10月になった。2018年もあと3か月ほどだ。この14日に「地平線40年祭」をやる。1978年暮れ、探検、冒険のネットワークを模索し始めてから40年。当初から何年続けよう、という意識はなかったが、毎月の報告会の開催、地平線通信の刊行は1度も休まず続けてきて、今月で474回を数える。最近は学生の姿が目立って増えているし、地平線通信の書き手は広がっている。地道な活動であることは変わらないが、地平線会議というつながりが存在するに足るものになった、とは言っていいだろう。
◆その根底にあるのは、自分で歩き、見たことを信じよう、という思想であろう。今回ノーベル医学賞を受賞された本庶佑博士が言われる「教科書を信用するな」との言葉にも僭越ながらつながるかもしれない。1979年8月17日、地平線会議という名前が決まり、9月に最初の地平線報告会を開いた際、私が感じ続けていたのは「この人たちなら一緒にやっていけるかもしれない」という漠たる思いだった。
◆一線の行動者というものは、ひどく正直である。自分を大きく見せようとはしないし、必要以上にへりくだりもしない。私は次々に現れる報告者や書き手の力にいつも圧倒されてきた、と振り返って思う。いつになっても学びがあるのである。そのことは地平線会議を続けてきて一番ありがたいことだった。そして、せめて自分ができることをやろう、と思う。毎号書かせてもらっている地平線通信のフロントの文章もそうした一つだ。
◆毎月毎月、印刷当日にこのフロント原稿を書くことをある時期から自分に課している。大事なことは、16ページ、時には20ページにもなるこの通信のフロント以外の原稿をまずしっかり読むこと。その上でそれらの原稿のことを全て忘れ、できるだけ新鮮な感覚で“いま、この一瞬の地平線”を書くこと。うまくいかないこともあるが、それなりに書き切った、と思える時もある。大事なことはいつも少し上を目指すことかな。
◆40年祭の詳細はこの通信の中で詳しく紹介する。祭りなのでできるだけみんなが楽しく過ごせればいい、と落合大祐君をリーダーに若手が準備に奔走している。13日には榎町地域センター、そして餃子の「北京」で前夜祭も行われる。「第1回地平線3分映画フェスティバル」というユニークな試みがあるし、地平線恒例のオークション(北京で)も楽しみだ。14日の本番については23年前に「200回記念大集会」をやった同じ会場であり、今からワクワクする。久々の品行方正楽団の演奏も楽しみだ。そうだ。詳しくはまだ内緒だが、大事な情報。この会場で「地平線トリビア」という面白い試みが実施されるそうだ。え? 何……?
◆そして、ある本がこの日お目見えする。“地平線の鬼才”と書くと本人はもじもじするかもしれないが、ほんとの話、丸山純さんが乾坤一擲で作り上げつつある「地平線通信フロント集」のことだ。その名も『地平線・風趣狩伝』。40年祭に向けて彼は何か作り出せないかと相棒の長野亮之介画伯に相談、かねて温めていたフロント集の制作に踏みきった。もちろん、私も賛成したのだが、主軸はあくまで丸山君だ。こういう時の彼の決断と行動は早い。そして何よりも瞠目させられるのは、実際の作業にあたっての気の遠くなるほどの丸山純の緻密さだ。出来上がりを楽しみに!
◆もともとフロント原稿はいろいろな書き手に登場してもらい、その変化、多様性を押し出していきたい、と当初は考えていた。うまくゆくこともあったが、毎月の作業なので意外に簡単ではなかった。自然に私が書くことが増えた。自分の文章が多いにも関わらず、ざっとゲラ刷りを読み返してみてこの1冊は面白い、と心底感じたのは、何よりも地平線という不可思議な存在を一貫して意識して書き続けてきたことの成果ではないか。
◆そんなわけで、今月の通信は祭りの予告を兼ねているのでいつもより10日早く、10月6日の土曜日に印刷、発行することにした。郵便局の集荷はその後になるので遠隔地の方のお手元に届くのは前夜祭直前になるが、なんとか間に合う、と思う。遠隔地の方々もできるだけ多く参加してほしい。40年、よくもやってきた!との思いに加え、よくもみんなで盛り立ててくれました!という感謝の心もあるのです。
◆9月の2度目の連休は、久々に四万十川にいた。なんと10年前からの約束を実行するためで、詳しいいきさつはこの通信のどこかに書かれている。同行の元女子大生たちは川辺のキャンプ地で私の早めの誕生会をやってくれた。10月7日は私の誕生日。「78」という数字とローソクを用意して「また10年後にもやりますかぁ」と言いながら。
◆きのう2日は、我が家で少し早めの誕生祝い。カミさんが「78さい おめでとう! 頭の体操にも腕の筋力アップにも」と書いたメモをつけて非常に重い袋をくれた。中身はなんと『広辞苑 第7版』でした。それも「机上版」という大判のやつ。ずしり充実して字も大きめ。試しに「地平線」を引いたら「海または平原が空と接する一線」と出た。まあ、確かにそうだけどね。さあ、もう少し頑張らねば。(江本嘉伸)
■暗号のようなタイトルで予告された地平線報告会・第473回の報告者は、新進ドキュメンタリー映画監督の今井友樹さん、38歳。当日の28日は、なんと地平線会議の第1回の報告会が開かれた記念すべき日であった。「そして今井さんは、その年、1979年の生まれ。誕生日は11月だそうですが、まさに地平線会議の40年(正確には39年)とともに生きてきた方を迎えられたんですね」と、進行役の丸山純さん。地平線創生期から裏方として奮闘してきた丸山さんにとっては、ことさら感慨深い巡り合わせだろう。
◆この日は報告会の前に、2014年公開の今井さんのデビュー作が同会場で上映されていた。『鳥の道を越えて』。岐阜県東濃地方でかつてさかんに行われていたというカスミ網猟の歴史を、人びとの記憶の中に訪ねる長編ドキュメンタリーだ。舞台は今井さんの故郷である。「僕がまだ小学生の頃、祖父は子供時代に体験した鳥猟の話を語ってくれました」……映画の冒頭に入るナレーションだ。今井さんの祖父・照夫さんは昭和2(1927)年生まれというから、昭和10年前後の頃だろうか。家の畑から見える山並みの向こうに、秋のある時期になると近隣の人びとがカスミ網を張り、渡り鳥の群れを捕獲した場所があったという。
◆子供だった照夫さんも、よくそこへ遊びにいき、“おじさん”たちに獲物をもらったりしたそうだ。しかし、それがどこなのか、具体的にどんな情景なのか、孫には想像もつかない。ただ、「あの山の向こうに鳥の道があった」との照夫さんの言葉は今井さんの心に染みつき、やがて作品のテーマに育っていったのだ。
◆私は今年5月に栃木県で開かれた上映会でこの作品を観た。以前、仲間内の飲み会だったかで「おもしろい映画だから、機会があったらぜひ」と私に勧めてくれたのは、多摩丘陵の麓にある出身小中学校の1学年先輩にあたる本所稚佳江さん。ご存じ、関野吉晴さんとモンゴルの少女との交流を描いた映画『プージェー』のプロデューサーだ。
◆“機会”はそれから2年ほどしてようやく訪れた。栃木は少し遠いが、子供時代からの親友が移り住んでいるので、彼女を訪ねがてら、一緒に観ることにした。事前の電話でカスミ網猟の映画だと説明する私に、「なにそれ?」と不思議がる相手。「ほら、中学のときD山(地区の裏山的な場所)で、Kちゃんが網に引っ掛かってる鳥を見つけて、ぷんぷん怒りながら鉛筆削り用のカッターで切って、逃がしたことがあったじゃない」と私が言うと、受話器の向こうで、ふむふむふむ……と遠い記憶を探っている姿が見えるのだった。
◆「カスミ網って戦後は法律で禁止されていたから、Kちゃんはあんなことをしたんだけど。彼女、野鳥好きだったしね」。そうだ、あのとき私はKちゃんの感情に同調したのだ。カスミ網なんて犯罪じゃないかと。ちなみに、最初に映画のことを教えてくれた本所さんは、「東京のこの辺でも昔は野鳥を捕って食べていたんだって。多摩丘陵にも、焼いて食べさせる店があったんだって」と、うれしそうに言っていた。そういう昔ながらの、特に食にまつわる風俗が大好きな人なのだ(私の価値観も、オトナになった今はそっちに傾いている)。……とまあ、そんなわけで、私は遠方での上映会に参加し、会場でプロジェクタを扱っていた今井さんとも、少しだけ話すことができたのだった。
