2018年2月の地平線通信

2月の地平線通信・466号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

2月14日。冷え込んでいた日本列島はほんの少し寒気がゆるんだ。韓国では平昌(ピョンチャン)オリンピックがたけなわだ。今日はスノーボードハーフパイプで19才の平野歩夢選手がアメリカのスーパースター、31才のショーン・ホワイトに次いで2度目の銀メダルを獲得している。昨日は、21才になったあの高梨沙羅が銅メダルを獲得し、日本中が喜びと金メダルではなかったことへの落胆に包まれた。

◆私が何かとスポーツのことを話題にするのは、生身の身体でぶつかり合い、短時間に決着する真剣な遊びが好きだからだ。少し語学に通じていると誤解されたこともあって東京五輪はじめいくつかの国際スポーツ大会の取材に派遣されたこともある。中でも1972年の札幌冬季オリンピック。トワ・エ・モアの歌う「虹と雪のバラード」が流れる中、雪まつりがおこなわれた街は美しかった。あのメロディーが流れると今でも私はあの白い世界に還る。

◆大倉山シャンツェの「70メートル級(現在のノーマルヒル)」ジャンプ台で日本のジャンプ陣、笠谷幸生、金野昭次、青地清二の3人が金、銀、銅メダルを独占した場面も見守った。あの時の盛り上がり! 初めて「日の丸飛行隊」の名がつけられた瞬間だった。長野五輪の飛行隊は有名だが、元祖は札幌にいた事実を忘れないようにしましょうね。

◆寒い中、長時間立ち尽くす取材で初めて「あたたかい味噌汁」が弁当として配られたことでも大倉山シャンツェは忘れられない場所である。氷点下10度を下回る寒気の中、長時間外に立ち続ける取材がどんなものか想像してほしい。ある日、特別な保温容器がひとりひとりの弁当についているのを見て私がどんなに興奮したかわかるだろうか。あれ以後、取材の現場は随分改善されていると思う。

◆可憐な笑顔が人気だったアメリカのフィギュア・スケート選手、ジャネット・リンがリンクですってんころりんしつつも万雷の拍手に包まれた時も「満点の銅メダル」として社会面に雑感記事を書いた。その中で生き別れとなった北朝鮮、韓国の兄妹のほろりとする話に遭遇した。

◆北朝鮮の著名なスケート選手に1964年のインスブルック大会3000メートルで銀メダルを獲得したハン・ピルファ(韓弼花)がいる。南北の離散家族が深刻な問題なっていた時期で韓国に彼女の兄弟がいると報じられ、札幌で対面劇が図られたのである。実は、当初は韓国に住むハンゲファ(韓桂花)という女性がピルファの姉として名乗りをあげた。当時は名前が似ているためのこうした混乱はしばしばあったのだろう。

◆友好関係にある韓国の新聞の取材を信じて私は当初、ハンゲファさんが姉だととらえて、結果的に誤報を書いてしまった。やがて、A紙がハン・ピルソンという人こそ彼女の兄、と報じ、いろいろ調べてみてそちらが正しい、と気づいた。こういう時の後追いは難しい。できれば訂正は最小限にしたい、との思いが優先しがちなのである。いろいろな経緯があり、結局この時、兄妹の対面は実現しなかった。韓国の意向を代表する民団、北朝鮮の代表機関である総連の調整がつかなかったのだ。

◆札幌冬季五輪のスピードスケート女子1500メートルが行われた1972年2月9日、、真駒内屋外競技場は韓国と北朝鮮、合わせて数千人の応援団で盛り上がった。南も北も「イーギョラ!イーギョラ!(勝て、頑張れの意)」の連呼。以来この言葉は私の脳髄に住み込んだ。札幌冬季オリンピックの年の秋、北朝鮮を訪ねる機会を得た。私は記者同盟にお願いして韓弼花と会うことができた。当時27才だったと記憶する。札幌での思い出を楽しそうに語り、不満を口にすることはなかった。私にはいつも「労働新聞」の論評員がついていたので本音は話せなかったのだ、と思う。兄妹の再会は1990年、札幌冬季アジア大会で北朝鮮のスケート連盟書記長としてハンピルファが来日した際、ようやく実現した。

◆午後5時になろうとしている。平昌では北朝鮮と韓国のアイスホッケー統一チームが「スマイルジャパン」と名付けられた日本女子との対戦が始まった。「イーギョラ!」の声が会場にどよもすのだろう。あ、早くも日本が2点を奪取した。

◆だがしかし、今回の最大の主役は北朝鮮のナンバー2、金永南(キムヨンナム )の代表団に加わった金正恩(キムジョンウン)の妹「金与正(キムヨジョン)だった。韓国の文在寅(ムンジェイン)大統領に親書を手渡し、世界の関心を一手に引き受けたのである。北朝鮮へのさらなる圧力を主張するアメリカのペンス副大統領、日本の安倍首相がいるすぐ目の前で、だ。その大胆な行動に世界が驚く中、北側は十分な成果を上げて帰国した。したたかなり、金兄妹!(江本嘉伸


先月の報告会から

野良犬が人類を救う!?

田口洋美

2018年1月26日 新宿区スポーツセンター

■クマが、山村どころか都市の市街地にまで出てきている、というニュースが珍しくなくなった今日このごろ。東京周辺でも、一昨年の5月か、高尾から峠をひとつ越えた神奈川県の国道20号沿いで、クマがラーメン店のドアに体当たりしてきたというニュースを聞いた。同じ年の秋には、青梅市の住宅地に程近い多摩川河川敷の公園付近に、クマが何回も出没したとも。わあ、クマさんたち、いったいどうしちゃったの?……と、相手に理由を求めるのでは、考えが足りなさすぎ。「出てくるように仕向けているのは、我々なんです」というのが、今回の田口さん報告会の主旨だ。

◆「人間の集住空間からクマの出没をなくすことが最優先課題なのに、対処療法しかやっていない。クマが出てきたら、ただ殺すだけ。それだけでは相手に何も伝わらないんです。彼らが街に出てきても叱らない。出てきてはいけないというリアクションをまったくしていない。イノシシに対してもそうです。街を走ってきたら、人はただ避ける。車は止まってくれる。それでは、野生動物たちから見れば、歓迎されているようにしか見えないんです」。報告者からのいきなりのパンチに、面食らった参加者も少なくないだろう。だったら、どうすればいいのでしょう? 「僕は、犬を使うべきだと」。その具体的なやり方を聞けるのは、報告会の終盤になってからだ。

◆狩猟文化のスペシャリスト、田口洋美さんは異色の経歴を持つ学者だ。日本映画学校を卒業後、姫田忠義氏の民族文化映像研究所のスタッフとなり、記録映画の撮影を通じて新潟県の三面集落で山とともに生きる人々と交わる。そしてマタギと呼ばれる伝統的狩猟者たちと山を歩き、各地の狩猟者たちと交流を重ねるなかで、「近代と土俗」をテーマに研究を続けていく。大学で学術的な基盤を固めたのはそれからで、40代後半で大学院博士課程を修了すると同時に東北芸術工科大学の教授となった。すごい、学びたいものを見つけてから突き進んでいくなんて! 同世代の私は、ただ周りと同調して進学・就職した自分が恥ずかしくなる。

◆この日の参加者には、20代の田口さんが足場とした民映研、観文研(宮本常一氏が所長を務めた日本観光文化研究所)出身者たちの姿が多数。会場を見渡した田口さんは「今日は大先輩が多すぎるんで、緊張します」と照れるのだった。

◆クマが人里や市街地に出没しているという問題の根底にあるのは、戦後、都市が膨れ上がって森と接するまでになったことだと、田口さんは指摘する。前半は、東北地方におけるその過程を、空中写真で追いかけていった。盛岡市、仙台市、八戸市。宅地がどんどん外へ向かって拡がっていき、間にあった耕地が消えていく姿がスクリーンに映し出された。それらの景観は、農地が宅地に地目変更されるのを役所が認めた結果。つまり、元々はあったはずの都市計画が無視されたということだ。

◆こうなると都市は森のつづきだから、クマたちも「出るべくして出た、というだけ」なのも、うなずける。東北では仙台市以外、都市の膨張は2010年ごろに止まり、すでに縮小が始まっているというが、森林と宅地に二極化した姿はそのまま残る。その一方で、山村も姿を変えていく。小さな田畑が機械化農業に対応できるようにと耕地整理事業で大きな耕作地に変えられたのに、工事が終わると活用されることなく打ち捨てられ、そこが野生動物の棲み処となっている、というマタギの里。都市計画も山村の耕地整理も、莫大なお金を使って行われた公的事業の結果がこれなのだ。

◆続いて北上山地で試験的に行なわれているという林野庁の育成林施業(多層林施業)の様子が紹介された。川沿いの湿性の場所にスギを、尾根筋に近い乾燥帯にはカラマツを植え、尾根には落葉広葉樹を残すというもの。野生動物を奥山へ戻すためにそうしたとのことだが、秋に撮られた写真では、ふもとの集落周辺が紅葉していて、山の斜面が濃い緑という、不思議な景観になっている。かつては炭焼きで頻繁に使われていた集落近くの山林が放置され、落葉広葉樹の鬱蒼とした森(再生林)に変化したからだ。奥山のほうが人の手が加わるようになり、使われなくなった里山が奥山化しているという逆転現象は、野生動物を里へ寄せる結果につながる。里へ下りたほうが食べ物があるからだ。「そういう人間の自然管理が、クマを動かしてしまっているんです」。

◆しかし、都市に人口が集中したのも山村が衰退したのも、時代の流れによるもので、仕方ないんじゃないの?……とは、都市でしか生活したことのない者の呑気な諦念かもしれない。「この国の自然をどういうふうにしたいのか。どういう環境を持続させるのか。そういう議論がまったく行われていない」のが日本の状態だと、田口さんは言う。設計図がない。ビジョンがない。そもそも、意識が薄い。「自分たちの自然なのに、山のことは林野庁、自然保護は環境省がやっているからいいと」。口調は穏やかだが、田口さんのいらだちと憤りが伝わってくるのだ。

