2017年9月の地平線通信

9月の地平線通信・461号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

9月13日。東京の気温31度。涼しい日が続いていて、真夏日に達したのは今月初めてだそうである。9月は敬老の日(18日)を中心に「老い」が語られる月だ。3日には新宿区の民生委員が訪ねて来て、なんと「喜寿 ことぶき祝金」をいただいた。7000円なり。わ、いいのか、そんな……。ともあれ、できれば「戦う老い」でありたい。賀曽利隆は70才になって新たな旅に出たし、ことしはついに「人生100才時代」が“宣言”されたのだ。

◆麦丸の大事さが骨の髄まで身にしみる夏から秋にかけての時間だった。元気いっぱいのマルチーズは、2年ほど前に全治はない心臓病と診断され、数種類もの薬をのませる日々が続いていた。本人は時に咳き込むことはあったが、私が一緒ならどこにでもついて行き、食欲も十分あるご機嫌な日々がずっと続いていた。

◆夏の初め、心臓の病気に加えて口腔内にできたメラノーマ(悪性黒色腫)という厄介な病気が進行し始めてからは、麦丸の生命力だけが頼りの日々となった。心臓に負担をかけるので麻酔薬を使っての手術はできない。口の中の腫瘍は次第に大きくなり、舌が右に垂れたまましまえない状態になった。私は麦丸が噛むことができ嚥下しやすそうなありとあらゆる食べ物をやわらかくして与えた。焼き芋が意外に食べやすそうだったので今もたくさん冷凍してある。

◆8月、久々に甲斐の山の仕事場に連れて行った時も元気であたりを私と探検ごっこして遊んだ。山で飛び回る生き生きとした姿をしっかり脳裏に刻みこんだ。東京に帰ってからは次第に動きが緩慢になってゆき、この病気特有の口臭が強くなった。目薬をさしながら(あとがき参照)時に麦丸を抱きながら散歩をする日が続いた。

◆9月に入って、散歩の範囲が一気に狭くなった。食欲も目に見えて落ちた。何よりも呼吸が荒い。やがて、抱いて連れて行ってもトイレができなくなった。腕に麦丸の温かさを感じながら別れが迫っている、と感じた。そして、ついに食べられない日がきた。10日の日曜日。朝早く抱いてトイレのため土と草のある場所にそっと置いてやったが、立つこともできなかった。

◆もう3日間、何も食べておらず、呼吸だけは荒々しい。楽にさせてやる時が来たのだ、と思った。世話になっている獣医に電話し、いよいよと思います、よろしくお願いします、と伝えた。苦しみは最小限にしてやりたい、とかねてからお願いしてあったのだ。

◆3階のカミさんの部屋にしばし預け、猫の源次郎ともお別れの時間を過ごさせた後、2階の自分のエリアにカミさんに抱かれて戻ってきた。玄関先のお気にいりのスペースにそっと寝かせる。異変に気づくまで10分も経たなかった。荒々しく波打つことが多いおなかのあたりがやけに静かだ。口もとにふれると、息を感じない。ええっ?!まさか!……。予想しない展開だった。麦丸は自分で命の時間を判断し、獣医の措置を待たずひとり旅立っていったのである。

◆結局、麦丸は最後の瞬間まで私のそばにいて元気な家族であり続けた。そのことは想像を絶する。麦丸、見事だった。彼を失ったことの衝撃は計り知れない。が、彼が示してくれた、凛とした命のしまい方を目の当たりにして、毅然とせねば、と思った。まず、この通信をしっかり仕上げる。そんなわけでいま書いているこの文章で初めて私の大事な家族の死を皆さんに告知している。

◆麦丸をよく知り、彼の病状を心配してくれているカナダの本多有香さんからそんな時メールが入った。麦の近況を伝えたことへの返事である。「江本さま 犬から見たら人間は、仙人とか魔女とかモンスターくらいに長生きなんでしょうね。辛いけれど、もし苦しみが続いて鳴き続けるようになったなら早めに楽にしてあげないとです。犬は自分で分かっているので、『連れて行って』と教えてくれます……」まさに有香さんの言う通りだ。ただ、麦自身が先に判断してしまった。

◆9月11日、麦丸は迎えに来た車に私たちに抱かれて乗り、犬猫専門の火葬場で荼毘にふされた。大好きだったモンゴルの骨つき羊肉にかぶりつく、精悍な表情の写真を“遺影”とした。メラノーマで浸食され、顎の一部は欠けていたが、頭骨から尻尾の先まで、小型犬にしては見事な、美しい骨格だった。葬儀費用、42500円。

◆いま、骨壷に納められて、麦丸は私のわきにいる。11才4か月。ほんとうに信頼しあい、精一杯いいものをもらった。月並みだが、ありがとう、と言うしかない。(江本嘉伸


先月の報告会から

スワ湖発セカイ行き

〜8年半157ヶ国のチャリンコ旅〜

小口良平

2017年8月25日 新宿区スポーツセンター

■地平線会議の報告会ってのは、世界でかっこいいことしてきた人が、かざりっけなしでその挑戦を聞かせてくれる舞台だ。そこには営業トーク的な小ぎれいにまとまった話なんて必要ない。なぜならそれは真実の報告だからだ。それをふんふんと聞いた人が、いい話だったねー、で終わるのも勝手だけど、よし!オレもいっちょやったるぜー!と世界に飛び出していく原動力につながれば、報告会名利に尽きるってものだ。

◆今回の小口良平もまたそんな旅人のひとり。彼が初めて地平線の報告会を聞きに来たのは11年前。埜口保男氏(第169回報告者)の著書「自転車漂流講座」で地平線会議の存在を知り、報告会でいろんな行動者の話を聞いた。そんときゃ、彼はまあ無名だ。だれも小口良平なんて知りはしないけれど、ちゃんと地平線に仲間を作っていった。そして9年前、彼は世界を夢見て自転車で出発し、いくつかの記録を打ち立てて去年の秋に世界一周をなしとげた。今度は報告者として、地平線に帰ってきた。

◆彼の報告内容を書く前に、ちょいと安東浩正から解説しよう。自転車世界一周式サイクリストってのは、まあたくさんいる。日本人だけでも今現在走行中でざっと30人ばかりだろうか。小口良平はもっといるんじゃないかと言っている。世界一周自体がパイオニアである時代は昔のことで、今はそれぞれが他の人とちょっと違う冒険要素をいれながらチャレンジしている。でもまあ、記録としてわかりやすいのが、昔から訪問国数と走行距離なのである。

◆走行年数があげられることもある。小口良平はその国数と距離の記録で日本人最多を更新して帰ってきた。訪問国155ケ国、走行距離15万5000キロだ。池本元光氏が47カ国で日本人初世界一周をなしとげたのが70年代前半。井上洋平氏(第182回報告者)が13万キロ越えでしばらく破られることのない記録を打ち立て、国数では117カ国の待井剛氏がしばらく記録保持、中西大輔氏がそのどちらも越えて2009年植村直己冒険賞を受賞した。それを小口良平がどちらの記録も更新して帰ってきたわけだ。記録更新はパイオニアワークを意味する。

◆距離や国数が重要かって? いや、それは最重要なことじゃないってことは、言われなくてもサイクリストはみんなわかっているさ。100のサイクリストがいれば100の物語がある。その内容に優劣をつけようってんじゃない。ただ、登山家が8000m峰を幾つ登ったか、ってのと同じことで、記録としての目安にはなる。それでも距離や国数なんて意味がないと思うなら、まず自分が157カ国訪問できるか考えてみてくれ。15万キロなんてとんでもない数字だ。小口良平は、よくやった。地平線で話す資格はあるじゃないか。

◆ご託はこのくらいにして、報告レポートを書こう。話はテーマ別にショートストーリー立てである。まずは旅へのきっかけ。建設業界の営業マンで1000万円をためて、大学の奨学金を返済し、残り650万円で旅を始めるまでの話だ。高校ではサッカーをしていた。卒業時に進路を考えるも、やりたいことがない。そこで時間をかせぎに東京の大学へ。その大学も就職を考えなければならなくなると、まだ何をすべきかわからない。

◆とりあえず奨学金を返すために働かないとな。40年間続けられる仕事って、なんだろう? そんな時、8歳の出来事を思い出す。地元の諏訪湖を兄と自転車で回った思い出だ。ゆっくりペースでいろいろ発見する大冒険だった。よし! じゃあ温泉のある箱根まで走ってみよう。ママチャリで夜中に板橋を出発するも、朝になってもまだ湘南。なれない長距離走行にすでに体も心もボロボロで限界。この先の人生も壁があると逃げる自分が見えてきて、コンビニの駐車場でひとり泣いていた。

◆ふと、行きすがりのおばあちゃんがお茶を差し出してくれた。「汗と涙は他の人のために流すものであって、自分のための涙はこれで最後にしなさい」と。その励ましに、人生に影響を与えるほどの言葉があることを知る。そして箱根まで走りきり人生で初めての達成感を得る。自転車の旅だったからこその出会い。人に会うことが自転車旅の原点となる。

◆就職も決まった。まだ卒業まで時間がある。自分のまわりには、海外旅行の話できらきらしてる人がいた。そこで地図を広げて、なんとなくチベットに行くことに。北京から列車でチベットへ向かうと、尺取虫みたいに五体投地で2年かけてラサを目指すチベット人に出会った。日本のお遍路とも違うようだ。世界には世界のルールがある。世界一周してから自分だけのルールを見つけよう。湘南のおばあちゃんみたいな人にもあえるだろう。自転車と世界一周がここでつながった。

◆とりあえずお金を貯めよう。就職した会社でのあだ名はおにぎり君。朝はご飯にタマゴと納豆、昼は特大の爆弾おにぎりを持参、夕食なしの節約生活。続けること5年で1000万円をためる。会社も3年もいると面白くなってきて、やめないほうが楽かもと思えた。でもそれじゃあなんで節約してるの? 夢のためじゃないか! 馬鹿な事いってるんじゃないと言ってた親も、1000万円貯めた現実に理解を得た。さらにモチベーションも埜口さんの本とかでキープ。10年前のできごとだ。地平線に来てたのもこの時期だね。

◆トークの合間に時折短い動画が入る。サイクリスト三大聖地のひとつ南米チリのオーストラル街道だ。自分の冒険を世間に伝える手段の撮影機器も、最初はコンパクトカメラだったけど、それが一眼レフとなってゆく。動画は出会った人がとってくれたものが多い。冒険のスタイルも、今では世界中あちこち行き尽され、表現が重要になってきている。インスタグラムで稼いでいる人もたくさんいる。

◆走行距離も慣れると1日150km走れるように。一番たくさん走ったのは4日間で1152km。自転車そのものの重量は20kgだが、キャンプ用具で+60キロ。さらに水が多いと90キロ。荷物は最初のころは、とりあえず全部もっていったので多かったけど、旅慣れてくると今度は趣味の荷物が増えてきた。例えばコーヒー発祥の地エチオピアではコーヒーミルが増え、高地のアンデスではパスタをしっかり煮るために3kgのダッチオーブンとか、結局荷物はちっとも減らない。

◆宿泊は7割がキャンプで、民家に泊めてもらえることが2割、1割は安宿。テントを張るときは最初は人に見つからないよう選んでいたけど、オーストラリアで子供にテントをひっくり返され、まあ子供だったからよかったけど強盗だったら? と思うと怖くなり、今度はできるだけ人がいるところに声をかけてテントを張らしてもらった。すると泊まらせてくれたり、食べ物をくれたり、次に泊まるところを紹介してくれたりで出会いが増えた。

◆世界一周の前に2007年に日本一周から始める。大学で東京にいたとき、ビルの狭間では方向もわからないし山もみえない。故郷の諏訪にもどってきて、それまで当たり前だった景色のすばらしさに気づいた。なのでまずは日本を走ることに。日本と台湾で24627km走り、2009年からいよいよ世界一周へ。まずはオーストラリア。町から町まで100km以上離れているのはあたりまえ、エアーズロックを目指す時は500km町がなく荷物も70キロ。夜中にテントを食い破って入ってくるアリに体中咬まれるやばい出会いもあった。

◆次のニュージーランドではギネス記録の世界一急な坂へのチャレンジを動画で。Youtubeで大ヒットしたらしい。はあはあ息を荒げながらもなんとか最後まで登りきる!と思いきや、そのはあはあは走って撮影してくれた日本人のハアハアの音なんだって。3か国目のインドネシアでは交通事故。前歯が二本折れて、とりあえず差し歯、この差し歯も世界一周中に入れ替わり、インドネシア産、エチオピア産、ジャマイカで3本目、ペルーで4本目。

