12月13日。「今季最強寒波」の襲来で冷え込んだ。東京は2.6度だが、各地で氷点下を記録、北や日本海沿岸の大地では激しく吹雪いた。たった今、アメリカのアラバマ州の連邦上院補選で、民主党のダグ・ジョーンズ候補が当選を確実にした、との一報が入った。トランプ政権にとって痛烈な痛手である。もともと共和党のロイ・ムーア候補の優勢が伝えられていたが、終盤になって少女へのわいせつ疑惑が浮上し、一気に失速したようだ。これで米上院の議席(100)は共和党51、民主党49の僅差となり、トランプの足元はうかうかしていられない状態となった。この敗北は対北朝鮮政策はじめ日本の政治にいやでも影響することだと思う。
◆今朝の読売新聞は一面トップで「羽生・井山 国民栄誉賞」と報じた。将棋で史上初の「永世七冠」をなしとげた羽生善治竜王(47)と囲碁で初めて「七冠を2度達成した」井山裕太棋聖(28)の両者に同時に国民栄誉賞を授与してしまおう、というねらいのようだ。首相周辺からのリークなのだろうが、囲碁、将棋界初の受賞というめでたい話なので他の新聞、テレビも一斉に後追いした。
◆私は昔父親から手ほどきを受けた経験から囲碁の世界には少し関心があったが、将棋を多少とも身近に感じるに至ったのは、やはり昨今の15才の新鋭、藤井聡太さんの活躍とひふみん(加藤一二三・九段)のブレイクによってである。対局の際、“勝負飯”を届けるラーメン屋やトンカツ店が紹介され、それらの店が流行るというのどかな現象まで起きた。何はともあれ、AIの存在が人間のありとあらゆる仕事、遊びに深い影響を持ち始めた現在、こういう“頭脳戦い人”の存在価値はどれほど貴重か、と私は思う。
◆勝負と言えば、大相撲だ。横綱、日馬富士が同じモンゴル出身の幕内、貴ノ岩を殴打したあげく引退に追い込まれた事件がこの1か月あまり、延々とメディアの格好の材料となっている。現場に居合わせた横綱白鵬のいくつかの発言、貴ノ岩の師匠、貴乃花親方の頑なまでの“沈黙”が騒動に拍車をかけているかたちだ。少年時代から日本の相撲部屋で鍛錬したとして、はたして「相撲道」という言葉まで押し付けられるものなのか? 貴乃花の頑固を認めたい一方で根源的な疑問が沸き起こるのである。
◆1992年2月26日、「“草原の民”経済と格闘」という大きな横見出しの記事が読売新聞に載った。全1ページの特集で、縦見出しは「モンゴル相撲の6人角界入り」。署名入りの記事で、書き手は「ウランバートルで、江本嘉伸・編集委員」だ。1924年、ソ連に次ぐ2番目の社会主義国として誕生した「モンゴル人民共和国」は、1989年末に起きた民主化運動で1992年に国名を「モンゴル国」と改称、新憲法を制定し、社会主義を完全に放棄した。
◆厄介なのが市場経済の実践だった。長く「上から、つまり党の指示だけで生きてきた」草原の民にとって、自分勝手に稼げ、とでもいうべき市場経済はとんでもない難物だった。ありとあらゆるツテを活用して現金を稼ごうとする人ばかりが目立ち、社会福祉なんて一番最下位に置かれてしまった。
◆そんな中でモンゴル相撲で鍛え上げた力士たちを日本に招く話が進んだ。「日本の大相撲には6つのクラスがあり、上位の2クラス(つまり十両、幕内のこと)に入れれば6万ドルから10万ドルの年収が保証される」というふれこみは大きかった。応募した170人のモンゴル青年をトーナメント方式で選抜し、6人が選ばれ、2月来日した。
◆当時、この特集記事を書いた私は早速大島部屋に行き、若きブフ(力士)たちと面会した。18才のバットバヤル(旭鷲山)、17才のツェベクニャム(旭天鵬)ら初々しい青年たちだった。日本語をまったく理解しない6人の外国人登録のため部屋の人に頼まれ、江東区役所まで一緒に行ったことが懐かしい。
◆相撲を日本の国技とだけ信じ込んでいる日本人にはモンゴルの人々にとって相撲がどれほど身近なスポーツであるかわからないだろう。毎年夏のナーダムの際、中央スタジアムの開会式は壮観だ。美しいチョッキとトランクス、見事な革靴をつけた512人ものブフが登場し、一斉に組み合うのだ。モンゴル相撲には土俵がない。手をついただけでは負けにならず、ひじ、ひざ、肩、背中などが地についた時、勝負が決まる。このため、投げ技,足技が多く、時に激しい。大相撲を国際化した以上、そのことは理解しておきたい。
◆そして、この1か月の一番大きなニュースは、現天皇が2019年4月30日に退位、5月1日には皇太子が天皇になることが正式に決まったことだ。「平成」はあと1年5か月で終わり、新たな年号が始まる。昭和の前半に生まれ、平成の30年を生き抜き、まもなく新たな元号の下、私は生き続けることになる。(江本嘉伸)
■プロジェクターから映された映像は、探検の拠点としたレインディアステーションの小屋の前で早稲田大学探検部・カムチャツカ未踏峰遠征の旗を持つ6人とガイドのアントンの姿だ。よく見ると隊長の一星さんの顔は赤く腫れ上がっている。
◆早大探検部の発足は1959年。全国で5番目にできた探検部だ。58年の歴史の中で今回のカムチャツカ未踏峰遠征隊は、155番目の海外遠征となる。報告会の席でまず隊長の一星さんが説明したのは、探検のベースとなる8つの基本的な考え方だ。それは「発想」、「研究」、「計画」、「準備」、「交渉」、「資金」、「実行」、「報告」で成り立つ。これは法政大学探検部OBの岡村隆さんが学生時代に提唱したものだ。
◆「探検とは何か?」と彼は自分に問いかけ、「探検とはこれだと言いきれないものだ」と答える。例えば、山岳部には山に登るという明確な目的がある。しかし、探検にはない。探検にとって、山に登ることも、沢を下ることも、ひとつのツールでしかないからだ。探検には「発想」が必要だ。彼は政治的にアクセスが容易でなかった場所なら地図上の空白が残っているのではないかという「発想」に至る。カムチャツカ半島は1990年まで東西冷戦の最前線として外国人だけでなく、ロシア人も入域が禁止されていた土地だ。そこに彼は自分のフロンティアを見定める。
◆「発想」の後は「研究」だ。1976年夏にこの地を探検したアーネルト・ムルダネシュ隊の報告書を読み、必要な装備について考えた。そして、彼は「計画」を練ると同時に一緒にカムチャツカに向かう仲間を募った。「計画」では「実行」までの段取りを考え、「準備」として、計画書の作成、現地情報の収集が行われた。計画書は原稿用紙換算で100ページほど。計画の実行には探検部全員の承認が必要だ。計画の責任を全ての部員が共有するのだ。
◆「準備」を進めると共に「交渉」がはじまる。カムチャツカ半島に入るためにはロシア保安庁からの入域許可が必要だ。ツンドラの大地を移動するための現地の足も確保しなくてはならない。学生には時間と資金面の制約もある。今回彼らは「資金」の一部をクラウドファンディングに頼っているが、クラウドファンディングだけでは全てを賄えない。必要資金の総額は約300万円。クラウドファンディングで集まった資金やOBのカンパ合わせても、まだまだ必要な額には届かない。彼らは協賛企業を募り、懸命にバイトをした。医療係の野田さんは、周りが驚くくらいバイトをしていたという。
◆全ての準備が整えば、あとは「実行」あるのみだ。「実行」の成否の9割は準備の段階で決まる。そして、「実行」の後は「報告」という最後の仕事が残る。「報告」は個人の経験を知識に変えるものであり、体験を自分だけのものに留めておいてはいけないという考えが根底にある。今回の報告会の前に彼らは大隈講堂でクラウドファンディングの協力者に向けて遠征の報告をしている。会場ではアンケートが配られ、概ね参加者は満足していたようだが、一部「コンパクトにまとまり過ぎではないか?」という意見もあったという。
◆8つの探検の要素を説明した後に一星さんは探検と冒険の違いについての自分なりの考えを語る。「探検の『検』という字は調べるという意味です。一方で冒険の『険』は危険を冒すという意味を持ちます。だから、探検は本質的に冒険とは違うと思っています。探検には準備の段階から意義や安全性を問う必要があります」。
