8月15日。終戦記念日に地平線通信を出すのは初めてだろう。天皇、皇后両陛下を迎えて武道館では全国戦没者追悼式が始まっている。お2人にとっては最後の重い、心をこめた儀式となった。「平成」を終えて新たな元号となる来年のこの日は、新しい天皇、皇后があの席に立たれるのだ。
◆大事な儀式ではあるが、メディアは実は、周防大島で行方不明だった2才の男の子が無事見つかったニュースに多くの時間を割いている。いくら夏とはいえ、あんなに幼い子が3日もひとりで生き抜いた、という事実、そして警察でも消防でもなく、大分から駆けつけた78才のシニアボランティアがその子を発見したことへの驚き。3.11の際も南三陸で活躍されたというから相当強い人間力のある人なのだろう。ともかくよかった。「消え去り」事件の多くは悲痛な結果に終わっているから。それにしても「よっちゃん、かあちゃんだよ!」と呼びかけ続けた母親の声はどうして聞こえなかぴたのだろうか。
◆終戦記念日の呼びかけで思い出した。昔話になるが、ジャングルの中で戦い続けていた元日本兵を捜索する“呼びかけ作戦”に関わったことがあるのだ。ああ、と思う人は多いだろう。日本の降伏を信じず、戦後29年もフィリピン・ルバング島に潜伏して戦い続け、1973年に冒険好きな青年、鈴木紀夫によって「発見」された小野田寛郎陸軍少尉。前年1972年10月「日本兵発見」の一報に厚生省(当時)の捜索隊と共に私は島に入った。もちろん取材だったのだが、1か月も滞在し騒ぎが沈静化する中、報道陣も日本語がわかるということで捜索を手伝うこととなったのだ。
◆ジャングルの中に入り「小野田さあーん、聞こえますかあ!」とメガホンで叫んだが、もちろん何の反応もなかった。日本に帰って後年、講談社の中でだったか偶然ご本人と遭遇し、立ち話をした。この時のことを伝えると「もちろん、知っていました。でも、謀略と思ってましたから全然出る気はなかった」とはっきりしていた。
◆小野田さんと関連して思いだすのは、兄弟との関係の難しさである。当時、長兄、弟、姉などがルバング島に飛び、本気で小野田さんの救出に心血を注いだ。私は彼らとともに「小野田さーん」とやったのである。しかし、日本の社会でそれなりの成功をおさめていた兄弟たちに対して、最後まで天皇の子として戦い続けた元陸軍少尉は、心のつながりの持てない他人であったようだ。1975年に小野田さんは次兄のいるブラジルに渡り、マット・グロッソ州で約1200haの牧場を開拓。10年がかりで軌道にのせ1800頭の肉牛を飼育した。
◆その後帰国、「凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めた」として「祖国のため健全な日本人を育成したい」と、1984年7月からサバイバル塾「小野田自然塾」を主宰した。2014年1月16日、肺炎のため東京都中央区の病院で死去した。92才だった。
◆そうそう。小野田さんを日本に連れ帰るきっかけをつくった冒険家、鈴木紀夫さんとは1975年カトマンドゥで会って話を聞いた。雪男探検をはじめた頃でその年以後、何度もイエティ探しにヒマラヤへ出かけたが、1986年ダウラギリで遭難、翌年遺体で発見された。まだ37才だった。小野田さん、鈴木さん、時代の片隅でお会いしたことが今では懐かしい。
◆記念日と言えば、この11日は、「山の日」だった。2002年の国際山岳年に「日本に山の日」と呼びかけた責任者だったこともあり、時に講演を頼まれたりするが、41度を超える熱暑が記録されたことしは終日テレビの「『山の日』記念山岳映画特集」に見入った。エドモンド・ヒラリー、ワルテル・ボナッティ、コンラッド・アンカーら私が直接インタビューした名クライマーたちがドキュメンタリー、フィクションの形で次々に登場して全く飽きない。中でも1996年5月10日,エベレストで起きた悲劇を映画化した「エベレスト 3D」は当時を思い出させる迫力だった。
◆ロブ・ホール率いるニュージーランドの「アドベンチャー・コンサルタンツ隊(ガイド3名・顧客9名。1人700万円。日本人の難波康子も参加した)」と、アメリカのスコット・フィッシャー率いる「マウンテン・マッドネス隊」が相次いで悪天候で動けなくなり、8人が亡くなった大遭難。当時、胸がしめつけられる思いで情報を待ち続けたことを昨日のように思い出す。田部井淳子さんに次いで日本女性2人目のエベレスト登頂をなしとげた難波さんはサウスコルまでたどり着き、力尽きた。詳しいことはジョン・クラカワーの“into thln air”(邦題『空へ』(文芸春秋刊)を。
◆終戦の日、私は4才10か月。その日のことを全く覚えていないのがなんとも口惜しい。戦中派でも戦後派でもない時間の中でずっと漂い続け、今も不思議な時間を生きている。(江本嘉伸)
■中国三大霊山峨眉山の頂から望む秀峰、横断山脈の最高峰ミニャ・コンガ(7556m)。ミニャ国の白い山、中国名貢嗄山。この山を目指した北海道山岳連盟隊の遭難(8名が犠牲)での生還者が今回の報告者、阿部幹雄さんである。最初に樋口和生さん(457回報告者)から阿部さんの紹介があった。樋口さんは北大山岳部出身の山岳ガイド、57次の南極観測隊の越冬隊長を務められた方である。地平線会議おなじみの「ランタンプラン」創設時に、現地で八面六臂の活躍をされた。阿部さんとは北大の先輩と後輩、自ら設立した雪崩事故防止研究会などで苦楽を共にしてきた盟友なのだそうだ。
■阿部さんのお話は自己紹介を兼ねて生い立ちから始まった。生まれは愛媛県松山市。昆虫少年のお兄さんに連れられて裏山を駆け巡っていたそうだ。時はマナスル登頂で沸く登山ブーム始まりの頃だ。加藤喜一郎氏の著書『山に憑かれて』が大切な一冊となったそうだ。山に目覚めたご当人は全く虫には興味が無く、ただ山へ行くことが嬉しかった(お兄さんは蝶に魅せられていたようだ)。裏山から遥か望む中国山地の雪をいただいた白き峰、海の向こうにほのかな憧れが芽生えたのもこの頃だ。
◆振り返れば四国の最高峰石槌山も見える。お兄さんが大学1年、阿部さんはまだ小学生の時初めて石槌山に登った。この山はその後阿部さんの母なるふるさとの山となる。中学時代にはすでに、「僕は将来必ず8000m峰に登る、南極・北極にも行くんだ」と決意していたのだそうだ。高校生になるとラグビー部の門をくぐり、3年間楕円のボールを追い求め憧れの花園出場も果たす。あら?と思ったが、山岳部は実力的に魅力がなかったので遠慮したらしい。その代わりにラグビーと週末登山を3年間並行して続けた。並みの体力ではないことがうかがえる。
◆高校は受験校(松山東高等学校・幾多の文人墨客を輩出)だが、一方で自由な雰囲気も併せ持っていた。四国の名湯、道後温泉は歩いて行ける距離。朝風呂が大好き、登校前にひとっ風呂浴びていたそうだ。「先生、道後温泉に行きましょう!」「そうしよう」という感じで授業が温泉行きになる事も。湯気の向こうにクラスメートや先生の顔が浮かんで見える。いいもんだなあ。
◆この頃しきりにカメラが欲しくなり、修学旅行の積立金36000円を購入資金にする。買ったのはペトリのカメラ。「積立金はあなたのものだから好きになさい」といったお母さまも立派、修学旅行を一人取りやめた息子も自主独立でかっこいい。やがて大学受験の時となり、晴れて北大合格。海の向こうどころか遥か北を目指す事となった。卒業を前に一人雪の石槌山へ向かった。積雪1m〜1m50cm、アイゼン・ピッケルなしのかなり無謀な登山であった。これからの人生夢を実現できるようにやっていけるのだろうか、未知なるものを求めて北へ飛び立つのだからしっかりしなくては……。忘れがたい故郷の山での一夜となった。
◆さて北大工学部入学後、阿部青年はさっそく山スキー部員となる。かの三浦雄一郎氏が先輩だ。将来8000m峰を登って、頂からスキーで滑降することが目標なのだからと、もっぱら誰も滑っていない斜面を求めて研鑽を積んだ。日高山脈をとりわけ好みの山域としていた。卒論の心配をしないといけない頃、部の仲間とネパール行きを敢行。指導教授には、2か月ほどネパールへ行くので後の事はよろしくと言い残したそうだ。向かった先はアンナプルナサウス氷河。ここは京都大学学士山岳会が登った場所。冒頭の樋口さんの父上、樋口明生さんが隊長を務められた。
◆ヒウンチュリの下の斜面にシュプールを残して帰国。研究室に顔を出すと「君の研究テーマを決めておいたからね。」と鷹揚な先生から告げられた。大学は人を育てるところだから君のような学生が一人ぐらいはいてもいいよと仰って頂いた。年間の山行日数は100日を優に超えていた。当然の帰結、卒業には6年かかった。はてさて卒業したはいいが何の当手どころもない。思いついたのは研究室に居候することだった。お優しい先生から快諾いただく。測候所まで使って良いことになった。
◆かれこれ一年居候生活を続けた後、カメラマンとして独り立ちしたが、当然食べていけるあてはない。時間だけがたっぷりあったそんな頃、中国の開放政策で北海道山岳連盟にミニャ・コンガの登山許可が届く。隊に応募した阿部さんはメンバーに選ばれ、偵察を命じられて秋に現地へと向かった。50年間の外国人禁断の地への偵察行は探検的要素の強い、実に楽しいものとなった。1980年の事である。
◆成都から川蔵公路を西へと二郎山峠(標高3000m)を超え、長江支流の大渡河峡谷にかかる橋を渡り、さらに徒歩でやっと1500mの台地にある磨西(モーシー)村に着く。村に入った日は、50年ぶりの外国人来訪ということで、子どもたちは恐怖のあまり逃げ回り、大人たちの目、目……。この日が磨西村をトラックが走った初めての日となった(橋を渡るためトラックは一旦分解されたのだ)。
