11月16日。風が冷たい。順調に冬の到来だ。旭川は吹雪。大雪警報が出て13時現在41センチの積雪だそうだ。夏の知事選圧勝以来吹きまくっていた小池都知事旋風がさすがに下火になり、いまや風の中心は、1週間前に世界が驚愕した米大統領選でのドナルド・トランプの勝利、そしてこれまた前代未聞の韓国・朴槿恵(パククネ)大統領のスキャンダルだ。トランプについては、先月のこのページで「何よりもこのレベルの人間を一国のリーダーにしようとする人間が4割前後いることに絶望する」と書いた立場は、いまも変わらない。
◆しかし、ではヒラリー・クリントンなら本当に良かったの? と聞かれると、うーむ、どうなんだろう。わかってきたことは、ヒラリーの講演会は実は閑散としていて、トランプ陣営に較べて盛り上がらず、多くのヒラリー支持者がどうせヒラリーが負けることはないさ、と実は投票に行かなかった点に敗因があるらしい。
◆それにしても、美しい夫人、娘、息子たちを連日動員しての「チーム・トランプ」キャンペーン。「America first」を連呼してきたこの不動産王に、変な具合に正当化が進行しつつある気配は気になる。プーチンとの「相性の良さ」に米露の接近を期待する声もある。安倍首相、明日17日にもニューヨークで会うそうだが、大丈夫か?
◆10月20日、田部井淳子さん死す。元気な田部井淳子の印象だけしか持たない方々は驚かれた、と思う。ガンと闘っていることは、だいぶ前にカミングアウトし、最近はそのことをテレビでも語っていたので、多くの人がある程度は予測していただろうが、「朗々たる元気」が看板のひとだったから。私は事情を推察できる立場にいたので驚かなかった。もちろんまだ生きていていい年齢ではあったが、彼女の場合、やれることは十分やった人生、と言うべきだろう。
◆9月15日には、銀座のビヤホールで「77才」を祝う催しをやった(実際は9月22日に77才になった)。「いろいろなことをしてきましたが、この年齢に至ったことは、文字通り「嬉しい歳=喜寿」です。そこで記念に皆さまと楽しい時間を持ちたいと、『喜寿を楽しむ会』を開くことにいたしました」と挨拶状に書いた。そして「エベレスト登山以来の某友人・Kさんと『コント77号』を緊急結成、何が出てくるかどうぞおたのしみに!!」と続けた。会費8000円の会場でその時挨拶を交わしたのが1973年以来続いている彼女との最後の出会いだった。
◆参加者の多くはわかっていた、と思う。これは彼女の「生前葬」だったのだ。ろくにものを食べていなかったのに、精一杯声を張り上げて歌をうたった。そして、その直後に入院。なおいくつもの講演の予定が入っていたが、キャンセルされた。10月20日午前10時、家族に看取られて息を引き取った。最後だけは家族とだけの時間を持ちたい、との本人と家族の意向で訃報は2日間伏せられ、22日17時、メディアを通じて伝えられた。
◆地平線会議とは発足当時から通信購読者になってくれ、200回記念大集会「地平線の旅人たち」(1996年7月13日、@東京・青山のウィメンズプラザ)では、「田部井淳子の山のふもとまで」というテーマでオープニング・トークをお願いした。田部井さんには多くの知己がいたが、国際的にも知られる「顔」になってしまったせいだろう、どちらかというと対等の友は少なかったのではないか。彼女が最後まで信頼していた対等の友人は、多分、上記の「某友人・Kさん」であろう。そのご当人にこの通信の「今月の窓」(19ページ)に友としての思いを書いてもらった。
◆10月26日、注目すべき判決が仙台地裁で出た。東日本大震災で児童74人と教職員10人が死亡、行方不明となった、あの石巻市大川小の悲劇に関して23人の遺族たちが23億円の損害賠償を求めていた訴訟で市と県に約14億円の支払いを命じたのである。大川小のことはこの通信でも何度か書いてきた。校庭で50分も待たされたあげく、逃げようとした時はすでに津波が迫っていた……という恐ろしい出来事だ。結局、県と市側は判決を不服として控訴、訴えていた遺族たちも対抗して控訴した。3.11の忘れてはいけない出来事として今後も注視し続けたい。
◆10月28日の地平線報告会、450回にふさわしい、素晴らしい内容だった。あの場で話したことだが、私は和田城志というクライマーの登場を遠くからずっと見ていた一人である。いつか必ず地平線に来てほしい、とずっと思っていた。貞兼綾子さんのランタン谷支援がきっかけとなり、元気な和田さんに来てもらえてほんとうに嬉しかった。
◆話は期待をはるかに超え、そして、深かった。おまけに報告会になんと6日かけて自転車を漕いで来てくれたのだ。その顛末も含め、寄稿をお願いした。その内容も素晴らしいのである。地平線会議をやってきて良かった、と思う450回であった。そんなわけで今月はさながら「和田城志特集」です。(江本嘉伸)
■450回目の報告者は“伝説のクライマー”和田城志さんだ。和田さんのお話しが聞ける!とあって、会場には、いつもは見かけない人たちの姿も多くみえた(北海道から飛行機に乗って、和田さんに一目会いたいと二次会へ駆け付けた、山岳会所属の女性までいました)。
◆まず、江本嘉伸さんが自分にとっての和田さんは「『サンナビキ』の和田城志」だ、と話し始める。1972年に結成された、豪雪の黒部、釼岳を舞台に豪快な登攀を実践してきたクライマー集団「サンナビキ同人」。当時から和田さんに注目していたのだという。「60歳なら60歳、70歳なら70歳の生き方があるはずだ」と江本さん。いまも行動をつづける和田さんを、「地平線会議」が目指しているものの体現者でもあり、「現役で生きつづけている人」と紹介した。
◆和田さんは、5日前に大阪の家を出発、自転車で旅をしながら会場へやってきた。前夜は川越の山仲間の家に泊まってしこたま呑んだそうだが、そんなのどこ吹く風で、エネルギーに満ち満ちているふう。ものすごい、酒豪なんだそうです。 山は垂直、地平線会議の地平線といえば水平だ。ヒマラヤ全域を旅して水平の広がりを見た今、自分を「山岳オタク」と謙遜、さらには「岩登りと冬山登山ばかりやっていたので、水平の魅力を知らなかった。30歳くらいで目覚めておけばよかった、と今は後悔しています」。
◆和田さんにとって、山岳の世界には当時「スターがおりすぎた」という。すごい人がいて、憧れた人たちを追いかけることで精いっぱい、気づけば40歳近くになっていた。「青春、というか、人生そのものが詰まっていますね」というのが、冬の黒部、釼岳。30年間、ほぼ毎年正月と3月に登攀をおこない、15回の黒部横断を成功。「横断できるルートは全て踏破し、残っているところはない」というほど、入り込んだ。つねに天候が悪く、日本の山の難しさの神髄ともいえる山。登攀に2週間はかかるため、「そんな時間を費やして、ほかに誰もやらない」。若いアルパインクライマーたちが最近、黒部に出かけてくれているのは嬉しい。「僕が認められた気がする」と和田さん。
◆一番熱中した理由は、釼沢大滝の存在だ。スケールが大きく、「奇をてらった感じもある」という1983年の遡行が、とくに「ラインがきれいで、手ごたえがあった」という。釼沢尾根、大滝尾根、十字峡の渡渉。たくさんの写真が映し出される。
◆和田さんは学生運動真っ盛りの1969年、大阪市立大学に入学して山岳部へ。京都大学山岳部の影響で、人のやらないことをやる「パイオニアワーク」に惹かれていった。「未踏峰に行かなくては」との思いから、積雪期の黒部横断と釼沢大滝のほかに、目指したのはヒマラヤの初登頂。1978年に東部カラコルムのゲント(監)(7,343m)とネパールのラタン・リルン(7,246m)の二つを初登頂した。日本の山をやめて、ヒマラヤニストになろうかと思ったのも束の間、飛行機の窓からナンガ・パルバットのディアミール壁を見てしまう。
◆「話にならんのですよ」と和田さん。ちょうどその時、ラインホルト・メスナーが単独でそこを登っていた。世界のトップクライマーたち(メスナー、イエジ・ククチカ、エアハルト・ロレタン)は、当時、8,000m峰のバリエーションルートに挑戦しており、「技術、体力、アイディア、すべて桁が違った」。そのため、「自己主張するということができなかった」和田さんだが、「この山だけは自分がひらいた」というのが、マッシャーブルム北西壁新ルート。非常に難しかったし、ものすごく危険だった。「こう登って、こっちにきて、ここは話にならんくて……」と、山の写真から、ルートを生き生きと追ってゆく和田さん。素人目にはなにがなんだかわからず、あそこを登れるってことが、そもそも信じられません……。
◆オーストラリアのクライマーたちも登ってきて、キャンプ3で顔を合わせた。合同隊になろうと言われるが、こちらは一月以上もやってほぼルート工作もできている。和田さんたちが初登頂、オーストラリアのクライマーたちが同ルートを二登した。この登攀は、賞をもらったわけではないが、ヨーロッパで話題になったという。
◆マッシャーブルムのあと、つづけて、ブロード・ピークにも登頂。14座を狙う人のほとんどは8.000mということで「III峰」や「IV峰」(いずれも8.000にわずかに足りない)ではなく、ガッシャーブルムII峰へ行く。「8.000m14座」などの記録は、山ではなく数字を見ているのではないか、と和田さん。人がやらないことをやるのが登山なのに、それでは「品がない」とばっさりだ。
◆ほかにも情熱を傾けたのが、どの面から登っても雪崩のリスクが非常に大きい山、ナンガ・パルバット。カンチェンジュンガ縦走を果たした1984年には、ディアミール壁に、1985年にはルカパール壁中央側両稜(メスナールート)へ挑んだ。ナンガ・パルパットへは3回頂上近くまで行くが、届かなかった。「手に入れたのは、マッシャーブルムだけ」。ところどころで詩的なフレーズが現れる和田さん。登りたい山はたくさんあったが、1987年に冬の立山で滑落、右膝の十字靱帯損傷で登山を断念。2年後に敗者復活戦で黒部へ戻ってからは、再び山へ挑戦しつづけた。
◆ 1991年に挑んだのが、イエジ・ククチカが登ったのちいまだ第二登されていないパティン柱状岩稜(ポーランドルート)。フィックスロープを6,000m使って76日間粘ったが、7,800mで断念。雪崩と落石だらけで、恐怖心もすっかり麻痺してなくなる、「狂ったルート」だったという。「ここまで上がれば、あと少しだったんだけどねえ」。郷愁がにじむような、でもどこかさっぱりしたような、そんな口調が、印象的だった。
◆高知の土佐湾のそばで生まれ育った和田さんには、「根っからの放浪癖」があるという。しつけの厳しい母に育てられ、家の中の様々なことが苦痛。小さい頃から週末には家を抜け出して海岸でごろ寝。「布団で寝ない、朝のけだるさ」が好きだったという。いまは誰にも怒られないため、風呂嫌いで下着もなかなか替えない。不快になってきたら、パンツはひっくり返して履く。「旅も、あらゆること、自分が正しいと思うことや思わされていることを、ひっくり返してやる」。
◆ということで、後半は「垂直」から「水平」の世界へ。2012年に挑戦した「ヒマラヤ全域横断」と「冬のおくのほそ道」の話になった。「放浪癖」があるとはいえ、和田さんが打ち込むのは「アルピニズム的な旅」だ
◆「その前に、小難しい話です」と始めたのは、「身体性」についての話。会場に向かって「車の免許を持っていない人は?」と、和田さんが聞く。数人しかいない。和田さんはバスや電車、人の車には乗るが、自分で運転するのは「足・自転車・ヨット」とエンジンのないものばかり。そう遠くない未来には人工知能によって自動車が全自動で動くだろうといわれる中で、大事なのが「身体性を通しての解釈」であり、「登山も旅も、身体性に訴えるもの」と考えているという。
◆「ヒマラヤ全域横断」は、8月1日出国してネパールへ。シェルパ2人(途中から3人)を雇い、食料はほぼ現地調達、薪を担いでの山旅だった。カンチェンジュンガからルンバサンバへ向かう途中で肺炎になり、ヘリコプターでカトマンズへ。カトマンズから再出発して、マカルー、ソロクンブ、ロールワリン、ランタン、ガネッシュ、マナスル各山域を歩いた。
