2019年3月の地平線通信

3月の地平線通信・479号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

3月13日。日経新聞一面トップは「日仏統合 棚上げ」。読売も「日産・ルノー・三菱自 3社連合 合議制に」朝日は「来年のオリンピックまであと500日」という時点をとらえて「復興五輪」の源流とは何だったか、を特集、「ルノー会長、日産会長就かず」を準トップで報じている。カルロス・ゴーンというカリスマの逮捕劇、日本とヨーロッパを結ぶこれまでの経済活動にはなかった異様なドラマであり、今後さまざまな考察がなされるだろう。

◆2、3日前、犬がヒマラヤ7,000メートル峰に登った、とのニュースが気になった。ヒマラヤの登山ガイド会社を運営するシアトルのアメリカ人がメラピーク(標高6,654メートル)からの帰り道で、一匹の野良犬と仲良くなった。「メラ」と命名された犬はその後も登山家たちのあとをついて歩き、ついには標高7,120メートルのバルンツェ峰に登頂してしまった、というのである。

◆犬が登山する話はあちこちで聞く。それを批判する人も多い。かって、山岳耐久レースで犬連れ夫婦に出会った時は私も、ん?、という気分になった。しかし、ついてきてしまう犬もいるのである。青春のある日の不思議な体験をバルンツェ峰登頂のわんこの話から思い出した。はたち前後の若者も少なくない地平線だ。私のようなジジイでも意外に踏ん張っていた時もあることを伝えておこう。

◆大学山岳部時代、穂高の滝谷という岩場に通っていた当時の話である。北穂の頂上にテントを張るか涸沢のテント場からいったん北穂まで登って沢を下り、第一尾根やドーム壁に取り付くことが一般的だった。が、私たち外語大山岳部は「降って登るより下からまっすぐ登った方がすっきりする」と考えた。穂高の信州側は梓川という清流で知られるが、反対側の飛騨側は槍ヶ岳に発する雪解け水を集めた奔流、蒲田川が流れる。その最上流ちかくに滝谷出合いがあり、そこから滝谷は北穂に突き上げている。

◆滝谷にはAからFまで6本の沢がある。その年の3月、私と相棒は最も急峻なD沢から奥穂高岳を目指してベースとしていた槍平小屋を出た。シャンデリアのような蒼氷が美しい雄滝に達したのは午前6時だった。前日バイルでステップを切ってあったので氷のピッチは難なくこなし、ラッセルを交代しながら滑滝の下まで進んだ時である。白と黒の体重15キロほどの犬が現れたのだ。どうしてこんなやばい場所まで来たのか。

◆きのう入山の際、中崎山荘という小屋の犬がついてきてしまったが、滝谷出合付近でどこかに消えてしまった。自分の小屋に帰ったか、と思っていたがそうではなかったのだ。これ以上はだめだ、引きかえせ、と言ってみるが、犬は動かず以後私たちと行動を共にした。D沢最上部はアイゼンの爪がなんとか効く程度の急斜面である。犬は血をにじませながら爪を立て、私たちについてくる。稜線に出て知り合いの他の大学パーティーと出会う。前穂から北穂アタック、とのこと。もう目の前だ。犬はそのままついて行く。

◆奥穂に登り、D沢のコルまで戻ると犬は再び私たちに合流した。ここからが正念場だ。短いロープで犬を結び、前後を私たちが確保しながら一歩ずつ下る。上部の急峻な氷の斜面をスタカットで6ピッチ慎重に慎重にくだった。雄滝の上までたどり着いたのは夜の7時。ハーケンを2本打ち込み懸垂下降の支点とした。人間が下る前に犬にザイルを巻き、投げ下ろす。一時はシュルンドにはまり込んでしまったが、なんとか引き上げた。疲れ果てたが、いのちと戦い、なんとか守ることができたことの充足はあった。

◆犬とのつきあいは長く、さまざまな思い出がある。しかし以下のことはつい昨日の鮮烈な出来事だ。2月末、「5、6才の飼い主不明の柴犬が迷い込んで保護している。もしかして預かってもらえませんか?」と四谷に住む知り合いの犬好き婦人から連絡があった。1年半前に旅立った麦丸を世話してくれた人であり、短期間ならいいか、とOKを伝えた。3月になって「実はその柴の飼い主は現れました」と安心する知らせが届いた。「でも、代わりに……」

◆なんとまだ子どもの柴を引き受けてくれないか、というのである。わけありで店頭に出せない柴犬らしい。もうその家に来ている、という。私は動顛してしまった。まだ2か月少しの幼いわんこが引き取り手を待っている。しかも、世話役の女性の家にはやはりわけありの大型の“びびり”犬がいて、ちび犬と一緒にしておけないという。想像しただけで心が熱くなった。とにかく一目会ってみるしかない。雨の中、連れと一緒にその家に向かった。両手にやっとおさまるほどの小さな茶色のいのちが待っていた。

◆久々に生き物が家にいる。好き勝手に走りまわり、私の手足を甘噛みする風景はなんとなごむのだろう。ちび(雌なので仮に「りん」とした)は、すぐ私に安心したようであっという間になついた。いいんだろうか。こんな愛らしいものをまた抱え込んで……。自問しながら以下、あとがきへ。(江本嘉伸


先月の報告会から

沼のイラク、源のトルコ、水旅珍道中

山田高司 高野秀行

2019年2月22日 新宿コズミックセンター大会議室

━━母なる大河

■トルコ東部、アララト山の麓近くに大河ユーフラテスの源流はある。アララト山は大洪水を逃れたノアの箱船が辿り着いたとされている円錐形の火山だ。トルコと国境を接しているアルメニアでは富士山に似たこの山を古代から「神聖さ」と「自由」を象徴する山として捉えていたという。近くで産出される大理石は、サンゴ礁からなる石灰岩が火山の熱を受けて変成したものだ。

◆アララト山のある東アナトリア一帯の山脈は、9千万年前にアフリカプレートから分かれたアラビアプレートが、4千万年前にユーラシアプレートにぶつかった際にできたもので、サンゴ礁はその移動に伴って運ばれてきたものなのだろう。そんなプレートの衝突によってできた山脈の間を縫うようにして流れるユーフラテスの源流は、やがて農耕の発祥地であるディヤルバクル北方のケバン湖に流れ込み、幾つかの湖と国境を越え、大河チグリスと合流した後、ペルシャ湾に辿り着く。

◆一方、チグリスはディヤルバクル近郊のタウルス山脈を源流とし、クルディスタンを抜け、バグダッドを潤し、ユーフラテスとの合流地点を目指す。このふたつの大河は東アナトリアの山々の雪解け水による氾濫を繰り返し、メソポタミア文明を生み出す肥沃な三日月地帯をつくりだした。そんな母なる大河を昨年の1月と8月にノンフィクション作家の高野秀行さんと地平線会議同人である山田高司さんが訪れた。それは20年前の約束を守るための旅だった。

━━出会いとアグロフォレストリー

■ふたりの出会いは今から28年前の1991年。87年のコンゴ川を最後に政情不安なナイル川を残しパンアフリカ河川行を中断した山田さんが、「緑のサヘル」を立ち上げた年だ。農大探検部だった山田さんは1981年に南米大陸の3大河川をカヌーで縦断し、それをきっかけにして「青い地球一周河川行」という計画をスタート。85年にアフリカに渡り、セネガル川、ニジェール川、ベヌエ川、シャリ川、ウバンギ川、コンゴ川と川旅を続け、アフリカの大地とそこに住む人間の強烈な生命力に魅せられた。そして、同時に砂漠化と森林破壊のすさまじさを目の当たりにした。

◆川から学んだモットーは、「遊び心8割、真面目さ2割」という山田さん。「地球のグランドを整備しておかなければ遊ぶに遊べない。自信と誇りを持って地球を遊ぶために、地球のグランドを整備しなければ」と木を植えることを決心する。そんな当時の心境を彼は手記「川よ森よ地球よ」の中でこんな風に記している。『川からアフリカを見るだけでは物足りなさを感じていた。その源の森のこと、人々の暮らしを、住み込んでもっと知りたいと思っていた。もっと深く観る目が欲しかった。川から世界を見る訓練をしてきて、地球の庭師になりたいと思うようになった。ナイル川下りの前にチャドで植林するのも悪くない。植林プロジェクトをやりながら地球の庭師修行をしようと決めた』

◆一方の高野さんは87年に早稲田大学探検部としてモケーレ・ムベンベ(コンゴ・ドラゴンとも呼ばれる未確認生物)を捜索する遠征隊を結成し、88年コンゴ民主共和国のジャングルでゴリラやニシキヘビを食べながら3か月間、ムベンベを探し続けた。奇しくも同時期にコンゴにいたふたりだが、91年の出会いでは顔見知りになる程度でしかなかったという。ふたりの関係が変わったのは97年。「緑のサヘル」のメンバーとして5年間チャドで植林を続けながらナイル川下りの機を伺っていた山田さんが、「ナイルの会」を立ち上げるために帰国したときだった。

◆「ナイルの会」の目的はナイル源流での植林事業。そのためにはまずナイル源流域5か国(ルワンダ、ウガンダ、ケニア、エチオピア、スーダン)を調査する必要があった。「アフリカを知っていて、経験があって、英語とフランス語をある程度話すことができて、すごく暇で、ノーギャラでも参加できる人間がいないかと探したら、ひとりいたんだよ。それが高野だった」。

◆4か月の調査の中で高野さんは山田さんからアグロフォレストリー(耕地の中に土を肥やし、果実をつけ、家畜の餌になる樹種を植え、農業を安定させ、自然生態系の循環も考慮した複合農業)について学んでいく。「僕は文科系の人間で民族や文化、言語については知っているのですが、自然や地理に関しては弱いんです。特に環境問題については何も分かっていませんでした。最近持続可能な社会という言葉をよく耳にするようになりましたが、それはその当時アフリカで既にお題目となっていたものでした。今になって日本で流行っているのにはびっくりですね」。「山田さんからは持続可能な社会についての全体的な理論から、個々の事象について学びました。例えばマメ科の植物であるアカシアがサヘル地域のような環境でどんなに大事なものかといったことを。山田さんは僕にとって最初で最後の師匠のような人ですね」。

