2月12日。暖冬から一転厳しい寒さが続いていたが、今日はまた暖かさが戻ってきたようだ。午後3時現在、四谷界隈の気温なんと16度! おいおい、昨日までのとてつもない冷え込みはなんだったんだよ。
◆テレビ、ラジオの速報は繰りかえしある船の動向を伝え続けている。新型コロナウイルスによる感染防止のため3000人を越す乗客、乗員を乗せたまま横浜港周辺を漂う「ダイヤモンド・プリンセス号」のことだ。映し出される映像をみるととてつもなくでかいのに驚く。115,875総トン。乗客2,706人、船員1,100人。ウィルスを封じ込めるため誰も外に出られないがそれでも感染は徐々に広がっている。きょう12日に新たに39人が感染者とわかり、検疫官も1人罹患したという。3,711人の乗客、乗員のうち174人が感染し、うち4人は重症と伝えられている。
◆きょう12日は、私と若干縁のあるお2人の命日である。1984年、デナリで消息を絶った植村直己、12年後の1996年、73才で逝った作家の司馬遼太郎。モンゴルが縁で晩年親しくしていただいた司馬さんは、チベットに向かった日本の青年群像を追った『西蔵漂泊』という私の本を高く評価してくれ、上下各本(文庫本は1冊)をお贈りするたび、はがきにぎっしりの丁寧な感想を送ってくださった。植村直己については冒険者としてははるか彼方の存在だが、山岳部同期生ということだけで親しみを感じる。もう彼が消えて36年も経つのだ。
◆この日14時からお茶の水の明大紫紺館て恒例の植村直己冒険賞の記者発表があり、この通信の編集作業を中断して駆けつけた(結果は、5ページ参照)。第1回の尾崎隆さん(故人。1980年の日本山岳会チョモランマ登山隊で一緒だった)以下、ほとんどの受賞者は私の知り合いで時には記念講演の助っ人として豊岡まで駆けつけたこともある。今回の受賞者を含めて海の冒険者には知らない方が多いのは自然なことであろう。
◆ただし、航空機への搭乗が当たり前になるのはだいぶ後になってからで、海は冒険者の当然の手段だった。たとえば「植村直己さんは1964年5月、移民船「アルゼンチナ丸」で横浜港をたった。当時若者がアメリカに渡るのなら貨物船か移民船、ヨーロッパにならナホトカ航路、という相場が決まっていた。私は横浜支局で「海クラ」(海事記者倶楽部のこと)担当になった時は忙しかった。
◆何はともあれロシア語ができたので当時冒険者やクライマーが多く利用した「ナホトカ航路」の客船「バイカル号」や「ハバロフスク号」が入港するたび、他社の記者とランチ(モーターつきの小型船)を仕立てて、沖合に停まって入港を待つ船にタラップを伝って乗船し、話題の人がいるか嗅ぎまわるのを仕事の一つとしていた。ヨーロッパ・アルプス三大北壁を登攀したクライマーや音楽コンクールで入賞した若手などである。今回のウィルス感染事件で、「クルーズ船」の存在がにわかに注目されているが、初期のクルーズ船を取材したこともある。
◆1968年4月14日、「魅力いっぱい 観光船旅行 さくら丸の東南アジア周遊」というなんともしまらないタイトルの、1ページの大型記事が読売新聞紙上に載った。「2週間の海外旅行を5万円でースピード時代に見捨てられていた客船がこんなキャッチフレーズとともに息を吹き返した」という書き出し。12000トンの見本市船を改造して香港、台湾クルーズを記者が現場から報告するというのどかすぎる企画。派遣された記者は美味しい仕事をしたものだ、と思わずつぶやきそうになるが、しかししかし。なんだ、「文・写真 江本嘉伸」とは!?
◆申し訳ない。これも「海クラ」の仕事だったのだ。税関、入管、検疫所の三つの仕事を追う中で久々に観光客船が動く、というニュースに何社かのメディアが飛びつき、私もその1人というわけだった。ただし、他社の記者はともかく私としては内心不満だった。ちょうど同じ時期、我が外語山岳会に宿願のモンゴル行きが許可され、私も8人の隊員の1人に選ばれていたのに参加できなかったからだ。このことはいつかふれる。モンゴルは、はるか遠くの神秘の国だった。
◆青い海をイルカが並走し、陸地は見えてない日々。2週間、ひとつの船に閉じ込められてのどかな時間を過ごしていると、人生が変わって見える。もちろん、2週間で5万円というのだからほぼ全員かいこだな暮らしだ。ただし、食事だけは美味しかった。「グレープフルーツ」という果物を初めて食べて腰を抜かしそうになった。
◆2月8日、宮原巍(たかし)さんのお別れ会が市ヶ谷であった。2008年7月、通算350回目の報告会「蒼天に幟を立てて」で報告者になっていただいた。当時74才。05年にネパール国籍を得た宮原さんはなんと国会議員になろうと、ネパール国家発展党(NRBP)を率いて戦ったが、結果は完敗。しかし、最後までネパール、日本の間を往復して気を吐いた人生だった。(江本嘉伸)
■仕事帰り本屋さんで立ち読みした『岳人』に和田城志さん(サンナビキ同人・大阪市大山岳部OB)へのインタビューが載っていた。その翌年だったか今度は積雪期黒部横断の和田さんの記録を発見。同行メンバーに件のインタビューを行った『岳人』編集部の若手の名前を見つけた。この渋好みの和田さんに見込まれた若者に俄然興味を持った。その人こそ服部文祥さんなのだった。
◆それから二十数年後の「地平線会議40年祭」でのこと。遅れて会場入りした服部さんを見つけて(失礼ながら)ギョッとした。服部さんが半分野生動物になってしまったと感じた。眼光鋭く髭もじゃで強烈だった。サバイバル登山の話も何度か聞いていて、うっすらぼんやり理解した気でいたことを恥じた。
◆今回の縦断の旅は、人生のターニングポイントで敢行しないではいられないものだった。そのことが痛いほど伝わってきた。服部さんの身体表現の場は山、メシの種も山。そんな人が、膝が痛いと包み隠さず言う。こちらは営業に関わるだろうにとハラハラする。一種の職業病だ。つらいねえと思う。凡人が心配しても余計なお世話だろうか。
◆報告会はイントロダクションから始まった。サバイバル登山とは、フリークライミングの思想を根底に据えている。純粋に美しく登るためにギアや他人の力には頼らない。あるいは残置(岩場に残された、先人の打ったハーケン)は見ないことにする。何かをなし得ようとするとき、ここに行きつくのだとか。置かれた環境の中でやる。そのことを山で実践するとサバイバル登山になるのか?