◆前歯がないと食事にも苦労がある。ペルーでは名物リャマ肉を食べたいけど、硬くて食べられない。おばちゃんに噛んでもらってやわらかくしてもらってから食べた。おばちゃんも照れてた。前歯も折ってみるもんだな。

◆病気の話。タイでは腸チフス、インドでデング熱、アフリカで熱帯マラリア、その他、南京虫にインフルエンザ。日本ではたいしたことない病気でも、インフラの整わない国々では薬がなくて死にかけてあぶなかったり。でもいつも誰かが助けてくれた。出会った人にはTシャツにサの子のこととか思い出したりして、励みになる。

◆タイの看護婦さんはTシャツにドラえもんの絵を描いてくれた。日本の援助で看護婦になったんだとか。他にも橋とか道とか学校とかで、世界中で日本の援助の痕跡を見ることがあった。お金をためれば世界一周できるなんて、日本人に生まれただけで宝くじにあたったようなものなのかもね。最初は日本人と知られたら誘拐されたり襲われるんじゃないかと思ってたけど、日本の評判がよいので自転車に日本の国旗をつけてみた。すると好評で、日本人は礼儀正しいとか評価してくれる。これまで世界をいろいろまわって好きな国を振り返ると、島が多いことに気づく。固有の文化があるのだ。

◆カンボジアでは腸チフスでふらふらのまま走った。学校でテントを張ると人々に追い払われそうに。そんなとき、見た目がマフィアみたいなおじさんが家に招待してくれた。でも彼は警察官でなんと自分と同い年の26歳(笑)。渡し船代とか飯も出してくれた。8人家族の家に泊めてくれただけでなく、出発時にお金を手渡される! それは現地人にとって半月分の給料という大金。湘南のおばあちゃんを思い出す。そんな優しさを世界中でうけて、いつかお世話になった人たちに日本を見てもらいたい、というのが次の夢になる。

◆カンボジアで出された肉の写真。それは犬の肉だった。オーストラリアで地元の長野の郷土料理の馬肉の話をしたら、みんな青ざめて家族を食べるのか?って言われた。肉も世界もそれぞれだ。学生時にバックパッカーで訪れたチベットを今度は自転車で再訪。エベレストBCへ向かう途中で公安につかまって留置所へ。強制国外追放となりネパール国境まで車で送られてしまう。でも国境イミグレで物陰に隠れて彼らが去るのを待ち、自転車で引き返してエベレストへ。

◆ここでは28日間風呂に入ってない。でもチベット人は一生に3回しか風呂に入らないんだそうだ。インドでは旅人はだいたいみんなお腹を壊す。左手はトイレでお尻をあらう手で食事は右手だけど、料理を作るときは両手を使っている。これが原因では? 日本のウォッシュレットなら手を使わなくていいんじゃない? 

◆そのインドで二回目の交通事故。自転車のアルミフレームにヒビが入り、新しい自転車調達に3か月だけ一時帰国した。ちょうど東北の震災がおこり、世界中からいろんな物資が送られてきた。世界では原発事故で日本は終わったと思われてる。そうじゃないんだと、震災の出来事を世界の人たちに伝えるメッセンジャーになろうと決め、旅を再開する。

◆タジキスタンはサイクリスト三大聖地のひとつだ。ワハン街道、地雷の看板、丸二日人に会わず、900kmのダートに5000mの峠。車がやってくるのが音や目でなく、ガソリンのにおいで伝わってきた。それくらい空気も澄んでいる。夜テントを開けると、流星が降ってきてびっくりして閉めてしまった。圧倒的な大自然の前では感動よりも恐怖を抱き、もしかして自分は死んじゃったんじゃないかと思ったくらい。覚悟がいるけどそれに応えてくれること間違いなしなので、ぜひ走ってみて!

◆イランに行くと言うと、みんなやめろっていう。でも当地を走ってきたサイクリストはぜったい行けと言う。で行ってみると、おもてなし豊かな国だった。ヒゲのあるのがイケメンで、眉がつながっているのが美人の証。ホメイニ以降は女性は下着でおしゃれする。整形も多いらしいけど、鼻を低くして胸を小さくする。なんか日本の逆じゃない?

◆パフェの中に生卵を入れたデザートがある。はっきり言っておいしくないけど、見た目のよさが重要らしい。500万円のペルシャ絨毯の上で食事しながら、この国で感じたことを君の言葉で伝えてほしい、と。イランはアメリカと仲が悪いから、メディアで良いことは言われてない。でも自分の目で見て判断することの重要さをイランで知った。

◆冬のハンガリー。零下20度でのパンク修理では涙も凍った。極寒の夜がくるのが怖い。死ぬ前に子孫を残そうとするからだろうか、夢精してしまう。モルドバへと40日間、零下20度を走り切った。次は南極だ!

◆現地では三つの挨拶を覚えると地元民と仲良くなれる。こんにちは、ありがとう、おいしいだ。エチオピアでどぶろくとかおいしくないけどおいしいっていうとどんどんついでくれる。そして笑顔だ。これで世界はなんとかなる。国境には道がないことが多々ある。隣の国に侵略されないためだ。GPSは持ってるけど、現地の情報が最優先だ。

◆まだまだ話は尽きないが、省略して最後に到着したニューヨークの動画を流そう。タイムズスクエアが15万5000キロの終着点。思い描いた通りのゴールとなった。旅の初期に香港であった女の子と6年ぶりにニューヨークで再開した。ゴールのシーンにお祝いに来てくれたのだ。でも子供といっしょだったのが悲しい……。なんと旦那は日本人だそうで、しかも自分と同い年らしい。6年前に彼女と分かれる時に後ろ髪をひかれてたけど、もしかして俺が旦那になれてたかもなあ。でもやっぱりあの時、旅を続けたからこそいろいろな人に出会えたじゃないか……。

◆最後に長野の自宅に帰りついたときのテレビ取材の映像を。納豆卵かけごはんに涙する。振り返ると、生きていることを実感できる旅だった。屋根がある、お湯が出るといったあたりまえのシンプルな幸せに気づかされた。百聞は一見にしかず。続けることの大切さ。人と比べるから自信が無くなるんだ。アフリカの人々を知ると比べることに意味なんてないと思う。いつか月を自転車で走りたい。南極も。口に出していればいつかかなうかもしれない。

◆それぞれの国の印象よりも、出会った人々の印象のほうが大きい。帰国したら子供たちに夢の話を伝えたいな。本も情報を発信していたから出版できた。もっといろんな人とつながりたいから、諏訪湖を自転車で走る体験型イベントも企画している。4年後には地元でカフェのあるゲストハウスをつくって世界中の人との交流につなげたい。今日来てくれた人との出会いも財産です!

◆さて時間目いっぱいでも話しきれないことはたくさんだろうけど、あとは著書の「スマイル!」(笑顔と出会った自転車地球一周157カ国155502km、河出書房新社)に任せよう。質問コーナーで、保険は? 全部で120万円くらい払ったけど、250万円分を使った。イスラムの国にそれだけ行くとアメリカ入国は厳しいのでは? 各国で紹介された新聞記事があると信用してもらえる。

◆会場には前々記録保持者の井上洋平氏とか、出発前に地平線で出会ったサイクリストや野宿仲間たちも集まった。仕事で来られない大先輩の埜口さんからは、世界一周を終えても自転車で走り続けるようにとメッセージが送られた。地平線の報告会には次世代の冒険王を生み出すポテンシャルがあるっていう、いい例が今回の小口良平だったんじゃないかな。かつての自分がそうだったように、聞いた人に今度は出かけて欲しい、という思いの詰ったトークでもあったらしい。

◆今月の地平線報告会の会場にもまた、11年前の彼のように将来に夢をはせる旅人がきていたかもしれない。いやいや、聞きに来た人はぜひともみんな行動者になるのがいい。さて、今回のお話で何が印象に残っただろう? 今回のトーク実現の立役者で、某代表世話人に裏工作した野宿嬢は、お金ためるのに、お米だけ食べまくってたって話が、超人すぎると一番記憶に残っているという。

◆なるほど、これは重要だ。食費を削って冒険資金をためるってのは、これはもう無名時代の植村直己がフランスのシャモニで働いていたときに、イモばかり食っていたのと同じじゃないか。基本的に無名の冒険家にはハングリースピリッツが必要なのだ(つまりお金がない、いや1000万円持ってても無駄使いはできない)。

◆報告会を終えて恒例の2次会の中華食堂へ。一方的に報告される1次会と違って、2次会だとこれから冒険に向かいたい人が直接話を聞くのにうってつけだ。でもね、どうも昔と違うような気がする。しかもここのところ会費が3000円ぐらいかかってるらしい。中華で3000円? ビールの頼みすぎでしょう。例えば、食費を節約して冒険資金をためているような人が、参加したくても参加できない2次会から、未来の冒険王が生まれるだろうか? ビールで差をつけるといいかもしれない。

◆非公式だけど時々3次会野宿ってのもあるんだよ。都会のジャングルで朝までディープに話せるいい機会だ。小口良平もまた3次会の仲間だったのだな。地平線の彼方で、また会おうじゃないか!(安東浩正・冒険サイクリスト)


報告者のひとこと

イランで受けた最高のもてなしの心

■11年前の2006年9月に参加したのが、私と地平線会議との最初の出逢いでした。あのときは、まさか自分が聞く側から登壇する側にまわるとは思ってもいませんでした。今もあのときの光景を覚えています。登壇者への強い羨望の眼差しを。

◆11年の時を経て、座る席を10mちょっと移動して、パソコンを前に立つ私は当時と何か変わったのでしょうか?「自分を変えるきっかけが欲しかった」。そのきっかけを世界一周自転車旅にかけた私。「嫌なことはなかったんですか?」。よく聞かれるこの質問に対しては苦心して答えるのに対して、「いい思い出は作れましたか?」。にはスラスラと答えられます。

◆当然、その時々でぼったくられたり、喧嘩したり、事故や病気にも遭いました。が、嫌なことを思い出しづらいのは、そういったことが1年の365日のうちの30日にも満たなかったからだと思います。私が鈍感な性格だとか、大らかな性格だとかではないと思います。これには多くのサイクリストが共感をしてくれるはずです。心底、優しくされて楽しい毎日だったと思っています。だからこそ、今回の地平線報告会は苦心しました。

◆「今までの講演会ではなく、小口良平という人間の話をしてくれ」。460回の歴代の報告者の方からすれば、私のしてきたことは語るに及ばない話しだと思います。それでも自分のしてきたことを多くの方に知ってもらいたいと思い、今回は無理を言って報告会をさせて頂きました。1ページに約17日分というストーリーを込めた書籍の執筆のときもそうでしたが、8年半という期間を150分の中に入れる作業は、いかに自分を削るかという作業でした。

◆苦心を重ねた当日の報告会でしたが、皆様の中に小口良平という人間が伝わりましたでしょうか? ほんの一部でも伝わったのであれば、幸甚です。私の名刺には「自転車冒険写真家」と入れてあります。帰ってきて言われる三大ワード。「今日は自転車で来たんですか?」「次はどこに行くんですか?」「今は何をしてるんですか?」。これらを説明するためにも、日本では肩書が必要ですね。ただ、私の場合は肩書を並べれば並べるほど、何をしているのかわからない得体の知れないものになっていますね(笑)。

◆私の場合は、肩書きは周りの取材の方がつけました。そこにスポンサーの要望にも応えて。肩書は難しいですね。私のしたいことは、「旅で感じた良さを伝えたい」ただそれだけなのですが、言い得て妙な肩書がありません。私は常々、「冒険」と「旅」は大きく違うと思っています。「冒険」は自分の限界に孤独でチャレンジすることで、自分の生命の「体温」を感じる。「旅」は無力な自分を知って、多くの人の力を借り、他人の「体温」を感じる。ともに生きていることを実感するのに体温という「熱量」が必要なんだと思います。

◆話がアマゾン川のように蛇行しましたが、ポロロッカのように逆流させます。「旅で感じた良さを伝えたい」ということを今後の活動にしていきたいと思っています。これだけ装備や食料、アプローチに至る過程まで先進してくると、現代の冒険家が求められるスキルは、技術ではなく表現力なんだと思います。いかに自分のすることが多くの方に夢と元気を与えられるかどうか。そのためには、メディアを含め、映像関係機材をうまく扱えるようなスキルも必要になっています。

