2017年5月の地平線通信

5月の地平線通信・457号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

5月10日。昨夜遅く降った雨で都心は心持ちひんやりしている。通信を出す日というのに、起きたらもう10時。メディアは韓国大統領選挙での文在寅氏の勝利を繰り返し伝え、フランスの大統領選で39才のマクロンが勝ったことに次いで派手な報道戦が展開されているのに申し訳ないことです。

◆いくつかの原稿の締め切りもあって、ゴールデン・ウィークは出かけなかった。都心はこの季節、緑がみずみずしく、静かなのである。5月3日、頼まれている原稿のことで神長幹雄君に電話したら、ちょっと待ってください、と替わって出たのが三輪主彦だった。続いて神尾重則ドクターも。え?どこに? あ、そうかあ、3人一緒に行ったのかあ。3月の『新編 西蔵漂泊』の出版記念パーティーで3人は鳥海山スキー行という贅沢な計画を建てたらしい。なんとも羨ましいかぎりだが、まあ、私のスキーの腕では参加したくても無理だね。

◆翌4日、原稿の相談をした山形の飯野昭司さんが今度は用件を伝えるメールに「おまけ:昨日の鳥海山」と説明をつけてまだ雪をべったりつけた山の素晴らしい写真を送ってくれた。「昨日は鳥海山の御浜まで行ってきましたが、途中めずらしく三輪さんから電話がありました。神長さんと一緒にスキーをするために鳥海山へ向かっているけれど……」ううう、素晴らしい! 率直に羨ましい!

◆あまりに悔しいので昔話を披露しておく。私は鳥海山には1960年12月に登っている(ええ?そんな昔の話かよお、と我ながら驚きますね)。山岳部の冬山合宿で秋田県の矢島口から2週間かけての山だった。冬の鳥海は天候が不安定で合宿期間中、山が見えたのは3日だけだった。途中、竜ケ原というだだっ広い平原(夏は湿原)があり、ガスの中そこに入ったら完全に迷ってしまう。用意した300本の細竹を20メートルごとに立てて標識として進んだが、なかなか頂きが見えず、何度か途中で引き返したことを覚えている。

◆「12月22日。寝過ごしてしまった。7時を過ぎている。雪を溶かして雑煮を食べ、10時出発。雪原に出た時、一瞬鳥海が姿を見せた。風が強く江本のゴーグルはすっ飛んだ。昨日の標識に導かれて12時10分、七高山に立つ。ガスで何も見えない。しばらく様子を見ているといきなりガスがはれた。新山が目の前に姿を見せた。もうこっちのものだ。12時40分、鳥海山頂上に立つ。」

◆こういう記録を2017年になっても書けるのは、我がガラクタ書斎のどこかに「1960年冬山の記録」という小さなメモ帳がしっかり保管されているからだ。ちょうどはたちになった頃である。下山時は風雪激しく、不慣れなスキーをつけて下ろうとした私は30キロのザックの重みもあり転びまくって結局、ツボ足の部員たちよりはるかに遅れてしまったことも苦い思い出だ。

◆連休の仕事の一つとして皇太子殿下の文章への感想を書いた。日本山岳会では毎年年報を出しているが、その最新号『山岳百十一年』の巻頭に29ページにわたって日本山岳会会員である皇太子が「歴史と信仰の山」という力のこもった文章を書いた。その内容がいいのである。今や国民の祝日「山の日」を持った民の間で広く読まれるべき、と考え、私なりの感想を書かせてもらったわけである。

◆皇太子のこの文章の中にも鳥海山は登場する。平成18年、秋田県の矢島口から登ったが、天候が悪化、新山への登頂を諦め象潟口へ下った時の記述である。賽の河原、七ツ釜、氷の薬師、舎利坂など修験との関係を思わせる地名をあげ、「鳥海山に積もった雪の雪解け水がブナ林を涵養し、伏流水となって山麓の田畑を潤し、やがて日本海に注いで良質の岩牡蠣を育んでいる話を伺ったことは、山と農業、漁業との密接な関係を知る機会となった」と書いた。

◆その皇太子、近く想定される現天皇の退位により、平成31(2019)年1月1日(元日)に天皇即位の儀式が行われるらしい。政府はこの日から新元号とする方向で検討に入った、と伝えられる。ほう、そんなにすぐなのか。昭和天皇の崩御の直後の1989年1月7日午前8時。時の小渕官房長官は依頼していた数人の学者から「新元号の候補名」の提出を受け、翌日「平成」と発表した。平成(へいせい)・修文(しゅうぶん)・正化(せいか)の三つが挙げられていたそうである。

◆実は私は当時「地平(ちへい)」という名が最善、と不遜にも考えていた。が、そんなに簡単なことではないらしい。「国民の理想としてふさわしいようなよい意味を持つ」「漢字2字であること」「書きやすい」「読みやすい」「これまでに元号又はおくり名として用いられたものでないこと」「俗用されているものでないこと」の6つの条件があるらしいのだ。「地平」では俗用されているかも。

◆一昨日の国会で安倍首相が自分の憲法への姿勢を質問され「読売新聞を読んでください」と言い放ったのには驚いた。読売新聞、ここまで成り下がったのか! 日本の政治人間のあまりの品格のなさに、天皇、皇太子への期待がいつになく強まっていることに我ながらびっくりする。(江本嘉伸


先月の報告会から

迷ったら丘に登れ

〜親子二人のダカール・ラリー〜

風間深志・晋之介

2017年4月28日 新宿区スポーツセンター

 ━━筆者前書き━━

■GW前日の金曜日の夕刻の高田馬場駅前はいつもより華やぎがあった。その人々の中を30年ぶりのあの人に会うために足早に歩く。少し早めに着いた戸山公園の新緑が眩しい。

◆あの人とは風間深志さん(66)、風間晋之介さん(32)親子である。私の朧な記憶では、30年程前に風間深志さんの何かの冒険に向けての壮行会でお目にかかって以来で、その時に幼い三兄弟と恵美子夫人も頭の中に映像として残っている。お母さんに抱かれていたのが三男晋之介君だったのだろう。30年は、長い。二人の娘たちの子育てが終わり、最近25年ぶりに報告会にも来れるようになった身として、この親子でダカール・ラリーに参戦という世界中探してもどこにもいない奇跡のような親子の報告に居合わせること、感慨ひとしおである。そんなわけで今回のレポート、編集長と相談の上、少し長めとなることをお許しください。

■あの時恵美子母さんに抱かれていた末っ子は結婚してお父さんと同じ齢で父親にもなった。役者としても活躍している晋之介さんは小顔のイケメン。14歳からモトクロスレース(小型バイクによるオフロードレース)を始め16歳で渡米。現地校でちんぷんかんぷんの英語とメキシコ移民も多いクラスでスペイン語も混じり更にちんぷんかんぷんな中で苦労しながらモトクロスに熱中し、自信をつけていく中で語学も身に付けていく。

◆そして25歳頃までプロレーサーとしてモトクロス一筋の人生を送った。怪我で第一線を退いてからは、日本の俳優養成所に入り役者の世界に転身。自分が父親になって子供の頃からの夢を思い出した。「父と二人でダカール・ラリーを走りたい」と。

◆パリ・ダカールラリーはフランス・パリを出発し地中海をアフリカに渡りサハラ砂漠を越えセネガルの大西洋を臨むダカールまで1万キロを20日で走る他に例がない過酷なレースである。風間深志さんは35年前、第4回レースに日本人として初めて出場し完走、クラス6位入賞を果たしている。2009年から南米大陸に舞台を変え、ダカールには行かないが冒険者たちが目指したその名を残し“ダカール・ラリー”になった。世界一過酷なサバイバルレースであることに変わりはない。

◆今年1月にパリ・ダカから数えて第39回のダカール・ラリーに参戦し、見事に完走した晋之介さん。父・深志さんもチーム監督として参加し夢を叶えた。以下、その報告である。

 ━━父親の凄まじい軌跡━━

◆まずマイクを持ったのは父、風間深志さん。バイク冒険家になる前の彼はバイク雑誌の編集者としてサラリーマンをしていた。5万部発行の雑誌を30万部まで大きくしたやり手である。広告収入が毎号1億円を超えて、もうこれ以上売っても収益は伸びないから売らなくてよいと言われ所詮、商業雑誌で俺の仕事は終わったと感じた。その時に友人、賀曽利隆はバイクで自由に走っていていいなぁ……と思った。

◆同じ頃知り合いがモーターレースで世界チャンピオンになったが、たった12行の新聞記事にしかならなかった。まだバイクは不健全という世間の風潮があった。会社をやめた風間さん(当時29)は、賀曽利隆(32)と元モトクロス全日本チャンピオンの鈴木忠男(35)とバイクでキリマンジャロ(アフリカ大陸最高峰5,895m)登頂計画を立てた。まだ計画段階なのに若き新聞記者だった江本さんが15段記事で書いてくれたことにビックリする。「そうか、スポーツじゃなくて冒険家と言ったら皆が興味を持ってくれるんだ……。よし俺はバイク冒険家になろう! みんなが度肝を抜くような冒険を毎年やっていこう!!」ここにバイク冒険家風間深志が誕生する。(いやぁ〜最初は名乗るの恥ずかしかったよ〜と母性本能をくすぐる笑顔。これだよ、この人の魅力!)