◆さてさて、今井さんの報告会は、岐阜県東白川村で生まれ育った彼が青春期を迎えて進路に悩むところから、丁寧に語られ始めた。今井家に養子に来た父は大工。黙々と仕事をこなす父の背中を見てきた今井さんも、漠然と将来は大工になりたいと思っていた。だが、父は「ここにいちゃいけない」と言う。もっと自由に自分の将来を考えていいよ、という親心だろうか。だったら、自分は何になればいいのだ?……「映画を作る人になりたい」という答えが見えてきたのは、高校生になって町で下宿生活を送っていた頃だ。
◆心がざわついて学業がほとんど手につかない日々、週末に家族の元へ帰るときに映画のビデオをたくさんレンタルしていき、家でそれを観ていると夢中になれた。だが、いったいどうしたら映画を作れるのか、まるでわからない。とりあえずは働いて、お金を貯めながら考えよう……と、高校卒業後は名古屋の大学の夜間部に入り、アルバイトをしまくった。そんななかで横浜に映画学校というものがあることを知り、大学を中退して、ようやくそこへたどり着いたのだ。21歳のときだった。
◆日本映画学校(現・日本映画大学)は日本映画界の巨匠・今村昌平監督が開いた3年制の専門学校。入学してすぐに受けた「人間総合研究」という授業が、今井さんの道を決めることになる(そして現在、彼は母校でこの授業を教える身でもある)。映画を撮るなら人間を知らなければならない、という今村監督の理念を受け継ぎ、「撮る側の自我を徹底的に壊していく」(『プージェー』監督・同校講師の山田和也氏)、おそろしいほどの授業だそうだ。
◆今井さんは課題のテーマに祖父母のことを選び、帰郷のたびに二人に対面取材した(まだカメラはない)。同郷の二人は思春期のころに満州分村計画によって大陸へ移住し、後に現地で結婚。日本の敗戦後は八路軍に抑留され、鶴崗炭鉱(黒竜江省)で8年間、働きながら暮らしていたという。「(二人にそんな過去があったことを)授業を通して初めて知りました。自分のおじいちゃん、おばあちゃんなのに。悔しくもありました」。
◆よく知っていると思っていた身内の、知らなかった歴史を引っぱり出す、ドキュメンタリーの方法。担当教師の小池征人氏が言う「記録映画というものは落穂拾い。我々は、大きな歴史から零れ落ちたものを見つめていく」という言葉の真意を、身をもって知る経験になった。
◆日本各地(一部の海外も)の消えゆく民俗を映像作品として記録してきた「民族文化映像研究所」(民映研)を知ったのも、宮本常一『民俗学の旅』を紹介してくれた小池先生の導きと言っていいだろう。書物の中に出てくる民映研作品『周防猿まわし』の記述に、「民俗学を映像でやっている、すごいところ」と直感した今井さんは、所長の姫田忠義氏の所在をインターネットで突き止め、ある日、意を決して訪ねていく。
◆かつては東京新宿に事務所を構えていた民映研だが、2000年代初頭のその頃には規模を縮小し、鶴川のマンションの一室に拠点を移していた。そこへ通され、「君が何者であるのかを、まずは教えてくれ」と問われた。己の来し道を2時間も訥々と語っていく青年を、老師はただ真っすぐ見つめていた。青年は「こんな大人に、これまで出会ったことがない」と思ったそうだ。次に「大工の父は中学を出て師匠につきました。自分もそんな師匠が欲しいです」と言っていた。願いは後に「うちへ来ないか」と、受け入れられることになる。
◆姫田忠義氏は昭和3(1928)年生まれで、今井さんの祖父とほぼ同年代。戦後、演劇演出家やシナリオライターなどをしながら宮本常一に師事し、各地の伝統的な行事や暮らしの様子を映像化していった。1976年には民族文化映像研究所を設立、やがて映像民俗学の第一人者となっていく。今井さんは、そんな姫田氏が晩年に得た「最後の弟子」と言っていいだろう。民映研スタッフとなった今井さんは、それから8年間を姫田氏とともに過ごした。
◆姫田氏最後の新作となる『粥川風土記』(2005年)の製作も手伝った。家が近かったこともあり、朝から車で師を迎えに行き、取材や撮影に同行する。旧作のビデオ化にあたっての再編集も任された。「今井くん、(民映研での活動は)仕事だと思ってやってはいけない。自分のこととして、やってほしい」師の言葉は、プロの映画人になるための「修業」を意味する以上に、ドキュメンタリーを撮る人間としての「修行」を示唆していたのかもしれない。
◆以下は、おそらく自分が映画で何を為すべきか、悩める弟子が師匠に問いかけた日のエピソードだと思う。映画学校で授業を受けた原一男監督(『ゆきゆきて、神軍』)が「ドキュメンタリーは人間の欲望を撮るんだ」と言っていた、と話したとき、姫田氏は「その欲望という言葉は使わないでほしい。願望と言い換えてほしい」と答えたという。弟子は「この言葉を信じて生きていたい」と胸に刻む。「姫田さんは、民映研は何をするべきかを、常に考えていました」。それは現代の社会にあって、ということだろう。「民映研の映画は個人を撮ることはない。その人の営みを通して、その土地に染みついた生き方を描く」と姫田氏はいつも言った。今井さんは師匠との8年間の中で、その言葉を自身の映画の核となるものとして捉え、根付かせていったのだ。
◆デビュー作の取材を始めたのは2006年から。ちょうどそのころ、自分のカメラを買った。民映研の仕事のかたわら、休みのたびに東白川村に帰り、子供の頃から気になっていた「鳥の道」についての話を聞いて回った。カスミ網猟とはいったいどういうものだったのか。最初のうちはカメラを回さず、祖父照夫さんが「この人なら知っているよ」「あの人も知っているかも」と言う相手を訪ねて、ひたすら話を聞いた。
◆またその人に別の人を紹介してもらう。様々な角度から記憶が引き出されることで、「鳥の道」を見たことのない今井さんの前にも、少しずつその姿が現われてきたようだ。一方で、帰省のたびにカスミ網の話を聞いて回る息子に、両親が「そんな話を聞いてはいけない」と言うようになった。心配する背景には、戦後GHQによってカスミ網猟が禁止されてからも郷里周辺では密猟が行われていて、暴力団の資金源になってもいた、ということがあったらしい。
◆「そんな危ない話に関わってはいけない」、あるいは「そんな話を蒸し返すことで迷惑がかかる人もいる」ということか。昔は生活文化として行われていた鳥猟と、戦後に法律で禁じられてからの密猟という問題。その狭間でどうしたらいいのか、足がすくんでしまった今井さんは、師の姫田氏に相談する。すると、こんな答えが返ってきたそうだ。「空を飛べない人間は、鳥にはかなわない。だから憧れを抱く。でも、憧れだけでは人は食べていけないから、命をいただく術を見つける」。
◆それこそが、人が糧を得るために伝承してきた技の文化。姫田氏は弟子を応援する意味で、それから東濃でのカスミ網勉強会に駆けつけ、その話術で地元の人たちを魅了し、貴重な記憶を引き出してもくれた。このことがきっかけで、今井さんはまた取材に邁進することができるようになったという。
◆『鳥の道を越えて』の製作中、今井さんは在籍8年の民映研を辞めた。映画がなかなか完成しないというあせりもあった。傍で見ていて業を煮やしたのか、姫田氏が「この作品は俺が撮る」と言い出し、心が揺れた。大工の父は「3年修業して、6年恩返しする(のが職人の道)」と言っていた。しかし、自分はこのままで姫田さんに「恩返し」できるのか。この映画を完成させて姫田さんに見てもらうことこそが、恩返しなのではないか……。
◆2014年、長編映画『鳥の道を越えて』はついに完成、日の目を見ることになった。しかし、見せて、その感想を聞きたい師匠はもうこの世にはいなかった。姫田忠義氏は前年2013年7月、逝去。亡くなる少し前に子息に今井さんへのメッセージが託されていた。「今井君に渡してください。」の後に「オキの先」と書かれた小さな紙切れだ。それを見て今井さんがふと思い出したのは、かつて師と話した「アイスマン」のことだった。
