9月12日。東京の最低気温は18.1度。つい先日までの「40度近い酷暑の日々」が信じられない、むしろ「意表をつかれるほどの」涼しさだ。アメリカでは「9.11から17年」のセレモニーが行われている。11日(日本時間ではきょう12日)ニューヨークの世界貿易センター(WTC)跡地では3,000人の犠牲者を追悼する集会が開かれた。3,000人! 日本人24人も含まれる。あの時一体何が起きたのか。時間を追って当時の凄まじい事件を検証すると──。
◆「8時46分 アメリカン航空11便がWTC北棟に激突」「9時03分 ユナイテッド航空175便がWTC南棟に激突」「9時37分 アメリカン航空77便がワシントンDCのペンタゴンに墜落」「9時59分 WTC南棟が倒壊」「10時03分 ユナイテッド航空93便がペンシルベニア州のサマーセット郡に墜落」「10時28分 WTC北棟が倒壊」……。
◆私はあの時、富士山にいた。国土交通省富士砂防事務所が企画した「お中道めぐり」にエベレスト高齢登頂を目指す三浦雄一郎さん、7大陸最高峰登頂者、パトリック・モローらと参加していたのだ。お中道は富士山五合目付近を横に一周する道で距離は25キロほど。これを一周することを「お中道めぐり」という。今では大沢崩れのため登山者の自由な立ち入りは禁止されていが、富士講の信者にとって「御中道めぐり」は富士山登頂以上の「行(ぎょう)」とされ、3回以上の登頂経験者でなければ、踏み入ることが許されなかった。
◆地平線イラストレーターの長野亮之介画伯の北大時代の仲間、花岡正明さんが富士砂防事務所の所長になって「お中道めぐり」を企画、私も何度か呼んでいただいたのは、今思えば幸運なことだった。その2回目の時だった、と思う。この時はテレビのある山小屋で一泊した。深夜に速報された信じられない映像の衝撃がいかに大きかったか。「戦争だ!」修験者の装束をまとったアメリカ人の1人が叫んだことをよく覚えている。
◆お中道はほぼ富士山の植生限界に沿うルートでもある。森林をくぐり、岩場を通り抜ける部分もあり、私は気に入った。以後「9.11」は富士山お中道とともに私の脳裏に記録されることとなった。きょう報じられたニュースによると、3,000人もの犠牲者を出したあの事件の後遺症はなお深刻だ。ニューヨーク・ポスト紙が報じたところによると、その後救助隊、消防士、警察署員など当時現場で救助活動に身を捧げた多くの人々(ファースト・レスポンダー)がガンで亡くなっているという。ビル崩壊により生じた有毒ダストを吸い込んだことが今になって深刻な結果を出している。
◆あれほどの大惨事のことを書いたあとでは憚られるのだが、おととい10日は私にとってしみじみした日であった。相棒の麦丸のことと言えばわかるだろう、そう、9月10日は、あいつの一周忌、あれからもう1年も経ったのだ。昼飯時、四谷のカフェに行き、元気だったあいつの写真のいろいろを飾り、カミさんと赤ワインで献杯した。木のおもちゃ作家、多胡歩未さんが彫ってくれた「むぎまるの木」と、1才から11才までの成長べつに記録した数々の写真。11才4月は早過ぎたが、歩未さんが言ったように、心にぽっかり空いた穴が時間をかけてゆっくりゆっくり埋められている気がする。
◆麦丸と私の最後のツーショット写真がとりわけ大事だ。写真家である小松由佳さんが去年8月、我が家に来た際、「江本さん、撮っておきましょう」と愛用のローライフレックスのシャッターを押し、それをA4版に伸ばしてくれたものだ。口腔内に「メラノーマ」と呼ばれるガンを発症した麦丸はしまえなくなった舌をだらり出したまま私に抱かれている。生きることは別れを繰りかえすことだ。舌は垂れているが、私に抱かれて安心した表情が今も救いだ。
◆10月14日にやる「地平線40年祭」のメインタイトルが『恋する地平線 ヤケッパチでも続ける宣言』に決まった。7月のこのページで紹介した「初恋を語るように旅の話をしよう」という故長野淳子さんの提案がヒントになっている。詳しい内容は次号の地平線通信に譲るが、旅立った者の言葉のいろいろ、地平線ではこれからもずっと忘れない。今月初めに開かれた長野亮之介個展「ズットスキダ展」、7匹の猫に囲まれた淳子さんを描いた「かんのん」は出色だった。
◆毎月報告会のあと、二次会場の餃子の「北京」まで15分ほど歩く。常連と話しながら行くことが多いが、時には若い、孫世代の人とも。先月は北海道から来た北大探検部の青年と話しながら行った。ミャンマーの東部で暮らす「スゴー・カレン族」の間に伝わる神話に登場する山の特定と登頂を目的とする活動を続けている、と聞いて、おっ、と思った。地平線に来る若者たちは宝物なのだ。9ページにその片鱗が。若いみんな、遠慮しないで声かけなさいね。(江本嘉伸)
■ここに1978年12月2日から4日、法政大学で開催された全国学生探検報告会の冊子の写しがある。表紙を飾る木彫りにも見えるその像はパプアニューギニアのものだろうか。中空を見つめる瞳は、吸い込まれそうになるほどの漆黒をたたえている。プログラムの中には関野吉晴さんの「アマゾン河源流の最近の行動報告〜インディオと遺跡群〜」の文字が見え、河村安彦さんの「カナダ・マッケンジー川航下〜ファルトボートによる単独3,500余キロ〜」の報告は最終日4日のトリに控えている。
◆「今回の川旅は78年に下ったカナダのマッケンジー川を当時と同じスタート地点から下り始め、同じゴール地点までを航下したものです」と語る河村さんは獨協大学探検部出身の63歳。この夏、40年前に下ったマッケンジー川を50日かけ独りで旅をした。航行距離は3,600キロ。その間に73キロあった体重は58キロになった。
◆河村さんと地平線会議代表世話人の江本さんとの出会いは、全国学生探検報告会でマッケンジーの川旅を報告する少し前。待ち合わせ場所に持って行った川旅のことを記した日記帳を江本さんがじっくりと読んでくれたのを覚えている。これまで河村さんは78年を皮切りに81年、83年、そしてこの夏と4度マッケンジー川を旅しているのだが、まずは彼が78年12月の「全国学生探検報告会」の冊子に書いたマッケンジー川航下の主旨を以下に紹介したい。
◆『私の探検部生活の中で持ち続けたテーマ「川から見た世界」は、海外の河川に目を向けさせた。そこで単独航下の成されていない川を下り、全流域を自分の目で見ようという発想により企画した。もっとも個人では多岐に渡る調査活動には無理があり、川下りそのものに注目をおき、その付随的な結果のみを消化しようと思った。「マッケンジー川」は北米第2位の長さを誇る大河であり、正確にはピース川、アサバスカ川、スレーブ川等の大支流とグレートスレーブ湖、そして、マッケンジー川と名称が変わるのである。全長4,240キロに及ぶこの川は、カナダ内陸部森林地帯を網羅している大中小支流、そして、無数に点在する湖沼群の水を集めて北極海(ビューフォート海)に注ぐ。保留地に追われていたインディアン諸部族にとっては、豊富な水が今も彼らの生活の舞台であり、水路や湖沼間の通過は今もって手製のカヌーを使用している者もいる。(以下略)』
◆河村さんは、1978年6月12日から8月11日の約2カ月間かけてこの長大なマッケンジー川を折りたたみ式カヤックで航下し、その川旅の報告を全国学生探検報告会で行った。「学生時代の最後にどこか記念に残るような川旅をしたいなと思ったんです」と振り返る河村さんだが、アマゾン川ははじめから頭になかった。既にたくさんの人達が下っている川だったからだ。ユーコン川も下っている人がいる。「誰も下っていない川を下りたい」という想いの前に現れたのが、全長4,240キロのマッケンジー川だった。
◆2度目のマッケンジーは81年。今度はリヤド川の支流ムスクワ(デネ族の言葉で「熊」の意味)川のフォートネルソンから下り、途中フォートリヤド・フォートシンプソン間をエスケープ。フォートシンプソンからあらためてマッケンジー本流を下り、イヌビック到着後、西に移動し、ベルリバー、そして、ポーキュパイン川を下り、アラスカのフォートユーコンまで旅した。アラスカのフォートユーコンでは、地平線通信のイラストでお馴染みの長野亮之介画伯と合流する話があった。当時北海道大学の学生だった画伯は筏でユーコン川を下っていた。カヌーの師匠を通してお互いの存在は知っていたのだが、会ったことはない。画伯と合流するのを楽しみにしていた河村さんだったが、画伯の乗った筏は3キロ先から舵を取ったものの蛇行するユーコン川本流から離れられず、下流に流されていってしまったという。
◆83年は奥さんと新婚旅行のふたり旅。マッケンジー川のはじまるフォートプロビデンスからフォートシンプソンまでの200キロは短いけれど、とても景色の綺麗な場所だった。この時の旅は「三度目のマッケンジー・二人の河下り報告」として1983年8月、46回目の地平線報告会で報告された。
◆あれから40年。ひそかにマッケンジー川再航下を計画した河村さんはファルトボートを新調し、体力の確認のために去年の10月に栃木県の黒羽から那珂川を太平洋まで下った。その後盛岡から中尊寺まで雪の降る北上川を下り、再びマッケンジー川を下ろう、と決めたという。しかし、これを周囲に伝えたのは、出発の直前。万一行けなかったらかっこわるいという想いからだった。これまで川旅で危ない目にあったことはない。それは危ない目に合わないように行動しているからだ。
◆今回、川旅の起点として選んだのはブリテッシュ・コロンビア州のフォートセントジョン。そこから出発点であるテイラーに移動し、東に向かって流れるピース川を下った。ピース川はゆったりと蛇行し、やがて北東に向かい、グレートスレーブ湖に流れ込むスレーブ川に合流する。スレーブ川は北に向かって流れる川だ。川の水の色は茶色で、その上を白い雲が浮かんでいる。川の両脇にはトウヒの木々が立ち並ぶ。78年にはグレートスレーブ湖まで下ったのだが、今回は途中のフォートスミスからヘイリバーまでを飛行機で迂回し、そこからマッケンジー川の本流を極圏に向かってゆったりと漕いでいく。目指すのはイヌビック。北緯68度に位置する街だ。