◆アグロフォレストリーの中核をなすアカシアの木は、空気中の窒素を固定し肥沃度を回復することで土壌に栄養を与え、農民や動物の隠れ場所と日陰を作る。高タンパクの実は家畜の飼料になるのに加え、何種類かの鳥類の住処にもなる。中でもアカシア・アルビダ(白アカシア)という樹種はマジカルツリーとも呼ばれ、アグロフォレストリーには絶好の樹種だ。

◆サヘル地域の普通の樹種は雨期に葉をつけ、乾期に落とすが、アカシア・アルビダは逆で雨期に葉を落とし、乾期に葉をつける。モロコシ、トウジンビエなどサヘル地域の穀類はイネ科なので、その作付け期である雨期に十分な日光を必要とする。そこで畑の中に葉を繁らせる木があっては邪魔になるが、アカシア・アルビダはその間葉をつけない。またアカシアの根系は、劣化した土壌を避けて深く地下水面まで届き、奥深くにある有効水をも蓄えることができるのだ。

◆高野さんは調査の3か月後にはケニアにあるアグリフォレスト研究所の受付女性が感心するくらいその意義について話しができるようになっていたという。そんな旅の中で交わされた約束が「治安が回復したらパンアフリカ河川行最後の川、ナイルを下る。その時は誘う」というものだった。その後、いずれはナイルをという想いを胸に山田さんはルワンダで植林事業を続けたのだが、上流域の治安は一向に回復することはなかった。

◆やがて月日は流れ、昨年高野さんから「そろそろ約束を果たしてください。ナイルは未だ無理ですが、チグリス・ユーフラテス川なら行けるでしょう」と連絡がきた。「アフリカを飛ばして次に行くつもりはない」と言っていた山田さんがチグリス・ユーフラテス川行を行くことを決めたのは、長年の友への信義からだったのだろうか。高齢の父親に「お前、(イラクに行くなんて)バカじゃないのか」と反対され、悩みに悩んだが、義兄に背中を押され旅に出た。

━━イラク行

■ふたりが最初に向かったのはイラクの玄関口バクダット。高い建物が少なく、日干し煉瓦の建物が立ち並ぶ街だ。街中からチグリス川を眺めることができる。イラクと言えば、自爆テロが直ぐに思い浮かぶが、実際にはそれほど危険な気配はない。自爆テロが多発していたのは3、4年前で、市街地では既に起こらなくなっている。そんなイラクでは千葉大学の大学院生ハイダル君にふたりは世話になった。

◆日本で政治学を学ぶ彼はイラクの宗派対立について宗教指導者、政治家、族長にインタビューしようと帰国していたのだが、全て断られ、いきなり暇になったという。イラクには建前上宗派対立はないことになっているからだ。親切な彼に旅の間何度もお礼をしようとしたふたりだったが、ハイダル君は頑として受け付けなかったという。ゲストの面倒はホストが全部見るというアラブの古い風習が残っているのがイラクなのだ。

◆イラクは家系図を辿っていけば、ムハンマドを越えてノアの息子まで遡ることができる歴史ある土地でもある。国内にエデンの園があったと言われる場所もあり、そこには今でも枯れたリンゴの木が残っている。そんなイラクは実は隠れたグルメ大国でもある。国民食のひとつである鯉の円盤焼きは、背開きした鯉を薪でじっくり焼き上げたもの。姿形は日本の鯉とそっくりだが、臭みが全くなく、脂が乗っていて美味しい。

◆そして、もうひとつの国民食は水牛の乳からつくられる乳製品。またクッパと呼ばれるひき肉と玉ねぎの入った餃子のようなものも美味だ。バクダットにある午前中しかオープンしていないクッパの有名店は、いつも人で溢れている。店の前で何度か自爆テロがあったそうだが、客足は全く途絶えない。イラク人の食に対する情熱を感じる逸話だ。またタバークという米粉でつくった円盤状の食べものは、粘土板の上で焼き上げる。燃料は葦。かつて楔型文字は葦を使って粘土版の上に書かれていたが、文明の発祥の地では筆記用具と調理道具が同一なのだ。タンノール(インドではタンドール)と呼ばれる窯でつくるホブスと呼ばれるパンも美味しい。

◆しかし、イラクには当然のように一般の観光客はほとんどいない。一番の理由はビザを取ることができないことだ。仮に取れたとしても地方に行くための公共の交通機関はなく、自由な旅がほとんどできない。更に言えば、治安の問題から知り合いから知り合いへと常に信頼できる人を繋いでもらわないと旅はできない。今回のイラク行には「信頼できる人を見つけ、更にそこから信頼できる人を繋いでもらう」というふたりがこれまでの旅で培った無形の技術が凝縮されている。

━━川旅への想い

■このイラク行に出発する3年前、ふたりは2週間ほどの時間をかけて北上川を下っている。その時の記憶が楽しく、初めて川に触れた気がしたという高野さんは川旅についてこんな想いを抱いている。「ストイックにぎりぎりと上に突き詰めていく山に比べて、川はほぐれていくという感覚ですね。自由というのはこういうことなのかなって」

◆川旅はその土地の一番最下層を流れる。だからこそ、世界を下からの目線で見ることができる。旅をしている間、常に土地の人に見下ろされる旅。上陸後、再び川に帰っていくときにわびしさと自由が入り混じるが、それがなんともいいのだ。探検部時代、多摩川と四万十川しか経験のなかった高野さんは、そんな川旅に魅了されていった。しかし、普通の川旅をするのは嫌だった。高野さんのモットーは「誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをやり、それをおもしろおかしく書く」こと。

◆そんな彼の前に現れたのが、「沼のイラク」だった。イラクと聞いて思い浮かぶのは、焼けつくような太陽の下の乾いた世界だろう。しかし、イラク南東部、チグリス川とユーフラテス川の合流地点にアフワールと呼ばれる大湿地帯がある。その四国ほどの広さの湿地には水牛を飼い、葦の家に住みながら、舟で移動する水の民がいるのだ。今となれば、どうして東南アジアのようなもっと普通のところから始めなかったのかと苦笑いする高野さんだが、そのときはそれしか目に映らなかった。そして、「これこそ山田さんと一緒に行くべき場所だ」と確信した高野さんは、半ば強引に山田さんを引っ張り出したのだ。

━━沼のイラク

■バクダットに到着後、ふたりはアフワールへ。実はアフワールの湿地帯はフセイン政権下で一度消滅している。湾岸戦争の後、アフワールを拠点にしていた反抗勢力を恐れたサダム・フセインが湿地帯に流れ込む水を堰き止め、潰したのだ。湿地帯は身を隠す低灌木や葦があり、全てがどろどろ、ぐちゃぐちゃで大きな軍勢が攻め入ることができない。馬も象も、当然戦車もだ。

◆湿地帯は中国の水滸伝でもあるように古今東西マイノリティーやアウトサイダーが逃げ込む場所なのだ。日本では織田信長を苦しめた一向一揆衆がそうした場所を拠点としていた。そんなマイノリティーの拠り所であるアフワールには2000年前に生まれた新興宗教もひっそりと存在している。その名もマンダ教。ユダヤ教から分離した原始キリスト教の姿を今日に残している。絶対的平和主義者のマンダ教徒は古代アラブ語を話し、信仰の対象はヨハネ。彼らの教義では、人は光の国から闇に覆われているこの世界にやってきて、やがて光の国に戻っていくという。

◆一度湿地が消滅したアフワールだが、フセイン政権崩壊後、地元の人が堰を壊したことで再び水が流れ込み、湿地帯が戻ってきた。今では40〜50%の湿地帯が回復している。そんなアフワールに住む水の民の生活で第一の収入源は水牛の乳からつくられるクリームやバター、チーズなどの乳製品。イラクの国民食である乳製品は、アフワールの水牛の乳によってつくられる。

◆湿地帯で獲れた魚や葦も重要な収入源だ。葦は燃料になるだけでなく、水の民の住む家の材料にもなる。彼らの家はチバイシュと呼ばれる葦と泥を交互に積み重ねてつくった浮島に建てられ、その周りで水牛が放牧されている。湿地帯には集落というものはなく、それぞれ自分のテリトリー(浮島)がはっきり分かれているところは、遊牧民的と言えるだろう。飼っている水牛の糞は乾かした後、調理用の燃料となる。葦に比べて高温になるだけでなく、煤も出ないからだ。

◆一方、ムディーフと呼ばれる葦の家は水の民の一族が集まる豪華なものだ。入り口に葦でつくった4本の尖塔を持ち、アーチ状につくられたそれは光差し込む洞窟のよう。この製法は5000年前から変わっていない。イラクには専門の大工集団が4組いて、湾岸諸国で同じような葦の家をつくっているという。またアフワールで以前と変わらぬ生態系を保つイランとの国境地帯の湿地には豊富な魚類を目当てにした白いペリカンの群れが舞い降りる。

◆国境地帯と言っても実際には国境はなく、人々は舟で自由に行き来しており、麻薬の密売も多く行われているそうだ。湿地帯の水深は浅く、30〜50センチほど。気を付けなければ船外機のプロペラが水底に着いてしまう。そんな湿地を水の民が舟での移動の合間に歌うのは、恋の歌。ゆったり竿を湿地に差し込みながら、朗々と歌いあげる。

━━源のトルコ

■「沼のイラク」から一旦帰国し、8月に改めてトルコに向かったふたりのチグリス・ユーフラテス川源流の旅はディヤディンから。ディヤディンからはアララト山を遠くに臨むことができる。直ぐそばにはイスタンブールとイランの首都テヘランを結ぶ国際道路が走っているが、この川がユーフラテスの源流だと気付いている人は少ないだろう。