◆1990年代初めにヨーロッパで発見された、5300年前の人とされるミイラ。この人は皮の袋を持っていたのだが、その中身は何だったのか……師弟で想像をめぐらせたことがあった。後日、姫田さんが、思いついたとばかりに、こんなことを話した。「今井くん、あれはオキを入れていたんだよ。彼は旅人だから、火が大切。どこでもすぐに火を熾せるように、熾炭を入れていたにちがいない」。
◆「オキの先」という言葉を見て、今井さんの頭の中には、暗闇を、小さな熾き火を頼りに進む旅人の姿が浮かび上がったそうだ。心細いけれど、なんとか歩を進めることはできる。それは、その半年ほど前に今井さんのつれあい千洋さんが思いがけない死を選んでしまったとき、「身も心もボロボロ」になった自分に寄り添ってくれた姫田氏の温かさと重なった。すでに重い病に冒されていた師だが、慈しみをたたえた表情で「お先真っ暗な二人だな」とつぶやいたという。行く手は暗闇。でも、歩み続けることができる程度の光はある。それが人生ではないかと。
◆完成した映画は、祖父母に観てもらえた。製作中に、祖父が見たという「空が真っ黒になるぐらいの」鳥の道は結局見られなかったが、カスミ網を利用して野鳥の生態調査をしている環境省の織田山ステーションで、それに近いと感じる光景に出会えたことはあった。時代を経て見られなくなった、祖父の記憶に残る光景。今井さんは言及しなかったが、そこには、満州移住で郷里を離れたことで失われた祖父照夫さんの「時間」も挟まっている。
◆照夫さんが満州へ渡ったのは14歳のときだというから、昭和16〜17年か。その後、照夫さん夫妻は28年までの12年間、帰郷できていない。少年から大人へと成長する過程で切り取られた記憶の光景は、ずっと同じ土地にいて空を見上げていた人たちより澄んでいるのではないか。食べた鳥の味よりも、鮮明なものとして。
◆今井さんは第2作として、祖父母の鶴崗炭鉱での抑留生活の記憶をたどろうとしていたそうだ。しかし、『鳥の道を越えて』完成の翌年、二人は相次いで他界された。記憶という見えないものを手探りで追い求める監督の旅は、時に不本意に曲がりくねったりしながらも、続いていく。監督の現在地は、どうやら「ツチノコ」に在るらしいと聞いた。どんな旅になっていくのだろう。ぜひ、また拝見したいものだ。
※報告会では、かつて行われていたカスミ網猟の方法についてもたくさん語ってもらったが、ここでは割愛した。ぜひ、映画『鳥の道を越えて』を観てください。近場で上映会がなかなかない、という人は、自分で開催するという手もあります。また、私のように、SNSで網を張って、「ここだ!」と思った場所へ旅していってみてください。(熊沢正子/90年代半ばにインタビューでお目にかかった姫田さんの「秘境とは、なんというひどい表現でしょう!」の言葉が忘れられない、隅っこ好きの旅人)
「同じ旅仲間に、焚き火を囲んで話すようなつもりで話していただければ」と、丸山純さんから報告を打診された時、おそれ多く、いったい何を話せばいいんだ!?と悩んでしまいました。結局、悩んだまま報告会を迎え、しどろもどろな滑り出しで話をしてしまいました。しかし、皆さんが真剣に耳を傾けてくださったおかげで、最後は精一杯の気持ちを解放することができました。また報告会に先立ち上映会までしていただいたこと、ありがとうございました。
最後にお話しようと思いながらも時間が押してしまい、叶わなかかったことをここで報告させていただきます。
拙作「鳥の道を越えて」は、祖父が見た“鳥の道”を探し求める旅でした。そしていま、僕は新たな記録映画を制作しています。なんと今回は、“ツチノコ”を探し求める旅です。
「ツチノコは、いる?いない?」。そう聞くと、毎回ほとんどの人がニヤニヤした顔つきに変わります。そして「いない」と答える方が大半です。
実は私の故郷・東白川村は、ツチノコの目撃例が一番多い場所です。毎年春にはツチノコ捕獲大作戦が行われ、30年前から続けられています(捕獲したら懸賞金100万円。しかも毎年1万円ずつ上がり、今年は129万円。ゆるキャラも登場)。当時、小学生だった僕は、惑うことなくツチノコの存在を信じていました。実際、祖母の兄はツチノコを目撃した一人でしたし、多くの大人もその存在を信じていました。
しかし、16歳で村を離れ、友人達に出身地を説明する度に「あのツチノコの村でしょ」と毎回笑われてしまう。いつしか故郷の話は自分から遠ざけていました。ツチノコは、UFOやネッシーと同じで、非科学的で「いない」と理解するようになりました。30年経ってみると、ツチノコで村おこしをする故郷を疎ましくさえ思うようになっていたのです。
「いる」と信じていたのに、今は「いない」と冷めている自分がいる……結局、あれはいったい何だったのだろう? そんな疑問から、ツチノコを探す旅が始まりました。
調べてみると、祖父母世代の頃まで、ツチノコは見ても人には言ってはいけない“不吉な存在”として捉えられていました。できれば出会いたくない。仮に見ても、「こんな忌々しいものが、まだいたのか!」と畏れられていたのです。しかし現在は、「いない」ことが前提で展開されているのです。
取材をしていると、ツチノコ目撃者に話を聞く機会ができてきます。そんな時、「まさかいないでしょう」と思いながら話を聞けば、相手は話してくれません。逆に「いる」と信じて話を聞くのも素直ではありません。どういうスタンスで話を聞けば良いのか正直悩みます。ただ聞いていて毎回感心するのは、ツチノコが「いる」と思う人の心象は、「いない」と思う人よりずっと豊かに展開されていることです。
なぜ人はツチノコを信じなくなったのか。忌々しい存在がゆるキャラ化してしまうこの変容は、いったい何をもたらしたのか。そんな疑問を一つ一つ掘り下げながら、現在取材を続けています。(今井友樹)
■ソマリアの情報を日本語話者向けに伝えるソマリア市民研究所なるものを主催する者です。本業はピースボートで働いています。以前から地平線会議の存在を教えていただいていたのですが、都合が合わず、今回初めて(台風の為、鹿児島行きがキャンセルとなり)参加することができました。
◆今井友樹さんの報告会では、映画「鳥の道を越えて」上映には残念ながら間に合わなかったのですが、映像を交えてかすみ網猟についてお話を聞くことができました。私にとってのかすみ網猟は、中学受験の際に国語の練習問題の物語に出てきた覚えがあります。今回のお話で一番強く印象に残ったのは、今井さんの祖父の「かつて故郷の空が渡り鳥の大群で埋め尽くされた」という言葉でした。
◆以前、中沢新一さんが『純粋な自然の贈与』の中で、捕鯨について“海中からなにかの力が捕獲され、その力は海面にひきあげられた瞬間から、こんどはこの世を豊かにする莫大な物質的な富に、変貌する。捕鯨は、その移行を実現させるためにおこなわれる「世界の境界面」上の技術なのだ”と語っていますが、まさに渡り鳥の大群により空が埋め尽くされた状況は、空に巨大な鯨が現れたかのような強い心象を受けました。
◆またお話を聞いている中で、かすみ網猟ではその都度獲りすぎないようにする暗黙のルールがあるのかも気になりました。アイヌ神話は熊を獲りすぎないよう、人間が動物と共生していくための知恵を語りかけています。そして、今は禁止されているかすみ網猟ですが、今回のドキュメンタリーは文化の継承という視点からもとても重要だと思いました。なぜ禁止されている中で語り継いでいく必要があるのか。止めることのできない科学技術が発展する中、原始的な炎を絶やさないことは何か私たち人類が地に足をつけて生きていくために、私たちが常にどこから生まれてきているのかということを問い続けるために必要なことだと思います。
