2018年4月の地平線通信

4月の地平線通信・468号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

4月11日。厄介ごとが重なって、このフロント原稿に着手できたのは昼過ぎになってからだ。サッカーワールドカップのハリルホジッチ監督の突然の解任には驚いた。本番まで2か月余りの時点での交代劇。選手も協会も耐えに耐えた末のたとであろう。ボスニア・ヘルツェゴビナ出身。名前は「親友(ハリル)」「指導者の子孫(ホジッチ)」の意味とウィキには書かれているが、自尊心を傷つけられた闘将、簡単には引き下がらないかもしれない。

◆それにしてもフランスまで行って監督に「クビ」を宣告した日本サッカー協会の田嶋幸三会長の役回りはしんどかったであろう。後任監督に西野朗技術委員長(63)が決まったそうだが、この人は「岡ちゃん、こと岡田武史監督の早稲田の先輩なんだそうだ。こうなった以上、にわか評論家は不要、「ぐわんばれ・日本!」と吠えるしかない。

◆スポーツの話題ばかりで恐縮だが、女子レスリングのパワハラ問題は栄和人監督の強化本部長の辞任でなんとなくガスが抜けた感じだ。相撲の貴乃花部屋の問題と言い、意外にスポーツ界の厄介は後を引いている。1964年10月、私は駒沢競技場に日参していた。そこがオリンピックのレスリング会場だったからだ。前橋支局の駆け出し記者だった私が東京に呼ばれたのは単純で、多少はロシア語が話せるだろう、とみられたからである。実は、語学力はろくでもなかったが、見知らぬ文化圏から来るスポーツマンたちと話すことには興味があった。気がついたら「レスリング担当」になっていた。ロシア語が通じるソ連東欧圏(当時)に格闘技に強いアスリートが多かったのだ。

◆なんだ、レスリングか、と思った人は見通しが甘い。あの東京オリンピックで、レスリングはフライ級で吉田義勝、バンタム級で上武洋次郎、フェザー級で「アニマル」と呼ばれた渡辺長武がそれぞれ金メダルを取り、グレーコローマンでも2選手が優勝、あわせて5個の金メダルを日本にもたらしたのだ。ひとつの種目で5個の金!現場は大した盛り上がりだった。

◆新米記者に課せられたのが、計量現場の見回り。レスリングはボクシング同様、体重計測が厳密で規定をほんの少しオーバーしても失格を宣告される。早朝から、体重計に載り、オーバーしていれば厚いタオル地のコートをかぶり、ランニングして汗を出し、再び体重計に乗る。その繰り返し。計りに乗る時は1グラムでも軽くしたいとスッポンポンになるので、毎朝珍妙な風景を目にすることになる。

◆レスリングは、男のスポーツ。長くそう信じて疑わなかった。それが2004年のアテネ五輪になって女子種目が登場、日本では男子以上にスターを輩出した。世界大会13連覇をやった吉田沙保里(2012年)、史上初めてオリンピック4連覇を達成した伊調馨(2016年)など国民栄誉賞を手にする選手まで現れた。そうした中で起きたコーチによるパワハラ事件だった。

◆先月の地平線通信で「地平線会議の台所事情」としてやや切ないお金事情を説明し、10年ぶりに「1万円カンパ」をやります、と訴えた。実は、3月12日、郵便局に42000円の発送費を振り込んだら残額なんと「9132円」しかなかったのだ。もちろん銀行以外のお金はあったのですぐ地平線が壊滅するわけではないが、さすがに“追い込まれた感”は強かった。やせ我慢してみても毎月毎月それなりの仕事をしているとお金はどうしても出て行く。よしっ、10年ぶりにカンパをお願いしよう!と何人かの古参世話人に相談して賛同を得、カンパに踏み切った。

◆11月頃、40年を祝う「祭り」を考えている。その準備のため、そしていい会場を抑えるためにもお金は必要だ。地平線会議という活動を維持するに足る、とお考えの方はどうかご理解の上ご協力を、と書いたら、ゆっくり反応があった。9132円だった残高は少しずつ増え、4月11日現在、なんと「641160円」になった。ほんとうにありがたい。

◆中には「この火消さないで」とまとめて何口も送金してくださった方もいるし、3人家族ひとりひとりの名で3万円をカンパしてくれた家族もいる。仲間を代表して心からありがとう、を申し上げるとともに、あらためて責任を痛感している。ただ、毎月カンパ請負人の名を列記することは今回はしないことにし、11月頃、一度に皆さんの名を公表することにしたい。どうかご理解ください。もともと地平線会議は「租庸調」の思想で動いていてお金のない人は汗をかこう、という考えだ。

◆きょう11日の東京新聞夕刊は神奈川県大和市が「70歳代を高齢者と言わない都市」宣言をした、と第2社会面トップで伝えた。かねて私もそう考えていたのでふむふむ、とひとりごちた。しかし、それが80歳に近くなるとそうも言っていられず、日々いろいろな自覚がある。そのことは近くまた書く。ただ、大和市に限らず、70はまだジイさんでもバアさんでもないのだよ、みなさん。(江本嘉伸


先月の報告会から

南極小春日和

荻田泰永

2018年3月23日 新宿区スポーツセンター

はじめに流した5分の動画で旅がわかった

■この話をいったいどうまとめればいいのだろうか。荻田泰永さんの話を聞きながら思いをめぐらす。ALEという南極ツアー会社のサポートのもととはいえ、荻田さんの単独無補給南極点到達は完璧な50日間の遠征だった。気象条件も予想通りで装備のトラブルもない。うっかりミスもない。それは17年にわたる北極圏での活動の経験とそれにもとづく装備ゆえなのだがそれだけ荻田さんの能力が高いということでもある。

◆報告の最初に流した5分の紹介動画でそれは十分にわかる。ほぼフラットな雪原を淡々と歩き続けたら何事もなく着きましたという話なのだ。つまり北極を活動の中心にしてきた荻田さんには夏季の単独無補給南極点到達はたやすかったということだ。そしてお金と体力さえあれば南極は観光旅行できる現実にも拍子抜けしてしまう。これはどうしたものかと。

◆2017年11月10日に火星移住計画でおなじみの極地建築家の村上祐資氏とチリのプンタアレーナスまで飛ぶ。100キロを超える荷物なので二人で分担してオーバーチャージを払う方が安いということか。日本を出発してカナダのトロント経由でチリのサンチャゴへ。そこからパタゴニアのプンタアレナスまで36時間の旅。プンタアレナスは南極への玄関口でもあり南極探検および観光のサポートとコーディネートをする会社のALE(Antarctic Logistics & Expeditions)がある。

◆今回、荻田さんは形式的にはALEのツアーの参加者として南極点をめざすことになる。単独行ではあるものの毎日ALEと衛星携帯電話で連絡を取り毎週1度ユニオングレーシアの医師の問診を受ける。そして荻田さんはGPS発信機を携帯しALEからモニタリングされる。報告会のあと、そんなんでもよかったんですか?と荻田さんに聞いてみたところ初めての南極だし自分はビビリなのでそれを承知の上でなんにも問題はないとのこと。

植村直己さんの時代と変貌した南極

◆1980年代、植村直己さんが南極大陸遠征を犬ぞりで計画していた頃はアルゼンチン空軍に輸送を頼んでいた時代。フォークランド紛争が勃発するとアルゼンチン空軍は計画に協力ができなくなりあえなく遠征が中止になった。時代はかわって現代ではALEなどの民間の企業が冒険としての南極遠征のサポートだけでなく南極への観光客も受け入れるツアーを催行するようになった。南極はもはや観光地になっている。

◆11月15日、ソ連時代の4発の大型輸送機のイリューシンでプンタアレナスから南極大陸のユニオングレーシアまで4時間のフライトで移動。機体前部が乗客、後部が荷物。雪原に着陸し、車輌で8キロ離れた大型テントのあるキャンプ地に移動する。11月17日、ツインオッター機でヘラクレスインレットへ移動。20分ほどのフライト。機体内に固定された60日分の食糧と燃料を積み込んだソリの重さは約100キロ。初めての南極なので余裕をもたせている。荻田さんとソリを降ろしたツインオッターが離陸するのをみて、ああ、始まるなという思いがわいたという。

◆ヘラクレスインレットから南極点までは1130キロ。南極大陸のフチに位置するも氷に覆われていて標高は200mある。そこから徐々に標高を上げていき2800mの南極点に向かう。1130キロで2600m。アップダウンはあるもののなだらかな登り基調。はじめの30キロで一気に1000mあがる。南極大陸の海岸線からの傾斜はきつい。南極は北極と比べてフラットな雪原で恐怖感はない。