◆今回、報告会後のコメントを自転車会(JAAC)の大先輩の埜口保男さんより頂きました。「自転車の魅力を後世に伝える活動をすることで、ようやく自転車旅が完結する」。20代は苦労を知って自分の覚悟をつけさせる時期。30代はその覚悟を表現する時期。40代はこれまでの生き方を還元する時期。50代はひとりじゃ叶えられない夢をみんなと叶える時期。

◆旅から帰って早11か月。講演会、書籍、カフェ&ゲストハウスのOPEN、故郷の長野でのアウトドア&観光ガイド。旅で得たものを「五感を使って伝えたい」。それはイランでの想い、世界中での想いがあります。イランでは世界で一番おもてなしの心のこもった対応をしてもらいました。訪問後では、イランに行くのを怖れていた自分がいたことに恥ずかしくさえ感じました。

◆「君がこの国で感じたことを、君の言葉で、君の大切な人に伝えて欲しい。そうすればいつの日かこの誤解が解けるから」。世界の警察官と言われるアメリカを敵に回しているイランならではのメッセージでした。SNS等で、知らない人の話を信じて傷ついたり傷つけたりする現在、なんと愚かしいことなのでしょうか。イランの話を毎回させて頂くのは、優しくしてくれた彼らへの恩返しでもあって、私の大切にしていきたい生き方を私自身も忘れないようにするからでもあります。

◆かつて南米一豊かだったベネズエラの没落の現状を体験したからこそ、人の笑顔は枯渇しない世界最高の天然資源なんだと感じました。旅を一言で表すならば、「シンプルな幸せに気づかせてくれる」それを伝えたい。そして「続けることの大切さ」「生まれ故郷を離れる大切さ」「夢を発信する大切さ」を実践しながら、皆様を繋げていくことが、人生の命題となりました。2016年9月25日のゴールは、本当のスタートラインに立つまでの助走だったことに気づきました。

◆微力ではありますが、これからも誰かのため、地球のために尽力していきたいと思います。今回の報告会が、誰かひとりでも心に何か届けられたのであれば、旅をしてきたことが報われます。これからもご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします。(小口良平


◆これまでの地平線報告会で語られた自転車旅一覧◆

18回  81/3/27   503日間自転車世界一周◇平田オリザ
65回  85/3/23   快走ゴンドアナ大陸1万4000キロ◇西野始〈薬剤師〉
102回  88/4/22  山越えに情熱をかたむけて◇九里徳泰〈中央大サイクリング同好会〉
105回  88/7/22   旅は風来坊のように◇熊沢正子〈フリーライター〉
169回  93/11/26  自転者漂流講座◇埜口保男〈看護師〉
182回  94/12/16  サドルの上の6年半◇井上洋平〈サイクリスト〉
187回  95/5/30   乱氷帯を抜けておうちに帰る◇河野兵市〈植木職人〉
196回  96/2/27   かくチャリンコ族は丘を下りき◇熊沢正子〈ライター〉
216回  97/11/28  長い長いチャリンコ旅のおはなし◇阪口エミコ〈サイクリスト〉
236回  99/06/25  カイラスの渦巻◇安東浩正
286回  03/06/25  荒野の自転車野郎・冬期シベリア横断録◇安東浩正
309回  05/04/22  4年越しのタージ・マハル◇シール・エミコ & スティーブ
338回  07/07/27  満点バイク・アフリカ行◇山崎美緒
345回  08/02/29  チベットの名も無き花のように◇シール・エミコ & スティーブ
392回  11/12/23  80,700キロの助走◇伊東心
424回  14/8/22   ギャップ100℃の恍惚◇関口裕樹


自転車から降りるな

江本さん

 久々の自転車登場に行く準備をしていたのですが、病欠発生のため今日は北京での宴会が終わるころまでの勤務へのシフトが組まれてしまいました。

 昨日は東南アジアを担当していた現役のタンカーの船長と不動産会社の社長を看取りました。年間300人程度なので1勤務帯2名は稀なのですが、それでもときどきぶつかります。タンカーの船長は他の患者の対応中だったので直前の詳細はわかりませんが、不動産屋の社長は、奥さんとともに目の前で徐々に白く変化させる顔を見つめながら呼吸停止を見とどけました。

 そんな日々も5年目。

 精神科から緩和病棟。周囲は同じアスリートなんだろ、柔道でメダルとったんだから体操でも取れるはずだ、と要求する環境に四苦八苦してきましたが、海外放浪(ここでは主に国内ですが)のおかげで切り抜けられています。先日も看取った患者が福岡の秋月出身と聞き、宮崎車之助や熊本神風連の乱を話題にしたところ、そのご家族から絶対の信頼をえることができました。

 さて、まだまだ若いと思っていた私も年が明ければ還暦です。さてどうするかと動向を考えたいところですが、この慢性欠員状態の職場はどうにもやめさせてくれそうにありません。私もまた貧乏性のためのんびりできない性分なので、働けるうちは働き続けることにしています。

 もし可能なら小口君に先輩風を吹かせてのアドバイスがあります。

 以前、伊東心君のときにもいいましたが、世界一周組が旅を終えるや自転車を降りてしまう現実があまりにも多いので、

 「旅が終わっても満足することなく自転車に乗りつづけ、自転車をライフワークのひとつにしてほしい。若いときの経験をのちの人生にいかに生かすかでその人の価値が評価されるのだ」と。19歳のとき初めて北海道まで走ってから40年、9月で通算走行距離45万kmを迎えます。月との往復距離76万kmを目標に生涯自転車に乗りつづけます。

 どうにも日程が合わないのですが、近日中に緊急の勤務を断ってでも顔を出します。(埜口保男 報告会当日のメール)

小口良平さんが大好きで、地平線会議を知らずに参加してしまった私

■私はちまた?で「小口良平さんのストーカー」と呼ばれている者です。まったく地平線会議の事を知らず、ただ小口さんの講演が聞きたくて…でも少し「地平線会議」という所が、タダならぬ場所だという事は耳にしつつも、しっかり調べる余裕もなく、8月25日の地平線報告会にお邪魔させて頂きました。不届き過ぎる不届き者です……。

◆小口さんのお話を聴くのは、帰国されてから今回で15回目でした。いつもはできるだけ1時間以上前にスタンバイしているのですが、この日は、直前まで用事があり、恥ずかしくも道に迷い、汗だくで走って10分ほど遅刻。少し遠慮して??いつも最前列に座る所を、前から4番目の端に座りました。ちょうど、小口さんがはじめの挨拶をしている途中でしたが……。んんん??? 小口さんが、とても変です。。いつもと全然違う。話し方も変。目線もうろうろしてる。

◆具合でも悪いのかと思い心配になりましたが、すぐに小口さんが極度に緊張していることが分かりました。九州まで小口さんを追いかける私ですが、こんな小口さんは見たことがありません! 真ん中の列の最前列に安東浩正さんがいることにも気が付いて、うわ……。ここ、本当に凄いところなんだ!と、やっと気が付くおバカな私……。心配で4列目から2列目に移動するも、小口さんの様子は依然として、いつもとは違ったものでした。

◆20分か、30分か。いつもの小口さんの口調に戻るまで、大分、時間が掛かったように思います。私もあまりに心配で、何を話していたのか聞き取れないくらいになり、30分がとてつもなく長く感じました。でも、そこはさすがの小口さん。調子を取り戻した後は、安定したいつもの様子。でも、やっぱりいつもよりずっと緊張されていたと思います。

◆報告会後の二次会で、不届き者の私は、江本さんの事もちゃんと知らず、お隣に座ってしまいました。やんわりと私の不勉強さを指摘され、地平線会議についてのご教示を直々に頂きました……。そして、頂いた3か月分の地平線通信を読み、驚くと共に、まだまだ凄い方が日本に沢山いる事を知ってワクワク!! 楽しみが増えました!!

◆病気持ちで突然、消えたりする私ですが、冒険家の皆さまの生命力あふれる命に触れて、私も楽しく元気に生きて行けそうです! 本当に本当に、素晴らしい時間と貴重な体験をさせて頂きました。また、地平線会議にお邪魔させてください! そして、できるお手伝いは、なんなりとお申し付け下さい。規格外のすんごいチャレンジャーの皆さまと、それを応援する気持ちの良い支援者の皆さまに心からの敬意を示しつつ。(一柳光子 知的障害児童デイサービス勤務)


地平線会議からのお知らせ

長野画伯「一氣一遊展」開催!!

 地平線報告会の翌日、9月23日(祝日・土曜)から長野亮之介“画伯”の個展「一氣一遊展――長野亮之介の絵しごと・2017」が開催されます。会場は2年前と同じ、千駄ケ谷駅近くの「ギャラリー・ヒッポ」。今回は最近ハマっている水墨画の手法で描いた作品を中心に、新たなナガノワールドをお見せします。もちろん、いつものように「猫」もいます。よろしかったら、覗いてみてください。

 ●日時:9/23(土)〜10/1(日) 12:00〜19:00(日曜日は17:00まで)/27日(水)は定休
 ●会場:ギャラリー・ヒッポ(渋谷区神宮前2-21-15 03-3408-7091 千駄ケ谷駅から徒歩8分)
 ●画伯の在廊状況などはhttp://moheji-do.com/ikki/で。

[絵師敬白]その昔、僕の絵仕事はちっちゃな白黒カット描きから始まった。一本の線を引くにもいじいじと下描きをして、せこせことインクを乗せ、挙げ句、消しゴムと修正液のお世話になった。あれから数十年。少しは迷わず線を引けるようになったんだろうか。今回、一発勝負の「水墨画」におこがましくも挑戦してみると、想定外のにじみに驚き、予想外の掠れに慌てる。相変わらず迷いまくりなんだけど、そこには思い通りにならないという楽しさがある。ま、いっか。せめて心意気だけでも迷わず一気に線を引き、水と墨に遊んでもらうつもりで筆を運んでみました。(長野亮之介


地平線ポスト・夏だより

賀曽利隆、「70代編日本一周」にスタート!!!

■みなさん、お元気ですか。今年の夏はどのようにお過ごしでしたか。ぼくはバイクで東北を走りまわっていましたよ。明治初期に日本を旅したイギリス人女性イサベラ・バードの足跡を追って、栃木・福島県境の山王峠から青森まで行ったり、70あまりのダムカードを配布しているダムをめぐったり、岬めぐりの「東北一周」で92岬をめぐったり、「東京→青森・林道走破行」では全部で18本の林道を走りつないだりと、おもしろい夏でした。

◆ところでぼくは9月1日で70歳になりました。いや〜、まさに光陰矢の如しで、まさか自分が70になるとは夢にも思いませんでした。それを嘆いていても始まらないので、9月1日には「70代編日本一周」に出発します。「30代編日本一周」(1978年)を皮切りにして、「40代編日本一周」(1989年)、「50代編日本一周」(1999年)、「60代編日本一周」(2008年)と、ほぼ10年ごとに年代編の日本一周をおこなってきましたが、それにひきつづいての「70代編日本一周」になります。

◆そのほかにも「島めぐり日本一周」(2001年〜2002年)、「温泉めぐり日本一周」(2006年〜2007年)、「林道日本一周」(2010年)とテーマ編の日本一周もおこなってきましたので、今回の「70代編日本一周」は8度目の日本一周ということになります。

◆今回の「70代編日本一周」は「東日本編」と「西日本編」の2つに分けてまわります。「東日本編」は9月1日から10月10日までの40日間、「西日本編」は11月1日から12月10日までの40日間、合計80日を予定しています。「生涯旅人!」をモットーにしているカソリですので、「70代編日本一周」を新たなスタートにして、70代もトコトン、バイク旅をつづけていきたいと気持ちを熱くしているところです。

◆今回の「70代編日本一周」では日本の47都道府県に足を踏み入れるつもりです。メインコースは日本列島の海岸線で、自分の走ったルートで日本地図を描くようなものにします。その間では何本ものループのコースをつくり、内陸部をまわります。

◆ぼくのバイク旅の二大テーマは峠と温泉。2017年1月1日現在、1689峠を越え、1927湯(1湯1温泉地の数え方をしています)の温泉に入っていますが、今回の日本一周でもより多くの峠を越え、より多くの温泉に入るつもりでいます。さらにできるだけ多くの岬にも立つつもりでいます。

◆我が「日本一周」の原点は「30代編日本一周」です。今から40年も前のことになりますが、今回の「70代編日本一周」では同じようなコースも走るので、この40年間の日本の変化をしっかりと見ようと思っています。