◆文化を残すことで何が残るのか、それについては表面化されてこないのが難点でもあると思いますが、今井さんは祖父の言葉から、かつてのかすみ網猟を取材するためにカメラを手にされました。文化、営みを継承することの意味は、これからも今井さんの映像を多くの人が見続けることにより、生き続けていくと感じています。そのような事柄を、今井さんの報告から自分自身に問うことになりました。貴重なご報告、ありがとうございました。(越智信一朗)
今井友樹監督作品『鳥の道を越えて』は、監督が日本映画学校(現日本映画大学)の学生だった頃、初めてのドキュメンタリー実習『人間研究』で祖父の今井照夫さんが行っていたカスミ網猟を取りあげたことが原点だったそうです。初めてのドキュメンタリー制作だったため、優しかった祖父と密猟という烙印を押されているカスミ網のギャップを埋めることができず、その悔しさが、後年、映画『鳥の道を越えて』制作を決断させたと、監督は語ってくれました。『鳥の道を越えて』については、通信で詳しく書いていただけると思いますので、創作の原点になった『人間研究』について書いてみようと思います(ちなみに、今井監督も私も『人間研究』の講師を担当しています)。
『人間研究』は、『楢山節考』と『うなぎ』で2度カンヌ映画祭のパルム・ドール(グランプリ)に輝いた今村昌平さんが開いた日本映画学校の建学の理念が基になっています。その言葉が、『鳥の道を越えて』を制作している間、今井監督の念頭にあったのではないかと思います。それは、
「日本映画学校は、人間の尊厳、公平、自由と個性を尊重する。
個々の人間に相対し、人間とはかくも汚濁にまみれているものか、
人間とはかくもピュアなるものか、
何とうさんくさいものか、
何と助平なものか、
何と優しいものか、
何と弱々しいものか、
人間とは何と滑稽なものなのかを、真剣に問い、総じて人間とは何と面白いものかを知って欲しい。
そしてこれを問う己は一体何なのかと反問して欲しい。
個々の人間観察をなし遂げる為にこの学校はある。」
人間がいかに多面的であるかを知り、そこに映像表現の焦点を当てろという教えだと思います。戦後、GHQが持ち込んだ動物保護という観点から禁止されたカスミ網猟のことは、私自身も子供の頃に「密猟」という恐ろしげな言葉とともに、反社会的なものだという印象を強く植え付けられたものです。野鳥を一網打尽にしてしまう野蛮な猟。しかし、そういうカスミ網猟の悪いイメージの裏に隠されている、山に暮らしてきた人びとの叡智を今井監督は見逃しませんでした。「山の向こうに鳥の道があった」という祖父の言葉が意味するものを8年の歳月をかけて解き明かしていくうちに、今井監督は、山に暮らす人びとが代々磨いてきた自然を観察する力を知り、命をいただいた獲物へのリスペクトと愛情に出会っていきます。例えば、数種類の囮を使って渡り鳥を網に誘引する仕組みを見るだけでも、カスミ網の実態は一網打尽の真反対、一部の鳥だけを捕らえる選択的な猟だったことが分かります。それは、博物学な自然観察によってのみ可能な高度な技術です。野蛮な猟だと決めつけられ、社会から葬りさられたカスミ網猟の背後には、年に一度だけ手に入る美味しい肉に対する執念、短いチャンスを逃さないために知恵と経験を総動員させる探究心。そして、命をいただくことへの畏怖と深い感謝の念が潜んでいました。
今村昌平監督が言う、汚濁にまみれ、ピュアで、うさんくさく、助平で、優しく、弱々しく、滑稽なものこそ、人間の文化なのだと、今井監督映画は雄弁に語っています。(山田和也 記録映画監督/TVディレクター)
「地平線通信フロント集」、
40年祭に向けて緊急出版!
あの『大雲海』から14年。
毎月欠かさず発行してきた地平線通信の
フロントだけを集めた本が、
40年祭になんとか間に合います!
題して『風趣狩伝』、全384ページ。
各号の題字や報告会リストもすべて収録しました。
地平線会議のこの14年の歩みと時代の変遷が、
ページを繰るごとによみがえります。
(風趣狩伝 p.2「はじめに」より)
2004年秋に、全国の30名以上の仲間たちが手分けして過去の25年分の地平線通信を全ページスキャンし、それを版下とした全1152ページの『大雲海』を上梓した。それから何年かして、そろそろ第二弾をと思ったところ、なんともう『大雲海』に迫るページ数になっていることが判明して驚いた。江本嘉伸さんが編集長、森井祐介さんがレイアウトを担当するようになって地平線通信のページ数が急増し、わずかなあいだに膨大な量に膨らんでいたのだ。体力的にも資金的にも、厚さ5センチにもなる大部の本をまた出版するのは難しい。もう紙の本として出すのは無理だろうとすっかり諦めていたのだが、地平線会議創設40年を記念する「40年祭」を目前にしてなんとか形にしたいという気持ちがつのり、この「地平線通信フロント集」を出すことにした。
元になったのは、地平線のウェブサイトに1995年から掲載してきた、地平線通信の全テキストデータである。地平線通信もウェブのページも横書きだが、じっくり読んでもらうために縦書きで組むことにこだわった。やると決めてから入稿までの日がわずかしかなく、やりだしたらきりがないため、こまかな編集や校正は最初から放棄したが、おかげで当時の筆者たちの勢いや心のあり方がなまなましく表現されているように思う。各リストのデータを整えるのもけっこう大変だった。校正やデータ収集を担当してくれた地平線通信制作室のメンバーに深く感謝したい。
じつはもっとも苦労したのは、書名だ。長野亮之介“画伯”と何日もやりとりし、無数のアイデアが浮かんでは消えた。そのうちに画伯が『風姿花伝』みたいなのがいいんだけどと言い出し、「風」と「伝」の間に入れる文字を2人でまた数日考え続けて、とうとう『風趣狩伝(ふうしゅかでん)』が出てきた。「狩」を「か」と読ませるのは強引だが、案外と地平線らしい字じゃないかという気がしてきて、これに決定。たちまちのうちに、迫力あふれる表紙絵ができあがった。
2004年以降、地平線会議にも日本の社会にも、そして私個人にも、さまざまな出来事が起こった。その歴史が、ここにはぎっしりと詰まっている。14年の時の推移と自分の人生を、この本に重ねて噛みしめたい。[丸山純]
地平線・風趣狩伝
地平線通信フロント集 2004.12〜2018.10
A5判 本文全384ページ(厚さ約2.6cm)
頒布価格 1,000円/送料2冊まで200円、3〜4冊360円
お申し込みは「郵便葉書」(〒167-0021 東京都杉並区井草3-14-14-505 武田方「地平線会議・プロダクトハウス」宛)か、「地平線のウェブサイト」(www.chiheisen.net)で。お支払いは本の到着後に郵便振替でお願いします。「郵便振替:00120-1-730508」「加入者名:地平線会議・プロダクトハウス」。通信欄に「地平線通信フロント集代金+送料」と記入してください。いきなり送金するのではなく、かならず先にメールや葉書でお申し込みください。
初恋を語るように旅の話をしよう。
あなたの「初恋」はいつ? どこ?
そしていま「片思い」しているのは何ですか?
40歳を迎える地平線会議に集う行動者たちと
旅への恋心を語ろう!!
いまや旅の主要な記録媒体となったMovieで、地平線会議の行動者達は何を写し取るのか!? 3分で地球のあちこちと行動者の脳内を俯瞰する試み。栄光の初代グランプリは会場の全員の投票で決定!! 選ぶのはアナタ!
・光菅修「SECOND SEASON」・二神浩晃「ZEROtoSUMMIT」・高沢進吾「Voice from the Arctic Ocean」・野宿野郎「シン・シュラフマン」・瀧本千穂子「モンゴル大草原 遊牧民生活2018」・服部文祥「鹿笛猟――奥秩父」・掛須美奈子「パンケーキ」・おがたがを「しゃあまんのいちにち 海編」・小原直史・大西夏奈子「サバ」・花岡正明「幸田文がみた富士山大沢崩れ」・安東浩正「永遠の蒼」
恒例の地平線オークション。今回は地平線会議からあの人、この人御指名で、とっておきの「お宝」を出品して頂きました。グレート探検家、戦場ジャーナリスト、犬ゾリマッシャー‥‥etc. ここでしか手に入らないよー!!