◆ここでカムチャツカ未踏峰遠征の映像が流れるはずだったが、音声の調子が悪いため、一旦隊員からの報告に切り替わる。まずは撮影係の小野さんだ。ナイル川での水源調査やナミブ砂漠縦断の事前調査でも彼は撮影をしており、今回の遠征は3回目の撮影となる。「映像記録の価値とは、映像でしか伝えられない景色や感情を残すことだと思います。何かを記録しないと誰にも伝えられない。僕にとっての探検とは現地へ行くことでしか得られないリアルを撮りに行くことです」。
◆撮影機材は自費で購入し、遠征では2台のドローンと2台のカメラを駆使して撮影をしている。映像の準備が整い、プロジェクターで彼らの遠征が投影される。トナカイの群れをドローンで撮影した映像と共にチュチュク人の歌声だろうか、朗々とした声がそれに重なり、それぞれの隊員が思いのたけを叫ぶ。「なんでもやってみたい。小学生の頃から苦手なことにも挑戦してきた」(走出)「受験のがむしゃらな感じが終わって欲求不満。エネルギーの出しどころがほしい」(野田)「俺はカムチャツカで探検から解放される」(吉田)「インターンに行くべきなのは分かっている。でも、探検の誘惑に負けた」(小野)「ロシアに行って死ぬかもしれない。内心めっちゃ不安。クマが怖い」(小松)「その景色がどう映るのか、ただそれを知りたい」(一星)
◆8月4日日本を発ち、ウラジオストク経由でカムチャツカ半島に向かった遠征隊は、現地ガイドのアントンと合流し、8月11日にアチャイバヤムに到着する。アチャイバヤムから目指すレインディアステーションは85キロ。装甲車なら1日の距離だ。そこから目的のレジャーヤナまでは徒歩で60キロの距離。しかし、水害で装甲車が行けないことが分かった。そこで別の移動手段として、ボートを選択したが、重量制限のため全ての荷物を乗せることができない。食料の半分を諦め、ボートでレインディアステーションを目指す。
◆しかし、川の水深が浅く、ボートが思うように進むことができない。結局、彼らは周りに何もないツンドラの湿原に降ろされ、そこからレインディアステーションを目指した。ボートで進むことのできたのは35キロほどで、残りの50キロは湿原の中を歩いていかなければならない。遠征隊は30キロ以上の荷物の入った大きなザックを担ぎながら、装甲車のキャタピラの跡に沿って歩く。ときどき足が膝まで沈む。膝まで沈んだ足を引き抜きながら、一歩一歩進むしかない。そんな湿原を歩いているときに野田さんが足首を捻じってしまう。彼女は鎮痛剤を飲みながら、先を目指す。
◆日中の気温は15℃ほど。ときには流れの速い小川を渡らなければならず、多摩川での渡渉訓練が活きる。彼らを悩ましたのは、足を絡め取るような湿原だけだはない。大量の蚊や小さな虫がどんどん鼻の穴や耳、そして、目に入り込んでくるのだ。蚊に血を吸われ、目に入ってきた虫を手で除けている内にバイ菌が入り、まぶただけでなく顔中が異様に膨れ上がってしまう。
◆8月19日、ようやく遠征隊はレインディアステーションに辿り着く。残っている食料はそれほど多くはない。目的のレジャーナヤに向かうのだとすれば、往復120キロを更に歩かなければならない。交通手段も限られているこの場所でレジャーヤナに向かえば、9月中に日本に帰ることもできないだろう。レインディアステーションは、時折トナカイ遊牧民のチュチュク人がやってくるだけの陸の孤島なのだ。彼等は悩んだ末に、レジャーヤナに向かうことを断念する。
◆「ここまで歩いてきたのに、何もしないままで帰れるのか?」。地図で未踏峰を探すとレインディアステーションから12キロの距離にその場所を発見した。ハイマツが密生している尾根沿いは時速500メートルで歩くのがやっとだ。容易に未踏峰には近付けない。時折、熊の痕跡を見つける。未踏峰の山頂に向かうガレ場は手で触れると一瞬で崩れてしまう。登る場所も易々と見つけることはできない。他のルートを探し、そして、日が暮れる。
◆レインディアステーションに滞在できるのはあと僅かだ。焚火を前に一星さんが隊員に向かって「明日の早朝出発して、未踏峰を目指す。メンバーについては相談する必要がある」と語りかける。そして、未踏峰登頂を控え、遠征隊は最後のミーティングをする。「野田が果たして行けるのか?」彼女はレインディアステーションに辿り着くまでに足を捻っていた。今ではそれが癖になってしまい、ちょっとした水汲みの際にも捻ってしまう。
◆「あたしだって行きたい。みんなと同じ決意の固さと金額を払ってここまで来ているんだから」絞り出すように彼女は言う。「決意の固さとか払った金額の話ではない」と彼女の想いに一星さんが答える。「連れていけないという可能性を感じてしまうのは、野田が無理をするかもしれないから。そして、これまでに野田が無理をしたから」「少なくとも偵察には行きたい。行けるところまでは行きたい」
◆副隊長・走出さんは「自分の目で見て、自分の想いを納得させたいという人とは一緒に行きたくはない」と言い放った。重い沈黙がレインディアステーションの暗闇を包む。どのくらいの時間が経ったのだろうか。「あたし残ります。どうしても行きたかったけど、説得されて残るんじゃなくて、自分として納得して残ることにしたんで大丈夫です」と震える声で告げた後、彼女は俯く。髪で隠れた彼女の視線の先は見えない。
◆やがて長かった夜が明ける。野田さんに見送られながら、遠征隊は出発する。霧雨の中、道なき道を歩く。今にも崩れてしまいそうなガレ場を手探りで登り、尾根に出ると、それまで視界を遮っていた雲が晴れ、目の前に目指す山の頂が現れる。「天国みたいだね」と誰かが呟く。「もう死んでいるのかも」と笑い声が響く。2017年8月25日午後4時40分32秒、目指す未踏峰の頂きに到達。頂からの景色を眺めながら、一星さんは言う。「1300メートルという標高をしょっぱいと思わないと言えば嘘になってしまうけれど、ここに来たら標高なんて関係ない。それくらい綺麗な景色だ。それにここから見える景色には来た道、来たかった道、そして、これから行くかもしれない道を感じさせてくれるものがある。僕らは今その真ん中にいる」
◆「ワセダ山」と仮に名付けたその山を下り、8月28日、遠征隊はレインディアステーションを離れた。しかし、突然彼らの旅は終わる。小野さんが食中毒で倒れ、ヘリで緊急搬送されたのだ。遠征の映像が終わり、各隊員のそれぞれの担当に関する報告がはじまる。まずは副隊長の走出さんだ。彼は装備品について「無駄なものが多いと前に進めない。だから、安全対策を考えた上での装備のリストアップは重要でした。重量はグラム単位で計測しました」と報告する。
◆出発前の訓練に関しては、小松さんからだ。当初目指していたレジャーヤナは夏でも雪山のため、白馬岳での登山訓練をしている。訓練中たまたま他のグループの滑落者がいたため、ヘリで救助を要請した経験が今回の緊急搬送に活きた。記録についての吉田さんの考えは「記録とは物事を様々な形式によって形あるものに残すこと」だ。それは文章、写真や映像といった誰でもアクセスでき、そして、追体験ができるものである必要がある。
◆「旅行と探検の違いは、報告の必要があるかないかだと思います。旅行は個人の思い出として完結するだけでいい。でも、探検は報告の必要があり、他者から評価されるべきものです。そうした記録からの報告の有無が旅行と探検を区別するものだと僕は思います」。探検というフィールドについて、記録の観点から彼はこう感じている。「地図上の空白を求める探検はなくなっていくと思います。一方で新たな記録機器の誕生で、新たな追体験ができるようになります。それが新しい時代の探検に繋がっていくのではないかと感じています」
