1月16日。正午のトップニュースは「横綱稀勢の里引退!」だ。モンゴル勢が独占していた大相撲に19年ぶり日本人横綱の地位に登りつめ、期待されていたが不運な結果に終わった。欧州連合(EU)からの離脱が3月末に迫るイギリスでは日本時間の今日未明、与党離脱案が大差で否決されてしまった。そして、東京地検に逮捕された日産のカリスマ、カルロス・ゴーン。保釈請求が却下され拘置所暮らしがさらに長期化の見通しとなった。
◆きのう夜、久々に北海道の田中雄次郎と長い話をした。何度かこの通信に登場してもらっているのでひそかなファンはいるかもしれない。北海道豊富町で34頭の牛を飼う酪農家。地平線の第1回報告者である三輪主彦さんの清瀬高校時代の教え子で武田力君と同期。地平線会議の付き合いはしょっぱなからである。普段は家畜や畑の世話に追われてとても地平線に顔を出す時間は取れないが、大事なことが起きると連絡をとりあう。とりわけ3.11のあと、自分たちもできることをしたい、と家族でつくったジャガイモを「RQ市民災害救援センター」に送り届けてもらったことは忘れられない。
◆昨夜電話したのは、『風趣狩伝』を読んで彼から心のこもった手紙をもらったからだ。「江本さん、大変ご無沙汰していました。40年祭、おめでとうございます。何も協力できないまま失礼しています。そして地平線通信フロント集、ありがとうございました」。こんな書き出しの手書きの書簡。自分ちの牛の乳も含まれているという豊富のキャラメルが同封されていた。ボールペン書きのその手紙、地平線会議の仲間たちにも読んでほしい、と本人におことわりを入れたわけである。以下、原文のまま。
◆「40年も続いている地平線会議の中の人のつながりって 私は まさに 地平線のように感じます 遠くにあるようで 近くにあるような 動いているような たたずんでいるような 追いかけても届かないような どんどん近づいてくるような 暗くてかすかにしか見えないような ご来光のように 輝いているような その地平線の延長の一部の 点のような土の上で 相変わらず 私は 牛を飼い 木を切り 植物を育て 一農夫として 滑って転んで 喜びも感じて 生活しています これからも 江本さん 地平線会議の皆さん そのつながりが 自然に いつまでも どこかでも つながって いますように と願っています それでは お元気で」
◆こういう手紙をもらうと、自分がいい年齢をして地平線会議の中核にいることも悪くはないな、と思う。61歳になったこの酪農家とはもう30年以上も会っていないのに、話していてまったく時間も距離も感じないのだ。いまは、寒さは大したことはないが、氷点下30度になる日も。おまけに冬の厳しい時は、30メートル離れた牛舎に行くのも危険なことがある。「ホワイトアウトというやつで目の前にあるはずの小屋が見えずやばい思いをした瞬間が何度かありますね」
◆2人の娘、4人の息子に加えて孫も5人いる。懸命に働いたおかげと乳価の高騰でバブル期に負った借金はなんとか今年返済できる見通しがついた、という。家もほぼ手作り、野菜も家畜の飼料も、薪も自前。忙しいが、自分で1日の時間のやりくりを決められるのは何にもましてありがたい、この暮らしがきつくとも楽しいという。「そういう意味ではサラリーマンの皆さんより自由な生き方をしていると思います」
◆1980年11月、2日にわたって「いま、地平線に旅立つ」という冒険フォーラムを池袋西武にあった「池袋コミュニティー・カレッジ」という場所でやった。冒険・探検年報『地平線から 1980』の発刊記念で第1日の第1部は「地平線を見た男たち」として「犬ぞりによる北極点到達を指揮した」日大隊の池田錦重、「アマゾン源流に通うこと10年、ついにインカ遺跡を発見した関野吉晴」「世界ではじめてエベレスト(チョモランマ)の南北両ルート登頂を果たした」加藤保男の3人が登場した(関野氏以外は故人)。
◆2日目は「より自由な行動のために 私的探検の技術」がテーマ。そこに最年少の行動者として紹介されたのが「徒歩で20キロの荷を背に67日間で日本を縦断した」田中雄次郎である。当時「日断(にちだん)」と田中はその旅を呼んでいた。観文研の「あるく みる きく138号」に収録されたこの「徒歩旅行」のこと、そして北海道での酪農人生のことを一度若い地平線の仲間に向けて田中に語ってほしい、。
◆『風趣狩伝』の反響はその後も続く。山と溪谷誌で紹介されたほか、中国新聞の佐田尾信作さん(『風の人 宮本常一』著者)からは「『風趣狩伝』、ありがとうございました。「地平線通信」は私が「試行者通信」(主宰・八木晃介花園大名誉教授)とともに、楽しみにしているミニコミです」とメールをいただいた。2019年もよろしく!(江本嘉伸)
★今月も、報告会レポートは法政大学澤柿教伸ゼミの学生にお願いした。地平線報告会のレポートを書く仕事は簡単ではないが、若い人には大いなる試練の場となるだろう。澤柿先生にまとめてもらったが、地平線報告会の責任者として編集子も少し手を入れさせてもらった。(E)
■2018年最後の報告者は、ミクロの映像からキャリアをスタートし、ついには国内外の“辺境”で貴重な記録映像を撮り続けてきたカメラマンの明石太郎さんである。定例の会場が改修工事ということで、新宿歴史博物館での開催となったが、会場の音響設備が充実していて、ドキュメンタリー映像の上映&トークという構成には、思いがけず格好の会場となった。
◆最初に流されたのは「又鬼(マタギ)」の映像である。マタギ発祥の地と言われる秋田県阿仁町(現在の北秋田市の森吉山)が舞台。狩りは残雪期、雪が残りつつも人が歩きやすくなり、熊が冬眠から目覚める3月頃に始まり5月まで続く。マタギの最大の獲物は熊であり、狩りには照準つきのライフルが使われる。狩りへ出る前には、山の神の怒りに触れないようにお祈りをする。山の中で領域を決め、仕留めた熊がどのマタギたちのものになるかを決める。独特な掛け声でコミュニケーションを取りながら熊を探す。足跡が最大の頼りである。
◆銃声が鳴り響いた。銃弾を受けた熊が山を転がり落ちる。しとめた獲物を前に、祟りを除けるための儀式を行う。木枝で熊の体を3回撫で、唱え言葉を3回暗唱する。マタギたちは喜びの表情を浮かべた。熊の解体が始まる。マタギ特有の先の尖った独特のナイフ「ナガサ」で熊を顎の下からさばき、ナガサを撫でつけるように皮を剥いでいく。肉と内臓を切り分け、熊の血をコップにすくって飲む。タバコの箱ほどある熊の胆は、生薬として使われる。解体はわずか30分ほどで終わった。
◆マタギたちは、すべてを丁寧に取り分けて何一つ残さなかった。肉は食用に、皮は敷物に、熊の胆や内臓は薬用となる。毛皮と熊の胆は、参加者たちの間で競りとなる。マタギは、山を歩くのが上手い。人間離れした脚使いで山を下っていく。村へ帰ると、肉や内臓をはかりで量って村人へ配分する。これを「マタギ勘定」と言うらしい。早速調理が始まる。大根で煮ると熊肉の独特な臭みが消えるといい、これをナガセ汁と呼んでいる。煮るそばで少年が美味しそうに汁を頬張る。女性たちが出来上がった料理を宴会場へと満面の笑みで運ぶ。そこには、今か今かと最高の肴を待つマタギたちの酔った姿があった。
◆上映は、ステージのそでに明石太郎さんが司会進行役の江本嘉伸さんと並んで座り、“解説”するかたちで進行した。今回「又鬼」は20分にまとめられていたが、上映後のトークの中で、本編は53分の作品だったことが伝えられた。江本さんに促されながらおもむろに口を開いた明石さんから、少人数での撮影を頼まれたため、カメラ2台(つまりカメラマン2人)で、16ミリフィルムのアリフレックスと呼ばれるカメラが撮影に使われたことが語られた。また、自身はまったく山歩きのトレーニングなしでの撮影だったため、斜面を直登するマタギについていくのが大変だったという。