◆「頂上に登るのもいいが、毎日毎日、山から山へと旅するのが面白かった」と和田さん。トレースもなにもない大雪原。真っ白な山々。美しい写真がつづく。「登山の素養がなければいくことのできない場所」というが、「素養」のレベルが限りなく高そうです……。
◆村に着いて飲み屋があれば、呑む。キャンプするときは「『まずは酒、それから肉』を探して」、とシェルパに頼んだそうだ。ロキシーを作っている様子、解体ほやほやの肉の写真、燃料となるヤクの糞、子供たち。山以外の写真も映される。この旅は、アンナプルナ山麓のパーミッションでビザが切れていることがわかり、国外退去となって、帰国するはめに。
◆口惜しい気持ちで日本に着いた11月29日は、和田さんの次男の結婚式の5日後だったという。旅に出る前に欠席は伝えていたが、新婦の親族はびっくりしていたとか。12月、新婚の次男夫妻と妻と家族旅行へゆき、そのまま「よいお年を」と挨拶、いてもたってもいられず、「冬のおくのほそ道」の旅へ向かった。妻や息子は慣れたものだが、「やっぱり、次男の嫁さんはびっくりしていましたね」。
◆「冬のおくのほそ道」は、12月17日に深川の芭蕉庵跡から歩き始めて、ほぼ芭蕉の辿った道を歩く2か月弱の旅だった。雪の中を歩いて夜は野宿。落石や雪崩があるわけではないのでどこでだって寝られる。旅では「金があったらぜんぶ飲み代に使う」という和田さん。夜は居酒屋でしこたま呑み、そのままそこで泊めてもらうこともあった。そうやって道中を楽しみながらも、この旅は、アルピニストだから冬に、詩を好むので「付け句」をしながら歩くことで、芭蕉とのシンクロを期待したが、失敗に終わったという。
◆肉体を使って、頭でなく足で感じようと旅をしているのに、昔の街道は国道となっており、車の横を歩いているだけ。日本もネパールも同じで、「車の便利さは過疎を減らすのではなく助長しているし、文化や生活を劣化させている」というのが和田さんの実感だ。この年、1年のうち家にいたのは3分の1ほど(その間もあちこち旅ばかり)。トラバースも未完成、芭蕉も消化不良で、翌2013年には、残していた「ネパール北西部」を目指して旅立った。
◆ネパール北西部は、情報もなく訪れる人もほとんどいない。未踏峰がたくさん残る面白いエリアだ。日本人でこのエリアに一番入り込んだ大西保さんから資料を譲り受け、大西さんも歩いていない峠を2つ越えた。1つは「どこから来たのか」と現地の人にも驚かれたので、現地の人も未踏の山かもしれない。……まだまだスライドはあるのだけれど、このへんで時間切れ。
◆今後は、できることなら「伊能忠敬の足跡を辿る旅」をやりたいという和田さん。そして、「またネパール北西部に行きたいが、もう山は厳しいかなと思っているところ」なのだという。一つ登攀や旅で一回の報告会になるものばかり。二時間半の間、ばんばんと提示されるスケールの大きい登攀につぐ登攀、そして旅! とても一回には収まりきらない、贅沢すぎる報告会でした……。 (お話のスケールが大きすぎて、とっかかりすらつかめなかった 加藤千晶)
■地平線会議という得体のしれない団体(失礼)で、私のようなアルピニズムオタクの話が通じるかどうか不安がありましたが、分かってもらえたようです。私は今ではしゃべり過ぎていますが、現役バリバリのときは記録を外に出したことがありませんでした。1987年、冬山遭難をして登山することが絶望的になり、七ヶ月の闘病生活の中で過去を振り返るような気分で書き始めました。四十歳位のときだと思います。
◆登山(冒険)では、独り黙々と打ち込んでいる姿は格好いいのですが、ひとたび人目にさらされだすと、ひどく安っぽいものに見えるものです。行為も表現も際立たせようとして、過剰な演出をしがちです。大体、登山や冒険は極道もんのする行為で、あまり目立たない方がいいのです。社会的な価値があるような中途半端な意味づけは、特に品がありません。
◆探検は違います。見た目の行為にはそれほど差がないのですが、動機の深層心理には違いがあります。険と検の違いです。危険を冒す冒険は文学部、かっこよく言えば芸術活動、探して検分する探検は理学部、つまり科学的好奇心です。戯作と実学の差があります。桑原武夫は『登山の文化史』の中で言っています。「近代アルピニズムの起源となり、またその指導精神となったのは、近代自然科学である。恐れられていた山にまず入りこんでこれを開発していったのは科学である。芸術的静観のごときはその後にあるのであって、最初の原動力とはなりえないものである」。このような意気込みで行う行為なら、大いに主張してもらっていいのです。
◆SNSの発達した今では笑い話のような主張ですが、登った尻からいちいち記録を発表するのは、目立ちがり屋で格好が悪いと考えていました。私はもう完全に過去の人ですから、いくら喋っても法螺を吹いても許されます。考え方も変わりました。活動そのものに加え、他の自己表現を持つことによって、登山により深みを与えることがあることを知りました。
◆写真、絵画、文章表現など、内面を吐露することで気づくことがあります。ポール・ヴァレリーの言葉「人は、他者と意志の疎通がはかれる限りにおいてしか、自分自身とも通じ合うことができない」が胸に響きます。大いに他者と交感すべきだと思います。ただし、奇をてらった行為や派手なパフォーマンスは、意味がないばかりか不快ですから、要注意です。
◆報告会で私の登山歴を披露しました。象徴的に要約すれば、雪黒部とナンガパルバットに尽きます。そして今、旅に回帰しています。私は重度のアル中(アルピニズム中毒)です。しかし、歳や右膝の障害のせいにするつもりはありませんが、もう思うように登れなくなってしまいました。それでも、垂直であろうと、水平であろうと、ただ非日常の世界に身を置いていたいのです。
◆私は運転免許を持っていません。現代合理主義(つまり時間、金の節約)的に移動しません。これと言って際立った計画もありません。歩く、自転車、たまにヨットでほっつき回っているだけです。野宿、居酒屋(できればバツイチ五十路の美人ママ)、温泉で、行ったことのない鄙の里を巡るのが目的です。私は、火野正平と吉田類(同じ歳です)のやっていることをちょっと過激に実践しているだけです。
◆キーワードは身体性です。今、2045年問題が話題になっています。ディープラーニングするコンピューター人工知能(AI)が全人類の知能を凌駕するシンギュラリティ(技術的特異点)がやってくるという話です。AIが人類をコントロールする世界の到来です。その開発を危惧する声が多く上がっています。賛否があります。工学より哲学の問題として議論されています。知能とは何か。無限と言っていいビッグデータの集積と解析は、人間の脳にはもはや手に負えません。
◆意識(知能より上位の働き)は、生命的存在、つまり身体性に基礎づけられたものです。周囲の環境と有機的に接触する中で発現するものです。AIのような抽象的な物理空間で知能を発揮するのではありません。知性や知能は肉体を離れて勝手に動き回り、ときには節操をなくしたりしますが、意識は常に私だけのものです。つまり、2045年問題は我々の意識にかかっているのです。
◆我々の日常が求める情報の大半は視覚情報です。仕事も付き合い(フェイスブック)も書籍もパソコンもすべて視覚に頼っています。けっして嗅覚ではありません。身体は五感のセンサーで外部環境を認識しますが、現代社会はどこで間違ったか、視覚の袋小路に迷い込みました。アメリカ国防省の精神疾患の報告によると、うつ病発症は、現地で戦う兵士より無人機を遠隔操作して画面を見ながら殺戮する兵士の方が多いそうです。身体を伴わない行為は強いストレスにさらされるということです。私は、この身体性を社会矛盾の突破口にしたいのです。
◆意識もAIも神経細胞の、つまり脳の話です。デカルトは「われ思うゆえにわれあり」と言いましたが、身体のわれは実は脳ではなく胸腺、つまり免疫システムにあります。多田富雄の『免疫の意味論』には衝撃を受けました。自他の境は脳ではなく胸腺にあるのです。首を切断されたとき、私はどっちにいるのか。深い哲学的問いです。身体性は首下にあります。長々と理屈を述べました。本題です。
◆身体性の自覚は、アスリートになろうという話ではありません。昔から言うように、「ものごとは体で覚えよ」に戻れということです。判断を視覚データでするのではなく、肉体を通してやろうということです。私はそれを「肉体の作法」と呼んでいます。登山は身体性そのものです。ここから少し悪口です。身体性を重視するあまり、身体そのものに関心が固定されます。それがスポーツクライミングやグレードです。そのあからさまな自己顕示はさわやかさがありません。目立ってなんぼは下品です。
◆オリンピック競技になろうとしているクライミングはもう登山ではありませんから、私の批判はお門違いでしょうが、登山はもう少し静かにやるものです。メジャーになってはいけません。登山の魅力は、自分と大自然が対峙している、その戦慄の内にほのかに灯るものです。挑戦という言葉が陳腐に思えるほど圧倒的な存在に対して、自分の肉体がシングルハンドで挑みかかる行為です。そして、いつか必ず死にます。偉大な探検家や登山家の多くは大自然に呑みこまれました。決してAIはこのような世界には足を踏み入れないでしょう。彼は死ねる肉体を持っていないのですから。
◆私は垂直の世界にあこがれてきました。今は水平の世界をさ迷っています。しかし、その中にもアルピニズムの香りを残したいと願っています。探検にはほとんど触れずに終わりそうです。ハゲ、デブ、加齢臭の高齢者がやることですから、アルピニストとしてご披露できるようなことはやっていませんが、少し自慢話をします。
◆2012年から13年にかけて、ネパールヒマラヤ全山域横断と冬の「おくのほそ道」を歩きました。合計で約7ヶ月を要しました。岩と雪の頂ばかりに目を向けていた私がハタと気づきました。広大なヒマラヤのほんの一部分しか見ていないことに。いっそのこと全部見てやろうと突然思い、何の用意もせずにネパールに飛び込みました。シェルパ二人を友にして、ネパールの東端、カンチェンジュンガ山域から歩き始めました。食料はすべて現地調達ですが、6000mの峠をいくつか越えますから、ピッケル、アイゼン、ロープもいります。すごい荷物を三人で分け合います。もとより私は一番軽いですが。ルンバサンバ、マカルー、ソロクンブ、ロールワリン、ランタン、ガネッシュ、マナスルの各山群をなるべくチベット国境に沿って歩きました。
◆しかし、つまらないミス(滞在ビザが切れ)で国外退去になりました。その消化不良の悔しさを帰国して二週間ほどして、おくのほそ道を歩くことで紛らわせようと思いました。芭蕉のたどった道を忠実に歩こうというものです。私はアルピニストですから冬に歩きます。
◆東京深川から歩き始め、日光、白河、福島、松島、太平洋側北限岩手県平泉まで行き、奥羽山脈を横切って酒田から日本海側北限秋田県象潟まで。以後、海岸線を南下、山形、新潟、親不知、富山、金沢を経由して福井県敦賀で旅を終えました。氷雨の深川から風雪の敦賀へ、54日間の旅は芭蕉にシンクロすることなく、不愉快な国道歩きに終始しました。
◆春になり、ネパール全山域横断の旅を完成させるため、再びネパールへ。長期の山旅は荷物が多くなります。去年の教訓を生かして、今回はシェルパを三人に増やしました。昨年の中断地点、アンナプルナ山群のチャーメに入りました。ティリッツオ湖からジョムソン、ダウラギリの北をアッパードルポに入り、河口慧海のルートをたどり、サルダンヘ。いくつもの峠を越え、ムグへ。チベット国境の未踏峰の山々を見ながらの旅は、私にとって十分に探検的気分を満喫させてくれるものでした。