◆使用するバイクは7月6日から国内での販売が開始されたスズキのニューモデル、V

−ストローム250です。今年の「東京モーターサイクルショー」で衝撃の出会いをした瞬間、「日本一周はV

−ストローム250で走ろう!」と心に決めていました。自分の心の中にひそむチャレンジ精神をおおいに刺激してくれるようなアドベンチャーツアラーのバイクです。日本のどこかでぼくを見かけたら、ぜひともお声をかけてください。お願いしますね。最後に我が「日本一周」のデータをぜひともご覧になってください。(賀曽利隆

■賀曽利隆の「日本一周」一覧■

   (原稿にはそれぞれの旅ごとに使用したバイク名が付記されているが、省略)

[01]30代編日本一周
  1978年8月28日〜1978年11月16日(64日)「東日本編」、「西日本編」の2分割 18981キロ
[02]40代編日本一周 1989年8月17日〜1989年11月16日(92日)18984キロ
[03]50代編日本一周 1999年4月1日〜1999年10月29日(122日)「西日本編」「東日本編」の2分割 38571キロ
[04]島めぐり日本一周 2001年3月22日〜2002年4月22日(154日)「伊豆諸島・小笠原諸島編」「本州東部編」「北海道編」「本州西部編」「四国編」、「九州編」「沖縄編」の8分割 23692キロ
[05]温泉めぐり日本一周 2006年11月1日〜2007年10月31日(296日)「関東編」「甲信編」「本州西部編」「四国編」「九州編」「本州東部編」、「北海道編」「伊豆諸島編」の8分割 60719キロ
[06]60代編日本一周(第1部)2008年10月1日〜2008年12月27日(80日)「西日本編」「東日本編」の2分割 19961キロ
[07]60代編日本一周(第2部)2009年4月1日〜2009年10月28日(151日)「四国八十八ヵ所めぐり」「日本百観音霊場めぐり」「奥の細道紀行」「東北四端紀行」「奥州街道を行く!」「北海道遺産めぐり」 41609キロ
[08]林道日本一周 2010年5月12日〜2010年9月10日(78日)「西日本編」、「東日本編」の2分割 28208キロ]

■賀曽利隆の「日本一周」の著作等一覧■

[01]30代編日本一周『50ccバイク日本一周・上下巻』(1984年5月15日・交通タイムス社)
[02]40代編日本一周『50ccバイク日本一周2万キロ』(1990年11月15日・JTB)
[03]50代編日本一周『日本一周 バイク旅4万キロ 上下巻』(2000年4月1日・昭文社)
[04]島めぐり日本一周『50ccバイク 島めぐり日本一周』(2005年7月1日・小学館)
[05]温泉めぐり日本一周『300日3000湯めぐり日本一周 上下巻』(2008年9月1日・昭文社)
[06]60代編日本一周(第1部)『カソリング』(連載385回)
[07]60代編日本一周(第2部)「四国八十八ヵ所めぐり」『カソリング』(連載169回) 「日本百観音霊場めぐり」『カソリング』(連載150回) 「奥の細道紀行」『カソリング』(連載83回) 「東北四端紀行」『カソリング』(連載40回) 「奥州街道を行く」『カソリング』(連載23回) 「北海道遺産めぐり」『カソリング』(連載56回)
[08]林道日本一周『カソリング』(連載213回)

■賀曽利隆の旅の記録・2017年1月1日現在■

旅の日数 7273日 バイクで走った距離 151万9518キロ(この通算の日数と距離は1968年4月12日に「アフリカ大陸一周」に旅立った以降のものです)

シール・エミコさんを「テンカラ食堂」に迎えて

■8月20日に「地平線会議Osaka エミちゃんの巻」が勝手に開催されました。メンバーは関西に住む地平線の飲んべぇなメンバー。場所は、地平線メンバーのりえさん(井倉里枝さん)がやっている「テンカラ食堂」で、身体に優しく、美味しい定食が評判のお店です。営業は火曜から土曜の18時から22時だけど、今回は特別に日曜のお昼に貸切営業してくれました。

◆杖はついているけれど、以前よりもずっと元気で、満面の笑顔のエミちゃんが登場し、ハグで挨拶をしてからみんなで乾杯。美味しい料理の数々と、冷酒の飲み比べ。実はエミちゃんが一番強い)でお腹が満たされたときに、鎧兜一式を身に纏った戦国武将があらわれて、みんなびっくり。なんと、山辺剣くんが、近所の公園で着替えて、駆けつけてくれました。

◆この手作りの衣装と小物類のうんちくとか、お城巡りのお話は本当に面白いので、いつか地平線会議報告会で披露してもらいたいと思います。そんなこんなで、いろんな話で盛り上がり、エミちゃんも少しほっこりできた楽しい会になったと思います。あらためて、りえさん、本当にありがとうございました。

◆今回の帰国はいつもより一週間長く、しかも東京にも足をのばして、とてもハードスケジュールだったみたいです。一人でも多くの人に、自分の元気な姿をみせて、感謝を伝えたかったらしいです。途中で腸閉塞を起こしかけたり、少し体調を崩したりしたようですが、予定の入ってない日は、極力ゴロゴロして、自分なりに精一杯身体を休めていたそうです。そしてまた人に会って、心の元気をもらって笑顔になれたのだそうです。

◆特に会うたびにいろんな人から、若くなったとか、綺麗になったと言われて、嬉しくて、もっともっととポジティブに考える事ができて、パワーが出てきたそうです。褒められて元気になるタイプなのかな。スティーブ、いっぱい褒めてあげてね。次に会う時がとても楽しみです。もっと元気になって、もっと若くなって、もっと綺麗になってるかも。うーん、私もちょっとエクササイズと美顔パックして対抗しようかな。(岸本実千代


■江本さん、こんにちは。山辺です。先日、地平線会議OSAKAメンバーでシール・エミコさん会をしました。帰国の都度エミコさんに誘われていたけど、鎧旅の途中でなかなか会えませんでした。今回約7年ぶりの再会。最後に会ったのはエミコさん達と大阪の病院に行った時。「もう日本で治療できる病院はないよ」と言われ、世界の破滅を迎えた様に絶望しきっていたけど、久々に会ったらケラケラ楽しそうに話し、杖一本でランランと歩いていました。体調の回復とともに、薬から解放され副作用が無くなったおかげで意識がハッキリし、自分自身を取り戻したと言っていました。自転車で世界一周を再開したいと言ってましたが、それも夢じゃない気がします。未来を想像し、やりたい事をやれるのが生きてる人間の特権だなーと思いました。(山辺剣「テンカラ食堂」前で見事な甲冑武者姿のエミコさんとのツーショット写真を添えて)

静かな山を求めて、ライダー夫婦の夏

■今年の私達夫婦の夏休みは、7月29日から5泊6日での飯豊連峰縦走。出発前日の地平線報告会でドライタイプのゾモTシャツを購入し、その夜は東京泊で、そのままゾモTを持って飯豊に登りました。イイデリンドウほか高山植物の花畑が素晴らしく、お花に感動する毎日でしたよ。

◆日常特にトレーニングなどしない私達。空いた週末はすべて登山です。GWまでの八ヶ岳や東北の冬山登山以降、飯豊縦走前に13山(低山もあり)に登りました。特筆したいのが黒戸尾根ルートの甲斐駒ヶ岳。残念ながら欠席した花谷さんが話し手の地平線報告会。でも彼が経営する七丈小屋に宿泊したので、夕食後にご本人とお話ができました。素敵な人ですね〜♪

◆8月の山の日を含む3連休は大渋滞や混雑が嫌だなと悩みましたが、閃きました。200名山ですが割とハードなルートのため人が少ないと予想される、南アルプスの鋸岳! 11日(金)の昼過ぎに自宅を出発し、高速の渋滞もなく戸台の登山口に着いて車中泊。翌日はまだ暗い4時過ぎに歩き始めて昼前には山頂に。同ルートで戻り、何とか日暮れ前の夕方6時半頃に下山し、そのまま帰宅の途へ。渋滞皆無で、家には夜中11時半頃到着です。

◆この日鋸岳には縦走や日帰りも含め、10人も登っていなかったかも。3連休の中日なのに……。(神奈川県 主婦ライダー 古山里美 七丈小屋で花谷さんと夫婦で撮った写真、飯豊連峰最高峰大日岳でゾモTシャツを着た写真を添えて)

ウミガメを海に返し、加計呂麻島で台風をやり過ごし、南三陸で最後の「子供会」をやった夏

■長くて短い夏休みが終わり、屋久島の小学校では9月1日から2学期が始まった。4日の月曜日の朝に学校へ行くと、何か黒っぽいものが校庭の砂の上で、もぞもぞと動いている。ウミガメの赤ちゃんだ。100匹近くの子ガメが孵化し、手足をバタつかせながら元気に動きまわっている。夏休み前、観察用にと、卵を学校近くの浜から校庭に埋めかえておいたのだ。子ガメは手のひらに収まるほどの小ささなのに、触れてみるとその力強さにびっくりする。

◆前足が水をとらえる角度も絶妙で、ひとかきでぐんと海中をすすむ姿が目に浮かんだ。授業内容を変更し、子どもたちと一緒に浜へ子ガメを返しに行く。子ガメ達は打ち寄せる波にのまれながら、あっと言う間に海へと消えていった。新学期のはじまりに、心が動かされる出来事だった。

◆この夏休みにも、心に残る色々なことがあった。ちょうど一ヶ月前の8月4日には、奄美大島の加計呂麻島で台風5号に直面していた。太平洋をさんざん迷走したあげく、このタイミングで奄美にやってくるなんて! 飛行機が欠航になり3日間延泊することに。雨風が強まる中、何とか名瀬市内に移動して食料を買いに店に行くと、同じように島に閉じこめられた旅行者たちが何人も水やカップラーメンを買い込んでいた。

◆マラソン並みの速度でゆっくりと進む台風の影響は、長時間続いた。被害が心配だったが、浸水でニュースに映っていたのは町中にあるビルで、小さな集落は無事。さすがだ。奄美大島の家は南国らしく屋根が低い造りだが、屋根の素材は銀色や青色のトタン板が主流で、屋久島とも沖縄とも違って興味深かった。いつかその背景を調べてみたい。

◆奄美から帰って数日後の8月中旬、今度は北上して宮城県南三陸町志津川へ向かった。震災から6年半が経った今もなお、現地は復興したと呼ぶには程遠い状況だ。市街地には工事車両が走り回り、見える景色は茶色い土の山か、伸び放題の草に覆われた土地。工事のため道もしょっちゅう変わるので、住人でさえ戸惑うという。この夏やっとスーパーができて、隣町まで買い物に行かなくてすむようになった。中瀬町区長の佐藤徳郎さんがバス停に迎えに来てくれて、高台移転地に建設中のご自宅へ案内してくださった。

◆志津川では3箇所の山地を切り開いて高台移転地としている。佐藤さんのご自宅は、津波の浸水地を目前にした高校裏の急な坂道を登りきった所にある西地区にあった。縦横にまっすぐ走る道路、整然と立ち並ぶ現代風の家々。まるでモデルハウスが並ぶ住宅展示場のようだ。私は震災前の志津川の景色を見た事がないけれど、この地域らしさが感じられない住宅というのは、なんとなく寂しい思いがする。

◆佐藤さんは自分の山の木を住宅に使うために、昨年から準備をされてきた。外観は完成したというご自宅の玄関に入ると、檜の香りがふわっと漂う。太く立派な柱にどんと迎えられて、時間をさかのぼって過去とのつながりをほのかに感じることができた。先祖が植えた木を住宅に使えるというのは、なんて素敵なことだろう。10月上旬には新居に引っ越しできる予定だという。

◆いま佐藤さんが住んでいる中瀬町仮設住宅は42戸あるが、現在そこに残っているのは佐藤さん家族5人だけだ。佐藤さんが仮設を出たあと、12月には建物が解体され、土地は地主に返還される。「6年半も住むと、やっぱり寂しいもんだよな。」と、佐藤さんは言う。そして、仮設住宅の解消を前に、集会所で続けてきた「子どもお泊まり会」も、この夏でひと区切りを迎えた。

◆お泊まり会のはじまりは、中瀬町の方々が仮設住宅に入居した2011年8月。夏休み、外で安全に遊べる所がなくて暇をもてあましていた子どもたちは、私たちボランティアが使わせてもらっていた集会所に毎日のように遊びに来ていた。中瀬町仮設住宅の集会所はとても立派で、お風呂までついている。「泊まっちゃおうか!」と、当時小1、小3、小4だった女の子たちと泊まってみた。一緒に料理をしてごはんを食べて、お風呂に入って、家から担いで来た布団で寝て。みんなと過ごす時間が楽しかった。

