2018年1月の地平線通信

1月の地平線通信・465号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

1月10日。東京は快晴。14時の気温8℃、湿度29%と冬らしい天気だが、南の鹿児島・桜島では雪が降りしきっているという。2018年第1号の地平線通信をお届けします。

◆板門店ではきのう9日、韓国と北朝鮮の高官級会談が韓国側施設「平和の家」で行われた。来月開幕する平昌冬季五輪に北朝鮮が参加し、成功に向け協力していくことで合意したという。つい先日まで「一触即発の軍事危機」とまで伝えられてきた南北が一気に融和し、半島の問題は半島内で、という空気になっていることに驚く。トランプも安倍もお呼びでないのだ。金正恩、次になにをするのだろうか。

◆板門店には一度入ったことがある。それも北側からだ。初めて南北赤十字会談がひらかれた1972年秋のこと。以前書いたと思うが、日中の国交が回復していなかったので往路は香港から列車で北京に出、そこで北朝鮮への入国ビザを受け取り、鴨緑江を渡り、平壌にたどり着いた(復路は日中国交回復していたのでそんな遠回りは不要だった)。平壌での何日かの会談の後、コスモスが咲き乱れる美しい道路を南にたどって下り、板門店に出た。韓国のメディアとはそこで出会ったのである。

◆昨夜、11時間の会談を終えて出された「共同報道文」によると、北朝鮮は平昌五輪に高官級代表団や選手団、応援団、芸術団などを派遣する。先発隊派遣などを協議する実務会談を開催し、日程を調整することになった、ということだ。この空気は歓迎したいが、いいことばかりではないだろう。それにしても1972年と言えば金日成の時代で、息子の金正日はともかく孫の金正恩は生まれてもいなかったのだな。

◆ショッキングな事件がカヌー競技のオリンピック出場をめぐる選考の中で起きた。32才のベテランカヌーイストが自身の出場権を確保するため25才の有力選手の飲み物に禁止薬物を混入させた、というのである。ドーピング検査の結果はすべて「自己責任」とされるので、有力選手の検査結果は「陽性」と判定されたのに原因ははっきりしなかった。不正行為をやった本人が「良心の呵責に耐えかねて」カヌー協会に名乗り出たためにわかったという。

◆すごいことだ。自分が筋肉増強剤などの薬物を摂取するのではなく、ライバルに飲ませて資格剥奪をはかるなんて。オリンピック出場とはそこまでのことをさせる「栄誉」なのか。スポーツと言えば、昨年から荒れ続けている大相撲。きのう明治神宮で白鵬、鶴竜、稀勢の里の3横綱がそろって土俵入りをしたが、昨年より集まったファンは少なかったそうだ。とりわけいつもなら湧く白鵬への声援が目立って小さかったという。今回の問題が長くこじれているのは、相撲は「スポーツ」なのか、「道」なのか、という意外に厄介な課題が横たわったままだからだろう。

◆おととい、雨にけぶる横浜の通りを歩いた。ああ、あの歌が聞こえてくる。

“Blue canary, she feels so blue She cries and sighs, she waits for you……”市立中学の1年生だったと思う。街から流れるダイナ・ショアのこの歌がなぜかひどく気に入った。自分ではレコードを聴けるわけではなかったので伊勢佐木町あたりをぶらつきながら流れるこの曲を身体で憶えたのだと思う。

◆当時伊勢佐木町には6、7階建ての百貨店があり、その歌を聴きながらビルの屋上から雨に濡れる街を見下ろすことがしばしばあった。コペルという名の少年を自分にかぶらせることが多かった。確か国語の教科書に「コペル君の発見(または冒険?)」としてそういう風景をイメージさせる文章が載っていたのだ。いつの間にか青いカナリアの歌とコペル君の文章は私の中でワンセットになっていて、老人になった今でもそれは変わらないのだった。

◆最近、書店で吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』という本が、とりわけマンガ本で売れていると知り、めくってみた。なんとコペル君が登場するではないか。『日本少国民文庫』の一つとして出版されたというから戦時中の本であろうに、戦後教育の中でも活かせる本として教科書に使われたのだろう。コペル君、こんなところにいたか! と不思議な気分なのである。

◆通算でいうと「465号」になる今月の地平線通信。1979年8月17日に地平線会議という活動をスタートさせてから毎月毎月、この冊子を出し、一度も欠かすことなく報告会を開いてきた。そして95年秋以降の記録は、すべてウェブサイトに記録されている。地道な私たちの活動を支え続けてきてくれた多くの人々にあらためて感謝したい。

◆この9月以降、地平線会議は「40周年」に入る。私たちはどうしてこういう活動をやってきたのか。それを考えるためにも「小さな祭り」をやろう、と思う。皆さんの知恵と力を貸してください。(江本嘉伸


先月の報告会から

チベットのはしっこで縁を叫ぶ

稲 葉  香

2017年12月22日 新宿区スポーツセンター

■「これは聞き逃せない……」、稲葉香さんが12月の報告者と知ったとき、手帳を開いて予定が空白になっていてうれしかった。今年の4月、人づてに稲葉さんのブログを知り、行間からあふれる魂の熱量に圧倒されずっと気になっていた。初めてお会いする稲葉さんは、ひっつめ髪でエスニックな服を着こなし、小柄だが力強い眼差し。意志を持った人の目だ、と思った。「めっちゃ緊張しているんですよ」と言うが、背筋の伸びた姿勢にはブレがなく、難病のリウマチを患う患者には見えない。

◆稲葉さんを形容する言葉はいくつかある。大阪の繁華街にサロンを持つ美容師で、金剛山のふもと千早赤阪村の古民家にパートナーと暮らしながらカフェを営み、各地を歩いてきた旅人で、河口慧海の足跡を追ってドルポの踏査や未踏峰を登り、ネパール踏査の第一人者である故大西保さんの弟子で、リウマチ患者。しかし、これだけで稲葉さんを言い当てることは難しい。私がなにより惹きつけられたのは、魂に突きつけられるような言葉の響きにあったからだ。

◆「今回は伝えたいことが3つあります。リウマチになってから河口慧海にたどり着くまでの自分、大西保隊長に出会い参加した慧海プロジェクトの遠征、その後自分で計画したドルポ遠征について」。「リウマチは膠原病の一種で、軟骨を攻撃して骨を破壊する。19歳で発病してから、寝起きの激痛が毎日10年続いて、心と身体がやられて絶望的でした」

◆初めて旅にハマったのは25歳の時。発症5年後に行ったベトナムだった。「ベトナムでは手足のない人がたくさんいた。足のない子が手を挙げ「俺はここにいる」と示す。すると車がみんな止まり、その中を堂々と突っ切って行く。その光景に衝撃を受けた」。自分が生まれた時にベトナムは戦争をしていた。「日本はなんでもあるのに、情報に惑わされている自分を甘いと感じた。人生短くていいから、本気で生き抜きたい、と思った」

◆戦場カメラマンの沢田教一を知り、一瞬の大切さを考えた。そして、年に1回は旅をしよう、と決めた。美容師は休みが少ない。悩んでいたとき先輩の誘いを受けてフリーランスになった。給料がなくても実家にいればどうにかできると思った。「自分の中では旅と旅行を区別している。旅は思いが100%になったら行く、ということをルールにしているんです」

◆興味を持つと、ストーカーのようにハマっていく性質だという。「『神々の山嶺』を読んで、エベレストから植村直己にたどり着いた。彼の生き様に惚れ2001年にアラスカへ行った」。当時はアウトドアを全く知らなかった。ザックを見て何が入っているんだろうと思うくらいの知識で、マッキンリーをバスで周遊したが、アメリカはそんな自分を暖かく受け入れてくれた。

◆「無知なことがかえってよかったのかもしれない」。お陰で受ける衝撃は何もかも大きく、最終地点に到達したとき通常の五感の感覚が飛んで不可思議な状態を味わった。「そして、もっと山の中へ入りたい、と思いました。29歳。植村さんがエベレストに登頂した年齢でした」。2002年には一人でネパールへ。出会う日本人から危ないと怒られた。それでも、ゆっくり歩いていたらカラパタールまで登ることができた。

◆残念ながらマッキンリーで感じたような五感が飛ぶ感覚は味わえなかったが、『神々の領域』の境界線を知覚した。5500m地点を超えたとき後ろを何かが通り過ぎ、これが神の領域だと確信した。ほかにも、不思議なことが起きた。「10年近く激痛から始まっていた朝の目覚めが、ネパールではすっかり消えていた。山では毎日楽しい気分で起床し、山を見て天気を確認し、気付くと手が動き足で立っていた」

