5月15日。新聞の一面の見出しは「緊急事態 39県解除 継続8都府県」(読売)「緊急事態 範囲を縮小 39県解除特定5県含む」(朝日)だ。昨日今日ならともかく半世紀経ったら何のことかわからない人もいるだろう。
◆始まりは中国武漢市で昨年12月以降、病原体が特定されていない肺炎の発生が複数報告されたことだった。世界保健機関(WHO)は今年1月9日付けで、原因となる病原体が新種のコロナウイルスである可能性が高まった、との声明を発表。2月3日には横浜港にあのクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」が入港。乗客、船員の間に感染が広がっていることが大きな問題となった。
◆そのうち、タレント、スポーツ選手など著名人がばたばたと感染しウィルスへの恐怖は当事者の知名度もあって一気に広まった。世界に拡散したウィルスの脅威はすごい。15日現在「アメリカの死者8万4119人、イギリスで3万3186人、イタリア3万1106人、スペイン2万7104人となってあらわれている。その中にあって日本は死者は726人と、かなり少ない方だ。感染者数は1万6120人。これをどうとらえるか議論はあるところだが、最悪の事態は避けられたと言っていいだろう。
◆昨日14日の専門家会合では、緊急事態宣言の解除について「直近1週間の10万人当たりの新規感染者0.5人以下」という目安が打ち出された。重症者の診療体制が崩れていないか、医師が必要と判断した際にPCR検査が迅速に実施できるかなども。
◆新型コロナ・ウィルスは、間違いなく私たち現代人の「底」をひっくり返した、と私は感じている。相応の金があればいつだってアフリカもヒマラヤも北極も行ける。ネットでそのためのあらゆる足も宿も確保ができる。それが実は、マボロシだった、と気付かされた。つい先日まであれほど軽く飛び続けていた飛行機というもの、いつになったらまた自由気ままに乗れる日々に戻れるのか?
◆もちろん、戻れるだろう。しかし、今まで獲得していた「移動の安心感」のようなものはすぐには戻ってはこないのではないか。旅人にとってあまりにも当たり前だった新幹線も船も、いや宇宙船ですら実はたいしてすごいことではなかったのかもしれない。ウィルスに乗っ取られてしまえば、身動きすることすらできないのだから。
◆解除が叫ばれ始めた昨日、今日になって、もしかすると日本人は大げさに心配しすぎたのではないか、という罰当たりな声も出てきている。学者の一部を批判する声もある。とんでもないことだと私は考える。篭る日々だし、にわか勉強でいくつかの本を手にした。その一つに『流行性感冒スペイン風邪大流行の記録』という本がある。平凡社の東洋文庫の一冊で2008年9月に復刻出版されたものだが、ウィルス学の西村秀一氏(現国立病院機構仙台医療センターウィルスセンター長)が原本を偶然見つけ、平凡社にもちかけた経緯があってのことらしい。
◆「内務省衛生局編」とあるだけで具体的な著者は不明。大正十年十二月の刊行だ。「全世界を風靡したる流行性感冒は大正七年秋季以来本邦に波及して爾来大正十年の春季に亘り継続的に三回の流行を来し総計約二千三百八十余万人の患者と約三十八万八千余人の死者とを出し疫学上稀に見るの惨状を呈したり」。これによると少なくとも3回の流行に襲われた。そして2380余万人が感染し、38万8000余人の死者が出た。
◆「当局は毎次の流行に対し常に学術上の知見と防疫上の経験とに鑑み最善の施設を行いこれが之が予防に努め或は防疫官を海外に派遣して欧米に於ける本病予防上に関する施設の実況を視察せしめ又特に職員を置きて専ら予防方法の調査に従事せしめ一面又学者及実地家の意見を……」。この貴重な資料は443ページにも及ぶ。
◆ただ、ざっと読みしてワープロもパソコンもなかった時代によくぞこんな詳しい情報をまとめ、記録に残したものだ、と感心する。そして、記録に残しておいてさえくれれば、後世が必ず役立てることができる、とも。スペイン風邪について言えば第二波(後流行という言い方をする)の被害が大きかった。目の前に起きている「パンデミック」、貴重な現場に私たちはいるのだ、ということを心しておこう。
◆「ひっそりつましく」暮らす中で食事には気を使う。できるだけ美味しいものを食べよう。野菜と肉をふんだんに入れて、外ではめぐりあえないような料理を。毎日夜10時を過ぎると必ず人気のない町に出る。少なくとも1時間か1時間半は歩くことにしている。イヤホーンで聴くラジオのニュース番組もずっと「コロナ」ばかりだ。静まりかえった街でこういう時間の過ごし方もあるのだ、としみじみする。(江本嘉伸)
「密集、密閉、密接の三密封じ」。日ごろから人付き合いが悪いので、人が集まる場所には行きません。人と話すことも好きではないので、苦になりません。だが、「三密封じ」で、わかったことがありました。
実存的変容──病気になって初めて健康のありがたさを知るというように、三密封じで「人間」「空間」そして「時間」の「三つの間(ま)」のありがたさを知りました。
不便、不自由、孤独ゆえにこれまで豊かさの中で感じなかった便利、自由そして人との結びつき、日常性を改めて見直すことができたようにも思えます。「この人生が生きるに値するかどうかを判断する」、カミュの言葉が、スッと頭をよぎります。
振り返ると、3・30報告会は数々の宿題をぼくに残してくれました。
パンを焼く時、ふっくらと仕上げてくれる酵素がイースト菌ですが、そのイースト菌がヒトやイヌ、ネコにもあるというのです。ぼくは人前で話すのが苦手です。報告会でなんとか話せるのは、じつは皆さんから頂くイースト菌のお陰です。3・30報告会は、5人が遠く離れて、イースト菌を貪りながら……90分話し続けただけの、ふっくらとしない仕上がりでした。
ぼくは、いつも準備というのをしません。レジメもなしのぶっつけ本番です。話の流れをつかむと、イースト菌に任せて話すというタイプです。
この数年、テレビとか新聞をあまり読みません。時代の流れについて行くのが億劫なんです。とくにIT、ネットとか苦手で、旅先から原稿を送ったり、メールのやり取りなどが、ようやくできる程度です。ですから、新型コロナウイルスについて、刻一刻と変化する情勢に疎かったのですが、江本さんから、会場から自粛を要請されたと。世間では、三密封じ、自粛ムードです。報告会どころではないのかなと思い始めたのです。その間の経緯は、江本さんや落合さんが、詳しく報告されています。
3・30報告会は、中身はともかくやることに意味があると考えていました。3・30という、この時点で何が起きているのか……頭に焼き付けることだと。一度、中断すると“中抜け”になります。3・30報告会があって、次へ続くのです。
あの東日本大震災の時も、ぼくでした。2011・3・25報告会があり、ドイツが早々と原発から卒業するのを知り、2012・1・27報告会「サヨナラの理由(わけ)」へと繋がります。その後、「原発の正しい別れ方」を求めて、ドイツの森へと旅立ちました。
ぼくは、これまで数多くの現場を取材していますが、取材する時に気をつけているのは、時点、定点、視点です。いつ(時点)、どこで(定点)、何を(視点)取材するか、スタンスを決めると、時の流れや、現象の変化に視野がはっきりします。3・30報告会の一週間後には緊急事態宣言が出るという時点、三密を避けて江本宅でたった5人で行うという定点、コロナウイルスについても触れなければならないという視点でした。
3・30報告会は、いまの時代を生きている、その存在と生存証明です。3・30報告会は、時代の曲がり角に小さな石を置く、ここを歩いたなと振り返る目印、山で言えばケルンのようなものです。ぼくでなくても、誰かがやらなければならないと思っていました。
コロナについてもわからないことばかりで、頭は空白のまま、自分勝手に話したという程度で後に江本さんから“テープ起こし”をいただいた時に、初めて緊張しました。
喋りが下手で、しかも呂律のまわらない話を、起こして頂いた方々には感謝しかありません。「150億ページビュー」という発言に、「1120億ページビュー」が正しいとご指摘もいただきました。録画を見ていただくと、150億ページビューと話しています。通信では1120億ページビューと訂正されています。そのことをお断りしておきます。
負け惜しみや言い訳ではありませんが、ぼくは、150億ページビューでも間違いではないと思っています。というのは、数年前シリコンバレーで出くわした数字です。活字原稿なら150億ページビュー(取材時/現在、1120億ページビュー)としたでしょう。
この150億から1120億への流れが、ネット社会の現実です。こうしたドキュメントこそ、時点と定点そして視点です。ご指摘いただいた方には感謝があるのみで、頭が下がります。わたしの至らぬ点をご指摘していただきました。今後は、肝に銘じます。
あれから少しはわかってきました。
新型コロナウイルスについて、最初に異変に気づいた(2019・12)のは、武漢の眼科医でした。SARSのような症例に、アウトブレイクの危険を察し、警告を発したのですが、警察がこれを止めました。その後、眼科医自身もコロナウイルスに感染し、亡くなります。ご本人の書簡のコピーが中国のツイッター・微博(ウェイボー)で公開(2020・1)されると、10日後(1・20)、中国は新型コロナウイルスの緊急事態宣言を発表し、武漢市を封鎖します。その後、眼科医の名誉は回復されています。
当初は、武漢市の海鮮市場で売られている野生動物が発生源とされていましたが、その後、人から人へ感染する新型コロナウイルスだとわかってきました。
アメリカの国務長官は新型コロナウイルスが武漢ウイルス研究所から外部に漏れた可能性は排除できないと発言しています。
そもそも、エイズウイルスのワクチンをつくろうとして新型コロナウイルスが発生したというのですが……。『サイエンティフィック・アメリカン』(電子版/3・11)によると、武漢ウイルス研究所では、2000年初め頃からコロナウイルスの研究に取り組み、16年間、雲南省の洞窟に生息するキクガシラコウモリを捕らえて多種のコロナウイルスを検出、マウス実験ではコウモリから、人か人への感染も確認しているというのです。雲南省から遠く離れた武漢での発症の説明はありませんが、新型コロナウイルスが武漢ウイルス研究所から漏れたものか、自然界のものかはまだわかっていません。
イギリスの科学誌『ネイチャー』(電子版/2015・11)は、武漢ウイルス研究所には、パンデミック防止にアメリカをはじめ国際的な研究協力と研究資金が集まっていると。しかし、研究過程でウイルスの毒性を高めたり、伝染力を強めたりする「機能強化」の実験あり、リスクがあるとして、オバマ政権時代(2014・10)研究助成の支払いを停止しています。『デイリー・メール』(イギリス電子版/4・12)によると、その後アメリカ政府は370万ドル(約4億円)拠出しているようです。一方、アメリカに対して、中国副報道局長はツイッターで、アメリカ軍が武漢に持ち込んだと反論しています。
米軍事情報機関「国防情報局」(DIA)の傘下に、医療インテリジェンスを担当する「国家医療情報センター」(NCMI)があります。NCMIの前身は「陸軍軍医総監事務所」で、戦後は占領地の医療状況を調査して報告する業務を担当しています。現在は「感染症のリスクに関する医療インテリジェンス」を政府に提出する任務が主で、本拠地はメリーランド州フォート・デトリック陸軍基地です。この基地は、旧関東軍「731部隊」と深い関係がありました。アメリカは731部隊を率いた石井四郎ら幹部の免罪と引き換えに、731部隊が行った人体実験などの資料を、この基地内に保管しています。『ワシントン・ポスト』(電子版/4・14)によると米大使館参事官が何度か武漢の研究所を訪れ、コロナウイルス研究の安全問題を本国に報告しています。その参事官のひとりがNCMIに所属していた可能性が高いということから「米軍説」という反論になったのかと思われます。
じつは、新型コロナウイルスについてアメリカは感染拡大前に予測していたというのです。NCMIは、昨年11月、武漢周辺での伝染病が蔓延すると、アジアに展開している米軍の脅威にもなるとホワイトハウスなどに報告していたと、ABCニュースは報道したというのですが……。アメリカ情報当局はこのような報道の内容を否定しています。国防総省も報告を受けた覚えがないと。その後、NCMI側も報告書の存在を否定しています。
情報が錯そうするのは、その裏に何かあるのでは、その何かが知りたいのですが、こういう状況下では、現場取材もかなわず断片的な資料を集めるだけでは、本当のところはわかりません。これ以上の詮索は情報合戦を煽るばかりで、科学による究明に任せるべきでしょう。
中国は、監視・管理体制でコロナ封じの成果を上げ、いち早く経済活動を復興させる兆しを見せています。デジタル独裁……QRコードでつねに監視される中国社会を思い浮かべますが、いち早く危険情報を公開し、リスクを避けるオープンな社会で、それなりに国民は時代の先取りと受け止めています。地方政府では個人の信用評価システムを設け、社会貢献度を点数化しています。中国人はマナーが悪いと評判はよくないのですが、手洗い、ゴミを拾う、列を作る、法律を守るそしてソーシャル・ディスタンスなど、中国の日常風景が文明(中国語:マナーの意味)社会に変わりつつあります。
行き過ぎたモノは、戻る──振り子に例えると、右に行き過ぎると必ず左へ戻ります。
