11月13日。9時の気温13度。台風19号から1か月。総務省消防庁によると、台風19号と続く21号などによる大雨で死者は、91人に達した(行方不明者は5人)。うち4分の1にあたる23人が浸水した車内で死亡した、という。もう一つ、強く印象に残ったのが、長野市内の車両基地で水没した北陸新幹線の車両の上空からの風景である。あれほど綺麗にスマートに私たちを運んでいた車両はもう使えないそうだ。JR東日本は10編成すべて(つまり120両)を廃車にすると発表した。JR西日本保有分を含め損失額は148億円という。こんな事態は搶ャ平も予測できなかったであろう。
◆11日昼、横浜駅東口の崎陽軒に行った。高校時代の仲間の、士会(さむらい会)という小さな集まりに出るためだ。私は中区本牧緑ヶ丘の、神奈川県立緑ヶ丘高校を1959年に卒業した。戦前は第3中学校、略して「三中」といった。戦後県立の高校になったので、卒業生は「中学何期」「高校何期」と呼び分けられる。1956年入学組の私たちは「高校十一期」だったので卒業後の集まりを「士会(さむらい会)」と呼ぶようになった。11月11日はまさに士の日だったので有志が集まったのである。
◆中国ではそんなのどかな話ではなかった。1が4つ並ぶ日とあって中国ではこの日を「光棍節(こうこんせつ)」と呼ぶ。光棍は「独身者」を意味するスラング。独り暮らしの大人たちにネット通販の楽しみを提供しようと通販大手アリババが2009年に始めた。ネット通販市場は短期間に拡大し、新聞情報によると昨年は前年比6割増の912億元(約1兆4000億円)に達した。ネット情報によると今年も11日午前0時にスタート。アリババの取引額は52秒で10億元、6分58秒で100億元に達した。昨年は100億元に到達するのに12分28秒だったから、その2倍のペースという。恐るべし!中国。
◆以前にも書いたが、私は1972年秋、初めて中国を旅し、急成長しつつあった日本と較べてそのあまりの貧しさに驚愕した。車はほとんど走っておらず、自転車ばかり。北京中心部、天安門に近い住宅街でさえ、路地裏はごみごみして、住民は立ったまま洗面器でぶっかけご飯を食べる風景があちこちで見られた。贅沢を悪とするあの文化大革命がまだ終息しておらず人民服姿が普通だった。これでは半世紀たっても日本には追いつけないだろう。そう感じた。あの貧しさからいまの過激なまでの繁栄を誰が想像できただろう。繁栄のきっかけを作った役者は、“小柄な巨人”、搶ャ平である。
◆フランス・パリで留学経験を持ち、クロワッサンが大好きだった搶ャ平は、社会主義を維持しながら経済発展をなしとげる独特の経済手法を取った。「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という言葉に代表される彼流のプラグマティズムが中国の驚異的な経済発展を支えた。そして、搶ャ平の改革開放路線は、1978年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため、事実上の中国首脳(当時の肩書きは副総理だった)として初めて訪日した時の経験が大きな意味を持った、と言われている。
◆中国の指導者としては初めて昭和天皇と会見した。関西に向かう東海道新幹線に乗った際はその速さに驚嘆し、「速い。とても速い。後ろからムチで打っているような速さだ。これこそ我々が求めている速さだ」と語った。8日間に及んだこの日本訪問で目の当たりにした日本の経済力、特に科学技術での躍進振りは、後の改革開放政策の動機になったとされる。
◆10月25日、日本記者クラブで開かれた搶ャ平会見に私も出席した。当時は中華人民共和国、朝鮮人民民主主義国はまだ西側には手の届かない“秘境”だったので、勝手に自分のテーマとしていたのである。外務大臣・黄華、大使・符浩らに挟まれて1メートル50センチしかない小柄な搶ャ平は堂々としていた。「今回の訪日の目的は、第1に批准書を交換すること。第2に日本の古き友人たちの努力に感謝を示すこと。第3に不老長寿の薬を探すことだ」と語り、300人を越す記者たちの笑いを誘った。搶ャ平氏は「つまり、日本の豊かな経験を求めるために来たのだ」と付け加えた。
◆搶ャ平会見の様子は、1978年9月の私の「取材メモ」に記録されている。「四つの近代化」などについて具体的な、結構興味深い質疑が進行したが、いまは書かない。その同じメモ帳に「学生探検会議」という名が突然現れ、日本、明治、慶応、獨協、一橋などの大学探検部と出会った青年たちの名が書き込まれている。そうか。搶ャ平が来た時代に私たちの仕事は始まったのだ。
◆6月のこのページの最後に「これは、地平線に来てもらうしかない」と書いた近藤瞳さん、ついに登場してくれました。アラスカの怪物教授、吉川謙二さんの連載も始めます。どちらも地平線通信でしか読めない内容と思う。ありがとう!(江本嘉伸)
■ひとみ節炸裂の2時間半。いつしかみんなが彼女の虜になっていた。これまで15年間、約126か国を旅してきた生粋の旅人、近藤瞳、35歳。彼女との出会いは昨年の春、当時大分に住んでいたわたしが、熊本で行われる米作りのイベントに参加したのがきっかけだ。イベントの主催者から連絡があり、「ちょうど大分からヒッチハイクで来るって言う旅人さんがいるので、よかったら乗せて来てもらえませんか?」と頼まれ、二つ返事で了承した。最寄りの駅まで迎えに行くと、大きなスーツケース(当時はバックパックではなかった)を抱えたキラキラの笑顔の女性が立っていた。
◆「現地へ向かうまでの2時間半、話題は尽きることがなかった。彼女が15年間一度も就職もせずにずーっと旅をしていること。旅先で起こる数々の奇跡。何にも縛られず、真の意味で自由に生きる彼女に心底憧れた。そしてこの人は流れに乗るのがとても上手なのだなあと思った。「流れに乗る」ためには自分の感覚をとことん研ぎ澄ませていないとできないというのは、わたし自身も旅する中で感じたことだ。
◆いい流れに乗ればぽんぽんと次々いい出会いに導かれるが、悪い流れに乗ってしまうと負の連鎖が起きてしまう。どちらを引き寄せるかはその時の自分の直感や判断に委ねられる。熊本の目的地に着き、わたしはイベントを終えて翌日帰ったが、彼女はすっかりそこを気に入り、その後1か月間そこに住み込んでいた。
◆それからしばらく会うことはなかったけれど、SNSで彼女の旅の行方をずっと追っていて、彼女が発する言葉やストーリーのひとつひとつがとても興味深く、気付けばわたしはすっかりひとみファンの1人となっていた。彼女は誰よりも「今」「ここ」を体現していて、いつも過去への後悔や未来への不安に苛まれているわたしにとっては、一種の嫉妬も混じった憧れの存在となった。世界中を軽やかに飛び回り、どこに行っても誰といても自然体で飾らない人柄に誰もが惹かれ、会うだけで元気になってしまうのだ。
◆そんな彼女の数奇な半生についてぜひ地平線でも話して欲しいとラブコールを送った。だが彼女がこれまでやってきたお話会はいずれも少人数の対話型、かつ参加者の想像力に委ねたいがために映像等はあえて出さない、というものだったから、大人数かつスライドを使うスタイルには抵抗があるようだった。それでも江本さんに彼女の話をすると、忙しい中2度もひとみちゃんのワークショップに駆けつけてくださり、その熱意に打たれて今回の報告会が実現した。
◆今年の8月から「地球に生きるワークショップ」を始めたひとみちゃん。これまでは半年日本にいる間に、ホテルやレストランに住み込みで働き、お金を貯めてまた海外に出るというスタイルだった。しかし30代に入ってから特に自然や循環可能な生き方に興味を持ち、きわめつけは今年の1〜6月に訪れた南太平洋の国々で目の当たりにしたゴミ問題。訪れた島の大きさとほぼ同じくらいの島がゴミで作れるほど、大量のゴミが海辺に流れ着いていた。「今まではお金を簡単に貯められるからという自分本位な理由でホテルやレストランで働いていたけれど、廃棄物をたくさん出すこの業界にまだ加担していていいのかという疑問が生まれました。そして思い切ってやめよう、『自分を生きる』ことでお金を生み出そうと思いました」と話す。