◆「ヒマラヤの大地が自分の力をよみがえらせてくれたんだ」。当時のネパールには電気はなかった。環境が厳しいほど体の感覚が蘇るのかもしれない。帰国してから担当医にその話をしたが相手にしてもらえず、頭にきて他の病院を探したが、同意してくれるところはどこもなかった。数字で示せないと医者は認めてくれない。仕方なく、元の病院に戻ると、薬の量を減らす約束をしてくれた。

◆帰国後は毎週のように山に登った。そのうちに体力と気力がついてきたのを感じて、10年間ずっと飲み続けてきた薬と通院を、自己判断でやめた。自然治癒力は医学的に証明される訳ではないが、3.11以降はまわりが興味を持って話をきいてくれるようになった。そして14年前に河口慧海にたどりついた。「あまり知られていないんですが、慧海はリウマチだったと手記に残っているんです」。「慧海は日本人で初めてヒマラヤを超えてチべットに密入国した人物。大阪に生まれ普通に暮らしながら、情熱を持ってチベットへ向かった。そんなところにも共感した」

◆自分がリウマチになったのは、慧海に出会うためだった気さえする。発病してからの20年間を振り返ると、全てが慧海に繋がっているように思えた。慧海を追ってとりあえずチベットに行ってみよう。2003年にカイラスを目指した。地元の人たちが死んでもいいという思いで目指してくる聖地。ハンパな気持ちでは行けない場所だったが、今その時がきた、と感じた。「カイラスでは巡礼する人たちと出会い『信じる』ことの意味を知った。信じることで人は美しく強くなる。そこは、心の本音が見える世界だった」。カイラスでの経験で、化粧をしない自分が好きになった。

◆帰国後、薬を飲まずに病気が改善しているのを見て、医者からサンプルの血を欲しいと言われた。何をいまさら、と頭にきたが提供した。採取の結果はなしのつぶて。最悪だった。医者とはいえ、目を見れば本気かどうかわかる。リウマチは不治の病と言われているので、本気で治そうと親身になってくれる医者は少ない。2004年に再び慧海を追ってムクチナートまで歩いた。このときはカグベニという村で不思議なことが起きた。この土地に足を踏み入れたとき「自分はここで生まれたんだ」と直感し、体が熱くなって血が騒いだ。旅の最終日には不思議な虹を見た。

◆このとき「自分にブレることがあったらこの土地に戻ってこよう。これからはヒマラヤの風のように、カリガンダキの流れのように生きていこう」と決めた。土地への強い思いを封印して帰国すると、慧海の手記が発見された事を知った。すごいタイミングだった。手記により、それまで知られていなかったルートや、7月4日が越境した日であったこと、その峠も解明された。

◆次は6000m以上に登ってみたい。雪山ワンシーズンの経験で、2005年にネパールのアイランドピークに登った。改めて歩くことの大切さを全身で感じた。翌年に千早赤坂村に移住して自然の中での生活をはじめることに決めた。2007年3月にドルポに行きたい気持ちが再燃し、そのことをブログに書いたところ、大西保さんの後輩がそれを読んで大西さんに縁が繋がる。4月にメールアドレスを教えてもらい、5月に会いに行き、すでに決まっていた8月の遠征(慧海ルート再調査)に入れてもらえた。

◆なんと、大西さんは千早赤阪村から30分のところに住んでいた。移住したことも運命だと思った。慧海プロジェクトの遠征に、8月に出発することになる。「軍手持ってこい」とひとこと言われ、行ったら練習なしでいきなり馬に乗り、2回くらい落馬しながらもなんとか無事に旅をこなした。カンテガという未踏峰にも登った。自分はただ計画に便乗しただけなのに申し訳ないと思いつつ、腰痛をなだめながら二次隊で登らせてもらった。慧海が越境した峠にも立つことができた。その当時、ドルポの情報は少なかったので、峠に立てただけで思い残すことはない、と思った。

◆大西保さんは慧海プロジェクトの隊長で、西ネパールの第一人者。70年代からネパールで高峰を登り、97年からは西ネパールで未踏峰を調査していた。今でもそのエリアを調べると、どこかで大西さんに辿り着く。大西さんについては、いつかまとめたいと思っている。大西さんがすごいのは、旅の間に見える山や谷をマメにノートや地図に書き込んで行くところ。当時はなぜかわからなかったが、今になってやっと、地図にないルートの面白さ、想像することの面白さがわかって来た。未開エリアを開拓する方法を大西さんに教えてもらったことは、自分にとっての宝だ。

◆遠征から帰国して半年後に一度死ぬ経験をした。山へのアプローチで突然倒れて意識不明となり、3日経って目が覚めた。病院でも原因不明でしばらく静かにしていた。その2ヶ月後に今度は助けてくれた友達が中央アルプスで滑落して死んでしまった。現実に混乱し、いきなりリウマチが再発した。マイナス思考になり、薬も再開した。

◆2009年に再びムグからドルポに入る遠征の計画があった。大西さんは私の病気が再発していることを知っていたにもかかわらず、再び誘ってくれた。「どんなに遅くてもお前はマイペースでいけ」、ただひとことだった。横断か未踏峰か希望を聞かれ、横断を選択した。出発までは店が忙しく、リウマチも再発し不調だったが大西さんには言わなかった。出発日も全身激痛でザックも背負えない。なんとか飛行機に乗り、踏査のスタート地点に立ったら、不思議なことにまた痛みがゼロになって横断をやりきることができた。

◆この横断で、先人のルートを辿ることの面白さを知った。実際には、谷をへつったり徒渉したりと大変だったが、その分到達した時の感動は大きかった。天候にも恵まれた。無人地帯の突破も多く、無名峰もたくさんあった。名前がなくてもかっこいいものはかっこいい。その光景を見て、名前なんてなくてもかっこいい人はかっこいいよな、と気づいた。

◆このとき、美容師としてやりたいことがひとつあった。自分の髪でドルポの伝統的なヘアスタイルを結う。地元の子供にアプローチしおかあさんに約束を取り付け、編んでもらった。村から望む山ひだにそっくりな髪型だ、と思った。それから3日間、シェーのゴンパではお祭りがあった。髪も服もドルポの人たちと同じになって盛りあがった。

◆途中、デビッド・スネグローブの『ヒマラヤ巡礼』に出てくる青年ラマに会うことができた。歳を聞いたら大西さんと同じ年。おじいさんになっていた。後にその村をもう一度訪ねた時は、ラマは亡くなっていた。大西さんも亡くなってしまった。2011年に自分のヘアサロンDolpo-hairをオープンした。大西さんは慧海の初版本と、2004年に見つかった慧海日記の核心部(越境した日)のコピーを額に入れて、いきなり訪ねてきて「困ったらこれを売って活動資金にしろ」と言って置いていった。

◆2012年に12年に一度のシェーのフェスティバルがあった。大西さんから「ドルポは変わったから俺はいかない」と大分反対されたが、折れずに自分で計画して女3人で行った。8月の満月に行われるという情報だけを頼りに行った。6000mの山にも登った。

◆2014年に今度は1899年の5月に慧海が10ヶ月滞在していたツァーランを目指してアッパームスタンに行った。それまでの経験から賄賂でヴィザを取れることがわかっていたので、一人でポーターとガイドをつけて行く。このとき、ツアーランで慧海の像を見つけた。根深誠さんの本にはその像は慧海ではないと書かれているので、なんども地元の人に確認したが「慧海だ」という。地元の人がそう言っているのなら、これ以上聞かないでおこう、と思った。

◆帰国後、ドルポを教えてくれた大西さんと吉永定雄さんが亡くなった。その翌年に父も癌になって亡くなってしまった。落ち込んだ。リウマチが再発した。どう脱出するか考えた。「答えは一つしかない。自分流のヒマラヤ療法をやろう。次は慧海ルートの突破だ」と決めた。2016年に慧海ルートへ行った。リウマチの薬は強く感染症にかかりやすいため、医師から長期の旅は無理だと言われた。それでは、薬をやめて行くと伝え、ドルポへ向った。

◆途中ヤルチェンゴンパという寺があったが、慧海はなぜかそこには立寄っていない。いかに焦ってここを通過したか、その心が表れているような気がした。残された手記には、7月4日にチべットへ越境したことが記されているが、慧海によって塗りつぶされ削除されている。詳細はわからない。ポイントとなるのは仁広池と慧海池が峠から見えることだが、5411mのクン・ラからその湖を望むことができる。その峠で折り返して、一周するように無事踏査できた。

◆ドルポでは今回も魔法にかかり体の痛みはなかったが、下山したら全身激痛に見舞われた。それでもやり遂げた充実感で顔はニヤケていたと思う。帰国してから2ヶ月は痛みがひどく大変だった。とりあえず働きに出た。悔しかったけれど、病院での治療も再開した。12月に治療をはじめて1月末にはアイスクライミングに行ける程回復し、現在は2週間に一度の注射になったので、また次に行けるな……と思っている。

