10月9日。またまた台風が近づいている。ひと月前、このページで15号台風被害の一端を伝えたばかりだが、迫っている19号も最大風速55メートル、最大瞬間風速は75メートルというとんでもない脅威となった。とりわけまだ復旧が終わっていない千葉方面は大変だろう。
◆気象の脅威を言いながらのどかな話で恐縮だが、おととい7日は誕生日で何人かの方々からお祝いメッセージをいただいた。10月7日生まれはもちろん私だけではない。テレビのニュース番組で見覚えのある人がケーキのお祝いを受けているのを見た。濃い鬚面が印象的な、いま話題のラクビーW杯のリーチ・マイケル選手だ。ロシア、アイルランド、サモアと強敵をなぎ倒して進撃中の日本代表チームの主将。31才になったのだそうだ。
◆もう1人、少し有名な10月7日生まれがいることを最近になって知った。ウラジミール・プーチン。こんなに長くロシアに君臨しているのだからさぞ高齢かと思うが、1952年生まれというから私より一回りも若い。つくづく年齢というのもある意味、「個性」なんだな、と思う。実は最後のロシア語の授業が先週始まり、私はそこでは「ウラジーミル」と呼ばれている。別にプーチンとは関係なく、授業はロシア語だけで進行するので全員ロシア名をつけられているのだ。
◆「最後の」としたのは、私が恩恵に預かっている上智大学の「公開学習センター」は3月いっぱいで終了する、と発表されたからだ。外国語を含む全ての社会人向けの講座は幕を閉じることになるという。家から歩いて通える場所にこういう良き教室が存在していたことを感謝しなければならないだろう。並み居るベテランに較べロシア語力が落ちる私を励ましつつ辛抱強く相手をしてくれたタチアナ先生にありがとうございます、と申し上げる。
◆7日当日は、連れの招待で昼の1時間、はとバスに乗って東京の核心部を一周した。東京駅から2階建て屋根なしバスで皇居、霞ヶ関、国会議事堂と進行する1時間のツァーは予想を超えて楽しかった。普段からバスは好きだが「2階建て天井なし」というのは別格の味わいなのだ。40代と思われるガイドさんの的確な解説にはうなった。由緒ある場所に近づくにつれ、短いセンテンスで歯切れよく東京の街並みを説明する。 レインボーブリッジを渡り、豊洲の新しい市場を見やりながら銀座へ。好天に恵まれたこともあって、満足な1日だった。
◆そして、この日カナダから久々に届いたメールが私を感動させた。先月の通信の「あとがき」で13年前の「片貝大花火」のことを書いたが、あの本多有香さんからだった。「ご無沙汰してしまい申し訳ないです、9月の末からアラスカのヒーリーに犬たちと住み始めています。この冬はテストって感じですが、犬たちにとって良い環境だったら今後冬はヒーリーで過ごす予定です」
◆おお、カナダのホワイトホースではなく、アラスカのヒーリーにいるのか! ということは? またまた開拓始めたのかな?!「いつも通り、ギリギリの資金で土地探しから始まり、原野からの開拓でした。この歳でまた開拓するとは……!!! 自分でも馬鹿だとは知っていたけれど、馬鹿にも程があります。私は本物の馬鹿です。もう二度と開拓しません!」ひぇー! びっくりだ。私にも原野を切り開く「開拓」がどんなに大変なことか、はわかる。「開拓に掛かる時間が前回と全然違いました。これが老いなんですね。正直疲れました……」
◆中古のトラベルトレーラーを買って、そこに屋根とか防寒材を付けて住まいとしているようだ。「薪ストーブ入れたりして、どうにか今のところ(まだマイナス5度程度ですが)快適に過ごしています。もう外は真っ白です、これが根雪となるかは疑わしいですが」「老い」と言いながら、このラジカルな生き方は何なのだろう。有香さんは地平線会議と同じ「8月17日生まれ」。地平線の年齢+7と覚えている。いま47才か。あと30年は十分現役で動けるだろう。私は自分が初めてモンゴルの草原に立った1987年当時を思い出した。モスクワの意向で外国人ジャーナリストはウランバートル周辺以外はご法度という時代、あの時自分は47才だった。
◆有香さん、ヒーリーでは風車を作ろうとしている。「現在進行中のプロジェクトは、ヒーリーは風が強いので風車の取り付けです。自由研究的なものが大好きなので、これは楽しいです」と書いている。犬たちと風車小屋暮らし。うまく行けば「電力はかなり出ると考えられます」。電力確保は案外簡単かもしれない。しかし、本人は「ただ、この生活に慣れているので特に電気を使うことは無いような気もします」と電気のない暮らしに焦る雰囲気は全くない。齢を重ねることの大変さと楽しさを考えさせられる10月、私は79才になった。(江本嘉伸)
■久々の地平線報告会に娘と参加した。2016年6月の村上祐資さん報告会に息子と娘を連れて参加した以来だから3年ぶりだ。娘を荻田さんの「100milesAdventure」に参加させたことで今回はこの報告会レポートを頼まれてしまった経緯もあり、午後4時、娘を横須賀の中学校からピックアップした時は間に合うかドキドキしていた。案の定、首都高が渋滞気味で車は一向に進まない。オタオタし始めた私に娘は「大丈夫だよ。9時半頃までやってるんでしょ?」と平然としている。えっ? いつからうちの娘はこんなに腹がすわってしまったの?
◆20分ほば遅れてたどり着いた会場は、いつもより青年、少年少女の姿が多かった。今日の話は、前半が娘が参加した「100miles Adventure」、後半は「北極圏を目指す冒険ウォーク2019」となる。どちらもリーダーは北極冒険家荻田泰永さんなのでこの冒険家が何を見据えて計画を立てているかよくわかるだろう。
◆「100milesAdventure」とは、荻田さんが北極徒歩冒険行を経て計画した子供たちとのプロジェクト。全国から集まった小学6年生たちと、100マイル(160km)を踏破するひと夏の冒険。知らない世界を知ることで得られる感動、多様な世界の姿、小さな一歩を重ねていくことで遠くのゴールに辿り着く喜び、北極の世界で学んだ多くのことを、未来を担う子供たちにも経験して欲しいという想いから発案。少人数、長期間で子供たちと歩き旅を行なうことで、チームが次第に家族のようになり、目的遂行のための一体感が出来上がる。
◆「歩く」「生活する」「進む」という普遍的な行為こそがアクティビティとなるように、 旅の間には予定調和的な体験プログラムは極力排除し、それぞれの子供たちに合った成功体験を得て、再び自分の生きる世界に帰っていってもらいたいと、荻田さんは考えている。だからこそ、チャンスは一度、小学生最後の夏、6年生限定なのだ。ルートはスタートとゴールが決まらないと美しくない。東京駅→富士山頂とか厳島神社→出雲大社とか分かりやすい。距離とかキャンプ場の配置やロケーションなどもあるので、計画を立てるにあたり、グーグルマップを何日も眺め続ける。「ひたすら毎日距離を測っていると、ああここがいいなというのが決まってくる」という。
◆そしてスタート前にロケハンにも行く。ひととおり全部、車でルートを見て、危ない道ではないか確認したりキャンプ場を決めて、5月になったらルート発表、参加者募集を行う。やり方がユニークだ。まず最初に今年のルートと日程などの詳細を発表し、その後に「参加者募集開始日不告知の先着順」によって参加者を決めるのだ。 いつ募集を開始するかはあらかじめ告知しない。不告知であるという告知はする。で、ある日突然ウェブサイトやSNSのみで参加者募集を開始したことをアナウンスする。
◆その瞬間からの先着順で定員になり次第、募集停止。予約不可。早い者勝ち。当然、参加者の男女比の操作もできないので男女比もバラバラ。私も可愛い子には旅をさせよのファーストミッションで募集開始に出遅れまいと20日余のスマホ依存症的生活を経て、親の熱量の証したる参加者枠ゲットの後、小6の我が娘は昨年の第7回第1ルート170km踏破&磐梯山登頂を果たした。
◆なぜ「参加者募集開始日不告知の先着順」という手法をとるかというと、ひとつは一番公平だと荻田さんが思っているから。たとえば、8&8の16人の枠に40人応募があるとして、そこからくじ引きで16人選びましたというのは、すごく不公平だと思う。40人いたとしたら1〜40までの熱量のグラデーションがあるはずだから。全員が同じ行きたい熱量なわけはなくて、だったら上から16人が来るべきというか、熱量が高い人が行ける可能性が上がる方が公平かなと思う。
◆100マイルに行きたい人は、この「参加者募集開始日不告知の先着順」を知っていて、毎日毎日チェックしている。「いよいよ始まったらそこでバババって応募してくれる」と、荻田さんは続ける。「今年もそのやり方で5月26日の19:30ちょうどにウェブサイトにアップ、その後フェイスブックやツイッターなどのSNSだけで、募集開始しましたって言うと、1件目の応募が19:38。2件目が19:39分。3件目が19:42分とかで、第1ルートが48分で埋まった」私は応募する側だったからほんとうにあの緊張感、切実さがわかる。
◆第2ルートも7人はすぐ決まって、最後の一人も1時間半くらいで応募が終った。参加者を集めるのに苦労した第1回目、2回目が懐かしいほどという。「8年やってると、だんだん知ってくれてる人も増えているなと。100マイルに参加したい人、100マイルだから参加したい人が来てくれる。だから「うちの息子が虫に刺されたんだけどどうしてくれる」みたいな面倒な親はいない。極端に言えば「死ななきゃイイです」みたいな感じの親御さんが多い。そうすると子は親の鏡なんで、子ども達もみんな素直でイイ子ばかりとなる。そう、荻田さんは語る。
◆ここで、第1回からことしまでのルートを紹介しておこう。第1回「網走〜釧路 160km13日間」参加者:6年生3名(男1名 女2名)、第2回「東京駅〜富士山頂 165km11日間」参加者:たまたま5年生4名(男3名 女1名)、第3回「大阪港〜福井若狭湾160km10日間」参加者:6年生限定(ひとり中1)5名(男3名 女2名)、第4回「厳島神社〜出雲大社173km11日間」参加者:6名(男2名 女4名)、第5回「札幌〜大雪山旭岳190km11日間」参加者:7名(男6名 女1名)、第6回「別府温泉〜熊本城170km10日間」参加者:9名(男8名 女1名)、第7回(1)「新潟駅〜猪苗代湖170km11日間」参加者:7名(男1名 女6名)、第7回(2)「猪苗代湖〜日光170km11日間」参加者:7名(男4名 女3名)第8回(1)「岡山〜今治170km11日間」参加者:8名(男5名 女3名)第8回(2)「今治〜高知170km11日間」参加者:8名(男7名 女1名)、8回10ルートで、その時の男女比によって、そこに起きる社会現象も変わってくる。
