5月9日。なんだかひんやりしている。気温10度。外に出ると夏の上着ではダメ、慌ててフリースを引っ張りだして着た。3月下旬の寒さだ。テレビで中継される日光あたりは完全な雪景色だ。これは、ダメかもしれない、と面識もない親子のことが本気で心配になった。今月5日、新潟県阿賀野市の五頭連峰に登山に出かけたまま行方がわからなくなっている37才の父親と6才の息子。6日朝、家族に「今から下山する」との電話を最後に行方を絶った。標高1000メートルもない山というが、迷った時は恐ろしい世界となる。生き抜いていてほしいが……。
◆歩いて10分ほど、私にとっては散歩道にある元赤坂の(というより四谷駅近くの)迎賓館では安倍首相に加えて中国の李克強首相、韓国の文在寅大統領を迎えて日中韓首脳会談が始まった。北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長は7、8両日、遼寧省大連のリゾート地を電撃訪問、中国の習近平国家主席と夕食会や昼食会などを通じて会談を重ねたことが伝えられたばかり。なんと3月末以来、わずか40日の間に2度の首脳外交である。6月に予測されている米朝首脳会談を前にトランプというアメリカのリーダーの真意をどう読み切ればいいのか、北朝鮮の若いリーダーには見えないのだろう。数年前には考えられなかった北東アジアをめぐる激しい動き。一気に空気が変わった政治気象、知恵を出し合っていい風向きを変えないでほしいと願う。
◆連休最後の6日午前、珍しい客が来た。京都郊外の木津川で暮らす木のおもちゃ作家、多胡歩未さん。研修に参加のため夜行バスで上京、ついでに「渡したいものあって」と、顔を出した。我が家に来るのは何年ぶりだろう。きれいな箱から出したのは、わんこが巨きな木を見上げる木彫りの作品。緑の葉が勢いよく繁る部分はなんと「むぎまる」の字が彫られていて……。
◆それだけで私は泣きそうになった。もう別れて8か月になろうというのに、私は麦丸をなくした悲しみから立ち直れていない。普段はできるだけ隠しているが、私が動くところすべてに麦丸の気配、足跡が残っているので仕方がないのだ。歩未はそのことを感じ、上京にかこつけて「麦丸の木」を彫り、持ってきてくれたのだろう。
◆思えば12年前の7月だった。地平線会議300回記念大集会で“ぶんぶん丸”ことエア・フォトグラファー、多胡光純(てるよし)と知り合って意気投合、京都の老舗料亭での結婚式の後、青山のアジア会館で東京周辺の地平線仲間にお披露目パーティーをやった。まだ2か月の麦丸がちょうど我が家にやってきた時だったので、我が家を訪ねた歩未たちはムクムクしたちびを抱き上げて可愛がってくれた。
◆ウォルナット(くるみ)の木の裏には「2017.9.10」と麦の命日が彫られている。私に抱かれた麦の写真のかたわらに、贈り物を、そっと置いた。箱に添えられたarumitoyの名刺にはこう書かれている。「木は生きものです。切られた後も生き続けます。arumitoyでは、木の命をムダにせず、切らせてもらったら小さな端っこまで使います。使い切れない部分は薪にして、最後は土に還して循環させています」。そう言えば我が家のドアに10年前からかかっている「地平線会議」の“でかい表札”は、歩未がさくらの木で彫ってくれたものだ。
◆先日のニュースで、塀伝いに走ってきた男が塀を飛び越えようとした瞬間、追ってきた刑事らしい人が飛びつき引きずりおろした場面を見た。路上に組み伏せられ男は観念したが、その瞬間までに見せた本気の逃亡度にへぇー、と驚いた。松山刑務所の作業場から逃げ出し、先月30日、22日ぶりに広島市内で「確保」された27才の受刑者。瀬戸内海を「着替えはポリ袋に入れて首などに結び付けて」泳いで本州に渡ったという。
◆向島は懐かしい場所だ。海宝道義さん主催の「しまなみ海道100キロ遠足(とおあし)」に毎年のように参加し向島も7、8回は走り通しているからだ。福山城を午前5時にスタートし、トンネルをいくつか潜りぬけて20キロ走ってようやく尾道に出る。長い坂道をたどり、やがて尾道大橋に。385メートルほどの短い橋だが、ここで本州と別れ、渡りきったところが向島だ。
◆ここから因島大橋を越えて因島、生口橋を越えて生口島、さらに大三島、伯方島、大島と越えてゴールの今治城にへとへとになってたどり着くまで14、5時間。逃亡受刑者の体力が気になるのは、自分にそんな前歴があるからだ。瀬戸内の青い海を見やりながら走る。それは贅沢な時間だったが、自分の体力を味わう現場でもあった。80キロが過ぎ、喉が乾ききると普段はけして飲まなかったコカコーラを自動販売機で求め、がぶ飲みを繰り返したことが不思議な体験だった。(江本嘉伸)
■「今回の報告会は私の大好きなボルネオでの滞在のお話です」と少し日焼けをした顔で報告を始めたのは、下川知恵さん。今年の1月に成人式を迎えたばかりの早稲田大学探検部3年生だ。初めての報告会で緊張しているのか、声が少し震えている。旅の舞台であるボルネオへは1年前から通い始め、渡航歴は3回。滞在期間は計4か月。「もしかしたら『たったの4か月?』と思われる方もいるかもしれません。旅の超ビギナーである私がこの場で話をさせてもらうことは地平線にとってはイレギュラーなことだと思います。旅の概念すら固まっていない私ですが、なぜボルネオに惹かれたのか、何が私をそこに引き込んだのか、なぜ没頭できたのかを上手くお話できればと思っています」。
◆ボルネオとの出会いは探検部から始まった。箱入り娘として育ち、探検や旅とは無縁の生活を送っていたが、「本当に好きなことを見つけたい」と思うようになった彼女は大学で探検部の「巨大アナコンダを探せ!!」というビラに出会う。それに衝撃を受け、探検部の部室に足を運んでみると、そこには山積みの過去の計画書や報告書が待っていた。それから「探検」を真剣に考える日々が始まる。しかし、煮詰まり過ぎた結果、「道具と手段の創出」という行為に至った初めての探検は大学1年の夏休みを使い果たし、道頓堀川をコラクルというお椀の舟でクルクルと回りながら5時間かけて3キロ遡上することで終わった。
◆そんな夏の探検を必要な通過点だったと語る彼女の視線は次第に海外に向き始める。そして、暮れも押し迫った11月下旬、関野吉晴さんの映画「僕らのカヌーができるまで」に出会う。「僕らのカヌーができるまで」は日本での道具の製作からはじまり、インドネシアの森で縄文号というカヌーをつくるまでを追ったドキュメンタリーだ。それを観て、「舟をつくるのは、日本じゃなくてもいいじゃないか」という思いに至る。
◆思えば僕が彼女に出会ったのはその頃だった。高野秀行さんとのトークバトルの2次会の席で出会った彼女は真剣に「探検」について語っていた。具体的にどんな会話を交わしたのかは覚えていない。その夏の探検の話だったと思う。ただ一般的な視点からすれば意味のないと思えるようなことを熱く切々と語る彼女を面白く感じたし、その雰囲気に気圧されもした。そして、それ以上に「探検」と真摯に向き合っている彼女を羨ましく思ったことを覚えている。
◆「見たこともない大河を下りたい」という想いの中、「寒くなくて、急流がなく、日本人の記録がない、自然の多いところにある大河」が次の舞台の条件になった彼女の目に飛び込んできたのが、ボルネオのジャングルだった。彼女は6本の予防注射を打ち、ボルネオ島のインドネシア領カリマンタンに川下りのための偵察に向かった。
◆ボルネオはインドネシア、ブルネイ、マレーシアに跨る赤道直下にある島。面積は日本の2倍あり、世界で3番目に大きな島だ。森の賢人オランウータンが住み、たくさんの森を蓄え、その島は、現在森林伐採が進み、アブラヤシ農園の開発が拡大している状況にある。そんなボルネオの中心部、「Heart of Borneo」と呼ばれ、原生林が残り、大河の上流部にある地帯を彼女は目指した。目指す場所はロング・スレ村。近郊のマリナウという村からセスナを使えば1時間半だが、陸路で行く場合は、車で2日間走った後、森の中を5日間歩き、ボートで半日川を上る必要がある。「川をゆったり上るのは、すごい気持ちがいいです」と話す彼女の顔から笑みがこぼれる。
◆村に住んでいるのは、ダヤック族。大昔からボルネオの熱帯雨林と暮らしてきた先住民だ。ダヤックは特定の人々を指す言葉ではなく、太古から続く焼き畑で陸稲を栽培する農耕民で、数えきれないほどの部族がいる先住民の総称だ。イスラム教ではなく、そのほとんどがキリスト教を信奉している。混血も進んでいるが、村が違えば顔つきも違い、そして、言葉も違う。