◆ムグ地方からフムラ地方に抜けるルートのある部分は記録を見たことがありません。タケ・コーラからバルビハン・コーラへ抜ける峠は私が最初に越えたのではないかと思われます。薬草取りの現地の人から尋ねられたくらいですから。なおも国境沿いに西に向かいましたが、雪のため峠越えができずドジャム・コーラに引き返し、極西ネパールの町シミコットに入りました。ここから国境の町ヒルサに向かい、サイパルの西を越えて、ウライバンジャンに出ました。ルートを誤り、一部チベットへ越境してしまいました。逃げるように峠を越えネパールへ。アピ、ナンパ、ジェチボフラニの山々を雲間に眺めながらチャインプールまで下り、この長い旅を終えました。
◆私は、右膝に障害を持ちます。十字靱帯と内半月板がありません。整形外科医は、登山は無理だと言いました。あれから約30年、私の身体性は私を手なずけています。精神が体を規定しているのではなく、体が精神を規定します。ヒマラヤと芭蕉、何の関係もないように見えるでしょう。芭蕉の風狂も、身体に精神を語らせている点でアルピニズムに通じます。芭蕉を師事する文人たちは、芭蕉の道を歩いたことがあるのでしょうか。体験に学ぶに勝るものはありません。解るより感じるです。
◆「心頭滅却すれば火もまた涼し」とんでもない頭でっかちの詭弁です。脳がなければ、熱いも寒いも感じないと考えるのはまちがっている。身体は膜でおおわれていて、脳がなくても外部環境に反応します。筋肉は収縮しますし、無駄なエネルギー代謝はやりません。身体こそが私なのです。生物の定義はたった三つ、代謝、複製、膜です。肥大化した知能優先の社会にブレーキをかけられるのは、身体性に他なりません。
◆旅をしながら、星を眺めながら、しみじみと私の中で、身体と心が交換することが分かります。冒険も探検も、動機はいろいろあっても身体表現です。それも奥ゆかしいのは、他者の視線が不要なことです。人に見せない、見られたくない、限りなく生理に近いパフォーマンスというべきでしょう。登山は人と競ってはいけません。相手は自然です。自然に受け入れられて、それ以上何を望むことがあるのでしょうか。
■10月の報告者、和田城志さんは、自転車を漕ぎ、自力で報告会場までやって来た。報告会ではまったく触れられなかったこの往復旅のこともぜひ皆さんに知って欲しく、「旅日記」を書いてもらった。長いがいろいろなことを考えさせてくれる文章だ。和田さん、ありがとう。(E)
東京、地平線会議で講演があるので、それを口実に自転車で旅をすることにした。日曜日で京都からの湖西線は込み合っていて、大津京でやっと座れた。福井駅から走り始めた。たいていの主要な道はもう走っている。それで今回は山越えにこだわった。越前大野から九頭竜川を遡ることにした。
ここは戦国武将朝倉氏の領地で、若狭から福井一帯は内陸に意外と広い平野を持っている。ずーと緩やかな上り、九頭竜温泉で日没、汗を流す。飲食店はなく、国民宿舎で何とか夕食を作ってもらう。近くの空き地でビバーク、車も人もほとんどいない。
九頭竜ダムはロックヒルダムで、ダム湖はかなり大きく入り込んでいる。美濃街道を走る。福井県と岐阜県の県境にある油坂トンネルは自動車専用道で、旧街道を上る。トンネルを越えると長良川流域の素晴らしい展望が開ける。白鳥まで急下降して長良川上流を横切る。再び上りになり、ひるがの高原分水嶺峠に立つ。ここは長良川(伊勢湾)と庄川(富山湾)の分水嶺である。
ここより荘川に下り、また上りになって、松ノ木峠を越える。あとはずっと下り坂、暗くなって飛騨高山に着く。上り下りの多い一日だった。峠を三つ越えたことになる。ナンガパルバットの盟友、大杉の家に泊まる。
久々に二人で飲み語らい、何時に寝たか覚えていない。天気が下り坂なので、薄暗いうちから出発する。安房峠への長い上り、うんざりしながら走る。平湯トンネルを抜けて、せっかく稼いだ高度を急下降して温泉街へ。雨が本降りになる中を安房峠に向かう。ここも安房トンネルがあるが、自動車専用である。すばらしい紅葉だが、天気が悪いと映えない。景色も何も見えない峠、指先が寒さで凍える。
中ノ湯温泉で体を温め、一気に梓川沿いの道を下るが、狭いうえにトンネルが多く、不快な道だ。車が横をすり抜けていく。松本市街地に入らず南下して、南松本駅の近くの公園でビバークする。寝る前に近くの焼き鳥屋のカウンターでたらふく喰い飲む。
福井(越前)から松本(信州)まで国道158号線一本を走ってきた。ほぼ旧街道である。美濃街道、白川街道、野麦街道と名は変わる。上り下りは多いが、高速やバイパスのおかげで車の通行は少ない。
強い南風の中、塩尻峠に向かう。背後に穂高連峰が遠望される。快晴、すてきなサイクリング日和だ。諏訪湖を越え、茅野から白樺湖に向かう。八ヶ岳連峰、甲斐駒ヶ岳がスモックにかすんでいる。このすばらしい秋晴れでこれだ。人間が住んでいるだけで自然は薄汚れる。
上りでうんざりし始めたころ、白樺湖にたどり着く。湖面はひっそりとしている。白樺高原の別荘群もほとんどは廃屋だ。不動産バブルのツケをあちこちで見てきた。風景がきれいなだけによけい痛々しい。
大門峠から長い下りだ。正面に浅間山を眺めながら一気に下った。国道は車両多く不快な走り、佐久臼田で日没になった。同い年のママがやっている居酒屋でたらふく飲んだ。函館出身、嫁いで今は農家と居酒屋、烏賊飯がおいしかった。客は誰も来ず、看板まで飲んで、千曲川の橋の下でごろ寝した。
秩父の十石峠を越える。国道299号線はほとんど車が通らない。緩やかな上り、道を独占して走った。サイクリングはこうでなければ。峠の直前はさすがにきつかった。峠の展望台から東方、上州の山並みが一望される。すばらしい。日本は山の国だ。山また山、確かに関東は鄙の国だ。みちのくの入り口、ほんのこの前まで未開の地だった。一気に下り、秩父への山越えを避けて、少し遠回りだが本庄に出ることにする。
本庄手前で国道254号線に入る。旧川越街道だ。部分的に街道並木が残っていて、うっそうとした樹木のトンネルになっている。往時がしのばれる。入り組んだ住宅地にある渡辺斉さんの家は分かりにくかった。道路に出て20分も待ってくれたらしい。たくさんのごちそうを作って待っていてくれた。山談義、鯨飲、久々の斉さん節に酔った。相棒の高田幸子さんに会えなかったのが残念だった。
おいしい朝食を作ってくれて、おいしいお茶をいただいた。器からコップ、湯飲みまで趣向を凝らす斉さんのもてなし、しゃれている。たくさんの山岳図書に囲まれ、世捨て人のような生活をしている。山の人とは付き合っていないとのこと。生涯現役、登らなくなったら山の世界とお別れ、潔い。山極道の鑑だ。かくありたい。昨夜の続きを午前中やった。もう一泊するかと聞かれたが、今日新宿で講演すると言ったら、そんなのは聞いてなかったと言われた。確かに言ってなかった。
雨が降り始めるころ出発。川越街道は池袋まで一直線、都心に近づくにつれ車は増え、信号だらけ、東京はスラムだと思う。これが我が国の首都だと思うと情けなくなる。本降りの中、予定通り新宿スポーツセンターに着いた。誰も来ていない。
江本さん、兵頭さんの協力で無事講演をこなした。二時間半はあっという間、打ち上げの飲み会も楽しかった。いろいろな人に出会った。私の本を読んでくれる人がいてうれしかった。午前様になるころ、用意してくれた近くのホテルに投宿する。
朝風呂に入り、ゆっくりチェックアウト。近くの京王プラザホテルで旧友二人とランチを取った。特に1987年にクンヤン・キッシュで死んだ岳友、大沼拓実の遺児との再会はうれしかった。彼女が生後四ヶ月のとき大沼は遭難した。美しく成長した彼女を見て、こみ上げるものがあった。彼女は今、歯科大学の二回生、教師だった母一人に育てられ、その背中を見てきた。手に職を持ちたいというのが、再入学の動機だった。いろいろ話をした。これからも長い付き合いになる。
二人に見送られて帰途に就く。大都会から逃れるように西に向かう。八王子で日没、騒がしい居酒屋で一日を終える。しかし、奄美大島出身のママは素敵で、黒糖焼酎や酒をおごってくれた。締めの納豆ご飯もおいしかった。近くの公園でビバーク。
夜半に雨が降り、慌てて管理事務所の軒下に移動する。早朝、ラジオ体操の人の声に目覚める。寝ていてくださいと言われたけれど、うるさくて寝る気にはならない。
コンビニで朝食後、一気に峠に上り、東京都から神奈川県に入る。相模ダムに下る途中に、旧甲州街道の小原宿があり、参勤交代の本陣跡があった。街道は山の中腹を巻くように作られている。こういう道を走りたい。
神奈川県から山梨県に入る処で、相模川は桂川に名前を変える。緩やかな上りで笹子トンネルに着く。全長3キロで狭く気を遣う。甲府への下りは真新しい広い国道だ。あいにくの雲で南アルプスの眺望は得られなかった。
山梨大学で研究員をしている甥っ子と久々に会う。うるさい叔父きで嫌がられている。結婚、仕事、自分のことは棚に上げて、説教じみたことを言い過ぎか。ほうとうを食べる。ポスドクの先行きが心配だ。
その後、元岳人編集長の永田秀樹さんと旧交を温め、懐かしい山談義をする。退職後は実家の仕事を引き継ぎ、果樹農家を営んでいる。おいしいブドウをいただいたが、旅の途中だ、甥っ子をまた呼び出して、彼にやった。
日没の中、南アルプス街道に向かう。上り口の小さな居酒屋で、大河ドラマを見、タブレットを充電し、たらふく飲み喰った。客は一人常連さんがいただけ。近くの公園でビバークする。
秋晴れの下、峠への長い上りにかかる。芦安手前に大きな採石場があり、ダンプがひっきりなしに通ってうるさかったが、そこを越えると車はほとんど通らない。甲府盆地の向こうに秩父の山並みがすばらしい。急坂を自転車では無理で、ほとんど歩いて上った。
夜叉神に着いてびっくり、自転車の乗り入れはできないという。ゲートの係員の意地悪な対応に腹が立ったが仕方ない。バスを乗り継いで伊那に出ることにした。つらい上りだけさせられ、広河原への長い下り、北沢峠への風光明媚な山道は走れなかった。最高の紅葉と山並みを楽しめなかった。その上料金も四千円近くかかった。
戸台の仙流荘から再び走り始めた。ご多分にもれず伊那も疲弊した街並みだった。権兵衛トンネルの上りで日没になる、南アルプスの山並みが薄暮に沈んでゆく。トンネル手前に山頭火の碑があり、いわれを読んでいたら、通りかかった青年がパンを差し入れてくれた。しんどそうに自転車をこいでいるのに同情してくれたのか。腹が減っていたのでうれしかった。
このトンネルは全長4467mもあり狭い。車両が少ないのが慰めだ。トンネル内で追い越された車を数えたが、30台ほどだった。気温が下がり、指先がきりきり痛い。真っ暗な国道を木曽路に向けて一気に下り、国道19号線に合流した。最低だった。狭い道を大型トラックがひっきりなしに疾走し、まるで自動車専用道路のようだ。危なくて走っていられない。木曽福島手前の原野駅から輪行することにした。中津川まで乗り、駅近くの公園でビバークする。今夜は疲れて居酒屋にもいかず、コンビニの焼酎一杯で寝てしまった。
朝出発の準備をしていると、器量のいい黒猫がやってきて、近くでじっと見ている。人は不審がるが、動物は違う。何か話しかけているような表情だった。
名古屋の次男宅で会食しようかと言ったが、息子は飲み会で不在、嫁さん孫は用事で外出、あっさり断られ、雨も降っているし、ここで今回のサイクリングを終了することにした。電車に乗ればあっという間だ。車窓から途切れない家並みを見ながら、昼前から焼酎を飲んだ。
8日間の走行距離合計は680キロである。フルに動いた日が少なかったせいでもあるが、山越えの道であったことも、走行距離が短かった理由だろう。何も競争ではないのだから、そんなことを気にしているわけではないけれど、山岳部の習性がいまだに抜けない。早くスケッチや読書を旅のつれづれに楽しむようになりたい。
山越えサイクリングと銘打っているから、通過した峠や盆地の高度を記そう。