◆自分だけの力でやることは面白いしプラスのベクトルが出る。K2登頂後、趣向を変えて挑んできた冬の劔、黒部。あと1、2本残している魅惑的ルートに食指が沸かないではないが、記録が増えたとて納得する価値とリスクを天秤にかけるとどうしても怖くて、今更行けないのだ。服部さんの口からこんなことを聞くと寂しくなるが、本音だなと思う。
◆サバイバル登山はといえば、こちらも2、3周目に入っている。ルートを変えても、「あ、ここも知ってる」との感覚が拭えない。2週間もあれば日本の山は、計画したエリアを踏破出来てしまう。ぐるぐると回るのは非効率で美しいラインが引けない。危険も増幅する。コンタクトラインを行くことが服部さんの美学のようだ。
◆何度か話は聞いているのに、ああそうかと思うのが陸上競技の話。36歳で本格的にトレーニングをスタート。42歳で全日本マスターズに出場、800mで堂々の優勝。46歳で1500mに出場、こちらは横浜市の記録で自己ベスト(ちなみに4分26秒)。このことで、僕はボチボチ速い、そこそこまだできる、体力があると自信を持った。短距離も持久力もアウトスタンディング。ああうらやましい。一人で三役をこなす(自身がマシンドライバー・レース監督・食事の自己管理も必要)。全部ドンピシャリとはまった時が面白い。陸上にのめり込み過ぎたきらいはあったかなとのこと。
◆ここで画面は奥利根の「シッケイガマワシ」に。登山体系を引っ張りだして調べたがわからなかった。奥利根1、2を争う難所らしい。関西で山をやってきた私にはチンプンカンプンの名前。2018年に行った南会津と奥利根をつないだサバイバル登山の話にここから移行する。二つの山域をひとつのエリアに見立てての13日間。途中で国道をまたいだのだが、そのことには目を瞑ればよい。周りを見ない、町に下りない、町に出ない。こうすればでかい山域が生まれる。充実した楽しい旅だったようだ。この山域にご縁のない私だが、とても心惹かれた。
◆その後沿海州への旅で出会ったミーシャの話に。報告会に行けなかったので詳細を私は知らないが、詳しくは第5回梅棹忠夫山と探検文学賞を受賞した『ツンドラ・サバイバル』(みすず書房)を。画面が切り替わり伝説のデルス・ウザーラの写真が登場。シホテ・アリニ山脈が舞台だ。星野道夫さんが撮影行にいつも携えていたのが東洋文庫の「デルス・ウザーラ」。何かいいですねえ。アルセーニエフが報酬の支払いを申し出ると、金は要らないができれば鉄砲の玉を呉れと言ったとか。服部さんが食料はとミーシャに尋ねると、鉄砲と玉を指さしたとか。こういうシーンに痺れるらしい。
◆ところ変わってインドへトラウトを釣りに行った話。デリーの空港に降り立ったが、空港での両替が法外に高いのに気が付く。今回は3人旅なのに、まいいかで1万円分だけルピーに交換。バスで目指すエリアへ向かう。結果として片田舎には「チェンマネ」屋は一件もなく、帰国するまで1万円で生き延びるはめになった。お米だけは日本から持ち込んだのでそれで食い延ばし。あとは釣果頼み。安宿にも当然泊まれないから、うんちまみれの河原でのテント暮らし。チャイハネでのミルクティーぐらいは何とかなったのだろうか。どうもこの旅は中々に楽しかったらしい。お金のない旅の醍醐味はこの時覚えたようだ。
◆ようやく話は今回の宗谷岬から襟裳岬までの旅の話へ。50歳を前にしていろいろ思うことが増えた。狩猟を始めてからは、死にゆく獲物と自分の生命力とを対比せざるを得なかった。気がついたら膝が痛い初老のオジサンになっていた現実(ご本人の言葉を真に受けてはいけない。私の十倍以上の傑出した身体能力を保持しているに違いない。あくまでも服部さんのつぶやきだ)。40代になってから登りたい山がどんどん減っていた。クライミング能力が伸びない。ゆえに新しいチャレンジができなくなって新鮮な喜びを得られなくなった。
◆登り続けてきた人からの率直な心情の吐露だと思う。若くはないという現実を受け入れる瞬間はだれに取っても残酷な事だ。そろそろ引退の文字が浮かぶなかで、服部さんは集大成の旅を思いついた。角幡唯介さんの『極夜行』の大佛次郎賞受賞が羨ましかったし、彼の行動には覚悟があることも認める。サラリーマンであるかないかの問題はあるにせよ、集大成への意識が足りなかった。敗北宣言などする前に、ここ一丁後悔しないためにもなりふり構わず今旅に出よう。これが今回の北海道旅なのだ。
◆最初は海外も視野にいろいろ検討した。でっかい旅の構想となれば、必然的に海外が頭に浮かぶ。しかし現実は様々な銃規制(当然国によって様々だ)やら、狩猟行為そのものも厄介なことになりそうだ。その他諸々集大成の旅が始まる前に疲弊しそうだ。そんなこんなで自分は今何をしたいのかを今一度自身に問い直して、ようやく犬とのできるだけ分水嶺に沿ってどこまでも行く“一人と一匹旅”が決まった。ダメだったら引退だとの覚悟も胸に秘めて。
◆ここからは会社に3か月の休暇(休職)を申請、無事受理された。休職中の家族の生活費、税金の支払い、食料のデポのための事前北海道入り。飛行機代で、総額100万円とは溜息が出る。こういう数字を包み隠さず教えてくれる服部さんはお育ちの良い好男子だなあと感じた。レンタカーを借りて3か所の予定ルートの小屋に食料をデポ。ヒグマ対策のために必須のこと。本来生米と調味料だけがサバイバル登山ではデポの対象だが、今回は長旅、疲弊しないよう一計を案じて、目先を変えて羊羹などの贅沢品も忍ばせた。
◆山小屋ではちょっぴり長逗留の予定だ。デポを守りたいがためにタッパーの蓋に「ノーマネー/オンリーフード/モンベル 服部文祥」と書いた貼り紙を。僕お汁粉が好きなので、小豆も用意すればよかったなあと言う。ああそれは残念。やたらポリンキーとジャンクフードの名前が出てくる。何だか憎めない。そうやって10月1日愛犬ナツと横浜を後にした。北海道は10月1日が狩猟解禁日。そういうことだったのか(ちなみに本州は11月15日から)。
◆今回のサバイバル登山に加味された約束事は一銭のお金も持たないで旅を完遂させること。自宅から約17km先に羽田空港はある。5時に自宅を出発、11時の飛行機に乗り無事稚内到着。午後1時には早くも旅をスタートさせた。そういえばナツの搭乗はどうしたのと江本さんから質問。現金は禁止なので、ANAの商品券を事前に購入。飛行機代プラスわんこは6000円とのこと。ナツは北海道へは何回か行っているし、飛行機も慣れたもの。心配ご無用らしい。
◆そうして順調にすべり出した集大成の旅だったが、どっこい規制にがんじがらめのいやはやな旅となってしまった。でも終わってみれば今まで培ってきた登山のあらゆる技術・能力を動員しての充実したでっかい旅(完全踏破)だった。松浦武四郎にシンパシーを感じたり(奴なんて呼んでいた)、カボチャをまるまる一個拾ったり(あれは夢のように美味しい栗かぼちゃだ)、排泄困難となったお尻の治療に鹿の油を溶かして、ポイズンリムーバーで逆噴射。ナツの行方不明に殊の外狼狽する服部さん。こういう話は自然と頭に残る。
◆集大成、最後の旅を私たちに匂わせていたが、やっぱりね、次の旅のイメージを語ってくれた服部さんであった。何か歯切れが悪いレポートねえとか、消化不良を感じられたあなた、ここから先は大人の事情があるのです。今後服部さんが『岳人』誌上に連載される記事にどうぞ目をとおして下さい。最後に言いにくいことを。今後の狩猟旅、殺しはせめて現在の半分にできませんか。正直画面を直視するのはきつかったです。
◆昨年の服部小雪さんの報告会(第483回)。文祥さんは所用で来られないと聞いていた。私はいや絶対来ると思っていた。思ったとおり、汗まみれで会場に駆け込んできた。と次の瞬間速攻でお財布をザックから取りだしゾモトートバックをお買い上げ。こういうことはカンパですからねとか言いながら。部屋に入ってくるまでの一瞬の間に会場を俯瞰していたのだろうか。妙にこのことに感じ入ってしまった。
◆小雪さんが本を出版されたこと、地平線で報告者となったことを素直に嬉しく思っていることが伝わってきた。お子さんたちも成長されて、僕たち夫婦も新たなステージを踏み出しましたというような感慨を語っていたように記憶している。小雪さんのご両親もお揃いでいらしてて、なにか良い時間が流れた報告会だった。服部さんは、心意気のある良い具合に仕上がった本物の山男だ。私はそう確信した。(中嶋敦子)
2月某日早朝、昨夏、手に入れた山村の古民家から猟銃を肩に散歩に出る。裏の植林を登って、かつて集落だった石垣のある斜面をぐるりとまわると、ナツが新しい臭いをとって、地を這うように綱を引きはじめた。ところどころ残る雪の上にはイノシシと鹿の群れの新しいアシがついている。
