2017年7月の地平線通信

7月の地平線通信・459号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

7月12日。毎年、繰り返すことだが、猛暑である。地平線通信を出す日、どんなことが起きているかを記録するため毎号、ぎりぎり印刷直前のこの瞬間、世界と日本にどんなことが起きているか、身体で受け止め、記録しようとしている。笑われるだろうが、いまこの通信を手にしている皆さんの全てがいずれこの世を去る。しかし、地平線会議のウェブサイトだけは記録が残るかもしれない。実際、1995年9月以後の通信はしっかり保存されている。

◆実は10時30分から、近くの会議室でNPO法人WE「ウィメンズ・アイ」の理事会に出席していたのでこのページの書き出しも遅れた。石本めぐみ代表を中心に3.11当時から地道な女性支援の活動を始め、5年前にはNPO法人として新たにスタートした。時には海外に行ってさまざまな分野で活躍する女性たちと交流。主軸は東北に住み込んでの活動だ。

◆最近、事務所を登米市から南三陸に移し、「パン工房 oui(ウィ)」の開設など地元の女性たちに寄り添った、生きた活動を続けている。3.11直後に「RQ市民災害救援センター」を立ち上げたボードメンバーの一人として、そんな女性たちを今も後方支援している(一応私も理事の1人)が、現地視察やパン工房の支援カンパなど時に地平線の仲間たちも参加してくれているのが心強い。

◆モンゴルではきのう、今日の2日間は、国民の祝日「ナーダム」だ。遊びを意味する言葉で「エリン・ゴルバン・ナーダム(男の三つの遊び)」と言えば、競馬、相撲、弓の三種の競技を指す。ウランバートルの友にスカイプで様子を聞いてみると、相撲はいま「三回戦に入っている」ところだという。ご存知のようにモンゴル相撲は、草原を舞台に進められ、いわゆる土俵はない。

◆年に1度のナーダムでは516人の力士が参戦するので2日がかりの試合となるが、2日目の午後でまだ三回戦とは随分遅いではないか。あらためて聞くと、今年は1032人の相撲取り(ブフ)が参加しているのだ、という。ええ?そんなに多くあのスタジアムに入れるの? 地方からの参戦希望者が多いそうで、それだけ相撲人気が高いということなのか。モンゴル人にとってはナーダムはひとつのチャンスなのかもしれない。そういうわけで優勝者になるには10回勝ち続けなければならない。結果は今夜遅くになるでしょう、と聞いた。

◆モンゴルではつい先日、注目の大統領選で、ダワードルジ(朝青龍)が強く推薦するバトトルガが、予想を覆して大統領に選ばれ、10日就任式が行われたばかり。有力視されていた与党・人民党のエンフボルド氏の親族に中国系の人がいると書き立てられ、心情的に中国嫌いが多いモンゴル人の間でにわかに形勢逆転したと聞く。新大統領は美術学校出身の格闘技選手という異色の経歴だが、さてどんな風が吹くのか。

◆日本も穏やかでない、しかし少しは健全かもしれない風が吹き始めている。7月2日に行われた都議選が小池都知事率いる「都民ファーストの会」が圧勝し、自民党は惨敗した。細かい経緯は省略するが、お粗末な出来事があまりに多く続きすぎ、きのうまで「抜きん出て一強」と言われてきた安倍政権がゆらゆら揺れ始めた。内閣支持率について各紙の最新の調査カッコ内は不支持率。朝日新聞:33%(不支持47%)読売新聞:36%(52%)NHK:35%(48%)。ただ、ではどんな勢力ならいいのか。

◆つい先日飛び込んできた、スペインのシュールリアリズムの旗手、サルバドーリ・ダリの遺体が発掘され、DNA鑑定される、とのニュースにはびっくりした。ダリがロシア女性のガラ(本名はエレナ・イヴァノヴナ・ディアコノワ)と運命的な出会いをし、10歳年長の彼女を生涯ミューズとして讃えたことは有名な話である。ふたりに子どもはいなかった。そこへ今になって「私はダリの家政婦をしていた母とダリの間に生まれた娘だ、DNA鑑定をしてほしい」と61才の占い師が現れ、マドリードの裁判所は鑑定を認めた、というのである。

◆実は、ちょうどロシア語の授業でダリとガラの深い恋愛がテキストとして登場していた時だったのだ。私なりに彼女のことを調べてふーむ、こういう運命的な出会いというものはあるのだ、と感心していたので、ええ?!と思ったわけである。火葬したわけではないので、DNA鑑定は不可能ではないらしい。とくに歯が残っていれば。

◆5年あまり続けているそのロシア語、今回の春夏のクールは明日で終わる。学生時代、山登りしかできなかったことを反省し、近くの上智大学での社会人クラスで学んでいるが、もちろん皆、留学、駐在経験が豊かで私などよりはるかにレベルが高い。それでも「ヴァロージャはぐっと進歩した。はじめはテキスト全然読めなかったもの」と、先週タチアナ先生は言ってくれた。私の授業の中での名は「ウラジーミル」、先生は愛称として「ヴァロージャ」と言う。(江本嘉伸


先月の報告会から

ランタンの希望のひかり

貞兼綾子

澤柿教伸 樋口和生

2017年6月23日 新宿区スポーツセンター

■6時20分を過ぎて、今日の前半の報告者・澤柿教伸さん、交通整理役を引き受けてくれた先月の報告者・樋口和生さんの待つ会場へメイン報告者の貞兼綾子さんがパタゴニアの可愛いリュックを背負い息せき切って到着された。また今日も道に迷ったらしい。こんなに道に迷う人なのにヒマラヤでは我が庭とばかりに駆け回るのだから、前世はたぶんあの辺りでお生まれになったのだろう。

◆まず前半は、2015年4月25日午前11時41分に起きたM7.8のネパール・ゴルカ地震(実際にはM7.8とM7.3と2回発生)、大雪崩の学術調査とドローンの活用について澤柿さんから。澤柿さんは剣岳の麓で育ち北大で地質学を学び、専門は氷河が作る山の地形。第34次、47次、53次南極観測隊でも調査されてきた。北大山岳部では樋口さんは先輩だが、南極観測隊では澤柿さんが先輩となる。現在は法政大学で「探検と冒険ゼミ」を開いている。次世代の極地研究者を育てるプログラムに関わったりフィールドワークの入門書も作成中。

◆ゴルカ地震が起こった年、澤柿さん自身は新しい職場に移ったばかりで、さすがに、ネパールに行きたいとは言えなかった。でも雪氷研究者やランタン村に関わっている人たち、人工衛星を得意とする人たちが周りにいるので皆で「いま、ランタンに起こっていること」を調べようということになった。ちょうど貞兼さんが地震後最初のランタン谷調査から帰ってきた時だったので、その報告を中心に緊急公開シンポジウムを開いた。

◆澤柿さんが行くことは叶わなかったが、現地調査は文科省の災害時緊急科研費を使って名古屋大学の藤田耕史准教授がリーダーシップを執り行なわれた。この緊急科研費は今年3月の何人もの高校生の命が奪われた那須雪崩事故の調査にも使われていて、ランタン調査に関わったチームが今、がんばっているのだそうだ。

◆現地に行けない澤柿さんたちは人工衛星の写真を使って、ランタン村を埋めた物質の厚さの変化の解析をした。地震前、直後、半月後、6月のモンスーン直前(雨期には雲でさすがの人工衛星もお手上げなのだ)そしてモンスーン開け。その時の画像によると物質は少しづつ減少したが一夏を超えてもまだまだ残っていたことがわかった。

◆突然、画面に大きな岩が映しだされた。以前チーズ工場があった横に鎮座していた大きな石で通称「チーズ岩」。それが地震でポーンと飛んで、360m(標高差100m)離れたこの場所に来てしまったそうだ。4.4トンもある大きな石をここまで飛ばすエネルギーってどれほどのものなのだろう?

