2019年4月の地平線通信

4月の地平線通信・480号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

4月10日。朝から冷たい雨が降り続く。新聞全紙を買おうと外に出ると傘を握る手に手袋がほしい。朝は7℃ほどだったが、昼を過ぎて気温はどんどん下がりはじめた。都心の午後1時の気温は5℃。もしかすると「平成で一番寒い4月」になるかもという予測である。ひんやりした空気のおかげで、ことしの桜は長持ちした。

◆この1日、5月から始まる新しい年号が「令和(れいわ)」と発表された。なるほど、そう来たか。平成の時がそうだったようにはじめは驚いたが、じきに慣れるであろう。地平線会議では滅多に元号を使わないことをこの機会にあらためて思い知った。そして、今回、元号の変更に伴う「重々しさ」がまったくないことが不思議に感じられた。

◆もう30年も前、昭和が終わろうとしていた時期、世の中の空気は重苦しいものだった。私はまだ現役の記者だった。皇居の乾門前に新聞、テレビ各社の“張り番”が座りこみ、テレビはバラエティー番組を自粛した。張り番というのは不思議な仕事でとにかくその場にいればいい。何かあったら本社に連絡してデスクの指揮をあおぐのである。そして、こうした仕事で大事なのが弁当だった。

◆昭和天皇の崩御は真冬のことだったから各社工夫をこらしてのメニューであった、と思う。張り込みは111日間に及んだ。「弁当10万2000食。使い捨てカイロ8000個。動員記者延べ2220人…」当時、読売新聞の社内報はこう伝えている。私自身はすでにシニアの立場だったので張り込みの仕事は免れたが、こういう長丁場の仕事では兵站部が大きな役割をするのでつい弁当のことを思い出す。

◆冬の弁当と言えば、1972年の札幌オリンピックのことは強烈な印象がある。私の記者活動の中で初めて「あったかい味噌汁」にめぐりあえたからだ。雪の上に長く立っているととにかくあたたかいものがほしくなる。魔法瓶をスマートにしたような味噌汁容器は私には「日の丸飛行隊」の活躍以上に嬉しいものだった。

◆ところで、今日の新聞各紙で何を見たかったのか。「新紙幣の発表」をどう伝えたか、知りたかったのだ。今朝、読売新聞(準トップ扱いだった)以外の全国紙はすべて一面トップで突如発表された新しいお札のことを伝えている。「紙幣5年後に刷新 1万円札は渋沢栄一」(朝日)「紙幣刷新24年度めど」(毎日)「お金の未来はどこに 新紙幣24年度から、20年ぶり」(日経)などなどだ。

◆1万円札 渋沢栄一 5000円札 津田梅子 1000円札 北里柴三郎。この3人が今後しばらくは日本の現代史の牽引役となるのだろうか。それにしても1日の年号の発表に続く新紙幣の発表。政権運営というのは、よほど面白いのだろう。キャッシュレスを進めようとしている中、お札を替えることに異論もあるだろうが、報道によるとこれは安倍首相と麻生副総理の政権トップ2による決定事項らしい。いま発表しても実施は5年も後というのは、路上の自販機の機能も変えなけれもならず、時間がかかる問題のようだ。年号と同じ時期に発表したのは、政権浮揚策だろうが、はたして。

◆4月7日の日曜日は、信じられないあたたかさだった。千葉県の手賀沼を見はるかす明るい墓地で山の仲間たちと花見をした。谷口けいさんのお墓の前で友人たちが持ち寄りで2年半前に北海道の山で逝った彼女を偲んだのだ。2015年12月21日、黒岳で墜死したけいさんのことを私は考えないようにしていた。彼女はまだ生きている、という感覚を保持していたかった。ずるいとはわかっていながら告別式にも行かず、谷口けいという魅力的な人間のことをあえて「空欄」に置いてしまった。

◆あの素晴らしい笑顔を大事にしまっておきたいという気持ちからだったがもちろん、うしろめたさもあった。今回、友人のひとりが「ポットラック方式で一品ずつ持ち寄りお墓でお花見を」と誘ってくれた時、初めてお墓に向かう気になった。どうせなら彼女が何度か食べてくれたエモカレーを作ろう、と決心し、15人以上は来るだろうというので深夜大鍋と取り組んだ。

◆当日は見事に晴れわたり、あたたかかった。子供時代から家族で親しんだ山、筑波山を彫った墓石の前で彼女のご両親、仲間たちが和気藹々の雰囲気で穏やかな時間を過ごした。カレーは大層重かったが、けいさんを長い時間見守ってきた山の先輩、寺沢玲子さんがガスバーナーと美味しいおにぎりを用意してくれていた。私の家にも何度かけいさんとカレーを食べに来ている人だ。あたたかくしたカレーをご両親も皆さんも美味しいです、と食べてくださった。もちろん、参加者ひとりひとりが持ち寄った食べ物がそれぞれ素晴らしかった。

◆けいさん、今頃になってごめん。でもあなたに食べてもらうつもりで心をこめてカレー作ったよ。(江本嘉伸 先月のこの欄で「雪丸」は「麦丸」と訂正します)


先月の報告会から

雪原(ゆきはら)に印す夢のライン

阿部雅龍

2019年3月22日 新宿コズミックセンター大会議室

■会場に入り、最初に目に入ったのは白黒のグラフィックだった。プロジェクター越しにスクリーンに投影されている。南極を背景に、太陽と龍、そして男のシルエット。細身で足が長く、陸上選手のように締まった体型が極地用の分厚いウエア越しでも分かる。ストックが雪に刺さり、スキー板が丁寧に並んで置かれている。足は埋まっていない。なるほど、確かに南極に積雪のイメージはないかもしれない。今日の報告者は阿部雅龍さん。「Reaching South pole via Japanese First Attempt Route」ということで、ロンネ棚氷から極点までの900km日本人初ルートへと挑戦したらしい。会場には旅のお供を務めたロボット犬のアイボも同行している。赤い蝶ネクタイがキュートで、会場の雰囲気を和ませた。

◆18時半ぴったりに、ほとんど満席の会場で報告は開始した。阿部雅龍さんは秋田県の出身で、それは日本人初の南極探検家として知られる白瀬矗(のぶ)(1861〜1946)さんの出身地でもある。自己紹介は、そんな話からスタートした。白瀬矗が挑んだ当時の南極点と今の南極点の違い、それもまた彼のテーマだという。出身は秋田大学で、専攻は機械工学。しかし卒業後の経歴からは、まったくそれを匂わせない。カナダやグリーンランドでの遠征数回、そして今回の南極遠征。「私の肩書は冒険家ではなく、夢を追う男なんです」と、阿部さんは言う。Googleで「夢を追う男」と検索すると、一番に彼のホームページが表示されるということだ。インパクトたっぷりの自己紹介で、「一体どんな物語があるのか?」と一気に会場を惹きつけた。 

◆一拍置くと、なぜ?の部分はひとまずお預けで、今回の計画の舞台、南極へと話は移った。「北極は海だけれど、南極は大陸で、大地の上に雪があるんです」と阿部さん。分かりやすい言葉遣いで、雰囲気はまるで地学の先生だ。北極点は海に浮かぶ氷の上だけれど、南極点は2800mもの厚い氷の上にある。そうした環境の違いで、南極には動物はいない。当然、シロクマもいない。また、1998年発効の「環境保護に関する南極条約議定書」により南極に元々ない「種」を持ち込んではならないため、犬ゾリを使うことは出来ない。今回の計画で、阿部さんは100kgの荷物を人ゾリで運んだという。