◆初回の費用は子ども3人にスタッフ3人(女性1人)とサポートカー1台(テントや食材運び)で1人10万円頂いたが、赤字。子ども達は寝袋や衣類・食器などの身の回り品は背負って歩く。「アウトドア原理主義」ではないので、外食もする。飯は飯盒以外は許さん!みたいなことはなく、飯は食えればなんでもいい。普段はコンビニおにぎりとか、道端で冷やし中華をつくることも。野外でやっていても、キャンプは目的ではなく、ただの手段でしかない。旅をする中で、一緒にキャンプをする。一緒のご飯を食べる。一緒に寝る。一緒の生活をする。10日間という時間で一緒に旅をしたい。歩いて行く中で目にうつる風景、土地の食べ物、出会う人、トイレを借りた家のおばちゃんがくれたトマトとか、畑のきゅうりをもいでいきなというおじちゃんとか、そういう出会いがいっぱいある。それって旅だと思う。第6回から過去参加した子どもをスタッフとしていれた。いずれそうしたいなと考えていた。理想の中では「6年生で歩いた100マイルは、子どもたちにしてもらう経験の半分である50点かな」と。
◆そこから中学生の間は特にコンタクトもとらずに、何年か時をおいて、6年生から高1だと4年ぶりにもう一回旅をして、前は連れていかれる立場だったのに、今度は6年生の面倒をみなければいけなくなる。立場を変えて100マイルに帰って行くと、6年生の時に見えなかったものが見える。単純なところだと、裏方の大変さを知るわけで。毎日コインランドリーで洗濯してくれてたとか、テントの設営とか。移動生活なので、毎日、膨大な機材を朝に撤収して、夕方また設営しての繰り返しは結構大変。子どもたちも手伝うことはあるけど、基本は子どもたちは歩きに専念してもらうので、スタッフがやる。それを経験して、知ってたようで知らなかったことを知ってもらって、そこでやっと100点満点かなと思っている。
◆もうひとつ大事なのが「荻田の100マイル」じゃなく「100マイルの荻田」でなければいけない。「いずれ私は100マイルを手放さなきゃいけない。私がいなくても出来るようにしなきゃいけない。私がやってるかぎり、夏休み中にがんばって二回。1回あたり、8人が精いっぱい。それ以上になると目が届かなくなっちゃうし、ひとりひとりが薄くなっちゃう」と荻田さんは語る。8人と9人は全然違うのだそうだ。7と9なんて雲泥の差。子どもが9人いるとパッと見た瞬間に「アレッ全員いるかな?」ってわかんない。7人だと誰がどこにいるかってすぐわかる。
◆「今年は8人、そうなるとがんばっても16人しか入れられない。ありがたいことに行きたい人は増えている。そうなった時に一番力になってくれるのは過去参加したOBOGだと思う。だから私がいなくても100マイルであり続けるための準備をしているって感じですかね」予定調和の外側の教育機会なのかなと、プログラムを作らない。決まっているのは日程と歩くルートと宿泊場所だけ。今日は○○体験をしましょうとか一切、一つも入れない。歩きながら日々、何かしらどんどん生まれていくスタイルこそが大事なのだ。
■後半は、北極の旅。この旅を考えたのは、もう2年位前になる。南極を一人で歩いている時に、さあ次何やろうかなと歩きながら考えていて、歩いている間って風景変わらないし、暇なんで。じゃあ次は若者たちを連れて北極を歩こうかなと。「私は一番最初に大場満郎さんに連れられて、北極に行ったけど、まあいつかその日が来るだろうなとはずっと思っていた。30代の頃はまだ早いなと思っていて、まあ南極歩いている間に、あっもういいかなと」。で日本に帰って来た時は「来年は若者たちとの北極をやろう」と決めていたから取材や講演会や報告会では「来年は若者たちと北極を歩こうと思っています」と話していた。
◆若者をどうやって集めたかというと、募集は一切かけず、南極が終わった後に、ほうぼうで「来年こういうことをやりますよ」とだけ言った。それをどっかで見て聞いて「すみません 行きたいんですけど」って連絡をしてきたメンバーを連れて行った。連れて行ってもらうのか、自分から能動的なアクションをして行くのかで結構大きな差になると思っているので、敢えて募集はかけなかった。でも結果12名集まった。
◆条件は一切不問。全員アウトドア経験なんかゼロのようなもの。女子大生も2人いた。来るものは拒まず、去るものは追わずっていう感じで、「あなたはちょっとごめんなさい」と断るようなことは誰にも言っていないし、行きたいやつは連れて行くよって、全員連れて行った。場所は、カナダ北極圏のバフィン島。本州の二倍強の広大な土地に1万人が住んでいて、数百kmおきにイヌイットの村が点在しているところ。
◆パングニタング村(人口1500人)から歩き始めて200km北上するとキキクタルジュアク村。ここから海氷上を400km歩いてクライドリバーまでトータル600km踏破しようと計画。真ん中がオーユイタック国立公園というきれいなところ。前から行ってみたいなと思っていたけれど、個人で遠征するには難易度は落ちる。今回は素人の若者たちを連れて行くからそんなに難しいところには行けないし、景色もきれいで、行きたかったところなので、今回はこのルートに決めた。
◆1年くらい準備をして、今年の2月に9日間、メンバーで北海道合宿を行った。みんながアウトドアど素人。寝袋で寝たことない人って聞いたら半分くらいが手を挙げた。テント立てたことない人って言ったらほとんどが手を挙げた。スキー履いて歩いたことある人って言ったらほとんど誰もいなかった。なので、テントの立て方、スキーの歩き方、ソリの引っ張り方、ガソリンコンロの使い方など基本的なことをやった。
◆メンバー12名の構成は大学生4人(女子2人含む)、フリーター4人、会社員(今回辞めて参加した人も含む)4人。3月25日に羽田を出発し、オタワで4日間、大量の買いだし&パッキング。補給の食糧をカーゴで途中のキキクタルジュアク村まで空輸してもらう。そしてイカルイットで1週間、現地トレーニング。風が強くマイナス30度くらい。きれいなオーロラが出たりして、十分に北極の環境。イカルイットからスタートのパングニタングまで300km。メンバー12名と荻田さんと柏倉陽介カメラマンの合計14名と食糧やソリなど大量の荷物を載せるため、飛行機をチャーターした。その方が安いし確実なのだ。
◆最初の200km、島を越えて行くところが国立公園なので、オリエンテーションを受けてから、4/7にパングリタングを出発。フィヨルドの奥を上がっていく。奥に山野井泰史さんが単独で登った巨大な一枚岩トール西壁があったり、安東浩正さんも昔ここを歩いていて、とにかくきれいなところ。夏は川で水がジャンジャン流れる。標高は450mくらいまであがるので、最初はずっと上り。結果的には200kmは10日で歩けたが14日分の食糧など40kgくらいをソリに積んだ。
◆みんな最初の海外旅行で、見るものすべて、わあスゲー!きれー!ってお客さん気分。荻田さんも大場さんに連れていってもらった北極が、初めての海外旅行だったので、気持はわかるけど、行きたいです!って能動的にアクション起こして来たのに、このあたりではまだ荻田さんに連れてってもらってるって感じ。隊列の先頭で荻田さんがナビゲーションして毎日8〜9時間、15〜20km歩いて、テントを張って、ご飯を食べて、寝て、翌日ソリに全部パッキングして、また歩く。
◆リーダーの荻田さんは海に出た後のルートはどうしようとか、毎日、テントで地図を広げて考えていた。みんなは明日に備えて早く寝ればいいのに、凍ったペプシをプシュッとやって、氷と分離した糖分だけを飲んで、甘〜いとか言って騒いでいる。どこかでこれをシメなくては。でも、まだここじゃないなと、この時は放置した。
◆10日目にキキクタルジュアクの村に着き、11日目は休養日で。午前中はオタワから送った補給の食糧を受け取ったり、その先の400kmの準備をして、午後から自由にした。そこで事件というか「シメる日」が来た。勝手に村のB&B(一晩$250)でシャワーを浴びたメンバーがいて、うわついて、フワフワしていることに、怒り心頭。荻田さんはブチンと切れた。頭を冷やしに、村を30分ふらついてみたりした。柏倉カメラマンが他のメンバーにもここから400km行くのに、もう少し気合い入れないとやばいんじゃないのと、気を引き締めるように話してくれた。ここまでの200kmは国立公園内で、困ったらレンジャーが助けに来る。シェルターもあって、無線機でSOSも出せるような管理されているところ。でもここからゴールまでの400kmは完全に海の上の無人地帯で、助けは無いし、熊もいっぱいいるかもしれないし、その年は海氷の結氷状態も危うかったから、リーダーはだいぶ気を張っていた。
◆もうちょっと地に足を付けてくれないと危ないので、ここでシメた。「帰れ! 俺はもう行きたくない! 馬鹿にされて裏切られて、命なんて張れねーよ! 他のやつらの命を守らなきゃいけないんだよ! 勝手にしろよ!一人で行けよ! 行けないんだろ!」とやって、一晩寝て起きて、キキクタルジュアクの村を出発した。荻田さんが先頭を歩いて、真白な中で小さい半島を10kmくらいトラバースして河口にピンポイントで出たら、メンバーから、何を見て歩いているのですか? と興味を持って来たので、これはナビゲーションをやらせてもいいなと思った。
◆ちょうど2週間経った頃に、地図とコンパスを預けた。風紋の見方、コンパスの見方、時間と太陽で東西南北をどう決めるかとか、ちょっとずつ教えるからと。彼らはやったことがないので難しい。地図に書いてある二次元情報と目に見える三次元情報をリンクさせる地図読みができない。ナビゲーションをやると、会話の質が変わって、進むために、どう効率的にいくかという話になっていく。この時点で、荻田さんは隊列の最後尾についた。
◆4月7日に歩きだして5月5日にゴールした。バフィン島も5月になると、日中0度くらいになって暑すぎるので、5月から昼夜逆転させて、夜の涼しい時間に歩いて、昼前には歩き終わって、暑い時間は寝る生活にした。
◆ゴール2日前。ナビゲーションをしているリーダーが前日の島越えで、自分の希望的観測で、何の確証もなしに、そっちに行ったら早いだろうと、メンバーを誘導した結果大変だった。翌日は視界が悪く、島越えを終えて、海に出て、あとはゴールの村に向けて歩いて行くだけ。村に近いので地元のイヌイットの人たちがスノーモービルで狩りに出たりするので、スノーモービルの轍がたくさんある。春になって、気温も上がってきて雪の固さがなくなってきていたり、足首を痛めているメンバーもいたので、行くべきルートを外れて、歩きやすい轍の上を歩き始めた。
◆隊を止めて、リーダーから地図とコンパスを取り上げ、「クビ!」と宣言して、荻田さんが先頭を歩いた。スノーモービルの轍の上を行くのは楽なんだけど、そこから外れてソリを引いてみて、試してみて、「確かにこれはやわらかくて、ソリを引いた感じも重いね。足首にも負担かかるよね。だったら轍の上を行こうよ」ってみんなで試して話し合った上で轍の上を行くならいいと思うよ。でもそうじゃない。誰一人轍を離れて試していない。試していないのに轍の上を行って、こっちの方が楽だというのは、昨日も話した希望的観測でしかない。そこの結論に至るまでの根拠があまりにも甘すぎる。なんで、こういう時に練習しないの? わかりやすいものを追いかけるんじゃなくて。練習しようという気持ちもない。だからクビ。危なくて任せていられないよ。次こそ頑張りますは無い世界なの。次の前に死んでるのよ。大体みんな。次が無いから死んでるの。
