2017年10月の地平線通信

10月の地平線通信・462号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

10月11日。東京の空はどんよりしている。衆院選公示2日目だが、四谷界隈は案外静かだ。一応注目されているらしい東京一区。22日の投票まで、全国であれやこれやの戦いが展開する。なんのための選挙かどう考えても釈然としない。おまけに、対決するはずの野党、民進党の大半が小池百合子都知事が代表をつとめる「希望の党」に吸い込まれてしまい、対立軸の中核であるべき野党第一党が消滅するというとんでもない展開である。

◆昨年の都知事選の圧勝以来吹き荒れる“小池旋風”がなお吹きまくるのか、なんとなく印象を言うと、リーダーの体力が勝敗を左右するような気がする。疲れを見せたら勝てないだろう。小池さん、走り通せるか。独立して新党「立憲民主党」の旗を立てた旧民進党グループが意外に健闘するのか。いずれにしても22日には結果が出る。

◆この春、文庫版の『新編 西蔵漂泊』を刊行したことから、10月は、明治から大正、昭和にかけてチベットに入ろうとした日本人について講演する機会が続いた。1日は、四谷での日本ヒマラヤ協会50周年記念の集まりで、7日は広島で県山岳連盟など主催の「山岳辺境文化セミナー」で同じテーマで話をしたのである。ヒマラヤ協会の講演では知られざる多田等観という僧のすごさについて強調し、広島では同じ中国山地で修行した能海寛という学僧のことを中心に語りかけた。

◆私はチベットについては研究者でも専門家でもないが、『チベット旅行記』の河口慧海のみにひかりをあててきた後世の姿勢に疑問を持ったのが、『西蔵漂泊』を書いたきっかけだった。ヒントはチベット学の権威、山口瑞鳳先生の著書『チベット上下』、(東大出版会 毎日出版文化賞を受賞)と山口さんから直接お聞きした話をもとにしている。もちろん、多くの人に会い、資料を読んで組み立てもしてきた。

◆その中で島根県のお寺で生まれ、雲南の奥地で消息を絶った能海寛(のうみ・ゆたか)は、チベットへの志を明快に文章として残したという点で際立っていた、と思う。帰らなかった者の思いは伝え続けねばならない、という意志は地平線会議を続けているモチベーションの一つでもある。39年目に入った地平線会議では多くの報告者が帰ってこない。いちいちの名はあげないが、その多くが価値ある行動に挑戦したからこそ、の結果だった。生き残っている我らがするべきことがあると思うのだ。

◆3.11から今日で6年7か月。東北の被災地ではこの日、“恒例の”捜索作業が行われた。行方不明者の数、いまなお2553人。南三陸町中瀬の佐藤徳郎区長の家では念願の新居が完成、今日11日、中瀬の仮設住宅から引越しをした。佐藤徳郎さんとは、中瀬の人々が避難していた登米市の鱒淵小で出会った。私たちボランティアは体育館内にいて教室の皆さんの邪魔にならないようにしていたが、中庭にRQが設けた「足湯」で知り合ったのだ。RQの中核スタッフとして頑張っていた新垣亜美さんが佐藤さんに深く信頼されていたこともあって、私たちはやがて互いに遠慮なくものを言えるようになった。宮本千晴とともに佐藤さんのビニールハウス予定地を訪ねたこともある。

◆そして2013年3月22日、407回目の地平線報告会に来ていただいて「究極のリーダーシップ」のテーマで話をしてもらった。佐藤徳郎さんのすごいのは、中瀬の人々を最後まで離散させずひとつの場所にまとめ続けたことだ。あれだけのすさまじい被害を被った人たちである。さまざまな考えがある中で、それは簡単ではない。高台に新しい家が建ち始め、中瀬の人々も一家族、二家族と仮設住宅を去り、82世帯いた家族はついに佐藤さんちだけになった。

◆59才で仮設に入った元気な区長もいま66才。電話でお祝いを申し上げると「長かったねえ、やはり」とつぶやいた。6月に着工した二階建ての家は「被災生活で知り合ったボランティアの皆さんも泊まれるように」172平方メートルと広い。そのうち千晴さんを誘って訪ねようか。佐藤区長、ご苦労様でした、ほんとうに。

◆8月末に網膜剥離の手術を受けた右眼にずっと漂っていたゴバルトブルーのきれいなあぶくが広島に行く直前の5日、37日ぶりに消え去った。麦丸がいなくなった強烈な寂寥とはもうすこし付き合わなければならないが、大丈夫、ゆっくり歩き出すだろう。広島に行った日、77才になった。ここから先は、まさに“実験場”だ。人がどのように歳をとり、最後の日に近づいてゆくのか、誰も明快には語っていないと思うからだ。欲を出さず、自分を変えずに歩いていこう、とコーヒーを飲みなから考える。(江本嘉伸


先月の報告会から

気まぐれ地平船

〜ウラ仕込み三題噺〜

白根全

2017年9月22日 新宿区スポーツセンター

■39年目に突入した地平線会議。第461回の報告者は、世界にふたりしかいないカーニバル評論家の白根全さん。「グレートジャーニー(GJ)裏話」=裏方、「地平線年報制作の舞台裏」=記録、「カーニバル追っかけ記」=現場、という豪華“地平線三題噺”を語ってくださるという。

◆そういえば8月の地平線通信発送作業の2次会で、江本嘉伸さんと全さんのこんな会話を目撃した。 E「40周年のイベントどうしよう?」 Z「イベントなんて邪道! 大事なのはやっぱり記録っすよ」 E「なるほど、よし! これまでの地平線を総括する報告会を、来月全に頼む!」 Z「う、うっ、うむむむむむ……」

◆報告会タイトルの「気まぐれ地平船」は、1970年代のFM TOKYO深夜番組「気まぐれ飛行船」にちなんだもの。ある晩、MCのジャズシンガー安田南さんが生放送中に突然号泣する放送事故があった。飼いネコが亡くなったのを思い出したからだという。「今日は昔話してるうちにオレも号泣しちゃうかも!」と全さん。それでは「もう時効っ、ぶちまけちゃえ〜」のGJ裏話から、はじまりはじまり〜!

◆全さんと探検家の関野吉晴さんとの出会いは、今から30数年前の南米ペルー。マチュピチュで結婚式をあげたばかりの新婚ホヤホヤ関野さんだったが、式を終えたその足でアマゾン先住民のもとへ、ひとり旅立ってしまった。残された奥さまを見かねた全さんは、アンデス山麓の村へお誘いしてご案内。それが関野さんとの深く長いおつきあいのスタートだった。

◆全さんがコーディネーターとして最初にGJの現場に関わったのはパナマ地峡。GJ応援団長の恵谷治さんから「地峡を通り抜けた経験のあるオマエがここを仕切れ」と無茶ぶりされたのがきっかけだ。当時は内戦が激しかったが、その難関もなんとかクリア。それ以来「困ったときのシラネ」と呼ばれ、「今アラスカなんだけど明日来れないかな〜?」と関野さんから電話がくれば、「明日はちょっと無理だけど、明後日なら……行けマス……」となるのだった。

◆人力のみで旅してきたGJ。「実は未完成ルートが300mだけ残ってる。この傷跡、思い出すだけで泣きそう!」との爆弾発言も。超危険なパナマ地峡のコロンビア側湿地帯で、関野さんの乗るカヤックをやむなくモーターボートで引っ張ってしまったのだそう。「いつか戻って旅を完結させよう」と関野さんと話したものの、まだ果たされていない。

◆一番頭を悩ませたのは、日本人の来た道を手作り丸木舟で航海した「海のGJ」。例のごとく「悪いけどこっち来れない?」とインドネシアから電話が。ソマリア海域の海賊が問題になっていた時期で、安全対策を頼まれるも、突然すぎて仕込む時間がなく「ミッションインポッシブル!」。GJにはテレビ撮影が入るため、もしクルーが誘拐されでもしたら某Fテレビ社長の首が飛ぶ。安全面を証明する軍や警察からの書面の提出など、局側からの要望が細かいので「もうテレビはこりごりっ」。

◆縄文号とパクール号を24時間体制で護衛するにはどうすればいい? 試行錯誤の末、フィリピンCIA長官との接触に成功。交渉を試みたが、軍を動かすのは難しいし、民間軍事会社を雇うと1ヶ月で1000万円超かかる。ふと「現地で一番有名な冒険家は?」と思い浮かび、フィリピン人冒険家のアート・バルデスさんと知り合う。彼はもともと国土交通省の副大臣で、まったく素人のメンバーを鍛えてフィリピン初のエベレスト登頂を成功させた有能なオーガナイザー。その彼が「山の次は海だ!」と、手作りの舟でマレー系海洋民族のルーツをたどる、まさにGJと似たような船旅を計画していた。さらに「沿岸警備隊はオレの元部下だ!」とすぐ連絡してくれた。中国系イスラム教徒の司令官と神学論争まで闘わせて口説き落とし、沿岸警備隊総司令官からの書面もゲット! 「これでつながったー」と全さん嬉し涙。

◆荒波にもまれながら、カメより遅いGJの航海は3年目に。ここからは外洋へ出るので誘拐される心配も消え、伴走役を沿岸警備隊から民間船にバトンタッチ。次のゴール地点は台湾。その少し手前で全さんは現地へ先回りして、仕込みに入る。台風到来のリスクもなんのその、2隻の舟は見事石垣島にゴールイン!