歴史の針をどこまで巻き戻すのか。一方、デジタル社会はどこまで進化するのか。文明末は古い文明と新しい文明の衝突ですが、コロナ・ショックは「過去と未来の衝突」です。人間には破壊欲動があります。破壊と創造の裏返しが文明を進化させてきました。コロナ・ショックを複眼的に見れば「何かが壊れる時は、何かが生まれる時」ということです。「文明が一歩後退すると、森が還る」──不毛の森にしないように、国家・政府・社会の生存持続可能な格差のないグローバル連帯が使命でしょう。
2020年4月10日、アマゾンの先住民ヤノマミ族の少年が新型コロナに感染して死亡した。地元の報道によると、少年は発熱や呼吸困難で4月3日、州都ボアビスタの病院に入院した。当局によると、死亡した15歳の少年はヤノマミにおける初の感染者で、1週間前に病院に入院し、集中治療室で治療を受けていた。
アマゾンの熱帯雨林で孤立して暮らす先住民たちは、外界から持ち込まれた疫病に特に脆弱(ぜいじゃく)とされる。ヤノマミの権利擁護団体『ヤノマミ・フトゥカラ協会』は、「少年が呼吸器系の症状で最初に病院を訪れてから2週間以上、適切な診断を受けていなかった」とし、“不十分な治療”が少年の死の原因になったと訴えた。
ヤノマミは20世紀半ばまで外界との接触がほとんどなかった。私は1970年代の後半からヤノマミの村に時々訪れ、長期滞在してきたが、まさか孤立した暮らしをしているヤノマミが新型コロナに感染するとは思っていなかった。一方で逆に感染すると、医療体制が脆弱なのでひどいことになるなと危惧していた。
同協会は当局に対し、少年と接触した人々を追跡し、検査を受けるための支援を要請するとともに、先住民の土地にいる違法なガリンペーロ(金鉱労働者)を取り締まるよう求めた。同地ではガリンペーロが新型コロナウイルスを持ち込んだと考えられている。
ヤノマミの少年が死亡したことに、部族の長や保護活動家らは神経をとがらせている。ベネズエラとの国境地帯のジャングルに覆われた高地には、約2万2000人のヤノマミが広範囲に散らばって暮らしている。その集落の多くは外部との接触を持たないが、広い保護区には何万人ものガリンペーロが違法に侵入し、深刻な脅威をもたらしている。ヤノマミの部族長らは、鉱山労働者の退去を求めて政府への請願を続けている。
しかし、極右のボルソナロ大統領は「アマゾン先住民は生産しない者たちで価値のない人たちだ」と発言、先住民の人権を無視する、先住民にとっては最低の大統領だ。アマゾンをさらに開発すべきだと言って開発を望む資本家からは支持を得ている。昨年のアマゾンの熱帯雨林の大火は開発の動きとリンクしている。彼の支持者たちは、新コロナ危機を、孤立部族を追いやって資源を手に入れるチャンスととらえている。
1980年代に、ブラジル・アマゾン北部ヤノマミの土地にガリンペーロが多数入り込んできた。さらにその一部が1989年初めから、組織的にベネズエラ領内のオリノコ川の水源地帯に進出してきた。
その後、ベネズエラの軍隊がこの地域を取り締まり、3000人のガリンペーロを捕らえ、国外追放した。私はベネズエラの軍隊が掃討したガリンペーロのキャンプに、ベネズエラの国境整備国がチャーターしたヘリコプターで向かった。
突然、原生林を削り取ったように、赤土の地肌がむき出しになった飛行場が現れた。飛行場の脇の焼けたキャンプ跡の前に降りた。電動ポンプも錆び、ブラジル製のドラム缶や缶詰の空き缶などが散らばっていた。
案内してくれたベネズエラ外務省国境整備局のアントニオ・カサード氏が教えてくれた。「20万人以上のガリンペーロがヤノマミの居住地域で金を掘っています。ベネズエラ領にも1万人以上が不法侵入して金を掘っているんですよ」
ベネズエラ領内のオリノコ水源だけで、ガリンペーロの飛行場を15か所確認しているという。飛行場の周囲には金採掘場が、がん細胞のように原生林を侵し、広がっている。廃坑となった採掘場もあるが、掘っている採掘場もある。電動ポンプで水をくみ上げ 、土砂を洗っている。ヘリコプターが上空を何回も旋回したが、泥んこになった金掘りの男たちは黙々と仕事を続けていた。
ガリンペーロたちは、生まれた土地で食い詰め、一獲千金を夢見てやってきた人々で賃金は安い。最終的に莫大な利益を得るのは都市で悠々と暮らしている資本家たちだ。ブラジル、ベネズエラ両政府とも事態を知っているにもかかわらず、有効な手立てを打てないでいる。
ブラジルのヤノマミ族の中には金の鉱業権を資本家に売ろうとしている者さえいる。彼らには自分たちの運命を自分で決める権利がある。しかし文明に免疫のないヤノマミに、はたして腹黒いよそ者と対等に交渉する力があるだろうか。客観的に見れば、山林王がただ同然で自分の山を乗っ取られるようなものだ。数本のナイフや斧、服などで、魚のたくさんいる川の流れる、鳥獣の行き交う広大な密林を資本家に献上することになるのだから。
南米最南端パタゴニアの採集狩猟民は文明と接触し、滅亡していった。多くのアマゾンの採集狩猟民も同じような運命にある。南米の採集狩猟民はコロンブスがやって来る前は、疫病も少なく、平和な平等社会を形成していた。生命の誕生からコロンブスがやって来て新旧両大陸の交流が始まるまでの歴史を振り返ってみよう。
アマゾンの中でも伝統的な生活を送りながら、1万人以上の人口を維持してこれたのはヤノマミだけだ。伝統文化を守っている先住民は「熱帯雨林を破壊することなく利用する術」を知り、実践している。彼らの滅亡は人類が地球上でもっとも広大な熱帯雨林を失うことを意味している。
私たちの星では38億年前に生命が生まれ、その後13回の大量絶滅の危機を乗り越えてきた。今存在するすべての生きものは、その絶滅期を乗り越えて来た奇跡的な存在だ。生きているだけで幸運と言ってもいい。中でも特に規模が大きなものをビッグ5と呼ぶ。
13回の絶滅の中でも、最も有名なのは、白亜紀末に起きた「恐竜絶滅」だ。何故滅んだのか。数多くの仮説が提唱されてきたが、6600万年前にメキシコのユカタン半島に落ちた巨大隕石の衝突によって、地球環境が激変して滅んだとする説が有力だ。
この時に、夜行性の恐竜の陰に隠れて、虫などを食べていた小さな動物が熱帯雨林に入り進化したのがサルだ。やがて大型化して、チンパンジー、ゴリラなどの類人猿が生まれ、その共通の先祖から700万年前に生まれたのが初期猿人だ。
サルたちの生き残りには病原細菌、ウィルスが関連していたようだ。というのは森の中は安全だ。天敵の猛禽類も猛獣もやってこない。しかし動物界で天敵がいないことは大きなマイナス面がある。増えすぎて、餌の奪い合いで飢えに苦しみ、滅亡の恐れがある。極北のネズミの仲間レミングはオオカミ、キツネが天敵だが、天敵がいなくなると、ネズミ産式に増えて周囲の草を食べ過ぎて滅びるのだ。
サル学の権威河合雅雄さんとは何回も対談したことがあるが、河合さんは「食物が豊富でしかも競争相手がなく、天敵がいないとなると、過剰に増えて自滅してしまう。この問題を救ってくれたのが感染症や寄生虫症などの病気という天敵ではないでしょうか。病気による調節作用が機能しなければ、霊長類の進化は途中で頓挫したかもしれませんよ」と語ってくれた。
私たちは共通の先祖をもつサルの時代から感染症とは切っても切れない関係にあったようだ。
それでは、人類が誕生してからは感染症との付き合いはどうだったのだろうか。
およそ1万5000年前、人類はその頃陸続きだったベーリング海峡を歩いて渡り、アラスカに渡ってしまった。極北の地に残った者もいるが、南下した者もいる。1万2000年前には南米最南端パタゴニアに達した。
両大陸共に家畜を飼育する。家畜の種類は違うが、どちらもオスの去勢をする。両大陸で違うのはメスの搾乳だ。旧大陸では牛、馬、ヤク、トナカイ、ヤギ、ヒツジまで乳を搾る。一方新大陸では、食用モルモットは搾乳しないが、リャマやアルパカは搾乳をもしない。実はこの搾乳の有無がコロンブス以降の新旧両大陸に住む人々の明暗を分けることになる。
現在の様に衛生的な環境を作って搾乳できたわけではない。ミルクには病原細菌や病原ウイルスが混じってしまう。病原細菌や病原ウイルスが含まれていれば、その抗体のない人間は感染する。搾乳によって、以前は動物にしかかからなかった感染症が人間にもかかる人畜共通感染症になる。やがて動物にはしっかりと抗体ができて、人間だけが発症する感染症になった。麻疹、結核、天然痘は牛の感染症だったが、その他の感染症も家畜の飼育によって始まり、ミルクの利用によって加速した。
麻疹、天然痘、インフルエンザなど皆一時は大流行するが、多くの感染症は高齢者など体力的に弱い者、免疫力のない者を淘汰する。生き残った者は抗体をもち、生き残る。
コロンブスがアメリカに到達した後、スペインやポルトガルの侵略者たちが新大陸に押し寄せた。メソアメリカではコルテスがアステカを、アンデスではピサロが200人に満たない軍勢でインカ帝国のアタワルパ皇帝を捕らえ、滅ぼしてしまう。この時インカ帝国内では腹違いの兄弟がお互いに「我こそが真の皇帝」と主張して、内紛状態だった。クスコにいたワスカル皇帝は顔にあばたができる熱病に悩まされていた。天然痘ではないかといわれている。
ピサロが来る30年前から、一獲千金を夢見たヨーロッパ人がやって来ていた。そして、病原細菌や病原ウイルスがいない純粋培養世界で生きてきた住民たちをウイルスが襲ったのだ。住民たちは経験したことのない病にひとたまりもなく罹患してバタバタと死んでいった。戦闘や虐殺ではなく、感染症で9割の住民が亡くなった。コロンブスがインドだと思って上陸したイスパニョーラ島(ハイチ、ドミニカ)の人口は800万人だったが、インカ帝国が滅びる頃には感染症で全滅している。
新コロナウィルス禍の中で、ウィルスとの戦い、戦争と、勇ましいことを言っていた。しかし最近は共生という声を聞くようになった。しかし、農耕、牧畜を始めて、自然を操作することによって文明人は便利で快適な生活を求めて、自然の循環の環から外れてしまった。
一方、ヤノマミ等採集狩猟民は自然を利用しながら、自然を破壊せず、野生と共生してきた。バナナ、イモの皮は、魚、動物の骨などと共に森に捨てられる。しかし、いつの間にかなくなっている。動物たちが運び去り、ムシや微生物が分解して土に還る。私たち文明社会では問題になっている邪魔者としてのごみというものはない。糞尿も森に返して草木の栄養になっている。ヒトも自然の循環の輪の中にいるのだ。
最近は玉川上水の生きもののリンクをタヌキ、糞虫を中心に、調べている。その糞を調べれば食性、行動半径なども分かる。糞があれば糞虫が来る。タヌキが草木の実を食べれば、糞の中に種が残り、いつか芽を出し、群落ができる。そこに様々な虫や動物もやって来て、その土地特有の生態系ができる。すべての生きものがもちつもたれつの関係にあり、無駄な生き物はいない。
自然との共生を唱えるならば、考え方、生き方を思い切りリセットしなければならない。新コロナが広まった背景には、開発による自然破壊も一因としてある。自然との共生を求め、自然の循環の環に入りたいならば、農耕以前の人類や現在の採集狩猟民に学ぶことはたくさんあるはずだ。
■地平線会議の皆さま、こんにちは。2月の報告会でインド北東部についてお話しさせていただいたシスター延江由美子です。3月のインド渡航延期を余儀無くされた頃は、きっと5月には行けるだろう、と呑気に構えているうちに世の中はあっという間に一変し、事態は、インドに行けなくなってガッカリ、とかいう個人的感傷のレベルでは済まされない、もっともっと甚大なスケールの世界的危機に発展していきました。
◆3月の報告会で森田さんは、今回の新型コロナウイルスは、ある意味では文明末の現象のひとつではないか、とおっしゃっています。私たちはそんな人類史上の大転換期に直面しているのでしょうか。こうした感染症の世界的流行が起きる可能性が高いことは、専門家の間ではよく知られていたことだ、とダニ・ロドリック氏(米ハーバード大教授)が言っていますが、いち一般市民としては、何か途轍もないうねりにいきなり巻き込まれてしまったというのが実感です。
◆私はミッショナリーとして、数年前から季節労働者よろしく夏と冬は日本、春と秋はインドとアメリカ、という生活をしてきました。異常気象や災害、大規模森林火災、テロや内戦など、地球共同体を脅かす出来事があちこちで頻発する昨今、「一寸先は闇」、世界が一年先どうなっているかなんてわからないと常々思ってはいたのですが、まさか突然このような形で、母国日本に留まることになろうとは……。
◆国としての対応(例えば PCR検査! 「日本って『先進国』でしょ? どうしたの? ドイツも韓国も台湾もすごいよね」というのはインドに住む友人のコメント)があまりにお粗末なのはなにもこれに限ったことではないのでしょうが、それにもかかわらず今までなんとか持ちこたえているのは、感染症の専門家チーム、保健所、医療関係者たちのプロフェッショナルな仕事のお陰にほかならないと聞きます。メディカル・ミッション・シスターズ、そして看護師の端くれとしては、医療現場の戦力として働けないのがなんとも嘆かわしい。
◆しかし、いつだったかインド人のイエズス会士が「僕にとってミッションってのは、今、目の前にある、僕の助けを必要としていることに応えることだよ」と話してくれたことを思い出しました。そう、今ここでできることをする。また、正しい情報を得ることも(山中伸弥先生の新型コロナウイルス情報発信は参考になります)、地球社会の一員としてつながりを保ち続けることも、大事なことだと思っています。
◆この非常事態にあって実家にいることができるのは確かに幸いですが、インドを想う気持ちが募ります。今日の朝刊一面に、インドで全土封鎖に喘ぐ出稼ぎ労働者たちのことが載っていました。北東部の姉妹からは昨日、アッサム州の私たちが住んでいる地域に5日間の外出禁止令が発動されたという知らせが来ました。5日で済むとは思えません。深刻な影響が懸念されます。すわ、一大事!と直ちに現地に赴ける時代は果たして終わってしまうのでしょうか?