◆マッケンジー川の良さはアプローチのしやすさにもある。川下りの起点となったフォートセントジョンには飛行場があり、バンクーバーからアクセスすることができる。そこからピース川沿いのテイラーまでタクシーで50ドル。ファルトボートを持っていけば、直ぐに川旅をはじめることができる。ファルトボートは学生時代からの旅の道具だ。ここでカヌーとカヤックの違いについてふれておくと、カヌーとは所謂オープンデッキで、かつシングルパドルのものだ。オープンデッキは荷物をたくさん積みこむことができ、のんびり漕げるのが特徴だ。ゆっくり旅する時間が取れるならば、カヌーで旅をするのがいい。一方、カヤックはクローズデッキでダブルパドルのものを言う。デッキがクローズであるため、カヌーに比べて積載量に制限がある。
◆マッケンジーではカヤックであるファルトボートを使ったため、船内に積み込むことのできない荷物はデッキの上に括り付けて旅をした。荷物の量は約1週間から2週間分。これは次の街までの距離によって決まる。デッキの上に荷物を載せると風の影響を受けやすくなるので、できれば荷物は少ない方がいい。川旅の基本は川の流れに任せることだけど流れがないところでは一生懸命漕いだ。
◆40年前の川下りでは、上流から下流までを一生懸命に漕ぐことに費やした。長いときには1日12時間、100キロの距離を漕いだこともある。しかし、今回は「いろんな景色を見てみよう」という想いを胸にのんびり漕ぐことに専念した。そして、これまでに気付かなかったことを数多く発見した。たとえば、空だ。「空の写真はずっと見ていても飽きません」と語る河村さん。40年前はただ通り過ぎていった空の景色が今回はとても興味深かった、という。
◆毎朝、起床は4時半くらい。その後朝食を食べ、5時半くらいに出発。平均60キロほどを下り、15時半には着岸、その日のキャンプの準備をする。40年前は熊が怖かったのでできるだけ川岸に近いところにテントを張った。しかし、今回は森に近いところでキャンプをした。「この年になったら、いつ熊に食べられてもいいし」と微笑む河村さん。40年前とは違いキャンプ自体を楽しんでみようと雨が降っても毎日のように焚火をしていたという。火はずっと見ていても、見飽きることがない。
◆そんな川旅の食事は粉食か麺類を基本とし、唯一のタンパク源として保存の効くチーズを携行した。実は魚はそれほど釣れなかった。食べたのは2、3回だけだった。ときどき食パンの上にピーナツバターと潰したバナナを乗せて食べた。キャンプ地には寝室であるテントのほかにトウヒの木の枝や葉でつくったリビング、そして、キッチンを別で用意した。トウヒの葉はふかふかしているので、インディアンはフィッシュキャンプの寝床にそれを使うのだという。時々川の水で体を洗い、トイレはインド式で済ました。ただ肌を露出すると一瞬で蚊に襲われるのには辟易した。
◆そして、岸辺にはたくさんの動物がいた。コヨーテ、リンクス、ブラックベア、ジャコウウシ、カモメ、ビーバー、鹿、そして、ムース。川を泳いで渡ろうとしたムースは途中で力尽き、溺れていった。時折現れるビーバーに声をかけ驚かそうとするが、ビーバーは全く素知らぬ顔で川を泳いだ後、尻尾でポンと水面を叩き、水に潜ってしまう。川旅の途中釣り上げたパーチ科の魚は80センチほど。釣って5分で頭を落とし、はらわたを抜いた後、皮を剥き、塩とオリーブオイルで味付けしてから白樺の皮に包んで蒸し焼きにして食べた。一度見かけたリンクスは身を隠すように座りながら、テントをずっと見ていた。
◆河村さんが大学に入学したとき、獨協大学探検部は既に消滅していた。「ないものはつくろう」ということで仲間を募り、アドベンチャークラブのような探検愛好会を発足。大学の壁を登ったり、大学横の川を草加市まで下ったりした。しかし、大学を卒業すると探検愛好会はあっという間に消滅。その後獨協大学はモーターパラグライダー・エアフォトグラファーの多胡光純(てるよし)さんの登場を待つことになる。
◆「大学の後輩の多胡君はマッケンジー川を空から眺めるという新しい視点を持っています。それならば自分にとっての新しい視点とは何か。私の場合は40年という時間の変化を通しての視点だと思います」そんな川旅の中で40年前に出会った少年は今や恰幅のいいおじさんになっていた。ただ残念なことに以前のように川で生活する人の姿は見なくなった。40年前は川の傍のキャビンでムースの皮を剥いでいる場面にもよく出くわしたが、今回はそんな生活風景を見ることもできなかった。木で骨組みをつくり、キャンバスを張り合わせた手作りのカヌーもツンドラに穴を掘ってつくった天然の冷蔵庫も見かけることはなかった。
◆ログハウスを建てる姿も同様だ。ログハウスは今や白人のための高級住宅になっていた。代わりにツーバイフォー(木造枠組壁工法)でつくられたべニア板の家が街には増えた。40年前に航下したときにはうるさく吠えられた使役犬も今はペットとして飼われている。使役犬の代わりの足はスノーモービルだ。マッケンジー川下りの終点イヌビックからタクトヤクタックまでは道もできている。道ができると人は道に依存してしまう。車さえあればどこにでも行けるからだ。狩猟にさえ車は使われている。昔は見ることもなかった車だが、今は1軒に1台以上が停まっている。キャビンは使われず、ティピーは物置と化していた。40年前の自給自足の生活の面影はもうどこにも見られない。
◆更に以前は当たり前に飲んでいた川の水を今のマッケンジー川水系に住んでいる人達は飲まなくなった。40年前、出会った少年は飲み水を頼むと川から汲んできた水をそのままくれた。今はペットボトルに入った水をくれる人もいれば、ろ過した水やタンクに貯めた消毒液のにおいのする水をくれる人もいる。川の水は今の彼らにとっては汚いのだ。確かにマッケンジー川の水は濁っている。でも、口に含んでも砂を感じることはない。タンクに貯めた水よりも美味いくらいだ。
◆ただ川の水はよく考えたら汚いのかもしれない。川ではいろんな動物の死骸を見ることが多いからだ。それでも日本の川の方が汚いと河村さんは思う。「北上川を下っているときに排水溝から湯気の出ている水が川に流れ込んでいるのが見えました。私はその川下りで水の入った1.5リットルのペットボトルを常に携帯していました。日本の川の水は飲む気がしません」
◆今回の旅では紙の地図が手に入らず、40年前に下ったときに使っていた100万分の1の地図を持って行った。今ではGPSが主流なので、紙の地図が手に入らないのだ。手に入るものは5万分の1、もしくは2万5千分の1のものに限られる。一方でGPSにはGPS特有の問題がある。それはバッテリーの問題だ。今はカメラもデジタルカメラで、川下りのために用意したウェラブルカメラも電池の消耗が激しい。iPhoneもしかり。どうしてもついつい見てしまい、しまいには電池がなくなってしまう。そんなデジタル機器に頼る自分を情けなくも思うが、一旦持ってしまうとそれに頼ってしまうものなのだ。
◆「GPSで場所を確認しても、見えるのは自分の周りだけなんです。自分が実際にどういう場所にいるかを把握するのは紙の地図の方が断然いい」旅の最後にイヌビックからタクトヤクタックの間の道をヒッチハイクで移動もした。以前この区間は車道がなく、人が移動するときはカナダ警察の飛行機に乗るか、郵便物を運ぶ飛行機、もしくはインディアンのカヌーに乗るしかなかった。今はその道を自転車で旅している人もいるという。
◆幼いころのあだ名は「カッパ」。子供の頃から釣りが好きで、中学、高校になるとひとりで釣りに行くようになった。「釣りに行くときに川の脇を歩いていくんですよね。そのときに「この先には何があるんだろう」と道の先にあるものに興味を持つようになりました。今は旅をするために川を使っています。私の旅は川下り自体が目的になっています。ひとつの川を下ったら、次の川を下る、というような川を次々と変えていくようなスタイルではありません。同じ川を何度も下るのが好きですね」
◆「マッケンジーの旅は恐らく終わらないと思います。まだやり残したところが、200キロほどあります。あと数年の内にそこを下りたいです。まだ体力的には問題ないでしょう。最後に海まで行きたいですね。川を下る醍醐味は、もしそれが可能ならば水源から海までを辿る旅ができることです。そういう川下りを自分のフィールドとしてやりたいです。今更他の川に浮気する気もないので、もっと北米の川を知りたいと思います。一本の川を下った達成感よりも周りをキョロキョロ見ながら川下りする方が楽しいし、自分にとって大切なものだと気付きました」と報告会の最後に語る河村さんに「この旅で感じた一番大事だったものは何か?」という質問が飛んだ。
◆「同じ場所をいろんな時間の経過と共に振り返ると自分の人生とどうしても重なる部分が出てきます。ある意味では同じ川を下ることで自分自身を定点観測しているようなものだと思います。10年ひと昔と言いますが、それならば40年は大昔です。40年の時間の流れを本当に感じた旅でした。川はあの頃から変わってはいません。でも、一度川の周りのインフラが整備されると現地の生活は変わっていってしまいます。イヌビックからタクトヤクタックまでの道路が今年の5月に開通するまでは、現地の人は1か月に一度ボートでお酒の買い出しをしていたそうですが、今では毎週のようにイヌビックに来るようになったそうです。イヌビックのホテルでお酒を飲みながら、食事をするのが唯一の楽しみということでした。私は今見ていること、そして、今体験していることを時間が経ってからもう一度見て、体験することが何より大事なことだと思います」