◆慧海ルートの踏破をやることは、ドルポの大御所様への追悼の思いがあった。慧海ルートの大西さん、ツォカルポカンを初登頂した水谷さん、ヒマラヤ巡礼を翻訳された吉永さんへの思いがあった。彼らから教えてもらった事を今度は自分でやって追悼するつもりだった。「実際にやってみると全然追いついていないことを思い知った。報告の最後に、個人的な思いを込めて、大西さん吉永さん水谷さんの写真で締めくくりたい」

◆今まで地平線の報告で涙を流した記憶はない。けれど今回は、稲葉さんの言葉がギリギリの切実さで心に迫ってきて弱ってしまった。SNS全盛の時代になっても、直接触れるべき言葉を持つ人に出会う……。地平線会議はそんな場なのだと稲葉さんの話を聞きながら改めて思った。

◆報告会では稲葉さん自身が編集した動画が4つ流れたが、そのうち2つは以下のリンクから見ることができる。

http://www.dolpo-hair.info/gallery.html

「未知踏進」「Upper Mustang」

上記のリンクにはないが「慧海の道」「国境から」も流された。(恩田真砂美


報告者のひとこと

報告会を終えて

「未知踏進」という生き方

■報告会を終えてひとまずホッとする。久々の緊張感だった、喋り出したら止まらなかったけど(笑)。地平線報告会で講演をするなんて想像もしてなかったので、本当に江本さんには心から感謝します。ありがとうございます!

◆私は関野吉晴さんのグレートジャーニーで地平線会議を知って、ウェブサイトで楽しませていただいている世界だった。それが報告者側になるなんてこれぽっちも想像もしてなかった、だから信じられなかった。まず江本さんに私のことを伝えるところから始まった。何から話そうか、どこまで話そうか。慧海に辿りつくまでに、自分の中でストーリーができ上がっている、それを話すには20年分いる、でもこんな機会は2度とないと思い私の思いを江本さんに書いた。

◆長すぎるので、前半の20代と、後半の30〜40代の今を分けて書いて映像も送った。すると江本さんは丁寧に心のこもったメールを下さった。最近の、なんでもかんでも軽いメールだけで終わらせてしまう時代にウンザリしていた私はその対応に凄く感動した。無名の私の人生を聞いて下さり、感想まで書いて頂き、その上で電話でのやりとり……。慧海の足跡を辿る、Dolpoのキーワードもあるが、『メインテーマは、稲葉香の生き方だ』と言って下さったことがとても嬉しかった。

◆そしてテンションマックス!になり、『未知踏進』をやろうと決めた! これは「自分の中で未知の世界を一歩ずつ踏み進む」という意味だ。このテーマで年に一度旅をするライフスタイルを始めて気が付いたら20年が経っていた。自分のお店や関西で話すことはあったが、関東で?! しかも、地平線報告会で話す内容として非常に迷ったが、その江本さんの一言でやることにした。試してみようと思った。大阪じゃない場所で、全く知らない人ばかりの中で。

◆「慧海に出会う為にリウマチになったんだ、慧海のおかげで人生がこんなに面白くなった、運命だ」って勝手に思っていること、伝わったかな〜?! いつかこれを本にまとめて書き上げたいと思っていて「慧海と私日記」題名まで決まっている。私がDolpoに通えるようになったのは、慧海ルートを歩けたのは、故・大西保氏のおかげ。大西さんを語らずにして慧海はDolpoは西ネパールは始まらない。何を調べていても辿り着く先は、大西さん。Dolpoに行けば行くほど偉大さを感じる。なんでそんなに早くに逝ってしまうねん、何度思ったことか。

◆昨年のMustang&Dolpo遠征は、慧海の足跡を忠実に辿り5000m以上の峠11本、4000m以上の峠は数え切れないほど越えて最高到達地点は国境の山エメルンカン6028m、そしてDolpo横断、一歩ずつ追悼の思いで歩いた、口だけでなんとでも言える世界が嫌だった、だから行動に移してその思いを形にしたかった。それをこの地平線報告会で伝える事が出来てとてもよかったと思う。この機会をいただいたことに感謝です。本当にありがとうございました。

◆「慧海の道」の詳しい内容をゆっくり説明することは出来なかったけど映像として流せたので良かったです。また機会がありましたら聞いてください。大西さん達のロマンが詰まっています。私はそれを大事にしていきたいと思っています。そして「未知踏進」という生き方は、個人的な思い入れが沢山あって自分が一番大事にしている世界観で一人で楽しんでいたが、誰かの何かに引っかかればいいなと思って話してみた。

◆万人に受けたいとは思わない、必要な人に必要な分だけ届いたらいいなと思う。私は、慧海と同じ持病・リウマチを持って慧海ルート(ネパール側)を歩ききった。人体実験的なことをしたのだが、興味がある人は私のブログ(2017/4/13)を読んでほしい。リウマチ界の革命を起こせるんじゃないか?と思う。もう10年以上前から言っていて証明出来ないでいるけど、自分の中では確信した。私は、慧海の足跡を辿ってDolpoを歩き、行けば行くほど深くなるこの世界に魅了されている。次の夢は、Dolpoで越冬がしたい!

◆最後に、江本さんから頂いた情熱は計り知れない宝となった、心より御礼を申し上げたいです。ありがとうございました!(稲葉香


地平線会議という場で一層輝いていた香さん

■初めて参加させていただいた地平線報告会は気付きや感動がつまった2時間半だった。今回の報告者稲葉香さんとは10年来の付き合いで、香さんの影響でネパールに行き、はまった一人でもある。美容師である香さんのところにカットに行く度に話に出るネパールに洗脳されるかのように自分も行ってみたくなり、香さんが計画しガイドするネパールの旅にもプーンヒル、ランタン、エベレスト街道、そしてムスタンと4回の旅に参加してきた。

◆4度目の旅のムスタンは慧海を辿る旅でもあり、道中の村で慧海の情報を集め回る香さんの慧海ストーカーっぷりも垣間見れた。そんな付き合いもあり香さんのことはそれなりによく知っていると思っていた。しかし、今回初めて耳にしたことも多く、そして改めてこういった場で香さんの想いを聴いて胸が熱くなった。自身の半生を力いっぱい表現していた。いつもと変わりなく素直にストレートに自分を表現していてその想いがひしひしと伝わってきた。

◆これまでも強い人だなぁと思っていたが、今回その強さがさらに一歩先へ進んだように感じた。リウマチという難病と向き合う強さ、興味のあることに突き進む強さはもちろん、きっとこれまで自分とまっすぐに向き合ってきて自分に妥協なく生きてきた、自分自身に対する強さなのだろうと思う。そしてそれを今自分だけのものでなく、他の人々に伝えようとしているところに強さがまた増しているのではないかと感じた。

◆そして、そんな香さんの想いを受け止めて発表の場となった地平線報告会。冒険や旅の内容だけでなく、なぜそれに惹かれ、やり続けているのか。そのことこそが興味深いと感じて今回の発表ができあがったことにとっても感動した。毎月発表者とこのようなやりとりをしてこの会が実現しているのだと思うと、さらにこれを40年間も続けて来られていると思うと本当に驚きだ。

◆そして今回参加したたった数時間でこの40年の重みを少なからず感じることができたのは、江本氏はじめ、この会に対する多くの方の強くまっすぐな想いがあって運営されているからなのだと思った。いつでもどこでも簡単に情報が手に入る今という時代、こうしてライブで感じることができる場でいろんな気付きと感動をもらえた時間となりました。(神山知子

ドルポ、ムスタンの魔力

■ネパールヒマラヤのドルポ、ムスタン地方は魔力がある。河口慧海が何故この地に逗留して、チベット越境のルートとして選んだのだろうか? ムスタンは古くからのチベットとの大交易路だから、当初はカリガンダキを遡上して、越境を図ろうとしたが、関所の目を逃れることはできないと感じ、遥かな峠を越え、ドルポからチベットを目指したのだろうか…… 。

◆ドルポは河口慧海の時代も、そして現在でも、困難な旅を求められる、ヒマラヤで最も奥深い地域だと思う。だからこそ、ネパールを知れば知るほど魅力を感じてしまう地なのだ。川喜田二郎教授、根深誠さん、大西保さん、そして稲葉香さんがこの地に魅了されたのは理解できるような気がする。

◆現在のネパールヒマラヤは道路の建設ラッシュだった。カリガンダキ源流のムスタンは、チベット国境まで車道が開通している。かつての交易路は、1970年代からトレッキングをする旅人の大聖地と変わり、さらに、車とバイクで旅する道に姿を変えた。

◆一方、河口慧海がチベット越境したドルポ地域は、自分の足で5000mの峠をいくつも超えなければならない。だが、何年か先には、慧海が越えた、クン・ラにも、車道が開通する日がやって来るのかも知れない。それでも、ドルポ、ムスタンの魔力は残っている。ドルポやカリガンダキ源流のムスタン山群、ダモダル山群には未踏峰がいくつもある。テーマやアイディア次第で、まだまだ面白い旅が出来ると思う。(庄司康治 早大探検部OB 1999年3月、233回地平線報告会「氷上のキャラバン」報告者。『氷の回廊ヒマラヤの星降る村の物語』著者)

短い人生、落ち込んでいる暇はない!