ナビゲーター 関野吉晴
ゲスト 伊沢正名(野グソから環境問題を考える糞土師)・樫田秀樹(リニア、サラワク、様々な環境問題を追うジャーナリスト)
精力的に「地球永住計画」プロジェクトを進めている医師、探検家の関野吉晴さんと、人間の営みと環境、生老病死などを考えます。
地平線会議300回記念大集会で結成されたマボロシのチャンプルーバンド。10年余りの雌伏の時を経て、パワーアップして降臨! 今年6月に逝去したメンバーのJ(じゅんこ)に捧げる曲を中心にオン・ステージ。
[出演:大西夏奈子(Per)、長岡竜介(ケーナ)、典子(Pf)、祥太郎(Pf)、白根全(Per)、張替鷹介(Vn)、車谷建太(三味線)、長野亮之介(Per)、(淳子)]
ナビゲーター 服部文祥
ゲスト 坪井伸吾(北米大陸横断ランナー、ライダー)
「サバイバル登山家」服部さんはトラック競技に参加するアスリートでもあります。新たな挑戦を続けるために、アタマとカラダの可能性をいかにして保ち続けるか。
祝40年!! あなたはどこまで「地平線通」? 年報、報告会、通信をはじめ、さまざまなかたちで旅人たちを応援してきた地平線会議の活動を振り返る、全員参加の大クイズ大会!!
ナビゲーター 江本嘉伸(地平線会議代表世話人)+山田高司(カヌーイスト・林業家)+長野亮之介(地平線イラストレーター)
農大探検部時代から世界中の河川を下り、流域の環境問題を考えてきた山田高司さんは、自身が林業に携わる林業家でもあります。山田さんを中心に、いまなぜ森と川に注目すべきか考えます。
ナビゲーター 宮本千晴+江本嘉伸
この40年間で旅の形の変化について、地平線会議発足の原動力となった2人が語ります。
◆通信でも度々お伝えしているように、地震後に村人がまず望んだゴンパ(寺)の再建は多くの方の支援によってこの春に実り、ゾモも71頭を購入することができました。大地震から3年半、ランタン村は自立に向かって新たな局面を迎えています。ランタン酪農組合を結成し、俄然やる気になったゴタルーたちはせっせとチーズを作りますが、それを保管する大きな貯蔵庫と売店がありません。
◆「チチ(貞兼綾子さんのことを村人はこう呼びます)は今、お金がないんだ。何とかできるまでの間、他の海外支援に頼りなさいと、このあいだ言ったのよ〜」と貞兼さん。
◆ランタン村への海外からの支援では学校が建てられたりしていますが、貞兼さんのように何十年も通い、村人と対話し続け、家族同然となり、時には烈火のごとく怒ったり、嬉しさのあまり涙しながら支え続けている形はありません。
◆ネパール地震で被災したランタン谷の復興を応援するためのゾモTも新たなる長野画伯のイラストのゾモTで応援したいと思います。秋、冬バージョンのシックなカラーです。ゾモ普及協会サイトでも販売しています。どうか、ご協力ください!(田中明美)
■地平線通信473号は9月12日印刷、封入作業をし、13日新宿局に引き受けてもらいました。今号は、河村安彦さんの「40年ぶりのマッケンジー」への反響、南三陸のひーさん(石井洋子さん)からの近況など盛り沢山の16ページでした。汗をかいてくれたのは以下の皆さんです。ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 武田力 高世泉 前田庄司 光菅修 落合大祐 江本嘉伸 杉山貴章 中嶋敦子
■江本さん、こんにちは! 地平線会議発足40年とお聞きして、まさに「継続こそ力なり」そのものだと敬服致しております。思えば、亡父甚蔵も幾度となく主催されたイベントにお招きいただき、皆様との暖かい交流を心から感謝しておりました。2015年1月の他界でしたので間もなく没後4年を迎えますが、今でも父が毎月届く地平線通信を何度も読み返す姿が手元に届く同誌を読む度に脳裏に蘇っております。
◆さて、そんな父の若かりし頃、軍命により国交のないチベットに潜入し幾多の貴重な体験をした事実にリンクするかのように、小生の次女が昨年4月から南アフリカ大陸ナミビア共和国に青年海外協力隊の一員として派遣されております。実はこの娘、高校2年から1年間のアメリカ留学で4年間の高校生活を送り、名古屋モード学院に入校、そのまま4年間学ぶのかと思えば、2年後東京の文化服装学院に編入、その訳を質すと「授業が物足りない」ときた(笑)。
◆服飾デザイン科を卒業し、都内のそれ系の会社に就職し、NHK紅白歌合戦に出演する嵐の舞台衣装や一昨年のミスユニバース日本代表の衣装のデザイン縫製を手掛けるなど、このまま落ち着いてくれるだろうと思いきや、会社を辞めて一旦家に帰ると言い出す始末。この娘らしい変化に次はどう動くのかとヤキモキしていたら、青年海外協力隊員になってアフリカ大陸で服飾講師の仕事がしたいと来たもんだ(苦笑)。
◆幸い望みが叶いナミビアへの派遣となった次第です。アフリカ大陸? ナミビア? 娘一人で! と、親としては不安な事ばかりでしたが、JICA事務局主催の保護者懇談会で人命に関わるような事態は滅多にないと聞かされ、彼女の望みを受け入れた次第です。
◆ところで、ナミビア共和国とは? アフリカの何処にある? どんな国? 本当に治安は良いのか?、当然ながら調べるとアフリカ南西部に位置し、北にアンゴラ、北東にザンビア、東にボツワナ、南に南アフリカ共和国と国境を接し、西は大西洋に面する国。面積は日本の約2倍なのに人口は名古屋市に等しい260万人しか住んでいないアフリカ大陸でも1、2を争う人口密度の低さである事。独立前は「南西アフリカ」と呼ばれていたが、いまでは南アフリカ共和国から独立したドイツ系白人の多い治安の良い国である事などが分かりました。
◆彼女の赴任先は首都ウイントフックから北東に直線で1000km離れた、カティマ・ムリロという街です。ザンビアとボツワナの挟まれた地域の高校・大学で服飾デザインから縫製技術の指導に当たっております。現地での教育訓練で悩ましいのは、先ず約束事(特に時間)を守れない、所有物の分別が至って曖昧な事等々、文化の違いに戸惑う事ばかりのようです。
◆授業は週30時間程度で、これといった娯楽施設も無いので宿舎(意外と立派な1戸建て)に帰ると、昼寝の後自炊生活の為のうどん作りや、晩酌の肉料理を用意し、現地調達のジンや安いワインを一人嗜んでいるとか(笑)。亡父甚蔵は下戸でしたが、江本さんご存知の通り私の家族は上戸ばかりで、今年8月に愚妻と長女と私の3人で出掛けたナミビアでは、次女を含めた4人のキャンプ4泊でワイン18本を消化、他にも現地のアルコール度数4度のビールで喉を潤した次第です。
◆首都ウイントフックのみならず、立ち寄った街で老人を余り見かけないのが不思議で、次女に聞くと平均年齢は46歳前後である事と知り、妙に納得しました。しかし、街中をふらついている若者たちが、やたらと目に付くのが気になりました。聞くと、公共事業やインフラ整備等の労働者は、中国政府の政策によりチャイニーズで占拠されてしまい、現地人は定職に付ける比率が極めて低いためだと分かり、中国がアフリカ大陸の多くの国に経済支援の姿勢を顕著にしているという昨今の報道の現実に得も知れぬ違和感と怒りを覚えた次第です。
◆10月13日〜14日の40年記念セレモニーが盛会かつ、有意義なひと時になりますように、そして地平線会議を支えて下さる皆様方のご多幸と地平線通信が末永く継続しますよう心から祈念致します。(野元啓一 故野元甚蔵さん長男 愛知県)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。なお、多くの方お協力をいただいている「1万円カンパ」協力者リストは、この通信の16ページに記載しました。通信費を払ったのに、記録されていない場合はご面倒でも江本宛お知らせください。振り込みの際、近況、通信の感想などひとこと添えてくださると嬉しいです。江本の住所、メールアドレスは最終ページに。なお、通信費は郵便振替ですが、1万円カンパは銀行振り込みですのでお間違いなきよう。
嶋洋太郎(カンパは別に送ります)/田島裕志/大嶋亮太/那須美智(20,000円 通信費として1万円、40周年お祝金として1万円を)/世古成子/高野久恵(5,000円 皆様によろしくお伝えください)