◆東京だって、今は西のほうにしかクマは出ていないけれど、多摩川を伝って、もっと下りてくるかもしれない。クマはまだ都心にはいないけれど、サルやタヌキやキツネ類はすでに街中を走っている。野ネズミもたくさんいる。もしも彼らによって感染症が入ってきたら、あっというまに東京じゅうに広まる可能性も。なのに、ちまたで話題にも上らず、その対策など何も構築されていないのが現状だ。

◆クマたち(シカもカモシカもイノシシも)は、最初から山奥だけにいたのではない。元々は平野部にもいた大型動物を、山の奥へ奥へと押し上げていったのは、古代から近世を通して行われた農耕化への人間の努力だ。集落の周りに田畑を作り、さらにその周囲の里山を二次林として管理しながら、薪を取り、炭を焼き、堆肥を作り、屋根を葺く茅を栽培したりした。狩猟も行い、伐採も行い、人間が自然に対して圧力をかけていくことで、自分たちの生活空間から野生動物を追い出していった。

◆そんな外側に緩衝帯を持つ山村の生活空間のあり方を、田口さんは「バリア・リーフ構造」と呼ぶ(都市と近郊農村、山際の山村との関係も似たような形だという)。ところがこの農耕化のプロセスが近代に入って市場化プロセスへと変わり、人々が農耕や林業から離れていくことで、バリアが機能しなくなり、野生動物とのパワーバランスが崩れていく。そして戦後、日本から第一次産業従事者がどんどん減っていき、そのあげく、二次・三次産業に就業する人が大半を占めるようになった現在、「自然への人間の圧力が完全に崩壊した」というわけだ。

◆日本のどこも、生産型の生活から消費型の生活になり、山村の人が町に住み替えていく。当然、山は使われなくなり、中山間部から人々の力は消える一方。「サッカーと同じ。空いているスペースを使って、動物たちが攻めていくんです」とは、恐ろしい喩えだ。相手チームが向かう先は集住地帯、都市なのだから。

◆この10年、全国でツキノワグマとヒグマを合わせて年間1500頭から3000頭が捕獲されているという。その95%が有害駆除によるものだそうだ。人の近くに出てきたから、あるいは人を襲ったからといった被害届が出て、「困りものを片付ける」ということらしい。ところが、伝統的狩猟者たちマタギの集落では有害駆除というのはあまり出ないという。

◆狩猟者でもある田口さんが所属する山形県小国町の五味沢班では、春の予察駆除でだいたい7頭を捕獲する。その7頭を捕るために、20頭は逃がしてしまうとのこと。この逃げたクマたちが人間の怖さを知っているので、のちに里に出て「有害獣」となる確率を下げているのではないかと考えられるそうだ。

◆有害獣の被害が出るのは、おもに春と秋。2016年春に秋田県鹿角市で起こった連続人身事故は、食害があった(クマにより人が食べられた)ということで、社会に大きな衝撃を与えた。じつのところクマによる食害は以前にも時々起こっていたが、遺族の感情や社会の感情への影響を考慮して公表されないことが多かったそうだ。

◆春に人身事故が起こる原因として、クマの交尾期と人間のネマガリダケ採取時期との重なりが指摘されている。クマの発情期は6月から7月にかけてだが、最近は少し前倒しになってきて、5月半ばから交尾が始まっている。発情期のオスグマは狙ったメスグマが連れている子どもを食べ、子どもを食べられたメスはしばらくすると発情し、オスを受け入れる、という生殖メカニズムが働くそうだ。

◆オスがそんな興奮状態にあるときに、近くの、しかもクマも大好きなネマガリダケのそばに人間がいる、という状態が人身事故の被害を招いてしまうらしい。これをどうやって回避するか。美味しいネマガリを人が諦めるのか。「僕は犬を放せと。そうでもしないと、クマはそこから離れません。犬はそんなクマにかかっていくけど、殺すまではしません、からかって遊ぶんです」。秋の人身事故もキノコや魚など食物との関連で起こることが多いそうだが、殺されることはほとんどないという。そこには種の保存にかかわるまでの切実さがないからだろうか。

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■報告会の後半は、近代狩猟史の流れをたどった。それまでは山村で暮らす伝統的狩猟者たちしかいなかった日本に、ニッカーボッカー姿と鳥打帽に象徴される「にわか猟師」が登場するようになったのは大正期のころ。サハリンに続き朝鮮半島を併合した日本へ、欧米の商人が毛皮を求めてやってきた時代だ。日本ではそれまで動物の毛皮は筆以外に使われていなかったが、外国からの需要があるからと、金儲けを目的に狩猟を始める人々が増えたのだそうだ。

◆さらには軍隊で飛行機が使われるようになり、防寒のための毛皮の需要も高まった。当時は「とんでもないバブル」だったそうだ。マタギたちの生活も潤うようになり、一冬で稼いだ金で家が建つほどだったとか。その裏で、限度を知らないにわか猟師たちの乱獲に遭ったニホンカワウソに絶滅の悲劇が訪れる。「ハンターはお金のために野生動物を殺す悪い人たち」といったイメージを持たれることもあるが、それはこうしたにわか猟師たちによるもの。「地域の農作物の保全と地域の生活空間の保守のために猟をしていた人たち(マタギ)とは違うんです」と、田口さんは念を押す。

◆「マタギというのは、農民であり、その地域に根差した暮らしをしてきた人たち。だから、その地域の自然の面倒を見ることができたわけです」。野生動物が増え、都市での対策が必要な今こそ、そんな彼らの経験値を活かす道を選んだほうが早道になるはず、というのが田口さんの野生動物管理への提言だ。なのに、そうはなっていない。「今はもう、地域の伝承者も高齢化して、いなくなっていきつつある。ギリギリなんです、この5、6年でやらないと」。

◆長野県の秋山郷の小赤沢という集落の写真が映し出された。戦後の食糧難対策で山という山を焼畑にしたときのもの。それが今や鬱蒼とした森になって、「村が森にのみ込まれそうなぐらいになっている。これが僕の言う『攻めてくる森』です。そして、攻めてくる森は、もれなく動物を連れてくるんです」。それは長い年月をかけて人々が山を使ってきた(食料を作り、自然の中に自分たちの空間を整えてきた)歴史が消えることだ。

◆「僕は野生動物の問題に関しては楽観視していません。やばいことになる。人間は負けます」。そんな言葉を聞いて、私はふと、環境学者の宇井純さん(故人)のことを思い出してしまった。沖縄の海の汚染問題を語るとき、宇井さんも「もう、希望はない」というようなことを嘆いていたからだ。闘う学者の宇井さんが。

◆でも、田口さんは最後に希望を語ってくれた。「僕の希望は今、犬なんです」。お、やっと、その話をしてくれるんだと、身を乗り出してしまう。その構想とは、犬の放し飼い特区といったものを作ること。飼い主から捨てられたような犬たちを再調教して、群れ社会を作ってもらう。人を咬んでしまうなど、いろいろ問題は起こるだろうけれど、アメリカなどで使っている道具(吠えることはできるマウスピース?)を活用する。そうやって、地域に犬の圧力を戻していくのだ。かつて、あちこちで犬が吠えて家や集落を守ってくれていたように。そこには地平線会議に来ているようなアウトドアに親しんだ人たちにも参加してもらいたい、とのことだ。群れを作った犬が元気よく駆け回る山里! ぜひ見てみたいものだ。……ただ、追いかけられると怖そうだけれど(笑)。(熊沢正子 2005年の第16回マタギサミット以来、田口さんのおっかけをしている旅ライター)


報告者のひとこと

追い込まれた日常の風景

 先日の報告会で、時間切れとなってしまい、ここに若干のまとめを記しておきたい。

 報告会では日本国内の野生動物問題、とりわけツキノワグマの話に終始してしまったが、現在、より深刻な状況を作り出しているのはイノシシである。イノシシは近世中期までは東北、北陸地方などの多雪地帯にも生息していたが、近代には福島県から北関東、山梨、長野県南部、愛知、滋賀、京都辺りまで後退していた。しかし、20年ほど前から一転して生息域を拡大しはじめ、再び北上して2017年には秋田県、岩手県を超えて青森県にまで進出した。イノシシは東北地方に帰ってきた。これからは、どのくらいの時間で繁殖、定着が進むのか、という問題と向き合うことになる。

 地域は高齢化し、都市部においても少子化が進行し、日本全体の人口数も減少してゆくことが分かっている。日本は、有史以来右肩上がりで人口数が増加し、2008年に1億2808万人をピークに減少しはじめている。人間の存在の圧力がピーク期から減退期へと移行すると同時に野生動物は動き出しているということになる。

 都市で日常を過ごしている人たちには、この動向に今ひとつリアリティーを感じることが出来ないのも無理はない。都市の日常の風景には、なかなか大型野生動物の姿は登場しないし、いくらニュースで取り上げられても、自分たちにとっては遠い場所での出来事に思えるだろう。でもそれは着実に進行している。

 今年は寒波で東京でも積雪があり話題となっているが、北海道や東北の山間地では少なからず弱って死んでゆくシカやイノシシが出ているだろう。しかし、決定的にシカやイノシシの個体数を激減させるものになるかどうかは分からない。この後、強烈な寒波が来れば激減する可能性もゼロではない。研究者の中にはこの数十年の間にリトル・アイスエイジ(小氷期)がやって来る、あるいはすでにはじまっていると警鈴を慣らす人々もいる。地球温暖化は寒冷化に向かう予兆であると説く人もあるくらいである。