◆源流の川旅のために日本から持参したのはパックラフト。パックラフトは川や湖が点在するアラスカの原野を旅するために生まれた小型のボートで、空気を入れて膨らませるとゴムボートとカヤックの中間のような形状になる。重さは2〜3キロほどと軽く、頑丈で空気を抜けばバックパックにも入る優れものだ。4日ほど下った後はケバン湖に北方から流れ込むムンズール川へ。雪解け水が地表に染み込み、透明度の高い水が泉のように湧き出して川となっている。

◆ムンズール川の透明度は、長野県を流れる梓川の清流をイメージしてもらえばいいかもしれない。川辺に立ち並ぶのは柳と楢、その足元には蓼やキク科の植物が群生している。一方、チグリス川の源流は泥の川。古都ディヤバクルから川を下るが、上流の採石場と綿農場のために川の水は濁っていた。途中、クルド人の若者たちの歓迎を受け、サズ(長いネックを持つリュート属の撥弦楽器)の音色に合わせながらふたりは踊る。更なる下流にはコロラド川のような景色も。

━━舟工房

■そんな旅の合間にふたりは自分たちの舟をつくってもらおうと舟大工を探した。自分たちの拠点となる舟を持ちたいと思ったのが、きっかけだ。イラクでふたりが訪ねた工房では若者が舟をつくっていたが、遠目にはきちんとつくられている風の舟も近くで見れば隙間だらけ。しかし、イラクではそんな舟でも問題はない。なぜなら太古からこの地ではコールタールが取れるからだ。隙間があってもコールタールで埋めてしまえば浸水の心配はない。3メートルほどの舟は3日で完成し、150ドル。部族長が乗る舳先の長い舟は完成まで2週間を要し、費用は小型の舟の6倍ほど。イラク情勢が不透明のため、ふたりは気長にときを待ちながら、いつか舟をつくって旅をするつもりだ。

━━約束の旅

■ふたりの報告の後、農大探検部創設者の向後元彦さんからは世紀の大発見かもしれないと指摘が飛ぶ。映像にイラクにはないとされるマングローブのようなものが写りこんでいたからだ。また東京農大造園科卒でランドスケープ・アーキテクト(景観設計師)の望月昭さんからは青春時代の懐かしい映像を観させてもらえたと感謝の言葉も。今回のチグリス・ユーフラテス川行は湿地帯と源流域の旅で幕を閉じたが、これはきっと20年前に約束した水辺を巡る旅の序章に違いない。ふたりの約束、そして、山田さんのパンアフリカ河川行はナイル全流を下ることで完結するのだ。ナイル上流部の治安がいつ回復するかは分からない。それでも、僕は高野さんが「最初で最後の師匠」と呼ぶ山田さんと巡る「約束の旅」の報告を楽しみにしている。(光菅修


報告者のひとこと

私と高野秀行のクロニクル

 2年前の夏、高野はメソポタミア川探検の誘いに高知にやってきた。四万十川をパックラフトでツーリングした。高野は毎朝1時間アラビア語の勉強を欠かさなかった。東京在住イラク人のアラビア語講師の発音を録音したスマホで勉強する高野に、パリギャルソン仕込みのコーヒーをドリップして「ワラー ムッシュー」と出すのが小生の朝の始まりだった。

 高野は優に十指に余る言語を操る。それも欧米語以外にアジアやアフリカの言葉もできるので、語学の天才のように思われがちだが、一緒に旅してわかるのは、言葉が好きでいつも新しい言葉に好奇心旺盛という事。つまり、人間に興味津々だ。行くところが決まると東京でその国から来た人を探して言葉の勉強を始める。昨年、イラク、中国、トルコと行ったが、どこでも現地語で冗談を飛ばして笑いを誘っていた。

 軽妙洒脱な文章力には定評があった。今回の報告会では、話術もすっかり上手くなっていて、立て板に水のようだった。売れっ子になり週に2回以上講演に呼ばれているらしい。かたや普段、木や森としか話してない小生は、ダムだらけの日本やトルコの川のように、詰まること多々でお詫びします。以下、高野との出会いから現在までのクロニクルを列挙する。

 1987年、コンゴ共和国ウバンギ川沿いの町インプフォンドにて。パンアフリカ河川行中、農大探検部3年後輩清水と。「おお、ここからジャングルに入ったテレ湖で駒大探検部の野々山たちが怪獣ムベンベ探しに来とるぞ、野々山からパリに手紙があった。野々山、2年まえパリの俺のとこ寄ってからコンゴ行った時は全然フランス語出来んかったが、大丈夫か?」「早稲田の探検部の高野がよくできるそうですよ。今回のチーフです」。この探検が『幻獣ムベンベを追え』。

 1991年、東京信濃町「緑のサヘル」事務所にて。野々山の紹介で高野に会い仏語翻訳を頼む。「自慢じゃないが、我々はフランス語をなんとか話すが書くのは苦手だ。緑のサヘルの規約書とチャド政府への提出文書の翻訳を頼みたい。自慢じゃないが、我々は貧乏だ。金は払えないので、今夜の晩飯酒飲み放題でどうだ?」「オス」。

 1997年、ルワンダにて。ブルンジ、ウガンダ、ケニヤ、エチオピア、スーダンと植林候補地を視察した。「高野、今回は4ヶ月3食昼寝宿付きで給与なし。そのかわり、いつかナイルを下る時は君に特等席を用意する。どうだ?」「ラジャー」。このころ、高野は『ワセダ三畳青春期』から『アジア新聞屋台村』のころで、売れず食えず暇だった。

 2007年、『神に頼って走れ』で高知にやってきて、四万十川にてワンデイツーリングのあと、「山田さん、ナイルは未だに治安悪いけど、どこか別の海外の川に行きましょう」。「知っての通り、2004年末に、お袋がくも膜下出血で倒れ、チャド・スーダン国境のダルフール難民キャンプから急遽帰国以来、海外は控えている。高野、ユーラシアの面白そうな川偵察しておいて」。

 2018年、20年来の約束が果たせつつある。(山田高司

それはバカだから……

 いつかナイルの川旅をしよう……。そう約束してから二十年。まさかティグリス=ユーフラテス川へ向かうとは思わなかった。

 今から思うと、なんて間違っていたんだろう。山田高司隊長は体を壊してからずっと郷里の四万十に逼塞し、外国へは十年以上も行ってない。「飛行機の乗り方も忘れた」と言っていた。いっぽう、私は川旅初心者。国内の川をいくつかカヌーで下ったことがあるだけだ。

 常識的に考えるなら、まずタイやミャンマー、インドネシアといったもっと治安がよくて、川自体の情報もあり、私が土地勘や言語勘を持ち合わせている場所に行くべきだった。きっと、リラックスして心身がほぐれるような旅ができたにちがいない。その後でもっとハードルの高い川を目指すべきだった。

 なのに、いきなり向かったのがイラク。世界で最も緊張を強いられる国の一つで、川(と湿地帯)の情報もまるでない。この旅は下見程度だったが、よくも悪くも刺激が強すぎて、山田隊長はしばしば悪性の腰痛と強いストレスで意識朦朧となっていた。もともとごっつい顔が強ばっていたせいか、行く先々で現地の人たちに同胞(つまりイラク人)と間違えられていたほどだ。そしてそんな中でも気力でビデオカメラを回していた。さすがである。

 イラクの旅が終わってから、次こそリラックスできる川旅をと出かけたのが同じティグリス=ユーフラテス川の源流域であるトルコ・クルディスタン。イラクほどではないが、ここも治安が保証されない地域であり、しかも川の情報はない。そして私はカヌー初心者である。トルコ語も片言だけだ。

 行ってみれば、またしても困難の連続。山田隊長はiPhoneの衛星写真と現実の川を見比べては、これから川がどうなるのか予測しようと毎日奮闘していた。私は私で、慣れないカヌー漕ぎに奮闘。しかもやっとその日の目的地である村に着くと、今度は村の人たちと交渉したり友好を保ったりしなければならない。彼らが発する「どうして車に乗らないで舟に乗ってるのか?」なんて難問にも笑顔で答えなきゃいけない。「それはバカだから」と正直に。

 そう、なにもかも、理由はバカだからである。ふつうは五十歳を過ぎて(山田さんに至っては六十歳もになって)「友だちと約束したから」と川旅などしない。心身の条件が整わないのに未知の土地にチャレンジしたりしない。

 でもバカだから見える景色というのもある。バカだから出会える人もいる。そういうバカさ加減が私たちの身上である。これからも二人のバカ師弟コンビは阿吽の呼吸で失敗を重ねながらさらなる川旅を続けていく予定である。(高野秀行


「地平線カレンダー」ついに完成!