■稲葉香さんは辛口の故大西保さんから推薦された数少ない1人だった。大西さんとはヒマラヤ関連で30年のつきあいだったが、彼が所有している登山関係の和書洋書資料数は国会図書館のそれよりも多いのではないかと思う。資料探しに万策尽きて大西さんに泣きつくと「こんなのあるで〜」とさり気なく助けてくれたし、講演や助言を乞われると断らない割には人の好き嫌いがはっきりしていて、反面「こいつは!」と思った相手には惜しみなく自分の資料も書籍も供出する人だった。

◆その稲葉さんが「本音トーク」の地平線で講演すると知り、是非とも聞きたい!と数年振りに足を運んだ。気負いも誇張もない彼女の講演を聞き、何事にもすぐ挫折する私は色々な事を突き付けられた思いがした。自らを「慧海の追っかけ」と笑顔で話す稲葉さん、その表情はとても生き生きとしていて充実感に溢れていた。病までをも肯定的にとらえ、「全て自然の流れのままに」「積極的に」行動する彼女の今後を密かに見守っていたい。

◆講演終了後、彼女の前に向後元彦・紀代美ご夫妻が書物を並べておいでだった。それが伊藤邦幸氏の著書……。「自分の半生は自分のために、しかし三十歳を過ぎたら、何か直接他人に奉仕する仕事に身を委ねよう」とオカルドゥンガに診療所を開き、後に「ネパールのシュバイツァー」と呼ばれた氏とは氏が浜松医大勤務時代に袖擦り合うご縁があった。広島に生を受けたキリスト者伊藤邦幸氏は1960年、東大山岳部時代の仲間の誘いで第五次南極観測隊に参加、63年には志を同じくする東京女子医大山岳部OGの聡美と結婚、そして1965年にはカラコルムのキンヤンキッシュ(7852m)に東大隊隊員として参加している。

◆隊は1名が雪崩で行方不明となり登山を断念、帰路勃発した第二次印パ戦争のため再挑戦の機会は訪れなかった。因みに、その隊には私の親しい友人の当時カラチ勤務だった父君が現地隊員として参加していた。伊藤氏はその登山の折、奥地での診療を乞い群がる人々の治療体験から、アジアの僻地医療とその啓蒙に尽力しようと決意、夫妻で時には家族で現地に赴任。しかし、1986年晩秋の富士山での訓練中妻聡美が滑落死してしまう。

◆我々はその後このキンヤンキッシュに幾度も足を運んだが、この東大隊と私の因縁は話せばとどまる事なく続くのでやめておく。しかし、よりによってあの場で伊藤氏の名前を目にするとはなんという奇遇。氏が62歳でこの世を去って四半世紀、「しっかり前向きに生きていけよ」と稲葉さんや大西さん、伊藤氏から肩を押された気がした。「短い人生、落ち込んでいる暇はない!」(寺沢玲子

山岳会が機能していた時代、田口君との再会

■2017年最後の報告者の稲葉香さん。飾らない、率直な感じがとっても良かったです。彼女を「西北ネパール」へといざなってくれたのが、何度もお話に登場した大西保さんと吉永定雄さん。このお二方が所属していたのが「大阪山の会」です。大西さんは同時に「カトマンズクラブ」を主宰、サガルマータ(エベレスト)等に遠征隊を旺盛に送りだしていました。ですので「大阪山の会」と「西北ネパール」が私の中ではなかなか繋がらなかったのです。

◆ある時パラパラとめくっていた『岩と雪』22号(1970年〜1971年)カンジロバ・ヒマール周辺の山群(大阪市立大学山岳会)の記事の中にこんな記述が有りました。《この山域に入られる予定の大阪山の会と紫岳の合同隊(阿部和行氏、吉永定雄氏ら)が明らかにしてくれるものと期待している》ここに登場する「紫岳会」は私の所属していた会(「岳僚山の会」)の仲間の古巣です。黒部山中の「奥鐘山」にルート名を残しています。半世紀に渡り、彼の地へ通い続けてこられた方々の情熱に頭が下がります。

◆遠征の際はさりげなく「一緒に来るか」の一言、貴重な資料はある日突然2tトラックで稲葉さんのお宅へ。何てシャイでダンディな方たちなのでしょう。稲葉さん、最後の世代の方々と出会えてほんとに良かったですね。間に合いましたね。自前で後進を育て、終生変わる事のない仲間とザイルを組む。何と80年代は健全で幸せな時代だったのでしょう。山岳会がちゃんと機能していたのですから。あの時代だからこそ私も山を続けられたのです。

◆老舗の山岳会が次々消えて行きます。今回吉永さんの訃報に接し、ああまた端正な大人の集まりが消えてしまったなと、言いようのない寂寥感を覚えました。岳僚山の会はあの松本憲親氏が代表をされている事を知り、志願して入会しました。冬季登攀の実力は言うまでもないのですが、5.13をリードできるアルパインクライマーを目指しているところがすごい! 山野井さんと一緒だなとひそかに思っています。入会直後の5月の合宿(剣岳でした)入山時に池の谷右股で座りこんで寝てしまった(しかも斜面を背中にして、怒鳴られても気が付かなかった、危ないですねえ)。松本さんが新人2人を引き連れて黒部縦断を敢行、三の窓で合流した際にはお疲れなのに私に長次郎の頭で雪訓をしてくださいました。仁王立ちになって、鬼の形相で頭から落ちろーとやられました。

◆父親の勤務先が原子力研究所だったので中学校は茨城県東海村の東海中学校でした。原子力のお膝元ですから、いろいろありました。田口洋美くんとは1年生の時に同級でした。彼のお母さまが音楽の先生だったので、きょうだい揃ってお世話になりました。田口君が関わっている事を露知らず、京都での「奥三面」のドキュメンタリー上映に奔走していたのも、不思議なご縁と思います。2002年12月の報告会(「東北アジアの森の民」で田口さんが報告)での再会は、びっくりでした。宮本常一さんを私淑していて、観文研に出入りしていたなんて、知らなかったなあ。このお正月休み同窓会に出席、田口君とも再会、報告会楽しみにしているよと告げて帰って来ました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。(中嶋敦子


先月号の発送請負人

■地平線通信464号は、12月13日印刷、封入を行い、翌14日新宿局に集配してもらいました。12月1日から1通あたりの送料が値上げされました。定形外だと50グラム以内は85円です。
 発送に参加してくれたのは、以下の皆さんです。車谷さん、兵頭さんは、いつも早めに来てくれて印刷、折りの仕事をこなしてくれ、ほんとうに助かっています。塚本さんはいつものように遠路福井から、武田さんは出張先の大分から駆けつけてくれました。走出隆成、野田正奈、下川知恵の三君は、早稲田大学探検部員です。皆さん、ありがとうございました。
  森井祐介 車谷建太 兵頭渉 塚本昌晃 下川知恵 走出隆成 野田正奈 前田庄司 白根全 江本嘉伸 中嶋敦子 武田力 松澤亮


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくれた方もいます。当方の勘違いで受け取りたくないのに送られてきてしまう人、どうか連絡ください。通信費を払ったのに、記録されていない場合はご面倒でも江本宛てにお知らせください。振り込みの際、近況、通信の感想などひとこと添えてくださると嬉しいです。住所、メールアドレスは最終ページに。

■向後元彦・紀代美(10,000円 通信費5年分 感想は下記★)/中嶋敦子(5,000円 3,000円はカンパ)/村松直美/新堂睦子(10,000円 ボランティアのみなさんありがとうございます。麦丸君の冥福を祈ります)/上延智子/鰐淵渉(大きな旅はなかなかできませんが、息子が鉄道ひとり旅をするようになりました。バイクの後ろにも乗れるようになったので今年は親子ツーリングでもしようかと)/村井龍一(10,000円 冬の劔行は別掲)/土谷千恵子(楽しい通信を1年間ありがとうございました。来年は少しでも参加できるといいなあ)/和田美津子(12,000円)/戸高雅史(3,000円)/福原安栄(2018年の通信費です。いつも楽しく充実した内容です。ありがとうございます)

