集落があった。が、突然木の板から別な素材に代わり、廃業した。今でも余ったスキー板で作られた無理がある家を見ることがある。変わった村の話はまた次の機会にしよう。


“ステイポジティブ”台湾の目線で香港を見つつ考える

■3月の通信で台湾の防疫対策を紹介してから3か月が経過した。台湾政府は6月7日、「8週間連続で国内の新規感染者ゼロを達成し、市中にウイルスがほぼいない安全圏に入った」として、完全に日常生活に戻る「勝利宣言」を行った(これまでに443人の感染者が確認され、うち7人が死亡、430人が回復)。一定の生活ルールのもと、ほぼ全ての業種は通常通り稼働し、4月12日に世界に先駆け無観客で開幕したプロ野球は、入場者数制限もマスクの着用義務も無くなった。コンサート等の大規模イベントや国内旅行も徐々に規制の緩和に動いている。

◆当然鎖国状態であるため、他の国の状況が改善しない限り、水際対策解除には当面慎重にならざるを得ない。しかし今日の台湾の状況は(島国という特性もあるが)、発生初期からの徹底した水際対策こそがパンデミック防止に最も有効であり、仮にパンデミックに発展したとしても、その初動と的確な対策によって、いち早く「安心した日常生活」を取り戻せることを証明したと言えよう。それ故に、今回のWHOの世界へ向けた正確な情報発信の遅れはあまりにも致命的だった。

◆5月28日。そんな台湾人の日常生活の安心を、根底から揺るがしかねない事態の急変が起こってしまった。中国全人代での「国家安全法香港導入」の可決だ。去年「逃亡犯条例」を巡り、あれだけ香港の人々が命をかけて守ろうとしていた「一国二制度」という民主主義の砦を、一夜にして覆す法改正が決定されたのだ(一国二制度はそもそも中国共産党が台湾統一を目的に作り出した制度であり、今日まで香港では実験的モデルという位置付けを担ってきた)。このまま安全法が制定されれば、香港の高度な自治と自由は次第に失われ、今後台湾への圧力が極めて高まることは必至だ。

◆2014年の台湾で起きた大規模デモ「ひまわり学生運動」。僕は奇しくもその50万人の群衆のなかにいた。普段は穏やかな民衆達が、決して当たり前ではない民主主義を自分達の手で守ろうとする凄まじい想いを目の当たりにした。やがてひまわり運動は香港の「雨傘運動」を呼び覚まし、去年の香港デモ、今年1月の台湾総統選挙と、彼らの姿を胸に刻みながらその成り行きを見守ってきた。

◆思えば10年前、音楽交流を旅のテーマに飛び込んだその時からこれまで過ごしてきた台湾生活の場面のなかで、時に微かに時に確実に、中国の脅威は自分の肌に蓄積され、台湾への眼差しが自然と養われてきたように思う。いま自分が立っている現在地点までの短い道のりでさえも、激しい時代の潮流のなかにあったことに驚かされる。そしていま、この世界の混乱期にあって、明日突然如何なる致命的な事態が起こってもおかしくはないことを自覚している。

◆この度の香港問題は日本にとっても、決して対岸の火事では無い。その重要性に即して国は正しく対応しているのか。メディアは公平に報道しているのか。台湾と比べて、今この国の選挙投票率の圧倒的な低さは、根本的な民主主義の低下を如実に表している。コロナに限らず、日本の危機意識に対する疑問符は拭いきれない。

◆いざ起こってみれば、単なる感染症問題の域を超え、政治的な思惑が絡むことでより大きな混乱を波及させてしまうことこそが、パンデミックの本当の恐ろしさなのかもしれない。香港問題然り。米中対立然り。自らの失策によって国内のコロナ批判に追い詰められた大国のリーダーは尻に着いた火を、コロナ以前からあった火種に次々と引火させている。

◆SNSの普及は民衆の感情的な二極化の加速度を早めてもいるようだ。今後しばらくは世界全体で更に様々な問題が渦巻いてゆくだろう。そんな時だからこそ冷静に“ステイポジティブ”だと自分に言い聞かせる。大雑把に言ってしまえば、どんなに世界が混乱していようとも、人類には自然との共存こそが不可欠であり、そのことに全ての人々が目覚めるチャンスが到来したと捉えたい。肝心なのは今回の試練の中で、改めて確信したり、新たに獲得したあらゆる価値観を、今後の社会や個々の人生に活かしてゆくのみなのだと思う。

◆先月号の小松由佳さんの“アリさん”原稿に心底共感した。自粛生活中に僕自身も近所の散歩が日課となり、雑草の花のあまりの可愛さに惹かれ、気が付けば雑草博士のようになっていたからだ。花の名前から季節の移ろいから生態系のなかでの雑草種の生き様まで。足元を少し覗くだけで、薄いコンクリートの下には脈々と息づく自然の世界の入り口があり、その扉の向こう側へとアクセスできる術を発見したのだった。この足元の発見は「自然」に限らず、「この国の文化」や「自分に繋がる歴史」などの扉に置き換えても良いかもしれない。最近毎日のように、ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」が心の中で流れている。

◆しばらくは僕と台湾のみんなは友情を大切にし合い、気にかけ合う日々が続くだろう。そしてその向こうで、彼らとの再会を切に切に心待ちにしている。勿論その時は、全ての感覚や感情をみんなのグルーヴに乗せて思いっきり奏でるのみである。(車谷建太 津軽三味線奏者)

マスクとエアロゾルと言葉と

■3月末、近所の公園にタコの形をした大型の遊具ができた。3才の下の娘は工事中から遊ぶのを楽しみにしていたので、ようやく完成した最初の週末には何時間もそこから離れなかった。だが、緊急事態宣言が発令されると、「立ち入り禁止」を示す黄色いテープが遊具に張り巡らされて、近づけなくなった。仕方がないので、その日は唯一解放されていた砂場で遊ばせたが、次に行った時にはその砂場もテープで囲われていた。

◆保育園は原則休園となり、同じクラスのママたちの意向を聞いたところ、週1、2回の出社日だけ登園させるという人が圧倒的多数で、我が家もそれに倣うことにした。娘は「コロナのせいでお友だちと会えなくなっちゃってつまんないよ」と一丁前に不満を述べている。職業人、妻、母という私の肩書きに保育士の役割が加わった。

◆上の娘の小学校も3月からずっと休校で、娘は友だちと大っぴらに遊ぶことを我慢して、自宅で宿題をこなす日々を過ごしている。夏休みが短縮されるという話もちらほら出ていて、「今休んでも遊びに行けないのに、夏休みもないなんて何にもいいことないよ」と、こちらも不満顔だ。学校からは新単元を含む毎日の学習内容を指示するプリントが渡されたが、小4になったばかりの子どもが1人ですべてを自主的に進められるはずもなく、つまり親が手取り足取り教えなさいよという話なのだった。私の肩書に、教師という役割がさらに加わった。

◆報告が遅れたが、かくいう私は4月1日付で新聞記者として復職した。いろいろ考えた末の決断だが、ちょうど新型コロナウイルスの感染が拡大する最中の復帰となってしまい、自分の仕事の仕方について今も手探りの状態が続く。出社初日、人がまばらな新しい職場で、初めて出会う同僚たちにマスク越しに挨拶をした。みな快く受け入れてくれたが、20分以上近くにいるだけで濃厚接触とみなされる世界においては、会話をすることさえ罪であるように思われ、無駄な口を開く機会はそう多くない。ずっとマスクをしているので、素顔を見たことのない同僚が何人もいる。不織布一枚分の壁が厳然として横たわっているように感じる。

◆ある著名な精神科医が書いた文章が印象に残っている。要約すると、コロナがもたらした新しい倫理観においては、日常的な挨拶や対話でさえも「体液(エアロゾル)の交換」とみなされて禁止された。だが、身体的に寄り添い、声を交換することなしに親密な関係を構築するのは困難であり、ポストコロナの日常においても価値規範として残ることを懸念する、という内容だ。