◆1980年2月資金繰りで延びていた出発の日がやってきた。3月になると雨季に入ってしまうギリギリであった。密林の中をがむしゃらに登って行き、倒木で行く手を阻まれると前輪にロープを結わえ付け滑車を使い吊り上げる。大真面目でクレイジーな死闘を繰り返し、大きな岩の壁を前にこれまでだと悟った。4,000m超のところであった。ピークをきわめられなかったが満足感と手ごたえを感じた冒険であった。その後、足で登山して「山は足で登るのが一番いいですね……」とわかったらしい。逆に登山なんて簡単すぎてびっくりしたそうだ。100kgのバイクをひきずらないで自分の身体を足で運べばいいんだからね……って、ハイその通りと言うしかない。

 ━━1982年、パリダカで起きたこと━━

◆そして1982年元旦をパリで風間さんと賀曽利さんは迎える。世界で最も過酷なパリ・ダカール1万キロサバイバルラリーの第4回目、日本人初参戦である。二輪だけでなく四輪、トラックまで400台がスタートラインに並ぶ。スズキDR500を改造して37リットルの大型タンクをつけた愛車の前でポーズをとるモノクロ写真の二人から緊張と興奮が伝わる。フランス語が話せない彼らは60ページに及ぶ道順を示したラリーの命とも言うべき指示書をパリの寿司屋で訳してもらう。15ページ訳すのに1時間かかった。風間さんはもうあきらめてパリになんと指示書を置いて行く。賀曽利さんだけ一応バッグに入れて持って行ったそうだ。

◆ゼッケン81番が風間さん、82番が賀曽利さん。サポートの4輪駆動車もつけられず、とにかくパリをスタートした二人は初日に道を間違えてあわててUターンしたところで賀曽利さんのバイクが観戦に来ていたバイクと激突してしまう。賀曽利さんの肉体的精神的なダメージも大きかったが、風間さんはバイクのダメージをすぐに点検し、なんとか走れるということを確認する。

◆事故で1時間以上のタイムロスがペナルティになり散々なスタートになったが、逆に順位なんてどうでもいい、完走して大西洋を見ようと腹をくくって地中海を渡る潮風に吹かれたそうである。アルジェからアフリカ大陸に入りアトラス山脈を一気に走りサハラ砂漠へと突入する。

◆夜のサハラを走るためにタンクを大きくするのと同時に大切なことはライトである。でも二人のライトは6Vで提灯レベル。明かりを砂漠はものすごく吸収するから大変な思いをしたそうだ。システムやルールもひとつひとつ身体で覚えながら行く。牛の大群に囲まれたり、砂嵐で1日のコースがキャンセルになったり(食料の補給はなし。でもフランス語の伝達はわからない)で、飲まず食わずの状態で通りすがりの“戦友”に貴重な水を分けてもらったこともあったそうだ。

◆指示書を持っていないから人の後を追っかけていくしかない。『砂埃の匂いがするうちは俺は生きている……』と思ったそうだ。そのうち前にも後ろにも人がいなくなり俺一人に。喉が渇いて仕方ない中、不安を飲み込んで走り続けると口が閉じれなくなって、金魚のパクパク状態になった。口の壁に冷たい風が当たると水の役割をする。水は飲めないけど、空気を吸ってる!!! 俺にとって一番目に大事なものは空気だ! 次は水だ! 次は何と言っても飯だ!! と実感する。

◆配られる列に並び、立ったまま缶詰を食らったそうである。遅い夕食の後、日課となっているDRの整備。それが終わると砂の上に銀マットを敷き寝袋の中に入り眠る。寒さで震える夜もある。スタートしてから死亡事故も含め毎日何人もの負傷者が出て131台あった二輪も一台、また一台と消えていく。

◆ここからは『賀曽利隆のオートバイ・ツーリング』(成美堂出版S57年発行)所載「パリ・ダカール1万キロラリー奮戦記」を参考にしているが、ドン尻からスタートした時は『順位なんてどうでもいい、とにかくダカールに着ければそれでいい』と思っていたのがサハラ砂漠も終盤になり賀曽利さんは79位→52位→38位と順位を上げると『1分でも1秒でも速く走りたい、少しでも順位を上げたい』ということしか頭の中になくなったそうである。

◆しかし愛車DRは自転車のライトで砂漠を走るようなもので何回も転倒しながら夜の砂道をふらつきながら走り始める。ガオまであと百数十キロ、ガオに着いたら1日休みがある。一刻も早く着きたい、はやる気持ちと焦りが取り返しのつかない事故を招いてしまった。心もとないライトで夜道を走るため、その対策としてほかの車の前を走り車のライトを借りることにしたのだ。突然立ち木が目の前に現れ「あ!」ブレーキをかける間もなく100キロ以上のスピードで砂漠特有のトゲの立ち木に激突した。

◆左足が骨折したことはすぐにわかった。気持ち悪いほどに出血しているのがヌメヌメした感触でわかった。左手、左腕が全く動かなくなっていた。『ここでは死にたくない』車が通るところまで右膝と右腕を使って這いずっていく。幸運にも止まってくれるラリー車があり、大切な懐中電灯を貸してくれ「がんばるんだ、レスキュー車が必ず来るから」と言い残して走り去った。

◆車が近づくたびに懐中電灯を点滅させ合図を送った。次に止まってくれた車もラリー車だったが3人が車から降りて火を焚いてくれ、気が遠くなる賀曽利さんの頬を何度もたたき、がんばれと励ましてくれた。3時間近くたってついにレスキュー車が来て3人は車に飛び乗りガオに向かって走っていった。賀曽利さんは途中何度も大丈夫だから行ってくれと言ったが、彼らは気にしなくていいのだと傍に付いてくれていた。「ありがとう。本当にありがとう」3時間のロスがどれだけのものかわかる賀曽利さんの心底から湧き出た言葉である。

◆賀曽利さんの事故を風間さんはガオで知る。一時はレースを棄権しようかとも思ったがとにかく早く完走し、パリの病院に入院している賀曽利さんに会う方がいいと思いスピードアップした。その結果が堂々18位、クラス6位入賞という結果を生む。友情の勝利である。パリの病床でこの快挙を聞いた賀曽利さんは痛みが薄らいで、また夢がふくらんできたと言っている。風間さんは「賀曽利さんとは10年会わなくても親友だと言える」と。

◆過酷をきわめたこの20日間の冒険は今もすべて覚えていると言う。ラリーが終わって金持ちも貧乏人もそれぞれの国、生活に戻っていく。しかし皆同じように大自然と向き合い過ごしたこの日々から得たものは変わらない。冒険こそが人間の成長になると風間さんは確信したそうである。

 ━━「人の目がこわかった」の真意━━

◆その後、1984年にネパール側から、1985年に中国側からと2回もエベレスト(8,848m)にチャレンジ、300本以上の鋭い針のようなスパイクタイヤでのバイク登山だった。万一それが自分の足や身体に触れたら大変なことになる。酸素ボンベを背負い苦しくなった時に吸った。自分が決めた『バイク冒険家』を貫きたかった。「なんでこんなことするの?」と聞かれて「自分の挑戦だ」とい言うしかなかった。

◆一番怖いのは山ではなく人の目だった。澄み切ったヒマラヤの大気の中、エンジン音は歓迎されるはずがない。自分が要求しないものが目に入ると人は批判的になる。物音がすると藪にバイクを隠すという冒険家どころか忍者のような、盗人のようなことをした。世の中のバイクに対するイメージを変えたかったから、一層人の目が怖かった。「ナマステ」と笑いながら挨拶し人の顔色を見ながら登った。夢と現のような体験をしながらバイクで6,005mという世界記録を樹立した。

◆冒険は続く。1987年史上初めてバイクによる北極点到達に成功。冒頭にふれた、私が行った壮行会はおそらくこの時であろう。1989年には南米大陸最高峰アコンカグア(6,965m・アルゼンチン)バイク登頂に挑む。バイクでは5,880mまで、そこから徒歩で6,750m達成。同年南極大陸のビンソン・マッシフ(5,140m)は、歩いて登頂。1992年史上初めてバイクでの南極点到達に成功。同時に陸路による日本人初の両極点到達者になる。まさしく毎年、度肝を抜くような冒険をしてきたとんでもない人である。

━━2度目のパリダカで致命的な事故 そこからの再起━━

◆2004年、2度目のパリ・ダカールラリー挑戦。1982年にはなかったハイテクなGPSに気をとられているうちに、スタートしてたった1.3km地点でトラックとの正面衝突事故に巻き込まれた。ハイテクが風間さんの野生のカンを狂わせた。病床の風間さんは地平線第300回報告会の会場にビデオ画像で登場した。事故から200日、8回の手術を経て脛に通されたイリザロフ療法のチューブで患部を24時間洗浄中という痛々しい姿。江本さんのインタビューを受けている。

◆この時53歳の風間さん。成長していく息子たちに再び原点に戻って地平線を追いかける、活力あふれる父の姿を見せてやりたいという思いからの挑戦だった。それが思いもかけなかった大事故。障害を受容するまでにはどれほど深い絶望があったことか。うつ状態にも陥っただろう。経済的な負担を考えても心配事は尽きないことは容易に想像できる。しかし、ここからがこの人の真骨頂なのだった。