◆「関野さんって他はさておき、運だけは抜群に強い! 今やっても絶対に実現できないようなことを、スキをぬってやってしまう。そういう星のもとに生まれた人」。こうして「国家権力をプライベートな遊びに使ってしまう荒技」を駆使しながら、長い航海が無事終了。めでたし、めでたし! 「そういえば最後の1年はギャラ無しだったんじゃないかなあ〜」と全さんがもらしていたのが気になるけれど……。

◆「てなわけで三題噺のお次は、聞くも涙、語るも涙の年報制作裏話!」。年報『地平線から・1979』を手に、「これを作るのが地平線だという時代がかつてありました。そのためにはあらゆる犠牲を惜しまない!」。最大の犠牲者との呼び声も高い全さんは、vol. 6(1984-85年)から第8巻(1986-88年)まで3冊の編集長を務めた。

◆海外放浪の日々を過ごしていた1970年代末のある日、パタゴニアの旅情報を得るため、全さんは初めて日本観光文化研究所(観文研)の事務所を訪ねる。神田練塀町のビルの入口がわからず、目の前を通りかかった「しょぼくれたおじさん」に案内してもらうのだが、なんとその方こそ観文研創設者の宮本常一さんだった。

◆3年近い旅を終え帰国した全さんは、地平線年報の編集作業場へふらり。その頃の編集長は関西学院大学探検部OBの森田靖郎さんで、大学探検部つながりの若者たちが総出で編集作業にあたる大下請け体制ができていた。ネタはほとんどが新聞記事や個人的つながりから。恵谷さんが5紙の切り抜きを毎日ためていたのだ。面白そうな旅人を突撃取材したり、行動者に原稿を頼んだり。なんと、今西錦司氏や中沢新一氏との対談も掲載。「現場の声を大切にして、しっかり記録していくんだ!という崇高な理念に燃えまくって、下請けたちが泣きまくってた」

◆「当時の地平線会議はレベルも敷居もむちゃくちゃ高かった。少数精鋭で探検部や山岳部でない者は外様扱い」だったそう。「ロクに口も聞いてもらえないから、下請けを頑張って、少しでも認められようとご奉公していた」。ある朝、全さんは渋谷の喫茶店に呼び出される。早めに店に着くと、すでに江本さん、恵谷さん、岡村隆さん、宮本千晴さんなどの大御所がずらーり。1ヶ所空いていた奥の席になにげなく座るが、実はそこは空けてあったのだった。もう逃げられない状態で、「森田が手一杯だ、次からオマエが編集長やれ!」とお達しが。

◆ここからは、1980年代に撮影された大御所のみなさんの写真オンパレード。画面が切り替わるたび、会場がオオーとどよめく。くしゃっと笑う賀曽利隆さん、凄みのただよう恵谷さん、今より華奢なはたち前後の長野亮之介さんと丸山純さん、妖精のように微笑む関野さん。「諸悪の根元はこの人。無理難題を言いまくって、なおかつしっかりサラリーマンをやってた」のは、黒髪ふわふわヘアーの江本さん。「みんな若いし、すごい迫力。どう見てもシロートとは思えない……」

◆写植のフィルム貼り込みで制作していた年報は、まさに「手作り」作業の極み。自らの旅に情熱を注ぐのみならず、日本全国の冒険者の行動記録も後世に残そうとした青年たちのエネルギーが写真から伝わってくる。「いくら原稿を書こうが、編集作業をやろうが、原稿料もギャラもゼロ。請け負うほど他の仕事ができなくなり、出費がかさんでドツボにはまる」と全さんがこぼすと、「いやあ、つくづく苦労をかけましたね」と江本さん。入稿前にあまりの忙しさで力尽き果て、池袋駅のベンチで失神した夜もあった。

◆ここで「ひとことぜひ」と、会場にいらした三輪主彦さんにマイクが渡された。「この写真は2時間58分で走った頃の私です。これで江本さんを弟子にしました!」と三輪さんが朗らかに語れば、「くぅー、この話になるからイヤなんだ!」と江本さんが立ち上がり地団駄。おふたりは、ランニングタイムを長年競ってきた地平線の名物ライバルだ。

◆船の上に座りカメラを睨みつける精悍な半裸の青年は、モルディブ漂流時代の法政大学探検部OB岡村隆さん。次の1枚は、今回の報告会直前に卒寿を迎えられた年金旅人の金井重さんが、53歳のときにインドの道端で見せたにこやかな笑顔だ。頭に花飾りをつけた愛らしい女性は29歳の河田真智子さんで、マーシャル諸島を旅したときのもの。「仕事するヒマがあったら旅へ、と島巡りに明け暮れていました。そうしたら人生はちょうどよく帳尻が合うのか、34歳で産んだ娘が重い障害をもっていることがわかりました」。60歳を過ぎ島旅を再開、これから島に恩返しをしていこうと決めたという。

◆続いて、かつて観文研で働いていた高世泉さんの登場。高世さんを含め、宮本常一さんに直接会ったことのない人たちもが、強い情熱で常一さんの背中を追っている話をしてくださった。賀曽利さんと風間深志さんがニカっと笑うツーショットは、パリダカ参戦中に撮影。江本さんが思わずマイクをとり「この写真は僕もすごく印象深い。ふたりともやられたんだもの、あのサハラで」と熱弁。全さんの一番の親友だった西野始さんは、バイクで南米大陸やアフリカ大陸を駆け巡り、その後飛行機事故で亡くなった。

◆最後の写真は、31歳の全さんがサハラを50ccのミニバイクで走ったときのもの。「これでサハラ行くかってバカ丸出しでしたが、ほんっと面白かった! 自分の能力とか、ありとあらゆるものが問われる旅ができたのは幸せだった」。4ヶ月近く、1万4,255kmを走ってダカールに到着。「でもまだ力を尽くしてない……目指せケープタウン!」と再び走り出す。

◆橋のない川ではカヌーにバイクを積んで渡り、世界で5番目に貧しいギニアビサウ共和国へ。この国をカーニバル取材のため30年ぶりに今年再訪したら、「かつて首都に1つしかなかった信号が、なんと倍に増えてた!」。旅先で現地の人と接しながら気になるのは、「旅ができる側とできない側」の関係性。答えはまだ出ないが、「旅ができる側にいられるのは自分の努力ではなく、たまたまこの時代の日本に生まれたから。それを忘れてはいけないんじゃないかと思いながら、忘れて旅をしている」。

◆「そもそも昔話ってすっごくカッコ悪い」と全さんは言い、よくある三大昔話に「愚痴、言い訳、自慢」をあげる。さらに男が行動する原動力は「金と権力と性欲、プラス嫉妬」だとも。そういうものがうず巻く世の中で、清く正しく生きるにはどうすればいい? 「何かについて深く理解したいとき、手段は3つしかない」。1つ目、深く知っている人から直接聞く。「つまり地平線報告会でしょ。いくらメディアが発達しても、生の人間から放たれる話には絶対かなわない。こんなありがたい話が500円で聞けるなんて!」。

◆2つ目、本を読む。しかも批判的な目線で。全さんの本棚(縦2.5m、全長14m)には、30年がかりで世界を歩き買い集めたラテンアメリカの写真集や小説がぎっしり。「今の私を作っているのはこれらの本(とお煎餅?)」。そして3つ目、旅をする。「地図の空白はもうないと言われるが、現場に立ってみない限り空白は埋まらない」。……ここで時間切れ、カーニバルのお話はまたの機会に!