 刊行が遅れていた「地平線カレンダー・2019.4〜2020.3」、完成しました。今回のタイトルは『猫翳礼讃 byou ei rai san』。同名の個展「長野亮之介・猫絵展3」(3月1日〜5日)で展示して好評をいただいた「切り絵」のシリーズです。4月始まりなので、来年3月まで1年間フルに使えます。判型は例年と同じA5判(横21cm×縦14.8cm)、全7枚組。頒布価格は1部あたり500円。送料は1部140円、2部以上は185円。お申し込みは地平線会議のウェブサイトか、下記まで葉書で(〒167-0021  東京都杉並区井草3-14-14-505 武田方「地平線会議・プロダクトハウス」宛)。お支払いは郵便振替でお願いします(「郵便振替:00120-1-730508」「加入者名:地平線会議・プロダクトハウス」)。振込用紙を同封しますので、カレンダー到着後にお振り込みください。

【絵師敬白】猫は煙のように現れる。トタン屋根の上を歩く足音だけが、ミシリミシリと聞こえる。屋根裏も歩く。描きかけの絵に、足跡が残ってる。暗闇の中、音も無く布団に入り込んでくる。姿が無くても、生き物の気配がそこら中に満ちている。いなくても居る。そんな翳(かげ)のような猫たちの姿を表してみました(長野亮之介)。


地平線ポストから

これからも火を焚きながら、ここの人たちと暮らそう

 あれから8年経ちました。

 震災は、人も街も自然環境も大きく変えてしまったのだと、あらためて感じています。

 私自身、震災をきっかけに南三陸町へ、トラックハウスにロケットストーブ を積んで移住するという、思ってもみなかった人生の大転換がありました。そのことは報告会で南極越冬に続けてお話しさせていただきました(2016年1月22日 441回報告会「焚き火サバイバル」)その後、今でも相変わらずロケットストーブ で火を焚きながら、この町の人や自然に生かされています。

 震災を体験し、自然に生かされていると感じた人は多かったようです。わたしもそれを強く感じました。震災以前にも、山や野や海をほっつき歩きながらそれは感じていましたし、それを忘れてしまう都市生活から抜け出すことを考えてもいました。震災と南三陸町との出会いは、それを強く後押ししてくれるものでした。

 町はまだまだそこら中で工事中の様相です。仮設住宅は多くが解体され、新しい高台の家での生活に安定が訪れつつあるところだと思いますが、嵩上げされた街や道路、日々白くコンクリートで固められていく海岸線や河川、確実に減少している人口など、違和感や不安、そして具体的な不具合などと向き合いながら、この先もずっと「震災」と付き合っていくことになるのでしょう。

 南三陸町は、持続可能な循環型社会を目指しています。この先、安定があるとすれば、そのような社会であるのは間違いなく、この町はそれが可能だと思い、それが移住の理由のひとつでもあります。が、しかし「どこが?」と思うことも多々あって、震災ですら社会を変えるのは難しいことなのかとがっかりします。

 「南三陸ネイチャーセンター友の会」という団体があり、会員になっています。先日、コクガンという海に生息するガンの調査に同行しました。南三陸町の志津川湾は、コクガンの重要な越冬地になっていて、昨年ラムサール条約の登録地ともなりました。コクガンは、アマモなどの海草を主に食べています。震災前は漁港にあまり寄り付かなかったコクガンが、おそらく海底の環境の変化や漁港の変化、漁港に人が少なくなったことなどを理由に、漁港のスロープなどに多く見られるようになったようです。

 そして沖のアマモ場の復活や工事の影響からか、今また沖へと戻りつつあると聞きました。野生は、今ここにある環境にあわせて、時には工事でできた人工物なども利用しながら柔軟に生きています(そういったことができなくて絶滅するものもあるでしょう)。工事用の土盛りにも草木は生え、破壊された防潮堤の陸側に生まれてかろうじて残された干潟にたくさんの生き物が生息しています。友の会では、町からいなくなったイヌワシを呼び戻すために、山に草地を取り戻す運動もしています。イヌワシがまたこの町を営巣地に選んでくれることを願って。

 持続可能な環境は、最小エネルギーで循環して成り立つものだと思います。自然や古きに見習い、自然に生かされていることを、震災が教えてくれたことを忘れることなく、これからも火を焚きながら、ここの人たちと暮らそう、と思うのでした。

 p.s. 倉敷市真備で被災したCoffeeHouse「ごじとま」さんは、とりあえず移動販売の形で復活されたそうです。あったかくなったら南三陸にも行くけぇね、ということだったので、そろそろなのかなぁ……。(石井洋子 南三陸町住民)

南の島で今年も「東北」を伝えました

拶を聞くだけで、懐かしい東北の知り合いの顔が蘇ってくる。いつも温かく迎えてくれる人たち。だが、その心が過去に深く傷ついたことを、忘れてはいけない。毎年3月11日が近づくと、学校で東日本大震災の授業をする。今年も8年前は生まれたばかりだった子どもたちに、私の東北の知り合いのことや、現地で見たり感じたりしたことを話した。

◆島の子どもたちにとっては東北の場所を想像するだけでも難しいだろうけれど、皆、真剣に話に耳を傾けてくれた。あの日の出来事を、テレビや教科書からしか学べないことにはしたくない。時が経っていくからこそ、「人から人へ伝えていくこと」を大切にしたいと、強く思う。(屋久島 新垣亜美

福島の命をつなぐ活動、まだ続けています

 福島の原発被災地に残された犬猫への給餌レスキューを続けて、8年。覚悟を決めて始めたことではありますが、当初はまさか、こんなに長く続けているなんて思ってもみませんでした。

 2011年、20キロ圏内が警戒区域だったころにはゲリラ侵入して警察に捕まって始末書を書かされたり、2012年以降、許可証で入れるようになっても職質を何度も受けたのに、避難指示解除が進み、帰還困難区域も通行許可なしで通れるようになった(双葉町・大熊町は除く)今では、一般の人々の通行も増え、警察に止められることもなく、堂々と活動できるようになりました。震災直後のゴーストタウンで隠れるようにコソコソやっていたのと比べ、隔世の思いです。

 現在、私たちは葛尾村と浪江町を中心に、定期的に給餌ボランティアに回っています。猫が寄り付いている給餌ポイントへのフード補給、犬猫を飼っている帰還住民の方への支援、被災地に住み給餌、保護活動をしている方のお手伝い、事情があって保護した犬猫の譲渡会開催、年2回の動物関連イベントへの出展などが主な活動です。できる人ができるときに、できることをできる範囲でやる、というのがモットーで、動物愛護活動のハードルを低くして、震災前の私のように犬猫好きだけど保護活動まではできないと敬遠している人たちに、少しでも参加してもらえれば、と思っています。

 私たちが通う葛尾村は2016年6月に一部を除き避難指示解除され、現在は20%ほどが帰還しています。避難したままの方の多くは30分?1時間程度の場所に住んでいるので、昼間は村に戻っている人も少なくないので、数字以上に復興している印象はあります。もともと長閑な山里で地震の被害も少ないせいか、何も知らなければ被災地とは気が付かないかもしれません。残されている犬猫も、ほとんど不妊手術済みなので、基本的にはその場所で命を全うしてもらうのを見守っています。

 浪江町では帰還率は5%程度、駅前から役場にかけてのエリア以外は相変わらず無人の町で家屋の解体が進んで更地が増えています。県外に避難している人も多いせいか、一時帰宅する住民も激減、町に戻って住んでいるのも高齢者がほとんどなので、この先、どうなってしまうのでしょう。

 そんな中、浪江町民で元原発作業員の赤間さんが、町内にある自宅と実家をシェルターにして、犬20数頭、猫60匹以上を保護しています。原発事故直後、住民が避難する途中で山の中に置き去りにされた飼い犬たちが、一斉に住んでいた町のほうへ向かって戻っていくのを見て、自分が働いていた原発のせいでこんな目に遭っている動物たちを助けなければ! と思って始めたそうです。ボランティアの多くも赤間さんと連携していて、私たちも給餌へ行くときは犬の散歩のお手伝いをしたり、保護犬猫を引き取って里親を見つけたりしていますが、一方で、赤間さんへのペットの引き取り依頼も後を絶ちません。施設に入るからとか、新しい家には連れていかないとか理由は様々ですが、無責任すぎてがっかりします。避難するときに町にペットを置き去りにし、仮設住宅で新たに別なペットを「買い」、そこを出るときに平気でまた捨てるのです。さらには、赤間さんや給餌ボランティアがいることを知っていて、わざわざ浪江町に犬猫を捨てにくる人もいます。明らかに飼われていたと思われる人慣れした犬猫が、突然町を放浪していたりするのです。保健所も犬猫が持ち込まれると赤間さんに連絡してきます。被災者であり、まったくの個人活動で補助金などももらっていない人に、どうして平気で押し付けるのでしょう。意味のない復興関連事業に何億も使い、それを食い物にしている業者、賠償金詐欺などが横行している福島県。無責任にペットを見殺しにする福島県民。心が折れることも度々ですが、私は自分で自分を褒められるよう、できることを続けていきたいと思います。(滝野沢優子

■追記:被災地への給餌のことを、キリがないと言われたこともありますが、終わってないのだからキリなんてつきません。また、被災地がどう復興していくのか自分の目で見ることができるし、住民の方とコミュニケーションできる貴重な機会でもあります。取材という名目で1年に1回だけやってきて無遠慮にインタビューするマスコミには決して語らないだろう本音を話してくれるので、きっと定期的に通っている私のほうが被災地のことを正しく伝えられるのではないか、と自負している次第です。

ヴィレッジの復活

■2011年3月の東日本大震災から丸8年を迎え、あらためて時間の早さを実感します。我が故郷の楢葉町は2015年9月に避難指示が解除され3年半程経ち、住民の帰還は約5割程まで戻ってきました。当初はコンビニと仮設店舗の商店だけでしたが、昨年は住宅と商業施設を集約したコンパクトタウン「笑ふるタウンならは」がオープンし、生活する上での便利さも増してきました。また、併設されている交流館「ならはCANvas」では各種イベントが開催され、多くの住民が集う場として大好評です。

◆楢葉町と広野町に跨るサッカーナショナルトレーニング施設「Jヴィレッジ」は昨年7月に一部設備が再開し4月20日にはいよいよ完全再開となります。先月は女子サッカーの「なでしこジャパン」の合宿や少年サッカーの大会が行われたり、ようやく賑わいが戻ってきました。またJR常磐線の新駅「Jヴィレッジ駅」も4月20日に供用開始となります。Jヴィレッジでのイベント開催に合わせた臨時駅ですが、集客を見込める大きな要素になると思います。

◆そして、来年の東京五輪の聖火リレースタート地点として調整中との報道も先日ありました。実現すれば地元も大盛り上がりです。道の駅「ならは」はこれまで休業状態で警察の出先機関が常駐していましたが、ここも4月に一部施設が再開します。ここは温泉を併設していますので、国道6号を走行する多くの人の休憩ポイントになることと思います。