◆歩き始めると毎日同じ繰り返し。南極点から吹き降ろすカタバ風の強弱と風向きが地形や気象条件によって変化するものの天気はよく内陸に入るほど晴れの日が多い。風速は15メートルくらいがせいぜい。北極圏の3日間続く風速30メートルの立つこともままならないブリザードに比べれば楽。ただ北極は無風のこともある。ホッキョクグマもいないし氷が流されることもないので安心して熟睡できる。氷の状況で位置や風景が変る恐ろしい北極のようなことはない。南極には当然せりあがる氷の壁もなく乱氷も無いが時折、大きなクレバスはある。しかし見えるスケールなので巻いていけば問題はない。曳くソリの重さはスタート時に100キロあるも燃料と食糧を消費するので日々その重さは減っていく。

ロバート・スワンとの遭遇 南極点へ

◆30日目で500キロの中間点に到達。そこからは3週間で南極点に到達の見込みがたつ。10日分の食糧があまることから5日分は余計なので積極的に食べるも食べ過ぎて腹痛に。摂取カロリーは5000キロカロリーから徐々に増やし最大5200キロカロリーにする。500キロ地点には滑走路がありドラム缶に入った燃料をデポしてある。赤いテントがありそこでロバート・スワンさんに思いがけず会う。スワンさんは80年代に初めて北極点と南極点に徒歩で到達した探検家で「北極を歩く」という著作もある。1989年に明大OBの登山家の大西宏さんらとアイス・ウォークで北極点に到達。その後、南極点に向かう直前の1991年、ナムチャバルワで大西さんは遭難死する。亡くなった大西さんを想って南極点に行ってくれとスワンさんに言われてジンとする。

◆12月25日のクリスマスはトナカイの角を頭につけネットの読者からは、「せんとくん」と言われる。1月1日はパック入りの鏡餅でお正月を祝う。小さく小分けされた餅でおしるこにする。1月2日、47日目。南極点まで残り68キロ。夏の南極は気温が下がっても−23度くらい。冬の南極は−80度になり南極点には物理的に夏しかいけない。太陽の光の力で気温は低くてもポカポカしてテントの中がものすごく暖かく鍋の水が凍らないことも。

◆1月5日。50日目。南極点のALEのキャンプの人らの出迎えを受けつつ南極点に到着。もう終わるなという安心感と寂しさ。南極点の銀色の玉のモニュメントには1959年に調印された南極条約に署名した日本・アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・アルゼンチン・オーストラリア・ベルギー・チリ・ニュージーランド・ノルウェー・南アフリカの12カ国の旗が立つ。実際の南極点は南極の氷が毎年移動するため少し離れたところにある。その記念碑のオブジェは毎年新しいものに交換され過去のものはアムンゼンスコット基地の中に保管展示されている。北極に比べれば楽だった南極点到達とはいえ体重は10キロ落ちてた。

衣類など装備の工夫

◆南極点に到達したところで前半の報告は終わり後半は装備の話に。今回着用したポールワーズのウェア上下は高密度で織ったコットン100%の素材のベンタイル。ベンタイルは第二次大戦でパイロット服の素材として採用されたもの。防風性がありながら吸湿性と透湿性があり低温で乾燥した南極に非常に適している。ゴアテックスのような防水透湿素材は極地の低温では透湿フィルムの内側が結露凍結してしまうので南極では使えない。

◆ウェアの色が最初は濃いオリーブグリーンだったものが50日後には淡い色に変化している。紫外線による退色もあるが全体に白っぽく見えるのは蒸散した汗の塩分が付着しているとのこと。極地のウェアについては汗の処理、汗の挙動が大事で肌に触れるアンダーウェアは常にドライにさせなければならない。紹介された写真は染み出た汗でベンタイルのジャケットの袖が全体的に濡れていたがそれでいいとのこと。乾燥した南極では太陽光の強さもあり濡れていてもどんどん蒸発し乾く。

◆北極では4枚のレイヤリングうち一番外と次の3枚目と4枚目の層であえて凍結させて対応する。ウェアは環境によって適したものが変ってくる。アウトドアにコットン素材が必ずしもダメということではないのだ。コットンの素材のよさが生かせる環境もある。 

◆ソリはロケット開発をしてる北海道の植松電機で作ってもらう。素材の選択から製作、耐寒衝撃テストに立ち会っている。携行食のチョコバーは森永製菓の研究所でクランベリーなどのドライフルーツ・ナッツを混ぜたミルク・抹茶・ホワイトチョコの3種をオーダー。油脂を多めにいれ低温でも硬くならないよう工夫がされている。 

◆このように装備を自分で作る意味とは3つある。装備とは自分の試行錯誤と工夫の結晶であること。自分で作るとトラブルが起きたときにどう対処していいかわかること。そしてなによりノウハウのフィードバックを生かせるのが面白いという。

同時期に歩いたチームは2つ

◆今回南極点まで同時期に歩いたチームは2つあり、イギリス人の単独と中国人の普通の女の子のジン。荻田さんの1日前にスタートしている。彼女は一人では無理なので何度も南極点までいってるポール・ランドリーにガイドしてもらっている。彼女は3年前に南極に歩いて行けるという事実を知り私にも出来る!と思い立ち、歩いていた。荻田さんが500キロの中間点で追い抜いた3日後、54日で無事ゴールしている。途中、彼女らは3回補給を受けている。今回の荻田さんの予算がざっと2000万円とのことなので彼女はそれ以上の予算がかかっているのではないかとのこと。

◆南極点にあるアメリカのアムンゼンスコット基地は100〜200人の常駐で冬季でも100人ほどいる。中は暖かくTシャツ。広い事務所と体育館や音楽スタジオまである。高床式の構造で雪の量によって高さを変えられる。ALEのキャンプ地はそこから1キロほど離れたところにあり観測の妨げとならないように観測地の風上にあたる場所は立ち入り禁止になっている。基地の巨大な電波望遠鏡はピカピカ光ってるので数キロ先から見え南極点を目指す際のいい目印になる。

◆後半の最後はまとめになる。2000年22歳で北極圏に行って17年。北極で起こることはほぼ想像できるようになった。写真や地図、地形などから氷の流れもわかる。カナダのスミス海峡の状況も自分のシュミレーションから外れることはなくなり未知なることが減りやってみたらその通りになってきた。そして気候変動からか北極圏のコンディションが難しくなってきたのと40歳になったことだし北極圏に行きはじめた22歳のころのワクワク感を再び味わいたかったり、知識として知っているカタバ風を体験したみたかったり、地球のもう一つの極地の南極を体験してみたかったり、南極にはもっと面白いルートがあるのではないかと思ったりと、まずは一度南極に行ってみたいと今回の遠征になったとのこと。

◆南極ではゆっくり55分歩いては5分の休憩の繰り返し。10時間ほどの活動時間。北極では12時間から15時間は活動する。南極では活動中はGPSをほぼ使うことなく太陽の位置から緯度を把握。50メートルの誤差で進める。200メートルずれることはまずない。

今度は、若者を連れて歩きたい

今後は1ヶ月で600kmくらい若者を連れて北極圏を歩いてみたい。流される氷、絶えず変る風景、ホッキョクグマ、3日間ブリザードに吹かれるともとの場所にあえなく戻されるという困難な要素のある北極と比べて南極は進んだだけ進むが北極はそうはいかない。北極点への3度目の無補給単独行の挑戦をしたい。そしてハワイに行きたいと。最後に、北極の映像、ホッキョクグマに炸裂弾を撃つ動画や氷が薄くなってドライスーツを着こんでカヤックを牽引しながら突破する様子を写したのち報告会は終了した。

■ここで私自身のことを少し。5年ほど前からブルベというフランス生まれの超長距離自転車競技に参加するようになった。先週は自分たちで設定した360kmのコースを4人で24時間で走った。鹿島神宮をスタートして房総半島の燈台をつないで最後は東大の安田講堂がゴールというルート。200kmを越える長距離走はどうしても途中で飽きが来て居眠りをしてしまう。今回は久しぶりに居眠りで落車した。幸い千葉の沿岸の砂の堆積した路肩だったので無傷だったのだが普通の場所であれば救急車だっただろう。

◆来年は100年以上続くパリ・ブレスト・パリ(PBP)1200kmが開催される。初参加の3年前は時間内にゴールできず無念の涙を。来年こそは規定時間内に完走してこんな無茶苦茶な競技を卒業したいと思う。そういえば荻田さんは80日で南極点まで1126km、PBPはパリとブレスト往復1200kmを90時間。ほぼ同じ距離をまったく違う時間で移動する面白さだなと荻田さんの報告を聞きながら思いました。(小原直史