◆報告会後の「北京」での二次会ではサックス奏者の長女のラジオ出演を嬉しそうに宣伝していた河村さん。初めてのマッケンジー川下りのときにまだ彼女は生まれてはいない。40年という歳月を想うとき、その月日は決して短いものではない。10月には地平線会議発足40周年記念イベントもある。人生を80年とすれば、地平線会議は今年その折り返し地点に到達したことになる。40年後は2058年。そのときあなたは何をしますか?(光菅修)
■7月28日に帰国した。出発前に今回の計画をお知らせした江本さんに帰国の報告をしなければと連絡したところすでに8月の報告は私に決まっているという。確か出発前に8月決算なので帰国したら社業に注力しなくてはいけないとお話ししていたはずだったが、すでに決まっているとのことで焦った。決まっているのでは皆さんにご迷惑をおかけすることはできない。
◆とはいうものの約2か月強の社業のブランクを解消しつつ報告会の準備も行わなければならない。デスクワークの頭がつかれるとまずは画像の整理と折れ釘の日記を解読しながらデジタルに変換。カヤックで座り続けたけれど今度はデスクに向かって座り続けた。それでも、報告会ではなんだか尻切れトンボになった感がある。
◆報告会を終えて少し落ち着いたところで、改めて振り返ってみた。地平線会議が産声を上げた1978年、丁度その年にカナダのマッケンジー川を上流のピース川から北極圏のイヌイットの町イヌビックまでの単独川下りを行った。それは、それほど気張った計画ではなく日本の川と感覚は同じ、日本ではせいぜい2、3日の川下りだったけどその延長の旅だった。
◆だから、帰国してその年に開催された地平線会議発足のきっかけとなった「全日本学生探検報告会」で報告するとは全く思っていなかった。他の大学の探検部は意義と結果の報告をしっかりと行なっている。だけどこちらはいつもの川下りで、その時も尻切れトンボになったと記憶している。あれから40年、いまだ海外の川下りはマッケンジー水系、そんな私をこの記念すべき節目の年の報告者に呼んでいただいたことに感謝している。
◆今回の旅ではこの川とその周りで起こっている変化を実感した。しかもたった40年の間に起こった大きな変化に驚いた。インフラの整備はお金の必要な社会を作ってしまい、手っ取り早い現金収入の為に若者が都会に向かってしまう。伝統的な生活はなくなり資本家たちの思い描くマーケットへ変化してしまう。我々が抱くノスタルジックな憧れである自然とか伝統は今やなくなりマーケットの一部に編入され全てお金が中心の世の中に急速に向かっている。
◆私の会社は、10人にも満たない零細企業だ。海外から電子関連機器用のアセンブリー工具材料測定器などを輸入している。この会社もあと2年で50周年を迎える。安かろうで競争しても所詮輸入品、少しでも市場に浸透するとあっという間にイミテーションが出回ってしまう。零細企業はすぐにそんな競争に巻き込まれる。しかもネット通販は産業用機器の業界にまで広がってきている。それでもここまで続けてこれたのは、愚直に信じたものを市場に提供することを信条としてきたからだ。これは地味な活動である川下りを続けてきたことが原動力となっている。
◆川下りも長いこと続けていると様々なタイプの活動の仕方がある。競技としての川下り(スラローム/ワイルドウォーター)と、川という道を旅することがある。 しかし船の材質と操作テクニックが上がるにしたがって不可能と思われたワイルドウォーターや岩だらけのクリークを下るクリーキング、縦に回ったり飛んだりするアクロバットなど派手なそして目立つことができるようになった。パックラフトなんて言う新しい川下り? 川旅のギアなどの選択肢も増えてきた。門戸が広がったのはいいが、単なる趣味の一つとして浅く広くという感がある。川の旅という狭い世界でも長く続けることで深く追及することが私の目指す川下りだ。
◆私が携わっている仕事では地平線会議に関係する人たちとの接点は知っている限り全く皆無だ。今回の旅でも、出発前によほど迷惑をかける可能性がある人以外にはちょっとプライベートで2か月程連絡取れないとしか伝えなかった。しかし、どういう経路で情報が流されているのか!? 帰国してから会う人ごとに旅のことを聞かれる。仕事の話30分に旅の話3時間、これでは全く仕事にならないのであった。会う人ごとに休めていいよなという! でも一言いいたい、皆いろんな思いを秘めて日々過ごしていると思うけれど、今に流されているよりもエイヤーと自分の思っていることをトライしてみることの必要性を話すことにしている!(河村安彦)
★大事なことはホットなうちに、というのが信条です。が、事情を知らず、急ぎの報告会を押し付けてすみませんでした。(E)
■久しぶりの報告会、刺激的でした。40年ぶりの報告会という、江本さんの思惑も当たったかもしれませんが、時代の変遷を河村さんの報告で、改めて感じさせられました。40年ぶりのマッケンジー川の、川下りの旅、とても楽しく聞くことができました。それぞれの人にそれぞれの生き方があり、その発露は芸術、社会貢献、政治、冒険、などに向けられるということが、その人の存在理由に大きく貢献していると思いました。
◆私の個人的な印象としては、情報の研究者として共感を得たのは、デジタル地図の危うさを語った時です。私も、山行は市販の地図か国土地理院の地理院地図のプリントアウトを使っています。スマホのデジタル地図は、ビルの林の中をうろうろするときは有効です。しかし、情報はデータとして蓄えられアドホックに必要な時に使えるという有効性を持っている反面、それを使うデジタル機器の動作環境の制約を致命的に受けることになります。
◆車での移動もカーナビを使うと帰り道もカーナビを使わざるを得ませんが、アナログの地図だったら、帰り道は道を覚えていて、大体はナビはいらずに、帰ることができます。河村さんの冒険をデジタル情報とアナログ情報の使い分けが必要になってくることを自ら実践して証明した冒険だったという視点から拝聴いたしました。(北川文夫 岡山発)
■江本さん、地平線会議の皆さん、ご無沙汰していますが、お元気でしょうか? コロンボで日本の猛暑のニュースを聞いてジャングルに入り、3週間ぶりにコロンボに戻ってきたら、今度は大雨のニュース。スリランカでは気象は安定して南西モンスーンの定石通りなので、日本の異常気象が今後どうなっていくのか気になります。
◆さて、江本さんや皆さんにも気にかけていただいたNPO南アジア遺跡探検調査会の「スリランカ密林遺跡探査隊 2018」ですが、今年は紆余曲折の末に何とか成果を上げることができました。しかし、その前にスリランカ自然保護局の入域許可が遅れたことで一時は「探査断念」の縁まで追い込まれ、休暇期限のある3人の社会人隊員が時間切れで入域せぬまま帰国したことなどが気持ちの上で尾を引いて、手放しでは喜べないのが正直なところです。
◆どうやら自然保護局が入域許可を出し渋ったのは「お金」の問題だったようで、外国人サファリ客からは短時間に多額の入場料を取って自然保護区の管理運営をしているのに、長期間、それも保護区の核心部に入り込む我々からは金を取らなくていいのかという議論が局内にあったと聞きました。最終的には土壇場で許可が出て、小生と学生5人だけがスリランカ政府考古局員らとともに入域し、活動できたという次第です。
◆そうした経緯を経た今回の我々の探査でしたが、結果だけ先に述べれば、去る8月18日、同国南東部のヤラ自然保護区にある目的地のタラグルヘラ山に到達、翌日にかけて山頂の仏塔跡や付近の岩窟寺院跡、密林中の伽藍遺構などを次々と発見したほか、23日にはマルワーリヤと呼ばれる孤立岩丘の岩陰で先住民ヴエッダ族の岩絵を発見するなど、想定外の成果も上げてコロンボに帰ってくることができました。今回はクラウドファンディングの募金などで多くの方々のご支援や声援を受けての活動でしたので、無事に所期の目的を果たせて本当にホッとしているところです。皆さん本当にありがとうございました。
◆自然保護のために厳格な立ち入り規制が敷かれているヤラ地方のジャングルに入り、遺跡を探査するという今回の企画は、4年前に小生が具体案を示してスリランカ考古局に働きかけ、2年前に合同隊での入域には成功したものの遺跡発見には至らず、今年は再挑戦の形で実行したものでした。しかし前述のような事情で社会人隊員3人が入域を断念して帰国したほか、ポーターとして雇用予定だった村人も入域を拒否されたため、ベースキャンプと前進キャンプとの補給線が作れず、作戦の練り直しを迫られました。
◆そして結局は、ベースキャンプ設営後に1日だけの偵察を試み、あとはGPSを頼りに最低限の水と食料を持って1泊のビバーク形式でタラグルヘラ山へ向かうという、賭けのような行動形態になり、それが前回とは違って見事に一発で成功したというのが正直なところです。
◆ただ、GPSがあるとはいっても、視界がまったく閉ざされ、鉄条網をまとめて置いたように有刺植物が繁茂するジャングルでは、直進はできず、かすかな獣道(ゾウの道)を拾いながら、腰をかがめ、鉈を振るってジグザグに進むありさまで、水も食料も不足したため、今年古希の小生には結構きつい道中でしたし、学生たちも猛暑と調査機材の重荷に加え、空腹や渇きに苦しんだのが実情でした。それでも成果があげられたのは、1973年の初調査以来、これまでの45年間、小生らの密林遺跡探検を応援してくださった方々のおかげだと思い、深く感謝しているところです。
◆発見したタラグルヘラ山遺跡は、百年以上前に英領セイロンのイギリス人測量隊が所在を確認して「1インチ=1マイル地図」に記載したものの、その後は探検も調査もされずにジャングルに埋もれていたもので、頂上岩盤に仏塔跡の煉瓦片とともに残る刻文が判読不明ながら初期ブラーフミー文字であるところから紀元前3世紀から紀元1世紀ごろのものとわかり、また頂上からは南に海も望めるため、古代の航海者にとっては白亜の仏塔が灯台の役割も果たしていたのではないかと推測されて、同行のバンダーラ探査主任らは「スリランカ考古局128年の歴史でも特筆できる快挙だ」と自賛気味に喜んでいました。
