7月10日。ここ数日、ひんやりした天気が続く。6月の末、信州菅平の「第9回信州森フェス」を訪ねた。2011年に始め今年で9回目となる催しで、我等が長野亮之介画伯はじめエコツーリズムでコスタリカを歩いた信州ゆかりの人達が彼の地の素晴らしさに感動、はじめは「報告会」をやろうと企画したが、準備を進めるうち、多彩な祭りに変貌した、とのことだ。2日間のプログラムは盛りだくさんで、メイン会場のフォーレス館には糞土師こと伊沢正名さんの「うんこは己を映す鏡」、服部文祥さんの『山に登って命を食べるサバイバル登山と狩猟、そこから始まる新しい山旅』など地平線おなじみの個性豊かな面々が次々に登場した。
◆もちろん、それだけではなく、数え切れないほど多彩なブース、ワークショップが出現していることに驚いた。比較的安い参加費で出店できるのも魅力であるようだ。私は小腹が空いてフライドチキンを買ったみたら油がヘルシーでいくらでも食べられることに驚いた。コーヒーも素晴らしかった。主催者も客も30代、40代のどちらかというと子連れの若い家族が多く、こういう人たちが安心してもう少し時間をかけてうろうろしてみたい空間であった。
◆そして気がついた。「山の日」というのは、こういうのを言うのだ、と。2016年にスタートした毎年「8月11日」の国民の祝日。第4回目にあたる今年は山梨県の甲府市を中央会場として8月10日、11日の2日間、多彩なプログラムが計画されている。第1回を上高地に皇太子(現天皇陛下)ご夫妻を招いて盛大に祝ったこともあり、何かと動員数や話題の人の参加が注目され勝ちだが、実は、菅平で地道に続けてきたことの中にこそ大事な「山の日」の心があるのではないか。
◆菅平の緑が美しかった30日午後、アメリカのトランプ大統領が韓国と北朝鮮を隔てる軍事境界線上にある板門店を電撃訪問、金正恩委員長と3度目の会談を敢行した。トランプ氏が軍事境界線を越え、米国の大統領として初めて、「約1分間」北朝鮮側に足を踏み入れたと聞いて昔、板門店に北側から入ったことを思い出した。1972年秋のことでまだ金正恩もトランプも存在していなかったか、無名の存在だった。あの時は離散家族の問題を南北の赤十字が話すという当時としては画期的な事態となり、日本から数人の取材記者が認められたのである。日本人拉致事件が起きる以前のことだ。
◆板門店は単純な“名所”ではない。「軍事境界線」の名が示す通り、びりびりとした緊張感に溢れていた。「軍事停戦委員会」の本会議場が板門店の中心にあり、会議場の中心にテーブル、その中心にマイクが置かれている。私は外からしっかりのぞくことができた。韓国、北朝鮮双方から訪れた見学者が、会議場室内で軍事境界線を越えることは認められている。会議場の周辺は、韓国側に「自由の家」と「平和の家」が、北朝鮮側に「板門閣」が設置されていた。
◆北朝鮮とアメリカ。具体的な進展はこれからだが、大統領選を目指すトランプにとって北朝鮮トップとの友好な雰囲気醸成は大きな武器となるだろう。「最初に会った瞬間から好感を持っていた」と、何とも甘い言葉で正恩氏を米国に招く考えを示した。一方で、英国の駐米大使が本国への通信で、トランプ米大統領を「無能で自信に欠け、適任でない」などと指摘していたことがわかったとCNNが伝え、新たな問題となっている。外交官として本音を伝えたのだろう。トランプは「バカな男」と大使をツイッターで酷評、ついでにEU離脱で苦戦しているメイ首相もこきおろした。あまりの言い方に英国政府側は「礼儀に反する」とにわかに対決色を強めているが、さて。
◆もうひとつ。サッカー女子ワールドカップ(W杯)フランス大会は、アメリカ代表が見事連続優勝をなしとげたが、6得点3アシストを記録し、得点王にあたる『ゴールデンブーツ』を受賞した主将のミーガン・ラピノーの発言が今や注目されている。同性愛者であることを隠さず、女性アスリートの地位向上や賃金平等を訴える主将は、記者陣の質問に「われわれはホワイトハウスに行くつもりはない。」と答えた。ワールドカップの優勝チームは当然ホワイトハウスに招かれ大統領の祝福を受ける。ラピノーはトランプを一蹴したのである。
◆7月5日、朝から神保町の岩波ホールに並んだ。話題の映画「ニューヨーク公共図書館」の上映最終日。ドキュメンタリーの巨匠、フレデリック・ワイズマン89才の最新作と聞いて駆けつけた。220の席はほぼ満席。この時間なので当然年寄りばかりだ。ありとあらゆる図書館の現場にカメラは入り込む。講演会、市民からの問いあわせへの対応、より良き図書館仕事を達成するための議論、コンサート……。1911年に竣工し、いま6000万点の蔵書を誇る知の殿堂。その全貌を追う3時間30分のカメラに圧倒された。ロシア語の勉強だけで音をあげていられないぞ!(江本嘉伸)
■報告の直前、久しぶりに五十嵐さんと会った。とても緊張しておられ、続々と集まる地平線メンバーに丁寧に挨拶をする姿を見て、そういえば五十嵐さんはそういう方だったと思い出した。初めて五十嵐さんと会ったのは、探検の準備のために東京在住のミャンマー人に聞き込みをすべく、東京に滞在していたある日、早稲田の探検部員の家に上がり込んでいた時だった。当時1年生だった私にも腰が低く、静かな口調で、しかし胸中の熱い思いが見え隠れするような話をしてくださった。今回の報告会でもそんな五十嵐スタイルで、北大探検部の活動として、そして五十嵐さん個人として追い続けている神の山「トティコ(Thaw-thi-kho)」について語って頂いた。
◆五十嵐さんは現在北海道大学の大学院2年生。出身は福島県郡山市で高校ではラグビー部で活動し、特に探検記などは読んだことがなく、探検部のことも知らなかった。高校での友人は、東京か仙台の大学に行きたがっていた。大学ではこれまでと違った人間関係の中で生活してみたいと考えていた五十嵐さんは、雄大な自然に憧れ、北海道大学への進学を希望する。晴れて北海道大学に進学し、北大のバンカラな校風に期待するも、そんな校風はもはや存在せず、有名な恵迪寮(けいてきりょう)はタコツボ化している印象を受けた。理想と現実のギャップにショックを受け半年ほどくよくよしていた五十嵐さんの目に飛び込んだものが、探検部と掲げられたボロボロの家、「デューク東郷」である。
◆北大探検部は過去の事故以降大学からの締め付けが強くなり、1990年に大学公認の部を取り下げ、非公認のサークルとして活動している。その頃から部室に変わる手段として大学近くの一軒家を借り上げ、部員何名かで住んでいる。札幌市北区の水洗トイレ普及率100%を阻害していたとも言われるボロく、汚いその空間に惚れ込み探検部への入部を決める。
◆下級生の頃は、先輩に連れられて、レジャー的な活動に参加していた。どの大学の探検部も同じような感じだが、外部に報告できるような探検と呼べる活動はなかった。二年生の時には、自転車で日本縦断を行い、各地の大学探検部を尋ねる。この頃から徐々に、探検部であるならば、探検を、そしてできるなら外部に報告をすることができる大きな計画を目指すべきだと考えるようになる。そこで五十嵐さんは北大探検部にプロジェクト制度を導入する。部員が大きな目標を持ち、それに向けて部員同士で勉強会や文献調査を行い活動へと結びつけていく制度である。
◆五十嵐さんが、カレン族(スゴーカレン族)について知ったのは、教授から渡された『ゾミア』を読んだ時。カレン族についてもっと知りたいと考え、吉松久美子さんの著書『移動するカレンの民族誌』(2016)を読む。その本の巻末の付録の中で、カレン族の起源について語られた、トメパ神話についての記述を見つける。そのトメパ神話には、「中国人」や「ティセメユワ川」など謎多き単語が登場する。また、19世紀半ばから20世紀初頭にかけてカレン族に接触していたキリスト教の宣教師達の間で、この神話に出てくる「中国人」とは誰のことをさすのか、「ティセメユワ川」とはなんのことか、と論争があったことも付録の中に書かれていた。
◆「ティセメユワ川」について、それは黄河のことだと主張する宣教師もいれば、ゴビ砂漠のことだと主張する宣教師もいる状態で結論が出ていない模様。そこに目をつけた五十嵐さんら北大探検部員は、この宣教師たちの論争について文献を探すことに。しかし、神話の登場する地名や人物の名前があまりに抽象的で、かつての宣教師達以上の推論は難しいと諦めかけたその時、ある文献を見つける。その文献は、「ティセメユワ川」を黄河だと主張していたマーシャルという宣教師が1922年に残した文献で、「カレンの民話はトティから作られたものが多い」と書かれていた。これが五十嵐さんとトティコとの出会いだった。