報告者のひとこと

新しい世界を見に行くきっかけのお試し版のような

■南極点無補給単独徒歩は自分にとっては特に難しい課題でもなく、新しい世界を見に行くきっかけのお試し版のような遠征でした。報告の最後に少しだけお話しした北極海は、全く別の世界です。自分にとってはそちらこそが本懐であり、最も難しい挑戦が北極点無補給単独徒歩です。

◆はじめからできると思いながら南極点を実行し、実際にできたというのはまったく冒険的でもありません。ただ、これで一度南極大陸を体験したので、今後またあらたな計画を思いつけば南極を歩くかもしれません。いまから18年前に北極に初めて訪れ、それから一人で通い続けた日々は、簡単な課題から徐々に難しくステップアップしていきました。南極でもそのステップを踏み始めたのかもしれません。

◆本来ビビリな私は、知らない場所でいきなり想像の範疇を超えた行動をできない気性があります。少しずつ自分のできる範囲を広げていって、やがて誰もできないことをやってみたい、それが私の望む道です。3度目の北極点無補給単独徒歩への挑戦を視野に入れつつ、来年は素人の若者たちを連れて北極圏の海の上を500kmほど歩きたいと思っています。(荻田泰永


人柄が現れた講演会

■3月23日、折しも南極観測隊が長い任務を終えて成田に到着したその日、ニコニコ顔で到着ロビーに姿を現した隊員たちの出迎えを終えて、新宿スポーツセンターに向かった。帰国後荻田さんがあちこちで講演会を行っているのは知っていたが、なかなか都合がつかず、地平線会議で報告会をするというのでようやく話を聞けると楽しみに出かけた。

◆講演が始まって最初の5分、出発から南極点到着のダイジェスト映像が流された。「今日お話ししたいことはこれですべてです」という荻田さんの言葉に会場から笑いが起こる。荻田さんの言わんとすることは理解できた。北極を舞台に18年活動し、死の世界と隣り合わせに生きてきた荻田さんにとって、今回のルートを歩くこと自体はそれほど難度の高い課題ではないだろうということは、出発前から私にも想像できた。

◆南極へのアプローチとピックアップを Antarctic Logistics & Expeditions(ALE)社が担い、非常時に備えて現在地を示す信号を発信し続けるビーコンを携帯し、衛星携帯電話でALE社と毎日連絡を取り、週に1度電話で医師の問診を受けながら南極点を目指す。「ALE社の管理下に入った状態」での徒歩旅行は、寒さや海氷、シロクマに怯えながら歩を進める北極での活動から比べると「想定内」の範囲で進めることができたという。

◆「想定内」の行動だったとはいえ、行動する環境に合わせて 試行錯誤を重ねた装備の開発や食料の工夫など、決して手を抜かず、最悪の事態を思い描きながらの準備はさすがで、そういった準備があって初めて「想定内」に抑えることができたのだろう。ソリを引いてサスツルギを超える映像を見た時、すぐ横を歩けばもっと楽に行けるのにと思っていたら、案の定「これは絵にするためにわざわざ越えた」との説明があり、荻田さんの飾らなさや実直さを改めて感じることができた。そういった人柄に周囲が巻き込まれて多くのサポートを受けることができたのではないだろうか。

◆気負わず、現場で感じたことや考えたことを素直に話す荻田さんの言葉を聞いていると、ただ50日間歩いただけなのかとつい思ってしまいがちだが、その言葉の裏側や行間には、これまでの経験やそれに裏打ちされた慎重さ、用意周到さ、粘り強さ、したたかさ、そして圧倒的な行動力があることを忘れてはいけない。そういう意味では、聞いている側の想像力や理解力が試される良い講演会だったと思う。(第57次南極越冬隊長 樋口和生


地平線ポストから

キャンチェン・ゴンバ落慶会に行ってきます

■地平線会議のみなさまへ ランタンプランの諸事情から、4月29日のキャンチェン・ゴンバ落慶会の参加は見送ろうかと考えていましたが、連日のように村人からお寺内部の映像や写真などが送られてきて、心は一気に3800メートル上へ飛んでゆきます。2日前に届いた動画には、再建されたお寺に納める経典を人々が持ち寄る様子が映されています。女性たちは背中に真新しい黄色い布に包まれた1巻ないし3巻ずつを背負い、男衆は肩に担ぎ、ゴンバ前の受付に集まってきます。

◆記録をするのは在家の僧侶たちです。みな一様に喜びがはじけて、歓喜の祝い唄が口をついてでてきます。奉納を終えたものたちは次々に歓喜の輪に連なって、大合唱です。自分たちの寺が再建されるということが、どんなに嬉しいことなのか、伝わってきますね。

◆4月7日、地平線会議のお仲間、兵頭渉さん所属の大阪市立大学山岳会の総会に招かれて出かけてきました。会長は伴明(ばん あきら)さん。市立大山岳会とランタン谷とは1961年ころからあの大震災の2015年まで深いご縁をつないでこられました。私も通い始めて40年は経っていますが、私たちは一度も現地でお会いしたことはありません。

◆一度、ランタン谷まで3日半の行程、トゥリスリとベトラワッティとの中間付近ですれ違いました。1978年晩秋のことです。伴隊長以下市立大山岳会のメンバーは、3度目の挑戦でランタンリルン峰(7246メートル)の初登頂を果たして下山(凱旋)するところでした。私はほとんど記憶していませんが、この時、伴さんに当時のネパール紙「The Rising Nepal」に掲載された初登頂の記事を差し上げたようです。

◆この関西での市立大山岳会の総会ではその当時の映像の記録(毎日新聞社)も映写されました。かなり退色していましたが、非常に貴重な記録だと思います。2015年大震災後初めて現地を訪問し帰国してすぐに、伴さんと兵頭さんから呼び出され、ランタンプランへの支援のお申し出をいただきました。そういう深いご縁もいただいての関西行でした。

◆4月22日はチベット暦の3月7日、村人にとってはあの大なだれの起こった日にあたります。西暦で言えば4月25日ですが。村のユル地区公民館で3年目の法要が営まれます。お話しを元にもどします。ランタンプランの事務局では落慶会に施主が出席しなければまずいだろうといわれ、4月24日ころ(まだチケットが取れていません)に出かけます。ゾモなど家畜群もそろそろ夏の放牧地へと高度をあげながら移動を始めるころ。ランタン酪農組合の懸案の仕事も待っています。もうひと踏ん張りしてきます!(貞兼綾子・ランタンプラン)

ゾモTがゾモTを呼ぶ!

ぞもTタイトル

■ネパール・ランタン谷の地震復興を応援するためのゾモT。大地震から3年が経とうとしています。3月末、ゾモ普及協会のメンバーが江本さん宅に集まり、ランタン村へさらなる応援をしよう!と頭をひねりました。新ゾモTのプランや手拭いやマグカップもいいね!(ほぼ画伯の個展の影響)などと応援グッズの計画もまとまり、画伯の新イラストの参考になる写真や動画を貞兼さんから送ってもらいました。どんなイラストが上がってくるのか楽しみです!

◆「この間、ほんとにたまたま、ゾモTを着て出社したら、落合さんから発注メール(大阪市立大山岳会総会での販売用)がきたのです! びっくりです!」ゾモTをプリントしてくれている長野の鶴田さんからのメールでした。そうです! ゾモTがゾモTを呼ぶんです! 季節到来です。もうじき、新イラストのゾモTができますので地平線のみなさん、ゾモTを着てゾモTを呼んでください!! この春、村人の心の拠り所であるお寺が地震前とほぼ同じ姿で再建されました。貞兼さんは、また今年もランタン村へ出発されます。(田中明美


原健次の森を歩く
■4月3日、宇都宮の原典子さん宅に地平線の本好きたちが集結した。7年前、3.11の直前、天に逝った夫君、原健次さんの「森」を再訪したのである。久島弘、坪井伸吾、緒方敏明、丸山純、長野亮之介、落合大祐、江本の7人。化学者であり、ヴィオラ奏者であり、鉄人ランナーであった原健次の世界は地平線仲間もそのほんの一隅に足を踏み入れただけだ。いつも手作りのケーキで地平線報告会を盛り上げてくれる典子さん、いま再発したガンと闘っている。そのあたたかい心に深い感謝をこめて次に退院した際、また原さんの森に出かけるつもりだ。(E)

進行方向左に小高い丘が見えます。そこに、二人で立っています

 6年ぶりに癌が再発しました。昨年の秋、例年のように地区の健康診断を受診したところ、大腸と肺の精密検査を受ける必要ありとの報告を受けたのです。その少し前、病院での定期検診で、5年完治の朗報も受けていただけに、驚きました。さっそく精密検査を受けると、大腸には異常がないものの、胸水が溜まり、胸膜に腺癌がカビのようにはびこっていて、全身の骨に多発性骨転移が見られるとのことでした。あちこちの骨に癌が点在しているというだけで、絶望に襲われました。