◆現在の私の日常において、エアロゾルの交換が伴う接触ができるのは、同じに家に暮らす家族のみだ。この小さな家庭と外部との間に、目に見えない境界線が引かれているのを意識して過ごしている。もちろん対面取材もままならなくなった。それでも記事は埋めなければならないので、世界的に知られる知識人や作家が紡ぐ言葉を拾い集めて発信したりした(私の担当分野は「文芸」ということになっている)。

◆詳細は省くが、言葉の力で分断に立ち向かおうとする作家たちの意思は、物理的な距離や不織布の壁を越えてこちらの心に直接届いたように感じた。今をときめく某純文学作家は、新刊本の刊行に際して「ウイルスは人と人を断絶させるが、言葉は人と人をつなぐ」と書いた。やむを得ずリモートで行われたインタビューでも作家は丁寧に言葉を重ね、言葉の交換によって私たちの間に共感と少しの親密さが生まれた(ような気がする)。おかげで記事としては成立したのだが、エアロゾルの交換は行われず、実際に顔を突き合わせて話ができていれば、と思わずにはいられなかった。

◆そうなのだ。こうなってみて改めて、自分がいかに他者と寄り添い、親密さを構築したいと思って生きてきたかということに気付かされたのだ。そして、マスク越しに初めて出会う人々と、どのように関係を築いていけばいいのか、まだ答えを見つけられずにいる。そうこうするうちに、緊急事態宣言が解除された。学校再開を待ち望んでいた上の娘は喜ぶ一方、当面の間は週1回わずか3時間の授業で、しかもクラスを2つに分けて時間をずらして分散登校させるというお達しに落胆した。

◆この決定に伴い、親に課せられた教師(と給食のおばちゃん!)の仕事も継続となった。下の娘は、今後はできるだけ保育園に通わせたいと思っている。いずれもメディア企業に属し、この間、仕事が減るどころか増える一方の夫婦にとって、3才と10才の子どもの相手をしながら仕事をこなすのはもはや限界だった。母親が小さな子どもを預けて働くことの罪悪感は近年かなり薄まったと思っていたが、今度は子どもを感染の危険にさらしてまで働くべきなのかという新たな罪悪感と闘うことになった。

◆同時に、自分にとって働くことの意義は何かという問いをも突きつけられた。私にとって、働くことは生きることだ。私は、自分自身の責任において、子どもを預けて働く決断をした。緊急事態宣言が解除されたからといって、マスクをして注意深く過ごさなければならない新しい日常に変わりはない。私は隣の席に座る同僚の素顔をいまだに知らずにいる。(菊地由美子 5月31日)

見えるもの、見えないもの

■コロナ禍にあった1月から5月にかけて、僕は見えるもの、見えないものを強く意識させられました。今年の1月後半から20日間ほど、僕は取材で高知県にいました。須崎市野見に伝わる小正月の行事・シオバカリを撮影するためです。

◆野見はリアス式の海岸沿いにあり、人びとは潮の穏やかな湾内を利用して養殖業に従事しています。周囲の高台からは、集落を一望できます。波打ち際まで山が迫り、海岸沿いの狭い平地に100軒ほどの家々が密集しているのがわかります。昭和21年の南海地震では、野見にも津波が襲い、ほとんどの家屋が屋根まで潮に浸かったそうです。人が野見に住みついて以来、何度も津波に遭い、また東日本大震災の際も甚大な被害がでたというのに、なぜ野見の人々は、この地に住み続けることができるのか。失礼とは思いながらも、僕は不思議でなりませんでした。

◆その答えを、この地に伝わるシオバカリの行事に見出すことができました。シオバカリは、小正月の夜中の干潮時に行われる行事のこと。「潮計り」あるいは「夜潮」とも呼ばれています。短冊を飾り付けた高さ20メートルほどの根付きの竹を、シオバカリと呼びます。集落の辻々にシオバカリをたてて地搗きを行い、最後は海の中にシオバカリをたてます。そして、たてたシオバカリの傾き具合で、豊漁や海上安全を祈願するのです。そのシオバカリを20人ほどの男たちが力を合わせてたてて地搗きする姿は圧巻です。世代を越えて、仲間の力を借りながら集団で漁労に従事してきた野見の人びとの姿が、シオバカリに凝縮されている。そんな感覚を覚えました。

◆コロナウィルスの影響は、高知での取材時にはありませんでした。当時は中国武漢で起きている都市封鎖を、世間もまだ対岸の火事としてみていたと思います。しかし2月後半には、コロナが各国に広がり、日本でも渡航制限が出始めているときでした。そんな最中、僕は予定していたカンボジアに行きました。

◆カンボジアへ行ったのは、シェムリアップ市で障害児支援を行う日本人のボランティア活動隊に同行するためでした。カンボジアは90年代まで続いた内戦により、障害児に対する救済は国際支援に頼っている状況でした。滞在中、各国の支援でできた施設がそのまま使われず放置されているところを何度も目にしました。あるいは支援で送られた外国語の絵本が、ホコリを被って飾られたままの状態も目にしました。真の支援とは何なのか、考えずにはいられませんでした。

◆ある時、ボランティア隊の元に知的障害児の情報が入ってきました。早速にその子のお宅へ行くというので、僕も同行しました。世界遺産アンコールワットのすぐ脇にある粗末なお宅(おそらく観光客は誰一人として気づかないであろう)で、体が麻痺した8歳の男の子が祖父母に育てられていました。お母さんは近くの街に出稼ぎに行き不在、お父さんは居ませんでした。

◆ボランティアスタッフは、おばあさんから家族構成や生活状況をヒアリングしながら、麻痺している男の子の体にマッサージを始めました。その時、それまで我々の話を黙って聞いていたおじいさんが、マッサージを行うスタッフの顔をじっと見つめているのです。「我々は見られている!」、そう思うと同時に、僕の目にはおじいさんが彼女を信頼しているように思いました。そう思いたいと願っていたのかもしれません。

◆僕は最初、極貧生活の中で障害児の子供を育てるおじいさんを気の毒に思っていました。しかし、おじいさんの真っ直ぐな目を見た時、自分の目線が臆病な上から目線であったことに気づかされ、恥ずかしくなってしまいました。おじいさんからは、我々がどう見えているのか。僕はずっと考えていました。

◆カンボジアから帰国し、3月に入ると日本は自粛ムードに突入していきました。撮影仕事もキャンセルが相次ぎました。その間、高知で取材した映像を編集し『野見のシオバカリ』(文化庁/30分/2020年)として完成させました(本作は上映会などでご覧になることができます)。そして4月に入ると緊急事態宣言が出されました。色々なことを見直し、整理する十分な時間ができました。僕は長らく後回しにしていたツチノコの記録映画の編集・構成をはじめました。

◆かつてツチノコは、人と自然の狭間に棲む“妖怪(見えない、不安な存在)”として畏れられてきました。ツチノコは、見たら人には言ってはいけない、言えば災いが起きると考えられていたようです。しかし、高度経済成長期以降は“ 未確認動物(UMA)”として要求され、さらにバブル絶頂期には、“観光資源(客寄せパンダ)”として利用されていきました。今では、“ゆるキャラ(愛すべき存在)”へと変貌しているツチノコ……。

◆この変容は、いったい何によってもたらされたのだろうか。また「いない」と思う人びとと、「いる」と思う人びと、その想像力の差は何なのだろうか。ツチノコの歴史を紐解けば、自然観や人びとの心象世界の変容を描くことができやしないか。そんなことを目指して映画にまとめようと考えています。(今井友樹 473回報告会「オキのサキと飛べ!!」報告者)