◆そんな時、脳裏に浮かんだのは2016年に訪れたイギリスのシューマッハカレッジという、持続可能な思想をベースに農業や哲学、経済学を学ぶための学校。創業者のサティシュ・クマールさんは核大国の首脳に核兵器の放棄を説いて核保有国(当時4か国)の首都(モスクワ、ロンドン、パリ、ワシントン)を訪ねて14,000kmを歩く「ピース・ウォーク」を実施した方。「ピース・ウォークをするならお金を持って行くな」という師匠の言葉を忠実に守り、世界中の人々にお世話になり、助けてもらいながらひたすらに歩き続けた。
◆そこを訪れた初日に、地球46億年の歴史を4.6kmになぞらえて歩く旅の中で体験するワークに出会った。100mで1億年分進むことになるが、最後のわずか数cmで、人類が誕生し、地球に対して「なんてことをしてしまったのだろう…」と衝撃を受けたと同時に、「いつかこれをワークショップでやりたい!」とその時から温めてきた。「自分を生きることを職業にしようと決めた時、真っ先にこれが浮かびました。経済資本主義、お金が社会を悪くしたと思っていたけれどそんなお金の概念も変えたかった。お金を悪者にするのではなくいいエネルギーとして受け取りたいと思いました」と言う。
◆昨年1年間は食のルーツを知りたくてヒッチハイクで日本中を回っていたが、その時お世話になった人たちから声をかけてもらい、当初は8〜10月の3か月の予定が、はじめるや否や次々に依頼が飛び込んできて、来年1月まで全国45箇所で開催することに(ちなみに筆者も一度彼女のワークショップに参加させてもらったけれど、わたしたちがいかに奇跡の連続の上に生きているのか、そしてその奇跡を一瞬にして踏みにじろうとしてしまっているのか、頭ではなく身を以て実感することになった)。
◆ひとみちゃんは、10代の頃は特に海外に興味はなかったようだ。元々小さい頃から親に「あなたは何もできない」と言われて育ったため、自分でもそう思っていたし、生まれ育った福島から出ることすら考えもしなかった。だが中2の時、友人に半ば無理やり連れて行かれた映画館で「タイタニック」を観てディカプリオに一目惚れ。映画のタイトルも彼の名前も知らなかったが、友達にも恥ずかしくて言えないので雑誌を探しに本屋へ走った。
◆当時部活でバドミントンをしていた。将来は得意だったスポーツ選手になるのでは、と漠然と思っていたが、これを機に英語を使う仕事に就こうと決める。0点だった英語が100点を取るまでに勉強し、大学は英文科に行こう、それまではバドミントンを全力でやろうと決意する。中学では1回戦で負けるような選手だったが、毎朝5時から猛練習し、高校では国体に出るまでになった。
◆そこでスパッとバドミントンはやめて予定通り大学は英文科に。そして20歳の時に初めてアメリカへ。折しもアカデミー賞の授賞式の時期で、友人と5人で見に行ったが、タイミング悪くディカプリオが通る直前に自分の目の前にリヤカーを引いたホームレスが立ちはだかったために、自分だけ見ることができなかった。それが悔しくて半年後に今度は単身アメリカとメキシコへ。「日本とこんなにも違うの!?」と今までの当たり前が通用しないことに衝撃を受け、「たった2か国だけでもこんなに違うのなら、世界は一体どれだけ違うのだろう? 見てみたい!」とそこから旅に目覚める。
◆帰国後は就職活動の壁が立ちはだかる。旅行関係の仕事を目指し、独学で国家資格を取り、旅行会社に内定もしたが、「25歳になった3年後、同じ仕事をしている自分と、世界一周をしている自分、どっちに会いたい?」と問うた時に明らかに後者だったので、就職はやめた。中学のバドミントン時代から、負けず嫌いでプランを立て時間を逆算して考えるくせを身につけていたのだ。
◆ワーキングホリデーでオーストラリアへ1年間。そこで貯めたお金でディカプリオ映画の聖地を4か月間野宿しながら巡り、24歳で帰国。旅をするにもお金を稼がないとやっていけないと身にしみた。どうせ働くのなら行ったことのない場所で、と京都のホテルで働き始める。同じ頃、ネットワークビジネスに出会い、ハマって行く。当時のモットーは「愛よりお金」。見た目や持ち物にこだわり、常に化粧をして金髪にしていないと生きていけないと思っていた。同時にアルバイトや夜の仕事も掛け持ちし、月100万円以上稼ぐ。
◆だがお金や男女関係にルーズな上司を見て、欲望はとどまることを知らないと気づいた。「自分に集まって来る人たちは自分じゃなくてお金や名声に寄ってきているのではないか?」と不安は募る。旅をすることに対して上司から怒られる。なんで未来のために生きないんだ? 目標を立てて今を犠牲にしろ。「今」じゃなくて「未来」のために我慢しろ、頑張れと言われることに疑問を感じながらも、29歳まで続けた。その最中にいるときはわからなかったが、客観的に見てはじめてヤバイと気づいた。結局そこから脱出するのに6年かかった。
◆転機が訪れたのは東日本大震災。福島の実家は無事だったが、友人や知人を亡くし、自分も何かしたいと物資を集めることに。自衛隊の友人から聞いて必要な物資は分かっていたので、携帯電話に入っていた連絡先に片っ端から連絡して1週間で180万円を集め、物資を積んで2週間後に現地へ。引っ越しシーズンだったのでトラックを借りるのも(しかも現地で需要の高いガソリンを使わないディーゼルの2t車を探していた)、高速の通行許可証を取るのも、他人からは無理だと言われていたが、奇跡的にうまく事が運び、無事に物資を届けることができた。
◆被災した現地を訪れて、今まで生きてきた世界が変わり果てた姿を目の当たりにして、すべてが崩れた。これを機に、自分が信じていた物質的なものから、目に見えないもの:生きる力や自分自身の強化(対応力、受容力、体力、コミュニケーション力)へと徐々にシフトしていくことになる。東北ではありえない悲惨な状態になっているのに、京都に戻ると普通の生活が流れている。あまりのギャップに初めて心が壊れ、半ばうつ病のような状態になった。
◆だが精神科に行った時の問診票の設問を見た時にハッとした。30くらいある質問が、その日の機嫌次第で誰でもうつ病と判断されてしまう内容だったからだ。うつ病かどうかは医師ではなく自分で決めるのだと気づいた。薬も渡されたが、一切飲まずに自分で決めよう、自分でちょっとずつ矯正しながら生きていこうと決意した。自分を好きになるため、自分に自信をつけるために、1か月に1回日本のどこかを巡ることにした。
◆毎日小さい何かをはじめる。今まで大きいものばかり見る目標志向型だった。勝ち負けで全てを判断し、できない人を見下すほどに人格も歪んでいたが、震災をきっかけにいかに自分がどうしようもなくて、一人じゃ何もできないのかを思い知らされた。運動は「運が動く」と書くように、止まっていてはダメだと気づいた。また、物事を多角的に見る視点を養わないといけないと思った。地球儀で日本だけ見ていたら反対側にある南米やアフリカが見えないのと同じように、震災を悲しい出来事として捉えるのではなく前向きに捉え、生きる力に変えようと思った。
◆本当にお金が全てなのか、という疑問も生まれた。引き続き旅もしていたが、お金を持っている旅はつまらないと思うようになった。お金は一番簡単で脳みそを使わない手段で、旅をしている・生きている感覚がしないと感じた。翌年アフリカへ。そこでまた衝撃をうける。想像以上に全く思い通りにいかない。だが生きる力、コミュニケーション力、受容力を身につけるにはうってつけの場所だった。お金があっても役に立たないことも多く、とにかく頭を使わないといけない。
◆雑魚寝しているところに割り込んだり、荷物の中に隠れたりして寝る。現地の生水を飲み、ハエがたかった肉や魚を食べる。周囲を自分に合わせるのではなく、自分が地球に合わせる。カメレオンのように生きていたい。そのためにまずは自分がその土地のものを食べ、流れる水を飲めないといけない。ちょっとずつ身体に投入し、いろんな菌を入れていこうと思った。ここで大事なのは「ちょっとずつ」ということ。一度に入れたら毒になるかもしれないが、一口ずつ、自分にバレないように自分を変えていく。
◆その甲斐あってか、インドに行った時に同じものを食べて目の前の人は食中毒になったが、自分は今までお腹を下したことがない。5人乗りの乗用車に9人詰め込まれる。9人集まらないと出発しない。出発までに24時間かかり、荷物を積みすぎてパンク、修理にまた24時間。窓を開けたら悪魔が入ると信じる宗教の人もいて、50度の気温の中をエアコンもかけず窓も開けずに進む。隣の人の汗が染み込み、セクハラを受ける。