 私は今回の報告で、人々は自然環境の変動にルーズになっているのではないか? また、野生動物と日常接する機会もなく、どう向き合えば良いかを問われる経験もないため、この危機は意外に無視されてしまっているのではないかと暗い気持ちになると話した。地域で、この現状(少子高齢化、自然環境変動、野生動物の生息域拡大)の問題に果敢に挑戦している若者たちが、若干ではあるが確かに存在する。しかし、国がいかにこれを叫んでも、なかなか上手くいっていない。新たに狩猟免許を取得し、野生動物の個体数調整に参加してくれる人たちは増えてこない。否、増えるよりも引退してゆく狩猟者の方が遙かに多いのである。

 また、地方の中山間地域で、若者たちが自立的に生活し、積極的に野生動物問題と向き合えるような経済環境は整備されていない。若い新人の狩猟者が一人で山と森の世界に入り、大型野生動物と対峙出来るようになるには、技術的に長い時間を要する。生活のために働き、余剰の時間で野生動物と向き合うとしても土日の時間をやりくりしてやっと山に入れるという状態なので、豊かな経験の上に判断し行動するという訓練もままならない。

 若い狩猟者たちが経験を蓄積し、その経験の上に判断し行動できるようになるには、あまりにも実戦経験の蓄積に時間がかかりすぎる。少なくとも10年、15年という時間が必要になる。しかも良い先輩に恵まれ、身体的にも、能力的にも抜群な狩猟者となれば、相当の環境が必要になるだろう。

 その間、どうやって都市や集住空間に暮らす人々の安心で安全な日常を守れるか? そこで犬を味方に付けた都市防衛システムの構築を訴えてきた。犬の導入は、モンキードックやベアドックなどの名で知られてはいるが、私が導入したいのは恒常的に地域で飼育された10〜20頭の群れを放すことである。犬たちの群れには縄張り意識が生まれ、かつて地域で放し飼いが行われていた当時のように群れの力で野生動物を追ってくれるはずである。その犬の力を、もう一度借りようというものである。しかし、保健衛生上の問題、自治体の条例に基づく放し飼いの禁止という壁を越えてゆくためには、まず「放し飼い特区」のような地域限定の実験的試みを進めてゆく必要がある。

 どのように飼育し、どのように放し、またどのように回収するか。人にかからない犬の調教法や手法。これを早急に抑える必要がある。そこには狩猟者も関わってゆく人犬相互の力に基づいたシステム作りが求められるのは当然である。これは地域を挙げて取り組まなければならない大きな事業といっていい。こうした工夫を早急にしなければ手遅れになる。既に追い込まれた日常の風景が目の前にあるのだから。(田口洋美


実は、我が家のそばでも熊が……

■1月に届いた地平線通信の「野良犬が人類を救う!?」というタイトルとオヤジ犬のイラストに惹かれて、2年以上ぶりに報告会に参加した。(そんなに長い間、顔を出していなかった気がしないけれど…。そうか、昨年3月、江本さんの出版記念パティに出席したんだっけ)。イラストを描いた長野亮之介さんが、「優子ちゃんが来るかも?」と思ったそうで、それにまんまと反応してしまった。たしかに、「犬」で惹き付けられたのは事実だが、「熊」の話にも興味をそそられた。

◆というのは、2016年秋、福島県天栄村の我が家のすぐそばにも熊が出没したからだ。直線距離でたったの50m。私も歩いてよく通る、神社のある森の中。数日前から近所で熊の目撃情報が寄せられていたそうで、神社の軒下で、衰弱して動けなくなっていたところを捕獲、射殺された。私は福島を不在にしていたけれど、たまたま自宅に居た夫が銃声を聞いた。殺さずに麻酔で眠らせて山に戻せばよかったんじゃないのか、と思った。それほど大きくなかったというから親離れしたばかりだったのかもしれない。山から人里へ下りて迷ってしまい、戻れなくなったのだろうか。

◆我が天栄村は分水嶺の奥羽山脈を挟んで太平洋側の中通りと日本海側の会津地方にまたがっている。会津ならば熊も珍しくないけれど、私を含め村人の多くが住んでいるのは太平洋側で、我が家のある住宅団地は市街地から5kmほど、奥羽山脈からは10kmは離れている。一面の平野に田んぼが広がる田園地帯で山に囲まれているわけではない。20年以上、ここに住んでいる人も、「こんな近くに熊が出たのは初めて」と言っていた。

◆田口さんの話では、昔と違って、山間部では高齢化・過疎化で里山が放置され、森が伸張してきているのだという。一方、都市部では新興住宅地が森に食い込むように造られていて、どちらも熊の棲む奥山と人里の間にあった緩衝地帯がなくなり熊と人の生活圏がつながってきていることが、熊の出没が増えている原因だとのこと。

◆福島の場合は放射性物質飛散の影響で山菜やキノコ採りで山に入る人が減ったために、熊が人里に出てくるようになったと言われている。浜通りにある原発被災地では、人間が住まなくなった町を野生動物が闊歩している。他地域とはちょっと事情が違うかもしれないが、やはり緩衝地帯がなくなったのが理由だ。

◆私が気になっていた「野良犬が人類を救う!?」の話は、最後のほうでようやく言及された。どういうことかというと、熊は犬が大の苦手なので、犬が群れで吠え掛かれば退散し、人里に近づかなくなるそうだ。つまり、人間が犬の放し飼いをやめて鎖で繋いだり、室内で飼うようになったことも、熊が人間の生活エリアに出没しやすくなった理由のひとつだとのこと。

◆たしかに、最近は山里でも放し飼いの犬はほとんど見かけない。田口さんは狩猟人口が減っていく現在、次世代の狩猟者の育成だけでなく、犬を訓練し、地域や時間を限った特区を作ることを提案している。犬は狩猟犬ではなく、雑種犬でもいいのだという。すでに、猿を追う「モンキードッグ」は導入されて成果を挙げているので、熊ドッグ(?)だって大いに活躍してくれそうだ。そうなれば、保健所で殺処分になってしまう犬たちに生きるチャンスを作ることにもつながる。なんて素晴らしいアイデア! 1日でも早く実現してほしい。

◆そのほか、著書には河川敷の草地にドッグランを造り、時間を区切って犬を放すのも、熊の侵入を防ぐのに有効(熊は泳げるので)とあった。犬にとっても狭い家の中や、常に鎖でつながれているよりも自由に走れる時間ができるのはうれしいだろうし、もともと犬は働くのが好きで人間のことも好きな動物なのだから、ペットとして癒しをくれる以外にも、なにかできるはず。とってもいい試みだと思う。

◆また、動物保護活動にちょっとだけ関わっている私としては、狩猟犬の扱われ方も気になっている。年老いて狩猟に使えなくなったり、狩猟時期以外の飼育が面倒などの理由で、足を銃で撃たれ山に捨てられるとか、樹の幹につながれて冬山に置き去りにされ餓死・凍死するなどの話もあり、犬を道具としてしか考えてないハンターはいかがなものか。あまり時間がなく、これ以上の犬の話が聞けなかったのが残念。追記:活動停止中の「地平線犬倶楽部」、何とかしようと思案中。(地平線犬倶楽部代表代行 滝野沢優子 東日本大震災以前のブログは残してあるので、興味のある方は「地平線犬倶楽部」で検索してください)

■[余談]田口洋美氏は、「日本観光文化研究所」で、当時一緒に活動していた賀曽利隆氏に「字が汚いし文章がなってない」と怒られていたとか。「カソリタカシよ、お前が言うかー!」。原稿が手書きだった時代、某オフロードバイク雑誌で賀曽利氏の編集担当になり、毎回、解読に苦労していたのは私。あの頃、「字が汚くて読めない!」と言ってやればよかった。

人間がクマを追い払おうという意志を持っていないからだ……?

■今回のお話を聞いて特に心に残ったことは、クマが住宅地に下りてきてしまうのは、人間がクマを追い払おうという意志を持っていないからだという事です。近年は動物愛護という考えがあり、この言葉に人間は洗脳されているという。「その行動原理はどこからくるのか?」と田口さんに質問したところ「それは動物に可愛いという考えを持ってしまっているから」と回答をいただきました。

◆ぼくは動物愛護という考えはそもそも持ち合わせてはいません。なぜなら山にいる野生動物は豚や牛といった家畜と同じで食べ物だと思っていたからです(実際美味しいし……)。今までクマが住宅地に下りてくるのは、地球温暖化の影響で山の食料が無くなったり、森林の伐採によって環境が荒らされたりしたからだと思っていました。でも実際は土地の二極化によって、人間がクマの生息地に入り込んでしまっていることを知り、目からうろこが落ちました。

◆また、クマは母クマの健康状態が良くないと受精卵が着床しないというメカニズムを持っていて、個体数をコントロールしているという事に驚きました。しかし人間は何もしていません。だからぼくは自分達の生活を見直す時なのだと思います。土地の二極化をストップさせて、里山のある本来の日本に戻していかなくてはならないと思いました。そして自分達の様な未来を切り開く存在の人に、この問題を広め伝えることが何よりも大切だと感じました。(長岡翔太郎 小6)


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくれた方もいます。当方の勘違いで受け取りたくないのに送られてきてしまう人、どうか連絡ください。通信費を払ったのに、記録されていない場合はご面倒でも江本宛てお知らせください。振り込みの際、近況、通信の感想などひとこと添えてくださると嬉しいです。住所、メールアドレスは最終ページに。

■北川文夫/帰山和明(「70代編日本一周」中の賀曽利隆さんを京都で2回「捕獲」しました。通信いつもありがとうございます)/神山知子/川口章子/山本豊人/西牧結華(3,000円 江本さん、ごぶさたしております。まず遅ればせながら麦丸くんのこと、ご愁傷様でございました。うちにも昔「しし丸」という愛すべきシーズー犬がいたので、お気持ち、わかります。いなくなってもう6、7年経ちますが、今も変わらず大きな存在です。先日は久しぶりの大雪に東京は大騒ぎでしたね。雪景色が日常の北海道から見ていると、報道されている感じがとても不思議でした。さて、遅くなりましたが、今年分の通信費+αで3,000円を送金しましたのでご確認いただければ幸いです。毎号、楽しく拝見しています。40周年を迎えるんですね。おめでとうございます!私よりも少しだけ(!)年上。すごいですね!以前お話した通り、私は今は住宅雑誌の編集の仕事に携わっていて、やれ高性能住宅だ、省エネだ、などと資本主義経済にがっつり巻き込まれながら、この建築カッコイイとかこの木が素敵とか、いい雰囲気の写真撮れただとか、趣味の延長のような世界を楽しんでいるだけのような日々ですが、地平線通信を読んでいると、どんなことであれ、とことん楽しんで苦しんで、自分がやると決めたことにのめり込む人生って素敵だなあと励まされます。なかなか通信に寄稿できるような、カラフルな出来事がなくて、江本さんのご期待に添えず心苦しいですが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。今月の報告会の内容(「野良犬が人類を救う?!」でしたよね)も、興味津々でしたがさすがに遠くて行かれなかったので、次号の通信を読むのを楽しみにしています。もしも北海道へ来る機会がありましたら、ぜひご一報ください!)