◆19世紀半ば、タウングー(Taungoo)地方に宣教師達がやってきた頃、トティのそばに暮らす人々は、様々な儀式を行なっていた。村のリーダーや預言者が神のお告げを解釈して、トティコの山頂へ巡礼を行う時期を毎年決めていた。山頂に行くと、豚や水牛を捧げ、石のケルン(石を積み上げた印のようなもの)を作る。今でもケルンや供物として捧げられた壺や器のかけらを見ることができる。とマーシャルは記述している。
◆マーシャル自身が山頂に行ったかは記述されていないが、文献の最後に、今ではトティコへの道は植生に覆われ、長い間儀式は行われていない、数人の老人が記憶にとどめるのみであると書かれていた。その文献の中でマーシャルは、トティコとはナッタン(Nattanng)のことであると記述している。そこで今度は、他の宣教師はトティコについてどのような記述をしているのかを調べてみることに。するとトティコに関しても様々な報告があがっていた。スゴーカレン語の辞書を最初に作った人物は「想像上の山でしかない」と書いていたり、別の宣教師は「想像上の山ではなく実在している」と書いていたり、また別の宣教師は、タウングーに住むカレン人に「あの山がトティコだ」と指し示されたと書いていたり。
◆しかしタウングーから東の山々の中で、どれがトティコかはわからない。そんな中、イギリス人の役人だったマクマホンという人物がトティコに登った報告をしているのを見つける。このマクマホンもトティコのことをナッタンであると記述していた。一方これらの文献の中に、トティコと対になって紹介されるポゴコ(Pghaw-ghaw-kho)という山が存在する。ポゴコはトティコといわば夫婦のような関係の山で、トティコの北側4マイルの位置に存在するとマーシャルは記述していた。一体これらの山はどこに位置するのだろうか。文献調査を共に行ってきた人たちも五十嵐さん自身も学年が上がり、4年目に差し掛かっていた。そこで、実際に登りに行こうと考えていた時、探検部の後輩から言われる。「五十嵐さんたちが行こうとしているところ、地雷原ですよ」
◆ミャンマーの観光会社にナッタンに登れないかと相談をする。そのうち一社がトティコやナッタン、入域について相談に乗ってくれた。しかし得たい情報は手に入らず、要領を得ない。言われるのはその地域は治安が悪いので考え直した方がいいといった内容。現場の肌感覚を得、現地の人に聞き込み調査を行う為に、予備調査としてとりあえずミャンマーに向かうことにする。行き先はナッタンの西側に位置する街のタウングー(宣教師たちの拠点だった場所)。メンバーは五十嵐さん、岡田さん、笠原さんの3人。実は五十嵐さんは初の海外だった。
◆タウングーのホテルのオーナーにトティコやナッタン周辺について聞いてみたところ、ナッタン周辺の入域なら、カレン州都のパアンのイミグレーションオフィスに行けば許可がもらえるかもしれない。トティコについては、知らないが、カレン人の伝説の舞台となる山は他にも存在する。その山(ThanDaungGyi)なら外国人でも許可なしに登れると言われ、登りに行ってみることに。山頂にはすでにキリスト教の十字架が建てられており、セレモニーなどができるような広場がコンクリートで作られていた。ガイドに聞いたところ、もともとカレン族の信仰の山だったが、今はキリスト教の山として崇拝されているとのこと。
◆このガイドに地図を買いたいと言うが、山岳地図は軍が管理しているため、入手はできないと言われる。タウングーにいても得られる情報が少ないため、12時間ほど高速バスに揺られ、カレン州の州都であるパアンに行くことに。しかしイミグレーションオフィスに行くも、やはりナッタン周辺への入域許可はおりない。そこで、パアンで泊まったホテルのオーナーにトティコについて聞いてみる。するとカレン人の学生を紹介してくれるとのこと。
◆しかし会ってみると彼はポー・カレン族。ポー・カレン族とスゴー・カレン族は言語も異なり、信仰も異なる。トティコについてはわからない、ポー・カレン族にとっての信仰の山は近くにあるゾエガピン山が有名であるとのこと。やることもなくなってきた五十嵐さんらは、神の山として名高いゾエガピン山に登ることに。すると登山口で降りて来た、スゴー・カレン族とポー・カレン族のカップルに出会う。そこで登山をやめてゲリラ的に聞き込みを行うことにした。
◆しかし、やはりトティコについては知らないとのこと。またナッタンのあたりに行きたいという話をすると、その地域は複数のゲリラグループが混在しており、地雷もあり、無許可で入域すると撃たれる可能性があるから、絶対に行ってはいけないと言われる。また、民族紛争についても教えてもらう。ちなみに五十嵐さんはこの家族とは今でも仲良くしており、その後の調査でミャンマーに行く度に立ち寄っているらしい。
◆結局入域についても、トティコについても有益な情報を得ることができないまま帰国の日が近づいてしまう。最後にヤンゴンに戻る前に、問い合わせに答えてくれた観光会社の人が、一度会って話してみないかと連絡をくれる。会いに行くと、現地で長年写真を撮り続けてきた写真家の人を連れて来てくれていた。改めて入域禁止の地域で山登りがしたいと話してみると、てっきり止められるものだと思ったが、その写真家の人が「僕の友人に現地人のふりをして面白いことをしている人がいる」と言われる。
◆ナッタンの東側の地域はタイと繋がっているドリアンの一大生産地で、密輸業者がたくさんいるから、君もドリアン業者に扮して輸送トラックに乗せてもらってこっそり入っちゃえばいいんじゃないの?とそそのかされる。なんか聞いたことある話だなと思ったら、やはりこの写真家は高野秀行さんの友人の方だった。そこで話が盛り上がり、まずは日本に住んでいるカレン人と仲良くなって、色々情報を集めてから再び来たらいいのではとアドバイスをもらう。さらにカレン人で東京に住んでいるPさんという女性を紹介してもらう。
◆このような形で2016年に行われた1回目の予備調査は終わる。結果としてナッタンとその周辺に入ることは予想以上に絶望的であるということがわかったのと同時に、この計画を成功させれば面白い活動になるに違いないというある種の手応えを感じていた。ここで、北大探検部としての隊は解散し、今後は五十嵐さん個人としての活動になっていく。
◆ここからは五十嵐さんの日本での、主に東京での聞き込み調査が続く。写真家に紹介してもらった日本在住のカレン族であるPさんに連絡を取ってみると、トティコについて知っているカヤー州出身のTさんという方を紹介してもらえることに。しかし、いきなりトティコについて教えて欲しいと迫ったが為か、資源狙いかと聞かれ、非常に印象が悪くなってしまった。後で調べてみると、ナッタンの辺りは、スズやタングステンが取れる地域。その為ビルマ政府も日本などの企業もその地域を開発したがり、カヤーの人たちは山々を守ったという過去があった。
◆その頃、五十嵐さんは卒業研究にも取り組んでいた。五十嵐さんの所属するゼミはフィールドワークのゼミで、まさにこのトティコをテーマに卒業論文を書く予定だったが、入域することが厳しく、現地で調査ができなかったため、テーマを少し変え、第三国定住制度で日本へとやってきたカレン族難民の人たちの抱える問題を調査することに。そこで1か月東京にきて、早稲田の探検部の同輩の家に半ば強引に住み込み、東京在住のカレン族に聞き込みをすると同時にトティコ、ポゴコについても聞いて回る。
◆多くの人に聞き込みをする中で、タイの難民キャンプに行くときにトティコを通過したことがあるというKNU(Karen National Union,カレン人による民族組織)の元兵士の人に会うことができトティコ周辺の話も聞くこともできた。トティコの存在を確信した五十嵐さんはさらに調査を進め、タイの難民キャンプに潜入したジャーナリストの存在を知る。このジャーナリストがタイの難民キャンプへ行く際に手引きをした人物の連絡先を手に入れた五十嵐さんは新大久保に会いに行く。すると、トティコについては知らないけれど、KNUの日本のリーダーを紹介することはできると言われる。
◆そのような経緯でKNUジャパンのリーダーとの接触に成功。このように、少しずつ少しずつ人脈が広がり、最初は雲を掴むような話だったのが、だんだん雲というか霧の先に山が見えて来るような感じがしたと五十嵐さんは語る。東京での調査結果をまとめると次のようになる。トティコは現在カレンではなく、隣のカヤー州の民族軍の支配地域であること。そのため、カヤー人とのコネクションが必要かもしれないということ。トティコ周辺はやはり危険で、地雷がある。ただどのエリアから危険で、どの地域から地雷があるのかその詳細はわからなかった。トティコは資源を有する山で、ビルマ政府や国外の企業が狙っている。この地域は軍に守られていて、カレン人でもカヤー人でも口の固い人しか入れない。そしてトティコについて知っている人は複数人いたが、トティコと対になる山であるポゴコについては誰も知らなかった。