◆南極には、滑降風、または「カタバ風」という南極大陸特有の強風が存在する。世界一の強風地帯と呼ばれ、観測史上最大の風速100m毎秒もしくは時速360kmを記録したこともあるという。南極大陸を覆う氷床は内陸部が厚く周辺が薄いため、内陸から海岸へ、上から下へと冷たく重い空気が滑り降りてくるというのだ。「南極は世界最大の滑り台なんです」と阿部さんは表現した。

◆そんな南極で、今回彼が挑戦したのはラインホルト・メスナーが90年代初頭にペアで踏破したルート。歩けば日本人初になるという。ルート選択の理由は2つ。一つは、“白瀬ルート”の前哨戦として。もう一つは、彼がスポンサーや個人からの支援を得て活動をする上で、ゴールが分かりやすいことが大事だと思うからだ。彼はこのルートに「単独」「徒歩」「無補給」のスタイルで挑む。こちらは「美しいから」という理由で。メスナーの時代とは装備だけでなく環境も大きく変化し、今、極地では単独行が主流となっているという。

◆彼の選んだメスナールートの他、南極点へと向かうルートにはアムンゼンやスコットの辿ったルートなど、いくつもバリエーションが存在する。アイゼンが必要な難しいルート、4WDが走れるルート、流行りのルート。距離も難易度も、様々なのだ。南極への出発地点には、南米からALE(Antarctic Logistics & Expeditions)社が買い上げた軍用機で向かう。皇帝ペンギンツアーは300万円、南極点ツアーは800万円だ。そう、実は南極点は今や観光客も来られる場所になっている。極点はプラトーに位置し、雪原にあるので小型の飛行機ならば着陸出来るのだ。ただ、「状況は変わったけれど自然の厳しさは変わりません」と阿部さんは念を押した。

◆ALE社のメインのベースキャンプとなるユニオン・グレーシャー・キャンプはチリ最南端から約3,000km、南極点までは約1,000kmの地点にある。ここまでは観光客も一緒のため、豪華な食事にお酒も出るという。阿部さんが注目したのは、ベースキャンプのテントについた名前だ。それぞれのテントには、南極史に名を残す偉大な探検家たちの名前がついている。そして、その中の一つには、白瀬矗の名前もあったという。

◆あまたの冒険の舞台となった南極。環境の大きく変わりつつある南極。さて、しかし今ここへ挑もうとする阿部雅龍とは一体何者か? 報告会はここから、彼の物語へと進んでいく。知り合いの映画監督と一緒に製作中だという短編映画が、特別に報告会の場で試写された。これから映画賞などに応募していく予定の作品だという。タイトルは「The Rebirth of a Hero - Story of Masa」だ。映像は、人力車を引く阿部さんの姿を映して始まった。彼は夢を追う男として活動する傍ら、人力車の車夫をやっている。

◆ドキュメンタリー調の映像の中で、段々と阿部さんの心の内が明らかになった。「なぜ人力車を引くの?」「冒険のための足腰を鍛えるため、日本を知るため」「なぜ冒険をするの?」「強くなるため、白瀬中尉のルートを完成させるため」

◆ここで改めて、阿部さんの真のゴールが説明された。“白瀬ルート”の走破である。日本人初の南極探検家である白瀬矗率いる隊は、アムンゼンが史上初の南極点到達をした翌年1912年に南極へ上陸した。

◆しかし、様々な理由で極点到達は断念。南極横断山脈超えを含むそのルートは今も未踏である。阿部さんの目標は、白瀬隊が通過したこのルートを極点へとつなぐこと、その延長線を走破することなのだ。「白瀬さんの途切れた物語をつなぐ」それが阿部さんにとって「英雄の再誕」であり「冒険」だという。南極での遠征から人力車まで、5年に渡る努力は全て“白瀬ルート”のための積み重ねだったのだ。

◆日々目標へ向かう阿部さんだが、楽しむ気持ちも忘れてはいない。映像には、2017年の挑戦の様子が映し出された。「100年前の探検家白瀬中尉の足跡をのばしての南極点単独徒歩到達。 その実現に誓いを立てる為に日本全国の神社一宮68箇所を参拝しながら6000kmを人力車を引いて歩く」人力車ジャパントラバースというプロジェクトだ。日本を駆け回る阿部さんを追いながら、カメラは彼の過去へと迫っていく。「強さとは?」「立ち向かうこと、問題にぶつかったときに逃げずにまっすぐ向き合うこと」「立ち向かいたいのは何?」「自分自身、自分に負けないように頑張る」

◆阿部さんの生い立ちは、決して平たんなものではなかったという。片親で、いじめられっ子。物心つく前に交通事故で亡くなった父のことは、写真で見る姿しか知らないという。そんな環境の中、好きになったのが仮面ライダーや白瀬中尉。誰もが無理と思ったこと、それを覆すような人に憧れたという。

◆今の彼は、少しずつそんな憧れの姿へと近づいているように見える。何を隠そう、阿部さんは正義のヒーローと何度も共演している。秋田県にかほ市にはご当地ヒーロー、スノーファイターNOBUがいる。アクションショーでは悪者たちに必殺「雪原キック」を繰り出す、子供たちの憧れだ。そして、同じく秋田県にかほ市の夢を追う男は、人力車ジャパントラバースのラスト、地元住民の拍手と花束に迎えられながらスノーファイターと熱い握手を交わした。正義のヒーロー、地元の英雄。今ではお父さんの写真そっくりになった阿部さんは、人力車と共にどんどん前へ進んでいる。

◆しかし、「夢」を追う道は険しい道だ。「ファンドレイジングの勉強をしてから冒険家になったほうがいいかも」と阿部さんは語る。どれだけ大きな夢を描いても、お金がなければ実行できない。資金を獲得する能力がなければ、大規模な遠征は出来ない。夢を見るのと同じくらい、現実も見なければいけない。阿部さんの暮らしは、同年代のサラリーマンの暮らしに比べれば質素なものだ。

◆独身で、今は彼女もいないという。少し生々しいですけれど、とカメラに見せた預金通帳は、南極での遠征費用を引いたあとはほとんど残っていない。奨学金も、返済中だという。そんな阿部さんについて聞かれた母親の発した言葉は力強い。「色々大変でしょうと周りには言われるけれど、無事に帰ってくれれば十分。何かあったら、引き取りに行きます」

◆ファンドレイジングが成功しても、他にも問題は山積みだ。十分なトレーニングを行った上で、ALEに実力を認めてもらうのは旅の必須条件である。短編映画はいよいよ終盤を迎え、極地冒険家エリック・ラーセンの元でレクチャーを受ける阿部さんに密着した。南極ガイドとしても仕事を行うエリックのもとには、南極での挑戦を志す人達が世界中から集まっていた。彼に認められなければ、ALEからの許可も取れず遠征を実施することも出来ない。

◆レクチャーへの参加者の中で、単独行に挑戦する予定だったのはMasaこと阿部さん一人であった。世界記録を狙った極地での冒険を行い、エベレストや南極での記録を打ち出しているエリックは、阿部さんを若い頃の自分に例えて、その挑戦心を称賛した。短編映画の締めは、エリックによるモノローグだった。それは阿部さんへのメッセージであるとともに、彼自身のプロフェッショナリズムについての言葉だったように思う。以下に、いくつか心に残ったフレーズを書き起こす。

◆「どんな個性を冒険で表現できるかが、いまの冒険になる。冒険の対象は我々の意識と体で、冒険はまだまだ人を惹き付ける。」「成功に必要なのはゴールを設定し、困難に立ち向かうこと。誰もが指を指して無理だと言うだろう。川を逆流するようなもので、その覚悟が必要だ。川の流れに乗った人生の方が良い。でも、ゴールを達成するには流れに逆らうしかない」