◆マタギの儀式に「3回くりかえす動作」が多い理由は何か?という会場からの質問に、マタギに限らず神への祈りに3という数字が共通して関係している可能性が高いという返答であった。「犬でも3回まわってワンというでしょう」と明石さんがおっしゃると、会場は笑いに包まれた。(澤柿ゼミ2年・亀岡浩樹)
■2本目に上映されたのは「開高健のモンゴル大紀行未知の大地に幻の巨大魚を追って」という1987年に放映された(撮影は1986年)作品。大草原や生活風景を映しながら、釣りをライフワークとする作家、開高健のモンゴルにかける意気込みなど、まずは、撮影が実現するまでの経緯の説明がある。舞台はモンゴルのハートランド「アルハンガイ」。社会主義時代のモンゴルでこの奥地の撮影が許されたのは当時が初めてのことだった。目的は開高健が追い求めてやまない「幻の巨大魚イトウ」である。首都ウランバートルから西へはるか600キロ。2日間かけての移動を経て撮影は本格化していく。
◆大草原や植物を画面いっぱいに映しながら、モンゴル奥地の風物を語っていく。様々な動物と人間の共存からなる当時のモンゴルは、どこか気迫のある雰囲気が漂っていた。イトウを求めて川に行くが、気温が上がる日中は岩陰に身を潜めてしまうという。モンゴルでは自然を信仰の対象とする習慣がある。その一つであるテルヒンツァガーン湖は、広大であり神秘的であった。水中撮影により、魚や藻の様子をはっきりと目視でき、よりリアルさが伝わってきた。
◆植物から動物まで、ありとあらゆる自然をテロップをつけて説明し、これにより、開高健と明石さんの一行が、草原の広大さや自然の優しさに引き込まれる様子が、描き出される。日本人にはなじみのない「オトル」という牧畜民の知恵も紹介された。一箇所の草場を動かずに羊やヤギに草を食べさせ続けると草原はたちまち荒れてしまう。それを避けるために1週間とか10日ごとに草場を移動させるのだ。「オトル」は、自然と共に生きるモンゴル遊牧民の間に数千年前から受け継がれている知恵だという。
◆ある日、羊がオオカミに襲われた。これを知ったモンゴル民がオオカミを撃ちとるシーン、鬼気迫る迫力に圧倒された。オオカミを遠くから撃ち抜く技術は一級品で、撃たれたオオカミは混乱し、やがて死んでいく。リアルなシーンだからこそ現地の雰囲気を肌で感じ取れた。撮影最終日、開高健はついにモンゴルの川の王者イトウを釣り上げる。打ち上げられたイトウからは、美しさと畏敬の念を感じ、身の色が変わっていくその瞬間を捉えていた。
◆上映後、明石さんと江本さんとのトークがはじまると、一転、当時の世界情勢の話に。1986年のモンゴルはまだモスクワの指令で動く社会主義国だった。もちろん、いまのような成田〜ウランバートル間の航空便はない。明石さんたちは北京から国際列車で一昼夜かけてモンゴルに向かった。レールの幅が「広軌」と「標準軌」で違うので中国・モンゴル国境の駅で必ず下車して車両交換を待ったのだそうだ。車中で税関逃れの人にものを持っているように頼まれたりと、モンゴルに行くまでには様々な苦労や事件があったという。
◆上映された映像の中で出てきたオオカミ狩りの撃つシーンは、非常に残酷なものであったが、明石さんの話では、モンゴル人にとってオオカミは、見れば反射的に殺したくなってしまう存在であったという。というのも、オオカミは、仲間を引き連れて一晩で羊たちを100頭も殺してしまうこともあったからだ。羊は遊牧民にとってはなくてはならない存在であり、羊を守るためにオオカミを見たら撃ち殺すという行為が体に染みついているからである。「撮影で“オオカミが振り向くシーン”を撮りに行った際も、狩人は狼を見つけても撮影をする前に撃ってしまうほどでした」と明石さん。
◆明石さんは、後述するように2003年にもイヌワシの撮影に訪れるなど、4回もモンゴルを訪れている。現地では野菜が作れず高価なため、北京で野菜を調達して行く。一方、魚は現地でよく釣れてたくさん食べた。このテレビ番組はサントリーの一社提供だったのでお酒だけはふんだんにあった、と明石さんが喜びの表情で語ると、会場が笑いに包まれた。開高健は釣りが好きな冒険家であった。ユーモアのある人であり、大所帯で生活を送る際にはフランスの小話をしたりと、皆が楽しんだり仲良くなれるような機会を持とうとした。時にはつまらない話や下ネタもあり、無理して笑っているときもあったという。
◆休憩を前に、モンゴルに詳しい大西夏奈子さんの「4分トーク」があった。大学でモンゴル語を専攻し、いまもモンゴルに通い、日本ではモンゴル出身力士たちの取材を続けているという大西さんが、モンゴルは現在、大気汚染と政治腐敗という2つの大きな問題を抱えていると訴えると、驚きの声が広がった。冬の首都ウランバートルは、ゲル集落から出る石炭ストーブの煙や排気ガスなどが盆地の底にたまり、ひどい地域だとまるでホワイトアウトの中にいるようで、肺炎や気管支炎になってしまう子もいる。親たちはSNSを使って情報交換したり、抗議のデモを行ったりもしている。
◆賄賂が非常に多く、政治家が人気取りのために国民にお金を配ったり、金を悪用したりと、国政は荒れている。ただし、現在のモンゴルが持っているのはマイナスの側面だけではない。再生エネルギー大国になる可能性があり、AI技術も世界トップレベルを目指して発展しようとしている。新しくチンギス・ハーン空港も完成し、これらは非常に期待されている。遊牧民の儀式がどれも3回であることに疑問を持っていた大西さんは、又鬼の話を聞けて大興奮して今夜は眠れない、とまでおっしゃった。
◆オオカミが撃たれた瞬間の映像が見事だったことに対して明石さん夫人、貞兼綾子さんから質問があった。明石さんの答えは、その瞬間、撃ったダルワ爺さんのすぐ隣にいたという。たまたま良いタイミングでカメラを回していて、まさに千載一遇のチャンスであった。それ以降あれよりいいものは撮れていない。いくら素晴らしいものを目にしても、カメラに撮れなくては意味がない、そういった意味でも、狩る決定的な瞬間が撮れたことは価値のあることであった。
◆また、社会主義時代には全否定されていたチンギス・ハーンが、現代では国祖として復権している、という指摘は興味深かった。モスクワの指示で長く「ヒトラーのような扱い」を受けていたチンギス・ハーンは民主化で復権し、過剰なほどに崇拝されるようになった、と江本さんは指摘した。(澤柿ゼミ3年・島崎司吏、2年・竹中智哉)
■休憩を挟んだ後、3本目に流れたのは「新世界紀行〜魔の山チマンタ」という映像であった。1987年の作品である。舞台は南米大陸ベネズエラ南部にあるギアナ高地。日本の約1.5倍の広さを持つこの高地には100を超えるテーブル状台地がある。映像は、切り立つ台地に雲がかかる幻想的な空撮シーンから始まる。この地の誕生はおよそ2億年前、大地殻変動が起こり平原は隆起し分裂した。そして柔らかい部分が流され硬いところだけが残り、切り立ったテーブル状の山になったという。
◆数十億年の地球の歩みをそのままにしたような風景で、頂上に生息する生物は2億年もの間隔絶され、独自の進化をすることとなった。アーサー・コナン・ドイルはこの地をモデルに『失われた世界』を執筆したという。今回の取材班は山登りのベテラン5人で編成。まずはカヌーでアウヤン山の周りを通ってチマンタ山塊を目指す。両サイドに緑が生い茂る川を進むと、目の前に突如として堂々たる岩壁が現れた。これこそがアウヤン山だ。
◆取材に入ったのは3月で気温は40℃近くと蒸し暑い。乾季のため川の水量が極端に少なく、いたるところで舟を引っ張ることとなった。男達が川に飛び込みロープを手づかみして船を引いていく。しばらくしてアウヤン山の麓に到着したが、ここからでは何もわからないため、取材班は空から山々を撮影することにした。標高差1000mを超す絶壁に沿ってジャングルから熱風が吹き上げ、それが乱気流となり、飛行は非常に危険である。撮影した年にはすでに2回墜落事故があったといい、気流の良い日を選びに選んで撮影に臨んだ。