◆ここで、改めて現地での調査を行おうと考え、笠原さんを誘い、2017年に再びミャンマーへ。KNUジャパンのリーダーに、トティコに入れるように手配してもらい、今度こそ行けるのではないかと期待してKNUジャパンのリーダーのお父さんの家に行くが、全く話が通っておらず、出だしから失敗してしまう。しかしここで諦めずに交渉すると、タウングー地方に住むグウェリーさんを紹介してもらう。グウェリーさんは、かつて日本で10年ほど住んでいたことがあり、日本語も達者。当時は、KNUのボランティアとして活動していた。
◆トティコについて知っている人を探すのを彼に手伝ってもらい、KNUのオフィスにも案内してもらう。五十嵐さんも最初は勘違いしていたが、KNUといっても彼ら全てがゲリラというわけではないのだ。難民支援を担当する民間人も多くいる。ナッタンを含む山域がすぐ近くに見えるところまでいったり、トティコにいったことがある兵士とあったり、前回と比べるとものすごく近いところまで来ているという実感を得る。
◆また、タウングーでミルタンさんという女性を紹介してもらう。この人は在野の歴史家で、個人的にカレン語の本を英語に翻訳したり、カレン語の方言について調べたりしている人。この人から、2013年に書かれたトティコについての記述がある本のコピーをもらう。このタイミングで東京のPさんから、Tさんが現在カヤー州に帰省していると連絡が入る。早速Tさんに電話するとカヤー州の州都のロイコーで会えることに。さらにトティコの山頂に登ったことのあるお爺さんも連れて来てくれるとのこと。バスに乗り、タウングーからロイコーへ。このお爺さんは、かつて教師をされており、KNUで働いていたこともあるらしい。
◆「昔はトティコは有名な山だったけどね、今は有名じゃなくなって若い人たちはあまり知らないんだよね、山までの交通の便も悪いし、紛争地だからね」と語り始めた。トティコに登ったのは2013年の4月。当時は内戦が激しく、トティコ周辺の神聖な17の村々の一つレキ村のハンターにガイドを頼んだ。周辺の村はキリスト教徒が多いが、ピヤモソーというカレン独自の宗教を信仰している人もいる。トティコ山頂の植生は、自然に生えているのに手入れされているように整っていて、トマトや唐辛子が自生している。また、他にも珍しい植物が存在する。
◆このように、トティコにしかない植物があり、不思議なことがあるから、ビルマ人はナッタン(精霊の山)と呼ぶらしい。頂上の様子を聞いていると、頂上はかなり広く、トティコとポゴコがある。トティコの方が少し高い。という発言が。ここで初めてポゴコの名前を知る人に出会い、五十嵐さんは興奮して、さらにポゴコについて聞いてみると、トティコとポゴコは地続きで、歩いて30分ほどだという。四方が見渡せるこの山は軍事的要衝で、1/3はKNUが支配し、残りはKNPP(カヤー州の民族組織)が支配している。
◆2時間半近く聞き込みをさせてもらい、ポゴコとトティコの関係についても知ることができた五十嵐さんは大満足で旅を終える。日本に住むPさんに協力してもらって、ミルタンさんにもらった文章を翻訳すると、お爺さんが言った作物の話も書かれており、トマトや唐辛子の他に山頂にはカシューナッツや不思議な苦い薬草も生えているらしい。また、トティコ誕生の神話も書かれており、トティコは双耳峰となったという記述も。これらの調査から、五十嵐さんは、現在地図に書かれているナッタンではなく、その南に位置する双耳峰となっている山がトティコとポゴコのピークなのではないかと考える。
◆現在、五十嵐さんはカヤー州側からアプローチしてトティコに登頂できないかと考えている。そして、登頂を果たし、トティコとポゴコの位置を地図に表現し直すこと、今のカレン、カヤー人にとってトティコがどのような山なのか聞いてくること、これらを通じ、100年前、第二次世界大戦中、現在の三本柱で、「トティコ」という山を描き直すこと、この三つを次なる目標としている。
◆これまでの準備と活動を通じて一番面白かったのは、いろいろな人のつてを使って、多くの人に会いながら、少しずつ目指すものが見えてくる過程。今回報告するにあたって記憶を整理してみると、誰と会ってここまでたどり着いたのかということが、葉脈のように見えてくる、この軌跡がとても面白い。そう五十嵐さんは振り返る。
◆最後に五十嵐さんは、大学探検部員に向けてある言葉を送ってくれた。その言葉とは、和田城志さんの「大学山岳部員は軟弱とはいえアルピニストの末席にいることを忘れてはならない。」という言葉をもじったもので、五十嵐さんがくじけそうな時に思い出していた言葉である。「大学探検部員は軟弱とはいえ探検家の末席にいることを忘れてはならない。」(走出隆成 早大探検部4年)
■話し始めて小一時間、報告の前半が終了。気が付くと、張りつめていた緊張の糸は切れ、残りは無我夢中だった。いつの間にか報告は終わり、会場が拍手で私を労ってくれていた。二次会の「北京」でも、自分が報告者として席についていることに現実感がなく、まだ夢のなかにいるような気分だった。
◆今から6年前、憧れだった北大に入学はしたものの、理想と現実の差に戸惑い、失意のうちに半年を過ごした秋、北大探検部という「アジール」に辿り着いた。平成という時代には凡そ似つかわしくない、築年数90年を超えた木造平屋の部室兼住居。今は無き「デューク東郷(注:屋号)」には、自分の求めていたものがある気がして、1年目の私は迷わずトタンの門を叩いた。
◆黴臭さと小便臭さが充満した廃墟のような空間に、薄汚い格好でたむろをする「上の年目(北大では「先輩」と呼ぶよりも一般的だ)」の世間ずれした雰囲気に魅せられ、改めて「ここだ」と確信した。それからというもの、部室に通っては酒を飲んだ。若さにまかせて安いアルコールを体内に流し込んでは、シミだらけのこたつ布団から夢の中へと滑り落ちた。寝ても覚めても酔いは醒めず、夢か現実か、わからないような毎日を過ごした。早く仲間になりたいという一心で、未知を探るための姿勢も見せず、履き違えたアピールに明け暮れていた。
◆ただ、部室で目が覚めていつもしていたのは部内の資料、活動記録の物色だった。重い瞼をこじ開け頭上を見上げると、今度は色褪せた冊子が詰まった本棚が私を見下ろすので、仕方なくこたつから手をのばしてその中からなにか適当に一冊をつまみ出しては、先人の記録に目を通すことが日課のようになっていたのだ。日焼けで黄ばんだページを繰っては、昔日の探検活動に思いを馳せ、自分が所属する団体が「探検部」であることを改めて自覚させられた。恥ずかしい話である。
◆その頃の探検部の活動はといえば、既存の記録をトレースするだけの川下りや山登りに代表される単なるレジャー活動が多数を占めており、剰え真剣に「探検」について唱える人間を疎んじるような倒錯状態があったように記憶している。冒険の世界とは縁遠い、馴れ合いの諧調に満ちた揺籃の中、夢見心地でいた私は、平仮名の「たんけん」部員でしかなかったのかもしれない。そんな私の酔いを醒ましてくれたのは、北大探検部がかつて発行していた部誌にある、こんな一節だった。
《探検部が探検をしなくなったら終わりです》
◆20年以上前の現役部員に「そろそろお前も探検部員になれよ」と横面をはたかれたような気持ちがして、その頃から、探検部とはどういう場なのか、自分なりの答えを探りはじめた。「探検とは何か」。埃のかぶった議題を仲間の前に取り出して、恐る恐る問答をはじめた。入部から数年後の、遅すぎる通過儀礼だった。
◆そうして、いつのまにやら(だからこそ私は面白いと思っているのだが)、誰が興味を持つのかわからない「神の山」に登ろうと躍起になっていた。一方で、すぐには変わらない探検部の雰囲気や方向性とのギャップに相変わらず苦しみ、悩み続けた。部の中核を担うようになっていた私に、その責任があることもわかっていた。
◆今回、地平線会議で報告することが決まってから、目的が達成できていない現状での「未熟な」報告に対する不安が頭をもたげていた。もちろん、地平線会議の報告者、という憧れの席に座ることへの純粋な緊張もあった。しかし、「俺が(報告して)良いと言ってるんだから」という江本さんの言葉を信じ、胸を借りるつもりで報告の舞台に飛び出した。早稲田の後輩たちに「先を越されていた」こともあり、ここで遠慮や気後れをしている場合でもなかった。