◆その後、子どもも大人も人数を増やしながら春夏冬と毎年お泊まり会を続けて、全部で18回。毎回20名弱が参加していた。これだけ続いたのは、子どもにも大人にも大切な場になっていたからだろう。震災後に1年3か月間いた東北を離れることになった時、その後も自分にできることを考えて、続けられると思ったのがこれだった。こちらも毎回楽しませてもらっていて、ボランティアという感覚は全くない。

◆大きくなっていく子どもたちに会えるのが、毎回とても楽しみだった。町を離れても、お泊まり会があったことでここに帰ってくる口実ができたのはありがたかった。お泊まり会スタート時に小学生だった子たちは、今は中学生や高校生。部活や受験で忙がしそうだ。専門学校生や社会人になった男の子たちも、毎回顔を出してくれていた。

◆地平線通信の発送請負人である伊藤里香さんと小石和男さん、報告者であったひーさんこと石井洋子さんもメンバーだ。伊藤さんは料理のとりまとめをし、小石さんは写真の記録を担当してくれた。ひーさんは、得意のアウトドア術で子どもたちを喜ばせた。それぞれの「できること」を持ち寄って楽しんだ6年半だった。最後のお泊まり会は2泊3日で開催され、川遊びやバーベキュー、子ども企画のビンゴ大会などをした。

◆お別れのときには、子ども達が大人1人ひとりにメッセージボードをプレゼントしてくれて、素直に嬉しかった。お泊まり会が終わってしまって残念なのは、実は子どもより大人の方だろう。子どもたちは、海に旅立つ子ガメのように、あっけなく新しい世界へ行ってしまうもの。それでも、町や自分が変わっていく中で、仲間とのつながりを大切にし続けてほしいと願う。

◆ちょっと寂しいけれど、終わりをきっかけに一歩前へ進もうと、背中を押されたような気持ちでいる。「自分も頑張ろう」と、お泊まり会が終わったらそう感じる予感がしていて、この夏はずっと行きたかった奄美にも行ってみた。これからもまた、自分らしくこの土地と人々に関わっていきたい。(屋久島 新垣亜美

本当に大変なのはこれからだ

■2012年の4月、東日本大震災から一年が経過した頃、南三陸町ボランティアセンターの活動で、RQの拠点となっていた鱒渕小を間もなく離れる新垣亜美さんに出会った。それが、RQや鱒渕と関係ない僕が、中瀬町仮設住宅集会所の「子供お泊まり会」で、子供たちと、延べ30日間、14泊の時を過ごすことになるきっかけだった。

◆「子供お泊まり会」も、年々、自宅から参加する子供達が増え、昨年の高台の造成工事の終了と呼応するように、その数が増え、最後となった8月19日の「子供お泊まり会」では、仮設住宅から参加する子供は誰もいなかった。そして、戸数42戸の仮設住宅にも、佐藤徳郎区長さんをはじめとする四世帯が住むだけになっていた。その方々も、近くご自宅の完成とともに中瀬町仮設を離れることになる。

◆「子供お泊まり会」には、学年の垣根を超えた子供達が集まる。内容は子供達が主体となって決め、会計も、子供達が行う。過去17回、食べることに遊ぶこと、いろいろなことをやってきた。江本さんも一緒に打って食べた、きしめんのような手打ちうどん。直火の焚き火で焼いた焼き芋。グミやお菓子が多く流れる流しそうめん。小泉「くりの木広場」でのアスレチックに木工細工に、三滝堂での魚釣り、水尻川で泳いだ最後の子供はきっとこの子達だろう。その水尻川ももう遊べる川ではなくなってしまった。

◆子供達プロデュースによる集会所結婚式や、先輩や仲間の節目を祝うお祝い会もあった。大きな地図が描かれた布団が干してあったこともあった。子供達の、独創性や、楽しむことへの貪欲さに、驚いたり、呆れたり。刃物の扱いにハラハラしたり。こうして書いているだけで、次々と、その映像とともに、子供たちの表情が思い出される。「もう!」と思うことも度々だったけれど、その全てが宝物だ。撮りためた写真には、子供達の笑顔が溢れている、そんな宝物を僕にくれた子供達にお礼が言いたい。

◆そして僕は、「子供お泊まり会」を経験した子供達に一つ期待することがある。それは、「あの時は楽しかった、あれまたやってみようか」なんて子が出てくることだ。単なる懐かしい、楽しい思い出から始まる、小さな集まりを是非持って欲しい、その小さな人のつながりが、もっと大きな人のつながりをつくり、地域の求心力につながっていくのではないかと思うからだ。

◆5月末の東北地方紙に「災害公営住宅 孤独死43人」という見出しを見た、プレハブ仮設住宅での孤独死はピークでも2013年の23人だったというから、それよりも増加している。この問題は南三陸町を例外にはしないだろう。災害で失われずに済んだ命が、こんな死を迎えるのは悲しい。高台移転は、復興と同義に語られることが多いけれど、僕はそうは思わない、ご自宅に戻られたことで、やっと「復興」へのスタート地点に立ったのだと思う、人の復興はまさにこれからだ。それも、とてつもないハンディキャップを背負わされてのものだ。

◆仮設住宅がなくなることと復興とが同義で語られることで「いつまでも……」という意識が、住民さんに、芽生えるのだろう、でも、本当に大変なのはこれからだ、立って歩き出したばかりの子供が、何かを支えに前に進むと同じように、やはり何かの支えが必要となることはあるだろう、人は、躓きもするし、転ぶこともある。そして、そんな時は、声をあげて欲しい。

◆ボランティアはいつかそこを離れる時がくる。そう思って、今まで様々な活動をしてきた。そして、この6年間、東北とは違う場所でそんな活動を何度かしてきた。でも「子供お泊まり会」で中瀬町で過ごす時間が、僕と、中瀬町の、そして南三陸町との距離を近づけ、他のボランティア先とは違う場所にしたのだろう。僕は、これからも、折に触れ、南三陸町に足を運ぶことになるだろう。(小石和男

2017年ポイントホープのクジラ猟

◆この日、深夜に氷点下20度まで下がる。近年、4月下旬にここまで気温が下がることは珍しく、久しく忘れていた寒さだった。沖にクジラが現れると、ウミアック(木製のフレームに皮を張ったボート)を水に滑りこませながら乗り込み、クジラを追って静かに、全力で漕ぎ始める。クジラの進路を予想しながら追い続けるも、思わぬ方向に現れるクジラ。結局は逃げ切られてしまう。

◆ウミアックを漕ぐのは約10年ぶり。その間に無線機は携帯電話へ代わり、船体に張ってあったアゴヒゲアザラシの皮は化繊の布となり、一緒に猟に出ていた多くの年寄りが亡くなり、氷の上の雰囲気も徐々に変わってきている。いずれウミアックさえ使わなくなる日が来るのだろう。

◆数日後、我々のクルーがクジラを捕った。ポイントホープで今期5頭目のクジラだ。沖のモーターボートからは、小さめのクジラだという情報が入ってくるが、今までその情報が正しかった試しがない。数時間かけて氷の際まで運ばれて来たクジラは、案の定というのか喜ばしいことにというのか、15メートルもある大型のクジラだった。

◆氷上への引き上げに数時間。解体開始は深夜になった。深夜とは言えまもなく白夜の季節。薄暮の中、解体を進める。女性たちが近くに建てたテントで作ってくれる暖かい食事が、疲れて冷えた身体に染み渡る。日が昇り、ある程度作業が落ち着いてきた頃、肉塊を切っているCの写真を日本人のAが撮り始めた。「写真1枚につき20ドルだからな!」Cが真顔で言う。言葉に詰まりカメラを構えたまま固まるA。その姿を見てつい大笑いしてしまう。「シンゴ!おまえ何でそこにいるんだよ」とC。「何でって言われても我々のクジラだし」Cも思わず笑い出す。もちろん20ドルは冗談。Aはホッとした顔をして再びシャッターを切る。

◆クジラが捕れてから既に24時間以上経過している。血と脂にまみれた防寒着は太陽にギラギラ輝いている。手袋も中の手も脂まみれ。「この格好のまま、みんなにハグしに町まで行こうぜ」とはよく言う冗談。時々座って一休みするものの、眠気がひどく、解体用の大きなナイフを手に持ち、立ったまま寝てしまいそうになる。コーヒーを飲み10分ほど横になって休憩。身体はかなり楽になったので再び解体の輪に戻る。結局30数時間眠らずに働き続け、クジラの形はほぼ無くなった。

◆今期7頭目のクジラが捕れた。クジラが大きすぎて引き上げに手を焼いているらしい。引き上げを手伝いに出かける。休憩時にコーヒーを飲んでいると、クジラを捕ったキャプテンのMがやってきた。おめでとうと声をかけてハグをする。「ありゃ誰だ?」とMが指差す。「友だちのO、日本人だよ」。他所から来た人間は、地元の人と少々服装が異なり、動きもぎこちなく、その上写真を撮りながらうろついているのでかなり目立つのだ。その場からいなくなると、それはそれで目立ってしまうので、サボっているのがすぐバレてしまう。

◆ある日、15メートルクラスの大型のクジラが2頭、立て続けに捕れた。1頭引上げるのもかなりの手間だが、それが2頭。解体がいつ終わるのか想像もつかない。1頭目の引き上げが始まったのは深夜。特に問題なく引き上げは終わった。一休みして2頭目の引き上げに取り掛かる。何度もロープを引き、いつになく時間をかけてクジラを引き上げ、ようやく解体が始まったが、既にかなり疲労が溜まっている。

◆座って何か食べながら一休みしていると、向こうから我々のキャプテンがやってきた。「シンゴ、サボっていないで働け」。ふらふらしながらナイフを持ってクジラの下へと戻る。「これ、トランプ大統領の頭みたい!」誰かがロープを指差して言う。解体に使っている太い麻のロープの端が解け、大統領の髪型そっくりになっている。普段だったらすかさず写真を撮っているのに、このときは疲れ切っていて、カメラをポケットから出す余裕さえなく、みんなと一緒に大笑いしておしまい。

◆大量の肉とマクタック(表皮と脂肪)を切り取り、気温の上昇で、あちこち穴だらけになった氷上のトレイルをヒヤヒヤしながらスノーマシンで海岸まで何往復もして肉を運び、ようやく作業終了。家に帰り、血と脂にまみれた防寒着を玄関先に脱ぎ捨て、シャワーも浴びず、汗臭いシャツのままベッドに潜り込む。10時間ほど爆睡した後、洗面所へ行って鏡を見れば、顔のホクロが増えている。クジラの血が付いたまま寝ていた。

◆今年の猟期は、捕獲制限枠いっぱいの10頭が捕れ、連日肉の処理が続き、そのままクジラ祭りの準備へと、非常に多忙だった。クジラ猟が一段落してすぐにハクガン猟へ出て、大量のハクガンを捕まえ、その処理のために忙しさを倍増させたりもしたが、冷凍庫は肉で溢れんばかりとなり、嬉しい春の猟期となった。そして、たまたま同時期に来て、猟や解体に参加していた二人の日本人。他の人たちから彼らについての話を聞くと、自分もこうやってみんなに見られていたんだなと、改めて身の引き締まる思いだった。 (高沢進吾

ホワイトホースに本多有香さん手作りのキャビンを訪ねて

■7月21日から1週間ほど、ホワイトホースの本多有香さんの所へ滞在してきました。アニーレイク近くの家は一人でどれだけの時間をかけて開拓し、忙しい日々の中これだけの物を創り上げたのかと想像するとため息が出てしまいますが、立派で感動しました。家、犬小屋、アウトハウス(外のトイレ)、物置、冷蔵庫、グリーンハウス、お風呂小屋……。

◆冷蔵庫は地中に穴を掘ってドラム缶を縦に埋めて蓋をした物。バケツで作った物は見た事がありましたが、こんなに大きくて深い物は初めて見ました。お陰でユーコンの熱い日差しが降り注いでも私達のビールをよく冷やしてくれました。水がないドライキャビンだというのにお風呂小屋があるのには驚きました。

