2019年9月の地平線通信

9月の地平線通信・485号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

9月11日。台風15号が引き起こした停電が予想外に深刻だ。午前5時前、メールが飛び込んだ。千葉県の病院に勤務している埜口保男君からだ。「台風15号、我が家付近の上空を通過しての上陸のようでした。9日午前4時ごろ風雨で目が覚めて、4時30分ごろにピークの風速57.5mに。東よりの風で、19階の我が家は地震のごとく揺れました」。翌日出勤しておどろき、周囲一帯は停電、そして、そのため断水。

◆「自宅療養中の患者から『エアコンが動かず熱中症になりそうだ』『(肺がんの患者が)業者の酸素供給が来ない』『断水で食事が摂れない』『道路が倒木で寸断され患者の世話に行けない』などなどで入院希望が殺到、かといってベッド数にも限界があり、停電がいかに生命の危機まで陥れるかを痛感しました」

◆埜口君の大事な仕事は、実は末期の患者の看取りだ。そのためには家族との連絡が重要でその状況になったら、至急来るよう家族に電話を入れる。しかし、今回は街道が動かない。おかげで15分差で呼吸停止の瞬間に合わない家族が出た。『こんな状態ですから間に合わなくても仕方ない。でもあと1日延びてくれたら』といってくれましたが、「実に悔しい思いの通過翌日の勤務でした」

◆内閣改造日だ。小泉進次郎の初入閣の話題で持ちきりだが私は尋常でなく深刻化した日韓対立をどうするのか最大の気がかりだった。外相が変わるのはいい、と思ったらその外相は防衛大臣に。うーむ、これで本当に乗り切れるのか。前に一歩も進まないのではないか。政治にはこんな時こそ、「賢人の知恵」が要るのではないか。

◆きのう10日は、我が麦丸の3回忌にあたる。今も遺骨は居間の目立つところに写真家の小松由佳さんが撮ってくれた、私に抱かれた写真とともに安置されている。振り返って犬たちに育てられた人生でもあった。初代のわんこ、シェットランドシープドッグのワンダは皇居一周(5キロ)を22分で走る敏捷な犬でつくづく私の身体は彼のおかげで鍛えられた、と実感する。

◆そのワンダは、ポーランドの「史上最強の女性クライマー」と言われたワンダ・ルトキェビッチから名をもらった。雄犬なのだが、シャモニーで田部井淳子さんと一緒にワンダに会った連れが一目惚れしてしまい、帰国後このわんこが我が家に来るや「強いからいいの」と無理やり命名した。ルトキェビッチは、田部井淳子、チベット女性のパンド(藩多)に次いでエベレストに登った3人目の女性で、1992年5月、8,000メートル峰9座目となるカンチェンジュンガを目指したまま帰らなかった。

◆1985年から2005年にかけての20年、私は日本山岳会の月報『山』に毎月『海外の山』というコラムを書かせてもらった。自身大した実績もないのにこういう伝統ある山岳会に20年も連載させてもらうとは、考えてみれば恐れ多いことであった。が、すでに地平線会議を始めていた私は自分なりに必死で世界の登山世界と向き合った。その中で終始意識させられたのが、エベレストの冬季初登頂をなしとげたポーランドのクライマーの強さだった。

◆国には2,000メートル級の山しかないのにどうしてポーランドのクライマーはあれほど強いのか。1986年5月、日本山岳会の招きで冬季エベレスト隊のアンジェイ・ザヴァダ隊長(当時57才。故人)以下7人のクライマーが来日した時には真っ先にインタビューさせてもらった。「ソ連、ドイツの大国にはさまれて150年にもわたった国が分断されていたことが私たちを強くしたと思う」と、ザヴァダは話した。ポーランドの民主化運動である「ソルダールノスチ(連帯)」に登山家の多くが参加したことはそのあらわれ、とも。

◆あれから30年あまり。世界最強のポーランドのクライマーについての本がこの9月、日本で刊行された。主役は、ヒマラヤのことを少しでも関心もつ人なら必ず知るであろう、最強のクライマー、ヴォイテク・クルティカ。その登攀と人生をテーマにカナダの女性山岳ジャーナリスト、ベルナデッド・マクドナルドが『アート・オブ・フリーダム』という書を書いた。渾身のそのドキュメントに感動した登山家、恩田真砂美さんが日本語に翻訳、山と溪谷社から出版したのである。

◆内容について詳細は書く紙数がないが、私にとってはクルティカがいまの時点であの同じポーランドのイエジ・ククチカをどのように評価するのか関心があった。ククチカはラインホルト・メスナーに次いで8,000メートル全14座の登頂をなしとげた(エベレスト以外は無酸素)、同じく最強のクライマーである。1989年10月24日、未登のビッグウォールであるローツェ南壁の登攀中、標高約8,200m地点から転落死した。クルティカは一時はザイルを結ぶ時期もあったが、ピークハンターとしてククチカに批判的だった。

◆いまやクライマーの憧れ、とされる「ピオレ・ドール」(黄金のピッケル賞)についても辛辣な見解を持ち、何度も受賞を断ってきたが……。とにかくぜひ一読されることを。賞や名声と無縁なクルティカの生き方は、たとえ登山と離れた世界で生きている人にも大事なことを語りかける。安くはない(3,000円+税)が、地平線の仲間なら必ずや読む価値あり。(江本嘉伸


先月の報告会から

山は裏切らない

三宅 修

2019年8月23日 新宿区スポーツセンター

■地平線発足40年の節目、484回目の報告は山岳写真家で東京外国語大学山岳部の創立にも関わった三宅修さん(87才)。通信の予告では「山は裏切らない」というテーマで、学徒動員での戦争体験から、山岳芸術誌『アルプ』の創刊、山の写真家としての人生などを、お話いただけるとのことであった。私的には、湯の花トンネルで起こった列車銃撃事件の話を一番聞いてみたかった。私は戦時下の登山者の思いに関心を持って勉強していたこともあり、浅川地下壕のことや、この客車への機銃掃射を知り、知人と高尾山に登る際など、今も悲惨な銃撃痕が当時のままに保存されているJR高尾駅1番線ホームまで案内し、紹介するのが常であったから……。

◆登山雑誌の編集部にいたころから、三宅さんには長くお世話になって来たが、まさか、この時、現場にいらした、そしてこんな壮絶な体験をなさっていたとは知らなかった。戦争体験を語るというテーマのせいか、会場には三宅さんに近い世代の方々が目立ったような気がする。前方に映し出された「わが心の山」という情感あふれるスライドタイトルを見つめながら、話が始まるのを心待ちにした。

◆「こんばんは」という挨拶からお話は始まった。いつもどおりの優しく丁寧で、落ち着いた口調だ。「まずは中学時代の思い出から。でも、わんぱく時代の楽しい話ではなく、戦争中の思い出です。生涯を振り返ると、よくもまあ、ここまで生きて来たなあ」と述懐。「戦争の話をすると胸が痛くなるが、痛くなるとも言っていられない」という言葉が、重く私の心に響いた。

◆中学以降は「飢えを凌ぐための人生だった」という。三宅さんが生まれたのは昭和7年。日本は軍国主義で彩られ、右へ右へと進んでいった時代だ。小学校5年生ぐらいから敗戦色が濃くなり、日本という国がだんだん傾きかけてきた。今でも自分を励ましたいときに、口から出て来るのは「予科練の歌」「空の神兵」「轟沈」といった軍歌だという。もちろん戦争は反対だが、軍歌が小学校の唱歌に取り入れられており、頭に染み込んで今でも鮮明に蘇る。しかし、同年代の人がみんなかというと、そうではない。頭から戦争のことを、いっさい跳ね除けている人もおり、全く異質だという。「飢え」の記憶も東京に住んでいたか、地方に住んでいたかですべて違う。

◆三宅さんの青春前期の時代、小学5年の時、通っていた渋谷区立笹塚小学校は、笹塚国民学校と名前が変わった。「未来の子供たちは殺さずに生かそう」と、多くの子供たちが学童疎開で地方のお寺などに移された。けれど、東京に残された三宅さんらは、子供ながらに「俺は死ぬんだ」と思ったという。中学は光生学園中学(のちに光生高校)だったが、卒業した時は光生学園高校と名前が変わっていた。入ったのは中学、出る時は高校。中学4年のとき新制高校が生まれた。だから履歴書には「移行」と書く。「こんな状況だから、ろくな勉強はしていなかったし、するような環境ではなかった」。

◆昭和19年、東京大空襲では学校も燃え、中学2年の時には授業そのものもなくなった。「中島飛行機の地下工場の建設に高尾に行け」という命令で、異例の中学2年(普通は3年から)で学徒動員。多分3月から出かけて、8月15日まで毎日通った。京王線の笹塚から新宿経由、中央線で高尾へ。当時の服装も何を履いて行ったのかも、今はだれも覚えていない。ちびたゲタだったか、ぞうりか、わらじか……。みんな、てんでんばらばらの記憶。70年という年月のうちに、どんどん忘れてしまうもの。交通費や日当も、国から支給されたのかどうかも、まったく記憶にないが、「東京に残った俺たちは死ぬなあ」との思いは、確かにあったという。空襲警報があると飛び降りて防空壕へ。もう世の中が末だった。

◆8月5日、いつもの朝のように高尾駅(当時の浅川駅)北口駅前に大学生から中学生までが集まった。大学生の隊長が「お国のためにがんばれ」と号令。いつもの自分の持ち場に移ろうとしたら、三宅さんたち第五小隊は、八王子の空襲で焼けた軍隊の倉庫から、缶詰を農家の納屋にトラックで運ぶことを命ぜられた。缶詰を山積みにして甲州街道を走り。湯の花峠の峰尾さんという農家の納屋まで運んだ。途中、缶詰が転がって路上に落ちると、みんな目の色を変えて拾いに来る。わざと足で蹴とばして落としたりもした。

◆午前中で終わって昼ごはん。おにぎり二つと缶詰がひとつ。小仏川の河原に降りて、沢水を飲みながら食べた。当時は白米から、やがて麦が混ざるようになり、うどんが入り、切り干しが入りと、おにぎりも変わっていったが、食べられることがうれしい。「ひとつは自分で食べて、ひとつは妹に」という仲間もいた。「美味しい鮭缶を腹いっぱい食べてほっとしていたら、突然、列車の汽笛が聞こえたんです」。空襲警報が出ている時は、列車は駅からいっさい動いてはいけないのに、なぜか動いてしまった。「あれ、おかしい」。その時、空冷エンジンの金属音の爆音とともにP51戦闘機が目の前に現れた。