◆38年間変わらず、500円で参加できる地平線会議。この場を作り上げてきたみなさんが何年経っても年齢不詳の怪しい若さと輝きを保っている秘訣は、旅と冒険への底知れない憧れと愛情にあるのかもと思った。「現場がすべて」と常々おっしゃる白根全さんが、きっと生涯旅人であり続けることはもう言うまでもなく!(大西夏奈子


報告者のひとこと

懐かしい写真を見ながらよくぞ号泣しなかったと、自分を誉めてあげたい

■まずは報告会当日、諸般の事情おもに老人問題の事務手続き引き継ぎ@入院先に手間取り、会場到着が開始時間ぎりぎりとなってしまったことをお詫び申し上げませり。余裕でたどり着ける計算だったが大幅に読み違え、一瞬このまま逃げちゃおうかと思ったことも告白しておきたい。地平線報告会には魔物が棲む、というのは丸山純説だが、始まる前から正にそれを実感させられる報告会となってしまった。

◆いずれにしても、昔話はかっこいいものではない。へたをすると本当に愚痴と自慢と言い訳に終始すると思いながら、結構それっぽいことを喋ってしまったような気がしてこれまた反省しきり。メイキング・オブ・ザ・グレートジャーニーの裏話も、緊迫した現場でドタバタ苦労するのと同様に、かなり消化不良の苦戦気味となってしまった。影の黒幕というのが理想だが、実際はただの裏方。まあ、裏方が走り回らないと何事もうまく進まないのはいつの時代も同じだろう。ともあれ、どんな裏話があろうともGJの成し遂げたことは誰が何と言おうとやはり凄くてエラい!

◆2年目の航海はいい風が吹かず、コロンの港でスタンバイしたまま長い停滞を余儀なくされた。いつ来るとも知れぬ風を当てどもなく待つ日々が続いていたが、沿岸警備隊司令官との経費打ち合わせでパラワン島に出張して戻ると、不在中に待望の風が吹き始め2隻の丸木舟はさっさか出航していた。伴走の警備艇は上官の指令無しには動けない。連絡も無しに勝手に出発したと、司令官は頭から湯気を立てて怒りまくっている。お前ら全員逮捕、国外追放してやると息巻く司令官を何とかなだめようと試みるが、激怒したまま取り付く島もない。結果的には裏技を駆使してどうにか丸く収めたが、実はこれが航海中最大の危機だったかも知れない。

◆この年は出発が遅れたあげくスタート後も風に恵まれず、距離がまったく稼げなかった。こちらは風間チームの南北アメリカ大陸2輪ツアーのコーディネーターと撮影を頼まれており、当初予定にはなかったキューバも自分の趣味で寄り道することにしたため、図らずも航海の途中で離脱することとなった。以前からこの時期のバシー海峡越えは自殺行為だと、沿岸警備隊から中止勧告が出されていた。丸木舟のドクトル関野氏に、核心部の海峡越え外洋航海は来年に延期するようマニラから電話で泣いて頼んだのを思い出して、壇上で思わず号泣しそうになってしまった。2日間の超短期日本滞在で南米へ飛ぶ直前に中断の知らせを聞いたときは、安心のあまりマジに腰が抜けそうになったのであった。

◆それより何より、メイキング・オブ・ザ・地平線年報も涙無しでは語れない世界。懐かしい面々の写真を見ながらよくぞ号泣しなかったと、自分を誉めてあげたいぐらいである。長い南半球の旅を終えて日本に戻った後、活字デビューは観文研発行の月刊誌『あるくみるきく』に掲載された「私の旅から」というコラムだったが、まさか地平線年報の編集長を務めることになるとは思ってもみなかった。大絶賛アナログの切った貼ったに明け暮れた当時、どうやって食っていたのか、いまさら自分でも不思議になるぐらいだ。

◆とはいえ、裏方下請けの苦労だけではなく、編集作業を通じてさまざまなキャラの行動者に出会えたのは、自分にとって貴重な財産となったこともまた事実である。年報には収録できなかったが、丸山純と朝日新聞社に押し掛けて本多勝一氏にインタビューしたり、カリブ海取材の途中、当時ニューヨークに住んでいた作家の宮内勝典氏と対談したり、年報制作にかこつけてけっこう遊ばせていただいたことも多々ありだった。完成したときの地面から足が浮くような達成感ももちろんだが、苦労を厭わずに楽しめたのはやはり若さゆえのことだったのだろうか。

◆それに加えて、当時あまり鮮明に意識したことはなかったにしろ、記録することと継承していくことの意義は時代が変わっても重要である。未来は過去から生み出されるものだし、過去は未来を考えるデータの山だ。歴史の蓄積を知らないと理解出来ないほど世界は複雑になっているが、ものごとを既知の事実に分類してしまうとその実態が何かを考えなくなる。自分の知らないことはフェイクニュースと決めつける危険性を、どれだけ意識しているだろうか。思考停止・脊髄反射・過剰適応の3つが渦巻く現状とどのように向き合っていくのか、それぞれの個が問われるものは大きい。その意味でも、地平線会議が続けてきたことや、記録と継承をさらに深く検証し考察することは意義深い。

◆立ち止まって自分の頭でじっくり考え、咀嚼しつつゆっくりびっくりし、その先を見つめてそろそろ進んで行く、というのが今回の三題噺の裏テーマ。そのココロは「オレはお前じゃない」という過激なテーゼだ。異質なものを排除するのではなく、一人ひとりが違う存在であることを前提としていくことが、個人の自由に取っていかに大切か。現実の世界をほぼ他人事として眺めながら、相変わらず理想とする存在は三年寝太郎の今日この頃である。

◆てなわけで、おあとがよろしい三題噺のはずが二題目で時間切れとなってしまったことをお詫び申し上げつつ、次週よりまた再び南半球へ逃亡となる。ちらっと初公開して絶大な反響があった白根文庫の本棚と、豪華絢爛カーニバルの話はまた次の機会に、ということで、何とぞよしなに。(ZZz-カーニバル評論家)


18、9年ぶりの地平線報告会!

■報告会当日、上京のため車で駅に向かう途中、たまたまラジオで服部文祥さんの話を聞いた。NHK「すっぴん」にゲストで登場していたのだ。テンションが上がり、約18、9年ぶり(!)の地平線報告会へ。たまたま先月、鶴岡で観たばかりの『縄文号とパクール号の航海』の裏話ときた。白根全さんの名前が最後にエンドロールに流れていたから、ああコーディネーターやったんだと思っていたが、まさかあの伴走船にずーっと乗り込んでいたとは……。

◆お疲れ様としか言いようのない修羅場の数々(無風時の余りある無為な時間はもちろん読書だ)。映画を観ていない人はよく分からなかったかもしれないが、観ていても想像もつかないほど国を跨いだ過酷な現場だったと知れた。船をいったん陸揚げする時のスチールときたら、関野さん一人だけニッコニコ顔なのが印象的だった。

◆人は動物として生まれ、数年かけて人間になり、老いては徐々に動物に還って死ぬんだなあ、と子育て、介護をやってきて思う。人間って何だろう。動物であることが基本のはずだ。つまり精一杯生き抜くこと。知力と体力の限りを尽くし、生を全うすること。そう、全さんはコレを超マゾ的なまでに全うするから「全」なのだ。きっと何か困難をやり遂げると脳がめちゃくちゃ悦ぶのだろう。これを知ると止められないのだ、ギャラの多寡にかかわらず。

◆帰りの新幹線の中で『息子と狩猟に』を読了。やっぱり何が何でも生き抜かなくちゃね。(日本も知力と体力の限りを尽くして生き抜かなくちゃ。) 古本しか読まなくなったという全さん、新刊も面白いのあるから!(山形在住 Kintaこと難波裕子

地平線会議も若かった……

■今年初めての報告会。山形の難波裕子さんといっしょに、ワクワクして会場にたどり着く。せっかくなので、前から3列目に座る。全さんのお顔がよく見える。うしろを見ると、老若男女、知らない方ばかり。でも、全体の雰囲気は変わってなくて、そのことにほっとする。

◆全さん秘蔵の写真。80年代初めの地平線会議運営委員会(?)の様子が次々と映された。全さん、亮之介さん、渡辺さん、三輪さん、賀曽利さん、江本さん、みんなみんな青年! 地平線会議も若かった。旅を始めたばかりの金井重さんの姿もあった。全さん曰く「当時、50代で一人旅してる日本人女性なんていなかった」って。重さんの行動力を再認識。