★地平線会議とは不思議な団体である。会長も役職も会則も会費もきまっていない。したがって決算報告書もない。しかし、毎月第4金曜に決まった場所で開かれる。それがもう何十年も続いている。それがどんなにすごいことかというのは、いろいろな会で人集めに苦労した私にはよ〜くわかる。ゆるやかな組織というのも理想である。中心となる人々の半端じゃない情熱と努力の賜物ですよね。ほめてばかりいると、大政翼賛会になってしまいそう。しいて言えば、もう少し議論、反論があってもいいかな?(欲張りすぎ?) 地平線会議には年に数えるほどしか参加できないが、「通信」が毎月送付されるので、楽しみに読んでいる。最近、地平線会議に助けられたできごとがありました。私は大学女性協会で奨学金の担当をしているのですが、南極で現在越冬している元奨学生に、新春の集いで生中継してもらう企画をたてました。あいにく会場の都合でプロジェクターとMACのパソコンが必要。それで報告会で皆さんにもおなじみの丸山純さんが助っ人として駆けつけてくださることになりました。プロジェクター寄付者の三輪主彦さんも教え子が越冬中ということもあり、来てくださることに……。皆さん、ありがとうございます。(向後紀代美)


新春の地平線ポストから

爆走!! 70代編日本一周

■みなさ〜ん、あけましておめでとうございます。お正月はいかがお過ごしでしたか。ぼくは昨年の9月1日に「70代編日本一周」に出発しました。この日が70歳の誕生日。初めての日本一周は「30代編日本一周」でしたので、今回は40年目ということになります。地平線会議でも今年は「40年祭」をやるので、我ながら「ちょうどよかった!」と思っています。地平線会議の「40年祭」はおおいに盛り上げましょうね。

◆今回の日本一周はすでにみなさんにお伝えしたように、東日本編(9月1日〜10月15日)と西日本編(10月30日〜12月17日)の2分割でまわりました。日本列島の海岸線をメインコースにして、何か所かで内陸に入っていくループのルートを織り交ぜながらまわりました。日本の全都道府県、全都道府県庁所在地に足を踏み入れ、さらに日本の全国(68国)にも足を踏み入れました。

◆スズキの250ccバイク、Vストローム250で、全行程2万5296キロを走りました。地球半周分以上のこの数字からもわかるように、日本という国の広さを実感することのできた「日本一周」でした。日本列島は南北に長いし、東西にも広いのです。その広さを感じるのが「日本一周」の大きな魅力です。12月に入ってから沖縄に渡りましたが、朝の気温は20度、そのとき北海道では氷点下10度のところがありました。同じ時間で気温が30度も違うのが日本なのです。

◆「日本一周」でうれしいのは、各地でいろいろな人に出会えたことです。北海道の豊富町では「あおぞら牧場」を訪ねました。青空牧場を経営する田中雄二郎さんは地平線会議の三輪先生の教え子ですが、ますます精悍な顔つきになっていました。ぼくが初めて雄二郎さんの牧場を訪ねたのは「40代編日本一周」の時です。その時、牧場は音威子府にありました。あおちゃん、雄馬くん、真生くんと3人の小さなお子さんをかかえて雄二郎さん夫妻は大奮闘していました。その後、田中家の子供たちは全部で6人になりましたが、30年たって末っ子の晴大君以外はみなさんが成人になっています。6人の子供たちを育てながらの牧場経営はさぞかし大変なことだったと思います。

◆山陰の江津市では曹洞宗の古刹、日笠寺を訪ねました。この寺の住職は山崎禅雄さん。民俗学者の宮本常一先生がおつくりになった日本観光文化研究所(観文研)での先輩で、ながらく『あるくみるきく』の編集長をしていました。観文研時代はよく山崎さんとレンタカーを走らせて日本各地をまわったものです。

◆40年前の「30代編日本一周」の時には日笠寺に泊めてもらい、山崎さんのお母さんには夕食にサトイモやゴボウ、レンコンなどの入ったオニシメ(煮しめ)をつくってもらいました。大皿に盛られたオニシメをペロッとたいらげ、お母さんを驚かせたのがなつかしい思い出です。日笠寺は当時は桜江町でしたが、今は平成の大合併で江津市になり、江川沿いに走るJR三江線もまもなく廃線です。

◆宮本常一先生のご郷里の周防大島は、我が「日本一周」の聖地巡礼のようなもので、「日本一周」のたびに訪ねています。「宮本常一記念館」を見学したあと、宮本先生のご子息の光さんに会いました。名産のサツマイモ「東和きんとき」の収穫で忙しかったのにもかかわらず、手を休めてくれました。それのみならず、東和きんときの焼きいものおみやげまで持たせてくれました。

◆「30代編日本一周」の時には宮本家で泊めてもらい、光さん夫妻と一緒になってミカン園での農作業の手伝いをしたのですが、それが今となっては何ともなつかしい思い出です。宮本先生のご郷里は「30代編日本一周」の時には東和町でしたが、今では周防大島の4町が合併して周防大島町になっています。

◆今回の「70代編日本一周」ではスマホを使って、ツイッターで発信しました。それを見た多くのみなさんが、日本各地でぼくのことを待ち構えていました。その数は100人以上。北海道の天塩川の河口で会ったドミンゴ高田さんは栃木県佐野市の焼肉店の店主ですが、どうしても北海道でカソリを捕獲したいと、1000キロ以上もの距離を走って来てくれました。

◆神奈川県茅ケ崎市の茅ケ崎さんは750キロ走って四国の宇和島でカソリを捕獲。そのあと3日間、四国を一緒に走りました。神奈川県相模原市の女性温泉家ゆーゆーさんは500キロ以上も走って紀伊長島でカソリを捕獲。みなさん、500キロ、1000キロという距離をものともせずに来てくれたのです。このようなうれしい出会いもありました。

◆こうして12月17日で終わったカソリの「70代編日本一周」ですが、すぐさま、その第2部を開始しました。12月21日丹沢の「ヤビツ峠越え」に始まり、「三浦半島一周」、「江ノ島探訪」、鎌倉の「朝比奈峠越え」、三浦半島の最高峰「大楠山登頂」、「箱根スカイライン」、「伊豆スカイライン」、「大山登頂」、「大山街道」と。新年になってからは初詣、初日の出、初富士、相模の神社めぐりの「元日ツーリング」に始まり、「富士山一周」、「東京探訪」とつづき、昨日(1月5日)は「伊豆半島一周」に行ってきました。今年一年は12月31日まで、さまざまなテーマで日本中を駆けめぐろうと思っています。(賀曽利隆

初日の出スポットとして大人気な我が浜比嘉島

■明けましておめでとうございます。今年の沖縄の新暦正月はとってもいいお天気に恵まれて暖かな三が日でした。沖縄の東海岸にある浜比嘉島は初日の出スポットとして人気で、元日の朝は毎年本島からたくさんの人が押し寄せます。いつもは閑散とした港の駐車場が、車でいっぱいになるんです。他にも勝連城址や海中道路、宮城島などもごった返すそうです。

◆さて今年も島のねえねえたち有志が集まり、初日の出客向けの出店をやりました。前の日に島のおじさんたちにテントをはってもらい、公民館で仕込みをし、当日は早朝4時からまた仕込みをし、昇は薪と炭で火起こし。メニューは沖縄そば、温かいぜんざい、炭で焼いたあつあつの磯辺もち、コーンスープにホットコーヒーです。そして今年はスペシャル企画として、日の出に合わせて三線を弾こうということになり、島の三線弾きや太鼓打ちに声をかけました。

◆日の出予定時刻は7時17分。残念ながら東の空は水平線に雲があり海からの日の出とはいきませんでしたが、7時半ごろに太陽が顔をだし、一斉に歓声があがりました。感動的でした。朝早くから疲れましたが楽しかったです。ちなみに昇はその後友人たちと犬たちを連れて海岸へ行き初泳ぎをし、私も昼前には片付けを済ませ約40頭のやぎの遊牧、その後やぎ散歩(予約制でやぎと海岸へ散歩するというプログラムをやっています)をこなし、ヘロヘロになりながらも充実したお正月でした。

◆とはいえ島は旧暦なので正月の本番はこれからです。江本さん、地平線の皆様、今年もよろしくお願いいたします。うちの琉球犬のゴンはどう考えても推定15歳以上になるんですが、とっても元気です。毎朝海岸へ行きますが走るとついていくのが大変です。時々小さな段差でコケますが。ポニョも8歳になりますがまだ仔犬みたいにはしゃぎます。また犬ややぎたちに会いに来てください。(外間晴美

アサギマダラとオゴジョに愛されて

■明けましておめでとうございます。ご無沙汰ばかりで申し訳ありません。片目を失明した後、脳梗塞で入院したり、車の事故にあったり、あまりいい年月ではありませんでした。それでも山形や福島の山を中心に北海道、長野の山に出かけたりしています。台風や長雨の影響で南アや白山登山を中止した昨年、こんな楽しい体験もありました。