◆また、23日にマルワーリヤの岩陰で発見したヴェッダ族の岩絵には、これまでスリランカ国内で発見されている80か所ほどの岩絵にはない意匠(ワニの絵か)や、何らかの数を表す文様があり、これも研究上重要なものとなりそうです。小生らにとっても、1985年に法大隊がワッタンブガラという遺跡でヴェッダ族の岩絵を発見してスリランカ政府が調査研究と保護に動いたとき以来の成果となりました。
◆今回の探査では、周辺を含めて全11か所の遺跡を発見・確認・調査して測図や写真に収めることができました。また、初めての試みとしてドローンによる空撮も行い、そのドローンをNPOから考古局に寄贈して操縦指導を行うというミッションも果たせました。それらについてはさまざまな場で順次報告いたします。江本さん、皆さん、今回は本当にご支援やご声援ありがとうございました。(8月28日、コロンボにて 岡村 隆)
■日本が厳冬に凍える2月、真夏の南米大陸最南部で嵐の大地パタゴニアを漂っていた。南緯39度以南のチリとアルゼンチン両国にまたがる辺境の地で、その地名は1520年に世界一周航海途上の探検家マゼランが、この地に住む先住民をパタゴン(大足族)と呼んだ史実に因む。チリ側は氷河を抱く岩峰群や広大な氷床とフィヨルド、アルゼンチン側は乾燥した不毛の荒野が広がる荒ぶる大地だ。世のクライマーが一度は夢見るフィッツロイやセロ・トーレ、パイネなど、垂直にそそり立つ岩壁が眩しい。
◆マゼラン海峡を越えた先は火の国フェゴ島で、その南側に世界最南端の街ウスアイアがある。進化論でお馴染みの博物学者ダーウィンを乗せた帆船の名に因むビーグル水道に面した街で、南北米大陸21ヵ国を縦貫する国際道路網パンアメリカン・ハイウェーの終着地点。郊外のラパタイア湾には「アラスカまで1万7848キロ」と記された標識が立つ。逆に南極までは1000キロしかなく、今や南極クルーズ船の出航地といった方が早いだろう。街の通りは南極上陸が最大のステータス・シンボルである中国人富裕層の観光客が闊歩し、中華飯店も増えてきた。
◆が、ものごとには大抵その先があるもので、ウスアイアの対岸にはチリ領ナバリノ島があり、島唯一の集落プエルト・ウイリアムスは人類が居住する超絶最南端の町。今を去ること25年前の1993年、人類400万年の旅グレートジャーニーがこの地からスタートした。ビーグル水道をシーカヤックで渡りフェゴ島に上陸、足掛け10年に及ぶ人力移動を始めた思い出の地だ。長旅を始める際に、この地に暮らすモンゴロイド系先住民ヤーガン族の血をひくカルデロン姉妹を訪ねた。
◆アフリカ大陸で誕生し世界中に拡散した人類のなかで、もっとも遠くまで旅した人々の直系の子孫に当たる。最後の純血ヤーガンだった二人だが、姉のウルスラは2003年に亡くなり、妹のクリスティーナも当年取ってすでに89歳。ヤーガン語の話者は地球上で彼女ただ一人の孤独な存在になってしまった。彼女が時折思い出すように口にするヤーガン語は、海鳥のさえずりのような不思議な周波数の旋律に聞こえる。もはや地上に通じる相手がいなくなった言葉を耳にできたのは、旅先でごく稀に出くわす奇跡のような出来事だった。
◆パタゴニアといえば日本では自動的にアウトドア・ウエアのブランドだが、旅の文脈からすれば伝説の紀行作家ブルース・チャトウィンのデビュー作であることは言うまでもない。彼は松尾芭蕉の『おくのほそ道』を携えてパタゴニアの大地を彷徨った。芭蕉は旅への誘いを「そぞろ神のものに憑きて心を狂わせ」と記したが、チャトウィンもまたそぞろ神に導かれて漂泊の日々を過ごしたことは間違いない。
◆新しい場所を探索したり、知られざる「宝物」を見つけたいという欲求は遺伝的なものだという説がある。DRD4-7Rと呼ばれるこの遺伝子を持つ人は、移動するために生まれてきたと言えるらしい。旅の女神はスマホには降りてこない。そぞろ神は旅人の靴底にしか降りてきてはくれないものだ。芭蕉やチャトウィンに自らを重ねるには100年早いが、遺伝子の囁きに応えるには風の踵で歩くしかない。
◆日本が猛暑熱暑酷暑残暑に喘ぎ台風豪雨に慄く7月から2ヵ月間、真冬の南半球でアンデスの「カパック・ニャン」を歩いていた。2014年に6ヵ国共同提案により世界遺産に認定された「インカの王道」と呼ばれる大道路網で、その総延長距離は2万5000キロ超。コロンビアからエクアドル、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチンまで、インカ帝国の版図全域に及ぶ。
◆海岸線沿いとアンデス山脈沿いの山側2本の南北縦貫路と、それを東西に繋ぐ多数の支道からなる。といっても、はっきりした道が残されているのはわずかで、部分的には舗装された車道になっていたり、街が広がって痕跡すら残っていなかったり。今回はロケハンを兼ねた試踏で、標高5200mまでゴム長靴で登ったりしてみたが、実際ロジスティックの難しさにまったく距離が稼げなかった。
◆あげくに途中で一緒になったおっさんは何と指名手配中のピストル強盗! けっこういいヤツではあったのだが、結局GPSを巻き上げられてしまった。やたら熱心に使い方を知りたがるのはなぜかと思っていたら、要は警察の捜査を巻くのに便利だからだった。まあ、ケガがなくてよかったという感じだろうか。そぞろ神に導かれ、旅はまだ続く。(ZZz@カーニバル評論家)
■地平線通信、受け取りました。ありがとうございました。“速記録”は、なるほどそういうふうに受け止めたのか……と参考になりました。澤柿ゼミの学生たちの感想文は、個性と素質が垣間見え、興味深く読みました。40年に及ぶ地平線会議の活動に、敬意を表します。
◆地平線会議のこれからの最大の使命は、若者たちへの影響力行使だと思います。精力的な活動を期待しています。微力ながら、お手伝いできることがあればお声がけください。(阿部幹雄)
■トルコのチグリス・ユーフラテス川源流の川下りを終わって帰国した。この8月の1か月。早大探検部OB高野秀行との20年来の約束をやっと果たせた。20年前の1997年から98年、それまで5年間のチャドでの NGO植林事業に区切りをつけて、ナイル源流での植林事業を立ち上げるべく、ナイル源流域5カ国(ルワンダ、ウガンダ、ケニヤ、エチオピア、スーダン)を調査して回った。アフリカ経験豊富で語学堪能で何より暇だった高野に4か月の同行願った。
◆誘い文句は「世界一周川下りの第1段パンアフリカ河川行は残すところナイル川、流域で植林支援しながら治安回復したらナイル川下りをやる。その時は誘う。今回は4か月の調査、三食昼寝宿付き無給でどうだ?」「行きます」
◆あれから20年、高野はすっかり売れっ子辺境作家になり、「あの時は、ダマされた」と言う。もう遅い。ルワンダでの植林事業を5年ほどやったが、ナイル上流域の政情不安はおさまらず。昨年「約束を果たしてください。ナイルは未だに無理ですが、チグリス・ユーフラテス川ならいけるでしょう」。90歳手前の父に「お前、バカじゃないか」と反対された。
◆先輩に、バカじゃないかと褒められたことはあるが、赤いちゃんちゃんこを着る年になって、父にバカにされたら、ジエンド。高野は「レジェンドの山田さんです」とひとに言うが「関西の友人たちは、ちゃうでジエンドやで」と笑う。親への忠義か友との信義か、信を守れなければ切腹しかないか、迷っていたら、義兄が背中を押してくれた。腹切らんですんだ。
◆この20年で高野はいっぱい本を書いたが、こちらは辛酸苦渋、抱腹絶倒の「忘れられた日本人」や「沈黙の地球人」への弟子入り暮らしだった。今回は、ユーフラテス川上流の田園地帯の小川のような源流、その支流の聖なる清流、ダムに沈もうとしているチグリス川の源流、約400kmを下った。川を下るシンプルな空間移動に、地球史、人類史の時間旅行がディープに織り重なるパラレルジャーニーでした。近く、高野と地平線で報告できると思います。詳しくはその時に。
◆さて来月は地平線会議40周年祭をやる。40年前と言えば四国西南端の秘境から農大に入学し探検部に入った年だ。牛が田畑を耕し、山の雑草を堆肥にし、漁師の嫁はんが天秤にサバを担いで谷道を登り同じ重さの野菜や米を担いで帰る、江戸時代的風景の中で、山川海の狩猟採集を年かさから伝授される縄文時代的子供時代を過ごした身には、高度成長期の東京は何もかも刺激的だった。
◆1958年、京大に日本最初の大学探検部ができ、この1978年は全国探検部20周年誌が編纂中だった。年末には全国学生探検会議なるものが開かれ、それを取材した江本さんが、宮本常一さん率いる日本観光文化研究所(観文研)に集う探検部、山岳部OB達と翌年「地平線会議」を立ち上げた。同年、バイクでアフリカを走ってきた先輩に連れられて、観文研で開かれた賀曽利隆さんの「極限の旅」報告会を聞きに行き、宮本常一さんや息子の千晴さんにも、ちらっと会った。
◆ど田舎者には刺激的すぎたが、世界中の海に出て行くマグロ船の船乗りが周りにたくさんいる環境で育ったので、秘境の話は親近感があった。農大探検部も1981年20周年で、南米のオリノコ、アマゾン、ラプラタ川をカヌーで縦断する計画をこの年にたてた。何もわかってないで参加を申し出た。先輩達のたてた計画をゴールにするには悔しいので、世界一周の川旅計画も地図に書いた。