 1年生の少女の死、私の突然の退職

■人生って、本当に色々なことが起こる。そして、それを乗り越えていかなければならないんだな……と考えさせられた、数か月間でした。全国で新型コロナ騒動が起こる中、屋久島でも入島の自粛要請や飛行機や船の便の減便など、様々な感染予防措置がとられました。宿や登山ガイドのように観光を生業としている方が多く、補償についても様々な議論が交わされました。今でもまだスーパーなど人が集まる所では、多くの人がマスクを着用しています。飲食店も休業したり、テイクアウト専門になっていたりと、コロナ禍の余波は残っています。

◆私の勤務する小学校でも、3月と5月に2週間ほど休校になりました。自宅で過ごすことができない児童の受け入れ、内容を変更する行事の対応、そして休校後も校内の消毒や遅れた学習を取り戻すために、例年とは違う忙しさに追われていました。それでも全国の休校が続く学校に比べたら、ほぼ日常を取り戻したようなつもりで毎日を送っていました。

◆そんな中、1年生の女の子が海の事故で亡くなるという悲しい事故が起こりました。情報は交錯し、きっと助かると信じていたのに……。穏やかな晴れた日の出来事に、いまだに現実を受け止めることができません。さらに、学級数が減ったことで職員数が変わり、期限付きとして働いていた私が学校を退職することになりました。女の子が亡くなって3日目にそのことを告げられ、急すぎる展開に耳を疑いました。

◆退職となるのは仕方のないことですが、子どもが亡くなってわずか10日後に学級編成をし直す県の教育委員会の判断は、規則とはいえあまりに現場の気持ちを無視しているのではないか。前例がない事態だとは思いますが、せめて1学期間だけでも継続できなかったのか……。子どもたちは友達の死を受け入れつつある段階で、その過程に寄り添ってあげたかったのに。まだ亡くなった子のことで心を静かに満たしておきたい時に、子ども達や先生方との別れの辛さも重くのしかかってきました。

◆それでもとにかく残されたわずかな日々を、自分の気持ちを押し殺して、引き継ぎやクラスの子たちとの別れの準備のためだけに過ごしました。保護者の方々も急な退職に驚き、心配して声をかけてくれました。新型コロナ騒動や東日本大震災の時と同じように、今回の女の子や退職のことで「当たり前の日常が突然奪われてしまう」という現実に遭遇し、改めて自分がどう生きたいのかを問われたような気がしました。

◆退職後の今は、役場と幼稚園で仕事をしています。職場は親切な方ばかりで、幸いにもすぐに慣れることができました。それでも、今後また同じような思いをする人が出ないように、前例が無いことだからこそ行政にはきちんと現場の声を聞いて慎重に判断をする姿勢を持ってほしいと強く思いました。(屋久島 新垣亜美)

小さな焚き火で過ごした穏やかな日々

■仕事を含む予定がすべて流れたので、コロナ自粛期間中は「西のねぐら」に待避。小さな庭一杯に古いテントを張り、焚き火台を持ち出して、「庭永住計画」と名付けたキャンプ遊びを始めた。ただ、周囲からは丸見え。流れた煙で、お隣さんがバタバタ洗濯物を取り込むなどもあり、1週間ほどでテントは撤収。焚き火台を2mばかり移動し、「縁側永住計画」に形を変えて再開した。

◆引き続き道具類やワザに工夫を凝らした結果、煙も減り、直径10cmの火床に最少の薪(剪定した庭木=節約節約)で、コーヒー用の湯を沸かし、目玉焼きを作り、熾火で食パンをトーストできるまでになった。もちろん残った熾は灰にはさせず、消火パックに移して再利用する。昼・夕食も縁側キッチンで行うことが増え、縁ゲル係数は5割超え!

◆ここまで焚き火が小さいと、炎のコントロールも難しい。たびたび予測の裏をかかれ、知恵較べをやっているようで、何時間戯れても飽きが来ない。コロナ禍で大変な思いをした人々には本当に申し訳ないが、火を眺めて過ごした日々は、夢のように甘美だった。後年、「あの時が一番、平和で穏やかだったなぁ」と、懐かしく回想することだろう。[来週半ばには「東ねぐら」に戻らねばならない、久島 弘


先月号の発送請負人

■地平線通信493号は5月15日に印刷、封入作業をし、17日新宿局に託しました。今号は新型コロナ・ウィルス特集のかたちとなり、22ページの大部に。人を集めることはできないので、「たくさん来ないで、でも助けてください」、という変なお願いにちゃんと助っ人が反応してくれました。汗かきに来てくれたのは以下の方々です。助かりました。とくに、南極を目指して鍛錬に明け暮れる阿部君は、重い印刷紙の山をキャスターで運ぶ力仕事に汗をかいてくれ、ほんとうにありがたかった。もちろん、ご苦労さん!のビールもなしです。
森井祐介 白根全 阿部雅龍 武田力 八木和美 江本嘉伸 落合大祐


「自宅で死なせる」覚悟について

■江本さま 地平線通信、フロント読みました。さすがにいい文章です。ジャーナリストとして旅人として人としていい文章を読み、気持ちがストンと落ちます。コロナに関しては、わが家の場合は死活問題なので、たくさんの情報を得て、文章を読んでいます。江本さんの視野の広い、そして「時」を見据えた文章、いいですね。

◆1月末からずっと様子を見てきて、3月末より生活介護の通所を休ませています。「なつほのロックダウン」と称して自主的お休みです。どこまでロックダウンするか、迷いながらです。4月7日に緊急事態宣言が出て、ヘルパーさんが来なくなった曜日もあります。何より、入院できる病院がなくなるのではないか、救急車が来なくなるのではないか、と考え、「自宅で死なせる」覚悟までしました。そのあと、実際、「救急車は来ない」「受け入れ病院がない」とニュースが伝えるようになりました。時間が経つと「迷う」必要もなくなる事態になりました。

◆コロナで入院すると家族が面会できず、死に立ち合うことができず、火葬場にも入れないって、今も現実のようですが、それじゃ遺骨取り違えだって起こりかねない。自分の子が死んだって信じられないではないですか。まるで戦地で死んだ人扱いです。感染予防だけではない、何か理由があるなと思うのですが、時が経てば見えてくることだと思います。だったら、自宅で死なせるしかない。「自宅で死なせる」覚悟は親だけがしても実現はしません。訪問医、訪問看護師の覚悟も必要になります。

◆地平線通信の記録の重要性を再認識したことをお伝えしたく、メール書きました。江本さんも感染予防、くれぐれも気をつけてお過ごしください。(河田真智子

奥多摩の山から海辺の暮らしへ

■地平線通信、いつも送っていただきありがとうございます。毎号ちゃんと読んでいます……。さて奥多摩町での28年間の生活を終え伊東市に引っ越しました。この1年、温暖な気候、サルの出没しない地域、海釣りとクライミングが楽しめる、これらを条件に移住先を探していました。結局10代の時からクライミングで親しんできた城ヶ崎海岸の近くの伊東市に住むことにしました。心境の変化から引っ越しをするのだろうから、取材させてほしいと言う人がいましたが、ただ何となく違う環境で生活してみたくなっただけなので、お断りしました。

◆世の中がコロナウイルスで神経を尖らせているなか、近くの海岸で誰も触っていない石ころを、のんびり登って過ごしています。また今日はとても暑かったので、素っ裸になり海に浸かっていました。小さなベラがたくさん泳いでいました。知人は今回の自粛で登山文化が失われるのではないかと心配してますが、本当に山や岩が好きな人は、何があっても続けるのではと思っています。と言う僕も中高年になりましたが次をまだ夢見ています。海抜0mで遊びながら高峰の山々を想像しています。それでは……。いつか遊びに来てください。(山野井泰史

ヤモリがいて嬉しい

■2月の初めに家を買ってから伊東と奥多摩の往復の生活が続いた。畑の開墾も並行しているので、やることはいくらでもある。私は体調があまり良くないこともあり、少し動いては休みながらの作業だ。一生この家に暮らすことになると思うので、もう引っ越しはしないつもりだが、これ以上歳を取ったら引っ越しはできないと感じた。