◆さて、つまるところ、雪崩の発生源は何だったのか? 地すべり学会の土の専門家、雪氷の専門家と合同で画像を見ながら議論し、最後には両方という結論となったそうだ。でも、そもそもの最初は何だったのか?ランタンリルン西側の写真が映された。地震前と後では明らかに違う。上部にあった懸垂氷河が地震後にはガサッと無くなっている。これだけの量が落ちると下の雪などもまきこんで大きな雪崩となる可能性は大きい。

◆この辺りは長年、雪氷学会が調査してきた場所なので気象ステーションがある。他国のデータも照らし合わせた表を見ると地震の起こった年の前の冬の積雪量が尋常ではないことが一目でわかる。気温は平年並みだったが100年〜500年に一度の豪雪だったのだ。地道なデータの積み重ねや発生間隔と量の解析の結果、「500年に一度」という結論が導きだされるのだという。

◆映された写真の白いところは雪や氷でランタンリルン(標高7234m)の真下にある村(標高3500m位)が、4500〜5500m付近を発生源とする雪崩らしきものに襲われて完全に埋まってしまった。それは谷の対岸にまで達していたそうだ。雪崩の前後で増えているもの(多いところで深さ30m)は地表面温度も計測できる人工衛星での調査の結果、「冷たいもの」だということがわかった。写真では土か石のように見えるけれども、それは氷だったり、土砂の中に氷が入っていたり。谷底の川は流れつづけていたので、堰止湖ができなかったことだけは不幸中の幸いだったそうだ。対岸の木は堆積物はないので爆風でなぎ倒されたことが推測される。

◆2017年5月22日、名古屋大と法政大は気象データの解析から豪雪に着目した「ネパール2015ゴルカ地震によって引き起こされたランタン村の大なだれの被害は、冬季の異常積雪で増幅された」というプレスリリースを出した。

◆実際にはゴルカ地震とはどういうものだったのか。カトマンズの被害の写真や18名が亡くなったエベレストB.Cの雪崩動画を見せてくれたが、ランタン村の雪崩はこれとは桁違いの大きさだったという。極めつけはカトマンズ市内の様子が俯瞰してわかるドローン映像。YouTubeにアップされるドローン映像から3Dで形が復元できるのだという。

◆ゴルカ地震が起こった時に澤柿さんは、自然地理、雪氷学を専門としている自分に何か出来ることはないだろうか? でも現地には行けない。とにかくできることからやろう! 人工衛星の解析・地震発生事由の解説・発生箇所の推定など出来るかもしれないと、いてもたってもいられない気持ちでとりかかった。

◆アメリカでは災害時の調査のために人工衛星画像を無償提供するというシステムがあるので、さっそく申請して提供してもらった。また、アリゾナ大の教授の呼びかけで9か国50人以上(名古屋大の4名はチョーオユーとエベレスト担当)がネパール全土の被害調査に参加した。地すべり、堰止湖、氷河湖等のデータベース化は1年で終え発表された。名古屋大の4名のうちの2名はネパールからの留学生だという。この地震でカトマンズ周辺はもち上がり、山の方は沈んだ。その結果4300箇所もの地すべりがあったことがわかった。

◆ランタン被害の第一報はBBCのニュース。被害がどれだけ大きかったかがわかる。大阪市立大がこのときに登っていたランタンリの写真でもやはり頂上の形状の変化が確認できた。名古屋の会社、PRODRONEが高地調査に対応できるドローンを3機を無償貸与してくれ、くまなくランタン谷を撮影して堆積物を測ることができた。

◆「研究者は正確にと時間をかけてしまうんです」と澤柿さんは言う。けれども村の人々は一刻も早くランタン谷へ戻りたい。そのためには安全な居住地をみつけることが最重要課題で、これまでの調査をもとにハザードマップを作った。待ちに待ったハザードマップ、実際に作ってみると、もともと住んでいた場所自体が危険な場所だったことがわかったのだという。

◆貞兼さんによると、居住地、耕作地、放牧地を含め最適な場所が見つかったと思ったら国立公園だったり、村人が希望する候補地が安全とはいえない場所であったり、また、国際NGO・OM Nepalの支援で建てている仮設住宅がだんだん氷と土砂が混じった堆積物に近づいてきたりと、居住地の問題は非常にデリケートな問題なのだそう。新しいハザードマップが待たれるところである。堆積物が全部解けるには10年〜30年はかかるという。

◆今回で4度目の報告会登場となる貞兼さん。そのうち2回がゴルカ地震後になる。貞兼さんが初めて訪れた1975年に国立公園になったランタン谷は80年代には世界的なエコツーリズムムーブメントの中で全村移転の憂き目に遭いそうになった。そこで、貞兼さんに助けを求めたことがランタンプランの立ち上げのきっかけだ。調査研究のために村を訪れる科学者たちはいつも人の住まない氷や空や雲ばかりみている。でも、その研究が村人に何かの形で還元されなくてはいけないんじゃないかと、貞兼さんは常々思っていたそうだ。

◆1987年には自然科学者たちや樋口さんの協力を得て、水力発電に成功! 村に初めて灯ったあかりを見て「バターランプが108つあるよりも明るい」と村人は喜んだ。95年、98年には日本大使館の草の根無償援助を得て、公民館に明かりを灯し、夜は識字学校や環境教育を行なった。村の人々は毎晩、貞兼さんが出てくるのを待ち構えていたそうだ。その後、日本から専門家を招きチーズ工房やパン工房が建てられ、世界中のトレッカーたちにも喜ばれていた。

◆地震前のそんなランタン村の写真を見て「これはチェンガです。彼は亡くなりました。」「これは〇〇で……」村人が映るたびに一人ひとりの説明をする貞兼さん。頭の中にはほぼ全員のプロフィールがインプットされているのだ。それは貞兼さん自身の喜びや悲しみと幾重にも重なっているようにも思える。

◆科学者のネットワークを活かしてランタンプランは30年も続いてきた。そこに地震が起こった。「突発災害予算はどの地域に使っても良かったけれど、この関係があったからこそ科学者たちは『ランタンへ』というリクエストに応えたわけです。」貞兼さんを暖かくフォローするように樋口さんがまとめてくれた。

◆今年も3月8日から約2か月ほど、ランタン谷で活動してきた貞兼さんの主なミッションはゴタルー(gothalo 牧畜専従者)の支援とキャンチェン・ゴンパ(寺)の再建。地震後、カトマンズのイエローゴンパやその周辺に避難していた村人は今年の2月に全員が帰村できた。そこで、心を澄ましてゴタルーたちの声を聴いてみると「人に対しての見舞金というのはあるのに家畜にはない」ということに気づき、ゾモをゴタルーのもとに買い戻そうと考えたという。「対話が大事」という貞兼さん。今回はゴタルーにインタビューもしてきたので、いつかまとめたいという。

◆樋口さん率いる第57次南極越冬隊が購入してくれた57着のゾモTの支援金で購入したゾモには、隊員がランタンに行った時に自分が贈ったゾモだと判るようにと「メト(花)」という可愛らしい名前が付けられたそうだ。

◆キャンチェン・ゴンパの再建は、ランタンプランが施主となり、貞兼さん滞在中に高僧を招いて儀式を執り行い、仏様に一時他の場所に移っていただくというところから始まった。再建委員会の会議の机の上には250万ルピー(約300万円)もの現ナマの写真が! 村人総出で3日がかりで解体し、寺大工、石工、木工の職人50〜60人を集めて昔ながらの寺の復元を目指し現在作業中。8月末の竣工予定。

◆いままで、ランタンプランが主体で彼らを支援してきたけれども、地震を経験して、主体は彼らでこちらは彼らのすることをサポートするという形に変わってきた。それは彼らがこの30年に学んだことを蓄積して実践する実力をつけたということに他ならないそうだ。ランタンの未来は少しづつ明るい方へ向かっているのだ。

◆「かわいそう……ではなくて、社会のバックグラウンドを知ってもらいたいのです。そして、ぜひ、ランタンへ出かけてください。それが彼らへの励ましとなるのです」村でいちばん顔が広いランタンワ(=ランタン人)、貞兼さんは言う。

◆最後に1961年のランタン・リルンの遭難(3人が死亡したヒマラヤでの日本人登山隊初の遭難事故)の大阪市立大のメモリアルプレートは無事だったことと、貞兼さん滞在中にランタンを訪れた次世代の架け橋となるであろう学生が紹介された。ゾモ普及協会には今日(6月30日)新潟大学山岳環境研究室からゾモT 9枚の注文があった。4〜5月のランタンでの氷河調査の際に貞兼さんにお世話になったという。村でいちばん顔が広いランタンワは誰に対してもwelcomeなのである。こうやってまたひとり、貞兼綾子という人に魅せられていく。

◆地平線の次世代代表、滝本柚妃ちゃんからの質問は「自分の家よりもお寺を優先的に再建するなんて、お寺はどれだけ大事なんですか?」には「心が空っぽで、まず祈るところがほしかったのです」。村人と同じように心が空っぽになった人の言葉は深かった。(田中明美


報告者のひとこと

ご支援に心から感謝

 2015年4月25日に発生したネパール大地震でヒマラヤの小さな村が壊滅的な被害を受け、いてもたってもいられず現地へ飛んだのは、その1ヶ月後でした。地球創生期のカオスに放り出されたような村の有りさまに言葉にならない衝撃を受けました。このデブリの下にみんなが閉じこめられているのだと思うと、泣き叫ぶことしかできません。

 このランタン村の震災の現状と復興へのお手伝いについて、地平線会議で報告の機会をいただいたのが、帰国後の8月28日でした。

 今考えると、地震発生からこの最初の報告会までの4ヶ月間に整えられた日本のバックアップ態勢の素早さに驚きを禁じ得ません。一つは私を送り出すランタンプランの再結成、二つ目はゾモ普及協会の立ち上げ(最初の報告会の時にゾモTシャツの販売を間に合わせた)、そして日本の山岳主要6団体の対応。そしてこれらの組織を介してのご支援の輪は北海道から沖縄まで広がっていました。ヒマラヤがつないでくれたご縁というほかありません。