◆旅の途上の2000年、四万十のある村での成人式に「青い地球の川を旅して木を植えて」と題して講演した。その時のサブタイトル「木を植え、林を育て、森を愛で、川に託し、海に恋し、星を想う」日々は「永遠の未完成」で今も続いている。それもこれも1978年からの、たくさんの出会いのおかげと感謝している。先輩達の教えをバカの一つ覚えに実行した。次は子供達に「バカ」と言われるか? ひとまず来週から奥多摩の森の仕事、時々川旅、たまに海遊びの日々にもどる。(東京農業大学探検部OB 山田高司)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。そして、そのほかに、4月から呼びかけしている「1万円カンパ」に多くの方々から協力をいただいています。地平線への応援として深く感謝いたします。「1万円カンパ」にご協力くださった方々については、「40年祭」をやる10月の通信でまとめてこの通信で公表させていただきます(先月の報告会でカンパくださった方も)。通信費を払ったのに、記録されていない場合はご面倒でも江本宛お知らせください。振り込みの際、近況、通信の感想などひとこと添えてくださると嬉しいです。江本の住所、メールアドレスは最終ページに。なお、通信費は郵便振替ですが、1万円カンパは銀行振り込みですのでお間違いなきよう。口座は、みずほ銀行四谷支店 普通2181225 地平線会議代表世話人 江本嘉伸です。
湯浅ふみ子(4,000円)/田中律子/塚下健太郎(4,000円 通信費2年分を送らせていただきました。今は札幌です。先日、カフェで山田まり子さんと会って話しをしました。元気なことを伝えてくださいとのことでした。これからもよろしくお願い致します)/永井マス子/鹿内善三(いつも楽しく読ませてもらっています。元気をいただいています。これからもよろしく!!)/北村操(5,000円 2年分+カンパ)/兵頭渉(5,000円 3,000円はカンパ)/黒澤聡子(4,000円)/光菅修/覚正伴徳/川村志の武
■月末に羽田空港から出国する用事があったため、久しぶりに地平線報告会に出席することができた。普段は大学のある札幌に暮らしているので、毎月届く地平線通信で報告を楽しんでいるが、やはり直接報告者の声や写真に対面できる生の報告会に参加できるよろこびは大きい。今回の報告者はカナダのマッケンジー川を50日間かけて単独で下降された獨協大学探検部OBの河村安彦さん。探検部の自分にとって大先輩であるだけでなく地平線会議ができる以前に開かれた「全国学生探検会議」の報告者でもあるというから、その時代の探検部の雰囲気を感じることのできる「先輩」に会える貴重な機会でもあった。
◆河村さんは探検部の現役時代にも、今回の報告と同じコースを航行している。がむしゃらにゴールを目指して漕ぎまくった20代の頃とは違い、きょろきょろと周りを眺め、川を味わいながら下るのが今回の目的であったようだ。青春時代に情熱をぶつけた舞台にもう一度浮かび、ゆったりと下るとき、どのようなことを感じたのだろうか。若いころに単独で下降した行動の記憶はもちろん、そこから歩んだ人生を懐かしみつつ、40年という時の流れの中を漂うような、そんな不思議な気分のする旅になりそうだ。
◆地平線会議では地球のあちらこちらで行動する「スゴイ大人」たちが毎月報告されているので、毎回あまり年齢のことは意識しないが、63歳という年齢で40年前と同じ行為をするというのは、それだけでも凄いことなのだろう。報告中に紹介された河村さんの「自撮り写真」は日を追うごとに痩せていく様子が印象的だった(実際に、体重は50日間で73kgから58kgまで落ちたそうだ)が、最後までその目はイキイキとしており、川を下るよろこびに満ちあふれていたように感じた。
◆この40年間で大きく変わったこととして、河村さんは、川を下っていて人と会わなくなったことを強調されていた。初めてマッケンジーを下った当時川沿いに道はなく、川は地域住民の交通路としての役目を担っていた。「道」として機能していたころの川のすぐ近くには、たくさんの集落があり、当時河村さんはたくさんの人に出会い交流したのだという。しかし現在では大きな道が河川のすぐ脇を貫通し、それに伴い川沿いの集落は消えている。
◆かつてエスキモーたちが物資の運搬に使用した手作りの船も、朽ちてゆく様子が写真に収められ、川が道としての役目を終えたことを示していた。航行中に視界に入った、支流にかかる堅牢な橋は、カナダの大河にも着実に「時代」による変化が起きていることをはっきりと河村さんに突き付けたようだった。それでも、時の変化は悪いことばかりではない。かつて出会った地域の子供が、いまでは立派な大人になり、喜ばしい再会も果たした。
◆時の変化に伴う環境の改変は動物にも影響を及ぼしているのであろうが、次々と登場するたくさんの動物の写真や映像は、今なお豊かなカナダの大河を思わせるには十分だった。なかでも溺れるシカや目の前を泳ぐビーバー、間近に接近したクマの動画は迫力があった。
◆思い入れのある場所で、40年ぶりに同じ人間が同じ行為をするということはとても贅沢なことのように思う。我々が川を下ったり山に登ったりできるのは、それを行う「フィールド」がそこにあるからこそである。追い求める対象でもあるフィールドは、思いを焦がす恋人であり、困難を突き付ける強敵でもあり、行為が成功した際には生涯忘れることのない戦友のようにも姿を変えるのだと思う。青春の舞台にもう一度出かけ、そこに身をおくことは、かつてともに健闘した仲間と数十年ぶりに会い「お前も変わったな(変わらないな)」と酒を酌み交わすような悦びがあるのではないか、と想像せずにはいられなかった。
◆同じフィールドでの旅における主人公は、ほかでもなく、過去にそこを旅した自分自身である。しかしながら、同じように時を過ごしたフィールドと自分は、40年前のそれらとは違ってもいるはずだ。長い時の経過の中でお互いの変わったところと、変わらないところを、フィールドと自己の交わりを通じて確かめあうことができるのは、その当人以外にいない。単独という形態で実行した河村さんの川旅では、フィールドとの交感はとりわけ充実したものになったのではないだろうか。
◆私事で大変恐縮だが、昨年探検部の仲間とともに北海道の天塩岳が東西に分かつ手塩川と渚滑川をつないで河口から河口へ山頂を経由して遡行、下降する旅をした。奇しくも当時23歳の僕は、マッケンジー川を単独ではじめて下った河村さんと同い年だった。スケールや単独/パーティーなどといった形態の違いから自分の実力不足を恥じずにはいられないものの、私にとっては一本の川を味わい尽くす印象深い旅となり、今回の報告の現場を想像するには良い経験であった。
◆すでに開発の手が入りきり、手垢も付きまくっている手塩川を40年後にまた下りたいとは思えなかったが、それでも40年後に同じことができるだろうかと報告を聞きながら自問した。報告会の最後に江本さんがおっしゃっていた「みんな、40年後自分が何をしているのか考えてみてほしい」というコメントが、楽しそうに報告をしていた河村さんの表情とともに心に刺さっている。
◆24歳の自分は、現役だったころの河村さんに負けない行為をしているだろうか? もちろん、勝ち負けの世界ではないことは十分承知しているが、探検部の後輩としてどうしても意識せずにはいられない。40年後、自分の人生を振りかえって見たときに、自分のアイデンティティを感じ、再現、再訪したくなるような活動や場所が今の自分にあるだろうか。40年後に何かを「為そう」とする場合、その指針となる経験が必要なはずだ。そのために今、積み上げておかなくてはいけないことがある。
◆現役探検部員としての年目を重ね、自分の探検に対する情熱や活動へのエネルギーが一時より大人しくなってきたのを感じている最中での報告会だった。優しい表情で楽しそうに川の思い出を語る河村さんにその気はなかったに違いないが、探検部の大先輩に静かに気合と喝を入れてもらったような気がした。(五十嵐宥樹 北大探検部)
016年1月、「焚き火サバイバル」のテーマで話してもらった報告者、石井洋子さん(通称ひーさん)から長い近況メールをいただいた。気象庁職員だった石井さんは第49次南極越冬隊に気象観測員として参加した後、東日本大震災の後仕事を辞め、南三陸に住み着いている女性。ロケットストーブで焼いてくれたさつま芋の美味しさは忘れられない。(E)
■7月、たぶん江本さんが島根に向かっておられた頃、わたしは逆方向に東京から南三陸へ帰りました。南三陸を離れるのは珍しいことなのですが、ひょんなことから、岐阜、千葉、東京で南極や南三陸のことをお話しさせてもらう機会をいただいたからでした。往路、新幹線の車窓から見た長良川は、茶色い水がボリュームを持って流れていました。岐阜高山方面であった豪雨の影響でしょう。
◆そんな講演行脚の最中も、気象庁はつぎに来る豪雨に対する警戒を呼びかけていました。それは、とても珍しいことでした。わたしが在籍していた時よりも予報技術や伝える手法は進んでいるはず、とはいえ、確かな確信がなければできないはずです。後から聞いたところによると、あらゆる予報資料が大雨を予想していたということです。
◆講演は雨の予報を常に確認しながら、場合によっては早めに切り上げることもあるかと密かに考えてもいましたが、ぶじ予定通りに南三陸に帰り着きました。しかし、西日本を中心に発達した前線が停滞し続け、とんでもない量の雨を降らせ、そこらじゅうで土砂災害や洪水が発生し、その中には故郷倉敷も含まれていました。
◆幸い実家は無事でしたが、洪水のあった真備町には大好きなCoffee House「ごじとま」と、マスターを通じて知り合った人たちがいました。「ごじとま」は、トラックハウスを作るために倉敷〜出雲を行き来していた頃に出会い、何度も通ってはJazzの流れる店内でたくさんのお話をし、一緒にロケットストーブをつくったりしました。
◆真備町が被災と聞いて、一度は削除したSNSのアカウントを再び設定して情報を探したら、濁水の上に突き出したごじとまの三角屋根が見つかりました。あの素敵なカフェ(兼住居)が水没したと思うと力が抜けるようでしたが、「マスターと奥さんは無事」の報を見つけ、最悪の事態は免れたとほっとしました。倉敷に帰ろうか、帰ってどうなるだろう? 何が出来るだろう? とも考えましたが、何も出来なくても、とにかく帰ろうと思いました。