◆2009年12月の地平線報告会「ハンディキャップチャリダーズ・ゴーゴー豪州」で報告したように、足にハンディキャップをもつ仲間と自転車でオーストラリア横断5,150kmの旅をしたのだ。これは2007年のスクーターによるユーラシア大陸横断18,000km、2008年の四駆車でのアフリカ大陸縦断に続く第3弾である。運動器(骨・関節・筋肉・靭帯・腱・神経など身体を支える器官)の大切さをアピールするキャンペーンに呼応するものである。

◆治療が上手くいかず13ヶ月間苦しんでいた風間さんを一週間で治した恩人でもある帝京大学の松下隆先生は「外傷分野だけに限って言えば、先進国では日本の治療は飛び抜けて最低。なんとかしなければいけない」と言う。ドイツに80、タイに40ある外傷病院が日本にはないに等しい。事故でプラチナアワー(緊急措置が有効な事故発生後1時間以内)にそこに居合わせた医師が適材適所で動くシステムがない。それは風間さんがまさしく身をもって感じていたことだった。

◆二人は意気投合し、行動につなげる。2010年「障害者による日本列島縦断駅伝」が実行され、沖縄から北海道まで127人がタスキをつないだ。風間さんは全行程を自転車で伴走した。この年南北アメリカ大陸を縦断、健常者より障害者の方が元気だと感じた。風間さんは障害を負ったことで「いつから障害者ですか?」と心置きなく聞くことができると言った。「皆さんは聞けないでしょう?それは慣れてないから、心の壁があるからです」

◆リオのパラリンピック以降障害者レースを見る目が変わってきたとも感じたそうだ。彼らがスポーツをする姿は本気で体当たりで「頑張っている」以外の何物でもない。溢れる情熱が人の心を動かす。そこには健常者も障害者もない。心が元気かどうかだ。『達成とは何を成し遂げたかではなく、成し遂げたことで何を得たかである』最近読んだ女性クライマーのリン・ヒルの言葉が自然に浮かんできた。

 ━━息子の出番━━

■そんな偉大な冒険家を父に持った息子、晋之介さん。小さい時から南極や北極に行って2,3か月帰って来ない父親の背中を見て育ったが、日本にいるときは毎週末に友人家族ら合わせて20人くらいで自然の中でキャンプをする生活で、その中で団体生活も覚えていった。テントでも熟睡できるのもその頃のおかげかなぁ……と笑う。自分のバイクを持ったのは小学5年生10歳くらいだった。モトクロスに熱中し渡米までした。

◆挑戦できる環境があるならやらない手はないと言う末っ子に気負いはない。素直に憧れの偉大な父親とダカール・ラリーに参戦したかった。クラウドファンディング用のプロモーションビデオがあり、報告会ではまずそれを流した。クラウドファンディングは12月に360万円の達成をしている。映像が豊富にあることや眩しいLEDライトなどに時代の流れを感じる。愛車はヤマハY2450F。ゼッケンは118番。今年1月2日にパラグアイからスタートし、ボリビア、アルゼンチンと3か国を12日間かけてアンデスの5,000m超えの高地を走り抜ける過酷なレースである。

◆主催者は昔から安全面と環境面に気を使っている。GPSで世界各国からオンタイムでコースを監視できる。また全個体に発信器が装着されるから、昔よりリスクは低くなった。しかし、ナビゲーションの難しさはトップの選手でも迷うことがあるほどで逆走する車もいた。指示書を持たずに走るなんて考えられない!と父の顔をちらっと見る。しかしその父から教えられた大切なこともある。

◆迷ったら少しでも高い丘に登って、ヘルメットを外して、耳を澄まし、光るものを見つけ、太陽を見て方位方角を見定めて、オンコースに戻るのだと。過酷な大自然の中で助け合いながら生きてきた人々は優しかった。特にボリビアの首都ラパスでは街中に至る20kmも手前から沿道にすべての人が出て歓迎してくれ嬉しかった。日本でも、もっとダカール・ラリーが注目されるといいのになぁ……と本音が出る。ぬかるみにはまったりする危険個所は見所でもあり、観客が待機していて十人程が走ってやってきて助けてくれる。

◆前半戦は気温50℃、湿度98%。後半アンデス山脈は4,000m超えの高地が6日間続き、高山病のリスクもある。気温が低い中での突然の雨や、山肌へ落雷があり石が砕け飛んでいるのが見える中を進んで行かねばならない。さすがにギャラリーもいない。過酷な状況で見るからこそ、山肌を染める朝夕の景色は最高に美しかったそうである。チームはメカニックなど9人でサポートする。宿営地にテントを張り寝袋にもぐりこんで仮眠する前にもやらなければいけないことがある。指示書の確認だ。

◆メカニックはマシンの整備で寝る暇もない。金持ちの1億円位の予算があるチームだと冷暖房完備のキャンピングカーで温水シャワーを浴びれるが、晋之介さんは頭や身体を冷水で拭くくらいだったそうだ。昔自然の中で遊んだ経験がここでも生かされている。短時間で休める身体が備わっていないとやっていけないレースであることは時代を超えても同じである。12日間で10kg痩せた。

 ━━息子の勇気━━

◆バイクは150台参戦し完走できたのは97台。その中で67位の成績である。もちろん二輪では唯一人の日本人だ。父、風間さんは言う。「1位の選手も100位の選手を讃える。皆が賞賛し合う。すごい成績とは言えないけれども、昔より高くなっているレベルの中でよくやった。そして息子の偉いところは、彼が9位の車にバイクの貴重なガソリンを分けてあげたことだ。

◆息子より上の順位のバイクに止められて、動かなくなったバイク修理を手伝った。普通は止まりたくないものだが、止まる勇気があった。俺には出来ねえと思った。そんなことやれなんて俺は教えてないのに。自然を知っている奴は優しくなれるし、強くなれる」嬉しそうな父親の顔だった。35年前に賀曽利さんを助けてくれた仲間がいたことを思い出す。

◆晋之介さんに奥さんは心配していた?と江本さんが聞く。「心配していたと思いますね。2004年の父親の負傷のことも知ってるし……。でも来年、第40回もやりたいと思ってます。もっと順位も上げたい。遺伝ですかね……」と爽やかな笑顔。かかる費用は1,000万円を超えるそうだ。怪我をしてこの日の報告会に松葉杖姿で参加していた母、恵美子さんに江本さんがマイクを向ける。心配しましたか?「東京にいてもオンラインで順位がわかるの。地球の裏側で真夜中に見ているから心配で毎日眠れない。間違ってるコースを来ているな……っていうのもわかってしまう。あれあれ、そっちに行ったら谷だよとか……」旦那の時も心配だった?「やはり血を分けたわが子ですから息子の方が心配です! モトクロスも毎年骨折していたし……。やめたと思ったらまた始めてしまった」

◆それを聞いて深志さん苦笑。晋之介さんに俳優とうまく両立できるものですか?「昨年は8月以降は全て準備に使った。時間の使い方というのは今後必要になっていくと思う。練習にだって怪我のリスクはあるから注意しなければならない。役者業でも完全に一本立ちはしていないから、今後課題になっていくと思う。昔から反骨精神があって、今の俳優業界にも不満を持っている。それとも戦いながら、ぶち壊しながらやっていきたい! 役者も冒険も目標に向かう心のベクトルは同じ!」

◆映画の現場でも今回のダカール・ラリー完走で一目置かれるようになったらしい。「僕、親父と違ってこんな顔でしょ。だから軟弱に見られがちで、この結果は今後役者人生でも生かせると思うし、僕が役者でメジャーになっていくことでモータサイクルの世界に貢献したい」。顔は違うが中味は父親のDNAを引き継いでいるのであった。がんばれ!!!(高世泉


恒例、柚妃ちゃんの質問コーナー

[1]晋之介さんはバイクに乗っている時ほとんど立ち乗りだと言ってましたが馬に乗ったことはありますか?

  A:一度だけあります。立ち乗りはできなかったなあ。

[2]深志さんは映像で髪の毛が真っ白でカッコいいのに、どうして今日は白くないのですか?

  A:映像を自分で見てあまりに真っ白でファンががっかりすると思って900円のカラー染めを買って染めました。

いつもながらの鋭い質問にタジタジなのであった。(泉)


報告者のひとこと

子どもたちのいる風景━━地平線会議のすごさ

■まずはじめに、この歴史ある地平線会議へとお声がけいただき誠にありがとうございました。あんなに子供たちもいる場だとは思っていませんでした。そして、あのような場に自分の子供を出席させてくれる大人がいることに感動と関心を覚えました。多くは大人相手に話をしてきましたが、僕らのような活動をしている人間が本当に話すべく対象は子供たちなのでは?と再確認させられたような気分です。

◆冒険に出て、夢に向かい、その為に犠牲を払い、努力し、理想を掴むということ。自身の目を輝かせ、やりたいことに真っ直ぐに立ち向かうこと。幼い頃には多くの人がこの行為を自然とやっていたと思います。いつしか僕らは自分の限界を決めつけ、何かに抑圧され、自分の本当にやりたいことに立ち向かうことをしなくなって行く。

◆社会へ出て何かを我慢し、ルールに沿うことは必要な事ですが、僕ら大人たちが子供達に何を見せてあげられるのか、何を残せるのか、この事は社会にとっても大切な事だと思います。モバイルに身を覆われ身の回りの素晴らしい世界に気づかなくなっている。「生きる」上で何とも勿体無いことです。「知る」事より体で感じ、触れ、体験するという、デジタルではなくリアルに感じる事の大切さはこの地平線会議の皆さんは知っていると思います。