ナツに引かれるままに1キロほど歩いたが、ケモノの気配はない。どうやら山奥に帰ってしまったようだ。遠出の用意はしていないので、奥に見える草原を確認したら戻ろうと思った、そのときに鹿が鳴いた。顔を上げると奥の草原を群れが駆け上がっていく。
立ち止まった鹿に照準を合わせて引き金を引く。150メートルはあったが、斜面を転げ落ちて来た。ナツを放す。落ちてきた鹿をナツが噛んでいる。少し前は、吠えることで獲物の倒れている場所を教えてくれたが、北海道の旅で変な自信を付けてしまったのか、最近は黙ってただ鹿を噛むようになってしまった。
我が家では大晦日に家族が集まって、それぞれ、その年の個人的三大ニュースを発表し、そのあと、翌年の目標を述べる。2018年の大晦日に私は、2019年は北海道に長期徒歩旅行に行って、人生の第二章をはじめる(準備をする)と家族の前で宣言していた(ことがノートに残っている)。北海道の旅はかなり前から温めていたものである。
実際、19年の3月には、地形図を買い集めながら、3ヶ月の休暇をとる活動を開始し、6月には休暇が確定した。旅の開始は北海道で狩猟が解禁される10月1日と決めていた。関東近郊の山村に古民家付きの3000坪を(ただ同然で)所有することになったのは、北海道の旅がいよいよ具体的になり出した8月のことである。
山村の古民家は、目標のふたつ目である「人生の第二章」の現実的なイメージにとても近いものだった。ここ数年、何かを消費するためにお金を稼ぎ、またそのお金を稼ぐために何かを消費するという生活にばっさりと区切りを付けたいと思い続けてきた。効率よく働くために都市で生活して、ライフライン(エネルギー・上水・下水)と食料にお金を使い、またそのために働くという悪循環。食とライフラインを間接的に手に入れる「お金」を獲得する仕事ではなく、生活そのものを直接手に入れる仕事をすれば、消費の循環から抜け出せる。山村の生活には反消費生活のほとんどが揃っているように見えた。
8月、北海道旅行のためのデポ行が迫る中、手に入れた廃屋同然の古民家で数日間の田舎暮らしをした。大掃除し、ゴミを捨て、水を引き、抜けている床と破れている障子と崩れている屋根と雨樋を補修する。夜明けとともに起き、湧水と薪で煮炊きして、裏の山で排便し、いつ終わるともしれない棲家の修繕を続け、また湧水と薪で煮炊きして、日暮れとともに眠るという生活である。古い家は木と土と紙でできているので、障子紙や水道パイプ以外の補修材は裏の山や庭、もしくは周辺の廃屋から調達できた。
モノをほとんど買わない濃厚な時間がそこにはあった。「北海道で長旅などしている場合ではない。人生の第二章をとっととはじめるべきだ」と私は思った。
だが、休暇をとってしまっていた。休暇内容を、山村生活の準備に変更しようかと本気で検討した。ただ、北海道の長旅もずっと考えていたことであり、今やらなかったらもう死ぬまでやらないだろうこともわかっていた。
今しかできないと考えたのは、加齢により体力と気力が徐々に低下しているためである。そのことを私が強調するので、江本サンと亮之介さんから、年齢と体力のことはあまり言うなと薦められた。もちろん、お二人とも私より年上であり、若い頃に比べて自分のできることが私以上に割引になっていることを実感していて、わかりきった現実を耳に入れたくなかったのだろう。
結局、今後、山村で反消費生活をはじめるにしろ、北海道の無銭徒歩旅行はのちの人生に必要な「なにか」である予感が勝った。いい意味でも悪い意味でもたぶん今の私にしかできないと、自分に言い聞かせ、北海道に出発した。
山旅も反消費生活だと私は思っている。山の中で経済活動に参加したらそれは登山ではない(営業小屋利用などもってのほか)。無銭旅行は経済活動に参加できない。経済活動に参加できなければ、文明社会は(見かけ上)消え去り、世界は荒野に変わる。それが私の予想だった。実際には言葉で意思疎通ができ、人情というものが存在し、日本国民は希望すれば日本国の保護も受けられる。本当の僻地で感じる孤立した切迫感は北海道にはなく、その意味では荒野とは言いがたかった。
だがその状況が逆に自分が何を望んでいるのかを明確にしてくれた。イタチやネズミは廃屋に入り込んでぬくぬくしているのに、私が入り込んだら犯罪になる。鹿やキツネを撃ってよい場所と撃ってはいけない場所が(国によって)定められている。だが、命のやり取りは煮詰めていくと私とケモノとの純粋な問題であり、第三者にとやかく言われる筋合いのものではない。人はどうすればケモノのように自由になるのだろうか。
ちょっと考えたら、答えはすぐに出た。人間だからダメなのである。司法国家の構成員だからいけないのだ。ならば日本国民をやめたい。戸籍を捨てて野生動物として生きてみたい。
今の自分が、保健衛生や治安、義務教育など、国の保護をたっぷり享受して成り立っているのは承知している。反消費生活とは言いながら、飢えて苦しまない程度の蓄えがあるのも事実である。だがそれでも、人とヒトの狭間で北海道を長く旅し(それを地平線会議で発表して)、自分の想いが自分の中で明確になった。
獲物からナツを引き離し、鹿を運ぶ。獲物は重い。だが、カバーをかけない猟銃を肩に家を出て、散歩がてら獲物を獲る。それは山村の生活で夢見ていた瞬間だった。重い鹿を引きながら私はたぶんニヤけていた。
ナツは私の気も知らず、群れから離れて別の方向に逃げた鹿を追って、森の中に消えた。アイツは猟犬としてもう一段階、覚醒するのではないかという予感がある。だが、そのきっかけがどこに隠れているのかはわからない。鹿を家まで運んで内臓を出したら、今日は畑に影を落とす樹の枝を切る予定である。(服部文祥)
■江本さん、すっかりご無沙汰しております。服部文祥さんのお話が聞きたく、超久しぶりに地平線会議に参加しました。以前の報告会(サバイバル登山のとき)に参加し、初めて文祥さんを知りました。その後、本や日経新聞(夕刊)の連載も読んでいたこともあり、今回もまた楽しみにしておりました。
◆そう思っているのは私だけではなく、満席で大盛況でしたね。お金を持たずにナツ同伴の自給の旅。いやっ、「旅」ではなく「長〜いお散歩!?」その「お散歩」の行程やナツとのやりとりなど話に引き込まれました。おもしろかったです。そんな方の奥様や生活にも興味があって、奥様の小雪さんの報告会も行きたかったのですが、なかなか時間が取れずに行けませんでした。
◆でも、今回、念願の小雪さんにも直接お会いし、小雪さんの本『はっとりさんちの狩猟な毎日』を購入しました。ご家族の日常の生活や家族、動物、ご近所との関係などユニークで、イラストもかわいらしく、時にいろいろと考えさせられることもあり、文祥さんの巻末エッセイも面白く、とにかく最後まで楽しく読ませていただきました。
◆江本さんには、ご挨拶せずに帰ってしまい失礼しました。2月にまたエミに会いにオーストラリアへ行ってきます。山火事が気になるところですが、今は、豪雨により沈静化してきたようです。火事は、エミたちの住むエリアは被害はないとのこと。だとしても、山火事の被害は計り知れず、豪雨の影響も心配。そして、さらに世界的に深刻な新型コロナウィルスもあり。私自身、渡航を自粛するより、大好きなオーストラリアに行って少しでも「お金を落としてくる」ことのほうがいいかなと思い、行ってきます。では、またご連絡いたします。(藤木安子)
■江本さん、こんにちは。北大探検部、五十嵐宥樹の後輩に当たる岩瀬龍之介です。先日の地平線会議ではご挨拶が遅れたことをお許しください。地平線会議のことは2年前から知っていましたが、なかなか都合が合わず、足を運べずにいました。今回初めて参加できましたが、報告者が僕が子供の頃から憧れの念を抱いていた服部文祥さんだと知り、勝手に運命的なものを感じました。少し緊張しながら会場に着くと、そこには想像と違い穏やかな目をした服部さんの姿がありました、その穏やかな目に反し彼の口からは、鹿の脂で浣腸をしたり、クマに対峙したときのことなどが語られ彼の生き抜く力強さをひしひしと感じました。
◆しかし、僕が彼に憧れる本当の理由は、己の感覚と力だけで自然と対峙することが、“動物”として清く、そして根源的に重要な行為であると感じるからです。ところがこの行為は、服部さんが「日本人やめたい」とおっしゃってたように、日本では環境破壊的で反社会的な行為であると捉えられがちです。いいえ、僕が農業を通じて多くのヴィーガンやベジタリアンと出会ったことからも、世界的にそう捉えられているように感じます。服部さんの行為をみんなが実践するのは難しいかもしれませんが、服部さんが発信し続けることで、その行為の重要性が社会的に受け入れられる日が来ることを密かに願っています。