 原健次が亡くなって7年が過ぎましたが、残されたたくさんの本、楽器、趣味で集めた品物の数々、手作りの本やアルバム等、まだほとんどの物の整理ができないまま暮らしてきました。これからだんだん不自由になると思われる私の生活も考えなければいけません。今後は、病院での治療と家庭での療養を繰り返しながら過ごすこともわかり、まず地区の包括支援の方々の協力で、電動ベッドを導入することになりました。しかし、壁という壁には本棚がある今の部屋の様子では、ベッドは置けません。

 手始めに「本片付け大作戦」を決行することにしました。どの本も原健次の思い入れのあるものばかりで、片っ端から紐で結んで廃棄処分をするというには忍びなく、まず健次に近い方々に来ていただき、気に入った本を引き取っていただきたいと思いました。ベッドを置く部屋は時間の猶予もなく、近所の気の置けない友人6人が引き取ってくれたり、涙をのんで廃棄してくれました。あと書斎と書庫、納戸でも本棚が壁を覆っています。これは地平線会議の皆さんにお願いして、健次の思い出と一緒にずっと大切にもっていただきたいと、江本さんと丸山さんに相談しました。

 そして早速、『原健次の森を歩く』を出版したときに発送作業に来てくださった皆さんを中心に呼びかけていただいて、精鋭7人が4月3日にはるばる宇都宮まで来てくださいました。しかし、作業はどの部屋でも一向に進みません。みなさんが、手に取る本に見入ってしまうからです。ましてや廃棄なんてできないと言われる始末。この日は持参してきたリュックに気に入った本を詰め、また後日ゆっくり整理をしに来たいと言い残して帰られました。

 翌日、私は姉夫婦に付き添いをお願いして、新幹線で福岡に行きました。「今会いたい人に今会いたい」という思いがつのってきたからです。福岡では、6人の友人が待ってくれていました。途中気分が悪くなり、何度も吐きながら博多駅に着いた時は、大事をとって姉夫婦が救急車を呼んでくれていました。検査や点滴をして、翌日友人たちともなんとか会うこともでき、友人のお宅でミニ高校クラス会の思い出話や、ギターと私のオカリナのセッションも楽しみました。

 新幹線での帰途、彦根に住む妹からメールが入りました。「新幹線が京都を出て10分過ぎて、進行方向左に小高い丘が見えます。そこに、二人で立っています」と。その場所を姉と目を凝らして、今か今かと待っていました。遠くに手を振っている妹夫婦を見つけ、思わず涙が溢れました。

 皆さんに心配をかけてしまった旅。娘たちや息子、多くの方々に力を借りた入退院の日々。これからもきっとたくさんの方々にお世話になると思いますが、一日一日を大事に、感謝の気持ちを持って生きていきたいと思います。

 地平線のみなさんも来月、二度目の訪問を予定してくださっています。どうぞお好きな本を手に取って愛読書の一冊に加えていただきますよう、お待ちしております。(宇都宮市 原典子

原健次の森、再び

■平成25年に『原健次さんの森を歩く』の発送作業で宇都宮にある原さんの自宅に訪れた。噂に聞いていたとおり膨大な本が書棚に並べられていた。あれから5年。発送作業に関わった人たちに興味ある本をもらってほしい、と、のメールが届いた。実は前回お邪魔したときに森の中で玉虫を見つけてしまったように、はっ、とした本がある。トム・マクナブ、『遥かなるセントラルパーク』。大陸横断ウルトラマラソンをテーマにした小説だ。見た瞬間、思わず持って帰りたくなった。その興奮を誰かに伝えたかったが、周りに分かってくれそうな人がおらず、心の中で叫んだのを覚えている。

◆久しぶりに訪れた原家、以前本で埋もれていた一室は現在リフォーム中で本は確かに減ったな、と、いうのが第一印象だった。しかし実際本棚に触れようとすると、どこから手を付ければいいのか見当がつかない。触りにくい理由のひとつは本を移動させたことによって法則が崩れてしまったこと。前回この部屋に来たとき、本棚にあった本たちは原さんが作った秩序に従って並んでいた。それはこの部屋の支配者であった原さんの秩序だったかもしれないが、本たちはそれを越えてお互いが細胞のように連携し、この部屋を構成している印象があった。だが今はただ途方もない分量としての本がある感じなのだ。

◆とりあえず端の方から一冊取り出す。その奥にも、その奥にも本があり年輪のようだ。昔は表面だけではなく、きっと3次元的にもルールがあったのだろう。それでも驚きの本は、比較的簡単に発掘できる。もう2度と手に入らないと思っていた海外ツーリング関連の本。海外ツーリングの会の主催者側である僕が手に入れられない本を、部外者である原さんが持っている。なぜだ? と、思う。

◆なぜこんな本が? それは本を発掘していた周りからも何度も発せられた言葉で、原健次の森の広さと深さ、に、ただただ驚くばかりだ。しかし一人の人間がこれだけの本を読むことが本当に可能なのか? ただ集めただけなのでは? なにか認めたくない嫉妬心が働く。そう思いながら辞書を開くと、無数に引かれた赤線が、これでも疑うのか、と、反論してくる。

◆自分の本、『ロスからニューヨーク走り旅』、も、出てきた。パラパラめくると奥さんの典子さんあてに書いたはがきまで挟まっている。そうか。この本は原さんの死後すぐにできた本だったのか……。もし原さんが存命のうちにこの本が出来たら、僕はこの本を原さんに贈ってはいない。なぜなら競技者だった原さんに、ランニングの一つのスタイルを提示したこの本を贈るのは挑戦状を叩きつけるようなものだからだ。だが、このどこまでも広く深い本の森の中にいると、そんなのは単なる自分の思い上がりで、原健次は僕の挑戦状など忽ち消化して、自分の細胞の一つに変えてしまったと思う。

◆本というのはエネルギーの結晶体みたいなもので、自分で本を書くと、いかに膨大なエネルギーが必要なのか身に染みて分かる。書き手だけでなく関わった人の思いがすべて手に収まる一冊に凝縮されている。自分が選んだ本は交換可能な部品などではない。かつては原さんの細胞のひとつだった本たち。原さんが自分で選んだ本たちを、僕の本棚の一部に加えます。いつか手元を離れるまで大事にします。(坪井伸吾

彫刻家のモノローグ

 昨日は、おつかれさまでした。

 ぼくは、ほんとうに行ってよかったです。参加させてくださって、ほんとにありがとうございました。原健次さんの スゴさ、すばらしさを、あらためて体感しました。でも、まだ、ぜんぜんなにも知らない。ただ、ひたすら「スゴい!」って驚愕でした。ある意味、ショックでした。

 

 お昼ご飯が、「美味しいなあ」とか、こんな自分で いいのかなーと想いながら。ぼくは、衝撃と満足感に充たされていました。そのうえ、貴重な本をたくさんいただいて持ち帰って。

 「自分工房」に広げてあらためて眺めて、だいたい、自分に、この本を活かすような力が有るのか? って感じ。え〜っとまず「水木しげる」を一冊読了いたしました

 

典子さんは 疲労困憊だったとおもいます。

休む間もなく九州行くって、だいじょうぶかな〜っておもいました。

昨日は、ぼくらは、すっかり、接待されちゃいましたね〜。

感謝感謝であります。

昨日は、ぼく自身が、かなり「嬉しかった」状態だったのだとおもいます。

帰宅したら、心身ヘトヘトで、すぐに寝てしまいました。

次回、また集いがあるなら ぜひ参加したいです。

よろしくお願いします。

明日から、帰省します。

母親の介助みたいなことです。(緒方敏明 彫刻家)


2013年3月 地平線通信407号から
原健次さん遺稿集完成!!