◆100年前の夢をつなぐために南極へ向かう阿部さん。彼が人を惹き付けるのは、彼もまた川の流れに立ち向かう一人だからだろうか。盛り沢山の内容だった短編映像が終わると、少し小話を挟んでから休憩時間となった。南極のそれとは随分異なるコズミックセンターのトイレに駆け込み、戻ってくるとすぐに後半。いよいよ今回の南極点単独徒歩行の話である。

◆まずは許可申請について。映像にもあったとおり、南極はALEの独占状態で、彼らへの根回しなくして単独での遠征は不可能だという。ALEからの許可をもらうため、彼らが信頼するガイドと関係を構築する必要があるのだ。加えて、過去の遠征や日頃のトレーニング、健康状態についての報告も必要だという。とても厳格なシステムだが、許可さえ取れれば遠征中のサポートは万全である。

◆続いて食料について。南極での遠征では、通常一日平均6000kcal程度摂取するという。最初は4200kcal程度摂り、徐々に増やしていき最後には6500kcalを日に摂取する。毎日バター1パック食べるのが当たり前だそうだ。外国人冒険家の中には、オリーブオイルをプラティパスに入れて毎日コップ一杯飲む人もいるらしい。買い出しは、南米でも行う。南極冒険家にはお馴染みだという冒険仕様のチョコも自作する。1kgのチョコにキャノーラ油ボトル半分。南極の寒さでもガチガチに固まらず、高カロリーだ。

◆一番盛り上がったのはトイレ事情についてだった。南極では環境保全のため糞便は持ち帰りが原則。常設トイレがあるベースキャンプでも、小便と大便は別々にしなければならないなどルールが複雑だ。「クレバスよりトイレの方がリスキー」と語る阿部さんには、妙な説得力があった。現地を知り、そこで長い時間を過ごしたからこそ分かる辛さだろう。風と寒さを避けるためにテントの中で用を足すと「寝袋がまみれてしまう」こともあったと苦笑いをしていた。

◆その他にも、南極での冒険に向けた阿部さんのストイックさは凄まじいものだ。「動きやすい体」を目指し、日々の健康管理には抜かりがない。体重や脂肪、筋肉の量を記録し、挑戦の内容に合わせて調整を怠らないという。また、装備の軽量化も徹底している。歯ブラシの柄に穴を開けて軽量化、全身剃毛して軽量化。一見馬鹿らしく思えるが「1gをどこまで気にするかが問題なんです」と語った。ロボット犬のアイボについては、ご愛嬌だ。

◆長期にわたる準備を経て、やっと南極点への単独徒歩行スタート地点へ立ったのは昨年11月23日。スキーを履いたツインオッターという飛行機で、メスナールートの開始点へと降りた。4人組の外国人遠征隊とのシェア便だったが、着陸後すぐに歩き出したという。単独行がルールだから、周りに人が居ては意味がないのだ。メスナールートには踏み跡もないし、4WDが横切ることも、上空を飛行機が通ることもない。自分との勝負。阿部さんは今回の旅を振り返って「体力的にはハードだったけど命のリスクは今までで一番低かった」と、何度か繰り返した。元々“白瀬ルート”挑戦への前哨戦としての位置づけ、旅は「楽勝のはずだった」のだ。

◆一番のトラブルは、異例のドカ雪と強風。阿部さんいわく、南極の降水量は砂漠並みで、通常雪は降らないのだが、今回は不運が重なったという。連日ホワイトアウトで、最大一週間も太陽なし。左ほっぺに当たるカタバ風を感じてのナビゲーション。時速800m、膝まで埋まる雪でソリが進まない。「真面目に生きているのに」「僕じゃなくでも良いじゃないか」と。全国の神様に会いに行ったのに、自然は無情だったのだ。

◆結局、道中に行程の遅れで食料不足となる恐れから計画を変更。12月23日に補給を受け、引き続き南極点に向けての歩みを進めたという。ツインオッターの燃油補給ポイントが食料備蓄庫となっており、10日分の食料を追加したのだ。残念ながら無補給は断念したものの、その後気候は回復。緯度86度から87度地点のクレバス帯も問題なく進み、予定よりも16日多い55日間かけてメスナールートの踏破を果たした。やっとたどり着いた南極点には、1959年南極条約に署名した12か国の旗がなびいた。その中には、戦後まもなかった日本の旗も含まれている。阿部さんはそのことに、日本人としての誇りを感じたという、

◆今回の遠征でかかった合計費用は1500万円程度。提供品を入れなければ約1100万円。夢と現実のバランスにもがきながら挑戦を続ける阿部さんは、自分のことを「母子家庭の肉体労働者だ」と言い、夢を追うためには応援してくれる人が必要だと語った。その姿勢は「自分のやりたいことのために、なに金をもらっているんだ」と批判されることもあるという。しかし、夢に届くまで貯蓄をしていたのでは肉体のピークの時期を逃してしまう。ジレンマを抱え、悩む中、海外探検家たちは応援を得ることに対しての考えは全く異なるという。例えば阿部さんがレクチャーを受けた極地冒険家のエリックは「スポンサーが付いていない方が悪い、社会の役に立っていないなら誰のためにやっているの?」と言うのだという。

◆英雄の再誕へと向けた“白瀬ルート”への挑戦は、今回よりも格段にスケールの大きな挑戦となる。体力的にも、精神的にも、金銭的にも、うんとキツいものになるだろう。南極点への単独歩行を追え「やっと挑戦権を得た」阿部さんは、逆流の中を、沢山の人に支えられて、夢に向かって走っている。(井上一星 早稲田大探検部)


報告者のひとこと

遠ざかる南極点を見ながら、気付けば泣いていた

 地平線で話すのは2回目だ。1回目は2015年の10月。グリーンランドの遠征に出る前だ。南極から帰国して約2か月経った。自分がまだ南極にいるような感覚が消えない。いや、感覚を消したくないのだ。僕はまだ南極にいたい。今回のルートでの南極点徒歩到達では死のリスクはほぼ感じなかったが、例年にない異常な積雪に苦しめられ体力的にハードだった。55日間の徒歩期間のうち54日間歩き、南極点に着いた時は消耗しきっていた。

 南極点に立ったときは感動がなかったが、南極条約原初加盟国12カ国の国旗が並ぶ南極点で日本の国旗が翩翻(へんぽん)するのを見た時は、自分が日本人である事を心から誇りに思った。沈まぬ太陽に照らされて世界の果てで日の丸が輝く。強く心に焼き付いている。

 南極点の事が今でも消化できていない、したくない。インプットされたものがアウトプットされる時は自分の行為を一歩引いて俯瞰的に見れるようになった瞬間からだ。つまりは主観から客観に移る瞬間だ。消化してしまうと自分の中から南極への情熱が消えてしまいそうで怖いのだ。いつもは1つの遠征が終わるとすっぱりと次の事を考える。こんな思いに駆られるのは南極だけだ。南極ほどに自分を惹き付ける場所はない。南極点に立ってもなおロマンに満ちた場所なのだ。

 極点到達した後に考えていたのは“しらせルートでの南極点到達”の実現だ。一度、到達できたことで本当のスタート地点に立てたような気がしていた。極点から1キロの所に民間キャンプがある。1つの遠征が終わったばかりなのに、極点キャンプで次の夢を語る僕。同じ様に厳しい条件で南極点に到達した外国人冒険家たちは、「もうオレたちは疲労困憊で次の事なんてしばらく考えたくないのに、よく次の事を考えるよ」と呆れ顔だ。

 南極点から南極半島の付け根辺りにあるベースキャンプにはプロペラ機で戻る。遠ざかる南極点を見ながら、気付けば泣いていた。子供の頃から憧れ続けた世界の果て。そこから立ち去るのが寂しくて仕方ない。絶対にまた還ってくる。しらせルートを現実させて。遠ざかる南極点。どこまでも拡がる白銀の南極プラトーに誓う。