◆このように避難指示が解除された地域の復興は進んでいるのですが、未だに解除されていない地域との差が大きくなってきています。福島第一原発が立地している「双葉町/大熊町」の2町がまだ避難指示が解除されていないのですが、その大熊町では一部地域が4月に避難解除されることとなりました。ただ8年もの時間が経過して多くの住民は避難先での生活基盤が出来ています。本来の家屋の修繕や社会インフラの整備等の準備が遅れておりますので、どれだけの住民が戻るのか。

◆また、福島第一原発では増え続ける汚染水、溶け落ちた燃料デブリの回収等の廃炉作業がどれ程の時間を要するのか、安全に作業を進められるのか、未だに全容がはっきりせず復興には程遠いのが実情です。そんな状況でも個人的に出来る事を実行していきたいという思いから、町のキャンプ場を利用してライダーを集めたキャンプイベントを2017年から開催しています。賀曽利隆さんにもご協力頂いているのですが、毎回100名程のライダーが集まり焚火を囲んで大いに盛り上がります。

◆被災現場や復興状況を案内するミニツーリングも実施していますが、未だにバイクの走行が制限されている国道6号線、帰還困難区域のバリケードから先は立入る事が出来ません。被災地の実情を見てもらいたい、そして何かを感じて欲しい、そんな思いからこれからも続けて行きたいです(今年は6月1日〜2日で開催予定です。ご興味の有る方は是非来て下さい。ライダーでない方も大歓迎です!)。(楢葉町住民 渡辺哲

■追記:東日本大震災8周年に当たる3月11日、賀曽利隆さんがいつものようにいわき市の海辺の民宿、よこ川荘に泊まり、私とライダーのもんがあ(古山)里美さんが合流しました。12日から22回目の鵜ノ子岬尻屋崎まで東北被災地行を実施します。


国際シンポ「チベット文学と映画制作の現在」

 昨年6月「チベットの磁力・魅力・魔力」の報告者、星泉さん(東京外国語大学アジアアフリカ言語文化研究所(AA研)教授)企画のシンポジウムが開かれます。チベット文学と映画を、チベット側・日本側それぞれの作家・研究者が語り合う一般公開のシンポジウムですので、どうぞお気軽にお越しください、とのことです。参加者には発刊されたばかりの『セルニャ』最新号(第6号)が配布されます。

時:2019年3月15日〜17日
 (15日は17:00から、16・17日は10:50から)
場所:東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所3階大会議室
使用言語:日本語・チベット語(日本語通訳あり)
主催:多言語・多文化共生に向けた循環型の言語研究体制の構築(LingDy3)
参加費:無料
要申込:できるだけ事前にウェブサイトから。
https://lingdy.aa-ken.jp/activities/outreach/190315-outreach-others


先月号の発送請負人

■地平線通信478号(2019年2月号)は、2月13日印刷、封入作業をし、14日新宿局に渡しました。作業に参じてくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。
 森井祐介 車谷建太 中嶋敦子 高世泉 小石和男 久保田賢次 坪井伸吾 光菅修 江本嘉伸 松澤亮


流血の祝祭、アヤクーチョのカーニバル

■このところ、年間人生最大の悩みの種は「次のカーニバルどこへ行くか?!」に集約特化されている。こんな通常あり得ないアホな選択に迷い苦悩する日々を過ごしているのは、自慢じゃないが地球上わずか二人くらいしかいない。まあカーニバルといえばブラジル、リオのプリプリ系お姉さんが〜、という無自覚かつ不勉強な向きは、この先は読まなくてもいいからね。

◆とりあえず身体の動く内は毎年必ず、がお約束。それもヨーロッパなど文明国は老後の楽しみ、先にハードそうなラテンアメリカやアフリカなど、周辺や辺境、異端の存在を制覇しておかねばならない。ライフワーク認定とはいえ、祝祭評論家の道は辛く厳しきかな。

◆毎年2月から3月のとある週末に同時多発的移動祝祭カーニバルが催されるのは、全世界で3650都市と言われている。もともとキリスト教ローマン・カトリック派の「宗教的世俗行事」であるカーニバルは、その勢力範囲のヨーロッパとラテンアメリカを中心に定着し祝われてきた。なぜか、イギリスの旧植民地だったカリブ海の島国など英国聖公会(アングリカン・チャーチ=イギリス国教会)勢力圏にはあるが、いわゆるオーソドックス(ギリシャ正教やロシア正教などの東方教会系)地域には存在しない。理由は不明で謎は深まるばかり、どなたかご存知の向きは浅学なる祝祭教徒にご教示願いたい。

◆で、今年の行き先はペルー南部高原の古都アヤクーチョとなった。昨年11月から2回に渡り無理やり自腹開催したアンデス写真展で並べた借用写真計10点を、クスコのアーカイブに返却しなければならず、ではついでにペルーへ里帰り、という苦悩度ゼロの決定である。「ペルーのカーニバルの首都」というキャッチで観光客誘致に勤しんでいるのは、北部ペルーのカハマルカだ。全体にアンデスのカーニバルは水かけ祭り的要素が強いが、カハマルカはその部分だけが異様に進化発展突出していて、外国人やよそ者などちょっとでも目立つとすぐ狙い撃ち集中攻撃状態となる。さすがにこれではビビッて観光客も来なくなる、というので、今年から初日だけに限定公認することとなったようだが、その弾け方はただ事ではない。カーニバルの4日間は、警官まで全身ペンキで極彩色にされてしまうほど。やられる方も年に一度の無礼講と、大人の対応をしている。

◆その状況下で最大の懸案事項となるのは、撮影機材をどう守るかに尽きる。防水ハウジング以外に防ぎようはなさそうで、カハマルカ攻略前から頭痛がするほどだった。が、なんと祝祭3日前になって、某予約サイトから急に予約が取り消されたとの連絡がきた。カメラの被害を最小限に食い止めるため、窓や屋上からでも撮影可能なパレードコースに面した宿を確保していたが、一方的な通知だけで理由は不明のまま。対応に悩んだあげく、写真展のライブイベントに登場したイルマさんの故郷アヤクーチョに急遽変更する運びとなった。

◆さて、アンデスには「シンクレティスモ」と呼ばれる信仰形態がある。カトリックの教義と、パチャママ(アンデスの地母神)信仰やアニミズムなど伝統的民間信仰との合体と定義できそうな、ハイブリッド混合宗教だが、その実態はいいとこ取りのご利益満載志向が嬉しいインディオさんたち庶民の本音最優先。アヤクーチョのカーニバルは市街の中心アルマス広場を周回するコースでパレードが行われる、やたらにダサい純粋シンクレティスモ謝肉祭だった。

◆山岳地域の伝統的な歌謡曲ワイノの、変化に乏しい単純なリズムが次第に身体に沁み込んで心地よい。昼過ぎから深夜まで、20〜30人の女性の踊り手にケーナやギター、アコーデオンと打楽器による編成の20人ほどの男性の楽隊で構成されたコンパルサ(地域や職場、学校などのチーム)が延々と続く。

◆ちなみに、メキシコ以南の中南米どこの古い都市にも必ず存在するアルマス広場は、スペイン植民地時代の16世紀に出された法令で、縦横比は1対1.5と定められている。広場に面してカテドラルと市議会など行政機関が設置され、これを起点に碁盤目に伸びる4本の街路が都市計画の基準とされてきた。アヤクーチョのカーニバルはこの広場と街路を舞台に、終日ひたすら同じリズムと同じ踊りが繰り返される究極のワンパターンで、開始1時間後にはもう耳飽きてきた。他の出し物はせいぜい弱っちい牛さんの闘牛くらいで、それも動物虐待とか非難されそうな雰囲気濃厚のダラシなさだ。

◆カテドラル前で低い位置から踊り手を撮影しようと、地べたに座り込んでカメラを覗いていた際に、すごい勢いで踊っていた若者がカメラに激突。立っていれば避けられたかもしれなかったが、ファインダーで目尻の上まぶたを強打し流血の惨事となってしまった。こんな経験は我がカーニバル人生でも初めてだ。しかもカメラはニコンD3というやたらに重くてゴツい旧モデルで、目の周りの柔らかい部分からの出血はなかなか止まってくれない。酔っぱらいの始末ぐらいしか仕事のない救護班が張り切って出動してきたが、結局はバタフライテープを貼り付けて止血のみという情けない落ちであった。いやはや、まだまだ修行も精進も足りませぬと、反省しきりの今日この頃である。(Zzz‐カーニバル評論家@時差ボケ真っただ中!)


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。なお、「1万円カンパ」は別に記載しています。通信費は郵便振替ですが、1万円カンパは銀行振り込みですのでお間違いなきよう。ただし、通信費の口座に1万円を振り込んでくださる方もいてどちらもありがたい、とお受けしています。

田中良克(10,000円 通信費&その他。別口で1万円カンパをしたいと思います。私の例会の日と同じでなかなか出席できません。観文研の上野。お菓子もちより参加がなつかしい)/松原英俊(6,000円 2月初めに関野さんが、学生5人を連れて遊びに来たので蔵王や山寺を案内したりしました。またこちらにも遊びにおいて下さい)/津川芳己(4,000円)/菊池洋三(6,000円)/桐原悦雄/平本達彦(ツウシンヒデス)/高松修治/松本敦子/久保田賢次/小林新(10,000円 長期間、毎月ちへいせん、ご送付くださりありがとうございます。大変滞っていて申し分けありませんが、通信費等にお役立てください。高齢になりましたが、まだしばらく購読させて頂きたく、よろしくお願いします)
   ───◆───◆───◆───◆───◆─── ★小林新さんは、2010年6月の374回地平線報告会「君のいなかった三十年」で“報告者”となった小林淳(あつし)さんの父親。観文研のスタッフだった小林さんは79年3月日本を立ち、82年3月、タンザニアのアルーシャからの通算913通目の手紙を最後に消息を絶った(出立当時26才)。82年11月、その5年後と2回にわたりアフリカで捜索がなされたが、手がかりはつかめなかった。不明となってから30年、報告会では宮本千晴、賀曽利隆、三輪主彦、丸山純ら仲間たちが証言。父、小林新さんも少年時代の長男のことなど語った。報告会の様子は地平線会議のウエブサイトで「374回報告会」をクリックしてください。久島弘さんの優れたレポートが読めます。なお、小林さんは2017年3月に1万円払ってくださっていて、まったく滞ってはいないです。ありがとうございます。(E


【1万円カンパ、ありがとうございました!】

今も協力が続いている。会費収入がない活動なので後方支援はほんとうにありがたい。カンパは「平成時代」が終わる」4月まで続け全協力者氏名をあらためて掲載いたします。振込先は、 みずほ銀行四谷支店 普通 2181225 地平線会議 代表世話人 江本嘉伸(エモトヨシノブ) なお、記名忘れは頻繁にあります。恐縮ですが、気づいたらお知らせください。

 田中良克 松原英俊 波多美稚子


『風書展』ペルーの感動

■地平線通信のイラストでお馴染みの画伯、長野亮之介氏から届いた猫絵展3のハガキには「書道を習いはじめましたが、ちっとも上達しません」と書かれてあった。そんな微笑ましい言葉に誘われて立ち寄った。京橋の古いビルの細い階段を上がると、なんと、江本嘉伸さんが「やあー」と迎えてくれた。あっ、やっぱり地平線!