地平線ポストから

時間がくれたもの

■1月30日がやってきました。民俗学者宮本常一の命日です。毎年この日に縁のある方々で集まり水仙忌として偲ぶ会があります。私は宮本先生の創設された日本観光文化研究所発行の「あるくみるきく」のファンで、先生が亡くなられた後に研究所で働いていました。もう30年以上前のことです。

◆今年も雪の残る道を国分寺東福寺に参りました。今年は38回忌で遺影の宮本先生がだんだん若返っていくように感じられるほど、参集する生身の人間の高齢化が進んでいるので(笑)、少し若い新しい力と風をと、地平線会議からも興味のある人に声をかけてみました。地平線会議代表世話人の江本嘉伸さんは毎年参加。いまだ現役バイク王の賀曽利隆さんの顔もあります。毎年、島根県日笠寺からやってくる、元「あるくみるきく」編集長の山崎禅雄さんの読経が18時から本堂であり、その後の山崎先生のお話も毎年楽しみです。

◆宴会場に供えられた水仙の花の香りの中で微笑む宮本先生の写真に見守られながら、献杯から始まり宴の夜は更けていきます。今年は長男の宮本千晴さんの傘寿の祝いと民族映像文化研究所の創設メンバーである伊藤碩男さんの84歳の祝いで弦楽四重奏の生演奏という豪華な興もあり、花束と傘のプレゼントもあり、笑顔のお二人のますますのお元気な活躍を皆で祈り乾杯できて嬉しかったです。

◆宮本常一先生の故郷、山口県周防大島でも先生を偲んで集まりがあります。私は昨年、生誕110年記念イベントがあった8月1日に初めて周防大島に行き、墓前で手を合わすことも出来ました。白木山の山頂にも上りました。そして何よりも同じ日に水仙忌をしている宮本常一記念館や先生の著作を出版しているみずのわ出版の皆様にお会いできたことが大きな喜びでした。少しずつですが、また「あるくみるきく」を携えて旅に出ることもしています。若い頃には見えなかったものが見えてくる楽しみを味わっています。

◆さて、2月1日東京はまた雪が降った夜、坂本長利さんの独演劇『土佐源氏』を高円寺に観に行きました。宮本常一の「忘れられた日本人」に収められている『土佐源氏』は昭和16年冬に高知の山間、梼原(ゆすはら)で宮本常一が出会った盲目の元馬喰の80歳の爺さんから聞き書きした話。坂本さんが自ら舞台化し、昭和42年の初演から50年間演じ続けている88歳の坂本長利さんのライフワークです。

◆最初はストリップ小屋の幕間で上演し評判になり、出前芝居で国内外で公演してきて、今宵1191回目を迎えました。年末にEテレで坂本長利さんのドキュメンタリー番組が放送されたこともあり、この日のチケットは即日完売したそうです。水仙忌で84歳のお祝いをしてお会いしたばかりの伊藤碩男さんと偶然お会いして並んで観劇する幸運に恵まれました。

◆「馬と女には嘘をつかなかった」と言う男の人妻との情事の話は、社会の底辺で懸命に生きてきた男の真実の愛の物語です。昨年春に梼原から50周年公演をスタートし、秋には故郷の島根県出雲で39年ぶりの公演を果たしました。今年は、倉敷、秋田、周防大島、遠野での公演が決定しています。1200回記念を都内で上演する計画もあります。

◆6年前に胃がんの手術をしているが、舞台が何よりの生きる力になっているようです。終演の挨拶で「今88歳だが、何とか100歳まで土佐源氏を演じたい」と。さらに「昨年から肩の力が抜けてきたから今なら進化できるのではないか……」とも。結婚もせず1人暮らしで、芝居以外には欲がなかったと語る坂本長利さんは、土佐源氏の爺さんに出会うことが出来て幸せだったと言い切りました。

◆宮本常一は晩年病床で、自分が講演をして坂本さんを土佐源氏を演じて二人で歩きたいと妻に言っていたそうである。

 何かを得て、何かを失う。

 何かを失って、何かを得る。

 時間がくれたものがきらめいている。(高世泉


長野亮之介画伯個展のお知らせ

■去年と同じ3月上旬、長野亮之介“画伯”の個展『長野亮之介1(わん)+2(にゃん)=展』が開催されます。テーマは「犬猫楽踊図会」……じつはこれが、遅れに遅れている(すみません)今年の「地平線カレンダー」のタイトルなんですが……と聞けば、どんな雰囲気になるのか、もうおわかりでしょう。会場は京橋の「メゾンドネコ」(東京都中央区京橋1-6-14 佐伯ビル2F/03-3567-9990)で、3月9日(金)から13日(火)まで。12時30分〜19時(日曜・最終日は17時)。会期中の在廊予定などは、特設ブログ(www.moheji-do.com/gakuyo)でご確認ください。(丸山


人がナマで集うことのすばらしさ

 ■宮本常一さんの「水仙忌」、高世泉さんから誘っていただけて、、参加することができました。「ぼくみたいな者が行ってもいいのかな〜?」って想った。泉さんが、「リラックスした会で普段着で良いよ」って誘ってくれて考えた末、ようやく足を運ぶことが成せました。

◆行って、ほんとうによかったです! 会いたいと想っていてもなかなか会えないような、スゴいひとたちばっかりで、ビックリでした。貴重なお話をたくさん聴けて、勉強に成りました。もっといろいろお話を伺いたかったのですが、終電無くなるので帰宅しました。芸術に関係の有る話をいろいろ伺えたのが、特に良かったです。

◆ぼくは、1対1で、「人」と向き合ってお話を聴くことに一生懸命に成れました。そのことが、「ぼく」本人にとって、ほんとうによかったことです。ぼくは、集いで座る席が、いつも幸運で、この日も宮本千晴さんの向かいの席。ぼくは、緊張してあまり話せない性格。でも、初めて、千晴さんの表情や骨格をゆっくり視れた。って、こういう言い方って、すごく失礼なのかもしれないけど。ぼくは、彫刻が好きなので、どうしても、関心が、人の「表情」や「たたずまい」とか「姿勢」とか、「癖」とか「雰囲気」とか、そういうことに向いてしまう。職業病みたいなものかもしれない。

◆ぼくは、宮本常一さんのことは、あまり知らないです。著作もほんの数冊しか読んだことが無い。常一さんと時を共に過ごせた人たちに聴くことしかできないです。常一さんとライブに生きれた方々を羨ましいと想いつつ、今に生きる人たちから、新しい話を聴けることが、嬉しいです。

◆感じたのは、「今もなお」人が集うということのすばらしさです。宮本常一さんの偉大さって、そういうことなのではないかとか想った。偉大さってゆうか、常一さんが伝えたかったことというか、「人同士のライブなナマな集い」の継続更新の大切さ。ぼくは、勝手にそのように想った。各地を自力で踏みつつ体感を積み重ねた宮本常一さんが、都市に住む人たちに活かせること。として。うまく言えないけど。

◆だって、まあ、江本さんが引っ張っている「地平線会議」も 世界のネイティブの歴史慣習とか 日本の村の「寄り合い」とか「結い」とかの価値、意味をいかに都市生活者に活かせるかって感じなのだと想う。久島弘さんは、地平線は「セーフティネット」と云う、車谷建太さんは地平線は「学校」と云う。ぼくも、そのように想ってます。

◆いまの日本社会では、ふつうに学校を卒業して実社会に生き出すと、なかなか人と向き合う機会が無くなってしまう。今を「生きる」ための相談相手を失ってしまうとおもいます。それは、とても奇妙なことだとおもいます。せっかく努力して就職して「社会人」に成ったのに、心は孤立し路頭に迷い、肉体は使役に過労して行く。変でしょう?

◆先日三鷹市内での関野吉晴さんと山極寿一さん(京大総長の)との対談も、そのようなテーマでした。岡村隆さんが創ってるお2人の対談本が楽しみです。関野さんへも、「いい本を創ってください」って手紙を描いてしまいました(笑)。ああ、山極さんのことは、ぼくは、20年以上前から好きです。ようやく、陶餃子を手渡しすることができました〜♪。(緒方敏明 彫刻家 毎月の報告者に必ず手作りの餃子を進呈している)

★関野・山極対談は1月24日、武蔵野美大三鷹ルームで「サル、ゴリラ研究から現代社会を考える」と題して「地球永住計画」(15ページ参照)の一環として行われた。

『極夜行』刊行!!