◆ちょうどそのとき、手元には講演ででいただいた謝金がありました。月末に税金など払ったら千円残るかどうかの暮らしを続けていましたので、これは奇跡、というか、運命が「帰れ!」と言っているように思えたのです。トラックハウスを下ろして、ただのトラックとなった車に、南三陸町の人たちから託された物資を積んで倉敷へ。気持ちが張り詰めていたのか、計3時間ほどの仮眠しかとらず、24時間ほどでたどり着いた真備町は、茶色い土埃の中にありました。
◆また、そこらじゅうが“災害ゴミ”の山だらけです(わたしは“被災物”という呼び方のほうが好ましいと思います)。真っ先に向かった「ごじとま」には、マスターと奥さんが、多少疲れた様子はありましたが、無事な体で片づけをされていました。なにはともあれ無事でよかった。と、抱き合い、お店を見せてもらうと、洪水による浸水は2階の中ほどまで達し、あの真空管アンプもスピーカーもピアノもJazzのレコードも本も雑誌も漫画も、全部なくなっていました。洪水の後、常連さんが集まって、水に浸かってしまったそれらや、川水が運んできた泥などを外に出して処分したそうです。
◆「未練はないんよ」とさっぱりしたマスターですが、はじめは何をどうしたらいいのか茫然自失の状態だったそうです。そんな感じで、わたしが到着した時には大物が片付いた後で、町の中も悪臭が収まってきたところでした(といっても、まだマスクなしにはつらい感じでした)。翌日からは、まだ建物の中に残っている生活用品などの搬出や、使いたいものの洗浄などをし、建物が使えるとわかってからは、天井、壁、床板をはがし、床下の泥出し、などの作業を手伝いました。
◆南三陸でいろいろなお手伝い仕事をする中で、大工さんや電気屋さんに教わったこと、自宅の元牛小屋を整備しながら身につけたバール使いが役に立ちましたし、他のボランティアさんからもいろいろ教わりました。そして、よりによって記録的な猛暑。数十分作業しては水をがぶ飲み、熱中症防止のタブレットや梅干しなどを口に入れながら、体力と相談しながらの作業でした。
◆幸い、日中は暑いものの、夜は近くの山の中にいい駐車場を見つけてハンモックで寝れば肌寒いほど。いちばん辛かったのはといえば、ふだんあまり食べることのないコンビニ食や外食で口内が荒れたことでしょうか。しかしそれも、暑さに慣れると同じようにだんだんと慣れていきました。そして、茶色にくすんでいた街並みも、少しずつですが透明度を取り戻しつつありました。
◆被災者の状況も、早い人はみなし仮設(住宅)が割り当てられ、マスター一家も今時な感じのアパートに引っ越しました。作業が進む中で、マスターの口からカフェの再建を目指すという嬉しい言葉がこぼれるようにもなりました。とりあえず、店内はだいたい骨組みが現れた状態になり、あとはしばらく乾燥させるところでひと段落。洪水の後始末とはこのようなものかと、勉強もさせてもらいました。
◆「ごじとま」さんは、順調にことが運んだほうですが、周りを見れば、まだまだ家主さんがひとりでこつこつと作業しているお宅もあったり、半壊の家に暮らしている人、それから家を諦めた人も少なくありませんでした。津波のように、いっそのこと全部持っていってくれればよかったという人も少なからず。ボランティアを頼んでも来てくれないという声もあったり、来ても壁を壊すなどの専門的な作業は禁止されててやってもらえないとか、支援の格差を感じました。
◆今回の災害は、前線が広い範囲で発達し、中国四国から中部辺りまで被害が及ぶという、見たこともないものでした。ニュースで取り上げられたところ以外にも被災した町が点在し、土砂崩れによる通行止めはそこら中。必要な支援の量も膨大な中で支援が分散したことや、猛暑も相まってなかなか作業が進まないもどかしさがあったと思います。そんな中で、被災した時にいちばん重要なものは何かというと、結局は人だった、と改めて思いました。
◆被災した人たちもそれを言っていましたし、東日本大震災のときにも同じことを感じた人がたくさんありました。近所付き合いや、お店のお客さん、業者さん、家を建てた大工さんも一銭ももらわず内装の解体などする姿がありました。日本はとくに災害の多い国土です。これを書いている間にも、台風被害や北海道の地震など、次から次へと災害が発生して、次は我が身と考えざるをえません。
◆真備町の人たちは、目の前に水が迫るまで自分が被災者になるとは考えなかったそうです。以前から河道内樹木の危険性を指摘していながら、気象庁が警戒を呼びかけていながら、避難指示が出ていながら、です。真備に限らず、ひととはそういうものだとして、どうすればよいのか考えさせられます。もっと気軽にさっさと避難すればいいのに、と思います。避難所でなくても、危険なところにいなければいい。
◆わたしは、さっさと図書館などに逃げて危険の去るのをやり過ごすようにしています。結局、倉敷には約3週間滞在して3軒お手伝いし、南三陸町の家に帰ったのは8月8日の夜でした。3週間も家を空けていたので、畑は野菜と雑草で盛り上がっていました。トマトにかぼちゃやキュウリが絡みついてなすすべなし。まあ、それ以外はそんなに困ったこともないのでよしです。そんなに手入れを行き届かせていた畑でもないですしね。
■倉敷でお手伝いをしている期間中、7月の報告会がありました。お話しするのは、第49次南極観測隊でご一緒した阿部幹雄さん。通信が届いた時からお会いして話を聞きたいと思っていたのですが、倉敷で災害の後始末をしながら、なぜだか急に行こうと決心しました。ちょうど夜行バスには空席が残り一つ。朝、新宿のバスターミナルに到着し、朝食をとったら、勘を頼りに新宿御苑沿いをぶらぶらと歩いて江本さんのお宅へ。
◆突然の訪問だったにもかかわらず、心づくしのおいしい手作りカレーをいただきました。荒れた口内と酷使し続けた体に沁みわたり、ほんとうに助けられた気持ちでした。ありがとうございました。新宿スポーツセンターは2回目ですが、前回は報告者として緊張していたのでしょう、まったく印象すら残っていなくて、たどり着いたものの本当にここだったっけ? と不安になるほど。会場で南三陸で何度もご一緒している伊藤里香さんや阿部さん、樋口和生さんなどの顔が見えてほっとしました。
◆阿部さんのお話は、密度が濃厚で2回に分けて聞きたいくらいでした。当事者として、南極観測隊の歴史の中で阿部さんは革命を起こしたと思っています。あこがれの隊員になってみて、その博物館級に時代遅れの装備に驚いたのですが、そこにメスを入れたのが阿部さんでした。阿部さんが“南極料理人”と開発したフリーズドライ食品は、少量の水分で香りまでも再現し、食材のこだわりようもうらやましいくらいです。
◆ソーラー発電のほかにも、黒ビニール袋融雪装置、チタン製日本酒樽など、報告され尽くせないでしょう。ミニャ・コンガでの壮絶な体験のあと、見つかった遺体を下山させ、遺された家族に寄り添い続けたからこそ、この人にと任されたという、セール・ロンダーネ地学調査隊のフィールドアシスタント。それも、3年連続。本人の口からは出ないので、代わりに言います。「阿部さんて、ほんとにすごいんだぞー!」
■報告会でお話しさせていただいてから2年半以上たちました。ずっと南三陸にいます。あのあと、タバコ畑だった土地にトラックハウスを下ろし、元牛小屋を整備しながら、小さな畑など耕しながら暮らしています。思い描いた通りにいかないというか、あいかわらず行き当たりばったりなのですが、なんとか生きています。生きるというのは、それだけで冒険だと思います。
◆例えば都市で精神や生きる力を削りながら都市機能を利用して生きるのも、ロケットストーブを焚きながら寒さに震えながら美しい星空を眺めるのも、どんな苦悩に耐えられるかの個人差だけで、どんな人も人生という冒険を歩んでいるのだと思います。とある方から、報告者の中で、わたしの話は現実的に参考にできると、メールをいただきました。メールありがとうございました。いろいろ考えてしまってお返事も出せずにいてすみません。
◆江本さんからも、ときどき近況報告を寄せてと言ってもらっていましたが、とくに華々しい話題もなくて、つい今まで書かずにいました。この前、江本さんに「ロケットストーブで焼いた焼き芋の美味しさが忘れられない」と言ってもらい、とても嬉しかったです。ときどき焼いているパン(もちろんロケットストーブで)を食べたいと、町内の人に頼まれることもあります。忙しい時のお手伝いに使ってもらっている民宿の若旦那が、「とっても助かってる」って言ってたよ、と昨日友達が教えてくれました。
◆今日は、海の人から牡蠣とホヤをいただきました。「豊かな風土の中で人や自然と繋がって生きたい」が、少しずつ形にはなっているのかな、と感じた今日この頃です。もうすぐ芋掘りの季節です。ロケットストーブで焼いた焼き芋、食べに来てください。(石井久子 南三陸住民)
■今シーズンの夏山ではめずらしくドラマがあった。ドラマと表現するほど仰々しい話ではないのかもしれない。でも夏山の大半は仕事がらみで、あらかじめ答えのわかっていることのくり返し、というのがここ数年である。ひとまずざっとふり返ってみたい。お盆休みも過ぎて喧騒につつまれた夏山もいくぶん落ち着いてきた8月18日の早朝、北アルプスの立山の端にある龍王岳での出来事である。
◆龍王岳は、スケールはちいさい(あくまでも剱岳や穂高岳にくらべて)ながら岩登りの対象であることはずいぶん前から知っていた。その岩場を意識するようになったのは4年前に遡る。龍王岳の南壁は高差約200メートル。壁を登りきったところが山頂というなかなかのロケーション。傾斜の強い難しいラインもあれば傾斜の緩いやさしいラインもある。あまり登られていないということが、なぜか直感的にピンときた。機会あったら登ってみたい。
◆星空の雷鳥沢キャンプ場を後に歩きはじめ、浄土山を経由して龍王岳の南壁の基部に立つころには周囲の峰々にも日がさしはじめていた。ルートはとくに決めずにおもしろそうなところをてきとうに登る。ロープも岩登り用具もヘルメットもなし。もちろんひとり。小ザックには500ミリリットルのペットボトル、チョコバー2本、雨具のみ。気分は岩登りというよりも朝のお散歩であった。