◆しかし実際には、日頃から自然と対峙し狩猟を行う先住民の多くが何らかの自然崇拝を有しているように、この行為が自然、さらには命に対する感謝の念を生むのではないかと思えてなりません。そして、これは人間が地球で生きる限り、いつの社会にとっても大事な概念であることは言うまでもありません。その意味において服部さんの行為は“動物”として清く、そして根源的に重要な行為だと思います。服部さんの行為をみんなが実践するのは難しいかもしれませんが、服部さんが発信し続けることで、その行為の重要性が社会的に受け入れられる日が来ることを密かに願っています。
◆さて、五十嵐からも紹介があったかと思いますが、せっかくの機会ですので僭越ながら改めて自己紹介させてください。自然への憧れから2年前に北海道に移ると同時に念願だった探検部に入部しました(五十嵐とはそれ以来のつきあいです)。部に限らず大学で様々な人と出会ったことで、自分の知っている世界を広げたいと強く感じるようになり、2年生になると同時に大学を休学し、例えば次のようなことに取り組みました。
◆フランス、ブルガリア、アラスカ、日本で農業ボランティアとして働き、自転車でスペイン横断、日本縦断、台湾一周などを行いました。特にブルガリアでは、ロマの人々が暮らす村で伝統的に行われるバラの収穫を手伝うなど他の人があまり経験したことがないようなこともやりました。この休学期間の経験は、自分の世界を広げるという当初の目的はもちろん、出会いの素晴らしさに対する気付きや自信をもたらし、更には自分が本当に好きなことを指南してくれたように感じます。
◆これらの経験を活かし、今後当面は、農業用ロボットの開発、そしてブルガリアが有したトラキア文明に関連した探検に精進してまいります。その中で、地平線の仲間と相互に刺激を与えることができればと思います。僕の農業の旅はWWOOF(World-Wide Opportunities on Organic Farmsの略称)という世界的なつながりで支えられています。このことについては近く詳しく話を聞いて頂ければ、と考えています。有機農業を実践する農家のお手伝いをする代わりに、お金ではなく食事と寝床を提供して頂く取り組みです。インターネット上でメンバー登録をすると、日本では400軒ほどの農家と連絡が取れます。ではまた。(岩瀬龍之介 北大2年)
■1月の服部文祥さんの報告会。ナツとブンショーの長い長いお散歩。通信の予告文を読んでから楽しみにしていたし、実際面白かった。改めて服部さんはいつも今を全力で生きているんだな、と、思った。
◆2018年、地平線40周年の舞台で服部さんと対談させてもらった。話はまるでかみ合わず、小心者の僕は途中から客席の反応の方に意識が向いていた。広い会場は暗く、舞台から見えるのは最前列のお客さんだけ。その顔に浮かぶうっすらとした笑いは、表情をそのまま信じても大丈夫という感触があり、まあいいか、と、開き直ることにした。
◆翌月報告会レポートを読んでみて痛かったのがこの一文だ。
《三輪さんが「江本さんも速くて5000mを17分台で走るんです」というと、服部さんはここでも間髪入れず、「『走った』んですね、そこ重要ですからね」と。》(編注:登壇者は坪井伸吾さん、服部文祥さん、三輪主彦さんの3人。田中幹也さんが途中から飛び入り参加)つまり対談で服部さんは「今」を語り、語るべき「今」を持っていなかった僕は過去しか語れなかった。
◆もうひとつ根本的に違うのは、服部さんは常に戦う「狩る」側の目線だが、15年前に北米をランニングで横断していた僕は「狩られる」側だったことだ。銃が日常にある社会では、銃を手にした人間が目の前に現れる可能性を排除できない。その社会での野宿は自ら銃を持つ人間を呼び寄せてしまう。だから野宿はしたくないのだが、次の町までたどり着けないのだから仕方ない。太平洋から走り出して2日目。ロスの住宅街で野宿に追い込まれた。
◆幸い建設中の広い公園があり、その中央部に川になると思われる細長い空き地があった。こっそりそこに忍び込みテントを張った。誰にも見つからなかったはずだし、窪みの底は深く、テントはどこからも見えないはずだった。でもバレているのだ。人間にではなく、犬に。
◆一番近い西側の家まで数百メートルはある。北側はそれよりも遠い。見えるはずがない。でも犬は気づいている。犬に騒がれると飼い主が銃を手に異変の確認にきてしまうかもしれない。真っ暗闇の中、テントの中で半身を起こす。犬がその動きに反応して、さらに吠える。見えるはずがない。犬の持つセンサーがここまで届いているとしか思えない。その能力がどこまでなのか、動きを少しづつ小さくして探る。せいいっぱい気配を消していくとやがて気づかれなくなる点がある。この日、犬は敵に回すととんでもなくやっかいな生き物だと分かった。
◆町を出てしまえば野宿は平気かというとそうでもない。道路沿いの無人地帯に延々と続く柵は、そこが誰かの所有地であることを示している。柵の中に入れば不法侵入で、やはりリスクが発生する。予想外だったのは広大な農場。隅っこのほうなら誰にも見つからない、と、思ったら、やっぱり見つかる。牛や馬などの家畜、そこに住んでいる鳥、周辺にいる生き物すべての怯えがセンサーになり番犬に届いてしまう。すると農場とその周辺すべてが人間を頂点とする巨大な装置として機能する。
◆イリノイ州、ベンブリッジで野宿に追い込まれた時だった。日没後、背後の森で突然、犬の激しい声が上がり、ほぼ同時に銃声が響いた。マズイ。動きを止めて気配を探る。もう一度銃声が鳴る。最初の音より遠い。犬は2匹。ロスの町中に飼われている犬などではない。猟犬が全力で生き物の気配を探っている状態。その網がここまで届いてしまったら見つかる。
◆こんなところで野宿している人間がいるとハンターは思っていない。殺気立った猟犬に噛まれても旅は終わりだ。これは考えることも止めて石になるしかない。「狩る」側は失敗しても腹が減ったで済む。が「狩られる」側は一度のミスも命とりだ。北米を走り終えてロスの宿に着いたとき、リトル東京で働いているコックさんから恐ろしい話を聞いた。「俺のおじさん、テキサスに住んでるんです。で、家の中と外に犬を飼っている。外の犬が吠えると、それに中の犬が反応する。そしたらおじさん散弾銃持っていって犬が吠えている場所めがけてぶっ放す。そこに何がいるか確認なんて全然しないですよ。この国で野宿なんかしたらダメですよ、坪井さん」。ああ、ヤダヤダ。旅を始める前に聞かなくて本当よかった。
◆今回の報告会で服部さんは垂直から半水平の旅へと移行した。その長い旅のどこかには狩られる側目線になる瞬間もあるのかな、と、思ったが、服部さんはどこまでいっても強い服部さんで、やっぱり僕とは目線が違う、と思った。(坪井伸吾)
「2019年植村直己冒険賞」が2月12日午後2時、お茶の水の明治大学紫紺館で発表された。24回目の冒険賞受賞者は、全盲のハンディキャップを背負いながらヨットで太平洋横断をなしとげた岩本光弘さん(53才。米カリフォルニア州サンディエゴ在住)。昨年2月25日、アメリカ人健常者のダグラス・スミスさんとヨットてサンディエゴを出航、4月20日、福島県いわき市に到達した。2013年にもテレビ・キャスターの辛坊治郎さんとチャレンジしたが、クジラらしい物体と衝突、中途断念、今回はそのリベンジだった。
■今年も3月6日(金)から10日(火)まで「長野亮之介・猫絵展4」が、ギャラリー「メゾンドネコ」(東京都中央区京橋1-6-14 佐伯ビル2F/03-3567-9990)で開催されます。
今回のタイトルは「亮月幽森──絵本『おつきさんとねこ』・序章」(「亮月(りょうげつ)」とは、明らかな月、曇りなく澄みわたった月のこと)。
いま、メゾンドネコのオーナー・平きょうこさんの書いた童話に絵を付けていく企画を進めていますが、その一端をお見せします。長野家に棲む7匹の猫たちを描いた縁起物の「七福猫手ぬぐい」も制作中。どうぞ、お誘い合わせのうえ、お越しください。
以下は亮之介画伯による絵師敬白:
「ネコは時に何もない空中をじっと見つめる。目には見えない何かを見ようとしている。夜のしじまで狩りをする時も息を殺して、見えないものの気配を読む。音や匂いや、月の淡い光を味方につけて。森に捨てられたネコと月の対話をつづった童話『おつきさんとねこ』(平きょうこ作)を題材に、森の中で生きるネコの姿を描き始めている」。
◆時間は12時30分〜19時(日曜・最終日は17時)。地図や会期中の在廊予定などは特設ブログ(https://moheji-do.com/ryogetsu)でご確認ください。(丸山純)
先月に続いてドルポで越冬中の稲葉香さんから留守本部に日々の報告が届いた。短いが日々の行動を記録した貴重な日記を全文紹介する。
━━1月11日
リウマチ日記。薬抜いて46日目、調子良い! 調子乗らんように実験中!