◆そして、今回も周囲のサポートのおかげでなんとか、報告を終えることができた。実際の発表については、反省点でいっぱいだ。あれも、これも、言い忘れたし、あれは、余計だったかもしれない、と。些か自分語りに過ぎる自己紹介に辟易された方もいたかもしれない。しかしながら、いろんな思いがないまぜになったこの活動に出会った経緯は省きたくなかった。
◆結果的にずいぶんと荒削りな発表になってしまったが、報告後に「面白かったよ」と言ってくれた方々の一言一言に、これまでのモヤモヤとした思いが昇華されていく感じがした。こんなことを言うと歴代の探検部の先輩諸氏に呆れられそうだが、私は、とにかく「探検」部員になりたかったのかもしれない。そのことを通じて、自分の所属する団体を、本来の「漢字の状態」に少しでも戻したかったのかもしれない。「たんけん」部ではなく「探検」部へ、と。私もまだ、現役部員だ。これからも、模索は続く。
◆ただ、そのことだけを目的とするためではなく、純粋に私の探求心を刺激し続けてくれている「トティコ」には、いつか詣でて直接礼を言わねばなるまい。ユワ(神)が私に微笑んでくれる日は来るだろうか。その前に、お礼を言いたい人たちがいる。まずは今回の報告の機会を設けてくださった江本さん、並びに地平線スタッフの皆さん、お忙しいなか来場してくださった皆様に、心からお礼を申し上げます。今回の報告会でまた新たな出会いがあり、いつも以上の刺激と活力をいただきました。本当にありがとうございました。そして、報告直前までサポートしてくれた笠原、今回もどうもありがとう。(五十嵐宥樹)
■法政大学探検部に所属している、辻拓朗と申します。先日の地平線報告会での五十嵐さんの話を聞いて、まず、トティコを見つけるまでの過程として、探検部への入部の経緯、探検部に入る前の五十嵐さんのことについて語っていたことが、印象的でした。五十嵐さんの現在行っている探検は、五十嵐さんがトティコの存在を知るずっと前から始まっていたのだなあと思いました。そのように思うと、五十嵐さんのやっているトティコの探検は五十嵐さんにしかできないことなのだということを感じました。そして、自分にしかできないことがあることを羨ましく思いました。
◆また、五十嵐さんの話を聞いて、探検部員の理想形の一つだと思いました。私は現在、関東学生探検連盟で会長を務めさせていただいております。その立場上、他大学の探検部員と関わる機会が多いのですが、五十嵐さんのように、3年間という学生探検部としては長い期間をかけて、一つのテーマに取り組み続けている現役探検部員にはほとんど会ったことがありません(私の直属の先輩である岡村隆さんは50年近くやっておりますが……)。現役探検部員の多くは4年間でそれなりの事をして卒業しようと思っているように感じます。
◆五十嵐さんは「探検部員は軟弱とはいえ、探検家の末席にいることを忘れてはならない」とおっしゃっていました。心に刺さりました。探検家の末席にいるとはどのようなことか。私は、情熱をもって未知なる対象と真摯に向き合うことではないかと思いました。そして、それを五十嵐さんは体現しているように見えました。このような現役探検部員が存在することを、同じ現役探検部員として非常に嬉しく思い、私もそうでありたいと思いました。
◆私は仙人に興味を持ち、仙人伝説の舞台になっている道教の聖地「洞天福地」の調査を、計画中です。仙人は道教の理想の人物像のようなもので、洞天福地は仙人伝説の舞台になっている洞窟です。中国の古典に話が載っているのですが、その多くは現状どうなっているのかわかっていません。伝説の中で登場する洞天福地を現地に行って確かめることで、伝説の元となった現実や仙人の実像を垣間見ることができるのではないかと思っています。
◆こんなことを言うのはおこがましいですが、五十嵐さんのトティコのお話は私のやろうとしていることと似た物を感じました。どちらも自然を対象とした調査ではありますが、その対象はどちらも人に崇められ、人と深く関わってきたものです。そして、神話や伝説と現実の間に存在しているその対象の実像に迫ろうとしています。
◆更に、今回の五十嵐さんのお話では、カレン族の起源に関する話の中に、カレン族は中国から来た説があったり、イノシシの化け物の角で作った櫛には人を不老不死にする力があったり(不老不死は道教で重要な概念の一つ)といった道教と関係ありそうな話がありました。これを五十嵐さんに話したところ、ロイコーでトティコやポゴコの話をしてくれたお爺さんは、トティコの麓の17の村で信仰されている宗教は道教なんじゃないかと思うと言っていたという話をしてくれました。
◆もしかしたら、五十嵐さんの探検と道教はつながっているのかもしれないと思い、非常に嬉しく思いました。また、道教の影響力の強さに驚きました。道教がビルマまで伝わっていたのかはわからないので、道教の東南アジアへの伝播について少し調べてみようかと思います。「探検部員は軟弱とはいえ、探検家の末席にいることを忘れてはならない」。私もこの言葉を忘れず精進していきます。最後に、今回このような面白い話を、私が現役探検部員である今、現役探検部員である五十嵐さんから聞く事ができて非常に良かったと思います。今後の五十嵐さんの探検に期待しています。五十嵐さん、今回の場を用意してくださった地平線会議の皆さん、本当にありがとうございました。(法政大学探検部第55期 辻拓朗)
■五十嵐宥樹君。2013年夏に北大探検部に入部。自分は当時彼の一年上の部員だった。入部当初はただ大学をサボって部室に入り浸りギターを弾いているような準不良学生で、野外へは積極的に出ていなかった記憶がある。彼が本格的に探検に収束し始めたのは2年目の春、根室半島沖の無人島への上陸を目指して活動を始めてからだった。何で火がついたのかわからないが、その頃の彼は毎回会うたびに取り憑かれたように島の話を逐一報告して来たため、なぜこんなに頻繁に話す機会があるのに毎回違う新情報を仕入れてくるのか、と純粋に驚いた。
◆当時の北大探検部は外部に発表できるような報告を出せない時期が長く続き、行き詰まっていた。2015年から「各部員が中長期的なテーマを持ち寄り、メンバーを募集して外部に発表できるような活動をしよう」という動きが始まり、その第1号が今回の発表に繋がっている。彼はとにかく「俺は現役時代にこれをやったんだ」と言える活動をやりたいと常々口にしており、トティコ探検はまさにそれに値するテーマだった。
◆当時の印象的な会話を最近よく思い出す。彼がトティコ探検を始めた頃に私もサハ族の神話に登場する鍋型の構造物についての探検を計画しており、彼にこう言っていた。「自分はこのテーマに5年でも10年でもかけて良い」対して五十嵐君は「ひぇ、まじすか、鍋に?」と反応。結局自分は1年で行き詰まってしまったが、彼は足掛け4年、このテーマに本当に真摯に向き合っている。自分のテーマ・土地・人間に対して並外れた真摯さと責任感を持って活動を続けている点が、五十嵐君の探検の一番素敵なところだと思っている。今回の発表を聞いて、改めてそれを実感した。
◆そして、現役の大学探検部員として、計画段階の今、地平線会議で報告をしたことは彼の探検にとって1つの突破点になったと確信している。それは大学探検部というムラから外の世界へ出るための門であり、また個人的な記憶と感傷を文字記録として一旦確定するための装置として機能する。純粋な学術研究であれば論文を発表し記録として残す機会はいくらでもあるが、探検や冒険といったテーマでそれができる場所は本当に少ない。
◆最後に、彼の活動を間近で見て来た同輩として感想を記します。「ただ純粋に悔しい」。本人が活動の中のいたる所で苦しんでいることは想像できるが、今でも会うたびに「この間あそこで〜〜してきたらこんなことがわかったんですよ、へへっ」と逐一報告してくるのを聞く度に悶々とさせられています。この先ももっと悶々とさせてくれることを期待しています。(岡田 原 五十嵐宥樹君の先輩)
■僕が五十嵐さんに初めてあったのは今年2月の地平線報告会である。北大の探検部であり、ミャンマーの少数民族をテーマにしているという。初対面である自分にも丁寧で、また北海道より遥々来て、少しでも多くのものを吸収しようと奮闘している姿に少なからず憧れを抱いた。その1か月後、僕はミャンマーへ旅行に行こうと思い、カレン州について御教授願おうと、その時頂いた名刺に書いてあったアドレスに連絡をしてみた。メールには僕のような浅学非才のものにも真摯に対応する五十嵐さんの人柄が表れていた。