■先週金曜日から日曜日にかけて沖縄を通りすぎた台風24号は、いやあすさまじかったです。とにかく速度が遅い!強い!大きい!チャーミーなんてかわいい名前ついちゃって。繰り上げ投票となった金曜日の夜から、公民館に避難して日曜日の朝まで、結局二泊を余儀されました。そうです、30日の日曜日は県知事選挙だったんですが、島しょ地域は繰り上げとなり2日早まりました。こんなことは前代未聞だそうです。
◆公民館では他に八名ほどが一緒でした。独り暮らしや、トイレが外にしかない家に住む人などです。書記さんがあらかじめカレーを作っておいてくれていました。最初の晩はまだ電気もついていて、カレーや持ちよりの品をみんなで食べながら呑みながら、三線弾いたりして、楽しい夜でした。
◆翌日は一層風が強まっていて、まったく外に出れず。そんな時、島の友達からSOS電話が。屋根のトタンが飛んで大変なことになっていると。暴風雨の中を車を出して迎えに出ました。道の真ん中に、吹き飛んできた板や枝や家具が行く手を塞ぎ、なんとかたどり着いて車にのせ公民館へ。夕方、台風の目に入ったのか少し静かになり、牧場と家を見に行ったら、家の脇にあった木造の舟がコンクリート塀を乗り越え家と木の間にはまっていました。
◆牧場はトイレ小屋が横倒しになり、大きなモクマオウの木が根こそぎ倒れ、山羊小屋は壁のトタンがはがれそうになっていました。台風が通りすぎた後の吹き返し風に怯えながら山羊たちを移動したりしてなんとかまた公民館に戻りました。約1時間後、吹き返しの風がいきなりきました。すさまじかったですよー、2日目は昼から停電もしていて、あの小さな自宅にいたらどんなに怖かったかと思います。その晩もろうそくの明かりの中、書記さんたちが作った素麺チャンプルーをみんなで食べて、ビール呑んで三線弾いて……。
◆あくる日、ようやく静かになった集落を歩くと、崩れたブロック塀や飛んできたトタンが散乱、木々は折れ、屋根のないうちもいくつか。うちはなんとか無事で動物たちも無事でほっとしました。ただ実は今日現在まだ停電で、携帯電話はなんとか昨日、ホテルに行って充電させてもらいましたが冷蔵庫はとうとう常温となり夜はろうそく生活。お湯シャワーも浴びれてません。でももっと大変な被災地の方々に比べれば全然平気です。ただ携帯電話はいつまた切れるかわかりませんのでとりあえずこの辺で失礼します。さらにあさってからまた猛烈な台風が来るらしく、いやはやまたまた台風対策です。皆さんは大集会の準備に忙しくされていることでしょうね、あー私も参加したい、盛会祈っております。寸劇やるんですか? 見たい〜! がんばってください〜!(浜比嘉島 外間晴美)
■お久しぶりです! 10月に入り、空気がひんやりとしてきた屋久島です。それにしても、台風が多い年ですね。しかも週末にばかり来るので、こちらの人は「ま〜た台風が屋久島観光に来た!」なんて言っています。
◆特に9月の終わりに日本列島を縦断した台風24号は、久々に直撃といったかんじでした。台風明けの朝は、ホームセンターの屋根がめくれていたり、信号機が変な方を向いていたり。いちばんショックだったのは、県道沿いに立っていたアコウの巨木が倒れてしまったことです。血管が幾重にも重なったような隆々とした太い幹、そして道路の上まで大きく枝を伸ばした姿が印象的な、その集落のシンボルツリーでした。私も毎日、この木の下を車でくぐって通勤していました。
◆老朽化が進んでいたのでしょう。今年は夏になっても葉振りに元気がないなあと思っていたのは、気のせいではなかったようです。今日の仕事帰りには、県道に倒れたままになっている木に、交通安全のためのライトがぐるぐると電飾のように巻かれ、クリスマスツリーみたいに光っていました。お別れがなんとも寂しいです。
◆地平線40年祭の開催、おめでとうございます。地平線会議と出会って19年、私にとって当たり前ではない大切な存在だなあと改めて思います。これからも、人々のパワーをたくさん届けてください!(屋久島 新垣亜美)
■80年代のペルーは極左超過激テロ集団PCP-SL(ペルー共産党センデロ・ルミノソ派)による暗殺や爆弾テロなど、非合法破壊活動に国全体が覆われたどうにも暗い時代だった。通年で夜間外出禁止令が発令され、深夜0時から午前5時まで許可証なしに街路に出ると、有無を言わせず即拘留。パトロール任務に就いている兵士は、就職先が軍隊かテロ組織のどちらかしかない地方の貧困層出身者たちが多い。しかも10代後半の若者が大半で、不審者と見るとびびってまずは発砲するようなシロウトばかり。当時は狙って撃っても外すから大丈夫だが、威嚇射撃は間違って当たるから気を付けろと、マジに語られていた。
◆首都リマの街では、外出する際は必ず大使館や軍関係施設、テレビ局や新聞社などマスコミ関係と銀行の建物は大幅に迂回するのがお約束になっていた。今や世界的な大観光地となったクスコも、当時はまだ比較的のんびりしていたが、それでも古くからの知人に暗殺予告が出されたり、コチェ・ボンバ(自動車爆弾)テロを20秒差でかわしたり。そんな時代に出会ったのが、先般以来しつこく語ってきた先住民写真家マルティン・チャンビの作品だった。
◆金は無かったが、時間だけは持て余すほどあった。一泊1ドルの安宿に泊まり、こっそり貧民救済食堂の炊き出しを恵んでもらいながら、出くわす異郷の光景に心躍らせる日々を過ごしていた。チャンビの娘さんが経営するスタジオに通って古い作品を見せてもらううちに、同時代の写真家の作品を管理している「フォトテカ・アンディーナ」という写真アーカイブの存在を知り、ある午後訪ねてみればそこはまさ宝の山! 連日コロッケパンのお弁当を手に朝から晩まで入り浸るうちに管理担当者と仲良くなり、ついには紙焼きプリントを格安で譲ってもらうところまでこぎつけた。
◆割と気安く交渉が進んだのは、ガラス乾版やネガから焼き増しできることもあったが、それよりは現金収入が欲しかったのだろう。以来 "Escuela Cuzquena de Fotografia"、直訳するとクスコ写真学校と呼ばれるサロン活動に加わっていた、チャンビを中心とする写真家たちによる20世紀前半の作品を少しずつ集めてきた。日本で言えばVIVOかプロヴォークの作家たちみたいな、と言ってもわからないか?
◆さて前振りが長くなったが、この度ペルー大使館と共催でこの個人コレクションの写真展を開催する運びとなった。会場は千代田区六番町2-9のインスティトゥト・セルバンテス東京2Fギャラリー、11月15日〜12月12日の期間で入場無料年中無休。チャンビとフォトテカ収蔵の作家たちの作品60点ほどを展示、ギャラリー・トークも行う予定。詳細は http://tokio.cervantes.es をご参照あれ。
◆日本ではその存在すら知られていなかったエウロヒオ・ニシヤマという日系2世の写真家の作品も本邦初公開となる。実はこの人、少年時代に出会ったかのフジタ=藤田嗣治の影響で写真家を目指したという。クスコ釣りクラブの副会長で、たまにマス釣りに連れて行ってもらったあの爺さんが、そんな人だったとは!(Zzz-カーニバル評論家@時差ボケ真っただ中)
■お久しぶりです。早稲田大学探検部の井上一星です。出発前には、ゴタゴタとしてしまいなかなかご挨拶に伺う事ができず申し訳ありませんでしたが、いよいよ明日5日、「1000kmのヒマラヤ隊」は出発します。熱、下痢などの体調不良、天候によるルートの変更などいくつものトラブルを超え、遠征隊は明日からキャラバンを開始します。天候などの状況からスタート地点を変えてジョムソンからの出発です。ヒマラヤの底カリガンダキ渓谷からネパール最北端の未踏峰を目指し、歩いていく予定です。遠征帰還まで、どうぞ見守って頂けるようお願いいたします。
◆情報配信についてですが、「1000kmヒマラヤ隊」ではSNSで情報配信を行っております。『皆様に私達の「探検・体験」を共有したい!』という想いで配信を行っていますのでぜひご確認ください!