■昨年7月「極夜(きょくや)の彷徨」としてグリーンランド最北の村、シオラパルクから犬1頭とともに80日間、500kmに及ぶ極夜の旅を語ってくれた角幡唯介さんの待望の書『極夜行』が2月10日、文芸春秋社から2月10日、刊行された。「うぎゃあ!  痛い! もう、いやだっ!」分娩室で妻の絶叫が響いた。こんな書き出しで始まる334ページ。結婚し、女の子の父となった40才の探検家がこの旅で目指したものがページを重ねるにつれて見えてくる。2017年7月28日、459回の地平線報告会に参加した人、レポートをしっかり読んだ人には行動の大筋は想像できるだろうが、この本に書かれていることはもう少し切実だ。内容紹介する紙数はないが、章立てはこんな具合だ。

「東京医科歯科大学附属病院分娩室」「最北の村」「風の巨瀑」「ポラリス神の発見」「闇迷路」「笑う月」「極夜の内院」「浮遊発光体との遭遇」「曙光」「極夜の延長戦」「太陽」「あとがき」。

とにかく一読に価する本である。地平線報告会で何が話されなかったか、知るだけでも興味深い。1750円+税。(E

地平線会議の「40年まつり」に向けて四谷の喫茶店「オハラ」での議論の熱気を思う

■「地平線会議」が誕生して今年で40年。すごいですね。よくぞつづいたと思います。記念すべき第1回目の報告会は1979年9月28日(金)で、報告者は三輪主彦さんでした。「アナトリア高原から」というタイトルで話していただきました。地平線会議の発足式を兼ねた報告会でした。会場は青山の「アジア会館」。報告会を担当したのは私、カソリでしたので、その時の記録が手元に残っています。

◆報告会への参加者は99名。その内訳の主なものは日本観光文化研究所が15名、三輪さんの教え子グループ「沙原の会」が10名、芝浦工業大学探検部が8名、法政大学探検部が4名というものでした。これもすごいことだと思うのですが、参加費は500円でした。それ以降、40年間、報告会の参加費はまったく変わっていないのです。ということで99人分の参加費、49500円の収入がありました。支出は会場費が5300円、参加者全員にコーヒー(30)、コーラ(30)、ジュース(40)の飲み物を出したので、その代金が20000円で、差し引き24200円が残りました。それを第2回目の報告会に繰り越したのです。

◆当時の「地平線会議」の資料を見ていてぼくの目を引いたものがあります。それは第1回の報告会の1ヵ月前、8月31日にまとめた「地平線会議の趣意書」の案です。これがすごくいいのですよ。あの頃の地平線会議誕生にかかわった面々の想いが色濃くにじみ出ています。

◆「地平線には、そして水平線にも、1本として同じものはない。4キロ先の地平線、40キロ先の地平線、140キロ先の地平線、あるいはまた360度の地平線、たった8度の地平線、ともかく1度、越えてみようじゃないか。ほんとうは、どこまで行っても、越えられはしないのだが」。

◆「これからの人に。『未知の大地』や『地図の空白』がなくなったと思ったとき、物理的探検は消滅していた。しかしいつの時代にも知的探検は存在する。そしてなお、『体験』の絵筆の前にあるのは純白のキャンパス。探検の手ごたえや冒険の心があるあなたをつき動かすとき、あなたはいったいどんな軌跡を地球上に描くのか」。

◆「いまの人に。行動体験がオリジナリティーにあふれているのなら、それはすでに『表現』のレベルにある。行動表現というものの広がりについて考えてみるのもいい」。「まだねばっている人に。行動の軌跡の特性が他人の目には個性的であっても、どうにもならないマンネリであるかもしれない。小手先の技術はさまざま試みたはずだから、あとは開き直るしかないのだが…。ここでもう1度、仲間たちを『特定多数』の観客にしてみたら」。

◆「ちょっと遠ざかってしまった人に。酒を飲んでほろ苦い思い出を語る前に、まだまだ前向きにやってもらいたいことがある。若い人たちの話をフーン、フーンと聞いてやる『耳役』だ。バカ、ドジ、マヌケといった言葉で、逸材をただの小利巧にしてしまう怠さを知っているはずだから」

◆「地平線会議」誕生の前後には四谷の喫茶店「オハラ」や「オハラ・パート2」などにメンバーが集まって喧々諤々の議論をかわしました。あの頃の熱気、情熱が「地平線会議40年」の礎になっているように思います。みなさん、「地平線会議」の「40年まつり」をおおいに盛り上げましょう!(賀曽利隆

趣意書案は『大雲海』にあり
■地平線会議趣意書案は、早大探検部OB、伊藤幸司さんがまとめてくれたものだ。賀曽利隆御大が書くように当時の雰囲気がよく表現されている。丸山純さんが中心となって作った地平線通信全記録『地平線大雲海』(全1152ページ)の冒頭に手書きの全文が再録されているのでコピーして読んでもらうのもいいかもしれない。(E)

先月号の発送請負人

■地平線通信465号(2018年1月号)は、1月10日印刷、封入作業を終え、翌11日、新宿郵便局に渡しました。新年早々というのに、心強い顔が集まってくれました。森井祐介さんがレイアウトしたものをいつものように早めに出動してくれた車谷君が印刷して折りをつけ、皆でビニール封筒に封入し、宛名を貼り付ける。毎度言いますが、こんな単純な手作業にさまざまな顔が集結してくれるのが地平線会議の底力と思います。作業の後、いつもの餃子の「北京」で来し方行く末を語り合いました。今年は40周年をどう祝うか、がテーマとなりそうです。皆さん、ありがとう。
森井祐介 車谷建太 伊藤里香 坪井伸吾 加藤千晶 兵頭渉 杉山貴章 中嶋敦子 武田力 光菅修 白根全 江本嘉伸 松澤亮 下川知恵


アイスクライミングもできる大阪近郊の素晴らしい山暮らし!

■昨年末に報告会でお話しさせて頂いた稲葉香です。地平線通信(465号)が届くのを楽しみにしていました。読むなり恩田真砂美さんの心のこもったレポートに感動して号泣でした。何度読んでもウルウルして自分の事を書いて頂いてる中でこんなに感動したのは初めてかもしれない。感謝です。友人の神ちゃん(神山知子)のコメントや、氷の回廊の庄司康治さん、大西保さんの辛口トークを知っている寺沢玲子さん、中嶋敦子さん、そして「夢を追う男」阿部雅龍君のコメントはとても嬉しくて、本当にありがとうございました。

◆私は大阪唯一の村・千早赤阪村在住です。大阪の最高峰・金剛山の登山口から徒歩10分のところに集落があり、そこで築100年は過ぎている古民家を再生しないで、隙間風ビュービューの中、パートナーと暮らしています。標高が約450mあるので大阪なのに雪が積もって、昨年は氷点下8度まで下がり、お風呂が外にあるので水道が凍ったり毎日がキャンプ生活のようです。毎年どこまで寒くなるかな〜と、ある意味楽しみながら生活をしていますが、そうじゃないとキツイかもしれない、笑。

◆山に暮らして12年目、今年が一番寒くて室内の洗濯物までが凍ってました、もう笑うしかなかったです。そんな中、休日もまた山へ遊びに行きます。私の元気の源は山ですから、山にいればなんだって楽しく幸せでもあります。ここは、大阪の最南部で、奈良にも和歌山にも行きやすく、オールシーズン遊ぶフィールドが近い。大阪市内には1時間で行けるという絶妙なバランスです。

◆この時期は、樹氷&氷瀑シーズンなので、住んでいる金剛山の樹氷や美しい氷瀑を見る事が出来ますし、ここから車で2時間足を伸ばせば、アイスクライミングが出来るほどの氷瀑ポイントもあります。それは、奈良県大峰山系の大普賢岳、ワサビ谷にある「ブライダルベール&シェークスピア」といい、地元では大人気ポイントです。日本は、四季折々を堪能出来るので、シーズンそれぞれ遊ぶのに忙しいです。そして自然と隣合わせの生活は、すべてがダイレクトなので教えられる事ばかりで面白いです。特に旧暦の的中には毎回驚きます。大寒には必ず夜中にゴゥーッと山が唸り、大雪が降りますよ!

◆そんなところでDolpo.BCといって、山岳図書を集めたネパール風山小屋を週末のみ営業でやっています! これは、今は亡き西ネパールの第一人者大西バラサーブをはじめ、吉永定雄さん、大西さんの先輩で1971年、ドルポのツォカルポカンに初登頂された水谷弘治さんに頂いた本達です。生前、『普通に図書館などに寄付するのはおもんない、お前のところに持っていく、100年後、なんで金剛山中にこんなに本があるねん?と、発見されたらおもろいやん』と言われて2トン車で運ばれてきた本です。その時、言い出しっぺの大西バラサーブは、ヒマラヤ遠征中でびっくりしましたが、私は暇人集めてみんなでボッカしたのが良い思い出となりました。今日も帰ったら雪が積もっている、車はスタッドレスで大丈夫だけど、実は駐車場から家までの下り道の連続が核心部なのかもしれない……^^。(稲葉香

風間深志・晋之介親子、ことしもダカール・ラリー完走!!

