5月 15日。昼前、開聞岳の麓の懐かしい家と電話で話した。鹿児島県指宿市山川町のお宅。つい先日訪ねたばかりなのだが、その後どうなったのか、断然気になる状況なのだ。その理由は最後に書く。
◆4月の半ば地平線通信480号を出してから久々に屋久島に向かった。登山家の戸高雅史君のリードで大川(おおこ)を1ビバークで遡行し、第2の高峰永田岳に登ったのが今世紀のはじめだったと思う。あの時は、兄貴から譲り受けたばかりのキャノンの一眼レフをビニール袋にしまう直前、清流に落としてしまう大失態をやらかした。ああ、命の代わりをしてくれのだ、といつものように慰めたが、以後屋久島の谷遡行とカメラ流しは私にはセットの言葉になっている。
◆今回は、久々に縄文杉の風景に浸りたい、あの木々の匂いに包まれたい、という結構切実な気持ちがあった。大勢が目指す“有名杉”でなくていい。永田岳からの下り、誰もいない山道であれほど見事な杉の巨木が次々にあらわれた風景。あの現場に一瞬でも触れてみたかった。そして、もちろん、シカやサルの生き物たちとの対面も。あれから20年、いまでは島にはガイド暮らしをする野々山富雄、小学校の先生となっている新垣亜美という頼もしい地平線島民がいて私にはしみじみいい時間となった。
◆とりわけ雨である。「屋久島には月35日雨が降る」といわれるほど降雨が多いことは知られているが、期待に違わず、しっかり降られた。小気味よくざあざあと降るのである。この雨に打たれたくて来たのかもしれない、と思った。モッチョム岳の麓の「尾之間(おのあいだ)」温泉に入ったらお湯の熱いのにびっくりした。近隣の人たちが愛用する温泉銭湯で家には風呂なし、というお宅も多いそうだ。屋久島の日々については、新垣さん、野々山君の2人に任せよう。
◆3泊して屋久島を離れる際は楽しみがあった。あの「トッピー」に、ついに乗れるのだ。宮之浦港から目指す指宿まで75分で到達する高速艇。ずっと昔から乗ってみたかった憧れの船である。日に7便あるとかでチケットは確保できた。鹿児島港ではなく、私が目指す指宿に直行するのがいい。水中翼船というのはどんな乗り心地なんだろう、と子供のようにときめくが、乗船して席についてがっかりした。シートベルトをしっかり締めてしまうとそのまま身動きとれないのである。ええ? 甲板から自由に見られるのではないの? 船艇が浮く姿が見られるのでは、と期待していたが、不勉強であった。
◆席は進行方向右手で、錦江湾を突き進んでいる。左手に見えるはずの、私が一番楽しみにしている開聞岳(かいもんだけ)がこれでは見えないではないか。開聞岳は、薩摩半島の南端に位置する標高924mの火山である。『チベット潜行1939』の著者、野元甚蔵さんを訪ねたのが27年前。その後、取材を離れてご家族ぐるみでおつきあいいただき、野元さん自身、高齢を押して2回も地平線報告会に足を運んでいただいた。2015年1月31日逝去。97才だった。以後もご家族とは親しくさせてもらっていて、実はことしどうしてもお宅を訪ねたい状況が起きた。丘の上のカフェ「紫苑」の開店である。
◆野元さんのお家は、錦江湾を見下ろす小高い丘の上に、開聞岳を眼前にして建っている。交通量は比較的多い。野元さんが亡くなったあと、しばらくは末娘の菊子さんがひとりでがんぱっていたが、ことし長女の中橋蓉子さんが千葉から夫婦で故郷山川町に引っ越した。なんと家を改造して姉妹でカフェ「紫苑」を開くことに決めたのだ。店の名に思いがこもる。紫は母幸子さんの大好きだった色、それに甚「蔵」「蓉」子、「菊」子に共通する「草冠」をとっての命名という。
◆私が訪ねたのはその1週間前の大変な時期で、お二人の決意を祝いに行った感じである。大変な時期にはいない方が役に立つ。菊子さんに頼んで車で開聞岳の麓まで運んでもらった。もう10何回目になるだろうか。やはり開聞岳に挨拶してこよう、と考えたのだ。螺旋状の山道をゆっくりたどる。眺めのいいことは掛け値無し。はるか浜辺には砂蒸し温泉も見える。いつもの倍近い時間をかけて麓にたどり着いた。ふーむ。あと何回登れるだろうか。
◆翌日は、歩いて海岸を目指す。野元さん宅から30分ほどで砂蒸し温泉「砂湯里」に着いた。800円払うと浴衣をくれるのでこれを裸の体にまとい、砂場に横になるだけでいい。あとは専門の係りがシャベルで上手に砂をかけてくれる。あっと言う間に体が温まり、汗が流れ出す。じっとしていること15分、なんとも熱くなってきたので自分で砂を壊して脱出、水風呂で砂を流し、とぼとぼ歩いて帰った。
◆「紫苑」は4月25日開店。さきほどの電話によるとまずまずの反応らしい。「昨日は17人来てくれました」と蓉子さん。四分の一世紀おつきあいいただいた開聞岳の麓の、親戚のようなお宅が元気になっていることが嬉しい。夏5月。屋久島も山川町もまさに風薫る。(江本嘉伸)
■2019年4月26日の夜。平成最後の地平線報告会は、3人の女性旅人の目を通してこの30年を振り返るという試みだ。報告会の前半では3人がそれぞれどんな旅をしてきたのかを語り、後半で鼎談をする。進行役の長野亮之介さんが「平成元年(1989年)は天安門事件やベルリンの壁崩壊など世界が変わった時期。インターネットが登場したのもこの時代」と話すように、激しい変化に満ちていた平成。そんな時代に国内外を旅してきた3人から、どんな話が飛び出すのか?
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◆1人目の報告者は染織家の中畑朋子さん。艶やかな着物姿で、うす緑色の江戸小紋にエスニック柄の帯、イチイの木で自ら染めたというオレンジ色の帯揚げが映える。飛騨高山に暮らす中畑さんは、染織の仕事にもっとエネルギーを注ぐため、長年勤めた特別支援学校の常勤講師を今年3月に辞めたばかり。日本大学探検部出身の中畑さんが初めて長期の国外旅に出たのは、大学卒業後の1987年。「最初に訪れた天安門広場では自由な雰囲気が印象的でした」。チベットのラサで人々が歌ったり巡礼したりする光景を目にした後、ネパールへ渡り、さらにヨーロッパへ。三つ編み姿で子供のようにも見えた中畑さんは、「ネパールではシェルパに間違えられ、ヨーロッパへ行くとペルーの子だと思われて隠し撮りされたりもしました」。
◆その2年後、天安門事件が起きた。それと対照的に、ドイツではベルリンの壁が壊された。「こんなふうに国が変わり、世の中が変わるのだなと実感した初めての出来事。それまでの自分は何となく生きていましたが、人生について深く考えるようになりました」。何か自分の専門分野を持ちたいと思い、東京でテキスタイル専門学校の夜間クラスに2年通って染織を学んだ。卒業制作は草木染めの絣(かすり)。見た人からアジアの雰囲気がすると言われ、「旅の影響が出ているのかなと思うとすごく嬉しかった」。布のことを学んで以降に出かけた旅では、「自分の立ち位置が定まって旅の楽しさが増し、民族衣装や織りの光景の写真を撮ることが増えました」。
◆その頃朝日新聞に掲載された広告に、中畑さんが執筆した旅に関する文章が使われた。それが縁で、世界的なテキスタイルデザイナーの新井淳一さんから群馬県桐生市の工房に招かれ、約1年勉強する機会を得た。その後もっと染織を深めたくなり、故郷の高山へ戻ることを決断。地元で生活しながら、ラオスのビエンチャンにある染織工房を訪れるスタディツアーのスタッフに5年間選ばれ続けたり、JICAの短期専門家としてネパールへ8か月間派遣されたりと、布を通じて国内外を行き来するようになった。
◆ネパール産の物品を売るフェアトレード会社からの依頼により、現地で新しい布地を作るプロジェクトにも参加。誕生した布で作られた服は現在も売られているという。そんな中畑さんが近年関心を持っているのが「裂き織り」。古い布を5ミリくらいに裂いて緯糸に使う手法で、貧しい暮らしの中で最後まで布を利用するために生まれた知恵だ。「新しいものを生み出すよりも、古いものを利用しながら新しいものになっていくのが面白い」。
◆1995年の阪神大震災やサリン事件、2011年の東北大震災を経て、「いつどうなるかわからないのだから自分が向きたい方向を向いていたい」と、地元高山で市民活動にも積極的に関わっている。作品を三越デパートに出品したり、今年2月には飛騨の仲間と京橋でグループ展も行った。報告会会場には中畑さんの作品が飾られ、震災の年に虹をイメージして織った「オーバーザレインボー」や夜明けをイメージした「サンライズ」、また裂き織りの新作など、大判の布が色鮮やかだった。
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◆2人目の報告者は、「今日は緊張すると思い、ドーピング(ビール)を飲みすぎたかも……」と、ほろ酔い気味の野宿愛好家かとうちあきさん。「私、幼稚園を3か月で辞めてしまったんです。けれど小学校はどうやら辞められないらしくて」。それまでは呑気に好きなように生きてきたのに、幼稚園や学校に入ると集団で皆一緒のことをさせられる。そして先生が権力を持っている。クラスの中で何も言えなくなってしまったかとうさんは、戦争ものの童話を読むのが好きだった。「自分は疎開したらやっていけないだろうし、赤紙が来たら戦争からは逃げられない。やばいぞ!と思った」。ちょうどその時期、天皇が崩御された。日本中が自粛ムードに包まれる様子に衝撃を受けた8歳のかとうさんは、「ものが言えるような人になりたい」と思った。その体験が自身の原点になったという。
◆「父親は熱血サラリーマン、母親は専業主婦でうっ屈している。私はなるべく働かず結婚もせず、1人で楽しく生きていきたいものだと、うつうつしていました」。高校生になると、ちょうど世間に女子高生ブームが到来。しかしかとうさんは制服も着たくなかった。「自分たちで価値を見出していないのに。おっさんが、お前ら価値があるって言ってるようなものなのに」と反発を覚え、対極にある(と感じた)野宿旅を高校1年生の夏に決行。
◆映画「イージーライダー」や「スタンドバイミー」に憧れ、道路の側溝で野宿しながら、横浜から熱海までをクラスメイトの女の子と2人旅。その後は1人でも野宿するようになり、「暇なので色々な人に話しかけることになるし、野宿場所もなんとか見つける。野宿旅の面白さに目覚めた」。それから入学した法政大学は野宿同好会まであって、わりと誰も彼もが野宿していた。ところが卒業したとたん皆が野宿をしなくなり、「学生のうちだから」「いい経験になるから」と聞くたびに疑問を感じた。
◆卒業後、かとうさんはミニコミ誌「野宿野郎」を創刊。5号目でインタビューした坪井伸吾さんから地平線会議の存在を聞き、初参加したのが2006年の報告会。「報告者の賀曽利隆さんがハイテンションでニコニコしゃべっていて、聞いている人もおじさんがたくさん。えらいところに来てしまった」と思ったが、二次会で面白い人たちと出会える場だとわかった。「戦前を生きて旅を続けてこられた金井重さん、野宿仲間の熊沢正子さんなど、旅する女性たちと出会えたのも嬉しかった」。そして好きなことをやっていけばいい。いけると思えるようになったが、なぜか遠出の旅をだんだんしなくなった。
◆地平線会議では冒険家の安東浩正さんたちと「野宿党」を結成し、三次会野宿が恒例に。「皆で野宿するのは楽しいし、やると見えてくるものがある」。たとえば野宿会場の鶴巻南公園では毎朝4時半に掃除の人が来て、6時にラジオ体操が行われるが、それは野宿しているからわかったこと。「とにかく路上が好き。路上に出ると面白いことが起きる」。というわけで最近は新橋駅前で「24時間野宿」をしたり、近所の商店街公認で「チャリティー野宿」を始めていたり(8年も前から!)、「新元号を勝手に決めちゃおう野宿」もしたりしている(野宿野郎的新元号は「底迷」に決定!)。