◆P51は機銃掃射をしながら列車を追い抜いていった。最初に機関士がやられて、トンネルを出たあたりで止まった。後ろには数台の客車が。阿鼻叫喚だった。急ブレーキの音、機銃の音、悲鳴、うめき声が山間の狭い谷間にこだまする。「トラウマになりました。それまでは山が好きだったのに……」。中一のとき、当時唯一残っていた山岳部に入った。景信山から陣馬山の顔合わせ山行。与瀬、今の相模湖まで、最後は藪を漕いで下った。昭和19年の思い出である。5月には軽井沢で一週間の軍事演習があった。木銃で柔剣道の訓練をしたが、離山にも登り、きのこや木の実を拾ったことも懐かしい。

◆東京に帰って来ると、空襲の悲惨な光景が広がっていた。笹塚も5月25日の大空襲でやられたが、三宅さんの家は焼け残った。B29が来ても、もう爆弾を落とす場所がない。庭に出て飛んで来るのを眺めていたが、その頃は、焼夷弾が頭の上を越えていって落ちても怖さはなかった。「どうなったって同じじゃないか、一発で死んだほうがいい」と、生死を超越した気持ちだった。

◆しかし、この8月5日、「死ぬのが恐ろしい」と思った。列車に乗っていた人の半分近くが死んだり大けがをした。農家から戸板をはずして来て、負傷した人を載せて4人で運んだ。「下まで降りましょう」と声をかけると、「(自分より重症の)あの人を先に下ろしてやってくれ」と。農家の庭まで運ぶのだが、運んでいるうちに死んでしまう。戻ると「あの人を先に」と言った人が、こと切れている……。戸板の四隅のうち、体が小さい三宅さんのところが一番低くなるので、流れ出た血潮や失禁した尿が、全部自分のほうに流れて来てしまう。「あの生ぬるい感じ、臭い…。死は恐ろしいと感じた」。

◆「P51を操縦していたアメリカ兵を、にくい奴だと思った。銃があれば打ち込んでやりたかった」と語りは続く。「私は軍国少年だった。完全に洗脳されていた。あいつらはひとり残さずやってやりたい……」。10日後の8月15日、「重大な放送があるから必ず聞け」という命令があり、自分の家のラジオで聞いた。記憶は定かではないが、多分、母と姉の三人。雑音が多すぎて分からなかったが、「耐え難きを耐え」だけは聞こえた。母親が「悔しいねえ」と言った。

◆焼け跡の畑に行って、とって来たかぼちゃひとつをみんなで食べた。当時は「かぼちゃの熟れたのがあれば、人間は生きていける」と思っていたが、あと10日経てば食べられるという頃、いつも、どろぼうが持って行ってしまう。「熟れたかぼちゃを食べてみたい」という夢は、その後も強く残り、後にグルメ雑誌で原稿を頼まれた時、「かぼちゃ賛歌」という題でこの気持ちを書いた。当時の「飢え」というのは「腹が減った。昨日の朝から食べていないが、明日の夜には食べられる」ではなく、「いつ食べたかも分からない、今度いつ食べられるかも分からない」というものだという。

◆「戦中、戦後の時代背景は、どんなに説明してもわからないだろう」という三宅さんの言葉。私も人々の戦争の記憶がまだまだ鮮明な頃に霞ヶ浦の近くに生まれ、祖母の背中に負われて聞かされた子守唄も「予科練の歌」であったが、やはり直接体験された人の話は心に深くささった。「人が死ぬ無残さ残忍さ」に絶望し、8月15日終戦。さんざん殴られた軍事教官や体育教師もみんな消えていった。「お前たちのせいだ」という恨みつらみから、校長も追い出したという。

◆「僕ら自身も大いに荒れた。学園が、人の心がすべてが荒れました」。新宿の紀伊国屋に本を買いに行ったときも、チンピラがお金を巻き上げようと右往左往しているので、裏道をたどって行く。「なにかされたら突いて逃げる」。ポケットには肥後守が必ず入っていた。そこまで荒れていた。高校は何も勉強せずに卒業。宮内省に勤めていた三宅さんの父親(建築家で山縣有朋の箱根の別荘や、葉山や那須の御用邸、赤坂の迎賓館なども手掛けたという)も仕事を失い、20年ぐらいはなんとか過ごせるはずだった退職金も、べらぼうなインフレで、ほとんど数か月でからっけつに。

◆食っていくために、中学3年から池袋駅前で手配師が斡旋するニコヨン(1日の賃金が240円だったのでこう呼ばれた)の仕事をした。中学生で背も小さいとあっては、ろくな仕事もない。成増の田んぼに落ちたB29を掘り出す作業や、横浜の埠頭で石油の入ったドラム缶を、船から降ろして並べる仕事を。高校時代は銀座で事務所を回ってアイスクリームを売ったりもした。行くべき高校もなくなってしまった。みんなは大学に行ったが、母親が体を壊してしまい、掃除も洗濯も、一家6人分の世話もしなければならない。

◆そうしているうちに、父親が就職できたので、東京外国語大学の受験に行くことができた。受けたのはタイ語。山田長政のことぐらいは知っていたが、「タイではお米を作っている。タイに行けば飯が食える。飢えることがない」という、それだけの理由だった。それをカバーできるのはタイ語だ。20人募集のところ300人ぐらい希望者がいた。「どうせだめだ。勝手にしやがれ」と思ったが、合格発表に行くと、なぜか自分の名前だけが出ていた。後の19人はいない。

◆その場ですぐにお金を払って、外語の学生になったが、先生が5人で学生が1人。「自分でもぞっとした」という。神田の古本屋で買った「タイ語文典」で、半年かかって字を覚え、発音も覚えた。翌年も20人募集だったが、入学したのは2人だけ。二学年でたった3人しかいない。「どうしたことだ。これはやっちゃいられない」と言う後輩二人は、松本深志高校と須坂高校の出身。「山岳部でも作りましょうよ」と持ちかけられたが、山と聞いて思い出すのは、あの阿鼻叫喚、血潮と尿の匂い……。「山を見るのもいやだ」という状態だった。

◆10何人集めたので「名前だけでも」と懇願され、「俺は山には行かない」という条件で。それが外語の山岳部発足の最初だという。学校関係者が部長になれば、文部省が援助してくれるという。「それがあれば一杯飲める」。みんな飢えていて、飲めるいう言葉には敏感だった。タイ語の助教授から「一般教養で倫理学やフランス哲学を教えている串田孫一先生が昔、山登りをしていた」と聞いて、お願いに行った。串田さんは「出席すれば黙って優をくれる」と有名だったが、どういう人なのかは知らなかった。「山岳部を作ろうと思うんです」とお願いすると、気軽に「ああ、いいですよ」との返事。

◆翌年5月、谷川岳で第1回目の合宿をやった。夜行列車で土合の駅へ。当時はプラットホームもなく、飛び降りて線路をまたいで上ったところにある土合山の家で、明るくなるまで一休み。串田先生が、山の家の主人、中島喜代志さんと「お久しぶり」なんて会話している様子を見て、「これは大変なことだ。ただの人ではない」と思ったという。東京高校山岳部の出身、谷川岳の岩場の初登攀記録もあり、当時、一流の登山家だったのだ。

◆旧道を歩いて、ふと見上げると、そこに朝陽に輝くマチガ沢があった。新緑と残雪……。ここで三宅さんの心は変わる。「なぜか、ヤシの実がぱかっと割れたように、いやだという思いが消えた。山に戻っちゃった」。雪渓で登り方、下り方、滑り方などの練習をしながら、ひたすら浮かれていた。なぜか、仲間と二人でシンセン尾根を登っていってしまうが、身が軽いからスイスイ。「よいしょ」と稜線に這い上がって覗き込んだら、目の前には黒々とした一ノ倉沢の姿が。「これはすごい」としばらく呆然と見ていたが、下でみんなが呼ぶ声に我にかえった。

◆不思議だった。「なんでお前は山に戻った。なぜ恐ろしい所に、恐ろしい山に」。その答えは今も出て来ないという。「山の写真を撮ること、山とは何か」「どうして山に人生をかけたか」という答えも出したいが、それも未完とのこと。ただ言えるのは、「山は人間を裏切らない。人間は変遷するが、山は決して裏切らない」ということ。食べる手段は何もなかったが、「山で生きたい」と思った。山小屋のおやじ、手伝い、歩荷……。家庭を作るなど全く考えなかったし、「どうやったら山と離れないで生きていけるだろう」と考えた。

◆タイ語を活かせる企業は少ないが、明治生命に本社員としての採用があり入社。出社1日目、新人は1000人以上いた。机にパンフレットが置いてあり、その表紙が山の写真、燕岳だった。「いい写真だなあ」と感じて、どうして表紙が山なのかと、上になる人に聞いてみると、内田耕作さん(日本山岳写真協会の創設者の一人)という嘱託の人が撮った写真だという。「今どこにいますか」と、さっそく席を訪ねると、「君、山岳部に入らないか」と誘われる。これが本物の山岳写真との出会いで、内田さんを補佐しながら写真の勉強も続けた。

◆1年経った頃、仕事で信条に反することを強制され、会社を辞めることにした。「青い正義感もあった」と当時を振り返る。世話になった人たちに挨拶に行くと、「君、これからどうする」と聞かれ、「これから考えます」と応えた。「僕と一緒に山の映画をとらないか」。橋本たけおさんから、そう声をかけていただき、「それじゃ、よろしくお願いします」ということに。

◆お金はポケットマネーから毎月くれる。16mmの山岳映画で「春山は楽し」「喜ばしき登攀」などの作品を撮った。動く画面を撮ることは、写真のいい勉強にもなったし、コダックのカラーフィルムを使えたのも、とても手が出せない時代の貴重な経験だった。アメリカ兵の機銃掃射以来、いやだと思った「人間」のおかげで、自分が一歩、階段をあげさせてもらった。いつのまにか、上昇気流に乗っている。「三宅君、山の雑誌をやりたいという出版社があるんだが」と声をかけられたという話まで進んだところで、お話は尽きないが休憩をとっていただく。