◆それを子供達や外の世界に発信してゆく。この素晴らしい集まりを知り、体験して欲しいと心から思いました。「僕」にできる事、今後も自分の活動を通して、発信して行きたいと思います。またあの場で報告できるよう、刺激的な日々を、進化ある日々を過ごして行きます。ありがとうございました。(風間晋之介

初体験? 奇妙なダカール冒険行

■39回目を迎えた今回のダカール・ラリー。参戦の目的は親子参加で初出場の息子を完走に導くこと。と、アフリカを離れて9年目、南米大陸を舞台に展開する今のダカール・ラリーは果たしてどの様なものになっているか?(少し懐疑的に)を、この目でしっかりと見定めてみたいと思ったからだ。

◆結果的には、ラリーの舞台の中心は「サハラ」から「アンデス」に移り変わり、そして、二輪&四輪混成のラリーの内容は変わらぬものの、その様相は「個人」から「チーム」戦に、「冒険」的から「コンペティション」化したラリーへと変貌した。

◆そんな部分を指し、過去のサハラ・スタイルに強い執着と憧れを抱く古いダカール・ファンたちからは、一部批判めいた声も聞こえてくるが、いやいや、現行ダカールの自然の過酷さ雄大さもなかなかのもの、あの大サハラに負けじと劣らぬ素晴らしさだった。スタートtoゴールの二週間、毎日の平均走行距離800km、標高5,000mを超える雨模様のアンデスを7日間も走り続け、クソ暑い平地の原野を駆け抜け、その気温差は+47℃から

−3℃までという厳しい自然環境の中だった。

◆出場選手は、その昔はなかった「Dakar Series」の予選をくぐり抜けた60数か国の精鋭たち。世界のオフロードの頂点に位置するラリーに、生涯の思い出となる「完走」を目指し走るのは今も昔も変わらない。そんな中で「Spirit of kazama」のエースライダーとなった我が息子は、全出場ライダー167人中、67位という好成績だった。初参戦での完走は見事と言えるものだったのだが、「親子参戦」と銘打ち、監督の立場で参戦した親父としての気持ちはどうだったのか?と言うと、もうたまらないほどの複雑さ?であった。

◆出発前の日本で、なにか特別な親子同士の親愛さを込めた応援をしてくれた三浦雄一郎さん親子だったが……僕たちの場合は、親子であるが故、本人同様の緊張と真剣さを持って望んだラリーの一部始終だったが、確実に走るのは今回は僕ではなく息子。監督である親父の毎日の仕事と言えば、ただ毎日「心配」するだけで、痛くも痒くもない日々を過ごすだけ。

◆毎夕、息子が日課を無事に走り終えてキャンプ地に帰って来るのは死ぬほど嬉しいことだが、う〜〜う〜〜、まだまだ僕は現役で走りたいのだ!と、心の底から思う「ダカール・ラリー」の参戦でした。(風間深志


地平線ポストから

5月連休も参加した風間さんの「地球元気村」

■ぼくは、記憶にはないが、生後4か月から風間さんがやっている「地球元気村」に参加しているらしい。先日、5月3日、4日も山梨県山梨市の「元気村・天空の畑」に参加した。今回の晋之介さんのダカールラリーも、Jスポーツ3を観て応援していた。こんなご縁もあり、晋之介さんの話は一度聞いてみたいと思っていた。

◆深志さんのパリダカ初参加したときの、『水が命の一滴だった』というのを聞いて、自然の過酷さを感じたし、地球元気村の活動にもつながっていると思った。晋之介さんのラリーのお話で一番心に残った言葉は、『トップの人もビリの人も同じ距離を走っていて、体にかかる負担や、つらさも一緒だ』ということだった。ぼくは、同じ目的に向かうライバルは、良き仲間であるということを強く感じた。

◆改めて、自然の恵みを大切にしていきたいし、本当の仲間を大切にしていきたいと思った。今後とも、宜しくお願いいたします。(長岡祥太郎 小学六年)

「九州、いや“十一州”一周5000キロ」

■スズキの150ccバイク、ジクサを走らせ、「中国一周3000キロ」(3月2日〜3月9日)にひきつづいて、「九州一周5000キロ」(4月20日〜5月1日)を走ってきました。ということで4月28日の風間さん親子の報告会には行けませんでした。ほんとうに残念だったし、風間さんには「絶対に行きますよ〜!」と言ったので、申し訳なく思っています。

◆さて九州一周ですが、みなさんが普段使っている「九州」は「ちょっとおかしいですよ」と私、カソリはいいたいのです。九州本土の旧国、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、薩摩、大隅の9国に由来しての九州ですが、じつはそのほか壱岐、対馬の島国2国があるからです。ですから「十一州」と正確に呼ぶか、もしくは「五畿七道」のうち、九州の11ヵ国は西海道なので、「西海道」と呼ぶ方がいいのです。でも今さら「九州」を「十一州」とか「西海道」には変えられませんよね。

◆ではなぜ冒頭からこういうことをいうかというと、ぼくは日本を県単位で見るのではなく、旧国を強く意識して、旧国単位で見る方がはるかにおもしろいと思っているからです。我々日本人のDNAには千何百年もの旧国の歴史がしみついているのです。たとえば静岡県は伊豆、駿河、遠江の3国から成ってますが、とくに大井川をはさんだ駿河と遠江は似ても似つかない別世界です。隣の愛知県は三河と尾張ですが、三河生まれの世界企業のトヨタは長い間、国境をはさんだ尾張側には一切、工場を造りませんでした。その隣の岐阜県は美濃と飛騨ですが、「飛山濃水」といわれるようにここも2つの国はまるで別世界です。

◆ということでカソリ、「九州一周5000キロ」では徹底的に旧国を意識してまわりました。といってもこれがけっこう難しいのですよ。今の旧国には国府跡はあっても国府は残っていないし、国分寺跡はあっても国分寺は残っていないし……。そこで一宮に目をつけたのです。一宮は日本全国68ヵ国のすべてに残っています。2社以上の国もあるので、全部で109社(そのうち5社は新一宮)あります。

◆一宮の千何百年という生命力のすごさ、その寿命の長さには驚かされてしまいます。おまけにどの一宮にも豊かな鎮守の森があり、それぞれの国では一番の自然の宝庫になっています。こうして「一宮めぐり」をしながら「九州一周5000キロ」を走ったのですが、魅力満載のスタンプラリーを楽しみながら九州を走るようなものでした。

◆4月20日10時、東名の東京料金所を出発。150ccバイクというのは高速道路を走れる最小のバイクなのです。東名から名神→中国道→九州道と高速道路を走りつづけ、関門海峡を渡った門司港ICには24時30分に到着。1100キロを14時間30分で走ったことになります。それにしても痛いのは16900円の高速代。日本の高速道路は高すぎますよね。

◆門司港の「ルートイン」に泊まり、翌日からは一宮めぐりを開始。まずは福岡市内の筑前の一宮、筥崎宮と住吉神社を参拝。つづいて筑後の一宮の高良大社へ。久留米郊外の高良山の中腹にありますが、ここは平成の大修理で社殿がすっぽりとシートで覆われていました。九州一の大河、筑後川を渡り、肥前の一宮、千栗神社と與止日女神社の2社をめぐりました。その中間に吉野ヶ里遺跡の吉野ヶ里歴史公園があります。

◆筑前、筑後、肥前の一宮めぐりを終えると、唐津東港からフェリーで壱岐の印通寺港に渡りました。壱岐の一宮は天手長男神社。じつは20年前の「日本一周」で日本全国の一宮をめぐったのですが、68ヵ国の中ではこの壱岐の一宮が一番、消滅の危機にあると感じました。しかしそれは杞憂に過ぎなかったようで、社殿は新しく建て替えられ、境内も整備されていました。

◆壱岐の郷ノ浦港から対馬の厳原港にフェリーで渡ると、あふれかえる韓国人旅行者の多さに圧倒されました。厳原に新しくできた「東横イン」に泊まったのですが、宿泊客の大半は韓国人。館内には韓国語が飛び交っていました。厳原から国道382号で北の比田勝に向かったのですが、韓国人サイクリストの車列は途切れることはありませんでした。国道から離れた対馬の一宮の海人神社はまったくの別世界で、まるで忘れ去られたかのように人一人いませんでした。

◆厳原港からフェリーで博多港に戻ると、熊本から鹿児島へ。熊本では肥後の一宮の阿蘇神社を参拝。熊本地震で社殿がつぶれた阿蘇神社ですが、拝殿の奥にある一の神殿(左)と三の神殿(中)、二の神殿(右)の本殿は残っていました。よかった。鹿児島では薩摩の一宮、川内の町中にある新田神社と開聞岳を目の前にする枚聞神社の2社、つづいて大隅の一宮の鹿児島神宮をめぐりました。鹿児島県というと誰もが薩摩を連想しますが、じつは薩摩と大隅の2国から成っているのです。

◆日本本土最南端の佐多岬に立ったあと、九州の東側を北上し、日向、豊後、豊前の一宮をめぐりました。日向の一宮は都農神社、豊後の一宮は柞原神社と西寒田神社の2社です。柞原神社も西寒田神社も大分の市街地を間近にするところにありますが、境内の自然林のすごさには驚かされてしまいます。とくに柞原神社はまるで深山幽谷の地に入り込んだかのようで、入口の南大門の脇には樹齢3000年といわれる大楠が空を突いています。