◆医療係の野田さんはツンドラでの生活「ツンドライフ」について語った。「ボートに乗るときに食料を半減させたことで、ツンドラでの生活は半サバイバルのようなものになりました。ベリーを採取し、川があれば魚を釣りました。私達はキンチャヤマイグチなどのキノコを採取して、お味噌汁にして食べていました。キノコ自体には味はありませんが、クリーミーでお腹を満たすには十分でした」
◆それぞれの報告が終わり、各隊員の遠征の感想が伝えられる。まずは野田さんからだ。「今日で遠征が終わっちゃうんだなというさみしさが込み上げてきています。私は未踏峰に登れなかった。歩く度に足首が痛かった。最終的に登らない選択をとったのだけれど、登れば良かったとは思っていない。私は最後まで自分の意志を曲げなかった。でも、隊のリスクになるのは避けたかった。自分の選択を後悔してないのは、事前準備への想いがあるからだと思う。あのときの想いが大きかったから、後悔には至っていない」。彼女は出発前、時間ぎりぎりまでバイトを入れていた。「正直、今回の遠征で死ぬかもしれないとも思っていました。ベッドの下に遺書をこっそり隠して出発しました。私にはそういう出発前の記憶が大きかった。だから、今は5人に対する感謝の気持ちでいっぱいです」
◆「もともと山登りも好きじゃない。こういう場で発言するのは恐怖なんですが、折角自然の中にいるのに山登りにはルールがあって、社会的なものに縛られている。そういうのが嫌いです。今回の遠征ではこうあるべきというものがなかった。自分達で決めたことを自分達でやる。童心に戻れたとこの年になって感じました」(吉田)「僕は未踏峰に登りたいという想いが強かったです。だから、そこに向かう途中は楽しかった。自分は今誰も行ったことのない場所に向かっているんだって。未踏峰の頂きに立ったとき、大きな達成感も感じました。でも、一方で拍子抜けもしました。未踏峰登頂ってこんなもんなのかって。何の障害もなく登れてしまって、肩透かしをくらったような感覚でした。心のどこかでは今回の登頂は失敗して、未踏峰は未踏峰のままでも良かったんじゃないかと思う自分もいます。それでも、それができたことには胸を張りたい」(小松)
◆「何か未踏のものに触れたい。それはロマンに近いものだったと思います。今回は達成したというよりも、達成してしまったというのが正直な感想です。大隈講堂、そして、今夜の地平線報告会。光栄で嬉しいが、立ってしまったという思いです。それは自分が今回の遠征では隊長ではないからです。一星さんの企画について行ってしまった。人の企画で自分の目標を達成してしまった。達成感と一緒にやっちまったという思い、そして、次どうしたらいいんだろうって。今回の遠征は1年以上前からスタートしています。もう11月末なので、来年同規模のものをやろうとするならば、もう動いていないといけない時期です。来年、僕は3年生にもなります。達成感と共に今回の遠征以上のことをやらなければならないというプレッシャーに押しつぶされそうな日々です」(走出)
◆「こうして皆さんに映像を観てもらって、ありのままを見せない方が良かったのかもしれないという思いもあります。それでも、現地のリアルを撮ってくるという最初の目論見は果たせたんじゃないかと思います。今回僕はヘリで搬送されることになりました。備蓄の油をつかったキノコ料理でお腹を壊したからです。他の隊員も同じものを食べています。たぶん、重い機材を担ぎながらの撮影が続いて、エネルギーが切れてしまったんだと思います。病院での診断は食中毒だったのですが、脈動の低下も見られました。荷物も背負えず、歩けない状態で翌日を待っていたら命に係わると判断し、ヘリを呼ぶことになりました」(小野)
◆「遠征で何が辛かったかと言えば、12ヵ月前から自分が前に進んでいるのかどうかも分からないことでした。交渉も上手くいかず、何度も何度も止めてやろうと思いました。隊員達はそれを口に出します。でも、僕は準備をしている12ヵ月の間はそれを言えませんでした。僕にできることは遠征をやると言い続けることだけでした。時には周りからの厳しい質問もありました。隊員すら敵に見えることもありました。だから、周りのみんながしんどいと言っていたツンドラの湿原を歩くのが、僕は嬉しかったです。たった一歩でもそこでは前に進んでいることが実感できます。はじめの目標だったレジャーヤナには辿りつけなかったけれど、自分の足で近付くことができた。だから、僕はツンドラの湿原を歩くことが嬉しかった」(一星)
◆最後に報告を聞いていた法政大学探検部OBの岡村隆さんが感想を彼らに伝える。「発想が起こった時点から報告書を出版するまでが探検で、今回の君達の遠征は今後の学生探検の雛形になるようなものだと思う。コンパクトかもしれないが、ひとつひとつがツボを押さえているし、しかもそれぞれがちゃんとやらないと探検にはならないものだから。今回登頂した未踏峰が小さいことは否めないが、それよりも準備中のことが記憶に残っていることの方が大事。そうした記憶が君達を大人にしていく。現場で何をやるかも、もちろん大切だが、全存在を掛けて何をやったかの方がより意味を持つ」。この遠征を機にあるものは探検を離れ、あるものは新しい探検のフィールドを探すのだろう。いずれにせよ、ここが出発点。彼らは今その真ん中にいる。(光菅修)
■「ついに遠征が終わってしまった気がして、寂しい」。 野田隊員の言葉で、そうかこれで“終わり”なのか、と感じた。思えば一年前から、毎週隊員たちと顔を合わせてきた。遠征中には朝から晩まで共に暮らし、帰還してからも報告会のためにと集まった。まだまだ仕事は残っているが、地平線報告会という大舞台を終え喪失感に襲われている。この遠征のために、何度となく悩み、苛立ち、頭を抱えた。ツンドラにたどり着いたときには、足を取る沼地にすら感動した。やっとの思いで登った山頂から見た景色は、今でも瞼の裏に焼き付いている。そんな遠征が、終わった。でも、“終わり”とは決して悪いことではないだろう。体験が経験へと変わることが“終わり”だ。そして、経験とはいつか次の一歩へと導いてくれるものだろう。これから何をしようか、何を目指そうか。今すぐ答えは出なくとも、また情熱を、執念を見つけなければならない。やっと一歩踏み出した、私の「探検」はまだまだ続く。いつか今日という日を思い出して、「あの日が『始まり』だった。」と、語る日が来ることを願って。(カムチャツカ遠征隊隊長 井上一星)
■地平線報告会に出席するのは今回が初めてだった。聴講することを飛ばして報告する立場になってしまったため、失礼を承知して言わせていただくと緊張はなかった。ただ、元々地平線報告会を知っている友人や当日出席されている方々を見て、先日大隈講堂で行った報告会とは全く別物になると感じた。大隈講堂で行った報告会はあくまで広報の延長線上で、比較的キャッチーな内容であったと思う。地平線報告会という場は普段からフィールドに出ている方、またそういった活動を行っている人の報告を日頃から聞いている方々の集まりであったため、わかりやすさよりも活動のコアに近いものを発表するつもりであったし、その方向性は正解であったと感じる。学生という身分もあり、技術はもちろん姿勢に関してもまだまだ未熟な部分が目立った報告であったと思う。ただそういった若さから出る必死さなどが伝わっていれば幸いである。(記録係 吉田健一)
■普段は緊張しがちな私が、地平線報告会では全く緊張しなかった。それどころか発表というまたとない瞬間を、楽しめていた。それは発表する場所が小さいから、とか知ってる人が多いから、とかわかりやすい要因じゃなくて「私たちが何を言っても受け入れる」会場の雰囲気からこう感じたからだと思う。動画や感想含め、私たちのやってきたことをリアルに報告できたことは嬉しい。実をいうと、隊員の小野が作った動画は見ていてヒヤヒヤした。見方によっては、いい加減にやってると思われても仕方ない部分があったからだ。でも、ヒヤヒヤするってことは、いい加減にやっていたと思われたくない。それくらい本気で活動に取り組んでいたからじゃないかと、そんなことにも気づけた地平線報告会だった。(医療係 野田正奈)