■追記:地平線通信3月号を高校時代の恩師(86歳になられます)にも送りましたら、「小さい字で老眼鏡に拡大鏡をかけてやっと読み終えました」「地平線会議の方々の色々な通信も楽しく驚いたり感心したりするものばかりでした。特に台湾のコロナ対策には頭が下がりました。これこそ本当の『アンダーコントロール』と言えるのでしょうね!」「同封しましたのは、ほんの私の気持ちだけで地平線会議の印刷代の一部にでもしていただきたい、と思いまして」とお便りとお志を頂戴しました。この場をお借りしてご報告いたします。(延江由美子)
■コロナ禍のせいで世の中全体が今年の予定を狂わされたようだが、その余波は私のところにもやってきた。5月の予定だった故郷の町でのイベントや出身高校での講演をはじめ、いくつもの会合が中止や延期になったし、むかし探検部の後輩2人が亡くなった遭難の「50回忌」も流れてしまった。痛かったのは、3月から始めるはずだったスリランカ密林遺跡探検の勉強会が開けなくなり、4月に予定していた現地偵察と、今夏に合同探査を計画していた相手との下交渉に行けなくなったことだった。
◆いま、スリランカには渡航も入国もできないし、たとえ行けるようになったとしても、それからでは準備も何も間に合わない。それに第一、夏の休暇で探査隊に加わるはずだった社会人も学生も、今夏は仕事や授業に忙殺されることだろう。つまりは隊も組織できず、大がかりな探査は不可能になったというわけだ。仕方なく今年の計画は中止して来年を期そうと仲間に呼びかけ、賛同を得ると同時に、私自身は行けるようになったら一人で行って、偵察だけでもしてこようと決めた次第だった。
◆さてしかし、そうして計画が延期になり、予定も気持ちも宙ぶらりんだった状態から解放されると、落ち着いた時間の中で日々考えるのは、やはり現下のコロナ禍とスリランカの現地のことだ。ことに、このコロナ禍が「文明の転換点」になるだろうと言われたり、人影が消えた街の映像などを見せられたりすると、いやでも密林に埋もれている遺跡の姿が目に浮かんでくる。密林をさまよいながら出合う遺跡が、滅び去った文明の残骸であることを意識するからだろうか。
◆一時はインドを凌ぐ仏教の中心地ともなり、貯水灌漑の稲作で豊かな国土を開いてスリランカ北東部に栄えた「古代シンハラ文明」が、亡びたのは13世紀のことだった。滅亡の原因は、過剰開発と疫病、それに戦乱の影響だろうとされている。乾燥地帯であるために、雨季に降った雨水を貯水池に溜め、稲作に使っていたが、その貯水池を、この文明は必要以上に造ってしまったのだ。降水量がそれらの「容器」に間に合わなくなり、結果、水不足で稲作ができなくなって、土地が年々荒れていく。そこへ疫病のマラリアが大流行して人々に襲いかかった。
◆政治力の衰えていた王朝は、国力の弱った時期の外国勢力(南インドのタミル王朝)の侵略を恐れ、短期間に遷都を繰り返していく。人々も飢饉と疫病で暮らせなくなった土地を棄て、未開の地だった島の南西部へと逃げ延びていく。おそらくは、家財を積んだ牛車の列と、足どりの重い人々の列が、あちこちの町や村から延々と続いたことだろう。そうした光景が、何年かにわたって見られたことだろう。そうして人々が去り、無人となった文明の地は、またたくまに熱帯の猛々しいジャングルに飲み込まれ、街も村も田畑も寺院も王宮さえも、その中に埋もれさせてしまった――。
◆私たちが密林の探検で探しているのは、そうして亡びた文明の痕跡なのだ。島の南西部に移住したシンハラ人はその後も生き延び、18世紀の英国統治時代以降は再びこの地方にも戻り始めたが、ジャングルはまだまだ広く、かつての文明の地を回復するには至っていない。それどころか、自分たちの歴史を知る手掛かりの在処さえ分からないため、無数に残る遺跡のひとつひとつを探し出す手伝いを、50年前から私たちが始めたというわけだ。
◆密林をさまよい、発見した寺院や仏塔、城塞や水利遺跡を調査するとき、いつも一緒に動くシンハラ人のスタッフが何を思っているかはわからない。これまでは、そんなことは想像したこともなかったが、日本でのコロナ禍を経験していく来年からは、少し違ってくるだろう。過剰開発も疫病ももう他人事ではなく、文明が形を変えたり亡びたりするイメージも具体性を帯びた身近なものになってきたからだ。現地で出会うシンハラ人の先祖の姿が、今の日本人にも重なって見えてきたからだ。
◆町や村から人々が消える様子は、私には江戸時代の「逃散」のようにも思えたし、人々が列を成して逃げ延びていく姿は、つい先ごろの原発禍の福島をも連想させた。米中を軸とする世界秩序の変容や、政治と社会システム、それに何より人々の意識の劣化によって先進国の座を滑り落ちていくこの国の現状……。そうした大状況の変化の下で、身近な日常を襲う脅威も、そこからの暮らしの急変も、具体的な実例やイメージで迫るようになってきた。
◆このコロナ禍で思うことに、スリランカでの見聞が重なって、いま、私には思わぬ思索の日々が訪れている。貧弱な頭ゆえ、まだとりとめのない思索だが、考えることは続けなければならないし、決めることは決め、できることには取りかからねばならない。コロナ禍のおかげで今年探検ができない代わりに、スリランカがさらに近づいた気もするし、今後の探検や生き方にとって大事なものにも、近づけた気がしている。(岡村隆)
■新型コロナウィルスという名を初めて聞いたのは今年1月。あれよあれよと言う間に感染は広がり、社会は以前とはすっかり変わってしまった。このコロナの傘の下で思うのは、私たちはいかにひとつのつながりあった世界に生きているかということだ。3月、東京都で感染者の増加が顕著になるにつれ、仕事がほとんどキャンセルになった。4月になると、4才の長男と1才半の次男が登園している保育園から登園自粛を求められ、それ以来1か月半、ひたすら子供たちと毎日を過ごしている。
◆我が家はシリア人の夫と私、そして2人の子供たちの4人家族。夫はシリアの伝統的文化を保持していて家事と育児はノータッチだ。しかし私には家計を担う役割もあり、仕事も軒並みキャンセル、保育園にも子供を登園させられないとなると打撃は大きく、収入をどう得るかを必死に考えた。日中はひたすら家事をし、子供と遊ぶ。自分の時間はない。夜に子供たちが寝て、ようやく携帯を見たり、朝方まで原稿を書いたりの作業を始める。
◆生活は苦しくなっても、外を見やると自然の営みは変わらず、季節は春から初夏へと移ろってゆく。我が家のアパートの隣の畑では野菜がどんどん成長し、時折チョウチョが楽しそうに遊ぶ。2人の子供たちと、アパートの敷地内のじゃり道に暮らすアリの家族をひたすら観察した。アリさんのお家が何個あるか。何匹のアリさんが、アリさんの道を通るかを、1時間17分にわたって真剣に数えたこともある。
◆途中、次男がアリを踏んづけて重傷を負わせ、長男が病院に連れて行くといって大事に箱に入れたが、そのうちアリは動かなくなってしまった。子供は、自分が殺めた小さな命への贖罪の念と、戸惑いにしばらく泣いた。私は子供と一緒にその気持ちを受け止めることをし、アリさんのお墓を作った。結局、観察した蟻の数は数えられなかったが、東京の片隅の小さなアパートの周囲にも、多くの命が生きていることを子供と学んだ。
◆コロナの傘の下で経済生活は破綻状態だが、日常生活はより豊かに彩られている。この日々の中で、それまで気づかなかった子供たちの小さな心の動きにたくさん気づき、成長を目にした。そして見ていたのに見えていなかった世界の輝きを、子供の世界に埋没することで思い出すことができた。子供が満足するまでとことん一緒に何かをやるという行為も、とても特別で新しい信頼関係を生み出してくれた。
◆まだヨチヨチ歩きの次男は、毎日多くのアリを踏み潰し、その都度泣き、一緒にアリの埋葬をしているが、私たちが生きていることが、多くの命の共生によって成り立ち、時に図らずも命を奪ってしまうことも、命を奪わなければ生きられない局面もあることを、子供なりに少しずつ理解したように思える。サン・テグジュペリの名著『人間の土地』にあるように、「自然は、万物の書より多くを我々に語ってくれる」のだ。もはや、太陽が空に照っていて、身近に自然があればそれで幸せだと思える。
◆日中はわんぱく盛りの子供たちを自転車の後ろと前の座席に乗せ、水とおにぎりをもって自転車で行ける範囲の山や川、史跡やお寺や神社に探検に繰り出している。子供は楽しいこと、素敵なものを見つける天才で、まるで白い紙に世界を描くように、新しい何かを見つけては嬉しそうだ。
◆私も子供との探検の中に、これまで心を奪われなかった、というより、気づかなかったものが目に入るようになった。丁寧に石を積んで作られた、苔むした古い田畑の石垣や、山の麓にひっそりと残る石碑やお地蔵様。人間が連綿とこの土地に生きた証を目の当たりにし、時代を越えていく普遍的なものを感じた。月日が移ろっても、人間の幸せの本質は変わらないのかもしれない。
◆皆、さまざまな天変地異、戦や飢餓やひとときの平和に、喜びや悲しみや幸せを見出しながら、懸命に一日一日を生きてきた。そうやって、数えきれない多くの人間の命が生まれては消え、何かが残されたり残されなかったりしながらこの世界がある。そして私たちもまた、そうした先人と同じ土地の上に立っている。
◆そんなこんなで、今、丁寧に日常を生きることを試みている。足元にも宇宙のような生命の営みがあり、気づきがある。混乱や不安より、持ち得ているものへの幸せや感謝によって、手の届く人間のつながりを大切にすることをしたい。コロナの到来で失ったものもあるが、得たものも大きい。シリア難民の取材から、いつも感じてきたのは、人間はどんな状況下でも、新しい何かを見出し、生きていく存在だということだ。その言葉を今は、自分自身に語りかけたい。
◆さて、フォトグラファーとして私がテーマにしているシリア難民はというと、彼らは相変わらずだ。というのも、彼らが内戦下のシリア国内で経験してきた脅威は、コロナの感染不安どころではなかったからだ。シリアでは毎日のようにミサイルが飛び、空爆され、銃撃戦が起きて、明白な理由なく父親や息子たちが連行されて戻ってこなかった。
◆それに比べると、未知のウィルスによる脅威は、彼らの生活を覆うほどのものではないらしい。実際、トルコ南部の街には、難民となった夫の家族も暮らしているが、コロナが蔓延しようがしまいが、基本的な生活は変わっていないようだ。また仮に感染しても、検査もできなければ治療できる施設も資金も限られているため、彼らは淡々と日常を生きている。
◆シリア人の社会は、特定多数の家族や親類と毎日接触しながら日常が成り立っている。というより、特定多数との接触によってしか成り立たない暮らしだ。そのため、感染が拡大してしまう可能性もあるが、その根本的なあり方は状況がどうなろうと変わらない。他方、日本では、「不特定多数との接触を避けるように」と注意喚起されている。それは裏返せば、私たちの社会が、不特定多数との接触によって成り立つ社会だからだ。
◆今だからこそ思うのは、「不特定多数」ではなく、自他共によく知る「特定多数」の人間のなかに常日頃から生きたい、ということだ。そのうちコロナとの共生が進み、愛するたくさんの人々と集い、再び文化的な活動を再開できる日が来たら、私は試みたい。特定多数の人々と、強い絆を持って生きることを。
◆私は今、携帯を片手に、チラチラ子供を観察しながらしゃがんで原稿を書いている。例のじゃり道のアリさんのおうちの片隅で、だ。長男が、「へんな虫がいるよ」と木の影から何度も私を呼んでいる。私は行かなければいけない。子供たちの眼差しの先へ。では皆さま、また会う日まで。(小松由佳)
■喜界島に転居して約1か月が経ちました。喜界島は周囲約48km、道沿いの周囲約33kmの小さな島ですが、鮮やかな緑の森とカラフルな花、固有種の蝶が飛び回り、晴れた日の海は南国のプチリゾートのようです。新型コロナの世界情勢、日本の動向を気にしつつ入島。その後2週間は自宅待機、ようやく外に出られると思った矢先、奄美で観光客から島民への感染が発覚し同時期に全国緊急事態宣言発令となりました。
◆現在、島の状況は島内感染者がいないためいたって冷静ですが、私が入島した頃、6、7割方の人がマスクを着けていたのが、緊急事態宣言以降は9割方着用。スーパーのレジではビニールのバリアが張られています。学校は休校、体育館は閉鎖、レストランは臨時休業またはテイクアウトの張り紙が出ています。医療が脆弱であることとお年寄りも多いため、お隣の奄美で感染者が出たことで警戒が強まりました。