川白鳥(366m)−ひるがの高原分水嶺峠(874m)−庄川(756m)−松ノ木峠(1086m)−飛騨高山(560m)−平湯トンネル(1439m)−平湯温泉(1257m)−安房峠(1796m)−南松本駅(596m)−塩尻峠(1015m)−茅野(772m)−白樺湖大門峠(1459m)−佐久臼田(704m)−十石峠(1354m)−新宿(35m)−八王子(105m)−大垂水峠(399m)−上野原(169m)−笹子トンネル(723m)−甲府(292m)−夜叉神トンネル(1392m)−広河原(1520m)−北沢峠(1904m)−戸台仙流荘(867m)−伊那(641m)−権兵衛トンネル(1063m)−中山道原野駅(840m)
これらの上りだけを合計すれば、約7000mの高度差を登ったことになる。こじつけだが、8日間で水平距離680キロを走り、高度差7000mの山を一つ上ったぐらいの労力だということになる。
いつものことだが、地方の町はどこも疲弊している。観光地でさえ客はさっぱりで、シャッターを下ろした店、廃業したホテル、ペンションが多い。山間の限界集落はすでに消滅集落と言っていい。葎におおわれた田畑、廃屋に絡みつく蔦、復活することはないだろう。そして、こぎれいな二階建ての施設があれば、ほとんどが特別養護老人ホームで、あたりの景色に浮き上がっている。廃屋の主は今そこに住んでいるのだろう。
地方都市と言えば、どこも同じようなたたずまいで、チェーン店の飲食店、大型商業施設、人通りは少ない。車ばかりがやたら多くて、道は渋滞する。コマーシャルでやるような、自然を疾走するような快適ドライブなどあるはずもない。
「金のないのは首がないと同じだ」と落語は揶揄するけれど、時間のないのも同様だ。金も時間もないものが、車であわただしく休日を過ごす。貧乏くさくていただけない。しかし、金があり過ぎると退屈なように、時間があり過ぎるのも退屈だ。その塩梅がむつかしい。
とにかく、10日間近くも自由に道を選んで、居酒屋野宿で旅をできるのだから文句はない。しなければいけないことを限りなくゼロに近づけて、したいこと(実はこれが難しい)を開拓したいものだ。(和田城志)
■“より高きより困難”を求める和田城志さんの登山は、一般的にわかりにくい。少々長いけれど、説明したい。まず一般大衆にとってわかりやすい登山とわかりにくい登山がある。わかりやすい登山とは、日本百名山達成や七大陸最高峰登頂、といった数値の羅列で一般大衆を驚かそうというもの。話題性からメディアにも頻繁に取りあげられる。行為そのものよりも、いかに多くの人に共感してもらえるか。芸能活動とも重なる。この種の登山は、技能よりも表現としての演出が問われる。だから登山の技能は素人同然というケースも多々ある。
◆わかりにくい登山とは、冒険大賞でも取らないかぎり一般大衆の目に触れることはない。成功することよりも、自分の可能性を最大限に追求して完全燃焼することが目的。人知れず創作をつづける孤高の芸術家にも似ている。登山におけるたしかな技能と純粋な探究心が問われる。和田さんの登山はこちらである。
◆まずは和田さんが足跡を残したエリアを紹介する。厳冬の黒部横断、剱沢大滝の登攀、積雪期の剱岳・八ツ峰北面。そして海外は、ランタンリルン、マッシャーブルム、ナンガパルバット。エベレストやキリマンジャロ、日本百名山といった芸能人や芸能人もどきの登場するお茶の間で話題になる山は出てこない。和田さんがめざしているのは、パイオニアワーク。手垢のついていないエリアを舞台に新しいスタイルを試みる。だから必然的になじみのうすいエリアになる。最先端の科学技術の研究だって、一般大衆がわからない領域だからこそ新たなる開発となるように。
◆玄人好みのエリアに加えて、より困難を求める。たとえば一般的に日本の冬山といえば、12月から3月のあいだで最も登りやすい年末年始と3月を狙う。年末年始は自然条件としては厳しいが、多くの登山者が集中するために若干の心強さが生まれる。精神的な負担が軽減される。3月はいうまでもなく、天候が安定する。気温も上がる。雪は締まり歩きやすい。多くの登山者は冬山においても弱点を突いて登る。
◆ところが和田さんの冬山は、徹底的に攻めの姿勢である。冬山シーズンのなかで最も気象条件が過酷な2月を選ぶ。やり甲斐はある。他の登山者には会わず、山は静寂に包まれている。静寂に包まれた自然は美しい。弱点の反対だから「強点」と呼べばいいのだろうか。日本の冬山で「強点」を意識して登る人は数えるほどだ。チマチマした計算や細かなテクニックではない。その山の厳しさも理不尽さもすべてを受け入れて、正々堂々と正面から挑む。
◆海外においては、より情報のすくないエリアに目をつける。地理的な空白はなくなったといえども、地図を眺めたところでシミュレーションを超えない。情報の少ないエリアは現地に足を踏み入れてはじめてわかることばかり。先人がいなかったりきわめて少なかったりすれば、計画段階から手さぐりである。試行錯誤をくり返したところで、成功するとはかぎらない。でもあとからふり返ってみると試行錯誤しているときが最も充実していたりする。これまたやり甲斐だ。情報のなさは想像力をかきたてる。未知の世界に思いを馳せ、白いキャンバスに夢を描く。
◆その対極といえる情報の豊富な山についても触れたい。昨今多くの登山者で賑わうノーマル・ルートからのエベレストが例としてわかりやすい。エベレスト登頂者はすでに何千人といる。日本人だけでも延べ200人を越える。2016年春はネパール側から中国側から約400人が頂に立っている。多くの成功例によって、すでにいくつかの公式は確立されている。ガイド登山もさかんに行われている。お金とわずかな努力で買える夢という意味では、登山というよりも大掛かりな旅行である。
◆あるいはキリマンジャロなどは、多くの旅行会社がツアーとして手がけている。ほんとうに困難な山だとしたら、その山が魅力的であったとしても、旅行会社は企画しない。リスクというのは旅行会社にかぎらず日本の社会が最も避ける。だいたいキリマンジャロなど現地のポーターはサンダルで登ってしまう。エベレストもキリマンジャロも一般大衆が理解できうる範囲内での最高の登山なのかもしれない。
◆ほんとうに厳しい山は、自分たちが登るだけで精一杯である。ガイド登山もツアー登山も、経験も実力もない人をフォローする余裕がある山だからこそ成り立つ「ビジネス」である。ついでに日本百名山に至っては、登山経験の浅い七十代ですら数えきれないくらいの人が達成している。夢の実現にはちがいないが、もはやスタンプラリーの色彩が強い。
◆若い時期により高きより困難な登山を実践してきた登山家はたくさんいる。けれども人生のなかで30年間にわたり濃密な登山をくり返してきた登山家は和田さんのほかにはそう多くないだろう。和田さんは、これまでに滑落や負傷などで3回ヘリコプターに救助されている。こういう言い方をしたら救助に携わった関係者の方々に失礼きわまりないが、あれだけリスクの高いことをやっていてヘリの出動がたったの3回で済んでいるともいえる。
◆ほかの登山者が同じことを試みたら果たして何十回ヘリを飛ばしたことやら。いやその前に荼毘にふされているだろう。事情に通じている人が相対的に見たら、和田さんはかなり慎重に行動しているとコメントするだろう。ケガや死や遭難が良いといっているのではない。あくまでもリスクというものを相対的に見たらの話である。余裕で登れたということは、簡単だったから。全身全霊で取り組んで登れなかったということは、真の挑戦だったから。
◆若い時期により高きより困難を追求すると、多くの登山家は早い段階で壁にぶち当たり第一線から退いてしまったりする。あるいはすくなくない確率で早死にする。和田城志さんの軌跡とはそうした生と死の接点をギリギリで歩んできた、危うさの漂う登山の連続であった。(田中幹也)
■和田城志さんといえば、大学山岳部出身者にとってははるか遠い憧れの登山家だ。80年代後半を山岳部で過ごした私は、厳冬期の北アルプス、剣岳や黒部周辺で行われる長大かつ困難な、泥臭い山行の記録が山岳雑誌に掲載されるたびに、汚くて臭い部室で興奮しつつそれらの記録を読んだ記憶が蘇る。その登山スタイルは、当時華々しく展開されていた社会人山岳会の著名なアルパインクライマーの初登攀の記録とは一線を画し、豪雪である日本の山岳風土にどっぷりとつかるようなもので、その“山岳部的”なアルピニズムの精神にあこがれと畏怖を感じたものだった。
◆今回の報告会では、和田さんの口から何度も“アルピニズム”という言葉を聞いたが、日本の山々やヒマラヤの高峰、また近年和田さんがネパールや日本で展開している水平の旅の中にも通底する精神はまさに“より高く困難な(創造的な)方法で臨む”という姿だった。さらに、芸術や社会的事象に対する高い関心をも骨肉化された生き様に、以前と変わらない巨大で遠い憧れの登山家の姿を見せつけられ、おおいに興奮すると同時に、穴に隠れたいような気分になって会場をあとに帰路についた。
◆ひとつ、話の中で2045年問題(シンギュラリティー)に言及されていたが、これはまさに今の自分の関心事でもあり(地平線通信449号の「窓」で書いた)、すでに和田さんはその時代を見越して人工知能に対比しての身体性に着目し、動力にたよらない人力での移動に価値を置いて活動されていることに興奮した。死をも含む行為に情熱を持って臨む身体表現としての登山は、おそらく合理的なデータの蓄積として成り立つ人工知能のアルゴリズムがとってかわることのできない行為であるはずで、その異質性において私たちはもっと力を入れるべきものなのかもしれない。非合理的な対象にたぎるような熱い情熱を傾け結果を享受すること……。そんな和田さんのメッセージに、ますます魅了された一夜だった。(上智大学山岳部OG 恩田真砂美)
■東日本大震災から3ヵ月後の2011年6月中旬。地平線メンバーも数多く活動していたRQ市民災害救援センターの拠点のひとつ、「RQ河北」に参加したときのことです。浪板海岸の清掃活動後、近くの道の駅にある「ふたごの湯」で汗と汚れを流して拠点に戻ると、ビブスをつけたままの男性が、道具置き場のそばに座って作業していました。早く水を浴びたいと、皆、我先に車へ乗り込み、風呂へと向かうなか(もちろんわたしもです)、ボランティアが使った道具をひとりで淡々と手入れしていたその人は、“本当はネパールに行く予定だったんだけど、大変な時期に自分だけ好きなことやるのものどうかと思って。それで東北に来たんだけどね”と、世間話の流れから、そんな話をしてくれました。
◆“ネパールですか、実はわたしも……”と、自分のネパールとの関わりを話し、次の渡航予定を尋ね、メールアドレスを交換したその方が、和田城志さんでした。ただならぬ人というオーラを感じてはいたものの、門外漢のわたしは、和田さんが怪物登山家として登山界で知られた方であるとはつゆ知らず、何かすごい人と会ったという印象を河北から持ち帰りました。
◆その後、和田さんが送ってくださった山の写真(世界最高難度の山のひとつというマッシャーブルムなど)や、ネパール全土をチベット国境沿いに歩く2012年の登山計画を読み、服部文祥さんの報告会(や文章)で和田さんの名前を耳に、目にし、そのただならさを知らされた次第です。
◆写真は峻険な雪山だけでなく、ネパールの可愛いナニ(年下の女の子)たちと笑顔で写っているものを送ってくださるのですが、彼女たちよりも色が黒く、国籍不明な和田さんからは独特の色気が感じられます(そういえば、RQ河北で夕飯後の雑談時、どんな文脈で出てきたのかは忘れましたが“目で妊娠うんぬん”という話が……)。
◆ネパール滞在中で、今回の報告会に参加できないことをお伝えしようと久々に送ったメールの返信には、膝の手術をしたので山は難しいかなと記されていましたが、近い将来、ネパールで再会できればと、そう思っています。(塚田恭子 夫の故国ネパールを頻繁に往来)