◆登りはじめる。下から見あげた時点で浮き石が多そうだとかんじたけれど、実際登ってみると思っていた以上に岩は浮いていて少しばかり嫌なかんじがした。アクシデントが起きたのは壁を半分くらい登ったところである。スタンスにしていた足元の30キロ大の岩の塊が突然崩壊した。一瞬身体のバランスを崩した。人はこうやって死んでいくのかな。100メートル以上の高さがあるから助からないかな。
◆たぶん0.1秒くらいのできごとだったけれど、なぜか長くかんじた。雪崩に流される瞬間にどこか似ていた。瞬間的に右手でぶら下がった。両足は宙ぶらりん。バランスは崩したけれど、かろうじて身体は支えられた。それからなんとか登った。山頂に立ったのは朝の7時前だった。岩登りに費やした時間は30分弱だった。ロープは使わなかったといってもそう難しいルートではない。
◆アメリカには高差数百メートル、ほぼ垂直の大岩壁をきわめて短時間でフリーソロ(ロープや岩登り用具を使わず手足のみで登る)するクライマーがいる。そういう人から見れば今回のスタンスが崩れたことなど、朝のお散歩で躓いたくらいだろう。それでも自分にとってはひさびさに刺激と怖さにつつまれた朝の時間だった。
◆ぶら下がった瞬間、それなりの衝撃はあったようだ。右手の肘の傷口がえぐれていたことも後になってから気づいた。気づいたことといえばもう一つ。やはり人は生きているというよりも自分ではコントロールできないどこか運命のようなものに生かされているのではないだろうか。根拠はないけれど、このとき感じた。はたから見たらちっぽけなできごとかもしれないけれど、今シーズンの夏山は自分のなかではそれなりに深いドラマがあった。(田中幹也)
みなさーん、応募してください! このままだと中止になっちゃいますよー。先月の地平線通信で満を持して告知したにも関わらず、「応募多数の場合は抽選」どころか、きょう9月9日現在でエントリーたったの2件、私を合わせても3件という低調の「第1回3分間映画フェスティバル」、合わせてたった9分ではあまりにも寂しいので、まだまだみなさんのエントリーをお待ちしています。
エントリー
◆9月27日(木)までに氏名・タイトル・簡単な内容紹介を書いて
へお送りください(作品はまだ送らないでください)。原則として1名1作品かぎりとします。応募多数の場合は抽選などで選ばせていただくことがあります。エントリー通過の方に作品送付方法など案内します。
◆10月13日(土)17時から
/榎町地域センター(新宿区早稲田町85):いつもこの通信の印刷・発送に集まっている場所です
/参加費:500円
(落合大祐)
■地平線通信472号は8月15日印刷、封入作業をし、翌16日、郵便局に渡しました。今回は、最後のフロント原稿を書き上げ、レイアウトの森井祐介さんに送ろうとしたところで押すキーを間違えたか、書いたばかりの原稿の半分が完全に消えてしまうという悲劇が。ショックでしたが、仕方なし、もう一度書き直しました。そんなわけで皆さんをだいぶ待たせてしまいましたが、なんとかなりました。馳せ参じてくれたのは以下の皆さんです。
森井祐介 伊藤里香 武田力 中嶋敦子 光菅修 落合大祐 前田庄司 塚越暖 鹿野恭敬 杉山貴章 埜口保男 江本嘉伸
◎塚越さん、鹿野さんは早大探検部員。皆さん、ありがとうございました。
残暑、お見舞い申し上げます。それにしても、東京の夏は暑いですね。東京に限ったことではありません。日本のどこでも、とくに西日本は台風、豪雨や地震などの自然災害に見舞われました。
ヨーロッパでも異常に暑かったです。ニューヨークそしてサンフランシスコも、異常気象続きです。異常というより、“天怒”か──。
私が、昨年滞在したオレゴンの森林地帯では、地熱が52度になり自然発火の山火事で、周辺の町も焼失しました。
そのスピリチュアルな町は、先住民の聖地で、自然へ憧憬が深く、ヒッピー文化の発祥地のひとつでもあります。いまも、インディアン・ケーナを演奏するグループがあり、ケーナやサンポーニャでセッションをしたことが懐かしく思われます。
ナチュラルに生きる地元民はオーガニックの野菜と“グルテンフリー”です。小麦を常食にすると、アレルギーや依存症を引き起こしやすい体質になるそうです。宗教上の理由ではありませんが、牛も食べません。代わりに鶏肉や豚、羊です。牛を食べると、人間が吐き出すCO2が鶏肉の10倍だと、気候変動に影響するという理由で避けています。
私も、郷に入れば郷に従えと、だまされたと思って、グルテンフリーを始めたのですが、快調で、数か月で余分な脂肪がなくなり、ウエストが3センチも縮まり、腹の筋肉の割れを30代後初めて見ました。
今年2月、地平線報告会の時が極限状態でした。その1週間ほど前から、日本食への切り替えの都合でプチ断食をして帰国に備え、げっそりしていました。2次会の“北京”では、ギョーザや焼きそばに手が伸びそうで、でもノドを通りませんでした。
日本に帰ると、粉文化ですから、グルテンフリーはいい加減になり、リバウンドしてしまい、筋トレで身体を絞り、体脂肪率10%、細マッチョを維持しております
地平線会議が40周年を迎えました。私は、最初の5年間だけ、お手伝いをしただけで、江本さん、長野さん、丸山さんには頭が下がりっぱなしです。それにしても40年もよく続いたものだと感謝するばかりです。
40年ほど前、私はモノ書きとして一生食っていこうと決めました。地平線会議とは、ほぼ同時代を生き抜き、自分史のように感慨深いものがあります。
自分の生きた時代だけは書き残そうと、現場にこだわり、「過去を予測する」をテーマにルーツ(根っこ)を求めて這いずりまわっています。
近著『文革再来』を書き始めて、20世紀という時代の生きざまに、今自分が立ち向かっていると思うと、モノ書きとしての集大成のように思えて、一気に書き上げていました。
『文革再来』を書き終えて、社会主義って何なのか……。ユートピア・共産主義へ至る金の橋といわれた社会主義は、ソ連の崩壊とともに、道は閉ざされました。いま、理想と化した共産主義に誰も振り向きません。しかし、資本主義も、これまで報告会で話してきたように、賞味期限です。
時代を引っ張る資本主義先進国は、軒並み低成長時代に踏み込み、経済成長率が1%か2%です。しかし、資本収益率(投資率)は5%以上──。国民が労働で稼ぎ出す生産より、投資で得る利益の方がはるかに上回るという現象は、ケインズも読み切れませでした。これが、21世紀の“見えざる手”でしょうか──。
持てる者はより豊かに、持たざる者はその敗北者に……。いま日本の持てる者たちのほとんどは相続です。世襲資本主義──蓄積された資本は相続され、再分配はされません。生まれながらの格差は、21世紀ますます広がるばかりです。
そこで、資本主義、社会主義そして共産主義とは何なのか……。
資本主義と社会主義の分かれ道はどこだったのか。その分岐点を探して明治維新から150年の日本、そして資本主義の勝組アメリカから出発して、社会主義の旧ソ連へと歩いております。9月には、バルト三国そして北欧へと、私の「歴史をやれ、旅をしろ」は、続きます。
次回作、「欲と道づれの資本主義、禁欲の共産主義、国まかせの社会主義」へ──。
マルクスは言い残しています。「歴史は繰り返す。一度目は悲劇に、二度目は茶番だ」と──。
まだまだ残暑厳しいです。どうかお身体をご自愛ください。恵存 森田靖郎
■ご無沙汰しております、稲葉です。いきなりですが、10月1日から11月15日まで、北西ネパール・フムラ地方に行くことを決めました。大阪山の会の故大西保氏が踏破した資料を参考に自ら歩みたい。一番の目的は、名もなき湖探し、池かもしれないですが。大西さんが夢に出てきて久々に「未知踏進」の場所が、Dolpo以外で見えたのです。
◆夢に出てきた大西氏は、出会った頃の青い目で優しい笑顔、地図を見て話をしてる、でも声は聞こえなかった。それは、大西氏が作成した北西ネパール地図で、西のはしっこを指さしていた。数日後、凄い気になって5万分の1の地図を広げた。そこには、懐かしい大西氏の手書きのメモも残っている。なんで、私の地図にこれだけ手書きがあるのかな?と思ってたら、2010年、女子だけでヒマラヤ登山を目指そう、出来たら未踏峰を、という計画をしていた。その時、私が提案したのが今回行くフムラで、その時は結局流れてしまったけれど、いつか必ず行こうと思っていた。
◆そんな事を思い出しながら地図を眺めていたら、ビビビッ!!! これだー、この湖だー! 私の魂は反応した、意味もなく、名もなき湖、池?に、ここだ、ここに行きたいと思った。そんな理由で、私の旅は、いつも自分の直感頼りにつくりあげている。そうは言っても、迷った。何故か?!というと、今年は資金が足りてない。なのに、行くのかー? 何度も思った。
◆何故こんなに無理しても行くのかというと、この2年、講演会の嵐だった。慧海ルートの講演で2か月に1度ってぐらいの勢いで呼ばれていた。一番驚いたのは、江本さんに声をかけて頂いて地平線報告会で発表させて頂いたこと。今までの講演会で頂いたお金は、全部タンス貯金でためていた。銀行に入れずに、タンスですよ、笑。何故かというと、生活費に消えさせたくなかったから。店や家の家賃に使いたくなかったから。ネパール遠征での活動で頂いたお金は、ネパールでの活動費用にしたい。このままだと家賃に消えそうで、それがイヤで、だから「未知踏進」の旅の続きへ出ることに決めた。
◆Dolpoより更に西へ、北西ネパールの端っこ、フムラへ。まずは国境ラインまで北上しカイラスとマナサロワール湖を遠望、そして更に西へと無人地帯を歩き、名もなき湖探しをする。そこに何があるのかわからない。フムラ内部を歩き南下し村々を調査しながら西部の国境へと降りてきたい。そして極西部の山々と出会えたら、これまた最高な旅となるだろう。では行ってきます!(稲葉香)