 もう一つ加えると、私の現地での活動が比較的スムーズに運んだのは、LMRC(ランタン復興運営委員会)の親身で固い連携態勢に支えられていたからだと思います。この6月、私の帰国後にネパールの統一地方選挙が20年ぶりに実施され、4人の村会議役員が選出されました。これからはテンバたちのLMRCに代わって彼らが村の再建にあたります。

 最後に地平線会議のみなさまからのご支援に心から感謝もうしあげます。貞兼綾子(ランタンプラン・代表)

助さん、格さんとして

■はからずも5月の報告会に引き続いての参加となりました。しかも今回は報告者として参加することになり大変光栄に思っています。地平線通信458号の「今月の窓」にも書かせていただいたとおり、話を聞きに行きたいと常々思っていた報告会に引っ張り出されることになったのは、貞兼綾子さんからの要請によるものでした。

◆5月の報告会に向かう前に、ランタン村から帰国されたばかりの貞兼さんと西早稲田駅の喫茶店で待ち合わせて、報告会をどうするかという、打ち合わせとも雑談ともつかない話を2時間ばかりしましたが、それが今月の報告者となる前振りだったとは、露も思っていませんでした。

◆丁度この5月末に、ランタン村を壊滅させた崩落物の正体とその発生原因をつきとめた論文が公開となり、そのことを名古屋大学と法政大学からプレスリリースしたところでしたので、その内容を一般向けに解説するつもりで話をすればなんとかなるだろう、ということで準備を進めてきました。しかしなんといっても主役はあくまで貞兼さん。図らずも進行役の長野さんから「助さん・格さん」と例えていただいたように、御老公の介助・引き立て役としての登壇、と考えていました。結局はかなりの時間お話しすることをお許しいただき、また、大勢の聴衆の方々に真剣に聞き入っていただいて、地平線報告会のポテンシャルの高さを実感したところです。

◆最後に、今回お話させていただいた内容は、名古屋大学の藤田耕史准教授が中心となってまとめられた成果で、欧州地球科学連合の科学誌「Natural Hazards and Earth System Sciences Vol.17」において2017年5月22日に出版された論文「Anomalous winter-snow-amplified earthquake-induced disaster of the 2015 Langtang avalanche in Nepal.」に基づくものであることを申し添えます。(澤柿教伸


地平線ポストから

7月の報告会を聞いて思ったこと

■僕は昨年の文化祭で、ユニセフの活動について調べて発表した。今回の報告会では、支援のあり方、また支援の具体的な方法などを拝聴でき、とてもためになった。特に、お金で支援するよりもその現場に行き、村人達のサポートをするのが大切だという話が心に残った。

◆東日本大震災の時には、僕はまだ幼稚園だったが「世界の終わりだ」と言うほどの揺れも、その後の津波の悲惨なニュースも覚えている。ネパールの大地震によって失われた命と、村人の生活を思うと心が痛む。村人に支援し続けるのは簡単なことではないし、お金もいくらあっても足りないだろう。だから、村人に出来ることを教えたり、今までやってきた事をサポートしつつ村を作り直すお手伝いをする事が大切なのただと僕は感じた。

◆なぜなら、村の復興は村人達自身でやっていかなければならないから。ランタン村では悲しさを乗り越えて、新しい村づくりが始まっている。そんな村人のためにも、誰もが幸せになれる村になってほしいと僕は思う。(長岡祥太郎 小6)

12年ぶりの地平線!
  浜比嘉島のヤギゴタルー、ランタン谷に深く思いを馳せる

■ひさしぶりの東京はカルチャーショックの連続だった。車内はほとんどの人がスマホに夢中、誰もがきれいな靴を履き(島ではみんな冬でも裸足で島ぞうり)誰もお腹が出ていない!(沖縄はアメリカ食文化の侵食でメタボ率が相当高い)。   さて、今回は12年ぶりの地平線報告会に参加したのであった。懐かしい顔と「わあ久しぶりー! 元気?」「おー、変わらないねえ」、初対面の方から「通信読んでます」とか「島に遊びに行っていいですか?」なんて言われて浮かれまくり。

◆そうした中、いよいよ貞兼さんたちのランタン報告がはじまる。私の浮かれた心はしゅうっとヒマラヤの谷へと飛んでいく。高所順応の散歩がてらゴンパを訪ねたり近くのチーズ小屋で計り売りのチーズを買い求めるのが楽しみだった、そんなことを思い出しながらスライドに映し出されるヒマラヤの山々が悲しいほど美しかった。

◆ランタン谷の人達はいま、貞兼さんと共に前を向き、着実に村の再建に向けて歩き出している。人々の心のよりどころであるゴンパの再建もまもなくという。貞兼さん、村の人々、みんなの絆の深さがすごい。スライド見ながら浜比嘉島のことを想った。島の人達も、何かあればみんな出てきて力を合わせる絆がある。そう、そして私もゴタルーだ。島で40頭のやぎたちが待っている。

◆二次会では光栄にも樋口さん、澤柿さんと、同じテーブルに座らせていただいた。まったく不思議なご縁である。樋口さんは、吉川謙二さんが隊長をした1991年のアンタークティックウォークを北海道で支援していたそうだが実は私も吉川隊支援の飯田橋の事務局で約半年働いていたのだ。そんでもってその飯田橋の事務局が間借りしていたのがたまたまネパールを扱う旅行会社で、隊が解散したあと私はネパールへ2ヶ月旅をしたあとすすめられるままそこに就職しその後ネパールにどっぷり浸かることになったのだった。

◆そしてもうひとつ、昔私が地平線報告会を一緒に話した(注:1990年2月、第124回「三台のバイクが見たそれぞれの日本一周」)土屋達郎君が!なんと今、越冬隊員として南極に行っているんだってー?! いやいや地平線がつなぐこの不思議な縁はなんなんだ。なつかしいやらびっくりするやら。本当に濃い時間を過ごさせて頂きました。今回上京にあたり色々ご配慮下さった江本さんや長野さんや武田さんに感謝感謝です。

◆長いブランクにもかかわらず温かく迎えてくれる地平線の仲間、いまの私があるのも地平線でのいくつもの出会いのおかげ。またいつか報告会に顔を出させてください。

追伸:あの地平線のアイドル、ナマゆづきちゃんに会えて嬉しかったですう。すごく的を得た質問に驚きました。脱帽。(浜比嘉島から12年ぶり地平線報告会に参加した外間晴美

ゾモT、1700枚超える!!

■ランタン谷から帰って来た貞兼綾子さんの報告会で、「ゾモTシャツはいままで1300枚以上売れた」と当日の司会、長野亮之介画伯に話してもらった。AI搭載、売れ行き予測もおまかせな「ZGUシステム」によれば、Tシャツ、トートバッグ合わせて「1304枚」と集計されていたので間違いではない。ZGU=「ゾモTをガンガン売っちゃうよ」のことである。

◆しかしこれには外間晴美さんが浜比嘉のヤギ牧場で売ってくれたり、57次南極観測隊員のみなさんが57枚買ってくれたり、という「人力」の数字が抜けていた。その数400枚以上。それをZGUに入力したところ「昨日のゾモ平均市況を元にすると、ゾモ38.4頭分です」との表示。40頭まであと少し! 100頭も夢ではない?

◆さて、一昨年11月の「日本冒険フォーラム」向けにライム、ゴールデンイエロー、エアーブルーといった鮮やかな色のTシャツを「地平線特別色」として作ったところ、これが意外にも売れず、不良在庫として残ったままになっていた。報告会でも売れず、毎月売れ残りを持ってトボトボ帰ることに。この5月にWebで売り始めて、ようやく完売した。ありがたや、Facebookで「いいね」してくれてる皆さま

◆そして、やっとダンボール箱を置くスペースが空いたので、Tシャツメーカーの鶴田洋二さんに頼んで「ドライ」生地のTシャツをいよいよ作ることになった。一昨年のゾモT販売開始当初、山ヤさんから熱望されつつ見送ったアレだ。オレンジとターコイズの2色。オレンジはKidsサイズも揃えられそう。鶴田さんから届くのが待ち遠しい。今月の報告会でお目見え予定なので、お楽しみに!(落合大祐


地平線の森
<地平線の森・ワイド版 その1>

『メコンを下る』

北村昌之著 2017年6月6日 めこん刊 667ページ 5500円+税

「メコン全流4909キロを11年かけて下った東京農業大学探検部学生・OBたちの記録(表紙カバーの文章から)」

メコンへの道とメコンからの流れ『メコンを下る』を読んで

■6月の梅雨入り間もない日、四万十市の我が家に分厚い新刊本が届いた。『メコンを下る』。著者は農大探検部の後輩北村昌之、出版社も「めこん」(笑)。1994年の源頭探検から2005年の南シナ海メコン河口まで11年かけて降下し、さらに執筆に11年を要したと挨拶状にあった。600ページを超える大著を一読して、「バカとは思っていたがそれほどとはなあ」が「バカもそこまでやると尊敬するわ」に変わった。