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◆3人目は生きる旅人、ライダーでライターの滝野沢優子さん。「中畑さんが着物を着ると聞いたので対抗しようと思って」、信州大学農学部園芸農学科と書かれた黒色の半纏を着て登場。これまで訪れた国は119か国、バイクで走った総距離は26万km。「バイク旅が素晴らしいのは好きな時に好きなところへ自由に行けるところ。旅行者と客引きが群れるバスターミナルに立ち寄る必要がなく、田舎町を通ることになるので素朴な普通の人たちと知り合えるのが魅力」だと熱弁。
◆現在は福島県在住の滝野沢さんだが、生まれ育ったのは東京の下町。「信州大学に入ったのは、旅先として魅力的だったから。旅する感覚で大学を選んだ」。大学時代は125ccでオフロードを駆けまくり、当時まだ珍しい女性ライダーの走りだった。卒業後は21日連続休暇という触れ込みに惹かれて就職するも、実際は思うように休みがとれず退社。一大決心し、ワーキングホリデーでオーストラリア1周旅へ出たのが1987年のこと。現地ではバイトしたお金で中古バイクを購入し、最後の4か月間をツーリングに費やした。そうして得た情報を日本のガイド本に書いたところ、2年後にオーストラリアツーリングが大ブームに。当時はバブル全盛期で、仕事を辞めて旅に出ても再就職しやすかった。
◆帰国後は親から「どこでもいいから会社に入って」と懇願されたが、滝野沢さんはライター業をしながら旅を続ける生き方を選んだ。「平成になった日の夜、次の時代はもっと旅しよう! と心に決めながら都内をバイクで走ったことが忘れられません」。その年に起きた東欧革命にショックを受けた滝野沢さんは、今のうちに社会主義国を見ておきたいと東欧を巡る旅に出る。まず先進国ドイツでバイクを購入し、東ドイツ(当時は統合前)、チェコスロバキア(当時はひとつの国)、ルーマニア、ユーゴスラビア(分裂前)などを周ると、一時帰国を挟んでサハラへ移動。「東欧でもアラブ世界でも女1人旅は珍しがられ、旅先ではいつも現地の人から親切にしてもらえました」。旅の終着点コートジボワールでバイクを売って帰国した。
◆ロサンゼルスからブラジルまでのバイク旅では4万6000kmを走破。帰国後35歳になっていた滝野沢さんは、南米旅行中に知り合った今の旦那様と結婚。結婚後は2人(ときどき1人)でツーリング旅を続けている。2001年からは夫婦一緒に4年かけ、シベリアルートでユーラシアを横断して中央アフリカへ。ほぼ陸路で移動しインドで旅を終え、帰国した2005年に福島県中通りへ移住した。そして2011年の大震災が。「自宅は大規模半壊でした。放射能汚染も少なくなく最初は逃げようかとも思ったのですが、ここに留まろうと決めました」。
◆原発事故後、動物が大好きな滝野沢さんが始めたのがペットレスキュー活動。「福島に住んでいて、動物たちのために私が動かなかったら後悔しちゃうんじゃないかと思って。活動を通じて福島がどう変わっていくのかを見届けようという気持ちです」。余談だが、奈良で仏師をしている私の友人は、偶然にも滝野沢さんに救われた犬を引きとって可愛がっている1人。ペットレスキュー活動のおかげで元気を取り戻した犬たちは、彼のような全国各地の新しい飼い主のもとできっと大事にされているのだろう。
◆大震災をきっかけに滝野沢さん夫婦は、「終わりを意識するようになった」。今好きなことをやらなくちゃと、旦那様は仕事を辞めてまた旅へ出た。「“いつか旅をしてみたい”と言う人がいます。でも人はいつ死ぬかわからないし、そのいつかは来ないかもしれない」と滝野沢さん。自身は思いきり旅して生きてきたので、親の介護がスタートした時も辛さを感じなかったという。「だからもし皆さんが家族から旅に出たいと言われたら、反対しないで行かせてあげてください」と締めくくった。報告会会場には、滝野沢さんが撮りためた世界各国の街中に暮らす犬の写真が30枚も貼られ、犬たちの表情が凛々しかったりのびのびしていたりして、つい見入ってしまうのだった。
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■後半は報告者3人の鼎談。「平成はコミュニケーションツールが大きく変わった時代。電子メールが日本で可能になったのは1985年、日本で最初のホームページが発信されたのは1992年、Amazon設立が1994年、Google設立が1998年。その結果、旅のかたちは変わったのでしょうか?」と長野さんが問いかける。
◆「ベルリンの壁崩壊直後に東欧を旅した時は、情報なんて何もなかった」という滝野沢さんが最近旅先で感じるのは、「皆ネットで地元の友達とつながっているので、旅先で新しく友達を作らない。ブログやSNSをやるのに必死で今その場にいる人と話さないし、絵葉書を出さなくなったような気がします。安宿の評判も予約もネットで完結できる現代は、リアルな人と話す必要性が減り、もったいないと感じます」。
◆スマホを持たない中畑さんは一昨年にタイのチェンマイを旅し、現地で地図が入手しにくかったことに驚いた。「ある本屋でやっと見つけた地図は埃をかぶっていて。現代の旅人はスマホで地図を見ますが、私は大きな地図を広げて自分のいる位置を確かめるのが好きなんです」。さらに「衣食住のことだけ考えていれば良いのが旅の面白さでもある。だけど食も住もすぐにネットで調べられる今は、失敗しないというつまらなさはあるかなと思います」と中畑さん。
◆続けてかとうさんは、「私が遠出の旅行をしなくなったのは、そういうこともあるのかもしれません」。高校生の時の日本縦断旅では重いものを持って歩くのがきついので、持参した日本地図を使い終わったページから破って捨てていた。「でも今はGoogleマップさえあればいい。それはすごいことで。Wikipediaで調べれば無人駅かどうかなどの駅舎情報もだいたいわかる」。でもそこで予定調和にならないのが野宿の良さだといい、「野宿は外でするものだから、やっていると警察が来たり酔っ払いが乱入してきたり、イレギュラーなことが常に起こる。それが面白くなって、旅行ではなく野宿が特化してきたのが今の私だと思う。むしろ野宿が面白い!」。
◆「情報のアウトプットについてはどうですか?」と長野さんに尋ねられた滝野沢さんは、「ネットのおかげで、私は旅先で原稿を書いて仕事が成り立ちます。アフリカ旅の最中も1か月で10万円ほど稼いでいたので、4年も旅を続けられました」。中畑さんは今回の報告会の告知をFacebookに載せたところ、友人たちから「昔の旅は面白かったよね」というコメントが寄せられたといい、「30年前の旅の不便さを懐かしがる人が多いんだなあと知りました」。
◆今と昔を比べることがこの報告会のテーマではないが、情報が手に入りにくかった時代は、他の人が知らないことを足を使って先に知り得たというのも確かに事実。20年前から『ツーリングマップル関西版』の地図作成を担当してきた滝野沢さんによれば、「昔は旅先で暇だったし情報がなかったから、とにかく人に話しかけた。でも今は怪しがられたりします(笑)。デジタルなナビが存在しなかった頃は紙の地図を見て自分で探し歩くしかないし、道中で予想外の出来事もたくさん起きた。そうして旅がふくらんでいく面白さがありました」。
◆「ネットというフィールドで、偶発性のような旅っぽいことができれば面白いのではないかなあ」と、かとうさんは話す。野宿イベントをSNSで告知すると知らない人も集まってきたり、「何かください、何かあげます」とTwitterで発信するとブツブツ交換が成り立つ。「ご近所でやっていた貸し借りが今はネットでできる。そういうことをやっていかないとネットは面白くないんじゃないかな。それにプラスして、本当にその場所に行くという行動をバランスよくやっていくのがいいのではないでしょうか」。
◆会場で話を聞いていた江本嘉伸さんからは、「世界中にデジタルなナビが張り巡らされていて、チョモランマから連絡が来たりもする。結論はわかりませんが、紙媒体の世界で生きてきた我々は今どエライところにいるのですね」と感想をのべた。誰かが作ってくれた便利なナビをどう利用するのか、しないのか? 旅の本質が問われる時代なのだろう。
◆とはいえ、時代が変わっても紙媒体は生き残るはず。鼎談の最後、平成時代に影響を受けた本を1人ずつ紹介することに。中畑さんがまず挙げたのは、戦後28年間グアムに潜んで生きのびていた横井庄一さんの本。「横井さんは木の繊維をとって手作りの織り機で布を織っていた。戦争終結を知らされ日本に帰国した時には、自分で織った服を着ていたんです」。さらに今年閉館した浅草のBOROアミューズミュージアム名誉館長・田中忠三郎さんの『物には心がある』や、民族文化映像研究所名誉所長・姫田忠義さんの『ほんとうの自分を求めて』からも感化されたという。
◆滝野沢さんにとっては、バイクに乗り始めた頃に憧れていた伝説の女性ライダー、堀ひろこさんの本たちが宝物。当時、堀さんの本を持ってご本人の店に行き、ドキドキしながらサインをもらったのだとか。かとうさんが選んだのは、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』。「自分が体験できない感覚を持っている人たちがいて、生まれ持ってそこに生きていない限り、旅をしてもわからないことがあるのだということを教えてくれた本」。上野千鶴子さんにも影響を受けたそうで、「とくに『女嫌い ニッポンのミソジニー』はぜひ男性にも読んでほしいです」。
◆通常の2時間半コースでもっと聞いていたいと思わせられた3人それぞれのお話だった。そして報告会の5日後、時代は令和に突入。平成の始まり方とは対照的で、お祝いムードいっぱいの幕開けに。さて新時代、令和の旅はどうなるのだろう? それはもちろん、やってみないとわからない!(大西夏奈子)
■この30年(長い!)を振り返るという御題。旅の話をしながら、まるで自分の人生を披露するみたい? ちょっと恥ずかしい。設けられた時間はひとり30分。短くて、緊張する余裕もありません。叔母の形見のお気に入りのキモノを着て、非日常感をもって、ちょっと高揚して愉しく話せました。
◆旅の始まりは、日大探検部入部に遡ります。入部理由は「ひとりで旅ができる人になりたかった」(by18歳の私)。報告会の後、共感のメールをくださった方もいらっしゃいましたが、聴きに来ていた友人の言葉にはハッとしました。「当たり前のことなのに、なにを言ってるんだろうと思ったよ」。そういえば、大阪や京都へは中学生の頃からひとりで行っていた。海外ひとり旅だって、力まなくてもできたかな……。
◆経験の少ない若い女子には難しいことと思い込まされていたように思えてくる。これって、正に女子が旅をしづらかったあの頃の、報告会200回記念の大集会でもテーマになった「女の行動学」の話再びという感じ? 敵は外じゃなく、私の中にいた! 今更な話ですけどね……。でも、もしかしたら今も、「無理〜」と思い込んでいる何かがあるかも。この春、「やりたいことに時間を使おう!」と、働き方を変えたところなので、ちょいと確認が必要ですね。もっと自由になっていいはず!