 ベースキャンプに戻っても僕の“冒険”は終わらない。キャンプのスタッフたちをつかまえては、「必ずここに還ってきて夢を実現したい。だから協力してくれ」と話して回った。悪そうな言葉を使えばネマワシだ。キャンプには氷雪や天気の専門家、パイロット、民間キャンプ経営陣もいる。新規でルートを開拓するとなれば彼らの協力が不可欠だ。言い換えるならば、彼ら全員を僕に惚れさせなければならない。

 次の南極遠征は決して1人で出来る規模感ではない。こなしてしまえる優秀で特別な人もいるだろうが、僕の才覚では無理だ。そんなこと自分が1番良く分かっている。僕は凡人だ。調子に乗って自分の実力を買い被るほど愚かではないつもりだ。凡人でもやり方次第で天才にだって出来ない事が出来ると信じている。

 現実的な話をするとしらせルートの実現は困難を極める。未知未踏のルートを踏進して南極横断山脈を重いソリを引いて越える。南極横断山脈ではデビルズボールルーム(悪魔の舞踏場)と呼ばれるクレバス帯を通らなければならない。そしてスタート地点の大和雪原に立つ為の飛行機チャーターに1億かかる。一度南極点に立ったのだから経験は積んだ。遠征に関しては、相当に難儀するだろうが成功確率は高いと踏んでいる。問題は資金獲得だ。戦略は皆無。アテがある訳ではない。

 考えてみれば今までの人生の全てがそうだった。難しいとかお金がかかるというのは結果論でしかない。何をしたいかが大事だ。やりたいことが幼い頃に憧れた白瀬中尉の夢を完結させる、白瀬隊南極探検旗と日の丸を大和雪原で再び翩翻することだ。それがたまたま難しくてお金がかかるだけ。やりたいことがあるなら到達できる方法を考えればいい。出来るか出来ないかは2の次。剛直に突き進む事がやりたいのだ。36歳になった。今が体力のピークだと感じている。どんな事でも出来る自信と気力がある。40過ぎたら体力的にできなくなるだろう。人生は攻める時は思い切り攻めないと死ぬ時に後悔する。笑って死ねない。

 地平線で話すのはいつも異常に緊張する。通常の講演会で話さないこともバンカラに話す。違う環境は自己の成長につながる。地平線はやはり特別なのだろう。4年前に地平線で話してから僕はどれほど成長できただろう。

 今年の11月にはしらせルートの挑戦の為に南極に行きたい。それに向けて日々情熱を滾らせて動いている。今月4月末から人力車を引いて東北一周に2か月間行く。本当は東京にいて企業周りでもしたほうがいいのだろうが、現場に出たい気持ちを抑えられない。足を止めるな、走り続けろ。その先に僕が本当に目指してきた南極点がある。絶対に行くんだ、しらせルートで南極点。(阿部雅龍


先月号の発送請負人

地平線通信479号(2019年3月号)は3月13日に印刷、封入作業をし、14日郵便局に渡しました。駆けつけてくれたのは以下の皆さんです。ありがとうございました。このほか杉山貴章、加藤千晶さんが宛名制作にあたってくれました。
森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 伊藤里香 坪井伸吾 久島弘 兵頭渉 高世泉 武田力 江本嘉伸 松澤亮 光菅修


地平線ポストから

空き家ばかりなのに貸家がない私たちの浜比嘉

 すっかりご無沙汰してしまいすみません。実は昨年いったん消えた昇のがんが秋にまたできてしまい手術するはめに。幸い経過は順調です。

 昇の不在の間、約30頭のやぎと馬の世話はひとりでこなさなければなりませんでした。その間、毎日のように手伝いに来てくれた女子がいました。彼女は20代独身。関西出身ですが沖縄県立芸大に入り織物を学び、四年前に浜比嘉島に移り住んできました。伝統芸能や島の行事にも熱心に参加し、島の人たちも彼女を頼もしく思い、私たち夫婦も娘のように付き合っていました。

 彼女が住んでいた所はあるうちのあさぎやで、まあ納屋みたいなもんです。母屋には当時老夫婦が住んでいました。彼女は浜比嘉島で自分の工房を開くことを夢見て空き家を探していましたが、なかなか借りられる家が見つからず、やっと借りることになった家も寸前でぽしゃり、私もいろいろあたりましたが見つからず、先月、近くの島に空き家を見つけ島を出ていきました。なんとも残念な話です。

 どうして空き家ばかりのこの島に借りられる家がないのでしょう? ひとつは仏壇が残っているから。そしてまた、老朽化で、貸せるほどの状態の家がないから。もうため息ばかりです。住みたいといってくれる人はたくさんいるのに。なんとかならないものでしょうか。どんどん人がいなくなり島は寂れていくばかり。

 人が住まなくなった家が本当に増えました。民泊や貸家になったところもありますが定住してないから島の活性化にはなりません。本島や本土に住む人が住みもしないのに借りてほっといている家もあります。どうなるのかなこの島は。

 さて先述した彼女ですが、車で30分ほど行った島なんで、豊年祭やエイサーは島に戻って来てくれるはず。まあ近くの島に嫁に出したと思えば寂しくないさと昇と話しました。

 もずくの収穫が最盛期に入りましたが、今年は天候不順のせいか、もずくが大不漁だそうでうみんちゅが嘆いてます。今年は早くオフになりそうだとのこと。量がないので高騰しています。4月第三日曜日は「もずくの日」ですがあまり盛り上がらないかな?

 さあ今日もやぎの世話に追われる一日が始まります。あ、その前に犬たちを散歩に連れていかなくちゃ。ごんはもう高齢(確か16才)ですが散歩となると目が輝き猛ダッシュで走る元気じいさんです。かわいいやぎや犬たちにまた会いに来てくださいね。ではまた。(外間晴美 浜比嘉島)

“里帰り”したカンボジア

■こんにちは。お元気ですか? 3月末、2014年から2016年までの2年間、青年海外協力隊で理科教育隊員として派遣されたカンボジアに“里帰り”してきました! 今回は父との2人旅。久しぶりで、とても楽しみにしていたけれど、自身の職場の異動もあり、時間に余裕がない弾丸ツアーとなりました。前年度まで勤めていた学校の送別会を終えた私を、父親が迎えに来てくれ、深夜車をとばして大船駅へ。そこから成田エクスプレスに乗り、そして朝10時発の成田プノンペン便に乗りました。

◆プノンペンに到着してから気づいたのが、ビザの申請! 3年前は日本のパスポートでの入国はビザがいらなかったはず……。あわててビザを申請し、入国を認めてもらいました。いよいよ空港の外へ! うわー熱っ! 35℃の蒸し暑い空気が体にまとわりつきました。私の住んでいたポーサット州はここからさらに170kmくらい離れているから、すぐにタクシーに乗って出発! どこも大渋滞で、やっぱりバイクが多い。信号が増えている! ヘルメットはまだまだかな〜という感じでした。車の外を流れるすべての風景が懐かしく、帰ってきたことを実感しました。

◆荷台に人が押し込められているトラックが何台も通過したので、久しぶりのクメール語を使って、タクシードライバーに聞いてみると、靴の工場(中国の会社)で働いている人たちだと教えてくれました。工場で働いているカンボジア人にとっては、当たり前で、必要な交通手段。見ていて怖いなぁ半分、たくましいなぁ半分。プノンペンを出て、約1時間。クラクションをガンガン鳴らし、猛スピードで進むタクシーにすっかり慣れた父は、車の中で爆睡していました。