◆15世紀以後、コロンブス、マゼランたちが大航海時代を始めてから続く近代探検史の1ページを刻む活動と報告だ、と大げさでなく感想を持った。中国科学院との合同隊による「20世紀最後の地理的発見」と呼ばれるメコンの地理的源頭の発見は、かの英国王立地理学会も絡む英仏探検隊もライバルに出てきて、19世紀アフリカ大陸のリビングストンに始まるナイル河源頭探検史を彷彿させる。

◆21世紀に入って、2004〜05年の世界の川下り精鋭たちとのメコン初降下競争は20世紀初頭(わずか100年前)のアムンゼン、スコットの南極点初到達競争を思わせる。河川探検は過去30年で装備と技術が大進化した。かつて不可能と思われた大河の急流が次々に「初降下」され、この時期世界トップクラスの河川探検家たちの視線が未降下のメコンに集まっていたことが本書で書かれている。

◆国家や企業、機関などがスポンサーについた歴史的探検家と北村たち農大探検部隊の違いは物品スポンサー以外の活動資金を自前で働いて稼いでいること。その分時間はかかるが、成果を持ち帰る義務に縛られていない。相手側に発見成果を譲り、国際合同隊を組むフットワークの軽さもあり、初降下競争のライバルたちとメールで連絡を取り合っている。植民地化でも資源獲得でも発見資料の持ち帰りでもない。「一方通行の少年期の探検から、相互交通の大人の探検へ」と1970年代に故小松左京氏(SF作家)が期待した新しい探検を実践している。21世紀型地球体験のヒントが詰まっている。

◆本書冒頭で北村たちがメコンを目指すことになった経緯に触れている。1990年、農大探検部を中心にした長江源流航行隊は中国隊、アメリカ隊に続いてラフトボートで長江源流を下った。農大探検部2年だった北村の同期2人が参加しており、羨ましく眺めていたという。当時、農大探検部といえば川下りのエキスパート集団と関係者からは一目置かれていた。その歴史を遡れば、農大探検部と日本の大学探検部の系譜がかいま見える。

◆大河が大湾曲するように、以下しばらくタイムスリップしてメコン隊結成前夜の話を。1958年京大探検部の創設をきっかけに1960年を挟んで関大、早大、農大と続き、全国の大学探検部創設ブームがあった。第二次大戦後間も無く海外渡航が自由にできない時代で、人類最後の未踏の地ヒマラヤの8000m峰初登頂競争の時代となった。

◆これに参加したい日本の大学山岳部員が学術調査なら海外渡航許可を取れると探検部を創設し始めた。その後、海外渡航の自由化によって山岳部自体の登山遠征も盛んになり、探検部は登山技術を基礎としながら世界の辺境へと向かうベクトルか、より厳しい自然に対峙するアウトドアスポーツへと、フィールドを広げた。

◆1970年代まで洞窟探検と川下りは探検部の独断場だった。この頃始まった全国ラフトボート選手権大会の参加者の大半は大学探検部だった。筆者が1978年農大探検部に入部した年、江本さんたちが地平線会議を作るきっかけとなる全国学生探検会議が開かれ大学探検部創部20周年を記念した活動史が編纂されていた。

◆「大学探検部御三家といえば学者予備軍の京大、マスコミ養成の早大、現場実力の農大」と他大学の先輩から聞かされた。京大と早大は独立独歩で当時の学生探検会議に参加してなかった。農大は探検会議の幹事として、全国探検部の情報が集まっていた。川下りについても国内外のどの川にどの大学が遠征しているか一目で分かった。1980年代にカヌーツーリングがブームになる前で、川を何日もかけてカヌーやラフトで下る酔狂者は探検部員くらいだった。

◆装備も技術も思い返せば恥ずかしいほど原始的だったけれど、いたるところで熱烈歓迎を受け、駅のホームも小学校の校庭も宿泊 OKの牧歌的時代だった。1970年代までの学生探検部による海外の川下りの記録は早大のナイル(伊藤幸司氏ほか)、一橋大のアマゾン(関野吉晴氏ほか)、獨協大のマッケンジー(河村安彦氏)、日大のユーコン、関大のコロラド、農大のフレーザーとガンジスがあり、1980年関大が北アメリカ河川縦断カヌー行(ミシシッピー、サスカチュワン、マッケンジー)、81年の農大による南米3大河川カヌー縦断(オリノコ、アマゾン、ラプラタ)と続いた。

◆探検部間では大学の枠を超えてお互いに行き来し刺激しあった。1970年代、世界第二の経済大国になった日本の若者たちは一気に海外に出はじめた。そんな時代背景があって1979年に「地球の歩き方」が創刊され「地平線会議」が発足した。前者は個人旅のポピュラー化に貢献し、後者は旅のパイオニアワークを担った。80年代の登山界、8000m峰を超人メスナーを筆頭に14座全山登頂する猛者がパイオニアだった。

◆同時期、川は大河の未降下区間が多く残り、洞窟関係もその後多くの大洞窟が発見されている。1981年に農大の長江全流航行実行委員会が発足し90年にやっと許可が取れて源流部の降下を果たした。10年がかりの長江源流挑戦のあと、そのまま全流下りを目指すか、隣のメコンに行くかと酒のみ話くらいは仲間内でしていたが、その後22年!もかけてメコンをやり遂げる奴が出てくるとは思わなかった。

◆探検家を志して東京農業大学探検部へ入部(1989年)と北村のプロフィールにある。山岳技術と学術調査技術もしっかりし、洞窟と川の遠征を続けている北村にとって、この2つのフィールドがパイオニアワークの場なのだろう。本書にも北村の川、洞窟、森の次期探検計画が語られている。ことし3月、地平線会議創設の主要メンバーで第一回報告者の三輪主彦先生が四国遍路途上で四万十の我が家を訪ねてくれ昔話に花咲いた。「農大の『川』は誰が始めたの?」ときかれてうまく答えが出なかった。

◆記憶を辿れば山田和也先輩(グレイトジャーニー、グレイトサミットディレクター)たちがフレーザー川遠征のあと故国岡宣行先輩(映像デイレクター、新世界紀行、24時間 テレビ他、農大探検部創設メンバー、元地平線会議世話人)に「ガンジス全流降下は世界初」と聞かされて実行に移したと聞いた。南米3大河川行もこれに刺激を受けた洞窟探検界の伝説の先輩S氏のアイデアがきっかけ。

◆そそのかされただけでは悔しいので、パンアフリカ河川行とそれに続く世界一周河川行はわたしのオリジナルアイデアだけれどナイル源流で中断したまま。1980年、南米に行く前、中国がやっと外国人の入国に扉を開け始めていたので、「次は黄河か長江が狙い目」と後輩たちをそそのかしていた。1981年、農大探検部で南米のオリノコ・アマゾン・ラプラタをカヌー縦断し、卒業後も飽き足らずパンアフリカ河川(セネガル・ニジェール・シャリ・コンゴ・ナイル)行に行く私を「バカとは思っていたがそれほどとはなあ」と先輩が嘆いた。

◆治安が悪くて入域出来ないナイル源流部の状況改善を待つ間、チャドやルワンダで植林を続けていたら「バカもそこまでやると尊敬するわ」に変わった。同じ言葉をもっと敬意を込めて北村たちメコン隊に贈る。そそのかしの系譜は「川」だけでない。川をやれば自然に「森」も視野に入る。

◆1997年から四万十にベースを移していたが、2002年3月末、持続可能な森林モデルの国際ネットワークに四万十の森が選ばれていて、向後元彦氏(農大探検部創設者の一人、マングローブ植林行動計画創設者)高橋一馬氏(農大OB、緑のサヘル創設者)をゲストに地元林業家たちと森のシンポジウムを開き、お二人を四万十の実家に泊めた日に、北村たちメコン隊も吉野川と四万十川に訓練に来ていると突然の電話。当夜は10人を超える農大関係者が我が家に泊まった。

◆後日、北村から聞いた話「あの夜、アフリカとマングローブ植林の世界の草分けの先輩二人に会えるなんて、お前ら幸運や、これからは植林が面白いぞ、と山田さんがそそのかしたおかげでメンバーの青木は東京都森林組合で山仕事を始めメコン隊から抜けましたよ」。「覚えてない」。その後、青木亮輔君は独立して林業会社を起こし、その名も東京チェーンソーズ(笑)。若手林業家として有名らしい。