◆私は常に毛筆で仕事をしているせいか作品の『線』ばかり見てしまう。筆がどのように動いたかだ。飄々とした猫を描く線は抑揚が温かさを生み、また読売新聞に20年も連載されている「銀幕一刻」のイラストはファッションを軸に人物を迷いのない線で仕上げていた。さすがプロだ。久しぶりに地平線の重鎮二人にお会いした流れで、江本さんから通信に原稿を書く機会をいただいた。

◆自己紹介が後回しになったが、2015年外国隊で入域した南極大陸で芸術プログラムに参加、活動し、435回の地平線で報告させていただいた月風かおりです。南極帰国後は展覧会、その後2017年には北極圏にあるノルウェー、スヴァールバル諸島のスピッツベルゲン島で南極同様の現場揮毫を行い、極地芸術に挑戦した。そして、今年は、南極の帰り道に取材した作品の個展、「南米ペルーの風〜マチュピチュとインカの石〜」と題しいつもの『風書展』を開催します。

◆この旅は、初めての南米バス一人旅だったが、幸運な出会いに溢れていた。2013年に早稲田大学OBによるベネズエラのギアナ高地遠征隊に参加した折、関野吉晴氏と知己である豊田紳二氏が、私が南極に滞在中、帰路ボリビア、ペルーを旅するなら連絡するといいと言って、クスコの旅行会社の篠田直子さん、リマでホテル経営の早内香苗さんをメールで紹介してくれた。ブエノスアイレスから言葉もわからない中、やっとの思いで辿り着いた時はどんなに嬉しかったか。

◆クスコとリマのお二人のことは2016年ペルー大使館で開催されたマルティン・チャンビ展で再会した白根全さんに「僕の定宿」と聞かされた時は、辺境の人の繋がりに驚いた。この南米の旅の最終地はエクアドルのキトに辿り着き、2015年は南極大陸から赤道直下までの大旅行になった。今回の展示は、南極の帰り道、古代インカの遺跡が点在する南米のペルーにスポットを当て、精巧でユニークな石の建造物や遺跡に驚異と感動を得た『風書展』を開催します。書の潔い「線」で表現する作品を見に来てください。(月風かおり

★会期:2019年3月27日(水)〜4月6日(土) 12:00〜19:00 (3/31、4/1 休廊)
★会場:北井画廊 東京都千代田区隼町3-1

ヒコーキに取り残されて得をした
   ──カリマンタン通信

■地平線会議のみなさん、こんにちは。ロングスレ村の両親のもとで、インドネシア・カリマンタン島に滞在中の下川知恵です。熱帯の島のおへそに位置する、ロングスレという小さな村での暮らしを経験することを目的に、昨年9月より大学を1年間休学しています。長らくご無沙汰していましたが、毎日元気に過ごしています。

◆この便りはいま、マハッバルというところで書いています。目的地のロングスレ村とは、空路でつながった隣村です。ちょうど日本の大学院の先生方が研究のために訪れているので、調査に同行させてもらう目的で、わたしも滞在しています。あと1週間ほど滞在した後で、ロングスレへ再び戻る予定です。そして、ここではメールの送受信ができそうなので、この機会に、久々に近況報告をと思いました。

◆少々遡った話になってしまいますが、ジャカルタでの都会生活を終えた後の年末年始は、カリマンタンの内陸に拠点を移すという、1年間の計画の中でも重要なターニングポイントでした。やっと待ちに待ったメインディッシュ、という気分でいたのですが、それを焦らすかのように、色々なところで想定外の足止めを食らうことになり、なかなか思っていた通りにはならない数ヶ月でもありました。

◆なかでも一番の想定外は、街を出発してからロングスレ村に辿り着くまで、せいぜい数日を予定していたのが、丸1か月以上かかってしまったことです。乗っていた車が故障し、その後乗るつもりでいたスレ村行きの飛行機を逃してしまってからは、結局2月のあたままで、ほんの10分乗るだけの小さな飛行機が再び飛んでくれるのをじっと待たなければなりませんでした。最終的に移動は叶ったものの、それでさえ日本から運んできた自分の荷物はほとんど載せてもらえないという始末。ひと月以上が過ぎてもそれらがスレ村に届くことはなく、先日戻ったマハッバルでふたたび、わたしの持ち物たちと再会することになってしまいました。

◆そしていざ辿り着いたロングスレは、ブギス人の商店三軒を含む家屋五軒が焼けてしまうという火事の直後で、かなり厳しい物資不足の只中。その上、飛行機の運行状況や道の状態が悪いのと重なって、日常的に必要な砂糖や食用油、燃料等々あらゆるものが競争状態でした。いつでも行けると思っていたラタンの採集キャンプも、稲を収穫する農繁期であると同時に、片道2時間の舟を出すのに必要な燃料の入手が難しく、すぐにという風にはいきませんでした。

◆苦労話はほどほどに、スレ村への飛行機を待つ間、マハッバルで過ごしたときのことを書こうと思います。下流の街にも、ロングスレにも繋がるこの村は、これまでもスレ村と街を行き来するたびに通り、ときには数日間泊まることもあったので、他よりちょっと見知った場所でした。農耕民クニャ族の村で、もちろんスレ村とは言葉も違えば、おかずは肉よりも野菜が多いし、お米の収穫量はずっといっぱいで、となりの村とは思えないほど違っています。

◆その上、綺麗に舗装された大きなアスファルト道路に、品揃え豊富な商店、塀や庭のある広々とした構えの家屋、立派な電波塔、車やバイクが走り、教会も広場も全部、スレ村よりひとまわり大きなマハッバルの景色は、スレ村とは対照的で、ちょっと面白みに欠ける、都会的で、閑散とした村という印象を長いこと抱いてきました。

◆ですが、今回思いがけなく与えられた、ひと月の滞在の機会の中で、村の人たちと知り合い、日常的に顔を合わせ、様々な体験を共有するうちに、村の景色がちがって見えるようになってくるということがありました。暮らして始めてわかることが、こんなにもたくさんあるとのだいうことを知りました。

◆毎日一緒にご飯を囲み、一緒にお祈りし、早朝の家庭のしごとの流れだったり、掃除の仕方、調理場や流し場の使い方を覚え、そのうちおかずをひとつ作ってみたり、日曜日には教会へ通ってみる。たった1か月であっても、こういったごく日常的なことを、注意しながら何度も繰り返してゆくことで、人と人の間柄が少しずつ見えるようになり、真似ごとは習慣になり、「ここに自分の日常がある」という感覚をつくりだしてくれました。この楽しさは、今こそはっきりと気付くことができましたが、ずっと前から少しずつ感じ取っていたような気がします。

◆目的地ではなかったはずの場所にのんびり滞在するなんて、これまでのような、学校が休みになる間の短い旅程ではあり得なかったことでした。幸か不幸か、飛行機に取り残されてしまったわたしの、マハッバル村での滞在は、わたし自身がカリマンタンを求めて通う大きな理由をひとつ、はっきりと示してくれたように思っています。あと数日マハッバルで過ごした後は、再びロングスレの生活へ戻ります。ちょっとずつ洗濯の手つきがわかってきたり、プナンの人たちの言葉がわかりはじめたりと、少しずつですが日々の進歩があるので、半年後が楽しみです。(下川知恵

鎧武者、再びテントを購入す

■江本さん、お久しぶりです。鎧武者の山辺です。日本一周城巡りが終わり2年。やっとテントが買えました。旅が終わった時は衣類、パソコン、キャンプ道具など装備一式が壊れ、ケータイも止まり所持金はゼロ。手元にあるのは甲冑のみ。完全なる落ち武者、さまよう亡霊でした。税金、年金、健康保険。なんだこれは!! 旅の疲れを癒す暇などない。金だ。とにかく金を稼がねば。

◆旅の途中でお世話になった北海道のホテルに電話した。さすが人手不足「来週から来てくれ」と即採用。親に交通費を借りて北海道へ。半年働きまとまった額が貯まる。「これでお遍路2周目いくぞ!」、そう思い旅の装備を新たに買い直したら資金が尽きた。税金、年金、健康保険。ただ生きてるだけで金が無くなる。落ち込んだ。もう無理だ。浮世の苦悩を解放する遍路にすら行けないなんて。いやまあ働けばいいだけなんですけどね。