■2年前、急逝した原健次さんの遺稿集「原健次の森を歩く」が完成した。典子夫人の意を受けて地平線会議の丸山純さんが制作した304ページの力作。原さんが書き残した多くの原稿、エッセイ、書簡、論文などがまさに深い森を形成し、原健次を知らない者にも興味深い一冊となった。

◆章立ては、「はじめに――森歩きの始まり」(丸山純)第一章「風とともに走る」第二章「世相と人を見つめて」第三章「森と庭で遊ぶ」第四章「光と花を追いかけて――ウルトラじーじ欧州花追いラン」第五章「地層の結び目をたどる」第六章「不思議の男、原健次」(江本嘉伸)第七章「原健次を偲んで」「駆け抜けた道 原健次・年譜」「あとがき――原健次の森を歩く」によせて(原典子)、となっている。

◆書斎の写真、整理されたアルバムなど意をつくした解説とともに紹介される原健次さんの世界に瞠目する人は多いだろう。市販本ではなく、部数が限られるため、ご家族のご了解を得て、地平線の仲間たちには複数部の「貸し出し」をさせて頂きます。希望者は江本宛に連絡ください。(E)


東京滞在日記

■先日、江本さんに色々と相談を兼ねて東京へ行った。メールや電話でのやりとりで話をしようと思ったら出来るが、やはり会って目も見て話すことを大事だと思っているので、ちゃんと話をしたい時は必ず会いに行くようにしている。たわいもない会話の中でもヒントが隠されているし、私はやっぱり人の熱を感じたい。大阪〜東京は、いつも夜行バス移動、今まで新幹線には1度しか乗ったことがない。あの密封感がたまらなく苦手、飛行機は大丈夫なのに、なんでだろう。

◆着いたらすぐ朝風呂へ、いつもの温泉は着いたら閉まっていて、なんと定休日だった。ひとまずモーニングを食べて出直し、女性専用サウナを見つけられたので移動。1時間半すっきりして、気分爽快!予定していた写真展を見に行く。21_21 DESIGN SIGHT「ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち」。時代が変わって写真家の表現方法が変わって無限に広がった今、以前ふと気付いたことがある。  最初カメラが好きだと思って始めたと思っていたら、デジカメが出てきてから、なんだか違うことに気付いた。カメラじゃなくて、その先にあるものが好きなんだと、レンズの向こうにあるもの。 それがネパールでありヒマラヤでありドルポであるように、心を熱くさせる物。それを表現するために私の場合はそれが自分の生き様で、カメラが一つの手段だった。星野道夫さんの本で昔読んだことをいつも思い出す、同じ感覚だと思って嬉しくなる。

◆お腹空かしておいでってことで、お昼ご飯は食べずに江本邸に向かった、エモカレーをガッツリ食べるために! 東京の地下鉄移動、やっと慣れてきたかなぁと思いきや、逆方向に行っていて、13時ギリギリ到着。まずは、エモカレー食べる! お腹ペコペコ&美味しい〜。お代わりは3回もして気がついたらパンも3枚食べていた。満腹になりエモカレーを食べに大阪から来たかのようになりそうだったが、本題へ、色々と相談に乗って頂く。やっぱり来て大正解だった、時間を作って頂いた江本さんに感謝です。 ありがとうございました。

◆その時、頂いた本が数冊。中に「原健次の森を歩く」があった。それは、昨年の12月に地平線報告会で出させて頂いた時、ケーキを差し入れして頂いた方の旦那様の追悼の本だった。 私はお会いしたことなかったけど、本を読んでいると周りから本当に愛されていた方なんだと思った。そして、凄い整頓された資料に本に部屋にびっくりして、まさに題名の通りだった。

◆頭の中がそのまま現れてるのだろうと感動して、自分を振り返ると私はハチャメチャだ……笑。その奥様の手作りケーキ、なんとも贅沢な物を頂いていたなぁ〜と、今更ながら感激している。この場をお借りして、お伝えさせて頂きたいです、クリスマス前でのケーキには癒されました。ありがとうございました。

◆エモカレー食べ過ぎて夜ごはんは入らなかったので、次の日、朝は抜いて昼ごはん兼用で今度はエモシチュー&ハンバークを食べた。ハンバークまでもお代わりして、また食べ過ぎている?!と思いながら、たらふく食べた。これは、ついつい食べ過ぎてしまうのが、エモカレー&エモシチューなんだろうと思う。運動がてら、江本さんのランニングコースを歩いてお散歩、四ツ谷から神保町へ。

◆満開の桜を見ながら川沿いを歩き、心地よい気温に快晴でとっても気持ち良い! しかも江本さんとのお喋りしながらのお花見、これまた贅沢! 面白かったのが、アイスを食べてる人を見て江本さんが食べたいなぁ〜っと、子供みたいに言った、思わず笑った。初めてみる靖国神社は、想像以上に大きかった。平日なのに観光客があふれているのにびっくりしてたら、アイス販売してるところを見つけた。もちろん食べた。しかも並んで。とっても良い思い出となった。 そこから日本武道館の頭が見えて、びっくりした、ここもまたイメージと違った。

◆今回は、思いもしなかったお花見観光まで出来てとってもよかった、有難い時間だった。夜は、恩田真砂美さんの紹介で「クライミングファイト」の飲み会に誘って頂いた。たまたま両サイドに座っていた方が、ピオレドールアジアを受賞している最前線のプロクライマーさん達だった(伊藤仰二さん、一村文隆さん)。質問しまくっていたら何でも答えてくれて、自然体がカッコ良い! 雑誌で読んでいた世界が隣にあった、やはり生で聞くとリアルさが全然違う、究極の生と死の間のような世界を聞かせてもらった。ずっと話を聞いていたら、この人たちは、クライミングの星の下に生まれた人達だなぁって思った。弾丸で行った東京、思わぬ出来事が沢山あって充実した時間となった。また、行きます、ありがとうございました!(稲葉香 大阪の山住まい人)

初大阪で「テンカラ食堂」通い

■3月の末、休みが3日間できました。そこで、今までまったく足を踏み入れたことのない、「大阪」へ行ってみることにしました。テーマは碁を打てるところをみてくること(私の勤務先は新宿囲碁センターという碁席です)。それと大阪市内の私鉄に乗ってみること。江本さんにその旨を伝えたら、食事をするならテンカラ食堂へいったらどうだと、地平線の仲間に連絡をしてくれました。

◆宿は天満橋近くのホテル。テンカラ食堂へは地下鉄谷町線天満橋から天神橋筋六丁目駅まで。小さな駅だろうと思ったらとんでもない、とても立派な駅で、阪急電鉄の駅でもありました。夕食まで、ちょっと時間があったので阪急電鉄に乗ってみました。関大前駅まで行き、引き返して天神橋筋六丁目駅へ。目標の井倉里枝さんの経営するテンカラ食堂へ一直線。食堂の戸(扉ではない)を開いて奥をみたところ、岸本夫妻が待っていてくれたことはわかりますが、東京にいるはずの武田さんがビールのグラスを握って座っている。なぜ……? たまげたネエ。岡山の出張の帰りに寄ったとのことでした。皆さんはビール、私は定食、おかずは鶏を薄く切ったものに卵の衣を付けて焼いたもの、菜の花とエノキの入った具沢山のみそ汁などなど、出されたお盆の上は、いっぱいではみ出しそう。ちょっと多めの定食でした。

◆2日目、地下鉄南森町駅近くの碁席を訪ねました。営業時間は夕刻から。もうひとつの目標、日本棋院梅田囲碁サロンをたずねることにしました。なかなかみつからず、梅田近辺をウロウロ。ここは大阪駅というより阪急の地元という感じでした。地下通路ではなく、地下街はとても広くて、なかなか目的のところにはたどりつけません。それでもとにかく大阪で碁を打ってきました。

◆夕食の時間にはまだ早いので電車に乗ることにしました。南海電鉄の始発駅「難波」。すばらしく広く、ひっきりなしに電車が発車してゆきます。2枚づつ買った手元にある切符は、阪神電鉄「野田」、大阪市交通局「天下茶屋」、「南森町」、「野田阪神」。とにかく天神橋筋六丁目駅へたどりついてふたたびテンカラ食堂へ。今夜の定食は昨日とは趣がちょっと違いました。でてきた新タマネギのおひたしがうまかった。

◆3日目は、黒門市場とやらを見ておこうと、地下鉄「天満橋」から「谷町九丁目」で乗り換えて「日本橋」へ。地上に出ると黒門市場はすぐにわかりましたが、市場通りは外国のお客様で大混雑。ノロノロと歩いてもいられないので、見物を切り上げて地下鉄「日本橋」から「北浜」まで。そこで京阪電車の特急に乗り換え、京都の「三条京阪」まで。新京極へ出て食堂「更科」で昼食。錦の市場も外国のお客様でいっぱい。三条京阪近くの碁席で時間まで碁を打ち、8時頃の新幹線で帰ってきました。今度行く時は碁なんか打たないで、ひたすら電車に乗ってみたいと思いました。(森井祐介