◆至仏山に登ろうと尾瀬ヶ原のベンチで休んでいた私の近くを大型で美しい蝶が飛びまわっていた。私の一番好きなアサギマダラだ。彼女は次第に近づいてくると驚いたことに私の唇に止まり、キスをしてきたのだ。私の口に甘い汁でもついていたのだろうか。不思議な短い時間だったが、心に深く刻まれた接吻だった。

◆尾瀬ではおととしも木道で不思議な出会いをした。2匹のオゴジョを見つけ、双眼鏡で観察していると何を思ったのか1匹が木道の上を私の方に向かって走ってくるではないか。10m、5m、2mとしだいに近づき、とうとう直立不動で立っている私の登山靴にキスをしてまた戻っていったのである。あれは何だったのだろう。私の靴に好物のネズミの匂いでもついていたというのだろうか? ともあれ、私を大自然へと誘い、輝かしい思い出をくれた生き物たちに感謝!!(山形 鷹匠 松原英俊

大好きな鐘突き

■新年明けましておめでとうございます。年末年始は実家のある栃木に帰り、家族や地元の友人達とのんびりと過ごしていました。実家の近くのお寺に除夜の鐘を突きに行きましたが、住職に「突き方に年季が入っているね」と褒められました。中学生くらいから、大晦日日本にいるときは鐘突きに行っているので、確かに年季は入っているかと思います。去年は地平線報告会のレポートを2度担当させてもらいました。とても嬉しかったです。今年もレポートを書く機会が巡ってきたらいいなと思っています。2018年は今のところ決まった旅の計画はありませんが、その都度機会を捉えて、興味の赴くことをしていきたいと思います。本年もよろしくお願いします。(光菅修)

この情熱はどこから来るのだろう

■毎月きちんきちんと届く地平線通信。わくわくしながらまず江本さんのフロントページをゆっくり読みます。その日の空気がそのまま運ばれてくるようです。その「時」をページに移し残すという使命感さえ感じます。そして報告会の聴き手が忠実にまとめた報告会レポート。会場に行けない私に毎回さまざまな世界を見せてくれます。

◆挑戦する人、行動するひとの熱い想いはドキドキさせられることも多くこの情熱はどこから来るのだろうかと母親のような視点から見てしまうこともたびたびです。多くの方の想いの詰まった通信は気合を入れていないと読み進められません。私の日常にいろいろなことを問いかけてくれる宝物です。(宇都宮市 原典子

才能よりほしい体力

■こんばんは〜。お忙しい中、いつも ほんとうにありがとうございます。創ったコーヒーカップを いろいろな方々に紹介してくださってありがとうございます。好評のようで、とても嬉しいです。器を創ったら、江本さんは、必ず買ってくれるので、実はぼくはほんとうに素直に嬉しいです。ありがとうございます。自分が創った作品が、喜ばれてると、やっぱし、嬉しいです。「創る」モチベーションも高まります。

◆ぼくは、器創作も好きですが、専門は「彫刻作品」なので2018年は、いい彫刻を創りたいです。でも、彫刻は、期間がかかるので、できるのかな〜、って。さっそく、軟弱です。ぼくが、いま、いちばん欲しいのは、才能よりも「体力」です。地平線のひとたちは、みなさん、すごい体力保持者で、うらやましーであります。

◆ぼくは、いま、実家です。老母親のことで帰省中。ボケは解決して良かったのだけど、筋力低下が著しくて体が不自由です。江本さんは、喪中だから、年賀状を出せないな。って 考えていたら、さっき、大西さんから、電話有った。江本さん宅から。江本邸の「掃除大会」だったそうですねえ。い〜な〜、掃除してくれる仲間が居て。江本さんの人徳ですね〜。すばらしき、江本さん。ああー。

◆東中野の「小さな発表会」(注:正確には『ちいさくて おおきい おおきくて ちいさい 緒方敏明 西口陽子展』。2017年10月27日から1か月、画家・西口陽子さんのアパートの工房で行った2人展)のときに差し入れしてくださった江本さんのシチュー美味しかったです。ごちそうさまです。江本さんの創る料理は、プロっていう分野では無い「絶妙」が有る感じする。たくさん料理勉強した超絶技巧では無い。表現がむずかしいです。「すごく 美味しい♪」。しかし、すごい高級ってのじゃ無いしなあ〜。もちろん、ぼくは、すごいレストランとか知らんけど。なんやの?どーなん これって?って「おいしさ」が活きてて。こぉ、「☆☆☆」てのじゃ無いよな。みたいな。

◆そう「星」じゃ評価できない。「???」とかか?いや ちがうなんてゆうかありがたい味というのか。「あ〜、江本さんが創ったんやな〜」って しみじみ感じながら食べる。っていう感じの「食べもの」ってゆうか。「ああ、あの台所で、創ったのだなあ〜」とか、想像しながら、とか。いや、いい意味で。あー、ほんとうに、美味しいです。御利益あるかも。そうだ、江本さん料理をたべて、「江本さんに なろー」。

◆いつもいつも、変な作文で、ごめんなさい。2018年もよろしく。(緒方敏明 彫刻家)

冬の劔の難しさよ

■「これが劔ですよ」12月29日、入山途中にすれ違った下山パーティーのひとりが言い残した。「これが劔か」と考えながら馬場島小屋に宿泊。事前に県警に聞いたら19パーティーの登山届けが出ているそうだが、実際はその半分ぐらいしか入っていないだろう。24日からS大学の8名が先行しているほかは他に2パーティーだけ。冬の劔を目指す人たちはこの5年間で毎年減り続けてきている。

◆早月尾根は1700m地点まで先行者が届いて下山したとのこと。私たち法政パーティーも30日早朝8人で出発したが、すごい風雪。松尾平の上部にテントを張っていたS大学も下山を始めた。8人で上部まで行ってもこの雪では無理と判断して、また来年だと言い聞かせて我々も下山、入山の時に言われた「これが劔ですよ」の一言がよくわかった。

◆今年はこの雪と天気で山頂の神社に参拝できた人は誰一人いなかったのでは、と思った。また来年80才の記念に来ましょうと仲間が言ってくれた。初めて冬の劔、早月尾根 来たのが60年前だった。昨年は法政の仲間と登れたが今年は天気の良い時にと早月尾根で頑張っている。この5年間、馬場島では若い人が、とくに劔へ来る登山者が少なくなった。本年もよろしく。(村井龍一 元日本山岳会副会長 1月9日、79才に)

押し通す事が人生に必要な時がある

■ことしもよろしく。また地平線通信の封入作業に顔出し出来ればと思っています。ことしは年明けの獅子舞の仕事の後に、インフルエンザを発症してしまい、全く身動きできない状態でした。人力車の旅の後、背中を痛め、慢性じんましんの発症と身体が結構ボロボロです。

◆先月の報告者である稲葉香さんは6年来の友人であり、関西での僕の遠征報告会は彼女の古民家で開催させて頂きました。実は彼女の話を講演会ベースでじっくりと聞くのは今回が初めてです。並の男では到底太刀打ちで出来ない強さを持つ彼女の生き様に感銘を受けました。僕自身は今年の年末の南極点無補給単独徒歩到達に挑戦します。本来は日本人初となる予定だったので残念です(編注:北極冒険家の荻田泰永さんが1月6日、「無補給単独徒歩」による南極点到達に成功した)が、神様が僕に更に強くなる機会を与えて下さっているのでしょう。

◆たとえ運命が思う通りに行かなくとも押し通す事が人生に必要な時がある。この地平線通信が配布される時期には極地トレーニングで体感ー50度のカナダ・ウィニペグ湖で外国人冒険家達と過ごすつもりです。全ての障害を打ち破りながら行こう、南へ!!(阿部雅龍 人力車男)

「チームのやき」始動!!