◆「九州一周」の一宮めぐりの最後は、豊前の一宮の宇佐神宮です。朱塗りの大鳥居に朱塗りの社殿。宇佐八幡で知られる宇佐神宮は、全国に2万4000社ある八幡神社の総本社なのです。宇佐神宮を最後に北九州に戻り、門司港の「ルートイン」に泊まりました。帰路は山陰道の国道9号で京都まで行き、京都から名神→東名と高速道路で東京へ。十一州にとことんこだわった「九州一周5000キロ」でした。(賀曽利隆

『新編 西蔵漂泊』を手にインドへの旅

■3月31日の夜、江本さん宅での「西蔵漂泊チーム・お疲れ様会」を途中で抜け、僕は羽田に向かった。羽田から向かう先はデリー、そして、その先にあるタワンだ。深夜に羽田から飛び立ったタイ航空の飛行機はバンコクを経由し、そこからインドのデリーに降り立った。

◆イミグレを抜け、僕は子供達に届けるお菓子のつまったスーツケースと手動で充電できるランタンの入った段ボールを受け取り、国内線の乗り場に急いで向かう。搭乗の30分前にゲートに到着するものの、ゲートには知っている顔は誰もいなかったが、最終的に出発15分前に一緒にタワンを目指す仲間達が現れる。この旅に誘ってくれた龍村和子さんは職員の押す車椅子に乗っていた。

◆龍村和子さんは、ハワイの伝統航海術のナビゲーターのひとりであるナイノア・トンプソンを日本に紹介した「ガイアシンフォニー」という映画の監督・龍村仁さんのお姉さんだ。そして、そのナイノア・トンプソンに伝統航海術であるスター・ナビゲーションを教えたのは、去年一緒にミクロネシアを航海したキャプテン・セサリオの父親であるマウ・ピアイルグだ。「わたしの弟のひとりが修って言うのよ。漢字も一緒ね。だから、オサムちゃんって呼ぶわ」と和子さんが言う。

◆不思議な縁を感じながら、僕は国内線に乗り込み、バッグに入れていた「西蔵漂泊」を取り出す。そして、それを読みはじめる。しばらくして、あることに思い至る。やがてデリーから飛びたった飛行機がグワハティの空港に着き、僕達は迎えに来ていた車に乗り込み、遥か先の街タワンを目指した。タワンはインド北東部にあるアルナーチャル=プラデーシュ州にある街で、ダライ・ラマ法王がインドに亡命した際に最初に立ち寄った場所だという。

◆車に揺られながら越えた標高4,500メートルにあるセラ峠はまだ残雪で覆われていた。当然寒い。僕はひざ掛けとして準備していたケニアの布キコイで全身を覆って寒さをしのぐ。道は所々舗装されているが、場所によってはガタガタだ。僕達は高山病と車酔い、寒さに耐えながらその道を急ぐ。夜9時を過ぎた頃だろうか。ようやく目的地のタワンにあるマンジュシュリ孤児院に辿り着いた。

◆孤児院に続く道の両側には小さな子供達が凍えそうな寒さの中、合掌をしながら僕達の到着を待っていてくれた。そんな予想もしていなかった歓迎に心が揺れる。そして、迎えに来てくれていたラマ・トプテンに導かれるように僕達は孤児院に入って行った。

◆この孤児院は迎えに来てくれたラマ・トプテンが1988年にチベットから亡命してきた孤児やストリートチルドレンを集めてはじめたものだという。はじめは十数人だった孤児院で暮らす子供達も今や250人を越えている。僕は去年の10月にダラムサラにあるチベット子供村を訪ねた際に、この孤児院とラマ・トプテンの話を聞き、一度この場所に足を延ばしてみたいと思っていた。彼は2004年にインド政府より社会福祉ゴールドメダル受賞、2007年にはインド大統領より最高国家賞であるパドマシュリ賞を受賞、2011年には子供福祉国家賞を受賞しているという。

◆孤児院の朝は早く、5時過ぎには子供達の祈りの時間がはじまる。朝が早くて、ほとんど眠ってるような子供達もたくさんいる。約30分の祈る時間が終わると、朝食の時間まで子供達は教室で朝の学習をする。僕が滞在していたときには、まだ小学校にも行かないような子供達が九九の勉強をしていた。朝食が終わると、子供達は勉強の続きをはじめる。その間に僕達はそれぞれ思い思いの活動をする。僕はカメラを持ち、外に出かけ、ときどき子供たちの写真を撮ったり、読みかけの本を読んだ。そして、僕達はダライ・ラマ法王のタワン到着を待った。

◆そんな旅の間に「西蔵漂泊」を読みながら感じたのは、それぞれの人が持つ「運」だった。それは人柄と言い換えてもいいかもしれない。それぞれの先人がそれぞれの想いを抱えてラサを目指していた。そんな先人たちの中で、一番気になった存在は多田等観さんだ。文庫中にあった彼の「至誠」という言葉は、僕の高校の校是であり、彼が教鞭をとった東北大学は僕の母校だ。彼のラサでの生活スタイルも琴線に触れた。

◆彼がラサに滞在していた10年という歳月は短い期間ではない。そんな日々の中でダライ・ラマ13世にとても気に入られた彼。なんでもない日々を費やしたからこそ近付ける世界があると思う。僕はそんな彼の旅のスタイルに共感を覚えた。そして、先人達がチベットを目指した記録であり、記憶である「西蔵漂泊」を意図せずに持ってきていたことに不思議な縁を感じもした。もしかすると僕は彼らの後輩として「西蔵漂泊」を届けるために今ここにいるのかもしれないとも思った。

◆今回、天候不良でヘリコプターが使用できなかったため、ダライ・ラマ法王のタワン滞在が短くなり、謁見の時間がなくなって、わたしから直接「西蔵漂泊」を手渡すことはできなかった。ただ旅に誘ってくれた龍村和子さんからダライ・ラマ法王に渡してもらうことはできた。日本語で書かれている書籍だから、直接は読むことはできないと思うけれど、先人達の記録と記憶がダライ・ラマ法王の手元に届いただけでも意味があるのではないかと僕は思う。

◆タワン滞在最終日、ダライ・ラマ法王のティーチングの最中、メディアブースの最前列でカメラも構えず、両手を蓮の華のつぼみのように合わせた僕の姿は彼の瞳にどのように映っていたのだろうか。(光菅修

リニア、長野県内で掘削開始!

■憲法記念日の5月3日、長野県下伊那郡大鹿村の大磧(たいせき)神社では、「問われて名乗るもおこがましいが?」と、大鹿小学校5年生が大見えを切っていた。地芝居としてこの3月日本初の重要無形民俗文化財の指定を受けたばかりの「大鹿歌舞伎」を見るために、村の人口1000人を上回る、1500人以上がその境内を埋めていた。が、大鹿村が注目されているのはこの地芝居だけではない。

◆4月20日、大磧神社から林道と見間違う県道を約30分ほど走った場所の、リニア中央新幹線南アルプストンネル工事「釜沢非常口」現場ゲート前で、村民を含む僕たちは、工事関係者に追い返された。案内の村議会議員の河村明代さんが、村を通して、JRに見学の了解をとってあったにもかかわらずだ。

◆安曇村で生まれた僕は「脱ダム」の活動を、東京と松本を行ったり来たりしながら行なっている。そんなことから、自然と生活環境の破壊が心配される、リニア中央新幹線建設工事にも関心を寄せてきた。4月に入り、豊岡村の発生土処分地計画が一歩前進したと聞いた。そんな折、長野県自然保護連盟より、現地見学の案内を受け、僕は大鹿村へ向かった。

◆リニアは、運行区間のほとんどがトンネルのため、掘削土の処分をどうするか、が問題になる。それは、生き物たちの棲む場所であり、災害防止の役割も果たす沢を、埋めることで処分される。また、その土砂流出が、下流の河川断面を小さくし、洪水の危険性を高める。地下水を含むことで起こる盛り土の崩壊も懸念される。汚染土、鉱毒を含む発生土による影響も危惧され、岐阜県東濃ではウラン鉱脈の存在が確認されている。未確認のものは、知らずに通常処分される可能性がある。

◆大量の発生土を運ぶトラックによる環境影響も大きい。「釜沢非常口」は、大鹿村の3本の斜坑のうちの一本だ。環境影響評価書では、発生土は160万m3、大型ダンプ約32万台分。資材運搬車両を含めた総台数は53万9千台。美しい、のどかな村を、朝から晩まで1分に約1台間隔でトラックが走り回ることになる。「除山非常口」の車両が合流する、上蔵(わぞ)では、1分間に約2.6台だ。拡幅等道路改良工事が、トンネル掘削に先立ち行われることになっているが、その様子を見ることはなかった。

◆21日には、発生土の処分地を、地質学者の松島信幸先生の案内で見学した。松川町生田地区。丘陵地帯の生東(いくとう)と、その下流で天竜川に面し、三六災害(

※)で被災した福与を合わせそう呼ばれる。その生東に、大鹿村の300万m3を「丸ぼっき」「つつじ山」「長峰」の3箇所に分けて処分する計画だ。福与で「福与地区リニア工事対策委員会」の米沢正幸委員長の話を聞いた。「『地域活性化事業の推進』が町の受け入れの条件としてあるので、協力したい。しかし、地区として受け入れを表明したというが、生東が勝手にやったことだ。最も影響を受ける、福与には何の説明もなかった。JRも『安全ですから大丈夫です』を繰り返すばかり……」