◆見える範囲に家はなく森というよりもジャングルに囲まれているせいか、やたらと虫が多い。奥多摩でもいっぱいいたが、ムカデ、ゴキブリ、たぶんダニもいる。うれしかったのがヤモリが居ることだ。バルサンを準備していたらヤモリが出てきたので外に出て行ってもらった。畑には野菜を食べてしまう小さな虫がいっぱいいるが、薬は使いたくないので殺すしかない。土を耕していると良く出てくるのがオケラだ。何十年ぶりに見て感激した。子供のころ大好きだった虫だ。ひょっとしたらこいつも土の中で何かを食べているかもしれないが、えこひいきでオケラはそのままにしている。

◆山の生活から海辺の生活に代わり、釣りは沢から海へ。家から歩いて行けるポイントもある。これからは誰も行きそうもない釣り場を見つけるのが楽しみだ。(山野井妙子


地平線の森

「歴史をやれ、旅をしろ」を読んで

■2020年明けから、少しずつ広がった新型コロナウイルスの蔓延は世界中をひっくり返したような影響を人に及ぼしている。私はその間、毎日森を歩き、山仕事を続けている。農林水産業を営む40年来の友人たちも三密とは無縁の自然相手に仕事を続けている。奥多摩の細道の雪が溶けて、林縁を彩った春の草花は虫たちの目を覚ました後、夏草に交代をはじめた。

 新緑は日に日に濃くなり、南から渡ってきた夏鳥と数日ミーティングした冬鳥は北の大地に還っていった。かくのごとく、太陽活動と地球運行は休まず渦巻き流れ、人の都合に合わせてはくれない。自然相手の仕事は、急ぐほどでもないが、休むわけにもいかない。

 地平線通信2020年4月号の森田靖郎さんの史上最少人数の報告会「歴史をやれ、旅をしろ」レポート、続く5月号の寄稿、ほかの新旧の諸兄姉の文章も合わせ、とても感慨深く読ませていただいた。物心ついた時から、世界(の時空間)がどうなっているか興味津々で、それを知らないと生きていけないと思い込んでいた。

 1978年、上京して東京農大探検部に入ったのもその延長で、その年に地平線会議(翌年創立)の揺籃期に出会えたのは人生の最大の幸運だったと思う。森田さんに初めてお目にかかったのも1979年の地平線会議の設立準備会の席だったと記憶している。暑い季節に四谷界隈の喫茶店によく集まっていた。

 1978年5月のある日、アフリカバイク冒険帰りの先輩から「すごい人に会わせるからついて来い」と言われ電車に乗って金魚の糞みたいについて行った先は秋葉原駅。近畿日本ツーリスト内にあった日本観光文化研究所(観文研、あむかす編集室だったと思う)で「極限の旅」から帰国したばかりの賀曽利隆さんの報告会があった。世界共通言語のあの満面笑顔で極限のサハラ砂漠バイク越え数度の写真と話にはど肝を抜かれた。

 日本の辺境から出てきたばかりの私は、一番隅っこで黙って傍聴していたので賀曽利さんはきっと覚えていないと思う。宮本常一さん千晴さん親子にもチラッと挨拶した気がするが、金魚の糞のしんがりにいたので、ご記憶にはないと思う。その後の地平線会議のお歴々との席でもいつも隅っこで静かに観察するのが、恥ずかしがりで話し下手な私のスタンスだった。

「体で覚えろ、本を読め。しかし、本を読むのはいいが、せっかく東京に出てきたんだからチャンスを生かせ。本を書いた本人に直接、話を聞きに行け」と世界中に遠征して帰ってきた探検部の先輩方は言った。その言葉を実践するのに地平線会議は絶好の場所だった。しかし、前述通り極度にシャイだったので、誰かが話を聞くのを、そばで聞き耳立てるのが精一杯だった。

 地平線会議設立当時の観察記憶で今でも鮮明に蘇る映像が幾つかある。太陽系に例えると、江本、宮本、三輪の40歳前後の御三家が恒星のように中心にいて、30歳代前半の賀曽利隆、森田靖郎、関野吉晴、岡村隆、恵谷治、伊藤幸司、もう一人誰かが七奉行の惑星のように回っていた。

 皆さん惑星というよりは彗星のように世界の辺境に飛んで行っては帰ってくることを繰り返していた。このお歴々が、宮本常一さんが主宰する観文研に大卒後から出入りしていたとは後々知ることになる。常一さんは大学山岳部や探検部OBたちを「いいかね、就職したりせず放浪しなさい」とそそのかしてきたと誰かが話しているのを聞いた。すごい爺さんがいるものだと思った。太陽系は超新星の爆発後にできた。地球が重い元素のある生命の惑星なのはそのおかげらしい。してみると常一さんは超新星みたいな「旅する巨人」だったのかと思う。

 宮本常一さんは晩年、今西錦司さんと肝胆相照らす仲だったと本で読んだ。お互いフィールドワークを重要視する。京大山岳部の前身の旅行部を設立した御三家は今西錦司、西堀栄三郎、桑原武夫の巨人。その弟子たちもフィールドワーク界のビッグネームが多く、その諸著作は学生時代ずいぶんお世話になった。

「探検と冒険」8巻(朝日新聞社)が探検部室にあった。京大探検部を設立(1956年、全国初)した本多勝一さん編集で、京大探検部顧問の今西ファミリーの歴々が執筆陣に名を連ねていた。「結束は鉄よりも硬く、人情は紙より薄し」と言われた今西ファミリーに、地平線会議をオーバーラップしてみることがある。2つのファミリーの行動研究記録を読めば世界地図が満遍なく埋まった。

 今では地平線会議七奉行の先輩方も恒星のようになり、それぞれに求心力を持ち弟子やファンからなる惑星の中心星になっている。これらは、地平線通信の読者として知るところ。諸先輩がたとは、それほど親密におつきあいしたことはないが、近年は特にすっかりご無沙汰している。

 それでも若いころ聞いた忘れない一言や邂逅の瞬間が鮮やかに記憶にのこっている。故恵谷さんは「計画書と報告書は全部持って来い。世界の現地の地図を買って来い、それにメモはできるだけ詳しく書いておけ。あと、お前の感情と考えはいらん」と言われ守った。トレードマークのレイバンのサングラスはご自宅近くの赤堤の喫茶店で会う時は外していた。

 森田さんは「新人はコピーから入ればいいんだよ」と言われた。「何をやっても、それは誰かがやっていると言われます」と愚痴った時のご返事だった。この言葉のおかげでずいぶんいい思いをした。コピーライターの森田さんはそのスタイルと同じくかっこいい言葉をいっぱい紡いでいたが、このなんでもない言葉を一番覚えている。

 伊藤さんには、山積みの書籍で床が抜けそうなボロ屋で情報収集と資料整理を教わった。今西ファミリーの梅棹忠夫の「知的生産の技術」と川喜田二郎のKJ法は伊藤さんオススメだった。KJ法は後年チャドで住民参加型植林プロジェクトの時、応用して役に立った。

 関野さんとは報告会を一方的に聞くほどの接点だったが、2001年ころ四万十に電話がありグレートジャーニーの最終盤のスーダン、エチオピア情勢を聞かれた時、一番長く話した。ナイル源流を一緒に調査した高野秀行を紹介した。  

 岡村さんは、地平線会議立ち上げのきっかけとなった1978年の全国大学探検会議でお目にかかっているが、こちらは一年坊のぺーぺーだった。その後も地平線会議で数年に一度ほど、お会いし「元気そうだな」「気をつけて行って来い」くらいの会話だった。2000年ごろ岡村さん編集長の望星(東海大機関紙)の川の特集の時、丸山純さんインタビュー役で記事依頼があった。気にかけてくれているんだと、嬉しかった。森田さんの「歴史をやれ、旅をしろ」の言葉に、私は上記のような連想時空間旅行をしてしまう。