◆空から見下ろすと、テーブル状台地が広い大地にぽつぽつとあることが確認できる。ヘリコプターで進むこと1時間、世界最大の落差979.6mを誇るエンジェルの滝が見えた。そのまま進んでアウヤンの頂上付近に辿り着く。台地は麓からは想像できない程広い。さらに進むこと1時間半、ようやくチマンタ山塊に到着した。画面いっぱいに広がる黒く大きな空洞。黒い絶壁の下から地底の鳴動が聞こえてくるようだ。
◆深さの見当もつかないその闇の中を、小さなヘリコプターが飛んでいる。その様子はまるで薄羽蜉蝣のように頼りない。このシーンには聴衆の皆が息を呑んだ。頂上に降り立った取材班はさっそくベースキャンプとする場所を探す。結局、1000mの高さからいつ落下するかわからないような崖寄りにテントが張られた。一息入れてタバコを吹かしながら仲間と談笑する取材班の姿をカメラが追う。ここに3週間滞在することになるのだ。
◆岩の合間に張り巡らされた植物を掻き分け、取材班は開けた場所を探す。滝の上にヘリコプターを着陸させる場所を見つけた。カンッ、カンッ、カンとハンマーの音が周囲に響く。懸垂下降で滝を降りるため、ロープを固定するボルトを岩に打つのだが、永年の浸食に耐えた岩は想像以上に硬い。谷底に降りたつと、身体中に水流の飛沫の音が響く。人跡未踏のこの地に数億年に渡って響いてきた貴重なこの滝の音を、取材班は人類で初めて聴く栄誉に浴している。
◆最後のシーンで、懸垂下降で壁にぶら下がる隊員が「花を見つけたぁ〜!」と叫ぶ。「何のはなぁ〜?」と、崖の上から聞き返す声。「わかんなーい」と返答がきた。会場は笑いに包まれた。映像を見終わった後、江本さんと明石さんのトークが始まった。1987年のチマンタ山での撮影はとてもアクロバティックなものだったという。まったく底の見えないクレバスに1日1回の雷雨。しかも雷は下から上がってくる。このような自然の驚異にさらされ続けた。とても危険で怖い撮影が成功したのには、パイロットの力が大きかったという。その彼もこの撮影の3年後に事故で亡くなってしまった。
◆これが一番怖かった経験? との江本さんの問いに、明石さんは、1981年に行ったアフガニスタンでの経験が一番怖かったと言う。惠谷治さんをリーダーに、早大探検部仲間の坂野皓さんをディレクター、カメラマンを明石さんがつとめ少数民族ハザラ族ゲリラに扮しての山中35日間の行動。日本人と外見は似てはいるものの、まったく意思疎通ができない。お腹を下して外で用を足している所に銃を突きつけられたこともあり、今となっては笑い話になっているが、その時はいい得えも知れない恐怖だったという。今回は上映されなかったが、明石さんが歩き続けてきた「辺境」がどのようなものだったか、想像することはできた。
◆この日は3作品の上映予定であったが、明石さんの作品の中には、世界初の瞬間を捉えた貴重なものがあり、せっかくの機会ということでいくつかの映像が追加で上映された。追加の4本目の映像は、野生のユキヒョウの動いている姿を捉えたものである。これは、1987年に防衛大のチョモランマ登山隊に同行した際、偶然撮れた映像だ。登山ルート沿いで撮影中に、だだ広い雪の斜面にポツンと黒い動く点のようなものが目に入った。それがユキヒョウだった。それまでチョモランマにはユキヒョウはいないとされていた。6600mという標高で900ミリの超望遠レンズを使って撮影したという、非常に貴重な映像である。
◆最後の映像は「大草原にイヌワシが舞う〜モンゴル・カザフ族 鷹匠の父子〜」という2003年の作品。冒頭で、右手で鷲を使い、左手で馬を操る勇壮なカザフ族の姿が映し出される。何千年も前から変わらぬ伝統的な姿である。タカ匠よりワシ匠と言ったほうが正確だが、この作品は、普段は服や帽子を作る暮らしを送り、鷲匠の技を競う大会で2度の優勝歴を持つというカザフ族の鷲匠が、失われつつある技を二人の息子に教え、大会に出るまでの過程を追っている。
◆まずは、新たに訓練に臨む息子の相棒となるイヌワシの雛を手に入れることから始まるが、これにも昔から伝わる伝統的な方法を使う。イヌワシは絶壁の途中に巣を作る。親鳥が餌を探しに巣を離れる隙を狙って、体にロープをくくりつけて崖を下り、巣に残された雛を攫いに行く。思いの外雛が大人しかったこともあり、14歳の息子はこの命がけの作業を遂行した。雛を家に連れて帰ると、枝などを折って重ねて巣を作り、そこで雛を育てる。餌は小さく切った羊の肉。ある程度育ったらイヌワシとの信頼関係を築くための様々な訓練を開始する。
◆ここまで上映されたところでちょうど報告会の終了時刻となってしまい、鷹匠大会の結果は結局わからなかった。明石さんのコメントでは、現在も鷹匠の伝統は健在で、人間たちが鷹やイヌワシを乱獲しないでいるから共生できている証拠である、ということであった。報告会では合計5作品を見せてもらったが、明石さんがこれまでに作ってきた作品は81作にも上る。最近の仕事としては、NHKの「ダーウィンが来た」の取材をしていると言う。今もなお、ありのままの生き物の姿をカメラに収め続けているのだ。また、会場では、3.11後から福島で取材を続けている「生きものの記録」シリーズのDVDセットが割引販売されており、報告会が終了する頃には完売していた。(澤柿ゼミ3年・大森琴子、2年・飯野志歩)
かなり前のことですが、江本さんから報告者の依頼をいただいたことありました。こちらも仕事が空いていたので気軽に引き受けたのですが、報告会直前に仕事が入って、土壇場でキャンセルした苦い経験があります。今回報告会を無事果たせたことを喜んでいます。
報告のテーマは別に定めず、今まで撮影した作品の中から地平線会議にふさわしいと考えたものを選び、ダイジェスト版で見ていただくことにしました。『又鬼』、『モンゴル大紀行』、『魔の山チマンタ』の3本。
『又鬼』(1983 群像舎)は、私のドキュメンタリーカメラマンとしての立ち位置を決定づけた作品です。人は少しの塩と他の生き物の命を断って食べるしか生を活かす道はない。人に限らず全ての生き物の宿命である。又鬼衆の「春クマ狩り」はその一端を垣間見せてくれました。何と潔い生き方をしている人達なんだろう! その生きざまに感動しました。それから3シーズン秋田県阿仁町に通って撮り続け、1983年完成し秋に公開されました。
以後クマとの出会いは、「野生の王国」(1985)では冬眠から醒めたクマに追われ、『白い馬』(1995)でゴビ砂漠のゴビ熊を探し求め、「ジョン・ミュアーの道を行く」(1995)でクロクマに食料を奪われ、「不思議の森の冒険」(2006)は軽井沢の森の中で2mまで異常接近されてクマよけスプレーを持ったまま睨み合い、数秒後クマが目をそらし去ってくれたので助かりました。小便チビリましたね。その後クマとの付き合いの集大成となる『平成熊あらし』(2009群像舎)が完成しました。
「モンゴル大紀行」(1987)は私のメジャーデビューの作品です。大手民放テレビの大型特別番組で、しかも未知の大地モンゴルで幻の大魚イトウを『オーパ!』の小説家開高健さんが釣るという企画。担当の坂野晧ディレクターからの電話を受け取ったのは取材先の西表島の民宿でした。私は覚えていないのですが民宿のおばさんに言わせると、電話を切った後大声を出して飛び上がったのだそうです。
難問がありました。取材半ばでカメラマンが離脱し他のカメラマンと交代できるものかどうか、それをディレクターに伝えねばなりません。普通、私たちの世界ではあり得ません。それでも自分の意志は強く、泡盛を飲んだ勢いで過激になった事もありました。それをOKしてくれたのが岩崎雅典ディレクターでした。西表の上原港で見送ってくれた時に、「頑張ってこいよ!」と送り出してくれた言葉が今も耳に残っています。