◆休憩後は三宅さんも席を移り、会場の人々と一緒にスライドを見ながらのお話が続く。テーマはもちろん『アルプ』の創刊からの話題だ。誌名は山を愛した詩人の尾崎喜八さんと串田孫一さんと、三宅さんの三人で持ち寄った案を、せいので出して決まったという。「雪の峰を前に仰ぐ高原」、「憩いながら山を想いだそう」という意味だ。

◆質素だが気品のある『アルプ』の表紙が、初期の号から順に、一点一転映し出されるのを見ながら話は進む。表紙は串田さんと、やはり外語大山岳部出身の大谷一良さんが、交互に絵と版画で担当したが、編集の三宅さんが失敗をしてしまったというエピソードも。「大谷君の版画が省略が多すぎてね。丸いおはぎに小豆の粒が付いたような版画で、天地を180度逆さまにして載せてしまった」こともあるという。当時、大谷さんは商社、兼松江商の新入社員だったが、海外に赴任しても「2号に1回は版画を送って来なさい」という依頼は大変だったろうと振り返る。

◆『アルプ』は一切コマーシャリズムを排し、「広告は一切入れない雑誌でいこう」と始まった。山の雑誌というと紀行、技術、案内が主だったが、『アルプ』は随想や随筆が主。創刊号は3回まで増刷した。単行本と同じように紙型を作ってあったので、初版10,000部が売り切れた後も印刷できたのだ。「どうせ3号雑誌だ」と言われながらも300号まで四半世紀、25年間続いた。25歳から50歳まで、『アルプ』には、まさに三宅さんの「青春のすべてがつぎこんである」という。

◆最初はよかったが、版元の創文社は、そもそも社会科学系の学術専門の出版社。お金が充分でなく、串田さんが原稿料をポケットマネーから出していたこともあったという。事情を知らず、「俺たちはわずかしかもらえない」と言い出す執筆者もいて、おおげんかになったこともある。「冗談じゃない」と、三宅さんはよく尻をまくってしまったという。

◆尾崎喜八、辻まことなどの執筆者が亡くなったときには特集号も出せたが、2005年には串田先生も亡くなってしまう。1年間は何も考えられなかったが、一周忌でお線香をあげながら想った。「雑誌はもうないし、単行本を出して追悼したい」。『アルプ』と同じ表紙のデザインで、串田孫一特集の単行本を作れたときは本当にうれしかった。串田さんはモンテーニュの学者だったが、外語を辞める時に「先生何を専門になさいますか。文学者、詩人、絵を描く、それとも山登りですか」と聞いたら、「文学だね」と言う答えが返ってきたことがある。昔の仲間の話から今まで、まさに串田文学の醸成だった。

◆その後も三宅さんのお話は、『北八ツ彷徨』などで知られる随筆家の山口燿久、山をテーマの多くの画文集を残した辻まこと他、『アルプ』から出た沢山の著者たちの思い出が次々と語られ、尽きることはなかったが、ひき続いて、三宅さんが撮影した数々の山岳写真の投影に移った。

◆先ずは常念岳の荘厳な朝陽の写真。笠ヶ岳から見た槍ヶ岳は、ケルンの向こうに朝の太陽光が煌めいている印象深い写真だ。ひとつひとつ丁寧に説明しながら三宅さんは語る。「山は偉大だ。山にはかなわない。人間はいつ反転するか、あてにならない」と。そんな思いから、山の写真を撮るときには、人をできるだけ排除して来たというが、今回はその貴重な「人物入り」の作品も見せてくれた。双六の池から見たもの、涸沢岳頂上、マチガ沢のつめ、いずれも添景人物が効果を見せている。

◆画像は白馬岳のお花畑、太郎兵衛平のコバイケイソウ群落などと続き、6月に手術をした直後、この8月に出かけて撮影したという中央アルプス千畳敷カールの作品や、昨秋、秋田駒ヶ岳近くの雨の千沼ヶ原で撮った写真も披露。常念からの夕暮れの槍ヶ岳、一月の穂高、裏劔……、最後の車山湿原での「高原の夕暮れ」まで、22点の作品を念入りに解説してくれる。「大きな山をさらに大きく見せるためには前景が大切」。これが三宅さんが山の写真を教える際の口ぐせだという。

◆時間はもう終了予定時刻の21時を回ってしまった。しかし、肝心の串田先生のスライドがまだこれからだ。「僕の一番弟子は遠藤周作」と話していた串田さんだが、三宅さんらを「若い友人たち」と言ってくれていたことで充分だという。串田さんはいつでもスケッチをしていた。汽車の窓からも移り変わる景色をどんどんスケッチする。雨飾山頂上での「マインベルグの仲間たち」という、石仏の間からみんなが顔を出しているユニークな写真や、秋山郷で熊の子を抱いた写真、スキーでジャンプストップで回転しようとする一枚……。串田さんが、地形図を丹念に探して見つけた信越国境近くの奥深い鳥甲山に初めて登った際には、「とうとう来たね。できたね」と喜んでいたという。

◆鳥の鳴き声のことが原因で、けんか状態にあった河田木貞(みき)さんと尾崎喜八さんを仲直りさせるべく、青梅の山にひっぱりだした時の写真……。どれもこれも、三宅さんの串田さんへの愛情がたっぷり注ぎ込まれた解説が続く。私自身は残念ながら生前の串田さんに、直接お目にかかる機会は逸してしまったが。お人柄が偲ばれる写真ばかりであった。

◆若手のプロの作家たちを集めて、日本山岳写真集団を設立したこと。『我が心の山』という作品集も刊行できたこと。外語大山岳部でモンゴルの山に行くときも、「知らん顔してはいられない、俺はどうしても行かなくちゃならない」という気持ちで出かけた話等々。もうとっくに終了予定時刻を過ぎてしまったが、三宅さんの話は一向に終わらない。話していくうちに、さらに話しておきたいことが、次々と思い浮かんで来てしまうのだろう。

◆「決してあの戦争の時代に戻っちゃいけない。人が人を殺すなんて言っては、考えてはいけない」。「人が人を助け、生きていかなければならない。今はいやな時代だが、絶対に元にもどさないようにしなければ」。「平和、自由。一人一人の生き方が明るいものでなくてはいけない。戦争をするのが職業なんて、兵隊をなくさなくてはいけない」と語調もやや強くなる。

◆「88歳で、父親の年を超える。さらに1年で串田さんが亡くなった年も」。「もうちょっと生きてみたいなあ。自分の人生を100%謳歌して行きたい」。これが三宅さんから会場に、そして次の世代に投げかけられた結びの言葉であった。(久保田賢次 『山と渓谷』元編集長)


報告者のひとこと

序章だけで終わってしまった話

 戦前、戦中、戦後の昭和世代の我が人生・87年を振り返ってみると小さな人生なのに思いがけないほどの起伏があったことに気づく。戦前の幼年時代、戦中の少年時代それぞれに現代とは全く異質の時代だけに、その違いをどう表現したらいいのか、迷いながら夢中になって話すうちに、なんと本題に入る前に時間切れになってしまい、折角お集まり下さった方々にお詫びのしようもない。

 本題は戦後の荒廃し虚脱した青年期からの脱出以後の人生にある。串田孫一先生との出会いが総てと言っていい。終戦後の人の変節に不信感を強めていた私の座標に「山/大自然」に触れ、同化する悦びを教えて下さったのである。

 この串田先生について話そうと思うと、語彙の乏しい私は絶句し、たぶん立往生するに違いない。黙ってそばにいるだけで、その雰囲気だけで暖かな何かに触れているような穏やかで静かな心になる……。そんな大きな人格を感じるというのが私の山仲間の共通した想いなのである。

 その串田先生を中心に発刊された山の芸術誌『アルプ』の編集者となり多くの山の先達方に出会えたこと、同年配の山岳写真家達との「日本山岳写真集団」の創立と小さな歴史が刻まれて、山を通じて、人も満更捨てたもんじゃない、と思うようになっていく。ほんとに小さな、長い話だ。私はそんな挫折の瀬戸際で口笛を吹いたものだ。さだまさしの「主人公」のラストのフレーズ、「小さな物語でも自分の人生の中では誰もがみな主人公」。

 そんな主題に辿り着くこともなく終わってしまった不手際をふかく反省をしながら、話し下手の私は改めて自分史を書き留めてみようかと思っている。折角火をつけて下さった地平線会議の皆さんへのお詫びとお礼の心をこめてもう一度87年間の長く細い道を辿り直してみるつもりだ。 (三宅修


東京外語山岳部の大先輩・三宅修氏の報告をきいて

 私は外語山岳部を2年で落ちこぼれた英米科出身の77歳のおばあさんです。

 人間の一生の中のある時期に自分の生きていく道が決まる、その瞬間が三宅さんの場合は、小学生の時、勤労動員でかり出されてまきこまれた高尾の旅客鉄道銃撃事件であり、飢えとは何かをからだに刻み込んだ戦争であり、串田孫一先生と出会い、外語山岳部創設に関わることになったころと思われます。「熟れたカボチャを食べたい」という燃える思いの挿話も心をうちました。

 以前ピューリッツァー賞を受賞したフィクション『All the Light We Cannot See』(翻訳されておりません)があります。第二次世界大戦中のドイツ、フランスを舞台にしたこの小説のなかに、目が見えないフランスの少女と、ドイツ少年兵がサン・マロ(フランス)でほんの2、3時間で出会い、少女の隠れ家で、ともにモモの一缶を分け合う、美しいシーンがあります。やがて少年は連合軍の捕虜となり、かつてドイツ軍の埋めた地雷の犠牲になるのですが。

 雪の残る谷川岳の私の最初の新人合宿、マチガ沢、息をのんだ一ノ倉沢の絶壁、こんな岩をよじ登るなんて人間じゃない、とぶつぶついいながら眺めたものです。ダンディーな串田先生のお姿を今更ながら凝視しました。「出席すれば黙って優をくださる」は多分真実との巷のうわさでした。