◆そんな不安な中のGW。やはり、観光客らしき人はビーチで泳いでいました。島内の飲食店やダイビング屋は「島内以外のお客様、入島後2週間未満のお客様の利用お断り」の張り紙が出ている中でもです。新型コロナ騒動で困窮している人がいる中、自由な人は自由なまま……というのもスッキリしない気持ちになります。という緊張感はあるものの、物流は止まっておらず有難いことに生活に不自由はありません。島では早々にテイクアウト店のwebサイトが立ち上がり、口コミのように伝達されていて、皆で少しずつでもテイクアウトを!といった発信を見てスピード感や広まり方にホッコリします。
◆また、自然に休業があるわけでもなく、人と接触せずに出来ることは沢山あります。島は走りたい放題。「南の島の貴婦人」と呼ばれるオオゴマダラが優雅に舞い、その他にも沢山の鮮やかな色の蝶が飛び交う中でランニング。南国の海は行きたい放題。2年前から在住している夫は登る山がないので潜ることにした、と既に島の楽しみ方を取得しており、銛を片手に夜は伊勢海老獲り、日中は素潜り漁に出かけています。
◆3月まで都心で毎日スーツ姿で朝から夜遅くまで働いていた私。今では朝はランニング、その後はウェットスーツ姿で家から海に行き食料ゲットしに行く日々。まさか夜な夜な黒ずくめの猛者達と海老や魚を追うことになるとは思いませんでしたが、来て本当に良かった。自粛最中のためこれからが島生活本番。この島とのご縁を大切にもっと島を知っていきたいです。(うめこと、日置あずさ)
■地平線通信492号(2020年4月号)、さる4月15日印刷、封入作業をし、17日の金曜日、新宿局に託しました(いつもより1日遅れの受付)。今号は森田靖郎さん“報告会”のレポートを全文掲載としたため、24ページもの大部となりました。少しでも密集してはならない、と印刷、発送作業には気を使いました。事前には誰にも声かけなかったのですが、印刷を一人でやってくれた車谷建太君ほか数人が参じてくれ、大部の冊子がみるみる出来上がってゆく様は感動的でした。もちろん、作業終了後は一切飲食はせずに解散です。なお、今月は榎町地域センターが印刷室しか使えなかったので作業は森井祐介さんのマンション(歩いて行ける)の会議室を借りて行いました。なるべく「来ないでください」と言った手前、今月の「発送請負人」名は不要な気もしますが、この際、記録しておきます。皆さん、本当にありがとう。
森井祐介 車谷建太 落合大祐 白根全 武田力 江本嘉伸
■6畳の何もない部屋に大の字になって寝転ぶと案外狭いなと感じる。半年前、大阪から東京への引っ越しの日、朝一番で部屋に入った。東京に住むのは学生時代以来で約20年ぶりだ。学生時の住まいはお風呂もないぼろアパートだったが、今や1階にコンビニがあるオートロック付きマンションに昇格した。まずは、2階の自室から1階のコンビニに行き、トイレットペーパーを買って一安心する。結局、渋滞により引っ越し荷物が到着したのは暗くなってからだったが、10時間以上スマホなど身の回り品だけで過ごした結果、現代の東京では多くのモノを持ち続ける必要はないのだと改めて気付かされた。
◆東京にやってきたのは、マスコミから外資企業のメディア部署に転職したためだ。しかし、入社1週間で同じ部署の女性社員が突然解雇を言い渡され、3日後には姿を消した。彼女の仕事はデータ入力がメインで、いずれ機械化される見通しであるのが解雇理由だという。ちなみに機械化システムはちっとも出来上がっていなかったため現場は大混乱し、さらに2人が3か月内に辞めていった。ドメスティックすぎる前職場に慣れきっていた私には衝撃的だったが、こうした環境では社員側の割り切り方もとても早い。綿密なライフプランがない私としては、一寸先が闇だとしても会社へのロイヤルティを強要されない雰囲気はむしろ気楽かもしれない。
◆仕事の内容は、企業の資金調達や未上場企業の新規株式公開(IPO)などのニュースコンテンツ編集だ。正直言って金融知識がほぼほぼないといっていい状態からスタートし、毎日死ぬほど(死なないけど)勉強した。金融用語は3〜4文字のアルファベットが多く、ほとんどが意味不明だ。さらに英語がネックになった。東京の編集長は日本人女性だが、その上の上司は香港のアジア支局長なるイギリス人のスティーブだ。スティーブはたまに日本にやってくる。香港からも「〇×の件についてこういう情報があるんだけど、日本では何か聞いているか」みたいな感じでチャットしてくる。
◆会って話すときは居酒屋英語で切り抜けるが、テキストではごまかしが効かず、会話が続かない。9兆円もの不動産投資を手掛ける米投資ファンド幹部がメディア対応してくれる機会にも遭遇したが、全く話ができず大変惨めな思いをした。これまで英会話教室というものに通ったことがなかったが、近所の個人経営の教室に駆け込んだ。先生はフィリピン人のとても可愛い20代くらいの女性たちだ。通って半年ほどになるが、彼女らのボーイフレンドについて英語でいろいろ詮索しているだけなので、今のところ仕事で使える英語力が伸びたとは言えない。
◆そして新型コロナがやってきた。当初はアジア極東だけのトピックだったが、欧米に飛び火するとともに2月下旬から日経平均株価が急落、NYダウ平均も乱高下して阿鼻叫喚の様相となった。企業の資金調達は次から次へと中止になった。仕事はわりと早くから在宅勤務に切り替わった。緊急事態宣言が出されてからは、外出自体が犯罪的に扱われるなど世紀末マンガのような展開にただ茫然とした。
◆わずか数日でマスクもトイレットペーパーも店頭から消えた。原油価格は暴落しているのに、なぜかオイルショックの真似事が始まった。マスクは何とか繰り返し使えるが、トイレットペーパーはそういうわけにもいかない。テレビでは舛添要一氏が「僕はトイレットペーパーを使わない。ウォッシュレットと専用タオルを使う」ということを自慢げに言っていた。専用タオルとはどういうものかよくわからないままその番組が終わってしまい、もやもやした気分になった視聴者は私だけではないだろう。といって真似したいアイデアでもない。
◆買い占めに走る一部の人の恐怖が多くの人に恐怖を引き起こすという今風ではない滑稽な現象が広がって驚いた。という私も恐怖の中に閉じ込められて生きていたことがある。10年前、交通事故で娘がひん死の重体となってから5年間ほどは、子どもが事故に遭わないか恐ろしく、近くのスーパーに行くにも猛烈なストレスを感じる日々を過ごした。
◆そんな中、インドの宗教的哲人のクリシュナムルティの『恐怖なしに生きる』という本に出会った。インド? 宗教? という点で怪しげな印象満載だが、当時の自分には認知法を変えるという意味で役に立った。彼が言うには、恐怖は精神を鈍らせ、浅薄なものにする。恐怖から自由にならないかぎり、人は正しく考えたり感じたりということができない。「たとえ最高峰に上り、あらゆる種類の神を考え出そうとも、無知の闇をさまようだけとなる」と断言する。
◆明日死ぬかも、仕事を失うかも、といった自分の経験や知識、記憶に基づいた「思考」から恐怖は生まれる。恐怖を克服するには、自分が囚われている恐怖が何に基づいているか自覚して、完全に現在に生きることが大事だ、という。今トレンドの「マインドフルネス」とか「瞑想」とかそういうことだと思う。私はこれを曲解し、物事を重く考えない習慣を身につけた。
◆事態を矮小化しているわけではないけれども、コロナ・ショックはトイレットペーパーという現代を象徴する存在について再考する機会になった。最終的には生産供給体制がトレぺ騒動に勝利し、5月時点では何もなかったかのように店に並んでいる。需要が急増したマスクはまだ手に入りにくいが、しばらくすれば治療薬も普及する見通しだ。「コロナ後は世界が変わる!」という言説にも耳が痛くなってきた。
◆確かに元の世界には戻らないだろう。IT化が加速して仕事がなくなるかもしれない。でも、人類誕生からずいぶん世界も生活も変わってしまっているし、俯瞰的に見ればすべてマイナーチェンジに過ぎない。トイレットペーパーが先進国を中心に必需品になったのは長い人類の歴史ではここ最近のことだ。万物流転のこの世で変わっていないのは、人は食べて、寝て、探検するということくらいだ。倒産も増え、経済的なダメージは長く続きそうだが、世界中の人間がそれぞれの痛みと恐怖に打ち勝ち、落ち着いて正しく考え、感じることができるか試されている。(田端桂子)
■5月5日、山笑う春、巻雲たなびく空から柔らかい光が若葉を透して降り注ぐ中、風に吹かれながら、自宅の裏山からつづく山中を歩いていました。鳥の声など楽しみながら休んでいたら、背嚢の中の携帯が鳴り、ディスプレィを見て笑ってしまいました。だって、江本さんからの原稿依頼をこの場所で受けるのは2度目だったのですから。
◆宮城県の沿岸北部、南三陸町に移住して4年半が経ちました。津波の印象の濃い町ですが、リアス地形の特徴で、海と山が入り組んでいて、我が家も海岸から直線で数キロの、山の中腹にあります。山を歩くのは、暮らしの日常です。煮炊きのためにロケットストーブの燃料となる小枝を拾うのはもちろん、最近は山菜が賑やかで、冷蔵庫もない我が家の食料庫のような状態になっています。
◆山菜の場所や時期は、4年半の間にけっこう覚えました。山主さんに確認して、1人分だけの山菜をいただいているのですが、片道1時間半の範囲に、タラノメ、コシアブラ、ワラビ、シドケ、ウド、タケノコ……。目の前の海の幸とも合わせると、それはもう、豊かな食卓です。ちいさな畑にもアブラナ科の蕾や、まだちいさな野菜たちの姿があります。春は忙しい季節です。草刈りに畑しごと、山菜の確認や採取、海の手伝い、畑の手伝い、田んぼの手伝い、羊の毛刈りのあとの羊毛の処理など、いくらでもやることがあります。
◆最近は草木染めが楽しくて、梅の剪定枝や茜の根、ヨモギなど、季節を追って採取し、南三陸産の羊毛や絹を染めています。自分ごとだったり、お仕事だったり、ボランティアだったり色々ですが、南三陸での暮らすことそのものが“生きること”であり、趣味でもある暮らしです。考えてみると、忙しいのは春だけでなく、季節ごとにこの土地で採れるものを食し、利用し、共存するために、いつだってその時々でやるべきことがあるのだと気づきます。風土に生きることを選択した必然でしょう。
◆こんな暮らしをしていると、“コロナ”の影響はあまり感じません。しかし、南三陸にも“コロナ”の影響はあります。感染者の発表はないけれど、いやだからこそ、“コロナ”の感染拡大防止のために人が集まる場所は閉鎖し、イベントもみんな中止になりました。宿泊関係のお手伝いや、「南三陸ネイチャーセンター友の会」の活動に至っては皆無です。冒頭で歩いていた山の稜線は、「南三陸イヌワシ火防線プロジェクト」の仲間と一緒にボランティアで伐り開いたルートだったのですが、ルート整備や歩くイベントなどできませんでした。
◆イヌワシは南三陸町の鳥です。しかしここ10年ほどその姿を町内で見ることがなくなったそうです。イヌワシはもともと草原の鳥で、広い草原に小動物を探して狩りをします。にも関わらず南三陸に数ペアが営巣することができたのは、この町の山に草地が広がっていたからでしょう。山の草地は、牛馬などの家畜の餌や田畑の緑肥のために維持されていました。そして山火事の延焼を防ぐために、山には“火防線”が張り巡らされていました。
◆いま、家畜の餌や緑肥としての草地を必要としなくなり、放置されて広い空間のなくなった山に、イヌワシの狩場はありません。ならば、せめてかつての火防線を伐り開き、イヌワシの翼を広げられる空間をつくり、人と山とのつながりを別の形で取り戻そう、というのがプロジェクトの主旨でした。このほかにも、こどもたちと南三陸の自然を体験する、学ぶといったイベントも全て中止。南三陸町は、日本は、地球は、豊かです。その環境に合うようにヒトは進化してきたので豊かと感じるのでしょう。
◆生息環境を知り、守るというのは生存に必要なこと、にもかかわらず、今の人間社会は別のことを優先させていると感じます。そのおかしさに気づいた仲間と、未来へ豊かな環境を受け継ぐためにできることをと活動してきたのです。“コロナ”でイベント活動が全くなくなり、暮らしは穏やかになりました。風土と向きあう暮らしの豊かさを言いながら、イベント事でそれがおろそかになるジレンマから解放されたというわけです。“コロナ”の影響でよかったこともあるのですね。
◆わたしも、そのお金は、仕事は、サービスは、イベントは、本当に必要なのだろうか? と改めて考えています。人の暮らしが変わったのだから、それに伴って環境が変わり、イヌワシがいなくなったのも自然なことと受け入れればいいのではないか、とも考えられます。いえ、そうではなく、変わってしまった環境、そして環境を変えてしまった暮らし、社会をどうにかしたいと思ったのでした。