◆そして、今回の報告会。その軽妙洒脱な話の中に、嬉々として未知のものと向き合う探検部員としての矜持を感じた。文献を熟読し、東京や現地での調査でも少しずつ実感を得ている。僕は3月の旅行が終わり、魅力的なこの国をこれから自分なりにみていきたいと思った。今はその準備段階にある。僕がこの旅行の中で感銘を受けたのは、ミャンマー人の優しい人柄と強い信仰心だ。五十嵐さんはまさに、この探検の中で多くの未知や人との邂逅があり、またそれを繋ぎながら「聖なる山」へ挑んでいる。観光ではみることのできないミャンマーの新たな側面を五十嵐さんの活動を通してみられることを願っている。(濱口諒)
■五十嵐さんの報告の中で印象的だったのは、「葉脈」という言葉だ。出会いの葉脈と言えばいいのだろうか。人と人が出会うとき、それまで点の存在でしかなかったものが線となり、そこを起点にしてまた新たな線が伸びていく。その軌跡を振り返ったときに見えてくるのが、出会いの葉脈だ。「ここに辿り着くまでにいろんな出会いがあり、どの出会いが誰を導いてくれたかをしっかりと覚えている」と嬉しそうに語られた報告は、言葉の向こうに彼の出会いの葉脈が垣間見える素晴らしいものだったと思う。
◆報告後の「この(探検の)後は何を探求していくつもりなのか?」という質問に対する「今はトティコに集中しているので、次のことは考えていない」という言葉も潔く、彼の探検に対する誠実さが伝わるものだった。そんな彼の報告を聞きながら僕の脳裏をよぎっていたのは、「手段としての探検ではなく、目的としての探検」という言葉だ。彼の旅は誰かに見せることを前提としているものではなく、自分が知りたいことを探求するための旅。誰に見られなくたって、知られなくたって、自分のやりたいことをやればいいのだ。それこそがいつか世界に穴を穿つものになるのだと僕は信じている。(光菅修)
6月2日〜7日、ブータンに行ってきました。ごく短い日程なのは、夫の休暇取得の限度と、ブータン旅行の費用が高いからです。
知らない人も多いかと思いますが、ブータンは外国人(インド人以外)観光客の自由旅行を認めていません。旅行するには事前に日程を申請して公定費用(1人1日200〜290米ドル。時期と人数による)を払う必要があります。航空券も高くて、経由地のバンコクからブータンへの往復チケットが10万円以上もするので、たった3泊4日でも1人30万円近くかかるうえ、滞在中は常にガイドも同行、ドライバー付きの車で移動しなくてはなりません。その点は北朝鮮と同じですが、理由は観光客を制限することによって、自然破壊や外国資本の開発から守るためだとか何とか。
今回、現地で3泊4日という短い滞在で、古い建物が残る田舎の村・ハ、首都ティンプー、空港のあるパロの3ケ所に泊まり、一通りの観光コースを巡っただけです。たったそれだけでブータンを語るのはおこがましいのですが、私なりの旅の感想を書かせていただきます。
東南アジア諸国には世界的に希少になった自由な犬がまだ生息していますが、ブータンはその中でも最たるところです。輪廻転生を信じているので、「前世は自分の先祖だったかも」と、犬どころかすべての生物を大事にします。虫もなるべく殺さないし、釣りもご法度。その代わり、自分が手を下さなければいいそうで、インド人が売っている肉などを普通に食べています。
犬たちはベトナムやラオスのように食べられることもいじめられることもないので、実に幸せそうに路上で暮らしています。みんな人懐こくて犬好きにはタマリマセン。首都ティンプーのど真ん中でもウロウロしていて、ごはんももらっているし、それなりにワクチンや不妊手術もされています。野良犬を獣医に連れて行けば無料(どころか少額のお金ももらえるそう)で不妊手術をしてくれるとガイドさんが言ってました。実際、痩せてみすぼらしい犬もいなかったし、子犬がワラワラいるという場面も見かけませんでした。
朝早くには掃除の人が町をキレイにしていて、あれだけたくさんの犬がいるのに、犬のふんを見かけることは一度もありませんでした。「世界一幸福な国」との触れ込みのブータン、人間にとってはわかりませんが、犬にとっては間違いなく世界一幸せな国だと思います。日本で山口県周南市などで放浪する野犬が問題になっていますが、ブータンではごく普通の風景です。
インドに大きく依存している実情も目の当たりにしました。国の主財源の電力(水力発電)はインドが買ってくれているし、インド軍も駐在、インフラ関係もインドはじめ諸外国の援助。観光客のほとんどもインド人です(インド人はビザもパスポートも不要。1人1日200数十ドルの公定観光費用も不要)。ブータン人もインドの学校に留学するケースが多いなど、インドにおんぶにだっこ状態なのに、ブータン人はプライドもそれなりに高いので土木工事などはやりたがらず、インドからの貧しい労働者が従事しています。彼らは何年もブータンに滞在しているのにバラック小屋に住んでいて、ブータン人はそういう彼らを下に見ているという矛盾した構造が垣間見られました。その代わりチベットの二の舞にならないよう、中国とは断絶しているようで、今や世界中を席巻している中国人や中国企業、中国製品も見かけません。ネパール系住民迫害の問題も、隣のシッキム王国がインドに併合されたことから危機感を抱いたからなのですね。大国の狭間に位置する小国が独立を保つための、苦渋の策なのでしょう。
お墓がないものびっくりでした。理由は輪廻転生を信じているからで、人が死んだらお骨は粉にして川に流し(幼子は鳥葬もあり)、骨粉の一部は土と一緒に小さな仏塔(サーツァ)を108個作って故人ゆかりの場所やお寺などに置きます。土なのでそのうち自然に戻るというシステムです。また、故人ゆかりの場所に、ダルシンという白い細長い旗を108本建てますが、これも1年ほど(場合によって3年)で撤去するそうです。私もこの方法でいいなあ、と思いました。
ほかにも、いろいろありますが、長くなるのでこのへんで。夫がブログを書いてますので、詳しくはそちらを見てください。写真もたくさんあります。< a href="http://pocoken.com/?p=23979">http://pocoken.com/?p=23979
お金に余裕ができたら、今度はブータン東部へも行ってみたいです。(滝野沢優子 「地平線犬倶楽部」会長)
江本さん、ご無沙汰しております。関西大学探検部OBの西川です。『地平線通信』をいつも楽しみながら拝読しております。
6月22日に、岡村隆さんの「スリランカ密林遺跡調査報告〜日本仏教の源流を求め、未知の遺跡を探して50年〜」講演会を関大文学部学術講演会として開催しました(文学部と探検部の共催)。当日は、探検部員とOB、文学部学生、他大学の探検部OB、スリランカや仏教遺跡に興味のある一般の方々など、大勢の皆様にお越しいただきました(登山家の和田城志さん、スリランカの建築家ジェフリー・バワを研究している工学部教授なども)。50年に渡る調査活動の様子や、スリランカの小乗仏教が日本の大乗仏教に与えた影響についてなどの興味深いお話で、来場者の皆さんはとても満足されていました。現役部員の刺激になったと思います。現役のみならず年配のOBたちも、70歳を超えても遺跡調査を続けておられる岡村さんの姿に憧憬と尊敬の念を抱いたようです。例えば、森林ジャーナリストの田中淳夫さん(静岡大探検部OB)は、「このような古典的探検をやってみないなあ。まだチャンスはある」と。
以前より、関西では地平線会議のような集まりがないので、関西在住の探検部関係者向けに何かイベントができないかと考えておりました。そして8年前、極地冒険家・荻田泰永さんを関大にお招きし、他大学の探検部や山岳部の学生にも呼びかけて講演会を開催。思いのほか好評でしたので、年に一回くらいのペースで開催しようと思っていたのですが、実現できずにおりました。
今年2月、岡村さんの植村直己冒険賞受賞を知りました。2011年のスリランカ遺跡調査の学生隊(隊長:菅沼圭一朗さん。今回の講演会に東京から参加)に関大から1名参加したこともあり、岡村さんに講演をお願いしたところ快諾してくださり、今回の講演会が実現したのです。
懇親会では、探検談義に花が咲き盛り上がりました。その後の二次会でも、岡村さん、菅沼さん、私と一緒に北米大陸1万kmカヌー縦断航行を行なった安川晶浩(第11回地平線会議報告者)などと、あれやこれやと積もる話が続いたのでした。
ところで、探検部がらみで紹介させてください。
7月7日(日)23時25分からの「情熱大陸」(TBS系列)で関大探検部OBの田中彰(渓谷探検家)が出演しました。田中は、私の18年後輩。現役時代は、マダガスカル熱帯雨林樹上探検の活動を行っていました。樹上で30日以上生活しながら林冠部に生息する動物などの観察を行い、樹上間移動1000mを達成しています。撮影記録は生態学研究の貴重な資料となり、研究者から高い評価を得ております(その時の撮影担当は、現在、NHKエンタープライズのネイチャー関係ディレクター)。田中は学生時代から木登り技術に長けていたと聞いております。今はキャニオニングの第一人者。もう番組は終わってしまいましたが、ご記憶ください。