◆「中畑朋子」を継続しているうちに、上書きしたのか別ファイルにしていたのか、すっかり忘れていた何年間かがありました。報告会のために古い写真を掘り起こして、30年間をしみじみ懐かしんだり少し悔やんだり。思い出せてよかった。当時、ただ旅をしたかったのだけれど、人の暮らしや文化に興味があったのだと写真を見て実感。過去を振り返ることが未来を考えるきっかけになる。私の中の旅とモノづくりは並行して必要なのだと思いました。横井庄一氏、田中忠三郎氏、姫田忠義氏から影響を受けたことにも表れていますよね。
◆染織の専門学校を卒業した後の旅は、学ぶこと知ることが重要でした。今、あと何回旅に出られるかな、なんていう年齢になって、布は大好きだけれど、それだけを旅の目的にしなくてもいいなぁって思っています。根が真面目なので、有言実行しなくちゃと(ねばならぬ的に)、行動を考えてしまいがち。思いつきや直感を大切に、ちょっといい加減にね。準備不足や話の展開等、反省は諸々ありましたが、あららっと気づく、いいきっかけをいただきました。今年は転換期になりそうです。さて、これからの30年? 自分でも楽しみです。(飛騨高山在住 中畑朋子)
■報告会では酔っ払いで、申し訳ありませんでした。全然喋れないし、後半は関係ないこと喋っちゃうし。って、お酒のせいではなくて、全部おのれが悪いです。ちょっとだけと思っていたら、中畑さんのお話を間近に聴いていて、最初どきどきしたり、力のこもったところにぐっときたり、自分が報告者って忘れる瞬間があったりで呑みすぎちゃって、気づいたらすごく酔っぱらっていて自分でもびっくりした、というのが正直なところです。お酒を必要としたのは、緊張しいなので、少し勢いを借りたかったからです。本当にすみませんでした。自分は卑近なことばかりに興味があって、なんなんだろう、とか、考えています。20代までは旅の中でする野宿、一夜の宿を探していく行為が面白いと思っていたのだけれど、30代になって「公共」ってことを考える上でも(というか、考えざるをえなくなる感じで)、日本で野宿するのは面白い行為だなって思うようになりました。ゲリラ的に場が立ち現れる感じとか、あちこちで野宿するのは面白いなーって思っています。一方で、いつもある場のようなものも欲しいと「お店のようなもの」というスペースを始めたりしました。路上で寝たり物を売ったりするとすぐ警察が来るけど、建物の中に入ってしまうと意外と無法地帯ですごいとか、いらないけどまだ使えるものを意外と多くの人は贈与したいんだとか、気づいたことがあります。「地平線会議」はすごい能力のある人たちの集まりで、なんなんだろう、とずっと眩しく眺めているのですが、わたしが喋っていた時は「報告会のようなもの」になっていたと思う。それについては非常に反省しているのですが、普段は「のようなもの」って概念が好きなので、能力がないのはどうしようもないし、低クオリティでも気にせず、好きなことや面白いと思うこと、生きやすくなるようなことをやっていきたいです。中畑さん、滝野沢さんの、真摯でアクティブなお話を聞けたのが、嬉しかったです。地平線で、旅する年上の女性たちの存在を知れたことは、わたしにとってとても大きいことでした。あと、4年くらい前に悩みが多かった時、長野淳子さんとお話ししていて、「とはいえ20代より30代のほうが楽しいです」と言ったら、「40代、50代ってもっと楽しくなってくるよ」って、淳子さんは実感として言ってくださった。その言葉も、いまのわたしを明るく照らしてくれています。(加藤千晶)
■こんにちは。先月の報告会、3者3様でどういう感じになるんだろう、と報告者の一人である私も心配でしたが、いつもと趣が違ってそれなりに楽しんでいただけたかな、と思っています。ただ、それぞれ30分ずつの自己紹介では足りなかったですね。もっと深く知りたい点も多く、もったいなかったと思います。同じ報告者の中畑さんやかとうちあきちゃんのこと、何度も顔を合わせていて何をしている人かは知っていたものの、今回初めて具体的な行動歴や考え方を教えてもらい、改めて人となりを知った次第です。
◆私自身に関しても、報告会の前々日に別件で坪井伸吾さんと話したとき、「最近、地平線会議に出入りしている人は入れ替わりもあるし、その多くは滝野沢優子のこと、まして海外をバイクで旅したことを知らないかも」って言われました。たしかに、ここ最近はあまり報告会にも顔を出していないし、福島のことばかり話したり通信にも書いたりしているから、旅人と思われていないかも。私としては、平成時代は旅に明け暮れていたので、やはり私の旅のことを知ってもらいたいと、急きょ、プロフィール&旅歴に加え、福島のペットレスキュー関連のことを書いた記事のコピーを配布させていただきました。
◆中畑さん、ちあきちゃんに関しても、簡単な資料を皆さんにお渡ししておいたほうがよかったのではないか、と思います。また、私は「好きな旅を思う存分やってきたからこそ今までの人生に後悔はないし、母の介護も前向きにできた。だから、旅に限らずやりたいことは後回しにせず、やれるときにやるべきだ」、というようなことを伝えたかったのに、なんだかうまくまとめられなかったのが残念です。
◆後半の対談(?)は司会の長野さん、助っ人の江本さん、丸山さんのアイデアでなんとかなった(?)ようで、ありがとうございました。それにしても、私を含め、地平線会議に関係している女子メンバー、それぞれに個性的で興味深い面々ですね。
★追記 勝手に私が近年撮影した、アジアのワンコの写真を展示しましたが、楽しんでいただけたでしょうか? 実をいうと、私が江本さんにそそのかされて作った「地平線犬倶楽部」なる幻のグループもありまして、ひそかにブログもやっていました(ずいぶん更新はしてませんが「地平線犬倶楽部」で検索すると見られますので、よろしくお願いします)。(滝野沢優子 福島県天栄村)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。なお、「1万円カンパ」への協力者リストに当方の手違いで漏れている方がいました。尾上昇 高野孝子 田村玲子の皆さんです。ほかにもおられるかもしれません。 今月も何人かの方が「通信費」として1万円をまとめて振り込んでくれています。月々の出費は意外に多く、こうしたカンパは地平線会議を支えてくれています。
藤田光明(4,000円 2年分です)/久富ゆき(10,000円)/滝村英之(4月号の「…宣伝はしません。青年たちよ、嗅ぎつけて来なさい」同感です。これからも注目しています)/花岡正明(20,000円)/佐藤安紀子(10,000円 引っ越しました。令和もまたよろしくお願いします)/村田憲明(毎月届く地平線通信、40年続く毎月の報告会、今もゾモTで継続されるネパール支援、本当にすごいです。敬意を表します。令和の時代も長く続きますように。掲載は不要です。→「声」として掲載させてもらいました。ご了承を)/川野好文/神谷夏実(10,000円 5年分)/伊沢正名 (10,000円 5年分)/瀧本千穂子(5,000円 2年分+カンパ)/鈴木泰子/小原直史
この1、2年、地平線報告会に学生の姿が目立つ。北大で教えていた澤柿教伸(たかのぶ)先生が3年前、法政大学に移ってきてからの試みで4月の報告会にも10人を超える学生たちが参加した。澤柿さんとは2002年の「国際山岳年」で日本委員会事務局長だった私を助けてくれた時以来の縁がある(当時は北大助手だったと思う)。地平線は大学生を特待する場ではないが、澤柿さんの仕事ぶりを少しでも知っている身としてその思いを受け止め、できる協力はしたい。今回、一つの試みとして地平線のことを何も知らない学生たちに何を感じたか書いてもらった。数が多いので全文収録とはゆかず、重複する部分は私の判断でバッサリ削った。そして、ゼミの学生たちを地平線に送りこむ理由について(すでに以前の通信に書いてもらっているが)、この機会にあらためて澤柿先生に書いてもらった。(江本)
■地平線報告会にゼミ生たちを連れてくるようになって1年あまり、この春に新たなメンバーを迎え、さっそくこの4月の回に参加させた。折しも元号が変わる節目の回は、平成の時代を振り返る女性お三方の登壇であった。これに際して、今回の報告をゼミ生たちに書かせてみてはどうかと、私のゼミ活動に配慮いただいてきた江本さんから提案が舞い込んだ。あいにく私自身は所用で当日は参加できず、ゼミ生たちだけを手放しで向かわせることに一抹の不安を感じてはいたが、「通信は個人としての文章の集積」「個人個人の率直な感想がほしい」という江本さんの呼びかけに甘えて、彼らにやらせてみることにした。
◆「あくまでも個人の思いを正直に」とはいいつつも、読者も寄稿者も相当にレベルの高い通信にゼミ生が書く文章が掲載されることは、やはりゼミ活動の一端をさらしてしまうことになってしまうのは否定しようがない。私自身の文章も、「探検と冒険ゼミ」を標榜することにしたそもそもの経緯(470号)や40年目の節目と重なった奇遇(475号)という形で、昨年のうちに寄稿させていただいている。475号に書いた、地平線諸氏(そして江本さん)の胸を借りよう! という初志の思い切りの先には、こうして、指導教員としての責任と恐怖心が同時に渦巻く世界が待ち受けていた、というわけ。
◆475号への寄稿の中で「語りや記述を実感へと変換する“受容体”」について言及したのだが、江本さんから「あの“受容体”のことなんだけどさ」と話題を振られたことがあったのを思い出した。あれはどのときだっけ? と記憶をたどってみると、私の学生時代からの朋友である吉川謙二さんがアラスカから一時帰国したときの懇親会の席(昨年11月)だったことに行き着いた。残念なことに、吉川さんが挑戦しているトナカイ牧場の話題に花が咲きすぎて、その時の“受容体”の話は尻切れトンボに終わってしまっていたのであった。
◆字数の都合上、今回も“受容体”の詳細については省略するが、要するに「内角すれすれの球を恐れずに振りきるバッターを賞賛できるのは,時速140 kmの硬球をぶつけられたこのとのある人だけ」というように「物語を本当に楽しめるのは現実で様々な経験をした人」ということを言いたいのである。ネタを明かしてしまえば、この例えは、さる電子ゲームの攻略本に糸井重里氏が寄せたメッセージ中のもので、糸井氏はこれに続けて「ゲームはその外側につまってる宝物を掘りだすシャベル」だと述べている。「ゲーム狂=仮想現実世界への逃避者」のような捉え方が世間にはびこっているが、実際には、現実での経験がゲームをより魅力的なものにし、逆にゲームの経験が現実をも豊かにする、という趣旨である。