━━1月12日
早速調子に乗り昨日夕方不意にテントで爆睡、冷えて膝痛い、バカだ。
昨日の機織り見学出来て嬉しくて寝てしまった、反省。
今朝はガイドのタマン族の村の話、昔のポーター時代の話聞いて盛り上がる。
別の家の織物見学。今はKTMで糸を購入する所が多いがここは羊やヤクの毛を紡いでた。
━━1月13日
膝復活してきたから明日からナムドー方面に4日分の食料持って散策計画!
荷造り完了! ナムドーはここより寒いらしい、天気の安定を願うわ。
━━1月15日
慧海師が滞在したドゥンタール村でキャンプ。冬で人少ないけど出会う人皆優しい!
関野さんのGJ本の写真に出てくる人(20年前)今も村にいるらしい。会えたらいいな。
気になっていた場所へ行ってきた。ドルポ全土がゴンパ(お寺)のようだ。
シェー山を中心に曼陀羅が描かれてるかのようにゴンパがあるように感じる。
━━1月16日
昨日雪豹がヤギを襲ったようだ。近くの山にいるかも?と思うとドキドキ!!
朝起きたら真っ白!雪が降り続いてる。ラパ村散策予定だったが、今日は停滞する。
自然と隣合わせに生きる姿、今を生きる、ダイレクトに感じる、切ないぐらい。
━━1月17日
雪かきで必死になってたらチベタンテントのポールが折れてた。木で復活したけど。
雪で停滞。村人がラッセルして帰宅、小さなラマが雪の中水汲みに行く姿に感動。
━━1月19日
今日は晴れ隣村を散策。明日はサルダン帰るかもニサルでプジャ情報あり。
関野氏のGJの本(20年前)の写真に出てくる人会えた。しかも覚えてると!
━━1月20日
さらに出発前関野氏と話した内容のユンドゥンラマの親戚だった。驚き!
サルダン村帰ってきた。ナムド地域の方が雪が多い。氷の回廊になってる谷あり。
━━1月21日
明日から3日分の食料持ってニサルへ移動。大きなプジャがあるようだ。
━━1月22日
ニサル到着。ナムグン河を北上、雪、ツボ足、アイス、ボッカ、めっちゃバテた!
━━1月23日
プジャだと思ったら冬の大祭だった。見たかった祭でしかも今日はメイン、絶妙!
━━1月24日
あと3日あるようで、しばらくここにいる。昔、大西隊長が言ってた祭だ。
明日からソナムロサル(タマン族のお正月)ドルポでもあるようだ。
━━1月25日
今日のプジャは僧侶のみ。昼から学校見学に行く。念願のドルポの織物を購入!
━━1月26日
厳冬のパンザン河、カッコいい! 帰りにヤギの放牧の女の子と遭遇。たくましい!
━━1月27日
今日がロサルのプジャがある。昨夜から村人みんな忙しくしてる。楽しみ!
ローカルのお正月をみさせて頂いた感じ、寒い中ずっと外で皆でご飯を食べて踊る。
━━1月28日
風邪ひいた。昨日のお正月見学がずっと外で寒かったから。今日はレストする。
━━1月29日
今日の昼間はずっと寝てた、ましになってきたがまだ気怠いので明日も停滞予定。
昨日昼間も寝てたからだいぶましになってきた。今日もレストする。
ちょっと散歩した。ドルポの女性達は職人だ。織物技術が素晴らしい!
━━1月30日
レスト3日間で体調はかなり復活。今日はお正月の家のプジャを見学、貴重な時間。
━━1月31日
体調復活! 病み上がりなのでサルダン村まで2日かけて、村見学しながら移動。今回泊まってた家は、偶然にも13年前に写真撮影してた女性の家だった。
ティリン村着。思ってた以上に雪あり。あてにしてた人がいなかった!笑。
━━2月1日
拠点のサルダン村着。最後の登りは何回登ってもバテバテ。今日は風キツかった。
━━2月2日
今日は快晴! テント干して洗濯物、屋上で全部ドライ! 自分の身体は垢まみれ?!笑
━━2月3日
今日でDolpo-hair(香さんの美容院の名)9年目! 帰国後は営業スタイル変える予定。宜しくお願いします。
━━2月4日
立春、サルダン村ではお寺でプシャだけど、さっきバイクの音がした。
これが今の現実、中国側からバイクが入ってる。国境から道も作られてるとこあり。
風邪が完全に治ってなかった。プシャ見学に行くと冬道知ってる強者と遭遇!
プシャは久しぶりにサルダン村人と会えてよかった。みんな声かけてくれる。
━━2月5日
レスト中、時代が交差するかのように読経、織物、バイクの音が聞こえてた。
気怠さと寒さが抜けないので今日はレストしてた。明日もレストかな? 風邪治す為に。
━━2月6日
体調は少し良くなってきたが暫く休養。こないだ完全復活してなかったから油断禁物
下山タイミングを思案中。村人毎日言う事違うからややこしい!
━━2月7日
今日も休養中。昨夜から下痢、唐辛子食べすぎたかなぁ、笑。今日は風強い!
先日、江本氏の計らいで地平線通信に越冬便りを掲載して頂いた。感謝感激!!