◆かつて大陸から移動してきたと言われる先住民は日本人に顔つきが似ており、肌の白い人が多い印象だ。「村に滞在することで、ダヤックの人々が私の関心の中心になりました。一緒にいる時間が楽しくてしかたなかった。だから、川下りの計画は止めにしました。大河を下るよりもダヤックの人々の生活を知りたい。そう思うようになりました」。
◆そんなロング・スレ村は、ボルネオ先住民族の中でも、動植物の狩猟採集によって生活してきたプナンという人々で構成されている。プナンはかつて森を移動する生活をしていたが、現在は政策によって定住化されている。20数年前、森林伐採問題の象徴としてプナンが日本でも注目された時があった。「オランウータンは知っていても、プナンのことは知りませんでした。私は社会的主張の裏側に隠されたプナンのありのままの生活を伝えたい」。
◆村に宿はなく、知恵さんが家族と呼び、今では彼女を我が子のように可愛がる45歳のお母さん(アウェ)と同い年のお父さん(ヘルマン)の家に泊めてもらうことになる。お母さんはお菓子作りが得意で、熱いお茶と一緒に食べるドーナツを、毎日いっぱい作ってくれる。歌うことが好きな彼女の日常は歌で溢れている。ときには遠慮せずにしかってくれるお母さんだが、感謝の気持ちを表すときに使うのは片言の日本語「アリガトッ」。一方、お父さんは狩猟が大好きで、今も森の中で獲物を追っている。
◆ボルネオの家族の話をするときの彼女はとても楽しそうで、たくさんの「大好き」に囲まれているんだと想像できる。「これまで1か月半滞在させてもらっていますが、前から知っていたんじゃないかなと思うくらい。私にとってそこは気兼ねなくいられる大事な場所です。帰る家であって、そういう場所が当たり前にあることを幸せに感じています」
◆慣れない森を抜け、初めて村に辿り着いたとき、彼女の足はピンクのぶつぶつがたくさんできていた。痒く、見た目もひどかったのだが、それを見かねたお母さんが落花生を潰して薬をつくり、有無を言わさずたっぷり患部に朝晩塗りこんでくれ、数日後にはすっかり治ったのだという。「それからとてもお母さんのことが好きになりました。コミュニケーションする度に嬉しくて、いつもお母さんの傍をうろうろしていました」。
◆しかし、当然しゃべる言葉には全くついていくことはできず、「テリマカシー(ありがとう)」しか伝えられなかった。「村を去らねばという頃に、お母さんから『次はいつ戻ってくるんだ?』と聞かれました。聞き取ることはできましたが、それを伝えることができませんでした。それが悔しかった。この村に戻ろうという気持ちを伝えられない。むしろ困ったような顔をしてしまいました。それが悔しかった」。
◆帰国してから半年、電話をしても意思疎通ができない日々が続く。それがある日お母さんから「流暢になったね」という言葉が届いた。「すごく嬉しかったです。自分の頭と言葉を介して伝えることができているんだって。言葉ってすごい。言葉を交わすことで自分と相手の距離感が掴める。何かを言って、同時に笑う。同じ感情を共有する。すごく当たり前のことですが、他の国の人も笑うんだって。同じことに対して笑っている。それが嬉しかった。同じことに感動している、理解しているという感覚。言葉というツールってすごいんだなって」。そんな彼女はこの春からプナンの言葉も勉強し始めた。「プナン語を話せれば、村のおじいちゃん、おばあちゃんとも話しができるんです」。
◆どこまでも青い空の下、赤茶けたトタン屋根の家屋が並んでいるロング・スレ村での生活に水の存在は欠かせない。あらゆる場面でそれは使われる。水浴び、洗濯、食器洗い、煮炊き。川には食料となる魚がいて、森や畑に繋がる道の役割を果たしている。「私はそれぞれの村の人達がひとつの川で一緒に暮らしているということに大切さを感じます。同じ釜の飯という言葉がありますが、同じ川の水で生きている。村と村を直接繋ぐ吊り橋のようなものよりも川のことをより大事なものと感じています」。
◆そんな村の人達は日々を村の畑や森で過ごしている。森の中では猪や猿、鹿を狩り、林産物、砂金を採集する。仕事はみんなで行い、中でも米作りはそれがないと生きていけないくらい大切なものだ。米は焼き畑で育てる陸稲だが、数年すると土地が痩せてくるので、別の場所でまた焼き畑を始めることになる。その間、それまで陸稲を育てていた場所は放置され、再び森に還っていく。そんな焼き畑が森林消失の原因というイメージもあるのだが、木材としての森林の伐採や農園開発が入る前からずっとそうした伝統的な焼き畑農法は続いていた。
◆一方で川の中流部では人口増加により土地が足りないという現象が起き始めている。その結果、回復途上の場所で焼き畑が行われるため、大地がダメージを受け、土地が死んでいく。だから、一概に焼き畑が森林消失と関わりがないわけでもない。そんなダヤックの伝統的な農法も少しずつ変化の兆しを見せている。もともと狩猟採集民だったプナンの住むロング・スレ村で水田が流行りつつあるのだ。水田は焼き畑と違い場所を移動させなくていいというのが、その理由だという。
◆一方、タンパク源は森や川から男達の手によって調達される。森で過ごす時間は仕事ではあるが、娯楽に近く、何週間も続く森での生活は、まるで友人同士で行くキャンプのようだ。狩りには猟犬と槍を持っていく場合もあるし、鉄砲や吹き矢のときもある。例えば猿の狩猟は吹き矢を使う。毒の付いた矢が当たった猿はやがて筋肉が弛緩し、樹上から地面に落ちる。そこを捕まえるのだ。
◆そんな男の仕事が森の時間の流れに密接に関係しているとするならば、女の仕事は村の時間の流れに密接に関係している。村の日々のタイムラインは東の空が白む頃、朝を告げる鶏の鳴き声と共にはじまる。6時前、お母さんがお湯を沸かすためにかまどに火を点ける。しばらくするとドーナツを揚げるジュッという音が聞こえてくる。お父さんが起き出してくる頃には朝食前のおやつであるドーナツができあがっている。お母さんの愛情がいっぱい詰まったドーナツだ。
◆沸かしたお湯をポットに移し替え、朝食のおかずを温める。まだまだ眠い時間帯。そこからコメを炊きながら、カボチャのココナッツスープを温める。甘くて優しい味のスープ。やがてご飯が炊きあがる。朝ごはんのおかずはイノシシとパパイヤのココナッツ煮だ。10時過ぎに学校の事務仕事から帰ってきたお母さんが洗濯を始める。洗濯には洗濯板は使わない。
◆11時になると工芸品ラタン(籐)を作りにシディム家に向かい、そのままシディム家の人々と焼き畑へ。農作業をするか、焼き畑の傍にある小屋でラタンを編んで時を過ごす。時折焼き畑を風が吹き抜けていく。昼過ぎに昼支度がはじまる。おかずは畑で採れたものだ。茄子ときゅうりのスープは、ネギやにんにくを鍋で炒め、そこに水を張り、沸騰させ、塩と味の素で味付けしたものだ。ミョウガに似た植物は周りの皮をむき、手とナイフで切り分け、サラダ油で炒める。まな板は使わない。
◆味付けはこれも塩と味の素。サラダ油がなくなれば、イノシシの油を使うこともある。バナナの葉がお皿代わりだ。夕方になり焼き畑から村に帰ると彼女の帰りを待ち構えていたお母さんとのおしゃべりがはじまる。そんなおしゃべりの合間にお母さんの淹れてくれたお茶を飲む。砂糖は大きなスプーン2杯分。とても美味しい。だんだん辺りが暗くなってくるが、家の外ではまだ近所の子供達がチャンバラごっこをしている。19時前に日が沈み、空の色が夜の色へと変わっていく。その時間になるといつもロング・スレ村のあの空のことを日本から想う。
◆そろそろ子供達の集会も終わる時間だ。給電がうまくいく日には村に電気がやってくる。そんな日はテレビのある家にみんなが集まる。21時頃、お父さんが切り株の上で猪の肉を切り分ける。味付けはナツメグやウコン、コショウなどの香辛料だ。香辛料と混ぜた猪の肉に甘いケチャップを加え、煮込む。これを朝にもう一度煮て食べる。23時になり、お母さんが明日のおやつの下ごしらえを始める。下ごしらえが終わるとようやく就寝だ。「スラマッ・トゥルイ(おやすみ)」。
◆「村に戻りたいと思うのは、お母さんへの憧れがあるからです。たくさんの生活の知恵を持っていて、何事もテキパキとこなしていくお母さん。見ず知らずの私にも惜しみなく愛情をかけてくれます。それはきっとお母さんであることの誇りからきているんだと思います。私はお母さん達がつくってくれている村の空気が大好きです。私はまだお母さんの手つきでは洗濯物を洗えません。お母さんは誇らしげに「日本に帰ったら機械で洗濯するんでしょ? ここには笑ったり、泣いたり、怒ったりする優秀な洗濯機があるのよ」と言います。ボルネオでは家事がとても素敵なことに見えます。いつか同じ手つきで洗えるようになりたい。そして、そんないつかを想像するのが楽しい」。