◆地平線会議に初めて参加したのは1982年、向後紀代美さんの報告会だった。新宿で開かれた大集会も聴きに行った。つい昨日のことのよう。実は最近、気持ちが沈むことがあった。たぶん、すぐには回復できないけれど、報告会へ参加したことで、ちょっとだけ、いやかなり、前向きになっている。いつでも受け入れてもらえる、戻って来られる場。

◆今回の上京は、亮之介さんの個展も目的のひとつだった。水墨画の猫ちゃんたちに会えた。個展と報告会、また同じ時期に開いてもらえると嬉しいです。(飛騨高山在住 中畑朋子

「おぉっ!」と感じる瞬間は、何の前触れもなく……

■スクリーンに映し出された一枚の写真をみて、私は驚いた。「あ、このバンカーボート、ついこの間私も見た……!!」2017年8月、私はフィリピンのパワラン島の海にいた。そのときに出会った、使い古されたバンカーボート。そのボートとそっくりのボートが、今、目の前のスクリーンで映し出されていたからだ。

◆少しだけ、フィリピンの旅で見た現地の人の様子を伝えます。パラワン島の大人たちは、バンカーボートを日常の仕事で使っている。比較的新しいボートもあるけれど、かなり年季の入ったボートの方が圧倒的に多い。だから、ボートの不具合は日常茶飯事のようで、大人たちは手慣れた様子であちこち直している。パラワン島の子どもたちは、バンカーボートの底に溜まった塩水や雨水を、大きいバケツで掬い出している。それが彼らの仕事の一つ。それらの光景が、白根さんのお話を聞いていると、自然にフラッシュバックされた。思いがけないところで繋がっているんだなぁ。と嬉しくなった。

◆白根さんのお話は、私には刺激的すぎて、たくさん笑ってしまった。今回の地平線報告会も、盛りだくさんの内容。国家権力を個人で使ってしまう関野さんのエピソード。関野さんやチームのために、あっちへこっちへ走り回った白根さんのエピソード。「現場の声を大切にするんだ!!」という使命感と情熱に燃える先輩たちのエピソード。世界中のカーニバルの話も、また聞けたら嬉しいです。

◆一つ一つのエピソードを聞きながら、私の心は「おぉっ!」と叫んでいた。「おぉっ!」と感じるその瞬間は、何の前触れもなく、いつも突然やってくる。その瞬間が、私は好きだ。不思議なことに、その瞬間が訪れた直後には、こういう気持ちになっている。「さぁ、やりたいことをやろう!」地平線会議は、いつも私を次の行動へと向かわせてくれるのです。(杉田明日香


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。地平線会議は会員制ではないので会費はありません。皆さんの通信費とカンパが活動の原資です。折から郵送料の値上げが郵便局より通告されました。12月から、1通10円ぐらい値上がりするそうです。当方の勘違いで受け取りたくないのに送られてきてしまう人、どうか連絡ください。購読希望が増えていて部数はあまり増やせないのです。通信費を払ったのに、記録されていないなど万一漏れがあった場合はご面倒でも江本宛てお知らせください。振り込みの際、近況、通信の感想などひとこと添えてくださると嬉しいです。住所、メールアドレスは最終ページに。

豊田和司(いつもありがとうございます。購読1年、貴重な情報と言うより精神の糧であります。また1年よろしくお願い致します)/大嶋亮太(「地平線通信」購読代等として)/嶋洋太郎(2016年は9/23に払ったはずなのですが記載漏れでした。今年はちゃんと記載されるといいのですが…。)《嶋様、確かにその日に振り込まれたこと記録されています。ここに告知できず申し訳ありませんでした。今後気をつけます。地平線会議》/和田城志/永井マス子/長瀬まさえ(5,000円)/田頭章一(10,000円 いつも通信送って頂きありがとうございます)/川島好子(10,000円 10月2日 次回より別記住所(孫)に送ってください。お手数かけします)《そのようにします。地平線会議》/黒沢仁(10,000円 通信費5年分)/河田真智子(10,000円 通信費5年分)


能海寛 生誕150年記念フォーラム、来年7月に

■チベットに誰よりも早く入ることを宣言し、雲南省の奥地で消息を絶った東本願寺の学僧、能海寛(のうみ・ゆたか)の生誕150年を記念して故郷の浜田市でシンポジウムの準備が進められている。能海寛研究会(岡崎秀紀会長)の主催で、2018年7月7、8日、浜田市内で行われる予定。

 能海は、1868年5月17日「石見の國那珂郡東谷村(現在の浜田市金城町長田)の浄蓮寺に生まれた。師のサンスクリット学者、南條文雄の教えを受けて仏教の原典を学ぶためチベット入りを決意、3度にわたってチベット入りを試みるがラサまでは到達できず、不帰の人となった。

 詳しくは、江本嘉伸著『能海寛 チベットに消えた旅人』(求龍堂)に

地平線ポストから

カムチャツカ未踏峰登頂

■今年の夏休み、私は大学生活を締めくくる大きな挑戦に向かいました。極東ロシア、カムチャツカでの遠征。目標は、その北部に位置するコリャーク山脈最高峰を外国人隊として初登頂すること。また、人類未踏峰を登頂すること。熱い夢に向け、学生6人で40日間の旅に出ました。しかし、結果はと言うと、許可の取得のため現地で足止めを食らい、大雨と水害でルートが大幅に変更され、予定していたうちの半分を達成できたかというところです。

◆ツンドラは私達が想定していたよりも何倍も過酷で、膝まで浸かる沼地には度々足を取られ、顔は巨大な蚊とハエにやられて別人のようになりました。食糧が足りなくなってしまい、きのこやベリーを集め、魚を釣ってなんとか暮らす日々。さあ寝るぞ、とテントに入っても予期せぬ来客(カムチャッカ・ブラウン・ベアー)の恐怖でなかなか寝付けませんでした。朝起きるとテントの周りに大きな足跡が残っている、ということがよくあるのです。天気もすぐれず、何日も続いた雨は体温だけではなく気力まで奪っていきました。隊員の表情は険しくなるばかりで、隊長としては何も出来ない自分に腹立たしさすら感じました。

◆しかし、手ぶらで帰ってきた訳ではありません。最後の気力を振り絞って、遠征隊は人類未踏峰の登頂に挑戦しました。穴があくほど見てきた地形図に、小さく打たれた赤い点。山脈最高峰登頂の夢を叶わずとも、その場所にならまだ行ける時間があったのです。決して標高は高くないが、未だ誰も登ったことのないピーク。なんとしてでもその場所まで行こうと、密生するマツを漕ぎ、先の見えない沢を登り、ガレ場を駆けました。

◆2回の偵察と1泊2日のアタックの末、結果は、登頂成功。世界でまだ誰も来たことのない場所、誰も見たことのない場所。そこに自分がいる感動は、それまでの苦労を吹き飛ばしました。「所詮名前もない小さな山を登っただけ」と、そう言う人も居るかもしれません。しかし、私たちにとっては一生忘れられない体験だったのです。

◆かくして遠征隊は帰路に就いたのですが、その後も心が休まることはありませんでした。隊員の小野が食中毒になり、衛星電話で緊急ヘリを要請。あっという間にツンドラから連れ戻されることになりました。1週間ほど経って退院すると、今度は航空会社から賄賂の要求。弁護士まで呼ぶ事態になってしまいました。そんなわけで、私達探検部のカムチャツカ遠征は最後まで波乱万丈の遠征であったのでした。

◆さて、もっと詳しく書きたいところなのですが、どうにもそれでは原稿の文字数を超えてしまいそうです。極東ロシアでの暮らし、ツンドラでのサバイバル、未踏峰への挑戦、緊急ヘリでの救急搬送など、私達遠征隊の悲喜交々は早稲田大学で行う報告会にて発表予定です。お時間のある方は是非お越しいただければと思います。日時は10月30日(月)、午後7時より。場所は大隈講堂にて。探検部OBで作家の高野秀行さんの講演会と二本立てにて実施予定です。詳細は早稲田大学探検部ホームページ(http://wasedatanken.com/)をご確認ください。どうぞよろしくお願い致します。

◆地平線会議の皆様、私達の遠征を見守って頂き、ありがとうございました。たくさんのアドバイスのおかげで、無事日本に帰ってきております。(早稲田大学探検部3年 カムチャツカ遠征隊隊長 井上一星


中村保さん、「生涯スポーツ功労者」として表彰される

■チベット探検で知られる中村保さんが、10月6日、文部科学省で「平成29年度生涯スポーツ功労者」として表彰された。日本山岳・スポーツクライミング協会(JMSCA)の推薦によるもの。

中村さんは、1934年生まれ。今なお現役の旅人としてチベットに通い続けており、きょう11日には成田を発って四川省の成都に入り、12〜14日に四川大学フォーラムで講演・会議(成都と四姑娘山鎮で)、16〜24日に大渡河流域(濾定の北、丹巴)の未踏峰を探るという。「永井剛さんとのいつもの老年コンビです」。


先月号の発送請負人

■地平線通信461号は9月13日に印刷、封入し、翌日郵便局にお願いしました。集まってくれたのは「以下の皆さんです。この月はいろいろあって20ページと厚めになったのでとりわけ助かりました。
 森井祐介 車谷建太 兵頭渉 伊藤里香 白根全 中嶋敦子 加藤千晶 江本嘉伸 落合大祐 松澤亮


シゲさん祝卒寿!!