◆予定が組めず、未来なんて読めない。おかげでどこでも寝られるようになった。国境越えで賄賂を逃れるため、その場で知らない人に声をかけ夫になりすましてもらい、お礼にごはんをごちそうするなどして切り抜けたこともある。この時もまだネットワークビジネスを続けていたが、徐々に「今を生きる」ことにフォーカスしていく。ツアーに参加した時、「なんで日本人は今日でなくて明日の予定や最終日の予定ばかり聞くんだ?」と聞かれて衝撃だった。
◆アフリカで狂犬病の犬に噛まれた時も、「あ、死んだな」と思ったが、とりあえず気を紛らわすために観光する。夜になって調べてみたら致死率100%だと知る。でもその時、「幸せだ」と気づいた。「もし今日が人生最後の日だったとしても悔いはない。自分がやりたいことを全部できている」と思えたことに幸せを感じた。噛まれてから1か月の間に5回注射を打てば助かる、と言われ注射を打ちに行ったが、40度の熱でフラフラに。5回目の注射は病院が閉まっていてどうしても打てなかった。たまたまゲストハウスで同室の人が看護師で、彼女にもらった解熱剤を飲んだらそれで治った。つまりは狂犬病ではなく、注射の副作用が原因だったのだ。病院の先生とコミュニケーションを取るために死に物狂いでスペイン語を学んだ。ヒッチハイクなども通して3か月でスペイン語を理解できるようになった。
◆30代に入り、自分を客観視した時にようやく今までいた世界が異常だったと気づく。「自分の行動が循環可能か?」が物事を選ぶときの基準になった。氷、お湯、水蒸気……その場その場どこでも生きられる「水」のような、適応力を持った人になること。今、目の前にある小さなものに目を向けること。ネットワークビジネスからは完全に手を引き、その反動か今度は「お金=悪」だと言わんばかりにお金のかからない物々交換や労働交換に目覚める。北欧東欧のエコビレッジを回り、シューマッハカレッジもこの頃訪ねた。ここ数年は衣食住のルーツを知る旅へ。中南米やヨーロッパでカカオやコーヒーの農園で働き、アマゾンでヤシの葉で家を作る方法を学び、日本各地でも農家で羊の毛刈りをし、酪農や養蜂も体験した。
■バックパックを背負って何十キロも歩く。歩いていて瞑想状態になったとき降りてきたのが「自分=地球」という考えだった。人間も地球もどちらも水分が70%で、血管は川、皮下組織・真皮・表皮は内殻・外殻・マントル・地表……同じだった。昔から、なぜ・何のために人は生まれてきたのか?と疑問に思っていたが、この考えが降りてきた時、人間は地球にとって何かと考えたら60兆個の細胞だった。細胞は何のために生きているかなんていちいち考えなくてもしっかり役割を果たしている。だから自分の役割を精一杯果たそうと決めた。そして「自分=地球」だとしたら、循環可能でなければならない。トイレの汚水や洗剤を使った水もまた自分自身に還ってくる。そうしたことを意識しながらワークショップをしている。
◆ヒッチハイクも数え切れないほどした。最初は目的地に着くために始めたが、今は自分にとって儀式のようなもの。イエスかノーの二つの選択肢しかない、ヒッチハイクはまさに人生そのもの。朝起きて気分がいい時にしかやらないし、やりたい場所でないとやらない。まずは場所選びに1時間くらいかける。やりたい時にやりたい場所でやると面白い人に会える。オリンピック選手、社長、アーティストなど面白い出会いがたくさんあった。開始1分で拾えることもあるが、それはやりたい時にやりたい場所でやりたくてやっているからなのだと思う。お金がないから、急ぎたいからと自分のエゴだけで動いている時はものすごいセクハラにあったりする。自分がどんな気持ちでやるか、どういう想いで生きているかというのがいかに大事か、ヒッチハイクを通して学ばせてもらっている。日本にいると動物の勘が鈍るが、自分の勘や人を見る目を養うためのトレーニングでもある。
生きること=死ぬこと:アフリカに行って生と死が混在している世界を見て、今日生きていられること自体が奇跡だと気付かされた。今日が最後かもしれないと思ったらとても尊いものに思えるし、目の前の人にも優しくなれる。自分が死んだとしても土に戻って行くのなら生きていることと同じ。それが循環の思想へとつながっていく。
増やすよりも減らす:今回台風19号の被災地にボランティアに行って気づいたのは物が多すぎるということ。物が多いと手放す時の悲しみも大きい。自分はすでに十分持っている。使えるものを使えるうちに少しずつ手放していけば、物も生かされるし悲しみも小さくなる。
夢も未来もない、あるのは今だけ:不安の9割は起きてないこと。もしこうなったら、と今不安な人はその未来の段階になってもさらにその未来を不安に思ってしまうのでずっと不安のまま。今を楽しむことができればきっと未来も楽しめる。
すべてない=すべてある:家も仕事も車もないけれど、そこら中の家が自分の家も同然だし、車も同じ方向に行く人に乗せてもらえばいいと思う。全部自分のものだと思っている。自分がきれいでなくてもきれいな人が他にいるならそれでOK。その人はその役割を果たしているので自分は自分の役割を果たせばいい。だから全部持っていないけれど全部持っているのと同じこと。
ひとりでは生きられない:台風や震災で感じたこと。衣食住のルーツ、今自分が存在している場所も絶対に一人では成り立たなくて、全てのことにあらゆる人が関わっている。お金持ちよりも「人持ち」でありたい。そのためにもとにかく人と出会うこと。人がいれば大丈夫。
言葉より行動:考えるより先に動く。「脳みそ捨てた」。でも、と言う前に心で思ったらやってしまう。それで違うならやめればいい。失敗などはなく経験でしかない。
すべて自分次第:言い訳したくない。答えなんて結局誰にもわからないのだから、自分で選ぶしかない。
決めないことを決める:前日に予定を立てたとしても自分が違うと思えばそっちに従う。「今を生きる」というのはそういうこと。過去の自分が決めたことではなく今の自分の気持ちを大事にしたい。もちろん100%そんな風には生きられないけれどできる限りそうしたい。
期待しない・決めつけない・否定しない:特に近しい人や物事に対してこれを大事にしている。人は毎日変わるのでこの人はこうだと決めつけない。嫌いな人や嫌いなものも特にない。昔しいたけとグリーンピースが嫌いだったが「今日のしいたけは大丈夫」と思い続けていたら食べられるようになった。お金がいい・お金がだめと両極端に走っていたけれど、否定しまくっていたときはすごく疲れた。間をとるのはとても心地いい。
◆最後に、ディカプリオとのその後について。20歳の時に会えなかったが、30歳までに会うと考えていたら30歳になる半年前にディカプリオが来日し、100名だけの映画プレミアに当選して会えたのだ。現在35歳。次の目標は40歳までに友達になること。今年南太平洋を旅していた時にバヌアツでプラスチック袋を廃止した方の家でお世話になり、彼がディカプリオの友人だったと知る。でもここでエゴを働かせてはいけない。自分が地球の循環に沿って生きて行く中で、ディカプリオもまた今、環境問題に対してアクションを起こしているので、自然の流れでいつかきっと会えると信じている。でもたとえ会えなかったとしてもすでに満足している。この生き方に導いてくれたのは彼なのでそれだけでも十分感謝。
◆ひとみちゃんとわたしは全く違う人生を歩んできたけれど、不思議と同じところにたどり着いた。彼女が今のように生きるようになったのは意外と最近で、そんな時期に彼女と出会ったのもまた必然だった。江本さんが言うように今の彼女があるのも、「金の亡者」と化していたあの頃があるからこそなのだと思う。お金に走り、お金から離れ、振り子のように揺れながらもその真ん中に落ち着いて行く彼女は、まさに地球の真ん中で生きているのだ。これから彼女がどんな旅をしていくのか、ますます楽しみだ。(青木麻耶)
どんな場面にも場所にも状況にも対応して生きていくこと。
私はそれを水のように生きる、と表現しています。
水は氷にもなり、お湯にもなり、水蒸気にもなり、
どんな状態でも変幻自在に生き抜く最強な存在だからです。
どこまでも憧れ、水のようになりたい!