■和田さんが言う「(日常)ふつうに六日間くらい風呂に入らない」「下着を替えない、裏返して履く」。ぼくの隣に座ってる白根全さんに「へえ〜 全さんは?」って聴いたら「俺は奇麗好き」「俺は、風呂に入らなかったのは26日間が記録。着てる物も変えなかった。」と言うのが、おもしろかった(サハラ原付行のとき)。フォーディズムを否定する和田さんは「身体的」ということを いろんな角度からおっしゃっていた。「何が」人たらしめるのか、みたいなはなしやとおもった。日本中、ヒマラヤ全土を歩いた人。人生をどれだけ「歩いた」ことかぼくが残りの人生ぜんぶを寝ずに歩いたとしてもとうてい足らない。
◆和田さんは、幼少のころ 母親に 寝巻きを必ずたたんでから着るようにしつけられた。それがイヤだった。母親にきれいな字を書くようにしつけられて 書きまくって鉛筆作文大会で賞を取った。字の奇麗さのみならず作文能力も評価される賞だ。 それも和田さんはイヤだった。練習がイヤだという。いつも本気本番が好き。「自分流」でないと気が済まない感じ。「やりたいこと」の途上を常に歩いている 身も心も同じに 歩いている。
◆身体の喜びと乖離しない唯一の方法、それが「歩く」ことなのだろう。タイムラグが無いその工夫実践を怠らない。その生き方が、起業とその成長成功を導いてきたのだろう。ヒマラヤも起業もすべてがつながっている。「楽しくないことはなにかが間違っている」。そこは、妄想世界に生きるぼくも同じだ。和田さんの著作にはたびたび妄想や幻想という言葉が出て来る。美術家(アーティスト)の仕事の主軸のほとんどは、想像だとおもう。
◆それは空想妄想仮想夢想瞑想、理想や思想とかも。「想う」ことが仕事。実際に現実的に体験として実現しちゃったら「おしまい」みたいなところがある。なので夢は「作品」として具現してゆかなければならない。妄想は体内で変換され、アウトプットはまったくべつの形や表現となる。空想はいつもリアルの外周を徘徊しながらリアルそのものに立ち入ることはない。はがゆさ、孤独、絶望から創作は生まれてゆく。
◆「なにもない」脳内にまず空間をつくり、空間に風景をつくり、想いの森に歩み入る感じ。そうしないことには妄想にリアリティは付随しない。「正体」は ばれてしまう。不遜を言いつつ いかに「ウソ」を付くかが仕事のようなもの。因果だとは想う。まぁ、かつてキリンとかも「麒麟」を創造したりしたのだし。たぶん人間は、あのころもそしてこれからも、あーかな、こーかなって想い考える。
◆仏教とかで「ヘビだと想ってたら縄だった。縄とわかったらもうそれは蛇には見えない」ってみたいのがあるらしい。一端、解っちゃうと、もう、自己認識を立ち戻らす事は至難だ。けど、アートってのは、縄をヘビに見せるようなことをやってく。知ってて「いかにウソつくか」ってことを前向きに段取って実践してく。ある意味で「自分のリアル感」を騙すようなことを具現してゆく行為、そこに「リアリティ」が出現する。
◆だから、本物ヘビそっくりに全部を「かたどり」したみたいに創ったのでは本物の生きたヘビに負けちゃう。なもんで、アーティストらは 四苦八苦して 自分流にヘビ「らしさ」を工夫する。ラスコー壁画。あのころは「人間」らは(ぼくらは)動物らといろんな意味でいまよりももっと近かったとおもう。ラスコー壁画を 超える動物画を描いた画家が居るだろうか?って想ったことがある。歴史上動物を描いた名人は多々居るけど。どうなんかなあ?
◆とにもかくにも「人間」は(ぼくは)、絵を描くことを忘れなかった。人類の遺伝子は絵画意欲の継承を忘れなかった、ってことかもしれないけど。それは、どんだけ太古かしらないけども、あのころの「人間」(ぼく)が、動物を視て洞窟の壁面に顔料を塗りこめた、その「目」と「手」といまの「ぼく」自身が確固として繋がっているということだとおもう。それもまた人間の「身体的」能力の維持継続であると想う。
◆「ナンセンが ダントツすごい」と言う和田さん、今はヨットを買って乗っている。北極海の「何か」を計画しているらしい。おそるべしだ。怪物を超えて妖怪になっちゃうのではないか。和田さんの「道」は「未知」に充ちているぼくなんかはモンベルのカタログをみてるだけで 息が切れてバテルような、ひきこもりの卑小な人間だ。ぁ〜あ、だ。今日も粘土こねて自己憐憫しよ〜♪。(彫刻家 緒方敏明)
■アジアの優れた登攀に贈られる「アジア黄金ピッケル賞 2016」審査委員会が11月4日、ソウル市の『人と山』本社で開かれ、「劔岳(2,999m)黒部渓谷ゴールデンピラー(登攀長380m)ルート」を完登した日本チーム(伊藤仰二、佐藤祐介、宮城公博)と、「ガンガプルナ(7,455m)南壁新ルート」を開拓した韓国チーム(キム・チャンホ、チェ・ソクムン、パク・ジョンヨン) 、の共同受賞が決定した。
宮城さんは、4月の地平線報告会で「黒部ゴールデンピラー登攀」について話してくれた最強クライマー。また、この席で東チベット探検で知られる中村保さんに「ピオレドールアジア功労賞」が授与された。竹中宏)
■地平線通信450号、10月12日に印刷、封入作業を終え、(翌13日は江本が他の所用で忙しかったため)翌々14日午後、郵便局に渡しました。今回もいろいろな人が駆けつけてくれましたが、作業は結構時間がかかりました。地平線通信が毎月、お手元に届いている(ウエブで読む人もいるでしょうが)のは、毎月こうした地味な仕事に馳せ参じてくれる方々のおかげです。汗をかいてくれたのは、以下の方々です。白根君は久々の日本ですぐに駆けつけてくれました。皆さん、ありがとうございました。
森井祐介 加藤千晶 兵頭渉 光菅修 前田庄司 白根全 江本嘉伸 武田力 杉山貴章 松澤亮
作業を終えていつものように「北京」に行こうとしたら、なんと「すいません、満席です」と。あれれれ、「北京」に行けないと、困るよ。考えて、以前試したことのある近くの別のラーメン屋さんに行きました。ここも意外によかった。そのうちまた出かけてみましょう。
■皆さま、締め切りはきちんと守りましょうって、先月通信お原稿を落とした言い訳たっぷり改訂版でございます。
◆ラテン系写真展やり逃げのまま、7月から3カ月ほど南半球に逃亡潜伏していた。不在の間の最大のできごとといえば、それはもう8月11日が『「きのこの山」の日』に制定されたことだろう。いやはや目出たきこと限りなし。ただ気になるのは「たけのこの里」の立場だ。全国3000万たけのこの里ファン(大幅に推定)が憤激のあまり総決起し帝都トキオに革命の炎がって、無いよな〜。
◆さて、南半球ではアマゾンの密林からアンデスの高所まで、毎度お馴染み「酒とバラの日々」ならぬ「放浪と無頼の日々」を過ごしていた。一応、表向きは定点観測や路上観察ということにしているが、最近の日本の日常に異様なほど馴染めなくなってきている反動、というのがその実態だ。現地で接近遭遇した向後氏ご夫妻と、季節限定的乾燥丘陵地帯のお花畑ロマスを探索したり、写真家の長倉洋海氏とアンデスの村を訪ねたりと、相変わらず方向定まらぬまま迷走が続いている。
◆それにしても、行く先々で出会う世界の濃厚な現実に多少なりとも触れると、もはや極東島国の寝とぼけた茹でガエル状況はお笑いネタでしかないように思えてくるものだ。現場は常に躍動し、ヒトの思惑には関係ないままに暴走している。今回は太平洋岸から大西洋岸まで陸路でつなごうと、首都リマからクスコ経由でアマゾン側の街プエルト・マルドナドへ。その間、長距離バスのターミナルなど交通機関の結節ポイントでしばしば出会ったのは、なぜか家族連れの黒人グループで、そのほぼすべてがハイチ人だ。加えて、ブラジルとの国境界隈はヨレヨレでたどり着くキューバ難民の姿も増えている。
◆聞けばエクアドルが入国規制緩和で入り易く、また流通貨幣が米ドルそのままなので、短い滞在期間中に出来るだけドル紙幣をため込み、ペルー経由でとりあえずの出稼ぎ先ブラジルを目指すルートが確立されているという。もちろん、最終目的地は米国かカナダ。ブラジルでは黒い肌が他の国よりは目立ちにくいという状況もあるが、ハイチ人の場合は現政権から実際に弾圧を受けていても政治難民としてはほぼ認められず、自動的に経済難民に分類されてしまうため、先進諸国への入国はあまりにハードルが高い。キューバ人も米国との国交回復に伴う移民の入国審査条件が厳しくなる前に、駆け込みで米国を目指す需要が急激に高まってきている。
◆とここまでは、今まででも小規模ながらまだ見かける範囲内だったが、さらに今回は新顔に出くわしてびっくりだったのがベネズエラからの難民である。ベネズエラ南部のボア・ビスタからアマゾン中流のマナウスに抜けるルートで、スペイン語つながりもあってか、最終目的地はペルーやチリが多い。マナウスから国境を越えてペルーのイキトスまで船でアマゾン河を遡るか、陸路でポルト・ヴェーリョ経由アンデスを越えてクスコに至るルートが一般的という。
◆数で言えば、経済的にはとっくに破綻し飢餓状況も見られる最悪の国内経済状態に見切りをつけた中間層が多い。当然ながら富裕層はとっくに国外に逃亡先を確保しつつ、国内での利権漁りに奔走し、病人の布団剥がしから首つりの足引っ張りまで止まるところを知らず状態だ。チャベス前大統領の死去以降、国内は原油価格低迷と経済状況の悪化による政情不安、ハイパーインフレ、治安の悪化、粉ミルクから医薬品まで日用生活物資の隠匿による供給停滞など、正に負のスパイラルに嵌っている。現マドゥーロ政権の支持層であった貧困層はすでに生活を持ちこたえられなくなって暴動や略奪行為に走り、貧困を抜け出したはずだった新興中産階層は、犯罪の多発する大都市を避け、近隣諸国への脱出を模索する末期的な状況になってきている。
◆南米各国で左派政権が域内勢力を増してきた反動か、米国とキューバの手打ちやブラジルの大統領訴追あたりからだいぶ風向きが変わってきたのは事実だろう。といっても、検察が一応は仕事をしつつ、司法が一応は機能している彼の地の現状が羨ましく見えてくるのが情けない。加えて、日本での大本営発表的な報道とは異なり、現地リオでのオリンピック開催とはいえ、ブラジル人選手が登場したとき以外ほぼまったく無視の状態がかなり笑かしてくれた。とりわけ、閉会式のカーニバル騒ぎで盛り上がっていたところに、某国首相が土管からコスプレ姿で登場したとたん超シラけた顔で席を立つ観客の多々あったことを、「きのこの山」なんぞを食しつつ報告しておきたい。(ZZZ−カーニバル評論家)
■富山立山カルデラ博物館で貞兼綾子さんのお話会があると聞き、これは行かねばならぬと思った。高山本線各駅停車で富山まで2時間。乗り換えたのは富山地鉄。これがなんとも素晴らしい。二両編成の電車、沿線の鄙びた風景、小さな駅舎、タイムスリップしたかのようで、うっとりしていたら、すぐに1時間が過ぎ、立山到着。立山到着。博物館近くの食堂で、地平線の一行と合流。東京からは江本さんはじめ、兵頭渉さん、中嶋敦子さん、小石和男さん、ゾモ普及協会の落合大祐さん、田中明美さん、鎌倉からは貞兼さんのお友達と、大勢の方が足を運ばれた。富山県産の美味しい里芋コロッケで腹ごしらえをして準備万端。
◆地震の前と後の村、村人の顔、新たに売り出されるチーズ等、様々な写真や資料。等身大のゾモ人形、再建支援のためのゾモTシャツ販売、博物館に入るとまるでランタン谷に入り込んだよう。初めてお目にかかる貞兼さんは凛とそこにいらっしゃった。小柄な貞兼さんが熱く話される姿、胸に迫ってくる説明、自分のことしか考えない人たちをザックリと切り捨てる小気味よい言葉、1時間の予定が、あっという間に2時間になった。
◆ところで、私の初めての海外旅行は1983年春、ネパール。素朴な暮らしが残っている場所だからと、探検部の先輩から勧められたトレッキングルートはランタン谷だった。村の暮らしを見せてもらいながら歩いた日々は、忘れられない。カトマンズからバスに乗りトリスリバザールへ。そこからラムチェ、ドンチェ、シャブルベイシ、ランタン村へと歩いた。村では「日本人がいるが、今はいない」と聞いたような気がする。あれは貞兼さんだったの?