◆講義を受けたりゼミに参加したりしている学生にとっての大学もこれと同じで、アカデミアでの活動が現実世界とつながっていることを、はたしてどれだけの学生が気づいているのか、という「問い」がここに生じてしまうのである。教壇の側から学生の受講態度を眺めていると,仮想現実の世界に身を置いて一聴衆としてエンタテイメントを傍観しているように見えてしまう瞬間がしばしば訪れるのだが、その体験がさらにこの「問い」を強化してしまっている。
◆この「問い」に対して私が実験的に求めた課題は、すぐ目の前に冒険者とその本人が体験してきた「現実世界」が存在していることに報告会に来て気づけるか、報告会に参加した後に現実が違う風に見えるようになれるか、その上で自ら行動を起こして外側の現実世界に飛び込んでいけるか、ということであった。
◆地平線参加初年度を終えた現状としては,4年生の大半は「あそこと就活の世界のギャップが大きすぎる」といってこの3月に卒業していったし、参加2年目となる現3〜4年生には強制ではなく自主的な参加を呼びかけているものの、引き続き通おうとしているものは多くはない。そんな中、報告会に参加しつづけていたゼミ生の一人が、荻田泰永氏が率いる北極圏冒険ウォークに参加してバフィン島の600kmを歩ききり、つい先日の5月5日にゴールしたという知らせを送ってきてくれた。
◆こうした指導教員の悲喜こもごもを体験するに、地平線会議が「個人の体験」と「個人としての参加」という基本理念に根ざしていることに思いを致さざるを得ない。十年続けて百人に一人でも、卒業二十年後での気づきがあっても良い。「探検と冒険ゼミ」の成果をあくまで「個々の資質」に帰すものとして解釈し、「宝物を掘りだすシャベル」への気づきを与える機会を提供するだけでもその存在意義があればよいのだろう、と思っている。本通信に寄稿しているゼミ生は皆、地平線初体験者である。今後の彼らの気づきと変容に着目しつつ、2年目も引き続き「探検と冒険ゼミ」への見守りをお願いする次第。(澤柿教伸)
■今回初めて地平線会議に参加して周りは年配の方ばかりでこれからどんな難しい話がされるのか、わくわくもあったが不安が大きかった。今回話してくださったのは昭和から平成にかけて活躍した女性お三方。どんな堅苦しい話が来るのだろうと身構えていたが、1人はお酒が入っているし、他2人も終始笑顔で楽しそうに話してくださった。さらっと話してはいたが、3人とも常軌を逸した行動力の持ち主だと感じた。自分がやりたいと思ったことにまっすぐに生きているというのがひしひしと伝わってきた。
◆やりたいことをやるというのは簡単そうでとても難しいことだと思っている。今回の話では行動力というのが自分の中でのキーワードとなった。行動力の高い3人の女性が成功談をしている。身につけばどれほど良いものかと感じた。平成しか生きていない私にとって昭和は生きづらかったように見えていた。しかし、3人の話を聞く限り昭和という時代にしか体感できない様々なものがあったようだ。昭和と平成どちらがよかったかは一概には言えないものだ。令和はどのような時代になるのか、どんな方が活躍するのか楽しみだ。(中村響基)
■報告者の加藤千晶さんの発表にとても驚かされました。加藤さんは法政大学の社会学部卒であり、私の先輩に当たる方ですが、その生き方は私の理解を越えていました。加藤さんは中学で野宿旅に憧れて以来、さまざまな場所で野宿をしてきたそうです。発表を聞いていて、本当に野宿が好きなんだと感じられました。好きだからといっても、自分で行動し実行することはなかなかできることだとは思えず、その行動力には驚かされました。「良い経験になるからやっているわけではない」と話していた加藤さんからは、自分のやりたいことを好きにやるという意思の強さを感じました。
◆私は自分の気持ちを行動に移すことが得意ではないので、自分で人生を決断している加藤さんは生き生きとしているように思えました。野宿を通して、さまざまな人との交流や発見は、とても魅力的に感じます。公園で野宿をしたときに知り合ったラジオ体操をしに来る人々、そうじをしに来る人と顔見知りになったいう話は、野宿が人との繋がりを作る、良いイベントのようになっているのだと思いました。加藤さんの発表を聞き、自分とは全く縁のなかった野宿に関して興味を持つことができ、本当に良かったです。そしてその生き方について深く考えさせられました。(内藤捺美)
■今回、地平線会議に初めて参加させてもらい中畑朋子さん、加藤千晶さん、滝野沢優子さん、お三方の話を聞かせていただき、世の中にはこんな人生の歩み方があるのだなと驚くとともに、自分の世界の小ささを痛感しています。その中で中畑さんはJICAやネパリ・バザーロの要請でネパールにて変化織り、草木染めなどの技術を現地の人々に指導し、加藤さんは高校生の時から野宿の旅を始め「野宿野郎」という雑誌を作り、滝野沢さんは親の反対を押し切りバイクで世界中を巡るなど、自分のやりたいことをやっていて、とてもすごいと思いました。
◆やりたいことをやるというのは、簡単に見えてとても難しいことです。やりたいことをなすための行動力、本当に自分にできるのか?という不安を乗り越える勇気、目標を成し遂げるまであきらめない心、など色々な要素が必要になってきます。もし自分だったら、夢だけを見て実現なんてできなかったと思います。今回お話をしてくださった3人は、やっていることは違っても、3人とも一本の芯を持ったとても強い方々なのだなとお話を聞いて感じました。また、なにか一つのことを芯をもってやり遂げる姿は、自分を含め、今の若い世代へのお手本として、学ぶべきところがたくさんあるなと感じました。(野澤格)
■滝野沢優子さんの話を聞いて、私とは全く違う考え方をしてるのだと思いました。私は大学を卒業して就職してと安定した生活が1番だと思っていました。滝野沢さんはやりたい事は今やるのがいいとおっしゃってましたが、私は職場などをきってまでやりたい事をやる勇気がないです。ですが、色々な国の人たちと関われて色々な事が学べることはすごく貴重な体験だと思います。そういう体験はどこかで役に立つし、やっておいて損はないと思います。
◆もし、そういう体験ができるのであれば是非体験はしてみたいです。中畑さん、加藤さんが語ってくれた人生も滝野沢さんみたいに自分の人生を真っ直ぐに生きて行っててすごい人たちの話を聞けたなと思います。(西村紗紀)
■特に印象に残ったのは、バイクで世界中を旅した滝野沢さんの話だ。滝野沢さんがアフリカのイスラム圏の国々を旅行した時に、現地のイスラム教信者の男性が彼女にとても優しくしてくれたという話は私にとってとても衝撃的だった。今までの私の勝手な思い込みではイスラム教の男性が女性に優しくしているというイメージはあまりなく、むしろどちらかといえば厳しい戒律でがんじがらめにしているような印象を持っていた。
◆しかし滝野沢さんのお話を聞いて考え直すと、イスラム教で女性に対する戒律が厳しいのは決して治安がいいとは言えない環境で女性を守ろうとする意図があるのかもしれないということに気がついた。確かに情報伝達の手段はかつてとは比べものにならないほど発達しているが、その一方で得た情報を実際に確かめる力は進歩していないように感じる。私はこの地平線会議で実際に様々なことを経験してきた人たちの話を聞くことで、そういった思い込みや誤解を減らして行きたいと考えている。(石井朔彦)
■私は特に加藤さん、滝野沢さんのお話を聞いて、純粋に「行動力が桁違い」と思いました。特に加藤さんは、私たちとも比較的年齢が近かったため、興味が湧きました。何よりも本人が楽しそうに語っていたのが印象的でした。“ずっと一人旅なので暇で色んな人に話しかけていた”というお話からは、加藤さん本人のバイタリティに溢れているところが、今のステキな野宿旅を作り上げ、今の加藤さんを成り立たせているのだと強く感じました。
◆そして情報社会へと進んでいる現代社会についての話では、加藤さん以外のお2人が、何でもスマホに頼るようになってしまった現代をマイナス的に考えているのに対し、加藤さんはプラス的に考えていました。そこから、やはり時代の波についていくのは、若い人だと感じました。ちなみに私は、スマホなどの電子機器が苦手で、できるなら五感をフルに活用して、色々なものを全身で感じながら生活をしたいと日々考えています。
◆しかし現代社会で生きていくには、どうしても情報、ネットワークが必要です。今後情報社会が発展して、電子機器1つで何でもできる時代が来てしまうと思いますが、どうにか旅のような全身で感じることのできるものと、情報社会が共存できる道を探していきたいと思いました。( 大垣風香)
■以前、この会議に報告者として参加した澤柿教伸先生のゼミに所属する学生として、今回初めて地平線会議に参加させていただきました。事前学習として報告者3人をゼミ生で分担して調べたのですが、その際に僕が担当したのが加藤千晶さんでした。調べれば調べるほど、加藤さんは野宿を心の底から楽しんでいるということが分かってきましたが、今回実際に話を聞いてみて、加藤さんの野宿に対する熱量が想像以上で衝撃を受けました。
◆加藤さんは野宿について、「警察が自分たちを心配して話しかけてきたり、酔っ払いが途中で乱入してくるところが、旅行とは違って面白いところ」と話していて、ほとんどの人はそうやって警察がきたり酔っ払いが乱入してくるのは嫌だろうけど、加藤さんはそこに野宿の魅力を感じているのが凄いなと思いました。
◆また今回、3人の報告者の話を聞いて、3人の行動力の高さが印象に残りました。僕はやりたいと思うことがあってもなかなか行動に移すことができないけど、3人は自分のやりたいことに対して素直に行動に移していて、それが僕の心に響きました。こんないい経験をできる機会はなかなかないと思うので、地平線会議に参加できて良かったです。(安藤優月)
■ゼミで「地平線会議」というものがあることを聞き、今回初めて行きました。事前に調べ、実際に地平線会議に行き、話を聞いたにもかかわらず地平線会議に対して謎が深まるばかりでした。しかし、3人の女性のお話はどれも今までに私が聞いたことがないような体験談ばかりで、聞いてみてとても面白かったと思うと同時に、一度体験してみたいと思うようなお話ばかりでした。
◆3人の女性のお話の中で特に、滝野沢優子さんのお話は実際に経験してみたいと思ったり、今の自分に刺さったりするようなものでした。純粋にバイクに乗っている人はかっこいいな、自分も乗ってみたいな、と思いバイクツーリングを経験したいと思いました。でも話を聞いた後、海外に行った際に公共交通機関では行けないような場所に行ったり、自分の好きな場所に好きなタイミングで行けたりする、という部分はやっておこうとも思いました。
◆最後にお三方がそれぞれ平成を総括しており、平成は30年間という短い間で様々なものが変化してきたのだ、ということを感じた。私自身は平成11年に生まれて、そこまで何かが変わったということを実感はしていなかったが、今回お話を聞き様々なことが変わっていた、ということを感じた。平成最後の地平線会議に行き、貴重なお話を聞けて良かったです。今後もまた参加させていただきたいと思いました。(大川柚奈)