と念じていたのですが、
どうやら私は人間。
体内水分量は70%。
もうすでに水でもあったという事実。
水は人間でも在り、地球でも在る。
私も水のように、
どんな地球にも自分を合わせて生きていくということ。
15年間様々な体験をする中で、
この感覚がしっくりと自分の中におさまってきました。
特に2019年1月から6月の南太平洋の島々を訪れる旅で、水のように生きることを更に体感して帰国。
そんなときに、地平線会議で話さないかと、青木麻耶ちゃんからの依頼を受けるのです。
南太平洋での旅を得ていなければ、断っていただろうな。
じっくり振り返れば、全ての出来事がタイミングよく訪れていることを感じずにはいられません。
それほど、南太平洋での体験は、私に自分を生きるということを全力で後押ししてくれました。
「あなたはあなたを生きていいのよ。」
「あなたは世界で一人しかいないのよ」
そんな透けて見えちゃいそうなくらいオープンに自分を生きる人達と生活していた毎日。
その毎日が当たり前になったら、
自分を生きることだけをしていいんだ、という許可が自然と降りてきた。
今まで1年のうち、
半年間は海外をぶらぶらと旅をする、
残りの半年間は日本を旅する&働く、というような生活を15年間続けてきました。
日本にいる間はホテルやレストランで手っ取り早く働く。
時給はいいし、すぐ仕事は見つかるし、生活費がかからないし。
世界を旅して、戦争やゴミ、様々な問題を目の当たりにして心を痛める。
それなのに、私のしている行動は廃棄を一番出す業界で働くこと。
自分の損得勘定だけでこのまま選び続けていいのだろうか。
世界で一体私は何を見てきたんだろう。
旅する時のように、
まずは自分を生きよう。
そこから変えるべきだ。
今自分が出来るなにかを仕事にして生きてみる。
生きるという事はきっとただそれだけなんだ。
世界中に私は一人しか居ないのだから。
私は私をする。
その中でちゃんと地球の循環に沿った生き方をしていたら、
お金がなくても、仕事がなくても、車がなくても、家がなくても、何がなくても、地球はきっとここに居させてくれる。
この気持ちを持って動き出す中の一つに地平線会議がありました。
自分の中に流れるように入り込んでくるものをただただ受け入れて生きていく。
できるできないではなく、
選択肢は、「やる」
麻耶ちゃんに声をかけて頂いたことを、「やる」という判断のみで受け入れることができたのは、水のように生きることを更に極めたい、目の前に起きる一つ一つを大事に生きていきたいという実践のタイミングがぴったり合ったから。
そして、麻耶ちゃんがすぐに行動を移し、江本さんがすぐに逢いに来てくださったから。
直接自分の目で私を確かめに来る。
忙しい中でも現場を大切にする。
しかも2回も逢いに来てくれた。
その心と行動が決め手になったのは言うまでもありません。
やはり“すべては言葉より行動から生まれる”地平線会議がどんなものなのか。全くよくわからないのに、やりますと即答したのは、彼らの行動がしっかりと伝わってきたからに他なりません。
日本中どこにいても、携帯電話があればコミュニケーションが取れ、人と人とが繋がれるし、連絡し合える。
しかし、こうした行動や想いをもった直接の対話や人と人との直接の繋がりこそが、“人間で在ること”、人の間で起こるモノだということを改めて感じさせて頂きました。
地平線会議が40年も続く所以は此処にあるのだろうなと、
アットホームに迎えて下さった会場の空気感を想い出しながら今この文章を書いています。
たくさんのバックグラウンドをお持ちの方々が集まるとても稀有な集まり。
>そのような場でお話しできたことに感謝の気持ちを込めて。
今日も全力で水のように生きる。
ありがとうございました。
近藤瞳
■いったい何者なんだ、この人は。そのナゾは、話が進めば解けるのか。そんな思いにも背中を押され、最後まで身を乗り出すようにして耳傾けた2時間半だった。傍目には、あちこちで瞳さんの人生はブレている。彼女がこれまでの節目節目での思いや戒めを箇条書きにした、「15年の生活での学び」「大切にしていること」の中にも、「決めないことを決める」「夢も未来もない、在るのは今」といった、ジョン・レノンみたいな言葉が並んでいる。
◆軸がブレないこと。高い目標に向かって、一歩ずつ前進を続けること。この2つは、推奨される生きざまの双璧だ。また私たちは、異文化や異なる宗教に触れ、外側から日本を眺める旅の体験で、自分のアイデンティティを見直し、自意識を強く持つ。でも瞳さんは、そんな一切合切を捨て、最終的には自我からも自由になろうとしている。それが、彼女の言う『自分を生きる』なのだろう。
◆それにしても、旅をツールに自分をどんどん変えてゆく能力を、瞳さんはいつ、どこで身につけたのか。あるいは、御両親が最高にブッ飛んだ人物だったのか? 報告会前夜、西のねぐらから戻ってきた私は、駅の改札を出るなり職質警官に捕まった。議論を避けるよう訓練された彼らは、こちらの質問には答えず、ただただ、叩き込まれた御題目を繰り返すばかり。オマケに現場判断の権限も能力もないから、すべての指示を無線で上司に仰ぐ。その姿はカルト信者と大差なく、正直、哀れですらあった。この場に連行してきて、彼らにも瞳さんの話を聴かせてやれたらなぁ。両者のあまりの対極ぶりに、報告会の間もずっと、そんな思いが去来した。
◆二次会の席で、瞳さんにさりげなく先の疑問をブツけてみた。返ってきたのは、「ごく普通のサラリーマン家庭でした」の驚きの事実。う〜む、恐るべし35歳! ますますナゾだ、この人は。[久島弘]
■最前列かぶりつき!で瞳さんの笑顔を堪能しました。自分の心に正直に、動いて旅して恋する瞳さんの人生。おとなりに座っていらしたZzz-ZENさんと笑い転げながら、なんだかゴージャスな喜劇を鑑賞しているようでした。巷にはネットワークビジネスが上手くいかなくて泣いている人が山ほどいるというのに、あっさりとバリバリ稼げてしまった瞳さん! 人を惹きつける魅力が深いからこそだと思います。
◆さて、私が個人的に一番印象的だったのは恋愛事情のお話です(レオさま以外の)。日本でもモンゴルでも「早く結婚しなさい」と人々から嗜められまくっている私としては、自分の心に正直に進む彼女の事情が大変に興味深かったのでした。いひひひ。(Ooo-大西夏奈子)
■長きに渡る地平線会議との付き合いだが、報告会を最前列で聴いたのはなんと今回が初めて! 通常はふてくされ気味に受付の端に居座り、南極くっだっらね〜とか、もうチベット聞き飽きた〜、などなどと不届き千万なことを斜め後方45度ぐらい斜に構えては口走っている。が、8月の三宅修氏の山に対する純粋にして変わらぬ思いには、心底打たれるものがあった。らしくない、などとけなされながらも、そんな内容のベネズエラ報告3回目を締め切り前日に送付。しばらく通信お原稿はパス、と思っていたら、またまた某・荒木町方面から執筆指令が飛んできた。「継続は力なり」というテーマだそうな。
◆が、それより何より、最前列に座る姿に驚きの声が多々あり、どーしたのか皆さま興味深々のご様子だ。当日は報告会の前に、E本氏と大西かなこんだ楽壇団長とで、企画進行中の本多有香の犬ぞり本の打ち合わせをという段取りだった。開始直前にさわりだけ済ませたが、後方に退去する間もなくしゃべくりが始まって移動不能、という流れだっただけ。取り立てて深い意味もなかったが、今回はそれがリアルに面白かった。
◆ディカプリオさまさまだのネズミ講ビジネスだの夜のお水商売だの、通常ならば「あっそ」以外に反応しようもない個人史が次々に披露される。何こいつと思う暇もない高速度な展開だ。しかも、この断言と思い切りの良さはどこから来るのか。何となく得した気分で聴いているうちに、軽々と世界を流れていくその速度と密度に、こちらの感覚が揺らぎ出したのを実感してしまったのである。こんなの初めて! 最前列で細かい表情まで目にして、ハイブリッドなプロトタイプ出現の瞬間を目撃した気分が、というと大げさに過ぎるだろうか(個人の感想です)。