◆こんなときに相談に乗ってくれたのが地平線の久島さんと坪井さんだった。自身の体験を話してくれていくらか心が落ち着いた。田舎なので働き場所があまりないなか、近所のアウトドアショップに潜り込みやっとこ貧乏ながら生活の安定を得る。一年働き貯金して少し余裕が出て来たので念願のテントを購入したわけです。今後は自分にとって未知の分野である山旅をメインにして百名山を登って行きたいと思ってます。(鎧武者ヤマベケン

山田・高野の報告から帰還村を思う

■2月の通信で「山田さんと高野さんが同時に報告する」との予告を見たときには心が躍った。探検部の先輩の報告には可能な限り足を運びたいと、常々思っている。北海道から参加できたことはほんとうに幸運であった。報告の舞台はチグリスユーフラテス川。下流のペルシャ(アラビア)湾側に広がる大湿地帯とトルコ側の源流部をめぐる旅の報告だった。これまで中東に馴染みのなかった自分にとっては、どれも新鮮な情報でワクワクした。

◆なかでも興味を惹かれたのは、イラクの湿地民だ。一度は政権の手により干上がってしまったその湿地帯を、のちに復活させてしまう地域住民たち。イランとの国境線を悠然と往来する水の民。権力に組み伏せられることなく、しなやかに生きる彼らの姿が、僕の訪れているミャンマー(ビルマ)カレン州の国境地帯の状況とよく似ていたからだ。先輩の報告に触発されてこの地域の森の民について書かせてほしい。

◆2016年秋に、タイ側のキャンプに避難していた難民がミャンマーへ帰還する事業が両政府合意のもとではじまった。かつての内戦で、多数の難民がタイへ避難したのを覚えている方も多いと思う。帰還意志のある難民はキャンプで手続きをし、両政府からの認可が下りると、ミャンマーへ帰国することができる。キャンプ発のバスがミャンマーに着くと、帰還民は政府やドナーからの義援金や支援物資を受け取る。国民カード(身分証明書)も付与され、正式な「国民」として迎えられる。紛争で家や土地を失った者たちが、国境地帯に新たに複数設けられた「帰還村」に移り住むのだ。キャンプが設けられてからおよそ30年ぶりの帰還となる。

◆しかし、これまで公式に帰還を果たした難民数は200人にも満たない。タイのキャンプにはいまだ10万人近くの難民が暮らしているのに、だ。私は一連の帰還事業で何が起きているのかが知りたくなり、ミャンマー・カレン州国境付近の帰還村のうちの一つに、これまで3度訪問した。驚いたのは、そこで暮らす帰還民のほとんどが、先述のプログラムを利用せずに帰還してきたということだ。あるタイキャンプのリーダーが、帰還村の長と交渉し、独自の帰還プログラムを準備していたのである。遅々として進まない公式な事業に比べると、手軽に帰還が果たせるのが人気の理由らしい。

◆内戦の影響で、少数民族のミャンマー政府に対する不信感は根強い。政府管理下の事業よりも、自民族の指導者が用意した事業で帰る安心感もあるのだろう。ビザや国民カードを持たない彼らの帰還や居住はもちろん違法だが、未だに「武装勢力支配地域」とされる国境地帯に戻るため、「不法な滞在は心配だけど、わざわざ政府の人間が摘発に来ることはそうそうないだろう」と語る帰還民もいた。

◆帰還村で生活を始めたのちに、政府の帰還事業に申請する家族にも会った。彼らはミャンマー側からタイのキャンプに自己負担で通い、帰還事業の申請を続けていたのである。認定されビザが下りると、もう一度キャンプからバスに乗り、「はじめての帰還」を果たすのだとか。家族の母親が「律義にキャンプで許可を待っていたら、何月に戻れるかわからない。子供がミャンマーの学校に編入できずに留年しちゃうから」と教えてくれた。

◆政府にとっては管理の対象でしかない難民が、政府の事業を使いこなす様子が痛快であった。国家が壊滅させた湿地を復活させ、国境を自由に往来するイラクの湿地民の自由な姿が重なる。帰還民にかかわらず、元々住んでいたローカルな人々が日雇い労働や買い物に行くにも国境を軽々と行き来する地域だ。この手のやり方はさして珍しいものでも無いのかもしれないが、よそ者の自分にとっては、大きなシステムを乗りこなす生存戦略のようにも見えた。国境にとらわれず、したたかに生きる彼らの生き様に、私は惹きつけられてしまう。

◆カレン州の国境地帯で生きる彼らを、報告会を聞きながら思い出していた。同様に戦禍を経験してきたイラクのひとびとが、「自由に」生きるためにどのように工夫をしているのか。いつか自分も会って話を聞いてみたい。イラクの大湿地帯、アフワールへの憧れを抱いた。ついでにもう一つ紹介させてもらうと、カレン難民のテーマにたどり着いたのは、探検部での活動がきっかけだった。カレン族の神話に登場する「神山」が実在するのか、しないのか。現在でも畏怖の対象であるのか。手がかりにできる100年近く前の文献では存在さえはっきりしなかった。

◆予備調査を始めるものの、該当地域は未だ続く内乱の影響で、まだまだ自由に活動ができる山域ではなかった。その後も仲間や協力者と準備をすすめ、現地で登頂経験者に出会ったのが2年前。山は実在した。山頂では誰も手入れをしないのに、野菜が毎年実り、そこにしかない果物があるなど、今でも不思議な物語を持つ山らしい。第二次世界大戦中に日本軍が進駐した事実もわかり、今回地平線会議に出席する前に、防衛研究所で当時の記録を見つけることができた。登頂を果たせた暁には、100年前・戦中・現在、の3本柱で神山を描くことができるのでは、と目論んでいる。

◆今回の報告は自身の活動でみた景色と重なる部分もあり、これまで縁のなかった地域に親近感と興味が湧いた。地平線報告会に出席できることの喜びの一つだ。探検部の後輩たちにまた一つ土産話をいただいた。今後イラクの情勢が一層安定し、お二人のさらなる活動報告を拝聴できる日がくることをお祈りする。(北大探検部 五十嵐宥樹

エミと31年ぶりのフリーマントル

■2月に真夏のオーストラリアに1週間ほどエミ(ことシール エミコ)と一緒に滞在してきました。旅の目的は、「30周年記念&平成の最後に集まろう!」です。

◆今回の旅は、1年半前の平成29年(2017年)8月にエミが東京に来た時、「来年は平成30年かぁ。30年ぶりにフリーマントル(西オーストラリア)に行きたいね。当時お世話になった人たちにも会いたいね」と話したことがきっかけです。お互い同じ時期に西オーストラリアのインド洋に面した町フリーマントルに滞在していたことがあります。平成元年の時でした。

◆何気なく「フリーマントルに行きたいね」と言った一言でしたが、平成が終わってしまうこともあり、だったら平成のうちに行こう!として、動きだしたのが昨年の秋。そして、渡豪時期は真夏の2月に決定。2月8日、メルボルン在住のエミは一足先にフリーマントルの宿にチェックイン。私は午後に到着し、エミとは1年半ぶりの再会でした。フリーマントルで会うのは31年ぶり! 嬉しいのなんのって。こんな日が来るとは夢のようで、感激でした。

◆この日から私たち浮かれっぱなしでした。楽しくって、嬉しすぎて、天気も良く、毎日、フェイスブックアップしていました。日頃は、あまりアップしない私たちですが……。到着初日の夜は、当時お世話になった人たちと30年ぶりに再会しました。とにかく会話は尽きず、30年ぶりという時間の経過を感じさせず楽しい時間は過ぎました。

◆翌日は、当時滞在していたエリアをブラブラ。住宅街だったそのエリアは、おしゃれなカフェなどもできていて、ちょっぴり変わってはいましたが、滞在していた家は残っていて、懐かしく30年前のことをあれこれと二人で思い出していました。午後は、自転車旅をしている元キックボクサーの松葉京三さんをフリーマントルの公園で出迎えました。なんと、2度目となる世界1周自転車の旅をしています。

◆松葉さんは、11月にシドニーを出発し、ナラボー平原を走り2月にパースに到着するということで、私たちの滞在日程とグッドタイミングでした。南半球は、真夏です。日々36℃、37℃といったこの暑い時期に、1,200キロ続くナラボー平原を走ってきたとはすごい! しかも還暦!! まずは、ビールで乾杯! 夜は、一緒に歓迎会で盛り上がりました。

◆翌日(3日目)は、エミ、松葉さん、私の3人でフリーマントル観光。フリーマントルの町が一望できる高台の公園でのんびり。「30年前もエミと二人でサンドイッチ持ってきて、この公園で食べたね〜」とここでも思い出に浸る私たち。翌日(4日目)は、パース市内へ。まずは、市内を見下ろせる広大な敷地の公園、キングスパークへ。暑い中、エミを結構、歩かせてしまい反省。でも、公園内の眺めの良いカフェでゆっくりもしました。

◆楽しい日々はあっという間に過ぎ、最終日(5日目)。フリーマントルにある「カプチーノ通り」で松葉さん、エミ、私の3人でカプチーノ飲みながら旅先でのエピソードなど、時には大笑いし、時には真剣な話とか、話題は尽きず。ちなみに、このカプチーノ通りには、名前の通りカフェが立ち並んでいて、毎日、カプチーノを飲みに通っていました。そして午後、松葉さんに見送られ、フェリーでフリーマントルからパースへ。

◆その後、夜のフライトで、エミはメルボルン(ご主人のスティーブとメルボルンに滞在)、私は東京へ帰国しました。毎日、雲一つない快晴で、暑いけれどカラッとしていて、日陰に入ると涼しく快適でした。そして、30年前と変わらない青い空、青い海、公園の木々の緑やインド洋に沈む夕日に癒されました。滞在中、楽しくって、いつも笑っていて、飲んで、食べて、いっぱい話して、そしてたくさん歩いて(歩かせてしまって)、本当に充実・満喫・濃厚な毎日をエミと過ごすことができました。