◆元に戻ることはできません。だから、今のやり方で、理にかなった野生との共生の方法を探していたのでした。火防線のルートは、いつかまたやってくる津波の後の大切な径でもあります。それも含めて、子供達に伝えたい。南三陸町の人や自然と共にある暮らしは、“コロナ”の渦中にあっても豊かさを感じさせてくれ、私の選択に間違いではなかったと、いまあらためて思います。だからやっぱり、ここで暮らし、伝えていこうと思う今日この頃です。(石井ひろこ)
■アラスカやユーコンではどんどん日が長くなり、白夜が近くなってきました。こちらは現在それほど感染者が出ていません。私が住んでいるヒーリーという町は感染者がひとりもないままです。アラスカではコミュニティ間の移動禁止令も解けて規制が緩くなってきました。学校はこのまま9月まで閉校ですが、元々1人1台ノートパソコンが貸し出されてのネットを利用した授業だったので、家でパソコンから授業を受ける形になっています。
◆教師の友人が「負担が大きく大変だ」と愚痴っていましたが、私の場合、9月にカナダのユーコンからアラスカのヒーリーに犬達と移動したばかりのため必要なものも揃っておらず問題が多いです。この春にユーコンへ戻る予定だったのですが、市民権を持っているカナダには戻れても、その後再び永住権しか持っていないアメリカに帰れるかが微妙で、犬付きでは簡単に動けずにいました。
◆加えて移動後14日間の自己隔離プログラムが厄介です。ただ、国境閉鎖アグリーメントもあと2週間ほどで終わるそうなので、もうしばらくはヒーリーで様子を見て過ごす予定です。ヒーリーはデナリからも近く、通常は観光関連の仕事がたくさんあるのですが今年は閉まっているわけで、無職の人達が溢れスーパーのレジのような安い仕事の取り合いになっています。こんな状況でも、おもしろいことに大抵の人は貯蓄があるのでなんとかなっているのです。
◆医療費が異常に高いため普段から貯金や保険を重視している国民性からかもしれません。結局口ではお金がないとかギリギリの生活だとか色々言っていてもみんな車もボートも持っているし貯金ができる裕福な暮らしをしていたのです。テスト前の「勉強やってない」と同じ匂いを感じました。私の口座にアメリカ政府から1200ドル振り込まれていましたが餌代がそんなもので足りるわけもなく、借金が雪だるまのように膨れてきています。
◆現在ヒーリーには私にできる仕事がなく、仕方ないのでお金を貸してくれた友人の紹介の仕事を始めました。ファームの安い仕事です。ただ、フェアバンクスまで片道160キロは遠すぎて、毎日通うのは難しいため週3です。空いている日には、知り合いなどからたまに物置小屋造り、ログハウスの掃除、水道パイプの取り替えなどのお手伝いを頼まれて、ご飯と小銭をもらっています。ここで胃液が逆流するほど食いだめするようにしています。自分だけなら食費はなんとでもなるのですが。
◆夏にガッツリ稼いで借金返済といういつものパターンができない現状で、今後の見通しが立たず、引越しの借金や生まれてしまった子犬達やらのことを考えては落ち込み、正直まいっていました。最終手段として最悪のケースまで考えたのは人生初でした。こちらの自殺率が高いのはこのアメリカ特有の雰囲気のせいなのかもしれません。こんな時は信仰深い品行方正なヒーリーの人よりもユーコンの飲み仲間が恋しくなります。今まで私はビールを飲んで壁を乗り越えてきたのだと思い知らされました。ああ飲みたい。
◆開拓がまだ終わっていないので、やる事は多いです。最近ロケットストーブというものを知って、原理を応用させてお風呂を作りました。全部ゴミから作ったので見た目はゴミのままなのが残念ですが。貧乏人ならではの楽しみかたです。こんな厳しい状況で生きているところへ、犬ぞりを辞めるデイブ・ダルトンというクエストマッシャーから「グレイシャーの犬ぞりツアーがコロナのせいで無いからもう維持できない。引き取り先を探している」と連絡が来ました。
◆彼も切羽詰まっているようです。できる範囲で救える命を、ってできもしないのに何ができる範囲でだ!とつっこみつつも2、3匹引き取ることにすると思います。私は小さい頃からずっと父が亡くなるまで「お前は馬鹿だ!」と怒鳴られながら育ちました。そのせいか人から馬鹿だと言われないと逆に不安になってしまうようなのです。こうして立派な本物の馬鹿になってしまいました。
◆最後に、お金を貸してくれたアラスカの優しい方々、さらに借りそうですが必ず返します。すみません!(本多有香 アラスカ・ヒーリー)
■江本さん、地平線通信読者の皆さん、先月から北海道遠軽町での新生活をスタートさせた五十嵐宥樹です。遠軽町はオホーツク地方の紋別郡というところに位置する町で、札幌から車を走らせて移動すると「なかなか遠くに来たなあ」と思わせられる山あいの地です。四方に見える山々は一定の範囲ごとに植林された木々の成長具合に差があり、伐採が済んだばかりの裸地や成長過程にある幼木、立派に育ち青々と山を染める松林からなるモザイクはこの地の山が「木の畑」として利用されてきたことを教えてくれます。
◆山から流れ込んでくる湧別川は町を割くように走り、かつてはカムイノミという神への祈りを捧げる場にも使われていたという巨岩「瞰望岩(がんぼういわ)」が町の裏手に鎮座しているのが自然のシンボルとして目を引きます。川は町の中心部に掛かる橋から眺めると、大きな岩が川幅いっぱいの落ち込みを作り出し、しぶきをあげてゴウゴウと流れる様をベストポイントで確認できます。今の時期は天候の変化によって雪解け水の量が変化しやすく、日ごとに瀬が大きくなったり小さくなったりする様子を眺めては、舟をだして下ってみたいという欲求を掻き立てられています。
◆ここ遠軽は明治の頃にキリスト教徒らによる開拓が始まった地として特異な歴史を有しており、キリスト教の私立大学を設立することを目指して入植した彼らは原野に鍬をふるって資金作りに奔走しました。結局、氾濫の多かった湧別川の水害に悩まされ、早々にその夢は絶たれることになったようですが、そうした経緯が町の北側にある学田(がくでん)という地名に今もなお残されています。大学設立に変わる目標はいつしか教会建設へと受け継がれ、2つの異なる宗派の教会が町のメインストリートに並び立つ珍しい街並を作りだしたといいます。
◆私がミャンマー(ビルマ)のカレン族の神話を巡る探検活動を始めた2016年に東京で出合い、今でも親交のある恩人に遠軽への移住を告げると、彼が通う教会の分教会が遠軽にもあることを教えられ、町の牧師さんに会って話をする機会を得ました。信仰心などかけらもない私ではありますが、「新天地なのだから、まずは土地の人の話を聞いてみなさい」と彼に紹介してもらったことがきっかけで、先ほどのキリスト教と関わりを持つ遠軽の歴史を教えていただくことになったのです。知り合い一人いない新天地で、まさか学生時代にできた縁がここで新たにつながるとは思ってもみず、人のつながりや出会いの不思議さを感じました。
◆なにもなければ長閑な田舎町といった印象のこの地ですが、遠軽町の厚生病院で計17名(5月9日時点)と障碍者支援施設で計8名(5月4日時点)の集団感染が確認された現在は、新型コロナウイルスの感染拡大を受けて穏やかならぬ日々が続いています。町に並ぶ飲食店は軒並み営業を自粛し、本来ならばもう少し活気があったはずであろう町もひっそりとコロナの災禍が過ぎるのを待っているように見えます。
◆全国的にみても日々の感染者数報告が多い北海道。一度は知事の自主的な早期緊急事態宣言で感染者数が落ち込んだものの、解除後すぐに第二波を呼ぶ形でぶり返すこととなりました。迅速な独自の対応が評価されたのも束の間、「社会活動を早期に再開させたために感染が再び拡大した都市」として、ニューヨーク市長が会見で例示する地域の一つにも挙げられてしまいました。特に札幌の現状については市長が「全国でも唯一といえるほど感染拡大している」と警告するほどで、連日の感染者増の報道はなかなか止みません。
◆札幌の繁華街、「すすきの」のビアバーでアルバイトをする後輩によれば、すすきのだけでもうすでに200店舗以上がコロナの影響で店を閉じたと聞きました。彼と話したのは4月中のことなので、追加補償なしで連休明けも営業自粛延長が求められた現在ではより多くの店舗がその影響を受けているのではないでしょうか。学生街でお世話になった飲食店のマスターたちの青息吐息が聞こえてくるようです。
◆北海道全体の感染例は5月10日時点で945。一口に北海道といっても14ある管内の感染者には差があるため、まずは感染者が多い地域での収束を願うばかりです。自分が暮らす町も例外ではありません。無症状のキャリアとなり感染拡大に加担しないよう、危機意識を保ちながら生活を続けていきたいと思います。(五十嵐宥樹)
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2000円)を払ってくださった方は以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。万一、掲載もれありましたら必ず江本宛て連絡ください。送付の際、通信への感想などひとことお寄せくださると嬉しいです。3月以来人を集めての「報告会」は開けない状態で当面通信だけが地平線会議の活動を伝える表現手段です。
宗近朗/天野賢一/堀井昌子/岡朝子/小林絢子/ 横山喜久(10000円 来るべくして来た感じの新型コロナウィルスの問題。タイムリーな森田靖郎さんの3月30日の報告会はご著書『中国の表現規制から見るネット監視社会』も読んでいたので楽しみでしたが残念でした。でもどうでしょう!! 届いた通信で「先月の報告会から」を読ませて頂きました。なんと粋なおはからい!! 地平線会議のすばらしい“力”見せて頂きました。ありがとうございました。2年分通信費。あとは少しですが寄附とさせてください)/藤本亘/奥田啓司/谷口靖子(4810円 通信費2年分 残りはカンパ)/村田憲明/小苅米美津子(この振込みは始めてで、しかもこれを最終とすることをお許し下さい。注:毎月購読ではなく何度か送付した通信への謝礼)/滝村英之(3000円 大変な状況下、通信を送って頂きありがとうございます。森田さんの報告、興味深く読みました。通信費+カンパです)/寺本義明
■勤務先の千葉県立がんセンターに県病院局から「公立病院なのだから、がん患者のコロナ合併の相談があったときは速やかに受け入れるように」との通達が入り、病床環境から私の所属する病棟がその対象になりました。対策チームがつくられるはずなので老兵の任務は銃後のサポートになると思われますが、いずれにせよしばらくコロナ前線に立つことになりそうです。
◆ここで地平線のみなさんには、まずは感染しないことと、もし感染してしまったら軽症にとどめることをお願いします。そのためにはウイルスに近づかないことであり、近づかざるをえないようなら体内に侵入させないことであり、やむをえず侵入を許してしまったときのために増殖に耐えうるだけの体力を維持しておくことです。
◆具体的には[1]三密回避がベスト。これで95%は防げるでしょう。かといって生きる以上は難しいので、[2]流水での手洗いとなります。人は無意識のうちに何度も顔に触るものです。その手にウイルスが付着していれば鼻や口から入ってしまうので、その前に洗い流すわけです。これだけで80%はブロックできます。ちなみに社会的現象になってしまった[3]マスクの効果は疑問です。網目とウイルスの大きさを考えるとカスミ網でメダカをすくうようなものなので、その効果は5%未満ではないでしょうか。
◆手が口や鼻に触れる機会を減らせる、吸気が湿っているので粘膜が保護でき侵入しても鼻水として排出しやすい、絡まった繊維部分でならウイルスの一部はフィルターできるかも、といったところでしょうか。ただし唾液は網目より大きいので感染者が拡散を防ぐには絶大なる威力を発揮します。要するに罹っている人には最良の感染防止策だが、罹っていない人にはさほど役に立たない、それがマスクです。ところでみなさんは、かけているそのマスクを正しく外していますか。耳の後ろにかかったゴムをつまみ、外して、そのままごみ箱にポイ、が正解です。息を吸っているので少ないとはいえウイルスは面に引っかかっています。そこを触ってしまったら、どうなるか解りますね。