「魔の山チマンタ」(1987)は、「潜入・アフガニスタン35日間の記録」(1981)で組んだ恵谷治、坂野晧と私とで南米の秘境・ギアナ高地に挑んだ記録です。TBSの新番組「新世界紀行」の2作目。5年続いたこの番組には10本以上に関係しました。中には3週にわたった作品も含まれます。
チマンタ山塊の頂上台地は雨が多く常に高湿度だと聞いていました。ビデオカメラは湿気に弱く、大量の乾燥剤を準備したのです。案の定、台地は雨ばかり。稲妻も横に走る。「髪の毛が逆立ったらカメラ、三脚を置いて岩陰に逃げろ!」と教えられました。霧が深く行動できない日もあり、雨が上がり霧が晴れて断崖絶壁から無数の滝が滴り落ちる絶景も見ました。行動が制限されていささか欲求不満ではあったが「まあいいさ! 又来れば!」と現場で話しました。長く取材タッグを組んできた、その恵谷治、坂野晧も鬼籍に入り、再訪は夢のまま終わりそうです。
今や4K8Kの時代。画角は3:2から16:9のハイビジョンになり、映像機材の進化著しい昨今、報告会では30年前の作品や番組を見てもらいました。画質や音声の悪さにもかかわらず会場に熱気を感じました。当時のTV局、制作会社、スタッフが手を抜かず、ごまかさず、丁寧に番組に取り組んだ事が見る人に伝わったのではないでしょうか。その気持ちを忘れずにこれからも撮影の仕事を続けて行きたいと思います。報告会は尻切れトンボで終わってしまいましたが満足しています。参加していただいた皆様には最後までお付き合いいただきありがとうございました。(明石太郎・カメラマン)
■第476回地平線報告会へ初めて参加した井口亜橘(あき)と申します。地平線報告会のことは、第457回の報告者樋口和生さん、第471回の阿部幹雄さんが私の亡き夫・福澤卓也の盟友であったことから知りました。報告会が毎月開催されていることを知ったものの、自分が直接会場へ行くことは思いつきもしませんでした。というのも、WEBサイトで拝見したところ、登場される皆さまはフィールドの猛者ばかり!!!
◆私は北大ワンゲルOGで、現役時代は可愛らしい山ガール?でしたが、夫が1994年にミニャ・コンガにて行方不明になって以来25年間、「山、雪崩、フィールド」には触れたくないという思いが潜在意識の中にありました。なので、猛者揃いの報告会に行く気にはなれませんでした。それに過去の記憶がオーバラップして悲しくなるだけ、という気持ちもありました。しかし、もうすぐ札幌へ転居するということもあり、怖いもの見たさで「ヘンキョーに一瞬を待つ」明石さんの報告会を聞きに行きました。
◆まず会場の扉を開いて驚きました。会場全体が温かく和やかな雰囲気でした。まるで、コタツの中に足を入れたような(しかもミカンまでもらったような)感覚でした。フィールドの猛者ばかりで尖った雰囲気の会を想像していましたが、それは私の思い込みでした。また、この日は二次会にもお邪魔しましたが、誰かが尖った英雄話をするわけではなく、始終和やかな雰囲気でした。会に集まる皆さんの心根がこの雰囲気を作っているのだなと感じました。
◆私は昨年3月に夫・福澤の遺稿を集めて『旅の記憶』を自費出版しました。このことで、「ようやく区切りがついたね」と言われるのですが、相変わらず「山、雪崩、フィールド」を意識の底に沈めて重い蓋をしている状態は続いていました。しかし、地平線報告会に参加して温かい雰囲気に包まれて、重い蓋が少し軽くなりました。ありがとうございます。
◆元々の己の志向としてフィールドに興味があるものの、諸々の事情で長い間、そこから離れている方も大勢いらっしゃると思います。もしくは今後もずっと離れざるを得ない事情がある場合もあると思います。このような時でも、触れていても良い会が地平線なのでした。これが私の嬉しい発見です。(井口亜橘)
★福澤卓也さんの遺稿集『旅の記憶〜空、雲、風 そして心の詩』については、地平線通信472号(2018年8月号)の「地平線の森」欄で親友の樋口和生さんが紹介している。
■明けましておめでとうございます!! いかがお過ごしでしょうか? 相変わらずお忙しいのですか? こちらユーコンは、過去最悪の暖冬と雪不足です。雪のあるカノールロードまで行けばソリを使えますが、家からだと10頭以上で安全にソリでいくにはまだ雪が足りず、仕事をしながらのトレーニングはバギーで行うしかないままです。バギーでは、行けても50kmと距離が稼げず……。
◆2回ほど雪のあるカノールロードまでキャンプトレーニングに行きましたが、やはり犬たちの力不足を感じました。300マイルレースにエントリーしていましたが、棄権するかもしれません。仕事がなければそれでもカノールロードへ頻繁に行ってなんとかなりますが、今季は仕事休んでまで無理せずに諦めようと思います。
◆去年もここまでひどくはなくともこんな感じだったので来季はアラスカでトレーニングを考えています。地球の変化についていけるようにしないと……。とりあえず、年始のご挨拶と近況報告でした。(ホワイトホース 本多有香)
■みなさ〜ん、こんにちは。すっかりごぶさたしました。地平線会議の「40年祭」は盛大にやりましょう〜!といっておきながら、何らかかわれず、参加することもできず、ほんとうに申し訳なく思っています。それ以上に残念なことでした。大盛況のうちに終わったと聞いてホッとしています。
◆昨年の『地平線通信』(1月号)でもお伝えしたように、70歳の誕生日を期して出発した「賀曽利隆の70代編日本一周」をつづけていたからなのです。おかげさまで、昨年末の12月31日をもって、終了させることができました。最後は、最初と同じ「伊豆半島一周」で終わらせました。2018年12月31日の21時15分に東京・日本橋にゴールしたのですが、その瞬間、2017年9月1日に日本橋をスタートしたシーンがよみがえり、胸がジーンとしてくるのでした。
◆日本一周の相棒、Vストローム250のメーターは81626キロを表示していました。この走行距離は2017年8月1日〜8月31日の「日本一周プレラン」(4174キロ)、9月1日〜12月17日の「日本一周・第1部」(25296キロ)、2017年12月20日〜2018年12月31日の「日本一周・第2部」を合わせたものです。そのほかに、『ツーリングマップル東北2019年版』の表紙撮影&実走取材で使用したVストローム1号(7328キロ)、2万キロごとのタイヤ交換やチェーン、スプロケット等の交換時に用意してもらったVストローム2号(685キロ)、Vストローム3号(3752キロ)がありますので、全部で4台のVストローム250で成しとげた「日本一周」。全走行距離は93391キロになりました。10万キロに到達しなかったのがちょっと残念です。
◆「賀曽利隆の70代編日本一周」の第2部の「テーマ編」は、第1部を終えた直後の2017年12月20日に開始しました。「1年365日、毎日、バイクに乗ってやる!」という意気込みでスタートさせました。12月20日の浜松往復を皮切りに、峠越え(ヤビツ峠)、伊勢原探訪、三浦半島一周、江ノ島探訪、峠越え(朝比奈峠)、大楠山登頂(三浦半島最高峰)、箱根スカイライン、伊豆スカイライン、大山登頂、大山街道(田村道)と一日の休みもなくバイクを走らせました。