◆今回のこの旅の実現には、懸念事項がありました。それは、エミの体調でした。エミは、骨盤内臓全摘術(と言う骨盤内の臓器を摘出する大手術)をおこない、2つのストーマという人口膀胱と人口肛門がついています。両方つけている人は、世界でもそう多くないそうです。この手術を受け入れる際、一生車椅子生活になるとまで言われていました。

◆確かに術後は車椅子生活が続きました。今でも足の痺れや痛みはあるそうです。また、腸閉塞にもなりやすく、なってしまうと激痛もさることながら命取りにもなりかねず。そう思うと、本当にこの5日間は、ベストな状態だったのだと思います。そして、「生死を彷徨い、一生車椅子かも」と言われたエミが、今回、一人でパースまで来ることができました。こんな日が来るなんて!めちゃくちゃ嬉しかったです。

◆帰国後も、お互いメールで「夢みたいだったね〜」と、旅の思い出を反芻しているほど。今、自転車にも乗れるようになったそうです。不可能と思っていた残りの旅を再開させ、世界1周を完結できるのではないか、エミならできる!そんな気がしています。そうそう、それから5月にエミとスティーブが1か月間ほど日本(大阪)に帰ってくるそうです。スティーブ、なんと!還暦。スティーブの強い希望で「還暦は第二の故郷日本」で迎えたいそうです。(藤木安子


今月の窓

想像の射程

■その日は某大手機械メーカーの人事異動発表の日だった。夜10時まで人事記事の執筆作業を一通り終え、「お腹がすきました」と訴える、私よりも一回り年下の後輩ヨシモト君と居酒屋に入った途端、再びデスクからもう1本原稿を発注された。私とヨシモト君は、機械メーカーを担当としている通信社記者だ。さらにヨシモト君はプロテスタント教会の牧師の息子かつ敬虔なクリスチャンということで、生真面目な彼にそのときも私は仕事を押しつけた。というか、私は仕事のブランクが長すぎて職能がないのでヨシモト君に頼らざるを得ない状況だ。ヨシモト君は喧噪の中、パソコンに向かいながら「やれやれ。訂正だしたら嫌ですからダブルチェックお願いしますよ」とため息をついていた。

◆そんな中、軽快でややコミカルな足取りで江本さんは居酒屋に現れた。「あんまり変わってないじゃない。思っていたより元気そうだなあ!」と、言いながら。江本さんと会うのは10数年ぶりだ。懐かしい明るい話し方とスニーカー姿は変わっていない。78歳になられたというのも衝撃的だった。当たり前なのかもしれないが、どれだけの時間が流れても江本さんは江本さんだった。江本さんは、早速ヨシモト君に「もうあんたは帰りなさい」と叱咤し、いそいそとヨシモト君は帰っていった。

◆江本さんは関西に用事があり、わざわざ私と会うためにこの日、大阪に宿泊してくれることになっていたのだ。江本さんと知り合ったのは大学で探検部にいた頃だ。当時は新疆ウイグル自治区の砂漠を歩いたり、パキスタンの未踏峰に登ったりと奔放に動いていた。江本さんと出会って、新聞記者になったら、地平線の活動のようなことにも関われるのかな、などと思っていた。

◆その後実際に通信社で働くようになり、クライミングや山スキーは楽しむものの、仕事に熱中していた。野放図に取材に走っていたところ、30歳で出産、33歳で二人目を出産したころには仕事も断念せざるを得なくなっていた。さらに34歳の時に高速道路で11トントラックに追突され、長女とともに瀕死の重体となってからは精神的にも肉体的にも谷底に突き落とされた。

◆私は首から下の骨のほとんどを骨折、内臓損傷で腹部を真っ二つに切り裂かれ、脾臓を摘出した。事故から10日後くらいに、「子供に会わせて!」と担架に横たわったまま運んでもらい、長女の病室でその姿を見た途端、私の中ですべてのものが崩れ落ちた。長女は脳出血で、体が動かなくなり、座ることも立つこともできず、何よりも笑わず、言葉や声も出ず、目も片目が開けられなかった。「ママやで!わかる?」。何も反応はなかった。

◆体も心も意味が分からないほど痛い。こんな状態で生きないといけないのか。「とにかく助かって良かったね」。見舞いに来てくれた人々の言葉が遠くに聞こえた。自分の意識がどこか遠いところに行ってしまったようだった。そう、もはや長女の心も私の心もどこかに消え去ったのだ。「神も仏もない」と確信した。

◆自分と娘のリハビリなど思い出すと脳の血管が詰まってきそうなので、省略するが、事故から3年後、私の職場の傷病休業期間も限界に来ていたので、無理やり仕事に復帰することにした。長女は少し言葉が出るようになり、装具を着けて歩けるようにもなっていた。社会部はやめた。人の死や苦しみに向き合うことに私は耐えられなかった。数字の世界、神も仏もない世界が私には合理的で納得できる世界だった。異例ではあったが、経済部に転部させてもらった。

◆江本さんと再会したとき、数字の世界ではない価値観に再び揺り動かされた。私は復帰後、離婚もした。離れて暮らす子供との関係性を心配して江本さんは来てくれたのだ。私が大事にしていた文章を思い出した。作家・辺見庸が本の後書きで書いていたものだ。

◆「私たちの日常とは痛みの掩蔽のうえに流れる滑らかな時間のことである。〜痛みとは、絶望的なほどに私的であり、すぐれて個性的なものだ。つまり痛みは他者との共有がほとんど不可能である。じつにやっかいだ。〜私固有の痛みと他者のそれをつなぐのは、私的痛覚を出発点にした他者の痛みへの想像力にほかならない。むろんおおかたそれは容易に届きはしない。痛みはだから、いつも孤独の底で声を抑えて泣くのだ。それでもなお、私の痛さが遠い他者の痛さにめげずに近づこうとするとき、おそらく想像の射程だけが異なった痛みに架橋していくただひとつのよすがなのである」

◆江本さんは想像の射程が長い。江本さんの痛みが私の痛みに架橋したのだった。私も実はプロテスタントの学校に中高ともに通い、6年間も礼拝を受けさせられていたが、その後は無神論者を標榜している。クリスチャンのヨシモト君に私はいつも問いかける。「神はいるの?」彼は答える。「神はいます」「どこに?」「どこにでもいます」「なんで? 証拠は?」。ヨシモト君はそんなとき、笑いながら遠い目をする。(田端桂子 共同通信社大阪支社経済部 早大探検部時代の2001年9月「雲の上の夏休み」で263回地平線報告会)


あとがき

■「荒木町Eもとさま江もしもし、ゴキゲンおよろせう。帰国便のフライトが機体の整備不良で、機内で6時間待たされた挙句に結局ドタキャン。間違えてPCの電源アダプターをチェックイン・バゲージの中に入れていたため、バッテリーアウトに。先ほど、5回乗り継ぎニューヨーク経由でようやく帰国しました。もう疲れ果ててボロボロ…・時差ボケでほぼ使いものにならず……。今から取り急ぎお原稿を書きますので、あと2時間ほどご猶予をお願いいたします。何とぞ、よしなに。 Zzz@眠くて死にそう〜」

◆こんなメールをもらったのがきのう12日18時過ぎ。せっかくのカーニバル行、この通信にぜひ活かしたいと思って原稿を頼み、全ちゃんもその気になったのに、少々気の毒でした。でも、観察は見事反映されたのでよかった。

◆フロント原稿で書いた柴犬の顛末。迷いに迷った末、結局あたらしい飼い主を見つけてもらいました。3月5日に来て9日に返したので私と暮らしたのはわずか5日だが、赤ちゃん犬でも私との相性はいい、と感じたのでしょう。日に日に嬉しそうな表情、動作が増えてきて、このままではお互いに離れられなくなる、と感じました。心を鬼にして置いてきましたが、私が去った後、それまで一度も鳴かなかった犬がなんと1時間も鳴き続けた、と聞いた時には涙滂沱でした。でも新しい飼い主さんが爺婆親子三代6人で引き取りに来た、と聞いて、大丈夫、あいつは元気に育つ、と確信しました。

◆あと15年、あの犬のために頑張れるかー。老いから逃げず、いのちをしみじみ考えたちび犬との出会いと別れでした。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

雪原(ゆきはら)に印す夢のライン

  • 3月22日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿コズミックセンター 大会議室
今月もいつもと場所が違います。

「南極は僕の永遠の憧れの地。そこに新たなルートのラインを引きたい!」というのは、阿部雅龍(まさたつ)さん(36)。小学3年生の頃、母が買ってくれたマンガに紹介されていた地元秋田の偉人、白瀬矗(のぶ)(1861〜1946)の南極探検行に魅せられました。白瀬隊が南極に上陸したのは、アムンゼンが史上初の南極点到達をした翌年の1912年です。様々な理由で極点到達は断念したものの、日本人初の南極探検家として記憶され、今も観測船「しらせ」にその名を残しています。

白瀬隊の通過したルートの延長線を極点につなげたラインを、阿部さんは《白瀬ルート》と名付けました。南極横断山脈越えを含むこの未知のルート走破を目指し、この5年間にわたって準備をしてきたのです。

昨年11月23日にスタートした南極点への単独徒歩行は《白瀬ルート》の前哨戦という位置付け。ロンネ棚氷から極点までの900km日本人初ルートへの挑戦でした。「楽勝のはずだった」旅は、異例のドカ雪と強風に悩まされます。食料無補給は悪天の為に断念しましたが、極点からの帰路便の制限時間間際の今年1月16日に極点に到達しました。予定の50日を少々オーバーした54日間の単独行でした。

「これでやっと《白瀬ルート》への挑戦権を得ました」。今回の旅は「ロボットと旅したい」とロボット犬「アイボちゃん」を供にしたり、趣味の篠笛を携帯するなど「好きなものをつめこんだ」遠征でもありました。

「通過点」をクリアし、いよいよ夢の実現に王手をかけた阿部さんに、南極の魅力を語って頂きます。お楽しみに!

今月の会場も新宿コズミックセンターです!


地平線通信 479号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2019年3月13日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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