■9月の報告会で金井重さん卒寿(90歳)祝いの色紙を回したら、白根全さんの報告だったこともあり、古参メンバーも多く、表裏びっしりになった。また、9歳のゆずきちゃんも「シゲさんと私は桁違い」と言って長岡祥太郎君と一緒にイラストを書いてくれた。二次会の「北京」のお母さんも「生涯青春・後に続く80歳」と書いてくれた。皆の思いがエネルギーになりますようにと色紙を送ったら、久しぶりに電話があり健在のシゲ節を聞かせてくれた。そして明日「長野亮之介画伯の個展で会いましょう!」となった。

◆千駄ヶ谷駅で正午に待ち合わせたシゲさんの髪は真っ白になっていたが大きな声と大らかな笑顔は変わらずだ。前日だったがフェイスブックやメールで呼びかけたら、江本代表世話人夫妻や向後元彦夫妻や思いがけない懐かしい顔ぶれが沢山集まってくれて賑やかなギャラリーになったのはシゲさんの人徳だろう。

◆1927年9月20日福島生まれの金井重さんは、地平線報告会でなんと6回も報告者となっている。最初は1988年1月シゲさん還暦の時だった。その後1992年11月、1994年5月、2002年4月、2004年2月と続き、2007年9月報告会のタイトルは「祝傘寿(80歳)猶在旅途上〜シゲ旅の現在・過去・未来〜」だ。要するに60〜80歳の20年間で6回も報告できる行動をしてきた人ということである。これはすごい!

◆私が金井重さんと初めて会ったのは1987年初夏だった。その頃勤めていた神田練塀町にある日本観光文化研究所(以下、観文研)にふらりとやってきた59歳のシゲさん。その頃、ふらりとやってくる旅人達は多くいたが、Tシャツにザック姿のそんなに若くない重さんが所内に入ってくるのをはっきりと記憶しているのは強い印象があったからだろう。観文研で発行していた『あるくみるきく』や書庫を一生懸命見ていたシゲさんに麦茶を出して話を聴く。

◆戦時中は「お国のために」、戦後は「労働者・女性の地位向上のために」結婚なんて考えもせず、新しい時代を作る仕事に情熱を燃やしてきた重さん。労働30年を節目に52歳で退職してこれからは「自分のために」生きると決めた。重たい金井重から軽やかなシゲさんに生まれ変わったそうである。そして英語習得のためにアメリカへ行ってスタートした旅人人生。シゲさんの福島なまりの英語のコミュニケーション力の高さを私が知るのはまだだいぶ後のことである。

◆次から次に出てくる話に1日では足りずに通ってくるようになる。その話が“あむかす・旅のメモシリーズ”の最後を飾る89冊目「おばんひとり旅4年半で50ヵ国」としてその年の暮れに観文研から発行される。このシリーズは旅した人から旅する人への“手書き”のガイドである。第1冊目は宮本千晴氏の「パプア・ニューギニアの共通語入門ネオメラネシア語約1000語」。7冊目は東海大学カナダ北極圏調査隊による「カナダ北極圏での事故を防ぐために1971〜72遭難の原因を探る」等々。パソコンもスマホもSNSもない時代の、今となっては貴重な記録、お宝である。

◆その後、重さんは山と溪谷社から1991年に「シゲさんの地球ほいほい見聞録」を出版し、1996年に成星出版から「地球、たいしたもんだね──シゲさんの八十八カ国放浪記」を出版している。2冊とも表紙イラストはシゲさんが大好きな長野画伯が描いている。

◆ギャラリー帰りの電車内で地平線会議のみなさんにどうやってお礼したらいいか?と聞いてくるので卒寿を迎えての近況でも歌1首詠んでもいいから原稿を書いたら、皆嬉しいよ〜と言ったら、「原稿なんて書いたら身体に障るから(正確には私死んじゃうからと言った)、あなた代わりに書いて」と言われてしまった次第である。

◆私はシゲさんが観文研にやってきた齢になった。これから30年人生を楽しもうという元気をもらった。シゲさん、会えて嬉しかったよ〜〜ありがとうございました!!(高世泉

空志(そらし)の母になりました!!

■母になりました。これまでたくさんの経験をさせてもらったし、たくさんのものを得てきて、これ以上何かを欲しがることもないだろうと思ってきたけど、心のどこかで、母になりたかったなって思います。心の奥深くにあった思いが現実のものとなり、ありがたくてありがたくて仕方がありません。

◆出産はいのちがけ、と言いますね。すんなり行く人たちもいるし、なかなか大変な思いをする人たちもいます。わたしの場合はなかなか大変でした。母子ともに、医療によって命を救われたけれどそうでなければふたりとも命がなかった。目覚めて最初に思ったことは、「あ。わたし、生きてる」でした。子どもの写真を見て、子どもも生きてることがわかって、心底ほっとしたなぁ。

◆子どももがんばってくれました。パートナーがいちばん大変だったかな。最善を尽くしてくれた医療スタッフには感謝の言葉しかありません。出産後、子どもに会うまでにしばらくかかったけど、会いたくて会いたくて会いたくて会いたくて、初めて会った日は涙がぽろぽろこぼれました。1週間ほど前に子どもと一緒に退院してきて、自宅でのんびり育児してます。

◆息子の名前は空志(そらし)。35週1日の早産だったので、いろいろゆっくりやっていきます。外の世界にも、ゆっくり出ていこうかな。免疫力も弱いみたいなので。安定してきたら、うろうろすると思います。また、遊んでやってください。(岩野祥子

ロング・スレー村のお母さんに恋をして
   ──私のボルネオ報告

■赤道直下、日本列島の2倍はあるというその島は、じゃがいものような格好で太平洋に浮かんでいる。ボルネオ島──インドネシア、マレーシア、ブルネイから成る熱帯の島だ。そのおへそ、豊かな熱帯林が残る奥地では、ダヤクと呼ばれる先住民たちが、焼畑と狩猟、林産物採集を中心とした暮らしを大昔から営んでいる。今年の2月、現地で博士の調査をしている先輩に案内してもらい、いくつかの村を訪ね歩いたことが、今夏の再訪のきっかけとなっている。

◆その中に、ロング・スレーという村がある。実はわたし、その村でお世話になったお母さんに恋をしてしまったことを告白する。わたしが初めて村に辿り着いたとき、初対面のお母さんは私の脚を見るやいなや、重い体でどたどたと家の奥の炊事場へ走っていった。プロペラ機が飛ばないその季節は、ロング・スレー村まではんぶん森の中ともいえる、ぐしゃぐしゃの道を4日間歩かねばならなかった。なにかに刺されでもしたのか、村に着くころ私の脚は真っ赤な斑点に覆われていた。お母さんはそれを見て、とっさに落花生で薬をつくってくれたのだった。

◆落花生を砕いて水を与えただけ(?)のようなその塗り薬で、よくなる予感はなかった。しかし会ったばかりの、言葉も全く通じない小娘に、厳しさと優しさの口調で「まだ痒いのか、薬塗ったのか」としょっちゅう尋ねるお母さんが瞬間、愛おしくなった。それ以来、好きで仕方がないのだった。その脚の斑点は3日でよくなった。

◆それ以来、村を離れてから再訪するまでの半年間、わたしはお母さんとロング・スレー村のことを1日たりとも忘れることはなく、また夕暮れ時になると必ず切ない気持ちになった。向こうは今何時頃で、ごはんをつくっているなあ、とか、そろそろ仕事が終わるかなあとか、雨が降っているかもなあ、とか、東京にいながらもわたしの心はロング・スレーに置き去りだった。