 旅をすれば、今を見ることはできるが、勉強しておかないと、見えるものも観えない。復習しないと、見識は深まらない。人文、自然を問わず歴史を勉強すれば視えてくる世界は深まる。そのためには読書だ。地平線の先輩方にも、よく本は読んでおけと言われた。最初に行ったのが南アメリカ、次がアフリカ(サハラ砂漠以南)との順は、勉強が苦手な私には好都合だった。文明が発祥し文字記録の多いユーラシアの国々は、文字情報が多く、読むべき資料が膨大になる。アフリカ、南アメリカは日本から遠いので日本人の書いたものは少なく翻訳書も多くなかった。100冊も読めばかなりの物知りになれた。あとは現地で見聞観察あるのみ。おかげで、広い分野、総合的な読書ができた。

 南アメリカ、アフリカ共に、読書歴の自己ベスト3がある。

南米3書
(1)「インディアスの破壊についての簡潔な報告」1542年、ラス・カサス著、(2)「ラ・プラタの博物学者」1892年、ウィリアム・ハドソン著、(3)「悲しき熱帯」1955年、クロード・レヴィ・ストロース著

アフリカ3書
(4)「3大陸周遊記」1355年、イブン・バットゥータ著、(5)「闇の奥」1899年、ジョゼフ・コンラッド著、(6)「白ナイル」「青ナイル」1963年、アラン・ムーアヘッド著

(1)はコロンブスの探検航海の後、司教になってエスパニョーラ島(現ハイチ、ドミニカ)に赴任したラス・カサスによる植民者たちの先住民酷使の告発書。目も耳も覆いたくなる新大陸全域の先住民の惨状がこれでもかと書かれている。(2)は博物学者のパンパスの自然賛歌。失われゆく大自然と人間文明への警鐘も。(3)は「私は旅や探検が嫌いだ」ではじまるアマゾン先住民の調査書。現代人類学だけでなくヨーロッパ思想界にも大きな影響を与えた。(4)はモロッコ生まれの旅行家による記録。西アフリカの古王国やアフリカ東海岸の最初の文字記録。(5)は未開な人の中に孤立した同胞救出に行く船乗りのコンゴ川の探索小説。実はヨーロッパ人の方が野蛮を黙示する顛末。映画「地獄の黙示録」の原作。(6)は白人による19世紀ナイル源流探検記録。リビングストン、スタンリー、ベイカー、スピーク、バートンのアフリカ探検家のビッグネームが活躍。探検家たちのスポンサー国がその後植民地化。

 アメリカ大陸とアフリカ大陸の歴史、記録はアメリカ先住民やアフリカ人(サブサハラ)の文字によるものはない。ユーラシア(含む北アフリカ)が歴史記録を文字に残してきた4000年間、無文字社会だったので、文字だけで歴史比較は公平公正とは言えない。レヴィ・ストロースは、そのあたりを指摘して無文字世界の神話的社会のの学術研究をした。

 そのほかの地域についての自分ベスト3、4、5の書リスト。

ヨーロッパ20世紀5書
「論理哲学論考」ヴィトゲンシュタイン、「野生の思考」レヴィ・ストロース、「ガイアの時代」ジェームズ・ラブロック、「生命潮流」ライアル・ワトソン、「ホーキング、宇宙を語る」ステイーブン・ホーキング

ヨーロッパ古典3書
「方法序説」デカルト、「エチカ」スピノザ、「モナドロジー」ライプニッツ

ギリシャ・ローマ古典5書
「歴史」ヘロドトス、「原論」ユークリッド、「神統記」ヘシオドス、「オデッセイ」ホメロス、「プルターク英雄伝」プルターク

中国古典4書
「孫氏」、「老子」、「論語」、「史記」

インド古典4書
「バガバットギータ」、「スッタニパータ」、「マハーバーラタ」、「ヨガスートラ」

西アジア古典4書
「ギルガメッシュ」、「バイブル」、「コーラン」、「アラビアンナイト」

アメリカ20世紀5書
「沈黙の春」レイチェル・カーソン、「我が魂を大地に埋めよ」ディー・ブラウン、「ルーツ」アレックス・ヘイリー、「コスモス」カール・セーガン、「限界を超えて」メドウズ夫妻

科学史5書
「天球の回転について」コペルニクス、「星界の報告」ガリレイ、「自然哲学の数学的諸原理」ニュートン、「種の起源」ダーウィン、「相対性理論」アインシュタイン

21世紀歴史書ベスト4
「137億年の物語」クリストファー・ロイド、「サピエンス全史」ユヴァル・ノア・ハラリ、「ありえない138億年史」ウォルター・アルバレス、「ビッグヒストリー 宇宙開闢から138億年の『人間』史」デヴィット・クリスチャン

 読書家の友人が多く、話を合わすのに、せめて古典名著は目を通しておこうと思ってきた。「古典名著とは、誰もが題名は知っていて、誰も読んだことはない本」との言葉は最近知った。

 自然科学系の人は謙虚な人が多い。特に宇宙学、物理学、地質学、生物学の著者は「まだ、ほとんどのことは解っていない」と言う。かたや人文科学系(歴史、経済、社会など)や工学系(機械、電子、遺伝子など)の本は「神の領域」を語る驕りが気にかかる。判定は時間がするだろう。

「歴史をやれ、旅をしろ」の森田さんの言葉は今も実践中。歴史(時間)も地理(空間)もその向こうは、どうなっているかに興味津々。今は文字記号にいまだ書かれていない世界を暗中模索中。

 地球46億年の歴史を1日24時間に換算して観察すると、生命誕生4時頃、生命陸上進出21時50分頃、人類の類人猿からの分化は23時57分、ホモサピエンス誕生は23時59分57秒、農耕の開始は23時59分59秒、文明の発生は一日の終わりの0.5秒切ってから。宇宙誕生(138億年前)は3日前の0時。ヒトはペーペーの新参者。

 地平線通信5月号は、コロナウイルス禍について先輩、若手が真摯に健筆を振るっている。深層に流れている共通意識は、転換期に大切なのは「まじめな遊び心」と読んだ。ただし、「まじめは過ぎると腐る、遊びは半端にやると腑抜けになる」。まじめさと遊び心の絶妙なサジ加減においては、地平線の先輩方は名手ぞろい。創設から、42年。20年先輩は変わらず大先輩、10年先輩は意気軒昂。いまだにペーペーの地平線新人だと、つくづく思う。(東京農大探検部OB 山田高司 40年たってもペーペーの地平線新人)

どんな世界になろうとも、冒険を諦めることはない

■2月20日から4月15日までの55日間。お遍路と熊野古道を約1700km巡礼した。年末に実行予定の再度の南極遠征の成功祈願と体力維持を兼ねてだ。この3年ほどは海外遠征に加えて国内遠征にしょっちょう出掛けている。国内では巡礼を目的にすることが多く、宗教の流れから見える日本にハマっている。お遍路で般若心経が詠唱できるようになり、今は写経を毎朝している。お遍路を始めた時は、国内でコロナの影響がほとんど見られなかった。厚生労働省が2月20日に発表した資料によると国内の患者はまだ70名で、クルーズ船ダイヤモンド・プリンス号で陰性が確認されていた方々が下船した日である。

◆うるう年の今年はお遍路を逆打ち(逆周り)で周っても良い年である。弘法大師は今でもお遍路を歩いているとされ、お大師さんと路ですれ違えると言われる。つまりはすれ違う人全てをお大師さんと思い、大事にすることである。これは日常でも同じことだ。人に対して決めつけをせずに平等に接するのと同義である。八十八ヶ所目である香川県大窪寺から出発し、高野山奥之院にある弘法大師廟で終了した。