◆村に滞在する間にラタンの伝統手工業を学び始めた。ラタンの工芸品はまず籐のいらない外皮を落とし、しっかりと乾燥させることから始まる。その後、節についた皮をナイフで落とし、籐に切れ目を入れ、4等分にし、割いていく。割き終ると芯の部分を取り除き、更に4等分していく。そして、透けて光が差し込むくらいうすく削っていき、幅も均一にしていく。次に染料である土を使って、籐を染めていく。染め上りは深い黒。これと染めていないものを使って複雑な模様を編み込んでいくのだ。こうした工芸品はいつ採れるか分からない林産物とは違って、安定的な現金収入源となる。
◆ここで時計の針が21時を告げる。報告会はそろそろ終わりだ。彼女は名残惜しそうな表情で、たくさんの想いを編み込むように結びの言葉を繋げた。「私はロング・スレ村のありのままの姿をこのままちゃんと見ていきたいと思っています。現在の彼らを肯定し続ける一人の日本人でありたい。森の移動生活を止めた彼らはもはや狩猟採集民ではないのかもしれません。もう少し前に生まれて、彼ら本来の姿を知ることができなかったことにちょっとだけ寂しい気持ちもあります。でも、私が惹かれたのは活き活きと暮らす今の人々です。
◆「探検」で埋め尽くされていた頃の私はプリミティブなものの方が魅力的だと思っていました。でも、実際に彼らと出会って考えが変わりました。民族としての誇りを失わず、時代の流れを受け止め、そして、受け入れている。そのことに心を動かされました。これからも自分達の理に適った生き方をしてほしい。同じ日常を生きている村の人達ですが、いつか気付いたら舗装した道が村の所まで伸びてきて、森を歩き続ける生活は必要ないものに変わっているかもしれません。それでも彼らにとって大事なものは守っていってほしいなと思います。
◆時代の流れと折り合いをつけながら、プナンらしく生活を続けていってほしいと願っています。私はこの2年間、旅、探検、研究という未知の世界への様々な向き合い方を知りながら、自分にできることは何かを考え続けてきました。近い将来、私は何者かにならないといけません。そのときには今よりもきっと制限されることもあると思います。それを思い、大人になるということに怖気づく自分もいます。でも、彼らとの出会いはこれからもずっと大切にしていきたいものです。
◆「これからもよろしくね」と言い続けられるように、彼らにとって意味のある人間になりたい。私は彼らには気付くことのできない、私が大好きな当たり前で何でもないことを、スナップ写真を撮るように残していく存在でありたい。日常を撮り留めていく中で、後で見返したときに大事なことが分かる気がしています。今の彼らの姿を切る取ることは、いつか彼らの財産になると思っています。それはプナンじゃなくて、外側の人間だからできることだと思います。そして、そのことを言葉を尽くして自分以外の誰かに伝えることに今後も挑戦していきたい。それが大好きなロング・スレの村の人々に対する感謝であり、愛情表現になると思っています」。
◆報告が終わり、29年前からボルネオに通い続けている樫田秀樹さんからは「この地域に入っていくのは99%、NGOの職員か研究者です。こうして家族として入っていく人間はいない」という言葉が送られる。そして、28年前に森林破壊に抗議するプナンの映像を撮りに行った高世仁さんはあの頃を思い出し、「当時『日本のサラリーマンは仕事を終えて、みんなで焚火を囲みながら楽しんでいるのか?』と聞かれ、自分達の生活を振り返させられたんだよね」と時代の変化と共に暮らしていく彼らの生活を見て、嬉しそうに語っていた。
◆最後に地平線通信468号のタイトルの話を。タイトルの文字は、「BATAQ(伝言)SOQ(の)SEFAQ DI(下流の彼方)」というプナン語から来ている。プナンにとって下流へと続く森の向こう側は未知の世界、地平線なのだ。彼女はこれからどんな言葉を森の向こう側から届けてくれるのだろうか。(光菅修)
「地平線会議」──今ではもうすっかり、毎月恒例の楽しみである。地球のどこかを歩くことが大好きなおとなたちが集まる場所。月末金曜日の報告会、そして、中旬水曜日の通信発送作業。そこに行けばいつだって浴びるように聴くことができる、世界中・日本中のお土産話や思い出話。
月に一度の報告会、熱い語りに心いっぱいになったあとは、それを消化する間も無く、中華料理屋「北京」での賑やかな二次会が始まる。
最初こそ感想を口にし合うけれど、あまりにみんなの話の引き出しがひっきりなしに開くから、話のはあっちへいったりこっちへいったり、纏まることはまずないし、1つの円卓で話題が4つくらい同時進行しているのが平常運転だ。
その勢いは、ぽんぽん弾けるポップコーンみたいだ。たまに議論がありながらも、大体はみんな好き勝手、言いたいことをばらまいてゆく。それをじぶんで拾い集めるのがすごく楽しくて、そのワクワク感は、この場所に出会ったときから変わることがない。そうしていつの間にかお開きの時間がやってきて、物足りないくらいの気持ちでいつも帰路につく。
探検部駆け出しという頃に、初めて足を運んだ地平線。それ以来、だいすきなボルネオのことは小出し小出しに聞いてもらうくらいで、それよりも、弾けたポップコーンを回収するのにとても忙しかった。
そんなわたしが今回、「報告者」をすることに……。報告会直前までの一月間、そのプレッシャーはずっしりと重く、あたまを抱え続けた。専門家でもなければ、輝かしい旅の功績や、話の華になるようなドラマチックな展開をまだなにも得ていないわたしが何を語れるだろうか。聴きにきてくれる人を退屈にさせやしないだろうか、いやいや、いったい誰がわたしの話を聴きに来るというのか。「わたしには早すぎる」と思った。
けれど、報告会への準備を闇雲ながらも進めていると、いつしかあれもこれもと、全部伝えたい欲張りな気持ちが出てくるようになった。日本にいる間に恋しくなる、もうすっかり耳に馴染んだお父さん・お母さんの話し声だったり、ふとした会話の回想だったり、村人の表情や村の景色、熱帯の直射日光、スコールの前の空の色、焼畑を吹き抜ける風。ロング・スレ村のなんでもない毎日の中にあるものこそ、わたしをときめかせているもの。東京ではぜったいに見つけられなかったもの。わたしが話したいことの全てだった。しまいには、2時間と30分じゃとても語りきれず、何度かのショートカットも避けきれず、駆け足に報告会は終わった。自分でも驚くほどの束の間だった。
地平線報告者になって、何よりもわたしが感動したのは、あんなにたくさんの人たちが、真剣にわたしの関心に耳を傾けてくれたことだった。これまで話を「聴きに」足を運んで来た私にとっては、それがとても新鮮だったのだ。なんだかボルネオの毎日が、自分だけのものじゃなくなったような感じがして嬉しい。
お洗濯しながら、籐を編みながら、「日本のみんなに教えてあげるのよ」と誇らしげに言っていたボルネオのお母さんたちに、少しでもはやく伝えたい、とっておきの土産話ができた。熱いお茶とお手製のお砂糖ドーナツをいっしょにつまむ昼下がりに。お母さんは、どんな顔をして聞いてくれるだろうか。(下川知恵)
■下川さんの第468回地平線報告会、私にとってまさに共感と驚嘆が何度も押し寄せてくるような2時間半でした。共感というのは、まず私と同じ住み込み(定住)型の旅だったこと。事前に情報を容易に集められる時代になったせいか、最近は短い日数の旅でも驚くほど密度の濃い体験をしてくる人が多いし、現地の側もお客慣れして、どうすれば外国人が喜ぶのかを心得ています。でも、そうやって「おいしいとこどり」をしている人にはけっして見えない世界が、私たちには見えてくる。下川さんの話のそこかしこに、うんうん、そうだよねとうなずく自分がいました。
◆もうひとつの共感は、地平線報告会という場に登場することへのプレッシャーです。何を隠そう(誰も聞いてくれないから話さないだけだけど)、私はいまから38年前の第5回の報告者です。当時は下川さんと同じ早稲田の学生で(6年生だったけど)、カラーシャの村に滞在したのは正味3ヵ月弱。そんな情けない自分が、居並ぶお歴々(つまり地平線会議の創設メンバーたち)を前に「報告」をすることになるなんて、どうしよう!