◆実際に地球上のあらゆる現実は、もはや予測不能状態に突入している。その昔、これで確実に人類は亡びるとされたオゾンホールにダイオキシンと環境ホルモンだかの三題噺はどこへやら。いまや温暖化問題で怒りまくった16歳のグレタちゃんが、トラ珍に一撃を加えようと国連本部に殴り込んでくる時代だ。核廃棄物から海洋汚染まで、環境問題だけではなく政治も経済も社会も文化も、人類がひねり出したあらゆるお約束事が、人間の生身の身体まで含めた機能不全に陥り、もはや行き着く先は暗黒のディストピアしかなさそうな今日この頃。香港の状況を見るまでもなく、旅することに今日的意味をどう変換していけばよいのだろうか。思いもかけず、もう旅なんかヤメだと思わせられてしまう夜となった(個人の感想です)。
◆が、世界の現実は個人的ルサンチマンをはるかに超えて高速展開していく。ベネズエラが滑った転んだと言っている間に、ラテンアメリカでは大陸全体が地獄の大鍋と化してきた。権力を巨大資本に集中させようとする新自由主義勢力の最前線で、ブラジルやエクアドルでは親米右派勢力が政権を握る一方、他の国では揺れ戻しが勢いづいている。チリでは地下鉄料金を5円ほど値上げしたとたんに大噴火、暴動略奪が頻発し夜間外出禁止令まで発令された。死者十数人、逮捕者は1500人超で、11月に予定されていたAPECも12月開催のCOP25もついにドタキャンせざるを得なくなった。エクアドルもガソリン料金値上げに端を発するデモが暴動に拡大、国会議事堂占拠など収まる気配は見えず。アルゼンチンでは野党の左派フェルナンデス大統領が返り咲き、この先の政権運営が注目される。一方、ボリビアでは先住民出身のエボ・モラレス大統領がほぼ憲法違反の4選を果たしたが、今回ばかりは非難轟々でついには自ら辞任、メキシコ亡命を表明する展開となった。
◆ペルーでもフジモリ元大統領は恩赦を認められずムショ暮らしだし、娘のケイコ氏も収監されたまま、結局は次期大統領選挙からの撤退を表明。さすがのラテン系もびっくりなのは、フジモリ氏の前と後の2回大統領職にあったアラン・ガルシア氏が、汚職容疑で検察から出頭命令が出されたその前夜、ピストル自殺を遂げたとされる事件だろう。ペルー全国民が誰一人として信じていないケースで、ありえない現実が渦巻く魔術的リアリズムそのものの展開だ。もっと気になるのは、来年のカーニバルに写真家の長倉洋海氏とご一緒する予定だったハイチ。ガソリン不足から暴動騒ぎが発火拡大し、先が見えない状況となっている。
◆てなわけで、ラテン系が気になってお題の「継続は力なり」をすっかり忘れていた。次の機会にというところで、大好評のカーニバル・トーク第2弾は11月20日@代官山の「晴れたら空に豆まいて」にて。ゲストにブロードキャスターのピーター・バラカン氏をお迎えして、トリニダード・トバゴからカリブ海の島々、さらにラテン系移民がもたらしたニューヨークやロンドンほか、北半球の大都市のカーニバルを語る。御用とお急ぎでない方のご参加をお待ちしております。
http://haremame.com/schedule/67482/(Zzz-ばろん・しらね)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださった方は、以下の方々です。
秋元修一(5,000円)/永井マス子/吉田文江(10,000円)/江川潮(5,000円 江本さんお誕生日おめでとうございます。通信と共に地平線を越えて歩いている気分です)/寺田文子/塚本昌晃
■地平線通信486号(2019年10月号)は10月9日に印刷、封入作業を行い、翌10日発送しました。今号は、荻田泰永さんと子供たち、青年たちの旅がテーマだった9月の報告会関係の原稿が多く、20ページの厚さとなりました。人手が頼りでしたが、幸い、以下の皆さんが駆けつけてくれました。
森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 古山里美 坪井伸吾 二神浩晃 児玉文暁 児玉あゆみ 兵頭渉 杉山貴章 松澤亮 江本嘉伸
■児玉文暁・あゆみさんご夫妻は3日前にカナダから帰国したばかりの旅カップルで坪井君の誘いでいきなり来てくれました。おふたりについてはいずれ登場してもらいたいですが、札幌で17年も経理の仕事をしていたあゆみさんが歩いて世界を旅している文暁さんのお話会に参加、その自然体の語りに惚れてしまい仕事を捨てて旅人になってしまった、のだそうです。児玉さんご夫妻、皆さん、ありがとうございました。
■令和の始まりとともに、我が家に長く低迷していた時間が一掃されそうな風が吹いています。きっと端から見たら、何も変わっていないのだと思います。これからやっていく事も、結局は今までと同じ事なのかも。
◆私が仕事でトラブルばかり巻き起こす時期、たごっちがケガばかりしている時期もありました。泥棒に入られたり、隣人に怒鳴り込まれたこともありました。一見ネガティブですが、そんな事件が起きる度に、私達はなぜか感謝の気持ちを強く感じるようになりました。目の前にある当たり前な事実をいちいち再認識させられ、それが本当の意味で「最も大切なこと」なのだと身をもって体験させてくれる出来事の連続でした。
◆泥棒に入られたとき、私は無くしたものを惜しいと思う気持ちよりも、家族が被害にあったわけでもなく、仲間が壊れたわけでもなく、家も仕事場も何事もなかった事に何よりも安堵しました。再生可能なモノだけを持ち出してくれて、私が本当に大切にしているものに気づかせてくれた出来事に心から感謝できました。「泥棒に入られて感謝って! アホか!」と友人には言われましたけど、それは自分でも不思議なぐらい勝手に溢れた思いでした。
◆そんな事件が多発する中、家族の絆はどんどん強まり、おかしなぐらい個々の本領が発揮され始めました。誰かに何かあればとことん話し合うのが我が家流。全員が、納得できないと動けない人間なので、そうせざるを得ないのですが、そうやって1人ずつの違和感を取り払いながら、解決策をみんなで探るうちに、家の中は完全なる安全地帯になっていったのだと思います。
◆自分の居場所が確立されると、人は外へと向かって飛び出せます。子育ての基本だけど、いやいや大人だって同じだし。ねじれまくっていた家族の関係を一つずつほどいて、お互いを尊重し合う。言い古された言葉を、私達はまず頭で理解し、行動に移しました。自分の事を解ってくれ!と思わなくていい。だって解ってくれてるもん。て思える心強さ。そうなると人ってめちゃくちゃ強くなれる。
◆ところで、知る人ぞ知る多胡米の話。今秋6回目の収穫を終えました。6年前、荒れ果てた耕作放棄地の開墾から始まった我が家の農業ライフ。今期をもっておしまいにすることにしました。もっと自分達の可能性を外に向けたくなった事で、もう手が回らないと観念しました。決定的な理由としては、我が家の土地改良班「たごっち」が動き出したことによりますが……。休火山のように、だんまりを決め込んでいたたごっちは、先日大噴火をおこしましたので、今後は活動が活発になる見込みです。みなさま上空にはくれぐれもご注意ください。
◆6年前、私達は慣行農法で「農業」をやるよりも、「食べるもの」を作るという認識でお米を作り始めました。おかげで毎年毎年、雑草との攻防戦でエライ目に遭いました。収穫期になると、我が家の田んぼにはシンボルツリーが立ちます。雑草は稲より大きくなるのです。あんなに抜いたのににおかしいなぁ……と毎年思うわけなのです。見かねた近所のおっちゃんの協力で成り立ったような1反の田んぼでしたが、私達が次へ進む大いなる土台になった事は間違いありません。食べて応援してくれた皆様もありがとうございました。