■カムチャツカ遠征の映像を上映させて頂きました、撮影係、武蔵野美術大学院1年小野寛志と申します。発表の機会を頂き本当にありがとうございました。精力的に活動されている方々に見て頂くことができ、現場での苦労が報われた気がしてやっと心が少し楽になりました。カメラマンとして実際に現地に行き、撮影している中で、私の主観ではありますが「リアルだ」と感じたカットを切り出して映像を作りました。等身大の僕らが受け入れられるかどうか、映像を見て頂いてから急に不安になりました。しかし、隊員のデコボコした感じが良いと言ってくださる方もおり、少し安心しました。映像に関してはまだまだ勉強が足りないなと痛感しております。(撮影係 小野寛志)
■地平線会議の報告会では大隈講堂で行った報告会とは違う正直な感想を言おうと思っていました。そこでカムチャツカ遠征のことを深く思い返すことにしました。その時には帰国してから約1か月半。遠征の細部は忘れかけていました。考えてみれば帰国してからは忙しい日々が続き、遠征を振り返ることなどしていませんでした。遠征中に携帯で記録していた日記も書いたままで読み直すことはしていませんでした。久しぶりに日記を開くとたくさんのことを思いだすことができました。そしてあんなこともあったなあ、と振り返ると嫌だったはずの思い出も悪くないような気がしてきます。地平線報告会は遠征を振り返る良い機会になりました。ありがとうございました。(訓練係 小松陸雄)
■地平線報告会が終わった時、寂しい気持ちがした。これで本当に遠征が終わった気がしたからである。遠征前は準備に忙しく、バイトでお金を貯め、訓練活動も行い、常にロシアのまだ見ぬ土地に思いを馳せていた。アチャイバヤムの村を出て、ツンドラに繰り出した時、活動がやっと始まったと強く感じた。そして日本に帰ってきた時は、長い夢から覚めたような、それでいてまだ夢の余韻に浸っているようなそんな心持ちだった。それらが遠い過去になっていく。そんな気がしたからである。地平線報告会は憧れだった。それなのに、自分が発表者になってしまった。もしかしたらそんな思いも寂しさの要因のひとつかもしれない。次はどこに行こうか、最近またエンジンがかかってきた。(副隊長 走出隆成)
■全国各地に「探検部」が登場してから、およそ60年が経過した。IT、AIという言葉が世界を席巻する現代にあってもなお、その灯火は消え入る様子をみせない。まるで時代と逆行するように、「探検」を志す学生達が集う。かつて一斉に競うように海外進出を目指した学生探検部であったが、今では理念や気風、運営システムは、それぞれがまったく異なる。在学から卒業までの数年間は、部のすべてが取って代わられるのに十分な時間であると言っていい。束の間の学生時代はいくえにも受け継がれ、各学生探検部は時代の波を乗り越えながら独自に発展されてきた。
◆さて11月の地平線報告会は、早稲田大学現役探検部員による、夏のカムチャツカ遠征にスポットが当たった。彼らが所属する「早稲田大学探検部」は創立からすでに半世紀を遡り、地平線界隈でも名高い大先輩を数多く輩出してきた。本隊はその歴史の最先端をつっぱしる連中だ。この夏、カムチャツカ遠征を生んだいまの早大探検部とは、どのような集団であるのか。その内側の一部を紹介したい。
◆早稲田大学探検部は、日本国内、および世界各地において探検活動を行うことを目的に活動している。現在部員は38名。うち4分の1は他大学に籍を置く学生たちで、カムチャツカ隊6名のうち2名もそれに当たる。部員の減少をきっかけに10年ほど前から、当探検部は正式に早稲田大学という敷居を超えて部員を募るようになった。当探検部にとってこの決断は、それまでの伝統を覆すものであったにちがいない。このような大転換を主導してきたのは、歴代の「幹事長」であろう。近年にあっては、彼らは部の責任者であり、各代の理念や方針をかたちづくる存在である。活動はつねに事故の可能性と隣り合わせているので、部員達の命を預かるともいえる幹事長の役割は重い。
◆当部の要は、週に一度ひらかれる「部会」と呼ばれる会議である。活動の審議や報告、部の運営についての話し合いがなされる場だ。提出される計画は部員によって厳正に精査され、実行までに何度も修正される。承認しないものが1人でもいる場合は、計画は却下される。大学の所属に関係なく、現役部員全員に参加が義務付けられている。部員の安全を確保することと、部の存続のうえで欠かせないのである。
◆探検計画は、部員であれば誰でも部会に提出することができる。各計画には、示された探検観やその意義・目的に共感した者だけが参加する。いわゆるコノユビトマレ形式である。救助訓練等の特別な活動以外に参加の義務はない。上記のような部の規則は「部則」と呼ばれ、探検部内で正式に定められている。12月になると一・二年生で既存の規則を一字一句見直し、新年度の草案を作成する。毎年末には「一泊ミーティング」と称した儀式的な部会が開かれ、上級生を相手に夜通し議論を行い、承認を経てやっと新体制が整うのだ。その後の1年間は、この「部則」が探検部の絶対となる。
◆当探検部での活動はつねに自分の意志が第一である。それゆえ部員たちは「探検とは何か」「如何にして探検を実現できるか」を自問自答し続ける必要がある。部員同士でその手の議論が始まると、白熱してなかなか収束しない。一向にまとまらぬ答え。「それでも探検してやりたい」というエネルギーはいつも、探検へと昇華させない限り、自身のうちに閉じ込められるほかないのである。
◆カムチャツカ遠征も例に漏れず、計画実現までの道のりは長かった。安全性の確保や実現の見込みを十分なまでに高めることは言うまでもなく、部員の前で「探検的意義」を証明しなければならなかったからである。最終的にカムチャツカ計画に大きく共感し、そこに「探検的意義」を見出した6名が、いざ彼の地へと飛び出して行ったのだった。他の部員たちはというと、各々によって日本での探検活動に精を出したり、数年後に見据えた遠征の偵察行へ出かけたり、個人的な活動として海外へ足をのばしたりと(私はボルネオに行った)、思い思いに過ごしていた。
◆このように自主性が求められる早大探検部は、決して気楽なたのしい場所ではない。わたしの先輩であるWさんは「探検部は止まり木のような場所だ」と表現した。やがてそこから降りるものもいれば、見つけたものをきっかけに探検の外へ出ていくものも少なくない。われわれ探検部員をつなぐのは、唯一「探検」というキーワードである。
◆「探検」と向き合うたびに数え切れぬほどのもどかしい思いを経験してきたわたしは、カムチャツカで欲求を爆発させてきた彼らを、報告会で熱く語る彼らを、うらやましく、そして悔しく思った。世界には知られざる場所が、知られざる事実がまだまだ残され、生み出されているはずである。その予感だけは、わたしにとって確かである。「早稲田大学探検部」は、それらを追求する集団であるにちがいない。時代の流れとともにいかに変容しようとも、「探検」への答えを体現しつづける精神は、変わらず受け継がれてほしいと願っている。探検は正座して頭を働かせたところで始まらないのだ。立ち上がれ。挑戦しつづけろ。早稲田大学探検部。(早稲田大学教育学部2年 下川知恵)
今年も地平線通信への協力、ありがとうございました。新しい年を迎えるにあたり、簡単なお願いです。この通信へのご意見、感想をお寄せください。これまで書いてくれた方、初めての方、どちらも歓迎です。1人300字ぐらいで。1月の地平線通信は10日に出す予定なので新年早々ですが、5日締め切りとします(ハガキの方は、打ち込む時間が必要になるのでやや早め、3日ぐらいをめどにお願いします)。よろしく!