◆新型コロナウイルスの空気中での生存時間はまだ聞いていませんが、インフルエンザウイルスに準じれば最大8時間ぐらいでしょう。これは保菌者が触って付いたウイルスが、そこに8時間居すわることを意味します。そこで人がよく触る場所、具体的にはドアノブ、スイッチ、エレベーターボタン、蛇口、電車のつり革や手すりなどで、ここには常に存在すると考えてください。受けとる現金やカードもその対象でしょう。
◆そこで流水での手洗いになるわけですが、ここにも20%の落とし穴があります。最低でも30秒はかけないと不充分といわれ、かつ伸びた爪の中や付け根、手甲はなかなか落ちません。顔に触れるのは主に手掌や指の腹なので、影響こそ少なそうですが、それでも目をこすったり耳や鼻の孔に触れたりしてしまったらアウトです。もちろんせっかくきれいに洗っても、何かに触れてしまったらその時点でウイルスが付着してしまうことも忘れないでください。
◆そして足で動く地平線の方には釈迦に説法ですが、運動を日常に組み入れての体力増強をお勧めします。やれ透析患者に多いとか、やれ糖尿病持ちは重篤になりやすいとかマスコミはさんざん煽っていますが、それはいかなる感染症でも同じこと。急速な肺炎の悪化が問題なので、しいていえば肺のキャパシティの少ない喫煙者は危ないといえるぐらいで、つまるところ最後にものをいうのはいつも基礎体力だと心得てください。
◆いっぽうで本来なら冬季に猛威をふるうはずのインフルエンザの話が、まったく流れてきません。日本のインフルエンザの死者数は年間約3000人で、アメリカ合衆国が15000人程度。そろそろこの冬の統計が発表されるころですが、十中八九減少しているものと思われます。これは日常化した、スーパーや公共施設入口でのアルコール消毒の効果といえるでしょう。
◆ところでどのような終息をみせるのかが、地平線各位には気になるところと思います。以下は推測になりますが、ある病院での外来患者3000名の検査報告によれば3.3%が陽性反応を示したとか。日本国民換算で400万人に相当します。それでも97%はまだ罹っていないので、この大多数の人たちを対象にした第2波が遠からず襲来するはずです。そのとき第1次のピークを越えなければ徐々に終息、越えたら6000万人の犠牲者を出した第一次大戦時のスペイン風邪再来も覚悟しなければなるまいと私は踏んでいます。
◆歴史の作り話にも思えるのですが最後にこのエピソードを添えさせてください。
14世紀のペスト流行中のころ、ある地方で放置された死体から貴金属をはぎ取っていた窃盗団がいた。捕まえた当局は、罪には問わないからどうしてお前らは感染しないのか教えてくれといった。窃盗団は答えた。
「仕事が終わったら小川で手を洗うんだ」(埜口保男 看護士)
■地平線の皆様、コロナウィルス渦中の東京で、いかがお過ごしでしょうか。こちら浜比嘉島はモズク収穫のピークを迎え、活気があります。島の半分くらいの人はモズクの仕事をしてるんじゃないかな? 昇もバイトに行ってます。
◆4月はじめくらいまでは全然危機感がなく普段通りってかんじでしたが、さすがに4月半ばにうるま市から感染者が出たという情報が流れてからは、週末の観光客の車の多さにびびり、たまに牧場に入り込んでくる見慣れない車に備えてポケットに布マスクを忍ばせ、やぎ散歩の予約も断ってます。
◆ここのところほとんどやぎと犬しか会ってません。今日は朝から快晴なので、約30頭のやぎたちと、久しぶりに山の奥に登って来ました。うぐいすの鳴き声と、やぎたちが草をかき分け歩く音、草を食む音、時々親とはぐれた子やぎがメェとなく声だけが聞こえ、だあれもいない、楽園です。この騒ぎの中でおうちにいるしかない人が多い中、こういう毎日を過ごせるのは幸せだなあと感じます。
◆でもコロナのせいで、やぎが売れません! 買いに来る人もいないし、先日やぎの競りに三頭連れて行きましたがかなり安くて売りませんでした。やぎ料理屋や沖縄料理屋など、内外からの購買者が激減してるのに出す頭数はあまり変わらないから、安く叩かれていたみたい。でもやっぱり安くても売ればよかったかもと後悔。来来月の競りは開催されるかわからないですから。
◆ゴールデンウィーク、なんかこのあたりはピリピリしてました。「島嶼地域はお年寄りが多いので行かないように」と何度も市の放送が流れたり、島の入り口には大きく「外来者は島に来ないでください」とか「Uターンしてください」とか、「キャンプ、バーベキュー禁止」などと英語併記で大きな看板が掲げられ、護岸脇のスペースはことごとくパイロンが置かれロープが張られて侵入禁止になりました(すみません、私は島人ですと、心の中で言い訳しながら犬の散歩してました)。
◆島には今は廃れてしまった変わった風習があったそうです。確か「シヌグ」といったかな、その日は島の人が交代で海岸で見張りを立て、島の外から来た人や舟を帰し、用事がある人は海岸で用を済ませてもらったそうです。旦那が小さい頃はまだその風習があったと。また、「シマクサラー」という行事は、集落の入り口の高いところに縄を張り、縄に生の豚肉をぶら下げて、そのあと島の人たちで鍋を作って食べたのを旦那は覚えているそうです。これも厄除け、疫病よけの行事だったのかもしれません。
◆先月、沖縄のどこかの村でシマクサラーを復活し行ったと、新聞に出てました。浜比嘉島も、やった方がいいかもしれません。みなさま、くれぐれもお気をつけて。(GWが終わり静かになった浜比嘉島で 外間晴美)
■探検の大前提は、疎(まばら)であることである。密であってはいけない。時空に疎であるということは、地理的広がりを意味する。限りなく疎である方が望ましい。時空は、物理概念上一つのものであるが、分かりやすくするため時間と空間に分ける。
◆時間的に疎であることは、ものごとのつながりが確かでないこと、つまり分かることに手間がかかるということだ。探検のそれぞれの要素へのアプローチが複雑になり、歴史的奥行きを気づかされるということである。空間的に疎であることは、つまり対象が多角的に広く遠いということだ。探検とは、この疎なる対象に探り近づくことである。そして疎なる対象を身近に引き寄せる。探検は、時空そのものを疎から密にする過程である。
◆時空とは別にもっと大事なことが「知」である。「知」も疎でなければいけない。疎の度合いを順序付けると、無知、未知、既知、過知(私の造語)、で最後が密知(私の造語)。無知は知そのものが存在しない無の状態だから疎でも密でもない。人間が知ることの歓びを知ったとき、未知が生まれる。探検の動機は未知に対する知的好奇心から生まれる。
◆未知を既知に変えていく過程が探検の醍醐味である。しかし、いつしか知り過ぎる。それで知は細分化して専門化していく。知は肉体の検閲を受けないほどに専門化して、気が付けばただの学術調査になってしまう。密知になると、もう現場にはいかない。バーチャルワールドの人工知になってしまう。もう探検とは言わない。
◆探検とは、時、空、知の疎から蜜への変遷を、自分の肉体を介して自己実現することである。現代はどうだろう。探検の対象となる世界はどのような環境の中にあるのだろう。時、空、知は疎から密に閉じ込められていないだろうか。交通手段の技術革新は人から移動の快楽である旅を奪った。辺境の地と自宅の玄関を短時間で直結した。インターネットの発達によって、知の共有が飛躍的に進んだ。われわれの世界はあらゆる意味で密集している。探検の成立しない世界のように見える。
◆実は新型コロナウイルスのパンデミックに遭遇している世界を見ていて、しみじみと世界が矮小化してきているように感じる。時空も知(情報というべきか)も限界まで密集していることを実感させられる。マンハッタンのカフェが我が家の玄関に直結していて、賑わいがコロナウイルスを運んでくる。集団感染を避けるため、政府は、感染対策諮問機関のアドヴァイスを受け、3密を避けるように通達をした。3密とは、密閉空間、密集場所、密接場面を意味する。
◆探検は3密のないところで行われる。地平線の彼方へ、茫漠たる大自然の中で、文明から隔絶した無人の大地で、活動するものだ。だから探検家はコロナウイルスには感染しない。感染するとすれば、時、空、知が疎でなくなったときだ。そして現代はまさに地球全体があらゆる意味で密になってきた時代だ、それも極端に。探検のフィールドを探すのが難しくなるほどに地球環境が密になってきた。
◆まず単純に人口爆発がある。百年前スペイン風邪パンデミックのとき地球人口は20億人だったのに、今は77億人。15世紀のペストや梅毒の流行も、世界に蔓延するまで数年かかったし、スペイン風邪も2、3年かかった。新型コロナウイルス感染は、中国からヨーロッパやアメリカに集団感染するのに数日しかかからない。人やモノの移動が、歩くから船へ、そして車から飛行機へと進歩した。交通網の驚異的発達のなせる業だ。今は、どんな秘境でも数日で行ける。科学、社会システム、人口動態、すべて3密を作るために頑張ってきたといえる。
◆探検は3密を嫌うが、結果的に3密を作っていく。探検のベクトルは常に文明国から未開の地へ向かっている。その逆は決してない。歴史的に見れば、まず軍事的覇権(遠征という言葉によく表れている)、次に交易(大航海時代に爆発的に発達したが、彼らは冒険商人といわれ、いわば海賊だ)と布教、そして地理的探検(知的好奇心と学問的関心、科学)と変遷した。そのいずれにも領土的野心が潜んでいるし、異民族との交流があった。それも文明国有利の一方的濃厚接触だった。
◆歴史上最大の悲劇はヨーロッパ人による新大陸侵略だろう。ジャレド・ダイヤモンドの『銃、病原菌、鉄』によると、南北アメリカの原住民の大半は、旧大陸から持ち込まれたペスト、天然痘、麻疹によって死んだといわれている。今もアマゾンの少数民族に、コロナウイルスの感染が危惧されている。
◆探検の最終ラウンドは、極地とヒマラヤだ。これは非3密の極にある。もっとも疎な世界だ。極地は領土にならない。富を生まない。純粋に冒険心をくすぐる広大な未踏、無人の地平が広がっていた。そしてヒマラヤの未踏峰初登頂で地理的探検の世紀は終わった。地球の隅々まで発達した道路網は物資と人の流通を密にした。それはモノの移動だけではなく情報の移動も促した。そしてウイルスも。
◆パンデミックは今何を我々に突き付けているのか。グローバリズムという先進国の価値観と生活様式の画一化が持つもろさを教えているのか。近代化の先兵となって未知に挑んできた探検家たちの足跡は何を残してきたのか。地理的探検ではない新たな探検のフィールドはどこにどのような姿で現れてくるのだろうか。この無慈悲な大災害の前で、私は問いかける。アフターコロナは、放蕩、疎遠、孤高が似合う行為、絆や仲間や友情という優しい世界ではない、沈黙と孤独に立ち尽くしているハードボイルドを夢想したくなるのである。(和田城志)
■アラスカの村はこのところかなり神経質になっている。新型コロナがアマゾン奥地やガラパゴスにまで到達した今、スペイン風邪の時のようにじわじわと北極の村にも近づいている。1918年の時はシアトルからノームに着いたビクトリア号に感染者がいて、瞬く間に周辺の村々に到達した。郵便配達などの犬ぞり隊が運んだと言われている。近隣の村が死に絶えているのを聞いたシャクツリィックという村では、トナカイ4頭をひと月の駄賃として、2人を雇いトレールを封鎖した。
◆こういう時に極地の村を訪れるのは賛成できないが、先週白海のメゼニから6年がかりでシベリア(北東航路)をカイトスキーで横断したロシア人たちが最東端の村ウェーレンに到着した。6年かかったのは春先の3〜4月だけ行動したためだ。9年前、北西航路(カナダ内だけだが)3300kmをカイトで渡ったカナダ人兄妹は一冬85日でやってのけた。彼らの24時間の最長記録は595kmだがまあ平均で見るとどちらも1日40kmぐらいだ。
◆古くはナンセンもスキーとともに帆を使いグリーンランド横断をした。日本では池田錦重さんたち日大隊や植村直己さんが帆を使っている。私も89年最初のグリーンランド実験旅行の時、三角帆を使い、その後の横断の時はカイトを使ってみたけど、当時の凧はヒモ1本のただのタコだったので、まだ帆の方が実用的だった。その歩いて1か月かかった横断ルートも先日知り合いのカイト野郎が1日半で走り抜けた。カイトはこの20年あまりでコントロール完成度が増し、極地旅行では有用でミラクルな存在となった。相当の牽引力もある。
◆スペイン隊が南極で2トンものソリをカイトで引き観測しながら52日間で2538kmを走破したのは去年のことだ。私が北米の村でスノーモビル穴掘り横断した時も非常用にカイトとスプリットボード(歩けるようになるスノーボード)を持って行った。現場で修理不能になったら、スノーモビルをそりに乗せ、カイトで村まで脱出する想定だった。