◆いつまでも同じであり続ける必要はないと思っているので、気持ちが上向きやりたい事がでてきたのなら、手放さないといけないものもある。それは決してマイナスな意味にはならないし、その先で誰かを喜ばせることができたのなら、それが手放した事柄に対しての敬意になるはずなのです。「最も大切な事」を大切にしながらめっちゃくちゃおもしろい人生を創ることを、だいぶ真剣にやったんねんと思っているところです。(木のおもちゃ作家 多胡歩未)
■大噴火のはじまった多胡です。長期にわたるダンマリを破り、マインドを入れ替えガンガン飛んでいく覚悟を決めました。これからも同じく飛んで撮ります。ただそれが、自己証明のために飛んでいた時代は過ぎ去り、生き様を問うフェーズに入ったととらえてます。四国遍路や墜落などいろいろな経験を経て出していく答えがこれからのアウトプットです。その様子は「多胡光純の空の旅」としてYouTubeにアップしていきます。お手すきの時に眺めていただけたら嬉しいです。
◆やっと自分で自分の使い方が分かったと言いますか、落ち着いて活動を深めていける立ち位置に立てたと言いますか。経済事情は火の車ですが、なんとかするのがやるべき事ととらえてます。今、福島県の只見にいます。過去に夏と冬を撮っているのですが、なんと縮こまったフライトをしていたのかと思えてます。当時は当時で一生懸命でしたが、マインドの変化は強烈です。(天空の旅人 多胡光純)
■この5年間で初めての完全ファームシャットダウン! 来春のトナカイ旅行を前に、1月まで、一旦全て閉めて冬支度をする。今までなかなかできなかった締め切りまじかのプロジェクトの清算や今後の準備などに集中する。この夏までに15頭にトナカイが増えたが、実際に旅行に使える可能性のあるのは、5歳の去勢オス3頭と3歳メス1頭だけだ。メスもちょっと体形的に小さいけど、他のトナカイたちが優しく接するし、性格がいいのでソリチームに加えた。特に2頭引きで使うには偶数頭が必要だ。あとの11頭は、ひとことで言えば、繁殖用のグループだ。
◆この5年間メスばかりに恵まれ、ソリチームを増やすことができなかった。メスは高く売れるので、ファームとしては悪くないが、私のようなソリ引き目的では、いま一どころかいま三ぐらい不都合だ。この5年間で死んだトナカイは、4頭、ほとんどが原因不明というか、悪玉バクテリアや内臓系の食物がらみのものと考えられている。ここのファームは長年家畜を飼っているところと違い、土壌中に有害なばい菌や古い糞もあまりなく、比較的環境がよい上、食料に恵まれ、有害な要素の少ない牧草地なのに、簡単に言えば20%以上の確率で死んでしまう。これはトナカイ(シカの仲間)のもう一つの弱点といえよう。
◆とりあえず、4頭のソリチームを市内の他のトナカイ牧場に預け、8頭のメスと3頭のオスを売りに出し、年内は留守を決め込みフェアバンクスを後にした。最初に出かけたのが、シベリアの中心都市ヤクーツク、モスクワでトナカイ牧場を手伝ってくれたアレックスのところによって、ウオッカとサロ(豚の脂の塩漬け)でくつろぐ。手伝ってくれた頃は貧乏な学生だったが、今ではモスクワ大学の先生だ。
◆彼は極東のチュコトカでフィールドワークをしていたこともあり、極限の閉鎖環境に強い男だ。翌日モスクワを出て、ヤクーツクに向かう。ここではノーザンフォーラムと呼ばれる、北方原住民が一体となった会議に出るためであった。当然集まったメンバーは、シベリア、スカンジナビアのトナカイ遊牧民たちだ。そのトナカイビジネスからトナカイ料理の共有まで議論実演が行われた。
◆22のユーラシアのトナカイ部族参加のトナカイ料理バンケットは圧巻、ウオッカが進む。詳しい料理とか会議の内容はさておくが、彼らはもちろんトナカイに名前などつけず、動力であり食料であるというスタンスをきっちり守っている。その辺がアメリカのペットとして飼っているトナカイ牧場とは完全に一線を期している点だ(当然そういうペットファームのオーナーはここにはいない)。
◆会議中、隣にいた私と同じくらいの歳のイベンキ族の男が、“お前のところは何頭?”って尋ねて来た。会議中なので声を出すと失礼だと思い、指で10、そして5を出した。すると「そうか、1500頭か」と頷いた。すかさず首を横に振ったが、確かに普通指で10と5だったら、150でもなく1万5千でもない。ここでは1500頭が普通のナンバーだ。私のファームは彼らにとっておかしいぐらい少ないのだ。それでも彼らがアラスカに来た時は、皆寄って来てくれて、ああだ、こうだ、飼い方のヒントを教えてくれるのはありがたい。
◆ヤクーツクでの私の実際の仕事は、ロシア、日本、アメリカで5年間続いていたカーボンフットプリントのプロジェクトが来年で終わるので、そのための最終報告書の準備とロシア全土の学校向け永久凍土の本の第2版の打ち合わせであった。そのほかここ10年間北極大学の永久凍土セクションのチーフをやっていたので、そのパネルディスカッションの手伝いもあった。
◆北極大学とは、実際に存在しない架空の大学で、アラスカ大学をはじめオスロ大学、ストックホルム大学、ロシア連邦大学など北極地域の大学が単位をシェアして学生を行き来させて、交流する組織である。私はそこで毎年のサマースクールや永久凍土の修士学生輩出を手伝ってきた。変な話だが、アメリカ人の私が、ロシア人の学生にヨーロッパビザを出したり、ロシアでのサマースクールでは西側諸国の学生にロシアビザの発給手続きを手伝ったりしていた。
◆なんて偉そうなことを書いたが、実際には毎日、ウオッカ(かコニャック)を飲んでいただけと言えば、その通りだ。そう、この国では、酒に強くないと生きていけなかった。過去形にしたのは、今の若いロシア人には必ずしも当てはまらないからだ。まあ、我々の世代は、最後のソビエト世代と呼ばれ(ソ連時代に生まれただけでなく、その生活も覚えている世代)、ソビエトのしきたりに多少なりともノスタルジックを感じる人が多い世代だ。
◆ちょっと話は脇道にそれるが、私は普通ロシアへ行く時の土産はコニャックにしている。飲む飲まないは別にして、ロシア人が一番喜ぶ酒が多分それだからだ。なぜなら人がきた時コニャックを出すと、なんか洒落た感じがしていいし、また、俺たちはいつもウオッカだけ飲んでる酔っ払いと違うぞって、いう劣等感が払拭される。まあ、そんなこと言っても大体普段はウオッカに黒パンだ。もちろんショットグラスでウオッカを一気に飲んだ後、彼らに絶対必要なのが黒パンだ。
◆パンは食べるのではなく、匂いを嗅ぐためだ。匂いを嗅いだ後、パンが少ない時は、食べずにまた元に戻したり、みんなで回して匂いを嗅いでから戻す。医学的にはウオッカの刺激のすぐ後に黒パンの酸っぱさを嗅ぐと、体のミューンシステムを中和させると言われている。が、簡単に言えば、匂いを嗅ぐと悪酔いしないと信じている。飲んだ後、パンがないと大変、どうしても見つからない時は服の匂いを嗅ぐ(多分すっぱい匂いがするから)、女性は長い髪の匂いを嗅ぐときもある(酸っぱいとは思えないけど、酸っぱい人もいるかも)。最初のショットと2杯目は短くすぐ飲み、そのあとはユックリ歓談。帰る前にも1ショット。そんな訳で愉快にシベリアの夜は更けていく。(吉川謙二 アラスカ大教授)
■皆さんこんにちは。シリア難民の日常を撮影しているフォトグラファーの小松由佳です。11/25〜1/10まで、トルコ南部へシリア難民の取材に向かいます。理想は1年間現地に取材に向かい、コンスタントに発信していきたいのですが、現実生活は収入の不安定なシリア人の夫に代わって生活を支え、かつ2人の子供の育児、家事に手一杯な毎日で、商売道具のデジカメが故障しても何か月も買えないような状態でなんとか日々を生きながらえておりました。