◆中には薪ストーブがありお湯を作りながら部屋を温められ、湯船と洗い場は別の日本式。湯船は馬の水入れ、吊るしたバケツにノズルを付けたシャワーもありました。これだけ工夫して作ってあるのにあまり使っていないその理由はやはり水。自分と犬達の飲み水を確保するのも大変な生活でお風呂用の水を汲んでくる余裕がないのも納得です。誰か井戸を掘ってあげて!と切に願うのでした。

◆生活に必要な道具も揃っていました。車は2台。トラックとセダン。荷台のあるトラックは犬を運ぶためのドッグボックスを乗せたり、大量のドックフードを運んで来たり無くてはならない1台。町の人が乗るような青いセダンは安く買ったとのこと。燃費のよい足でもあり仕事道具を載せる道具箱でもあり、その見た目とは違い水や材木までも運ぶ働き物でした。

◆断熱材の入った大きなビニール袋を車内はもちろんボンネット、天井、後部と車上にまで載せて走る様子には笑いました。森の中、悪路でも自由自在に走るバギーも必需品。トレーラーを繋げて薪を運んだりウィンチを使ってトラックからドッグボックスを下ろしたりと大活躍。雪のない時期には犬ぞりのトレーニングにも使うそうです。

◆その他、家の中には犬ぞりの道具や、チェーンソー、壁を埋め尽くしつつある大工道具など。お金ができては少しずつ揃えているようでしたが借り物や、リサイクル品も多いようでした。水泡の見えない水準器(地面への角度を測る道具)は借り物、サイズの合わない安全靴はゴミ捨て場のリサイクルで見つけたと自慢気でした。

◆犬達との暮らしも見てきました。27匹いる犬のうち7匹はイエローナイフに出張中とのことで会えたのは20匹。この差は大きく楽チンと言うものの仕事は沢山。朝、仕事前に掃除、帰りには1人+20匹分の水を約20Lタンクに幾つも汲んでくる日も。家に戻ると「待っていたよ〜」と一斉に鳴く犬達に「ごめん」とすぐに着替え一匹ずつ様子を見ながらご飯をあげ、水をあげ、掃除。

◆敷地に自生しているヤナギランは犬達の大好物で「ほんとに家の子達はお金がかからなくていい子達だわ」なんて嬉しそうにあげていました。排泄物をゴミ捨て場まで捨てに行き、爪が伸びていたら格闘しながら切ってあげ、切り株に引っかかる子がいたら朝からツルハシとバーベルで取り除きと大家族のお母ちゃんは大忙しでしたが幸せそうでした。

◆こうして犬たちの世話をしつつ有香さんの夏の日々は、聞いていたとおり1日に2つも3つも仕事を掛け持ちし、時間との闘いで常にいかに効率よく仕事が捗るかと頭をフル回転させ、自分もフル回転していました。私が訪ねた時は大工仕事をしていましたが、ペンキ塗り、穴掘り、外壁張り、屋根仕事、蜂退治、車の整備等、様々な作業を違う現場でしていたようで私の頭の中は混乱でした。

◆夜は清掃の仕事もしているのですが私の滞在中は元々予定に入っていた1日以外はいれずにいてくれたそうです。その時は待っている私の為に5時間かかる仕事を約2時間半で走り回って大急ぎで終わらせてきてくれました。こんなに働き者で稼ぎ時の夏なのに、私が到着した金曜日から日曜日までお休みをとって遊びにも連れて行ってくれました。実はこれが移住してから初めての夏休みという有香ちゃん。「稼ぎ時なのに休ませてしまった」と罪悪感いっぱいの私とは裏腹に大はしゃぎをするその姿は私の心を軽くしてくれたのでした。

◆カークロス砂漠では裸足で駆け回り砂まみれ。ユーコン川でも裸足になり水と戯れ。魚がいないと言われるアニーレイクでは絶対に釣る!とビール片手に意気込むもボウズ。仕方なく友人に借りたカヌーで湖に浮かぶと忙しい日々から心も体も解放されたようで「気持ちいいー」と何度も叫んでいました。

◆森の中で暮らすにはあまりにも厳しい極北の地で有香ちゃんと27匹の犬達。自分と犬の生活費を稼ぎ、日々の生活や犬の世話、家周りの仕事等どんなに大変なことかと様子が見たくて今回訪問しました。ほんの一部しか見る事はできませんでしたが、大変だけれどもこの地で暮らす術が経験を積んで身についていて、何でも可能にしてしまう知恵や知識があり、犬達との生活を守り続けていくという強い心を持つ有香ちゃんは頼もしく、かっこよかったです。そして、いつでもどんな時でも笑顔の有香さんは素敵でした。

◆有香ちゃんと知り合ったのは、2007年か2008年、フェアバンクスで西山周子さん(有香さんの著書『犬と、走る』の「天国にいる西山のおっかさん」)を通してです。アラスカで私ははじめパートナーと森の中に住んでいましたが、別れて町にでてきてガイド会社の寮に住んでいる時に周子さんが有香ちゃんを連れて遊びに来てくれたのです。それから周子さん宅でとにかく飲んだ記憶しかないです。

◆どれだけ忙しくても優しく友人の面倒を見る有香さんは、皆さんに好かれ慕われています。喜んでご飯を食べさせてくれる友人がいたり、サーモンを持って来てくれる友人たちがいて、私はなんだか安心しました。これからも怪我なく大家族の肝っ玉母ちゃんとして、わんこ達だけでなく自分の身体も大切にして、突き進んでいって欲しいなと思います。

◆地平線会議には、昨年6月の有香さんの植村直己冒険賞受賞のお祝いの会(注:6月13日、「北京」での「お祝いビールパーリー」)が開かれた時に参加させてもらいました。あの時はアラスカ以来の有香さんとの再会でとっても嬉しかったのです。(田中律子 星野道夫事務所勤務)

北の富良野でハーベスト・ハイ!

■ご無沙汰しています。北海道で仕事を、と4月に東京を出発した私ですが諸事情あり北海道入りは8月になってしまいました。5日に富良野の農業体験者滞在施設に入寮。6日から農業派遣バイトをしています。4日未明大洗出港、同夜苫小牧入港の船旅で始まり、5日苫小牧から札幌までは国道36号線を半日の自転車旅。前にこの道を通ったのはもう9年前!(2008年、浜比嘉島であの「ちへいせん・あしびなー」をやった年)

◆札幌から富良野までは高速バス。全国的にバスは自転車NGですがダメなら列車の輪行覚悟で頼んでみたら、貨物スペースに空きがあるとの事でOKでした♪ 富良野は現在、収穫最盛期! メロン、西瓜、コーンに南瓜、馬鈴薯、玉葱etc..豊穣とお天気に翻弄される日々です。北の国とはいえ太陽光線はまっしぐらに背中に突き刺さり足袋の中は蒸し焼き火傷寸前! 滝のような汗を拭う間も惜しみ浴びるように水分を取る! 時折の風を感じて顔を上げた瞬間、見える大地と空にハーベストハイ!!

◆そして休日には晴れても雨でも自転車で出掛けます。休みが少ないため遠くまでは行かれませんが温泉に入り、ホテルやカフェで美味しい食事やスイーツを満喫し、整骨院で痛んだ足腰を伸ばし(笑)、景色や雲を追いかけながら坂を登ったり下ったり林の中を走り抜けたり、バイクや自転車旅の人達と挨拶を交わしたり、空に近いこの富良野の大地で翼があるみたいに翔びまわってます。(石原玲

北の大地にミサイル発射警報!!

富良野便り・その2

■響き渡るアラームで飛び起きた。「しまった!目覚ましでか過ぎ!」と安宿に外泊してた私は焦って止めようとしてスマホを取り上げると何か違う?! 寝惚け眼で夜中から降りだした雨に去年の南富良野を思い出し避難か?と窓を開けて外を見ようとした。

◆その時、昨夜は調子が悪くて点かなかったはずのテレビがガチン!と音を立てて繋がり「ミサイル発射ミサイル発射、直ちに地下か頑丈な建物に避難してください」と字幕と音声が流れたすぐ後にアナウンサーによるテレビ中継が続く。時刻は6時過ぎたばかり。避難が必要な地域は北海道を筆頭に関東北部を含む東日本だ。離れて暮らす家族の地域を瞬時に探すと茨城県がヒットしている! 繰り返し避難しろと云うけれどいったい何処へ? 

◆泊まっていた宿は山の途中に在る為、玄関は1階だが、地下にシャワー室があるから其所へ?な どと考えつつ何と無く貴重品をまとめるが、特に館内放送はなく他の部屋も起きてはいるようだが部屋の外に出てくる人はいない。どうしていいか分からずトイレを済ませて部屋に戻ると「ミサイル通過」の文字が。その間、約10分ちょっと。ほっとしたが、次の瞬間ゾッとした。落ちていたら逃げるのは間に合わなかったという事だ。

◆朝食は隣接のホテルで極上のバイキング。大好きなフレンチトーストは勿論、富良野牛乳、農家直送新鮮野菜や生ジュースに豚丼など美味しくて朝から珍しくいっぱい食べてしまった。特にイクラや刺し身の沖漬けはおかわりしてお腹はパンパン。これが続いたら確実に痛風行き(笑)

◆チェックアウトして一走り自転車で回った後、農業仕事で富良野に来て去年からお世話になっている整骨院に寄る。この先生は、まるで私の筋肉が目に見えてるんじゃないかと思うくらい効果的な治療をしてくれる。痛む腰や足を曲げたり伸ばしたりして、終わってみると身体がずっと伸びてシュンッと軽くなっているのだ! 富良野巡業に来た朝青龍や武藏丸もかつてはお世話になったらしくサインが飾ってある。

◆うつ伏せになったまま、「今朝、先生はどうしてたんですか?」と訊いてみた。すると「寝てましたよ〜。家内は起きてテレビを見てたようですけど」「!!」「避難ったって逃げる場所もないですもんね〜」。そうだよね。夜、寮に帰宅してから会った女の子も「私の携帯は鳴らなかったので知らなかったんですよ、夕方聞いてびっくりしました」。寮でも特に放送は流れなかったそうだ。

◆ということは、たまたまスマホに知らせが来るかテレビかラジオを見てた人だけが知り、緊張していただけという10分間ということになる。「政府は国民の為に万全を尽くし」たという。防空壕もパニックルームも持たない多くの国民を守るのは大変だ。ミサイル迎撃?!(石原玲

カヌー「ツクヨミ」で海の旅

■この夏、大分から山口まで僕はツクヨミという名のカヌーで旅をした。ツクヨミは21年前にパラオのナカムラ元大統領が、父親の出身地である三重県にパラオとの友好が続くようにという願いを込め、寄贈したものだ。かつて遠く離れた人々を繋ぐ唯一の手段だったカヌーは、友好や人と人との結びつきを象徴するものとして、パラオでは扱われているという。

◆そんなツクヨミを借り受け、宮崎から三重県までを神武天皇の東征のルートに倣いながら航海するのが、今回のプロジェクトだ。キャプテンは奥知樹さん。帆船「日本丸」の船長である彼は、一昨年ホクレアに乗り、サブ・ナビゲーターとしてバリ島からモーリシャスまで航海している。そんな知さんに誘われ、このプロジェクトに集まったメンバーと共に、僕は九州から瀬戸内の海に漕ぎ出した。

◆ツクヨミはシングル・アウトリガー型のカヌーで、定員は最大で5名。一本の丸太をくり抜いてつくられている。船体にセイルがついていて、風に乗れば5ノット(時速9キロ)ほどで帆走することもできる。海の上で風を感じながら走るのは、とても気持ちが良かった。今年は宮崎から広島まで。あとふた夏をかけて三重県まで航海する予定だ。(光菅修

格好いい跳人を目指した、その先にあったもの

 ■毎年のことですが、今年も跳人(はねと)として青森ねぶた祭に参戦してきました。ねぶたの魅力に取り付かれて15年、格好いい跳人になることを目標に活動してきたわけですが、ここ数年は、格好よく跳ねること自体は自分の最終目標ではなかったのではないかと感じるようになってきました。

◆ねぶた祭りに参加して跳ねていると、充実感が体の奥から湧き上がってきてどうしようもなくなる瞬間がごくたまにあります。その瞬間には、跳ね方とか周囲の反応とか、疲れとか足の痛みとか、そういうものは一切どうでもよくなって、ただただ純粋に自分がこの巨大な祭の中に一体化して跳ねているという、そのことだけに喜びを感じるようになります。