◆2018年に入っても1月1日の元日ツーリング(初詣、初日の出、初富士、相模の神社めぐり)を皮切りに富士山一周、伊豆半島一周、東京探訪(江戸城)、峠越え(正丸峠)、高麗山登頂、小田原探訪、峠越え(箱根峠)、峠越え(足柄峠)、大山街道(矢倉沢街道)、安房国探訪、弘法山登頂、峠越え(山伏峠・道志村)、峠越え(雛鶴峠)、真鶴探訪、街道を行く!(東海道・平塚宿→日本橋)、東京探訪(品川宿)、街道を行く(東海道・沼津宿→府中宿)、大山街道(二宮道)、相模川探訪(河口→昭和橋)、相模川探訪(昭和橋→小倉橋)、峠越え(篠窪峠)、国道走破行(東京〜横浜間の超短国道)、相模川探訪(小倉橋→日連大橋)、相模川探訪(日連大橋→山中湖)、新東名厚木南IC(15時に開通)、峠越え(鶴峠)、峠越え(小仏峠)、峠越え(高麗峠)と、やはり1月も1日も休むことなくバイクを走らせました。
◆このようにして2月以降も、「峠越え」や「温泉めぐり」、「岬めぐり」、「街道を行く!」、「林道走破行」、「島めぐり」など様々なテーマで日本を駆けめぐりました。中でも特筆すべきなのは「鵜ノ子岬→尻屋崎」です。東日本大震災の発生した3月11日に、我がライフワークにもなっている「鵜ノ子岬→尻屋崎」に出発しました。鵜ノ子岬は東北太平洋岸最南の岬、尻屋崎は東北太平洋岸最北の岬。「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走ることによって、東日本大震災の大津波で大きな被害を受けた東北太平洋岸の全域を見てまわれるのです。ということで始めた「鵜ノ子岬→尻屋崎」も今回が第20回目。東北太平洋岸の日々、変わっていく姿を見ていきました。
◆「12345678910ツーリング」も忘れられません。日本の幹線国道の国道1号から国道10号までの国道走破行です。国道1号→国道2号→国道3号で「東京→鹿児島」を走り、国道10号→国道9号→国道8号、さらには国道17号で「鹿児島→東京」を走りました。つづいて国道4号→国道5号で「東京→札幌」を走り、青森に戻ると、国道45号経由で「仙台→東京」の国道6号を走りました。最後の国道7号は東京から国道4号で青森まで行き「青森→新潟」の国道7号を走り、国道17号で東京に戻ってきたのです。毎年、恒例の「東京→青森・林道走破行」もやりました。全部で20本の林道を走り、ダート距離の合計は160.1キロになりました。
◆我が旅人生は1968年4月12日に旅立った「アフリカ一周」に始まります。カソリ、20歳の時のことでした。日本に帰ってきたときは22歳になっていましたが、「こんなにおもしろいことはない。これからはバイクで世界を駆けまわるぞ!」と、22歳の誓いをたてたのです。その「22歳の誓い」どおりにというか、「アフリカ一周」にひきつづいて、「世界一周」、「六大陸周遊」で世界を駆けめぐったのです。20代の世界旅は超貧乏旅行の連続で、基本は宿泊費はゼロ。1000夜以上の野宿をしました。
◆ぼくが日本に目を向けたのは20代も後半になってからのことです。そのときに、日本をテーマで見ていこうと思いたち、「峠越え」や「温泉めぐり」、「岬めぐり」などをテーマにして日本を走り始めたのです。「日本一周」も日本を見るためのテーマのひとつでした。30代は日本に夢中になりました。40代、50代は日本と世界をキャッチボールするような感じで、日本を見た目で世界を見る、世界を見た目で日本を見る、それをくりかえしました。60代以降は日本に重点をおいた旅をつづけています。
◆下記のカソリの「日本一周一覧」を見ていただきたいのですが、ぼくにとっての最初の「日本一周」は30代編でした。今となっては20代編をやっておけばよかったと悔やむ気持ちもあります。30代編日本一周にひきつづいて40代編、50代編、60代編、70代編と「年代編」の「日本一周」をつづけました。その間には「島めぐり日本一周」、「温泉めぐり日本一周」、「林道日本一周」の「テーマ編日本一周」があります。
◆10年ごとの「年代編日本一周」はまさに我が人生の節目を見るかのようです。「30代編日本一周」は妻と生後10ヵ月の赤ん坊を連れての「シベリア横断→サハラ縦断」から帰ったあとのことでした。2人目の子供が誕生したのを見届けると、家にあった10万円を旅の資金にし、妻には「わるいな、それでは行ってくるから」と言い残して旅立ちました。全費用10万円の日本一周なので、全泊野宿でした。「40代編日本一周」は出発直前に胸の腫瘍がみつかり、「あー、我が人生もこれで終わりか」と、じつに暗い気持ちで旅立ちました。
◆それからの10年間は「死の恐怖」に怯えながらの旅の連続。40代の後半になって胸の腫瘍を除去してもらったときは、「これでまだまだ大丈夫!」と生き返るような思いでした。「50代編日本一周」の出発は1年、送らせました。何と50代に突入してまもなく心臓発作に見舞われ、家の階段も登れなくなってしまったのです。なんとかバイクに乗れるくらいまで回復したあとは、重度の不整脈に見舞われました。医師にはまるで人ごとのように、「よくこれで普通の生活が送れますね」といわれたほど。
◆そんな不整脈を抱えての旅立ちでしたが、日本橋を旅立ってから13日目、四国の四万十川沿いの道を走っているときに、不整脈はピタッと止まったのです。病院では治せなかった不整脈がバイクで治ったのです。それから20年間、不整脈は一度も出ていませんし、心臓発作の再発もありません。
◆「60代編日本一周」は「還暦」との戦い。還暦が重い重圧となって、のしかかってきました。それを乗り越えたとき、新たな地平が目の前に開けていました。「そうだ、還暦だから元に戻れるのだ、自分の原点は20歳。20歳に戻ろう!」と思ったときの気持ちの軽さは今でも忘れられません。そして「70代編日本一周」ですが、まさに「老いとの戦い」。日々、迫りくる老いとの戦いの連続でした。それを乗り越えたとき、「よーし、これでまだまだできる、今度は80代編日本一周を目指そう!」という気持ちになるのでした。みなさん、ぜひとも1月29日の報告会にはおいでください。みなさん方とともになって、カソリの「日本一周」を語り合いたいと思っています。(賀曽利隆)
賀曽利隆の「70代編日本一周」
2017年9月1日〜2018年12月31日
全走行距離 9万3391キロ
※この走行距離には「日本一周プレラン」(2017年8月1日〜8月31日)4174キロも含まれています。
12月31日21時15分 東京・日本橋に到着。賀曽利隆の「70代編日本一周」終了
■3日前(1月10日)、氷点下13度まで下がりました伊南から酒井富美です。今シーズン雪は少なめですが、地元の高畑スキー場も予定通り12月22日に無事オープンしました。稼業の民宿田吾作は、昨年末から年明けまで、珍しく連日のお客様でした。しかも、この冬3月25日まで「全ての土日と3連休」スキーヤーの予約が入っています。
◆理由は伊南の旅館民宿従事者の高齢化で宿泊先が激減していることもあるかと思っています。ちなみに、田吾作のじいちゃんは88歳、ばぁちゃんは83歳ですが、現役で一緒に働いてくれています。ちなみに伊南地域の平成30年度に生まれた新生児は今のところなく、3月に1名出産予定で(昨年は2名)、少子高齢化を目の当たりにしています。
◆昨年10月の地平線会議40年祭の盛り上がりを通信で見させてもらいながら、2000年に地平線報告会250回を伊南村で開催したことを思い出しました。あれから20年が経ちます。あの当時、何十年も使われていなかった国の重要文化財「大桃の舞台」を活用した「地平線会議in伊南村」は、村の一大イベントして地元の新聞や広報誌にも大きく取り上げられました。地平線会議関係者も江本嘉伸さん、三輪主彦さん、賀曽利隆さん、森田靖郎さん、山田高司さん、長野亮之介さんを始め、大勢の人たちが伊南村まで足を運んでくれました。参加者、協力者を含めて村内外から300人余りの人が関わり盛り上がりました。