◆先月は地平線会議の席で、受付の方が集めていた参加費を、同行していた長男サーメルが奪おうとし、理由を尋ねられ「ママお金ないからママにあげる」と大声で叫んでしまうという、大変恥ずかしい出来事もありました。自分が身動きできない状態のなかでも、世界はどんどん動いていきます。シリア難民の現状を把握し、発信することを考えるとき、無理をしてでも毎年現場に立ちたいと思っています。
◆そんなわけで、雑巾の水を、歯を食いしばって絞るように、なんとか取材費をかき集め、現地へと向かう予定です。2人の子供はどうするかですって?! もちろん連れて行きます。この取材も3歳の長男と1歳の次男を連れた子連れの取材で、昨年末に次男が生まれて人数が増えた分、子連れパニックの苦労が予想されます。しかし、子連れだからこそ、出会える瞬間や撮れる写真もあると信じています。そして私の子供たちにとっても、自分のルーツと出会う旅になるはず。今だけでなく、数年後、数十年後の長い目で、シリアや難民の姿を見つめ、関わりを持っていきたいと思います。
◆いま、シリア難民をめぐる状況は大きな変化の中にあり、多くの難民は故郷への帰還を諦め、異郷へと根づこうとしています。今回の取材では、そうした変化の中に身を置くシリア難民の姿を、一人一人の具体的なエピソードを交えて紹介する予定です。そして多くの方に難民の現状を知っていただくことで、具体的な支援の輪が難民へと繋がっていくことを願っています。今回、これまで4度にわたってトルコビザがとれずにいた夫ラドワンもビザがおりて同行できることとなり、ラドワンにとっては4年ぶりに両親に会える機会でもあります。
◆シリアでは沙漠でラクダの放牧を生業としていた夫の家族は、トルコ南部のオスマニエという街でトルコ人の牧畜業の手伝いをして働いています。激動の時代を生きる難民の姿を、彼らが日常を生きる姿から撮影してきたいと思います。つきましては大変恐縮ですが、ギリギリの取材費のため、取材カンパを熱烈に募集しております。より内容の濃いシリア難民の取材をし、その分、多くの難民への支援へと繋がるよう努力します。皆さま、どうぞご理解とご協力をお願いいたします。
以下、お振込み先となります。
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三井住友銀行 高幡不動支店
普通 1595491
コマツ ユカ
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以上、大変恐縮ですが、どうぞよろしくお願いします。(小松由佳)
自分の人生でこれほどに忙しい1年はなかった。1月17日に920km単独で歩き南極点に到達し帰国。直ぐに生業の浅草人力車業に復帰。3月は疲弊した身体を鍛え直す為に東京マラソンに出場。春には地元みちのくを人力車を引いて2ヶ月で一周した。
幼い頃に母が買い与えてくれた1冊の冒険記。その本に載っていたのが同郷秋田出身の明治の探検家白瀬矗中尉だった。南極点は諦め、最南到達地点「大和雪原」で掲揚した国旗に頭を垂れる白瀬中尉。その写真が心にずっと残ってしまった。子どもの僕にとって頭を垂れる彼の姿が、かわいそうに見えた。南極点を目指した彼の夢は結実しなかったのだから。冒険を志した頃から白瀬の夢を結実させる事が使命になっていた。大和雪原から南極点まで歩く事で白瀬の百年越しの夢を完結させる。
しかし、大きな夢には相応の現実が伴う。実力と資金だ。大和雪原は南極のロス棚氷にある。棚氷は地形としては平らであるがクレバスが氷床に比べて多い。最大の難関は南極横断山脈だ。標高を4000m級の山々が連なり、3200mの谷を食料燃料を積んだ約150kgのソリを引いて人力で越えねばならない。山間部は悪魔の舞踏場と呼ばれるクレバスの温床であり、南極横断山脈を越えたのはアムンゼン隊スコット隊を含め歴史上わずか45名。ソロで越えたのはあの世界最強の極地冒険家ボルゲ・オズランドのみ。大和雪原からは踏破例がないので自分でルートを切り開かねばならない。この遠征を実現する為に1度南極点に立ってきたのだ。
一番の難関は資金だ。遠隔地にある大和雪原に立つ為の小型プロペラ機チャーター代7500万円を含む7800万円がかかる。ほぼ1人で事務作業から資金集め、遠征準備をしてる上に、人力車の仕事をしている。一介の肉体労働者がどうやってこの資金を集めるのか検討もつかなかった。だがお金が夢を諦める理由であってはならない。僕は日本中を駆けずり回り、生業の人力車まで売却し、半年で7000万を工面した。残りは借金してでも行けばいい。細かい事は南極が終わってから考えればいい。
出国は11月頭予定。夢が叶う。否が応でも高揚した。10月上旬、チャーター会社から青天の霹靂が襲来する。「今年は飛行機は飛ばせない」。こんな現実があるのか。「君が本気でそれをやれるなら遠隔の雪原に安全にフライトする下調べと準備が必要だ、時間が欲しい」。彼らは僕がこの大金を集められると思わなかったのだろうだが僕は集めてきた。南極入りのシーズンは限られている。一年の延期を余儀なくされた。
支援者やスポンサーに次第を伝えたが、例え延期になっても何があっても阿部くんを応援すると言ってくれた。白瀬中尉も南極に行くための交通手段である船が手に入らず延期せざるを得なく世間の批判を浴びたが、船を手配し南極に立った。先人が超えたことなら必ずや僕も超えていく。
夢はまだ終わってない。(阿部雅龍)
■福島県南会津を舞台にした「伊南川100kmウルトラマラソン遠足(とうあし)」、 10回目にしてファイナルとなる大会に今年も出場してきました。10年間、南会津の素晴らしい紅葉を眺めながら走る事が出来て本当に嬉しく思います。主催者の海宝道義さん、三輪主彦さん、酒井富美さんはじめスタッフの皆さん、そして地元の方々に感謝致します。大会が開催される前から南会津周辺は温泉巡りや林道を走りにバイクでよく訪れていましたが、この地で100km走れるとは、と喜んで申し込んだ事を思い出します。
◆今回は大会直前の台風19号の影響でコース上の安全確保が厳しくなり、距離を51kmに短縮しての開催となりました。大量の土砂で道路が覆われてしまったり、特にトレッキングルートの被害は大きかったそうです。台風19号は県内の中通り〜浜通り地域にも甚大な被害をもたらしました。特に阿武隈川の氾濫したエリアの被害は大きく、いわき市でも河川の氾濫が相次ぎました。浄水場も被災したため、約2週間ほど断水が続きました。公園や空き地にはまだ浸水した家財が山積みされており、週末はその片付け作業に参加しています。
◆ファイナル大会当日の朝は結構強めの雨だったのですが、何とスタート直前に止みそこから一気に回復してくれました。最後は快晴のもと、この10年間の感謝を込めてゴールしました。大会は一旦終了してしまいますが、ランニングでもバイクでも走り続けていきたい魅力がここ南会津にはあります。富美さん、10年間本当にお疲れ様でした。また走りに行きますよ!!(渡辺哲 いわき市)
『アート オブ フリーダム』
ポーランドの偉大な登山家ヴォイテク・クルティカの評伝が訳者の恩田真砂美さんから送られてきたのが、この本の発売直後だったから、もう9月前半だろうか。そのときはちょうどニューギニア探検の直前だったので、帰国してから読みはじめたが、これがまた想像以上に面白い作品で、一晩で読み切ってしまった。面白いだけでなく、私にとっては新しい思索のきっかけ、あるいは今後の方向性をあたえてくれる、とても重要な作品になる気がする。