■稲葉香さんの「留守本部」は、香さんの住む、大阪府唯一の村、千早赤阪村に集まる女性たちが自発的に立ち上げ、活動している。その中の1人、斎藤恵美さんに、稲葉香応援団の背景、現地との連絡方法などについて書いて頂いた。(E)
香さんの生き方に共感し、自然と集まってきた6名〜7名の仲間たちで、留守番本部を設置しています。メンバーは、香さんのパートナーや周辺の友人達で、普段は美容師としての香さんをお客さんとして支えたり、香さんの住む千早赤阪村の古民家に時々集って手作りモモパーティーを開催して楽しんでいるメンバーだったり、普段から香さんが不得意な事務的な面を支えている昔からのクラブ仲間や、ネパール語が得意な山仲間といった様々なメンバーが、ドルポという辺境の地で越冬を実践する香さんをそれぞれが出来る範囲で支えています。
たくさんの方々のご支援によって実現したドルポ越冬計画ですので、越冬中に日々衛星メールで香さんから届くメッセージを、ご支援頂いた方々へ【ドルポ越冬便り】としてまとめ、隔週で一斉配信をしていますが、あまり負担にならないように、月ごとに分担してやっています。私は旅行の仕事をしているので、今回の遠征の海外旅行保険の緊急時の窓口も兼ねていて、航空券の相談もしています。個人的なことですが、元々は美容師とお客さんの関係から始まり約20年来の付き合いですが、香さんとはこれまで過去10回ヒマラヤトレッキングツアーを一緒に企画してきて、内7回ネパールの山々を一緒に歩かせてもらいました。その度にパワフルな香さんの生き方や、自分の本当にやりたい事を実現させる意志の強さには大いに影響を与えられました。香さんを縁の下で支えながら、間近で関わらせてもらっていく中で、私の人生も変わったと言っても過言ではないくらいです。
香さんが契約しているinReach双方向衛星通信機によって、一回80文字以内の短いメッセージのやり取りをしています。月定額プランで契約しているため、何度やり取りしても同額です。伝えたいことがあるときは、短い文章で1日に何度もメッセージをやり取りすることもあります。
今回、江本様の計らいで、地平線通信にドルポ越冬便りを載せて頂いたことを本人に伝えたら、とても励みになっているようでした。偶然にも、関野吉晴さんの20年前の本に出てくる人に出会えたこともあり、関野さんの次に掲載されていることにも触れると、とてもテンションが上がっていました。(斎藤恵美)
■チリからやっと厳冬のアラスカ、トナカイファームに戻る時期になった。その前にちょっと時期が悪いがハワイに寄り道だ。この季節ハワイには強い貿易風とともにストームがやってくる。山の上は吹雪になる。島に1台しかない除雪車が再凍結した硬い雪を苦しそうにとばしている。壊したりしたら、もちろん部品はこの島にない。雪が1m以上風下にたまり5年前に地温を測った穴が見つからない。 穴探しや隠した測器探しは結構やったが、見つからない時、ポテトチップスと同じで、いつもやめるタイミングが難しい。
◆話は飛ぶが、モンゴルやシベリアでは測器は、珍しい宝物、スパイ報告の手柄、金になるのでは? とかいう理由で盗まれることが多い。そのため跡形もなく埋め隠す必要がある。データ回収では山に向かって10歩とか、北極星に向かって15歩とか、朝まで海賊ゲームのような宝探しをやる羽目になる。
◆モンゴルのように草原で遠くまで見渡すことのできるところでは、はるか遠くから単眼鏡を使って、じっと埋め戻すのを見られていることが多い。我々が作業を終えて、いなくなるとすぐにやってきて、掘り返して、持って帰ってしまう。そんな時は、ダミーを使う。古くなった部品や壊れた測器は捨てずにモンゴルまで持ってきて、本物のロガーを埋めた上の地表付近にこれを埋めておく。すると盗人たちは壊れた測器を見つけて喜んで(満足して)帰って行く。
◆話をハワイに戻そう。5年前なぜ測器を穴から回収したかというとTMT(30m telescope)という巨大な天文台建設が始まる(予定だった)からだ。ただでさえマウナケアの頂上はスバルなどの天文台群で目立つが、TMTはまるで摩天楼ができるような高さだ。天文学的に画期的な発見が予想されるが、同時に景観が驚くほど悪くなる。このことが風評になり、2015年2月からの基礎工事が反対派の道路封鎖にあい、今日まで延期になっている。これからも先の見えない状態だ。とすると温度観測穴だけは復活させたいところだ。私のミッションは、反対派バリケードを通過して、地温観測を再開することである。
◆ところでチリでの登山&ドライブは、順調だった。連日山にのぼり、永久凍土に穴を掘り、センサーを隠して、そしてまた次の山へ。この繰り返しだ。出かけてきた山も世界一高い火山、世界最高所の遺跡など話題に事欠かない。標高5900mにある硫黄鉱山は世界最高所の鉱山で90年代はじめに閉鎖された。ここで80年代4人が暮らしたことがあり、今でも人類が恒常的に生存した最高記録の場所だ。温泉もかなり楽しんだ。毎秒3トンの掛け流しというか、ちょっと熱いが川そのものが温泉や塩湖の辺りのぬるいお湯など不思議なことにどこの温泉もだいたい標高4400m前後だった。温泉の話はどこかでしたいと思う。
◆ところで、アンデスで二番目に高いオホスデルサラードはかなり面白い山だった。アコンカグアは誰でも知ってるアンデス最高峰だが70mぐらい低いだけで、その知名度、登山客の数が全然違う。私から見たらアコンカグアより、いくつものクレーターや火山灰が堆積している火山オホスデルサラードの方が格段に魅力的だ。世界一高い湖はここのクレーターレイクだ(6740m)。先日アルゼンチンのダイバーが初めて潜水に成功した。今まで誰も湖に入れなかったのは、1m近い氷に一年中覆われていたからだ。これを割ってその下に5mの水があったのは驚きだった。この山で4箇所の穴を掘り、センサーを隠して、その後ユヤイヤコ山の偵察に向かう。
◆ここは世界最高所の遺跡がある山で、500年余りインカの子供達が眠っていたところだ。90年代にミイラを発掘したヨハン(アメリカの考古学者ヨハン・ラインハルト)と以前どうやって永久凍土を掘ったのか? 子供たちは発見時どのくらい凍っていたのか? など発見当時の話を聞いたことがある。インカの凍土を掘る道具や技術など長い間興味のあった山だ。
◆ユヤイヤコ山への分岐の集落、鉱山を通り過ぎていたにも関わらず人の気配がまるでなかった。何か異次元にタイムスリップしたみたいな不思議な感覚だ。とりあえず、人を見たくて国境(峠)へと向かった。そこへいけば人に会えるような期待があった。それも若い頃の自分に会えるように思えた。
◆今から34年前、ヒッチハイクで旅していた頃、車に乗せてくれて、サルタの家に逗留させてもらった親切な人が不思議な手配をしてくれたことがあった。車では行けない国境の峠越えだが、貨物専用の鉄路があった。この峠をチリ(イキケ)のバレーボールチームが親善試合の帰りに一両の専用列車を仕立てて帰路につくという。これに乗れるよう、私をチームの一員にしてくれ、これでアルゼンチンから列車で越えることができたのだ。列車が峠の手前でストライキになり、3日間寒さと高山病に悩まされた苦い思い出の地だ。
◆あの時と同じ景色、青い空、車のスピーカーからは聖子ちゃんの歌声、時間が戻って行くような、峠に行けば、何か不思議なことが起こるような気がした。もしここで若い頃の自分に会ったらどうするだろう? 声を掛けるか? 否、会っても、きっと声をかけないだろう。そう、特にあれから助言とかする必要のない人生だったのだろう。結局人恋しさは吹っ切れて、峠の少し前で引き返すことにした。(吉川謙二)
■その連絡が来たのは、年が明けて間もない1月9日だった。メッセンジャーにセサリオから1通のメッセージが届いていた。「パラオに来る航空券はもう予約したのか?」で始まったメッセージを見た瞬間、嫌な予感がした。それは「モーリシャスからハワイまでの航路は伴走船をつけないといけなくなった」と締め括られていた。
◆4年前パラオからグアムまで旅したアリンガノ・マイスとハワイに向かう1万キロの航海が、1月25日から始まるはずだった。期間は約4か月。その航海に参加するために12月末で約17年間勤めた会社を退職したばかりだった。モーリシャスからハワイまでの4,000キロは途中寄れる島もない難所であることは確かだが、青天の霹靂とも言える状況を前に心臓の鼓動は速くなり、目の前が真っ暗になった。
◆マイスはパラオに来て以降、航海中伴走船をつけたことはない。だから、今回も同じだと思っていた。その日から眠れない日々が続き、航海の準備を進める手が止まった。まるで大海原で突然嵐に遭遇したような気分だった。その後決まった新しい出航日は2月25日。それまでに伴走船の目処をつけないといけない。毎日パラオ側とやりとりし、ハワイの友人達ともコンタクトを取ったが、状況に変化の兆しは見られない。