◆私も探検部員のはしくれだ。そのときは探検部での活動につなげようと、下見のつもりで訪れたのだった。しかし帰国してからは、「前人未到」とか、「パイオニア」とか、これまで憧れて熱を上げていたそれらのテーマを差し置いて、好きなあの地の生活をもっと知りたいという気持ちが躍り出てきた。気まぐれだからなのか、スイッチはとっくに切り替わってしまった。直感的に、今しばらくはきっとここだ、と感じた。

◆次に訪れる時は、ちゃんと言葉を交わしたい。そのために東京では言葉の勉強はじめ、できるだけの準備をした。そして8月20日に始まる今回の再訪。いよいよ村へ訪れる前の晩は、朝方になるまで眠ることができなかった。村のお母さんは、外付けのベンチにどすんと構えて待っていて、変わらない笑顔で迎えてくれた。村の雰囲気も変わらず、のどかで美しかった。

◆日本でいた時間と並行に、ここでもやっぱり毎日時間が流れて、その上で変わらない風景を見るのが嬉しかった。東京にいるとあまりに遠く感じて、異次元や想像の世界と変わらなくなってしまっていたからだ。ただ、前に少しの間暮らしたお家は、(東京で)思っていたよりすこし狭く感じた。

◆今回の一か月半のボルネオ滞在のうち、その村にいることができたのはたったの2週間(そのうち1週間は森に入っていた)だった。農作業を手伝ったり、猟についていったり、共同奉仕に参加したり、小商店でだらだらとおしゃべりしたり、ありふれたことをしながら楽しく過ごした。別れの時間が近づくにつれて、1日に撮る写真の数も増えていった。東京に帰っても忘れないように、できるだけはっきり細かく思い出せるように、何でもない時間さえも写した。

◆この夏を終えて、やっぱりお母さんが、ロング・スレーが、ダヤクが、インドネシアが好きだということが確かになっただけだった。探検に憧れて奮闘していたはずが、自分の期待をも裏切ってどうしてしまったのだろう。カムチャツカ隊はすでに探検を遂行してしまったというのに、わたしはいつのまにか脱線してしまったかもしれない。だけどむこうでのときめき、たまらなく幸せな感じ、なにものにも代えがたい! わたしはラッキーガールだと思う。つぎの春休みも、行き先はやっぱりロング・スレーになりそうだ。(下川知恵 早大探検部員 10月4日、ついに成人となりました)


大阪の遊上陽子さんが2年ぶりに銀座で個展を開催

遊上陽子展

◆期間 10月30日(月)〜11月5日(日)
◆時間 12:00〜20:00(日曜日は11:00〜16:00)
◆場所 Oギャラリー
    中央区銀座1-4-9 第一田村ビル3F
    Tel.Fax.03-3567-7772


無私の情熱 〜銀漢・西蔵・地平線会議〜

 荒海や佐渡に横たう天の川 芭蕉

■広島駅の改札口で待っていると、江本氏は予定通りに出現された。昨年八月から約1年ぶりだが、2002年に初めてお会いした時と、印象はあまり変わらない(ような気がする)。こちらが、営業用のスマイルで握手を求めても、ニコリともせず握手されて、ん?この感じは、誰かに似ているゾ、と思わせられる。広島県山岳連盟で、年に一度開催する「山岳辺境文化セミナー」が、今年四半世紀、節目の25周年を迎えるに当たり、スタッフで協議した結果、満場一致で江本嘉伸氏に講師をお願いすることに決まったのだ。これまでも、このセミナーには錚々たる方たちをお迎えしている。

◆例えば、山野井泰史氏。どんな凄い人が来られるのだろうかと待ち構えていると、近所の気のいいお兄ちゃんが、つっかけ履いて遊びに来たようなノリで、拍子抜けしたこともあった。3度も講師を務めていただいた関野吉晴氏など、「本当にこれがあの過酷な旅をされた方なのか?」と疑惑が持たれるほど、柔和で温厚な紳士、と言うより「シャイな少年」と言った風情だったナ……。それらにも似ているが少し違う。あ、谷川俊太郎氏だ! 熊本連詩の会でお会いして、と言っても、私は講演会の一聴衆に過ぎなくて、著書にサインをもらっただけなのだが、欲も得もない、その人の人間性が、ごろんとそこに転がっているという印象……。

◆今回のセミナーでは、新編となった『西蔵漂泊』に紹介されている、明治の中期から昭和にかけて命がけでチベットを目指した10人の優れた日本人を、特に能海寛、河口慧海、寺本婉雅を中心にお話していただくことにしていたが、江本氏のサービス精神は留まるところを知らず、10人全員の、魂の最もおいしい部分を惜しげもなくお話しいただいた。今回は、いつもと違い、いわゆる「山屋」だけではなく、仏教関係者にも広く宣伝した結果、チベット仏教の研究者の姿も会場にあった。翌日感想を求めると「10人のうち3人しか知らなかったので大変勉強になった」とのこと。主催者としても大変喜んでいる。

◆講演会後の懇親会では、特別協賛のアルパインツアーサービス(株)の大島氏を始め、「能海寛研究会」会長の岡崎氏、広島で宮本常一を研究する「あるくみるきくの会」会長の藤川氏にもご参加いただき、懇親会の途中、江本氏本人から今日がご自身の喜寿の誕生日であることが告げられるや、会場は狂喜乱舞、欣喜雀躍の巷となりにけり……。

◆宴果て、ホテルに向かうタクシーの中で、泥酔絶滅寸前の私に江本氏が「新聞社に入って、社旗を立てて車で取材に向かうことに違和感を感じていたが、地平線会議を始めた頃は自転車移動に切り替えた」とおっしゃった。そのとき「無私の情熱」というコトバが突如浮かんだ。

◆冒頭の句を『奥の細道』の旅の途上で授かった時、芭蕉は、まさか自分や同行する曾良や、後世蕉門と呼ばれる人々が、日本の文学史上、輝く銀河の星となることなど夢想だにしなかったに違いない。司馬遼太郎氏は、『西蔵漂泊』を読んで「明治末年から大正期にかけて西蔵高原の神秘は、天を飾る銀漢とともに日本の知識人をとらえてふしぎな夢を見させてきました。」という手紙を江本さんに寄越されたそうだ。銀漢とは天の川のこと。江本氏の無私の情熱というブラックホールに、おびただしい星々が吸い込まれていき、銀河を成す。

◆祝!地平線通信462号! 広島県山岳連盟が、山岳辺境文化セミナーにお招きしてきたのは、奇しくも地平線会議に御縁のある方たちばかりだ。例えば角幡唯介氏、高野秀行氏、服部文祥氏、石川直樹氏などなど。彼らは今でこそいろいろな職種を名乗って糊口をしのいでおられるが、21世紀の後半には、「行動する思想家」というくくりで高く評価されるだろうという確信が私にはある。地平線会議、これすなわち「21世紀の銀漢」である。(豊田和司 広島県山岳連盟理事長)

★豊田さんは詩人。ことし「あんぱん」という処女詩集を刊行した。

江本さんの話を初めて聞いた

■広島在住の滝村と申します。10月7日、広島県山岳連盟主催の山岳辺境セミナーの25回目の講師として江本さんを広島へお招きし貴重なお話をお聞きすることができました。

◆今回のセミナーでは、江本さんが執筆された「新編 西蔵漂泊」の一部を取り上げて、能海寛、河口慧海、多田等観、青木文教、等のことを中心にお話しされ、当時の日本人が様々な立場でチベットへ向かいそこでどのように生きたか、興味深くお話を聞くことができました。今では見ることができないチベットの人と風景の写真も披露していただきあっという間の90分でした。

◆セミナー後の打ち上げの席では若者たちへの限りない愛情、期待などをエネルギッシュに話され、地平線通信を461回欠かさず発行し続けている覚悟、意気込みを感じ、初めてお会いしたのですが私の想像通りの方でした。

◆いつ地平線会議のことを知ったかあらためて振り返ると、「地平線」という文字に引き寄せられるように本屋で「地平線の旅人たち」を見つけた20年位前からずっと気になる存在だったんだなあと思い出しました。通信もその数年あとから送っていただき毎回楽しみに読ませて頂いています。遠方であるため東京での報告会には参加したことがありませんが、通信から発せられる皆さんの情熱は文章を通じて確かに受け取っています。

◆江本さんが話されたことを自分なりに受け止め、周囲の若者へ行動を促す、そのためには自分も行動する、その姿勢はあらゆることに通じると感じました。刺激的な1日でした、ありがとうございました。いつになるか分かりませんが報告会へ参加することができたときはよろしくお願いします。(滝村英之 50歳、広島市)