◆大窪寺の段階で客足の少なさを感じていた。大窪寺のお土産店で名物の打ち込みうどんを食べながら女将に訪ねると、ほぼ全ての団体客が既にキャンセルになっていると嘆いていた。出発直後くらいは遍路宿を利用すると遍路客がいたのだが、3月半ばになると宿の客は僕だけが当たり前で、路で人とすれ違うこともほぼなくなった。

◆2019年6月の四国経済連合会の資料によるとお遍路さんの人数は10数年前に比べて4割減しており、高齢化も進んでいる。歩き遍路は年間2500人程度で安定しているが日本人が減るかわりに外国人が増えているからだ。また遍路宿オーナーたちの高齢化も進んでおり、このコロナで商売じまいをする遍路宿もあるだろう。

◆お遍路でもっとも印象的な景色は高知の海岸線だ。弘法大師が岩窟で修行をした室戸岬周辺を1週間近く歩く。来る日も来る日も空と海の碧を見る日々で、弘法大師が自らを空海と名付けた心情が実感できる。奥之院で終えるつもりだったが、奥之院から伊勢内宮まで熊野古道が繋がっていることに気付き、伊勢まで歩くことに決めた。

◆内宮は毎年参拝している。今年はまだ行ってなかったこともあるが、気付いたことがあるのだ。南無大師遍照金剛と唱えるくらいなので、弘法大師は大日如来の化身である。内宮の神様は言わずもがな天照大御神であり、神仏習合時代には大日如来と同一神である。お遍路を構成する真言宗のお寺と神道の最高神を繋ぐ路が熊野古道でもあると気付いたときは興奮した。

◆江戸時代には多くの人がこの区間を巡礼で歩いたのだろう。その息遣いが感じられるかもしれない。ならば歩かない訳にはいかない。奥之院からは小辺路、中辺路、伊勢路と繋いでいく。コロナの影響もあり一日中人に遇わないことがほとんだだった。特に伊勢路が美しい。内宮参拝を終えた時は日本人としてこんなに嬉しいことがあろうかと感動したが、辿り着いた4月半ば伊勢のおはらい町は人もまばらで半分以上の店が閉まっていた。こんな伊勢を見たのは初めてだ。伊勢は日本人の心の拠り所であり、最後まで観光が生き残る場所だと思っていたので、この現状を見た時には衝撃を受けた。巡礼旅も道中で気遣いをするようになり、後半は店に入る時はマスクをつけるように心がけていたほどだ。

◆熊野古道以来、ランニングと買い物以外は東京板橋の自宅中心の生活だ。収入は絶望的だ。南極資金確保の為に稼業の人力車を売却してしまったので、僕の最たる収入源は講演会だが、年内は全てキャンセル。もっとも人力車があっても仕事にならないだろう。雷門から提灯が一時的に完全に撤去されてしまったほどだったのだから。無人島ゼロ円生活ならぬステイホーム収入ゼロ円生活を余儀なくされている。今は借金がさほどないのでなんとか凌げそうだが、2年ほど前までの生活ならなんともならなかった。火の車だったリボ払い地獄の時にコロナ騒動が重なったらと思うとゾッとする。

◆こんな世界でも夢を目指す灯火は消してはならない。僕が目指すのは白瀬矗中尉の想いを継ぐこと。大和雪原から南極点まで歩くことである。去年は大和雪原への飛行機フルチャーター代の1億近い資金を確保しながらも、飛行機会社の現地ロジスティクスが間に合わず、翌年に捲土重来となった。その時の失望は筆舌に尽くしがたい。そして今年はコロナである。どうなるだろうか。ただ決めたことはある。失望に屈せずに目指し続け努力し続けるということだ。

◆シャクルトンはエンデュランス漂流ののち、ロシア内戦に参戦してもなお南極の夢を目指し続け、最後は再度の南極挑戦のために探検隊を組織し、船で南へ向かい、南極圏に近いサウス・ジョージア島で病に倒れた。白瀬矗は日露戦争に出兵し、“北極点”の夢をペアリーに奪われても屈せずに南極点を目指した。南極後も北極飛行機横断の提案を議会に出したり(これを実現できたのがアムンゼン)、亡くなる前年にはマッカーサーに南極大陸の領土権を嘆願する書まで出している。南極探検英雄時代に生きたのは超人的なリーダーたちだが、その一方で不器用で一途。そんな生き方に憧れる。男児が志を持つとはこういうことだ。

◆世界が平和でないと冒険はできないものだ。では、世界がカオスになるとき、役目はないのか。世界の精神が暗闇に閉ざされるとき、灯りが必要な時がある。どんな時も強く生きて夢を目指し続けた先人たちの焔は人の心を灯す。人に大事なのは希望であり、きっかけになるのは心を灯す行動者である。それは一途に夢を目指す生き方で伝えることができる。いま僕たち一人ひとりは世界に試されている。ここで消える焔なら最初から高い場所には辿り着けない。もっと自分を燃やさなければならない。

◆最後に今回(5月号の)地平線通信の発送作業を手伝わせて頂き、この状況下でも尽力して下さるいつもの発送メンバーに頭が下がる想いであった。運営メンバーの情熱の焔があるからこそ通信は僕らの手元にある。可能な人は一度は手伝いに来てみてはどうだろうか。通信がより一層特別なものに感じるだろう。(阿部雅龍

航海は人生のほんの一部分、と教えてくれた新型コロナ・ウィルス

■5月24日の午前3時過ぎ、私は100日の居候生活を続けていたパラオを後にした。特例で延長できたビザはまだ3週間残っていたが、前日の朝届いたニュースが私を突き動かした。元々はビザの切れる直前に帰国しようと考えていた。そして、そのことを居候先の家族に話していた。昼過ぎから帰国の準備を始める私に家人達は驚いていた。迷いはあったが、私はどんどん荷物をバッグに詰め直した。朝届いたニュース、それは太平洋芸術祭が4年後の2024年に再延期となったというものだった。

◆2月14日に日本を発ち、翌15日にパラオ入りした私はキャプテン・セサリオの家で彼のハワイからの帰りを待った。マーシャルからハワイまでの4,000キロの航路に伴走船が必要となり、その相談のため彼はハワイに足を運んでいた。結論から言えば、伴走船は見つかった。ハワイ航海の意義に共感してくれたミクロネシア連邦出身の実業家がサポートを申し出てくれたのだ。しかし、出航間際の3月2日、最後の準備に取り掛かっていた私達に届いたのは、ハワイからの芸術祭延期の報せだった。

◆私達の航海は4年に一度行われる芸術祭のオープニング・セレモニーに参加するためのものだった。翌3月3日には延期が年内ではなく、来年の6月になったということが正式にアナウンスされた。そして、今年のハワイ航海が消滅した。延期の理由はCOVID−19の世界的な拡散によるものだった。ハワイ航海がなくなったことは私だけでなく、他のクルー達も落胆させた。彼らにとってもマーシャルからハワイまでの航海は未知の領域だった。初期からのクルーであるミアーノは航海後故郷のサタワルに帰り、後進の指導に当たる予定だった。

◆一方、ハワイ航海がなくなった後のセサリオの決断は速かった。直ぐに航海の目的地をサイパンに変更した。パラオからサイパンの往復は約5,000キロ。2016年の航海の倍、ハワイ航海の半分の距離だ。来年に向けてのトレーニングには十分な航海と言える。しかし、この航海も出航前日の晩にグアムで感染者が出たことで中止となった。それとほぼ同時にミクロネシア連邦が国境を閉じ、国を跨いでの航海の芽はそこで潰えた。

◆やり場のない気持ちを抱えながら数日を過ごした私達だったが、どこにも行けないのならせめてパラオの離島カヤンゲルに向かおうということに話がまとまった。カヤンゲルは2016年の航海で一緒だったクルーが眠る島だ。その頃、パラオでは飛行機のキャンセルが続くようになっていた。偶然あったJALのチャーター便は3月26日発。この便を逃すといつ帰国できるか分からなくなる。一方、カヤンゲルに向けての出航は27日。しばらく迷ったが、航海に出ることに心を決めた。