◆中学時代から洞窟探検にのめり込んだ私は、山と溪谷社から出ていた季刊誌『現代の探検』を毎号なめるように読み、大学探検部や観文研(日本観光文化研究所)で活躍してきた地平線の創設メンバーたちにミーハー的な憧れをいだいていました。この人たちに仲間として認めてもらえるかどうか、ここは一世一代の大勝負だぞと、ぎんぎんに緊張していたのを思い出します。
◆だから、夢中になってしゃべったあと、怖れ多い先輩たちから口々にかけてもらった温かい言葉に感無量でした。そして、自分が何をやってきたのか、何をやりたかったのかが、報告会の2時間半のあいだにすっとわかってきたんです。得がたい体験でした。これが私にとって、まさしく人生の「通過儀礼」だったと思います。これまでも下川さんはあちこちで存在感を示してきましたが、この報告会によって、地平線会議のなかに忘れ得ぬ足跡を刻みましたね。
◆驚嘆のほうは、まず構成の見事さ、表現のうまさです。住み込み型の旅をしてくると、彼らのこんなところを紹介したい、ここも知ってほしいとついつい欲が出て収拾がつかなくなってしまうのに、必要最低限に絞りきれている。ときおりはさまれる動画もとても効果的で、現地の空気感がリアルに伝わってきました。とくに「お母さん」の一日を時間軸で追いかけたコーナーは出色の出来。こうしたなにげない日常の積み重ねでしか表現できない世界こそ、宝物だと思います。デジタル世代はさすがに映像を使ったプレゼンテーションがうまいと、感心させられました。
◆観察のきめ細かさも特筆すべきですね。生活している人たちの手元をじつによく見ている。言葉がまだあまりしゃべれなかった時期だったし、下川さんがイラストを描く人だからなのかも。複雑なラタン編みの各工程をあれだけ手際よく説明できるのは、やっぱり観察力の賜物でしょう。「自分は、お母さんたちと同じ手つきでは洗濯物を洗えない」というセリフには、しびれました!
◆そして何よりも驚いたのは、まだ20歳なのになぜあんなにモノゴトがよく見えているんだろうという点です。ただ観察するだけではなく、それをプナン人の文化のなかに位置づけて、自分の言葉で語ることができる。村人たちの生業を語る冒頭で「女は村、男は森、焼畑の畑は老若男女の世界」などとずばり言い切ったり、橋と川の写真を見せながら、川が二つの村を隔てるものでもありながら人々をつなぐものでもあることをさらっと示したり。
◆なぜ下川さんがまださほど長くない滞在で、これほどまでの成果をあげることができたのか。もちろん、人なつっこい笑顔や素直さ、真摯さなども大きいだろうけど、ひとつには、すんなり村入りできたこともあるのでしょう。現地でフィールドワークをしている先輩の手引きと聞きましたが、おかげで時間を無駄にすることなく、ベストな家族とめぐり逢え、自然に受け入れてもらえた。その先輩にはいくら感謝しても足りませんが、でも彼にはこうなることがあらかじめ見えていたのかもしれませんね。
◆最後のまとめも圧巻でした。プナンの人たちの置かれている状況も、外部の人間である自分の立ち位置もよくわかっている。20歳の学生がこんな深い言葉を語れるなんて、信じられません。旅によって鍛えられたからなのでしょうか。38年前の自分はこんなレベルまでとうてい到達できていなかったなと、恥ずかしくなりました。最後に、「今日の報告会は、大好きな場所への愛情の、みなさまへのお裾分けです」と言い切りましたが、ああ、いい旅をしているなぁ、お見事!と、心のなかで快哉を叫びました。
◆狩猟採集から定住へと大きな変革を経験したプナン社会ですが、ケータイで世界とつながるようになって、さらに変化は続いていくことでしょう。そして、下川さん自身も変わっていきます。これから言葉がわかるようになると、家族たちの心のなかにもっと踏み込むことも多くなるはず。そうすると、村のなかのやっかいな人間関係に巻き込まれてしまうこともあるかもしれません。でも、いまのみずみずしい感動はきっと原点として残ります。そう、一度惚れちゃったら仕方がない、なんです。次の報告会ではぜひ、住み込み型の旅人しか語れない、人間ドラマも聞かせてください。(丸山純)
■地平線通信468号の次回報告会予告のキャッチコピー「森のおかあさんになりたい!!」に「もしかしたら」と思い報告会に参加したが、大当たりだった。私は、同じボルネオ島でも北部のマレーシア領サラワク州の熱帯雨林に住む先住民族の元に1989年から29年間、かれこれ30回ほどの訪問を重ねている。合計滞在期間は約2年。
◆1989年、無職だった私は「居候」としてボルネオの熱帯林の先住民族の村に住み込んだ。そのときの滞在でボルネオにはまり、そこで得た情報を雑誌に書いたことでジャーナリストデビューする。だがそれ以降のボルネオ訪問でも私はジャーナリストと名乗って滞在したことがない。なぜなら、居候こそが最高の関わり方だからだ。
◆居候をする。それはある家の「家族」になることを意味する。毎年のように滞在を重ねると、揺るぎない信頼関係が築かれ、こちらが質問をしなくても、彼らの日常、困っていること、本音などが判るようになる。一緒に行動すれば、彼らを取り巻く環境問題や社会問題も把握できる。
◆ところがサラワクに限って見てみると、この29年間、先住民の村を訪問する日本人の99%は、観光客を除けば、NGO職員、研究者、ジャーナリストなど、いい悪いは別にして、「調査の対象」として先住民族と関わる人たちだ。おそらく、インドネシア側でもそうなのかもしれない。
◆かくいう私もNGOなどに依頼されて先住民族の抱える問題(森林伐採やプランテーション開発での環境破壊など)について合同調査したことがあるが、やはり「調査する」側と「調査される」側との関係性は肌に合わず、ここ何年間かは調査から遠ざかっている。
◆私がサラワクに行ってまずやらねばならないのは墓参りだ。29年も関わっていれば、滞在当初お世話になったおじいちゃん、おばあちゃんは亡くなっている。その一人一人の墓に花を手向けるため、町の花屋で小さな花束を何十束と買う。調査者でこれをやる人はほとんどいない。
◆私が「森のおかあさんになりたい!!」のコピーでピンときたのは、下川さんは「居候」として「家族」としてプナン人と関わっているのではないかということだった。果たして、その通りだった。村にはお母さんもいるしお父さんもいる。女性陣と一緒に籐(とう)カゴを作り、一緒にご飯を食べる。是非、この関わりを続けてほしい。
◆サラワクには約30の先住民族がいるが、私と関わりの深いカヤン人はじつに穏やか。居候を続けていると、平凡な毎日でも心が充たされ、本気で「こんなに幸せなら、オレもう明日死んでもいいや」と思ったこともある。その理由の一つは、彼らが心優しいというだけではなく、こんなしょーもない男を大切な仲間だと心から「肯定」してくれるからだ。下川さんがその滞在にはまったのも、おそらくそれを感じ取ったからだと推測する。
◆ところで、ボルネオ島のインドネシア側のプナン人のことは本では読んだことはあるが、実際の写真や映像に触れたのは初めてだった。サラワクのプナン人と同じところや違うところの比較ができたのは面白かった。やはり同じなのは、籐製品の作り方やその紋様、吹き矢、そして川を基盤に共同体で生きることだ。