◆29日目に全員無事にゴールした時、荻田さん自身はたいしてうれしくなかった。みんなだいぶ物足りなかった。北極に行く前は600km北極を歩くって、アウトドアど素人で、うわーッ大変だなって、何が起きるんだろうってドキドキした気持ちもあったと思う。でもしっかりしたリーダーが付いていれば、やろうと思えば誰でもできる。高い壁に思えていたものが、やっているうちに、あれっそうでもない?って。終った瞬間に、あれっもっといけるよねと。余力を残して物足りなさで終わると、それが次への活力となって、もっと渇望してくる。
◆その渇望感がまたもう一回動き出すための原動力になる。「私の中では物足りなさで終ってくれたのは良かったなと思ってる。120%燃焼しましたって言われたらオイオイって。私がやったのは場をつくることであって、私が若者たちを成長させたんじゃなくて、私が作った場が成長させてくれたなら、100マイルも北極も変わらない。できなかったことができるようになったのは、場がそうさせてくれたのかな」と荻田さん。
◆今後の展望。「冒険研究所」を作りたいなと思っている。何をするかというと、装備開発をしたい。今回使ったソリとか。天然素材コットン100%ウエアは私個人的には極地を歩くにはこれ以上良いウエアは今は無いと思っている。あと、やり残した北極点をもう一回やりたい。最後に司会の丸山さんから荻田さんの著書『考える脚』が受付で早いもの順(笑)で購入できる旨のアナウンス。今日は北京の二次会はありません。手は差し伸べてくれません(笑)ので、荻田君の手を自らとって押しかけ二次会でくらいついて下さいと。
◆昨年100マイルに私の熱量(笑)で参加した娘が、今年は大木ハカセさんのリヤカー東海道53次に行くと言って、日本橋を出発し三条大橋を目指した三日後、メンバーと家族になるべく、まさに心臓破りの箱根越えをしているその時に、江本さんと丸山さんの電話会議がなぜか混線して、私のスマホに繋がった。私はスマホに触れてもいなかったので、これは地平線ミラクルだなと……この時から、今日の原稿は決まっていたと思えてならない(笑)。女5人でサハラを目指して、バイクでマルセイユからアルジェに渡った時も、鉄人カソリさんとカイラスを目指してチベットを激走した時も、知らない世界に自分を置いて、予定調和の外側で「旅すること」「進むこと」だけを考えていた日々を思い出した。そして、我が娘は次の旅を渇望している。(青木明美)
■いつもよりも1時間ほど長く、3時間強を頂いたものの最後は駆け足に押し込んだような形となり、結果的には時間が足りませんでした。特に、100マイルアドベンチャーに関しては初めて全ての旅を振り返って話をする場となり、8年間の旅を振り返ってみると次々にエピソードが思い起こされ、いくら時間があっても足りません。小学6年生たちとの夏休みの100マイルアドベンチャーと、今春の若者たちとのカナダ北極圏600km徒歩冒険行。いずれも私としては、どうやって「場」を作るかということを考えた結果です。
◆私が行うのは、子供たちや若者たちが新しい世界を体験し、能動的に主体的に「考える場」をどう提供するかです。私が子供達や若者たちを育てるなんてことは考えていません。彼らを育てるのは、彼ら自身の内側から湧いてくる好奇心や冒険心であり、そのきっかけとして私が何かの役に立てればという思いです。お知らせですが、10月15日の19時から、NHKのBS1で春の北極冒険行の番組が放送されます。ぜひ、若者たちと私の1か月に渡る苦闘の旅を見ていただければ嬉しいです。
■いつもよりも1時間ほど長く、3時間強を頂いたものの最後は駆け足に押し込んだような形となり、結果的には時間が足りませんでした。特に、100マイルアドベンチャーに関しては初めて全ての旅を振り返って話をする場となり、8年間の旅を振り返ってみると次々にエピソードが思い起こされ、いくら時間があっても足りません。小学6年生たちとの夏休みの100マイルアドベンチャーと、今春の若者たちとのカナダ北極圏600km徒歩冒険行。いずれも私としては、どうやって「場」を作るかということを考えた結果です。
◆私が行うのは、子供たちや若者たちが新しい世界を体験し、能動的に主体的に「考える場」をどう提供するかです。私が子供達や若者たちを育てるなんてことは考えていません。彼らを育てるのは、彼ら自身の内側から湧いてくる好奇心や冒険心であり、そのきっかけとして私が何かの役に立てればという思いです。お知らせですが、10月15日の19時から、NHKのBS1で春の北極冒険行の番組が放送されます。ぜひ、若者たちと私の1か月に渡る苦闘の旅を見ていただければ嬉しいです。(荻田泰永)
「伝える」と「伝わる」。文字にするとたった1文字の違いだが、その間には南極と北極ほどの開きがある。極地遠征では、仲間に意志や情報が伝達されないことは、荻田さんが若者に繰り返し語っていたように、すなわち死に近づくことを意味する。上手く「伝わる」とは、相手に関心を持ち巧みに誘導していくことでもある。しかし荻田さんは常々言う。「俺は他人には一切興味は無い」荻田さんは「伝わる」努力を一切放棄したドライなマシーンなのだ。だからこそ、若者にとって「荻田泰永」ではなく「場」の一部になれる。北極こそが荻田さん以上にドライで、あらゆる油断が死に直結するマシーンに他ならない。
ではなぜ、荻田さんの言葉はきちんと若者に伝達されるのか? 荻田さんの「伝わる」手法は、超合理的で超原始的。黙って「機を伺う」ことと、反対にとっとと帰れ、お前はクビだと一方的に罵声を浴びせ、殴る蹴ることさえ厭わない「マウンティング」なのだが、答えはそこではない。荻田さんの圧倒的な経験に基づく「伝える」情報の蓄積量と、細部に及ぶ正確性や合理性こそが本質だ。
逆に若者たちにはその蓄積が一切なかった。彼らは遠征の後半になってようやく、ナビゲーションに興味を持ち始め、必死に吸収しようと考え続けるものの、やはりそのディテールで荻田さんに敵う筈がない。だから地図とコンパスを奪われた彼らに出来ることといえば、荻田さんに頼み込んだり羽交い締めにしたり、情に頼ってでも何とか「伝わる」よう努力をする他なかったのだ。
そんな若者の健気な努力が報われたから、荻田さんも最後に情に折れて、一度クビを宣告した後に再び先頭を若者に託したのかといえば、本人に聞いてみないと真相は分からないが、僕はそうではないような気がする。その日の遠征行動の残り時間や位置とを天秤にかけて、いま彼らと言い争うのは無駄だと、どこまでもドライに荻田さんはそう判断を下しただけではないだろうか。
最後に少しだけ、僕自身の近況をご報告したい。15年にわたって続けてきた、南極越冬やヒマラヤ遠征、海外の模擬火星生活実験などの計千日の極地生活の踏査経験を経て、昨年秋に特定非営利活動法人「フィールドアシスタント」を立ち上げた。
「極地から学ぶ、宇宙から考える。」をテーマに、宇宙を統べるのではなく、周囲の世界との繋がりを通して宇宙に足をつけた「暮らし」を考える団体だ。早春の頃には「宇宙時代の職業を考える」シンポジウムを企画している。やがて宇宙飛行士という言葉がなくなり、宇宙は僕らの職場になる。僕は、個の力ではなく、職能によって極地と向き合うことを考えたいのだ。それは荻田さんのように「場」になることではなくて、職人という「人格」になること。あるいは屋根の下に冒険をつくり、「伝わる」を磨く試みなのかも知れない。(村上祐資 極地建築家 2016年6月「火星のジョーモン人」報告者)
■今回の報告会では、北極冒険家、荻田泰永がいつも話し慣れてる北極遠征話ではなく、彼が毎年夏に小学生を対象に実施している冒険旅企画100マイルアドベンチャーについて話をするということで、とても楽しみに会場へ足を運んだ。私(大木ハカセ)と荻田泰永は2011年末頃にN.A.P.(Northpole Adventure Project)という法人を立ち上げ、以降の数年間(2015年末まで)互いの拠点を一つにして活動をしていた。勿論、此度の報告会で主題となった100マイルアドベンチャーについても一緒に立上げをおこなっている。
◆当時の100マイルアドベンチャーは、小学6年生数名を引き連れての歩行を担当する荻田と、歩行以外のキャンプや食事などの生活部分を担当する大木とで2人の役割を分担していた。その為に生じる私の見えていない部分がある。今回は、そんな私の知り得ない角度の、荻田泰永目線での子ども達に対する深い部分や、彼の思いをじっくり聞けることにワクワクした。
◆100マイルアドベンチャー実施中に起きる出来事や、都度の対応に関しては互いに深く話し合うものの、互いの心理や感情に肉薄した部分などは、男2人向き合っては中々話さないものである。余談ではあるが、私がまだ荻田泰永の遠征事務局長をしていた頃、彼が挑戦した2014年の北極点無補給単独徒歩行にて撤退後のピックアップに私が現地へ向かった際、北極の地で2か月ぶりの再会を果たした時も、互いに交わした言葉は「お疲れ」の一言だけであった。男同士の会話なんていうのは大体そんなものだ。
◆報告会の最中、荻田泰永の話が子ども達との微笑ましい過去画像と共に進むにつれ、これまでの様々な状況が私の頭に鮮明に蘇ってきた。荻田泰永が「ハカセ、子供達を連れて歩く旅をやりたいんだよなぁ」と夜中にA4ペラ1枚の企画を見せてきた時のこと。初開催当時、スポンサー探しの際に「危険だよ。君たちが大丈夫なのはわかるけど、子供達の安全は保証できるの?」とアウトドア関連の多くの企業から非難を受け、それでも実施に踏み切ったこと。そんなこんなで結局最初の2年間は協力企業すら集まらず、自分たちで大赤字を抱えながらの実施だったこと。様々なことがいっぺんに思い出された。報告会の終わる頃には「そうだったか。あの夜中のA4ペラ1枚が今の活動を形作る源だったのかもしれないな」その様にも思えてきた。
◆5年程前から、私は私で自身の旅以外の活動として、100マイルアドベンチャーとは別の子ども達との冒険旅を実施している。中学生達との冒険旅企画である。タイトルはいたってシンプル「リヤカー東海道五十三次」。やることはタイトルのまま。全国から中学生を4名募って夏休み時期に実施(今年は往路隊4名と復路隊4名に分けて2連続実施)。東京日本橋をスタートして、目指すは500km先の京都三条大橋。アスファルト道、箱根などの峠道、石畳、山道、様々な環境を16日かけて旅をする。
◆宿泊はその時々によって違うが、基本は公園や河川敷などにソロテントを5張並べて寝る。伴走車も無ければサポートのスタッフもいない。私を含めた5名分のテントや装備、着替え等を積み込んだ1台のリヤカーは、100kgを優に超える。それを5名だけで力を合わせて引いたり押したりしながらひたすら進めて行くのだ。24時間の共同作業である。
◆私が実施する中学生達との冒険旅がこのスタイルになったのには意味がある。ある年、100マイルアドベンチャーを実施しながら考えていた。小学生にとって、自身の荷物を肩に背負い、初めての仲間達と共にその足で歩き続ける。これは彼らにとってはきっと大冒険であろう。自身の経験のその先にある、まだ見ぬ世界そのものだ。では、これを経験した子ども達が中学生になったら、一体何ができるだろうか。そのまま背負う荷物を重くするのか? 距離を伸ばすのか?