◆青木と同じくメコン隊初期の主要メンバー桃井尊央は林学研究者として大学に残り、昨年から農大探検部部長。南米3大河川偵察隊の須田清治先輩は向後先輩のマングローブ植林の重要メンバーであり、長江隊からは野々山富雄(駒大探検部)、石山俊をチャドの植林に引き込んだ。いまでは、野々山は屋久島の名物ガイド、石山は京都の総合地球環境学研究所の研究員だ。

◆そそのかし、そそのかされて、川と森に関わる探検部仲間が多い中、北村は長く農大探検部監督をしながら農大山岳部OBの造園会社に勤めたあと現在、東京都の公園管理の仕事についている。学者養成の京大探検部、マスコミ養成の早大探検部ほどではないが、農大探検部卒業生の一部は農林業や環境の分野で国際協力機関や農林系企業に進むものが少なくない。室町時代、京都の街に庭が盛んに作られた頃、河原に小屋掛けして、木や石を担ぐ作庭労働者がいて、山水河原者(せんずいかわらもの)と呼ばれた。この中から次のアートディレクターが育ったらしい。

◆川と山から地域を観察すると一般とは違う視点が持てる。それを活かしてランドスケイプアーキテクト(景観作庭師)になって、川仲間と探検資金を稼ぐとの夢の構想は未だに実現していない。パトロンなき時代の探検資金をどう稼ぐか、それが目下の大問題。京大や早大ほどオツムの良くない農大勢は国岡先輩の言いつけ通り「首から下で勝負」なのだ。1970年代、国岡先輩は24時間テレビの取材から帰国する都度「世界は砂漠になってしまうぞ」と嘆き、向後先輩はマングローブの植林を始めた。

◆後年世界を川から観察して、その先見の明に気づいた。そそのかし、そそのかされて「後生おそるべし」の後輩たちが次々と出てきた。メコン隊後、農大探検部は大きな海外遠征隊を出していないと聞いた。他大学探検部も似たようなものらしい。世界的にも日本でも人材は周縁から出てくる。「環境と情報の世紀」と言われて始まった21世紀、思わぬところから人材が出てくるのかもしれない。

◆北村が次なる探検計画を披露しているページで、我が若かりし頃を思い出した。学生時代の愛読書「理科年表」で世界の大河を調べていたら全長4000kmを越す川が世界に14あることを見つけた。8000m峰も14座。「世界の大河と高峰が14づつ、これを全部やったらダブル・フォーティーン、世界の7つの海を東西に分けて14の海、トリプル・フォーティーンだ。」こんなこと言っても笑われない仲間に小声で大言していた頃を思い出した。

◆見解と発想を変えれば新しい地平線は無限にあるかもしれない。まさしくコロンブスの卵。歴史上の探検家たちは命がけで一生をかけて彼の探検をやった。少なくない人が途上で死しているか成果を残せず終わっている。「おまんらが、22年もかけてメコンをやったから、次のものはやりづらいかもなあ」とは言ったが、パイオニアを目指す変わり者は人間社会全体の5%、との定説は昔も今も同じらしい。

◆今でも宇宙の95%は未知の世界という。地球の自然界だって本当はわかってないことがほとんどかもしれない。5%の変わり者たちのパイオニアワークのフィールドの95%は未知の地平線に尽きなく続く。とメコンからの流れとして本書を読んだ。(西土佐村森林組合作業員 レレレーの山水河原者見習 山田高司

P.S. 笑いの絶えない楽しさでアメリカ側隊長を羨ましがらせ、勤勉さとチームワークで中国人美人通訳(最後まで同行!)を感心させた北村たちの本領発揮は、メコン初降下競争に先を越された後の2005年。ラオス、カンボジア、ベトナムの川旅ではとことん現地に溶け込んで爽やかにはじけている。これぞ21世紀的無国籍の旅のパイオニアスタイル。

注1:本文中実名の人は地平線報告会での1回以上の報告者とそのメンバー。
注2:資料紛失のため、大学探検部創設時代の大学名と順番、年代が確実に確認できず、記憶に頼っている。


地平線の森
<地平線の森・ワイド版 その2>

『チベット●謀略と冒険の史劇 アメリカと中国の狭間で』

倉知敬 2017年6月30日 社会評論社刊 2300円+税

筆者の倉知さんは、2013年2月22日、406回目の地平線報告会の報告者。一橋大学山岳部の先輩である東チベット探検家、中村保さんとともに「いまも知らないチベット」のテーマで話して頂いた。日本ではあまりふれられることのなかった「CIAとチベット」などチベットの現代史について貴重な話だった。その成果がこのほど一書に結実、刊行にあたっての思いを地平線通信の読者に向けて書いてもらった(E)

『チベット●謀略と冒険の史劇』について
  倉知 敬

《この本が生まれることになった経緯》

■ご承知の通り、中村保さんは、知られざるチベットの山々を長年に渉って踏査し、初めて全山系の詳細を明らかにし、その成果を幾つかの紀行記や大写真・地図集で発表されている。大学時代の後輩たちは、旅から戻るや必ず中村さんを囲んで山の話を拝聴したが、それだけでなくまた、チベットの歴史や人びとが織り成す興味深い背景をも学んだのである。

◆集まると必ず、中村さんはどこかで見付けたチベット抗争史の英文書を持参、その概要を皆に紹介する。それらの図書紹介を日本ヒマラヤ協会(注参照)『季報ヒマラヤ』が連載してくれることになり、私が原稿を書く羽目になった。辛抱強く付き合う同誌の親切な対応のお蔭で、現代チベット民族の有為変転の顛末が、何編かのシリーズで日本の読者に伝わることになった。途中で、同誌中岡久編集長のお世話で、その半分ほどが小冊子にもまとめられ興味抱く先に頒布、更に地平線会議でその紹介を兼ねて報告会も催して頂いたのだった。

◆この度の出版は、このシリーズ全体を一括し、個々のストーリー紹介に留まらず全体の歴史展開を繋げる思案を込めて、幾つかの史劇が織りなす通史を描く試みをした。既発表のものに加えて、別に関連する図書にも触れて、貫く歴史の流れを捉える工夫もしてみた。いろいろあった末に、その粗稿を提示して横断山脈研究会の油井格さんに出版引受先の紹介を打診したところ、すんなりと社会評論社が応じて下さることになり、あとはトントン拍子に話が進んだ。同社松田社長は、素稿を一晩で読んで気に入った、という即決の由で、人脈の有難さとは言え、素材を理解してくれる人に突き当たったまことに幸運な巡り合わせだった。

《この本で伝えようとすること》

■上に述べるように、そもそもはチベット探検活動が基点にあるのだが、そういう本来の地理的究明を続ける中で、当然ながら最初に未踏の山岳地域に足跡を印した昔の探検家たちの冒険も追いかけることになり、さらに深く、山に囲まれた社会や民族の歴史に踏み込み、つまり地域全体をひっくるめて理解しようとする、それが自然の成り行きというものだ。その核心を成すものの一つが、この舞台で踊った人々の織りなす、様々なドラマを展開した活躍である。

◆それら史劇を取り上げた、幾つかの文献を紹介しようとする本書論稿のねらいとは、ひとえに本史に対して列伝ともいう、いわば視点をずらした歴史の流れを表現することだった。ところが、文献の紹介を始めて見ると、それだけではどうしても収まらなくなった。何百ページに及ぶ個々の英文書の史実追求を簡潔に表現しようとすると、何らかの観点から大胆に歴史事象を取捨選択しなくてはまとまらない。

◆閉鎖的だが本来自立性高いチベット民族集団が、半世紀もの暴力的展開を経て、ものの見事に押し潰され、自己固有の社会・文化と言った価値全体がまるっきり崩壊してしまう。それを見せつけられると、民族なり国家なりの安全保障問題が構成員=国民に及ぼす極度の重要性に、否応なしに注目し集中するしかなくなるのである。文献を集約し論稿をまとめる時の基準としては、どうしてもそこに集約するしかない。

《ひるがえって日本に思いを馳せる》

■閉鎖的なチベット社会は、外部からの圧力を排してひたすら自己流のやり方に拘り閉じ篭っていた。外部社会は黙ってそれを認めるさ、とナイーブに信じ込む。自立社会崩壊前夜の20世紀初頭の話だ。それはどこか、現在の日本社会に共通する本質を感じさせるではないか。こうした或る種のシナジーを思い馳せて、今度の本では最終の章を、チベットの教訓と題して締めくくり、それへ至る各章では、この結論へ導く論拠を含ませてある。

◆一体、どのようにして、一つの民族的まとまりがバラバラになるような力が働くのか。古来、東アジアでは良くも悪くも大国・中国がいつも中心となって動いてきた。人智が高いというのと人間のあくどさが際立つという両面がある。中国=漢族の国=は、かつては蒙古族や満州族の支配下に呻吟したこともあったといえ、本来「中華」の国と決め付け、外縁の諸民族は蕃人として差別する。現在、チベット族、ウイグル族、(内)蒙古族などの国が自治区という植民地なのは衆知のこと、そうなったのは力で屈従を強いたせいだ。