◆ちなみにインドネシアでもサラワクでも村の名前には「ロング」が多用されるが、これは「川と川とが出合う場所」、つまり合流地点という意味である。若干の違和感を覚えたのが、インドネシア側では、せっかくの獲物を全世帯に配分するのを嫌がる人がいるとの話。うーん、サラワクのプナン人ではそういう事例はまだない。こちらがお土産でもちこんだお菓子でも、小指の先くらいにしかならなくても、そこにいる全員に均等に配分する。「分かち合い」の社会が変貌する過渡期なのか。続報を聞きたい。
◆下川さんがあそこまで村に受け入れてもらっているのはやはりその素直さにあるんだろうな。「居候」を続ければプナン語もマスターし、ますますはまっていくのが目に見えるようだ。本当に「お母さん」になる日が来てもおかしくはない?! ただ、これからも滞在を重ねると、変わりゆく先住民族の生活にいつかは「居候」に加え、日本社会にメッセンジャーとして彼らの問題を伝えなければならない日も来るかもしれない。
◆私はそれもアリだと思う。ジャーナリストならそれを「ネタ」として扱うが、「居候」は愛すべき家族を「守る」ために声をあげるからだ。居候ほど互いに強いパワーを交換できる手段はない。下川さん、ボルネオを楽しんでください。(樫田秀樹 2017年10月、岩波ブックレット「リニア新幹線が不可能な7つの理由」を上梓)
■秋に計画している『地平線40年祭り(仮称)』の日程を一応10月14日(日)東京ウィメンズプラザで、と考えています。その日なら会場確保できるとわかったためです。が、日曜日は17時までしか使えないので、たとえば前日13日の土曜日から新宿区スポーツセンターで始めて「前夜祭」のようなものを、いつもの「北京」あたりで賑やかにやるのもいいかもしれません。もう少し議論して早めにお知らせします。
ネパール・ランタン谷の人々の支援に果敢に動いているチベット学者、貞兼綾子さんから最新情報が届いた。綾さんは今回、樋口和生さんの次女の桂衣さんとランタン谷に向かった。
4月24日午後ネパールの首都カトマンドゥ着、明朝一気にキャンチェン(3800メートル)へ飛びます。キャンチェン・ゴンバの落慶の法要を執り行ってくださるチューキニマ導師のご都合と暦によって、法会が早まりました。明日、4月25日。明日は西暦の4.25、あのランタン村を襲った悲劇の大震災の3年目にあたります。その日に山寺の再建がかなったことは、ご縁なのかもしれません。亡くなった175名の村人への何よりの供養になることでしょう。キャンチェンでは準備万端調ったという知らせも入りました。
4月25日チベット暦3月10日12時、カトマンドゥから導師チューキニマ・リンポチェご一行を案内して、気温5℃のキャンチェンの台地に到着しました。急なスケジュールの変更にもかかわらず、村人総出でお迎え。ゴンバまでの道は祝福を受ける老若男女たちの笑顔で包まれました。1時間以上に渡った、鏡に閉じ込めたこの地の神々を清浄な環境にお戻りいただく儀式も滞りなく厳かに華やかに執り行われました。儀式中、キャンチェンの台地は雪まじりの雨が降りしきり、リンポチェから「これは幸先の良い祝福の雨です」との言葉を賜りました。
導師ご一行がカトマンドゥへ下山された後、わたしはもう一度、再建されたキャンチェン・ゴンバに招ばれ、村人一人ひとりからお祝いと感謝のカター布をいただきました。最後に施主から一言とのリクエストがあり、短く次のメッセージを伝えました。
「今日のこの儀式を経て、このお寺はみなさんの手にもどりました。リクチーやテンジン・パサンたち亡くなった人たちも安堵していることでしょう。このお寺そのものは100年と経ていませんが、この地に導入された仏教の教えは350年にわたります。ドゥッパ=カギュ派の修行者たちの時代がおよそ90年、つづくニンマ派ドマルワの流儀が今日まで続いています。あと50年100年と信仰の火をともし続けてほしいと願っています」……
また、新しくこの寺の堂守として在家僧が1年づつ鍵をあずかることになり、寺の宝物(多くが村にあった大きな寺のもの)の記録と確認がされました。小さな仏像たちがこの小さな村の来歴を語っています。
最後に村人に代わって、ご支援いただいた日本のみなさまへ心より感謝申し上げます。
昨日は朝から快晴、キャンチェン台地の下段、プレマタンからランタン=コラの川べりまで散歩しました。プレマというのは砂のこと。下段の広い範囲が砂の堆積地になっていて、あちこち砂を掘った穴があります。その近くの少し高くなった場所の大きな岩に二つの慰霊碑がありました。一つは、法政大学体育会山岳部、1990年3月21日建立。1989年3月21日、ランタンリルンに挑戦した3名の若者の碑。もう一つは金子信夫さん(1944〜1999)という人の鎮魂の碑。2003年7月ご遺族の建立。そばに咲いていたサクラソウとアヤメの花を供えました。
昨チベット暦3月19日、前日の荒れた天候もおさまり、雪線の下がった谷の縁取りもくっきりみえていた。早朝よりカルマの長男の結婚式の段取りが進んでいた。花嫁は下方のハンサ、チベット人キャンプからやってくる。母親がランタン村出身とて、たった3軒ほどになったチベット人キャンプからは総出で前日から泊まり込みでやってきた。カルマは大なだれで最愛の奥さんと次男をなくした。奥さんのチュトゥンはカンチクマの出身だった。正確に言えば、カンチクマに嫁いだカルマの父方のオバの娘と結婚した。その家族や親戚、同じクランに属する人たちがやってきました。そういえば、私が結婚式に出たのはこのニマとツェリン・ダワ以来、16年ぶりです。震災から3年たって、そういう機運が生まれたのは歓迎すべきことだと思う。花婿26歳、花嫁28歳。花嫁の姉妹3名はフランスに住んでいるのだとか。参列者の亡くなったチュトゥンの姉妹兄たちは式の間中、涙を拭っていた。久々に花嫁を迎えたランタン村、新しいカップルはカルマのホテルの仕事を手伝うようだ。
ネパール大地震の前からだけれども、ほとんど日本人のトレッカーをみなくなった。カトマンドゥの町でも日本人らしい人たちをみるのはまれだ。ヒマラヤの山旅を楽しむ人たちはどこへ行ってしまったのだろう。ケチケチバックパッカーたちはこれに代わる何かをみつけたのだろうか? キャンチェンでは韓国人たちが多い、この宿の主人が5、6年韓国へ出稼ぎに行っていたこともあって、ほぼ毎日のように韓国人トレッカーが滞在している。先日は、19名の障害者登山のグループで対岸の5000メートルあたりで数日滞在したあと、この宿に戻ってきた。障害者は9人であとはサポートの人たち。折しも、朝鮮半島の北と南が手を携えて良好な関係へ踏み出した日であったから、私はダイニングで夕食後の歓談をしている人たちの前に飛び出して、思わずスピーチを始めた。身体の不自由な人たちを高山に導いたこともすてきだけど、南北の両指導者の英断を心から歓迎し喜んでいる、と伝えた。