◆いろいろ悩み思考錯誤した結果、1台のリヤカーを全員で押し進める所に行き着いた。共同作業である。「これは小学生には到底できないが、中学生であればギリギリのところでできるかもしれない」そう考えた。長い長い共同作業の中で、これまで気がつかなかった自分達の内面に出会い、まだ知らぬ土地を歩き、会ったこともない人々との出会いを重ねながら旅をする。
◆私は「旅の目的は終着点に到達することではなく、その行為自体にある」と常に考えている。ゴールすることは勿論大切だが、それが絶対的な目的ではない。むしろ旅の最後の瞬間に、参加した子ども達のそれぞれの目に何が映り、彼らが何を感じとるのかを終着地点としている。それはきっと、荻田泰永が毎年続けて実施している100マイルアドベンチャーにおいてもきっと同様なのだろう。報告会の彼の言葉の端々から、そんなことを感じた。
◆私たちが実施している子ども達との冒険旅企画に参加した子ども達は、一体どんな成長を遂げているのか。その本当のところは今すぐわかるようなことではなく、彼らが20歳、30歳、40歳と大人になった時に少しずつ滲み出てくるようなものなのかもしれない。(大木ハカセ)
■北極に行くにあたり、僕は仕事を辞めた。裸一貫で挑んだ真っ白な世界。冒険の前半、360度どこを見ても白しかないあの世界を、僕はただ「綺麗だ」としか思っていなかった。まだそのころは僕が「ツアー参加者」だったからだろう。しかし冒険後半、若者達だけで地図を読み、地形を読み、進む方向を決めるようになり、綺麗だったあの景色は進む方向を決めるための重要なヒントも持つようになった。
◆僕がこの冒険を終えて感じたのは、何事も出来るか出来ないかではなく、“やってみるかどうか”であること。写真に興味があったものの、自分にはどうせ出来ないと決めつけて、なんの勉強もしなかった僕。北極で写真を撮ることの面白さに気づき夢中でシャッターを切り続けた。仕事も金も無い、今の自分は失うものなど無い。やれるだけやってみよう。こう思えたのは、挑戦を続ける荻田さんの姿を間近で見続けたからだろうか。
◆冒険が終わり、北極で撮った写真を国際写真コンテストに応募してみた。焦点距離も、望遠の意味もよくわかっていなかったが入選した。まぐれかもしれないが、やってみた結果である。今は写真の仕事がしたい。地球温暖化の影響を真っ先に受け、壊れゆく北極周辺の自然を壊れる前に見てみたい、撮りたい。次は冬のアイスランド内陸部に行って写真を撮りたいな、と思う。僕たち14人の冒険は終わったけれど、僕の冒険は始まったばかりだ。やってやる。(長野県下諏訪町 花岡凌)
■北極という全てが剥き出しな空間で過ごした新鮮で刺激的な毎日は、僕たちに大きな影響を与えた。複数のメンバーが来年もまた北極圏の冒険を行うことを決めたし、北極で写真を撮る面白さを発見しプロカメラマンを目指すことを決めた人もいる。参加したメンバーの何人かは、この旅をきっかけに人生の軌道を大きく変えた……と思う。かく言う僕は、会社に休みをもらって参加したので、旅に出る前と今の日常はさほど変わりない。同じ会社で、同じように忙しなく働き、毎晩「もうダメ……」なんて言いながら、日々を過ごしている。
◆旅を終えて、「なにか変わったか」とよく聞かれるが、いつも「いや〜、なんですかね。あっ! 5キロくらい痩せましたよ」と冗談を言って誤魔化してきた。旅に行く前、父に「将来に役立つわけでもないし、リスクがあるだけじゃないか」と言われたのを鮮明に覚えているが、確かに、今のところ旅の経験が日常に“役に立った”と思えた瞬間はない。
◆人生の軌道は多分大きく変わっていないし、この経験が明確に何かの役に立ったわけでもなく、周囲の人へ伝えやすい“変化”があったわけでもない。けれど最初に書いたように、僕も「旅を通して影響を受けた」と思っている。それは冒険中に考えたことや、手に入れた新しい物事の見方が、日常生活の中でヒョコっと顔を出すことがあるからだ。日本では当たり前のように使っている携帯やパソコンそのほか娯楽も当然ない、不自由で厳しい環境は僕に「自己と他者について」考える時間を与えてくれた。地味かもしれない。でも、自分が変わっているという、強い実感がある。
◆日本に帰ってきた日、羽田空港で荻田さんは「この旅に“意味”をすぐに持たせる必要はない。それが死ぬ前なのか分からないけど、必ず意味に気付く日がくるから」と話してくれた。僕はまだ、北極で見つけた思考のタネを育てている途中だ。タネが開花する時、僕も本当の“旅の意味”に気付くのかもしれない。(市川貴啓 28才)
■横綱白鵬関とモンゴル人実業家のエベ・ハサグ氏が共同で手がけた新アプリ「W+(World Plus)」が、10月1日に各国でローンチしました。このアプリをダウンロードすると、海外で出版された雑誌を手元のスマホでいつでも読むことができます(年内はすべて閲覧無料、来年から一部有料)。モンゴル人は数学に強く、理系人材が日本企業に就職する例も最近増えつつありますが、「W+」も雑誌と動画広告が組み合わさるなどデジタル業界にとって革新的な試みをしているのだそうです。
◆難点は雑誌のラインナップがまだ少ないことで、近いうちに世界の有力500誌が揃うと聞いたので期待しています(すべてを整えてから走り出す日本人と違い、まず走り出してから整えていくのがモンゴル人)。帝国ホテルで行われたアジアオープニングパーティーでは元横綱日馬富士さんともお話させていただきました。日馬富士さんは今、日本式教育でモンゴルにブームを巻き起こしている新モンゴル日馬富士学園の運営に全力を注いでいます。白鵬関はといえば、二次会、三次会でも自ら参加者たちにお酒をふるまい楽しませ、富を人びとに分け与えるチンギスハンのようでした。(大西夏奈子)
◆484号で、屋久島の新垣亜美さんにご紹介いただいた、拙著『漁師になるには』(ぺりかん社)。まったく思いがけず、発行から半年で2千部の増刷が決まりました(初刷は5千部)。いったいどんな人が、何を感じて買ってくださったのか。不思議ですが、漁師や漁業に関心が寄せられたことがひたすらうれしく、快哉を叫びました。ご協力いただいた方々に、感謝の思いでいっぱいです。中でも新垣さんの文章には、言葉にならないほど感動しました。新垣さんをご紹介者にという江本さんのご慧眼、さすがです。「増刷の報告をしなさい」とポンと1頁くださったので、度々の登場、失礼します。
◆新垣さんは、私がこの本に込めた思いをドンピシャリ、いえ筆力の足りない分までも読み取ってくださいました。とくに「漁師という仕事の間口の広さを知ることができるだけでなく、もっと大きなテーマである『自分らしく働く』ということについて前向きに考えられる内容になっている」、「信念をもってそれぞれの道で努力する生き方の素晴らしさを、漁師になりたい人だけでなく、自分らしく生きたい人たちみんなに伝えてくれる」という文章。
◆「ああ、それはまさに新垣さんの生き方なんだなぁ」と、3.11直後、RQ登米で光を放っていた新垣さんの存在感に思いをはせました。先日、新垣さんと久しぶりに(江本さんのスマホで)話しました。屋久島での教職は1年契約の更新で、そうすることで屋久島の小学校にずっといられるのだそうです。「いろいろあって大変です」と笑っていましたが「信念をもって自分らしく」生きていることがビンビン伝わってきました。
◆話を漁師に戻すと、漁業の現場があまりにも知られていないことに、危機感があります。この夏、東京海洋大学の先生が、3年生の漁具・漁法の講義で『漁師になるには』を課題図書にしてくれました。学生のレポートを見せてもらってびっくり。「漁法は講義で学んだが、働く漁師をイメージしたことがなかった」「漁師には会ったことがない」「漁師は頭ではなく体力だと思っていた」「漁は1人ですると思っていた」(これは大間のマグロのTV番組のせい?)など、水産の国立学府の学生でさえ、漁師の姿を知らないのです。
◆漁業の現場を知らないから、なり手が出てこない。2018年現在、漁師の数は15万2千人で、2010年から7万人減りました。うち4割が65歳以上。75歳以上が2万人なのに、40歳代以下はわずか2万7千人です。もともと漁業は多様性に富む職業です。遠洋・沖合・沿岸があり、数々の漁法があり、何か月も海上で働く集団の漁業もあれば、海に出るのは1日2、3時間という漁業も。さらに社会の変化とともに、漁業にも大きな変革が起きています。情報通信技術の発達で、漁業技術のIT化が進むほか、漁村は世界と直接つながるようになりました。
◆加工販売の6次化、体験などの交流事業、市民と協働の環境活動など、多彩な動きが生まれています。また、よそ者に門戸を開く漁村も増えてきました。『漁師になるには』では、そんな漁業の今と現場を10人の若い漁師さんを通して描きました。増刷はうれしいですが、漁師のなり手が増えるのが本当のゴール。日本の魚食文化、海と生きる漁村の知恵と民俗、そして里海の環境と資源を未来につなぐために。
◆最後に。481号に書いた老親介護のその後を少し。4月に脳出血で倒れた母81歳は、最重度の要介護5に認定されました。左半身が動かず、嚥下ができないので胃ろうで栄養をとっています。在宅介護は無理です。今の制度では、医療保険の上限は150日で、10月下旬には退院させられます。移るのは介護老人保健施設(老健)ですが、これも国の制度で入所は3か月間までと決められています。その次に移るのは特別養護老人ホーム(特養)などになりますが、前橋市のHPを見たら特養はどこも入所50人以上待ちで、寒気がしました。
◆リハビリの内容も、施設ごとに決められています。今の病院では、3種類のリハビリを1日に各40分受けられます。しかし老健では1日たったの20分、特養ではついにゼロに。寝たきり放置の施設もあるそうで、愕然とします。父88歳と障がいのある弟(次男)のほうも山坂ありましたが、家族会議を開き、話し合いを重ね、ようやくひと山越しました。家族のいいチームができつつあります。一方、週に2時間、夕食の調理を頼んでいるヘルパーは人手不足で綱渡り。介護保険料を払っているのにサービスが受けられないという話は本当でした。消費税も値上げしたのに!
◆母の入所施設を探す旅はまだまだ続き、やがて父も介護が必要になるはず。でも、周りを見渡せば多くの人がやっていること。先日、介護施設で自然体験プログラムを提供している知人の話を聞きました。なるほど、そういう手もあったのか。母は自然が大好き。ちょっと楽しそうな未来が見えた気がしたのでした。(海と漁の体験研究所 大浦佳代)
■9月末、4年振りに沖縄を訪れました。木曜日の夜、那覇空港に到着。少しむっとする熱帯の空気を体に感じて嬉しくなります。翌朝さっそく、祖父の故郷である糸満市の名城へ。ちょうど大潮で、遠浅の海は沖へ50mくらい歩けるほど潮が引いていました。名城は小さな集落で、このビーチは夕方におばあが貝採りに来たり、おじいが木陰でぼーっと海を見て休んでいたり、春にはもずく拾いにたくさんの人が訪れたりと、人々にとって憩いの場であり、生活の場でもあります。
◆旧暦の5月4日には、ハーリー(舟漕ぎ競争)が行われます。ハーリーは漁港で開催されることが多いけれど、名城では自然のビーチから沖に向かって舟を漕ぎ出して行く光景が見られます。船頭が鳴らす鐘の音に合わせて門中(血縁集団)対抗で競う姿も、おばあたちがパーランクー(太鼓)を叩いて踊って応援する様子も、見ものです。
◆そんな名城のビーチですが、3月から大型リゾートホテルの建設が進んでいます。2022年の完成後は500人を雇用し、2000人を収容できるパーティー会場もあるとのこと。この静かなビーチに観光客が押し寄せたら、海のすぐ横にある立派な亀甲墓や、拝所となっているエージナ島はどうなってしまうのだろう。次に来た時にもこれまでと同じような景色が見られますように、と祈りながら名城を後にしました。
◆色々と寄り道をしたので、外間昇さん、晴美さんご夫婦の住んでいる浜比嘉島に着いたのは夜でした。浜比嘉島に入ると空気が変わる気がします。晴美さんが「20時から公民館で琉舞の練習するよー」と声をかけてくれて、行ってみると、晴美さんをはじめ5名が集まっていました。中には小学生の女の子もいます。
◆重要無形文化財の保持者として認定されている海勢頭先生のもと、稽古が始まります。練習用の着物を羽織って並んだ晴美さんたちは、テープから三線の音楽が流れると、 ゆっくりと、力強く歩みはじめます。手足の動きや方向転換など、難しそうなのにみなさん上手です。1時間半で8曲ほどを踊りました。聞けばもう4年半、毎週2回の練習をしてきたとのこと。すごい! 先生が手作りされたという見事な小道具の数々も興味深かったです。踊りを見せていただいたあとは、ますます静かな島の夜に浸ってしまいました。