■事前に加藤さん、中畑さん、滝野沢さんについてグループに分かれて調べて発表をしていました。私は中畑さんの担当だったのですが、事前調べの時点では中畑さんだけ少し系統が違うのではないか、と思っていたため、どんなお話が聞けるのかとても楽しみにしていました。また、加藤さんについての発表を聞いた時は、ゼミの中のほとんどの子は「自分は野宿したくないと思った」という感想がほとんどでしたが、私は興味を持ち、やってみたいと思いました。中畑さんのお話の中の、「旅で得られたことが私の個性を作ったのだと思う」という言葉や、滝野沢さんの「生きているうちに好きなことを」という言葉ががとても印象的でした。
◆私自身、小さい頃から旅をしたいという気持ちはずっとあるのですが、なかなか実現出来ずにいます。また、大学1年時の英語の先生が、「旅は良い。一人旅だともっと良い。学生のうちに是非ともみんなに旅をしてほしい」と仰っていたため、最近はますます旅に出たいと思うようになっていました。しかし、女だから一人旅は危ないという理由でためらっていました。そのため、このタイミングでお話を聞けたのはとても有意義でした。自分の好きなことを見つけ、それを仕事にしているお三方はとても素敵だと思いました。私も学生のうちに好きなことを見つけられたらと思いました。(宇都宮和花)
■もうすぐ平成が終わるという4月末、法政大学の澤柿ゼミに入った私は初めて地平線会議にお邪魔した。会場は自分の目にはとても新鮮に見え、大学2年の私が来ていいのだろうか、経験豊富そうな男の人たちが大半を埋め尽くす。今回の発表者は女性3方、なるほど、前には発表者の1人中畑さんが織ったものと思われる繊細な織物が並んでいる。テーマは女性3方から見た平成30年ということで飛騨高山に住む染織家の中畑朋子さん、バイクツーリングで世界中を旅する滝野沢優子さん、そして野宿野郎でおなじみの加藤千晶さんがそれぞれの眼から見た平成を振り返っていった。
◆まずは3方共通していることについて、3方みなさんが自分が好きなことにまっすぐであると感じた。小さな頃からいろいろなことに興味をもち、その中で自分が熱中できるものに出会い今に至ってるのかなと思った。そして、それに関連したことを仕事とし、生きていけてるのもすごいなと感じた。今までのらりくらり生きてきた自分が考えさせられることはとても多かった。トップバッターの中畑さんの話では一見織物がどう関わって来るのか最初は疑問だったがそれまでの旅の話を聞いて合点がついた。
◆特に印象に残ったもの1つを挙げるとすれば織物の卒業制作が旅で訪れたアジアンテイストに自然となっていたという話だ。旅先の環境、風土を吸収できる、それが中畑さんの才能の1つなのだなと、自分もこれからいろいろなところに旅に行くと思うが、それらの風土などを取り込めるような人間になりたいと思わせてくれた。滝野沢さんの話では紙地図の良さを改めて知ることができた。自分も地図を読むのは好きな方なので良く読んでいて、それでも山に登ったり旅に出るときはGPSに頼ってしまう所が多々ある。現地のボロボロのほこりまみれの地図。想像しただけでワクワクした。
◆そして前述の2人には大変申し訳ないが私が1番印象に残ったのが加藤さんの話だった。陽気な様子で登場した彼女は自らの経験をおそらくありのままに語ってくれた。側溝で寝た話から日本縦断した話、都内の公園で野宿している話、全てが新鮮で私の興味を強く刺激してくれた。そしてゴールデンウィーク終盤、私は熊野古道の中辺路を歩き途中に公園でテントを張って寝てみた。1人テントで心細く夜中に起きてからは何か怖くてそこから眠れなかった。少し苦い思い出になった。(五十嵐宇汰)
■初めて地平線会議に参加し、旅の話を聞かせていただきました。中畑朋子さん、加藤千晶さん、滝野沢優子さんの3人の女性の旅の話を通して「平成の30年」を女性の視点から見るというなかなかに貴重なお話だったと思いました。同じ女性という立場でもこんなにも違った世界があるんだなと素直に感じました。
◆中畑さんは染織家として活動していて、会場にも実際に中畑さんが染めた布を持ってきて下さいました。草木染めという染め方で染めていると仰っていてどれも全て綺麗だなと思いました。ネパールを旅してる時に中畑さんはシェルパというネパールの少数民族に間違えられ、ヨーロッパを旅するとペルーから来たのかと言われたと話していてあっちの人からすると日本人はそうゆう顔に見えてるのかなと少し面白かったです。
◆加藤さんの話で1番衝撃を受けたのは幼稚園を3か月で辞めたということです。さらに働きたくない、結婚したくないという思いから野宿旅への憧れを抱いたと聞き、なかなかにインパクトの強い方だなと感じました。女性なのに野宿がしたい、野宿が好きっていうのは私からしたら考えられないことだなと思いました。滝野沢さんはバイクで旅をする方で、同じ女性という立場からしたらバイクで世界中を旅するのはすごいなと思いました。自分がやりたいことに忠実に生きてそれを実現出来てるのは尊敬しました。
◆旅をしてると新しい人との出会いが必ずあります。しかしながら今の時代は SNSで簡単に人と繋がれるため、人にわざわざ関わらなくなってきていると、とお三方は仰ってました。確かに私もネットで繋がれるから直接会って話そうっていう考えにはあんまりならないかなってお話を聞いて思いました。今回聞かせていただいたお話は普段生活してるだけでは絶対に触れることのない世界でした。こんなにも自分のやりたいことを実際にやって生き生きと生活してるなっていうのが伺えました。とても貴重な体験になりました。(久保田萌衣)
■周りは年配の方ばかりでこれからどんな難しい話がされるのか、わくわくもあったが不安が大きかった。今回話してくださったのは昭和から平成にかけて活躍した女性お三方。どんな堅苦しい話が来るのだろうと身構えていたが、1人はお酒が入っているし、他2人も終始笑顔で楽しそうに話してくださった。さらっと話してはいたが、3人とも常軌を逸した行動力の持ち主だと感じた。
◆自分がやりたいと思ったことにまっすぐに生きているというのがひしひしと伝わってきた。やりたいことをやるというのは簡単そうでとても難しいことだと思っている。今回の話では「行動力」というのが自分の中でのキーワードとなった。行動力の高い三人の女性が成功談をしている。身につけばどれほど良いものかと感じた。平成しか生きていない私にとって昭和は生きづらかったように見えていた。しかし、三人の話を聞く限り昭和という時代にしか体感できない様々なものがあったようだ。昭和と平成どちらがよかったかは一概には言えないものだ。令和はどのような時代になるのか、どんな方が活躍するのか楽しみだ。(中村響基)
■一番感じたことは人の生き方はたくさんあるという事です。純粋に旅が好きだから旅をするために仕事をやめたり、社会への反発心のようなものから旅を始めたり。そしてその旅の中で新しいものに触れて次第に変化していく。自分がやりたいことをやるという生き方をしている人はとても輝いているように見えました。私は自分がやりたいことが見つかっていません。しかしそれがどんなことであっても自分らしさを持っていれば人生を豊かに過ごせるのではないかと思いました。
◆休憩を挟んだ後は時代が進んで色んなことが便利になる中で旅の仕方などに変化はあったかという話をしていました。ネットは昔の旅の良さを失くしてしまったのではなくて様々な旅の方法の選択肢を広げたのだと感じました。また、印象深かったのは加藤さんが仰っていた、旅における人との出会いに似たようなものがネットにもあるのではないかということです。私にはない視点でとても驚きました。確かにネットは顔を見て話をするわけではないけれどたくさんの人との関わりを含む点では共通する何かがあるのだと感じました。(塩澤優希)
■初めて地平線会議の会場に言った際の第一印象はご年配の方が多いなと思ったことと、自分が想像していたよりもたくさんの方が参加されているんだなということでした。3人の方のお話を聞いて1番に思ったことは、行動力がずば抜けているなと思いました。やりたいと思ったことをすぐに行動に移すことが出来るのは純粋にすごいなと感じました。また、全員に共通して若いうちから旅をしたり自分のやりたいことをやっていて、自分が同じくらいの年齢のときは一体何をしてたんだろうと思い返させられるような気持ちになりました。1回参加しただけでもたくさんのことに気づかされ刺激を受けることができとてもいい経験になりました。これから何回も地平線会議に参加するのが楽しみになりました。(押田凱)
■今回の連休は日本横断「川の道」フットレースに参加してきました。この大会は東京の荒川から長野県の千曲川を経て新潟県の信濃川と日本を代表する大河に沿って、日本列島を横断するレースです。走行距離は514km。3箇所のレストポイントで各最低2時間の休憩が義務付けられているだけで、あとはノンストップです。今回で5回目、7年振りの挑戦となります。
◆小雨の中、東京の葛西臨海公園をスタートしました。途中、私設エイドの皆さんから飲み物、食べ物等を戴きつつ、荒川の河川敷を淡々と進みます。河川敷を抜けるまでは数箇所のエイド以外に補給が受けられませんので、とても有難く頂きました。夕暮れには埼玉県熊谷市街地に入り、更に秩父方面へ進みます。初日は一晩中雨でしたが翌朝早々には第一レストポイントの温泉施設に到着しました。ここまで151km。早速、温泉で身体を癒し大広間に準備された布団に倒れこむように2時間程眠りました。
◆短時間でしたがぐっすり眠れたので気分は爽快、身体もリフレッシュし昼前には再出発しました。ここからは最大の難所「志賀坂峠」(埼玉/群馬県境)、「ぶどう峠」(群馬/長野県境)を越えるルートです。天候が回復し一気に暑くなり、全身から汗が吹き出してきました。しかし、「ぶどう峠」の手前から再び雨模様に。標高が上がるに連れて気温は氷点下まで下がりました。手も悴み、雨具もぐっしょり濡れてしまい、ガタガタと震えが止まりません。これ程の悪寒を感じるのは初めての経験です。
◆寒さに加え、延々と続く上りに気持ちが切れかかりましたが、漸く頂上へ到達することが出来ました。そこでは私設エイドの方々が何とストーブを焚いて待っていてくれました。皆さんには本当に助けて頂きました。温かなうどんも頂き、やっと気持ちに余裕が出てきました。エイドの皆さんにお礼を伝えて、暖まった身体で峠を下っていきました。そうして第2レストポイントの小諸市のホテルには3日目早朝に到着。ここまで260km。温泉・仮眠で体力を回復させます。漸く全行程の半分まで来ました。