◆この村を拠点に目指す北東陵に至るルート偵察に出た。二つある氷河のうちまず、海螺溝氷河をさかのぼる。巨大なセラックのあるアイスフォールを試登、すぐにこれは無理危険すぎると判断、即座に撤退。次に燕子溝氷河を試登、なかなかに手強いものの4600m付近まで到達、こちらに活路を見出して下山。ここで阿部さんから思いがけずアーノルド・ハイムの名前が。彼はスイス人地質学者。彼が空撮したダウラギリとアンナプルナの写真を頼りに、フランス隊のモーリス・エルゾーク等は人類初の8000m登頂を成し遂げたのだ。
◆ミニャ・コンガにも足跡を残していた事を知り感激。トニー・ハーゲン(『ネパール』の著者。彼も地質学者)といい泥臭く足で稼ぐ研究スタイルに共感、郷愁を感じる。磨西村の住人はイ族。狩猟と薬草の採集を生業としている。阿部さんたちの翌年、ミニャ・コンガで同じく九死に一生を得た松田宏也さんを救出してくれたのがこのイ族の方々である。
◆そしてまたこのイ族の人々は毛沢東率いる紅軍を道案内し、国民党との闘いに一役買ったのだ。この一帯は歴史の舞台でもあったのだ。ああそうだと思い出したのが中村保さんの『ヒマラヤの東』。「横断山脈の東端の通過に際しては多くの劇的なエピソードを生んだ。毛沢東・周恩来・朱徳等々革命第一世代のオールキャストが顔をそろえている」と書かれてあった。(172ページから引用)
◆ここで話は核心の81年の遠征に進む。出発前故郷のお母さまと山口大学に奉職していたお兄さんに元気な顔を見せに行く。お兄さんの同僚が上田(あげた)豊先生。中公新書『残照のヤルンカン』に胸を熱くされた方も多いだろう。その上田先生に「ええか、どんなに格好悪うても生きて帰ってこんとあかん」と手を握りしめながら言い渡された。後々まで深く胸に残る言葉となった。
◆名古屋大学の水圏科学研究所には北大山岳部OBの研究者が何人も在籍していた。そのよしみで当時樋口敬二先生の研究室にいた上田先生から、遠征に必要な地図、資料、写真などを頂き、かつレクチャーを受けていた。学部生時代から何度も出入りして懇意にしていただいていたのだ。北海道から足を運ぶ情熱も、伸びやかな研究室の雰囲気もいいなあ。
◆北海道連盟隊の編成は総勢26名。川越昭夫総隊長以下隊長、報道、隊員で構成される。隊は思い返せば最初から高所登山の実力が未熟であった。先発していた阿部さんは、遅れてベース(海子函)入りした隊員を見てぎょっとしたそうだ。隊長の方針で、ポーターと同じ重量(30kg)の荷を担いでの入山で精魂尽き果てた顔をしていたのだ。
◆タクティクスの組み方も疑問だらけだ。出発前に隊員有志で学んできた高所登山のノウハウとはまるで裏腹の、セオリーを無視した体力勝負一辺倒の登頂計画であった。本来は四人編成のチームで体調、天候等を考慮し、またしっかりサポート隊も編成して、徐々に高度順化を行い、五月雨式に頂上に立つのが妥当と考えていた。雨季も近づいて来ていた。しかし急転直下川越隊長が、隊を12人ずつ一次、二次に分けて全員登頂を目指すと言い出したのだ。隊員の選別はしないという。なお、固有名詞など詳細についてはご著書『生と死のミニャ・コンガ』(山と溪谷社刊)を参考にさせていただいている。
◆阿部さんは一次隊になった。メンバーは副隊長奈良憲司をリーダーに中嶋正博、工藤典美、佐々木茂、浦光夫、藤原裕二、島田昌明、神原正紀、小島均、小野寺忠一、松永浩そして阿部さん。阿部さんは最初から総隊長と対立していた。高所登山の知識を持ち合わせていればあり得ない、「体調が悪ければどんぶり一杯の薬を飲め」発言にはたまげた。最後まで隊長に反旗を翻さず、一次隊として行動したことを後々悔やんだ。こうして二隊に分かれて頂上アタックが開始された。
◆9時間の悪戦苦闘の末、頂上直下100mで藤原さんが滑落。3時12分、ピッケルがカランカランと岩に当たる音を残して2500mの落差のある北壁に消えていった。浦さんがザイルを出し捜索を行うも手掛かりさえ掴めなかった。阿部さんの上部には8人がいた。阿部さんの下方には体調を崩した2隊員に付き添っている奈良副隊長がいた。思いを残し撤退を決断、恐怖でひきつっている上の7人が一本のザイルにカラビナを通して連なった。え、カラビナ? 7人一緒?
◆上と下で腰がらみにより確保をする。確保といえない確保だ。下部を担っていたのは中嶋隊員。もうこれは狂気の沙汰だ。阿部さんはハーネスからユマールを外してザイルにセットしようとしたが、その前に腰にハーネスとは別につけていたベルトにぶら下げていたフィルムケース等の小物とシュリンゲが絡まっていた。これを直していたためワンテンポ隊列に乗り遅れた。これが運命の別れ道だった。
◆最初のスリップは事なきを得た。その直後だ、数人が滑落していく。落ちていく仲間の恐怖の目を阿部さんは一部始終見届ける事になった。確保していた中嶋隊員に「止めてくれー」とあらん限りの声で叫んだが、その中嶋隊員もブンと跳ね飛ばされ、7名が奈落の底へ。一人残された阿部さんの決死の下山が始まる。ザイルはないのだ。クレバスを渡らない限り生きて帰れない。ついにクレバスに落ちた。体が挟まるくらいの幅だったので、かろうじて止まった。
◆落ちれば南壁の底まで運ばれてお終いだ。死ぬのが怖く叫んだが、やがて不可能を悟り、死を覚悟すると突然穏やかな安寧の境地が開けた。そんな中脆い雪をものともせず下にいた奈良さんが救出に現れた。彼まで死に引きずり込むわけにはいかないので必死で制止したが、彼はものともせず腹ばいになって接近、引きずり上げてくれた。助かった。その瞬間轟いていた雷鳴がピタッと止み、あたりを静寂が包んだ。
◆気温マイナス50度、風速20mの中、北海道での登山と同じ装備で生き延びた。この時絶対生きて帰るぞとの決意が体にみなぎってきた。その後の4人での下山も過酷を極めたが、ともかくも生き延びた。下山の途中で不思議な体験をした。4人以外に誰かが一緒にいるのだ。もしかしたら仲間は生きているんじゃなかろうかと何度も思わされた。北壁基部に戻った15人で遺体捜索を行うが、見つけたのは佐々木隊員のみ。身に着けていた手袋・帽子などがあたりに散乱していた。結局佐々木隊員の遺体収容もできないまま現地に別れを告げた。
◆生き延びた隊員たちが帰国後受けたであろう非難、糾弾の嵐は想像するに余りある。しかも一番矢面に立ったのは必ずしも総隊長ではなかったようだ。真のリーダーとは? リーダーの資質とは? 考えさせられる命題だ。悪夢が冷めやらぬうちに翌82年、同じミニャ・コンガで市川山岳会の遭難が起きた。菅原隊員の遭難と松田宏也隊員の奇跡の生還。ベースキャンプには誰一人おらず、助けてくれたのはイ族の村人たちだった。やはりミニャ・コンガは魔の山だ。
■その後の阿部さんの事故の後始末、残されたご家族への寄り添う姿は誠実そのものだ。何年にもわたり燕子溝氷河へ遺体収容に出向いた。もう新しい人生の一歩を踏み出そうとしても、ミニャ・コンガにまた呼び戻されるのだ。「なぜ阿部さんだけが死ななかったのですか?」このご遺族の問いかけに最初は答えが見つからず、苦悩した。しかし何度も仲間の元に出かけ、ご家族にお骨をお返し出来た時、自分の役回りを実感する事が出来た。
◆奈良さんと二人だけで見つめた黄金色の残照に輝くミニャ・コンガは生涯忘れない景色だ。イ族の言い伝えにある鳥が氷河上のテントにやってきた。隊員の身代わり(鳥になって)お別れに来てくれたのだ。この出来事を阿部さんは信じたいと仰る。ご家族を山の近くまで案内、文殊院で供養も行った。写真にうつっている当時の服装などで身元の特定が出来た。カメラマンになった意味も分かった。生きていたのだからこれからは生きている意味を問うて生きていこうと思えるようになった。
◆84年、藤原隊員の愛娘由希ちゃん・早希ちゃん、中嶋隊員の愛娘美峰ちゃんを連れて現地に行った。荼毘に付すところは見せたくないと思い、お花摘みをお願いしたのだが、いつの間にか現場を見つめていた。子どもなりに語り部となるべく現地に来ていたのだ。奈良さんの胸の内、いつも待つ身だったお母さんの心情も理解できる子どもに大きく成長していた。
◆その後阿部さんは、カメラマン・ビデオジャーナリストとして精力的に仕事をこなしてきた。『フォーカス』誌の専属カメラマンとして20年間写真と健筆をふるった。例えば「樹齢探検」。撮影行はいつも一人だ。静かに対象と向き合うのがお好きなのだろう。屋久島の縄文杉・ふるさとの石槌山も写し出された。「ヒグマ」もライフワーク。おもに知床に通う。ヒグマは1年で体重が100kg増えるのだ。最近はエゾシカを餌にし、定置網にかかったサケも食べる。
◆報告会場にはオオワシ、オジロワシと北海道ならではの猛禽類が登場。幻の魚、イトウの婚姻色の赤は何とも美しい。偶然出会ったオオワシの幼鳥が海に落ちてじたばたしている光景が写し出される。餌を求めている最中に落ちたらしい。彼らは世界に5000羽しかいない。そのうち1300羽が北海道に戻ってくる。各所に届け出、その日のうちにロガーを取りつける。カムチャツカへ予想外のルートを辿っていることを、データとして初めて明らかにする事が出来た。ソ連邦崩壊の直前にはモスクワに長期滞在、二つの連載をこなした。クレムリンでゴルバチョフとエリツィンがそろい踏みで写っていた。
◆北海道に住んでいれば誰しも北へ北へと思いが募る。という訳で後輩を誘って国後島の爺々岳を狙う事になった。この計画は新聞にスッパ抜かれオジャンに。カムチャツカの最高峰クリュチェフスカヤも一緒に計画していたが、これも後回しに。ならばと領有権を放棄している北千島に狙いを定める。阿頼度(アライド)島・幌筵(パラムシル)島が目的地だ。こちらは札幌の領事館頼り。しかし先方に受け入れ先が無くてはどうにもならず、一年の月日が流れた。