◆生田地区は「受け入れ反対」を表明し、生東への質問状で説明を求めている。災害直後の生東地区の航空写真を見るとほとんどの沢が、崩壊により露出した花コウ岩で白く写っている、それは、深さ10mまで深層風化が進む「生田花コウ岩」と呼ばれ、風化花コウ岩で形成された丘陵自体の脆さを写し出していた。

◆豊岡村本山発生土処分地は、「サースケ沢」の最上流部を「坂島非常口」「戸中非常口」から発生する約130万m3を埋め立てする計画地だ。この沢の下流も三六災害で氾濫している。すでに、発生土仮置場等の工事が行われていた。計画地沿いの道は、ほとんどの山肌が崩壊し、風化花コウ岩と花コウ岩が砕けてできた「マサ土」で、その道幅が狭められていた。崩壊した石も、手に取るだけで、ぼろぼろに崩れてしまう。

◆4月27日付け、信濃毎日新聞第一面を「リニア県内初の掘削開始」「大鹿 除山非常口」の文字が踊った。JRは大鹿村で「自治体や住民の方々とも連携して工事を進める」と発言している。だが、地元の釜沢地区自治会長は、当日取材を受けて初めてそのことを知った。「県内初」を報じた新聞の一面写真は、取材拒否を受けた記者が対岸から撮ったものだろう、レンズ前の木の枝とともに、立ち入りを拒むロープの内側に、外を監視するように並ぶ、工事関係者が写っていた。

◆「リニア中央新幹線」は「夢」の乗り物と言われる。しかし、知れば知るほど「夢」の代償がいかに大きいか、がわかってくる。約60年前、原子力は「夢のエネルギー」と言われた。しかし、いま、その代償の大きさをわからない人は、いないはずだ。(小石和男

※三六災害:正式名称は「昭和36年梅雨前線豪雨」。台風6号に刺激された梅雨前線が、全国44都府県に大雨をもたらした、全国で死者302名、行方不明者55名、負傷者1,320名を記録した災害。特に伊那谷の被害は甚大で、死者99名、行方不明者25名、重軽傷者1,155名、浸水面積534ヘクタール。

先月号の発送請負人

■地平線通信456号(2017年4月号)は、4月12日印刷をし、大勢の皆さんに来てもらって封入作業をしました。皆いそがしい身なのに、こういう地味な作業に来てくれること、ほんとうにありがたいです。小さな小さなメディアですが、地平線通信を出し続けることの大事さを理解してくれているからでしょう。駆けつけてくれたのは、以下の皆さんです。中には作業が終わってから駆けつけた方もいますが、その心だけでもありがたいです。その数、なんと17人! 皆さん、ありがとうございました。
 森井祐介 車谷建太 山崎ふみえ 坪井伸吾 小石和男 下川知恵 伊藤里香 兵頭渉 前田庄司 杉山貴章 江本嘉伸 白根全 武田力 中嶋敦子 福田晴子 石原玲 松澤亮
   作業を終えていつもの餃子の「北京」に移り、美味しく食事し、歓談しました。探検部2年生となった下川さんは、新人部員勧誘と歓迎の仕事であわたたしく大学に戻りました。そう。早稲田大学はすぐそばになるんですね。歓談の中で、坪井君がドクトル関野のマッサージ治療(というのだろうか?)を受けてきた、と話し、みな驚きました。他にも地平線がらみで治療を受けている人がいるらしい。ドクトル、そんな時間あるの?(E)


高校生たちにとって最後の講義をされたことを知り胸が痛くなりました

■5月10日発行の通信457号に向けてお忙しい時間をお過ごしのことと思います。「新編・西蔵漂泊」の講演会とそれに続く祝賀会どちらも出席させていただき心地よいひとときを過ごしました。通信の中でしか知らない、地平線会議を江本さんと支え続けている方々とお会いでき、私も同じ空気を吸えたことが嬉しくなりました。

◆江本さんから手作りのお菓子を、それも100人分以上になるかも知れないとお電話をいただきました。これは前日作って当日私が会場に運ぶしかないと覚悟を決め、近くの公民館からもオーブンを借りて来て2台フル稼働で人形クッキー、オレンジケーキ、ブラウニーを仕上げました。クッキーは子供たちが各テーブルを回って配ってくれました。皆さんにも何とか行き渡ったようでホッとしました。

◆双子の赤ん坊を連れた山本夫妻と同じテーブルになり、子育て真最中のお二人の奮闘ぶりをほほえましく思ったり、皆さんの江本さんへの祝辞も江本さんのお人柄を語ってくれるものばかりで温かな雰囲気に包まれていました。最後の江本さんのご挨拶も素敵でした。余韻に浸りながらの帰りの電車の中で私もきちんと江本さんへのお祝いの言葉を皆さんにお伝えすべきだったなと反省しました。司会の丸山さんが「お菓子の原典子さん」と紹介してくださったのに、にっこりと手を振るだけで退場してしまいましたから。

◆夫原健次が亡くなったときはすぐにわが家に駆けつけてくださり、葬儀では弔辞を述べてくださいました。その後「まもなく発行予定の通信になにか書きませんか?」とお電話をいただいた時はびっくりしました。今は文章なんかとても書けないと思っていましたのに翌日の早朝、パソコンに向かうとつぎつぎと言葉が湧いて来たのです。きっと江本さんが背中を押してくれたのだと思いました。その後もときどき文章を寄せさせていただいています。

◆4年前に始まった「原健次の森を歩く」の編集作業ではお忙しい日程をやりくりして丸山さんと何度も宇都宮のわが家に来てくださり1年後素晴らしい本に仕上がりました。きっと皆さん一人ひとりに真摯に向き合ってこられたからこその交友関係の広さ深さだと思います。通信のフロントページを毎回楽しみに読ませていただいています。発行直前まで考えぬかれた言葉を味わっていますが、4月の通信もいつものように読み進んで行くうちにドキドキしてきました。

◆「翌25日の土曜日、朝から那須塩原駅に向かった……」というところでまさかという思いが湧いてきました。本県の高校生と教師8人の遭難の記事が毎日のように特集されていた時です。江本さんが山岳部の高校生たちにとって最後の講義をされたことを知り胸が痛くなりました。江本さん自身がつらい思いをされているのではと思いました。悪い偶然が重なった最悪の事故ですが江本さんの言葉の一つひとつをしっかり受け止めて旅立ったと思いたいです。

◆どうぞこれからも後進になぞ道をゆずらないようお元気でご活躍なさいますようお祈りしています。(栃木県宇都宮市 原典子

三羽宏子さんの文章に深く共感して

■この2年ほど、報告会に行きたいけれど行けないままだった。この方のお話を聞きたいと思っても、現在5歳の人見知りの娘と3歳の暴れん坊の息子が、参加をためらわせていたのだ。そんな時、地平線通信で三羽宏子さんの文章を読み、深く共感したのだった。結婚して親になり、もはや自分中心の生活は遠くなった。子供に「ママが好きな食べ物、なに?」と聞かれて即答できなかった時、愕然とした。

◆4月は風間深志さん晋之介さん。なぜだか、絶対に行かないと!と強く思った。報告会翌日の予定がなく、天気も問題なく、子供達の了解も得られて、これまでのためらいが嘘のようなスムーズさで3人で会場に向かうことができた。夜のお出かけが嬉しくてはしゃぐ2人の手をつなぎ、ファミレスで簡単な晩御飯を済ませ、公園を見つけるたびに遊ばせた。

◆会場では、お久しぶりの皆さんに声をかけて頂け、本当に嬉しかった。娘は自分なりに大人の話を受け止め、何かしら学ぶだろうと期待していた。風間さんの昔のラリー参加時の写真やケガをされたときの写真を見ては、おお!という目をしてこちらを見てきたので、良い傾向だと思った。娘は小学校に入ったら、ボルダリングをやりたいと言っている。

◆この4月から幼稚園に入園した息子は、想像よりだいぶ静かにしていることが出来た。それだけで充分だ。幼稚園の後に報告会に連れて行ったので、2人とも疲れて眠ってしまう恐れがあったため8時に退出。それまでに、黙らせるためのお菓子として持ち込んだラムネ1パックを、2人で食べ尽くしていた。

◆風間さんの報告会に駆り立てられたのは、2007年10月の風間さんの報告会リポートを私が書かせていただいたからだと思う。報告会が始まってから、それを確信した。地平線HPで確認すると、「運動器の10年」キャンペーンでロシアのウラジオストクからポルトガルのロカ岬まで18000キロをスクーターで走破した報告だった。当時、私は30歳。ブラジルで2年間日本語教師をして帰国したばかりで、エネルギーに満ち溢れていたはずだ。お金はないのに、やりたいことはたくさんあって、安定しない自分が誇らしくも不安でもあった。

◆10年後の今は、自分の好物さえ忘れてしまう生活だ。風間さんの話を聞いて、状況は変わろうと自分の好きなことは大事にしないとなあと反省した。途中退席したので聞けなかった晋之介さんの話も聞きたかった。パラグアイからアルゼンチンにかけてのレースということで、20代の頃バックパッカーで中南米を旅した時のことを思い出したかった。レポートが楽しみです。(黒澤聡子