では、また機会があれば地平線会議に出向きます。(西川栄明、関西大学探検部OB、編集者)
★西川さんは、地平線会議が出した探検冒険年報創刊号『地平線から 1979』に「関西大学探検部の北米大陸縦断カヌー航行」の原稿を記録している。
■江本さま、昨日、私の報告が掲載された通信が届きました。いろいろな方の感想も載せていただき、ありがとうございました。たくさんのお時間をいただいたのに、終わってから考えると、あれも、これも話さなかったなあと悔いが残りましたが、参加者の皆さんが真剣に聞き入り、何かしらの感想を持ってくれたこと、大変、嬉しく思っております。とても、貴重な機会をいただけたこと、心より感謝申し上げます。またお会いできる機会が来ることを願っております。(金沢に向かう新幹線の車中で 長倉洋海)
■7月13日(土)に、「岡村隆さんの植村冒険賞受賞を地平線流に祝う会」を開催します。会場は、新宿区四谷にある「新宿歴史博物館」。1時15分開場、1時半開演です。「岡村隆クロニクル」と題して、探検家・岡村隆がいかにしてできあがったのか、その形成過程を岡村さん自身と多彩なゲストによるトークショーで浮き彫りにします。ゲストは、関野吉晴さん・岡村節子さん・恵谷眞保さん・街道憲久さん・境雅仁さん・菅沼圭一朗さん・宮本千晴さんらを予定。いつもの地平線報告会と同様、会費500円。事前の申し込みも不要です。直接会場にお越しください。詳しくは地平線のウェブサイトで(www.chiheisen.net)。
★新宿歴史博物館:
〒160-0008 東京都新宿区四谷三栄町12-16
最寄り駅は四ツ谷駅(徒歩10分)と四谷三丁目駅・曙橋駅(徒歩8分)です。
■先月13日から16日まで阿佐ヶ谷で開かれた長野亮之介さんのミニ個展「J.風そよぐ庭」は、「じゅんこのにわ」に関する絵がたくさんありました。淳子さんが旅立って1年。友人達が“大地の再生工事”に汗を流した庭はうれしくなるほど変わっていました。個展では、長野画伯によって、一木一草が名前とともに描き込まれていました。油絵は、庭の植物たちをバックに寛ぐ猫たちです。一番目を引いたのは、ピンクの人型が庭に佇んでいる不思議な絵です。風通しの良くなった庭の真ん中に立つピンクの女性は、縁側にいる私たちに語り掛けるようでもあり、こちらに飛んできそうであり、庭に誘っているようでもあります。
◆その絵を見て、思い出しました。淳子さんのお葬式の日、側にいた霊感の強い友人が教えてくれたこと。「大丈夫だよ。亮之介さんの肩にピンクの光が見える。淳子さんがちゃんとついている」。それを聞いて、悲しみにくれていた私たちの心は本当に和らいだのです。そして、ピンクの淳子さんに支えられ、亮之介さんは立派に喪主を務めあげました。
◆「じゅんこのにわ」には、今までいなかったアマガエルがやってきたり、山椒の新芽の勢いに圧倒されたり、どんどん増える蕗や力強いクリスマスローズの株等、ささやかだけどその変化にワクワクします。蚊はまだまだいなくならないけれど、ピンクの淳子さんが見守るこの「にわ」には、これからもたくさんの人が集ってくることでしょう。私が願うことは、関わってくださった方々が、この「じゅんこのにわ」を「足元の自然」のひとつに入れてくれて、環境を考えるときの指針のひとつになればうれしいなと思うのです。
◆淳子さんが元気だった頃、自由な時間が取れたら、一度私の大好きな土佐に行こうね、と話していました。夫山田和也の故郷であり、世界の川を知る山田高司さんを育てた土佐は、いまや私を虜にしている素晴らしい世界です。今年も7月7日の七夕当日、土佐にいました。朝6時、近所(須崎市)で開催している日曜市にでかけます。地元の人しか来ない朝市で大量に野菜を買い込みました。昼からは浴衣に着替えて、汽車で高知市内へ。「高知の城下で蔵めぐり」というイベントに初参加。高知の日本酒の蔵元と市内の居酒屋がコラボして、自慢の日本酒に自慢の料理を合わせて提供してくれます。もうほんとに泣きそうなくらいおいしかった。
◆ほろ酔いで汽車に乗り、須崎へ着いたのが夜7時。家(山田の)の前にある醤油屋の若女将が始めた七夕のイベントへ参加。この辺りには七夕に藁で作った馬を飾る風習があるのです。この若女将は、地元のおじいさんに藁馬の作り方を習い、地元の小学生にそれを教え、今年は「高知藁馬マップ」を作って展示していました。そして、あのハルウララをモデルにした高さ1mの大きな藁馬を密かに作っていたおじいさんをくどき、若女将は藁馬ハルウララをギャラリーに展示してました。ご存知と思いますが、ハルウララは高知競馬で連戦連敗が大人気となったはちきん馬です。あーおもしろい! こんなヘビーな日はめったにないのですが、なにかありそな高知通いがやめられません。江本さんもぜひ来てくださいね。バッチリご案内しますよ。(本所稚佳江)
■いつも楽しみに「地平線通信」を拝読させて頂いています。送られてくると、1か月経ったのだな〜、今月はどんな内容なのだろうと、ドキドキしながら封を開けます。ちなみに今までの通信は全部保管しております。毎号熱くなる内容で、力が湧いてきます。京都に引っ越して1年半、元々実家が京都の平安神宮近くなのですが、東京で26年生活しました。東京の生活も充実して、色々な経験が出来て楽しいものでした。
◆地平線会議の事を知りえたことも大きいです。最初は関野さんの「プージェ」を見たのがきっかけだったような……。今は北野天満宮近くに住んでおります。自転車で西陣界隈や中京界隈を走ると、まだまだ知らない京都に出会う事が出来、わくわくすることが多い京都です。たかが京都、されど京都、恐るべし京都。その京都で「地平線報告会」が出来ないかと思っています。ただ、寂しい事は「地平線報告会」に出れないことです。
◆通信だけでなく、やはり「直接話を聞らきたい」。東京までは行けないが、京都なら行けるという人が居るはず、「地平線会議」を知らない関西人も多いはず。京都は大学も多いですし、年配者はもとより、若者にも「地平線会議の存在」を知ってほしいと思います。変な事件の多い今の日本、世の中には様々な人が居て、夢や冒険を実現している人が居る。そんな人の話を直接聞けるなんてこんなチャンスそうありません。同じ思いを共有できる知人が出来ることは、この上ない幸せです。実現に向けて発信していきます。(田中惠子)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。
水落公明(いつも地平線通信をお送り頂きありがとうございます。最近の誌はボリュームが有り読み応え十分。毎月読むのが楽しみです。引き続きよろしくお願い致します!)/野口英雄(10,000円 通信費5年分。いつも楽しく読ませて頂いています)/中村易世/阿佐昭子(4,000円 ついつい先伸しになってしまう通信費! 昨年と今年の分です。地平線通信を読みながら心の冒険をやってます〜♪★阿佐さん昨年分はいただいています★)/ 藤本亘/三森茂充/五十嵐宥樹/光菅修
■こんにちは! いつも声をかけて頂きありがとうございます。私は、河口慧海の足跡を追い、西ネパールに通うことをライフワークにしている稲葉香です。私の住む大阪・千早赤阪村の奥千早では、標高が約450mで天然のクーラーが最高の季節となりました。その千早赤阪村から2冊の自費出版をしたことをお伝えさせて頂きます。まずは、『未知踏進』〜稲葉香の道〜(A4サイズ・14ページ・写真付き)1000円。こちらは、私の旅の記録です。18歳でリウマチが発症し日常生活が困難になり、24歳で仕事をやめてベトナムの旅に出た。
◆ベトナム戦争の傷痕に衝撃を受け、病気を受け止めるきっかけができ、28歳で植村直己氏に傾倒しアラスカの旅へ。30歳で河口慧海を知り運命だと感じた。何故なら河口慧海もリウマチだったから。リウマチになったのは、慧海に出会う為だったのだ。1本の見えない糸が見えたかのように慧海を追う旅が始まった。その後、色んな出会いが駆け巡るようになり、ただいま46歳となりましたが、今もその真っ最中とも言える。ご縁だけで生かされてるような私の人生の流れを表現している。