◆小諸市のホテルをお昼前には出発。上田市に入り、国道18号に沿って千曲川の雄大な流れを眺めながら走ります。夕暮れ前には長野市内に入り、CPとなっている善光寺を参拝しました。夜間、冷え込みが厳しくなってきたので、ガソリンスタンドで小休止。赤々と燃えるストーブに当たらせて頂き、30分程仮眠し体力を回復させます。そして4日目の夜明けには飯山駅に到着。残雪の山々をバックにした菜の花が素晴らしく綺麗な道をトボトボ走ります。日差しが強くなってきた午後に漸く新潟県へ入りました。晴天でポカポカ陽気になると再び睡魔でフラフラに。
◆そんな時、畑仕事をしてる老夫婦から水道をお借りして、頭から水を被って眠気を払いました。東京から走ってきてこれから新潟まで、とお話するとビックリされて麦茶とお菓子を出して頂きました。こういう親切が心に沁みます。そして漸く第3レストポイントの十日町市の旧小学校校舎には4日目の午後に到着しました。393km地点です。
◆十分に休養して、十日町市の最終レストポイントを4日目の21時過ぎに出発。いよいよ残す所あと120km。早朝には小千谷市内を抜け、昼過ぎに三条市に到着。あと40kmです。ここからの国道8号は行けども行けども真っ直ぐな道で、気持ちが切れかかる程辛いのですが、“我慢、我慢”とひたすら足を動かし続けます。車窓から手を振り、エールをくれる人もいます。そんな声援がたまらなく嬉しくて涙が出てきました。
◆あと少し、もうひと踏ん張り。これまで来た道のりを思えば残りは後ほんの少しです。あと10km。いよいよ信濃川の河川敷に出ました。その流れは峠を下ってきた荒々しさは無く、川幅は広がり悠々とした流れです。既に夕日は沈んでしまってましたが、まだ若干明るさが残っています。そして、遂に信濃川の河口、日本海に到着しました。「やった〜日本海まできたぞ〜」と嬉し涙が頬を伝いました。日本海から本当のゴール(健康ランド)までは4kmのラストラン。「もう終わってしまう」という寂しさと、「完走出来た」という安堵感、満足感、充足感等様々な思いが巡ってきます。
◆そして遂に遂に健康ランドにゴールしました。走った距離514km。「もう走らなくていい」と安堵した気持ちと、「終わってしまった」という寂し気持ちが入り交じりとにかく走りきってホッとしました。長く辛く厳しかった514kmですが、「再び走りたい〜」そんな気持ちが1週間経ってフツフツと湧いてきています。確か7年前にこの通信に書いたレポートも最後はこんな終り方だったような……。7年経ってもやってる事全然変わってないですね。そんな思いを抱きつつ、来年は6回目の完走を目標に「また1年間頑張っていこう!」そんな決意を新たにしています。
◆記録:106時間56分◆順位:19位/152人(福島県いわき市 渡辺哲)
■江本さん お久しぶりです!今まで山登りを基礎体力だけで押してきたような私ですが、実は3月に手術のため入院していました。昨年の2月から37度から8度の不審熱が続いていて、一度大学病院で検査を受けたものの、原因がわからず、それ以上検査に費やす時間がもったいない!と、そのままにしたところ、もはやそれが平熱に……。夏休みには、インドのガンゴトリにある6000メートル峰にも登ってきました。
◆そして、昨年の冬。インフルエンザのシーズンが到来し、不審熱はまわりにも迷惑をかけるので困ったなあ……と、やむなく山の関係のお医者様の先輩や友人に泣きつきました。山の先生方の的確で迅速な対応のお陰で、まず、原因を突き止めるべく血液検査とCTで体をスキャン、炎症を起こしているであろう箇所を洗い出してもらいました。よく、こんな状態でインドの僻地で登って何もなくてよかったと呆れられ、すぐに専門の科へ受診し手術と最速の対応となりました。
◆良性の腫瘍を摘出する手術で、症例としてそれほど珍しくはないと思うのですが、つらかった! 手術前夜は8000メートルの最終キャンプに比べれば楽勝だわーと思っていましたが、術後はドレーンに繋がれて分泌液が排出され、自分で体を動かすこともできず、世界最悪の旅くらい悲惨ではとチェリー・ガラードになった気分でした。
◆それはそうと、昨年2月、冬季ナンガ・パルバットで起きたポーランドのクライマーによる救出劇に心打たれ、山岳雑誌にその記事の翻訳を依頼されたのは、ちょうど不審熱が発覚したときでした。その資料として取り寄せた、ポーランドのクライマーについて書かれた英文の本の一冊に、70年から80年代にヒマラヤの高峰での先鋭的な登攀で時代を切り拓いたヴォイテク・クルティカの評伝がありました。
◆山野井泰史さんなど日本人クライマーと登ることがあった一方、マスコミ嫌いで知られ、あまり詳しい情報が入っていなかった彼の人生と思想について書かれた本で、その内容のすばらしさは圧巻。思わず、山と溪谷社の編集者である大畑貴美子さんに翻訳させてほしいとご相談したところ、この厳しい出版不況の中を会議に通してくださりオーケーに。
◆ちょうど、病気と平行して、近年冬の登攀に費やしていた時間を翻訳にあてることができ、日本中が沸いたゴールデンウィーク10連休は家からほとんど出ることもなく、人生でこれほど座ったことはないほど座り、人生でこれほど引いたことはないほど辞書を引き、人生の新たな荒波に向かっています。病気も翻訳も気づいてみればまわりの方々に本当にお世話になってばかり。とにかく、すばらしい内容なので、多くの方に読んで欲しい! その一心で踏ん張りますので、みなさん、8月に(予定)出版されたら、ぜひ読んでください。(恩田真砂美)
■地平線の皆さん、こんにちは。このたび5月22日〜6月3日まで、リコーイメージングスクエア新宿にてシリア難民をテーマにした写真展を開催いたします。シリア難民と聞くと日本では難しいイメージを持たれがちですが、写真展を通し、彼らをより身近な存在として感じていただけましたらと思います。昨年夏の取材では、多くの皆様にサポートをいただき、2歳の子連れ、妊娠7カ月の身重でしたが、元気に難民の取材を行うことができたことをこの場で感謝申し上げます。写真展会期中は全日在廊しております。皆様にお会いできますことを楽しみにしております(2人の子は、期間中預かってもらう予定です)。(小松由佳)
「シリア難民の肖像 〜Borderless people〜」
5/22(水)〜6/3(月)
リコーイメージングスクエア新宿 ギャラリーII
10:30〜18:30(最終日16:00終了) 火曜定休 入場無料
○ギャラリートーク
5/26(日)、6/2(日)
両日とも[1]13:00〜[2]16:00〜
ギャラリートークでは、展示写真の物語とシリア難民の現状についてお話いたします。各40分ほどです。
○オープニングパーティー
5/24(金) 18:30〜20:00
写真展会場にて 入場無料
○写真展開催の記念イベントとして、オープニングパーティーを開催させていただきます。写真展のテーマであるシリア難民の世界をより理解いただけますよう、またこの場が、皆様にとっての新たな活動の始まりの場となりますように。
■4月18日の夜、妹から「お母さんが家で倒れて、救急搬送された」と電話が。ぞわっと寒気立ちました。つい10日前の81歳のお誕生祝いでは、あんなに元気だったのに。実家は前橋。飛び乗った新幹線の中で、苦労の多い母の人生とさらなる試練を思い、涙がこぼれました。
◆翌朝、88歳の父、妹と病院へ。母は意識がなく、頭に穴を開けて血を除く手術をすることに。「手術の目的は救命。後遺症は重いでしょう」という医師の言葉に目がくらみました。とはいえ介護下着やおむつの買い物や各種手続きなど実務にも直面し、泣いてばかりもいられない。さらに88歳の父は衰えが目立ち、深刻な現実を初めて明確に認識しました。両親の年を考えれば予測できたことで、介護中の友人もザラ。例えるなら原発事故の想定みたいなもので、うかつでした。
◆母は4人の子を産みました。長子のわたしは東京暮らし。6年前に夫をがんで亡くし今は独り。上の弟は京都の会社勤めで未婚。妹は多忙な教員で、実家から車で1時間ほど町に、同じく教員の夫と中高生の子ども2人と暮らしています。実家に残っているのが末っ子の弟。知的障害の認定を受けていて、母は倒れるその日まで、この子を羽の下でしっかりと守ってきたのです。母の入院による動揺が心配でしたが、意外と安定していてほっと安堵。
◆まずは取り急ぎ、母が管理していた家計の通帳や弟名義の貯蓄や保険などをざっと確認。母が通っていた医療機関やサービスを調べて連絡し、不要な定期購入などを解約。弟の医療の確認と職場(母の人脈で得たパートタイム)への事情説明。親戚と母の友人への連絡、ご近所回りなど、やることは山積み。もちろん日々の家事や庭の手入れもしなくちゃ。幸い、最近はわたしと妹がこまめに通っていたせいか、母が意図的に伝えていたためか「お母さんがいないとわからない」ことは、ほぼなかった。お母さん、偉い!
◆問題は、父と末っ子の2人暮らしです。妹が週末に日帰りで来るほか、わたしが週に1泊できるかどうか。介護のことは無知だったけれど、地域包括センターに電話してケアマネージャーに来てもらい、さしあたり週2回3時間の父のデイサービス利用と、週2回1時間のホームヘルパー利用(夕食の支度)を申請。介護認定の手続きも進めます。末っ子については、家庭以外に楽しい「居場所」を見つけてあげたい。近いうちに市の保健センターに相談に行こう。
◆次に心を砕いたのは、きょうだいのチームづくりです。母の強い求心力で、うちは年末年始、GW、お盆休みに全員が実家に集まるしきたりでした。とはいえ京都の弟が「ひね者」で、昼から酒を飲んでは世間への不満をまきちらすのが常。母だけがそんな息子を受け止め、叱りつけていたものです。今こそ、彼も変われるチャンス? そこで、母の病状や家のことを簡単な日誌にして弟と妹にメールし、情報共有することにしました。みなが気持ちでも実務でも一丸になれたらと。しかし、ひね者はさすがに筋金入りだった。GWに帰省したので、本人が希望した庭の草取りを任せたのに、働くわたしたちを横目に、相も変わらず昼から酒びたりで野球中継を見ながら毒づいている。何てこった! 酒の切れ目を見て、チームの大事な一員だとおだてつつ説教したけれど、はたして効き目はあったかな。まあ、しばらく役割を与え続けてみよう。
◆父がわたしを「お母さん」と、呼び間違うようになりました。何とも複雑な思いです。母のほうは、手術の翌日からリハビリを開始。「寝たきりにさせない」今の医療は驚きです。リハビリも3種類あり、別々の療法士が来てくれる。すごい! でも母の回復は順調ではありません。左半身が完全麻痺し、嚥下も無理。しかも脳内に水がたまって再手術が必要かも。やっと目が開いて、孫のお見舞いに片頬で笑うようになったのに。リハビリ治療は150日間が上限で、その後は介護施設入りだそうです。質のよい施設の空きを求めてさまようのだろうか。父はどうなるのだろう。弟の将来は? わたしの老後は?