◆今更言うまでもないが、そういう構図を根っこにチベット問題を考えれば、同じ外縁にある台湾や韓国、そして日本も、究極のところは、力及ばずば、吸収される道理である。だから、チベット民族国家の崩壊の例とは自分の問題でもある、として学習しておいた方がいい。

◆今、日本がそうでないのは、単純に、アメリカの力のお蔭だ。しかし、今や表面化している南シナ海や尖閣諸島を巡る海洋問題、それへの昨今のアメリカの、峻巡するかのような反応。大陸周辺の諸島国は、自分たちの先のことを、それなりに考えておかねばなるまい。半世紀とかの時を経たら、どうなっているのだろうか。日本は、まずは沖縄(間違いなく海洋進出の核心基地だ)から、まあ琵琶湖辺りまでは、日本自治区となり、関東から先は福島保護区とか呼ばれ、そうなると北海道は当然ロシア領となり、巨大な軍事基地が出現する(北方四島などは既に完全なロシア領だ)。

◆とりあえず、この半世紀かの、チベット民族の翻弄された苦闘の軌跡を知っておくのは、特に若い世代の人たちには、何がしか将来への自覚を生むかもしれず、他所事とはいえ無駄ではないでしょう。


地平線の森
<地平線の森・ワイド版 その3>
服部文祥、ついに小説を執筆す!!

『息子と狩猟に』

2017年6月30日 新潮社刊 1600円+税

■こんにちは。お久しぶりです。このたび『息子と狩猟に』を新潮社から出版しました。はじめての小説です。若い頃、梶井基次郎や芥川龍之介のような(もしくは運慶やミケランジェロのような)「かっこいい作品」を創りたいと思い、登山を始めました。文明の保護下でのほほんと育った自分が、なにかを作り出すためには、現場での経験が必要と思ったからです。そのままどっぷり登山にのめり込んで半世紀、巡り巡って気がつけば(当初の目論見どおり?)登山者的世界観を表して作品を書いていました。

◆「根源的なモラルを問う」とややおおげさに宣伝しています。作品に書いた価値観は万人が賛成するものではないかもしれません。登山も狩猟も人間の常識に則ってお行儀よくやっていると馬鹿を見る(死ぬ)ことがあります。野生環境では、ときに人間のルールを横において、ひとつの生命体に戻って、ゼロから自分で考えて自分で行動すにことが迫られます(しかも即決で)。そんなときが生きている実感がもっとも強いときでもあります。それを作品にしてみました。(服部文祥)(以下略。江本への献本に添えられた文章から)


ふくしまのよいにゃんこ、その後

■江本さん、ご無沙汰しています。私は相変わらず実家の千葉と福島を往復する日々です。被災地へはメンバー間で調整し合っているので、月1〜2回と通う頻度が少なくなり、負担が減ってきましたが、動物関連のイベントなどにも出展したり、里親会を定期的に開いたり、活動の幅が広がっています。

◆ところで、以前に書いた2匹の猫たちですが、あの原稿を書いてほどなく、3月半ばに「シュガーちゃん」が里親会で話が決まって実家近くの新松戸のお宅へ行き、心配だったワンパク坊主の「ヨン様」も、4月半ばに友人のペンション「ひみつ基地」で丁稚奉公することになり(先住猫3匹いる、猫ペンションで人気)、おかげさまで2匹とも無事に我が家を卒業しました。

◆ほっとしたのも束の間、今度は浪江町の猫「ひゅうま」がやってきました。(星さんという方が浪江の自宅に戻った際に保護したので命名)。ワクチンや血液検査をし、去勢手術をし、しばらく我が家で預かってから、埼玉の保護猫ハウスへ移動します。夏は私が長期不在になるので、預かれないのです。

◆ヨン様&シュガーも慣れてきてかわいかったし、自分で飼う選択もありましたが、「ここにいるより、猫たちにとって幸せ」だと思える環境のところへ里子に出すことで、新たに別な猫も保護できるわけで、まあ、これでよかったんですね。すみません、猫のことだけですが、とりあえず報告したかったので。

◆猫の経緯はよろしければ、以下を見てください。

https://blogs.yahoo.co.jp/pocoyuko2006/57752735.html(福島県天栄村 滝野沢優子

カンボジアで絹絣を復興させ、人間の生き方を問うた森本喜久男さん逝く…

■今年3月、『自由に生きていいんだよ お金にしばられずに生きる“奇跡の村”へようこそ』(旬報社)が出版された。絶滅に瀕したカンボジア伝統の絹絣(きぬがすり)を、たった一人で復興した森本喜久男を、私がインタビューしてまとめた本で、この通信で紹介させていただいた(地平線通信2017年3月号「地平線の森」)。

 その森本喜久男が7月3日に亡くなった。

 末期がんで体力は衰えていたものの、6月14日には福岡で講演を行い、東京から聴きに行った私と、彼が住むカンボジアの村「伝統の森」でまた会おうと約束した矢先のことだった。さらに18日には、文化遺産の伝承者を顕彰する「読売あおによし賞」の授賞式にも出ていたので、彼を知る人たちにとっては突然の訃報だった。

 享年68。亡くなるにはまだ若いとされる年齢だが、見事に生き切ったと思う。悲しみのなかにある種の爽快感を感じている。

 彼が荒野を開墾してつくった村「伝統の森」には、年間1500人もの人々が訪れる。訪問者を前に、森本は微笑みながら哲学を説いた。若い人には熱をこめて語りかけた。「何度失敗しても大丈夫さ。人生って恐いところじゃないよ」と。中学での2回の鑑別所行きをはじめ、数え切れない挫折の末に偉業を成し遂げた森本の人生肯定は強い説得力があった。さらに村のありようも訪問者の心を捉えた。年寄りも障害者、怠け者さえ持ち場がある村の生活は、効率第一の日本とは逆の価値観で営まれていた。その「お金にしばられない生き方」を見て衝撃を受け、帰国後、人生のコースを変えた人も多い。

 森本は、歳を重ねるにつれ、クオリティの高い布を生み出すことと並んで、これまでの半生で得たことを次世代に継承することも自分の使命だと思うようになったという。とくに日本の若者を励ますことを望んでいた。森本の余命が長くないことを知り、急いでその思いを形にしたのが『自由に行きていいんだよ』である。3月のこの出版と4月の「情熱大陸」の放送が、彼が生きているうちに間に合ったのは幸運だった。

 3月はじめ、できた本を村まで持参して森本に見せたら、「僕の言いたいことがしっかり書いてある。とってもうれしいよ」と満面の笑みで喜んでくれた。彼の遺言として読み継がれればと願っている。(高世仁


先月号の発送請負人

地平線通信457号は、6月7日に印刷、封入を行い、8日発送しました。来てくれたのは、以下の12人の方々です。
森井祐介 車谷建太 下川知恵 前田庄司 福田晴子 光菅修 江本嘉伸 加藤千晶 落合大祐 松澤亮 中嶋敦子 杉山貴章
先の話になりますが、ビールを飲みながら2019年夏の話を少ししました。「地平線会議40周年」のことです。地平線会議は1979年8月17日に発足しました。20周年、30周年とやってきたので多分何かをやるでしょう。あるいは500回記念まで何も特別なことはやらない? 遠い先のことですが、案外すぐ来てしまうでしょう。皆さん、なんとなく頭に入れておいて、と話した次第。


甲冑旅人、山辺っちからのメール

■江本さんこんにちは。山辺です。長らく音信不通ですみません。今は2017年6月20日、鎧旅終了から10ヶ月経ちました。その間僕が何をしていたか述べます。2016年7月、旅は終盤、愛知県。名古屋から紀伊半島を周り大坂城へ帰る予定でしたが、もうお金がない!残り3万円。これでは紀伊半島どころか、家にすら帰れない。困った僕は親に電話してお金を振り込んでもらった。名古屋は寄らず三重の亀山から鈴鹿を抜け京都、大阪へ。

◆2016年8月26日、大坂城へ駆け込み6年に及ぶ旅が終わった。達成感や満足感より「旅の荷物を家に送る送料が足りなかったらどうしよう」とか「今日の宿代払えるか?」と金の心配しかなかった。あと1万円しかない。さっさと記念撮影をしてゴールの余韻に浸る暇もなくクロネコヤマトへ移動。「この荷物送れますか?」台車に満載された荷物を見て驚く所員。「バラして袋に入れて送ろうと思うんです」そう言うと理解してくれた。

◆店の前で荷ほどきして台車、甲冑、キャンプ道具に分けゴミ袋で梱包。送料なんと5000円。6年かけて運んだ物が5000円で運べるなんて! 俺の6年は5000円だったのか(笑)まあいい、宿代が出た。カプセルホテルの大浴場で汗を流し、生姜焼き定食を食べて寝た。6年の旅がウソのように、自然で、何事もなく、静かに終わった。