◆もう一冊は『Mustang&Dolpo Exp.2016 〜河口慧海の足跡を追う 500km踏破』(A5サイズ・46ページ・写真付き)1500円。こちらは、2016年に河口慧海の足跡を忠実に辿り、慧海が越境したであろう峠クン・ラまで歩き、国境からはUpper DolpoからLow Dolpoを出来るだけ村を経由して横断し、約60日間で500km以上を歩いた時の報告書から編集してあります。この遠征への思いは、一言で言えば、Dolpoの大御所様(故・大西保氏)への追悼の思いがありました。興味ある方は出発前の私のブログを見てください(Himalko keti Dolpo&Mustang Exp.2016で検索)。
◆そして、今年の秋、最大の夢への出発を決めました。地平線通信でも何度か書かせて頂きその中で最後の一言に、次は「Dolpo越冬」と呟いてきました。それを今年の秋に決行します。その出発に向けて自費出版したというわけです。その売り上げ全てを遠征費とする計画です。通信販売も可能です。ご希望の方は、 、住所を添えてメールを下さい。送料別でお支払いは郵貯銀行となり追ってご連絡させて頂きます。
◆売り上げ全てを今年のDolpo越冬計画の資金とし制作しましたが、自分の繋がりだけでは世界が狭いと感じ、「クラウドファンディング」というツールを使って、出来るだけ多くの方の手に渡れば次のチャンスへ繋がるかも?!と思い立ち上げました。すで地平線会議で出会った方からのご支援も頂いております。この場を借りて心から感謝しております。ありがとうございます。
◆まずは現地で全力で活動する事で、感謝の思いを表現したいと思います。クラウドファンディングのサイトでは、私の活動を分かりやすく作成していますので、 宜しければ見て頂けると大変嬉しいです。稲葉香クラウドファンディングで検索をお願いいたします。(https://camp-fire.jp/projects/view/155616)このプロジェクトは、目標金額に関わらず、2019/8/17までに集まった金額でファンディングされ計画は実行します。どうぞ宜しくお願いいたします。
[自費出版]
■地平線通信482号は6月12日に印刷、封入作業を行い、翌13日郵便局に引き取ってもらいました。作業に汗かいてくれたのは、以下の皆さんです。
森井祐介 車谷建太 高世泉 伊藤里香 八木和美 松本敦子 坪井伸吾 中嶋敦子 青木麻耶 二神浩晃 白根全 光菅修 松澤亮 江本嘉伸
◆車谷さんは今回も早めに榎町地域センターに来て、森井さんがレイアウトを済ませたページの印刷にあたってくれました。最後のフロントページが仕上がるまで時差があるのでとても助かりました。このほかに名簿作成を杉山貴章、宛名印刷をかとうちあきさんがやってくれました。分厚いとは言えない通信にこれだけの精鋭が参集してくれるのが地平線会議のすごいところだ、としみじみ感じます。毎度おなじみペルーから帰国直行した白根全さんは「とにかく寝ないで時差ぼけを直すための参加」と言っていましたが。
■今年になって、すでに2回死にそうな目に遭遇している。標高4500メートル、半径20キロ無人地帯のペルーアンデス山中で、15メートルぐらい先に落雷! 腰を抜かしたその翌日、釣り竿片手に氷河湖の岸辺を歩いていたら、堅そうに見えた足元の地面が突然崩れて3メートルほど下の水面に転落! 全身ずぶ濡れで凍死し損ねた。来週から今年3回目の南半球出撃となるが、この場合「2度あることは3度ある」なのか「3度目の正直」なのか、微妙に危険が怖い今日この頃でござる。なんて自虐ネタはどーでもよいが、現地で垣間見た「あり得ない現実」を書き残しておかないと、心安らかに眠ることは出来そうもない。
◆さてさて毎回、地平線通信のお原稿は発送前日、校了3時間前に書き上げて送信などというほぼ犯罪行為を続けてきたが、これまた毎回のように森井祐介大権現さまの華麗なるレイアウト・マジックの荒業で何とか紙面に収まってきた。が、オリンピック騒ぎに賑わうブラジルからの現地レポートは、時差を計算し間違えた結果、E本編集長の手元に届いたのが発送当日。もちろん掲載は翌月にずれ込んだが、さすがにそこは元・某新聞外報部記者の嗅覚で現場ネタの重さを嗅ぎ付けたのか、フロントページにその一部が抜粋された。詳細は2016年10月12日発行の地平線通信450号(地平線風趣狩伝314ページ)、および451号の改訂版をご参照願いたし。
◆「皆さま、締め切りはきちんと守りましょう……」で始まるこの改訂版お原稿は、もしかすると日本語で書かれた初のベネズエラ難民現地レポートだったかも知れない。超弱小マイナー紙媒体とはいえ、何事も初めてはエライ! 日本の新聞雑誌ほかメディアで関連記事を目にしたことは皆無だったが、その時点ですでに日常生活が破綻し国外を目指す難民化したベネズエラ人が、静かに押し寄せるさざ波のように、ひたひたと周辺諸国の国境を目指して移動し始めていたのだ。現時点でその数は何と400万人! しかも、さすがに魔術的リアリズム=あり得ない現実の本場だけあって、現政権は「我が国には国外に脱出する難民は存在せず、したがって難民問題も存在しない」と開き直っている。400万人が消えてしまったのだ。
◆政権のトップに君臨するニコラス・マドゥーロ大統領は元バスの運転手。チャベス前大統領の弾除けになって死ぬことも辞さない異様に忠実な側近というだけで、後継者に指名された。キューバの政治大学で学んだこともあり、キューバべったりの路線を継承。アメリカにとっては、もっとも忌むべき存在でもある。もちろん、その前に世界屈指の埋蔵量を有する石油利権があることは言うまでもない。
◆野党勢力が支配する一院制国会のフアン・グアイド議長は、自ら暫定大統領に就任。待ち構えていたアメリカが即承認し、人道危機を懸念するEU諸国があとに続いた。もちろん、アメぽちハポンも追従したのは想定内。グアイド議長率いる反政府勢力は軍に呼び掛けてクーデターを仕掛けたが、結局軍は動かず企画倒れに終わっている。これまでに30人ほどのベネズエラ人にインタビューしてみたが、共通するのは軍がもっとも美味しい麻薬利権を独占しているからだとのこと。ただし、あまりに出来すぎた構図で真偽のほどは不明のままだ。今までのラテンアメリカ相場感がまったく通用しない、極めて特異なケースだろう。
◆国際移住機関IOMと国連難民高等弁務官事務所UNHCRから6月末に出された共同声明では、EU諸国に庇護申請を提出したベネズエラ人は1万8400人、シリア難民の次に多いことが指摘された。急速に祖国を脱出する状況が驚くべき次元に達していると、まるで他人事のような報告だ。周辺諸国は、否応なしにけた違いの難民を引き受けざるを得ない。2015年末で総数70万人を数えた難民(移民を含む)は、3年半後の現在コロンビア130万人、ペルー76万人、チリ28万人、エクアドル26万人、ブラジル16万人、アルゼンチン13万人などなど、残りはメキシコ、パナマ、中米・カリブ海諸国に避難した。総計400万人、これが一応は公式の数とされているが、実際ペルー一か国ですでに100万人を超えるベネズエラ人を受け入れている。
◆餓死寸前で生命の危機が蔓延する状況から脱出する人々を、寛容に受け入れている周辺諸国の太っ腹な姿勢と努力には敬服すべきものがある。もちろん、同じスペイン語圏というのもあるが、共通する信仰や人道的な立場だけでは到底説明しきれない状況だろう。ペルー人やコロンビア人いわく、内戦やテロがひどかった80年代から90年代にかけて、産油国で政治経済の安定していたベネズエラに脱出する国民が多数いた。今こそ困っているベネズエラ人にその恩返しをしないと、という素朴な義務感が大きいようだ。これだけの膨大な難民がさほど問題化してこなかったのは、周辺諸国に大きなトラブルなく溶け込んだからともいえるだろう。だが、それももはや限界を超え、衝突やヘイトなどが多発するようになりつつある。というところでやはり時間切れ、続きは現地からということで、何とぞよしなに。(Zzz-カーニバル評論家)
6月末の朝日新聞読者投稿欄に《先生 私を忘れないでね》と題された一文が載った。「私には大好きな先生が沢山いる。昨年、中学校のときにお世話になった国語の先生が亡くなり、お葬式に参列した」という書き出しで始まる文は、葬儀で披露された恩師の多様な側面に接し、知ったつもりでいた先生の人生のほんの一端にしか接していなかったことに愕然とした思いが綴られる。先生にとって自分は大勢の中の一人かもしれないが、恩師を一生忘れないから、先生も覚えていてねと呼びかけるような言葉で結ばれていた。
この「国語の先生」は昨年亡くなった妻の淳子のことだ。投稿した高校生の名前が参列者名簿にあった。淳子は私学の中高一貫の女子校で36年に渡って教鞭をとっていた。その間、どれほどの数の生徒と交流を重ねてきたのだろうか。件の生徒は学校での彼女の姿しか知らなかったと嘆いたが、逆に僕は学校での彼女の姿を知らない。どんな先生だったのか?生徒たちの心にどんな人物像を結んでいるのだろうか?