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくれた方もいます。当方の勘違いで受け取りたくないのに送られてきてしまう人、どうか連絡ください。通信費を払ったのに、記録されていない場合はご面倒でも江本宛てお知らせください。振り込みの際、近況、通信の感想などひとこと添えてくださると嬉しいです。住所、メールアドレスは最終ページに。
秋元修一(4,000円)/広田凱子/宮崎拓/佐藤泉/井林昌子(5,000円)/小泉秀樹(5,000円)
■地平線通信463号(2017年11月号)は11月13日印刷、封入作業を行い、翌14日、郵便局に渡しました。11月号も読み応えのある内容でした。書いてくれた皆さんに感謝します。発送作業に馳せ参じてくれたのは、以下の皆さんです。カムチャツカ探検隊長の井上君は二次会の「北京」に駆けつけ、できたばかりの通信を仲間たちに持って帰りました。皆さん、ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 久島弘 長岡竜介 兵頭渉 伊藤里香 杉山貴章 前田庄司 江本嘉伸 中嶋敦子 光菅修 松澤亮 井上一星
12月16日(土)17:10〜17:59 NHK総合
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/9999/2409275/index.html
本放送後に、NHKオンデマンドにて配信予定。https://www.nhk-ondemand.jp/
NHKワールドプレミアム(海外での日本語放送):12月30日(土)08:20〜09:09 (日本時間)
★田部井さんの闘病と「東北の高校生の富士登山」にかける思いを中心に描いた番組です。(川崎彰子)
■ご無沙汰しております。12月に入り、屋久島では急に冷たい風が吹きはじめました。山では雪が降っています。私は相変わらず、島の外周をぐるっと取り囲む県道を通り、職場の小学校と家を行き来する生活です。沿道には赤いポインセチアの花が咲いています。クリスマスの花として都会では鉢植えでかわいらしく売られていますが、島のものは人の背丈ほど大きくて、初めて見た時は目を疑いました。
◆秋はあわただしく、あっと言う間に通り過ぎました。11月には天皇皇后両陛下が45年ぶりに屋久島をご訪問され、2年前に噴火した口永良部島の方々と懇談されました。忘れずに足を運んでくださったこと、嬉しかったです。
◆地域の行事もありました。集落ごとに行なわれる十五夜の綱引き。月の出とともにやぐらの上に立つ歌い手が声を張り上げると、住民たちは縄を引き合い、時には激しく上下に揺さぶります。その後は綱をほどいて土俵を作り、相撲大会。高くのぼった満月の下、土俵を取り囲んでみんなのかけ声や笑い声が響く、素敵な光景です。
◆集落の運動会にも参加しました。高齢の方が多いので競技も工夫されていて、「バケツに入った色水を、湯のみで一升瓶に移す競争」なんていうのもありました。
◆何かと忙しく感じることもあるけれど、人の顔が見える島暮らしが気に入っています。地平線報告会に参加できないのがもどかしいですが……、毎月の通信を楽しみにしています。11月号の長野淳子さんの「生ききりたい」の言葉は、深く胸に届きました。病気だからではなく、誰もが与えられた命を「生ききる」ことに頑張れたら。その感覚に気づかせてくださった淳子さんに感謝します。
◆もうすぐ年の瀬ですね。皆様、どうぞよいお年をお迎えください。(屋久島 新垣亜美)
■12月中旬、年賀状の季節だ この季節になると仲間と作った3.11カラハジマル鮭カレンダーを思い出す 並べられた31枚の日めくりを、上から1枚1枚つまみ上げて1か月にする TANITAのはかりに載せ79gを確認 リョウノスケさんが描いたイラストが狭い製本所で笑いを誘う 日めくり365枚ホントに良く書きあげてくれたものだ
◆おかげで全国カレンダー展や世界カレンダー展で銅賞の快挙 リョウノスケさんの個展にはその賞状が飾られていたらしい 報告が遅くなったが、岩手県大槌町の中学生を支援する鮭Tプロジェクトは昨年の9月新校舎完成で終了 5年間の販売総数17,554枚、総額881万円の寄付をさせていただいた。被災地の中学生を応援するボランティアの自分たちが、いつの間にか、たくさんの人が応援してくれるプロジェクトになっていた リョウノスケさんのお蔭で地平線の仲間からもたくさんの支援をいただいた 大変だったが幸せな時間だった 本当に感謝感謝だ
◆先週の12月3日、製本屋に鮭T仲間が集まって忘年会をやった Tシャツをつくっている仲間が、先月ゾモTシャツとバッグを100枚プリントしたという 新聞に載ったゾモTを着た南極観測隊員のニュースも彼から聞いた 注文して家に届いた小さな箱の裏にはランタン村の物語がプリントされていた きれいに畳まれたアースブルーのTシャツにはチベット文字で書かれたタグがついていた
◆丁寧に丁寧に思いを込めて届けられた1枚のゾモTシャツには関わる人たちの人柄が滲み出ていた こんな人たちに応援された人は幸せだと思う ひたむきに自分のやれることを、現地に行き、現地の苦しむ人に寄り添っているのだろう なんだか宮澤賢治みたいだ だからその人を応援したくなるのかもしれない 世界中で災害やテロやミサイルでなんともやりきれないこともあるが、来年も元気な活動者たちの報告を地平線通信に期待している 継続は力なり(長野 村田憲明)
■12月の報告会に間に合うのか、いつもハラハラドキドキの「地平線カレンダー・2018」、現在鋭意制作中です! 画伯が手を抜いてくれないので、現時点では間に合うかどうかはなんともビミョーなところ。地平線のウェブサイトで進行状況を確認してみてください。2018のテーマは「犬と音楽」。楽しい絵になりそうです。仕様や価格も例年と同じになる見込み。どうぞご期待ください!(地平線会議)
■突然ですが、12月1日に、ちょうど10年住んだ杉並区善福寺を離れて、中野区鷺宮に引っ越しました。昨年、大家さんが亡くなり、相続税を納めるためにどうしても土地を売らねばならないことになったそうで立ち退きを求められたため、これを機会に、ずるずると先延ばしにしてきた令子の父親(もうすぐ97歳!)との同居に踏み切ることにしました。
◆善福寺公園の入口まで40メートル、そこから池の水面まで40メートル。毎朝、玄関のポストから新聞を引き抜くとき、池の水面が朝日にきらきら輝いているのが見えます。四季折々の自然に囲まれ、飛来するさまざまな鴨や鷺、アオバズクなどの野鳥を楽しみ、東京23区内とはとても思えないような豊かな自然に囲まれて暮らしてきました。
◆築50年になる昭和の住宅はすきま風が通り抜け、冬は凍った池の冷気が押し寄せますし、夏は西日が当たる2階の部屋は38度を超えます。それがかえって自然との一体感を感じさせることになり、おかげで山に行って自然に触れたいという欲求が起こらなくなってしまいました。引っ越して1年後には犬を飼い始め、一緒に公園を走り回りました。人生のなかでもっとも充実した、かけがえのない時間を過ごせたように感じています。しかし、夢のような時間も永遠に続くわけはなく、いつかは終わりがくるものですね。
◆新居の最寄り駅は西武新宿線の鷺宮です(高田馬場から急行で一駅)。都心に近くなりましたし、駅まで7分。商店街やコンビニも近くにあって、便利さはケタ違いです。ほとんど引きこもり状態になってしまっていた善福寺暮らしに別れを告げ、今後はフットワークをよくして、アクティブに活動していきたいと思います。よろしくお願いします。(丸山純)
■東日本大震災から6年9か月が経過しました。福島第一原発周辺の地域は未だに住民が帰還出来ないエリア「帰還困難区域」を残すものの徐々に復興への道を歩んでおります。JR常磐線の復旧も進んでおり、10月21日には「富岡駅」まで開通しました。ここは津波で駅舎が流され、駅周辺の建物も大きな被害を受けたところ。2015年4月、「ぼっかされだ里に花の咲ぐ」のタイトルで2日にわたり、「地平線会議・福島移動報告会」をやっていただいた時も皆さんに富岡駅を見てもらいましたね。ひっくり返った車、傾いた建物等震災から3年半程は手付かずの状態だったのですが、いま、新しく生まれ変わった姿はやはり嬉しかったです。
◆あの時見た光景からは信じられないのですが、駅前には新たにビジネスホテルがオープンし、原発作業の人たちで結構混み合っているようです。常磐線の不通区間は、残すところ福島第一原発に最も近い区間だけ(4区間約20km)となりましたが、2020年3月までの全線開通に向け除染及び復旧作業が進んでいます。