◆そして、現地時間の夜9時にポーサット州到着! 地元静岡から、23時間の移動でした。1日目は移動で終わり! 2日目、いよいよ活動場所だった教員養成校へ。到着すると同僚の女先生、ソッカーさんが出迎えてくれました。再会をハグで喜び、職員室や理科室を案内してもらいました。他の先生方も、私のことを覚えていてくれ、「元気? 何しに来たの? いつまでいるの?」とたくさん話しかけてくれました。すべて聞き取れなかったけれど、笑顔で再会できたことが本当に嬉しかったです。

◆ソッカー先生は「最近の理科の授業は以前よりも教える内容が難しくなったから、イクエに相談できなくて大変」と言っていました。カンボジアの教育の水準が上がることは良いことですが、それを支える教員への支援はまだまだ不十分であることを感じました。何らかの形で力になりたいな。ソッカー先生は私に手料理も振る舞ってくれました。「イクエが好きだったもの」といって、3品作ってくれました。

◆その中で、見慣れないものが! アリとアリの卵入りの蓮の茎炒め。私これ好きだったっけ? 困惑していると、「エビが売り切れだったから、代わりにいれたのよ」とのこと。なるほど。ちゃんとおいしくいただきました。ソッカー先生の私への愛は大きく、「イクエと一緒に泊まる!」とホテルに来てしまうほど。カンボジアでは、部屋ごとの会計が一般的で人数は問題なし。結局二晩一緒に寝ました(笑)。

◆今回の旅行では、ソッカー先生だけではなく、頼れるサポーターが。それは元隊員の小柳真裕さんです。2年間、苦楽を共にした仲間です。ポーサットで「TUK TUK FOR CHILDREN」というNPOを立ち上げ、田舎の村の子どもたち(幼児)に絵本や映画などにふれてもらう機会を作ったり、現地の教員を支援したりする活動を行っています。ポーサットに今でも住んでいて、カンボジア人を支援し続けています。同期のがんばっている姿を見て、私も日本の学校で何かできることがあるはずだとエネルギーをもらいました。

◆どんどん変わってゆく、カンボジア。変化がわかりにくい、日本。どちらもアンテナを高くしておきたいなと思います。さあ、4月からは中学校3年生の担任です。子どもたちの世界を広げられるような働きかけをしていきたい!(静岡 理科教師 杉本郁枝

韋駄天みわ! 平成最後の三題噺

1. 開聞岳へ登ったけど!

■薩摩半島の先端に薩摩一宮の枚聞(ひらきき)神社がある。朱塗りの鳥居の前に立つと本殿の背後にとんがった山が見える。これがご神体(神奈備山)であることはよくわかる。奈良の三輪山もおなじ形式であるが、ここ開聞岳の方がよりはっきりと地元民が山を畏敬していたことが感じられる。日本古来の祭神はすべて自然物であった。日本人は古くから山の神をあがめ親しんできた。

◆枚聞神社へは20年ぶりに来た。20世紀最後の日に日本縦断を果たすべく下島伸介と大隅半島の佐多岬を目指して走った。岬の上から大海原を見ているうちにフッと思った。大海原から九州に迫った人が最初に見るのは標高の高い開聞岳のはずだ。海から見た九州の果ては開聞岳だと考え、日本縦断の最終地点をこの山の上にした。根占港から山川港にわたり、924mの開聞岳に駆け上った。今回も20年前と同じに駆け上がろうと考えた。しかし2時間で往復できたコースに3時間半もかかった。

◆翌日もう一つの薩摩一宮新田神社、筑後一宮高良大社を回った。400段階段などすごい登りがある。石段脇は桜満開、ゆっくり眺めながらの登山だった。駆け上りたいのが本心だが前日の疲れでまったく足が上がらなかった。1週間毎日70キロ走ることができると地平線通信に書いたことがある。いまは毎日7キロ歩くことも無理だ。悲しいけど仕方ない。

2. 時代に置いていかれる

■「今年末にYahooブログが閉鎖になるけど、どうしたらいいか?」友人から悲痛なメールがあった。彼は13年間1日も欠かさずブログを書いている。それが閲覧できなくなると自分の過去が消えてしまうようで悲しい、と言う。コスパ最優先のIT業界は容赦なく不採算部門を切り捨てる。悲しいなどという感情は入り込む余地はない。若者なら新たな環境にすぐ慣れるだろうが、私たちは新たなIT環境に移るのはとてつもなく大変だ。「年寄りにはムリだよ!もうあきらめたら」と言われる。自分よりも先に、分身が消えていくのはどうにもならない寂しさだ。

◆体力は激衰え、頭脳は2周遅れ、でも! 今さら頑張っても追いつけない。このまま静かに消えていくのが自分にも世のためにもいいのかもしれない。そんな中、賀曽利隆の三千数百湯ギネス記録を見て驚いた。毎日10温泉以上入るのもすごいが、それ以上にIT音痴だった彼がTwitterを駆使して旅をしたことに驚いた。彼は昔から記録魔で、人には読めない字でノートにびっしりメモをしていた。それが今はデジタル通信だ。彼に触発されたが、真似するのはちょっと嫌なので私はフェースブックを選択した。なかなか慣れないが、ブログより簡単で反応ははるかに速くて面白い。

3. 新たなコレクションを始めた!

■終活の時期、我が奥さんはモノの収集を嫌がる。早く本や写真を整理してよ!という。今さらモノは収集できないが、形のないものならパソコンの中に収めることができる。70歳になってから奥さんと二人で四国の88か所(1200km)を歩き始めた。奥さんはこれまで無事に生きてきたことに感謝の意味を込めて歩く。私はどうもまだその心境にはならない。その時に88札所のコレクションのイメージが沸いた。多くの遍路さんは88箇所の御朱印を集めることを目的化している。モノを整理するように厳命されているので御朱印はなしで「行ったぞ!」との写真でコレクションをするという方法にした。

◆パソコンの中に作った棚には四国88箇所だけでなく多くのコレクションがたまっている。全国一の宮104箇所のうち90箇所ほどはすでに棚に収まっている。東京のお富士山(富士塚)は67箇所すべてを探し出した。さらに誰もやっていない東京の化石川探索、東京都区内の峠探索……山の手には峠の地形はいくつかあるのだ。

◆今は全国狛犬探索行でコレクションを増やしている。いくら増やしても奥さんは怒らないだろう。フェースブックは狛犬確認と私の生存確認。コレクションはホームページの棚の中と使い分けができるようになった。(三輪主彦

地平線会議の3か月

■初めまして、この春2学年に進級するとともにワンダーフォーゲル部に入部した、法政大学で社会学を学ぶ小口寿子(ひさこ)、19才です。地平線会議のサポートをなさる中嶋敦子さんのお誘いを受け、今年1月以来3回の地平線報告会に参加させてもらい、衝撃を受けています。

◆まず、1月の報告者、80代でもバイク旅をしたいと熱く語る賀曽利隆さん。10年をひと区切りに一代ごとに夢を持ってバイク旅を続け、70代で日本一周をやり遂げた今、また次を目指す。年齢などまったく関係なく、「何を成し遂げても冒険に終わりはない」ということを教えてくれました。エネルギーに満ち溢れていそうな若者でさえ、こんなにも強く熱くそして楽しそうに夢を語れる人はいないのではないでしょうか。賀曽利さんのお話は私に希望を与えてくれました。

◆2月、3月の報告会にも足を運びました。高野秀行さん、山田高司さんが語り、見せてくれたチグリス・ユーフラテス川に生きる人々のリアルな「生」は、すべてのお話が興味を惹かれるものでした。治安や物に恵まれているとは決して言えない厳しさの中で、工夫して生き抜こうとする人々がいる世界の頼もしさを、感じさせてくれました。葦で造られた湿地帯の上の家など、自然と密接に生活する様子には、憧れさえも感じさせました。