 『アルプ』創刊、続く四半世紀にわたる編集活動での三宅さんの粘り強さ、強靱さは人間業とは思えませんがここでは口をつぐみます。「山は人を裏切らない」、三宅さんの一生のモットーの重みは落ちこぼれの私に容赦なく迫ってきます。たった一人で重い装具を一身に負い、厳しい大自然に対峙なさるお姿がしのばれます。ケルン、旭光、千畳敷カール、人影の見えるアルプス、いずれもいずれも、三宅さんのプロの目と、自然、人間へのひたぶるごころがあふれ出る写真の数々でした。そして穏やかな里山の写真には ほほえみを禁じ得ませんでした。 

 William Tyndale は近世初期の若きイギリス人聖職者でしたが、当時カトリック教会は現地語への聖書の翻訳を禁じていました。彼の願いは聖書を英語に翻訳することでした。そのためティンダルはついに火刑に処されますが、彼の翻訳聖書は、後年の欽定訳聖書他に多大の影響を与えました。私にとり、三宅さんの山岳讃歌は、山のすべてをティンダルのように翻訳してくださったことです。英語ですと、immediacy、 cadence「直裁、静寂をも含む律動」というところでしょうか、ティンダルの英訳聖書の特徴が、私にはかいまみえるのです。今一度、地べたから山を見上げてみます。(新堂睦子

祖父が犠牲になった、もう一つの機銃掃射

■先日の三宅さんの報告会、とても興味深い話で勉強になりました。ありがとうございました。三宅さんの列車銃撃経験の話は知ってはいましたが、本人から聞けてよかったです。本当の「飢え」の事、生死を超越したという心境、その頃の人々の状況、ポケットにしのばす肥後の守、カボチャ泥棒、などとてもリアルで臨場感にあふれており、拙い想像力を駆使しながらの貴重な時間でした。戦争体験の話、これを本人に聞けるのは本当に貴重ですね。先月の地平線通信の江本さんの記事も、私たちにとっては全く未知な体験ですのでもっと詳しく聞きたいくらいです。

◆実は私の祖父も、列車機銃掃射の犠牲者です。ただし、高尾ではなく三重県亀山市での。父本人は幼かったので詳しいことは知りませんでした。それが今年の夏、8月にNHKで放送された番組を父が見て初めて詳しく知りました。知らないまま今日に至っていて、もっと色んな人に聞いておけば良かったと本人はつぶやいておりました。「埋もれた『列車銃撃』74年後の記念碑」という番組で、終戦直前の1945年8月2日正午過ぎ、三重県亀山市を走る蒸気機関車を米軍戦闘機が銃撃、40人が犠牲になるという悲劇を伝えるドキュメンタリーでした。三宅修さんが目撃した高尾の銃撃事件の5日前ですね。

◆父の実家は三重県四日市市で、祖父は兵隊さんとして電車で移動中に銃撃にあったと聞きました。戦闘機に取り付けられたガンカメラの映像には、あらゆるものを対象にして行われた機銃掃射の様子が残されています。中でも特に多くの人の命を奪ったのが、列車への銃撃です。民間人を乗せた列車が容赦なく襲われ、各地で甚大な被害を出していました。

◆ガンカメラの記録を一体どうやって入手したのか、よく残っているなと思いますが、その先に私の祖父がいると思うと冷静に見ることはできません。祖母は幼い子供を背負い、三宅さんの言う阿鼻叫喚のただ中に駆けつけたと思うと胸が張り裂けます。

◆一家の柱を失った父親の家族はその後、祖父の弟が代わりに柱となり、私はその人がずっと本物の祖父だと思って育ち、大人になるまで知りませんでした。祖父が戦争で亡くなっていたのを知ったのは、新しい祖父が失踪してからです。本当の祖父が亡くなってさえいなければ、こんなことにはならなかったのに、という不幸が起き、父親達は育ての父親の死に目にも合うことができませんでした。

◆私事でしたが、埋もれてしまう前に、語り継がなくてはいけませんね。私の世代が、戦争を体験した人を直接知っているという最後の世代かもしれません。それにしても、三宅さんの写真の美しさや本人のパワーには感動しました。まだまだ、時間が足りないくらいでしたね。質問時間がなかったのも残念です。いつかまたぜひともお会いしたいなぁと切に願います。報告会のお礼も兼ねて、丁度祖父の事件も詳しく知ったので個人的な感想を綴りました。残暑厳しいですね、お体には気を付けてお過ごしください。(モリサチコ 尺八奏者)

胸に迫るもの

■8月に戦争体験のお話を若者に聞いてほしい、この事を江本さんがだいぶ前から温めておられるのを薄々感じていた。私の両親は青春の只中が戦争一色だった世代だ。だから私も橋渡しの責任がある世代だとの自覚は持っている。しかし今回三宅さんがお話下さった事は初めて聞くことばかりだった。湯の花トンネル列車銃撃事件、近くに住んでいながら迂闊だった。知らずにいた事が恥ずかしい。必ず現場に足を運んで手を合わせたい。旧制中学の生徒まで勤労動員に駆り出されていた事実を今回初めて知った。もっと若い世代に聞いてほしかった。三宅さんよくぞお話下さいました。

 小学校4年生で山に目覚めて以来、山岳雑誌は身近な存在だった。山岳写真を講評をするページが後ろの方に必ずあり(今も連綿と続いている)、そこに選者としていつも三宅修さんのお名前があった。大判カメラの広告をうっとり眺めて私も大きくなってお金を稼ぐようになったらマミヤとかリンホフテヒニカとかを手に入れて、山の写真を撮ろう……と憧れを抱いていた私。まさしくその頃(1967年に)9名の同人によって設立された「日本山岳写真集団」が半世紀もの長きにわたりプロの写真家の地位・技術の向上を牽引してきた。三宅さんは山岳写真界のパイオニアなのだ。串田孫一さんのお名前に出会ったのも多分同じ頃。『アルプ』を教えてくれたのは母だったかもしれない。山を逍遥しながら巡らせた思索を綴った言葉の世界にあの時代、多くの人が魅せられた。装丁も精興社の活版印刷も味わい深かった。『アルプ』の執筆者は実に多彩、600名を超えた。敬愛する串田孫一先生のもと創刊から終刊300号まで編集に関わり続け、かたや山岳写真家として山に篭る日々、両立させるには人知れぬご苦労があった事だろう。同時代に三宅さんの山岳写真にも、『アルプ』にも出会う事が出来た私は幸せだ。

 三宅さんは今回、手術後の体調を押して報告会に来て下さったと伺った。千畳敷で撮られた写真が写しだされた時、はっと胸を突かれた。入院中病院の天井を見つめながら、一日も早く山に戻りたい、どうやって復帰しようかと考えておられたのに違いない。帰りの道すがらご一緒した電車の中で、思わず伺ってしまった。「矢も楯もたまらずお出かけになったのですか」と。お答えはやはりそうでした。山を愛するとはこういう事かと胸に迫るものがありました。薄紙を剥がすように少しずつ食欲を取り戻されて、また山にいつもどおり向かわれる日々が近い事を願っております。(中嶋敦子

三宅さんの山

■87才の現役山岳写真家の話だからと向後元彦に誘われて三宅修さんの話を聞きにいった。87才といえば私より6歳も年上である。話は中学生の頃、中央線の高尾と小仏の間の短い湯の花(猪の端)トンネル入口で起こった米軍機による列車襲撃事件を自らも機銃掃射を避けながら目の前で目撃する話からはじまった。

◆その場所は私が高尾山や城山、あるいは景信山や堂所山に北側から登るのにちょいちょいバスで通りすぎている場所らしい。いままで何かで読んだり、テレビの番組で見たことはあっても、単なる歴史的な情報としてうっすらと知っているだけだったし、そのあたりは道路が鉄道から少し離れて山端を迂回する場所なので、慰霊碑に出会うこともなかった。

◆それが少年の目を通して時間とともに動いていく地獄絵としてとつとつと語られた。奥高尾の上で反転を繰り返しながら低空で襲いかかりつづけるP-51。逃げまどう人々をタンタンタンタンと叩きつぶしていく機銃掃射。真正面で目の合うパイロットの狂気の目。私にも子供の頃それよりは安全な場所からではあったが似た襲撃を見た記憶があり、ありありと想像できた。

◆やがて話は外語大で山岳部づくりに巻き込まれ、おしゃれの権化のような登山家にして哲学者、詩人にして画家の串田孫一さんに出会う。そして谷川岳のマチガ沢が三宅さんをあの惨劇のトラウマから開放する。のめり込んでいき、山を撮る写真家となり、『アルプ』の創刊、編集へとつづく話になる。あの時期に山岳部を作った人たちは皆凄味を持っている。だから話も、そうだよね、なるほど、ああそうだったの、と興味深かった。

◆しかし何より感服したのは三宅さん自身の登山力だ。そう、年取ってからの。山にいることが好きだから、その中で気の済むように探し歩いて山の気を見つけたいから、自ずと山は時間無制限・季節・天候無制限の単独行となる。それを雪の高山を含めていまも続けている、というかやってしまう。文句なしに感服した。これも、6才も年下のくせに、そして道や踏み跡のある低山しか歩いていないとはいえ、我が身の経験があるからの感想だ。三宅さんの登っている山は「未踏」にして「高い」。(宮本千晴


「長野亮之介の絵しごと・流西遊影展」、9月28日(土)より開催

 神宮前のギャラリー・ヒッポで1年おきにやってきた「長野亮之介の絵しごと」、今年も9月28日(土)から10月6日(日)に開催するはこびとなりました。今回のテーマは「流西遊影 (ru sei yuh ei) にしにながれてかげとあそぶ」。これまでと趣向をがらりと変えて、源平合戦をモチーフにした水彩画と旅の絵日記、写真、立体作品などを展示します。どうぞ気軽に遊びに来てください。在廊予定など詳しくは、特設ブログ(https://moheji-do.com/rusei/)で。

▼会場:ギャラリー・ヒッポ
▼住所:〒150-0001 渋谷区神宮前2-21-15
▼交通:JR千駄ヶ谷駅・銀座線外苑前駅から徒歩約8分、原宿駅から徒歩約12分
▼電話・FAX : 03-3408-7091
▼ウェブサイト:www.gallery-hippo.com
▼会期:9月28日(土)〜10月6日(日)
   ※10月2日(水)は定休
▼時間:12:00〜19:00(日曜日は17:00まで)