◆この旅で目に焼き付いたのは、美しい谷の風景だけでなく、村ごとに少しずつ異なる装いや腰機を使って布を織る女性の姿だ。民族衣装を身に纏い、きびきびと働く姿は、真似したいほど魅力的だった。何年か後の、エベレスト街道のトレッキングでは、スカーフを頭に巻きスカートをはいて歩いた。西洋人から、何度も村人に間違えられて、嬉しかった。そして、機織り。布が織りあがるまで、じっと見ていたかった気持ちを今でも思い出す。後々、私がネパールで染織の指導をするとは、誰が想像できただろうか。不思議な縁を感じている。宗教について考えるようになったのも、この旅がきっかけだった。村人の信仰の中心だったキャンジンゴンパも壊れたと聞き、残念でならない。
◆貞兼さんの活動にずっと関心があって、いつかお話をうかがいたいと思っていた。けれど、こんな悲劇をきっかけにして、それが実現したのは複雑な気持ち。地震後、すぐに支援体制をとって行動された、継続力と瞬発力のある貞兼さん。次にお会いしたら、もっともっとお話したい。やはり憧れの人である。村の人たちと長く長く付き合っていらっしゃる貞兼さん。支援の在り方を見せていただきました。この展示、たくさんの方に見ていただきたいです!
◆帰路、立山駅はアジアからの観光客でいっぱいだった。改札口で駅員さんから「サンキュー」と話しかけられた。ネパールから来た顔していたのかな。嬉しかった。もう一度ランタン谷へ行こう!と思った。(飛騨高山在住 中畑朋子)
■こんにちは! 先月の地平線通信で紹介いただいた、南三陸町入谷の里山での、パン菓子工房の工事、着々と進んでいます。10月29日に最初の柱を建て、11月1日は無事に建前(たてまえ 棟上げ式のこと)を迎えることができました。雨がいまにも降りそうな寒空の下、急げ急げと屋根の取り付け。朝からご近所のおんちゃん(宮城の方言:おじさん)たちがお手伝い下さり、驚くほどはやく屋根ができあがりました。建前には餅まきが恒例なのですが、私たちはパン工房をつくるのだからと「ここむぎ」の仲間たちと紅白パンを用意しました。今年自分たちで収穫した麦を使い、紅色はビーツという野菜を使って色づけしました。午後、おばあちゃんたちが傘をさしながらも集まって下さり、屋根に登った棟梁が「そーれ」と投げて空に舞ったパンをそっと大事に拾いました。
◆形式ばらずにやろうと決めた建前でしたので、料理は女性陣が朝から土地の食材で準備しました。出来あがったお祝い膳には、新米の無農薬ササニシキに庭先にある桜の花びらの白梅酢漬けをのせた桜ご飯をそえました。外での作業に冷え切っていた男性陣は熱燗で温まり、いい塩梅になったおんちゃんが宮城県民謡「米節」を唄い、手拍子と掛け声が重なり合って、その場のみんなが暖かくなるような一時でした。何もかも初めてのことで、予想外のことが起こる中であたふたしている施主の私、大家さんと棟梁、ご近所さんたちに助けられて無事に終えられたこの一日は、一生忘れられないと思います。
◆地平線通信でウィメンズアイのパン工房建設の件を知りました、と応援メールを頂いたり、ご寄付を頂いたりしています。本当にありがたく心強いです。寄付のお願いを始めてから約1か月、目標額の3分の1に達しました。「そんなことで大丈夫なのか」とさらに心配の声が聞こえてきそうですが、年末に向けて残り1か月半、何としてもこのプロジェクトを成功させるべく頑張ります。(栗林美知子 NPO法人ウィメンズアイ事務局長兼パン菓子工房ウィ・プロジェクトリーダー)
■東日本大震災から5年8ヶ月が経過しましたが、福島第一原発事故で今もなお全域に避難指示が出されている「浪江町」に先月仮設商店がオープンしました。浪江町は原発の北約10km程に位置しており、震災前は約2万人が生活していた町です。
◆仮設店舗にはコンビニ、食堂、カフェ、コインランドリー、雑貨屋等10店のお店が入っています。震災後はコンビニが1件しか営業していませんでしたので、一時帰宅した住民の方々や、除染作業・復旧工事の方々が立ち寄るのにとても便利になりました。オープン当日に浪江町へ行ってきましたが、大型バスで避難先から住民の方々も来られていたようで、とても賑わっていました。
◆こうした賑わう場所が出来た一方で、町中は人の姿は無く殺伐とした風景は依然変わっていません。昨年まで手付かずだった倒壊した建物は漸く解体され、空き地が広がりつつありますが本当に胸が締め付けられる思いです。浪江町は来年2017年3月の避難指示解除を目指し、今月の11月1日から準備宿泊の受付が開始されましたが、申請は住民の1%未満に留まっています。住居の修繕作業が不十分だったり、商業施設の不備や放射線・原発の不安を心配する声も少なくありません。これは昨年9月に避難指示が解除された私の地元「楢葉町」も同じ状況です。
◆福島第一原発周辺は依然このような厳しい状況が続いていますが、今回のような小さな前進が新たなる地域再生へと繋がっていくことと思います。今年は5月から11月にかけて「東北・道の駅スタンプラリー」に挑戦し、東北6県の「道の駅」全146箇所(休業中2箇所、新設前2箇所を除く)をバイクで回ってきました。賀曽利さんの勧めもあったのですが、「道の駅」を通して東北の被災地のみならず全域を走ることが出来て、より東北の魅力の深さを感じることが出来ました。今後もランニング・バイクを通じ、少しでも復興に寄与できればと思っております。(いわき市発楢葉町住民 渡辺哲)
■江本さん お疲れ様です、地域の事を軽く報告します。最近の南相馬市周辺では除染作業が終盤を迎えてきている割にはまだまだ作業員は沢山います、また復興事業の為の山砂や砕石の運搬の為のダンプトラックがまだ暗い朝5時くらいから走り出し、日中も所狭しと走っている様子も見られます。除染事業が終わると言われながらも作業員はいなくならず作業員宿舎が解体されたりした所も見た事がありません。噂では原発の廃炉の為の作業員が増えていると聞きます。
◆また、東京オリンピックに向けて作業員が関東に集まり出しているというのは本当でしょうか? とても除染作業をしていた人達が建設工事に関われると思わないのですが……。地域では医療の問題が増えて来ているような気がします。それは放射能による病気という事ではなく、地域で大病になった時の医療体制の問題が出て来ている、ということです。医者が居ないのです。総合病院が頼れないと上條の周りの人間たちが言っています。中には家族が亡くなった、手術で死にそうになった、などの話も聞きます。
◆産業も除染事業後の地域はどうなるのかはわかりませんが相変わらずどの業種も人材不足です。時給が相変わらず高額で、その事から除染事業従事者で早期首切り対象者は、福島県から離れようとせず、何とか住み続けようとします。求人募集を出して何も知らず雇い入れた事業所で問題行動や不平不満等を言いまくり足を引っ張るものも出てきました。
◆変な知恵を付けたやつがいっぱいいます。これは除染事業が余りにも世間から注目をされ、法律や労働者の権利を尊重し過ぎたためだと思っています。働かなくても、居ればいいとしてしまったことが原因だと思います。まだ後1、2年は全ての業種で仕事は過剰にあると思います。勿論あっても仕事をまわしてもらえない等で大変もしくは辞める会社もありますが、「大手」は安泰です。
◆また安倍政権下でオリンピックが終わるまでは福島県沿岸部には多大な国の予算が出るのであてにしている事業業界もいますが、働く人がいないので難しいでしょうね……。小高区も解除になりましたが、人はまだまだ動きは少ないようです。飯舘村も同様になるでしょう。知人の多くは選挙も行かず、飯舘村にも帰らないと言っています。店や事業所は始まっていますがどうなる事か……。この地域に住み続ける事は半分お気楽な人でないと難しいな〜と思います。うつ病や精神内科に通っている人はやはり増えています。自分も余り深刻に考えないようにしています。またいつでも自己資産を売却し南相馬から出れるようにも検討しています。ま、こんな感じです。(南相馬住人 上條大輔)
「11月2日に、男の子の双子が生まれました。双子にしては大きく生まれた方で他には問題なく元気そうです。」素晴らしい、可憐な笑顔の2人の写真とともに。おめでとう!!