◆旅が終わっても人生は終わらない。お金がない!このままでは電話が止まる! そして本当に止まった。働かねば。北海道でお世話になったニセコのヒルトンホテルに連絡するとすぐに仕事が決まる。またまた親に借金してニセコへ。ここはリゾートバイトだから寮がある。ご飯と光熱費はタダでWi-Fiも使い放題。潜伏するにはうってつけ。電話が止まってもWi-Fiのおかげで外界との通信が復活した。

◆フェイスブックを見たら僕と連絡が取れない事で地平線の人が心配してくれていた。すみません。ただただ、お金がないだけなんです。俺がアラブの王子でないばっかりにムダな心配をさせてしまった。ヒルトンは外資系ホテル。従業員もお客も外国人が沢山いて、日本語も英語も話せない人もいた。

◆寮は二人部屋で僕のルームメイトはバングラデシュ人。そいつが毎日本場のカレーを作るわけです。部屋中スパイス臭くていつも談話室に逃げていた。仕事は調理、皿洗い、館内清掃に冷凍庫の管理など幅広くシフトと職場に振り回される毎日。当面の生活費を稼ぐためと割り切ればこそ我慢できるけど、人生の住処とし落ち着く場所ではなかった。ここでは仕事だけで他に何もできない。

◆待望の給料日、口座にお金が振り込まれしばらくして電話が開通した。やっと平成に生きる権利を得た。しかし今の俺には台車と甲冑しかない。パソコンもデジカメも壊れてしまい、旅の写真を見ることも取り出す事もできない。本当に旅から帰った時は全てがボロボロで、思い出にとって置けないほどに汚れ壊れていた。終わった旅はひとまず保留で今は目の前のビンボーと戦うだけで精一杯なのだ。

◆ヒルトンで半年働き少しの糧を得た俺は5月に神戸に帰った。久島弘さんと岸本実千代さんが飲み会を開いてくれ、何故か俺の報告会をしようってことになり江本さんまで話が行ってしまった。これは困った。俺は南極やエベレストに行ったわけじゃなく外国ですらない。ただの日本一周を地平線の人が聞きたいわけないやん。そう思った。それにビンボー過ぎて東京まで行けないしデータも取り出せない。せっかく機会をもらったのに断ってすみませんでした。

◆とにかく落ち着く場所を見つけないと何も始まらない。40過ぎてゼロからやり直すのは大変ですね。関ヶ原で負けて大阪の陣でも負けて、最後は島原の乱で負けるまで自分なりに足掻こうと思います。明日から地元のモンベルでバイトです。まずはここから。(山辺剣


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。地平線会議は志の活動です。会員制ではないので会費は取っていません。皆さんの通信費とカンパが通信制作はじめ活動の原資です。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。今月の澤柿教伸さん、鈴木泰子さんのお2人は先月払って頂いたのに手違いで記載が今月になってしまいました。お詫びします。振り込みの際、通信への感想、ご自身の近況などをハガキなどで添えてくださるとありがたいです。アドレスは(メール、住所とも)最終ページに。

澤柿教伸/鈴木泰子/鈴木敦史/水落公明(3,000円 毎月地平線通信をお送り頂きありがとうございます。ボリュームのあるページ数、読むのが楽しみです。引き続きよろしくお願いいたします。1,000円はカンパということで、お受け取り頂ければ幸いです)/金谷真理子(6,000円 通信費、滞納して申し訳ありません。いつから払っていないのかはっきりとわからず、3年くらいかな?と思い振り込んでおきます。不足あれば云って下さい。これをもって購読終了します。いろいろありがとうございました)/北村昌之(4,000円 皆様、お世話になっとります。)/山川陽一(10,000円)/加藤秀宣 20,000円(通信費5年分+本多有香ビール基金1万円)/遊上陽子(10,000円 テンカラ食堂で待っています。通信費5年分です)/小林天心(10,000円)/香川澄雄(10,000円)木下聡(5,000円 通信費2年分+カンパ。よろしくお願いします)/平野泰巳(5,000円 通信費&カンパ)/高橋千鶴子


野菜は「いのち」です!

■随分ご無沙汰しています。夏野菜がおいしい季節ですね。私たちの「伊賀ベジタブルファーム」では、今は、トマト、ミニトマト、きゅうり、おかのりを出荷しています。もう少しすると、モロヘイヤとパプリカの出荷が始まります。

◆夏の果菜は期間が短くピークを持つので、収穫予測と買い手の動きがマッチしないとなかなか大変です。今年は、トマトの収量が増してきた矢先に、あてにしていた取引先から「あぶれてて取れへん」と言われる事件が起きました。今日出す予定が、今日出せなくなるので大変です。今、日々120kgくらい採れていて、来週あたりには150kgくらいになります。売り先がなくなると、見る間に在庫がたまりますが、工業製品と違って長くは置いておけません。 

◆今回、他の売り先でもあぶれていて打開策を見いだせず、思い切ってFacebookで助けを求めました。思った以上に多くの皆さんが反応してくださり、買い支えていただいて随分助かっています。普段は企業向けに出しているので、個人向け販売の仕組みがなく、ゴリゴリ個別対応で乗り切りながらシステムを作り、1週間経ってようやく落ち着いてきたところです。

◆いつもと違うことをするといつもと違う考えが沸くのはいいですね。今回、個人のお客様と直接やりとりさせていただく中で、ただ野菜を買ってもらうだけでなく、農業をとりまく状況を知ってもらうことも必要だなあと思いました。そういうわけで、少し、最近考えていること、をお伝えできればと思います。

◆トマトは、発芽や育苗段階から緻密な環境制御が必要で、生育環境が収量にダイレクトに響く作物なので、植物工場化がすごく進んでいます。オランダが高い技術を持っていて、日本もオランダの技術を導入しています。ちなみにオランダは、就きたい職業のトップ3に農業が入るくらい、「農業がかっこいい」国です。

◆高い栽培技術が必要な分、設備投資をして緻密に管理できる農家と、従来の方法から離脱できない農家との差が開いていきます。市場全体で見れば供給量が増え、価格は下がる一方なので、設備投資が難しい中小規模の農家は厳しい状況になってきています。うちの農場もトマトを主力商品にしてきたけれど、「いつトマトやめる?」という会話が出てくるようになりました。

◆トマトに限らず、「もう大規模集約しかないのか?中小の農家は滅びるしかないのか?」ということを真剣に考えざるを得ない状況にありますが、この問いに対して「NO」と言い続ける自分がいます。それはなぜかと考える中で、いつも出てくるキーワードは「いのち」です。「いのち」の感じ方や扱い方に大きな違いがある気がします。 

◆野菜は食べ物ですが、その前に「いのち」です。手間はかかるけど、土に植えて、手をかけて、野菜たちにとって幸せな環境を整えてあげます。人間がやれることって、実はたったそれだけで、実際に野菜を育てるのは微生物であり、土であり、光であり、水であり、風です。「いのち」が「いのち」を育んでいきます。その連鎖は奇跡的です。農業をするようになって、いのちの連なりを、実感をもって感じられるようになりました。土からあんな美味しい野菜たちができることは、何度体験しても感動します。自分の「いのち」もこの連なりの中にあること、そのことがわかってよかったなあと思います。

◆フランシス・ベーコンから始まった、「人間は自然を制御できる」という思想。人間の知性によって自然を支配し、改造していく流れの中で、「予定通りに、計画的に、物事や人生を進める」ことに価値が置かれました。制御不能だった時代からの、このパラダイムシフトが画期的な出来事だったことは否定できないし、その恩恵を享受しながら今の自分たちの暮らしがあることも間違いありません。

◆ただ、再び転換期が訪れていることも恐らく間違いないと感じています。機械論パラダイムから生命論パラダイムへ。「人間は自然を制御できない」こともまた科学的に証明されました。天気予報を一例に取れば、「長期的予報は原理的に不可能」なのです。「予定通りいくこと」が安心を生み、そうでない状態は恐怖である、とするならば(この感覚の上に人生を送っている人がマジョリティだとは思いますが)、人間は、究極はアンドロイドでいい気がします。

◆「いのち」が育んだ野菜は必要ない。エネルギードリンクとサプリで生きていけばいい。わたしは、人間でいたい。土と汗にまみれて野垂れ死ぬとしても、いのちの連なりの中で自分のいのちを全うしたい。「生きる」「暮らし」「いのち」「つながり」「味わい」「多様性」「ぬくもり」。自分が、「いのち」をより強く感じながら生きるようになって、これらの感覚に愛着を持ち始めました。

◆私たちがこだわるオーガニックというスタイルは、栽培方法のことではなく、「いのち」のとらえ方そのものなんだと思います。「大規模集約しかない?」に対して、わたしの心がNOと叫び続けるのは、自分自身が「いのち」として生きたいから。そんな感覚を共有できる人に、わたしたちの野菜を食べてもらえたらなあと思います。