【絵師敬白】
 炎暑の8月、東京下町で薩摩琵琶の《壇ノ浦》をたまたま聴いた。女性奏者の謡が進むに連れ、かき鳴らされる琵琶の音に乗って、荒れ狂う海や沈みゆく魂のイメージが脳裏に流れ込んできた。栄華を誇るも滅びゆく平家は、さしずめ巨大なクジラか。この海を描きたいと思った。にわか勉強の「平家物語」を参考に、一の谷(兵庫)、屋島(香川)、厳島神社(広島)、そして壇ノ浦(山口)へ、平家が京から西に落ちていくルートを駆け足で辿る旅に出た。不案内な西日本の旅のアウェイ感が、追われて西方に流れる平家、遥か東方から追い詰める源氏、双方の心情に重なる。各地で感じた源平の幻影と遊びながら描いてみた。


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です。1979年の地平線会議発足以来変わっていません)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。通信費振り込みの際、通信についての感想など付記してくれると嬉しいです。なお、郵送費は年々値上がりしていて1万円カンパも随時ありがたく受けつけております。

津川芳巳/田島裕志/世古成子/秋葉純子/森美南子/笠島克彦(10,000円 5年分)

■1万円カンパ
服部旭・葵/斎藤孝昭/宮本千晴


地平線ポストから

80年目のノモンハン

 8月28日の昼さがり、肌寒いウランバートルの空いっぱいに耳が張り裂けそうな爆音が轟いた。そのとき私はモンゴル人たちと市内中心部のテラス席でビールを飲んでいたが、1秒で酔いがさめた。慌てて頭上に目を向けてみても、曇り空がただ広がるだけ。後日このことを話したら、芸術家の友人は怒りをあらわにして言った。「その日はロシアの新型ジェット4機が飛んだんだ。ハルハ河戦争80周年記念セレモニーの一環らしいが、独立国家モンゴルの空をロシア軍機がなぜ飛び回る必要がある? 経済不況で支持率を下げているプーチンは、アピールできることが他にないからモンゴルをプロパガンダに使ってるんだ。いい迷惑だね!」

 1939年にモンゴル東部のハルハ河沿いで起きた戦いのことを、モンゴルとロシアでは「ハルハ河戦争」と呼び、日本では「ノモンハン事件」と呼ぶ。9月3日にウランバートルで行われた80周年記念式典にはプーチン大統領も訪れ、モンゴルのバトトルガ大統領と肩をならべてレッドカーペットを歩いた。ふたりは「両国が協力して戦い、侵略者に手痛い反撃を与えた」と過去の勝利をたたえ、二国間の戦略パートナーシップを次のレベルに引き上げると発表。ここでいう「侵略者」とは日本と満州国のことをさす。

 日本のメディアで得られるモンゴル情報は少ない。だから自分がモンゴルで見聞きしたことを、日本で発信できるようになりたい。そう思い、私は学生時代にしていたモンゴル通いを8年前に再開した。以来たくさんのモンゴル人と出会うなかで、歴史マニアだという中年男性の一言がずっと心に刺さっている。「きみはモンゴルが親日国だと信じてるの? 表向きはそうだが実はちがう。一部のモンゴル人はハルハ河戦争の恨みをまだ忘れていない」

 暗い歴史にも向き合わなければと思っていたところに、チャンスがきた。世界各国のフォトジャーナリストたちがともに旅しながらモンゴルを写真で表現するというプログラムに、友人の推薦で招待してもらったのだ。主催はモンゴル写真家協会と国営モンツァメ通信社で、観光業を促進したいモンゴル政府がサポートしている。今年はハルハ河が目的地だと聞いて、ぜひ行きたいと思った。

 集まったのはモンゴル、ロシア、トルコ、韓国、中国(内モンゴル)、日本の写真家やフォトジャーナリストたち約20人。通信社所属の人が多く、私以外は写真のプロばかり。私たちはミニバス2台に分かれ、東へ向かって往復2600kmを移動した。10日間ともに過ごして、私は彼らから大きな刺激を受けた。とくにバスでずっと隣の席だったモスクワ出身で金髪のウラジミールとブリヤート共和国出身で登山家でもあるサーシャから、撮影について多くのことを教わった。強靭な体幹とクールなたたずまいが独特の雰囲気をかもしだしていたサーシャの前職は、ロシア軍のアンチテロリズム兵士。狙撃銃をカメラに持ちかえ、フォトジャーナリストの仕事を愛しているという。

 道中で雨あがりに虹が出たらバスを飛び出し、新婚の遊牧民カップルと遭遇したらまたバスを降りて撮影。毎日シャッターを切りつづけ、出発5日目にハルハ河へ到着した。モンゴル東部のこの一帯は山がなく、地平線まで平らな大草原と河のみ。河の向こう側にかつてあった満州国は、今では中国の内モンゴル自治区になっている。

 こんな僻地で壮絶な戦いを繰り広げていた兵士たちは、どんなに心細かっただろうと思う。戦いの結果、日本軍とソ連軍はそれぞれ2万人ほどの死傷者を出した(両軍の死傷者数については諸説ある)。鹿児島県指宿市出身の私の父は少年のころ、この戦争から奇跡的に帰ってきたふたりの元軍人に出会ったという。ひとりは親戚の男性で、陸軍四五連隊の兵役派兵で20歳のときに機関銃手として参戦。ソ連兵に喉を射抜かれて重傷を負い、命はとりとめたものの声帯を失った。もうひとりは近所の男性で、帰還してからも酷い戦闘風景が脳裏から離れず、戦地で死んだ仲間が毎晩枕元にあらわれるので眠れず苦しんだらしい。

 ハルハ河のそばには記念碑がいくつかと、村がひとつあった。村では舗装されていない土の道を子どもが元気に走りまわり、黄色いポリタンクで水汲みをしたり、自転車に乗って遊んでいた。村の人口は3000人あまり。ソ連軍が撤退したあと放置状態となり、上下水道はいまだに整っていない。しかし、このさびれた村がもうすぐ生まれ変わる。80周年記念事業として、プーチン大統領がロシア企業に約10億円を出資させ、学校、役所、スポーツセンターなどが整う新しい村がそばに急ピッチで建設されているのだ。

 村にあるハルハ河戦争記念博物館は、当然ながらソ連軍とモンゴル軍の功績をたたえる内容だった。ガラスケースのなかに、日本軍が草原に残した弁当箱や手帳やサイダー瓶も並んでいた。日本兵たちはこのサイダー瓶にガソリンをつめ、敵軍の戦車に投げつけて攻撃したらしい。

 この場所をモンゴル人とロシア人と一緒に訪れたのは貴重な体験だった。彼らは「80周年おめでとう」と言いあっていたが、私はなんと言えばいいかわからなかった。ウランバートルに戻ったあとで友人のモンゴル人たちに聞いてみたら、「80周年バンザイ!」と喜ぶ人と、さめた目で見る人とに分かれた。でも日本に帰国したら、ほとんど話題にもなっていなかった。(大西夏奈子

草原のオボー祭り

■今回のモンゴル旅では残念な失敗をしてしまった。昨年草原の遊牧民家族のもとから帰る間際に、来年の8月にウブー(おじいさん)の81歳のナーダム(祭り)をやるからぜひ来てね、と言われていたので、それを中心に日程を組むことにした。スマートフォンを持っている遊牧民の次女に電話をかけて日付を確認し、航空券やウランバートルに着いたときに泊まるホテルなどすべて抜かりなく予約した……、つもりだったのだが、電波の調子(あるいは私の耳)が悪く、8月2日と言われたのに13日と勘違いしていたことが後になって発覚したのだ。ホテルはまだしも、飛行機はチケットを新たに買いなおさなければいけない。当然そんなお金は出せないので、今回の旅はぜったい盛り上がらないわ〜、と目的を失ったモンゴルへ意気消沈しながら柚妃と共に旅立つことになったのだ。

◆偶然の出会いから強い絆で結ばれることになった運転手のナラさんが亡くなった後を引き継ぐように、アルハンガイの遊牧民家族のもとへ甥のアンハーと共に草原に向けて出発した。アンハーは昨夜寝たのが相当遅かったらしく、道中眠気に負けて車を停めお昼寝タイムに突入すること二回。しかし覚醒中は華麗なるドライビングテクニックでアルハンガイに向けて快調に走る。

◆アンハーの運転でアルハンガイの家族のところへ行くのは三回目だが、おととしはゲルを見つけるたびに方向を聞き、迷いに迷って予定を大幅に過ぎた夜中に到着した。昨年はそれに懲りたのか草原のお父さんに途中の町まで来てもらい道案内を頼んだ。さて今年はどうだろうかと見ていると、ふふ〜ん♪と鼻歌を歌いながら丘の稜線を指でたどり、ビシ!とある方角を指差してそちらへ進んだのだ。そして一切迷わずダイレクトにゲルに到着した。三年目にしてとうとう完璧なナビゲーション技術を身に着けたのだ。

◆ナーダムを逃したとはいえ81才のめでたい年なのだから、ウブーにはとびっきりのお祝いを渡したいと思い、こも樽に入った日本酒をプレゼントした。ウブーはたいそう喜んでくれ、王様が使うような金ぴかで大きな盃を出してきてなみなみと注ぎ、グビグビと空けてしまった。そんな調子だから数日で空になってしまい、空いた樽にはアルヒ(強い酒)を入れると言って嬉しそうに笑っていた。ウブーは自分専用の鍵付きの行李に、酒や盃をいくつも隠し持っている。

◆いつものように馬で家畜を追ったり草原であそんだりしていると、これから出かけるからきれいな服を着るようにとおばあさんから言われた。どこへ何をしに行くのかはわからないままに、とりあえずスカートに履き替えて車に乗り込んだ。先に乗っていた別のおばあさんはばっちりメイクまでして凝ったデザインのデール(民族衣装)にハイヒールのブーツを合わせている。3才の孫は断髪したての坊主頭のくせに、ひらひらしたお姫様のようなドレスを着ている。着いたのは簡易的なゲルをいくつも建てた草原の一角だった。そのゲルのひとつに招じ入れられると、馬乳酒やアーロール(牛乳が原料の菓子)を振舞われた。

◆聞けば今日はオボー(土地の守護神を祀る石や木の堆積)の祭りだという。ウブーの祭りを逃した私たちにオボーの祭りとは!とちょっと興奮した。しばらくすると集まった数十人が車や馬に乗り込み、丘のてっぺんのオボーを目指す。この数十人は皆一族だという。関係ないのは私たち母娘とアンハーぐらいだ。オボーの前に白くて長い絹の布を恭しく持った長老たちが並ぶ。中でもウブーは最高齢のようだ。