■昨年4月の報告会456回「迷ったら丘に登れ〜親子二人のダカール・ラリー」で登場した風間深志・風間晋之介親子が今年もやってくれた!!! 2018年1月6日、南米大陸を舞台にした第40回ダカール・ラリーがペルー・リマをスタートした。今回は35年前にパリ・ダカールラリーに出場した父・風間深志と奇しくも同じゼッケン番号81をつけ息子・風間晋之介が挑む、今までで最も過酷なコース、レース展開になった。

◆昨年、報告会レポートを書かせてもらった縁で親子別々にフェイスブック友達になり、夏からクラウドファンディング等で資金集めやトレーニングに奔走準備している二人の様子を知っている。出発直前の晋之介さんのコメント「楽しんでいただけるように死ぬ気で頑張ります!! 絶対死にませんが 死力を尽くします!!!」と。

◆スタートしてからもハラハラドキドキしながらペルー、ボリビア、アルゼンチンと15日間並走しているような臨場感で楽しませてもらった。どんなに疲れていても応援している多くのファンのために映像を投稿してくれたおかげだ。顔つきがどんどん変わっていくのもよくわかった。頬がやせて精悍になっていくが、冷静な判断力は失わない。結果、50ヵ国、148人のエントリーの中、44位で完走ゴールを果たす。素晴らしい!! 感動をありがとうと心から言いたい。

◆数字だけでない数々のドラマを是非、報告会で本人の声と映像から体感して下さい。今予定されている凱旋報告会は↓

 2/16 金曜日19時〜株式会社造形社(東京都中野区)
 2/24 土曜日14時〜モンベル品川店(東京都港区) (高世泉


地平線の森

「サーヘルの環境人類学」を読んで

  石山俊著 昭和堂 4600円+税

■2017年は農大探検部 OBの後輩から大作が届く年だった。6月の北村昌之の「メコンを下る」に続き、11月に石山俊から「サーヘルの環境人類学」(注1)が届いた。北村の「メコンを下る」は活動を始めてから本の出版まで24年がかり、スゴイなと思ったのに、石山の本書はチャドに行き始めてから25年目の出版。労作である。

◆石山は、1990年の農大探検部を中心とした長江源流航行隊(注2)のメンバーだった。その後、環境NGO「緑のサヘル」のアフリカ・チャドでの砂漠化防止植林活動に1993年から参加した。「チャドで山田さんと話していると、南北問題、東西問題、環境問題に脅迫されてるみたいですよ」と石山がよく言っていた。

◆当時、国連加盟国中、最貧困国ワースト5常連のアフリカ内陸国チャドは世界の負の遺産の吹き溜まり状態だった。飢饉と貧困の負の連鎖、1960年独立後続く内戦は東西大国の影がちらつき、フランス植民地時代の綿作モノカルチャー農業の結果の砂漠化、等々。球の南北問題(貧富の南北格差)、洋の東西問題(イデオロギー対立の東西冷戦の代理戦争)、船の環境問題(宇宙船地球号の危機)の世界三大問題の展示場状態をチャドは呈していた。

◆1980年代、フランスで構造人類学、イギリスで地球環境生態学を研究した筆者は、石山に繰り返しチャドの三大問題を講釈して、閉口された。1989年の冷戦終結、1992年のリオデジャネイロでの地球サミットを受けて、1990年代は人類が協力して共通の課題に立ち向かおう、との機運が世界のリーダーにも民間にもあった。チャドはその最前線の一つだった。

◆「サーヘルの環境人類学」のサブタイトルは「内陸国チャドにおける貧困・紛争・砂漠化の構造」となっている。長江隊でも緑のサヘルでも、どこか自信なさげでエース的存在ではなかった石山はじっくり四半世紀かけてチャドの三大問題にがっぷり四つに取り組んだ。本書はその報告である。

◆振り返れば、1990年代半ば京大探検部OBで京大助教授のSさんに相談を受けた。「アフリカ研究の成果をアフリカにフィードバックするようにとの要請が年々強くなってんねん。誰かアフリカでやってる日本のNGOにいい人材はいないかね。山田は学は嫌だろうから、誰か紹介してよ。開発人類学、環境人類学、人間がやる学だからなんでも人類学をつけたらええねん」。当時欧米では NGO、大学や研究機関、国際機関をめぐりステップアップしていく人材はいたが、日本ではまだ希少だった。石山はその草分けになった。

◆10月初旬、京都の総合地球環境学研究所(地球研)の勉強会に参加した夜の宴会に、石山もやってきた。5年間ここに勤め、4月から大阪万博跡地にある国立民族学博物館の研究員だという。地球研の元同僚いわく「栄転ですよ」。石山はすっかり貫禄がついていた。11月早大探検部OBの高野秀行からアフリカの食についての質問あり、石山にメールで尋ねたら「今ミャンマーです、帰国したら連絡します」との返事。チャドに家族のように迎えてくれる師を持ち、現地研究者と共同研究を続ける石山は、農大探検部創部宣言(注3)を継承し、一方通行から相互交通の新しい探検のひとつのスタイルを確立しつつある。

◆「一人前になりたかったら歴史をやれ旅をしろ」とは、関学大探検部OBの森田靖郎さんがあげた先人の言葉。石山は25年かけてアフリカ・チャド史をやり、今それをベースに世界と日本でフィールドワークの旅を続けている。エースでなかった男、石山俊の今後に期待すること大なのだ。アフリカだけでなく、国際協力、環境問題に関心ある人に一読をお薦めする。本代4600円以上の情報と経験の積み重ねがあることは受け合う。(農大探検部OB 山田高司 昨年暮れ「故郷四万十」から東京郊外に一時移住)

(注1)サーヘル。サヘルとはアラビア語で「岸辺」の意味。サハラ砂漠をラクダで南北通商した旅人たちが緑の見えはじめるサハラ南縁を「サーヘル」と呼んだ。アラビア語発音では、サヘルよりサーヘルの方が近い。
(注2)長江源流航行隊は1991年1月の地平線報告会で報告。石山俊は報告者の一人。
(注3)東京農大探検部の創部宣言は、「未知なる土地の人と自然を愛し探求する。その発展に寄与し究極の目標は世界平和にある」。1961年、日本の大学では4番目の探検部創部だった。1945年第二次世界大戦が終わり、1950年代はアジアの時代、1960年代はアフリカの時代、と言われ被植民地国が次々独立。東西冷戦時代、世界の若者は「Love & Peace」を合言葉にNonviolenceのフラワームーブメントの風を吹かせていた。農大探検部の創部宣言はそんな時代の波を農学徒らしく受けとめている。筆者は同探検部20期、石山は27期。青臭い書生論と言わばそれまでだが「ラブ&ピース」の創部理想論は世紀を超えて受け継がれてきた。出かけたフィールドの人と自然にいかに関わっていくかの回答を求めるフィールドワーク(旅)は我々のライフワーク(暮らし)でもある。

過酷だった? いや。北極冒険家の南極点行顛末

■かつて植村直己さんが北極での冒険の後に「南極大陸犬ぞり横断」を計画した時代、南極大陸で冒険活動を行うには大きなハードルがあった。最大の問題が、南極へのアクセスと南極大陸内での輸送である。かなり高緯度まで定住する人がいる北極圏とは違い、南極大陸は日本の昭和基地など各国の観測所が点在するだけの土地だ。そもそも、南極に行くための手段ですら整備されていなかったのが植村さんの時代である。

◆そこで植村さんは、南極大陸内に観測基地を持つアルゼンチンに交渉し、現地への移動や大陸内での輸送をアルゼンチン空軍が行う約束を取り付けた。地道な下交渉を経て、南極犬ぞり横断計画をスタートするために植村さんが南極大陸に上陸したまさにその時、アルゼンチンとイギリスの間でフォークランド諸島の領有を巡る戦争(フォークランド紛争)が勃発した。自国が戦争を始めたアルゼンチン空軍は、日本人の冒険のために人員を割いている場合ではなくなり、植村さんに対する全ての協力は白紙となった。出発目前で計画が頓挫した植村さんは失意の中に帰国をするしかなかったのだ。

◆植村さん以前には、個人での南極大陸の冒険は皆無であったと言える。スコットやアムンゼン然り、1968年に村山雅美さんが率いた日本初の南極点到達も、昭和基地から雪上車での隊を組んで向かった観測隊としてのプロジェクトである。

◆事情が変化してきたのは1980年代の半ばからだ。そのころ2人のカナダ人登山家が、南極大陸最高峰であるビンソンマシフへの登頂を計画した。しかしその時代、まだ南極大陸への移動手段が乏しかったため、友人のイギリス人パイロットに協力を仰ぎ、南極大陸へ自分たちで組んだ飛行計画で飛ぶ以外に手段がなかった。

◆彼らは「世界初の七大陸最高峰登頂」を掲げてビンソンマシフ登頂のための資金集めを始めると、思いのほか集まってしまったという。そこで彼らは余剰資金で会社を設立し、自分たちと同じように南極大陸を目指す冒険者たちを支援する組織とした。それがAdventure Network International(ANI)社である。ANIが支援して実行された日本人の南極冒険は、中村進さんの南極点スキーマラソン、吉川謙二さんたちのアンタークティックウォーク、大場満郎さんの南極横断などである。ANIはその後経営体制が変わり、社名もAntarctic Logistics & Expeditions(ALE)社となっている。

◆かつて、大きな組織でしか実現し得なかった南極大陸での活動も、現在ではALE社に代表されるような民間会社組織の支援を受けることで、個人レベルで容易に実現できるようになっている。どの国にも属さない南極大陸内で活動を行う者は、全ての人間が1959年に採択された南極条約の制約下に置かれることになる。冒険活動を行う我々に特に関わるのが「環境保護に関する南極条約議定書」である。この中で南極の自然環境への影響を抑えるために、野生動物には何メートル以内には接近してはいけないであるとか、廃棄物の処分方法などが決められている。

◆日本人が南極内で活動するのであれば、日本の環境省に自分がこれから行おうとしている行動のあらましを報告して、行為が環境議定書に違反していないことを証明する必要があるのだ。

◆2017年11月10日に羽田空港を出発した私は、カナダのトロント、南米チリのサンティアゴを経由し、チリの南端にあるプンタアレナスに飛んだ。移動時間36時間のロングフライトである。プンタアレナスは、ALEが南極のユニオン氷河に所有しているベースキャンプへ移動するための玄関口となる場所だ。ちょうどチリの南端からまっすぐ南に下っていった先にユニオン氷河はある。南極最高峰のビンソンマシフがあるエルスワース山脈の中にユニオン氷河があり、登山や極点旅行の冒険活動を行うには良い立地となっているのだ。

◆11月15日にプンタアレナスからベースキャンプとなるユニオン氷河へと、ALEの輸送機イリューシンで飛ぶ。朝食をプンタアレナスでとっていたかと思えば、約5時間半のフライトでそこはすでに南極大陸。遅めの昼食を南極でとることができてしまう。ユニオン氷河には冒険活動を行う人ばかりでなく、観光客も多く訪れる。私が搭乗したイリューシンにも40人ほどの乗客がいたが、その大多数が観光客だった。時代とともに南極旅行も一般化し、訪れる人が増えれば一人当たりの料金も安くなり、それが新たな観光客を生み出す。ユニオン氷河は、夏季には常時100名ほどの観光客やALEスタッフが滞在する規模となっている。