◆ビザが発給されても目と鼻の先を訪ねるのにハバロフスクを経由しなければならない。どうも癪だ。それに学生にはお金がない。妙案が浮かんだ。知り合いの代理店に頼みこみ来日中のサハリンの船舶公団に直談判してもらったのだ。結果オーライ。勇躍学生と船に乗り込んだのは1990年5月の事。渡航費の14万円が5000円で済んだ。サハリンで北千島行きの船をヒッチハイクするのは容易ではない。幌筵島を経由、ようやく阿頼度島到着。上陸してみればそこは無人島であった。チリ津波を受けたらしい。阿頼度山は標高差2000m。この標高差を気持ちよく大滑降。最高だった。
◆頂上にミニャ・コンガの8人の写真を埋めた。ここから新しいスタートを切ろうと阿部さんは考えていた。さようなら。この島では難破船を発見。「無念の遭難」と書かれた板切れを持ち帰る。富山県の漁船で、仲間に助けられ皆さん生存されていた。この顛末は阿部さんの仕事先のテレビ局で特集されたそうだ。千島列島には動物のみならずアイヌの人々が行き来していた痕跡が多数あるという。十勝石の矢じりも発見されるそうだ。人も動物もダイナミックな移動をしているのだ。私の祖先もバイカル湖周辺からこのあたりを通過して、日本に到達していたらいいのにと、勝手にあこがれているルーツだ。
◆92年には小樽からシーカヤック持参で念願の国後へ。今回ももちろんソ連の船でだ。古釜布(フルカマップ)から一泊二日で太平洋を漕いで、爺々岳へ。ベースにしていた小屋に、留守の間に国境警備兵がやってきたらしい。大変だ、いなくてよかったと思っていたら、置手紙が。そこには「君たちは真の海の友人だ、また遊びに来たまえ」と書いてあった。バイダルカ(シーカヤックのロシア語)を乗りこなす彼らから仲間に迎えいれられたのだ。
◆国後では通信手段を断って行動した。政府に傍受される距離だから。占守島の事を忘れていた。この島は1945年8月17日に日本とソ連で戦闘があった。日本側800人、ソ連側3000人。8月15日を過ぎているというのに痛ましい事だ。またこの島には南極へ行った白瀬矗も滞在し、総勢7人のうち4人が懐血病で亡くなっている。占守島と南極の両方に行ったのは白瀬矗と阿部さんだけだそうだ。
◆94年、さようならと言ったはずのミニャ・コンガにまた呼び戻される。ヒマラヤ協会隊が遭難、雪崩研究会の大切な仲間、福沢卓也(編注:14ページ「地平線の森」で遺稿集を紹介)ら4人が帰らぬ人となった。隊長はご病気の事もありベースキャンプで常に指揮を執っていた。この遭難は雪崩によるものと報告された。が、しかし仲間をあらん限りの手を尽くして捜した形跡は皆無、なぜ雪崩と断定したのかも根拠がない。阿部さんは事故報告会に出るため、東京へ向かった。隊長の報告はどこかつるっとしていて、妙なほど理路整然・滑らかな語り口に終始した。仲間を見殺しにしたのではないか、私は彼を許せないと仰った。この話を聞いてショックだった。この隊長はヒマラヤ研究をライフワークとし、日本の登山界に対し率直にものを言う方だと思っていた。副隊長も山の猛者だ。慕っている人も多いはず。
◆思いがけない話が舞い込んできた。南極観測隊に応募しないかとの話。胸が高鳴った。飛行機を乗り継ぎ、昭和基地には直接目的の観測エリアに飛行機で降り立つ、初の試み。おまけに3か月のテント暮らし。阿部さんが要請された任務はフィールドアシスタント。隊員を一人も怪我させる事なく、一人も欠ける事なく日本に連れ帰る事だ。科学のフロンティア、新しい発見・研究成果を携えて帰国しなければならない。正式に辞令を受け取り、晴れて南極の地を踏んだ時、「夢はあきらめなければ必ず実現する」と確信した。
◆49次・50次・51次と三年連続で参加したのは、「セール・ロンダーネ地学調査隊」。5億年前のゴンドワナ超大陸の生成過程に迫るのだ。任務を果たすには、装備・食料すべて余りにも旧態依然としていた。樋口さんと3か月の限られた時間の中で思い切った改革を断行した。ウエアは3社をテスト、かつてない使い心地、着心地のものを採用する事に成功。食料は飛行機への荷物の搭載量という課題があり、これまた大胆にフリーズドライを試作。最終的に品数なんと120。ローテーションが組める数だ。
◆食事に満足出来れば、皆の顔がほころびチームワークに一役買う。食が安全を担保する訳だ。なるほどと思った。ブリザード吹き荒れる中でのテント暮らし、ノースフェースのメステントが何度もぺしゃんこに。一撃を食らってこのありさまなのだとか。生きた心地がしない。毎日20mの風が吹きすさぶ中での調査だ。スノーモービルの事故、ヒドンクレバス、事故のリスクは無数だ。テントに帰れば研究者に余計な気を遣わせないよう日々の生活上での様々な事に神経を張り巡らせる。帰国すると7kgは体重が落ちるのだそうだ。
◆何やら阿部さんのテントの前に郵便ポストが。手紙と朝日新聞が届いている。これは阿部さんの精神の安定を保つための苦肉の策なのだ。阿部さんたちの現場、セール・ロンダーネ調査のパイオニアは上田さんだ。ここでも阿部さんは不思議なご縁を感じる。上田さんが辿った調査ルートを阿部さんたちは逆方向から辿る事となった。生きて帰ってこなあかんよと言ってくれた上田さんと同じ景色を見つめている事に、心が震えた。涙が出た。
◆南極に広がる光景は未知の世界だった。宇宙を生きている事を実感させられるそんな大地が南極だった。隕石探査の事を楽しそうにお話くださった。コンドライトも鉄隕石も火星・月からの隕石も南極では見つかっている。阿部さんも隕石探査に大いに魅せられたようだ。ヒマラヤの東から南極まで過酷だが、壮大なお話を聞かせていただいて有難うございました。最近地平線会議には北海道の風が吹いている。樋口さん、澤柿先生が繋いで下さったご縁だ。その事を嬉しく思う。(中嶋敦子 親の介護で30年封印してきた登山を再開したアラインゲンガー《単独行者》)
このところ、法政大学の澤柿教伸(たかのぶ)ゼミの学生たちが熱心に地平線報告会に参加している。その都度感想も書く。内容的に報告会レポートと重なる部分もあるが、青年たちの挑戦は評価したい。(E)
■カメラマンでビデオジャーナリスト、そして株式会社極食代表取締役である阿部幹雄さんの話を聞くことができた。阿部さんは学生の頃からカメラが好きで、修学旅行に行かない代わりにカメラを手に入れることができたそうだ。私もカメラが好きで、バイトができるようになり、お金が貯まるまでは我慢したが、阿部さんのカメラへの思いは、そこまで待つことはできなかったようだ。そんな阿部さんは、生態系の頂点である動物を撮ることが多いという。絶対的な自信があるというところが似ているのではないだろうか。少なくとも、私はそのように感じた。
◆その自信は傲慢ではなく、それまでの経験や実績があるからこそのもので、常にアンテナをはっているからだろう。アンテナといっても様々なものがあると思うが、阿部さんのそれは、危険へのアンテナである。報告会後の二次会で阿部さんは、「南極に行くと、感じるメーターがハイになる」と話していた。その状態では、テントの外の気配なども分かるし、死者の魂も感じることができるそうだ。「君たちが感じるものと、私や澤柿さんが感じるものは違う」とおっしゃっていて、悔しいと思いながらも、そうなのだろうと、納得した。
◆ではどのようにすれば、その状態になれるのだろうか。阿部さんの話を聞いていると、一つの事に集中する「ゾーン」とは違うようだ。逆に、全てのものを感じる、というようなものだ。考えた結果、都会でスマホのマップやSNSを見ながらのんきに歩いているようでは、その状態にはなれないようだ。阿部さんがおっしゃていた「都会では感じることができない」というのは、そういうことなのだろうと私は解釈した。
◆以前ゼミで行った巡検のように、今、自分がどこにいて、どの方向を向いているのかくらい分かるようにしなければならないと感じた。そう考えていくと、以前の報告会の二次会でお話させてもらった、船で地図などを見ずに島から島に行っているというあの方もアンテナを常にはっていて、自分の位置や方角を探るなにか(星や鳥など)を見つけ出しているのだろう。
◆まだ数回しか報告会に参加していないし、二次会に行けなかった回もあったが、地平線会議に参加している方々は、「様々な分野の専門の方の話を聞きたい」という知的欲求のままに来ており、そういった意味では「知りたい」というアンテナをたててきている。もしくは、もとからそのアンテナをはっているから、地平線会議に辿り着いたのだろう。そして、話を聞いて終わりではなく、何らかの形で、自分の研究や趣味に活かしているのだろう。
◆では、私たちゼミ生は、なにか小さなことにでも活かすことができているのだろうか。下川知恵さんの話を聞いて、写真や文章だけでは得られないものを求め、居候を通して、その村の人や文化を感じたいと思い、行動に移せたか。青木麻耶さんの話を聞いて、嫌なことから一旦は逃げて、興味のあることを突き詰めていけたか、星泉さんの話を聞いて、「言葉の背景」を探ろうとしたか。どれも中途半端に終わっている気がする。
◆報告者と同じことはできないが、まねごとなら私たちにもできる気がする。例えば、青木さんは琵琶湖をママチャリで一周から始まったわけで、最初はまねごとでも、なにか行動してみることで、自分のやりたいことが見つかってくるのではないかと私は考えた。今回、阿部さんの話を聞いて、アンテナをはって、探検をしてみたいと思った。なれしたんだ登山なら取り入れやすいので、この夏休みで、スマホを使わない登山計画を実践したい。