◆一族の繁栄に感謝し今後の発展を祈念する言葉が述べられ、オボーの中に羊肉、乳製品、お金、線香などが供えられた。絹の布はオボーにぐるりと巻かれる。この祭りはオボー建立から三年連続で催され、今年が最後の年だそうだ。だから一番下に一年目の布、次に二年目の布があり、経年変化のある二枚の上に今年のまっさらな布が巻かれるのだ。そして老いも若きも幼きも、それぞれが乳製品やカラフルな米を手に、オボーの周りを時計回りに移動しながら撒いて行く。

◆再び麓のゲルに戻り、ホーショール(羊肉の揚げ餃子)やアルヒが無限にふるまわれ、外では三重の人垣の中で少年たちの相撲大会が開催される。取る方も真剣だが観客の声援も白熱している。いくつか階級があり、それぞれの優勝者には山盛りの文房具や本が贈られた。宴の終わりには子供たち全員にお菓子の詰め合わせが配られ、柚妃ももらうことができた。一族はみな何ページにもわたる家系図を渡されて帰途についた。

◆モンゴル帝国時代の首都、カラコルム遺跡の程近くにある博物館に行きたいと思い、草原のお父さんとチビのオザも誘って行ってみた。エルデネ・ゾーというモンゴル最古の寺院は、現役の寺でもあり一部は博物館にもなっている。周りを取り囲む108の白いストゥーパが美しかった。8月の報告者だった三宅修さんが2007年にモンゴルの山や湖を訪れたとおっしゃっていた。東京外語大山岳部のOBたちで結成された隊で、リーダーは江本さんだった。メンバーには私の父もいた。一行はこの寺も訪れていたことが父の書いた記録から分かった。この時はまだなかったカラコルム博物館がJICAの援助で建設されたのは2010年だ。カラコルムが首都だったころを模した大きなジオラマがあり、細かい描写と丁寧な作りで国際都市として発展していたことを教えてくれる。父が生きていたら自慢できたのに、と少し残念だ。

◆しょんぼりした気分で始まった今回の旅だが、終えてみれば新たな出会いや経験もできた楽しい旅だった。草原に住む遊牧民の家族と、ナラさんの家族。二つの家族がなければ私と柚妃のモンゴル旅もない。縁と絆に感謝だ。(瀧本千穂子

素晴らしかった僕の夏休み

■夏休みに入る1か月ほど前、母が今年の北海道の祖父母の家への帰省は岩手経由にしようと言い出した。母が中学の修学旅行で訪れた中尊寺と龍泉洞にぼくを連れて行きたいのだという。そこで、今年3月に全線がつながった三陸鉄道リアス線を全区間乗車するルートを計画した。

◆8月4日、早朝の新幹線で出発、一関で東北本線に乗り換え平泉へ。中尊寺と猊鼻渓で船下り観光を楽しんだ後、この日の宿泊地、大船渡へ向かった。大船渡線の気仙沼〜盛間は東日本大震災の津波の被害を受け現在はバスが運行されている。猊鼻渓で出会った地元のおじさんは、「道路も良くなって最近は気仙沼まで魚を買いに行きやすくなったんだよ。ただな、防潮堤が高くなったから、昔からの海が見えなくなってしまって、わしらは寂しいんだよ」と話してくれた事が印象深かった。

◆バスの車窓からは奇跡の一本松、震災遺構として残された津波で破壊されたままの建物がいくつか見て取れる。陸前高田は病院や学校が高台にあり、震災後に建てられた新しい家が目立っていた。8年前の震災時、ぼくはまだ5才だった。あの時何度もテレビで見た津波の光景。初めてその地を訪れて不思議な気持ちになった。

◆8月5日、盛駅から三陸鉄道に乗車。三陸海岸は新しい防潮堤と穏やかな海の景色だ。宮古で途中下車し、レンタカーで龍泉洞へ向かう。龍泉洞の内部はとても神秘的で美しかった。

◆時間に少し余裕があったので旧田老町に立ち寄った。津波遺構の田老観光ホテルは2Fまで鉄骨がむき出しになっており、津波の高さを初めて実感した。その横では防潮堤の工事が進んでいた。そばに行くとものすごい高さの壁だ。確かに海は見えない。その近くの山王岩へも足を延ばす。三陸の波によって形成された独特な岩だ。また津波で運ばれてきた2tもあるという岩もあった。

◆そこでは地元の漁師さんに出会った。漁師のおじさんは辺りを指して「あそこまで津波が来たのさ。波が被ったとこは植物が枯れちゃってるけんど、浜ユリとハマナスはまたすぐ咲くんだ。塩に強いんだな、強い生命力があるんだ」と話してくれた。母はちゃっかり、とれたてのウニをその方からごちそうになっていた。宮古に戻り再び三鉄で久慈へ、更にJRで八戸まで乗り継ぎ、八戸からフェリーに乗船、翌朝、苫小牧港へ到着。祖父の迎えの車で安平町の家に着いた。

◆母の実家のある安平町は昨年の北海道胆振東部地震の震源地、ニュースでも最初に報道された町である。幸い祖父母の家は一部損壊で被害は最小限だったが、仮住まいを余儀なくされている方も多数いる。昨年まで見ていた昔ながらの町並みは失われ、町は寂しくなっていた。また38名の犠牲者を出した厚真町の土砂崩れ現場も訪れた。陥没し、曲がりくねった道路、むき出しの山肌。災害の甚大さがわかる。復旧工事は少しずつ進んでいるものの、自然の残した傷跡はしばらく元通りにはなりそうもない。美しいはずの自然も、時には牙をむく。自然と共に暮らすという意味を考えさせられる旅になった。

◆そして、夏休みの最後8月28日〜9月2日には風間深志さんと一緒にモンゴルアドベンチャーツアーに行ってきた。初日は風間さん主催の地球元気村の活動として、植林と今までの寄付金で贈った井戸の完成セレモニーに参加。ウランバートルから車で僅か2時間ほどの場所だが清潔な水を得るすべがなかったのだ。井戸は使用する時だけ発電機で動かす仕組みになっている。地元の人々の日常生活に役立つ事を願っている。

◆2日目からはゲルでキャンプしながら自然を満喫。2日間ホースバックライディングに出かけた。お昼をはさんで8時間ほど、山に登り、川を渡り、ひたすら大草原をめぐった。草原ではリンドウやかわいい花々を見つけることが出来た。休憩中にはモンゴル人の友達と石の遠投を競って楽しんだ。現地のゲルも訪問。馬乳酒、チャイ、自家製の木の実のジュース、牛の乳の上澄みを温めて出来る油の膜の様なもの(クラッカーにつけて食べる)、チーズなどでもてなしてくれた。

◆また、キャンプしていたゲルでは羊を屠るのにも立ち会う。羊は暴れるのかと想像していたがとても静かだった。皮、肉、血の一滴も決して無駄にしない。モンゴルの人々は羊をとても大切にしているし、命そのものを大切にしていると感じた。お肉は夕食で美味しくいただいた。夜は焚き火を囲んで星空を眺めた。現地の人がモンゴルの伝統的な歌も歌ってくれた。言葉はわからなかったが、ゆったりとした時間が流れた。とても貴重な体験をすることができた充実の夏だった。(長岡祥太郎 中1)


先月号の発送請負人
【先月の発送請負人】

■地平線通信484号(2019年8月号)は8月14日印刷、封入し15日新宿局に渡しました。当日は、毎月作業をしている榎町地域センターの3階部分がクーラー故障で熱暑となったため、2階受付前の広間の丸テーブルをお借りして作業しました。こんなこと、通信発送史上初めてのことでいつも丸テーブルを占拠する高校生たちがびっくりしていた。8月号は、内容多岐にわたり、18ページの厚さになりましたが、お盆休みの大変な時期にもかかわらず、以下の13名の人が参じてくれました。ほんとうにありがたかった。なお、佐藤絹世さんは武田力さんの娘さんで以前にも助けてくれたことがあります。ありがとう。
 森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 武田力 佐藤絹世 久保田賢次 伊藤里香 落合大祐 江本嘉伸 二神浩晃 光菅修 坪井伸吾 松澤亮


吉川謙二歓迎会に迷い込んで出会ったすごい人たち

■私の勘違いから、あの吉川謙二さんの歓迎会に参加することになった。先週、地平線世話人の江本師から北大の吉川君知っているよね? 今彼が日本に来ているので金曜日に歓迎会があるから来ないかとお誘いがあった。吉川さん?! うーん、そういえば地平線つながりで北大の知り合いと言えば1981年にユーコン川を筏で下った地平線通信の長野画伯と仲間の羽根田氏くらい。でも確か1978年法政大学で行われた全国学生探検会議の時にご一緒しインドの少数民族調査を報告した北大探検部の隊員の方に吉川さん……がおられたような……!