■江本さん、こんにちは。最近は地平線会議にもなかなか顔を出せずにいるのですが、いつもお心にかけていただきありがとうございます。ここ最近の私は、月に一度のペースでものづくりワークショップを開催しています。主な活動内容は「野焼き」。近所で採った土から粘土を生成・作陶して、その後、焚き火の中で焼き上げるというものです。

◆火を囲む楽しさはもとより、作品に現れる炎の痕跡や天然釉の艶は本当に美しく、特に焼きあがったばかりの高温状態の作品はうっとりと見ほれてしまうほどです。美大生時代からのご縁で、知人から東京都東大和市にある古民家とその庭をお借りし、主な活動場所としています。活動名は「チームのやき」。今の所は友人知人を対象にした小さな集まりです。

◆学生時代や卒業してしばらくの間は「自分が表現する」ことに強く興味を持ち活動してきました。その後教職に就き、美術の授業を通して生徒たちと関わっていく中、興味の対象が「多くの人と表現の楽しさを共有する」ことへと変化していきました。今、その変化を仕事以外の場でも少しずつ広げようとしているところです。2018年。じっくりと根を生やし枝を広げていきたいと思っています。(チームのやき 木田沙都紀

リクルートスーツを着る日々

■皆様、あけましておめでとうございます。昨年は大変お世話になりました。早稲田大学探検部カムチャツカ遠征隊隊長の井上一星です。新年になってもなお、報告書の作成やら取材やらでまだまだカムチャツカ遠征は続いております。しかし私も大学三年生、どうやら今年は就職活動に力を入れなければいけません。どうにも気乗りはしないのですが、リクルートスーツを着る機会が日に日に増えています。

◆振り返れば、私と探検部との出会いは一枚の小さなチラシでした。何となく面白そうだと思って入り、いつしか情熱を注いでおりました。会社との出会いも、そんなものなのでしょうか。どうかお会いした時には、就職の相談でもさせて頂ければと思います。(井上一星


2018年新年メッセージあらかると

■いつも楽しみに地平線通信読んでいます。今年もよろしく。(京都 大槻雅弘 一等三角点研究会会長)

■年末は「テンカラ食堂」で忘年会です。(大阪 岸本佳則・実千代

■昨年は一度しか報告会に行けませんでしたが、とても楽しかったです。また、頑張ります。江本さんにお会いすると身がひきしまります。今年もよろしくご指導下さいますよう。(西東京市 黒澤聡子

■2017年はラオス・メコン川の支流、本流を漕いできました。北部山岳地帯の奥深く入り、川ぞいに点在する集落にホームステイしてアジアの豊かな暮らしを感じた旅でした。『Kayak 2月1日発行号』から紀行記を連載します。2018年はフランスのミディ(南)運河を目指します。(鎌倉市 永久カヌーイスト 吉岡嶺二

■昨年は車で巡礼。安房三十三観音、最上三十三観音。今年は如何に。(新宿区 関根皓博

■2017年、よく動きました。たまにぐったり。失敗も多々。教訓は、まず直感。次に相談して知恵をもらうこと。後回しにしないこと。(飛騨高山市 中畑朋子

■近くに引っ越しました。神棚や床の間、地下室まである築22年の家です。今は寒さに震えていますが、庭にスイセンの花が咲き、心はあたたかです。京子は11月23日に転倒し、右肘を手術。12月9日には職場復帰し夜勤もやっています。3月には定年。久樹は元気です。(川崎市 渡辺久樹・京子

■5月に訪れたインドネシアジャワ島のイジェン噴火口。深夜に噴き出す硫黄の青い炎を見ようとガスマスクをつけての登山。やっぱり何か目的に向かって動いている時が一番楽しい。今年も何かを見つけて行動します。発送作業にも参加します。(坪井伸吾

■今年からNPOだけに活動を一本化してスリランカでの密林遺跡探査も実施する予定です。もうすぐ50年になる南アジアとのつきあい。そろそろまとめの段階なのかもしれません。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。(岡村隆

■本年もよろしく。お正月は今年も北八ツでコンサートをいたしております。(長岡竜介・のり子・翔太郎

■カニを食べに豊岡に来てください。(兵庫県豊岡市 吉谷義奉

■頭脳と身体の老化に悩みながら昨年9月9日、満88才となりました。まだこの老医をたよりにされる方たちがおられるので、スタッフに守られながら診療しています。(長岡京市 斎藤惇生 元日本山岳会会長)

■今年もよろしく。最後のライフワーク“Golden Flyimg Route over The Himalaya Kathmandu-Lhasa-Chendu”に取り組んでいます。(中村保


ラモ・ツォの夫が中国を脱出、家族と再会

■12月25日、チベット人映像制作者のトンドゥプ・ワンチェンが中国を脱出し、米国サンフランシスコで家族と再会した。先月の通信に書いた映画『ラモツォの亡命ノート』の主人公、ラモ・ツォさんの夫。家族の再会は監督、小川真利枝さんが映画を通して目指したテーマだった。

◆実は先月の1ページを12月上旬に書いたときに、彼がまもなく中国を出られそうだということを知っていたのだけれど、それはラモ・ツォと、彼のスイス在住のいとこ、小川さんら数人だけの秘密。まだ通信に書くわけにはいかなかったことをお詫びしたい。

◆ラモ・ツォさんが最初に報せを受けたのは来日中の11月下旬だったという。夫との再会が実現に向かっていることの嬉しさを噛み殺して、映画館でのトークショーに臨んだ。夫への思いを聞いてもはぐらかしていたのは、いまから思えば「秘密」が口を滑ってしまうのを防ぐためだったのか。そして12月17日、取材中の小川さんから「無事スイスに亡命」と嬉しいニュースが飛び込んで来た。

◆トンドゥプ・ワンチェンは2008年3月にラサからチベット各地に広がった騒乱の直後に逮捕され、公正な捜査、審理がなされないまま2009年12月28日秘密裁判で彼に懲役6年の判決が言い渡された。2014年には刑期満了で釈放されたものの、その後も政治的権利が制限され、移動の自由がないために、米国に亡命した家族と再会できない状況が続いていた。

◆釈放されてから成都にいたはずの彼がスイスにたどり着くまでのルートは不明だし、続く他の政治的亡命者のためにも明らかにはされないだろう(ただ大変お金がかかった。その借金返済に小川さんは映画の収益を充てるそうだ)。苦難の末に米国に到着したトンドゥプさんは「何年もこんなに安全で自由だと感じたことはなかった。家族との再会を実現させてくれた人たちに感謝したい。ただチベットを後にしてきてしまったことに心を痛めている」とコメントしている。

◆チベット人が家族にもよくわからないままに拘束され、投獄される事件はまだ後を絶たない。チベット語教育の普及に尽力し、2015年にニューヨークタイムズに取材された商店主、タシ・ワンチュクはその翌年に「国家分裂扇動罪」の容疑で逮捕、連行されて、各国の人権団体が不公平な裁判を懸念する緊急声明を出す事態になっている。チベットではチベット語が学校から失われることに異論を唱えることさえも政治的な問題となってしまっている。

◆映画『ラモツォの亡命ノート』は横浜シネマリンで上映中。13日からは大阪・第七藝術劇場で始まるほか、3月まで名古屋、福岡など各地での上映決定している。家族の再会に立ち会った小川さんの取材映像はその続編への布石になりそうだ。字数に限りがある報道では上っ面をなぞっただけのニュースになりがちだが、彼らにも家族がいて、互いを思う気持ちは私たちと変わらないのだということを映画は気づかせてくれる。(落合大祐

新年の決意

■江本さん 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。大事な臓器を一つ捨てる決心をしました。私の子宮の中では筋腫が日々成長を続けていて、今は直径10cmにまで達しています。そのせいで7、8年前からずっと重度の貧血に悩まされてきました。一年のうちの40日ほど投薬治療をすれば治っていたものが、一昨年は80日、昨年は120日と投薬期間を延ばさないと階段すら登れないところまで悪化していました。

◆貧血がある程度治ったと思って臨んだ昨年の蝶ヶ岳でも、結局出だしから体が酸欠で重だるく、頂上目前の登山道で眠り込むという柚妃もびっくりの体たらくでした。ようやく根本から治さなくてはと思い婦人科で相談すると、子宮筋腫とは別にあった子宮が体外に出てしまう病気(子宮脱)も一緒に治そうということになり、子宮全摘手術を薦められました。

◆かかりつけの内科医にそれを言うと、全摘は怖いからセカンドオピニオンを聞きに行ってはどうかと紹介状を書いてくれました。全ての治療法とそのメリット、デメリット、再発率などを丁寧に説明してくれる良医により、私が望む生活を実現できるのはやはり開腹しての子宮全摘手術以外にはないという結論に至りました。例えば、薬で筋腫をなくす方法は将来骨粗鬆症になることが明白であるなど、旅や登山をずっと続けたいと思っている人間にとってはあり得ない選択肢なのです。全摘手術の後には、膀胱と大腸を腱で上部に縛り付ける手術も併せて行います。

◆今まで駅の階段を登れば5段目辺りから徐々に視界が暗くなっていき、最上段に達した時には目の前はいつも真っ暗でした。それが手術をすることによって文字通り明るい世界が広がるのです。女性にとって子宮は、心臓なんか目じゃないぐらい否が応でもその存在を意識させられる臓器です。時にそれが煩わしくもあり、柚妃が十月十日そこに宿っていた愛おしい場所でもあります。手術を半月後に控えた今、怖さよりも寂しさが優っているというのが正直なところです。