◆このように、自分に取り入れられるものが、地平線会議には多くある。それは、報告者の話だけでなく二次会での会話の中にもある。地平線会議でも質問の場はあるが、実際、とても良い質問が浮かばない限り質問することはできない。会話の中で、自分の知りたいことや聞きたいことが自然とでてくるのが二次会のメリットの一つとして挙げられる。二次会での私は、まだ聞き手としての自分が抜けきれておらず、「会話」と呼べるか微妙な、質問攻めか、頷く機械になってしまっている。上手く、冒険家から吸収できるように、会話し、繋がりを持てるようにすることを後期の目標としたい。
◆最後に、私のこれまでのレポートは、報告者の話していたことの流れをざっくりとまとめ、気になったことをピックアップし、それに対しての意見を少し書く、というものだった。しかし、地平線通信を読むと、報告の流れはもちろん、その方の性格や大事にしていることが良く分かるように書かれている。今回は、そんな「人」がみえてくるような内容を意識して書いてみたが、報告の内容が薄れてしまった。そのバランスがつかめてくれば、地平線通信のような、読者を引き込む文章ができるのではないだろうか。
■7月の報告会では、阿部幹雄さんの講演を拝聴した。阿部さんは極食の代表取締役やビデオジャーナリスト、カメラマンとして、山やヒグマ、イトウなどの生物を撮ったり、報道カメラマンとしてゴルバチョフさんもカメラに収めている方だ。お話の中で一番印象に残ったのは、ミニャ・コンガ登山についてだ。ミニャ・コンガはチベット高原にある山で、標高7556m、東シナ海からくる湿った風が山脈にぶつかり多量の雪が積もるという厳しい雪山だ。
◆「目の前で人が恐怖を感じながら落ちていく」。目の前で人の死を体感するというのはどのようなものか想像ができない。衝撃は計り知れないだろうし、きっと阿部さんにしかわからないものなのだ。思い出したくもないトラウマになってしまうかもしれない。もし私が同じ状況に立っていたらと考えると心が苦しくなってくる。自然の猛威の中では死が隣り合わせだということを改めて思い知らされた。
◆阿部さんは、遺体には魂があると考え、遺体捜索に出るため、またミニャ・コンガと対面することになった。見つけた遺体は荼毘に付したと話す阿部さん。魂を解放するまで、どう責任を取ればいいか、なんで自分は生き残ったのかを考え続けた。捜索に出てから、気付いたことがあった。写真を撮っていたことで遺体の身元が特定できたのだ。生き物、社会のために生きる使命がある。自分には写真を撮るという使命があるのだ。そのように真っ直ぐに話す阿部さんを見て、素直にかっこいいと思ったし、尊敬の気持ちを抱いた。重く辛い経験をしながらも信念を強く持って生きる姿はとても輝いている。
◆今までも澤柿ゼミに入ってから地平線報告会を通して、いろんな方の生きた軌跡を拝聴してきたように思う。青木麻耶さん、星泉さん、阿部幹雄さん。それぞれが信念を持って活動をしていて、輝いている。地平線報告会の場にいると貴重な話を聞くことができてとても面白い。自転車旅の、寄り道して経験を得たものが活かされたという話、言葉があると世界がクリアに見えるという話、生きる使命についての話。いろいろな体験談を聞くことで、今まで頭をかすめることすらなかった自分自身の「生き様」について考えるようになった。
◆大学を卒業してからどうするか、何を目標に進んでいくのか、なぜ生きたいのか、何が自分にとっての幸せなのか。触発される。でもただ考えているだけで日常を過ごしているだけ。本を読んだり感銘を受けたりするが未だ行動に移せていない。というか考えれば考えるほど何をしたらいいのかわからなくなる。そんなとき思い出したのが、青木さんの経験が経験を呼ぶという話だ。自分の経験を振り返って考えてみることにした。
◆5月に澤柿先生の誘いで北海道の手稲山で行われた北大の野外実習に参加した。その時は、初めて登山靴を履き、雪の積もった山を歩いた。登山と言えるものではなかったが、自然に囲まれて筋肉を動かすというのは心地よいことを知った。この体験から次に繋げていきたいと思った。自然に触れることは自分にとって幸せだと感じることの一つだと確信した。そのため、「行動に移すことその1」に登山を設定することにした。
◆夏休み中に予定していた富士山は天候が悪いため延期になったが、他の日程を調節して何かしらの山には登ると決めた。自分の中で目標を決めることは、地平線報告会に行ったからこそ出来たことであると思う。私は自分自身を見つめ直して目標を見つけるというところに、地平線報告会に参加する意義を見出した。
◆7月までの私の地平線報告会のポジションは、ただの拝聴者であったと思う。報告者のおかげで聞くだけでもとても有意義なものとなっていたが、受け身に徹していては成長なんてできない。自分自身の成長のためにも、秋からは積極性を加味していきたい。土曜の朝に予定を入れずにできる限り二次会に参加する。特に、水と山と森林に根深い方の報告の時は意識して行く。これを「行動に移すことその2」に設定する。
◆最後に、自分たちゼミ生が地平線通信に書く文章は、澤柿先生の調節を経て寄稿しているためなんとか掲載できるものになってはいるが、まだまだ未熟で稚拙な文である。私たちに比べ、地平線通信の表紙を飾る江本さんの文章は、新聞のコラムのように読みやすく、読むと考えさせられるなと思うような文章だ。出だしには、話題になったニュースや社会情勢、政治についてなどの誰もが耳にしたことのあるテーマを持ってきて、前のテーマのキーワードと関連のある話題へ転換していく流れがあった。“◆”で区切られる文は簡潔だが情景が浮かぶ表現が用いられたりするので読み応えがある。
◆少し真似をしてみたところで、江本さんのような文章が書けるようにはならないが、社会学部生として、社会の話題につなげることは真似すべきなのではないか。難しいかもしれないが少しずつでも成長していきたい。
■7月の地平線報告会で阿部幹雄さんの話を聞いた。阿部さんは主に、自分が経験してきた出来事や取り組んできたことについて話してくれた。中でも最も印象に残ったのは共に登山をしていた7人が滑落し亡くなってしまった話である。この事故以来、毎年必ず遺体を探しに行き、見つかった遺骨や遺品を遺族に届け、それが生き残ったものの務めであると考えたそうだ。事故から何年も経ち、“なぜ自分だけ死ななかったのだろうか”と考えるのではなく、“自分は生きているのだから生きている理由を見つけよう”と前向きに考えるようになったと仰っていた。
◆初めは自分だけが生き残ってしまい、責任を感じてしまっていた阿部さんであったが、事故から何年か経ち、自分の使命を全うすることが亡くなってしまった方たちが望んでいることなのではないか、と前向きに考えるようになったと仰っていた。この言葉を聞き、どんなに辛いことがあっても前向きに自分の人生を生きることで新たな目標や、夢が見えてくるのではないかと感じた。
◆自分の目の前で仲間が亡くなってしまうほどの辛い経験をした阿部さんだが、阿部さんだけでなく、これまでに聞いた報告には、何度も死にかけたり危険な目にあったりした話があった。それにもかかわらず山に登り続けたり旅を続けたりするのはなぜだろうか、と疑問に思った。それは自然が好きで、危険な目にあってでも見たい景色があり、自分が見た景色を人々に伝えたいからなのではないか、と色々な方の話を聞いて思うようになった。
◆世界中を旅している方々は、旅の仕方は自転車や登山など様々であるが、その国の文化や慣習などを受け入れ、それを私たちに伝えてくれる。地平線報告会で話を聞くことで私たちが実際には到底経験できないことをたくさん知ることができ、「世界にはこんな文化や考え方があるのだ」と少しだが視野を広げることができているように感じる。
◆報告会が行われた後、毎月「地平線通信」が刊行される。私たちゼミ生の感想ものせていただいているのだが、他の方の感想と比べると自分たちの文章はまだまだであると実感させられる。江本さんをはじめ、出席者の大半は自らも世界の様々なところへ旅をしている方々である。その感想には自分自身の経験も書かれており、知識の豊富さに毎月驚かされる。知識が浅い私たちがそのような方々と同じような感想を書くことは不可能であると考えるが、無知なりに報告者の方やその方と関わりの深い地域について事前に調べたり、学生目線で他の方とは違う視点で考えるなど、できることは沢山あると思う。
◆今後は報告者だけでなく、出席者の方や自分以外のゼミ生の意見や感想も意識し、良い部分は自分なりに吸収していきたい。私たちはまだ数回しか報告会に出席できていないが、毎回得るものがたくさんある。報告者の方の話に共通していたのは、「夢があるのなら諦めてはいけない」ということである。阿部さんは子供の頃から南極観測隊員になりたいという夢を持っていたが、「自分はもう50歳を超えているから観測隊員になれない」と諦めかけていた時にチャンスが巡ってきて、夢を諦めていた自分を恥じた、と仰っていた。まだ学生である私たちには、これから“挑戦する機会”がたくさん巡ってくると思う。
◆その機会を自分のために有効に使いチャンスを掴むか、どうせ無理だとやる前から諦めるのかは自分次第である。報告会を通して、夢を諦めてしまうのはとてももったいないことであると感じた。周りの目や意見を気にするのではなく、自分のやりたいことがあるのならば、まずはやって見てそれを最後までやり通そうと思った。
◆地平線会議を運営している江本さんをはじめ、関わっている方々はとても経験が豊富な方々である。多くの報告者の方から、私たちのゼミの教員である澤柿先生の名前が挙がることがしばしばあり、先生も報告者の方々と同じような様々な経験をしていらっしゃるのだと改めて実感する。先生が南極観測隊員であったことは以前から知っていたが、振り返ってみるとその経験について詳しく聞いたことはなかった。経験豊富な先生の元で学べるということも貴重な機会であるので、地平線報告会への参加はもちろん、今まで以上に普段のゼミの活動を大切にしていきたい。