先月号の発送請負人

地平線通信467号(2018年3月号)は3月14日夕、印刷、封入仕事をし、15日郵便局に渡しました。今月は、報告者の森田靖郎さんのレポート(久島弘さんの力作)と関連原稿だけで10ページを取りました。その意味があると考えたからです。しかししかし。今回は、とんでもない事態で作業が遅れました。当日午後、江本のマンションで「ガス漏れ」が発生、臭いが充満し、管理組合理事長の私はフロント原稿を半分書いたところで、消防署、東京ガスなどとの対応に追われる羽目に。原稿より住民の安全が優先する。なんやかんやで書きかけの通信のフロント原稿を送り込んだのが午後6時になってしまった。レイアウトの森井祐介さんには迷惑をかけてしまったが、慌てて書いたせいであちこちに「?」という箇所があります。文脈はなんとか通じているので皆さん、今回はどうか大目に見てやってください。作業に駆けつけたのは、以下の皆さんです。
森井祐介 車谷建太 武田力 落合大祐 前田庄司 伊藤里香 光菅修 中山郁子 兵頭渉 杉山貴章 中嶋敦子 江本嘉伸 松澤亮
中山郁子さんは久々の登場。 ビール好きの豪快なお姉さんです。たかしょー(杉山貴章)に誘われ、何年ぶりかで来た。ふらりこういう人が来てくれるのも地平線会議のいいところだね。


通信費、カンパをありがとうございました

円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方もいます。そして、今月は先月の通信で「地平線会議の台所事情 カンパのお願い」という文章を書き、地平線会議の窮状を察知してくれた方々からのカンパが多く、深く感謝しています。「1万円カンパ」にご協力くださった方々については、秋に開催予定の「地平線40年祭(仮称)」の際、まとめて公表いたします。通信費を払ったのに、記録されていない場合はご面倒でも江本宛てお知らせください。振り込みの際、近況、通信の感想などひとこと添えてくださると嬉しいです。住所、メールアドレスは最終ページに。なお、1万円カンパは銀行振り込みですのでお間違いなきよう。

みずほ銀行 四谷支店
  普通 2181225
  地平線会議代表世話人 江本嘉伸

■小高みどり(10,000円)/小村壽子(10,000円)/高野政雄/高松修治/米山良子(10,000円 毎号楽しみに拝読しております。「通信費5年分1万円+1万円カンパ 合計2万円」)/長塚進吉(6,000円通信費3年分として)/石田昭子(465号をよませていただいて私も河口慧海のルートで、チベットに入ってみたいと思いました)/小長谷由之・雅子/恩田真砂美(10,000円 いつもありがとうございます!)/日下部千里/林与志弘/鈴木泰子/長岡竜介/菊地由美子/筑摩権平(4,000円 2年分)/今井尚(4,000円 2年分)/中村和晃(6,000円 3年分)/徳野利幸(4,000円 2年間分)/岡朝子(4,000円 2年分)/原典子(5,000円)/寺本和子(12,000円 後払いになってしまい申し訳ありません!通信費です)/岸本佳則・実千代(10,000円、カンパは別に送りました)


北三陸への旅

■岩手県への短い旅をした。まずは岩泉にある神秘的な鍾乳洞、龍泉洞へ。日本三大鍾乳洞のひとつで夏には大勢の人が訪れるような観光地だが、まだ雪の残る四月初頭の平日はほぼ無人でじっくり見ることができた。もし私が縄文時代のケイヴマンだったらここを居住スペースにして、ここは貯蔵庫で……、などと勝手な想像を膨らませて楽しかった。

◆岩手県の海といえば、リアス式海岸。そそり立つ岸壁を海から見ようと地元の漁師さんに舟を出してもらった。ちょうど今波が出てきちゃったよー、と言われながらも無理なら引き返そうということでとりあえず乗船。複雑な形の海岸だからか、高さ2mの波があっちからもこっちからも押し寄せぶつかり合い、葉っぱみたいな舟は持ち上げられたかと思えば一気にどーんという音とともに落とされ、海の藻屑の一歩手前ぐらいの感覚だった。横を見ると柚妃がきゃー!うわー!と大喜び。飛んで来るしぶきを、すごくしょっぱい!おいしい!と大口を開けて食べていた。

◆断崖の上からも海岸を見ようと、展望台へ。そこから崖沿いに歩けることがわかり、まったく整備されていないすごい高低差の登山道を北上。もし旅行中に山に出会ってしまっても困らないように、服装も携行品も登山仕様にしていたのが幸いした。気分よくガサガサ歩いていたその時、忘れかけていた存在が……。普段山どころか運動とも無縁な夫の声が遠くから聞こえてくる。「くつしたぬげたー」。なんだそりゃと思っていると、「くつこわれたー」。そこでしぶしぶ山歩きは中止となった。

◆震災の3年後、三陸鉄道南リアス線に乗ろうと娘と二人で普通電車の旅をした。きっかけは2014年1月の報告者、千葉拓さんだ。自分を育ててくれた伊里前の海が巨大防潮堤によって見えなくなってしまう、子供のころの風景や遊びが次の世代に受け継がれることなく失われてしまう、そして今ある豊かな生態系が変わってしまうことを危惧し、話し合いを続けている人だ。

◆その報告を聞き私は、何としても南三陸を歩いて、見て、知らなければいけないという思いに突き動かされた。そこで当時幼稚園の年中だった柚妃と六日間の旅に出たのだ。自宅の最寄り駅から14本の電車を乗り継ぎ歌津まで二日かかった。震災の影響で不通になっている区間はBRTという代替バスに乗り換えるため、余計に時間がかかるのだ。歌津では津波に壊され大きく傾いている水門小屋や、だだっ広い更地に胸がつぶれる思いがした。

◆その水門の近くに千葉さんの作業小屋がある。目の前は伊里前の海、遠くには牡蠣やわかめの筏が見える。そこに陸地と海を分断する高さ15mの防潮堤を想像してみてやっと千葉さんの憂いが解った。「もし、南三陸に来られた際は遊びに来てください。いつも歌津伊里前の海にいますので」という千葉さんの言葉を信じ、ふらりと立ち寄った私たちを温かく迎え入れてくれたばかりか、めかぶ削ぎも手伝わせてくれた。

◆歌津で一泊した後は、ずっと乗りたかった夢の一両電車、三陸鉄道南リアス線の始発駅である盛(さかり)駅に東京出発から三日かかってようやく到着した。しかし南リアス線全線再開の一日前だったため、途中まで行って引き返すことに。だがその一両電車の魅力が忘れられず、今回の旅では北リアス線全線乗車しようと決めていた。始発の久慈から終点の宮古まで、途中下車して遊びながらののんびり旅だ。海が見下ろせる高い橋の上で一旦停止し、左側の景色がきれいですよー、と運転士さんが気を効かせてくれるような温かい鉄路だ。

◆一月の通信に、子宮全摘手術をすることになったと書いた。退院後十日ほどは痛くて気を失いそうになりながら幽霊のように生活していたものの徐々に回復し、三週間目に職場復帰。そして気づけば普段通りの生活を送れるようになっている。今回の旅では山を歩いたり730段の階段をスタスタ登ったり……。あぁ、貧血じゃないってなんて爽快!と、登れども登れども目の前が明るい世界を満喫することができた。(瀧本千穂子

巨大堤防 太陽光パネル 「戻らない」決意

■毎年3月11日を中心に東日本大震災の被災地を訪れています。今年は11日に都内で夕方まで用事があ ったため、それを済ませてそのまま出発し、途中テント野宿して、翌12日朝、福島県いわき市ですでに現地入りしている賀曽利隆さんと渡辺哲さんと合流し、いわき市北部の沿岸部より南相馬市まで、一緒にバイクでツーリングしました。翌13日は賀曽利さんと仙台港あたりまでを、その翌14日は1人で石巻から東松島間を巡りました。

◆約3日間の被災地訪問で印象に残った中で、3つのことについて書きたいと思います。1つ目は、まだ工事中の箇所もありますが、かなりの部分で堤防が完成しているようでした。どれも、長くて巨大。これは素直に喜んでいいのでしょうか。かつて岩手県の田老で完璧と思われる堤防がありましたが、東日本大震災ではそれを乗り越える津波が発生し、高い堤防のために 押し寄せる津波が目視できず、危機感が湧かずに逃げ遅れ、犠牲になった方々がいると聞いています。

◆また、今回造られた堤防で、津波をブロックできたとしても、行き場を失った津波は100%跳ね返されるのでしょうか? どこか1か所でも不備があれば、そこに集中してしまうのでは、と素人考えですが、思ってしまいます。仙台で立ち寄ったカフェのオーナーも私と似たような疑問を持っていて、川から津波が遡上してしまうのではないかと心配していました。

◆2つ目は太陽光パネルの設置。今回巡った中で特に福島県に大規模な設置が見られました。設置には巨額のお金がかかったはずです。これも私は疑問視しています。以前、私の家にしばしば太陽光パネルを設置しないかと営業の人が訪問し、断っても また別の人が来るので、じゃあ、と1度見積もりだけとってもらったことがあります。結果、我が家は電気の節約をしているので、元々消費電気量は少なく、設置しても30年後でも元は取れない、とわかりました。