◆翌朝、外間家へ行くと、いつものように昇さんが火を焚いて待っていてくれました。晴美さんお手製のニンジン、グアバ、シークヮーサーが入ったスムージーを飲み、コーヒーを入れ、パンを焼き、おしゃべりをしながらゆったりとした朝の時間を過ごしました。
◆食事のあとは、犬たちとお散歩タイム。16歳になったゴンは耳も遠くなり寝ていることが多いけれど、散歩になると目の色が変わります。門を出た途端に走り去り、姿を見失うくらいです。元気いっぱいのぽにょも一緒に、海までダッシュでお散歩でした。
◆その後、美ら海ファームへ。「ヤギとお散歩ツアー」が人気で、この日は横浜からリピーターの親子が遊びに来ていました。山を歩きながらヤギが好きな葉っぱを採って食べさせます。晴美さんがヤギの名前や性格を教えてくれて、お客さんは大喜びでヤギをかわいがっていました。
◆前に来た時と変わっていたのは、牧場への道がコンクリートで舗装されたことです。牧場から見える山の一部も削られ、よく見ると麓から山頂を経由し、高台にある小学校まで、階段が続いています。少し前に作られた津波避難道路でした。ところが、晴美さんに階段の近くまで連れて行ってもらったら、階段の一部には常に山水が流れ続けています。ぬるぬるした藻?に覆われて、危なくてとても歩ける状態ではありません。実際に使うことも、避難訓練をしたことも無いらしく、何のためにこんな工事をしたのかと悲しくなりました。
◆再来年、比嘉で12年に1度の芸能祭「うふあしび」が開催されるそうです。これは見に行かないと! 変わっていく島の姿を少し寂しく感じながら、それでも連綿と受け継がれていく人の心や芸能をしっかりと自分の心にとめておきたいと思います。(屋久島 新垣亜美)
■晴天の5日、福島県の浜通り、楢葉町に昨年できた「みんなの交流館 ならはCANvas」で「バイクフォーラムinならは」が開催された。バイクと言えば特別ゲストは賀曽利隆さん。そして楢葉と言えば仕掛け人はもちろん渡辺哲さんだ。渡辺さんはこの3年、楢葉町の天神岬スポーツ公園キャンプ場で「キャンプミーティングinならは」というイベントを毎年開催してきた。震災だけでなく原発メルトダウンのダブルパンチを受けた浜通りにどれだけ人が戻り、復興の行方がどこに向かっているのか、全国から集まったライダーに見てもらい、交流をはかってもらおうという目的で、今年6月の第3回には100人を超すライダーが集結、賀曽利さんが熱弁を奮った。私も初めて参加させてもらった。
◆そして秋の今回はただ走るだけではない。まじめなシンポジウムである。各地から集まった70人のバイク乗りと地域の関係者を前に、「社会の中のライダー〜震災復興・地域振興という視点〜」をテーマに、賀曽利さんら4人がそれぞれの震災復興への思いを語った。賀曽利さんは現在「日本16端」ツーリング中だ。本州・四国・九州・北海道のそれぞれ東西南北の突端を目指す旅で、今回は本州東端、魚毛ヶ埼への途中に立ち寄った。いったい何回目の魚毛ヶ埼になるのだろうか。2011年の東日本大震災を契機に、たびたび福島県南端の鵜ノ子岬から青森県の尻屋崎までのツーリングを繰り返していることは賀曽利さんが地平線通信にも書いているが、この「鵜ノ子岬→尻屋崎」は今回で23回目だそうだ。
◆そして賀曽利さんの眼は小さな変化を見逃さない。賑わいが戻ってきた勿来海水浴場、温泉施設が復活した道の駅ならは、避難指示解除後初めて浪江町にできたスーパー・イオン浪江店、もはや二度と走れないだろうと思っていた松川浦の大洲松川ライン……。「そのたびにいいゾ、いいゾと嬉しくなる」と賀曽利さんは言う。私も富岡に復活したヨークベニマルや新しくなったJR富岡駅を見てきたところだったので、それを実感する。
◆キャンプにも毎回参加している滝野沢優子さんは警戒区域設定前から続けているペットレスキューの経験をリポート。宮城のライダー、Hoshizouさんは震災直後から新地町の町角に掲げられていた旗をきっかけに生まれた「復興フラッグキャラバン」を紹介した。トリは楢葉町の松本幸英町長。自ら「楢葉鉄馬倶楽部」を主宰し、ハーレーを操るライダーでもある。140戸の復興住宅とこの交流館、ショッピングモールからなる「笑ふるタウンならは」や、2020聖火リレーのグランドスタート地点に決まった新生Jヴィレッジを見れば、楢葉の復興は一目瞭然。ライダーの皆さんにはぜひ自身の目で見た正確な情報を周囲に伝えてほしいと熱く語った。
◆第2部は竜田駅近くのお寺、大楽院にある常設焚き火場で、火を囲みながらの交流会。大楽院の酒主秀寛さんは渡辺哲さんの同級生で、キャンプやフォーラムの手間仕事を一手に引き受けるだけでなく、ここで「焚き火night」という交流イベントを毎月のように開催しているのだそうだ。焚き火だけでなく、児童遊具あり、図書室ありのお寺を見ていると、お役所だけに任せない楢葉の人たちの復興への底力を感じることができた。
◆賛否両論あるものの、JRは常磐線の不通区間を来年春に再開させる。それに合わせて帰還困難区域も一部解除されるようだ。震災後10年を待たずに夜ノ森の桜を楽しめるようになるかもしれない。というわけでみなさん、福島からまだまだ目を離さないでくださいね。(落合大祐)
■小松由佳さんのトークイベント「一瞬の永遠のその先へ 〜シリア難民と暮らし、シリア難民を取材する〜」(9月20日、豊洲文化センター)を聞きに行った。いろいろ大事なことが話された中もっとも印象に残ったのが、この言葉だった。
「お金がなくては生きられないと初めて知った」
「毎日働かないと生きられないと初めて知った」
これはシリア難民である、由佳さんのダンナさんのラドワンさんが日本に来て知ったこと。日本人の感覚からしたら、何を言ってるんだ?と、なってしまう。だがシリアの東部の町、パルミラで、3世代の大家族で半遊牧生活をしていたラドワンさんは、お金がなくても、毎日働かなくても生きてこれたのだ。内戦が起こるまでは。
◆お金がなくてもというのは、貨幣経済の外で生きているという意味ではない。ラクダとざくろとなつめやしの果樹園を一族で大事に維持し、必要な時にだけ売れば生きていけるということ。そこは常に変化し続けることを強要される、資本主義国の都会とは対極の土地。変化しないことが安全を保障する世界。もちろん大事とされる価値観も違ってくる。
◆由佳さんの著書「オリーブの丘へと続くシリアも小道で」の中に「ラーハ」という言葉が出てくる。アラビア語に「ラーハ」という言葉がある。直訳すると「ゆとり、休息」といった意味だ。ラーハとは、家族や親しい友人と過ごす穏やかで平和な時間であり、それをたくさん持つのがよい人生とされる。由佳さんはシリアに深く入り込み、体当たりで、その価値観を手に入れた。
◆シリアの内戦に巻き込まれて、住み慣れた土地もラクダも失い、家族とも離れ難民として日本にきたラドワンさん。幸せの基準となる前提条件が違うため、日本でシリアにいたころと同じ幸せを求めるのは難しい。そして日本人側も、由佳さんのように彼らの価値観を手に入れた人でないと理解は難しい。以前、別の場所で由佳さんの話を聞いたときに、その典型例があった。
◆イスラムについて勉強したいと、地元のお坊さんがラドワンさんを先生として呼んだ。勉強会の後、事前に伝えてあったにもかかわらず、お寺側が準備したカレーに豚肉は入っていた。お坊さんはラドワンさんに非礼を詫びたが、その後に「日本では出されたものを食べないのは失礼にあたる」と豚肉入りカレーを強引に勧めた。勉強したいと呼んだ側が自分たちのルールを押し付けてどうする。非常に気分の悪い話だった。
◆「あなたの言うことは分かるけど、でもここは日本だから……」というのは優しさを装った同化の強要だと思う。なぜなら相手に合わせて自分を変えようという意志がゼロだから。由佳さんは日本でのラドワンさんとの結婚生活について、こうも言った。
「完全に理解し合えないかもしれないことを理解する」「話し合って解決できることばかりではない」「相手が大切にしていることを否定しない」「自分を大切にするのと同様、あなたがあなたでいることが大切」
これほどの理解者がいるだろうか。
◆ラドワンさんはラドワンさんのままでいい。でも由佳さんが全力でシリアを理解しようとしたように、少しでも日本を理解しようとしてくれたら、いいな、と、思う。かつてイランで出会った日本に出稼ぎ経験のあるイラン人は、誰一人日本を悪く言う人はいなかった。希薄な根拠だけれど、日本人は外国人に優しいよ、ラドワンさん。(坪井伸吾)
■地平線の皆さま、お久しぶりです。プナンの村・ロングスレで暮らすべく、しばらくカリマンタンに滞在していました、下川知恵です。復学の時期が迫ってきたので、長いこと過ごしたインドネシアに一度お別れし、先日東京へ戻ってきました。それからあっという間に2週間が経ち、大学も始まりました。先日は10か月ぶりのエモカレーを楽しみに、江本さんのお宅を訪問しました。そこで村でのことを何か書くよう勧められましたので、2人で盛り上がったロングスレの人たちと「森」のことを、わたしにできた村の友人の話から、さらに少し膨らませて書いてみようと思います。
◆ロングスレでは数か月滞在するうちに、わたしにも長い時間を共に過ごす友人ができました。馴染みのある場所とはいえ、異文化・異言語100%の生活は、ものすごくエネルギーを使います。楽しいことばかりではないし、何をしたわけでない日であっても、心身とも疲れ切ってしまうこともしばしばでした。そんなわたしにできた大切な仲間は、主に30歳前後の男たちです。昼間から灰皿を囲んでぷかぷか煙草をふかす彼らはいつもどこか退屈そうで、来るもの拒まず的な雰囲気は妙に心地の良いものでした。
◆かつて所属していた探検部に空気が似ていたからかもしれません。彼らとなら気張らず自然体でいられ、一緒にいても疲れることがありませんでした。魚採りや果物採集に連れて行ってもらったり、プナン語を教わったり、たまに口喧嘩したりしながら、毎日のように行動を共にしました。若者の中で年長組の彼らは、村の生活に慣れる上でも何かと心強い存在でした。そんな拠り所を得てから、強く意識するようになったのは「ミサン(misan)」という彼らの生業です。
◆ミサンは、「泊りがけの狩猟採集行」を意味するロングスレの言葉です。「ミサン・〇〇」という風に、多くは後ろに目的を表す言葉をつけて用います。たとえば、「ミサン・ウェイ」は籐の採集を目的にキャンプをすること、「ミサン・セコウ」であれば沈香を探すために森に入ることを指します。男たち数人がグループを組んで、お金になる沈香や金を採集しに出かけることが多いのですが、夫婦や家族、仲のいいご近所さん同士で行く短期間の果物採集や魚採りも「ミサン」のひとつです。
◆働き盛りの親しい友人たちは、よくミサンに出かけて行きました。森で得られる沈香や金こそが彼らの収入源です。家計の支えとなるだけでなく、兄弟や親戚の学費や、街に下りる貴重な資金にもなります。ミサンは短くて1週間、長くて2か月。村の外に広がる広大な森の奥へ、舟で数時間〜数日間かけて向かい、露営地を移動しながら仕事します。いつも忘れた頃に突然「来週からまた森に入るよ」と告げられました。男たちだけで出かけるミサンでは、わたしは村で留守番です。その間もちろん連絡はとれませんし、いつ帰ってくるのかもわかりません。そうしたミサンのときは、彼らがとんでもなく遠い未知の場所へ行ってしまうように感じられました。
◆普段から森の話になると、彼らの口調と表情に、わずかに生気が宿るのを見つけることがありました。そういうときは誰も話を茶化さず、場がほんの僅かに真剣な空気を纏うのです。無知なわたしへのポーズかもしれませんが、森の話をする男たちには、いつでも何とも言えぬ連帯感があり、森に対する畏怖と、そこで仕事する彼ら自身のプライドが垣間見えました。
◆7m超の巨大ニシキヘビの頭を恐怖の中で撃ち抜いたとか、手のひらサイズの金塊に出くわすといった印象的な出来事も、村の男たちは森で体験してきました。そうしたことを、当時のミサンの仲間たちとひとつの記憶として共有するだけでなく、最終的にはこうした語りの場を通して、同じ森仕事に従事する者同士が森の有り様を再認識し、内面化するという過程を繰り返しながら、スレ村にひとつの森世界観と男たちの連帯感が築かれているように感じるのです。
◆さらに彼らは、歩いた森の樹の幹や河原の岩に、自分の名や日付、村で待つ愛しい人の名を刻み付けてゆく習慣があり(道迷いで役立つことがあるそうです)、そのときの想いや記憶を、森に「残して」村に戻ります。そういうところからも、男たちは全てを村で生きているわけではなく、大きな部分を森に預け、森と共に生きているように思えてなりませんでした。村に暮らす以上、そうした森観念は無視できないもののようでした。