◆ゼミ生として、地平線会議に参加する意義とは、視野を広げると共に様々な人の経験を聞くことで、新たなことに挑戦する手助けとなることであると思う。私は8月にカナダへ語学研修にいく。1ヶ月という短い期間ではあるが、現地の文化を学ぶことや人々と関わることで多くのことを得られるような期間にしたい。この経験は人生の中でもとても貴重な経験になると思うのでこの機会を無駄にせず頑張りたい。
■暑い毎日が続きますがいかがお過ごしですか。先週末1か月の取材を終えてトルコから帰国しました。 2才のサーメルを連れ、身重の体で毎日がとてもハードでしたが、なんとか多くの家族に出会い、良い取材を重ねることができました。帰国して少し日本の暑さにやられていますがほっとして過ごしております。今回の主な取材地はトルコ南部、シリア国境に近いオスマニエとレイハンル。内戦勃発から8年。難民生活の長期化が予想される今、シリア難民がどのように新しい土地に根付こうとしているのか。その生活の変化を取材しました。
◆現地でお会いした難民の家族は皆、物価の高さに苦しみながら仕事を求め、生活を維持するために必死でした。男たちは何でもやれる仕事を探し、女たちは外で働くことも厭わず(かつてのシリアでは女性が働くことは特に伝統的社会の中で一般的ではありませんでした)、子供さえ家計を助けるために働いていました。暮らしは厳しくとも、助け合い、耐え忍びながらもなんとか生きようとする意志があり、人間の内側の光を感じるようでした。取材を重ねながら私自身が彼らから多くを与えられました。生きることは決して容易ではないけれど、生きることはその努力に値することだと。
◆取材中に考え続けたことは、「生活を失う」ことがどういうことかです。ほとんどのシリア人は誰かしら家族の一員を亡くし、家や財産を失い、かつての暮らしとそれにつながる人の繋がりを失いました。家族を連れ、各地を放浪しながら、経験したことのない仕事を転々とする日々。環境を一新せざるをえないなか、人々は何を見出して生きようとしているのか。その様々なあり様は、また別の機会に報告させていただきます。
◆帰国と共に、私は妊娠8か月に入りました。妊娠している身で、それも2才の子連れでの取材は、予想通りとてもハードでした。妊娠していること以上に大変だったのは2才の息子。息子は行く先々であちこち行ってしまい、現地の子供と喧嘩して噛み付いたり叩きあったりでドタバタでした。しまいにはお菓子とアイスクリームの食べさせられすぎでお腹を壊し、体調も崩しました。どうしてもフォトグラファーとしての仕事よりも、母として息子をみる責務を優先させなければいけないことが多く、分かってはいても歯がゆい思いをしました。
◆しかし一方で、子連れだったからこそ現地の家族に溶け込みやすかったことも事実。息子がいたからこそ垣間見れる人々の親切さ、優しさにもたくさん触れられました。気づくと風呂場で汗だくの息子の体を洗ってもらっていたり、別室で一緒にご飯を食べさせてもらっていたり。息子もこの1か月でよりたくましくなり、シリア人の子供たちのようにとにかく活発で自由奔放になりました。
◆また現地で、難民の女性の多くが妊娠していたことも特徴でした。シリアから平和なトルコに逃れ、生活は苦しくとも安心して家族を増やしている姿がありました。「妊娠何か月なの?男の子、女の子? 日本ではどんな風に産むの?」という話題で妊婦同士で会話が弾むことも。一方で、アラビア語を公用語としてきたシリア人にとってトルコ語で妊娠・出産の診察を受けなければいけず、言葉が分からず状況が理解できないまま手術や治療に及ばざるをえないことも多いそうです。こうした医療の場での言葉の問題、高額な医療費は深刻だと感じました。
◆1か月を思い返すと、実に様々な境遇の難民の家族に出会うことができました。皆過去と現在の軋轢に苦しみながらも凛とした目をしていました。私も背筋を正されるような思いになり、こうした出会いに感謝しています。10月には地平線会議40年記念イベントがあると聞いております。その頃には赤ちゃんが生まれるため東京にはおりませんが、どんな素敵なイベントになるか私も楽しみにしております。では引き続きよろしくお願いします。落ち着いたらまたうかがわせてください。(小松由佳)
■2018年6月1日にTaylor橋の下から出発した。40年前と同じスタート地点だ。3.72mのこんな小さく華奢なカヤックでこれから北極海に向けて漕いでいけるのだろうか、不安と期待を載せてカナディアンロッキーの雪解けで濁った川に漕ぎだした。
◆あの時はどんな心境だったのだろうか? おそらく日本の川の延長のような気持ちで若さと体力に任せて漕ぎだしたのだろう。あれから40年……、と人気の漫談家の口上になってしまうが、10年ひと昔というと40年は大昔だ。あの時と今回の気持ちの変化は何なのだろうか? あの時 何を思って何を考えながらこの長い川を下ったのだろうか?
◆何年前だったか忘れたが同じマッケンジーをモーターハンググライダーを利用して空撮した同じ大学の後輩、多胡光純君の地平線での報告が刺激になった。視点を変える……同じ川をあのような見方があったのかと、まさに目からうろこの報告だった。そして、Arctic Red River上流で1978年に続き1981年に偶然遭遇したゲイブアンドレー氏の“お前はマッケンジーに憑かれた。お前はまた来る、そしてこの川に骨をうずめる”と言った、その言葉が時々脳裡に浮かんできた。
◆そうだ、40年後の視点で改めてこの川を下ってみよう、それがこの旅の引き金となった。少し欲を出して目標を北極海のTuktoyaktukとした、けれど、第一の目的は、今まで「長い川を下ること」で、第二は日本人の知らない川を下る!!というのがそれだったが、そんな事はもういいのだ……。川を下るけど(昔から使われていた道)、あくまで目的はもっときょろきょろして今まで見逃してきたこの川を、道を行く旅人の視点で見てみよう。既に第二の故郷となったMackenzie川をもっと知ろう……が!!
◆今回の旅の計画書では、最終目的地はTuktoyaktuk、すべて人力で漕いで下るとなると約3,800kmとなるが、あれから40年……。63歳の体力は23歳当時のぴちぴちしたものではないことを身につまされて感じた。したがって最終ゴールはInuvik(1978年、1981年と同じ約3,600km。途中エスケープはFt Smith からHay Riverの約400km、1981年のエスケープ区間は、Ft Resolution からFt Providenceの約400kmと、ほぼ同等距離を漕いだのだった……が、あの時のように余力が残らず、InuvikからTuktoyaktukのあと約200kmは持ち越しとなった!(河村安彦)
■8月6日、珍しく涼しかった東京に、汗をだくだくかきながら犬ぞり師の本多有香さんがやってきました。新潟のご実家での用事を終えてからの上京です。江本さんのお宅でビール飲酒中と聞き、夜半に私が駆けつける道すがら、四谷三丁目の飲み屋で窓ガラス越しにセーラー服おじさんを目撃! 見ると幸せになれると巷でウワサ(?)のこの方に、本多さんが来日するたびなぜか遭遇します(このあと本多さんも走って見に行ってました)。
◆本多さんは、今まで見たなかで最強にこんがり日焼けしていました。聞けば、カナダで毎日大工として働いているとのこと(夜は以前と変わらず掃除の仕事)。水のように缶ビールを飲みながら、江本さんの手料理に感激しながら、爽やかに下ネタを話し爆笑しながら、ときおり22匹の犬たちを恋しそうに思い出す本多さんでした。
◆翌日の晩20名ほどの方々が集まり、早稲田の「北京」で「ホンダさんに飲んでもらう会」をやりました。北京ママのはからいで通常の二次会とは違うメニュー(春巻き、カレーラーメンなど)が出て、存分にビールを飲み(飲ませ)まくり、何があったのかほとんど覚えていません。新潟のお姉さんと甥っ子さんも交えてわいわいしているうちに、宴は満ちていきました。カナダ永住権も取得済みで、次の来日は数年後になるかもしれないそうです。また早く来てくださいーーー本多さん!(大西夏奈子)
■母の三回忌があり、8月頭から帰省しました。暑い中、高齢の母の兄達が会津からわざわざ来てくれて、みんなでお参りできたことは、葬式に出ることも叶わなかった私には嬉しい限りでした。その後「年齢的にこれが最後の新潟だろう」と言っていたおじさん達とみんなで新潟の温泉で一泊。ヨボヨボだったおじさん達が宴会で飲酒後豹変し、満を持してのカラオケ大会では大熱唱しかも踊り付き。さっきまで使っていた杖は?という疑問よりも私にもあの血が流れている、としみじみ納得したものです。
◆バタバタのスケジュールですぐに岩手大学を訪れ、頼んであったレースで使うクッカー作製の打ち合わせ後、大学の仲間と飲んで、四ツ谷の江本さんちへ。玄関を開けても白くて毛むくじゃらの小さな麦が嬉しい嬉しいと叫びながら出迎えてくれることはありませんでした。それなのに、廊下を爪を立てて歩くカチャカチャ音が聞こえた気がするのです。まだここに一緒に居るんだなぁと感じました。
◆それからかわいい夏奈子ちゃんが旅費かせぎのためバイトしていると聞き、私は早く宝くじを当てないといけないと改めて思った次第です。夜には「北京」でたくさんの人たちと飲みました。ここで私の姉と甥っ子を紹介できて良かったです。優しさは伝染するものなのか地平線の方達はみんな優しく、温かい空間に入れてもらえて楽しい時間を過ごせました。わざわざ集まって下さってありがとうございました!