◆そういうわけで、次の報告会はちょうど入院期間に当たるため欠席します。2月には元気に復活するつもりなので、今後ともよろしくお願いいたします。(瀧本千穂子

★体調崩した、とは聞いてましたがそれほどとは。お大事に。そして元気に復帰してください。(江本)

今月の窓

40年目へ──。「地平線は第二の子宮」

 「横丁を曲がれば、旅が始まる」と誰かが言っていた。見慣れた町も歴史や物語に触れれば、違った光景に出くわすことがある。

 旅とは、時間と空間を超えた“観自在”との遭遇だろう。過去や未来を自在に、瞬時に観ることができる。

 その重い扉を押し開けたのは10数年ぶりだ。地球の巨大なダウンタウン、ニューヨーク・マンハッタン五番街の聖パトリック大聖堂、その扉の向こうには17世紀のニューヨークがある。聖堂では、移民アイルランド人たちが守護聖人・聖パトリック(372〜461)に祈りを捧げている。

 本来ヨーロッパの中部にいた農耕民のケルト人は、ゲルマン民族に追われアイルランド島に逃げてきた。それがアイリッシュだ。イギリス国王がアイルランド国王を兼ねることになり、土地の半分を奪われ、17世紀イギリスを騒がした清教徒(ピューリタン)による市民革命によって、カトリック系アイルランド人は差別と飢餓から逃れるために新天地ニューヨークを目指した。移民後も、ピューリタンは追うようにメイフラワー号でアメリカ大陸にやって来た。プロテスタントの新教徒たちと、カトリック系アイルランド人とは宿敵の関係となり、アメリカ社会ではいつも差別的な待遇を受けてきた。

 カトリックにとって、教会は神と人間を結びつける場と考えられている。信者たちは日曜日には教会に行き、神父さんを通して神と遭遇する。

 ミサの後、焼きたてのパンが配られた。「パンを焼くには、ものすごい高熱が必要です。これが信仰心、人間が生きる情熱です。しかし、パンは熱だけでは焼けません。イースト菌があって、あの温かなふっくらとしたパンに仕上がるのです」と神父さんの話だった。──人間も同じだ。だれも心の中にイースト菌を持っている。ふっくらとした温かい人間性をつくり上げている。

 そう言えば、どこの家庭でも、職場でも、集まりでも“イースト菌”のような人がいる。座がにぎわい、温かい空気を醸し出す。ヒトだけではない、ペットもそうだろう。ヒトに限らず哺乳類は、イースト菌を醗酵する生き物らしい。

 「ちょっとした思いつきでも一晩寝かせれば、いいアイデアになる」と、ずっと昔から実践してきた。一晩寝ている間に思いつきが醗酵する、つまりイースト菌が働いているのだ。

 人前で話すことが苦手な私が、しばしば地平線報告会で話せたのは、集まった皆さんからイースト菌を頂いたお陰だと感謝している。

 文明末、一つの文明が終わり新しい文明が始まる。文明と文明の衝突には何が起きても不思議ではない。地震、津波、火山噴火など自然災害さらに気候危機による異常気象、疫病、民族移動、内戦、テロなど……。ルネサンス以来の新たな文明の産みの苦しみのような人類の試練に、いま立ち会っているのかと思うと、運命的なものを感じる。

 この数年、住み慣れた北カリフォルニアのソノマ・カウンティが未曽有の山火事に見舞われ、東京23区ほどの地域を焼き尽くした。立ち直りが早いのは、更地からアメリカ文明を興したこの国の人たちの筋力でもある。ひと月もすれば、日常が戻っていた。

 焼けずに残った広場で、犬たちの障害レース“アジリティ”が再開され、馴染みの人たちと再会した。人との出会いで最も嬉しいのは“再会”である。わがパグ君は、カリフォルニア州で競り勝ち、全米大会へ出場権を得た。アメリカ生まれ、アメリカ育ちのパグ君とは英語でしか会話ができない。

 パグ君との調教でもっとも難しいのは、「3」を超える数の認識を身につけさせることである。哺乳類が、数えなくても瞬時に判断できる最大数は「3」までらしい。ヒトでも犬でも母の胎内で、自分と母親をまず認識し、「1」「2」が芽生える。そして生まれて初めて出くわす第3の存在、父親を「3」と覚え込む。3を超える数の刷り込みを訓練と学習で会得すると、いつしかバイリンガルとなり、日本文化でコミュニケーションをとれるようになった。

 「文化とは、母親の子宮内で養われ、生まれてからは家庭教育、環境、地域の教育、歴史やしきたりに影響され育つものだ」と、先人の言葉には説得力がある。

 文明とは海を超えて世界に通用するマナーやルールだろう。人類は自ら培ってきた文明を取り入れ国家の基本設計をやり、便利で豊かな国際社会の骨格をつくってきた。建築で言えば基準法だ。一方、文化はインテリアだ。自分たち固有の文化を受け継ぎ、自分たちの国らしい国家をつくり上げてきた。

 近代科学文明は、数々の人類の夢を実現した。その一方で、取り返しのつかない悲劇をもたらせた。その文明も賞味期限となり、新たな文明の兆しを感じ取れる。

 ぼくは旅を生業(なりわい)としてきた。旅をしながら手探りで、自分の生きてきた時代のあり方を求めた。だが、「この国のあり方」「自分のあり方」を前に、「お前はどうなんだ」と突きつけられ、まだまだ未完成だと……。ぼくらは科学や情報の力で知性を蓄え知力とした。しかし、土壇場で役立つのは知性や知力ではなく、「知能」だと知った。

 地平線会議は40年目を迎える。この40年間、とてつもない時代を、ぼくらは生きてきた。昭和から平成への年号越え、20世紀から21世紀への世紀越え、そして文明末……。「もっと知りたい」という欲望は40年前より衰えるどころか、まだまだぼくを駆り立てる。先人の言葉、「一人前になるには、“歴史をやれ、旅をしろ”」に従って、時間(歴史)と空間(旅)を超える時空の旅に終わりはない。(森田靖郎


あとがき

■麦丸がいなくなって4か月。今年は戌年なので世界はいやでもわんこ話ばかりで、試練に耐える日々である。でも、自分に関係のない犬でもどういうわけか眺めているだけで、なごむから不思議だ。今月の報告会、「野良犬が世界を救う」。そんなわけで.心踊るテーマだ。

◆パートナーは近くにいるが、私は基本ひとり暮らしである。お互い、何よりも自由であることが大事なのだから仕方ない。で、食事も洗濯も掃除も原則ひとりでやる。ただし、掃除、片付けはほんとうに才能の無さを痛感しているので時に助っ人が来てくれる。ありがたいことだ。老いるに従って美味しい料理のレパートリーを増やすことをあれこれ考える。せめて私ができることの枠を広げたい。

◆南三陸町の佐藤徳郎さんから先ほど電話をいただいた。秋に新居に移って新しい日々が始まっている。ことしの元被災地はやけに寒いらしい。「暖かくなったら宮本千晴さんとぜひ一度来てください」。千晴さん、そのつもりでいよう。

◆お約束していた「地平線カレンダー」、諸般の事情でいつもよりゆっくりになってしまいました。今月の報告会まで間に合わないこともあるかも。いずれにしても、いいものを出します。(江本嘉伸)


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

野良犬が人類を救う?!

  • 1月26日(日) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「このままだと都市は野生動物にのっとられますよ」と言うのは、狩猟文化研究者で東北芸術工科大学教授の田口洋美さん(60)。地球温暖化の影響か、今、世界中で野生動物の生息域が拡大しています。

欧州ではイノシシが北上し、北米五大湖周辺ではオオカミが増えて南下。ケニアでは都市部でシマウマやキリンが車と衝突するROAD KILL(ロード・キル)が多発しています。日本では都市部へのイノシシ、サル、シカ、クマ、タヌキ、ハクビシン、アライグマなどの出没が珍しいニュースではなくなりました。

単に農作物被害などだけでなく、動物が媒介する新型の感染症の大流行(パンデミック)がいつ起きてもおかしくない状況です。「現代人はあまりにも自然との関わりが薄くなりすぎて無関心。自然を経験化できてないのは都市も地方も同じです。ハンターも経験・技術が不足で、野生動物への対抗圧力になっていない。そこで一つのアイデアとして、夜間に犬を放し、街や人里を守ってもらってはどうかと提案してるんです」と田口さん。

養成に時間のかかる一人の猟師より、優秀な一群の犬達を管理して野に放つという方策の実現性はいかに! 今月は野生動物とヒトの関わりの現状について、国内及び欧米、アフリカ、ロシアなどの田口さんのフィールドワーク実例を交えて報告して頂き、今後の対策の最前線を紹介して頂きます! お聞き逃しなく!!


地平線通信 465号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2018年1月10日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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