◆友人たちがミサンに出発する日、わたしは決まって波止場へ出向き、見えなくなるまで舟を見送りました。そのたびにもの寂しく、帰る頃まで日付を数えて過ごすのは常でしたが、そのうちに、森のどこかでわたしの知らない時間を過ごしているであろう彼らを、誇りに思う気持ちも生まれてきました。そして、ミサンに送り出し、帰りを待つということも、徐々にわたしにとっての当たり前のことになってゆきました。
◆こうした感覚は、以前までのような短い滞在の中で身につけられるものではありませんでした。やっと村の人間相関図に組み込まれ始め、今日も明日も1か月後も村にいられるという状況が、ただ知識としてある語彙の一つにすぎなかった「ミサン」を、実感を伴ったものへと変えてくれたように思います。今回の数か月の滞在では、村のあらゆる物事の「繰り返し」を経験する日々の中で、新しかった物事を徐々に「普通」だったり「日常」へと擦り込んでいくことができました。
◆そのおかげで、もうお客さんとしてではなく、日本からの留学生としてだけでなく、それ以上に、いずれまた戻ってくる村の人間として付き合ってもらえるようになりました。この先もロングスレへの行き来を続け、いまの感じ方にも変化が訪れることを前提に、当たり前になりつつあることを淡々と繰り返してゆきたいと考えています。次の目標は来年の2月です。ちょっとお金が厳しいですが、先日は「ミサン・クリアー(大学のミサン)」に行くと言って村を出てきたので、待ってくれている村の人たちの元へ無事に帰れることを願っています。(下川知恵 22才になりました)
■映画『フリーソロ』を観てきた。クライミングのメッカともいわれるアメリカのヨセミテ渓谷の大岩壁エル・キャピタンが舞台。高さ約1000メートルの垂直の一枚岩。この巨大な大岩壁をフリーソロロープやハーネスなど安全確保のための道具をいっさい用いずに登るするという話だ。主役のアレックス・オノルドは1985年生まれのアメリカ人クライマー。10歳からクライミングをはじめる。アメリカ国内の岩場で数々の難ルートをフリーソロする。2014年にはパタゴニアのフィッツ・ロイの完全縦走に成功し、ピオレドール賞を受賞する。このピオレドール賞とは、わかりやすくいえば登山(登攀)における最優秀賞のこと。地平線報告会がらみだと、谷口けいちゃんや花谷泰広さんがそれぞれ受賞している。
◆いずれにしても主役の男はアメリカのみならず世界を代表するクライマー。ほかのスポーツにたとえるなら、オリンピックで予想どおり金メダル獲得したレベルだ。ところで高さ1000メートルの垂直の大岩壁をフリーソロすると聞いてどんな印象を持たれるだろうか。高さ数メートルのフリーソロでも、落ちて打ちどころが悪ければ死ぬ。だから「フリーソロやる人=(イコール)世捨て人」と解釈されてしまうのも、ある意味でしかたない。あるいは頭のネジが100本くらい生まれつきぶっ飛んじゃっている、とも思われてしまうのかもしれない。
◆ところがフリーソロをやる人というのは、すくなくとも自分が知っているかぎりではたしかな技術による裏付けがある。矛盾するようだけれど、リスクが高いからこそ事前に予測できるリスクを可能なかぎり軽減する。身体的なトレーニングは、もはや暮らしの一部と化す。そしてシミュレーション。もしここでミスってもこのように対処すればリカバリーできる。そういった引き出しを何十通り何百通りと持っている。ただ陰の努力はなかなか見えにくい。一般大衆にとって死とはすくなくとも日常では他人事のようなものだけれど、フリーソロに挑む者にとって死はつねに日常の一部に組み込まれている。命知らずのように見られているいっぽうで、死というものが自身のなかでおそろしくリアルに迫っている。
◆この映画の主演のアレックス・オノルドもエル・キャピタンのフリーソロに挑むに際して、じつに事細かに予習する。1000メートル近い大岩壁のなかで手の位置や足の位置、身体のこなし方までノートにメモする。マニアックといわれようがそこまでやらないと生還できないシビアな世界。こうした緻密さが、現段階で生存していることに繋がっている。些細なミスが死に直結する可能性が高いゆえに冒険性はきわめて高い。同時に高度なスポーツであるともいえる。
◆さて話が少々飛ぶ。先鋭クライマーのフリーソロよりも夏の剱岳や槍穂高岳のクサリ場やハシゴでチンタラ登っているヘタレ登山者のほうが、見ていてよほどハラハラドキドキする。身体が固くて筋力弱いのに、あり得ないムーブで登ったりしている。事故ってあたりまえだ。それこそ自殺行為だ。というよりもじっさい死亡事故は頻繁に起きている。現場で怖い怖いを連発するなら、どうして引き返すなり対処をしないのだ。もしかしたら頭のネジが生まれながらぶっ飛んでいるのではないだろうか。日本の夏山にたむろすヘタレ登山者こそが、真の意味でクレイジージャーニーであるといえなくもない。
◆映画『フリーソロ』を観ながら本筋とはかけ離れたことばかり思ってしまった。なおこの映画のクライマックスは、アレックス・オノルドが前年の試登の末に2017年6月3日にエル・キャピタンの大岩壁をわずか3時56分で完登するところ。こういう映画を観てしまうと、「自分はまだ山には一度も行ったことないんだなぁ。岩には一度も触れたことないんだなぁ。一生何も成し遂げることないんだろうなぁ」って痛感する。(田中幹也)
■「若潮マラソン」と呼ばれる大会がある。これまでに5回ほどエントリーしたこの大会は、館山市の北からスタートし海岸線を南下西行、突端の洲崎を回り、画家・青木繁の代表作、海の幸の舞台になった布良集落で内陸に折れ、ふたたび館山市内にもどる道を行く。今回の台風でもっとも大きな被害を浴びたのがこの一帯で、救援活動中の同僚を訪ねるべく向かってみると、町は仮補修のブルーシートで埋まり、眺望が自慢のはずだったホテルは展望室の一枚ガラスを砕かれて封鎖、大型店舗もコンビニもことごとく閉じられていた。
◆あの夜、自宅のマンションにいた私はのほほんと過ごせたが、戸建てに住んでいた人々は吹き飛んだ屋根に、はがれた壁に、いかなる夜を過ごしてきたことだろうか。自宅の15キロほど南が、かのゴルフ練習場のポール倒壊現場になる。映像ではわかりにくいが、二十戸近い家屋を破壊した鉄柱はことのほか太く、よくもまあ死者が出なかったものだと感心したくなってくるほどだ。早く撤去すればいいのにとは思うが、加害者側に弁護士が入ったことで話は急にややこしくなってしまった。
◆被害者側も一枚岩ではない、いちはやく生活を立て直したい人と、補償が確定しないうちは処理されたくない人で対立していると聞く。月並みな感想になってしまうが、やはり台風15号は県民にとって想定外の強さだったのだろう。三陸ほどではないにしろ津波で20名もの生命を失い、液状化で広大な地面をゆがめてわずか8年で、もっと大きな災害がやってこようとは千葉県民のだれもが思わなかったにちがいない。
◆アウトドアに夢中になったおかげで多少天気図がよめる私は、職場のお天気相談所として、不本意ながら仕事以上に頼りにされている。「上陸時の予想気圧960ヘクトパスカルは強力な風を吹かせ、高潮も発生させる。気になる月齢は十日と最悪の状態はまぬがれそうだが、通過時間と満潮時間から横浜に被害がでるのは確実。千葉は干潮だから高潮にならないが進路にあたるだけに風は強い。時間的に通勤の足は乱れるから、明朝の人員確保だけは絶対」
◆そのように病棟に伝えて帰った夜、あろうことかこの問題児はほんとうにわが街の上空を通過した。おき土産に、想像だにしなかった空前の最大瞬間風速57.5mまでも残していく。それでもふつうならここで終わるはずの台風だが、空前だけに抜けて水が引いても終わらない。通過翌日の通勤路、がらりと変わった里山になにかがおかしいと感じつつ病院にたどりつくと、入院相談の電話は鳴りっぱなし、停電ゆえに自宅での生活が困難になったと救急搬送、職員までもが倒木で道がふさがれてやってこない。思わぬ波状攻撃に疲労困憊の帰り道、やたら星がきれいだなと思ったら周辺家屋が暗闇に沈むしまつである。
◆300m台の丘陵で構成される房総は、人跡まれなる山岳地帯というよりも、自然と共存するちょっと深めの里山農村といった環境だ。おかげで集落も均等に点在するから、山深いという印象には乏しいし、張り巡らされた電線も野に山にとほぼ均等にのびている。そこに空前の強風が襲いかかっての倒木続出だから、電線網はいたるところで破壊された。
◆間抜けにもそれに気づかぬ東電は、安易にも3日後には完全復旧と発表、ふたを開ければ3週間もかかったとあって非難の矢面に立つことになる。それでも復旧すればまだいいほうだ、雨漏りでショートした家屋、基線からはなれた家屋はいまもなお通じていない。一方で携帯までもが中継基地の倒壊で、固定は停電で働かないと通信網まで寸断である。停電の陰に隠れてはいるが、この1万世帯の不通もまた大きな問題となっている。
◆このように、ファクサイは本体の勢力よりも二次的に発生した被害のほうが格段に大きかったことで、後世に名を残すことになりそうだ。地平線の人々のように電気が止まろうが水が切れようが生きていけるだけの能力を備えた人ばかりなら問題はないが、電気が絶たれれば瀕死となり、通信が滞ると手も足もでなくなるのが一般的な人である。私の身の回りに多い医療機器の改良のおかげで寿命を延ばしてもらった人々は、電気と通信の遮断をもって生死の境をさまよう死刑宣告にも似た約束をさせられてしまった。現にエアコン停止で熱中症をおこし救急搬送された方は、二日目にしてあっさりと息を引き取ったし、在宅酸素が届かなかったときが命日になると覚悟した人もいる。
◆あれからほぼ1か月。またしても台風18号の余波で強風が吹き、ブルーシートがはためき電線が垂れさがった。6日には南海上に19号がうぶ声をあげ、不気味なコースをとりつつ成長している。もう来るなと願っても、日本にとって地震とともに共存しなければならない相方台風。通過後の爪痕と蒼い空をながめて自転車を踏んでいると、年に一度は昔に帰り、電気通信がとだえたときの対策を各自考えながら暦どおりに生きなさいと叱っているような恩師と思えてならなくなっていた。(埜口保男)
★「ファクサイ」は台風15号につけられたラオスの女性の名。日本を含む14か国から成る「台風委員会」が命名した。
通信485号の大西夏奈子さんのハルハ川訪問記を面白く拝読しました。さすがの筆力で最後まで興味津々で、最近のモンゴルについて勉強になりました。
最近のロシア復活渇望論がモンゴルで無視できない情勢となってきているなかで、空軍機、戦車でのプーチン大統領のアピールに、ここまでやるかといささか驚きました。ロシアはあの戦争に大金をかけたそうですので、モンゴルにもつ戦争歴史の遺産を大いに活用したのだと理解しました。
こころの中で日本人を好ましく思っていないモンゴル人がかなりいるというのは残念ながらモンゴルの現実であり、それはノモンハン事件のせいだけではないと思っています。
1945年8月9日に旧ソ連(ロシア)軍は対日宣戦布告して、日本軍が支配していた内蒙古に侵攻したわけですが、モンゴル軍も旧ソ連軍とともに9日に内蒙古に侵攻しました。そして、モンゴルは翌10日に対日宣戦布告しました。
モンゴルは1945年の戦争とノモンハン事件とで2039人の人的損害と約5000万ドルの損害を被ったとして戦時賠償を要求しました。これは1946年8月国連からの質問へのツェデンバル首相の回答でした。しかし、2か月後の10月に約8000万ドルとして極東委員会に請求しました。
日本の立場としてはモンゴル国の存在を承認していなかったので戦争状態にあったと法的に認めがたく、法的根拠がないとの立場でした。しかし、現実には戦闘があったので、戦後処理の一環という形で政治的解決をすべく、国会で議決をした条約をつくり、50億円の経済協力をすることにより解決がなされました。これが世界一のカシミア一環工場をもつゴビ社です。テレビ大手通販などでゴビ社は最近ファッション性にすぐれた高級ブランドとして登場していますので、あるいはごらんになった方もおられるかと思います。この条約により過去は蒸し返さないと第1条で決めており、両国関係は最も好ましい二国関係に発展しています。これは両国国民や両国政府が協力して築きあげた財産だと思っています。
それでも日本をよく思わない人びとがいるのが現実で、その原因は、ノモンハン事件の前後から、スターリン主義がモンゴルにも荒れて、日本のスパイの名のもとに何万というインテリが処刑された暗い歴史と関係があると私は思っています。それに、日本を第一の敵とした反日教育が過去にあり、これを払拭するために、現役時代、私と私の家族は努力したと申しあげても許していただけるかと思います。