地平線の森

『メコンを下る』を読んで

北村昌之著 めこん刊 5500円+税

■東京農大探検部監督の北村昌之君が書いた畢生の大作『メコンを下る』(めこん刊)を読んだ。1994年の源流探検に始まり、2005年の河口到達に至るまで、全5回、11年をかけて、4909kmのメコン全流下降に挑んだ東京農大探検部のOBと現役部員らによる遠征プロジェクトの記録だ。

◆地球上に残された未踏の大河の全流初降下を狙って繰り返されたこの遠征に関しては、河口到達後の2005年10月の第315回地平線報告会で北村君自身が報告しているが、不覚にもそれを聞きそびれた身としては、それから12年を経て、ようやく全貌を知る機会となった。そして改めて感銘を受け、著者らの活動そのものへの敬意と、このような著作が刊行されたことへの喜びを抱くに至った。

◆全678ページ、原稿枚数は1200枚を超え、各章ごとに迫力あるカラー写真が収められたこの本には、未知だった地理的水源の発見から、源流の山の登頂、上中流部の激流突破、下流部の見聞豊かな川旅まで、劇的に様相を変えていく大河への取り組みが、豊富な資料、情報を交えて詳細に記述され、メコン川の全体像と、現代における河川の探検とはどのようなものであるかがよくわかる本になっている。

◆なかでも圧巻なのは、前半の大部分を占める激流部突破の記録で、中国科学院と提携しながらの遠征を繰り返し、青海省、チベット自治区、雲南省と下降の足跡を伸ばしていくなか、次々と現れる難所を切り抜けていく様子は、息をもつかせずに読み進ませる緊迫感と迫力に満ちている。

◆周囲の地表から水面まで1000mも2000mも切れ落ちている深い峡谷。ひとたび入り込めば脱出不可能な谷底で、航行不能な激流と遭遇したとき、隊は船(カヌーやゴムボート)ごとの大高巻きを余儀なくされる。命をかけての突入か、困難と労苦を伴う大がかりな高巻きか。難易度と隊員の実力を見極めながらの決断を絶えず迫られ、際限のない危険と疲労に苛まれつつ、それでも飽かずに下流を目指す姿勢からは、探検の目的達成に賭けた著者らの情熱と気迫が、読む側にもひしひしと伝わってくる。

◆おそらくは引き締まった文体の力もあるのだろう。その文体が、後半のラオス、カンボジア、ベトナムの流れを下る章に入ると一転、緊張が解けて大河の波にたゆたう船や筏さながらに、詩情豊かなものになっていくのも本書の魅力だ。著者の人柄もあるのだろうが、随所に漏れ出してくるユーモラスな表現からは、『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んでいるような楽しささえも感じられる。言い換えれば、文字通りの大河小説を読み継いでいくような奥深い楽しさも、この本にはあるのだ。

◆大学院修了後もまとまった定職には就かず、母校探検部の無給監督を務めつつこの11年の探検に賭けてきた著者は、本書の執筆にさらに11年をかけたという。その年月による思考と表現の熟成が、700ページ近い大冊の全編に反映していると言っても過言ではない。大冊でありながら、読み飛ばせる箇所や退屈するところは1ページもなく、私にとっては久々に緊張感と興奮と読む喜びが持続する読書体験となった。

◆そして、読みながらの実感や読後感で私が個人的に抱いたのは、「これは戦乱のビルマ北部に3年半潜入した明大探検部OB吉田敏浩の『森の回廊』(大宅壮一ノンフィクション賞)に近い」という感覚だった。著者の行動力や観察眼、研究成果の知識の活用、正確さをめざす表現力などが、ともに出色であり、「大学探検部」というものが生み出した最良の人物像、あらまほしき探検家像といったものがそこに見られたからだ。『森の回廊』が行動完結から7年後の出版、『メコンを下る』が12年後の出版となり、その年月が熱となって著作に籠もっている点でも共通項がある。

◆「探検とは知的情熱の肉体的表現である」とはチェリー・ガラードの至言だが、情熱にも表現にも、一度きりの火花ではない持続の志が必要だ。そして持続する志には、成長や成熟が必ず伴う。大河の地理的水源に迫る科学の目と、激流に挑み、乗り越えていく冒険心、川面から歴史や人々の暮らしを思う旅人の旅情を併せ持つ北村君は、実直で磊落な人柄のもと、遠征ごとにそれらを育み、情熱の傘下に収めて、緻密な行動に移してきたのだろう。

◆その肉体的表現の果てにあるべきなのは、探検のもうひとつの要件、「報告」なのだが、それがこのように丁寧かつ実り豊かな形で成されたことに、大きな安堵感と喜びを禁じ得なかった。探検家の鑑のような人物が、鑑のような書を著した。それを見届けたという喜びは、私だけでなく、読み終えたとき多くの読者が抱くことだろう。高価(5500円+税)だが、未読の人には声を大にしてお勧めしたい一冊である。(岡村隆


ミニ地平線の森

服部文祥さん初の小説!

『息子と狩猟に』

新潮社刊 1600円+税

■今や「サバイバル登山」だけでなく,表現する狩猟家としても注目されている服部文祥さんの小説『息子と狩猟に』が話題となっている。題名だけ見れば、いつもの服部節か、と錯覚するが、すぐに予想は裏切られる。実は、「ババアのクソ預金を世の中に還元する」が口癖の詐欺グループと小学6年の長男と鹿を撃ちに行く服部自身と思われる男のモノローグが交互に進行する奇妙な進行なのだ。

◆一体このとんでもない二つの話がどこで接点を見つけるのか、読み手はドキドキしながらページをめくることになるのだが、意外にテンポは早い。買って読むべし、と思うのでストーリーは書かないが、驚いたことの一つは、およそ作者の人生とは対局にあると思う詐欺グループの手口が実に綿密に書かれていること。もの書きとしてさすが、と感嘆した。

◆そして、随所に文祥が日頃感じ、考えているらしい本音が吐露される。たとえば「大きい動物をたくさん殺すと、命に関する感じ方が変わってしまう。狩猟するとケモノと人間が同じに思えてくる。でもケモノは殺していいのに人間は殺してはいけない。なぜかずっと考えてきた。いまは人間とケモノの命に違いなんかないと思っている」とのせりふ。微妙な内容だが、狩猟を自分のものとした表現者だけが口にできるモノローグであろう。注目の本である。(江本嘉伸


ムギちゃんへの手紙

ムギちゃん、天国でお元気ですか? 思い立って手紙を書きます。

 あなたと出会ったのは、2006年7月1日。あなたが江本家に加わってすぐの頃でした。白くて、丸くて、ふわふわの、毛糸玉みたいな生き物がよちよち歩いている姿に、居合わせた女子たちはメロメロでした。

 その後、時折訪ねるときには、マンションの階段を昇る靴音を察知して、玄関ドアを開けるやいなや、ピョンピョン飛び上がって“うれしいダンス”(←勝手に命名)で大歓迎してくれました。一旦買い出しに出て戻ってきても、また大歓迎。トイレに入って出てくると、扉の前で待っていてもくれました。いつも「うれしいうれしい! お客さんが来た!」「お客さんが帰ってきた!」「お客さんがまだいる!」と忙しくおもてなしをしてくれたあとは、誰かの足元に少し体をくっつけてくつろいでいましたね。

 山のお家に遊びに行ったときのあなたは、その小さいながらもマッチョな体で、林の中をボールのように弾んだり駆け回ったりといっそううれしそうでした。そして、散歩する人たちの間を行ったり来たりして、やはり忙しそうでもありました。客間に布団が敷かれると大はしゃぎしてから、最後には並べた布団の隙間に体を伸ばすようにしてはまり込んで、そのまま眠ってしまうこともありましたね。見守ってくれてたのかな。夜がふけると2階の“お父さん”の部屋に戻り、朝になるとやってきて、また大はしゃぎで起こしてくれました。

 サラダを作るためのレタスの芯をいつの間にか食べていたり、コップに入ったビールをじっと眺めたり、周りの人たちが食べていると、低く短く「ワンッ」と訴えたりなど、いろんな場面でほのぼのさせてもくれました。