◆また3月の阿部雅龍さんは、「白瀬ルート」前哨戦としての南極遠征でトレーニング方法や遠征への持ち物などに独自の発想と工夫を持ち、旅や冒険の方法の多様性を教えてくれました。阿部さん独特のこだわりがあり、とくに現代ならではの冒険の工夫としてアイボ犬を連れて行ったことなどは、なるほど、そのような発想があったのだなと、と感嘆しました。冒険とはその人らしさが工夫の中に現れるものなのでしょう。

◆この3回の報告会を聞いて私なりに考えたことは、「世界が、自然が、こんなにもおもしろいもので溢れていることは、情報としては前から知っていたけれど、自分は今どれだけその世界に突っ込み、それらを楽しめているのだろうか」、ということです。経験が無いから、自分ができることが少ない。何ができるのかさえ分かっていない。

◆3月上旬、奄美大島へ1人旅をしてきました。突発的なアイデアでした。住み慣れた本州から海を隔てて遠く離れた島に行ってみたかった。人の少ないイメージのある静かな島に行ってみたかった。また、沖縄と同じようにアメリカから復帰した歴史を持つということが、日本の中で特殊な位置にある場所に感じて興味が湧いた。そして、元ちとせさんという奄美出身の歌い手の「この街」という曲が気に入ったということもありました。

◆成田から直行便で奄美空港へ。空港から海辺沿いに伸びるサイクリングロードを、自転車をレンタルして北に進む。土盛海岸を右手に通り過ぎ、奄美十景に数えられるあやまる岬の展望台へ。二つある展望台の海に近い方の高台へ行くと、掃き掃除をしている男性が、ウミガメが見下ろす青い海にいるよ、と教えてくれました。奄美空港のある笠利の町の次は、奄美の中心地、名瀬へバスで移動。3日間この町を中心に見バスや徒歩で見て回り、おがみ山公園にある復帰記念碑のある展望台から港町を眺めたりしました。

◆奄美4日目、バスで1時間ほどゆられ古仁屋の港へ。1日往復3便のフェリーに乗り、目の前の離島、加計呂麻島へ移る。人もあまり見かけず、家々の間でも聞こえてくるのは風や波の寄せる音だけで、とても静かな場所でした。港から宿へ坂道を歩いていたところを、通りかかった車の運転手さんが乗っていかないかと言ってほんの短い距離でしたが乗せて連れて行ってくれました。そのお兄さんとは翌日も歩いているところをばったり出会い、「良い一日を!」と挨拶をしてくれました。

◆島では皆がすれ違うたびに挨拶をします。車の中からでも頭を下げて会釈をします。それがとってつけたようではなくて自然体であるのがとても気持ちの良いものでした。小学生の娘さんと6年ほど前に移住してきて2人で暮らしているという宿のご主人も面白い方でした。もともと旅が好きなのか色んな所を転々としてきた方で、たくさんの本を置く旅人向けの古民家の宿となっていました。

◆この島では診療車と販売車が定期的に巡回していて、私も自転車での移動中に一度診療車が停まっているのを見かけました。最近はメディアでも過疎化の地域での移動車の活躍が報じられますが、このような離島では早くより利用され、既になじみのあるものになっていると感じました。

◆少々きつい勾配のある道の途中で、診療を終えて帰る途中の60代の1人の女性に出会いました。運動を兼ね、敢えて離れたところに来る診療車へ歩いて行ってきたといいます。この日、風は強く吹いていましたがとてもよく晴れていて、この坂から濃い青の海を眺めることができました。その女性が「ここは何も無い所でしょ。でも何も無いのが、いいのよ〜。」と笑顔で言っていたのが印象に残っています。

◆私も、人と物とに溢れる都会からそれとは正反対のこの島に来て「何も無いことの素晴らしさ」を実感しました。地元の方がまたそう言うということは、この島の存在の大切さを強く認識させます。この何も無い島で、一つ、自然とともに人が生きる美しさを見ることができました。

◆地平線会議は、私以外にも若い方は大勢参加しています。すでに海外で活躍している方が多く、その方々に私の視点での考え方が及びもつかないことは充分承知の上ですが、敢えて、これから外に出ていこうとする若者の立場で書かせていただきました。(小口寿子


今月の窓
番外編

8回目となった

「梅棹忠夫・山と探検文学賞」

 大阪府吹田市の万博記念公園内にある国立民族学博物館に、私が何度となく足を運んだのは、たしか2008年から09年にかけてのことだったと思う。梅棹忠夫関連の書籍や資料に囲まれた梅棹資料室で、梅棹さんご本人の横に座って書籍の構成や流れまで、お話を伺いながら編集作業をさせていただいた。学者然としたところがまったくなく、とても気さくで丁寧な対応をしていただいた。今から思えば、なんとも贅沢で豊かな時間と空間が流れていたような気がする。書籍はやがて『山をたのしむ』(2009年7月、山と渓谷社刊)という、四六判上製、368ページにものぼる大著となって出版された。それからわずか1年後にお亡くなりになられたのだから、生前のお元気だったころの梅棹さんご自身に本をお渡しできて、つくづくよかったと思っている。

 その翌年の5月、出版を記念して、長野市の平安堂という老舗の書店と山と渓谷社で、毎週、連続で山や冒険の講演会を開くことができた。あの沢木耕太郎さんと山野井泰史さんや、江本嘉伸さんと関野吉晴さんの対談というかたちで、毎回2名ずつゲストをお呼びして興味深いお話を伺うことができた。この講演会の企画運営に協力いただいたのが大町市在住の扇田孝之さんである。扇田さんは、かつて6年ほど、白馬村で「国立民族学博物館夏季セミナー」を実施し、梅棹さんをはじめ民博関係者とは旧知の関係にあった。たった1回の催しで終わるのは惜しいという気持ちから、「梅棹忠夫・山と探検文学賞」創設の話が持ち上がってきたのである。

 しかし、当初から苦難の道のりであることは容易に想像できた。そもそも原資のあてがない。地元の信濃毎日新聞社にも協力を仰ぎ、平安堂と山と渓谷社に資金援助をお願いして、なんとか「文化」のために資金を提供してもらえるようになった。5人の選考委員の人選や組織運営もすべて手探りの状態で、いまだ確固とした組織作りもできず、青息吐息のまま見切り発車するしかなかった。正直に告白すれば、「動き出してから考えよう」との思いで、スタートが切られたようなものだった。委員長を引き受けてくれた小山修三民族学博物館名誉教授の鷹揚さに助けられたようなこともある。

 もちろん、閉塞状態ばかりというわけではない。2010年3月にはすでに体力が落ちていたであろう梅棹さんの自身の励ましもあった。

 「本賞の創設がきっかけとなって、登山や探検活動がさかんになり、おおくの人びとの心に『未知への探求』の火が燃えさかることをねがっております」(梅棹忠夫「創設にあたって」より)

 そしてなによりも力になったのが、候補作品の質の高さだったと思われる。ほぼ毎回、最終選考まで残る作品は、ノンフィクションとして「梅棹忠夫」の名に恥じない優れた作品が多かった。梅棹さんの強い「未知への憧れ」と、その表裏一体ともいえる一貫したフィールドワークへの傾倒、そして梅棹さんの書物に対する思いの深さが、「文学賞」という名称に違和感を与えることもなく、さらに過去の受賞作品が「梅棹賞」の性格を端的に物語るまでになってきたとさえ言えるであろう。