いずれにしてもロシアの再登場は、中国にあまりにも偏りすぎたことを是正したいというバランス感覚だとも思われます(バトトルガ大統領の問題意識と仄聞します)。大西さんがそれを現場で捉えてきたのはさすがと思います。
どのコースを行かれたのか分かりませんが、スフバータル市は経由したのでしょうか、その先にあるメネンギン・タル(タルは平原の意味)という無人地帯は今どのようになっているのでしょうか。18年前に行ったときは人影は、軍隊のチェック・ポスト以外では見かけませんでした。
70周年を祝うチョイバルサン市でもハルハ川でも日本大使として現地を公式に訪問した第1号として大変喜ばれました。忘れられないのは、ハルハ川国境のスンベル村の帰りにボイル湖湖畔でテントをはって一夜明かしたことです。夜になると満天の星や、対岸の彼方に中国側の家屋の灯がちらちら見え、なんとも郷愁をさそったことが印象的でした。
私は運転手のバヤラーさんと一つテントでしたが、夜半に強風となり、テントがばたばた言い出してバヤラーさんはどこかバイシン(建築物)に入りましょうと言いました。でもこの平原のどこにもバイシンなどありません。私自身は熟睡しましたが、バヤラーさんは一睡もしなかったそうです。翌日農場とか視察の間バヤラーさんはうつらうつらしただけで、その夜は300kmぐらい無人のメネンギン・タルを夜間越えして一睡もできなかったのに無事、チョイバルサン市に翌朝たどりつき、県の70周年の行事に間に合いました。
走行中はっと目を覚ましたとき、車のフロントガラス越しにヘッドライトに照らされて真っ白い狼がはっと止まり、私と目を合わせました。運転手のバヤラーさんが、「極めてまれなことで、貴方は徳がある。モンゴルの天が使いをよこしたのかも知れない。今後仕事は順調だ」といいました。
大西さんはなにか動物をごらんになられたのでしょうか。お話を聞かせていただけたら嬉しいです。(花田麿公)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。通信費振り込みの際、通信についての感想など付記してくれると嬉しいです。
大嶋亮太/長塚進吉/嶋洋太郎/伊藤幸司(4,500円 通信費+カンパ)/竹澤廣介
■今年7月、地平線の報告会が縁で、初めて青木麻耶さんに出会った。野生肉をめぐる話をしていた時、麻耶さんは「私も、罠猟をするんですけど……」と話し始めた。「鹿は可愛い顔をしていて、逃げようとするので、殺すときにすごくためらってしまうんです」それでもとどめを刺して、麻耶さんはその鹿を食べた。彼女の格闘する姿を想像すると言葉が出なかった。私は動物の解体は経験したが、自分の手で食べるための動物を殺したことがない。それが生きるうえで重要な関門であることは分かっているが、「私にはできない」と思ってしまう。
◆最近、『BE−PAL』で角幡唯介氏の「自分にはできない」という自身の著書へのレビューについての考察を読んだ。そもそも、自分がやっているような旅を本気でやりたいと思う人が他にいるとは思えない、という疑問から始まって、狂気寸前の芸術家への賞賛、嫉妬のようなようなものと思えば悪い気がしないが、と締めくくられていた。
◆私にはできない、というのは思考を停止させるには都合が良い言葉だ。アルバイト先の造形教室で、細かい和紙を貼っていくというような地道な作業が立ちはだかると「できない」と言う子供がいるが、実際に技術的なことでつまづいている場合もあれば、「できない」のではなくそこに「やりたくない」という感情の壁が立ちはだかっていることが多い。黙々と「やる」子供は多少不恰好でも良いものを作る。
◆何かを創り出すということは、ただやるかやらないかの積み重ねのような気がして、「大抵なことは誰にでもやればできるが、〈やる〉ところまで中々たどりつかないのである」という角幡氏の言葉に共感する。人生には、側からは思いつきのように見えることでも、実際にはその人は人生の全てをかけてやらねばならなかったことがあって、彼女が罠猟をしたり、旅に出たりするのも「私はこういうふうに生きたい」という願いから必然的に生まれたものなのだ。
◆南北アメリカ、走行距離11000キロに及ぶ、1年がかりの麻耶さんの自転車旅行が一冊の本になった。夏の終わりに、お風呂上がりの扇風機の風に心地よく当たりながら、麻耶さんが汗みどろで自転車を漕いでいるのに失礼だなと思いつつ、布団の上でゴロゴロ、この冒険記を大いに楽しんだ。北アメリカ、アメリカ編ではほのぼのとした空気が漂うが、ペルーに渡ってからガラリと空気が変わる。世界遺産のマチュピチュや、織物の文化に触れる旅に私はときめいた。
◆「今夜泊まる所を探しているの。どこかいいところ知ってる?」「あ、そしたらうちに泊まったらいいよ!」。彼女はそうやっていつも自然に地元の人々や旅人とやりとりし、のびのびとしている。旅の予定を返上して、いつのまにか糸紡ぎに挑戦している麻耶さん。先住民の伝統的な手仕事が大好きで、眺めているだけでは我慢ならず身体が勝手に動いてしまう、という様子を見ていると彼女には職人の血が流れていると感じる。
◆自転車旅行には、砂漠はとても過酷なものらしい。砂に車輪が埋もれ、足を取られ、何度も地面に倒れ込んで、疲れた、もうやめたい、わんわん泣く。行動も感情も振れ幅が大きくて、もし彼女をマンガに描くなら、しょっちゅうコマから突き抜けている感じだ。道中、信じられないようなハプニングも次々に起こる。
◆アースカラーの縞々のレインボーマウンテンや、標高4000メートルに広がる塩づくりの為の棚田、魚市場の屋根に並ぶペリカンたち。日本にいると想像もつかない異世界だ。私の布団はアラジンの魔法のじゅうたんになって、未知の世界へとすっ飛んでいった。
◆麻耶さんはとにかくよく食べる。一番美味しそうだったのは、ウユニ塩湖で作った塩ラーメン。そして本の中で数多く紹介される地元の食べ物や家庭料理の中でも、キヌアのスープにチーズフライに芋、というペルーの食卓に惹かれた。 なんてシンプルで美味しそうなのだろう。彼女もお世話になった御礼にと、台所で肉じゃがを作り、卵焼きを焼く。旅の途中に出会ったロードキルの鹿を、私に任せて、とばかりにさばいて料理し、仲間に振る舞うシーンでは輝いている麻耶さんが目に浮かんだ。食べさせてもらうことも嬉しいけれど、誰かに食べて喜んでもらえることはもっと嬉しい。
◆アンデスからパタゴニアへ、南米最南端の町からキューバ、メキシコへ。世界を相手にタックルするような麻耶さんの旅が終わり、本を閉じると、魔法のじゅうたんはただのせんべい布団に戻ってしまった。それにしても、なんて沢山の人に出会った旅だったのだろう。私が寝ている間にチリではポールさんが草を刈っているのだ、と思うと、急に地球の丸みを感じた。(服部小雪 イラストレーター 近著『はっとりさんちの狩猟な毎日』が話題に)
太平洋上から 雪崩事故防止研究会 阿部幹雄(2018年7月「光と影のミッション」報告者)
■入場無料・事前申し込み不要の講演会のお知らせです。主催者である雪崩事故防止研究会の設立には、樋口和生(国立極地研究所、北大山の会 2017年5月「隊長はつらいよ フーテンの和(カズ)、ヒマラヤ、南極流れ旅」報告者)が関わり、地平線会議でお馴染みの澤柿教伸(法政大学、北大山の会)が講師を務めます。
講演会のフライヤーは雪崩事故防止研究会および(公社)日本雪氷学会北海道支部雪氷災害調査チームのホームページからpdfファイルをダウンロードできます。詳細をご覧下さい。
http://www.assh1991.net/
http://avalanche.seppyo.org/snow/
周辺の皆さんにこの講演会の情報を拡げていただくようお願い致します。
【なぜ、講演会を宇都宮と東京で開催するのか】
雪崩事故防止研究会は北海道大学山スキー部、山岳部、ワンダーフォーゲル部のOBによって1991年に設立されました。北大低温科学研究所の雪氷研究者、雪山を楽しむスキーヤー、登山家、医師らが仲間に加わり、雪崩の科学的な知識、捜索救助法、低体温症を中心とする雪崩の医学知識の啓発・教育活動を続けています。毎年、北大クラーク会館で講演会を、北大手稲パラダイスヒュッテで雪崩セミナーを開催し、道内数カ所で講演会とセミナーを開催しています。活動は北海道内だけで行われてきました。
2017年3月に栃木県で発生した高校生ら8名が亡くなった那須雪崩事故。この事故の調査に会員たちが関わりました。雪崩教育を受け、雪崩を回避する知識があれば、那須雪崩事故は防げたはずです。雪崩の捜索救助法と医学知識があれば、もっと助かる命があったかもしれません。私は、調査に関わってみて、雪崩事故を防ぎ、雪崩から身を守るためには「雪崩教育」が不可欠だとの思いを新たにしました。その結果、当研究会全会員の意見が一致し、北海道で行ってきた啓発・教育活動を栃木県へ、首都圏へ拡げる決断を致しました。
雪崩事故防止研究会、そして(公社)日本雪氷学会北海道支部「雪氷災害調査チーム」のメンバーが講師を務め札幌市、宇都宮市、東京都内で講演会を開催します。
講演会で使用する参考図書は、「雪崩教本」(雪崩事故防止研究会、雪氷災害調査チーム編、2018)、「山岳雪崩大全」(雪氷災害調査チーム編、2015)、「那須雪崩事故の真相〜銀嶺の破断」(阿部幹雄著、2019)の3冊、いずれも山と溪谷社です。
【開催場所】《札 幌》
2019年10月26日(土)
【会場】
北海道大学クラーク会館講堂(定員510名)
【主催者】
北海道大学体育会山スキー部・日本雪氷学会北海道支部・雪崩事故防止研究会
【後援】
(公社)日本山岳会、(公社)日本山岳ガイド協会、(公社)東京都山岳連盟、株式会社山と溪谷社
【開催場所】《宇都宮》
2019年11月30日(土)
【会場】
宇都宮市文化会館 小ホール(定員500名)
【主催者】
青山学院大学山岳部・那須山岳救助隊・雪崩事故防止研究会
【後援】
(公社)日本山岳会、(公社)日本山岳ガイド協会、(公社)東京都山岳連盟、株式会社山と溪谷社
【開催場所】《東 京》
2019年12月1日(日)
【会場】
青山学院大学17号館 本多記念国際会議場(定員562名)
【主催者】
青山学院大学山岳部・那須山岳救助隊・雪崩事故防止研究会
【後援】
(公社)日本山岳会、(公社)日本山岳ガイド協会、(公社)東京都山岳連盟、株式会社山と溪谷社
【宇都宮&東京のプログラム】
10:00 開会挨拶
《宇都宮》 高根沢修二(那須山岳救助隊隊長)
《東 京》 松原峻彦(青山学院大学山岳部主将)
「雪崩事故の医学」及川欧(旭川医科大学)
「雪崩のリスクマネジメント〜行動と装備〜」大西人史(北海道立総合研究機構)
「積雪安定性評価と捜索救助(AvSAR:アブサー)」榊原健一(北海道医療大学)
「降雪と気象」澤柿教伸(法政大学)
「雪と雪崩の科学」尾関俊浩(北海道教育大学)
「那須雪崩事故の真相」阿部幹雄(雪崩事故防止研究会)
【閉会】 宇都宮 16時、東京 17時
永久凍土をテーマにアラスカを拠点に極地を飛び回る“偉大なるマッド・サイエンティスト”吉川謙二さんから近況が届いた。この数年、この破天荒な学者は本気でトナカイ橇と取り組んできた。今回地平線の仲間たちのためにその成果をまとめてもらった。トナカイについてこれほど語れる学者は世界に他にいないであろう。吉川君、貴重なレポートをありがとう!(E)
■今までのどの単独プロジェクトより時間がかかり、5年間の連続的な労力も半端ではなかったトナカイプロジェクトもそろそろ佳境を迎えようとしている。昨春のタイガ帯でのテストランは失敗に終わり、来春のツンドラ旅行に焦点を絞ることになった。ここで簡単に今日まで学んだトナカイについて確認したいと思う。
@ トナカイは人間、いや人間以上に個性がある。どのトナカイでもソリにつけられるわけではなく、また犬や馬のように訓練することにより格段に旅行能力が上がるわけでもない。よって、いい個性を早期に見つけ、それらに集中しないと時間の無駄である。シベリアやスカンジナビアの遊牧民は、2000〜5000頭ものトナカイからソリに向いたのを選べるので圧倒的に有利である。
A トナカイは、100m5秒で走り抜けるほど早いが、持久力は全くない。また、それを調整する能力もない。と同時に中空の毛とインナーの2重の高い保温力でマイナス50度でも、すぐにオーバーヒートして、口や耳から熱を出すしかない。シベリア旅行の実態では1日30〜70km(硬い雪面でトレールがある時)で実際40kmが限度であろう。
B トナカイは、非常に強い牽引力があるが、突然脱落する。シベリアの500kmの旅で30頭中3頭が脱落(10%!)