◆鈍い思考回路の結線がどこかで組み違えなのか、ありがとうございます、参加します、と応えてしまった。イヤー懐かしいな、とその学生探検会議を記事にした40年前の朝日グラフを引っ張り出した。そのグラフ誌、1978年にマッケンジー川を下った私が学生探検会議の記事の中に取り上げられた事が父の自慢だったのだろう。賞罰に無縁の私の名が全国誌に出ると言うことで発刊と同時に当時住んでいた荻窪の本屋という本屋を巡り掲載されているグラフ誌を根こそぎ買いまくって、親戚や知人のほか懇意にしている取引先に配ったのがまだ一冊残っていたのだ。

◆記事を見てみると「未知の世界に青春をかけて」という大見出しの中に確かに“北海道大学 ビルホール族”があった。北大探検部のウェブサイトには報告書が現在に至るまで細かく記されている。本来の目的を離れて細かく読んでしまうのは習性か、いかんいかん、そうだ吉川さんは、と1978年の行動の中にあったインド部族民調査に記されていたメンバーの名前には吉川の名はない。北海道大学そして吉川さんというキーワードで思い出すのはインド部族民調査それしかないと思い込んでいた。

◆そういえばもう何十年前になるかと思うけど地平線会議で北海道大学探検部OBによる北極海の海底地質のボーリング調査と言う探検部や冒険の枠組みを超えた壮大な計画を聞きに行った記憶と数年前に偶然テレビで拝見した吉川さんのアラスカでの生活が間違った記憶の回路の結線のままよみがえったことに気がついた。確かに吉川さんは知っているのだが、お誘いされ、わー、懐かしいなと言う気持ちで行きますと手を上げた時は多少勘違い。しかしその後記憶と記録をたどっているうちに大いなる勘違いと気がついたのだ。

◆焦ったけど師は思い立ったらすぐ実行の人、気後れしてイヤー参ったなーと思っていたら師から再度メールが、人数がいっぱいで今回は遠慮してくれと恐れ多い謝りのメール、こちらも冷や汗をかかないでと、ほっとしたのもつかの間改めてのメールが吉川さん自身と開催幹事の恩田真砂美さんから席を作っていただいたとの連絡があり、今更引っ込みもつかなくなって参加させていただくことになった。この集まりでお互いの顔を知っている人は師と白根氏、地平線でつながりがある方がほとんどと言うこととはいえ地平線会議出席率はビリの方でしかも田舎に住んでいる身では二次会もそこそこに切り上げて帰らなくてはならないので知り合いができる訳も無い。

◆元々東京生まれの東京育ちだけれど現在は緑の多い地方暮らしだから今や新宿の雑踏はジャングルを歩くよりもGPSがないと自分には難しいのかもしれない。十二分にゆとりをもって出たので少し早めに会場にしている飲み屋さんに着いたのだけど、すでに吉川さんも恩田さんもいた。お互いに初対面(地平線ではお目にかかっているはずだけど)とは判っているので気後れしている。元々シャイでしかも赤面対人恐怖であるので、そーっと入って行ったのだ。

◆開催時間まで10分も前だったのでまだ数人しか人はいない。それもほとんど面識のない人ばかりだ。すでに師匠から私のことを紹介していただいていて豪快な吉川さんが満面の笑みで歓迎してくれたのでほっとしたのだった。そしてお会いした途端にそこにいる皆さんの人柄が緊張した私の気持ちを和らげてくれたのだ。しかしまだたった数人しかいないのに話題は世界を駆け回る。

◆これから来る人たちも多彩な方達ばかり、話題は世界の端から端までそして海底のそのまた下の地中からチョモランマのてっぺんまでの天地をひっくり返したような痛快冒険ダン吉のような話題が酒席を挟んで飛び交う事となった。全氏のカーニバル話からチリアタカマ高地での望遠鏡作り、トナカイ牧場から尺八話(唯一の外国人参加者のサマーソンさんが尺八の名手と聞いてびっくり。実は恥ずかしながら私も探検部以前に大学の尺八同好会のメンバーでした)、デナリ登山からイワナ釣りと話題がぶっ飛んでいる。面白い。

◆しかし皆若い……といっても半数以上の参加者は60過ぎだけれどもまだ現役、しかも体力も充実している。人が人とつながりがまた人を呼ぶそこに大いなる希望とテーマができあがり、それがまた人を呼ぶ、そんな集まりだ。吉川さんの人柄に皆集まってすごいグループができている。私は地平線会議につながっていたことが自分の人生にプラスになっていることをあらためて確信した。仕事でも趣味でも一心に行動して続けていることが、そう、続けると言うことが大事なのだ。人生にテーマがあり夢と希望があることは若さと体力と気力を保つのだとつくづく思った集まりだった。江本さん、この集まりに参加させていただき感激し感謝しています。(河村安彦


植村直己冒険館からのお知らせ
植村直己顕彰事業

2019日本冒険フォーラム開催

■テーマ 〜植村直己のチャレンジ精神〜

■日時 2019年11月17日(日)13:30〜16:55

■会場 明治大学アカデミーコモン アカデミーホール及びロビー

■参加料 無料
◆入場整理券必要。希望者は、電話(0796-44-1515)、またはファクス(0796-44-1514)、
◆参集者予定 約1,000名
◆基調講演 山極壽一(京都大学総長)
  演題 「人類を進化させた冒険の精神」
◆パネルディスカッション
  テーマ 「挑戦し続けるこころ」
◆ゲスト 市毛良枝(俳優)
◆コーディネーター 神長幹雄(山と溪谷社元編集長)
◆パネリスト
  山極壽一(京都大学総長)
  小松由佳(フォトグラファー)
  田口亜希(東京オリンピック・パラリンピックロンドン大会組織委員会アスリート委員。25才のとき脊髄の病気で車椅子の生活に)
  角幡唯介(探検家・作家)
◆ゲストメッセージ 黒田征太郎(イラストレーター)〜植村直己語録を描いて〜
  *パネルディスカッションの内容をステージの片隅で描き、メッセージとしてまとめる。

■交流広場(10:00〜18:00)
 全国のチャレンジャー 夢メッセージ紹介展 パネル 約120点を展示
 全国のチャレンジャーに声掛けをし、寄せていただいた、冒険への思い・夢メッセージと冒険中に撮影した写真をパネルで紹介。

★今回のフォーラムは、地平線会議は関わりません。受付ほかこれまでのような助っ人作業はありません。

ついに刊行!

まやたろさんの

『なないろペダル』

 昨年5月、「風来坊のビジョン・クエスト」のタイトルで469回目の地平線報告会に登場した青木麻耶さん(ハンドルネーム・まやたろ)の待望の新刊が9月9日、刊行されました。

『なないろペダル 世界の果てまで自転車で』という書名で、帯には「よく食べ、よく泣き、よく転び その地で生きる人たちのパワーをもらい、漕ぎ続けた南北アメリカ11000キロ」と。出版社ジグ刊。256ページ。1600円+税


残暑お見舞い申し上げます

 ニュースでは東京は今年も猛暑続きだったとか、お体お変わりありませんか?

 私の方は、6月は福島県の森林調査(放射線量が下がった森林から材を出すため)。7、8月は奥多摩町の標高千メートル前後の森林の調査で、毎日10kg越す調査道具を担いで歩き回っていました。西日本からは豪雨、関東からは猛暑の情報を聞きながら、東京都と山梨県境の奥多摩湖畔の宿は冷房なしでも快適で、渓谷沿いの調査は涼しいくらいでした。役得です。岸壁や滝のある沢の測量調査は若いころ養った登山技術や林業技術を活かせて、最新電子測量機器を操る若い人たちからも重宝がられました。芸は身を助くです。来週からは群馬県の森林調査です。20年以上前から、四万十で始めた多様な自然と共生する流域圏の日本モデルや持続可能な森林経営の国際モデル作りなどに住民参加型で取り組み、成果が上がらず四苦八苦しましたが、最近蒔いた種が思わぬところで芽吹いていてほくそ笑むことがあります。

 残暑が続きます、ご自愛ください。(山田高司

三宅修報告会に深く感動しつつ
ベネズエラの呪い その3

■先月の地平線報告会@三宅修大師匠のお話の素晴らしかったこと! めったに人を褒めないことでは定評あるZzzだが、今回は掛け値無しで感動に打ち震え、久しぶりに見た日本の山々の写真に目が潤んだ。近年の報告会は寝ぼけているか世の中舐めてるような(?!)ネタが多く、これほど感動させられたのは20年ぶりぐらいのことかも知れない。まさにパイオニアのスゴさだろう。

◆加えて、このところ雪のついた山といえばパタゴニアかアンデスの山並みしか目にしてこなかったせいもあってか、古き良き時代のザイテングラードやら谷川岳一ノ倉沢なんぞの光景が頭を過ぎり、ただひたすら高みを目指した日々が切実に思い出された。呼吸困難気味のラッセルやボッカの苦しさも、今となっては甘く切ない思い出に熟成醗酵するものと認識を新たにした。こうなると南米方面のアホ話はどーでもよくなってくるが、魔術的リアリズムが息づく現地報告を強引につなげるのは、やはり報告会最後に三宅氏が吐露した危惧に重なるからでもある。

◆さてさて、ラテン業界では太古の昔から、ベネズエラ人は南米一働かない国民だと言われていた。産油国でしかも最大消費国のアメリカべったり政権が安定的に続き、採掘から精製までアメリカ系石油メジャーが仕切り、黙っていても外貨収入が転がり込む。生産活動分野に予算は回らないが、原油価格が高値安定の時代は、食料も生活必需品も海外から輸入すれば大丈夫と放置されてきた。そのツケが現在の経済崩壊と政治的混迷の原因の一つには違いないが、基本的に働くのは大っ嫌いという国民性があるのだろう。

◆そのベネズエラ人がアルゼンチンに行って、なんて働かないヤツらだと驚いたという笑い話があるくらい、彼の地の人々は働かない。人間より牛の数の方が多いくらいで食べるには困らず、まるで働くことは罪悪ぐらいに思っている国民を仕切るのも大変で、独立以降8回目を数える国家財政破綻も目前と言われている。ある日突然、ごく普通の会社員が残りの住宅ローンを一括払いしなければ、一家全員その場でホームレスに転落というすさまじさだ。

◆時節によっては、道端のマットレスにブルーシートの屋根で暮らす家族連れを多々見かけたほど。そんな不安定なアルゼンチンにまでベネズエラ難民は押し寄せている。これも見方を変えればその昔、スペイン植民地からの解放を唱えたシモン・ボリーバル将軍や、キューバ革命の理論的指導者ホセ・マルティらの思想の実現と言えなくもない。つまりは「ひとつのアメリカ(アメリカ合衆国を除くラテンアメリカ連合)」という理想であり大義である。

◆現地ではマルビナス戦争、ほかの大陸ではフォークランド紛争と呼ばれた、イギリスとアルゼンチンの戦闘を記憶に留めている向きは少ないだろう。1982年4月2日の開戦当日、南米大陸を漂流していた私はなぜかアルゼンチンのメンドーサにいた。大陸最高峰のアコンカグアはすでにシーズンオフで、6500メートル地点の強風と腰までの積雪、しゃりバテで敗退。ヘロヘロで下山した街は異様に盛り上がり、国旗を振り回して大騒ぎする市民で路上は埋め尽くされていた。何が起こったのかすぐにはわからなかったが、英国人旅行者がボコボコにされ、ユニオンジャックのついたリーボックのスニーカーを履いているだけで隣人に襲われるのを目撃して、即刻国外脱出を図らざるを得なくなった。潜在的仮想敵国チリとの国境は閉鎖、打倒英国の大合唱で燃え盛るアルゼンチンからボリビアへ脱出したときは心底安堵した。