◆しかし、海に出てから風が合わず、カヤンゲル行きは断念。2日目の夕方には風を避けるためにロックアイランドの島影に停泊し、4日目にはコロールの湾に戻ることになった。そこで更に1泊し、航海とは言えないような短い航海で今回の海旅は幕を閉じた。

◆COVID−19に翻弄され続けることになった今回の旅だが、その裏側で私の内にある想いが芽生えはじめていた。それは「航海は人生の全てではなく、一部に過ぎない」というものだ。同じ日常をセサリオの家族と過ごすうちに何気ない毎日が航海を支えていること、そして、航海は長い人生の中のほんの一部分に過ぎないということを強く感じるようになっていった。

◆家には1歳から4歳までの3人の孫達がいたのだが、昼寝をしている時間以外は泣いたり、笑ったり、喧嘩したりでそれはそれは騒がしかった。このありのままの自然を体現したような子供達と真剣に向き合うことこそが、今回の私にとっての航海である気さえもした。居候中どこにも行かず、家でほとんどの時間を過ごしていたのは、そんな小さな自然達に囲まれて満足している自分がいたからだった。どこかに行くよりも少しでも子供達と一緒にいたかった。カヤンゲルへの航海に出た際も、実は早く家に帰りたくて仕方がなかった。

◆カレーや豚の角煮をつくって家族に振る舞い、子供達にご飯を食べさせ、食器を洗い、オシメを取り替える。そんな繰り返す日々の中、迷いながらも日本に帰ると決めたのは5月23日の夕方だった。芸術祭の再延期が決まり、来年の計画についてセサリオと直ぐに話す必要がなくなったこと、たまたま夜中に韓国経由のチャーター便があったこと、何より4年前の航海でグアムから帰国したのが同じ5月24日だったことが最終的に私の背中を押した。

◆今回私は4年前に見た景色のその先を知りたいという想いを胸にパラオに足を運んだ。しかし、そこに辿り着くことはできなかった。一方でこの100日の居候生活の中で感じたこと、見てきたこと、聞こえた声こそが、その先の景色なのかもしれないと思う自分もいる。その答えは、いつかの未来に預けておきたい。

◆COVID−19の嵐が世界中で吹き荒れる中、私はどこか知らないところでアリスの不思議の国へ繋がる穴に落ちてしまっていたようです。不思議の国での100日はただただ人として生きる日々でした。そんなCOVID-19から隔絶された世界の出来事の断片がこの文章で伝わればいいなと思っています。(光菅修


今月の窓

横田滋さんの訃報に思う

 6月5日、横田滋さんが86歳で亡くなった。

 拉致問題が少しも動かないなか、いつかこうなるだろうと覚悟していたが、ついにその日が来てしまった。めぐみさんが13歳で失踪して43年、求め続けた娘との再会はかなわなかった。その無念を思うとたまらない。

 取材者として23年前から滋さんとお付き合してきた者として、滋さんを偲びながら、私と拉致問題とのかかわりを振り返ってみたい。

 拉致問題が今日のように、日本の政治情勢まで左右する大きな社会的テーマになったのは、滋さんのある決断からだった。

 めぐみさんは北朝鮮に拉致されたらしい。その情報が横田滋さんにもたらされたのは、失踪から20年目の1997年1月のこと。驚いた横田家では家族会議を開く。母親の早紀江さんと二人の弟は、めぐみさんの実名を出すことに強く反対した。めぐみさんの命が危うくなるのではと危惧したからだ。

 だが滋さんは、実名を出さなければ事態は動かないとの思いから、リスクを覚悟でめぐみさんの実名公表を決断した。その後の拉致問題の展開を決めた瞬間だった。

 めぐみさんの実名が公表された直後、当時テレビ制作会社に所属していた私は、めぐみさんの写真をもってソウルに飛んだ。韓国に亡命した北朝鮮工作員に写真を見せると、その女性を平壌の工作員養成所で目撃したという。この初めての「めぐみさん目撃証言」は、2月8日、テレビ朝日の報道番組「ザ・スクープ」で放送され、大きな反響があった。

 その後の動きは一気呵成だった。3月25日、北朝鮮に拉致されたと見られる被害者の家族が集まり「家族会」を結成。急激な世論の盛り上がりのなか、政府は5月、北朝鮮による拉致疑惑事例として「7件10人(および拉致未遂1件)」を正式に認定した。

 滋さんの実名公表の決断がなかったら、北朝鮮による日本人拉致が国内だけでなく国際的にも周知され、救出への機運が高まり、被害者の5人とその家族を取り戻すということも起こらなかっただろう。

 拉致という犯罪は残酷極まりない。わが子が理由なく失踪し、生死も分からぬままの状態がつづくのは、親にとって、子どもの死を知らされるよりつらいという。めぐみさんの母、早紀江さんは何度も泣きながら海岸をさまよい、自殺を考えたこともあった。

 後に北朝鮮による拉致が判明した福井県の地村保志さんの母親は、息子の失踪にショックを受けて体調を崩し寝たきりになった。「蛇の生殺し」という言葉を複数の家族から聞いた。その耐え難い闇の中に届いた「北朝鮮に拉致されている」との情報は、突然現れた希望の光だった。家族たちは「北朝鮮に対し、断固たる態度で、身柄の返還を要求していただきたい」と政府に声を上げ、再会をめざして活発に動き始めた。

 滋さんが「家族会」の代表になると、横田さん夫妻の暮らしは一変した。街頭署名に立ち、講演会で全国を回るほか、マスコミ対応、政府や自治体への陳情と、文字通り一日の休みもなく奔走した。ごく普通の退職サラリーマンとその妻だった二人にとっては、勝手が違う試練の日々でもあったが、娘をはじめ拉致された人たちを助けたいと思うと「疲れた」などと言っていられなかった。

 会の代表として、滋さんには多くの難しい判断がゆだねられた。残酷な犯罪の被害者家族としては、なかに感情的になる人がいたとしても責められない。

 国民の怒りも高まり、ヘイトに流れてもおかしくない運動に、滋さんは良識の筋を通し、在日朝鮮人への非難をたしなめた。

 北朝鮮の当局と民衆をはっきり区別し、民衆は自分たちと同じ人権侵害の被害者だとのスタンスを最後まで崩さなかった。また、政府要人や政治家への不満があってもそれを公の場で漏らすことは決してなかった。滋さんの良識と自制は、拉致被害者救出の大義を多くの人々に理解してもらうことにつながった。

 横田さん夫妻は、多忙な中でもタクシーを使わなかった。一緒に電車に乗ったことがある。アイドルなみに顔を知られた夫妻のこと、乗客がすぐに気づいて「応援しています」、「お体に気を付けて」などと声をかけてくる。二人はお疲れだろうに、いちいち「ありがとうございます」、「よろしくお願いします」と丁寧に対応していた。

 体のあちこちに不調を抱え、高齢を押して全国で1400回超の講演をこなしながら、公共交通機関で移動するという身の律し方に、「古き良き日本人」を見る思いだった。

 めぐみさん拉致情報をきっかけに、メディアが猛烈に取材に動き、めぐみさん以外の拉致疑惑事例も報じはじめた。私たちも取材に没頭し、新たに一つの事件を発掘した。

 1963年、石川県で沿岸近くで漁をしていた3人が行方不明になった。その一人、寺越武志さんは当時13歳の中学生だった。失踪から24年が経った1987年、突然北朝鮮から、無事で生きているとの手紙が届く。その後、武志さんの母、友枝さんは、社会党代議士と朝鮮総連の斡旋で北朝鮮に渡り、息子と涙の再会を果たしていた。