■河村です。時々、地平線にお伺いして刺激を受けています。思えば40年前、1978年に関西と関東の大学探検部が合同で学生探検会議を法政大学で開催しましたね。丁度、同年マッケンジーを下り、その報告会で皆さんの前で報告させていただいたことを覚えています。そのころは、まだ自分なりの視線での旅の形も漠然としており周りの情景よりも川を下ることに重きを置いての川下りでしたが、以来、立て続けに3回この流域に足を踏み入れ身を置くことでその地に愛着がわき、自分の故郷のようになったマッケンジーでした。
◆最後に行ったのが1983年。以降、会社の仕事が忙しく週末だけの活動になっていました。それから今年で35年たち、63歳になったのを機に体力のあるうちに、また……望郷の念に似た感情がわいてきました。40年たった故郷の姿を見てみたいというそのような気持ちで、今回また計画を立てました。
◆最近マッケンジー川もだいぶメジャーの川になってきました。ほとんどの旅人がマッケンジーの本流の1700kmの川下りです。しかし私はその水系の一番長い支流ピース川から出発することで、自分自身のマッケンジーとしています。とはいえ最上流からとなると4300kmもありとても一回だけの川下りでは終らず、ましてやこの歳ではとても無理と判断、途中の町から、河口の部落タクトヤクタックまでの約3800kmを今回の計画としました。この計画には前回行きつけなかった、「舐めたら潮の味のする海水域(北極海)」までです。前回よりもさらに200km漕いで海に出ようと思っています。
◆私は長年輸入の仕事をしてきましたが、昨年今まで付き合ってきたサプライヤーが投資会社の傘下になり考え方が全く別な組織になったことと、流通の考え方の変化、会社が後2年で半世紀の節目を迎える、体力の衰えを実感してきた……等々の、背中を後押しする要因が重なり、それに加えて思考をリセットすることも今回の目的です。定年のない会社経営の節目で、もう一回、と昨年から計画しました。
◆5月27日に出発します。早くお知らせしなくてはと思っていたのですが、年明け早々に行った検診で不良個所が見つかり、また、昨年ちょっと無理したのがたたり重い腰痛に悩まされ今でも通院しているような状況です。不良個所はその後の検査で今のところ問題なしだけど要観察となっています……。でも行く準備が万端整った現在の状況で行かない手はないので、遅ればせながらここに簡単ですが計画書を添付いたします。体力と気力が持つか否かは行ってみてのお楽しみ、十二分に堪能してきます。堪能ついでに次の計画を立ててしまっているかもしれませんね!! また、帰国しましたらご報告いたします。(河村安彦)
■地平線通信468号(2018年4月号)は、4月11日印刷、封入作業をやり翌12日午後、新宿局の集配係の人に取りにきてもらいました。今月も印刷当日になって江本の居住拠点に厄介が生じ、フロント原稿をメールで送り込んだのはなんと「4月11日18時14分」。榎町地域センターに駆けつけた時は、通信はほぼできあがっていました。参加してくれた方は、以下の皆さんです。忙しい中、16人もの仲間が来てくれてほんとうにありがたかった。
森井祐介 車谷建太 山本千夏 杉山貴章 伊藤里香 高世泉 兵頭渉 下川知恵 久島弘 前田庄司 野田正奈 白根全 加藤千晶 松澤亮 光菅修 江本嘉伸
■地平線通信の「印刷係」を僕が担当するようになって、もうかれこれ12、3年が経つ。「こんにちは〜!」毎月の発送日の午後4時に森井祐介さんのお宅のドアを開けると、つい今しがたまで原稿と格闘していたであろう熱気の残る部屋の奥から「ごくろうさ〜ん! いやいや参ったよ〜。江本さんのフロントがまだ届いていないや〜(笑)」。大抵この決まり文句と共に森井さんが笑顔で出迎えてくれる。
◆森井さんは通信発送作業の屋台骨を支えるレイアウトの大ベテラン(今現在、森井さんを差し置いての発送作業はあり得ないので、森井さんの囲碁センターのお仕事の無い水曜日が発送日と決まっている)。発送日数日前から江本さんをはじめ、通信編集メンバーからの校正や注意書きのメールでのやり取りが怒涛の如く飛び交い、当日ギリギリまで飛び込んでくる原稿達を、長年愛用しているパソコンを駆使しながら見事に捌き切り、毎回印刷当日の午後4時には「奇跡的」と言っても過言ではない程の“神業”で、焼きたてホヤホヤの通信の版下を僕に手渡してくれる。毎回皆さんの元に届いているこの通信が読みやすいのは、森井さんが原稿の配置を考え、文字の大きさやフォントを調整してくれている功績の賜物なのだ。
◆僕はその大切な版下を受け取るや否や、予め森井さんが用意してくれた2500枚程の印刷紙が積まれた台車を引いて一目散に榎町センター2階の印刷室に籠り、印刷機と折り機をフル稼働させて通信を刷りあげてゆく。余談であるが、この瞬間こそが至福であり、僕はまるで名のある鯛焼き屋の職人になっているかのような心持ちに酔いしれている。
◆印刷作業終盤に差し掛かる頃、森井さんが絶妙なタイミングで江本さんのフロントと長野さんのイラストが載った最終印刷ページを手にやって来て、次の工程である封入作業の為に集まったメンバー達の待つ3階の調理室に刷りあがったばかりの通信の山をなんとか届ける。封入作業が始まればもう安心で、駆けつけてくれたメンバー達の人海戦術(時には15、6人も!)のおかげで和気藹々とスムーズに作業は進み、8時前には晴れて餃子の「北京」の円卓を楽しく囲むことになる。
◆毎度この時に江本さんと森井さんだけは決まって心底安堵の表情を浮かべている。数日続いた通信作りがまさに終わった瞬間なのだ。僕はビールをグイッとやりながら、そんなお二人の充足した笑顔を横目に、毎回土壇場で本気になって、奇跡的に通信発送を間に合わせ続けている江本さん&森井さんの“完全燃焼ゴールデンコンビ”の凄さに敬服しているのだった……。
◆さる4月24日、江本さんより2才半年長の森井さんは80歳の誕生日を迎えた。これは目出度い! いつも発送作業に尽力してくれている森井さんに絶対に喜んで欲しい!と、かなり早い時期から江本さんは誕生会の企画を呼びかけ、当日は9名の通信製作主要メンバーで江本邸の食卓を囲むこととなった。
◆日野和子さんお手製の可愛い旗のデコレーションが部屋中をホンワカさせ、テーブルに江本さんが腕によりをかけたハンバーグシチューをはじめとするご馳走が並ぶと、何だか僕にとっては懐かしの、小学校以来の“お誕生会”の雰囲気に……(笑)。先日の発送作業中に、加藤千晶ちゃんは皆の寄書きをこっそり集めていて(なんと「北京」のママの一言も)、その色紙の真ん中には長野さんによる森井さんイラストがドーーン!
◆更に長野さんは別途イラストを額縁に入れてプレゼント! 更に更に、そのイラストが入った大小のトートバッグが…! お花も贈呈し、大阪から中島ねこさんが差し入れに送ってくれたバームクーヘンと、大西夏奈子ちゃんお手製シフォンケーキには80の数字ローソクをあしらえて、皆でハッピーバースデーを唄うと、森井さんは満面の笑みで「80年生きてきて、実は誕生会なんて初めてだよ!」と喜んでくれました!