◆ところで、私の母校「県立双葉高等学校」の同窓会が3.11以来初めて先月、いわき市内のホテルで開催され、出席してきました。高校は原発から直線距離でわずか5kmの至近距離にあって「帰還困難区域」に指定されているため、未だに立入ることが出来ません。そのためいわき市内の明星大学の一部を借りての仮校舎での授業が続いていました。その母校も今年の3月で休校となってしまい、当面開校の見通しはなし、です。
◆そんな中で開かれた初めての同窓会には約3分の1の80人が参加しました。同級生の多くは実家へ戻る事が出来ず、新たな地で生活している人が殆どでした。消息を心配していた友人もいましたが、元気に再会出来たことを喜び合いました。中には家族を津波で無くした友もおり、未だに行方不明の家族も……。胸が締め付けられる思いでした。
◆いつの日かこの高校を復活して欲しい、させたい! そんな思いを互いに話しました。故郷を思う気持ちは皆変わっていない。むしろ震災によって更に強固になったのでは。そんなことを感じた同窓会となりました。(いわき市在住楢葉町住民、渡辺哲)
今年も残り1か月となり、通信費送付を思い出しました。例年通りカンパを含め、5000円をお送りします。
毎月気持ちを鼓舞するような内容に刺激を受けています。冒険や探検の記事が多い中で11月号の「今月の窓」は衝撃です。
日本人の3人に1人がガンになる時代。年齢的にアウトドア活動から遠ざかる一方、ガンは益々身近な対象にかんじられるからです。
その病状をこれほどていねいに淡々と記述された長野先生はとても強い方です。自分が同じ状況だったらこれほど冷静になれるか、と考えてしまいます。
長野先生、どうか生き抜いて私たちに、そして生徒たちに経験を話してください。応援しています。(秋田県大仙市 年金生活者 小泉秀樹)
■12月初め、チベット学者でネパール・ランタン谷の支援に身を挺して取り組んでいる貞兼綾子さんから連絡をいただいた。貞兼さんはことし春と秋の2回、あわせて3か月あまり現地を訪ね、キャンチェンゴンバ(寺院)が見事に再建された様子、ゴダルー(牧畜民)たちがチーズ作りに成果をあげていることを見届け、帰国した。その経緯は、11月の地平線通信に詳しく書いてもらった。
◆で、これからどうするか、貞兼さんは、12月2日、横浜市内でランタンプランの事務局全員と話し合い、2017年の報告と会計報告を支援者たちへ提出し、改めて支援金のおねがいをする(支援金受付は一旦閉じていた)方針を決めたそうです。そして、2018年に必要となる金額はランタン酪農組合のキャンチェンゴンバの内装と壁画にかかる費用380万ルピーを含めておおよそ700万ルピー。(1ルピーは0.9円なので約630万円)必要とわかったそうです。
◆そして、内装+壁画の前払いとして150万円が必要で、それをこの12月中旬までに振り込まなければならない。貞兼さんは私たちゾモ普及協会に対して「ランタンプランの金庫はほぼ底をついており、ゾモ購入費ではありませんが、流用させていただきたいのです」と意向を伝えてきました。ゾモ普及協会は貞兼綾子さんの申し出を深く理解し、Tシャツやトートバッグの売り上げから100万円を差し上げる(以前の寄贈分と合わせると200万円)こととさせていただきます。
◆本来、ゾモを購入するためのお金ですが、ゴンパ建設も村にとって大事な大事なことです。ご協力くださった皆さん、どうかご理解くださるようお願いします。貞兼さんは「ゾモ購入費は、5年間で100頭という約束。あと24頭分は2019年に回そう」と考えています。復興の志高いランタン谷の人たち、彼らと心がつながった、あやさんはじめランタンプランの皆さんの支援、そしてゾモTシャツを通じての支援、大事なことが進行している、と私は感じている。どうか、来年もよろしく!!(ゾモ普及協会代表 江本嘉伸)
■江本嘉伸様 お元気のご様子地平線誌で拝見しております。年の瀬ともなり、何となく気ぜわしい日々です。江本さんにご連絡いただき承知しました小澤先生ご逝去の報にともなう催しが行われました。教え子たちの心のケアになるのでどうしてもモンゴル科関係者による「偲ぶ会」が必要でした。11月末外語祭の最中に無事おこなわれ、大阪大学のモンゴル科からのご出席もあり、かなりの卒業生が集いました。やはり、中世モンゴル語の世界的な権威だけあると思いました。残念ながらご遺族はご出席いただけませんでしたが、遺影を拝借できました。
◆私も挨拶を乞われ、若干お話させていただきました。大学1年生のとき、志望していたモンゴル史をやらず、言語学をやるようにという故小澤先生の強いすすめを断り、先生の後継とならず国際関係に進んだこと、外務省入省当初は新聞7紙雑誌5誌の講読、重要情報翻訳のかたわらでルーティーンの仕事も当時ないので、モンゴル語語彙、語形を収集していて、未見の語形、語彙をノート数冊に記して先生に報告したこと、モンゴル語辞典に6000数百語の原稿を書かされたこと、中世モンゴル語研究の金字塔である元朝秘史全釈3巻、全釈続攷3巻をいただき、モンゴル関係の執務でチンギス・ハ
−ンにまつわることがでてくるとき役立ててきたこと、外務省後輩のモンゴル語教育にご協力いただいたこと、ウランバートルで登頂成功直後の外語山岳会登山のご一行と遭遇することができたこと、それを露語卒業生の江本さんが記事にされていることなど話させていただきました。
◆江本さんのご連絡から私がさわぎだし、ウランバートルで外語関係者に会った際に、だめ押しして日時も決め、偲ぶ会の開催にこぎつけていただくことができました。以上事後報告です。ありがとうございました。お礼が遅くなりました。(花田麿公)
★小澤重男外語大名誉教授は、元外語山岳部監督。1968年、外語山岳会がアルタイ山脈のハルヒラー峰で日モ合同登山を成功させた時の日本側隊長。江本が1987年社会主義国だったモンゴルヘ初めて取材で入った際はいろいろ助言してくれた。専門は言語学で「元朝秘史」の注釈で知られる。長く国際モンゴル学会の会長をつとめた。ことし3月21日逝去されたが、お別れはご家族のみで済ませたため、私が訃報を知ったのは4月になってからだった。小澤さんと縁の深い花田さんにはすぐお知らせし、そのことが11月23日、外語祭の中で「小澤重男先生を偲ぶ会」開催につながったようだ。半ば私信だが、地平線通信には掲載させていただくこととした。花田さん、今回もありがとうございました。(江本)
■今年は人力車を引いて一宮と言われる神社の旧国68箇所参拝の遠征に行ってきた。テントや寝袋、修理工具などを積んだ人力車は100kg以上ある。その人力車を引いて220日間で6400kmを走破してきた。
◆目的は南極遠征の誓いを全国の神様にお伝えさせて頂くことであり、また南極に向けての体力強化も課題である。2018年に日本人初となる南極点無補給単独徒歩到達と、更に2019年には白瀬ルートでの南極点到達を目指し人力車で全国を走り抜ける(地平線通信2017年1月号に詳細)。ゴールは秋田県にある白瀬矗中尉の墓だ。言わば人力車日本縦断であるが、英語にして「リキシャジャパントラバース」というプロジェクト名をつけた。GPS位置情報を5m誤差レベルで開示してウェブサイトからいつでも僕のいる位置を確認できる。
◆説明すべき事が幾つかあるだろう。まずはなぜ人力車なのか、という事である。それは僕が冒険遠征の鍛錬を兼ねて人力車業を10年間営んでいるからが1つ。もう1つは極地ではソリを引いて歩く。人力車もソリも引くものなので使う筋肉が似ている事だ。人力車を引くことが極地遠征の鍛練になるのだ。仕事が遠征に生きるというのは大切な事である。人力車は僕がもつ独特の手段だ。
◆次に旧国一宮とは、という事だろうか。日本は廃藩置県が施行されるまで東京近郊は武蔵の国というように国として独立していた。その各旧国で最も格式が高いとされた神社が一宮である。山をご神体とする事が多く、比較的古い信仰を残す。例えば駿河の国の一宮浅間大社の奥宮は富士山山頂である。一宮によっては奥宮参拝の為に人力車を神社に置かせて貰い山を駆け上った。参拝の為に登山する事を登拝という。可能な場所では社殿の中で篠笛を吹いて献笛させて頂いた。