Twitter: https://twitter.com/1000himalaya/
Facebook: https://www.facebook.com/1000himalaya/
遠征期間中は1日1回、現地から報告を配信します。(衛星電話の使用時間は限られるため、最低限の情報ですが)。帰国は2019年1月の予定です。では、地平線会議の皆様に遠征の結果を報告出来ることを楽しみに行ってきます!(井上一星)
■始まりは2008年6月、香川県直島で最終の高松行きフェリーを乗り過ごしてしまった事だった。当時香川大学4年生だった“うめ”“くえ”そして、しまなみ海道100キロマラソンからの帰路立ち寄った親友えも〜ん67歳。“アートの島”直島へ日帰り観光の予定だったのだが乗り込んだ船が最終便と知らず、気がついたら島に取り残されていた。出港してしまった船の後ろ姿、彼方にうっすら見える高松の町が今でも思い出される。
◆しかし、ここで落ち込む3人ではなく、これも中々笑えるね、と船着き場の草間彌生制作のかぼちゃを前に飲み会する事になった。当時の島は目立った食事処もなく手持ちはお土産用の焼酎、自販機の菓子パンだけ。コップなんてなく、ボトルキャップをコップにまさにチビチビと飲んだ。他愛のない話から当時学生だった私たちが卒業した後の話題に。10年後って想像できる? 就職して、家族もいるかも、32歳はすっかり大人になっている頃。どんな生活、どんな人になっているだろう? えも〜んは77歳! その時もまだ走ったりしてそう。なんて話から、そうだ、10年後にまた集まろう! と直島で10年後の再会を約束した。
◆そして今年2018年、あれから10年が過ぎて学生だった2人はもう中堅の社会人。ぼんやりしていた大人の32才像が今リアルになっている。直島も思い出深いけれど、私たちのそもそもの繋がりは2007年に開催された四万十ドラゴンラン(山田高司隊長をリーダーに源流から太平洋まで全長196kmを人力で下った)。よしっ、四万十まで行こう! 「地平線40年祭」の準備に追われるえも〜んを連れ出して成田で待ち合わせ。久々に3人揃うが、誰もあまり変わらずいつも一緒にいたような感覚。少しだけ、えも〜んへの敬語が大人になったかな。
◆松山空港から四万十流域の「ウェル花夢キャンプ場」へ、到着は18時を過ぎた。日はどんどん暮れていく。でっかいテントの張り方が分からず四苦八苦していると管理人さん登場。日の落ちる間際に到着した素人っぽい三人を心配してきてくれた。テント設営、ライトの設置までしてくれ途端に快適空間に! しかも、翌日会う予定の友人の知人であり、10年前のドラゴンランのことも知っていた。また四万十ドラゴンランから人の繋がりができた。
◆夕食のBBQをたくさん食べ、こっそり買った芋羊羹に78才の蝋燭を刺して少し早いえも〜んのお誕生日祝い。約束通り焼酎をボトルキャップで乾杯した。思った以上にチビチビだけどこのもどかしい感じがいいのだ。さて、10年後の大人になった私たち。前から教師になる事を決めていたくえは農学部で果樹を専攻しながら教員免許を取り、中学理科の教師になった。行きたいと言っていた海外青年協力隊員としてカンボジアの学校で1年9か月活動し、2年前帰国した。さらに、昨年結婚した。色々な思いや決断もあったと思うが、10年前に思っていた道を着実に進んでいるよう。くえが今に満足しているならそれで良いなと思う。
◆私、うめは農学部の大学院に進んで「木質化学」を専攻した。短期スペインに留学した後、化学品メーカーに就職した。営業の為出張や残業が多い職種だけれど、まだ継続している。ただ、10年前に漠然と思っていた将来を振り返ると今は違う道である事を改めて認識した。20代はどんな方向にも迎える選択肢があり漠然としていた将来が、30代になると自分の道が以前よりはっきりし、語る内容が具体的になる。仕事、結婚、子供、その先……。20代と変わらず自分がどうしたいかが全てだけれど、決断する事の重みを推し量る為か個人的には考える事が増えた。元々深く悩むような人間ではないはずなのに自分でも驚くぐらい。
◆一方、えも〜んはぶれない。私達の悩みを引き出してくれ、10年前と変わらず「それでいいんだよ」と受け入れてくれる。きっと私たち以上の出来事が日々起きているはずなのに、毎月地平線通信を出し、地平線報告会を開き続けることがどんなにしんどいことかと思うのに、抜群の安定感で話す芯は今も昔も変わらない。
◆翌日は「星のコテージ」オーナーの宮崎聖一家と川遊びしてもらう。美味しいランチを食べて川にSUP(スタンドアップパドルボード)を浮かべて川面をゆらゆら。「今風邪引けないから水には入らない」というえも〜んだったが、お約束通りまもなく水にドボン。すいすい気持ちよさそうに泳ぐ姿、本当にお元気!! 40周年祭に向け多忙だったのか、やがてボードの上でスヤスヤお昼寝。癒しのひと時を過ごしてもらえた。
◆夜は四万十楽舎で宴会。直前連絡に関わらず松山や西土佐から仲間が集まってくれ、なんと総勢8人でプチ同窓会! 楽舎オーナーが事務所にあるモニターをかき集め、歴代四万十ドラゴンランの写真を流してくれた。映された写真で10年前の事を思い出し、しょうもない話で大爆笑。久々の皆は変わらず若いしとても生き生きしていた。当時30代の人は40代となり皆深みが出たように思う。
◆次の10年後、2028年にまた皆で会います。その時はさらにそれぞれの生き方は明確になってここで何を話しているでしょう? 話す内容は違うだろうが、皆自分らしく生きることこそいい笑顔で再会できる方法だと思う。今後について悩む私に楽舎管理人あらちゃんが四万十楽舎就職の話をくれる。「条件付」ならそれも一つの道かな。なにはともあれ、えも〜んが風邪をひかず旅を終える事ができた。地平線40年おめでとうございます!(うめ、こと山畑梓 テコンドーに夢中)
■3年前より夏山でよく台風と戯れている。昨夏は三度山のなかで台風と戯れた。台風が来ると知りつつ下山せずに居座ったり、台風直撃のタイミングを見計らって入山したりしているのだから、遊び心を持って行っている。「なぜ台風のときに山へゆくの?」そうよく訊かれる。理由らしき理由はない。気がついたらハマっていた。
◆台風というリスクをゲーム感覚で捉える。夏のあいだは仕事がらみの山行で、平和ボケした時間が流れる。オフのときくらい刺激を求めたい。あるいは山岳気象で大荒れが表示されると何も疑わず、いっせいに山から降りる多くの登山者に対して「考えることのできねえマニュアル・バカ登山者どもがッ!」と心のなかで罵倒していたりもする。
◆風と戯れる場所は、たいてい北アルプスの立山の雷鳥沢である。夏の仕事の剱岳や立山のベースでもある。標高2,280メートル、森林限界を越えているので風を遮るものがなにもない。日本海にそう遠くないので元々風当たりは強い。この雷鳥沢は、山の日にはテント300張り以上の記録がある。ところが台風の日は貸切りとなる。
◆台風の日はこんなふうにして過ごす。強風でテントはバタバタ音をたてて揺れる。左右のテント布地がくっつくほどの突風もしばしば。どうかテントのポールが折れないでくれと真剣に日記に綴ったりする。そうした状況下でコンロを使う。強風でテントが煽られたときにコンロが転倒しないように手でおさえる。強風でテント布地がコンロの炎に近づかないように両ヒザで外側に向けておさえる。
◆コンスタントに強風がつづくわけではない。微風、強風、突風と波があったりする。風の弱まる隙にコンロに火をつける。必死でコンロをおさえる。突風が来そうになると慌ててコンロの火を消す。そのくり返し。こっそり悪戯しているみたいだ。慣れてくるとコーヒーくらいすぐにできる。インスタント・ラーメンもつくる。テントがすこしくらい水浸しでも、温かいものを口にすれば気分はなごむ。秋の長雨とちがって、たいていの台風は一晩で去ってゆく。つぎの日は風こそ強いが雲ひとつない青空がひろがる。いずれにしても一度の台風で懲りずに、何度も山のなかで台風と戯れているということは、自分のなかでは楽しめているのだろう。