大震災から3年目 あやさんのランタン報告(先月からの続き)

【1報】4月10日
──ノルブのこと ゴタルー(牧畜民)とゾモ──

■彼のあざなはノルブ・パルダー(パルダーとは痣のこと。腕に黒い斑点のような痣があることから、と)。「おれはカンバ・ドルジェと一緒に放牧地を回って、チーズづくりを教わるんだ」と嬉しそうにいう。すでに自分で3頭のゾモを購入していた(うち1頭分はゾモファンドからお金を支払う)。彼は独身で、姉の遺児一家4人を養子に迎え、ゴタルーとして彼なりの稼ぎをしていました。それが、2015年の大なだれで養子にした一家全員を失い、どんなに途方にくれたことでしょう。その彼が若者の多いグループに移り、チーズを作りたいと。ノルブは気力を取り戻し、前に向かっている、今回のランタン訪問でこんなに嬉しいニュースはありませんでした。

◆スタッフのダワ・ノルブの発案で、今年のゾモ購入は自分で買ってきて、お金を酪農組合から受け取るということにしました。ゴタルーたちは間違っても年齢を過ぎたゾモを選んでくることはないと思います。ランタンのゾモはヤクポ(オスヤク)とロンパラン(低地のウシ)のメスとのハイブリッド。そのせいか、骨格がしっかりしていて、毛が短く毛並みがいい感じがします。

◆トゥンドゥ・ワンドゥは集会の翌日、さっそく西隣りの村へゾモを買いに出かけ、その翌日には2頭を率いて戻ってきました。売主がこの2頭は仲良しなので、寂しがるから2頭いっしょでないと売らないと言ったとか。

◆昨晩の現地との交信では、1名を除いて全員がゾモを買って戻ってきたそうです。間もなく産み月を迎えるので、急いでいたのですね。

【2報】4月14日
──大なだれの爪痕──

■4・25、ランタン村ユル地区とゴンバ地区を消滅させた大なだれからまもなく2年が経過します。先日ここを観察された氷河学の伏見碩二さんも、2015年の調査隊のメンバーと同じく、このデブリの下の氷が溶けるのにあと50年はかかるだろうと言ってらした。村人はもう少し早く溶けるのではないかと見ています。震災直後、末端部分に小山のような堆積物があったのが、半年後には他のデブリと同じ高さになっていた、という理由からです。

◆まもなく、後半のミッションのためにランタン谷へもう一度入ります。今度は新潟大学奈良間千之さんの学生2名も一緒です。彼らはこのデブリの上方、ランタンリルン峰に張り付いた懸垂氷河のモニタリングに着手します。村人が一番気にかけているところです。

【3報】4月16日
 ──明日、ランタンへ向かいます──

■キャンチェンゴンバ再建の儀式をお願いしている高僧、チューキニマ・リンポチェのご都合などもあり、思わぬカトマンドゥ長逗留になってしまいましたが、明日17日、リンポチェご一行とともに2回目の入山をします。村人もどんなにか待っていることでしょう。前回ある程度足固めをしましたから、後半はそれほど過重のかかる訪問ではありません。儀式後、キャンチェンゴンバ再建委員会が出してきた見積もりを再確認して、すぐに着手できるところから進めてもらおうと思います。

◆ゴタルーたちはあと2ヶ月くらいは冬の放牧地。上がってきても村周辺ではないかと思います。ゾモTシャツを買っていただいた第57次南極観測越冬隊のみなさんのために、今年購入したゾモに名前をつけることになっています。楽しみです。

◆ネパール・ゴルカ大地震から間もなく3年目に入ります。ランタンの人々は彼らのチベット暦に従って「3月7日」=西暦5月2日に慰霊塔(巨大な水車を使ったマニ車を内蔵した仏塔)の落慶会を兼ねた慰霊を行います。

◆4月25日には、なんとネパールトレッキング協会主催の「ランタンマラソン」を行うらしいです。主催者としては、ランタントレッキングコースもマラソンができるほど道が整備されたことをアピールしたいのだと思います。沿道から応援します。

◆慰霊祭に出席してから下山の予定です。しばらくネット環境から離れます。(貞兼綾子


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。地平線会議は会員制ではないので会費は取っていません。皆さんの通信費とカンパが通信制作はじめ活動の原資です。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで江本宛て添えてくださるとありがたいです。アドレスは(メール、住所とも)最終ページに。今月で購読を兄上に譲ると伝えてくれた千葉県の佐藤正樹さんは、この8年間、なんと毎月必ずその月の通信の感想をはがきで寄せてくれました。そういう反応がどんなに嬉しいか、やる気にさせてくれるか、言葉では語れません。佐藤さん、長い期間、丁寧なお葉書、ほんとうにありがとうございました。(E)

 藤田光明 4,000円(2年分)/名本光男/酒井富美(10,000円 いつもありがとうございます。第8回伊南川100kmウルトラ遠足、今年もやります)/太田忠行(いつも地平線通信をお送りいただきありがとうございます)/鹿内善三(通信、毎回、元気をもらっています!報告会に出かけたいのですが……)/中岡久(5,000円 地平線通信455号・456号をお送りいただき、ありがといございました。通信費等にお使いください)/天野賢一/小野寺斉(4,000円 通信ヒ及び寄付(少額ですみません)455/456お送りいただきありがとうございます)/村田憲明(456号、雪崩事故の両氏の思いを読み、記者会見を思い出しました。山岳部を選んだ我子を訓練で亡くしたら……自分がその親だったら……。大川小とはちがうけれど、関係者の真摯な情報公開と原因究明、再発防止を切に願います。「新編 西蔵漂泊」の刊行おめでとうございました)/黒澤聡子(4,000円)/佐藤正樹(10,000円 今まで毎月送ってくださり、ありがとうございました。今後は探検部OBの息子がいる兄宛てにお願いします。今年17年と来年18年分の通信費を同封しました)/滝村英之/西牧結華(10,000円 北海道に転居しました)(昨年11月21日に入金があったのに、記載漏れでした。すみませんでした。西牧さんには直接お詫びしました。E)


地平線の森

『処女峰アンナプルナ』から『ちょっとエベレストまで』を経て「軽いっす」「すげえ!」の二極分化へ。

 小さいころ、冒険活劇本を読むのが好きだった。3年前、60代一人娘の必修科目として「親の家を片付けた」際、久しぶりに手に取った「講談社・少年少女世界文学全集」。変色した背表紙の『十五少年漂流記』には手ズレがあった。小学生の私が母に「ウチは一家で漂流しないのか」と聞き、母は「この娘は馬鹿ではないか」と案じた、という「家庭内お笑い伝説」が残る。

 いま、時は五月。ヒマラヤ春のハイシーズンだ。いろいろな情報が飛び交うのを機に、「遠征記」「登攀記」の昨今を見渡してみた。

 冒険活劇好き少女は、山遊びをする大人になって、当然、登攀記愛読者に。今の60代以上の山好きの多くにもれず、モーリス・エルゾーグの『処女峰・アンナプルナ』(1953)には強烈に打たれた。人類が8,000m峰初登頂を狙っていた20世紀半ば、ヒマラヤ8,091m峰に、フランスの山岳ガイドの精鋭チームが「玉砕覚悟」と言った風に挑戦、成功する顛末記である。

 栄光の登頂、それに続く必死の撤退、男同士の友情と献身。うう〜、若い者の血をかきたてるには十分。これをエルゾーグは、8回の手術を含む6か月間の凍傷治療の間に、自身、涙にくれながら口述筆記させたのだそうで、いやがうえにも伝わる興奮!最後の一文、指を失ったエルゾーグがつぶやく「人生には、他のアンナプルナがある」という一言にも「私のアンナプルナは何だ!」とうなった若者(当時)は多かったはず。

 ところが、ですね。1980年、アメリカの男女12人が成し遂げたエベレスト登頂記は、その名も『ちょっとエベレストまで』(原題 The boldest dream=とんでもない夢)。医者、弁護士、大学教師、バレエダンサー、等々、当時のアメリカのインテリ・ヒッピーと言った男女12人が誘い合って、「じゃ、行ってみっか」のノリで遠征。2人を頂上に立たせて成功裏に凱旋する、という、まあ、幸運と言えば幸運な遠征の報告なんです。

 これが、実に破天荒。全員、アウトドア志向ではあるが、国家や伝統的山岳組織の後ろ盾があるわけでなし、鉄の団結があるでなし。個性が強い連中の自己主張は遠慮と言うものを知らず、キャラバンの途中で野生マリファナに夢中になったり、シェルパニのカワイコちゃんを口説こうと試みたり。かと思うとフェミニスト隊員はその教条を説いたり、と、「ヒマラヤを舞台にした都会人群像劇」の感あり。仮にもエベレストで、ですよ。それが、それまでの「悲壮にして崇高」な「遠征記」「登攀記」の枠を「にぎやかで」「多彩で」「混沌とした」色合いに塗り替えて見せたくれたのでした。まあ、メンバーのみなさん、日常生活でも「猛者」だったからこそ、でしょうが、私には衝撃だったなあ。