◆なぜ神社かというと、南極への誓いを立てる為だ。学生時代に武道に熱心に取り組み常に神前に礼をしていたからか。幼い頃に多少の霊感があり目に見えない存在を感じる事が出来たから。なにかある度にもしくは習慣的に神社に行き手を合わせると不思議に落ち着いたものだ。決して祈願する訳ではない。自分の決意を神様にお伝えするのである。あくまで努力するのは僕自身だ。並大抵の決意では僕の夢は叶わない。
◆人力車で旅をするというのは前例がない訳ではない。地平線の坪井慎吾さんは東海道を人力車で走っているし、人力車日本一周という例もある。とはいえ多くは海岸線沿いなどの比較的緩やかなルート取りをしており、重い人力車を引いての峠越えは避け、ペースもそこまで早くない。ペースは月800kmから1000kmほど。この中にメディア取材と参拝、離島へのフェリー移動、支援企業訪問なども挟みながらやる。参拝スケジュールは開示しているので全行程を事前に作りそれに則って走る。
◆一宮は山をご神体とするので山の中腹などに位置する事も多い。また一筆書きで薩摩から出羽まで一宮を繋いで行くので国境を跨ぐ峠越えが必須となる。下野−上野−信濃−飛騨辺りは特に坂道が続き、日光二荒山神社の奥宮である男体山登拝の為にいろは坂を上り降りし、天生峠や雨境峠なども越え、1日で標高を1000m以上上げる日もあった。人力車にはブレーキがついていないので下りが苦行だ。100kgの重さが後ろから押してくるのを足の筋力で制動する必要がある。
◆人力車は車体が大きいので風に弱い。風速10mを超えると人力車が押し返されたり制動不能になる。長期に渡る遠征の為に台風が近付いているなか走行せざるを得ない事もある。僕自身はその環境に耐えられるが人力車の故障が相次いだ。幌のフレームである竹が折れ、幌の付け根の金属が折れ、リムがひん曲がる。人力車は決して旅に向く道具ではない。人力車は飛騨高山が製造元なので立ち寄って修理して貰い、リムが曲がった時には職人さんに現場まで出張して貰い路上でリムを組んでもらった。
◆宿泊はテント泊が基本だ。自転車や徒歩による行動であればどこでも寝てしまえるが、人力車という目立つ物があるのでどこでも寝るわけにはいかない。道の駅などを主体に宿泊を繋いだ。人力車の旅で最もリスクでして感じる事は交通事故である。トラックに追い越される時は巻き込み風で押され恐怖で全身の毛が逆立つ。トンネルと峠越えは恐怖だ。多くは片側1車線で人力車が通れる幅の側道がない。
◆ドライバーもまさかトンネルやカーブの先に人力車があるとは思っていない。五感を研ぎ澄ましす必要がある。特に大切なのは聴覚だ。背後からくる車が人力車に気付いているかどうかはタイヤと路面の摩擦音の変化でわかる。衣装は人力車装束で通し雨具も一切に着ない。気温が一度台で大雨でもびしょ濡れで人力車を引く。それは言わば強くなる為の自分ルールだし、何よりも僕はプロの車夫だからだ。ゴールでは冷たい雨が降りしきるなか約100人が待っていてくれた。
◆道中ショックだった事もある。僕が出発してから先輩の荻田さんが南極点無補給単独徒歩到達を発表した事だ。「くそっ、まんまとやられた。」と思った。遠征中なので僕はもう動く事ができないし、白瀬ルート実現の弾みになる日本人初という分かり易い踏み台がなくなった。それでも僕は来年に南極点に行く。どんな障害にも雄々しく正面から立ち向かうのが僕の筋だ。遠征終了の次の日から鍛錬は再開した。進もう、剛直に。(阿部雅龍 秋田の人力車冒険家)
■「トンドゥプ・ワンチェンの釈放運動に力を入れていた2009年9月のこと、「彼の奥さんを追った短いドキュメント映像がある」とチベット亡命政府のあるインド北部ダラムサラから連絡があった。トンドゥプ・ワンチェンとは、前年の北京五輪を前にチベット各地を回って本土チベット人のインタビュー取材を行い、それが災いして「国家分裂転覆罪」に問われて中国政府に投獄されてしまった熱い男のことだ。彼が取材した映像は「恐れなき者」という意味のチベット語タイトル「ジグデル」として世界中に出回り、日本でも私たちが日本語字幕をつけて『恐怖を乗り越えて』として各地で上映した。
◆当時はまだ判決を受けたこともはっきりせず、トンドゥプ・ワンチェンと彼の仲間たちは秘密裏に連行されてしまった状況で、ひょっとしたらこのまま闇に葬り去られてしまうのではないかと危ぶんで、世界中で彼の存在をアピールしていたわけなのだ。私はうかつにも彼にも家族がいることを知らなかった。彼は危険を伴う取材の前に、安全なインドに奥さんと4人の子供たちを残してきたのだった。
◆手元に送ってもらったチベット女性協会(TWA)制作のドキュメンタリーには、奥さんのラモ・ツォさんが毎朝1時に起きてパンを焼き、夜明けからマクロードガンジのバス停近くでそれを売って一家の生計を支えている日常が描かれていた。当時9歳から15歳までの子供たちは全員寄宿制の学校で学んでいて、家族が揃うのは週末だけ。しかも夫は行方不明。大変な生活だが、ただ耐え忍んでいるわけではない。「お父さんの一番の願いはお前たちがしっかり勉強することだよ」と子供たちを励ましながら、いつか夫が帰ってくる日を目指して、けなげに生きるラモ・ツォさんの姿がそこにあった。
◆そのドキュメンタリーは現地の中原一博さんが窓口になって、これも私たちが翻訳して日本語版を作った。「チベットには自由がない。だからお父さんはビデオを撮った。自分のことより、チベット人みんなのことを考えて、映画のために自分を犠牲にした。私はそれを誇りに思う」。まだ10歳だった長女、ダドゥンの言葉にうたれた。
◆2012年、ニューヨークのジャーナリスト保護委員会は獄中のトンドゥプに「国際報道自由賞」を授与した。トンドゥプは西寧の監獄におり、重い肝炎を患っていることがわかった。2014年6月に刑期満了で釈放されたが、政治的な権利は剥奪されたまま、つまり国外に出る自由はなく、いまだにラモ・ツォさんや子供たちと会えないでいる。
◆映像ディレクターの小川真利枝さんは、ラモ・ツォさんがまだマクロードガンジでパンを売っていた頃に取材を始めた。ラモ・ツォさんがインドに子供たちを残して従兄弟がいるスイスへ移り、そして支援団体の招きで米サンフランシスコに渡ってからも小川さんは彼女の生活を追い続けた。その後子供たちも渡米して、いまは米国で母子5人が暮らしている。その6年間の映像が、93分の映画『ラモツォの亡命ノート』として11月18日から公開されている。
◆映画の公開に合わせて、ラモ・ツォさんが日本にやってきた。もちろん初めての来日で、電車の乗客が全員静かにスマホの画面で集中しているのに目を丸くしたり、無防備に路上に置かれた缶ジュースの自販機に「壊されて持って行かれたりしないのかしら」と驚いたり。毎晩上映後にスクリーンを前にして行われるトークショーの合間に、米国のテレビで韓流スターにハマった娘2人のために大久保でポスターを買い込み、毎晩の夕食はチャーシュー山盛りのラーメン(本土育ちのチベット人はみんな「お肉大好き」なのだ)。
◆そして同じアムド地方出身の在日チベット人の案内で、富士山も観に行った。多忙すぎてクラクラする1週間だったに違いない。一方で彼女の言葉に、やはり事態は深刻なのだと実感した。「トンドゥプのことは世界中の人たちから心配してもらって、本当にありがたいと思っています。ですが、成都にいる彼の健康状態は決してよくありません。病院に行くように勧めていますが、中国の医師は信用できないと言っています。いつになったら安心して治療が受けられるようになるのか」。
◆中国の監獄で蔓延する肝炎は、劣悪な環境と厳しい尋問、そして拷問のためだと疑われている。ラモ・ツォさんもまた悩んでいる。10歳だった勉強好きの少女、ダドゥンはいま18歳。妹のラモ・ドルマも17歳になった。米国で進学させてやりたいが、ダドゥンは一家の経済事情から大学進学を躊躇している。小川さんはそんなラモ・ツォさんを見て、1部800円の映画パンフレットの売り上げを、全額ラモ・ツォ一家の教育資金として寄付することにした。
◆たくさんの人に観てもらい、パンフレットが1部でも多く売れれば、少女たちの未来が開ける。観てもらって彼らの半生に関心が集まれば、トンドゥプが中国の外に出て、家族がまた一緒に暮らせる日が来るだろう。『ラモツォの亡命ノート』は東京「ポレポレ東中野」での2週間の封切りが嬉しいことに連日大入りとなり、12月16日(土)〜28日(木)に追加上映されることが決まった。14:40から1日1回。12月30日から横浜シネマリン、1月13日から大阪・第七藝術劇場と、上映が各地に広がっていくのが楽しみだ。(落合大祐 チベット文化支援人)