◆11月17日にユニオン氷河から南極点へのスタート地点であり、海岸線に当たるヘラクレス入江に飛ぶ。南極点への冒険では、海岸線からスタートすることがひとつのルールとなっている。山頂直下まで自力で行く必要のある登山とは違い、極地の冒険ではゴールの目の前まで直接飛行機で乗り入れることができる。ALEでは南極点に直接乗り入れるツアー旅行も行っているし、南極点の100km手前の南緯89度に着陸して最後の緯度1度をガイドと一緒にソリを引いて歩くツアー旅行もある。海岸線からスタートするというのは、そうやって「なんでもあり」のツアー旅行との一線を画するために、かつての探検家たちが自国からはるばる船でやってきて、上陸し南極点を目指したことにならっていると言える。

◆ユニオン氷河からヘラクレス入江まではプロペラのツインオッター機で約20分で到着し、車輪の代わりにスキーを履いた機体が軽やかに着陸。60日分の食料と燃料、物資を搭載した100kg超のソリを機内から下ろすとツインオッターはすぐにユニオン氷河への帰還準備に入り、軽やかなエンジン音を響かせて飛び去っていった。南緯80度に近いここから南極点までは約1130kmである。自分一人とソリ一台。着陸する前にツインオッター機内から目指す南の方向を見渡したが、当然だが真っ白な南極氷床がどこまでも続くのみである。あっちに行くのかぁと、ため息交じりの感想をもらしながら見ていた。

◆ツインオッターが去れば、あとはやることはない、行くだけだ。上半身にハーネスを装着し、ソリとハーネスを登山用のロープでつなぐ。足にはスキー、手にはストックを持ち、周囲に置き忘れた物がないことをぐるりと見渡して確認し「さーて、南極点まで行きますかー」と自分の背中を押すように一言発してから最初の一歩を踏み出した。

◆南極点は標高2800mを超えた場所にある。山の上ではなく、長い年月をかけて雪が厚く堆積して氷となった氷床の表面だ。内陸に進むにつれて氷床は厚く成長するため、南極点までの行程は基本的にずっと上り坂になる。分厚い鏡餅のような南極氷床は、低い沿岸部に向かってゆっくりゆっくりと流れ動いている。海岸線近くになると氷が海に向けて落ちていくため、氷床の勾配がキツくなり、またその表面に多くの亀裂を生み出しクレバスとなる。

◆ヘラクレス入江から出発すると、すぐ目の前に顕著な壁のような上り坂が現れてくる。どの辺りにクレバス帯があり、どのルートを通って行くべきかは自分自身による事前のリサーチと、ALEが持っている知見を合わせて決めていく。まずは入江の奥まったところにある顕著なヌナタック(岩峰)を目指し、その脇を通過していく。強いカタバ風(内陸から吹き下ろす強風)に叩かれたガリガリの裸氷帯を数日登っていくと、最初の顕著な氷床の登り坂を抜けて次第に斜面は緩くなっていく。

◆急斜面を登って先が見通せるようになると、南にスリーセールズという3つの三角山が並んでいるのが見えてくる。名前の通りに帆を三枚上げたような顕著な目標だ。スリーセールズ手前で左(東)に抜け、西経80度の線に達すると、基本的にはあとは南極点まではひたすらまっすぐ南進である。スタートから西経80度のラインに乗るまでは、約70km。あとは1000km以上、来る日も来る日も変化に乏しい氷床を、ゆっくりゆっくり登りながら南を目指して歩く。気が付いたら50日目に南極点に到達していた、それが今回の南極点遠征のすべてである。南極の環境がどうであるとか、そんな話はいくらでも他で語られていることなので、ここでは多くは割かない。

◆ルート上にも所々にクレバス帯がある。それらを西に東に少しずつ進路変更しながら避けていくのであるが、危険はあまりない。歩いていると、少し先に顕著なクレバス帯が見えることもある。だが、クレバスの位置情報はあらかた把握しているので恐怖心もない。常に吹いているカタバ風によって足元は固く締まっているので歩きやすく、その風も秒速15mを超えるようなものは吹かない。

◆気温は夏の南極であるので氷点下23度ほどまでしか下がらず、太陽の位置が高いので暖かい。白夜で太陽も沈まないため、寝ている間もテント内はポカポカ陽気である。私が長年歩き続けてきた北極とは大違いである。ホッキョクグマに寝込みを襲われる心配もなく、北極海のように寝ている間に何キロも流されることもない。北極海ではまっすぐ進もうにも乱氷帯や海氷の割れ目(リード)で進めず、大きく迂回を余儀なくされることもあれば、何日もかけて必死に進んだ距離をブリザードによって3日で70kmも流されチャラにされることもある。

◆海氷の上を歩く北極冒険では必然的に一番寒く海氷が安定した時期を選んで行くこととなり、3月初旬の北極海では氷点下56度の真っ暗闇でホッキョクグマの襲撃に備えながら、目覚めた翌朝には揺れ動く海氷により周囲の景色が変わっているような環境を旅してきた。北極海では、当たり前のような「歩いたらそれだけ進める」が成り立たないのだ。

◆南極では何の問題もなく進める、しかも快適に。正直、今の私にとっては簡単すぎる場所であった。北極海が全盛期のマイク・タイソンとしたら、私にとって今回の南極点無補給単独徒歩は日本ランキング5位くらいの相手に感じたのだ。パンチも軽いし、テクニックも未熟。しかし、素人が相手にしたら日本ランカーには1分もたずにボコボコにやられるだろう。

◆「日本人初」「南極点」という分かりやすさからか、南極点到達時と帰国時の報道は大きかった。羽田空港での帰国時記者会見にもたくさんのメディアが集まり、質問を受けた。受ける質問の中で、事前に想定はしていたものの答えるのに窮したのは「南極点への行程は過酷だったと思いますが、何が一番大変でしたか?」という類のものだ。そう、何が大変だったかをやたらと聞かれるし、質問が「過酷で大変な辛い日々」前提で発せられるのだ。帰国記者会見も含め、その後にも日々どこかで取材を受けているのであるが、同じ質問に対しては率直に答えようと考えてこう言っている。「大変だったことですか?うーん、ないっすねー」と。

◆南極に行く前から、自分にとって簡単であることは承知していた。それでもなぜ行ったかといえば、これまで北極だけを18年間通い続けていると、ひとつの遠征計画を立てたときにこれから起こることがあらかた予測できるようになり、また終わってみると事前の予測を超えることがなくなってくる。冒険という観点から見れば、それは難しい課題も安全に終えることができるということだが、未知へのワクワク感は乏しくなってくる。

◆2000年に大場満郎さんに連れられて、初めての海外旅行で北磁極700km35日間の徒歩行に参加したときは、これから自分の目の前に現れる未知の世界への期待感に満ちていた。ワクワクしていたのだ。昨年40歳になり、あの頃のような未知の世界へのワクワク感を取り戻したくなってきたのかもしれない。初めての南極は、北極しか知らなかった私に新しい極地の姿を見せてくれた。それは、冒険の技術的な困難さに終始した話だけではない、土地が持っている歴史や南極に関わる多くの人たちの想いでもある。

◆今回の南極行を経て、今後新しい南極での計画を思いつくかもしれない。来年はまた北極に戻るつもりであるが、南極という新しい発想の引き出しを得てこれから先も、自分にとってワクワクするような計画を考えていきたい。(荻田泰永 北極冒険家)


今月の窓

田口報告会で思い出すチベットの犬たちとの熾烈な戦い

■地平線通信の長野亮之介さんの独特の絵が載っている、彼の取材して書いた翌月の予告を見るのが楽しみだ。次は誰が何を語るのだろうか。2月は旧知の田口洋美さんだった。「このままだと都市は野生動物にのっとられますよ」というショッキングな内容だった。日本列島だけではなく、日本列島はこのまま進むと、野生動物の楽園になってしまう」と田口洋美さんは言う。田口さんはいい加減なことは言わないはずだ。話を聞いてみたくなって、地平線報告会に参加した。

◆かつて田口さんから「奥山の開発が進んで住処が荒らされたからクマが村に降りてきたわけではない。村が弱くなったから、クマが村に出没するようになった」と聞いたことがある。村の男はかつて銃を持っていた。農業だけでは食べて行けず、銃を持っていた男は出稼ぎで村から出て行った。じいちゃん、ばあちゃんと、妻が残って農業をせざるを得なかった。熊が奥山から出て、里山経由で村に侵入しても、三ちゃんなら脅威を感じない。楽々と畑の作物を頂ける。

◆今回の田口さんの話はさらに深刻だった。野生動物が村だけでなく、都市部にも進出して来ている。それを豊富な統計データと、奥山と村や街の間に緩衝地帯としての里山があるかつての航空写真と、現在の奥山と村、街が隣接している航空写真と比較して、話を展開していく。説得力があった。

◆村や街に鉄砲を持った人間が少なくなり、弱くなったからと言うだけでなく、人間側の自然観の変化をあげる。「現代人が自然とのかかわりが薄くなり、無関心になって来た」。一方で、野生動物を守らなければいけないという意識もあるが、どう扱ったらいいか分からない。田口さんは村や街に野生動物が出てきたら「ここはお前たちの住むところではないよ」とたしなめて、あるいは脅してでも彼らの本来の住処に返さなければいけない」と言う。

◆ところが皆どうしたらいいか分からず、里での野生動物も往来を遠巻きに見送る。野生動物たちは恐れることも怖がることもなく、村、街を闊歩し、野菜、果実を堂々と漁ることができる。ハンターが減っていることが一因だが、いたとしても経験・技術が不足で、野生動物への対抗圧力になっていない。では、町や人里で野生動物から守るにはどうしたらいいのか。田口さんは意表をつく対策を提案する。