C トナカイに左右、前進などのコマンドは通用しない。よって物理的にコントロールするしかない。
D トナカイは、とても小心者なので、知らない土地では、わずかな物音でもビクビクし、すぐパニックになる。これが昨春のタイガ旅行の大きな失敗点。シベリアのカラマツタイガやスカンジナビアの森林地帯は、野生動物が圧倒的に少ない上、カラマツの森など遠くまで見通せるのに対して、アラスカのトウヒの森は、動物豊富で見渡せないので、特に夜間キャンプではトナカイにとって恐怖の森となった。
E トナカイの好奇心の継続時間は約1時間で、この間はどんなに訓練されたトナカイでも言うことを聞きたがらない。ただし、疲労困憊しているときは、好奇心もない。
F トナカイは、馬同様アルファ(リーダー)が存在し、同じグループを分けて、数日後一緒にしても、また、最初からリーダーを決める戦いが始まる。タンデム走行(2頭がけで引かせる)のペアトナカイはいつも決まっていて、違うトナカイだと全然うまくいかない。
G トナカイは人間(主人)に対して、ロイヤリティーがない。ここが犬ぞりと最も違う点だと思う。よって1日の走行の達成感の分かち合いなど存在しない。では、なぜ走るのか? それは、後ろからついてくる変なもの(そり)が追いかけてくるから……。
◆弱点を書いたらきりがないが、トナカイ達の名誉のため、長所も書いておこう。まず何と言っても食料がいらない点であろう。ただし、翌日群れを集めきれる技術が必要であるが……。では、なぜ私がトナカイを始めたのか? ちょっと長くなるが、許していただきたい。先日、28年ぶりに南極隊の大西宏さん(注:1989年、スキーによる北極点到達を目指すアイスウォーク国際北極遠征隊の一員として、北極点に到達。1991年、ナムチャバルワ日中合同登山隊に参加し、標高6,150m付近で雪崩に巻き込まれ、遭難死)を偲ぶ会が東京であり、そのとき私は2冊の北極の永久凍土の報告書を持参した。そして日本山岳会に寄贈した。
◆そう、南極徒歩旅行の際に活動報告書(日本語)とは別に、科学調査報告書(英文)を2年後の1995年に発行し、世界の主要大学に送付したことがある。その後私はヨットで日本を離れ、北極版の科学調査を目指した。それから25年で全てのアラスカの村を訪れ、穴を掘り、温度計の設置をして、学校の子供達と共に永久凍土温度を測ってきた。子供達もすっかり大きくなり、トンネルマンシリーズもひと段落、一部の間では、吉川はアラスカガバナー選挙を狙っていると言われるが、もちろんそのつもりはない。
◆アラスカでの測器設置後はカナダ北極圏の村をスノーモビルで回った。なぜスキーで行かないの? とか犬ぞりで行けば? なんていう勘違いした質問を受けるときがあるが、目的は一つ、北極中の人が住んでいるところに穴を掘り、我々が21世紀の今住んでいる地球の永久凍土の状態を記録として残すことにあるからだ。そのためならどんな移動手段も辞さない。
◆スノーモビルで思いっきり飛ばしまくっても、北米大陸横断に一冬かかるのに、ほぼ同じルートの植村さんの犬ぞりで3年(もちろんボーリング機材を持たなくて)、歩いたら3〜5年はかかろう。人生は思ったより短いものだ、目的にあったより良い方法でやらねば、途中で終わってしまう。
◆さて、25年前ヨットでこのような調査を2〜3年でやろうと思ったが、すぐに過ちに気付いた。海岸沿いの永久凍土は当然、海氷の影響を強く受け、北極全体を考える上で、できればすべてを網羅しなくては、あまり意味がないということだ。また30歳そこそこのコネクションのない若造が2年ぐらいヨットで北極に行って何ができるというのか? 時間と結果は大体正比例する傾向にある。
◆というわけで、あるときはヨット、モーターボート、カヤック、犬ぞり、スキー、カイトスキー、スノーモビルの移動手段を使って、北米の村々をこの25年で回ることができた。その後、世界最大の永久凍土地帯であるシベリアを回るには、まずロシアの連邦大学の教授になる必要がある。アラスカ大学教授などロシアではただの外人だ。
◆辺境へ自由に行く許可、そこで勝手に活動する許可などそう簡単には取れない。そして足がいる。幸いなことに、ほとんどのシベリアの辺境の村には冬季だけの冬道が作られる。これはトラックが一年分の物資を村々に運ぶために作られる。これを使わない手はない。そして、私はロシア政府のプロジェクトとして、ロシアの連邦大学教授として、札幌でランドクルーザーを改造した。
◆札幌から小樽、敦賀、境港を経てウラジオストックまでフェリーで送り、そこからヤクーツクを拠点に遭難騒ぎなどで迷惑をかけつつ、シベリアを走った。もちろんトンネルマンロシア語バージョンも一緒だ。ただ一つ問題があった。道もできない遊牧民の僻地の集落が存在した。スノーモビルの可能性はあるが、ガソリンの質が悪く、ロシアのブラン(スノーモビル)では心もとない。唯一、遊牧民が持っているトナカイにかなりの可能性を見出した。
◆幸いそのような集落に複数回トナカイで旅行する機会を得た。果たしてトナカイは、簡単に操れて、長距離旅行に信頼できるのか? 多分最も原始的な北極の移動手段だが、今日ほとんどその実態がわからないトナカイソリ。この命題に取りかかる決心をした。話は長くなったが、そんなわけで北極の私たちが生きてる(生きてた)ころの永久凍土現状報告書を北米版(英語)とユーラシア版(ロシア語)で最近発行できた。そしてそれらを将来のためすべての村に配布できた。トナカイソリの適齢年齢は3〜5歳。生まれたてのトナカイの赤ちゃんと一緒にやってきた5年間。あとはまさに背水の陣、トナカイを来春ツンドラ地帯で走れるまで走りまくり、謎だったトナカイソリの秘密を皆さんと共有したい。それでは、また!(吉川謙二)
■地平線通信485号(2019年9月号)は、9月11日に印刷、封入作業を終え翌日郵便局に預けました。今回の通信は、三宅修さんの特集っぽくなりましたが、早速あちこちから素晴らしい!と反響が届いています。嵐が来そうな大変な天気で、いつもより少なめでしたが、以下の方々が参じてくれました。
森井祐介 中嶋敦子 今井友樹 武田力 竹中宏 伊藤里香 李榮振 光菅修 江本嘉伸
今月は、印刷王、車谷建太さんが台湾出張で不在。大事な仕事を中嶋敦子さんがひとりでこなしてくれました。ほんとうに助かりました。もう1人、今井友樹さん(473回「オキのサキと飛べ」報告者)が30分ほど時間ができた、と駆けつけてくれたのですが、榎町地域センター3階の調理室にはまだ誰もいなかった。実は、印刷の仕事は調理室ではなく、2階の受付わきにある狭い「印刷室」でやっていてその時は中嶋さんがひとりで頑張ってくれていた。ちょっとした行き違いでした。皆さん、印刷室のことを覚えていてください。また、韓国から来た李榮振さんも初参加でした。3.11の際、「RQセンター」で南三陸で長期頑張ってくれた日本語堪能なひと。その時からの知り合いの伊藤里香さんと来てくれました。皆さん、ありがとうございました。
■秋になって、ヨガを自分流で始めている。と言っても朝と夜10分ずつ動画を見ながらマネするだけだ。きっかけは四万十川で知り合ったテコンドーの名手、うめ(山畑梓)が先日来た際、運動機能をチェックしてくれ「えもーん、肩甲骨に手が入らないよ」と教えてくれたことだ。肩甲骨! そうだ。私の体はもっと柔軟にできるのではないか、と勝手に考えた。
◆10年前、香川大学の学生だった彼女が有名な佐田の沈下橋で足を頭まで跳ね上げて撮った写真がある。お、なんと簡単にチャキリスの真似ができるのだ、と感嘆した。映画「ウエストサイドストーリー」でアカデミー助演男優賞を取ったジョージ・チャキリスは男前だけでなく、長い足を垂直に跳ね上げて踊る姿がほんとうにかっこよかった。目の前でそれを簡単にやってのける若い友人に敬意を覚えた。
◆それが、実は今月の報告者になってもらった瞳さんも我が家に来た際、足を頭まで難なく跳ね上げるのでまたまたびっくりした。「私も全然硬かったんですよ。でも、少しずつ少しずつ慣らしていって何とか柔軟な体に」。瞳さん35才。うめ32才。今さら老人にできることは限られているだろうが、ここはお2人にならってやってみよう、と無謀にも朝夕の簡単なヨガを始めた次第。
◆来年はいよいよ80才。その時まで朝夕の簡単ヨガが続き、肩甲骨に手が入るようになっていることを祈る。(江本嘉伸)
“あたりまえ”が奇跡なんだ!!
「80才になってもヒッチハイクをしていたい!」というのは近藤瞳さん(35)。中学2年で視たハリウッド映画『タイタニック』に衝撃を受け、主演俳優のレオ(レオナルド・ディカプリオ)に一目惚れ。「絶対友達になる!」と心に誓ったのが人生の第一の転機でした。20才の時、一目レオの姿を見たいとアカデミー賞会場に見にいくも、ニアミス。 ワーキングホリデーでオーストラリアに渡り、続いてレオの映画ロケ地巡りの旅に出ます。4ヶ月で30ヶ国を回る聖地巡礼で旅の面白さに目覚めました。帰国後、旅の資金を稼ぐために始めたネットワークビジネスが当たり、数年間は“金の亡者”と化します。 しかし二度目の転機が。東日本大震災が起こり、実家のある福島の被災地を訪ねましたが、お金はあっても何もできない無力簡に心が折れました。「生きる力をつけなくちゃ」と全てを捨ててゼロから再スタートします。旅を再開し、アフリカ、南米、インド、東欧などを巡る中、地球という奇跡的な環境の中で生きていること自体が奇跡なんだと実感。 今は旅を続けながら、一方今年はじめたワークショップに力を入れています。地球46億年の歴史を4.6kmのコースを歩きながら学ぶ趣向です。やはり環境保護活動をしているレオとは、いつか自然に会えると信じ、今自分ができることを模索しています。 今月は瞳さんにレオから始まったジェットコースターのような行き方と旅の話をして頂きます。 |
地平線通信 486号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2019年10月9日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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