◆この最高の時間を味わうことこそが、いまの私の跳人としての最大の楽しみになっています。これはスポーツで言えば「ランナーズハイ」のような状態に似ていると思います。あるいはウルトラマラソンの最中に経験した、夢の中を走っているような朦朧状態にも似ています。完全な自己陶酔の世界。ただ跳ねて楽しいということとは違う、言葉に表せない満足感がそこにはあります。

◆この境地に至るには、いいねぶたはもちろんのこと、いいお囃子、いい跳人仲間、観客の声援など、自分の気持ちを最高潮に盛り上げてくれる舞台が必要です。そして何よりも、自分自身がその舞台にふさわしいレベルの跳人でなければなりません。ねぶた祭という大舞台に完全に一体化するためには、自分自身が最高のパフォーマンスを発揮する必要があります。そして、その一体化の先に、一段階違ったねぶた祭の世界が広がっていることを知ってしまったのです。

◆格好いい跳人を目指した結果として行き着いた世界を手放さないためにも、これからも跳人としての自分を追求し続けなければならないと、夏が終わるたびに強く思います。(杉山貴章


通信費、カンパをありがとうございました

2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。「会費」として振り込んでくださる方もいますが、地平線会議は会員制ではないので会費はなしです。皆さんの通信費とカンパが活動の原資です。当方の勘違いで受け取りたくないのに送られてきてしまう人、どうか連絡ください。購読希望が増えていて部数はあまり増やせないのです。通信費を払ったのに、記録されていないなど万一漏れがあった場合はご面倒でも江本宛てお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで添えてくださるとありがたいです。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。(江本

藤木安子(5,000円 通信費2年分+カンパ)《7月末に受領したのに8月の通信に記載漏れ。すみませんでした》/田中雄次郎(10,000円) 《今も北海道で酪農を頑張る地平線通信第1号からの仲間。高校で地学を教えていた三輪主彦の一番弟子》/吉竹俊之(遅くなりまして申しわけありません。最近会議に参加できておらず残念です。地平線通信楽しく読ませていただいております。今後共よろしくお願い致します)/鶴田幸一(ある時に少しずつでもお払い申します。ありがとうございます)/近藤淳郎(10,000円 8月17日 いつも通信ありがとうございます。どうでもいいことですが、通信を送っていただく住所、松波町と詩的なお名前でいただいておりますが、特上でも上でもなく『並』でございます。でもちゃんと届けていただいています)《ありがとうございます。住所訂正しました》/渋谷嘉明(10,000円 通信費5年分。行きたい!聴きたい!と思っていた角幡唯介さんの報告レポートありがとうございました。単行本出たらすぐ買います。 山形県酒田市)/田中律子(今後毎月楽しみにしています)/永田真知子/京馬伸子10,000円(みんなの文章を読んで、「あっ会費払ってない!何年も!」と思い出しました。5年ほど前から、リウマチを発病し、関節がやられて、だんだん海辺を歩けなくなる日々です。「神々の山嶺」(夢枕のではなく、谷口ジローの)を読んでいました。「岳遊社で出している地平線会議」という文章があってびっくりでした!)/三羽望/渡辺久樹/世古成子(6,000円 3年分)

「夏休みサイコー」

■ぼくの夏休みは母の田舎である北海道に行ったことから始まった。その中でも釣りは一番の思い出である。海釣りは3度目で、昨年、今年と2年続けての祖父とのカレイ釣りである。7月27日、太平洋の浜厚真港よりプレジャーボートで出航。40分位移動してポイントに到着した。えさはイソメを使った。昨年は面白いほど釣れたが、今年はほとんど釣れない。

◆船頭さんが海水温を計ったところ「23度もある!! だめだこりゃ」と言っていた。本来ならば17〜18度が適温らしい。地球温暖化の影響を実感した。それでも最終的にはポイントを何度か移動して、宗八カレイ6尾ほどと、カジカが釣れた。ぼくが釣ったのは20cmサイズの小さなものだったので、引きはあまり強くなく釣り上げるのは楽勝だった。

◆酔い止め薬を飲んだのに船酔いしたり、釣り針を指に刺したりと、大変な事もあったが、祖母が作ってくれたカレイの唐揚げと母が作ってくれたカジカ汁はとても美味しかった。残りのカレイは東京でお留守番をしていた父へのお土産にした。

◆北海道から戻った後、8月12日から3泊4日の予定で家族3人そろって八ヶ岳の山小屋に遊びに行った。登り徒歩3時間。山小屋では小屋のお手伝いもした。主な仕事はお客さんの食事の盛り付けや配膳、食器拭き、布団の上げ下ろし、小屋の掃除などだ。小屋では夏に薪出しをする。僕も挑戦した。薪出しでは昔ながらの背負子を使った。2往復で合計約30kg運んだ。

◆小屋に滞在中は天狗岳にも登ったが、天候不順で景色はあまり見えなかった。日の出も毎朝見に行ったが、やはり一度も見ることが出来なかった。でも星は一日だけ観賞できて良かった。こんなに楽しかった夏休みも、そろそろ終わり。夏休みの最後は地平線会議の報告会で幕を閉じた。小口良平さんのお話の中でイランのエピソードと「百聞は一見にしかず、百見は一験にしかず」という言葉が印象に残っている。自分で見て、体験して、感じた事を自分の言葉で伝えることが大切だと、僕も感じた。(長岡祥太郎 小6)

【速報】 カムチャツカの名峰に登頂

【3月9日】カムチャツカの名峰アヴァチャ山に登頂し、ベースキャンプまで戻りました。今からエリゾヴォの宿泊地に戻ります。火山からの景色は圧巻でした。【3月10日】本日はペトロパブロフスクカムチャツキーにて食料の買い出しやお土産の購入をしました。明日は航空会社のチーフにご挨拶に行きます。13日にウラジオストクに移動し、14日に東京に戻る予定です。(早大探検部カムチャツカ遠征隊)

ゾモTシャツ好評発売中、ドライ素材もあり!

祝!1800枚突破。ランタン谷復興支援の「ゾモTシャツ」はWebサイトで注文を受け付けています。ただいま在庫が限られているので、合うサイズと色が見つかればラッキー! 好評のドライ素材もあります。ぜひサイトにアクセスしてください。https://dzomo.org


先月号の発送請負人

も書き終えたところで、一瞬にしてようやく書き上げた2000字ほどの原稿が消えてしまいました。余計な、ほんの2文字を修正しようと「削除キー」を押した途端、削除範囲の設定を間違えてしまっていたのでしょう、あっ、という間に……。◆すでに16時。レイアウトを頼りきっている森井祐介さんに話し、仕方なし、フロントを初めから書き直し始めた。一度書いたのだから30分で書けるさ、と言い聞かせたがとんでもない。75分ぐらいかかった。それも当初の文章とはかなり違っていました。でもとにかくフロントを書き上げ、慌ただしく麦丸のトイレ散歩を済ませて榎町地域センターに駆けつけた。もちろん皆さんすでに集まってくれていたが、ただ静かに座っている。やはりまだ印刷と折(機械できれいに折る作業)が進行中なのでした。私のミスのせいで待たせてしまい、申しわけなかったです。夏休みのあわただしい時期であろうに、この日駆けつけてくれたのは以下の15人です。
森井祐介 武田力 落合大祐 白根全 兵頭渉 中嶋敦子 大西夏奈子 坪井伸吾 新垣亜美 伊藤里香 杉山貴章 前田庄司 光菅修 江本嘉伸 松澤亮
新垣さんは遠く屋久島から駆けつけてくれました。ふだんは通信の編集校正をやてくれている大西さんは久々の登場でした。単純な作業にこれだけの方々が参集してくれるのが、地平線会議の底力と感じます。皆さん、ありがとう。(江本


ぶらり沖縄路線バスの旅

■8月の末、沖縄の那覇へ遊びにいった。碁仇との対局、そして一般の人が利用する路線バスに乗ることが目的だ。那覇市内は均一料金230円だが、市を出ると料金が細かく変わる。小銭を用意しなければならない。最近バス用のICカード「OKICA」が利用できるようになり、気楽にバスに乗れるようになった。

◆現在、那覇のバスターミナルは工事中だが、バス路線の番号がわかればさほど不自由ではない。那覇の中心部から1時間から1時間半ぐらいの範囲で3方向のバス路線を利用してみた。車窓からの印象は、バスの走る道路は見事なまでに整備され、脇道でも不自由なく車が走ることができる。

◆豊見城市役所の近くにある「道の駅 豊崎」を訪ねた。平日の午後だったが、繁盛して人の出入りがあった。ところが、外へ出てみると道を歩いている人をまったく見かけない。買い物には車で来て、車で帰るということが当たり前になっているらしい。道路整備は車のためということか……。それにしても、この素晴らしい道路の整備の費用はどのように捻出されているのだろうか。

◆バスの車窓から眺めていて、赤瓦をシックイで固めた沖縄特有の木造の家をほとんど見かけない。道路が整備されるとともに、人々の生活水準が上がり、台風の被害を受けにくいコンクリートの家が多くなったということか。それでも奥武島へ行く道路の周辺は緑が豊かで、高いところから見えた海は、ほっとする沖縄の海でありました。(森井祐介 囲碁指南)

運転手のナラさんとモンゴルからバイカル湖へ

■柚妃と二人で四度目のモンゴルに行ってきました。今年は国境を越えてロシアへも足を延ばす計画です。毎年一緒に旅をするモンゴル人運転手のナラさんが、ぜひ二人にバイカル湖を見せたいと誘ってくれたのが二年前。去年はビザの取得が間に合わず断念。日本人がビザを取るのは至難の業だと誰かに言われたので、ろくすっぽ調べもせずに諦めてしまったのです。

◆その年にナラさんが脳梗塞の発作で倒れ、少しの後遺症を得て復活。アルハンガイの草原にナラさんの弟の運転で行って過ごすことができました。その後今年の春までに三度の発作を繰り返しさらに後遺症がひどくなり、歩くのもしゃべるのも困難になったという情報もありました。今年の旅をなかば諦めていたある日ナラさんからメッセージが。曰く今年はロシアに行けそうかと。

◆え!? ナラさん大丈夫なの?と半信半疑でしたがとにかくビザ取得に動きました。やってみれば何のことはない、写真一枚とパスポートを送れば翌日には発行してもらえることが分かり、柚妃の分も一緒にすぐ取得できました。細かい旅程はモンゴルに行ってから決めることとしてお土産をたくさん持ってモンゴルに飛びました。会ってみれば以前よりゆっくりになったものの歩くことも話すこともできていたし、本州縦断するぐらいの長旅にも積極的に関わってくれました。

◆モンゴルからロシアへの国境越えは極めて危険で入国が果たせない可能性もあるとのベテランの意見もありましたが、正規のイミグレを通過する分には問題ないというネット情報の方を信じ、案の定一時間ほどの手続きで人も車もすんなり国境を越えることができました。これがナラさんが見せてくれたかったバイカル湖かと思うと、涙がこぼれるほど朝焼けに感動しました。

◆そこからいつも行くモンゴル・アルハンガイの草原へ。草原では13人家族が住むゲルに混ぜてもらいましたが、その横にテントを張って泊まる大家族がいました。モンゴル各地から集まってきたナラさんの兄弟たち、息子たち、そしてその家族総勢10名です。例年と同じように馬に乗って家畜を追ったり乳搾りを手伝ったり子供同士で遊んだりという楽しみのほかに、今年は一大イベントが待っていました。

◆朝ほふった羊肉を串に刺して焼く盛大なBBQパーティーです。あちこちのゲルから友人たちもどんどん集まってきて延べ40人ほどが酔いしれる宴になりました。次々に歌を披露し皆がそれに合わせて歌い、グラスに注がれたアルヒを回して豪快に空けていきます。柚妃もモンゴルの童謡を披露しました。話が尽きることなく日付が変わるころやっとお開きに。

◆おそらくこれがナラさんにとっての最後の旅になるでしょう。約束のバイカルを見せてくれ家族との濃い時間を過ごすことができてよかったと思う反面、運転手にとってもう運転することが叶わない、自分の大切な相棒である強くて頼れる四輪駆動車を処分せざるを得なかったという身を切るような辛さが手に取るようにわかりました。柚妃がスーパーヒーローと憧れたナラさんではなくなったけれど、大好きなナラさんであることに変わりはありません。

◆ナラさんから遠い人ほど今回の旅を危惧して行くなと忠告してくれましたが、本人がなぜこの旅を実現させたかったかを考えれば、病に悪影響があろうとも誰も止めるべきではなかったと思います。私は少しでも力になれればと、病気について調べ専門家に相談し、ナラさんが楽に暮らせるための手助けを始めたところです。(瀧本千穂子