◆「夜間に犬を放したらいいのでは」。昔は犬が村や街をつながれずに闊歩していた。ところが最近はかわいいことだけが取り柄の屋敷犬が多くなり外で飼っても繋がれている。かつては放たれた犬たちが野生動物たちには脅威だったはずだ。ハンターに代わって、訓練した犬達を管理して放つという方策はナイスアイデアに見える。しかし、アラスカでは熊による死傷者よりも犬による死傷者のほうが多い。と聞いたことがある。

◆アンデスや、中米、チベット、中東で私は何度も放し飼いにされた飼い犬に襲われた。実は野犬に襲われたことはない。必ず飼い主のいる番犬だ。自転車旅では人家に300mほど近づくと、飼い犬が飛び出してきて、こちらに疾走してくる。彼の役割が家を守ることだからだ。全速力で走る私の横をピタッと並走して飛びかかろうとする。家の前を通り抜け、300メートルほど行くと、犬はピタッと止まる。そこで彼の守備範囲が終わるからだ。南米では2度襲われ犬にかまれた。

◆チベット犬は喉元を狙って飛びかかってくると聞いていたので、警戒していた。しかし、案の定何回も襲われた。チベット犬は獰猛なので、通常は赤い太いロープで繋がれている。しかし、3匹の繋がれていない犬に襲われたことがある。その時は自転車を止めて応戦した。代わる代わる飛びかかってくるのだ。応戦するために軽登山靴を履いていた。蹴りを入れる真似をすると、さすがのチベット犬もひるむ。しかし3対1なので疲れる。

◆やがて蹴りが1匹の顎下に入った。犬は宙に飛んだ。やばいと思ったが、犬は立ちあがり、再び飛びかかってくる。そんなことを暫くしていた。やがて家から4、5才の女の子が出てきて、犬たちに何かささやいた。すると犬たちはシュンとして、道路から立ち去った。

◆街で、繋がれていないチベット犬に襲われたこともある。飛びかかってきたのを私はスピードを上げて交わした。ところが自転車が重くなった。後ろ横を振り向くと、犬を引きずっていた。目測を間違って自転車の後輪に取り付けたバッグにかみつき、歯がバッグに食い込んでしまい、はずれなくなってしまったのだ。

◆犬を放つ案は、人間領域から、野生動物領域に追い返すには妙案であるが、よく考えてほうがいい。屋敷犬を外に出しても効果はない。尻尾を巻いて逃げ出すだけだ。野生動物を追い立てるには大型犬が必要だろう。人間には攻撃しないように訓練し、管理しなければならない。

◆田口さんはドイツ人に日本の野生動物の大繁殖の話をしたら、日本に行って狩りをしたいと言っていたというが、それは断ったほうがいい。一概には言えないが、神が人間を造り、その人間のために動物や植物を造ったという自然観は日本ではなじまない。ヨーロッパ人は自然を破壊してきた。新大陸でも森で自然の一部となっていた先住民を含めて、自然を破壊し続け、それは今も続いている。その結果、物質的豊かさを実現した。

◆日本をはじめ豊かな自然の中で生きてきた民族は、もともと自然に対峙するという感覚はなかった。少なくとも欧米の価値観を学ぶまでは、自然に謙虚で、人間は自然の一部であり、野生動物は怖れ、敬う存在であり、恵みでもあった。彼らが人間の居住圏に入ってきた原因、村が弱くなったのも、宅地がじわじわと奥山に近づいていたのも、里山が縮小してきたのもすべて人間の動き、都合で起こったことだ、野生動物は悪気があるわけではない。私は今生きている生き物は、すべて生きている意味があると思っている。

◆野生動物のためにも、人間は怖いんだぞと思い知らせて、奥山に戻るような仕掛けを真剣に考える必要がある。田口さんはいい契機を与えてくれた。

私の近況:「地球永住計画」とは何か

■ところで、私の近況をお伝えしておきます。2年前に「地球永住計画」と言うプロジェクトを始めました。「火星移住計画」に対する言葉です。しかし火星移住のための調査研究は、図らずも、この地球が命を育むのに如何に奇跡的な星かということを再認識させてくれました。太陽との距離、大きさ(重力と関係)、組成、液体の水、酸素、地軸の傾きや月の存在など、生き物の存在を可能にする条件がそろっています。

◆火星に移住するにはテラフォーミング(地球化)が必要です。しかし、火星の地球化には液体の水がない、大気が少なく、酸素がないなど、困難なことから、太陽系外に目を向けて地球に似た惑星を探し始めました。「地球永住計画」というのは「火星移住計画」に対する発想です。火星に地球の生態系を作って(テラフォーミング)、移住することはとても難しいと私には感じられます。それよりも、もっとこの地球をしっかりと見つめよう。千年先とか1万年先のことはどうなるかわかりません。でも、せめて孫やひ孫の世代にどういう地球(生態系)を残していくかは考えたい。

◆この「地球永住計画」のサブタイトルは、「この星に生き続けるための物語」です。 私たちが生きているということは、「物語を紡いでいく」ことだと思っています。地球永住計画は、各自がどういう物語を紡いでいくかを考えていくためのヒントを提示し、自分たちも考えていくプロジェクトでもあります。私は、47年間、地球の主だった辺境を這うように旅してきました。自分の足で歩いて、見て、聞いて、自分の頭で考えて、自分の言葉で表現してきました。

◆地球永住計画でも、足元にある自然や身近な人との出会いを大切にしています。「地球永住計画」の柱は三つあります。一つが玉川上水の自然調査と観察会。タヌキをはじめ、糞虫、訪花昆虫、樹木や草花の植生調査、昆虫やクモ、変形菌など様々な生き物の観察を通して、生き物たちのリンクと私たち人間との関係を調べています。12月にはこれまでの調査を、保全生態学の高槻先生がまとめて、本を出版しました。特別寄稿を私が書いています。

★『都会の自然の話を聴く 玉川上水のタヌキと動植物のつながり』(高槻成紀 著 関野吉晴 特別寄稿 彩流社刊)

◆二つ目は、小平を中心とした三多摩の古老や達人、名人たちの話を聞き書きすることです。小平の八雲祭では土地の人と神輿を担ぎました。この二つは自分の足で歩いて、見て、聞いて、調べることができます。しかし、自分ではできないことがあります。宇宙が生まれなければ私たちはいないし、太陽系ができなければ私たちはいません。生命がいかに生まれて、どうやって進化してきたかは、自分の足で歩くだけではわかりません。本を読めばある程度はわかります。

◆それよりも、その道の第一人者、最先端研究者に聞くのが一番いいだろうということで、これまで40回ほど、各分野の専門家にお願いして、武蔵野美大鷹の台キャンパスで講座をやりました。この講座が三つ目の柱です。今回は鷹の台キャンパスの講座と並行して、武蔵野美大の三鷹ルームでも様々な講座をやることにしました。それが「連続公開対談シリーズ 〜賢者に訊く」です。

◆私が徹底的に話を訊いてみたい、各界の第一人者を呼んで、対談を行います。今までの講座との違いは、各分野の第一人者たちと対話しながら進めることです。各界の第一人者をお呼びして、各自の専門分野から見た視点で、「この星をどのように捉えているのか、この星をどのようにして、次世代に持続可能で、よりよい世界を引き継いでいけばいいのか」を語って貰い、対話を通して、話を深めていきたいと思っています。(関野吉晴

★「地球永住計画」公式サイト https://sites.google.com/site/chikyueiju/


あとがき

■毎月、皆さんの原稿が届くと、中身を見ながら、今月の通信の全体像をつかむ。予定していた書き手が急に書けなくなることもあるので実際に編集作業を進めるうちはじめ考えていたのと結構違う内容になることもある。そういう予期しない展開が好きである。急にお願いした荻田泰永さん、関野吉晴さん、ありがとうございました。

◆今月は、実はひそかに地平線会議の「台所事情」を書くつもりでいたのだが、そんな誌面ではなくなった。目の前で毎日アスリートの戦いが展開しており、それなりに面白い。でもいつの間にか大相撲の話題が消えてしまったし、もりかけはやっているが、弱小野党の“統廃合”問題は一層わかりにくくなっている。

◆10月か11月の休日、1日がかりで「地平線40周年祭」をやります。祭というよりもう少し真面目なものになるかな。でも、楽しいものにしなければ。遠路の方たちのために早めにお知らせするつもりです。

◆地平線会議発足当初の「趣意書案」、少し多めにコピーしておきます。あの当時伊藤幸司、丸山純両氏は留守番電話を使った「地平線放送」というユニークな試みを実行した。そんな話もどこかでしっかり振り返りたいです。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

歴史をやれ、旅をしろ

  • 2月23日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「資本主義を牽引してきたアメリカ文明が揺らいでる。文明末は、想定外の事が起きるんだよ」と言うのは森田靖郎さん(71)。中国をテーマに、文革や天安門事件、蛇頭などを深く取材したノンフィクションを発表し続ける作家です。

地平線会議の発起人の一人でもあります。この数年、森田さんは欧州や米国に拠点を持ち、これまでとは違う立ち位置から中国、そして日本の動向を見守ってきました。「アメリカは建国以来、破壊と再生を繰り返してきたけど、それも行き詰まってきた。トランプ大統領の誕生は、アメリカの本能的な危機意識を反映しているのかも」と森田さん。

価値観が揺らぎ、不安渦巻く時代に流されないためには、《文化》が拠り所になると説きます。「西欧人にうらやましがられる日本の精神文化とは何かを探っているところ。それを知るためにも歴史を繙き、旅で多様な視点を培い、現実に起きる現象を観察するのが僕の流儀」。

歳を重ねるにつれ、ますます好奇心が強くなり、向学心が旺盛になってきたのが自分でも意外」と言う森田さんに、文明末の歩き方を語って頂きます。必聴!!


地平線通信 466号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2018年2月14日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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