■大相撲九月場所中のある夜、私は両国駅のモンゴル料理店で友人と食事していた。「このあとバスカっていう力士が合流するから」と友人はいい、しばらくして髷と浴衣姿のお相撲さんが店に入ってきた。貴ノ岩関だった。間近で見ると顔と体も、なんというか、ゴツッとすごく大きい。ひょうひょうとした貫禄と落ち着いた表情で27歳には見えないが、笑うと顔が急にくずれ、ぱっと華やぐのだった。
◆ウランバートルで5人兄弟の末っ子として生まれた貴ノ岩さんは、テレビで日本の大相撲に憧れ、相撲名門校の鳥取城北高校に留学してきた。8歳のときに母親を心臓病でなくし、来日3ヶ月後には父親の訃報が届き、残った兄弟のためにプロ入りを決めたという。校長であり相撲部監督でもある石浦外喜義先生は自著のなかで、「一言で言えば、真面目な努力家。来たときはほんとうに小さかったのが、あそこまでなれるのは、真面目に努力した結果でしょう。関取になるまで3年かかっている」と書いている。卒業後はその真面目さがかわれ、少年時代に憧れていた貴乃花親方の部屋に入門がかなった。
◆貴ノ岩さんと知り会った1週間前、私は偶然にも鳥取城北高校を訪れたばかりだった。玄関には「はっけよい城北! 個性満開13人」と書かれた大きな紙が貼られ、プロ入りした相撲部OBたちのほのぼの楽しいプライベートショットがたくさん並んでいた。逸ノ城、照ノ富士、貴ノ岩、石浦、朝日龍……。そのとき携帯で撮った写真を貴ノ岩さんに見せたら、「えっ、本当ですか!」と驚いていた。
◆3横綱が休場して若手力士の奮闘が光った九月場所は、横綱日馬富士が執念で優勝を果たした。直後に本人と電話したという友人は「ハルマさんとても嬉しそうだった。九州場所で彼はまったく別人になって現れるはずだよ!」と話していた。貴ノ岩さんは九月場所前半で白星が続いたが終盤で黒星をふやし、優勝争いから外れたものの4場所ぶりの勝ち越し。次の九州場所に期待がかかった。
◆力士の1年は忙しい。6回ある本場所で15日間の闘いを終えると、バスに乗って全国を回る地方授業がはじまる。10月26日に2年ぶりの鳥取巡業があると知り、私は東京でわくわくしていた。25日朝に相撲部コーチのガントゥクス先生へ連絡したら、ちょうどこれから白鵬関を迎えに行くところで忙しそうだった。のどかな鳥取に、お相撲さんが大勢やってくる。人気力士に成長した先輩たちの勇姿に、携帯ももたず恋愛も禁止で稽古にはげむ後輩の高校生や中学生は、土俵下で心ときめかせることだろう。貴ノ岩さんにもメールしかけたが、またにしようと思い直してやめた。
◆11月に入り、九州場所の初日と二日目。日馬富士関はどこか精彩を欠いて連続の負け。貴ノ岩関は試合にすら出ていない。不思議に思っていたらショッキングな第一報が飛びこんできて、その後も周囲の人からあらゆるストーリーが語られている。貴ノ岩さんが彼女からのメールだといった、という報道があったが、9月に会ったときに彼女はいないと話していた。なにが真実でなにが嘘かなんて、ほんとうは誰にもわからないのに。
◆モンゴル人の意見も割れている。私が多く聞いたのは、国民が深く愛する横綱を引退に追いやった若い貴ノ岩は悪者だ、という声。国の誇りもからんで人々が感情的になり、ゆずれない思いを抱えてヒートアップしている。自分の口で語れないまま母国国民から非難をあびている貴ノ岩さんは、どんなに辛い思いでいるだろう。
◆9月に私が初めて鳥取を訪れたとき、鳥取駅前のメインストリートは閑散としていて、夜に飲める場所がほとんどなかった。事件があった日に1次会が開かれたちゃんこ屋は石浦校長の経営する店で、2階は相撲部員の寮になっている。部員のなかには白鵬関の甥っ子もいる。「嘘のない稽古」がモットーの鳥取城北高校相撲部。稽古は毎日16時からで最初の30分はひたすら四股を踏み、それだけで肉厚の背中が汗でぴかぴかになった。
◆練習の厳しさは有名で、手を抜くとすぐ監督やコーチからゲキが飛ぶ。18時半になると、ふたつある土俵の上に敷き物を広げ、自分たちで作ったちゃんこを4〜5回おかわりする。意外なことにモンゴルの子はもともと体がきゃしゃで、食事と稽古でどんどん太くしていくのだという。モンゴル力士の強さの理由は、子どものころから水くみなどで足腰が鍛えられるからだと私は思っていたが、鳥取を訪れてからは、ハードな稽古に耐えられるハートのせいだと考えが変わった。
◆私が鳥取城北の稽古を見学させてもらったのは、鳥取市立西中学校に留学している遊牧民少年ソソルフに会いたいからだった。西中も相撲の強豪校で、鳥取城北高校と合同練習をときどきおこなう。親を楽させたいと相撲の世界に飛びこむモンゴル青年は少なくないが、ソソルフもその1人。彼をスカウトしたガントゥクス先生は現役時代に首を痛めて指導者に転身、いまは横綱を育てる夢を追っている。照ノ富士関が「モンゴル帰れ」とヤジをあびたときは、焼肉屋で教え子を励ましていた。
◆今回の事件がどう着地するのかはわからない。こんなかたちで日馬富士が引退してしまったのは残念だが、応援者も多いので、きっとまた彼らしい道を切りひらいていくと思う。渦中の人となった貴ノ岩さんの心がいつか元気を取り戻せますように。それをただただ祈っている。(大西夏奈子)
■2017年最後の地平線通信です。きのう発表された「今年の一字」は「北」という、案外つまらないものでしたが、私はどうか。やはり「喪」かな。いつまでも言うな、と叱られそうですが、麦丸をなくした喪失感はほかの何ものにもたとえられない。ただ悲惨な思い出ではないのでもう切り替えます。
◆毎日3度は散歩していた日課がこの3か月なくなり、運動不足気味。先日神宮外苑を散歩していておお、と思いついた。目の前にバッティングセンターが現れたんです。実は今年は2度も網膜剥離という目の手術を受けた上、運転免許の更新の際のチェックでいわゆる「動体視力」がかなり落ちている、と実感していた。よし、少しは運動になるだろうし、視力を試すことにもなるだろう、と、入ってみた。
◆「一番スローな球が出るのは?」と係りの人に聞くと、では、あちらのボックスへ、と教えてくれた。「ハマの番長」三浦大輔投手が待っている。1000円で「3ゲーム分(1ゲームは20球)」のチケットを買う。100キロ、80キロ、70キロと球速の表示があって、もちろん70キロを選んだ。40才になって外報部(いまの国際部)に異動した際、「レベルズ」という野球チームに入ったことがある。バッティングセンターは、当時1、2度来ただけだ。
◆三浦大輔は腕をゆっくり振り上げ、びしっ、と投げおろしてくる。懸命にバットを振るが、球はバシーン、と後ろのマットに当たるのみ。びっくりした、こんなに当たらないのか。でも、何度も空振りしているとだんだん掠るようにはなった。2ゲーム目に入るとほぼ当てることはできるようになり、3ゲーム目には快音とともに外野に持って行けた。皆さん、視力維持のためにバッティングを!!(江本嘉伸)
チベットのはしっこで縁を叫ぶ
「エカイのおかげで人生が面白くなったんです」と言うのは稲葉香さん(44)。明治30年に仏典を求めて、当時鎖国状態だったチベットに潜入した河口慧海。その足跡を辿る旅を'03年から続けてきました。「エカイはそのルートがカッコいい。西の果てからヒマラヤを越えて行くなんて、発想がスゴすぎ。しかもリウマチという難病を抱えてたんですよー」 香さんも同じ病を得ています。19才で発症。美容師として働き始めますが、激痛に苦しみ、非日常を求めて海外の旅へ。日本では知らなかった苛酷な環境でも逞しく生きる人々の姿に触発され、旅を続けます。29才のとき、植村直己さんに魅かれて訪ねたデナリ山で「もっと山の中に体を入れたい」と開眼。 ヒマラヤトレッキングをし、ネパールやチベットを調べる中で河口慧海と出会いました。「4000m、5000mを越えた世界の空気や風の流れが心も体も癒してくれる。エカイさんが痛みを押して歩けたワケがわかる気がします」。'16年には、ムスタン・ドルポ遠征隊を企画し、女性3名で慧海ルートを9割踏査しました。 今月は大阪から稲葉さんをお迎えし、人生と旅、チベットの魅力を語って頂きます! |
地平線通信 464号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2017年12月13日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
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