■天気予報通り、今朝(11月9日)は雪が舞い降りてきました。一気に冬将軍到来ですが、先月15日(土)には、紅葉真っ盛りの中「第7回伊南川100キロウルトラ遠足」が無事開催出来ました。大会創設者の海宝道義さん、三輪主彦さんには今年も全面的に協力して頂き、地域の方々にも準備から当日のエイドなどをサポートして頂きました。
◆今回は、北海道から九州までの325人のエントリー、当日は296名のランナーが出走しました。スタート時点の朝5時には気温も2℃くらまで下がりましたが、日中は20℃を超える暑さでした。好天に恵まれた伊南川流域を気持ちよさそうに(時には辛そうに)駆け巡るランナーを応援することが出来ました(完走者は191名、完走率64.5%)。
◆今は国内に1,000人以上のランナーが集まる超長距離大会も沢山あり、その数に比べれば伊南川は本当に少数参加の大会です。しかしながら、リピーターの方々とスタッフ協力者の心の交流も生まれています。旅館民宿を営む地元のおじちゃん&おばちゃんも御年80歳前後になり、大会本番は早朝から夜間まで大変な2泊3日です。毎年大会を終えてお礼を伝えると、「一年に一回親戚が戻って来るようなもんだから」と快く受け入れてくれています。本当に頭の下がる思いでいっぱいです。
◆南会津町は人口16,000人、伊南地区は1,400人余り、この地域に300人前後のランナーが年に一度、全国から集まってくることは、もしかすると凄いことなのかもしれないと今さらながら実感しています。大会が終わると、常連のランナーは宿に来年の予約を入れて帰ります。町の協力者からも「来年は?」と色々な声が聞こえてきます。有難いことですが、まずは残務を終わらせて、海宝さんと相談しつつ、来年の方向性を考えたいと思っています。気がつけば今日は真っ白の雪景色、秋には秋の、冬には冬の楽しみを見つけながら心を引き締めて季節と向き合っていきたいと思います。(薪ストーブの温もりが有り難い伊南から 酒井富美)
■江本さん、ご無沙汰しております。現在の職場に異動してから慣れない現場に四苦八苦しており、体を休める必要性と、毎月第4金曜日に担当部署の会議が固定され、地平線会議への出席がむずかしくなっています。とはいえ、それもあと1年半の辛抱。退官が秒読みになってきました。ただしすんなり辞められるのか、現場の状況が何らかの形で残留を要求しそうで、悠々自適はまだまだ先になりそうです。
◆身の回りで少々変化がありましたので報告しておきます。現病棟にうつって3年半。たった25床でありながら緩和病棟という性質からほぼ1000人の患者を看取ってきました。私自身が看取っただけでも100人近くにのぼっています。皆さんの最後の日々を眺めていると、人生観というものが大きく変わらざるをえません。死後の処理をすべて1冊のファイルに残していた人、緊張のあまりちょっとした刺激でも激怒する家族、明日は何をしましょうと約束したのに翌日出勤したら出棺していた人、血みどろの法廷相続に発展してしまった仲のよかったと思われた兄弟姉妹、子供を看取る親のつらさ、私より年下の人々などなど。いずれ活字に残さねばならぬ環境がつづいています。
◆そんな中、5月に母親も他界しました。最後の3年は施設暮らしになりましたが、それでも1週間前まで歩けていたので、95歳の大往生といっていいでしょう。なお電話交換士だった母は深川で東京大空襲を浴びて焼け出され、あてもなかったところに叔父の乗っていた偵察機が霞ケ浦に不時着し負傷、その世話のため土浦に来たと話していました。
◆送った本(注)は、テレビがないので内容を把握していないのですが、NHKのBSに火野正平の自転車旅の番組があり、それがブームになっているので、自転車旅入門書を書いてくれ、と以前から担当してくれている人(三輪さん、坪井さん、丸山さん、中山さんらとの共著を担当してくれた人)から依頼されたことで書き留めました。出版業界の不況のなか、そのような依頼がなおもあるとは、私が始めたころにはマイナースポーツだった自転車環境の様変わりに驚くばかりです。
◆自由業の多い地平線メンバーとちがい、旅の期間以外は途切れなく仕事していたので、流行語の下流老人には陥りにくいとは思うのですが、それよりも問題なのが貧乏性には有りあまる時間の消却法です。ただ仕事を取り上げるやたちまちボケてしまった父:赤字を垂れ流しつつ88歳まで働いていた:を思うと、私も仕事がなくなるとボケるのは確実なので、倒れるまで医療の世界で働き続けることになるでしょう。足腰の丈夫なボケ老人ほど社会にとって迷惑な存在はないので。
◆しばらく離れてしまったので、通信費やカンパが未納のままになっています。前述のように会議への出席は当面難しいのですが、それを届けなければならないので、発送のお手伝にはそのうち行くつもりでいます。(埜口保男)
注:『自転車旅のすすめ』(2016年7月 体育とスポーツ出版社刊 1600円+税 巻末に「ちょっと異質な集団」として地平線会議のことを紹介している)
■ヒマラヤ山脈の白く光る峰が遠くに見えるインド・ダラムサラに10月中旬、会社のリフレッシュ・ホリデーを利用して、僕は足を運んだ。仕事では何度か訪れているインド。学生の頃、「旅人はアフリカが好きになるひとか、インドを好きになるひとかに分かれる」という話を聞いてから、アフリカ好きの自分はインドには旅行で行くことはないだろうと思っていた。そういう意味で、旅人として訪れたインドは自分にとってとても新鮮なものだった。
◆インド到着初日の19日はデリーのホテルで宿泊し、翌20日朝、国内線に乗り、インド北方にあるダラムサラへ向かった。ダラムサラはチベット亡命政府のある街だ。今回僕は、今年から支援をはじめたチベット子ども村(TCV)への訪問を目的としてダラムサラに赴いた。TCVには中国から亡命してきた子供達が住んでいる。そのTCVは幾つかのホームに別れ、それぞれに母親代わりのホームマザーと呼ばれる人がいて、そのひとが子供達の面倒を見ている。ただ毎日の洗濯や食事は子供達も一緒に準備をし、大きな子は小さな子の面倒を見ているという。今回僕は18年前からTCVへの支援を続けている男性とその友人の女性と共に学校を訪れた。
◆TCVに同行したのは、ツェタンというチベット人の28歳の女性。今回一緒だった男性が里親としてずっと支援していた女の人だ。あとで知ったのだが、彼女は5歳のときにひとり中国の国境を越えて、ネパールに入国し、ここインド・ダラムサラのTCVに来ることになったということだった。両親は今も中国のチベット自治区に住んでいて、彼女が亡命した後に生まれた妹には既に子供もいるという。数年前にネパールと中国との国境で両親とは再会したそうだ。両親は、彼女に「チベット人」として生きてほしいと、ダラムサラに送り出したという。
◆TCVでは、僕は日本から持ってきたお菓子を子供達に配った。スーツケースいっぱいのお菓子。女の子にはピンク色のパッケージに入った麦チョコ(イチゴ味)、男の子にはうまい棒が人気なのが印象的だった。23日にはTCV設立記念日の行事に参加して子供達のマスゲームを見学し、25日はダライ・ラマ法王の後継者と言われるカルマパ17世に3人で謁見した。「はじめまして」と日本語で挨拶をしてくれたカルマパ17世は、自分にとって初めて会うタイプの骨格のひとで、とても大柄な印象を持った。ダライ・ラマ法王の通訳をしている日本人の女性にも会うことができ、有意義なダラムサラ滞在なったと思う。
◆今回、滞在したのはダラムサラだったのだが、インド北東ヒマラヤ山脈の麓、ブータンとの国境沿いにある村タワンにはチベット人の孤児院があるという。そこに陸路で辿りつくには車で2日間が必要で、4,000メートルの山を越えて行かなければならないということだ。そのタワンでは未だイエティの伝説も残り、ある高僧は昔夜な夜なその叫び声を聞いたという。ヤク以外の野生動物がほとんどいない場所なので、あの叫び声はイエティのものだとその高僧は言っていたそうだ。今回初めてヒマラヤの峰を見て、その佇まいに僕は心打たれた。自分はどちらかというと海の人間だけれど、あの山を登ってみたいと正直思ってしまったことも確かだ。その足掛かりとして、まずはタワンに次の春、可能であれば足を運んでみようかと考えている。(光菅修)
■来月、12月の報告会は23日の金曜日です。この日は祝日(天皇誕生日)の上、3連休の初日でもありますので、遠隔地の方々が楽しく参加できるよう、いつもとは一味違う「年の瀬報告会」にしたい、と考えています。具体的に言うと、まず名物丸山純・長野亮之介コンビによる「地平線カレンダー 2017」の発表(ついでに封入作業への参加、販売協力もお願いします)、加えて年報『地平線から』、長野亮之介画伯の「報告会イラスト『地平線・月世見画報』など過去に地平線会議が制作してきた印刷物を安く販売するつもりです。ただし、『地平線から 1979』『地平線から 1980』などは絶版ですので、何かの機会に「発掘」してオークションなどで競ってもらおう、と思います。
報告者と報告会のテーマなど詳しくは、次号の地平線通信でお知らせします。
9日後に開かれる451回地平線報告会。その場に積んでもらう予定の本を今月は少し早く紹介したい。ひとりでも多くの地平線仲間に、手に取ってほしいから。
本の帯に「シリアに滞在した日本人フォトグラファーのドキュメント」と、ある通り、カラー、モノクロの写真とともに女性写真家が伝えるシリアの現状報告である。
2008年、はじめてシリアに入り、沙漠でラクダを追う遊牧民一家と出会う。女性であることの強みがカメラを向けられた老若男女のやわらかな表情から伺える。
とりわけおだやかなシリア沙漠での、アブドュルラティーフ一家との出会いが小松のシリアとの結びつきを決定的にしたようだ。70代、60代の両親と16人の子ども、という大家族。2011年内戦勃発、小松は取材する立場を超え、人としてより深く沙漠の民に向きあうようになる。兄弟のひとりと結婚するのだが、本の中ではそのことは語られていない。
本の構成は以下の通りだ。
プロローグ
シリアとの出合い/内戦のはじまり/フォートグラファーである前に/平和を見つめて
第1章 太陽と砂の輝くふるさと
沙漠に生きる一家/ラクダを追って
第2章 戦火の足音のなかで
内戦下のダマスカスに立って/ムスタファの夢/ホムスから来た男/兄の逮捕に呆然とするラドワン/平和を願い詩を書く/ダマスカスのベドウィン/無人のパルミラ遺跡/逃亡生活のはてに 1―捕らえられたサーメル/逃亡生活のはてに 2―孤独に苦しんだ夜/逃亡生活のはてに 3―たったひとりの逃避行
第3章 難民キャンプの女性たち
ザータリ難民キャンプへ/フセイン一家、それぞれの決断/目の見えないザイルおばあさん/平和を待つナジャ
第4章 国境の街に生きる
国境の街レイハンル/ふるさとを離れて/平和を待つ羊飼い反政府軍の兵士だった男/ある菓子売りの夢/一発の銃弾に倒れて/難民の子どもたちの学校、マドラサ・アルワード
小松由佳の名を初めて知ったのは、世界第2の高峰、K2登頂によってだった。「東海大学K2登山隊2006」のメンバーだった小松は当時24才。2006年8月1日16時50分、後輩の現役山岳部員、青木達哉(21)とただふたり、見事K2、8,611メートルの頂きに立った。2人とも初めての8,000メートルだったが、強かった。多くの死者を出し(とりわけ下山中に)「非情の山」と呼ばれる難峰を慎重に慎重に下った。そして、酸素が切れる中、なんと8,200メートルの高所でビバーク、夜明けを待った。冷静な判断だった。ふたりは自力で仲間たちの待つキャンプに無事生還。日本女性としての初登頂(世界的には8人目の女性登頂者だった。以後も日本人女性の登頂はない)に対して「2006年 植村直己冒険賞」が贈られた。
登山家としては大きな“勲章”とも言えるが、これらのことがいっさい書かれていないのがこの本の特徴だ。
山についての記述は、プロローグの以下の数行だけだ。
「もう10年以上前のことだ。山の世界に魅せられヒマラヤの峰に登っていた私は、ふもとの谷で人々の暮らしに出合った。厳しい自然とその恵みのなかで伝統を受け継ぎ生活を営むその姿に、人間が生きる原点にあるものを感じるようになった。やがて私は山を離れ旅をはじめた。多様な人間の暮らしを求め、草原や沙漠へ。そうして出合った国のひとつがシリアだった」
いま、7か月の男の子、サーメルの母となった小松にとってシリアは今、自分の家族の暮らしの場だ。
「シリアは地理的にも文化的にも日本から離れた国であり、内戦や難民の問題は私たちにとって理解しづらい一面もある。遠い問題として扱われがちだが、彼らに手が届く距離に私たちが立っていることもまた事実だ。同じ時代に同じ人間として、私たちはこの瞬間を生きているのだ」
山を離れ、シリアの沙漠の民の心にまで入り込んだ著者、小松由佳は一体何を語るのだろう。25日の報告会には乳飲み子とともにやって来る予定だ。(江本嘉伸)