◆この報告会がきっかけとなり、「大桃の舞台」は地区住民が中心となって、今も毎年8月第1週目の週末に「歌舞伎」を主としたイベントを継続しています。嬉しい出来事を思い出しながら、悲しいことも。「地平線会議in伊南村」を開催するために、村で中核となって支えてくれた渡部文政さん(当時、企画振興課課長)が2013年秋の豪雨の水難事故で他界してから丸5年も過ぎました。文政さんは、250回報告会を開催するために、江本さんと何度も電話で相談し、直接東京まで打ち合わせのために出向いてくれたりと、その存在の大きさは今も心に残っています。
◆息子は小学校5年生になりました。一昨年から剣道を始めました。稼業が民宿なので、長期休暇やお盆、正月に出かけることは殆どないのですが、剣道を通して東北各地や日本武道館へ出かけるチャンスを頂いています(今朝も4時に起きて岩手県の大会に向かいました)。実は、先日学校から帰宅した息子が「お母さんこの人、知ってる?」と教科書を見せてくれました。そこには極地冒険家の荻田泰永さんが掲載されていて、出逢ったこともないのに「知ってる!知ってる! 地平線会議を通して知ってるよ!」と自慢してしまいました。(国語か理科の教科書だったかと思いますが、息子と探したのですが、見つからず詳細を伝えられずスミマセン)。
◆報告会には数年間参加出来ていませんが、通信を通して地平線会議を身近に感じています。とりとめのない文章になってしまいましたが、これからも通信からの多様なパワーを楽しみにしています。(真っ白な世界の伊南から 酒井富美)
■亥年も明けて、何がめでたいのやら意味不明の新春。が、それより何より昨年末のアンデス写真展には、地平線界隈の方々も多々お運びいただき、投げ銭カンパにもご協力いただきました。この場を勝手にお借りして、御礼申し上げます。お陰さまで展示は大好評! 見損ねた、見足りない、もっと見せろ、などなどのお声が各方面より寄せられております。
◆てなわけで、若干内容を入れ替えて持ち出し写真展の続きを開催する運びとなりました。1月24日から2月12日まで、三宿SUNDAYにて。会期中無休、入場無料ですが、閲覧時間その他の詳細はもうすぐアップされる公式サイト mchambiex.wixsite.com にてご確認ください。1月27日(日)は写真家の平間至氏、2月11日(月・祝日)にはドクトル関野氏とのトークも予定しております。あと、秩父在住のペルー人女性歌手イルマ・オスノさんも登場の予定。彼女はとにかくスゴイ!何がどうすごいのか、説明不能にスゴイ!
◆毎月の地平線報告会では、見知らぬ土地や想像を絶する行動の写真が、おびただしい数で目の前を通過していきます。過去40年分の総数はいったい何万点になることか。ただその分、1枚の写真を見つめることはほとんどないでしょう。100年前のアンデスで撮影された写真に囲まれて、記憶と記録の間に生じた奇跡を見つけていただきたいと思います。 Zzz-カーニバル評論家
■10才と5才の娘二人に振り回されている間に地平線会議の皆様とは長々と御無沙汰しております。毎号熟読拝読しております「通信」で新顔が続々と増えている様子、「40年祭」イベントの大成功や長野画伯の奥様を多くの仲間が地平線らしく見送った感動的な物語にも多くの事を教えられた年が過ぎ去りました。
◆年に何度か訪れる上野公園を散策する度に10才の娘、春が科学博物館の裏門から入って関野吉晴氏と握手した思い出を語り、気の強い妹の5才、晶が憤然とするのが定番になっております。娘達にも是非とも聞かせたい興味深い報告が目白押しですから今年は頑張って是非とも参加する機会を得たいと念願しておりますが、昨年天候不順が続く中奇跡的に関東が無風快晴となった10月21日に娘たちは筑波に初登山しました。
◆初心者ルートを取ったものの名にし負う古来修験の神山ですから幼子には荷が重いかと危惧しつつも「急がない。休まない」と最後尾から声を掛けつつ偶にすれ違う人とは大きな声で「コンニチハ」と挨拶、ロープウェイ駅まで泣き言無しで踏破し、水の旨さと梅干し握り飯と沢庵の有難さを身に染みた娘達「お前たちもやっと日本人になったんだぞ」との父の一言に口をもぐもぐさせながら大きく頷いたのでした。
◆下山ルートは混雑していましたが、山鳥の声と木の葉を揺らす風の音しか聞こえない登り道では何度も足を止めては「お父さん、静かだねえ」と東武電車の線路沿いマンションで育った娘たちは初めて自然の音に包まれる快感と興奮を得て初登山を満喫したのでした。次の山を考えつつ「まだまだチベットは遠いなあ」と少しばかり頼もしい顔になった娘達に振り回される日々に戻った父なのであります。
◆閑話休題。拙著『チベット語になった坊ちゃん』の続編にとイスラム帝国の分裂と欧州の内部対立の間隙を突いてアジア最大の帝国を築いたチンギス汗の孫の時代を追跡している身としては「イラン包囲網」「一帯一路」「米国第一」「英国離脱」等々既視感満載の文字が満ちる報道を横目にダライ・ラマ猊下の言動と半世紀程周回遅れのウイグル弾圧の報道を目にする度に自らの遅筆に焦燥感が募るばかりであります。
◆拙著の舞台となった中国青海省チャプチャの町も本性を隠した高速道路が通る露骨な軍事拠点に変わった実態がグールグ・アースで簡単に確認できる時代になった事を喜ぶべきか悲しむべきか……。小生意気な娘達が報告会で失礼な暴言を吐くことを前以て謝罪しつつ本年も地平線会議の更なる御発展を祈念する次第。(第306回報告者『チベット語になった坊ちゃん』著者 中村吉広)
■自慢でもなんでもないのですが、地平線会議は1979年以来、通信費2000円(年)、報告会参加費500円を変更していません。お金に余裕のない若い世代をおもな対象としているからです。12月から郵送料が1通ごとに8円ほど値上げされました。そういう事情なのでカンパはほんとうにありがたいのです。カンパは春まで続け全協力者氏名をあらためて掲載いたします。振込先は、
みずほ銀行四谷支店
普通 2181225
地平線会議代表世話人 江本嘉伸
なお、年齢を重ねつつある結果、記名忘れは頻繁にあります。すみませんが気づいたらお知らせください。
井口亜橘 北村憲彦 金子浩
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。なお、「1万円カンパ」は別に記載しています。通信費は郵便振替ですが、1万円カンパは銀行振り込みですのでお間違いなきよう。ただし、通信費の口座に1万円を振り込んでくださる方もいてどちらもありがたい、とお受けしています。
北村憲彦/金子浩/田中明美/吉田敏浩(3,500円『風趣狩伝』の代金も。地平線会議の歩みが印象深く伝わってきて拝読しながら視野が広がってゆくと感じています)/高野孝子(20,000円 これまでの通信費をまとめます! 足りないでしょうかね…。)/山本洋子(20,000円 お送り下さりありがとうございました。これで最終号にして下さい。長きに渡りありがとうございました)/福原安栄(2019年の通信費を送ります。いつもお世話ありがとうございます)
2015年12月22日に北海道の黒岳で谷口ケイさんが遭難してから3年が経った。ヒマラヤなど大きな山々の壁を初登してきたケイさんが、まさか日本の山で遭難するとは、と誰もが信じられない思いだった。
「ピオレドール」という、世界のアルパインクライマーを対象にその年の優れたクライミングに贈られるフランスの賞を、世界で初めて日本人そして女性として受賞した。日本トップクラスのアルパインクライマーだったが、クライマーや登山家という枠に入れられるのを好まなかった。
2010年1月に「タテとヨコのハイブリッド」というタイトルで地平線報告会をした。自らを旅人と言っていたケイさんにとって、地平線会議は居心地良い場所だったのではないかと思う。生命力あふれるケイさんは、地平線に集う人たちからも慕われていた。