 2011年の1回目から、受賞者および作品名を列挙してみよう。第1回角幡唯介著『空白の五マイル』、第2回中村保著『最後の辺境 チベットのアルプス』、第3回高野秀行著『謎の独立国家ソマリランド』、第4回中村哲著『天、共に在り』、第5回服部文祥著『ツンドラ・サバイバル』、第6回中村逸郎著『シベリア最深紀行』、第7回大竹英洋著『そして、ぼくは旅に出た。』の7冊があげられる。さらに最終選考まで残った作品のなかにも、梅棹忠夫賞を受賞してもまったく遜色ないものもあったのである。

 そして今回、第8回の受賞作は、佐藤優著『十五の夏』に決まった。詳細はウェブサイトにある「選考経過」に譲るが、その最終選考にノミネートされた作品は、小松貴著『昆虫学者はやめられない』、服部正法著『ジハード大陸 「テロ最前線」のアフリカを行く』、国分拓著『ノモレ』、そして佐藤優著『十五の夏』の4冊だった。

 どの作品も優劣つけがたく、特に後者の2作品は、未知への憧れとフィールドワークへの傾倒はもちろんのこと、「文学」作品として昇華された質の高さは特筆に値するものだった。紙媒体をはじめとする出版文化の衰退が叫ばれて久しいこのごろだが、そしてまだまだ軌道に乗せるまでは越えなければならないハードルが高いかもしれないが、しかし、こうしたノンフィクションの異彩を放つ作品が受賞作に決まれば、梅棹賞にかかわった一人としてほっと胸をなでおろすのである。

 「梅棹さんなら、きっと喜んでくれるにちがいない」

 そう思いながら、今後も「梅棹忠夫・山と探検文学賞」が発展・継続していくことを願わずにはいられないのである。(神長幹雄


地平線会議からの報告とお礼

 1年ほど前、地平線会議の懐がすっからかんになってしまい、皆さんに「1万円カンパ」への協力をお願いしました。どんな活動でも仕事するには金が要ります。40年もやってきてそんな体力なのかよ、と言われそうですが、まさにその通りなのです。地平線会議は1979年に発足以来、「会長なし」「会則なし」「会費なし」を“主義”としてずっとやってきました。本気でやるが、運営はある程度いい加減をよしとしないと長くは続けられないだろう。そういう判断がありました(地平線通信の読み手からは2000円をいただくが、これは会費ではない、通信費です)。

 発足当初、今回と同じ1万円カンパをやり、探検界の大御所を含め趣旨に賛同してくれた人たちの多大な支援を得ました。その後も10年に1回程度同じ「1万円カンパ」をやらせてもらいいろいろな試みを実行することができたのです。

 2018年2月、地平線口座の残額が「7774円」までに減ってしまったのを確認した時は、ほんとうにがっくりしたのですが、「40年」を機に皆さんに「1万円カンパ」をお願いしたところ、何度も伝えてきたように、全国あちこちから支援の心が届きました。2019年4月10日現在、その数132人。1万円カンパなのに、2万、3万、5万、10万と振り込んでくれた方も少なくなく、合計なんと162万円に達しました。ほんとうにありがたかったです。地平線会議への強い信頼を感じるとともにこの活動、意味あり、このまま続けるべし、と言われたのだ、と強く、深く責任を感じています。

 フロント集制作費53万円、40年祭会場費、諸経費15万円などすでに支出されたお金はありますが、当面これまで通りの仕事は続けられます。

 2020年、「プログラミング教育」が小学校で必修化されるとのことです。人間の社会というものは想像していた以上に変化してゆくものなのですね。そんな中で若者たちにほんものの行動者と触れ合える場を持ち続けたい、との強い思いを私は持っています。地平線がすごい、なんて宣伝はしません。青年たちよ、嗅ぎつけて来なさい、との気持ちです。

◆以下に協力くださった方々の名をあらためてあげて感謝の気持ちといたします。「1万円カンパ」としましたので、おひとりおひとりの金額はここでは出しませんが、内容はきちんと記録されています。「40年記念カンパ」はいったん終え、以後は通常の「通信費+カンパ」欄に継続記録することとします。なお、慎重にしたつもりでも必ずミスは起こり得ます。記録漏れはどうかご指摘ください。

2019年4月10日
地平線会議代表世話人 江本嘉伸

宮本千晴 三輪主彦 久保田賢次 光菅修 瀧本千穂子 河田真智子 三好直子 岸本佳則 岸本実千代 尾形進 高野政雄 竹澤廣介 花崎洋 高橋千鶴子 大浦佳代 豊田和司 田中明美・長田幸康 森田靖郎 澤柿教伸 樋口和生 小林進一 石原卓也 賀曽利隆 小林新 荻田泰永 関根皓博 長谷川達希 滝村英之 渡辺哲 原典子 太田忠行 徳野利幸 伊沢正名 中島菊代 貞兼綾子 北川文夫 大野説子 菅原茂 小村寿子 日野和子 岩淵清 中嶋敦子 河村安彦 長岡竜介 長岡のり子 長岡祥太郎 山本千夏 西川恵美子 坪井伸吾 兵頭渉 落合大祐 松原尚之 神長幹雄 塚本昌晃 古山里美 向後元彦・紀代美 秋元修一 新堂陸子 網谷由美子 飯野庄司 佐藤安紀子 井上和衛 埜口保男 江本嘉伸 丸山純 黒澤聡子 池田祐司 藤木安子 山田まり子 梶光一 久富ゆき 多胡啓次・幸子 横山喜久 寺澤玲子 米山良子 金井重 松澤亮 広田凱子 斉藤孝昭 西嶋練太郎 野地耕治 北村昌之 遊上陽子 平本達彦 塚田恭子 小石和男 藤本亘 中村保 野元龍二 滝野澤優子 長塚進吉 森国興 湯浅ふみ子 大槻雅弘 鹿内善三 神谷夏実 掛須美奈子 嶋洋太郎 櫻井悦子 大西浩 山畑梓 世古成子 武田力 白方千文 吉谷義奉 那須美智 北村節子 村井龍一 高世泉 村松直美 街道憲久 白根全 横内宏美 尾形康子 猪熊隆之 河野典子 青木明美 金子宏 野々山富雄 佐藤正樹 井口亜橘 北村憲彦 金子浩 北村敏 中澤朋代 小泉秀樹 西山昭宣 重廣恒夫 田中良克 松原英俊 波多美稚子 宮原巍 堀井昌子


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。なお、「1万円カンパ」は別に記載しています。

奥田啓司/石田昭子(いつも楽しくよませていただいています)/西嶋錬太郎(3,000円 うちカンパ1,000円)/谷口靖子(初めて払い込みいたします。よろしくお願いいたします)/林与志弘/吉竹俊之(地平線通信楽しく読ませていただいております。ありがとうございます。陰ながら応援しております) /堀井昌子(5,000円 通信費2,000円と、いつものようにカンパ3,000円を払い込みます) /竹下郁代(2019年通信費納入致します。いつも楽しく読ませて頂いています)/金子浩/澤柿教伸/沼田駿


今月の窓

成田に着くまでの9時間

■その名前を初めて聞いたのは、たしか1969年の1月、講談社のある雑誌の編集部でのことだったと記憶する。大学2年を終えて次年度は休学しようとしていた私は、3月からのモルディブ遠征のために支援を求めて新聞社や出版社を回っていたのだが、そこで雑誌記事を見せられ、聞かされたのがその名前だった。

◆「植村直己さんのことは知っている? すごい人だよ。4年半、世界を回って、ヒマラヤ、アルプス、アフリカ、南米の山を登って帰ってきた。アマゾン川も筏で下っているけど、旅の全体が大きすぎるものだから、ほら、アマゾン下りのことなんか、たった3、4行で片づけている。君たちも探検やるんだったら、このくらいスケールが大きいと応援しがいもあるんだがなあ……」。結局は、何本かのフィルムを提供するだけで私たちを追い払うための口実でもあったのだろう。だが、その編集者の感に堪えたような口振りとともに、植村直己という名が脳裏に刻まれたのは事実だった。