◆そして江本さん、またまた本当にお世話になりました。江本さんも辛い時なのに姉たちの世話をしていただいて、感謝しています。帰りの飛行機の乗り継ぎに失敗して遅れて帰ったものの、現在はいつもの生活に戻り大工さんをしています。次回、いつか分かりませんが帰国したときには、また是非一緒に飲んでください!!(本多有香 ホワイトホース発)
■暑中お見舞い申し上げます。異常な暑さの夏ですね。沖縄が本土より涼しいなんてどうかしています。まもなくお盆。沖縄は旧盆で25日がウークイ(3日続くお盆の最終日)です。お盆の間はご先祖が各家の仏壇に降りて来てウークイにあの世に帰ると言われています。不死身揃いの地平線も恵谷治さん、長野淳子さん、原典子さんと訃報が続き、昨日は沖縄県知事の翁長さんがすい臓がんで亡くなってしまいました。あーいまだに信じられません。淳子さん亡くなって49日がすぎました。
◆でもウークイの夜、エイサーを見に、きっと島に来てくれると信じています。それにしてもがんってこわい病気ですね。でも治る病気でもあります。実は淳子さんの送る会に私が行くことができなかったのは、連れ合いの昇が今年3月末に食道ガンが見つかり、4月5月と抗がん剤治療のための入院を2回し、七月には食道全摘出の手術といわれていたんです。がん宣告を受けた日すぐに淳子さんに電話しました。その後もたびたび励ましてくれ、相談に乗ってくれ、お見舞いまで送ってくれました。自分のことを置いて昇のことをずっと気にかけてくれました。
◆淳子さんのなくなった日の3日後、手術前のCT検査でなんと、昇のガンがすっかり消えていました。とりあえず手術は延期になり、さらに詳しいPET検査というのをしたところやっぱりなくなってました。医者もびっくりしてました。手術しなくてよくなりました。ちなみに転移はなかったものの腫瘍は約5センチもあったのですが。
◆淳子さんに報告したかった。きっと一番喜んでくれたでしょう。最後まで昇のこときにかけてくれてました。でもがんは見えないところで隠れているかも。安心はしないで再発しないようにこれからも食事や生活習慣 気をつけます。先月の通信で江本さんが紹介していた「地平線祭り」の淳子さんのアイデア、いいですねえ、ぜひ淳子さんの遺志を入れた寸劇をやってください。
◆実はずいぶん前、そう淳子さんのお父さんがしょっちゅう徘徊して大変だった頃、それでも淳子さんは明るくふざけてこんな話をしていました。徘徊するお父さんに「日本列島徘徊中」というのぼりを背中につけて、行きたいところにいかせてあげた方が幸せなんじゃないかと思うことあるよ。地平線の人たちだって一度旅に出たら何か月も帰って来ないんだからさー同じだよねえ。なんて笑いあった覚えがありますよ。そうやっていつもつらいことを笑って乗り越えてきた彼女でした。10月の集会、盛会を祈っております。(外間晴美 浜比嘉島)
■8月30日から9月3日にかけての5日間、長野亮之介君の個展「ズットスキダ展」が開催されます。会場はJR阿佐ヶ谷駅から徒歩2分のお店「器とcafe ひねもすのたり」(杉並区阿佐谷北1-3-6-2F/03-3330-8807)。8月中は12:00〜23:00、9月の3日間は12:00〜18:30と、営業時間が異なります(各日とも1オーダーをお願いします)。9月1日は長野淳子さんの誕生日で、もともと還暦のお祝いの会をする予定でしたが、「偲ぶ会」として19:00〜23:00に集まることになりました(会費2,000円・黒糖焼酎飲み放題・要予約)。画伯の在廊予定など詳しくは専用サイト(ttp://moheji-do.com/sukida)をご覧ください。「…じゅんこが拾ってきた猫たちを筆頭に、僕は彼女のゆかりのものに囲まれて暮らしている。じゅんこを思う気持ちや、彼女が好きだったものを少々描いてみた。暑かった夏の終わりに、天の雲行きが気になる」(絵師敬白より)。
■地平線通信、ありがとうございます。じゅんこさんにまつわるエピソードたくさん聞きたい、そう思って7月号の通信を開きました。そして「読みました」のメッセージを江本さんに伝えなければ、不義理でもう二度と地平線通信を開けない気がして、メールを送ります。巻頭、江本さんがじゅんこさんと地平線会議40年祭りのやりとりをされていたことが書いてあり、じゅんこさんがいろんなアイディアをお持ちだった事を知りました。ほんとうに、また脚本を書いてほしかったです。
◆そして、じゅんこさんが書いた脚本の劇を観た地平線報告会200回記念こそ、私が初めて地平線に出会った場でした。当時学生だった私は本所稚佳江さんから声をかけてもらい会場のお手伝いをしたのです。その数年後、本所さんに誘われて初めて五反舎(長野夫妻を中心とする山仕事仲間の会)に参加した時に、長野さん・じゅんこさんにどこかで会ったことがあるなぁと思い、話しているうちにそれが地平線報告会200回記念だったとわかったのです!
◆それからは、五反舎でいろいろお世話になり、山の活動以外にも様々な趣味の「課外活動」と称して遊びました。ここ数年はじゅんこさんの仕事が忙しくて、実はあまり一緒に何かする事は減っていたのですが、去年はちょうど五反舎ハナタレ組という名前で朗読劇始めたところでした。じゅんこさんもメンバーの一人で、上演する戯曲はじゅんこさんが見つけてくれたものでした。そして、集まっているときに実は最近ちょっと体調がよくないという話になり……その後検査して病気が分かったのです。
◆朗読には出られないけれど、抗がん剤治療をしているさなかでも「みんなが気を使ってこなくなってしまったら嫌だよ」と言って自宅を稽古場として使うことを快諾してくれました。そうはいっても抗がん剤の治療や検査結果を聞いて帰ってきたときに、他人が家にいたら本当になんか辛かった時、心から休めないのではと思ってしまう事もありました。
◆皆でにぎやかに稽古をしている声を、一人部屋で聞いている時、その距離はじゅんこさんにとってただの廊下を歩いてふっと来れるような気楽なものではなかったと思います。それでも稽古という口実のようなものがあるおかげで(いえ、本気で稽古してましたし!)この一年半、じゅんこさんと過ごせる時間を持てたのは本当に幸せな事でした。《じゅんこのにわ》と今は呼ばれるあの素敵なお庭の四季も体験することができました。秋、銀杏の大収穫はみんなで洗ったりの作業をしながら袋いっぱいの銀杏をわけてもらったり、2月に雪の庭をながめコタツに入りながら火鉢で焼いたお餅入りのお汁粉を一緒に食べたり、5月は桑の実でジャムを作ったり……本当に楽しかった。
◆でも、今年5月、次の朗読劇の案を考えているとき、じゅんこさんの具合はすこしずつ変化していきました。それこそ、普通だったらもう家族だけで過ごすのが普通と思われるような状況になっても、私たちを迎え入れ続けてくれました。大好きな家で、大好きな人や猫に囲まれて、次から次へとやってくる友だちの声に耳を傾けて……「みんな家族だよ!」と言ってくれたような気さえします。最後までそばにいた長野さんや妹の綾子さん、長野さんの妹の美穂さん、親族のみなさんがいてくれたから、私も会いに行く事ができました。感謝でいっぱいです。
◆そして、在宅ケアを選んだじゅんこさんの決断。手術も抗がん剤治療も、その都度なんらかの決断を迫られ、一つ一つに答えを出して、検査の結果に気持ちを左右され(それでも泣いたところを一度も見た事がなかった)いろんな療法をトライして、最後に希望を持って選んだのが在宅ケアだったと思います。担当の山崎先生と面談した時に、初めてちゃんと話を聞いてくれて寄り添ってくれるお医者さんに会えたと言っていました。5月のじゅんこさんは、本当に美しくて、はっとするほど素敵でした。そんなに早く連れて行かないで。季節がひと巡りもふた巡りもおだやかな時間がずっと続いていきますようにと祈る気持ちでいました。
◆地平線通信を読み返し、じゅんこさんの事を思い浮かべると、じゅんこさんがいないという事実でぷつりと立ち止ってしまいます。普段は日常生活を何とはなしに過ごせるのに、それぞれの心のなかで生きていると頭で理解できるのに、今日はだめそう……。そしたら、「そんなことじゃだめだよ、ゆーこちゃん」。やっぱり私の中のじゅんこさんは笑って言ってくれました。乱文ですみません。送信しないときっといつまでも送れないので、どうぞご容赦ください。(村松裕子)
■毎年恒例、今年も青森ねぶた祭に跳人(はねと)として参加してきました。2003年以来、16年連続での参加になりますが、今年は個人的に衝撃的な出会いがありました。たまたま跳ね合いになった、何度か顔を見たことのある常連の跳人。長時間跳ね続ける耐久跳ねでは負けたことがない私ですが、この跳人もまったく同じペースで、そしてずっと笑顔でいつまでも跳ね続ける。5分、10分、20分。いつまでも止まらない。
◆言葉は交わさなくても、お互いの笑顔で、同じ想いで跳ねていることが分かりました。「この楽し過ぎる瞬間を終わらせたくない」。そう、苦しくても足が痛くても、楽しすぎて止められないんです。結局、その日は運行が終わるまで1時間以上もノンストップで跳ね続けるました。そのツワモノ跳人とは翌日も一緒になり、今度は1時間半以上に渡って跳ね合うことになりました。おかげで足はボロボロ。いまだに全身の疲労感が抜けていません。
◆跳人には、跳人同士でしか分からない世界があります。自分の世界を共有できる跳人と出会えたことは今年の大きな収穫でした。来年の再会に向けて、また体を作り直さなくては。(ねぶた馬鹿・たかしょー)
■先月の通信の「あとがき」に関連して。江本さんが岡山駅の新幹線で缶詰になっていた7月6日(金)の夜、私は近くで大災害が起こっているのも知らずライブに聞き入っていた。松本からフォークシンガーの三浦久さんが名古屋に出る高速バスもJRも止まってしまった中、東京に出て新幹線で来てくれたのだ。20時に会場に到着し、早速始まったライブでは12人の観客は耳を澄まして歌声に聞き入った。そして、深夜まで打ち上げに参加して、タクシーが動いていないというので、土砂降りの雨の中を1時間歩いて帰り、翌朝、江本さんが岡山で足止めされた、と知ったのだ。