その報告会を逃した私は、後の日本山岳協会ではじめて話を聞いた。予想通り世界トップレベルの登攀内容は想像を超えるものだったが、それよりも、楽しげなエネルギーを放って話をする人としての力に圧倒された。報告会の帰り道に江本さんに電話を入れてその興奮を伝えると、すぐにふたりの間をとりもってくれ、ケイさんは私の家へ夕飯を食べに来ることとなった。
それから、気さくなケイさんと山へ一緒に行くようになった。悲壮なイメージを抱いていた冬の壁でもエネルギーと明るさは圧倒的だった。ケイさんを通じて「いまどき」の冬のアルパインクライミングに触れた私は(当時の10年ほど前から装備や登り方の発想が大きく変化した時期だった)、自らラインを選ぶという創造的な楽しさに引き込まれた。
昨年の暮れにケイさんについて書かれた『太陽のかけら』が出版された。著者の大石明宏さんは、私と同じ時期にケイさんから冬のアルパインクライミングの洗礼を受けた仲間だ。もともと亜細亜大学山岳部出身でケイさんと深い親交のあった野口健氏の後輩であり、21歳で後にケイさんの登攀パートナーとなる平出和也さんと一緒にチョー・オユー峰に登るという因縁を持っていた。「山と溪谷」編集部勤務ののち、今は静岡で家業を継ぎながら執筆をするライターだ。
一昨年の暮れ、大石さんからケイさんについて執筆するつもりだと聞いたとき、ああ、一緒に登ってきた大石さんに書いてもらえたらケイさんはよろこぶだろうと思った。同時に、途方もない海原に船を漕ぎ出そうとしているのではと心配にもなった。時間を惜しむように山へ登るだけではなく、多くの友だちと会い深く心を通わせたケイさんの行動の幅は大きかった。一冊の本とするのは並大抵のことではないだろう、と考えていた。
しかし、それは杞憂だった。家業、ライター、子育て、自身のクライミングをしながら、どう時間を捻出したのか多くの関係者に話を聞き、本人も予想していなかったケイさんを取り巻く新たな出会いを重ねていた。そして、凝縮して生きたケイさんの43年が一冊にまとめられた。
直接関わった人が感じたケイさんの熱量。それを文章で伝えるのは、簡単なことではない。報告会や、食事をしながらの何気ない話や、冬の壁での登攀で接した熱い魂。多くの人たちは、その輝きを生まれながらのものと信じていたのではないかと思う。しかし、それはケイさんが悩み成長を重ね続けた結果だったと知ることになる……。
正直なところ、大石さんを気のいい山の友だちとばかり思っていたのに、経験と愚直さを併せ持つプロの書き手だと改めて気づかされた(失礼)。ケイさんの熱い生きざまがぶれずに伝わり、ぐいぐいと読むものを引き込んでいく。集めた事実を取捨するには勇気と、痛みもあっただろう。そのお陰で、この本はケイさんに関わった人だけではなく、多くの人たちに生きる意味を問いかけ力を与え、長く読まれる本となるのかもしれないと感じる。太陽のかけらのようなケイさんの魂は、これからさらにより多くの人に届いて生き続けることになるのではないだろうか。(恩田真砂美)
■地平線40周年を記念して出版された『風趣狩伝』奥多摩での山の仕事後の寝床で、21世紀始めのクロニクルとして楽しく読んでいる。さて、この題名を見て記憶を醒ました。種本の『風姿花伝』は、『方丈記』『五輪書』『奥の細道』と並んで小生の好きな日本古典。どれも薄い文庫版があり、海外の川旅の友として持参した。『風姿花伝』の著者、世阿弥のこんな逸話を、どこかで読んだか聞いた記憶がある。
◆世阿弥が京都の河原の舞台で木こりを演じていたところ、観衆の中から「動きが違う」との声。訊ねると木曾から出てきた木こりとのこと。そこで世阿弥は、この木こりについて木曾の山に行き、山仕事の動きをマスターして芸に磨きをかけて帰ってきた、というもの。1997年、四万十に行くとき、世阿弥のこの話が頭にあった。世阿弥に習って、未熟な芸を磨くために四万十の山へ入った。
◆ただし小生の芸は景観作庭師。1970〜80年代、日本と世界を川から眺め、1990年代アフリカ、アジアで植林をメインに流域景観の再生に取り組んだ。森林破壊や砂漠化がひどい所では、河川流域圏の源流部からの植林、森の再生が必要になる。その土地の一番低きを流れる川から流域を見てきたことは、日本の庭師が渓谷や水辺の自然景観に学ぶのに通じ、役に立った。
◆景観設計には大切なことが、あと2つある。住民参加、適正技術だ。土地の住民が主人公になって参加することが、土地に根付き持続するための最低条件。進みすぎた重機や情報機器や科学物質の使用も、適正技術かどうか、地域の自然と文化の多様性とマッチするか見極めが大事。
◆時代は、1989年の東西冷戦終結とそれに伴う軍事技術(衛星情報など)の民生化、1992年の地球環境サミットと続き、平和に進む方角と、イラク・フセイン大統領のクエート侵攻(1990年)に対し国連軍の反撃(1992年)と、「文明の衝突」への方角がせめぎ合う1990年代だった(2001年9月11日、同時多発テロで世界は衝突へ大きく右旋回した)。
◆地球サミットでは、気候変動対策と生物多様性の保全が2大議決となり、両方に多大な役割を果たす森林への関心が高まった。1997年、気候変動対策では京都議定書を日本は主導し、生物多様性対策では、モントリオールプロセスを受けた国際モデル森林ネットワークの日本のモデル森林に、空知川流域と四万十川流域の森林計画区が選ばれた。
◆当時、途上国協力関係者の間では、南南協力、民際協力との言葉が交わされていた。先進国と同じ大規模機械化や化学物資使用は、高価過ぎて不適正か環境破壊につながる例が報告されていた。高度機械化科学化する前の、東南アジアや中国南部、日本の江戸時代の循環社会の技術が見直されていた。縄文のチエ(持続可能性)・江戸のワザ(循環技術)の再発見は、20世紀後半の第二次ジャポニズムブームのパリ、ロンドンで教えられた。アフリカの援助現場にも、日本の井戸掘りや炭焼き、カマド造りの技術者を講師に招いた。国際森林ネットワークモデルの四万十にも世界中の森林・環境に携わる人々の訪問があった。こちらからも招待を受けて訪ねもした。民際交流がひそかに進んでいた。
◆1997年、チャドでの植林NGOから独立して、ナイル源流での植林を始める時、ベースを「いい森と川」のあるところと決めた。知り合いの役人、学者、マスコミ人に相談したら、口を揃えたように「四万十川」が出てきた。そこが小生の故郷と知らずに。1980年代初め「日本最後の清流」として有名になり、四万十川ブームがあった。1990年代、循環型社会の流域モデルや持続可能な森林経営の国際モデル森林として第二次四万十ブームを呈していた。景観作庭師の芸の修行の場としては、いいかなと考えた。そこには、日本の辺境に忘れられた太古の神々かと見紛う人々との出会いが待っていた。
◆1996年、滋賀県大津市で、物語の導入は始まる。探検部同期のT君の有機農場が当地にあり、その勉強中に大津市森林組合長の話を聞いた。「ここの山仕事は高知県の山師たちにまかしている。土佐の山師は腕もいいが、話は吉本の芸人よりはるかに面白い。こっそり山に入って彼らの会話を聞くのが楽しみよ」。「土佐源氏」のモデルは、四万十川源流の橋の下で宮本常一氏が出会った博労のおじいさん。そこから遠くない神社は海から200km近い上流だが、海の船が奉納されている。豊かな海は豊かな森や川の賜物と古人は知っていたのだ。
◆四万十流域に、いまだ残る「忘れられた日本人」を師匠に景観作庭師修行をした。宮本さんは土地の高いところから眺めるように指導した、と弟子の一人から聞いた。かたや川は、土地の一番低きを流れる。川を旅すると、人間中心でない視点で見る眼が養われる。高きと低きから眺めれば多様な視点ができる。山からは上から目線。川からは下から目線。自然に謙虚になる。