◆海外渡航の自由化(1964年4月)直後に出国した植村さんが、最初の旅を切り上げて帰国したのは68年10月のことだ。新聞や雑誌で話題になる中、翌年2月にはまた日本山岳会のエベレスト偵察隊員として出国する。以後の活躍は、いまさら私などが語るまでもないだろう。その私はといえば、伝えられる植村さんの話題を雲の上のこととして聞きながら、スケールの小さな探検の道を歩み始めた。

◆モルディブでの半年の活動を経て、法大探検部の仲間と共にスリランカの密林遺跡探査に着手すると、宮本千晴、向後元彦、三輪主彦、伊藤幸司といった人々が熱心に応援してくれ、やめるにやめられなくなった。その間には編集者という正業(?)にも就いていたので、地平線会議の発足(1979年)後はしばらく大人しくしていたのだが、82年末にトール・ヘイエルダールがモルディブで「太陽神殿遺跡」を発見したと聞いてからは、そうもいかなくなった。そして、植村さんとの思いがけない因縁が、そこから生じた。

◆南極の犬ぞり旅行とビンソンマシフ登頂計画がフォークランド紛争によって挫折したあと、失意(?)の植村さんをテレビ局がモルディブ遺跡探検番組に引っ張り出したのは、本誌2月号で江本嘉伸さんが書いたとおり「好意」でもあったのだろう。だが、現場で「競合」することがわかった私が電話して「地平線会議の…」と名乗っただけで、植村さんの奥さんの公子さんは「ごめんなさい!」とまず言った。「真面目な調査を邪魔することになるわねえ…」。植村さんも「今回は一方的に引っ張り出されて…」と、私の調査との競合が不本意であることを訥々と語ってくれた。

◆その言葉や対応どおり、現場で出会った植村さんは、テレビチームと私との間に入って気苦労している様子がありありだった。勝手知ったるフィールドとはいえ、有名な大先輩に迷惑をかけながら親切にしてもらうばかりの私は、恐縮し感謝する以外になかったが、本当に植村さんらしい植村さんに出会えたのは、その数日後だと言っていい。

◆先にモルディブからスリランカに出た私が、空港で帰国便に乗ろうとすると、そこには植村さんらテレビチームが乗り合わせていた。飛行機が飛び立つとすぐ、植村さんはチームの席を離れて、後方にいる私の席の隣に移ってきた。「成果はありましたか?」と聞いてきたのは、専門家のいないテレビチームが探りを入れるのとはまったく違って、私を気遣ってのことだとすぐに分かった。「ええ、まあ」と応じると、それからは四方山の話に移り、お互いのこと、共通の知人のことを語り合った。

◆宮本千晴、向後元彦、江本嘉伸、街道憲久、関野吉晴といった名がそこで出た。多くを私が質問し、植村さんは訥々とだが多弁に答える。ここでは書けない話もあるが、探検や冒険と「お金」の話になったとき、自身の純粋な思いと現実との間に生じる矛盾を、苦しげに語っていたのが印象的だった。そして何度か、私の探検を私なりに続けるようにと励まされた。

◆機内サービスの酒を飲みながら、成田に着くまでの約9時間、そうやって植村さんと語り合ったのは、私にとっては緊張を伴いながらも得難く持ち得た「至福の時間」だったのだと今では思う。飛行機を降りても並んで歩き、税関を出たところで再会を約して別れたが、それが植村さんとの別れとなった。植村さんにとっても、それが「最後の帰国」となってしまった。3週間後にはまた米国に向けて出国したまま、植村さんは二度と帰らなかったからだ。

◆あのとき、ヘイエルダール発見の「太陽神殿遺跡」が「仏塔遺跡」の間違いだったと突き止めた私は、「植村直己最後の帰国便」に同乗して、2人だけで語らいながら帰ってきたのだ。最初の著書『モルディブ漂流』にも書いたそのことを忘れたことはなかったが、1983年10月2日のその日から35年の時が経ち、どうした因果か、このたびは「植村直己冒険賞」をいただくことになってしまった。植村さん亡き後に読んだ著書、雑誌に評伝記事を書いたことなど、語り切れないさまざまな思いがあるが、こうなると、植村直己が「記憶」にではなく、なにか「人生」に刻まれたような気がしてならない昨今である。(岡村隆


あとがき

■ほんとうに寒い1日となった。5℃だった都心の気温は4時を過ぎて4℃に。羽毛のチョッキを引っ張りだして机に向かう。奥多摩町では0.2℃だとか。それだけではない。関東のあちこちから雪の便りが届く。冬用タイヤでない車はあちこちで滑っているらしい。うーむ。新「年号」、新「紙幣」発表の4月。実は多難かも。

◆地平線カレンダー、入手した人には大好評ですが、カレンダー自体は昨年中に入手済みの人が多くいま一つ売れ行きが……。私は今回の『猫翳礼讃 byou ei rai san』は素晴らしい、と思い自分の買った分を何人かの友人に送っているのですが大変好評です。今日も「猫カレンダー届きました! 版画調で素敵。長野さん、素晴らしい才能ですね。部屋にかざって1年楽しみます。ありがとうございます」とメールが来ました。

◆何度も書いてきたことですが、カレンダーは地平線会議が誇るに足る「作品」です。まだ少しあるようなので作品としてぜひご購入を。手にしてみなければわかりませんが、素晴らしい出来栄えがなんと500円ですよ。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

うたかたのゆくえ

  • 4月26日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室
※今月から以前の会場、新宿スポーツセンターに戻ります。

「今じゃないと、この変化が見られないと思って、それまで全く意識していなかった社会主義国を見ようと飛び出したんです」というのはバイクで世界中を旅するライターの滝野沢優子さん。ボーランドから火がついた東欧革命の年、'89年のことでした。まだ旅人など皆無に近い東欧を2ヶ月走ったこの旅が優子さんのバイク人生の転機になりました。

その2年前の'87年、中国を起点にヨーロッパへ7ヶ月の一人旅をしていた中畑朋子さんは、平和で自由な雰囲気の天安門広場に感銘を受けました。一方で西ドイツから見たベルリンの壁の閉鎖的な印象も。'89年にはこの2つの場所が正反対の展開を迎えます。

「世の中ってこんなに変わるんだ」とショックを受けた中畑さん。日大探検部時代から通っていた地平線報告会で出会った行動者達からの刺激もあり、うつろう世の中で、自分にとって大切なテーマは何かを考えます。衣食住の「衣」に巡り合い、現在に至る染織家としての道を歩きはじめました。

日本では、'89年が明けて間もない1/7に昭和天皇が崩御します。マスコミではCMをはじめ一斉に自粛が始まり、歌舞音曲がはばかられる緊張した空気に世の中が包まれました。

当時小学校低学年だったかとうちあきさんは「世の中、こわい」と感じます。皆が一斉に同じ方向を向きはじめる同調圧力の不気味さへの恐怖心でした。社会の流れに安易に迎合したくない気持ちは、高校時代にはじめた野宿旅へと発露し、野宿仲間と共にサブカルチャーを面白がる現在の行動力につながりました。

'11年3月11日の東日本大震災、そして未曾有の人災である原発事故を経て、3人の行き方はさらに変化をします。今月は滝野沢、中畑、かとうの御三方を迎えての平成最後の地平線報告会。来し方行く末を自由に語っていただきます! 化学反応に乞御期待!


地平線通信 480号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2019年4月10日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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