◆8月上旬まで、トマト、あります。もしよければ、食べてください。 () までご連絡いただければ、購入方法などお伝えさせていただきます。(岩野祥子 伊賀ベジタブルファーム取締役COO)


今月の窓

私がした“結婚のようなもの”について

■先日、ばたばたと「結婚のようなもの」をして、みなさまに祝ってもらいました。「結婚のようなもの」なので、とりあえず言ってるだけ(そしていまだ、それがなんなのか考え中)ですが、「夫のようなもの」は藤川佳三さんで、401回地平線報告会「ガレキの家に今日も花咲く」の報告者だった人です。10数年前、藤川さんが撮った映画に野宿シーンがあるということで知り合い、その後ばったり映画館で再会、呑んでいたら終電を逃して野宿をすることになったのが、仲良くなったきっかけです。

◆ずっと親しくしてゆきたいと思うに至ったものの、わたしが婚姻制度に抵抗があってぐずぐずいやがっていたら、藤川さんが「もう『のようなもの』でいいから……」と言うので、そうすることになりました。「会社のようなもの『野宿野郎』」の社長のようなもの、とか。「のようなもの」って言いまくっていて、よかったー。それで、野宿党党首の安東浩正さんに「『のようなもの』でも大丈夫でしょうか」と相談したら、安東さんは「なんだっていいよ」(都合のいい要約)と言って、いろんな人に声をかけてくださり、ほんとうにありがたいと思いました。

◆当日は山下公園にサウンドシステムを設置、盆おどりやねぶた、カラオケなどをして宴会。夜は「寝袋くんケーキ」をつくって祝ってもらい、野宿をしました。ほかには、路上で通りがかりの人とちゃぶ台返しをやる「怒りのちゃぶ台返し」という遊びを一緒にしている友だち主導で「反婚パレードのようなもの」も。「marriage is over」と書いたプラカードを持って公園の中を練り歩き、結婚だと思って祝いに来てくれたり、ご祝儀をくださった方もいたのに、結婚詐欺と言われそうな塩梅でした。

◆ところで、祝っていただくと、なにか変わるような気もしないでもなく……。「のようなもの」でも「結婚」と解釈されるし、言わなければ婚姻届けを出したか出さないかなんてわからないわけで(って、ここで言ってるけど)、いろんな人に認識されるというところにも「結婚」の成分のなにかしらがあるのだろうかと感じたり、あるいはなぜ「結婚」(に準ずるもの)だと「おめでとう」と言ってもらえるのか不思議に思ったり(まあ、祝ってくれと言ったからだけど……)。結婚とはなんなのか、ますますわからなくなってきました。

◆そうなのです、わたしは結婚というものが、わからないのです。最初に「結婚ってなんだろう」と疑問を持ったのは、小学校に上がる前。わたしは母方の家族と仲が良かったのですが、祖母や叔母はみんなじぶんと違う苗字だ。不思議に思って聞くと、母は「結婚したから苗字をかえたけど本当はかえたくなかった」と言うので、「なんでかえなきゃいけないんだろう、へんなの」と思ったのでした(その後、高校が女子高だったので、「夫婦別姓を考える」みたいな授業があったりして、現在の婚姻制度は家制度や家父長制の流れの上にあって、だいぶん古いのではないか、ということを学んだり話し合ったりしました)。

◆それから中学生の時には、「じぶんは人と長く一緒にいられると思えないから、できれば一人で生きてゆきたいなあ」と考え、当時はまだ女性は30歳になる前に結婚する風潮が強かったので、「うっかり流されないよう、20代にはぜったい結婚はしないぞ(って、その時に相手がいる想像をしているのが、どうかと思いますが……)。30歳になって改めて考えよう」と心に誓ったりしました。

◆そんなわけで30歳以降また考えるようになったのですが、人間は変化するもので、「人と気長に付き合ってゆくことって面白いものだな」と思えるようになった。ですが、そこで「結婚」を選ぶことについては、人と人の関係を法律や制度で規定するって、どういうことなんだろう、と不思議に思うようになっていました(身体の自由を手放させる「不貞行為の禁止」は人権侵害じゃないか、って考えたりもします)。

◆不都合がでてきていつか選ぶこともあるかもしれないけど、関係を規定されることや、制度に組み込まれることへの拒否反応が妙に強いんだとじぶんを捉えているのですが、現在の婚姻制度は誰にでも開かれているものではなく不平等だし、できればその不平等に加担したくないなあ、という気持ちもあります。別姓も選べて、性別関係なく望む人同士が結婚できるようになってほしい。その上で、じぶんはどう思うか、どうしたいかを考えさせてほしいなあ、と望むようになりました。

◆ところで結婚することについて、いまだ、これで一人前だとか、落ち着いたとか、今後は二人で助け合っていくものだとか、そういうイメージがあると感じるのですが、どうなんでしょうか。もちろんわたしも助け合ってはゆきたいと思うけれど、貧乏人同士が二人「きり」で助け合っても、じり貧であります。

◆わたしの幸せの多くは(聞いてないからわかんないけど、おそらく藤川さんの幸せも)、ほかの方々との助け合いにかかっている。なるべくたくさんの人とつながって、助け合いながら(助けられっぱなしだろ、と言われそうですが……)生きていきたいものだ、というか、そうでしか生きてゆけないんじゃないか。そう感じているので、これからも結婚について考えるとともに、なるべく開かれた関係性や生き方も、考えてゆきたいです。

◆さらにわたしは、現時点でじぶんがポリアモリーだと自認しているので(藤川さんとも、それもあって試行錯誤の最中)、今後ほかに、誰かと親しくならないとも限りません。相手に結婚願望があったら、また結婚のようなものをしたい。それでも「よかったね」と言ってもらえるような、そんな多様性を受け止めてくれる社会を、切に望むものであります。わお!(なんだかよくわからないまま祝ってくださったみなさまの広い心に感謝する、加藤千晶


あとがき

■深夜まで寄せられた原稿と格闘しながら、涼しくなった頃を見計らって、麦丸を散歩に連れ出す。炎暑の中を歩かせるより、私も本人もずっとゆったりした気分になれるから不思議だ。最近は午前2時、3時の散歩なんて日常となっていて可笑しいとは思わなくなった。

◆心臓の不具合と口腔内の腫瘍。本人は、何が起きているのか理解できないだろうが、舌は外に垂れてきており、不快な状況がいろいろなかたちで迫っているのだと思う。ただ、激しい痛みはまだ来ていないのだろう。私がそばにいてやると安心するのが外見でわかるので、いまは麦丸との日々と割り切っている。

◆トマト、もも、米、と地平線の仲間たちが丹精こめてつくった作物が次々に届いている。できるならば、すべての食べ物を仲間たちのつくったもので全うできれば、と願う。皆さん、遠慮しないで売り込んでくださいね。うまく応援するから。

◆今年も間もなく「山の日」(8月11日)がやってくる。祝日としての「山の日」の実現に汗をかいた「日本山岳会の仲間たち」がおもしろい、リーフレットを作り、それを地平線通信の読者にプレゼントしていただいた。どうせなら、昨年つくったものと合わせて2点。結構考えさせられる内容です。

◆今月は、「地平線の森」にスペースをさきました。森井さん、厄介なレイアウトをありがとうございました。

◆8月の通信で夏休み特集をやります。とくにお願いした人を別にして1人500字以内。テーマは、自由。5日の土曜日を締め切りとします。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

極夜(きょくや)の彷徨

  • 7月28日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「闇のストレス、なのかな、なんか感覚が狂って、全然前に進まないんですよ」と言うのは、探検家でノンフィクション作家の角幡唯介(かくはたゆうすけ)さん(41)。北緯70度以北で起きる、一ヶ月以上も太陽が出ない天文現象“極夜”の時期に、人力でソリを曳いて歩いた旅をこう振り返ります。極夜という未知の現象に魅かれ、この数年極地に通い続けた末の計画実行でした。

'16年12月、グリーンランド北部の村シオラパルク(北緯77度)を出発。地元民の狩猟道を北上します。途上には食料デポも済ませ、準備は万全のはずでした。

しかし旅を始めてみると強烈なブリザード。デポはシロクマに荒らされて壊滅。位置確認の道具、六分儀もブリザードで失います。GPSを持たない主義の角幡さんはコンパスと星を頼りに彷徨うはめに。

「昼夜続く闇は想像以上に怖くて…面白かった」と角幡さん。食料も足りず、猟果も上がらず、唯一の相棒、グリーンランド犬のウヤミリックを食うしかないか…と追いつめられますが…。しかし、やがて極夜も明けます。一月末、約2ヶ月ぶりに目にした太陽は…!!

今月は角幡さんの80日間、500kmに及ぶ極夜の想定外な旅のもようを語って頂きます!


地平線通信 459号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2017年7月12日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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