医療ボランティアで訪れた聖地ドルポの現実

■NPO活動の一環で訪れていたドルポから、8月20日に帰国しました。ネパール全土にわたる天候不良で、キャラバンは難渋。チベットの気候文化圏にある奥ドルポの天気は、比較的安定していたのですが、ダウラギリ山群の南部の悪天の為、下山時には、4000mのドゥ・タラップ村に閉じ込められて8日間の停滞を余儀なくされました。まさにシージホスの心境で、いつとも知れぬ脱出の日をじりじりとして待たねばなりませんでした。

◆ネパールガンジからティンギュー村(4200m)までの1週間の道程は、川の氾濫で橋は流され、腰から肩までの激流を馬で渡渉したり、ザイルなしでの断崖絶壁の高巻を強いられたりの悪戦苦闘。さらに帰路のヘリでは、雲中で視界の効かない中、山腹激突の直前の急旋回の連続など、スリル満点のアドベンチャーとなってしまいました。カトマンズに着いたときは、心底ほっとしました。

◆モンスーンの時期とはいえ、下山路にあたるネパール南部はこれまでにない悪天で、地球規模での気候変動と関連しているのかも知れません。 医療面では、B型肝炎ウイルス(HBV)の蔓延状況を 把握するため、ティンギュー村のスクールの児童生徒100名を対象に調査しました。BDセーフティ・ランセットという器具で指を穿刺し、キャピラリーで50μの全血を採取、ダイナスクリーンHBsAgUというキットでアッセイしました。

◆約10分で定性試験の結果は判明し、感度は良好。驚くことに、4人に一人、25%がHBVのキャリアーでした。きわめて高率であると考えます。本当にこれほどとは。背景にはチベット独特の文化の影響もあるのかも知れません。 私たちがド ルポ基金で援助していた奨学生の一人は、昨年フィリピンの大学で医学部コースへの進学が決まっていたのですが、健診でB型肝炎ウイルスのキャリアということが判明し、医学部へ入学が(成績はクリアしていたのですが)かないませんでした。

◆HBVキャリアーが、医療に従事できないのは日本では考えられないことですが欧米ではスタンダードのようです。 奥ドルポは、ネパール政府の力が及ぶことのない辺境の地ですので、今後はワクチンの投与の可能性を、NPO/ドルポ基金で検討し、垂直(母子)と水平の感染予防を行うことで、少しでも、えにしを感じる地域の感染者を減少させることができればとと考えています。

◆ドルポでは、アムチ(チベット医)の診療所やチベット仏教のニンマ派およびボン教の寺院の壁画を観察することができ、その意匠に新たなるインタレストを抱きました。前回のドルポ訪問は、医療支援に加えて、河口慧海の『チベット旅行記』にある越境の峠のトレースがテーマの一つでしたが、今回は、スネルグローブの『ヒマラヤ巡礼』の足跡も視野に、ささやかな追体験をすることができました。

◆この時期はティンギュー村に近い国境の峠・マリユンラで交易が行われるため、大規模なヤクや馬の移動も見られました。交易の主役は冬虫夏草。ドゥ・タラップ村からティンギュー村を結ぶ5050mの峠・コイラ付近は、良質な冬虫夏草の宝庫です。乾燥させた一本が千円から3千円の高値で売買され、50kgの個人取引もなされているとのことでした。

◆ドルポの文化の根底には、チベット仏教という地下水が滔々と流れています。しかし、この祈りと自然に満ちた聖地にも中国からの物質文明と市場経済が本流のように押し寄せ、浸食されつつあることを実感しました。 ドルポはどの ように転生してゆくのでしょうか。ドルポの峠になびく風馬(ルンタ)は、諸行無常の理を伝えながら、天空を目指して舞っているように見えました。 帰国後は慌しい毎日に忙殺されておりますが、 またお話しできることを楽しみにしております。(神尾重則 医師)


チベット講演会のお知らせ

■一般社団法人広島県山岳連盟では、毎年秋に「山岳・辺境文化セミナー」を開催し、内外で活躍される著名人を招いて講演会を開催しています。25年目を迎える本年は、江本嘉伸さんを講師としてお招きし、「なぜチベットを目指したのか……」と題して廃仏毀釈など仏教界の危機が叫ばれた当時、命がけでチベットを目指した能海寛、河口慧海、寺本婉雅を中心にお話しをしていただきます。多数の御来場をお待ちしております。

日 時:10月7日(土)15:00〜17:00(14:30開場)
場 所:広島市西区民文化センター
受講料:2000円、地平線通信のバックナンバー呈示で御招待(無料)とします。
申込み、問合わせ先:
   mail:
   tel:090-7373-6432(豊田和司 地平線通信読者)


今月の窓

夏帆、30歳になりました

■7月、娘の夏帆(なつほ)が30歳になりました。仮死で生まれ5分間泣かなかった赤ん坊でした。最重度の障害をもって生まれ、5年生存率は30パーセントと当時の医学書にありました。よく、ここまで生きてくれました。「なっちゃん、おめでとう! ありがとう!」という思いでいっぱいです。

◆生まれた病院から未熟児医療センターに移送され、生後5か月で脳障害を専門とする大学病院に転院しました。24時間付き添い、ケアのほとんどを親がやります。この生活の中で、私が島へ行くことも仕事を続けることも不可能と思われました。「旅をあきらめなくてはならない」と思ったのです。

◆江本さんが夏帆に会いに来てくださり言いました。「なっちゃんは病気かもしれないけれど、真智子さんは病気ではないのだから、月に1本でもいい、仕事をしなさい」と。月に1本なら、できるかもしれない……夏帆が眠るベッドの上に原稿用紙を広げ、写真を並べました。そしたらハッとしました。夏帆の病気を理由に母親が自分のライフワークをあきらめてしまったら、辛くとも懸命に生きようとする娘に対して失礼ではないか。

◆夏帆の病名は、「点頭てんかん」で、その後遺症により重度の知的障害と重度の身体障害が残ると説明されました。歩くことも、座ることも、言葉を持つことも不可能です。今から28年前、2歳の夏帆は隣家の保育園に通うことになりました。あまりに障害が重く、区立の障害児通所施設すら入れてもらえなかった時代でした。重度の障害児が保育園に入ったのは都内23区で初でした。すなわち全国で初の「前例」となりました。

◆その後、23区は前例に従い横並びに保育園に入れるようになりました。今は、健常児ですら保育園に入れず、待機児童が社会問題です。頑張れば昇ることができると信じられた時代が、いつごろから下降線をたどり始めたのか……? 夏帆はたくさんの旅をしました。私の第二の故郷沖永良部島へ2回、奄美大島へ3回、佐渡島へも3回。今までに40回以上旅をしていて、島には11回行っています。

◆島旅のネックは飛行機の座席です。小さな飛行機の座席に座ることが難しく、旅そのものが本人にとって苦行になってはいけないと思うからです。障害のある人の命の峠は、5歳前後、思春期の頃、30歳前後と言われています。16歳の頃「長くは生きられないかもしれない」という感覚を持ちました。お子さんを亡くしたお母さんが「子どもが死んだあとは、辛くて写真を見られない」と語っていたのを思い出し、生きているうちに!写真展をやろう!と思いました。

◆島の会「ぐるーぷ・あいらんだあ」を一緒にやってきたデザイナーの清水良子さんが一緒に写真を選んでくれました。島の写真は仕事意識をもって撮っていますが、夏帆の写真はコンパクトカメラで撮ったものがほとんどです。写真展の貸会場というのがとても少ないということもわかり、ニコンサロンの審査に応募することにしました。写真を選び終わったところで清水さんが言ったのです。

◆「これで落ちたら、ニコンは見る目がないね」と。(しとやかな清水さんが、なんて図々しいことを言うのだろう……とびっくり!)新宿ニコンサロンと大阪ニコンサロンでの写真展『生きる喜び』には、地平線会議のメンバーにもたくさん来ていただきました。写真は、時に言葉以上に語る、言葉を持たない夏帆自身の思いを伝えることができるとわかりました。

◆18歳になると障害「児」は障害「者」になります。守るべき存在が社会のお荷物になるのです。この頃から、預け先での事故や医療ミスなどさまざまな課題を抱えるようになりました。脳障害のある人は専門医のいる小児科にかかり続けるのが一般的ですが、個室しか入院できなくなり医療費が莫大になりました。さらに、「病院を追い出される」という「医療難民」になりました。呼吸状態が悪くなって救急車を呼んでも入院できる病院がないという現実に直面。

◆夏帆は22歳で胃ろうにしました。誤嚥による肺炎を防ぐため口から食べることを中止しました。27歳の時に気管切開をしました。これは、呼吸困難になっても入院ができないという危機感から、前もって首に穴をあけておくという生きるための最終手段です。元気なうちに計画的に実施する気管切開なので、高度な術式に挑戦しました。その結果、夏帆は元気を復活、口から食べることも復活しました。気管切開をした後は、私は専業母になる覚悟でしたが、入院も病欠もしない夏帆のおかげで私も仕事の旅を復活しています。

◆そんな中で、2016年に相模原の入所施設で元職員による障害者殺傷事件が起こりました。46人が襲われ19人が死亡したのです。「障害者は生きる価値がない」と犯人が言ったと報道されました。しかし、事件の本質はもっと深く、複雑なところにあるように思われます。「役に立たない人は生きる価値がない」という「優生思想」につながっていくからです。命の選別をしてよいのか?という問いかけになります。

◆今、30歳になった夏帆自身の活動として、「障害があっても生きる価値はある!」ということを社会に伝える活動を始めたいと思います。具体的には写真集『生きる喜び』を増刷し、障害者25年間の「素顔」を多くの人に見てもらいたいと思います。2冊買っていただき、1冊をたとえば、看護学生に届けるようなことができないか、方法を模索中です。夏帆の「生きるという旅」は続きます。(河田真智子


あとがき

■麦丸との別れとはまったく違う、思いもかけない理由で今月の地平線通信の編集は難航した。私の右眼がなんとまた「網膜剥離」を起こしてしまったのだ。あれ? 右眼の下の方に何か陰ができている……と気がついたのが8月28日。翌日近くの眼科医に診てもらった(1月のは左眼だった)。

◆結果は「やはり網膜剥離です」。その足で前回と同じ代々木の病院に行き、執刀してもらった。1年のうちに2回も剥離を起こすなんて滅多にないらしい。原因はいろいろあろうが、やはり老いが第一なのだろう。痛みもなく、眼帯も翌日からはなしで大丈夫なのだが、厄介はやはりあった。

◆網膜を貼り付けるために右眼全体にガスが注入されているため、風景はゆらゆらしている。とりわけ下に顔を向けてパソコンで読んだり書いたりする作業が、実はいまも大変なのだ。夏だよりのはがき1枚ぐらいは、とやってみたら打ち込むのになんと4日もかかる始末で、そういう仕事は諦めた。

◆眼が問題だし、わんこの件もあり、できれば簡潔な通信にしたかったが、先月分の夏だよりがそのまま持ち来されたかたちで、20ページの大部になってしまった。しかし、それぞれ内容のある原稿なのでまあ、よかったかな、と思う。

◆麦丸を案じるハガキもいただき、感謝しています。お返事はこの通信で代えさせてもらいますが、お心づかい忘れません。麦丸との日々は多くの写真とともに残っている。皆さん、ありがとう。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

気まぐれ地平船
〜ウラ仕込み三題噺〜

  • 9月22日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「丸木舟航海のセキュリティを確保するために、F国のCIA長官と交渉するハメになった時はビビったゼ〜」と言うのは白根全さん。かのグレートジャーニー(GJ)の裏方としてルートに先行し、世界各地でタフな交渉役を務めました。

“今だから言えるヤバい話”も無尽蔵にあるとか。全さんの本業(?)は旅人ですが、世界に二人しかいない《カーニバル評論家》として世界中のカーニバルに精通した写真家の顔も持っています。

一方、地平線会議設立の第一義であった年報『地平線から』の最後の編集長でもありました。全さんが手がけた6〜8巻の現場奮闘記は涙無しでは語れません。

この九月から39年目に突入した地平線報告会は全さんによる三題噺〔裏方(GJ秘話)〕〔現場(カーニバル評論家の秘密〕〔記録(『地平線から』の作り方)〕のご披露で幕開けです!


地平線通信 461号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2017年9月13日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


to Home
to Tsushin index
Jump to Home
Top of this Section