◆老後に備え、乏しいながら貯蓄を心がけているのですが、NPO活動をしている友人がある日「貯蓄なんかしない。社会的価値ある活動をしてきたから、生活保護を受ける」と堂々と言い放ち、あっけにとられました。自分の仕事の価値はどうだろう。先ごろ『漁師になるには』(ぺりかん社)という本を出しました。人に「買ってください」とお願いしたい著作はこれが初めて。10人の若い漁師の生き方働き方を紹介し、漁業の概要や漁師への道を解説した本です。少しでも漁業や漁村のことを知ってもらい、応援してほしい、できれば漁師を増やしたいと願っています。ちなみに取材経費はすべて自費。でも生活保護を堂々と受けられるほどの価値ある仕事かどうか……。自信はないです。(大浦佳代 フリーライター、海と漁の体験研究所代表)
★「海と漁の体験研究所」を主宰する大浦佳代さんは日本の漁業、漁民の事情に詳しいジャーナリスト。2011年5月27日の385回の地平線報告会「ソーテイの向こう側」で報告者の1人として登場、3.11で被災した漁村の現状を報告した。江本、加藤千晶、瀧本千穂子・柚妃母娘、三好直子さんらとモンゴル草原を旅したこともある。(E)
■江本さん、4月ははるばる屋久島まで来てくださり、ありがとうございました! 東京から屋久島まで時間もお金もかかるのに、しかもお忙しい中、本当に来てくれるなんて……! もう、それだけで感動です。島に住んでいると、人が来てくれることがいちばん嬉しいんです。
◆初日は屋久島をぐるっと一周、私が勤務する学校にも寄りましたね。林道を走っていると、猿や鹿がうじゃうじゃと集まってきて道をふさいできました。動物はいつもいるけれど、こんなにたくさん出てきたのは初めてでした! さすが江本さん、ムツゴロウさんに似ているだけあるなあと心の中で思いました(笑)。
◆2日目は、朝から小雨の降る森を歩きました。苔むした樹齢何百年、何千年という木々に囲まれて、空気が美味しかったです。準備万端な江本さんに、チョコやクッキーなど豊富な行動食でもてなされてしまいました。雨宿りしながら飲んだコーヒー、美味しかったです。ごちそうさまでした! それにしても、雨の森のにおいって、なんだか落ち着きますね〜。
◆そして、土砂降りの雨の中で開かれていた焼酎蔵のお祭りで、傘をさしながらいも焼酎を飲む江本さんの幸せそうな顔と言ったら! 気持ちよくなった江本さんが舞台のマイクをとって話をしたいと言いはじめたときは、ちょっとヒヤヒヤしました(笑)。「お前さんたち、いいぞー!と、一言言いたいんだ!応援したいんだ!」と熱く語る江本さん。おお、なるほどー! その思いが、地平線会議の運営をはじめとする今の江本さんの行動の原動力になっているのかなあ、と納得。
◆それにしても、江本さんとドライブしていると、お話の広がりっぷりがすごかったです。私がお茶畑で道を間違えたとき「大丈夫、落ち着きなさい」と言って、江本さんが冷静に切り抜けてきた過去のピンチな出来事を話してくれましたね。海の中、沈船の魚を取材中にボンベが船に引っかかって身動きが取れなくなったこと。黄河源流で迷い、細い水の流れを辿ってなんとかキャンプに帰り着いたこと。チョモランマの標高7600m地点からひとり下山中に、ガスに巻かれて下山路を見失ったこと……。まだまだ数え切れないくらいあるのでしょうね! 江本さんの世界の広さ、引き出しの多さ、これがあるから通信のフロントが書けるんですね。
◆翌最終日は数キロ先、しかも登り坂の道を歩いて博物館へ行かれたと聞きました。私はバスを勧めましたが、でも「自分の足で歩く」って、その土地のことを知り、感じ取るための旅の基本ですもんね。ただ……あの道はちょっときつかったはず(笑)!
◆江本さんと一緒に景色を見て話しているだけで、目の前のことがどんどんほかの出来事と繋がっていって、広がりと深まりを増していって、まるで物事の見方を教えてもらっているようでした。江本さん、またのお越しをお待ちしています。ただし、こんどはお土産のえもカレーを冷凍庫に忘れてこないでくださいね〜!(屋久島生活7年目に入った、新垣亜美)
■地平線の皆様、お久しぶりです。屋久島の野々山です。仕事や子育てなどの日常にかまけ、ついついご無沙汰しておりました。今回、江本さんが、じきじきにご来島下さり、「たまには顔も出せ」と、尻を叩かれ、もとい、ご推薦をいただきました。そこで屋久島の観光現状など、ご報告いたしたいと思います。
◆ゴールデンウイーク、やっと終わりました。「やっと」というのは、本当に正直なところ。10連休は長かった。そのあいだ宮之浦岳登山1回、縄文杉行7回の8日勤務でした。疲れてないと言えば、ウソになる。持病、股関節の痛みを堪え、だましだましの連チャンでした。若いころは6日連続なんて毎週しても当たり前、帰宅してからスクワットしてたくらいなのに、心身ともに、まったく衰えました。いやいや、気持ちだけでも、まだまだ上を向かなければ。
◆例年、このGWは屋久島がもっとも混み合う時期。夏休みも多いけど、やっぱりお客様が集中しますからね。ガイドが1年中で1番嫌う1週間です。愚痴りますが、ガイドには連休料金ってないんですよ。だったら、他の時期に分散してもらった方が有難い。身体休める日も必要ですし。お客様だって混雑よりも、すいてる時の方がいいのは自明。でもやっぱり連休じゃないと休みもとれないんでしょうね。で、だいたい5月4日が毎年、縄文杉コース、最多人数の日。
◆屋久島は来るのに1日、登るのに1日、帰るのに1日かかります。当然、連休の中日が1番混むんです。1,000人を超えた日もありました。その点、今年は10連休と休みが長く、山行が分散したおかげ、また天候の影響もあり、最多の日が5月2日で700人くらいでした。他の日は、5〜600人程度。まあ、こんなもんかなあ、という感じです。実は、縄文杉行のお客様は最近、減少の方向にあります。2009年くらいがピークで、年間9万人はいっていたのに、昨年で7万人弱。一時は利用調整という名の入山規制の動きもあったんですけどね。屋久島人気も衰えた、ということでしょうか。
◆それは様々な原因があることでしょう。山ブームが去った、他にも世界遺産がたくさん出来た、などなど。そもそも10時間もかけて、ただ1本の大きな木を見にいくような酔狂な人は、もはや一巡し、いなくなったのかもしれません。山登ってメシ喰えるガイド業も、お先真っ暗、ということですかねえ。でも自分は、さほど悲観してはいません。そんなに簡単に没落するほど、屋久島は薄くありません。
◆縄文杉行だって、ただ縄文杉1本を見に行くだけのツアーでは決してないのです。その行程で出会える様々な植物や動物たち。九州最高峰の山々や美しい森林などの風景。そんな素晴らしい大自然だけじゃなく、この島で生きてきた人たちの歴史や文化も知る価値のあるものです。それを伝えていくガイドという仕事も、不要になることはないでしょう。むしろドンドン来島者が増えれば、ゴミやトイレの問題も出てくる。そうなって結果的にこの島が荒れてしまうことよりも、ほどほどな状況でいいんじゃないかなあ。
◆これからの屋久島がどうなっていくのか、どうなればいいのか。正直なところ、明確にはわかりません。でも心底、気に入って住み着いた屋久島。この島で働き、子を育て、のーんびりと生きていければ、と思っています。ただ、子育てが落ち着いてきたら、また外には出てみたいなあ、というのが、家族にはナイショの正直なところです。(野々山富雄 屋久島に住んで24年)
■平成31年4月29日から令和元年5月12日まで写真展を開催。丁度、元号が変わるときだったので、昭和、平成の様々なラストシーンを展示しました。このテーマのために撮影していた訳ではなかったのですが、〈終わりゆくもの〉が気になって撮っていました。
◆昭和天皇が亡くなった日の皇居前、大喪の1日、「笑っていいとも!」の最終放映日アルタ前、高倉健さん亡くなった直後の東映本社前、ミラノ座最終日、グランドキャバレー「白ばら」(酒田市)閉店の日……、最後は4月1日「令和」発表の瞬間、アルタ前。これらが、私なりのラストシーンです。
◆展示した写真を見ていると、この30年間に変わったものがハッキリと見えた。車、服装、カメラ、皇居前の人びと、などなど。特にカメラ。大喪の日(平成元年)、新宿南口駅前。昭和天皇を乗せた車を待つ大勢の人が沿道に集まった。その中の数人が手に持っていたカメラは小型のフィルムカメラ。それから30年後のアルタ前、モニターに映し出された、新元号「令和」の発表を撮る人々の手にはスマートホン。全員がカメラマンだ。ただ撮るだけでなく、SNSを利用しての発信者でもある。
◆そして、昭和と平成最後の日、皇居前にいた人びとが違っていた。昭和天皇が亡くなった昭和64年1月7日、昭和最後の日。大勢の日本人が途切れなく皇居に集まって来た。平成31年4月30日平成最後の日、明らかに30年前より人の数は少ない。その代わり外国人旅行者が増えていた。午後5時、二重橋前、私の前にいた最前列の人たちは韓国からの旅行者団体。30人位いただろうか。冷たい雨が降る中、傘をさし、グループに分かれスマホートホンで「天皇のお言葉」の同時中継を日本人と一緒に見ていた。終わったと同時に、その場から立ち去った。
◆普通の観光客のように見えたが、この光景に少し驚いた。他にも多くの外国人。アジア系の人はかなり多かった。昭和と平成の終わりに、皇居前にいる人がこんなにも違うのかと30年前には、想像もしなかった。ただ、新天皇の一般参賀の5月4日は14万人が皇居前に集まった。昭和の時は、天皇崩御と言うこともあって大勢集まったと思うが、役目を終えた平成天皇と新天皇への思いがこうも違うのかと思った。
◆私の師である森山大道氏が写真展を観て「時空が混沌とした、面白い個展です」とコメントしてくれた。30年間に起きた私にとっての様々なラストシーン。個人的な写真ではあるが確実に時代は映っていた。この中に戦争の写真が無かったのだけは、よかったと思う。(渋谷典子)
■スリランカの仏教遺跡探検で注目された岡村隆さんの植村直己冒険賞授賞式は6月1日、豊岡市の植村直己冒険館で行われますが、地平線会議としても地平線会議なりのお祝いをしたいと考えています。詳しくは、来月の地平線通信でお知らせしますが、とりあえず講演会の日取りと場所が決まりました。7月13日(土)14時、新宿区三栄町の「新宿歴史博物館」ホールです。今から予定していてください。もちろん、その後、四谷近辺で祝いの宴も企画しています。
■皆さんご無沙汰しています。ライターの西牟田靖です。これまでに私は、03年(サハリン南部、台湾、南北朝鮮、旧満州、南洋からなる旧日本領)と08年(北方領土、竹島、尖閣諸島など日本の国境)の二度、報告者として登壇したことがあります。
◆昨年、中国へ1か月ほど行ってきました。現在はそのときのことを書籍化するべく、執筆作業を続けています。その旅のルートですが、沿岸部から内陸の四川省や雲南省、そして新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)と私が90年代初頭に旅行した場所をそのままなぞるというものです。あえて同じ場所をなぞることで、それらの土地がどのように変化したのかを見て回ろうと思ったのです。
◆今回の中国の旅行では、行く前の段階からITをフルに使いこなしました。事前準備して知見を広げておくことで、現地での行動範囲や、やれることの可能性がかなり広がるからです。というか当時会った人や訪れた場所を特定したりアポをとるのに事前のリサーチが欠かせなかったのです。旅行前やったのは、百度(中国版グーグル)を使って該当する人物を探したり訪れた場所を特定したり、現地に住む人たちに通訳をお願いし決済を済ませたり、宿泊する場所や交通手段を確定し支払いを済ませたといったことです。
◆旅行中は旅行中で、WeChat(中国版LINE)を使って通訳ほか現地で知り合った人とやりとりしアポの再確認をしたり、特定した場所を確実に訪れるため百度地図(中国版グーグルマップ)を駆使したり、WiFiに繋がった携帯用翻訳機を使ったりしました。また現地通訳がスマホを駆使しキャッシュレス決済やアプリでタクシーを呼び出すのをすぐ横で見たりもしました。