◆話を軟禁生活に戻そう。ファームではやっと動物達を戻した。一番手は、家畜護身犬のシロ。その名の通り、真っ白でモコモコした毛で、大きな手や体格はまるでシロクマだ。最近太り気味でますますシロクマっぽくなってきた。もともとイタリアのアルプスで家畜と領地を守るための犬種でマレンマーノと呼ばれる。家畜護身犬はいかにテクノロジーが進化した今でも、ナイトスコープや振動センサーより確実に敵の侵入を察知する。
◆最近シロは主に夜勤に徹し、昼は寝ていることが多い。トナカイ達も戻ってきた。まずはトナカイとキャンプの練習をする。テントやフライの擦れる音にビビるので、最初はファーム内でそれに慣らす訓練だ。トナカイのような草食動物は物音にかなり敏感で、草むらでうさぎがごそごそするだけでビビりまくる。“Stampede”という日本ではなじみのない言葉からも草食動物の集団パニックが日常的に起きているのがわかる。
◆特にトナカイはひどい。それが去年タイガでのトナカイ旅行の失敗例だといえる。ちょっと離れた森の中でのキャンプの練習を始めるには音のしないウォールテントがいい。これはゴールドラッシュの時からアラスカで使われている家型のキャンバステントで、重いがシベリアのトナカイ飼いも同じものを使っていて居住性がいい。
◆話はそれるが、ちょっと前まではこういうテントは日本でもよく見かけた。家型キャンバステントからリップストップナイロン地のドームテントになり、ザックも横型(キスリング)から縦型になり、この40〜50年間の素材、技術の変わり方はすごい。ゴアテックスとか速乾性の下着がどれだけの人命を救ったかと思う。そのほかにも画期的な変化があった。GPSがそうだ。
◆それまでは天測に必要な時間を知るため、腕時計がどれだけ正確に動いているのか短波時報でいつもチェックしていたものだ。もともと正確な時計などなかったから、どれだけ“正確に”狂うのか確認していたのだ。また六分儀で位置を出すときには、「アイウエオ」と1秒ぴったりで言えるように普段から練習して、星を測ったあと時計を見るまでのタイムラグをカウントした。例えば「アイウエオアイウ」だったら1.6秒という寸法だ。
◆また、水平線のない陸地では、水銀を使って人工水平をつくる。これに太陽や星を反射させて角度を測るのだ。雲間から1つの星が見えて、その名前がわかり、それで位置を出し、自分の行くべき方向を信じることができるか否か? 日頃の訓練が物を言う時代だった。それが89年一般向けにGPSが売り出され、ボタン一つで解決するようになった。
◆ほかにも衛星電話がある。それまで極地に行くには無線やハムラジオの免許(知識)は不可欠で、大体誰でもクリスタルの交換、アンテナは直せて、モールスも打ったものだ。今では山の上や極点から彼女に衛星電話してプロポーズする時代なのだ。おじさんの戯言はこの辺にしておこう。
■先月の『地平線通信』(4月号)を読んで、いや〜、ビックリしましたよ。何と1968年に江本嘉伸さんと三輪主彦さんのお二人は「さくら丸」に乗って、香港に渡ったというではないですか。「さくら丸」は大阪商船(後の商船三井)の船。大阪商船は「さんとす丸」、「ぶらじる丸」、「あるぜんちな丸」の3隻の南米への移民船(太平洋航路)を持っていました。江本さんは読売新聞の記者として取材で乗っていたようですが、三輪さんは香港に渡ると、カラコルムの山行に向かっていったというのです。それが三輪さんの初めての海外旅行。お二人が「さくら丸」の船上でまったく顔を合わせることもなく乗船していたというのが、じつに面白いではないですか。
◆ぼくがビックリしたのは、江本・三輪両氏の船出が「1968年」だったからです。この年、ぼくも横浜港からオランダ船の「ルイス号」に乗船しました。賀曽利隆、20才の船出。友人の前野幹夫君と2台のオートバイとともに、アフリカ南部のモザンビークに向かったのです。「ルイス号」は釜山、香港、シンガポールに寄港し、インド洋を越えてアフリカ南部のモザンビークへ。我々は当時はポルトガル領だったモザンビークのロレンソマルケス(現マプト)で下船すると、アフリカ大陸縦断を開始。地中海のアレキサンドリアを目指したのです。
◆一方、「ルイス号」はそのあと南アフリカのケープタウンから大西洋を越え、ブラジルのサントス、ウルグアイのモンテビデオと寄港し、終着のアルゼンチンのブエノスアイレスへ。この時代、すでに太平洋経由の南米への移民船は終わり、インド洋経由の「ルイス号」は日本を出た最後の南米への移民船になりました。今から50余年前の1968年というと、江本さんはまだ20代、三輪さんは22、3といったところでしょうか。我々はまさに青春の真っ最中で、怖いものなしの血気盛んな年代でした。
◆ぼくはその後、「アフリカ縦断」を拡大させた「アフリカ一周」(1968年〜1969年)から帰ると、民俗学者の宮本常一先生が所長をされていた日本観光文化研究所に出入りするようになり、そこで三輪さんと出会うのです。三輪さんはよき先輩で、文章の書き方、写真の撮り方を教えてもらいました。日本観光文化研究所のプロジェクトで、三輪さんと一緒に日本を歩かせてもらうようになるのです。
◆ぼくは「アフリカ一周」のあと、「世界一周」(1971年〜1972年)、「六大陸周遊」(1973年〜1974)と世界を駆けめぐり、1975年に結婚。長女が誕生し、生後10か月になったときに子連れの旅に出ました。横浜からロシア船の「バイカル号」に乗ってナホトカへ。そこからシベリア鉄道でシベリアを横断し、ヨーロッパを南下。ジブラルタル海峡を渡って北アフリカへ。アルジェリアの首都アルジェからサハラ砂漠を縦断しました。西アフリカ・ナイジェリアのラゴスから東アフリカ・ケニアのナイロビに飛び、ナイロビから日本に帰ってきたのです。
◆9か月に及ぶ子連れの旅は読売新聞で連載されました。その連載を担当してくれたのが北村節子さん。北村さんに紹介されて、読売本社内の喫茶室で江本さんにお会いしたのです。「1968年の船出」から10年後の1979年に「地平線会議」が誕生しました。江本さんと三輪さんが代表世話人でした。東京・四谷の喫茶店「オハラ」と「オハラパートU」で喧々諤々の議論を重ね、9月28日に東京・青山の「アジア会館」で、第1回の「地平線報告会」が開催されたのです。報告者は三輪さんで、「アナトリア高原から」と題して話してもらいました。報告会の担当はカソリでした。「1968年の船出組」の数奇な運命とでもいいましょうか、何の縁もゆかりもなかった3人が、「地平線会議」で結びついたのです。
◆報告会に先立って、「ハガキ通信」と称した「地平線通信」を出しました。記念すべき「地平線通信」の第1号は、次のようなものです。「──こんにちは〜。ダイヤルしていただいてありがとう。こちらは地平線放送です。地平線会議っていう名前の会が今月からスタートしました。──」833-9918にダイヤルをまわすと、かわいい女の子の声でこんな放送が流れてきます。9月いっぱいで試験放送を終え、本放送に入ります。地平線会議の詳しい内容は、本放送に入った頃聞いてください。手短に紹介すると、探検や旅に夢をえがく仲間達の参加自由な集まりです。代表もいなければ、会員としてしばりつけられることもありません。
◆今、私達が考えているプロジェクトは (1)テレフォンニュースの「地平線放送」 (2)毎月集会 第1回目は9月28日(金)PM6:30 三輪主彦さんの「アナトリア高原から」 アジア会館(地下鉄青山一丁目) (3)探検・冒険・旅 活動年報の発行などなどです。この他にも、さまざまなプロジェクトが試みられることになるでしょう。このために私達は「世話人」を求めています。@世話させ人…1万円を出して下さる人A世話する人…知恵や労力を提供して好きなプロジェクトを推進する人(もちろんタダ働き)B世話させられ人…その時、たまたま運が悪く、ひっぱりこまれて協力させられる人。皆さんの参加を求めます。9月28日(金)の集会の時に、地平線会議の趣旨を皆で考えましょう。
◆世話人(9月20日現在)は次の通りです。《宮本千晴・向後元彦・伊藤幸司・岡村隆・賀曽利隆・江本嘉伸・森田靖郎・神崎宣武・三輪主彦・丸山純・宮本正史・青柳正一・北村節子・菅井玲子・武田力》
◆地平線会議誕生から今年で41年目になります。江本さんや森田さんらの大変なご苦労のおかげで、第491回目の「地平線報告会」が開催されました。第492号の「地平線通信」も発行されました。こうして地平線会議の活動が途切れることなく続いているのは、地平線会議誕生時のあの熱気がいまだ冷めずに、世代を超えて伝わっているからだとぼくは思っています。(賀曽利隆)
「命より大切なものは、自由だ」。6年の獄中生活、3年の自宅軟禁生活をへてアメリカに奇跡的に亡命したチベット政治犯ドゥンドゥップ・ワンチェンは、インタビュー内で私にこの言葉を教えてくれた。学校へ行ったことがなく、独学で読み書きを学んだ彼が、自宅軟禁中に貪るように本を読み、その本の中で目に留まった言葉なのだという。
「当初、この文章を見つけたとき、『この言葉は何だ?』と思っただけでした。ですが、このような軟禁生活を続けていくうちに実感していきました。なぜなら、生きていても、自由がなければ何もできず、死んでいるも同然だと思ったからです」。
この言葉をみつけてまもなく、彼はふるさと青海省を後にし、雲南省から秘密のルートをへて中国脱出を成功させる。2017年12月25日、彼がサンフランシスコ国際空港に到着したときには、サンタクロースの登場以上に人々を驚きと喜びにわかせた。
そんな彼への単独インタビューが叶ったのは、その半年後の2018年8月だった。当時、私は彼の言葉を自分ごととして噛み砕くというより、過酷で異常な経験をした人物の体験談を聞いている、という印象だった。まさかいま、この日本で新型コロナ・ウィルスのおかげで自宅軟禁状態で生活せざるをえない日々がやってくるとは思ってもみなかった。彼の境遇とはほど遠いけれど、彼が体験した息苦しさ、自由への渇望に少し触れられた気がするのだ。
このたび『パンと牢獄〜チベット政治犯ドゥンドゥップと妻の亡命ノート』という本を上梓した。2009年に私がインドのダラムサラで出会ったチベット亡命者ラモ・ツォ(甘粛省・夏河県出身)という女性と、その家族を10年追ったノンフィクションだ。彼女の夫であるドゥンドゥップ(青海省・化隆回族自治県出身)は、2008年の北京オリンピックのとき「市井のチベット人がどんなことを思っているか?」100人以上に取材しまとめたドキュメンタリー映画『恐怖を乗り越えて』をつくり、国家分裂扇動罪で逮捕されていた。
ラモ・ツォは、子ども4人と夫の両親、姪ひとりをいれた7人の生活を支えなければならず、道端でパンを売ることを始めた。彼女も同様に、学校へ行ったことがなく読み書きができない中での選択だった。
はじめて彼女を撮影させてもらったときに、彼女が漏らした言葉が忘れられない。車が激しく行き交うバス停ちかくでパンを売る理由を、私に教えてくれた。「この場所に店をかまえるのは、夫がチベットからバスでやって来たとき、すぐに迎えることができるからよ」。
当時、ドゥンドゥップは勾留中で音信は途絶え、本人が望む弁護士もつけてもらえず人権が無視された状態にいた。再会などは絶望的で、生きて刑務所から出られるかもわからなかった。しかし、妻のラモ・ツォは希望を捨てず、未来に絶望することなく前を向いていた。その美しいラモ・ツォの、たくましく、したたかな姿に惹かれ、彼女を軸にインド・ダラムサラの土地の歴史やチベット亡命社会の歩みを描くドキュメンタリー映画を制作しようと決めた。そうして2017年11月、東京の独立系映画館ポレポレ東中野で映画『ラモツォの亡命ノート』を公開した。公開に合わせ、主人公のラモ・ツォを日本に招待した。思いがけず映画は反響を呼び、多くの日本のメディアでも取り上げられることになった。
その水面下で、実はさらに思いがけないことが動き出していた。映画の内容は、ラモ・ツォや子どもたちが米国へ亡命したものの、ドゥンドゥップとは再会を果たせないまま終わっている。私自身も、おそらく今生での再会は不可能だろうと腹をくくっていた。ところが、ドゥンドゥップは秘密裏に亡命計画を立てていたのだ。その亡命の一報が入ったのは、なんの因果かラモ・ツォ来日中だった。信じられないニュースに動揺しつつ、私は亡命資金を集める協力をすることになった。そして、映画公開からわずか1か月もたたないうちに、ドゥンドゥップは奇跡の亡命を成功させる。本書は、その映画公開から激動の亡命劇、ドゥンドゥップの独白が要になっている。