◆元々大量に電気を使う家庭ならば太陽光パネル使用は有効のようです。それならば、自治体などは節電を真剣に進めるのではなく、何故太陽光パネル設置をするのでしょうか? 日本のすべての原発が止まっても、皆が節電を意識して日々を送れば大丈夫だったじゃないですか! 太陽光パネルを生産する時にも、たぶん大量のエネルギー(電気)を使っていると思いますし。

◆3つ目です。仙石線旧野蒜駅の駅舎2階では、東日本大震災の資料展示やビデオ放映があります。そのビデオで、地元の人が当日の津波の様子を撮っているところがありましたが、最初は10cmほどの津波が、みるみるうちに上昇し、ビデオを撮りながら「もっと上へ逃げないと」と慌てているような音声も入っていました。この撮影者、助かったからここで放映していると思うのですが、助かってよかったです。

◆津波を見ようとして海岸へ行き、それで津波に呑まれて亡くなった方々も実際いましたので、津波が予想されたら何はともあれ高い所へ避難しないと、とあらためて思わされます。そして、ビデオの中の別の話ですが、津波警報を聞いて避難所へ避難した夫婦がいました。そのご主人は「津波が来る時は、絶対家へ戻ってはだめだ」と強調しておられました。それというのも、避難所へ犬を連れて行ってはいけないと聞いていた奥さんが、他の人が犬を連れて来たのを見て、家に残した犬を連れに避難所からこっそり1人で家に戻ってしまい、津波に呑まれてそれっきりになってしまったからです。

◆「何があっても戻らないで」というご主人の言葉が心に突き刺さりました。どれもわかっていることですが、時が経つと危機感が薄れてしまうこともあるでしょう。このビデオで、あらためて津波を軽視しないこと、いかに自分の身を守るか、を考えさせられました。(もんがぁ〜さとみ・古山里美

カムチャツカ遠征隊 報告書完成!

■お久しぶりです。早いもので、カムチャツカ遠征隊として報告会の場に立ってから3ヶ月が経ちました。ご存知ない方のために、私の所属する早大探検部では、昨夏6人の遠征隊がカムチャツカ半島北部で未踏峰の登頂に挑戦・成功しました。また、地理協会、現地住民、ロシア連邦政府の協力もあって、先月同峰を「ワセダ山」と命名することも出来ました。

◆今回またこうして地平線通信に書かせて頂いているのは、皆さんに報告書の完成をお知らせするためです。便利な時代で、フルカラーの上質製本を、一部から請け負ってくれる印刷所があるのですね。自分の書いたものが一冊の本となるのは、それだけで素敵な体験でした。地平線会議には沢山本を出版していらっしゃる方も居ますが、この感動は変わらないものなのでしょうか。

◆遠征隊の報告書は合計200ページ。隊員で分担して書いております。カメラ好きは機材のことを、魚屋の娘は魚のことを、と、なんだか偏った内容ではありますがどうぞご容赦を。もちろん、民族や地形のこと、登頂までの道のりも詳細に書きました。「現代の学生探検部って何をしているの? どんな人が探検部に居るの? 学生が探検をする意味って?」そんな疑問にも答えられればと思っております。興味のある方は、どうぞお手にとって頂けると幸いです。数は限られているのですが、今月の報告会にも数部持っていく予定です。電子書籍版もありますので、データでお渡しすることも出来ます。印刷費などの都合もあって、製本版は2000円、電子版は1000円で販売しております。報告会にいらっしゃらない方も、メールでご連絡頂ければ個別に対応いたします。

◆報告書の販売を始め、「ワセダ山」の命名、各所での報告会、ドキュメンタリー映像の制作など、遠征隊からの発信は全て『私達の探検を個人の体験として終わらせない』という目的があります。その根底には、アマゾンでの痛ましい事件(

※1997年にペルーで発生し、探検部の学生2名が犠牲になった事件)以降探検部が安全対策を強化していることを知ってもらいたい、探検の魅力を広く伝えていきたい、という思いがあります。

◆どうぞ皆様におかれましては、これからも私達「後輩」を応援して頂ければと思います。過去を知り、今を学び、未来に夢を馳せる場所である地平線会議で、私達はこれからも探検を続けていきます。(早稲田大学探検部 井上 一星  isseiinoue0817@gmail.com)

いよいよ野焼き本番です!

■みなさんこんにちは。3月の報告会で「野焼きワークショップ」のお知らせをさせて頂いた木田沙都紀です。多くの人と物づくりの楽しさを共有したいとの思いから立ち上げたこのイベント。おかげさまで、順調に進んでいます。先日の作品づくりにご参加頂いたみなさま、ありがとうございました。藤野の土を原料にした作品は、どんなふうに焼きあがるのでしょうか。私自身とても楽しみにしています。

◆4月14日はいよいよ野焼き本番です。この日は泥を使って小さな窯をつくり、流木を燃料にして作品を焼き上げます。午後からは焚き火を囲んで小さな宴会をするので、前回参加できなかった方もぜひお気軽にご参加ください。一緒に焚き火を楽しみましょう!

 ★日にち:4月14日(土)
 ★時間:11時半より泥窯づくり 〜 終了17時
 ★場所:藤野倶楽部敷地内(相模原市緑区牧4611-1)
 ★費用:投げ銭制
 ★お問い合わせ: (チームのやき 木田沙都紀


高山から画伯の個展を見に

■3月中旬、「長野亮之介 犬猫楽踊図絵展」を観るため、高山から上京。高世泉さんと待ち合わせて、京橋のギャラリー「メゾンドネコ」へ。細い路地から2階へ上がるといろんな表情の猫や犬たちが待っていました。猫たちはいつもどおり、自由にのびのびと魅力的。そして今回は、ちょっと間抜けな犬たちがなんともいえずよくて、思わず笑ってしまう。画伯の描く犬を観るのは初めてかも。犬は難しかったと画伯は話していたけれど、好みです。2匹の犬が並んだ「朋犬」や寝そべる仔犬にキュンときました。

◆地平線通信で画伯の描く報告者からは、なんだか獣の匂いが漂ってきます。猿や鳥や駱駝にされてしまったり、なんだかわからない(でもかっこいい)ものになってしまった人もいる。その人が隠し持っている野生の感覚を嗅ぎ当て、さらっと絵に表しているって凄いことだと思います。犬や猫の何気ない動きをこんなに豊かに表せるのも、力まない画伯の「力」なのでしょうねぇ。

◆最終日だったこともあり、たくさんの方々が来場されていました。平尾和雄さんと美幸さんご夫婦や貞兼綾子さん、かとうちあきさん、江本さん等に久々に出会えてうれしい時間。特に沖縄浜比嘉に住む外間晴美さんとは、浜比嘉地平線以来9年ぶりの再会! 個展のおかげです。たまたまお会いした隣のギャラリーモーツァルトのオーナーが宮本常一先生の水仙忌に毎年参加されていることもわかり、不思議なつながりを感じました。

◆名残惜しくも、個展は終わり、搬出作業のお手伝い。車で運ぶ、と誰もが考えていたはず。何の計画もなかった画伯に、天の助け。小原さん久島さん神谷さんタカショーさん武田さんが現れ、素晴らしいチームワークで、小1時間での搬出準備終了!その後、電車による(!)運搬で、はるか小金井まで無事届けることができ、まさに奇跡のようでした。これも、画伯の人徳ですね。あんなに大きな荷物持ってる人(私たちのことですが)って、最近見ないです……。

◆晴美さんとは、翌日も阿佐ヶ谷のカフェギャラリー「ひねもすのたり」へ。オーナーの松原幸子さんは素敵なものを見つけ出して紹介する方。いろんな作り手のモノを手に取っていると、「自称『作り手』」の状態にならないように、手を動かす時間を自分で作り出さなくっちゃとの思いが強くなります。画伯の絵にも大いに刺激を受けました。1泊2日の大急ぎの東京滞在。花粉に悩まされましたが、やっぱり行ってよかった。みなさん、またお会いしましょう!(飛騨高山 ナカハタトモコ



今月の窓

最近の北東アジア情勢に思うこと

■最近北東アジアの情勢で急展開があり、金正恩委員長の訪中があり、南北首脳会談開催、米朝首脳会談が予定され、局面は緊張緩和ムードに移行したように見えます。この急展開をうまくとらえて、モンゴルが米朝会談の場所を提供しようと名乗りをあげました。モンゴルが歴史的会談場所となり、会談が成功するよう祈らざるを得ません。

◆17年前、日朝会談をウランバートルでやるよう進言しましたが、ウランバートルに邦字紙がいないので邪魔が入らず落ち着いて交渉できる、との、今思えば国民の知る権利を無視した不純な動機からの進言でしたが、やがて時代の変遷を経て実現しました。北東アジアに存在感の薄いモンゴルは、重要な国際問題にコミットした方がいいとは提案し続けてきたところです。