◆美味しい料理に舌鼓を打ちながら、皆が森井さんにご自身の半生のお話をせがむと、森井さんは戦時中新潟に疎開したこと、集団就職の際にはとある印刷工場に奉公に出たことなど、今とはまるで違う貴重な時代のお話う披露してくれ、皆は釘付けになったのでした。なるほど。印刷室で僕が垣間見た、あの紙捌きの上手さはその頃からの由縁があったのですねぇ。そんなお話の最中にも、江本さんは皆の料理が足りているか気配りをしていたり……。
◆楽しい宴の時間はあっという間でしたが江本さん、森井さんに喜んでいただける最高の誕生会になってほんとうに良かったですねぇ! 改めて、今のご時世にこんな素敵な誕生会を開ける仲間達がいることって素晴らしいなぁ、と感動した一夜でありました。森井さん、僕は森井さんとの通信発送作業が大好きです。お身体に無理のかからない範囲で、これからも一緒に楽しく作業をやりましょうね!(車谷建太 本業は津軽三味線奏者)
■4月の報告会に参加しました。久しぶりに夜に一人で出歩いたので、家のことが心配になって最後まで座っていられないのではと考えていたのですが、杞憂でした。ぐっと話に引き込まれて気がつけば21時。初心を思い出させるような、いい報告会でした。
◆実は3月にも少しだけお邪魔しました。その日はちょうど長女の春休みが始まった日で、夕方に表参道で用事があったので子ども二人を連れて思い切って足を伸ばしてみたのです。でも、小学生の長女はともかく、歩き出した1歳の次女を連れて行くのはやはり無謀というもの。わたしの日常そのものでもありますが、頭の半分くらいを1歳児に持っていかれてまったく集中できません。せっかくの荻田さんの話がほとんど聞けないどころか、お騒がせして周りの方にも申し訳ありませんでした。今回はそのリベンジのつもりもあったのです。
◆で、一人になってゆったり椅子に座ったら、すぐに意識がボルネオに飛んでいきました。日常から抜け出して、わずか2時間半のショートトリップ。その始まりは川と緑の風景です。下川さんはたしか、隣村につながる橋の上から撮った写真だと説明していましたが、わたしにとっては『千と千尋の神隠し』でいうところの湯屋に渡る橋。異世界への入り口でした。
◆特に興味深かったのは、村の人たちの暮らしの風景です。男たちが森にテントを立てるやり方。女たちが料理をする姿。洗濯の様子。手仕事をする際の手際の良さ。生きる、に直結することってなんて美しいんでしょう。すっかり見惚れてしまって、その光景をいまもふとした瞬間に思い出します。
◆ほんとうに毎日を目まぐるしく過ごしているので、新しいモノが入ってくる余裕なんて自分には全くないと思っていました。家事をして、仕事をして、子どもの世話をして。いまはその繰り返しだけで容量いっぱい。他の何かが入り込む余地なし。遊びなし。こう書くとなんてつまらない毎日なんだろうという気がしてきますが、人生のなかでいまはそういう時期なのだと思っているから、あんがい充足しています。
◆でも、仕事でも用事でもなく、ただ自分の興味だけのために子どもと離れてみたら、そこにできた意識の余裕に、ボルネオの暮らしの風景がすとんと入ってきた感じがしました。まだ何か入る隙間があったのかって自分でもビックリ。むしろ枠が拡張されたのかしらん。報告者が二十歳の学生さんというのもよかった。いつの間にか、隣の席に昔のわたしが座っていました。二十歳。わたしが地平線を知る前夜。あのころ憧れたひと。思い描いた夢。そこからずうっと続いてきたいま。なんだか予想した未来とはずいぶん違うところにいる気がするなあ、でも全然変わっていないものもあるよなあ、そんなことを考えさせる若さのすがたでした。
◆「もう時間だから、あとは二次会で」。そう言う江本さんの言葉にはっと我に返って、そそくさと会場を後にしました。戸山公園を抜けても、地下鉄に乗っても、二十歳のわたしはついてきます。その子を引き連れたまま、自宅の最寄り駅から大きな橋をわたって、コンビニに立ち寄り、夜食のカップラーメンと朝食用のパン、次女の好きなバナナを買って帰宅。家族が寝静まったリビングで小腹を満たし、ざぶんと湯に浸かって、わたしはやっとお母さんに戻ったのでした。
◆短いけれど、いい旅でした。次のチャンスがいつあるのかは分からないけれど、またひょっこり顔を出したいと思います。一人のわたしで。(菊地由美子)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。そして、そのほかに、先月から協力いただいている「1万円カンパ」に多くの方々から支持が寄せられています。通信費を別にしてきょう9日現在92万円にもなりました。中にはお1人で10万円、5万円お寄せくださった方もおられます。地平線会議への熱い応援歌として深く感謝するとともに責任の重さをひしと感じています。先月も書きましたが、「1万円カンパ」については、後にまとめて公表させていただきます。通信費を払ったのに記録されなかった場合はご面倒でも江本宛てお知らせください。振り込みの際、近況、通信の感想などひとこと添えてくださると嬉しいです。住所、メールアドレスは最終ページに。なお、1万円カンパは「郵便振替」の通信費とは違って「銀行振り込み」ですのでお間違いなきよう(念のため、再掲します。みずほ銀行四谷支店 普通2181225 地平線会議代表世話人 江本嘉伸)。
藤原謙二/森美南子(花田麿公元モンゴル大使の書くもの毎回素晴らしいです)/砂漠に緑を(10,000円 通信費として)/池田祐司(10,000円 報告会にはなかなか行けませんが、通信に刺激をいただいています)/中岡久/山田まり子(20,000円 これまでの分、これからの分として、皆様への感謝の気持を込めて)/大野説子(4,000円 通信費として)/斉藤宏子(10,000円 我が家のベアが4月22日、麦丸と同じように静かに息を引き取りました。18才4か月でした。実さんが逝った直後からずっと私に寄り添ってくれていた大事な家族。江本さんにも散歩連れていってもらいましたね。どうか、これからもお元気で。〈「へのかっぱ号」で太平洋漂流実験を敢行した故斉藤実氏夫人〉)/井倉里枝(10,000円 先日は森井さん、連日来てくださって嬉しかったです。武田さんや岸本夫妻もきて、にぎやかでした。地平線のつながり、ありがたいです。40周年企画、楽しみです。なにかできることあるでしょうか? 秋、参加したいなぁ。〈「テンカラ食堂」あるじ〉)
■ちょっと大げさかもしれないが、私は「生涯一編集者」という言葉に特別な親しみを感じている。編集現場の第一線で、著者やライターの人たちと一緒に仕事ができる楽しさ、特に直接会って話ができる喜びは何ものにも代えがたいものだった。しかもその対象が山や冒険の世界となると、なおさらドキドキ、ワクワクしたものだ。もうかれこれ40年におよぶ編集者生活で、今でも忘れられない登山家や冒険者は何人もいた。
◆1980年代から90年代の半ばにかけて、ヒマラヤなどの高所登山は隆盛を極めていた。ヒマラヤの初登頂時代はすでに終わっていたが、無酸素、少人数のアルパインスタイル、バリエーションルートからの登頂へと、時代はまさに「より厳しく、より困難を求めて」、アルピニズムそのものの躍動が感じられたころである。一方、冒険者も自らの限界に挑戦すべく、極地や砂漠で厳しい自然に対峙していた。そんな熱い時代だったのである。
◆なかでも、幸運にも仕事上で、直接の知遇を得た地平線会議でもおなじみの冒険者たちがいる。北極圏1万2000キロで頂点を極めた植村直己、アルプスやヒマラヤで数々の記録を残した長谷川恒男、アラスカを舞台に写真と随筆に多大な事績を残した星野道夫、8000メートル峰全山登頂にあと一歩に迫っていた山田昇、サハラ砂漠縦断、北極点単独徒歩到達などを達成した河野兵市、そしてヒマラヤ登山を世界レベルに主動した小西政継たちである。数回にわたる河野の報告会は、いつも達成感に輝いていたものだった。しかしいよいよこれからというときに、彼らは志半ばでヒマラヤの高峰や極地に逝ってしまった。
◆あれから20年、時代は潮が引くように減速していった。バブルの崩壊、阪神・淡路大震災、オウム真理教事件、そして東日本大震災。次から次へと、大きな災害や事件が起きていた。そんなとき、記憶の底から蘇ってくるのが、彼らの生きた「時代の輝き」だった。なんとか記録に留めておかなくてはいけないと強く思った。彼らのそうした行為のほんの一端にでも接することができれば……、私は現場に足を運ぶことにした。
◆まず、あれほどの冒険家であり登山家である植村と山田がともに厳冬のマッキンリー(デナリ)に遭難したことに衝撃を受け、夏ではあるが遭難したルートから旅を始めた。当初は、彼らの痕跡を訪ねることなど思いもよらなかったが、アラスカのシシュマレフで星野の身元引受人を訪ね、コツビューで植村の痕跡を追った。さらに翌年、グリーンランドのシオラパルクで植村を知る何人もの古老に話を聞けた。フンザのウルタルII峰BCで長谷川の墓を訪ね、ヒマラヤのマナスルBCで小西の終焉のときを祈った。河野の生まれた旧瀬戸町にも母親を訪ねた。それは今から思えば、「巡礼」にも似た旅だったと思う。
◆こうして6人の冒険者たちの足跡を訪ねる旅を始めて、改めて強く感じたことがある。それは辺境とか僻地とか呼ばれる地域に住む人々の思いの深さだった。人と自然がうまくバランスを取りながら生きる辺境の地。自然は正直で、時に過酷ですらある。だからそこに暮らす人々は自然を畏怖し、どこまでも謙虚で慎ましかった。グローバル化が叫ばれて久しい現代にあって、どこまでも固有で独自の文化を育むローカリズムと多様性に興味尽きない旅でもあった。