◆今夏の9月4日の台風21号は、西日本各地に大きな被害をもたらした。その日も立山の雷鳥沢にテントを張っていた。山岳気象では風速50メートルとある。時速にすると180キロ。だいたい新幹線の平均時速。列車の屋根に群がるインド人じゃないけれど、新幹線の屋根で必死にしがみついているようなものだ。さて台風21号。昼過ぎから強風が吹きはじめ夕方になると風圧ではやくも窒息しそうになった。
◆突風のたびに濡れたテント布地が顔面にぴたりと張りついて呼吸ができない。拷問のようだ。手でおさえるにも限界がある。まだなんとかいけるかな。いやもしかしたら今回の台風はヤバイかも。風が強まりはじめてからテント撤収をきめるまでわずか数時間だったが、その葛藤は数日間のように深かった。テントの外に出るとはじめて体験する世界だった。
◆酷い顔面凍傷で一時的に片目が見えなくなった厳冬カナダ中央平原のストームのときとも、2月の低気圧の通過中の津軽の山の稜線とも、冬型の強まった厳冬・富士山とも、いずれとも似ていない。とにかくテントの外に出た瞬間、示し合わせたように突風でテントが倒壊。ポールが折れて、テント布地を折れたポールが突き刺し、テント布地が破れはじめる。すばやくポールを抜く。火事場のなんとか力じゃないけれど、ふしぎとスムーズにいった。テントも飛ばされることなく撤収する。
◆近くの山小屋に逃げ込む。山小屋に避難するのははじめてだ。屋根の下といえども安全ではない。屋根の下に入って数十分後に突風で、入口扉が吹っ飛び窓ガラスは割れて飛び散る。もしテントの撤収が数十分遅れていたら、ガラスにぶち当たって全身血まみれになっていたかもしれない。
◆翌朝、外に出てみると隣の山小屋の屋根が吹き飛ばされていた。10メートル×5メートル大の屋根の一部が300〜400メートル飛ばされ、あちらこちらに散乱している。まるで飛行機の墜落事故の現場に遭遇したようだ。ここでも思った。もしテントを撤収するタイミングが数時間ずれていたら、これら巨大な屋根の破片にぶち当たって即死していたかもしれない、と。
◆こうした一連のできごとは、やはり運なのだろうか。運の良し悪しとは、総合力をテストされているような気がする。山はいつも理論と実践とのギャップを問いかけてくる。運とは、実力や思い入れの深さに応じて、もしかしたら神がうまく分配しているのではないだろうか。
◆経験を積むことによって、ギリギリで逃げることがどんどんうまくなってゆく。リスクをかわしてばかりいる自分がどこか寂しい気もする。十代のころだったら潰れたテントを全身に巻きつけて、大雨強風のなか一夜を凌いでいたかもしれない。生きながらえることが人の生き方として、果たして美しいのだろうか。人の能力なんてたかが知れている。努力も気合もしょせんは気休め。山も自然も怖い。今夏の台風21号で、自分はまたすこし弱くなった。北アルプスの山小屋に二十年近く暮らす人からも、過去最大の台風だったとあとから聞いた。そして台風が去った後に目にした立山の姿は、ふしぎとおだやかに映った。(田中幹也)
■3月の地平線通信で10年ぶりで「地平線1万円カンパ」への協力を呼びかけたところ、全国から次々に支援の心が届きました。銀行の地平線口座の残額が「7774円」までになってしまったので、これはほんとうにありがたかった。今日6日現在、その数107人、中には10万円を振り込んでくださった人もいて、カンパ合計金額は125万円に達しました。素晴らしいことです。ほんとうにありがとうございました。地平線会議への強い信頼を感じるとともにこの活動がともかく続けるに足る、と言われたのだ、とひしひしと責任を感じています。
◆以下に協力くださった方々の名をあげて感謝の気持ちといたします。「1万円カンパ」としましたので、おひとりおひとりの金額はここでは出しませんが、内容はきちんと記録されています。今回の「40年カンパ」以前から「1万円、あるいはそれ以上」のカンパをしてくださった方は少なくなく(あらためてお礼を申し上げます)、それらの方々とあわせて扱うこともあった、と思います。万一、当方の手違いでカンパされたのに名前の漏れている方は即刻江本宛てお知らせください。メールアドレスは通信の最後にあります。
◆なお、「40年カンパ」はもうしばらく続けさせていただきます。すでに皆さんの“浄財”は14日の地平線40年祭の会場費や、当日刊行される地平線通信フロント集『風趣狩伝』の制作費にあてられているほか、地平線通信の制作にも使わせていただいており、今後も活動を続ける限り、資金の問題は続く、と考えるからです。今後は毎月の通信費欄に「1万円カンパ」として記録するとともに、2019年春にも再度「全協力者リスト」を公表させていただきます。
◆カンパの振込先は、以下の通りです。
■みずほ銀行四谷支店 普通 2181225 地平線会議 代表世話人 江本嘉伸(エモトヨシノブ)
★振り込み人の名前は、カタカナで表記されますので、できればメールかはがきで江本宛てご通知ください。ありがとうございました。
2018年10月6日
地平線会議代表世話人 江本嘉伸
宮本千晴/三輪主彦/久保田賢次/光菅修/瀧本千穂子/三好直子/岸本佳則/岸本実千代/尾形進/高野政雄/竹澤廣介/花崎洋/高橋千鶴子/大浦佳代/豊田和司/田中明美・長田幸康/森田靖郎/澤柿教伸/樋口和生/小林進一/石原卓也/賀曽利隆/小林新/荻田泰永/関根皓博/長谷川達希/滝村英之/渡辺哲/原典子/太田忠行/徳野利幸/伊沢正名/中島菊代/貞兼綾子/北川文夫/大野説子/菅原茂/小村寿子/日野和子/岩淵清/中嶋敦子/河村安彦/長岡竜介/長岡のり子/長岡祥太郎/山本千夏/西川恵美子/坪井伸吾/兵頭渉/落合大祐/松原尚之/神長幹雄/塚本昌晃/古山里美/向後元彦・紀代美/秋元修一/新堂陸子/網谷由美子/飯野庄司/佐藤安紀子/井上和衛/埜口保男/江本嘉伸/丸山純/黒澤聡子/池田祐司/藤木安子/山田まり子/梶光一/久富ゆき/多胡啓次・幸子/横山喜久/寺澤玲子/米山良子/金井重/松澤亮/広田凱子/斉藤孝昭/西嶋練太郎/野地耕治/北村昌之/遊上陽子/平本達彦/塚田恭子/小石和男/藤本亘/中村保/野元龍二/滝野澤優子/長塚進吉/森国興/湯浅ふみ子/大槻雅弘/鹿内善三/神谷夏実/掛須美奈子/嶋洋太郎/櫻井悦子/大西浩/山畑梓/世古成子/武田力/白方千文/吉谷義奉/那須美智/北村節子/村井龍一(ここまで107人)
■丸山純さんの力作『風趣狩伝』は、突然彼が一念発起し、この通信スタッフが短期、全力で支援した。うへぇ、と息を飲みつつ私は見事な一冊が出来あがっていくさまをじっと見守った。今月の通信のフロント原稿もこの一冊には収納されることになったので、実は印刷当日になってフロント原稿に苦吟する、という“いつもの異常事態”が今月はまったくない。変な話だが、皆さんがいま手にしたばかりの今月のフロント原稿は、とうに印刷にまわっているのである。
◆代わりに、「1万円カンパリスト」のチェックが大仕事となった。実は、地平線通信では3月以降40年カンパを呼びかけているが、最初にこのことを伝えたのは、2月の地平線報告会の会場でだった。その直後、何人かから1万円を頂いた。当時からこういう志は秋になってまとめてリストをお伝えする、と決めていたのでちょっと迷った。結局、通常の「カンパ」と同じように、毎月の通信でこれらの志もさりげなく掲載することとした。そのために少しの混乱が起きた。
◆銀行振込みしてくれた方の名はしっかり記録されるので心配ないが、「頑張ってくださいね」と直接頂くケースが問題となる。お金はすぐ地平線の口座に入れるが、名前を私が忘れてしまうことは1割ぐらいの可能性であるからだ。そんなわけで今回はリストを前に原稿とは別な苦吟をすることとなった。ただし、どんな状況であるにせよ、皆さんからのお金は必ず必ず地平線会議の活動に活かされます。学生の姿が目立ってきている昨今、「おとなの1万円」がどんなに青年たちを支えてくれていることか。それが大事だ、と思うのです。(江本嘉伸)
地平線通信 474号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2018年10月6日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
|
|
|
|