本を出版してまもなく、嬉しい連絡が入った。あるチベット本土からの留学生が、本の感想を送ってくれたのだ。その留学生は、ドゥンドゥップのある言葉に今の自分を重ねたという。それは、私が彼の過酷な獄中生活などについて「恐怖はなかったのか」と問うた返事だった。
「仏教徒だからどんなときも心は落ち着いているのさ。(中略)どんなことだって我が身に起こるべくして起こる必然なのだ、と」。
想像を絶する経験をしたドゥンドゥップは、心を冷静に保ちつづけ、家族と再会を果たし、自由を手に入れた。彼の心の姿勢は、いま、コロナ禍でくすぶる私たちの心に、自由への道を示唆してくれるかもしれない。ちなみに私にとって、いま「自由への道」は、ようやく歩き始めた1歳の娘、夕真(ゆうま)と一緒に近くの公園に散歩へ行くこと。野に咲く花に夢中な娘のおかげで、なんでもない散歩道が赤、青、黄、紫色に華やいでいる。先日は、ポピーに似た茜色の花(ナガミヒナゲシ)を娘がぱくり。ケシ科なら毒があるのではと心臓の止まる思いをした。小さな先生は、なかなか旅に出られない私に、足もとにも驚きと発見のあふれる美しい世界が広がっているのだと、教えてくれている。(小川真利枝 長野市)
昨年の夏、関東近郊山中のある廃村に、古い家とかなり広い土地をただ同然で手に入れることができた。持ち主はもともとの住人の親戚で「戦後に建てた」と言っていたが、二間半×七間半の母屋はクギを一本も使わない日本古来の構造建築で、屋根は茅葺きである。廃屋同然だったその家を、掃除して、修理して、畑仕事をするのが、現在、私が取り組んでいる主な活動であり、主な喜びだ。
この大型連休も11連休中、9連休をその廃村の古民家で過ごした。小蕗という村である。現在の村名ではなく、今は使われてない昔の村名だ。携帯の電波が届かない孤立廃村で静かな生活を楽しんでいるのに、詮索好きが車で侵入(道路はある)してきたら興ざめなので、場所はできるだけ言わないようにしている(地平線の仲間は歓迎です。徒歩でどうぞ)。三方が山に囲まれ、渓沿いの道が屈曲して3キロ下のバス道路に繋がっている。母屋の横50メートルに流れる渓流と鳥、風、ときどき遥か上空を飛んでいく飛行機の音しかしない。
私は車を所有しないので、電車とバスと徒歩で小蕗に入る。静かな生活を楽しんだ後に、横浜の家に戻るためバス通りに降りていくと、道をゆく車のエンジン音の大きさにたじろぐ。普段は慣れてしまっているが、現代文明は騒音文明である。
大型連休中には一日3台ほどの車が入って来た。冬の平日は誰も来ないので、けっこうな台数である。感染拡大防止のためいくところがない地元の人と、公共工事系の車だった。エンジン音がするとナツ(犬)が吠える。ナツは500メートルくらい先からエンジン音を聞いているようだ(ときどき飛行機やヘリコプターにも吠えている)。猟期中は村内で猟をする(合法です)ので、正直、人には入って来て欲しくない。
都合20台ほど来た車のなかに、かつて小蕗に住んでいたという人が2組いた。10年ぶりに来たというおじさんに話を聞いた。私が譲り受けた家は、おじさんが小蕗で生まれた昭和21年には建っていたという。おじさんが子供の頃、分校の全生徒は10人ほどだったらしい。荒れ地になっている斜面はかつて竹藪だったという(イノシシがタケノコを全部食べ、竹を駆逐した)。獣害は昔からひどかったらしい。
散歩をしながらいろいろ聞きたかったが、相手は車の中だし、同乗者(奥さん?)はマスクをしている。肥満体型のオジさんの顔つきは柔和とはいいがたいので、なんとなく「それでは」となった。
できるだけ自力で山に登りたいと思いサバイバル登山をおこなってきた。その根底には素登り(フリークライミング)思想がある。フィールドまでは公共交通機関で移動するが、入山後はできるだけ人工施設(道、山小屋)を避けて旅する。万が一のときの救助も当てにしていない(家族にさえ行く場所を言わないほど徹底したこともある)。現代人としてではなく、一頭のホモ・サピエンスとして旅をしたいからだ。
公共施設や救助などをあてにしない自立した(孤立した)時間を過ごすのは清々しい。足をくじいただけで死ぬかも、というささやかな緊張感と、それ故の自分の命は自分で維持管理する誇り――すくなくとも今この瞬間、自分の命は自分のものだという自尊心――に淡く包まれている感じだ。
最初から僻地での孤立を気持ちよいと思っていたわけではない。大学生の頃、東北の密ヤブに侵入し、はじめて人間社会の保護下から遠く離れたときは正直心細かった。徐々に慣れ、いつしか、社会システムの外にいるときのほうがくつろげるようになった。
小蕗の生活もこれに近い。水、燃料は完全自給している。ちょっとした電気はソーラーを使う。排便は一ヶ所に溜めない。生活排水は斜面に吸収させるが、そもそも汚水を出さない。公共の下水施設がない地域の個人宅は、浄化槽の設置が法律で義務づけられているが、便所の場所を決めず、下水を流さなければ必要ない(はずだ)。便利を求めると国や自治体が顔を出し、金を払えと言ってくる。排便するのにちょっと山に行く手間を惜しまなければ、国や自治体やそれらに類する東電などが管理運営するものには頼らずに暮らすことができる。
公共といえるものは、3キロ下のバス停の交通機関くらいである。救急車を呼ぶ手段もないので、木に登って枝を落としたり、回転系の電動工具(ソーラー)を使っているときは、ミスしたら死ぬぞ、と自分にささやいている。
人に頼るのが嫌、というよりは、自分でやっているほうが面白いし気持ちがいい。万が一のときは救助するので管理もさせてもらいます、というなら、救助はいらないので管理もしないで放っておいてほしい。そもそも生きているだけでめっけものなのだから、野たれ死にでかまわない。自由に生きたい。
今回のようなパンデミックも近いうちに起こると思っていたので(関野さんとの公開対談で予想していたと思います)、罹患者の一割も死なず、重篤になるのは主に年配者と聞いたときには、その程度の毒性で許してくれるの?と、新コロナの優しさに、人類はまだまだ悪運に恵まれているなと考えた。
ここまで文明をごちゃごちゃと発達させ、生態系の未来を食いつぶして現代人だけが豊かさと繁栄を享受して、そのための些細な代償(ウィルス)をも受け入れないとなるなら、どこまで人間は身勝手なのだろう(いや、生き物はすべて自分勝手だ)。コロナで亡くなった30万弱の人間とこれから亡くなると言われている最悪予想の数千万の人を勘定に入れても、新コロナを産み、感染拡大を促した「文明」から人類が享受した繁栄のほうが遥かに多い。
生き物はいずれ死ぬ。人間も年間で人口の1パーセントは死ぬ。主な死因がコロナになるだけだ。そもそも私なんか、公衆衛生と予防接種がなければこの世に存在していない。コロナで死んでも儲けのほうが遥かに多い。
現在、地球に生存する全哺乳類の体積率を計算するとその九割が人間か家畜だという。地球に起きている環境系問題の原因は、煮詰めていくとすべて、増えすぎた人口に求めることができる(とかなり前から多くの科学者が言っている。たとえばローレンツの「八つの大罪」)。それに加えて、国庫を圧迫する高齢者の医療費、破綻途上の年金、社会保障をチラつかせて高齢者票で選ばれる駆逐すべき政治家のことを考えるなら、高齢者だけが死ぬような病原菌を作ってバラまくことが、(一時的に)世界を救うというまじめな冗談はプレコロナからささやかれていた(少なくとも私はささやいていた)。
そういう意味では新コロナはあっぷあっぷの地球がとりあえず軟着陸するための救世主(もしくはまじめなテロリスト)かもしれないと私は思う。
「罹っても死なないとあんたは楽観しているからそんなことが言えるのだ」という声が聞こえてきそうだ。確かにそれはある。弱者が気持ちよく生きていける社会が成熟した理想の社会だという。私を管理しないかぎりにおいては私も賛成する。だが私も、もう初老だし感染即重篤化の可能性はある。次男は喘息持ちで「罹ったら死ぬ」とビビっている。自分が罹患して死ぬとしても、新コロナはもしかして人間の悪行のブレーキにはなるのでは?という思いを止めることができない。
自粛さわぎで収入が減り、ウィルス以前に生活が困窮している人もいるかもしれない。私が現在所属している登山用具メーカーも直営店の7割を休業しているので、単純計算で7割の売り上げ減である。体力のある企業なので、すぐに解雇はないが(たぶん)、収入は減るだろう。もっとずっと切迫していて、なんとか耐えている人もいる。たっぷり税金を払ってきたのだから、国がなんとか生活を守るというのも一つの考え方だ。
ただ、サバイバル登山的にいうなら、感染拡大程度で揺らぐような生き方しか選べなかったのだから自分で何とかするしかない。田舎には家も田畑も余っている。最初からそこで自給率の高い生活をしていれば、多少経済が停滞しても揺らがなかったはずだ。
もちろん、みんながみんな田舎暮らしをすることは無理だろう。農業だって文明に支えられている。実際にみんなが田舎で質素な暮らしをしたら、たぶん世界はあまり面白くない(地平線会議の集まりもできない)。自活しろという考え方は、いわゆる「自己責任論」だとおもわれるが、個々人は自己責任で生きようと努力し、国や自治体は公的責任で社会を治めようと努めるのが理想なのではないだろうか。
かくいう私が、予防接種をはじめとする公衆衛生や日本の安定した治安、経済力などに支えられてなんとか存在してきたことは充分承知している。感染爆発で医療崩壊したら、生活の基盤とも言える治安が揺らぐこともわかっている。
もともとあんまり人に会うのは好きではないし、駅伝シーズンにはウィルス感染には最大の注意を払ってきた。1月の報告会で報告したように、年寄りになって体力が落ち、知らない山や難しいルートを登りたいという欲も減ってきた。息子や娘の行く末は心配だが、世界の破綻に関しては、家庭内でもコロナ以前から冗談まじりで話し合ってきたつもりだ。私はナツと一人と一匹で小蕗に籠って感染症で自分が死ぬのをゆっくり待ちつつ暮らしてもいいと思っている。たぶんどこかで、そんな穏やかな終末世界の到来に憧れている。それこそサバイバルだからである。
ただ今回のウィルスは、私の終末期の引き金にはなっても、人類の終末期の引き金になるほどの毒性はなさそうだなと楽観している。(服部文祥)
■マスクをつけるのは寒い季節が普通だが、ここ数日の暑さはなんだ。それなのに、マスク忘れて店にはいろうものなら、白い目で見られる雰囲気だ。ジョガーも30度近い暑さの中、マスク付けたまま走ってるのに驚く。これは、間違いなく、“マスク熱中症”になりますよ。
◆地平線通信、今月は自然と力が入った。42年、毎月出し続けてきたのだ。新型コロナ・ウィルスが世界を席巻しているいまこの瞬間にどんな内容を発信できるか。といっても学者の集まりでもない。地平線らしい、新型コロナ・ウィルスに纏わる話を書いてもらえたらいい。
◆結果は皆さん、それぞれにこたえてくれた。時代をどう記録するか、考えてみればずっとそういう作業をやってきている。何十年か経って、いまはまだ赤ん坊のような次の次の次あたりの世代が、お、ここにこんな記録があるぞ、と面白がってくれれば、と思う。
■地平線通信の人気は、毎月変わる長野亮之介画伯による表紙の題字と報告会イラストだ。報告会をやらない今月はそれがない。何かやろうよ、と頼んだらなんと浜比嘉島の琉球犬、ゴンのマンガを。私とは長い付き合いで暮れに島まで会いに行った時は、確かにこんな感じだった。元気だが、目が見えないので私も一瞬、海に落としそうになったのだ。素晴らしいわんこの近況が新型コロナ・ウィルスを特集する地平線通信で8コマで伝えられて嬉しい。(江本嘉伸)
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今月も地平線報告会は延期します。6月以降いつ再開できるか、情勢を検討しながらどこかで決定したいと思っています。
地平線通信 493号
1 制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2020年5月15日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
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◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
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