◆表現しきれていないもどかしさは残っているが、「生涯一編集者」の記録として、またリアルな辺境への旅の記録として、『未完の巡礼冒険者たちへのオマージュ』を刊行することができた。
*
■なお、『未完の巡礼』に「後日談」を設けてみた。それは写真展開催という新たな試みである。近藤信行著『安曇野のナチュラリスト 田淵行男』という書籍を編集したのを機会に、今から1年ほど前、田淵行男記念館で「アジアの小国とそこに暮らす人々」という写真展を開かせてもらったことがある。今回はそこにヒマラヤと北極圏の写真を加え、「アジアから北極圏へ」という2部構成にした。写真集は何冊も編集しているのだが、自分で企画する写真展はまったくの初めて、新たな試みに心が妙に騒いでいる。(神長幹雄)
アジアから北極圏へ
アジアの小国とそこに暮らす人々
冒険者たちと6つの旅の物語
2018年6月1日〜6月11日
10時〜18時(休館日=木曜日、最終17時まで)
四谷三丁目RAMP坂ギャラリー
TEL 03-3359-3413
■ドルショック、第1次オイルショックと叩かれながらも、必死に持ちこたえていた我が家の息の根が完全に止ったのが、第2次オイルショックのときだった。高3の秋、町工場を営んでいた父は、もう養えなくなった、18歳なのだから自活しろ、とりあえずこの学校を探した、ここならタダだしメシもあるといった。それが看護学校だった。
◆望みもしない学問に突然従事しろといわれても身に入るはずもない。落第さえしなければいいやとのらりくらり身をかわしながら、食事はお代わりし放題の寮食だけ、移動も交通費がかからぬようどこまでも自転車と、実に暗かった学生時代を鮮明に覚えている。ところが皮肉なことに、この悪辣な環境がその後の自転車屋としての私を確立していくのである。なぜ看護師になったのか、なぜ自転車なのかとよく問われるが、タダで行けたから、交通費が払えなかったからにすぎない。
◆そして就職を決めて2年働き、これまで我慢したのだから当面は自由にさせてくれと、自転車での長旅に飛び立った。初めて降りたった異国は北の荒野アラスカ。ちなみにここでは、ユーコンをカヌーで下ろうとしていた長野画伯のグループに出逢っている。そして6年。旅の完了を元職場に報告すると、おう待っていたぞ、明日から来いとの声が向こうから転がり込んできた。
◆帰国したときポケットに入っていたのはわずかに12ドル、尻に火がついているこちらとしてもすぐに働きたい。そんなわけで成田から走って(といっても30km)久しぶりに家にたどり着いたと思いきや、1週間後には東京へととんぼ返りしての職場復帰となった。その後もう一度海外放浪を実践したときもまったく同じ状況になったから、しかたなく手にした看護師資格の強みをつくづくと痛感した。
◆そしてそのまま働いていたら、とうとうこの日がやってきた、というわけだ。いまはやりの「60歳の私から18歳の私へ」風にいけば、「いやでしかたなかった学業で得た仕事を定年までつづけますよ。オイルショックに、そして両親に感謝しなさい」ということになる。
◆最初に配属されたのは小平市の国立療養所で、太平洋戦争の兵士がなおも数多く入院する病棟であった。次の法務省時代には300人からの殺人犯の健康管理に携わり、千葉県にきてからは一貫して救急医療の最前線に立っている。精神科では引きこもりや家庭内暴力、薬物中毒者の回復を手助け、消防ではいきなり消防司令(旧日本軍の中佐に相当)の襟章をつけ救急隊の教育を担当、そしていまはいかにして家族が納得のいく最期を迎えさせるかを考えながら終末期のがん患者と家族を支援しつつ、年間300人ペースで看取る日々を送っている。
◆なりたくてなった看護師ではなかったが、その合間に自転車での世界一周もできたし、日々が変化にあふれる仕事にも携われたし、幸せな仕事環境にいられたことにはすなおに喜びたい。ならびに地平線に参加する20代の方々にアドバイスしたいのは、アウトドアと仕事の両立を図りたかったら看護師になることだ。体さえ頑強なら経済的に困ることはないから。
◆両親は現実どころか性格まで貧乏性だった。その血を引いた私もまた筋金入りの貧乏性である。だからきっと生きるかぎり仕事はつづけるだろうし、自転車にも乗りつづけるだろう。そのときその未来には、どのような私が待っているのだろうかとよく想像する。医療の発達から寿命は伸び、人生100年時代が現実味を帯びてきたが、長生きしました、でも寝たきりでした、ではつまらない。自活できてこその人生である。
◆そこを悟った一部の自治体が老健施設にスポーツジムを併設したところ、寝たきりが減ったうえに医療費まで削減されたというハナシがときどき流れてくる。自分の足で活発に移動する地平線からみれば、ばかばかしいまでにあたりまえだが、予防医学でも筋力増強が老化防止の早道であり保険財政の改善につながることに、ようやく気づいてくれたようだ。
◆もちろん私も機会のあるたびに、筋力がアップして身体的に健康になりますよ、いろいろなところに自分の力で行けて精神的にも健康になりますよ、すると医療費も削減できるので経済的にも健康になりますよ、人間健康がすべてなのです、ですからみなさんもどんどん自転車に乗りましょうと訴えているのだが、反応がどうにも鈍いのが悩ましい。
◆どういうわけか私は歳をとるのがとてもゆるやかだ。18歳になってやっと同級生たちといっしょに運動できるようになり、まともに働きだしたのは35歳、大学は40歳、修士にいたっては50歳に届いたころになってやっと終わった。自転車やマラソンの記録のピークも40代の半ばだったから、通常の人の6割ペースで老化していると考えれば計算が合う。すなわちいま36歳、人生60年とすれば、暦年齢で100歳。そこでもくろみたくなるのが、80年間自転車を踏みつづけた体と精神と家計の結果報告だ。地平線会議80周年イベントでこの一席をぶち上げること、それが私の最終目標である。
◆さてみなさん。本業の多忙さからしばらく顔が出せずにもうしわけありませんでした。万年人手不足の看護業界では時間が自由にならず、定年だからとお払い箱にもしてくれません。現場残留となりましたが、それでも業務量は減らしてくれました。これからはいくぶんか、行きやすくなります。(埜口保男)
■イチローが「マリナーズにとってダライ・ラマのような存在」と言われてなんとなく現役引退っぽい待遇となり、一方でまったく新しいかたちのプレーヤーとして大谷翔平が大人気だ。両人とも自分を磨くことに時間と金を惜しまない点は共通している、と思う。
◆私はBS放送をよく見るのでこの年齢になって野球だけでなくテニス、ゴルフ、カーリングまで守備範囲は広い。広いが、ただそれだけなのが欠陥であろう。もう少し世の役に立つようなことを、と思うがまあ、仕方ないか。少しは役に立つかもしれないのは今も上智大学で学ぶロシア語だが、「通訳士」のレベルにははるか届かない。ただ2020年にロシア人が出没する場所付近で一緒にウォッカを飲むことくらいはできそうだ。
◆実は平成の終了まであと1年だそうだ。来年の5月号は新しい時代になっているのである。カレンダーのこともあり、平成の次はどんな年号か?が当分メディアの話題だが、すっぱ抜くことは難しいだろう。すっぱ抜かれたら別な年号に変えてしまうからだ。30年前、平成ではなく「地平」を予言したことが恥ずかしい。そんな凡俗が思いつきそうもない、荘厳な名になるのにきまっている。(江本嘉伸)
風来坊のビジョン・クエスト
「道すがらの、何の変てつもない土地の暮らしに触れられるのが、自転車旅の魅力かな〜」というのは青木麻耶さん(31)。京大森林科学科から東大の修士を出て銀座にある企業でOLをしていたときに、風来坊の虫が騒ぎ出します。一年半で退社し、環境問題への興味から、NPO法人津留環境フォーラムへ。 当時スタッフは5名。3万人の社員の一人だったOL時代とは全く違います。「失敗ばかりの苦い思い出」の中で、馬耕や狩猟など自然と共生する先人の知恵に接しました。様々な事情で二年半後にNPOを退職。逃げるように選んだのは、幼少期に住んだアメリカへの“旅”でした。 少しだけサイクリングをしたことがあった自転車を旅の手段に決めたものの、パンク修理も野宿もほとんど経験の無いまま、'16年5月に南北アメリカ縦断に出発します。一年に及ぶ旅の中で、ボリビアのアタカマ砂漠での体験が強烈でした。250kmの砂地では自転車を押して歩き、一日20〜30kmしか進めません。人にも会わず「毎日泣きながら」ひたすら自分と向きあう日々。挙句に事故で死にかけます。 一万一千キロを走破して一年後に帰国。海外の旅で母国のことを知らない事に気づき、日本国内を「お金もないし、やむなく自転車で」縦断。この4月から大分県湯布市に移住しました。麻耶さんは旅に何を見て、なぜ大分を選んだのでしょうか。今月は青木麻耶さんに、風に吹かれた旅の話をして頂きます。お楽しみに! |
地平線通信 469号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2018年5月9日 地平線会議
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