◆急いで江本さんに電話してみると、意外と平然と地平線通信の編集する時間にはちょうど良いとおっしゃる。状況見て判断するということで広島行きの新幹線が動くまで新幹線内で待つという。後に合計200人以上の死者を出す大災害ということはまだ報道されてはいなかった。翌8日の日曜日になって広島では多くの傾斜地集落の土砂崩れ、岡山では倉敷真備地区の小田川決壊による多くの水没家屋が出たこと、その他多くの被害がようやく分かり出した。
◆1週間後の14日(土)、真備での災害復興ボランティア隊を岡山県国際団体協議会(COINN)で立ち上げ、真備町の守屋さん宅に向かうことにした。真備町はタケノコの産地で有名である。COINNは真備の公民館でネパール支援の国際会議を何度も開催してきたが、そこで守屋さんが主導してタケノコ料理を会議に提供してくれたり、ネパールからの訪問者を自宅に泊めてくれたこともあった。
◆そういう御縁を大切に、COINNでボランティア隊を結成した。私と、50代男性2名、岡山大学の学生2名の合計5名の隊である。当日は、スコップやジョレン、バールなどの道具を積み込み、総社市内のスーパーで水とスポーツドリンク各2Lを2本ずつ、かちわり氷1袋、お菓子などを買い込んで現地に向かう。最短の道路は渋滞又は通行規制の情報もあり、北西まで迂回してから南下する道路で目的地に向かう。直進が通行止めなので右折した瞬間に町の景色は変わり、道路わきにはガレキが積まれ、ボランティアと思われる人たちが作業している姿が目に入る。
◆道路上は泥が覆っており埃も舞っている。ようやく目的地に着き、幹線道路から外れた路上に車を止め、長靴、マスク、帽子を身に着け、片付け用具や水等を持って守屋さん宅に歩く。気温は高く蒸し暑い上に日差しは強い。幹線道路を少し歩き、目的地に着く。既に作業をしている人がいる。守屋さん本人は不在で、知人の家などを回って助けているという。自宅が2階まで水没する全壊状態にもかかわらず、世話好きは変わらない。
◆義理の娘さんと近所からの手伝いのおばさん、ボランティアの男性とに挨拶をして、早速作業を始める。私の仕事は旧宅の土間に倒れた棚の中身を取り出してナイロン袋に詰めて道路わきの集積場に猫車で運ぶものだ。水没したので、雑誌や食器、アルバム、コメ袋などすべて泥水に浸かった状態で異臭がする。雑誌などは水を含んで重い。コメは水没後1週間たっており発酵して特に強烈なにおいを放つ。棚の中身を全部片づけると棚を解体し、これも集積場へ運ぶ。
◆屋内での作業とはいえ、防塵マスクと長袖のいでたちでは暑い暑い。頭から背中から汗が吹き出し、拭ってもぬぐっても滴り落ちる。30分くらいごとに水をがぶがぶ飲まないと倒れそうだ。別のメンバーは新宅の2階の布団や家具をベランダから庭に落とし、落としたものを集積場に運ぶ。また別のメンバーは、家具などに入った泥水を屋根から流し落とし、家具を1階に降ろす作業などを行った。
◆途中休憩で守屋さんが戻ってきた。当日のことを伺ったら、避難勧告で車で避難所に避難していた。はじめは悪くとも床上浸水くらいで片付くと思っていた。ところが小田川が決壊し、すぐには水も引かず、戻ってみれば2階のカモイ近くまでの浸水で、途方にくれる惨状だった。作った稲は全滅。向かいのマスカット農家も高級ブドウが全滅したとのことだった。まさかうちがねえ。でも、車で避難していたので、避難所から自宅への移動も車でできるので、その点では助かっている。車も水につかった人は、避難所から自宅までに移動や、支援物資の受け取りなど不自由だと思うと話していた。その後の被災地の惨状は報道されている通りだ。
◆江本さん、8月24日の地平線報告会に参加します。25日、26日と厚木で学会があるので。(岡山 北川文夫)
地平線通信471号は7月11日印刷、封入作業をし、12日新宿局に託しました。この号は長野淳子さんへの思いを託した16ページとなりました。作業に駆けつけてくれたのは以下の皆さんです。ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 光菅修 小石和男 中嶋敦子 塚田恭子 江本嘉伸 高世泉 加藤千晶 兵頭渉 武田力 横田明子 松澤亮 埜口保男
作業を終えて、「北京」で餃子やラーメンを味わいながら、10月の祭などをテーマに賑やかに歓談しました。
■地平線会議の皆様、どうもお世話になっております。早稲田大学探検部の大倉有紀也です。先月に引き続き、「1000kmのヒマラヤ」計画について少しだけご紹介させていただきます。本計画では、首都カトマンズより1000kmの距離を歩き西北ネパールの未知なる山々を目指します。未踏のピークからは、チベットの聖地マナサロワール湖とカイラス山が、まるで、天頂に輝く星のように見えるでしょう。8月25日に先発の3人が出発、9月4日本隊とカトマンドゥで合流、9月7日、全員で長い旅のスタートを切ります。
◆また、1000kmの旅の中、きっと一番変わるのは他でもない私たちでしょう。ヒマラヤの圧倒的な自然とそこで暮らす人々。その出会いから、何を学び、何を感じるか。私たちの旅の終着点は、きっと1000kmの更に先にあります。行動そのものが終着点ではなく、遠征を終了し、そこから見つけ出した普遍的なテーマを共有したいと願っています。
◆大学生9人、120日、1000km。映像作家であり今回の計画の発起人でもある庄司康治さんの協力で、今回の計画を一つの作品にします。私たちのアドベンチャー・ドキュメンタリーを、映像という表現を用いて、多くの方々に見てもらうのです。詳細は、ウェブサイト(http://sekatan.jp)を御覧ください。それでは、間もなくいってきますので、どうぞ応援お願い致します。(早稲田大学探検部 1000kmのヒマラヤ隊隊長 大倉有紀也)
10月14日(日)「地平線会議40年祭」(仮称)の前日、13日(土)榎町地域センターで映画フェスティバルを開催します。個性豊かな行動者、表現者のみなさんに「3分間」の映画、動画、スライドショーを持ち寄っていただき、それを当日参加のみなさんの感想、評価によってコンクールします。エクストリームな冒険、社会派ドキュメンタリー、ほのぼの家族ドラマ、アニメなど何でもあり。但し3分超過は失格。賞金は出ませんが、グランプリにはレアな記念品を贈呈予定です。
フェスへのエントリーとフェス当日のご参加をお願いします。自信作のエントリーだけ、もしくは当日観てあーだこーだ言うだけでももちろんOKです。
エントリー
◆9月27日(木)までに氏名(または団体名・代表者)・タイトル・簡単な内容紹介を書いて
へお送りください(作品はまだ送らないでください)。原則として1名1作品かぎりとします。応募多数の場合は抽選などで選ばせていただくことがあります。エントリー通過の方に作品送付方法など案内します。
映画フェス
◆10月13日(土)17時から/榎町地域センター(新宿区早稲田町85):いつもこの通信の印刷・発送に集まっている場所です/参加費:500円(落合大祐)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。そして、そのほかに、4月から呼びかけしている「1万円カンパ」に多くの方々から協力をいただいています。地平線への応援として深く感謝いたします。「1万円カンパ」にご協力くださった方々については、「40年祭」をやる10月の通信でまとめてこの通信で公表させていただきます。通信費を払ったのに、記録されていない場合はご面倒でも江本宛お知らせください。振り込みの際、近況、通信の感想などひとこと添えてくださると嬉しいです。江本の住所、メールアドレスは最終ページに。なお、通信費は郵便振替ですが、1万円カンパは銀行振り込みですのでお間違いなきよう。口座は、みずほ銀行四谷支店 普通2181225 地平線会議代表世話人 江本嘉伸です。
高橋千鶴子/天野賢一/麻田豊(14,000円 2013/4〜2018/3 5年分+ 2018/4〜2020/3 2年分)/ 波多美稚子(10,000円 5年分お願いします)/永田真知子/坂本貴(10,000円 いつも楽しみに読ませていただいてます。通信費5年分をお送りします。これからもよろしくお願い致します)/石原卓也
7月の報告会でお目見えした「バイオレットパープル」「ライトブルー」「カナリアイエロー」の3色が、ゾモ普及協会のWebサイトhttps://dzomo.orgでも注文できるようになりました。昨年好評だった「オレンジ」もショーケースに復活しました。キッズサイズ150cmもあります。どれもドライシルキータッチ素材。色合いも爽やかです。販売価格2,000円のうち、1,000円がランタン谷への支援に充てられます。
2015年のネパール地震で大きな被害を受けたランタン谷のゴタルー(牧畜専従者)たちは、前向きに復興に向かい合い、酪農組合を見事に再建させました。今年は酪農組合のセンターハウスやチーズ貯蔵庫の建設が進められていますが、その資金がまだまだ不足しています。ぜひゾモTシャツでランタン谷の風を感じながら暑い夏を乗り切りませんか。(ゾモ普及協会)
7月の報告会、報告者の阿部幹雄さんは、1981年のミニヤコンガ(7556m)での遭難とその後の遺体収容の話を基軸として、これまで歩んできた道のりと辺境の地での旅の話をたっぷりと聞かせてくれた。私は阿部さんとは30年来のつきあいで、遭難のことや遺体収容の話は折に触れ聞いてはいたものの、いずれも断片的で、まとめて話を聞いたのは初めてだったかもしれない。20代だった阿部さんの壮絶な体験とそこから培われた人生観、物事の本質を見極めようとする姿勢に改めて感銘を受けた。
今回の話の中では殆ど触れられていなかったが、阿部さんを代表として我々は北海道雪崩事故防止研究会を1991年に立ち上げた。雪崩の事故を少しでも減らしたいという思いを持った3人、阿部さん、私、そして福澤卓也が中心となって活動を開始し、その後研究会の活動趣旨に賛同する仲間や多くの人に支えられて今も続いている。