◆先日、1972年の日モ国交樹立50周年に向けたドキュメンタリー製作のために来日したモンゴルの撮影クルーのインタビューでも、北東アジアでモンゴルはどうすべきかとの質問にその趣旨で答えたばかりでした。モンゴルがこのようにコミットしようとしていることは、モンゴルにとっても、同国の中立性から国際社会にとってもいいことと思います。

◆さて、最近の緊張緩和が期待される流れの情勢ですが、この流れのなかで、北朝鮮に関してやはりと感じた点がありました。わが国メディアの報道や、政界では、総じて北東アジア各国についての評判は悪く、北朝鮮についてはとくに「異常」とか、ひどいのは「狂気」とか表現されています。しかし、年来の知人であるモンゴル外交官は、日本に勤務した経験も踏まえて、北朝鮮に勤務してみて、同国はまったく普通の国に感じられたと言っていました。

◆国民も落ち着いて先進国の経済封鎖の中でも、工夫して生活を送っていて、自分たちと同じ生活感情を有していたとも述べておられました。また、北朝鮮に住んだことのある別のモンゴル人の友人は、時にある軍事パレードなどはモンゴルの社会主義時代と同様の政治活動であり、モンゴル人から見れば社会主義体制にあれば当たり前の行動と見えると述べておられました。しかし、私自身は金正恩委員長個人に関して失礼ながら、まったく理解しがたい印象を有していました。

◆いま、金正恩委員長の米朝会談前の国外亡命説が流れていて、その真偽は不明ですが、私は逆に今回の流れのなかで、金正恩委員長について次のような新たな知見を得ました。父の金正日総書記のように飛行機嫌いではないのに、中国訪問を列車でしたこと、及び中国との応接で同委員長は金正日総書記を踏襲していること、「共産党世界の交際の礼節、作法」を踏襲していることが判明しました。

◆半生を社会主義国相手に仕事してきた者として、その流儀を尊重すれば話ができるとの一種の安心感を得ました。また人柄の一端も漏れ出てきました。義理の叔父を粛正し、冷酷無比とされていますが、当時政権内部の極秘事項が中国に漏れ、その責任を問われ処刑されたという事情もメディアで流れました。

◆以上を踏まえると、戦後中国やロシア、モンゴルなど社会主義国と交渉してきた経験をふまえ交渉を工夫すれば北朝鮮とできるのではないかという可能性を見いだしました。ただこのとき日本特有の事情、交渉の障害となる事情が日本の国内事情としてあるのだろうなと思わずにいられません。それは日本が小泉内閣以来、第三国の利益に沿うように、あるいは忖度して、自らの社会主義国専門家を切り捨ててきて、戦後苦労して蓄積してきたこれらの国とのチャンネルを破壊してしまったことです。そして、メディアでも中国問題をワシントン特派員が語ったりしています。北朝鮮問題に本当に精通し、チャンネルを有する人材はいないものでしょうか。

◆では一連の動きを通じて、あるいはそれに惑わされず、これからも北東アジア地域から引っ越せない日本の目指したらいいと思われること、その問題点とはなにか北東アジア問題からアプローチしてみたいと思います。北東アジア関係各方面の方々の永年のご努力にもかかわらず、北東アジアをめぐる環境、事情はかならずしも右肩上がりに改善していかない状況にあります。

◆第一に、「北東アジア」という概念がかならずしも地域で成立していない点です。「東北アジア」といい、また「東アジア」で地域をくくることもあります。その場合モンゴルはどこに入るのでしょう。地域協力を切り拓くには誰と協力するのかの共通認識をまず持ちたいと思います。第二に、北東アジア関係の人材、資金、知の蓄積が大幅に不足していると思われます。日頃地域でご努力されておられる皆さまは何言っているのかと大変ご立腹かと思いますし、同様の発言にモンゴル関係者は非常なご立腹だった経験があります。

◆何十年も友好関係促進に努力してきて相手国の「広範な」友好人士と交流してきたのに何を言うのかとおっしゃいます。そこで例をあげたいと思います。書店の文庫の棚を一瞥すると、欧米の思想、文学、一切が微に入り細にわたり並んでいますが、日本はアジアなのに、北東アジア諸国のほんのわずかな文庫本を探すのは、相当手練れの読者でないと無理です。まして、モンゴルの代表的な詩人ナツァグドルジの詩集など探してもありません。

◆中国のものは比較的に多いですが、それでも欧米の足下にも及びません。朝鮮半島など、「際もの」の書籍以外は発見が困難で、図書館に行かねばなりません。例外は欧米で評価されたアジアの本のみです。欧米崇拝の世の中で、どうすれば北東アジアに関する歴史、文化、知見の集積が可能なのでしょうか。なにか知的交流のネット体制を創る必要があるのではと感じています。

◆第三に、百年の恋もなんとか一つではありませんが、地域の政治の厳しさですべての努力が飛んでしまうことです。残るは無力感のみ。米国によるリバランスが行われ、予想した通り米国が北東アジア地域に深くコミットしてから北東アジアの緊張が急激に高まりました。北東アジア六カ国の場合、一般に相手国との交流環境が悪化していると、日本と相手国との関係も悪化しました。わが国もまんまと武器を買わされましたし、周辺国はそのことで日本を非難しています。

◆米中露など最新兵器を常に開発している国は、武器の更新をしなければならない宿命なので周期的な適度の国際緊張を必要とするのでしょう。ターゲットが北東アジアに回って来ただけと個人的には理解しております。ここをブレイク・スルーする手立てを考える必要があると思います。南半球はほとんど非核地帯になったのですが、北半球では、とくに東方ではモンゴルだけです。これを拡大していくことが大事であり一つのヒントであろうと考えています。私自身は行動がままならない身なのに。

◆このような手立てを留保しつつ、米朝会談が終了するまでの流れを見守り、不成功でも、いろいろ日本からする手立てを見つける努力をする必要があり、創造的に若い世代に取り組んで欲しいと思います。ネットの時代、翻訳ソフトありの時代、開拓すべき荒野は、手をつけることを待っているように感じます。(花田麿公 元モンゴル大使)


あとがきに代えて

■毎月、江本編集長の手元に届いた原稿を、数人で手分けして掲載前にチェックしている。どんなに面白いストーリーでも、ちょっとした誤字脱字、勘違いで興ざめになってしまうことがあるから、気を引き締めてチェックしている、と書きたいところだが、実のところ皆さんより一足先にニヤニヤしながら読めるのがこの役得だ。

◆今月は米国出張中に読ませていただいた。出張が週末と重なったので、日曜日夜にはユタ州のマウントカーメルジャンクションのモーテルでパソコンを広げて、瀧本さん、坪井さん、稲葉さんの原稿を読んだ。ザイオン国立公園へ向かう州道の分岐点、標高約1800メートルの谷沿いにガソリンスタンド兼トレーディングポスト、それからモーテルがあるだけの場所だった。

◆つい先週、本を漁りに伺ったばかりの原典子さんの原稿は、ラスベガスのコインランドリーで洗濯待ちの間に読んで、思わずホロリとしてしまった。どうしても福岡に行きたいと、目を輝かせながら話していた原さんが、丘の上に立つ妹さん夫妻の姿を車窓から見つけたときの表情がすぐに思い浮かんだからだ。

◆そんなわけで編集長に代わって今月はネバダ州から書かせていただきました。(ネバダで 落合大祐


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

森のおかあさんになりたい!!

  • 4月27日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「村に入った途端、家の色、森の色、焼畑の色、カラフルな色彩が目に飛び込んできました!」と言うのは下川智恵さん(20)。インドネシア・ボルネオ島北部のロング・スレ村に辿り着いたときの第一印象です。

'17年2月、早稲田大学探検部員として、丸木舟による川下りを企画し、その偵察の一環で同村を訪れました。先輩の研究者がロング・スレ村でフィールド・ワークをしていた縁もありますが、第一印象どおり、明るく大らかで包容力のある村人達に下川さんはすっかり魅了されてしまいます。

元々は狩猟採集で非定住型だったロング・スレ村のプナン人と呼ばれる人々は、森の恵みを生かす知識や技術に優れた森の民。「自然への知識を活用しつつゆったりと人生を楽しむ。“森のおかあさん”に憧れます!」という下川さん。

以来大学の長期休暇ごとにロング・スレ村を訪ね、今は女性達の工芸、ラタン(藤)細工の修行中です。森に原料を取りにいき、素材に加工して染色し編む。さらに伝統的な幾何学模様をアレンジするセンスが問われる。「難しいから、よけい夢中になります」と下川さん。

今月は、下川さんに森の暮らしと、プナンの人々の魅力を語って頂きます。


地平線通信 468号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2018年4月11日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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