 夏に「ムギに会いに来てやって〜」と言われていたのに、会いに行けず、悔いが残ります。今日は遅ればせながら、上京の機会に合わせて、おほねになったあなたに会いに来ました。玄関ドアを開けても、トイレから出ても、あなたの姿がないことに、わかってはいてもなんだか不思議な気持ちがしました。でも、生きるスピードの速さから、きっといつしか周りの誰よりも大人になっていた麦丸は、今も“お父さん”たちをどこかから見守っているような気もしました。

 眠るように最期を迎えたと聞きました。日々を楽しく生ききったムギちゃん。いつも大歓迎してくれてありがとうね。思い出すたび、心が温もります。2017年10月9日 帰りの新幹線にて。大阪のねこ(「私信」ですが、ムギちゃんを知るかたがたとも共有したくて、こちらに書かせてもらいました。)


今月の窓

歴史をやれ、旅をしろ──

近著『カネと自由と、文明末ニューヨーク』(森田靖郎)のご案内

■前略。地平線会議・江本嘉伸さま ご無沙汰しております。江本さんのパーティに出席できず、申し訳なく思っております。生来、私は人付き合いが悪く、いつも失礼ばかりで、申し訳ございません。新刊の『カネと自由と、文明末ニューヨーク』の案内のはがきを同封します。

 今年も“アメリカ”で終わりそうです。誰もが予想しなかったトランプが大統領に選ばれ、シリコンバレーのIT賢者たちは「ローリング・ストーン!」と、立ち尽くしました。ローリング・ストーン──。「ころがり転落する」あるいは「転がる石には苔が生えぬ。自由に、解放される」、両極端の解釈を持つ言葉です。グローバル化で時代の先頭を走り続けるIT賢者たちにも、“トランプ・ショック”の先行きを予測できません。更なるイノベーションがあるのか、21世紀の“見えざる手”があるのか──。

 無尽の縁・ネットワークのシリコンバレーからカネと自由が正義のニューヨークへ……、未来を探すつもりの旅がいつしか過去へと、まるで前作『昭和セピアモダン』をひっくり返した旅でした。アメリカ大陸は20世紀と21世紀が同居している、過去と未来が逆さまになっているのではという錯覚に襲われました。石油禁輸など経済制裁でやり合う、キム王朝・北朝鮮とトランプ・アメリカは、太平洋戦争前夜のアメリカと日本です。

 「石油が欲しいからと言って、戦争するバカがいるか」と、東條英機首相(当時)に詰め寄り、予備軍へと降格された陸軍中将は、戦後、マッカーサーに「敗戦は神意なり、最終戦争は日本のうぬぼれ、思い上がりで間違いだった」と手紙を書いています。そして、「負けてよかった。国防費を国民の生活費に向けよ」と、戦争放棄論を貫きました。歴史をやれば、この先が読めてきます。

 文明末……、何が起きても不思議ではない、異常が日常の日々です。今の世の中、明日(未来)のことを考えると“不安”になります。過去を振り返ると“後悔”にさいなまれます。いかにして「今」を生きるか、自分史を振り返り、自らに問いかけております。そこで、私は「終活」と取り組むことにしました。終活は、人生のエピローグで、とても大事な仕事だと思い、残り少なくなっていく持ち時間を大切に過ごそうと思っています。

 終活にあたって、禅僧から、「而今(にこん)」という言葉を教わりました。「この瞬間は、二度と帰ってこない」。「今」を大事に生きよということです。過去に生きるのではなく、「今」を生きると教えられ、「今」というこの瞬間に生きることに集中しています。ちなみに、カメラのNikonは「而今」から、Canonは「観音様」という話ですが、真偽は確かめていません。

 積極的に未来や過去と向き合うことで、“今を生きている”ことを確かめ、過去から未来へと、無尽の縁(いい人、いい事との出会い)につながると思っています。終活とは、過去と未来を結ぶ、人生のめぐり逢いを確かめるものなのか、と実感しています。

 今日が、最後(文明末)なら、何を残したいか──。終活の命題です。

 『カネと自由と、文明末ニューヨーク』を書き終えてわかったことですが、この国のあり方です。日米安保、憲法改正、原発再稼働そして地球温暖化……、「お前ならどうする?」と突き付けられ、「自分たちが生きている時代の現実」と向き合い、「21世紀のあり方」を考えさせられました。資本主義は生き残りをかけたグローバル化により、巨大な格差を生み出しました。民主主義もポピュリズム(大衆迎合主義)の台頭で、危(あや)うくなっています。20世紀最大の産物、資本主義、民主主義が完熟していると決めてかかるのは早計でした。

 私の次のテーマは「国家犯」です。旅先のアメリカで、さまざまな生きざまを持った人たちに出会いました。なかに、文革時代に迫害を受け、逃れてきた中国人たちもいました。文革とは何だったのか……「どうしようもない吠える犬たち」から半世紀、今も引きずる負の連鎖を断ち切ることが出来るのか、文革を見直そうと思っています。

 国家の犯罪……、大国に核武装して立ち向かおうと、国民の生活を顧みなかった文革時代は、いまの北朝鮮そのものです。文革を辿れば、北朝鮮の今の姿が見えてきます。

 日本も「政治を私物化する」ポピュリズムへの道を歩もうとしていますが、これも国家の犯罪ではないかと、思っております。

 アメリカ幻想の旅では、原(げん)アメリカに出会いました。日本に戻ると、いまの日本人、どこか違ってきていませんか。戦後ニッポン人は「耐えること、言い訳をしないこと」で、奇跡の復活を遂げたのです。いつ、どこで、どのように違ったのか……、アメリカニズムという文明病でしょうか。

 20世紀を生きてきた私たちが21世紀をどのように生きるのか……。近代科学で便利で豊かな社会を実現してきたアメリカ文明がどこへ行こうとしているのか、“文明末、そして次なる文明”を読み解くには“今”という結果から歴史を遡り、原因を探ろうと、先人の言葉「一人前になるには、“歴史をやれ、旅をしろ”」に従って、時間(歴史)と空間(旅)を超える時空紀行に、終わりはありません。

 最後になりましたが、江本さんのご健勝と、地平線のご活躍を陰ながら見守っております。恵存(森田靖郎


あとがき

■先月号のフロントで「麦丸逝く」をしっかり報告したので、多くの方が心配してくれた。花を持って来てくれた人もいるし、以前撮った写真で麦丸のアルバムを綺麗につくって送ってくれた人もいる。手紙を書いてくれた人もメールをくれた人も。が、一番多かったのは、おそらく声も何もかけられない人だろう、と推測する。皆さん、お気持ちをありがとう。麦と私は幸せな相棒でした。

◆幸せは俺にも、と、母親に留守の間の世話を頼まれた雄猫の源次郎がきのう精悍な動きをした。なんと雀をくわえている。どこで捕まえたのか、しばらくはバサバサしていたが、そのうち静かになった。どこかに隠したのか、雀は見つからない。通信の仕事で時間がないのでそのままにしておくと、朝になってしっかり食べられた状態で雀を発見。猛獣がいるのだ、我が家には。

◆先月の白根君の報告会、レポートや感想原稿にあるように、面白かった。昔話は確かに美しくない、と言うが,誰かが昔話をしないと、進歩がなくなるように思う。効率や対価を計算していたら成り立たない情熱。白根君が語った「手作りの記録」はすでに国立博物館入りぐらいの価値があるのでは、とノーテンキに考えた。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

祈りとワクチン
〜生老病死を巡る旅〜

  • 10月27日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「現地の小・中学生のHBV(B型肝炎ウイルス)感染率が25%なんです。日本は1%なのに」と言うのは医師で登山家の神尾重則さん(64)。この夏、ネパール北西部ドルポ地域のティンギュ村で医療支援活動を行いました。道路の終点からさらに馬と徒歩で一週間かかる同村はチベット文化圏に含まれます。

人々は、祈りの医学とも言うべき伝統的な医療の考え方を持っています。しかし外科や現代的な薬学情報はありません。「HBVが蔓延してますが、乳児期にワクチンを使えば母子感染を防げる。将来的には教育支援で現地にドクターを養成したい」と神尾さん。今回で4回目の訪問になり、実態を把握するための疫学踏査も行いました。

標高4200mのティンギュ村は河口慧海の「チベット旅行記」にも登場する村で、神尾さんにとってはヒマラヤへの憧れと同時に記憶した地名。いわばヒマラヤのシンボルのような土地でもあります。

今月は神尾さんに、ドルポの「人と自然」の中から生老病死を象徴するシーンを切り取り紹介して頂き、医学と科学と宗教を巡る知の旅へ案内して頂きます!


地平線通信 462号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2017年10月11日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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