◆そんな中、いても立ってもいられず、一度キャンセルしたパラオ行きの航空券を再購入した。出発は2月4日。しかし、前日にインターネットで見つけた記事は、僕を更に落胆させるのに十分なものだった。ミクロネシア連邦がコロナウィルス汚染国からの入国を拒否し始めたのだ。ミクロネシア連邦ヤップ州のヤップ島は、今回パラオから出航して1番初めに寄港する島。もし仮にパラオが汚染国となった場合、航海自体が中止になる可能性も否めない。
◆そんな不安を抱えながら、パラオに向かった僕を迎えてくれたのは、いつもと変わらないセサリオや彼の家族だった。不安を口にする僕にセサリオはハワイだけでなく、マーシャル、サイパンの友人達にも連絡を取り、伴走船を探していること、仮に出航前に伴走船の算段がつかなくとも、途中寄港する島々で状況を確認し続けること、そして、最終的に伴走船が見つからなかった場合は2人でタヒチに向かい、クック諸島のカヌーでハワイに向かう計画を立てていることを話してくれた。
◆タヒチには6月10日からオアフ島で開催される太平洋芸術祭に向けてポリネシアのカヌー達が集まることになっている。「マイスのハワイ航海は自分にとってだけでなく、ミクロネシアの人々、もちろん、ハワイの人々にとっても大事なものになるはずなんだ。マイスは父であるマウ・ピアイルグに感謝の気持ちを込めてハワイの人々がつくったカヌー。そのカヌーが13年振りに生まれ故郷に帰る航海になる。だから、マイスでのハワイ航海を最後まで諦めない」と語ってくれたセサリオ。彼と対峙し、直接言葉を聞くことができたことで、「行けるところまで行こう」と揺れていた心が定まった。
◆僕自身もマイスと共にハワイ島に辿り着きたい。8日に一旦帰国した僕は、これから最後の準備をして14日に再びパラオに向かう。正直どこまで行けるかは分からない。それでも、4年前に見た景色の先にあるものを次の航海の中で手に入れたい。(光菅修)
地平線通信488号はさる1月15日、印刷、封入作業をし、18日郵便局に託しました。今月は原稿が多く、18ページのものとなりました。駆けつけてくれたのは、以下の皆さんです。地平線会議はどんなに汗をかいてもお金や名誉のお返しはできません。そんなことを承知で駆けつけてくれるひとが毎月必ずいることに感動します。ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 坪井伸吾 伊藤里香 光菅修 兵頭渉 杉山貴章下川知恵 落合大祐 高世泉 松澤亮 江本嘉伸
■広島県呉市の自宅に戻ってテレビをつけると、「令和のキャッツアイ」と呼ばれる若い女性二人組がホスト宅から3000万円相当を盗み、ホストクラブで豪遊していたというニュースが流れてきた。その犯行の舞台となった新宿歌舞伎町に宿を取り、1泊2日片道5時間かけて初めて地平線報告会を聴講してきたばかり。江本さんから、印象記を書くよう依頼されていたので、その書き出しを「ラブホテルの森を抜けると、そこは韓国だった」に決めていたのだが、森にはホストクラブもあったのか……。その森の次には、これでもかというくらい韓国料理屋が続いて、そこを抜けると早稲田(西キャンパス)だった。私は上智大学だが、早稲田の校歌の出だしくらいは知っている。♪都の西北鹿ぞ住む……ん? そのディア・ハンター、サバイバル登山家にして行動する思想家服部文祥氏が講師だった。
◆会場(新宿スポーツセンター)に到着し受付で確認したら、4時半にならないと担当の方は来られないとのこと。私は開始時間を間違えていたのだ。やむなくロビーのベンチに座っていると、周囲は小学生くらいの子供を連れたお母さん方でごった返しており、何かのごほうびにアイスをおねだりしている男の子もいて、ぽっと出の田舎のおじさんには場違いなことはなはだしい。
◆会場の下見に二階に上がると、当然関係者は誰も来ておらず、やむなく周囲を散歩した。ガラス張りの向こうはプールになっており、子供たちの泳ぎを熱心に見守るお母さんたち。各部屋も体操やらバレエやらの教室で生徒たちが熱心に練習しており、壁には若くて美しい女性インストラクターたちの紹介が掲げてある。ここに至るまでの街の様子と比べると別世界だ。
◆ベンチに座って、サインをもらうために持参した『サバイバル登山家』の「肉屋」を再読。もう何回読み返しただろうか。何度読んでも感動する。ふと目をあげると、そこに天使が、いやバレエの衣装を着けた少女が立っていて、私の隣にはその母親が座っている。これは、何かの啓示だろうか、と思う間もなく、天使はするするとパンツを脱いで着替えを始めた。
◆エッ! 母親もそれを制するそぶりもない。私は一瞬自分が透明人間になったのかと思った。どうやら彼らにとって、私は「変なおじさん」ですらなく、空気のようなものなのだと推察できたが、とっさの判断で読書に疲れたふりをして狸寝入りを決め込んだ……。
◆報告会が始まった。会場はほぼ満席。別世界の中に、毎月一度、周囲とは違った「場」が現れる。それは必ず現れる。その場では、鹿を撃ったり、野グソをしたことが真剣に報告され、聴衆も熱心に聴いている。報告が始まってしばらくすると、上の階から、ドシンドシンという音が聞こえてきたので驚いた。周囲の人は慣れっこになっているのか、表情ひとつ変えない。おそらく、室内運動系の教室が行われているのであろうが、私には、何かの弾圧の足音のような気がした。
◆昭和39年、東京オリンピックの直前に開高健が週刊朝日に連載したルポルタージュ、『ずばり東京』に神田の下水処理場を小学生の文体で紹介した項がある(「ぼくの“黄金”社会科」)。処理場から出て来た水はびっくりするくらいきれいになるので、放流口のまわり2メートル四方だけには、荒川の汚水の中にあっても魚が住んでいる。
◆「つまり魚はガラスばりの部屋のなかでくらしているようなものです。処理場の水は朝から晩まで流れてとぎれることがありませんから、この部屋はこわれないのです」。地平線会議という場がこわれずに続いているのは、外から絶えず新しい水が流れ込んでいるからだろう。そのために払われる江本さんを始め、スタッフの方々の努力には頭が下がる。私もその水分子のひとつくらいにはなれただろうか……。
◆懇親会のあと、岡村隆さんに誘われるまま、ふらふらついて行った二次会で、隣に座ったのが坪井伸吾さんだったので驚いた。地平線通信の「先月号の発送請負人」でしばしばお名前を拝見していたので、もしかしたらサインをもらえるかも、と『アマゾン漂流日記』を持参していたのだった。駅で別れ際に岡村隆さんと握手したのは記憶しているが、私は酔うと人格が崩壊する性格なので(ただのアホ)番組の途中不適切な発言等があれば深くお詫び申し上げます。家に帰って改めて本を開くと、こう書かれてあった。「豊田さんへ なんとかなるよ 坪井伸吾 2020・1・24」(豊田和司 広島県山岳スポーツクライミング協会理事長 詩人)
■先月の通信でお知らせして以降、通信費(1年2,000円)を払ってくださったのは以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。地平線会議の活動は皆さんの志でささえられています。通信費振り込みの際、できれば江本宛て近況などお知らせください。
大塚善美/福島健司(20,000円 いつも、地平線通信を楽しく読ませて戴いております。なかなか報告会に行けないのでお支払いしていなかった10年分の通信費をお送りしました。今は浜松住まいで、思い立ったらすぐにバイクで林道を走れる環境を楽しんでいます。東京にはあまり戻りたくないですね)/高松修治/稲森一彦/内山邦昭/ 木下聡(6,000円 3年分)/藤木安子/中川原加寿恵
■70歳の誕生日を迎えた2017年9月1日、スズキのVストローム250を走らせて、「70代編日本一周」に旅立ちました。この「70代編日本一周」は地平線通信で書かせてもらい、昨年の1月の報告会でも話させてもらいましたが、94日間で2万5296キロを走り、12月17日に東京・日本橋にゴールしました。日本の47都道府県に足を踏み入れ、47都道府県庁所在地を通過し、「日本本土四極」の納沙布岬(北海道)、宗谷岬(北海道)、神崎鼻(長崎)、佐多岬(鹿児島)の東西南北端に立ちました。
◆岬には徹底的にこだわるカソリ、「日本本土四極」のみならず、北海道の4極、本州の4極、四国の4極、九州の4極と、「日本本土十六極」に立ちました。さらに沖縄本島では最北端の辺戸岬と最南端の喜屋武岬(実際にはその南の荒崎ですが)にも立ちました。