◆ところで、高知出身者に漫画家とお笑い芸人が多い(やなせたかし、横山兄弟、やすきよ、間寛平などなどきりがない)。関西のお笑いは、ボケとツッコミ。土佐は個性と行動がおかしい。以下、ある日の山師達との、一服中の小話。「ゆうべは、亀バーと鶴バーらに、こじゃんとやりこめられたぜよ」「どういたなら」「調査にきちょった学生らが、下手な踊りみせるもんやけん、ふったりが出てきて裸踊り始めたがよ。着物脱いで行く先から、松ネーと竹ネーがシャモジとオタマでうまいこと隠すがよ(禁止用語連発のため中略)。これがおかしいて、大笑い。喜んでヤスが千円札投げ入れたがが、いかんかった。こらヤス、街で若い娘の裸おがんで、たったそればあかえ。おまんらの行いはしれちょるぞ。オトコシども全員財布出せ。言うて、梅ネーが鍋持って回って、みんなの財布からっぽよ。若い時は男顔負けの山師のネーやんらやけん、すごまれたら文句はよう言わん」「今晩はオナゴシらあ、大宴会じゃねや」古事記の芸能の女神アメノウズメは、衣をはだけて踊って神々を笑わせて天の岩戸を開けるが、土佐古事記の女神さんたちは男の財布を開ける一席。
◆ある時は、こんな話も聞いた。土佐清水の漁師の奥さんは足摺岬の断崖の上の神社に参り、旦那の安全を祈って神さんにスカートはだけて太ももを見せる。大漁で帰ると御礼に全部見せに行く。山仕事が寂れて息子がマグロ船に乗った山のお母さんも、これを話に聞き、息子を思って見せに行った。覗き見にきた不届きものを海の奥さんとどやしつけ、やり込めて仲良くなった。山幸彦海幸彦神話が土佐版では山幸姫、海幸姫の物語になる。
◆山川海ガキだけでなく、土佐ではじいさんばあさんまで天真爛漫に山川海さおぎ(さわぎ)をやる。スサノオもたじろぐほどの極悪非道のエサ取り(公金横領)おんちゃんおばちゃんもおる。でたがり、いばりたがり、しゃべりたがりのニセ名人もいれば、無私無欲無位無冠の仏さんのような無名の本物名人も無数におる。善悪美醜を綯い交ぜた魑魅魍魎渦巻く、抱腹絶倒、辛酸苦渋の騒ぎのドラマ。心魂体が素っ裸の人間たちの行動が山師たちの格好の話ねたになり、やがて神話のように語り継がれる。
◆山師たちは、きけん、きつい、きたない、3K仕事の「だれやすけ(疲れ取り)」の一時を笑いで和む。港港に子供を作ったマグロ船乗りのハチキン奥さんが全員に仕送りして面倒見た「地球源氏物語」は、またの機会に。さて、小生の景観作庭師(山水河原者)の修行は現在も進行中。多摩川から日本・世界中の川へ、四万十川からまた多摩川へめぐりめぐる。どこかで世の役に立つか立たぬかは、全くあずかり知らぬことなり。木を植えるには1日で足りるが、林を育てるには100年、森の再生には200年の計が要る。気の長い話だ。
◆ちなみに、小生の踊りの師匠は能楽師でなく、アマゾン川の太い腕のおばちゃんたちやコンゴ川の曲芸師のような船乗りたちだ。(世界で2人目のレレレーのじいさん目指す 農大探検部OB 山田高司)
■おかわりなく新年をお迎えになったことと拝察します。私は本年9月9日、卒寿を迎えます。青春に比べ老後は長すぎると川柳にありました。今もなんとか頭、身体の老化にたえて診療を続けています。『風趣狩伝』拝受しました。趣きの変わったパイオニアワークの数々、拡大鏡を使って読んでいます。(長岡京市 斎藤惇生 医師 元日本山岳会会長)
■あけましておめでとうございます。元気だけが取り柄だったのですが、昨年2月初め、脊椎管狭窄症発症(原因不明)。整体治療で身体の歪みを修正してもらい、以後50日間全く寝たきり暮らし。4月より裸足ウォーク+向海座禅の我流リハビリに専念し、7月からはパドリングも再開しました。2019年は体調と家庭事情(高齢の義母の介護)を優先しつつ海外ツーリングを検討したいです。(鎌倉市 吉岡嶺二 永久カヌーイスト)
■地平線通信476号は12月12日印刷、封入作業をし、13日郵便局に渡しました。11月は「40年祭」特集で28ページもの大冊だったので12月は薄く行こう、と決意をもってのぞんだのですが、吉川謙二さんのトナカイ牧場の記、青木麻耶さんのニュージーランド引き返し旅、稲葉香さんの西ネパール放浪などいろいろ面白いのが出てきて結局いつもの16ページになりました。発送に汗をかいてくれたのは、以下の皆さんです。
森井祐介 久保田賢次 中嶋敦子 小石和男 伊藤里香 加藤千晶 坪井伸吾 前田庄司 江本嘉伸 落合大祐 松澤亮 埜口保男
このほかに、いつものように宛名原稿を杉山貴章さんがつくり、加藤千晶さんが印刷して現場まで持ってきてくれました。ネパール帰りの小石さんはココナッツ味のビスケットを差し入れてくれました。めでたく山渓をリタイアして参加してくれた久保田さんは、「こんな地道な作業をずっとしてくれてたんですかぁ」と少し驚いていました。皆さん、ありがとうございました。
■地平線通信は一貫して西暦を取っているので影響は小さいが、5月以降「平成」がどういう元号に変わるか、で世の中、多少はざわつくだろう。新元号はは、メディアにとっては滅多にない特ダネの対象ともなる筈なのだが、そこは恐れ多くて自粛するのだろうか。
◆「結ぶ門には 福来たる」という“竹垣編み方指南書”を1部入手した。1月12、13日、長野亮之介宅で実行された「じゅんこの庭プロジェクト」の台本。18人もの仲間が集まり、実に見事に竹垣を再生した。私はうちあげの席に参加しただけだが、記念に指南書をいただいた次第。長野淳子さんの思いをみんなが大事にしていることがよくわかった。
◆先月号の報告会レポートに1箇所ミスがありました。3ページの右の段、上から10行目、「現場で測量し調査をするのと同じ■ぁ?蕕BCで→これは、『くらい』というひらがなが「■ぁ?蕕」という意味不明の文字に化けてしまったので、正しくは次のようになります。「現場で測量し調査をするのと同じ「くらい」BCで荷物を見張ったり川水を沸かして大量の飲料水を作ったりするのも大事な仕事だから」です。レポートを書いてくれた野田正奈さん、報告者の岡村隆さんにお詫びします。地平線会議のウェブサイトでは正しく訂正したほか、数十部訂正した通信を別につくり直し、学生など遺跡調査に頑張った皆さん用としました。(江本嘉伸)
冒険王、70代も猪突猛進!!
いつもと曜日と場所が違います。 「いやー日本一周は何度やっても飽きないよ。繰り返しがいいんだよね!!」というのは、ツーリングジャーナリストで冒険家の賀曽利隆さん(71)。オフロードバイクを足に、20代で世界中を走破し、30代からは年代の区切り毎に日本一周を走ってきました。また、「島巡り」、「温泉巡り」などテーマを設定した日本一周行も重ねています。 '17年9月1日の古希の誕生日にスタートした旅は、10回目の日本一周。海岸線を辿りつつ、47都道府県庁所在地を巡り、五畿七道68ヶ国(古代律令例の広域地方行政区画)を意識した日本再巡でした。 「道は文化。同じところを何度も訪ねることで変様が見えてくる。例えば峠がトンネルになると人の往来も生活も変わるんだよ」。そうした変化を“すべて受け入れる”という賀曽利さんは旅の足跡を克明に記録してきました。今回の旅は12月17日にゴール。「これでここから10年走れる自信がついたゾー」。 後半は、地平線報告会の発案者である賀曽利さんに、地平線会議40年の歩みについてフリートークをしていただく予定です。《生涯旅人》をモットーとする賀曽利さんから元気をもらう新春カソリックスペシャル、お楽しみに!! (いつもと場所、曜日が違います。ご注意を!) |
地平線通信 477号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2019年1月16日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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