研究会では、日本ではまだほとんど知られていなかった雪崩ビーコンをはじめとする雪崩事故対策装備、雪を科学的な視点から理解するための知識、当時は一般的には馴染みの少なかった低体温症に関する知識の普及啓発を柱として活動を開始し、講演会と講習会をそれぞれ年1回ずつ開催している。
その中でも、雪崩の発生メカニズムの知識とその知識に裏打ちされた雪崩の危険度判定方法の普及に精力的に取り組んでいたのが福澤だった。
当時福澤は北海道大学低温科学研究所に籍を置く雪崩研究者であると同時に、精力的に山に行く登山家でもあった。研究成果を現場に還元させることで、自らの研究を山の世界に役立てたいと強く願っていた。活動を開始して四半世紀を過ぎた研究会が実践している講習会の中で、彼が確立した雪に関する講習プログラムは、今でも我々の活動のベースとなっている。
1994年10月、福澤を含む3人の行方不明の報が届いたのは研究会結成から3年目のことだった。その年の8月に出発した福澤たちはミニヤコンガの最終キャンプで消息を断ち、戻ることはなかった。享年29歳、早すぎる結末だった。
福澤はベースキャンプに入る途上で、氷河上に登山者らしき遺体を発見している。その報が阿部さんにもたらされ、そこから阿部さんの遺体収容の旅が始まったことに運命を感じるのは私だけではないだろう。
あれから24年、福澤の妻・亜橘さんの思いが結実し、有志が中心となって遺稿集が完成した。バンカラ風を気取ってはいたが、繊細でロマンチストだった彼は学生の頃から山で詩を書き、文章をしたためていた。そんな彼の遺稿と山仲間、研究仲間、ご家族からの寄稿で出来上がった本には、行方不明から24年が過ぎた今も福澤は彼を知る人たちの中に生き続けていることがわかる心のこもった文章が溢れている。(樋口和生)
■サッカーW杯ロシア大会の歓喜と狂騒に幕が下りた。サムライブルーの軌跡に首を巡らすと、ザックがブラジル大会後に述べていた言葉を思い出す。「同じメンバーでもう一度戦ってみたい」。ブラジル予選リーグ敗退のメランコリー。あの修羅場を踏んだ主力は、経験値と免疫力を高めてブーメランのように戻ってきた。
◆大会前には「おっさんチーム」と揶揄されたが、ブラジル経験者なくして、今回の決勝トーナメントへの進出はなかった。肝胆を砕いた彼らは、もともとの自然免疫に加えて、新たなる獲得免疫を掴み取り、その戦闘能力を格段に高めていた。
◆免疫とは自己と非自己を見分けながら、異物を駆除してゆくこと。そのせめぎあいは、あたかもサッカーの攻守を彷彿とさせる。敵=非自己と対峙して勝利するための潮目は、攻撃の実行部隊キラーT細胞とB細胞のみに依存しているわけではない。司令塔となるヘルパーT細胞、防衛ラインを形成するマクロファージや好中球、情報伝達を司る樹状細胞とのネットワークが欠かせない。
◆「たまたま環境に適応していた種が、結果として生き残る」というダーウインの進化論を転化して、ビジネス社会では「最も強い者が生き残るのではなく、変化したものだけが生き残る」という教訓が語られる。ブラジルの修羅場を乗り越えて、進化あるいは変化した源泉は、DNAの構造自体が変化する突然変異ではなく、DNAを修飾するエピジェネティックな変化であり、さらには西野の組織マネージメント、選手の海外での経験値とミラー効果だった。
◆例えば、司令塔の柴崎からの糸を引くようなパスは、モノクローナル抗体のように長友や原口の足元の受容体にピタリと吸い付いた。吉田、昌子、酒井らのバック陣は、あまりにも芸術的なオフサイドトラップのシンクロナイズを演出し、1対1でのバトルでは盤石の迎撃と応酬を見せた。攻撃陣では、乾が放った無回転の一閃がとりわけ美しく、「日本人の決定力不足は宿痾である」という呪縛を解き放ってくれたのだった。
◆免疫細胞は、さまざまの偶然にも支配されながら、多様化し複雑化してゆく。おのおのの免疫細胞から発せられる信号の、オンとオフがスムーズに伝達され、鍵と鍵穴がピタリとマッチしたときに、非自己を撃退する化学反応が連鎖する。今大会では、メッシュ、ロナウド、ネイマールのチームはことごとく敗退した。個の力のみならず組織の力が勝ち抜くためには必要なことを証明している。帝釈天の宮殿にかかる飾り網の様に、重々帯網としたネットワークを張り巡らすことが、チーム力の命脈となることの証左である。
◆さて、ベルギー戦である。2-0とリードした時、夢見心地の光陰が流れる一方で、いやな予感も毒手を伸ばしていた。名にし負う「ベルリンの奇蹟」の竹篦返し(しっぺがえし)があるのではないか? 時間よ矢のように過ぎてくれ。不条理な一点を献上し、やがて漂い始める暗雲に、胸はさらにざわつき始めた。果たして、逆襲するベルギーの凄まじい圧力に屈して、日本代表は奈落の底へと突き落されて行く。
◆2点をリードした時、もちろん3点目を狙いに行っていたはずである。しかし、それまで明確だった「勝つためにはどうするか」という、紛ごうかたなき戦術が「朧(おぼろ)」となった。それまで明晰だった西野の頭に「ベルギーの赤い悪魔」が乗り移っていたに違いない。
◆悪魔とは仏教では仏道を邪魔する悪神をさす。それは煩悩とも呼ばれる。煩悩とは、心身を乱し知恵を妨げる心の働きで、情意的な迷いのこと。キリスト教ではサタンといい、ヒトを誘惑する存在をさす。勝利という甘い罠=サタンが忍び寄り、西野の透徹とした判断を邪魔したように思えてならない。2-2の終盤に得たFCのチャンス。本田がゴールに向かって仁王立ちした時には胸が躍った。2010年、南ア大会における伝説の無回転ゴール。彼の背中にはあのときのオーラがよみがえっていると見た。一点の陰りもない絶妙なキックが放たれる。その軌跡は夢を載せ、美しい放物線を描いてゴールの枠を捉えた。
◆しかし、鉄壁のセーブが夢を打ち砕く。GKクルトクの神業的な挙止はゴールネットを揺らすことを阻んだ。あれをキャッチされては詮方ない。もしもは禁句だが、GKがクルトクでなければ、歓喜の瞬間が訪れていたに違いない。あのFKが決まっていれば歴史は大きく変わっていたはずである。サッカーとは、実力と幸運が交錯する紙一重のスポーツ、非情な世界であることを再認した。
◆花の美しさは刹那である。戦いを終えて肩を落とす本田の姿は、仏教的な無常観を漂わせていた。毀誉交々の本田ではあったが、4年後のピッチにその姿がないのはさみしい限り。多くの夢を見せてくれたことに感謝したい。ベルギーはW杯およびFIFAランクとも3位、いわば世界の高峰カンチェンジュンガ峰に相当する。立ちはだかる壁を乗り越えるジャイアントキリングのためには、勝利の女神・NIKEの力も借りねばなるまい。もっとも幸運を手繰り寄せるには、偶然を凌駕する実力が必要である。NIKEの有翼を味方につけて、愚公山を移したい。
◆ベルギー戦の経験は、再び世界を驚かせるための蹉跌。あきらめることなくカタールを見つめ、鳥の目で雄図を描き続けることだ。「ドーハの悲劇」の意趣返し、次回は「ドーハの奇跡」を起こす時。本田の口癖であった「優勝を狙う」は、決して大言壮語ではあるまい。サムライブルーのDNAに刻まれた潜在能力の高さは、この大会が証明してくれた。巨万の努力はエピジェネティックな変化を促す。それは次世代へも遺伝してゆくもの。ロシアにおけるサムライブルーの進化の記憶をカタールに繋げたい。戴冠へのブレークスルーの道に天佑と神助あれ。(神尾重則・医師)
■今月も、書き上げたフロント原稿が突如消えてしまうという恐怖に肝を冷やした。パソコンのいろいろな作業をやっているうち、とんでもないキーをとりわけ大事な手順の中で押してしまう傾向がある。原稿が一瞬にして真っ白になることほど恐ろしいことはないですね。でも、森井祐介さんには心配かけましたが、なんとか間に合わせました。
◆7月の報告者の阿部幹雄さんからメールをいただいた。「まったく書く時間がありません。月曜日に特集放送があり、その準備に追われているし、火曜日から取材で週末まで山へ出かけます。大変申し訳ありませんが、「報告者のひとこと」の原稿掲載はなしで、通信を発行していただけないでしょうか」ほんとうにお忙しそうで恐縮してしまう。そんなわけで「ひとこと」はありませんが、その分レポートを充実させてもらいました。阿部さん、連絡ありがとうございました。
◆10月の「地平線祭」のプログラムと9月の通信でお知らせします。「祭」なので、あまり固苦しくない場にできれば、と思います。それから新しいゾモTシャツも間もなく登場させる予定です。ゴタルーたちのやる気を貞兼綾子さんたらと支えたいです。(江本嘉伸)
キョロキョロマッケンジー
「今回は河の岸を眺めたくてね−」と言うのは河村安彦さん(63)。獨協大学探検部時代にカヌー旅にはまり、'78年にカナダ最長のマッケンジー河を3600km単独航下します。その後起点、終点などを変えて'81年、'83年と旅を続けました。今年6/1にスタートした4度目の旅は'78年と同じ起点と終点を目標とした40年振りの計画です。 「20代の頃はガムシャラに漕ぐのが楽しかったけど、キョロキョロしてみたら、河が全然違って見えてきたね」。ヘラジカ、クマはもちろん、リンクスやジャコウウシなど沢山の動物達とも出会いました。 一方で、昔は無かった道路ができたため、河が交通路ではなくなっています。「河に近くに民家がなくて、人と出会わなくなったなー」。今年は天候が不順の中、7/20まで50日間で3600kmを下り、体重は15kgも減ったそうです。 今月は河村さんにおいで頂き、キョロキョロ川下りで再発見したマッケンジー河の魅力を語っていただきます。 |
地平線通信 472号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2018年8月15日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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