日時:2018年10月14日(日)10:30〜16:00
場所:東京ウィメンズプラザ ホール(渋谷区神宮前5-53-67)
渋谷駅宮益坂口から徒歩12分 地下鉄表参道駅B2出口から徒歩7分
参加費:500円
スリーマイル島原発事故、NECのパソコン「PC-8001」、東名日本坂トンネル火災、そして金八先生。そんな1979年から始まった地平線会議の報告会もいつのまにか「不惑」の40歳になろうとしています。日本人の冒険、探検の軌跡は、いまどこをたどっているのか、そして何を目指して続いていくのか。ただ40年を振り返るのではなく、私たちの現在地を記すための大集会を10月14日(日)に開催します。場所は1996年7月に地平線報告会200回記念大集会を開いたのと同じ東京ウィメンズプラザのホールです。あれから22年、私たちは思い描いていた未来に少しは近づけているでしょうか。
スピーカーなど詳しいプログラムは10月上旬発送の次号で紹介しますが、みんながそれぞれに水先案内人となって、様々な行動を実践するためのヒントが見つかるような催しにしたいと思っています。
何かを得たい人たちも、誰かと出会いたい人たちも、単に40歳になった地平線会議をお祝いしたい人も、みんなが集まって楽しくなるようなお祭りにしようじゃないですか。みなさん、10月14日、ウィメンズプラザでお会いしましょう。
「最新情報は fb.me/chiheisen40 で」
■7月11日、灼熱の本州を離れて北海道に移動した。十数年前から、夏の3ヶ月は、私が「居候先」と呼ぶカミさんの住居で過ごしている。この6月に他界した長野淳子さんも、毎年8月の2、3週間を、道央・蘭越町に定住した妹の、下島綾子さんのところで送っていた。私とカミさんは、その下島さん一家の農園で淳子さんに会う機会が多くなり、「小金井の」ではなく、「硫酸山の」(←下島農園の通称)淳子さん、の印象が年々強くなっていた。
◆そこでの彼女は、菜園で野菜を摘む農業女子であり、背後のトドマツ林の枝打ちやツル切りに腕を振るう林業ガールでもあった。元々、長野亮之介・淳子夫妻は、森林ボランティアグループ「五反舎」の中心メンバーだ。東京の行き帰りの折り、彼女は我々の住まいにも泊まってくれた。一昨年は、カミさんと車で近所の鄙びた温泉にゆき、帰路、遠回りして真っ暗な田舎道を走ったという。「こんな夜中にドライブなんて、学生のとき以来♪」と、淳子さんは楽しそうだったらしい。が、「来年もぜひ!」は、もはや叶わぬ約束となった。
◆8月29日、私は一時帰京した。30日〜9月3日の会期で開かれる、「ズットスキダ展」の長野画伯専属チームの一員として、作品搬入や会場の仕込みを手伝うためだ。会期中頃の9月1日には「偲ぶ会」が開かれ、北海道からカミさんも駆けつけた。会場の「ひねもすのたり」には、淳子さんの遺影や、彼女が学んでいたシナリオの原稿、快復を願う学校関係者や生徒たちの寄せ書きなどが新たに飾られた。その参加予想人数は約50名。
◆全員入れるかしら。まさか床は抜けないよね。エアコンが効くだろうか。そんな我々の心配をよそに、土砂降りの中を、続々と人がやってくる。小さな会場は、たちまち通勤時間帯の山手線並みに混み合った。午後7時、丸山さんの司会進行により、ひねもすの主人・松原幸子さんの挨拶、そして五反舎舎弟(と仲間内では呼んでいる)本所雅佳江さんの乾杯の音頭で、「偲ぶ会」がスタートした。
◆パーティー半ばには、スライドを交えた画伯本人による作品紹介。宴たけなわの頃にも、指名を受けた友人知人によって、淳子さんの思い出が語られた。かつてのクラスメイトが明かすエピソードからは、学校での2人の人気ぶりが窺えた。この日のシェフ、幸子さん、大西夏奈子さん、神谷恵子さんたちが繰り出す旨いものの最後は、夏奈ちゃん手作りの桃ケーキ。天国の淳子さんの誕生日(還暦!)を祝って、全員で「ハッピーバースデー」を合唱した。長野画伯が感謝の言葉を述べて、「偲ぶ会」の宴はお開きとなる。
◆9月3日の個展最終日、カミさんが関西に里帰り。それに合わせるかのように、4日、台風21号が大阪湾を北上した。ツイッターに続々と上がる凄まじい爪痕の画像に、遠く離れた実家が気になった。5日、北海道に戻る途中のカミさんが、寄り道して台風一過の我が家を見にいった。そして、「一軒となりの屋根が飛び、近所の人たちが出て片付けた。でも、ウチには大きな被害は見当たらない」という吉報を送って寄越すと、台風を追うように、伊丹空港から北海道へ飛び立った。
◆夜遅く帰宅し、様子を確かめるべくベランダに出たら、何かがおかしい。よく見ると隣との仕切板が消えており、2軒先まで見通せたという。ババの関空は引かなかったけど、その間にずる賢い台風は先回りしていた。と、そんな感じだ。実は私も同じ5日に帰る予定だった。けれどどうしても顔を出したいイベントがあり、帰道を明日に延ばしていた。
◆翌朝は早めに起き、何気なくケータイに目をやった。珍しく、深夜のうちに3、4本もメールが溜まっている。なんだろう、と開いて瞬時に目が覚めた。「停電した」「小学校の校庭に避難しているが、誰もいない」「職場に避難する」……。只ならぬコメントが並んでいる。ラジオをつけると、震源は居候先から車で30分ほどの距離らしい。慌てて電話を入れ、とりあえず無事だけは確かめた。しかし、飛行機は全便が欠航し、取れたのは2日後の便だった。夕刻、「夜は早々に復電した友人宅で世話になる」の連絡がきて、まずはホッとする。
◆9月8日。成田へ向かう道で、私はスーパーマーケットに立ち寄った。そして、持参の小型秤で機内持ち込み制限ギリギリまで量って(LCCは100gオーバーでも預託扱いとなり、高額の料金を請求される)食料品を買い込んだ。北海道に到着し、あちこちの大木横倒しに目を見張りながら、居候先を目指す。ひっくり返ったままの部屋に上がって待っていると、ほどなくカミさんが帰ってきた。
◆私は恐怖に満ちた生々しい体験談が聞けるのでは、と身構えた。が、職場の停電で自宅待機になったのを幸い、「市民農園でジャガイモ、キドニー豆、ミニ大根、ハーブ類を収穫し、夕べは友人とリッチ野菜のディナーを作って食べた」んだとか。そして2人で、「畑って最強の食料庫!」などなど盛り上がっていたらしい。非日常を遊んでいる風で、少なからず拍子抜けしてしまった。
◆夜、窓から眺めると、いち早く電気が戻り、昨夜は煌々と明かりを灯していたというパチンコ屋が、闇に沈んでいる。「まだ停電中のところも多いのに」とツイッターで名指しされ、どうやら自粛したようだった。ま、終わりよければ全て善し。愉しいイベントや出会いがあり、天と地のヒステリーにも振り回されたが。私たち2人にとっても、この10日間は今回の個展のサブタイトル「夏の終わりに」そのものとなった。[「居候」の身の、久島 弘]
■山岳部に入って学ぶことの一つに「天気図」書き、がある。午前4時と夜10時、ラジオの音量を小さくして必死に数字を追う。「キスカでは北北西の風、晴れ、風力3…」「浦塩では南西の風、曇り、風力2…」
◆キスカがアリューシャン列島最大の島ということはわかるが、「裏塩」って、どこだ? 天気図にはちゃんと地名が(漢字で!)書き込まれているのに、はじめはわからなかった。しかし、痩せても枯れてもロシア語専攻である。実は「ウラジオストーク」であることをやがて理解した。「ウラジェチ(支配する)」という動詞の命令形に「ヴォストーク(東)」を並べたもの。「東方を支配せよ」という、帝政ロシアの露骨な侵略主義を堂々詠った都市名である。
◆その浦塩でロシア政府主催の「東方経済フォーラム」が開かれ、ロシアのプーチン大統領が中国の習近平、日本の安倍首相らと会談した。もれ聞こえて来る情報だとプーチンは北方領土返還などまったく考えていないらしい。日本の投資や支援を引き出すためには適当に付き合うが、それ以上はノー、だと。
◆この秋、近くの大学の社会人教室でまたまたロシア語上級が開講する。そこでプーチンと同じウラジーミルを名乗る私はせめて秋田犬係として「浦塩」に潜入できないか、と夢想する。(江本嘉伸)
オキのサキと飛べ!!
報告会の始まる前に同じ会場での『鳥の道を越えて』の上映会を開きます。これまで地平線会議と縁がなかった一般の方の参加も大歓迎です。午後4時40分から6時15分まで。会費1000円。 「鳥の映画にするつもりじゃなかったんです」というのは映像作家の今井友樹さん(38)。郷里、岐阜県の東濃地方で、かつて空が真っ黒になるほどの大群が渡る“鳥の道”があり、猟師がいたと語る祖父の言葉に触発され、日本の野鳥猟文化を追った記録映画「鳥の道を越えて('14)」を制作しました。 「一番の興味は、鳥を巡る人の営みです」という今井さんは民族映像文化研究所(民映研)で所長の故・姫田忠義氏に師事。近所に住み、内弟子のように毎日送り迎えをした8年間に、民俗学者でもあった姫田流の人間観察術を学びました。 「大工の家系に生まれ育ったので、密接な師弟関係を求めていたのかも」と今井さん。“オキのサキ”という謎のような言葉は、師匠が最後に残した、今井さんだけにわかるメッセージでした。 今井さんは継続的に鳥猟を取材し、今年は石川県の伝統的な鳥猟を追った「坂網猟」(42分)を発表しています。 今月は今井さんにいまも各地に残る驚くべき鳥猟を追うエピソードと、姫田氏との師弟関係を巡る人間模様を語って頂きます。 ※なお、いつもの報告会前の時間で、映画「鳥の道を越えて」の特別上映会(有料)を行います。是非併せて御覧ください! |
地平線通信 473号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2018年9月12日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
|
|
|
|