どんな思索を促されたかというと、登山が芸術だとすれば、それはどのような点で芸術なのだろうか、ということにたいする思索である。
ヴォイテク・クルティカはヒマラヤの高峰の難しい岩壁をアルパイン・スタイルという登り方で次々と登頂したレジェンドである。従来のヒマラヤ登山では、物資を大量投入して、ルート上にキャンプを次々と設営しながらじりじり登る攻囲法が主流だったが、アルパイン・スタイルはそのような物量型登山ではなく、反対に壁のなかに合理的なラインを見つけ出し、そのラインを少人数でなるべく時間をかけずに登る、シンプルな登山スタイルである。
無駄な装備や食料をそぎおとし、可能なかぎり技術と体力と経験で、すなわち素のおのれの力だけで登る。それだけにより高度な技術と経験、それに恐怖を前にしり込みしないメンタルの強さが求められるわけだが、クルティカは80年代にいくつものとんでもなく難しい壁を、そのアルパイン・スタイルで完登し、新しい時代を切り拓いたのである。
本書のタイトルは『アート・オブ・フリーダム』、まさにクルティカの登山が芸術だったことをうたっている。そして読むと、実際に芸術的との印象をつよく受ける。
本書には彼の人生でメルクマールとなった登攀が時系列で語られるが、なんといってもインパクト抜群なのは、ロベルト・シャウワーと登ったガッシャブルムIV峰西壁シャイニングウォールの登攀だろう。詳細はぜひ本書を読んでもらいたいが、2,500メートルもの岩と氷の壁で展開された緊張感あふれるクライミングは、読者の目をくぎ付けにして離さない。墜落防止の支点もまともにとれず、最後は食料も水も口にすることもできなくなり、睡眠不足、低酸素による幻覚に苦しめられながらも、7回のビバークのすえに生還をはたす姿は、登山の究極を伝えている。
何よりも痺れるのは、後年、この登攀をふりかえったときの彼自身の言葉である。
じつはクルティカらはこのとき、壁の登攀で全精力を使い果たし、山頂に立つことなく下山した。つまり登頂には失敗したわけだ。そのため、しばらくは登頂できなかったことが彼を相当苦しめたらしいが、時間がたつとこの欠落が逆に、この登攀の真実をより十全に表現しえていると考えられるようになり、肯定的にとらえられるようになったらしい。そしてそれがなぜかというと、本人の弁によれば「最終的なゴールを逃すことで、人間は弱さを示し、それはその人間を美しくする」からであり、「芸術においてのみ、欠けているものが作品に意味を与える」からだ。
クルティカの登山が芸術なのはこの言葉に凝縮されていると思うが、そのことで私が思い出したのは、近年もっともはまった作家である哲学者ハイデガーの芸術論である。
ハイデガーは『芸術作品の根源』という著作のなかで、ゴッホの「靴」という絵を題材に、なぜこの絵が芸術的であるのかを論じている。それによると、この作品には靴が靴であるところの本質が、つまり靴の真理がゴッホの絵にあらわれているからである。さらにいえば、靴の本質たる〈靴性〉がゴッホをしてそのような絵を描かせしめているからであり、だからこそこの作品のなかには靴の真理が立ちあらわれている、ということである。
このハイデガーの芸術論を適用すると、クルティカの登山が芸術であるのがいっそう明確になると思う。なぜ、彼の登山が芸術的なのかといえば、彼の行為なかにガッシャブルムIV峰がガッシャブルムIV峰であるところのその本質が立ちあらわれているからである。もしこれが攻囲法による登山だったらどうか。どんなに苦労したとしても、物量を駆使して山を〈占領〉してしまえば、残るのは成功という結果だけであり、その登山に山の真の姿はあらわれない。アルパイン・スタイルという登り方だからこそ、その行為のなかに山の山たる所以が表現されうる。言い方をかえれば、クルティカがあのような登山をしたことではじめて、ガッシャブルムIV峰西壁はその真実の姿をもって、この世界に定位されたのだ。彼の登攀がなければこの壁はまだ、この壁として、この世界に存在化していなかったとさえいえる。
登山や冒険は芸術でなければならない。本書を読んだ今、本当にそう思う。芸術になったときにのみ、冒険は対象との調和にいたる。芸術的でない冒険は単なる征服しかもたらさない。その冒険が芸術かどうかは、行為の良し悪しをわける基準となるだろうし、あるいは倫理にもなるだろう。少なくとも私にとってこの本は、ここ数年模索していた試みに明確な言葉と新たな可能性が指し示してくれた貴重な一冊となった。(角幡唯介)
■晩秋の1日、久々に茅ヶ岳に登った。たまに行く山の仕事場に近いのでこれまでランニング登山のトレーニングを含めて10数回登っていると思う。遠くから眺めると八ヶ岳の山稜と似ているので「ニセ八つ」とも呼ばれることもあるこの山が人気になったのは、「日本百名山」が中高年登山者の間でブームとなってからだ。
◆1704メートルしかないこの山は「百名山」には入っていないが(「山梨百名山」には入っている)「百名山」をやりとげた、あるいは目指す登山者の間ではとりわけ「大切な山」である。「百名山」を決めた作家、深田久弥がここで倒れたからだ。
◆快晴。連休が終わったばかりなので登山者も1人、2人とまばらだ。山麓の駐車場から歩き出すと静かな山道にはらはら黄色の落ち葉が舞い、それだけで山に来た、という満ち足りた気持ちになれる。1時間あまりスローペースで進むと「女岩」という中継点に着く。かっては水場だったが、今は岩の崩壊が危ない、と立ち入り禁止になっている。ここでゴールデンリトリーバーのくるみに水をあげたことを懐かしく思い出した。
◆ここからしばらくはじくざくながら急登が続くが別に難しいところはない。ひょい、と尾根に出てしばらく行くと石碑が立っている。「深田久弥先生 終焉之地 一九七一年三月廿一日十一時廿三分」と彫られている。百名山を選定した深田はこの場で脳卒中を発し68才の人生を閉じた。
◆深田さんの書斎に外語山岳会の先輩のお供をして訪ねたことがある。深田さんは百名山の作家として有名だが、世界各地の高峰についての研究もよくされていて私たち外語が目指す山についていろいろアドバイスしてくれた。「ヒマラヤの高峰」三巻はいまも愛読書である。(江本嘉伸)
山旅を“量”で残す
「写真は必ずキャプションをいっぱいつけて、なるべくたくさんアップする。それが僕流のレイワ時代のDTP(机上出版)術なんです」というのは伊藤幸司さん(74)。早大探検部出身で地平線会議創設メンバーの主要な一人である伊藤さんは、編集者、ライター、カメラマンなどの仕事をマルチにこなしながら、旅の記録にこだわってきました。 名文家でも名カメラマンでもないと自認する伊藤さんが辿りついたのが、“量が質を越える面白さ”。カルチャーセンターから始まり、23年に亘って続けているの実践的山旅講座「糸の会」の千回を超える山旅の記録を『山旅図鑑』というデジタル・アーカイブスにまとめつつあります。 「埋もれてしまう写真もキャプションがあれば検索できる」という持論のもと、いつか誰かの役に立つかもしれない行動記録こそ貴重。その中で初心者の山歩きの常識とされているコトに対する数々の疑問も見えてきました。 例えば〈雨具にゴアテックスは必要か?〉〈山靴は弊害がある?〉etc. 数々の発見も。〈登山道のヒミツ〉〈登山道の歩き方〉etc. 今月は伊藤流、行動記録の質より量のススメ。そして厖大で目からウロコの山旅の智恵を語って頂きます! |
地平線通信 487号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2019年11月13日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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