◆しかし、それ以上にこだわったのは日本の旧国です。今回の日本一周では、「五畿七道」の68か国に足を踏み入れました。「五畿」は畿内の大和、山城、摂津、河内、和泉の5国、「七道」は東海道の15国、東山道の8国、北陸道の7国、山陽道の8国、山陰道の8国、南海道の6国、西海道の11国です。島国の佐渡(北陸道)、隠岐(山陰道)、壱岐(西海道)、対馬(西海道)、淡路(南海道)の5国にも渡りました。
◆バイク旅の良さは「境」がよくわかることです。旧国の国境では必ずバイクを止めるようにしました。峠や大河のようなわかりやすい国境はいいのですが、たとえば伊豆と駿河のような通り過ぎたのも気がつかないような国境では、何度も行き来しました。そして旧東海道の幅2、3メートルほどの川(境川)が国境になっているのを確認するのでした。
◆日本の旧国を面白がるようになったのは、民俗学者の宮本常一先生が所長をされていた日本観光文化研究所で、日本を歩かせてもらうようになった30代からのことです。地図を見ると、まずは旧国の国境に赤線を引きました。たとえば静岡県だったら伊豆、駿河、遠江で、愛知県だったら三河、尾張で、岐阜県だったら美濃、飛騨で見ていくという旅の仕方です。
◆「50代編日本一周」(1999年)と、それにつづく「島めぐり日本一周」(2001年〜2002年)でも日本の旧国68か国をまわりましたが、そのときは旧国のシンボルとしてそれぞれの国の一宮、68社をめぐりました。驚かされたのは68か国のすべてに千何百年という歳月を乗り越えて、一宮が残っているということでした。何という生命力。それ以降、カソリの「一宮めぐり」は始まったのです。
◆一宮は1国1社ではなく、複数社の国も多いので、カソリのカウントでは全部で104社になります。ということで、ことあるごとに日本各地の一宮をめぐるようになりました。「一宮めぐり」を始めて21年目、昨年(2019年)、ついに100社を超えて102社になりました。残るのは越中の一宮の雄山神社と、出羽の一宮の大物忌神社です。ところがこの2社が大変なのです。雄山神社は立山の山頂、大物忌神社は鳥海山の山頂にまつられているからです。
◆7月26日、まずは越中の一宮、雄山神社に向かいました。里宮の2社、岩峅寺の雄山神社(前立社壇)と芦峅寺の雄山神社(中宮祈願殿)を参拝し、立山の玄関口の立山駅へ。そこからケーブルカーと高原バスで標高2450メートルの室堂まで行きました。室堂から立山登山が始まります。ヒーヒーハーハーいいながら標高2690メートルの一ノ越まで登り、雄山山頂への急坂を攀じ登りました。
◆立山は雄山(3003m)、大汝山(3015m)、富士ノ折立(2999m)の3峰から成っていますが、そのうちの雄山山頂に雄山神社の本宮がまつられています。雄山の山頂に到達したときは感動の瞬間で、そこからは北アルプスの後立山連峰の山々を一望するのでした。すぐ近くまで雷鳥の親子がやってきて、登山の疲れを癒してくれました。雄山神社の本宮では若い神主さんにお祓いをしてもらいました。
◆8月30日には出羽の一宮、大物忌神社に向かいました。大物忌神社の蕨岡口の宮と吹浦口の宮の里宮2社を参拝し、鳥海ブルーラインで鳥海山5合目の鉾立へ。「鉾立山荘」で一晩泊まり、翌日、鳥海山の山頂を目指しました。御浜小屋で昼食を食べ、猛烈な風が吹き荒れる稜線上の道を登り、ついに鳥海山山頂直下の御室小屋に到達。御室小屋に隣りあって大物忌神社の山頂本社がまつられています。大物忌神社の山頂本社の参拝を終えると、ぼくは新たな地平線を見る思いがしました。
◆「一宮めぐり」は日本の旧国を見てまわるのにはすごくいい方法ですが、いよいよ旧国の本丸に迫っていきたくなったのです。ということで、かつての旧国の中心の「国府めぐり」をしようと決めました。「国府めぐり」を始めたのは2020年になってからのことです。まずは神奈川県伊勢原市の我が家に近い相模の国府へ。ここは大磯町になりますが、「国府」(こう)の地名が残っています。相模の総社の六所神社を参拝し、国府津にも足を延ばしました。つづいて海老名へ。ここには国分寺跡と国分尼寺跡がありますが、「国府めぐり」では「国府」と「国分寺・国分尼寺」をセットで見ていこうと思っています。
◆相模の次は武蔵の国府です。JR南武線の府中本町の駅前が国府跡。ここでは復元された国府の模型を見ることができました。つづいて武蔵の総社の大國魂神社を参拝。境内にある「ふるさと府中歴史館」の「国府資料展示室」を興味深く見てまわりました。つづいてJR武蔵野線の西国分寺駅へ。そこから歩いて国分寺跡に行きました。国分寺跡を見てまわったあと、府中街道を渡り、JR武蔵野線の下をくぐり抜けて国分尼寺跡へ。このとき、府中街道が古代日本の官道の東山道の一部であることを知るのでした。
◆明日はバイクを走らせて、千葉県の「国府めぐり」に行ってきます。下総の国府(市川)から上総の国府(市原)、安房の国府(館山)と、房総の国府を見てまわります。何が見られるか、すごく楽しみです。つづいて上野(群馬県)、下野(栃木県)、常陸(茨城県)と北関東の国府をめぐります。10年計画でのカソリの「国府めぐり」はおもしろくなりそうです。(賀曽利隆)
■服部文祥氏のことを「思想家」と、広島の詩人、豊田和司氏は言い切るが、私も同感である。学生時代(当時は村田文祥)から登攀の力も文章力も突出した若者だった。2002年の「国際山岳年」で「我ら皆、山の民ー私たちはなぜ山にひかれるのか。日本の山をめぐる文化的挑戦」というテーマでシンポジウムを開いたことがある。主催は国際山岳年日本委員会(田部井淳子委員長 故人)。事務局長だった私は三輪主彦さんを司会進行にお願いし、学術と登山の両面から日本の山を語ってもらった。その際、登山の世界を代表してお願いしたのが山野井泰史、服部文祥、石川直樹の3人だった。
◆国際山岳年の総括報告書『我ら皆、山の民』で服部君に「山登りが日本を救う」との文章を書いてもらった。その中で彼は「科学の指針である地球開拓としての登山は役割を終えている。だが、登山はまだ大きな役割を持っている。地球のサイクルから離れた現代文明人に、もう一度身体感覚を取り戻させ、地球規模の視点を与える役割である」と書いた。
◆先日の報告会は期待に反せず素晴らしかった。ただ、彼が意外に執拗に社会の「評価」を気にしていることが微笑ましかった。彼ほどの思想家なら世間の評価などとうにどうでもいいのではないか、と思うからだ。思想家行動者としての服部文祥の立ち位置は揺るぎないものだからだ。
◆ただ一つ、気にしてほしいのは、仕止めた11頭の鹿をどれもしっかり食べきれず「背ロース」以外は放置せざるを得なかったことだ。あれだけの旅だからやむを得ないことはわかるが、屠った以上、命全てを食べきることは実は大事なことではないのか。いつかそんな旅もナツとぜひ実践してほしい、と願う。(江本嘉伸)
インド北東部ミッション・ポッシブル!
「ナガ族の人達は納豆を食べるんですよ。ピリ辛でおいしい」と言うのは延江由美子さん。医療支援を旨とするカトリック修道会MMS(メディカル・ミッション・シスターズ)の唯一の日本人シスターとして、インド北東部で'07年からハリやマッサージなどのケア活動やセラピストなどの活動を行っています。 インド北東部7州のうち、ナガランド、マニプルなど5州はチベット・ビルマ語系の先住民族が中心の地域。「顔も日本人に似てるから、私も修道服を着ないと現地の人と思われるの」。第二次世界大戦の時は日本軍が侵攻し、戦後は独立運動を巡ってインドと長く争うなど複雑な歴史のある地域です。 もともとは獣医を目指していた由美子さん。アフリカで獣医になりたいと他街道大学の獣医学部に進み、資格も取得したものの、何か違和感を覚えました。高3の時に一年留学したアメリカでクリスチャンのホストファミリーに人生が変わるような出会いを感じて学生時代に入信した由美子さんは卒業前にマザーテレサに会い、針路を看護師へと変更します。 社会人を経て渡米し、ワシントンの大学で看護師に。この頃MMSを知り、その活動に共感してシスターとなり、インドのミッションに参加し、今に至ります。修道女社会での軋轢や、インド北東部の独特な文化などに戸惑いながらも「私、文化人類学的な興味もあるので面白い」という由美子さんに、知られざるインド北東部の暮らしを語って頂きます。 |
地平線通信 490号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2020年2月12日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
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Fax 03-3359-7907 (江本)
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