5月には別の教え子からも自宅に手紙が届いていた。淳子が20代の頃に教えた生徒からだ。同窓会の機関誌で訃報を知り、覚えず筆を取ったと言う。当時結婚したばかりの淳子と多感な年頃の女生徒たちの可愛らしい応酬のエピソードなどを交え、亡くなる前に淳子が地平線通信に寄稿した「生ききりたい」という文章に心動かされたことが記されていた。同僚の先生が学校の機関誌に転載してくれたのだ。「先生が余命を宣告されてから自分の命と向き合い、そして自分がどう生きるべきかよく考え、答えを出し、実践された、そのお心の強さに尊敬の念を抱き、失礼ながら私は初めて長野先生はやはり私の先生だったと思ったのでした。長らく疎遠だった私にもこんなに大きな影響を及ぼす先生の生き様を私は心から誇りに思います」と奇麗な手書き文字で綴られていた。
生前あまり知らなかった淳子の職業人としての顔を、こうした様々な形でこの一年耳にしてきた。その度に僕の知らなかった彼女の姿が浮かび上がる。人は人生で出合うそれぞれの人の中に違った像を結んで生きているのだ。そんな一面を知ると、故人となった妻と今も新たな交流を結んでいるように感じる。
故人との交流といえば、5月に報告をしていただいた写真家の長倉洋海さんのお話は僕にはとても示唆的な内容だった。長倉さんの被写体であり、盟友とも言えるマスード司令官が暗殺で命を落としたのは2001年の事だ。まだ49歳の若さだった。以来長倉さんは多様な仕事の中でマスードの足跡を辿るような旅を続ける。繰り返し訪れるアフガニスタンでは、マスードの息子がリーダーシップをとる世代となり、時は淡々と流れていく。しかし今でもマスードとの新しい出会いがあるのだと長倉さんは言う。当時は意味も分からず夢中で撮った写真に偶然写った表情やしぐさ、状況などが、あとになって雄弁に何かを語りかけて来る事が何度もあった。マスードの写真や言葉の中には亡くなって何年もしてようやく分かる沢山の「発見」があるというのだ。「その発見をするためには、自分も旅を続け、成長していく事が必要なんだ。旅は苦行なんだけどね」。
淳子は僕にとってずっと恋人であり、考えを共有できる同士であり、そして「師」でもあった。15歳で出合った時から芯にアネゴ的な落ち着きがあり、精神的にいつもずっと先を歩いていた。ただでさえ社会的な常識に欠ける僕は、彼女の言葉や考え方に影響を受けた。がんと分かった時も「死は怖くないけど、まだちょっと早いなー」と言う。死が怖くないなんてどうして言えるのか、今もよく分からない。マスード司令官も「年を取るのは自然な事で怖くない」と言っていたそうだ。
淳子は亡くなる少し前に医師から提案された点滴や酸素吸入も断り、「このまま、自然で」と言った。それを聞いた医師は「この人は全部分かってるんだな」とつぶやいた。そして彼女は日常の喧噪の中でゆっくりと息を細くしていき、静かに旅立った。
この一年、自宅の庭の手入れを仲間たちと続けてきた。淳子が愛した庭だ。雑木林一歩手前のような野趣に溢れているが、生き物の気配に満ち、飼っている七匹の猫たちが狩りをし、居眠りをし、自由を謳歌する様が見られる家庭のサファリだと思っている。彼女が逝ったあと、仲間たちと土壌改良をし、剪定をし、竹垣を結んだ。亡くなる直前に彼女が直接大工さんに注文したベランダと縁側も完成した。この庭をテーマにした個展を6月18日の命日に合わせて開催したところ、前述した昔の教え子が来てくれた。その場で手渡された手紙にはこんな言葉が。「あの行動力のある淳子先生は今も亮之介さんの背中を押して、私が支えているから形ある世界であなたにできる事をやってと言っているような気がします。(中略)そうやって私たちは今しばらくは大切な人たちに支えられながらこの世に生きて、自分にできる事をやっていく役目なのだと思います」。恩師である淳子の言葉がいつかわかるように、僕も今しばらく人生の旅を続けていこうと思っている。(長野亮之介)
■7月2日、宮城県南三陸町から佐藤徳郎元区長が東京に立ち寄った際、しばしお会いした。高台の新しい家に移り、ほうれん草栽培は軌道に乗っているが、たまには元仮設住宅のお仲間と親交を取り戻したい、と3.11直後の支援活動で知り合った山梨県の民宿へマイクロバスで出かける途中、寄ってくれたのである。とても元気だった。あの日から8年。縁が続いていることが嬉しい。
◆7月4日は、地平線会議に手作りケーキを送り続けてくれた原典子さんの一周忌だった。宇都宮に住む典子さんとはご主人の健脚ランナーであり、ビオラ奏者の原健次さんとともに我が家に来てくれたのが最初の出会いだった。健次さんが亡くなった後も地平線会議を大事にしてくれ、クリスマスや記念の大集会など何度も美味しいケーキを焼いてくださった。私はそういう心を忘れない。
◆ご長女の戸田由紀子さんに連絡を取ったら、「一周忌法要は、6月23日、浄土真宗観専寺で行いました。お寺にお供えするお菓子とお花を実家の近くのお店で買ったのですが、どちらの店主も母のことを覚えていてくださり、早すぎましたね、と母を偲んでくださいました」。地域に尽くした母を一年経ったいまでも垣間見ることができました。一周忌法要の日は、天気に恵まれ、親戚と子どもたちとその家族と23人集まり、お寺で和やかに行われました」と丁寧な返信があった。お供えの花束には、母の好きだった「ひまわり」を入れてもらえるようにお願いした、とのことでなんだか安心した。典子さん、由紀子さんありがとうございます。(江本嘉伸)
都会の山のハイジ
「〈アルプスの少女ハイジ〉とか、〈赤毛のアン〉に憧れる少女時代だったんですけど、気がついたらシカやイノシシの肉をさばいて食べる暮らしが普通になって…」というのは服部小雪さん(49)。 美大を出てイラストレーターという暮らしを一変させたのは、後にサバイバル登山家となるパートナー、文祥さんとの出会いでした。都心に居を構えながらも、「イノシシに乗って私の人生に殴りこんできたみたい」な野生児との家庭は、世間一般的な便利さを享受する生活とは真逆でした。 3人の子育てをする中ででも、子供にとっては地面に近い草や木や昆虫といっしょくたな生活の方がフツーと気づきます。「私も好奇心が旺盛で、子どもたちと一緒に成長したんですね。地べたに世界が広がっていく感じでした」と小雪さん。 それでも、夫が狩猟をはじめたときは「ついにきたか!」と衝激を受けました。ところがいざ食卓に血まみれの肉が登場すると、おいしさに幸せになるのです。「シカにとって最悪の事態が私のシアワセになる。誰かの命で生きていることを実感したんです」。 今年5月に上梓した画文集『はっとりさんちの狩猟な毎日』では、発見と驚きに満ちた暮らしを綴りました。女性に向けて書きましたという小雪さんに、今月は服部家の縄文時代的(?)な日常風景を語って頂きます! |
地平線通信 483号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2019年7月10日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
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