■「田部井さんなくなったってラジオで言っていたよ」と昇が言ったのを聞いてびっくり。「え?まさかー」。あんな元気印を絵に書いたような方がこんな早く亡くなるなんて信じられなかったのです。個人的に親しい訳ではありませんでしたがネパール添乗の時によく飛行機で一緒になりました。トラブルがあっても私と目が合うと「まったくねえ」と言ってにかっと笑ったことが思い出されます。田部井さん、ネパールではとても有名で人気者でした。ご冥福をお祈りします。
◆11月に入り沖縄も朝晩はだいぶ涼しくなりました。とは言え24℃くらいですから寒いとは言えませんね。さてこのたび約三年越しで計画していた、清ら海ファームオリジナル手拭いがいよいよ完成間近です。沖縄の植物の間にヤギがたくさんちりばめられています。もちろん長野亮之介画伯の渾身の作です。今月末のイベント(やぎとピクニック)で販売するつもりですが通信販売もする予定です。詳しくは清ら海ファームのブログをチェックしてみてくださいね。(浜比嘉島 外間晴美)
■1980年代の後半、南極のキング・ジョージ島なる地の果てでひと夏を過ごしたことがあった。チリ空軍基地を拠点に島内や南極半島各地のペンギン営巣地を訪ね歩きながら、映画の取材撮影を続けるハードなお仕事だ。観光クルーズ船などもほぼ無い時代で、そもそもGPSやネットはまだ存在せずファックスも島内では中国基地に一台あるだけ。連絡受領の知らせが無線で入ると、中国基地まで回収しに徒歩約1時間、突然のブリザードで遭難しかけたことすらあった。
◆そんな時代に「アドベンチャー・ネットワーク」というチャーター便の航空会社が、チリ南端から南極大陸最高峰のビンソンマシフ登山ベースを結ぶオンボロプロペラ機を飛ばし始めた。帰国後その情報を女子登攀クラブの北村節子女史に伝えたところ、回り巡って田部井さんのビンソンマシフ遠征計画に使えないか、という話に展開した。当方にもお声が掛ったが、耐寒仕様の特注2重靴のお値段が30数万円也とか言われてびつくり! 思わず「それって右足ですか、それとも左足?」などと聞いてしまったものである。
◆後日、ペルーの居候先で数回すれ違った田部井さんとはよくそんな話で盛り上がった。ほんとにこの方が世界最高峰のサミッターかと思わせる地味でごく普通のおばさま風だが、お買い物となるととたんに豹変するのがいかにも感たっぷり。しばしばお土産もの買出し通訳に駆り出されたが、気合を入れて値切ると後であんなに安くしちゃ悪いじゃない、なんて突っ込まれたことも多々あり。ただ高みを目指すその眼差しは、いつも「静かな熱」に満たされていた。また、大切な宝物がひとつ失われてしまった。くれぐれも残念至極である。合掌(ZZZ−カーニバル評論家)
◆江本様。寒くなってきましたが、お元気でお過ごしでしょうか。無念ですが、今年は報告会に参加できずに終わりそうです。江本さんが再三「子連れウエルカム」を発信して下っているし、何とか行ってみたいと思うのです。5歳の娘一人なら、ためらいはありません。むやみに泣いたり我儘を言ったりすることも減りました。
◆ただ3歳の息子は、本当に暴れん坊で、己の欲求の赴くままに生きております。椅子は登って立つところ。皆が静かにするなら俺は大声を出して走るぜ。コードなんか引っ張って抜いちゃうよ。そんな感じです。心底のアホではない、と信じてはおりますが。
◆報告会でお話を聞きたいと思うほど、確実に迷惑をかける息子を連れて行くことができません。皆さんがお話を聞く機会を台無しにしたくありません。彼がもう少し、社会に適応できるようになったらお邪魔しますね。このアホたれも来年から幼稚園です。何とかなると期待しております。(黒澤聡子)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくれたのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。時に「今年度分会費」として振り込んでくれる方もいますが、地平線会議は会員制ではないので会費は取っていません。どうかご理解くださるよう。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで添えてくださるとありがたいです。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。
大嶋亮太/佐藤泉/江川潮(5000円 滋賀県草津市 地平線通信に登場する若い方々の活躍ぶりは素晴らしい。先日のオリンピック・パラビンピックの時にも同じ感動を覚えましたが、迷走する世界で若い世代に未来の光が見える気がします。世の中捨てたものじゃないという心境です)/高野久恵(5000円 佐渡 通信、毎月楽しみに読んでいます。新潟県には原発問題への関心が高く福島関連の文章はコピーして仲間に読んでもらっています)/松原英俊(6000円 山形県天童市 目の病気で7ヶ月入院したりで3年くらい通信費を払わず申し訳ありません。天童に引越して600坪の畑を手に入れましたが、サルやイノシシとの戦いにあけくれています)/野口英雄(4000円 2年分)/黒木道世/宮本千晴(10000円 カンパ)
■田部井淳子さん(以下、敬称略)が逝ってしまった。40余年、深く付き合ってきた身としては、切ない。10歳年上だった。それでも「ともだち」と言わせてほしい。1973年に、ネパール政府が1975年春のエベレスト登山許可を日本の女子チームに出した、という外電短信を見て、新米記者だった私がインタビューに出かけたのがそもそもの出会いだった。即、遠征参加を志願した私を、副隊長兼登攀隊長だった彼女が、周囲の懸念もものかは、即、採用してくれた。まあ、蛮勇が買われたのだろう。
◆1975年のエベレスト日本女子隊は、むしろ出発前に艱難辛苦を味わったものだ。計画自体、「女が?」「子持ちが?」(当時、田部井は既婚、3歳児の母だった)「世界最高峰だよ、登れっこない」等々、非難の的。私には「成功してごらんよ。登山史に残る大事件じゃないか」という憤慨があり、田部井には「データが多くてルートも素直な山。むしろ可能性が高いことがなぜわからない?」という切歯扼腕があった。結局、E記者の奔走で読売・日テレがスポンサーになって、各自、個人負担にあえぎながらもどうにか15人の隊が実現したのだった。
◆1970年代80年代始めは不思議な「日本の女」高揚の時代だった。74年、ボストンマラソンでゴーマン美智子が(女子の部で)優勝した。米国人と結婚した会津出身の38歳。女性のマラソン参加がようやく認められたばかりで、それを日本出身女性が制したことが話題となった。82年、日本人初のドーバー海峡単独横断が、大貫映子によって成し遂げられる。若干22歳の快挙だった。
◆戦後の民主社会で、「女子が活躍するのは結構なこと」というドグマはできつつあったが、生活実感としては「結婚して母親になるのが一番だよ」が本音だった時期。だから「ゴーマンや大貫は称賛するが、これから何かをしでかそうという身近な女子には説教して思いとどまらせる」という二重規範が「横行」していた時代である。エベレスト日本女子登山隊はまさにそんな空気の中でのハイライトとなった。
◆遠征隊の顛末については、すでに多くの報告があるのでここでは触れない。ただ、上記のような時代の風の中、田部井は登頂のすえ、まさに国民的スターとなってしまった。本人は「私は山が好きなだけの主婦なんです」と語っていたが、実はそれが人気に拍車をかけた。母親であり(女としての伝統的役割はきちんと果たしたうえで)、凄い業績を上げる、という構図。加えて、地方出身らしい控えめさ、明るい笑顔。二重規範を抱える日本人の「女子英雄」にはぴったりだった。
◆が、いったん、「世界初登頂者」の責任を自覚してから、彼女は腹を据えたように見える。雑誌やテレビの取材に積極的に応じた。講演は回を重ねるにつれて達人の域に。一方で、彼女にはそうした一般向け人気の他に、もう一つの真骨頂があった。メディアの人気者になる一方で、一般にはほとんどなじみのないパミール7,000m峰三座一気制覇」(1985)、中国トムール峰(7,435m)挑戦(なだれで敗退=1986)、冬季ペルーアンデス(1987)、ダウラギリ I 峰(8,167m、1990)など、いずれも女子登攀クラブの若手を率いて次々に遠征、成果を出していった。
◆つまり、エベレスト一つで「口先クライマー」になぞなることなく、ある意味エベレストよりずっと難度の高い山々に、「女だけで」登ることを黙々と続けて行ったのである。勤め人であった私とは、短期で成果の出る欧州の山によくつきあってくれた。もし有能な男性クライマーと組めば、華やかな8,000m峰をもっと得られたかもしれない。が、それよりも「とにかく女性だけで」「本当に行きたいところへ=できれば未知の土地へ」という方向性は終生、ぶれなかった。
◆ここで、私も五つに付き合った「世界7大陸最高峰」のこれも世界女性初タイトルについて、ふれておきたい。もともとアメリカの一富豪の道楽として成立したタイトル。果たして登攀の価値はあるのか?という問いに、私たちは、当時、アルパインスタイルで名をはせたラインホルト・メスナーの「ホワイト・ウィルダネス」という概念を借用した。
◆別々の大陸にあるそれぞれの一点を目指すのは、結局、自分にとって未知の世界(ホワイト)に到達するのではないか、という、ちょっと屁理屈? ヒマラヤ以外にも「あっちこっち見られるから」と、まことにわかり易いノリである。のちのち、あれで南極やニューギニアに行く理由もできた、おもしろかったね、と、よく言いあったものだ。
◆奇しくもエベレスト遠征の1975年は「国際婦人年」だった。メキシコで開かれていた世界大会で、日本代表は登頂のニュースに「日本の女性が成功しました」と誇らかに報告したという。そのころ、田部井と私と仲間たちは真っ青なヒマラヤの空の下、「女性の人権」という概念よりは、「女同士でやったぜ!」という筋肉の達成感で満足していた。
◆「女性の活躍」をもっと、と言われる現在だが、理屈より先に「男の裏方はいや。男に依存するのもいや」という現場の心意気が輝いていたあの時間。それを共有させてもらったこと、とてもとても楽しかった。本当にありがとう、と言わせて。(北村節子 元エベレスト日本女子登山隊員 元女子登攀クラブメンバー)
■451号をお届けします。今月も多くの方の手を煩わせました。田部井淳子さんについて少し補足を。最近地平線に参加するようになった人は、初耳かもしれませんが、私は彼女がまったく無名だった、つまりあのエベレストに女性として初登頂する以前からのつきあいです。女性隊員は計15人。うち誰が8,848メートルの高みにたどり着ける力を持っているか、が最大の関心事でした。心配する新聞やテレビ局の幹部には「大丈夫、登れますっ」、と言い放ったものの内心、登れないことも大いにあり得る、と思っていました。でも、挑戦する精神が貴重なんだから、と自分に言い聞かせつつ。
◆1975年5月。クーンブ氷河、標高6,400メートルの前進ベースキャンプのはずれでひとり見送る私に田部井さんが「江本さん、登ってきます!」と並々ならぬ決意で語った口調が印象的でした。「窓」に北村氏が書いているように、当時女性隊へ世間の反応は否定的でした。かなり強引に後押ししてきた私の立場を田部井さんはよくわかっていたのでしょう。
◆「死ぬ時、ああ面白かった、と言って死ねるような人生を!」が口癖だったけれど、実際は最後はそんな余裕はなかったでしょう。食べられなくなって、痩せて。でも、自分の生きたい人生を生き抜いた点では間違いなく幸せだった、と思います。
◆今月の題字はウルドゥー語で「地平線通信」の意味のようです。先々月はアラビア語で書いたので、小松由佳さんの登った「K2」にあわせて。(江本嘉伸)
一瞬に永遠を求めて
「世界中で人と出会う手段として写真を撮ってるような気がします。だから簡単に撮れるデジタルより、フィルムの方が好き」と言うのはフォトグラファーの小松由佳さん(34)。'08年に旅の途中で、内戦前のまだ平和だったシリアに入国しました。「多民族、多宗教が共存するフレンドリーな国でしたねー」と由佳さん。砂漠の美しさにも魅せられ、その後もシリア、イラク、イランなどアラブ圏の旅を続けます。 '11年にシリアの青年(後に結婚)と出会いますが、その春に内戦が勃発。平和がものすごいスピードで崩れていく様を目の当たりにしてきました。「あたりまえの日常の中にこそ、人の暮らしの本質があった。失ってみてあらためて気づきます」。 今年長男のサーメルくん(7ヶ月)を授かり、子育てをする中で、その思いは強くなりました。「人々の日常生活を切りとった一瞬の写真の中に、民族や文化を越えた普遍的な人間の姿が浮かぶ、そんな写真が理想ですね−」。 24歳でヒマラヤK2登頂を果たし、登山家としてキャリアをスタートした由佳さんが、如何に写真家への道を歩み出したのか。 今月は由佳さんの波瀾に富んだ道のりを語って頂きます。 |
地平線通信 451号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2016年11月16日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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