 もちろん、この違いの背景には、山域の情報が増え、食料も装備も高所生理知識もぐんと向上し、「命がけの冒険」が徐々に「お金で買えるぜいたくな遊び」の様相を帯びてきた、という事情がある(今はなおさらだろう)。が、素人集団の報告だけに、大遠征の大記録の「仰々しさ」に対するアンチテーゼに満ちていた、と思う。当時崇高な報告記録に飽きがきていた人に刺激だったのではないか。

 ところが最近、私の冒険実録読書感はさらに一回転しつつある。最近、そうしたレポートの多くはWEB上で語られることも多く、「いやあ、楽勝、楽勝」風なもの、増えてないか? もう、どこに行こうが、そこはすでに「だれかが行ったあと」という時代。すると、人間、「見えっぱりの力学」で、「あいつらにはたいへんだったろうけど、自分には軽いもんだったぜ」と吹きたくなるらしく、山好き、登り屋の「必死でした」というセリフは、めったに聞かれなくなった。そして、皮肉なことに、「すごい!」「緊張する!」といった古典的な「冒険探検ワード」は、(実は大勢の強力スタッフに囲まれているはずの)テレビタレントのシャウトに任されているかのよう。登り屋は斜に構え、タレントさんは感激反応、という、面白い棲み分けができているような。

 書く側も読む側も、陶酔、共感、韜晦、倦怠、と、いろんな感情のキャッチボール。現場の様子と同時に、書く(叫ぶ)人の心理まで浮かび出る。冒険活劇愛読歴60年ともなると、小説とは違った「いやらしい深読み」の楽しさが、冒険探検登山の報告記には探せるんです。(北村節子


今月の窓

「南極大学」で披露したゾモT

■1987年10月。ランタンの本村から少し離れたキャンチェンで、ネパールの水門局が所有する観測小屋を取り囲むように村人が集まってきた。村長を始めとする村人と共に、リルン氷河の融け水を集めた川から水路を掘削し、ゴンバ(お寺)裏の崖に落差10mのパイプを設置し、日本から持参した水車と発電機を添えつけ、ゴンバと当時1軒しかなかったロッジ、そして観測小屋に電線を引き、約2ヶ月かけて設置した小型水力発電システムがいよいよ稼働する。

◆小屋の中から見ると、窓という窓に興味津々の村人の沢山の顔があった。スイッチを入れ、天井からぶら下がった裸電球に明かりが灯った瞬間、小屋を取り巻いた人たちから歓声があがり、一人一人が目を輝かし、満面の笑みをたたえていた。ランタンプランの最初の派遣要員としての私のミッションが成功した瞬間だった。

◆一昨年のゴールデンウィーク、学生時代からの山仲間と一緒に道東方面での山スキーに出かける車中で、ネパールで地震が発生したというニュースが流れてきた。斜里岳の広大な斜面でザラメ雪を堪能しつつも頭の片隅では地震のことが気になっていた。札幌の自宅に戻り、インターネットで情報を集めてみると、その被害の大きさが徐々にわかってきた。

◆とりわけ大阪市立大学山岳会のランタン・リ登山隊がもたらしたランタン谷の写真には衝撃を受けた。ランタンプランの代表を務める貞兼綾子さんは、ランタン村の人たちから送られてくる情報も含めた地震の惨状をSNSなどで流し始めた。ランタン村と貞兼さんの関係を思うと、すぐにでも現地入りしそうな勢いだ。

◆瓦礫の山となったカトマンズの様子や背後の山から流れ下ってきた氷と土砂に埋まって壊滅したランタン村の惨状を知るにつけ、私にとって第2の故郷と言ってもいいネパールのために何かできないかと考えた。復興支援となると、活動の長期化と多額の費用がかかるであろうことが予想され、貞兼さんが一人で現地に入るだけでは太刀打ちできないだろうし、一人に任せっきりにする訳にも行かない。

◆とはいえ、私自身が現地に飛べる状況にはなく、たとえ現地に入ったとしてもさして役にたてるとは思えない。色々と思考を巡らした結果、いずれ近いうちに現地入りするであろう貞兼さんに対する国内からの後方支援と、復興支援のために必要な資金の調達を担うため、ランタンプランの再結集を貞兼さんに提案した。右も左もわからない若造だった30年前とは違い、少しは知恵もつき、周辺にも目が行くようになった身として、貞兼さんの気持ちに寄り添いつつランタン村の人たちに恩返しが出来ればという思いからだった。

◆募金活動は順調に行き、雪氷、地形、土砂災害、衛星を使ったリモートセンシングなどの研究者からなる調査団がランタン谷に入ってランタンプランとの協働で調査を進め、調査結果を村人に還元していただけるなど、多くの方々のご協力のもと、地震発生から約半年後には、ランタン村の復興に向けた取り組みの方向性をほぼ固めることができ、その段階で私は事務局を抜け出して1年4ヶ月間の越冬に向けて南極に出かけた。

◆南極の1年は長い。我が57次隊の場合は、30人だけで昭和基地を維持しながら観測を続けた。各自がそれぞれの仕事を抱え、色々なトラブルを解決しながら1年間過ごすのだが、生活に潤いを与えるために工夫を凝らしたイベントも行われる。そんな中に例年実施している「南極大学」というものがある。

◆太陽の出ない極夜の時期の前後に、全員が持ち回りで自分の仕事の事や趣味の事など好きなテーマを決め、皆の前でプレゼンテーションを行なってお互いの理解を深めようという趣旨のイベントだ。持ち時間は30分。私はランタンプランのことをテーマに選んだ。私とランタンとの関わりについて話し、最後にゾモTシャツのことを話したところ、私が着ていたゾモTの評判が良く、みんなでゾモTを買おうということになった。

◆注文を取ったところ全員がTシャツを買ってくれる事になった。注文枚数は57枚。気の利いた隊員が57次隊なのだからと枚数を調整してくれた。江本さんたちのご尽力で、57枚のゾモTは観測船「しらせ」に載って昭和基地に到着し、正月には基地の看板の前でゾモTを着て記念撮影をすることができた。また、ちょうどゾモ1頭分の売り上げということで、今現地に行っている貞兼さんが57次隊のゾモを選んで名前をつけてくれることになっている。

◆ネパール大地震から2年。相変わらず後方支援しかできない状況ではあるが、今後もできる範囲で事務局としてランタン村と関わり、息の長い復興支援に取り組んで行きたいと考えている。(樋口和生

<プロフィール>1962年大阪府生まれ。国立極地研究所勤務。北大山岳部出身。1987年インド/スダルシャン・パルバート峰(6507m)第2登。1992年ネパール/ヒムルン・ヒマール峰(7126m)初登頂。1998年ネパール/グルカルポ・リ峰(6891m)敗退。2002年ネパール/イムジャ・ツェ峰(6189m)登頂。第50次、52次南極地域観測越冬隊で野外観測支援担当。57次隊越冬隊長。

あとがき

■この通信は、偶数ページ建てで編集しているので原稿量によってはかなり詰めたり、間延びしてしまったりすることがある。今月はやや詰め詰めの14ページとなってしまったのは15ページにはできない事情があるからです。

◆報告会レポート、ベテランの新人、高世泉さんにお願いしたら、風間深志・晋之介父子の長い物語になりました。晋之介さんが赤ちゃんの頃を見ている泉さんだからこそ書ける視点、と私は感動しました。そうなんです、地平線会議はもういくつかの世代をまたいで動いているんだな、と。深志、晋之介さんの話も深いものがありました。ほんとうにやってもらって良かった。

◆ついでながら、晋之介さんが地平線の子供たちのことを書いてくれて私は嬉しかったな。子連れでいいんですよ、いくら騒いでも気にしないでいいよ、と言い続けてきたのは、地平線の人たちは、ごちゃごちゃした中で生きてきたし、これからもそうであってほしい、という願いがあるから。幼い子にも何かわかるものがあるのでは、と思いますよ。

◆5月1日、麦丸は11才になりました。本人は元気ですが、「僧帽弁閉鎖不全症」という心臓の病気のほかに口腔内に腫瘍が見つかり、実は連休中も大事な息子のことで頭がいっぱいでした。彼をどう幸せに生きさせるか、が当面の私の仕事です。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

隊長はつらいよ
 フーテンの和(カズ)、ヒマラヤ、南極流れ旅

  • 5月26日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「南極には、隊長じゃなければ、また行きたいですね!」というのは、国立極地研究所職員の樋口和生さん(54)。今年3月に帰国した第57次南極越冬隊長を務めました。樋口さんはこれまでに50次、52次にも参加しています。「前の2回は一般から応募したヒラ隊員で、隊員の安全管理のシステム作りという、自分のやりたいミッションに集中して取りくめました」と樋口さん。

大阪出身。北大山岳部で山と自然に目覚めます。卒業後に参加したネパールヒマラヤのランタン村支援プロジェクトで、様々なプロが集まる混成チームの面白さを知りました。

「南極越冬隊は、異業種プロ集団の究極的なムラ社会。長時間一緒に暮らす中で、毎回違う“文化”が生まれていくのが面白い。でもこの集団を安全に率いていくのは大変でした。帰国して皆が家族と会ったのを見てようやくホッとしました」。

5年前に現職につくまでは、北海道で山岳、自然ガイドとして活躍していた樋口さん。自然体験のNPOを立ち上げるなど、自然と人をつなげる活動を一貫して続けてきました。南極体験は樋口さんの行動にとってどのような位置を占めるのでしょうか?

今月は樋口さんのユニークな足跡を語って頂きます!


地平線通信 457号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2017年5月10日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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