◆現地、中国の人びとのITの使いこなしぶりですが、日本よりもずっとなされていました。支払いはキャッシュレスが当たり前です。地下道にいる物乞いや大道芸人、雲南省のミャンマー国境近くに住む少数民族に至るまで、独自のQRコードを持っていて、それをスマホで読み取って支払いをするのです。ユースホステルで同室だった20歳前後のギャル男くんから「出会い系アプリを使い、同じアプリに登録している女性をナンパして、昨日はデートしました」という話を聞いたりもしました。
◆90年代前半は鉄道の切符を買うために、大群衆のなかに飛び込んでもみくちゃになるのが当たり前でしたが、今や事前にネット予約し、自動発券機を使うので切符の購入にしろ、乗り込みにしろ基本スムーズです。
◆ITによって飛躍的に便利になる一方、この国は相変わらず一党独裁を維持し言論統制を行っています。しかも習近平政権になってから、先端のIT技術を援用した監視システムが作られ、その監視ぶりを強めています。中でもそれが最も顕著だったのは新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)でした。鉄道やバスのターミナルを出入りする際は、顔認証システム用カメラで顔を撮影された上に、パスポートのスキャンも行われました。こうして当局が入手した私の顔情報+パスポートのデータを、街中にある夥しい数の監視カメラのデータとマッチングすれば、私がどこで何をしているかを当局が、把握できるのです。
◆そうしたシステムに加え、街中あちこちにいる警察官(ウイグル人が多い)の監視を組み合わせてのハイテク監視網を布いていることが明白で、現地で会った人たちが当局をひたすら恐れながら暮らしている様が見て取れました。現地のウイグル人に「街中には1ブロックおきに交番があるけどなぜこんなに警察が多いんですか」と聞いたところ、「酔っ払いが多いからだよ」と見え透いた嘘をつかれてしまいました。もし本当の理由を言えば、当局からマークされてしまうのでしょう。
◆2000年代のうちに国内のインフラをあらかた整えてしまった中国は、今やその次の段階である、すさまじいIT化に着手しています。それは生活の便利さというアメと、国のあちこちに張り巡らせたハイテク監視網によって人民を監視するというムチという硬軟取り混ぜた体制となっているのです。そうした理解は、行く前からある程度は察知していました。中国独自のIT技術を使ったり、そばでその様子を見ることで、やっぱり本当なんだと実感するようになっていったのです。
◆旅行自体はスタンプラリーのごとくで、トラブルの全然ない予定調和なものになってしまいました。しかし、私にとってこの旅行は大変、エキサイティングなものでした。どこでも構わず痰を吐いたりタバコを吸ったり、鉄道は常に満席で、トイレは仕切りがなかったりといった途上国だった中国が、四半世紀経つことで見違えるように発展した様子を見られたことは、大変に興味をそそられることでした。それに、ITを駆使しまくるという新しい旅の方法を練り上げ予定通り実施できたことに手応えを感じたりもしました。あえて何も用意しない行き当たりばったりの旅行と、こうしたITを駆使しまくる旅行。今後は二刀流で行きたいと思います。年内には書籍化が実現すると思うので、その際は再び地平線通信にて発表させていただければと思います。(西牟田靖)
■地平線通信480号(2019年4月号)は、4月10日印刷、封入作業をし、11日郵便局に渡しました。
汗をかいてくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 埜口保男 落合大祐 久保田賢次 坪井伸吾 兵頭渉 武田力 江本嘉伸 松澤亮 光菅修
平成が終わるにあたり、上皇陛下は平成が戦争のない時代だったことに安堵されておられました。昭和の厳しい戦時下を生きた人間として同じく安堵し、お言葉に感銘しました。
私事で恐縮ですが、外務省でモンゴル語を専門としていましたので、ダンバダルジャー駐日大使(実際に日本に駐在した最初の大使)の信任状奉呈とそれにともなう諸行事のモンゴル語通訳方を務めることになりました。事前に昭和天皇が私をご引見くださり、モンゴルについてご下問がありました。
天皇陛下は5〜6段の高い位置から1対1で「満蒙」についてご下問なさいました。わたしは、現代モンゴルを専門としていて旧外蒙古と言われる地域が担当のモンゴルでありますとお答えして、モンゴルについて知るところをお話申しあげました。
現上皇陛下が天皇陛下となられた平成にも、陛下の通訳方を務めることになり、昭和天皇のときと同様、ご引見の機会がありました。天皇陛下がまえもって1対1でご引見くださることは、通訳の人となりを承知していただける機会であるとともに、皇室が通訳の人格を尊重していることの現れと感じていました。しかも、平成になり、皇室の雰囲気ががらっと変わりました。
食事時分に通訳したときは、賓客にだすお食事とまったくおなじものを、別途宮殿でいただく機会を設けてくださいました。皇室以外で日本政府の高官や一般の方からこのような配慮や研鑽の努力などに敬意を払われた記憶は故安倍晋太郎外務大臣など数名の方以外にほとんどありません。ですから一介の通訳をもおろそかにしない皇室の人権尊重のお気持ちを深く感じました。
平成の天皇陛下ご引見では、陛下は細いテーブルを挟み同じ平面の床の上に起立されて、とても近すぎると感じるような形でご引見くださいました。これは後に私自身が大使に任命されたとき両陛下が私ども夫妻をご引見下さったときも同様でした。皇室がとても近しく感じられました。
陛下が賓客とお写真を撮られるときに通訳は近づくことが厳禁されておりました。あるとき写真撮影中にお話なさりたいと思われたのか、後ろ手で私を招かれました。躊躇しましたが、陛下のお気持ちを尊重するのが最優先と判断して近づき通訳させていただきました。このように気軽にお役に立てるような関係を築いてくださいました。
平成の天皇陛下がある日、各国語の通訳方をねぎらうための、スタンディングで気軽なティーパーティをお開きになり、私もお招きをうけました。陛下は右手にお茶、左手をズボンにという軽いご姿勢で近づいてこられ、とてもカジュアルな雰囲気で、私に「ナイマン族は今もいるの?、確か、トルコ系だったと思うけど?」というようなご下問をされ、一瞬、陛下がモンゴル史についてこのように深い知識を有しておられることに驚いてしまい、応答が遅れてしまいましたら、たたみかけて「あれっ!ちがったっけ」と軽くフォローしてくださったので、現在も少数ながらおり、ご認識に間違いはございませんとあわててお返し申しあげました。
ヨンドン駐日大使のときの昼食会で、ユウモアあふれる大使のお話に皇后陛下が思わず声をあげてお笑いいただいたことも深い思い出の一つです。エンヘバヤル首相訪日の際日本文学に詳しい同夫人が皇后陛下に川端康成の作品で『山の音』が一番とのご意見を申しあげ、皇后陛下が私もと同意されたと聞きました。さらにどの場面が気に入ったかとの問いに、エンフバヤル首相夫人より、横須賀線に主人公が乗っている場面とお答えし、私もそこがと皇后陛下より返されたと聞いて、とても関係が熟してきていると感じました。
平成の天皇陛下主催の園遊会で、参議院議長の招待で来日中のモンゴル賓客が園内でくつろいでおりましたところ、陛下が特に近づいてこられて言葉をおかけ下さり、賓客が驚いていたことも思い出です。自身の大使任官の際の行事や、帰国後夫妻でお茶にお招きいただいたことを含め、28〜9回お目にかかる機会がありました。それらの機会を通じて皇室が明るく、民主化した実感をもつことができました。
モンゴルとの関係で印象深いことがあります。ソドノム首相(当時)が初訪日して、皇居へ表敬訪問されたとき、方形中庭の対頂の位置に白梅と紅梅が美しく凜とした空気で咲いていました。首相は、モンゴルにもチンギス・ハ−ンの王室があったが、われわれが王室を失わなければ、このような宮殿があったのにと同伴の方にお話しておられました。私は、皇室をもつ喜びに浸りました。また、天皇陛下以外の皇族に関して、付け加えさせてください。現役が終わらんとするとき、秋篠宮殿下、妃殿下がモンゴルを訪問される準備に追われ、いろいろ、工夫させていただいたのですが、ご訪問が翌年に延期になり残念でした。準備は翌年に生きたことをモンゴル側から聞いたと、来日したモンゴル・アンサンブルご鑑賞の際、殿下、妃殿下から拝聴し、そのお気遣いに感動しました。また、今上天皇陛下は皇太子時代モンゴルを訪問され、モンゴル交響楽団と共演されてビオラを演奏されたそうです。モンゴルとの皇室外交が一段と深化するだろうと確信します。(花田麿公 元モンゴル大使)
■「てんらんかい」にいらした通信編集、激務のなか 皆勤ご来場、すいませんでしたー。鯛焼き 美味でありました。ごちそうさまであります。」「来てくださって ありがとうございました。とてもとても うれしかったです。作品をていねいにしってくださって ありがとうございます」彫刻家の緒方敏明さんから丁寧なお礼メールを続けてもらった。11、12日の2日間、この地平線通信の制作で追われている時間、神楽坂ちかくの小粋な料亭の2階で個展を開いたのだ。
◆もちろん喜んで出かけた。会場の「ギャラリー抱月」となかなか味があり、その価値は十分あったのだが、このくそ忙しい時間に帰宅すると「明日も来てください」とすぐにメールが入り、結局2日間とも通うこととなった。時間がないんだよ、と言えないのが緒方君のように無欲な芸術家の強みなのだろう。ところで、会場に美味しそうなバナナが置いてあり,思わず傍の果物ナイフで切ろうとして、緒方君にさんざん笑われてしまった。私はバナナについては戦後の窮乏期からよく知っている、大体重さもいろいろなんだよ、うんぬんと話し出してしまったため、一層大笑いされた。
◆会場を知ったのは関野吉晴さんとの縁らしい。詳しいことは緒方君に聞いてください。バナナのこと、取り繕うのはよくないね、みなさん。(江本嘉伸)
マスードを巡るオデュッセイア
「亡くなってからも、ずっとマスードの背中を追ってるんだよね。懐古じゃなくて、常に新しい発見があるから」と言うのは写真家の長倉洋海(ひろみ)さん(66)。アフガニスタン抵抗運動の指導者として人望を集めたマスード司令官を長年に渡って追い続け、各国のどのジャーナリストよりも近くで写真を撮りました。長倉さんと同い年だったマスードの存在は、ただの被写体ではなく、男惚れした人物であり、長倉さんの人生をも映す合わせ鏡のようでした。 「人間に興味があって写真家の道を選んだ。マスードは何より人として魅力的で、考え方や生き方に『えっ!?』と度々思わせられる。その心にひっかかる感じを写すのが写真なのかも」と長倉さん。'01年にマスードが暗殺されてからは、彼に縁のあるシルクロードを撮り歩き、またエルサルバドルの難民キャンプを長期スパンで取材。シベリアの少数民族を訪ねるなどの作品を発表し続けています。 「旅を続け、写真を撮り続けていると、撮ったときにはわからなかったマスードの行動や言葉の意味がフッと分かる時がある。写真は次々といろいろなものが立ち表れてくる玉手箱のようなもの。おかげで今もマスードと新しい交流が続いているんです」。 今月は長倉さんに、写真家としてのオデュッセイア(長い冒険の旅)を語って頂きます。 |
地平線通信 481号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2019年5月15日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
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◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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