◆国内の政治経済など諸問題を領土問題にすり替え愛国心を煽る手口は、歴史上多々見られる事例だ。フォークランド紛争に関してはWikipediaが異常に詳しいので一読をお勧めしたいが、現地状況をじっくり観察すると、現在の日本も大して変わらぬようにすら思えてくる。領土問題も難民問題も他人事に見えるが、尖閣諸島や竹島、北方領土に武力侵攻とか、暴発してあふれ出した北朝鮮難民が数万人漂着などといった想定外の近未来が、実はプログラムされた現実かも知れない。日中両国ともフォークランド紛争を尖閣問題の先行事例として詳細に研究しているし、相変わらず政治経済が問題だらけのアルゼンチンでは、国内各所に「マルビナスを忘れることを禁ずる」と大書された巨大看板が並んでいる。日本の現政権は戦後をやめて戦前を始めた事例として、歴史に刻まれることになるかも知れない。

◆この夏もチリ、ボリビア、ペルーと訪れた先々で、すれ違うベネズエラ難民に出来るだけ接近し生の声を聴いてみた。共通するのは家族や故郷への思いと生きることへの熱意で、絶望したような反応は皆無だったのがひときわ印象的だった。それに比べて、極東島国の末期的脳天気さがひたすら笑える今日この頃である。(Zzz-カーニバル評論家@9月30日のカーニバル・トークもよろしく:http://haremame.com/schedule/67179/


今月の窓

高知がお手本、東京の水源林

 2017年末から、多摩川源流の森の仕事をしている。東京都や東京都森林組合、林野庁の委託で、森林の境界明確化、森林資源調査、東京都水源林調査等等。話を聞く80歳を越す古老達は多摩川源流の森の変遷に詳しく、勉強になることが多い。昨年秋以降は複数台風到来の影響で風倒木がひどく伐倒作業に追われた。丹波山村に合宿し9時寝4時起き、朝6時半から午後3時まで山の中にいた。仕事をしながら森林林業について、知ること、考えること、見えてくることも少なくない。

 以下の数字と文字表現に、ピンとくる人がいれば、かなり森林環境や林業に関心の高い人だろう。

 68%、40%、84%、24%、44%、15%、50%、九州と同じ面積、九州と四国を合わせた面積、日本の面積の4分の1、半減。

68%、日本の森林率。

40%、東京都の森林率。

84%、高知県の森林率(全国1位)。

24%、日本の森林のうち所有者不明の土地。

44%、日本の森林のうち境界の測量がすんでいる土地。

15%、東京都の個人所有森林の境界明確化(地籍調査)のすんでいる面積。

50%、多摩川源流の森林の東京都の所有率(山梨県、甲州市、丹波山村、小菅村を含む)。

九州と同じ面積(国土の14%)、全国の所有者不明の土地面積。

九州と四国を合わせた面積、地球上で毎年砂漠化している面積。

日本の面積の4分の1、毎年消失している森林の面積。

半減、人類は約1万年まえに農耕を始めてから地球の森林の半分を切り開いた。

(最後3つは調査機関によって違いあり、他は国、地方行政資料より)。

 九州と同じ面積の土地が所有者不明で、24%の森林が所有者不明との記事が一昨年1月の新聞で出た時はにわかに信じられなかった。しかし、奥多摩の森で仕事をしていると、さもありなんと思う。

 高知県では1990年代後半から、84%の森林をなんとか生かそうと、高知県木の文化圏構想アクションプランを始めた。まずやったのは、ゾーニング(森林の機能別分類)とグループ化(所有者が細かく分かれた人工林の施行のための団地化)のために、明治時代に書かれた絵地図のような森林境界の測量(地籍調査)。川上から川下までとの掛け声で、林業の6次産業化にもいち早く取り組んだ。

 折からのデフレ経済で木材価格は低いまま。全木材使用率に占める国産材の使用率30%台の継続などで、目標達成には至らなかったが、産官学民が協力した。水道代に500円プラスする森林環境税は高知県初で始まり、今は30以上の都道府県で導入された。地籍調査は中山間市町村では終わっている。東京都では15%に満たないという。全国で見ても境界明確化できているのは44%との試算がある。

 昨年、外国人労働者の受け入れを拡大する出入国管理法改正案が可決されニュースになった。しかし、森林経営管理法は5月に可決成立したものの、ほとんどの人の話題にもならなかった。高知県に始まった森林環境税の国版で一人当たり1000円の税金を徴収し森林管理に当てるもの。600億円の税収という。使い方、管理は市町村にまかせ、森林事業に企業や民間団体の参入も可能になり、持ち主不明の山林は行政判断で施行可能とするなどなど。が、専門家の評価はけしてよくない。市町村行政に林業に詳しい職員がいない、林業現場の慢性的高齢化と人手不足、企業が入ると利益優先で森林荒廃につながるなどの問題があるからだ。

 高知県の漁業は、かなり以前から外国人労働者が多数を占めるようになっている。森林組合にも東南アジアからの研修生が来たことがあったが、言葉、3K労働環境の問題で今は皆無。東京都の林業現場も、慢性的な労働者不足と高齢化が問題だと、現場の人から聞いた。昨秋の調査地の風倒木の伐採も東京都森林組合に依頼しても人手が足りないとの返事で小生がやった。税金は増やしても、現場で働く人がいない。林業現場では熟練した技術をもつプロでないとできないことが多い。林業冬の時代の1980年代以降、林業従事者は激減し、40、50歳代の山師が極端に少ない。2005年ごろ、間伐した人工林が二酸化炭素を吸収するとのことで、温暖化防止に貢献すべく政府は緑の雇用制度を始めた。おかげで若干ながら、若者たちの林業従事者が増えた。それでも、今の山の現状(伐期にきている山林は多い)は、材木価格の低迷、労働者不足の相反する難問がある。

 高知発の森林環境税は、県民からの声が複数箇所からあがるボトムアップで始めた。実施3年目に県民評価をアンケート調査して、70%以上の支持で継続している。この森林環境税のモデルの一つが、東京都の森林管理の仕組み(欧州の水資源森林局制度もモデル)。

 多摩川源流の森林は東京都水道局が管理している。明治時代後半、多摩川は渇水と洪水の繰り返しで、東京の水瓶(新宿貯水池)に水を供給していた玉川上水に枯渇の危機があった。1909年、当時の尾崎行雄市長が源流視察。発展する東京への建材、薪炭材の供給のために源流の森林が荒廃しているのを見て東京市で買取を始め、今は50%を所有。現在、購入を再開している。そのための調査も今の仕事の一つ。東京のように予算が潤沢でない高知県でどうするかの答えが、森林環境税だった。山の手入れには予算不足だったが、取り組みは全国から関心を持たれ、東京都からも頻繁に視察があった。モデルが自分のところと知る職員は少なかった。今も多摩川源流の森林の50%は東京都が所有し、その管理に水道代が当てられていると知る都民は、どのくらいいるのだろう。(山田高司 東京農大探検部OB)


あとがき

■昨夜、改造のニュースを見ようとBSにチャンネルを回したら、見事な大輪の花火中継の最中だった。「片貝まつり 奉納花火」。なんと懐かしい! 新閣僚の名が刻々と判明する時間だったが、思わず次々に打ち上げられる花火「中継」に引き込まれてしまった。14年前のあの夜のことが心底懐かしく思い起こされたのだ。

◆2005年9月9、10日、私はその新潟県片貝町にいた。大花火で知られる「片貝まつり」がこの両日あるのだ。このあたりのことは、もしお手元に昨秋地平線会議が出した通信フロント集『風趣狩伝』をお持ちならその24ページを開いてみてほしい。「奉納花火」なので、打ち上げたい人は事前にお金を払い(たとえば尺玉は53500円、スターマインは180000円)、しかもこれらの連発が多いのでかなりのお金がかかる。そのための「花火貯金」まである。

◆片貝に私を連れて行ってくれたのは、あの本多有香さんだ。当時、我が家には2頭の犬がいた。ゴールデンリトリーバーのくるみ、マルチーズの雪丸である。この年の6月13日、乳腺にできたガンが原因で12才4か月でくるみが息を引きとったわずか6日後の19日、5才を目前に雪丸も突然痙攣を起こし後を追うように逝ってしまった。夏場は日本に帰ってアルバイト仕事に精をだしていた有香さんがあまりの事態に故郷新潟の知り合いの家(有香さんがその家の娘さんの家庭教師をしていた)に私を案内し、ひと晩、有料の桟敷席で豪快な花火を見せてくれたのだ。片貝花火は、そんなわけで本多有香の優しさを思い出す現場だ。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

知らない世界に自分を置く

  • 9月27日(金) 18:30〜21:30 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「体験した時は、それがなんだかわからない。それでいいんです。僕もそうでした」と言うのは北極冒険家の荻田泰永さん(42)。20代初め、大学を中退して将来のあてもなかった荻田さんはたまたまTVで見た冒険家の大場満郎さんに衝撃を受け、コンタクトを取り、一緒に北極圏700kmを歩いたのが人生の岐路でした。今年3月、荻田さんは20代の男女12名と共にカナダ・バフィン島700kmを歩きました。

「いつかこんな時がくるかなと思ってた…。12人は全員ド素人。僕は企画の表明だけして、あとは自主的にやりたいと門を叩いた人だけ受け入れた。極地の旅は“お客さん”じゃいられないので」と荻田さん。「生き抜く術は僕の経験を伝えるけど、基本はそこに身を置くことでのみ」。荻田さんの手の平の中、泣き笑いに満ちた29日間でした。

一方で荻田さんは毎年夏休み期間に小学生と国内160km(100マイル)歩く旅も企画しています。6年生限定でこちらも無告知、突然受付開始ながら30分で満員。8年目の今年は岡山〜今治〜高知を2回にわけて歩きました。

ルートと宿泊予定地のみ決めてプログラムなどは一切なし。「旅は何が起きるかわからないのが醍醐味。基本はキャンプだけど、アウトドア原理主義じゃないので、外食も宿泊もありです。大事なのは、ヘンな大人と過ごす10日間のプロセスです。」

今月は荻田さんと若者たちに異世界の旅を語って頂きます。


地平線通信 485号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2019年9月11日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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