 当時「美談」とされたこのケースを、私たちは取材の結果、拉致と結論づけた。友枝さんは一時「家族会」に加わる意向を表明したが、武志さんがあくまで「遭難したところを北朝鮮の船に救助された」と言い張るため、今も政府は拉致事件とみなしていない。

 実は、認定されていない「拉致事件」は少なくない。これまでの取材から、私は、日本から拉致された人が40人を下ることはないと思っている。

 大きなスクープとしては、レバノン人4人の拉致を初めて掘り起こした取材がある。1978年、ベイルートで「日本企業」を騙る求人に応じた4人の若い女性が、北朝鮮へと連れていかれた。レバノン政府の抗議など紆余曲折があって3人は帰国できたが、1人は北朝鮮で米兵と家庭を持っていた。

 平壌で娘と再会したというイタリア在住の母親ハイダールさんを探し出してインタビューし、さらに帰国できた3人のうち2人に接触することに成功。事件を世に出すことができた。4人を拉致した目的は、韓国の米軍基地から北朝鮮へと脱走した米兵4人の妻としてあてがうためだったと推測し、アメリカ大使館に連絡した。寝耳に水だった米国国防省が、すぐに情報提供を求めてきた。これが、北朝鮮の拉致にアメリカ政府が関心を持った最初だったと思う。

 日本のメディアや救援団体が新たに発掘した北朝鮮による拉致事件は数多い。被害者の国籍は十カ国以上に及び、その家族や関係者が国を越えて連携する機運も生まれた。2005年12月、ハイダールさんは私たちの招待で来日し、横田さん夫妻はじめ「家族会」と交流している。

 2002年9月の小泉訪朝が報じられると、横田滋さんは、これでめぐみさんに会えると確信した。滋さんは訪朝団に、めぐみさんにあてたビデオレターを託した。「めぐみの知らないうちに、いろいろ日本は変わって、ディズニーランドとか、そういった遊ぶところもあります」と滋さんは語りかけている。

 小さいころからめぐみさんはお父さん子だった。めぐみさんの下に双子の弟が生れ、早紀江さんの手がそちらにとられるようになると、めぐみさんと遊ぶのは滋さんの役目になった。大げさな物言いをしない滋さんがある時、「めぐみは目のなかに入れても痛くないほど可愛い子でした」と言ったのが印象に残っている。

 ところが小泉訪朝団が持ち帰った情報は、めぐみさんはじめ8人が死亡しているという悲惨なものだった。後に、提示された死亡証明書がすべて捏造であり、死亡情報には根拠がないことが分かったのだが、その時には、家族には事実であるかのように伝えられた。記者会見でむせび泣く滋さんを前にして、私も他の記者たちも涙を抑えられなかった。

 10月15日、5人の拉致被害者がついに帰国をはたす。その中にめぐみさんがいない悲しみをこらえて、滋さんは飛行機のタラップから降りてくる5人と家族との再会を撮影し祝福した。蓮池薫さんは、その時、滋さんにかけられた「よく帰ってきてくれた」という温かい言葉が忘れられない。自分たちの存在が認められたようで、帰ってきて良かったと心から思えたという。

 帰国した5人に関する報道が怒涛のように流れ、2週間の滞在期限を越えても日本に留まるとの方針を政府が打ち出したころ、私は日テレの「ザ・ワイド」にコメンテーターとして呼ばれ、レギュラーの有田芳生さん(現参議院議員)とスタジオで同席した。

 放送後、米紙『ニューヨークタイムズ』に拉致問題の意見広告を出さないかと誘われ、一も二もなく賛成した。拉致問題は、もちろん日本と北朝鮮との間の問題ではあるが、今後事態を動かすには、国際的な働きかけが必要だと思っていたからだ。

 湯川れい子さんなども誘って「7人の会」を作り、ネットで募金を呼びかけると、驚くほどの勢いでお金が集まった。クリスマス直前の12月23日付「ニューヨークタイムズ」に、拉致事件を伝える“This is a Fact”(これは真実です)と題する全面広告を載せることができた。滋さんもこの企画に賛同し、自ら募金してくれた。集まったのは1400万円。広告費が650万円だったので750万円もの余剰金が出た。「家族会」に寄付することにし、有田さんが全額を横田滋さんに手渡した。おそらく「家族会」への寄付としては、過去最高の金額だっただろう。

 2009年、膠着する拉致問題を少しでも動かそうと「7人の会」を再結成した。リーマンショック対策の「定額給付金」の使い道に迷ったらぜひ寄付を、と呼びかけると、今度もまたすさまじい勢いで募金が寄せられ、総額は1950万円に達した。この時は「ニューヨークタイムズ」紙面でオバマ大統領に訴えただけでなく、仏「ルモンド」、韓国三大紙(「朝鮮日報」「東亜日報」「中央日報」)にそれぞれ全面広告を載せている。

 この活動をつうじて痛感したのは、拉致問題に寄せる関心の高さと、解決のために行動したいという潜在的なエネルギーの大きさだ。

 拉致被害者5人が帰国した直後の2002年10月20日、当時の皇后、美智子様はこう語っている。「小泉総理の北朝鮮訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみと共に、無念さを覚えます。何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることができなかったかとの思いを消すことができません。

 今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います」。

 これは国民共通の思いを的確に表現していた。この同胞意識があるから、拉致問題は、他の諸問題とは別格の強さで我々の心に訴えかけてくる。

 政府に対して解決に向けた努力が足りないと批判するのはいい。私も言いたいことは山ほどある。ただ、「共同社会の出来事」を解決するうえでは、国民の力が必要だ。

 私はたくさんの人から「拉致問題解決のために何かできることはありませんか」「お手伝いできることを教えてください」と尋ねられる。香港で立ち上がっている若者たちや、アメリカでの人種差別撤廃運動などを見るにつけ、署名やカンパだけでない、市民を大きく結集する運動を作ることができていない現状はとても残念だ。責任を感じる。

 滋さんには、よしみのあった者として、また一国民として、「申し訳ない」と謝りたい。その上で、拉致問題の解決に向けて微力を尽くしたいとあらためて思う。(高世仁 ジャーナリスト)


あとがき

■きのう、大鍋にいっぱいのシチューを作った。近くの食肉店から煮込み用の牛肉をひとかたまり(100グラム380円の)買い切り分けて、ニンニク、玉ねぎ、セロリ(かなり多量に入れる)、人参、なす、ジャガイモ、それに多量のカットトマト、ビーンズを加えて煮込む。味付けは塩、胡椒、コンソメ、それにデミグラスソース、赤ワインで適宜。時には来客があったり知人に差し入れもするのでほどほどにいい味にしておく。

◆しかし、おもには自分のためだ。大小のタッパーに小分けして(一部は冷凍して)保存しておく。連れは別の階に暮らしていて時たま焼き魚など美味しいものを差し入れてくれるが、現役で仕事しているので頼ることはない。シチューやカレー(ゴーヤ、オクラを加えるいわゆる“エモカレー”)をほぼ隔週で大量に作り、手作りパン屋の美味しいパンか友人が丹精込めたお米を炊いて食べる。外食はほぼしない。皆さんも大いに料理の腕をあげているであろう。オンライン飲み会とやらも流行っているらしいが、食べ物はどうするの?

◆パンデミックの日々。こういう時代は滅多にないのだ、と開き直って日々を見据えよう。明日18日、長野淳子さんの「三回忌」。無性に懐かしい人だ。画伯はひっそり自宅で個展を開くとか。題して「蝶たちの通う庭へ」。この通信を淳子さんに捧げます。(江本嘉伸)


■地平線マンガ『ゴンのヤーグマイの巻』(作:長野亮之介)
マンガ 龍T誕生の巻

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■今月の地平線報告会は 延期 します

今月も地平線報告会は延期します。7月以降いつ再開できるか、情勢を検討しながらどこかで決定したいと思っています。


地平線通信 494号
1 制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2020年6月17日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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