10月12日。東京の朝の気温は13度台まで下がった。麦丸との散歩がほんとうに快適になった。夏も早かったが、秋も早いな、と感ずるのは自分の年齢のせいもあるだろう。今月で後期高齢者2年目に入った。地平線会議を始めた時、私は38才だった。これまでの人生の半分を地平線会議という不思議な活動体と歩いてきたことになる。ほおー、と自分でも少し驚いている。一人でもやる仕事が結構あったのに。
◆振り返って、何よりも自分の足で歩き、自分の目で見たもの、つまり「現場」をいつでも大事にしたい、という思いが根底にあり、それを実践し続けている人への敬意があったからこそ、と思う。「大向こう受け」をねらう気持ちがいっさいなくなった(最初の頃は少しは期待していたかな。メディアに地平線会議のことを書いてもらったり、自分でも書いたり)ことも大きかった、と思う。
◆アメリカでは大統領選挙の展開が信じられないほど醜悪なものになっている。おいおい、どうしたのだ、アメリカ。そう私が言っても仕方がないが、子供の頃から「仰ぎ見てきた」(横浜の、清潔で広大な米軍官舎と美しく巨大な乗用車に呆然とする日々だった)巨大な国がこんなふうにプライドをなくしてゆくのか、と呆れ果てている。女性蔑視発言など共和党のトランプのあまりの下品さに党内から候補を辞退せよ、との声が噴出しているとか。だが、何よりもこのレベルの人間を一国のリーダーにしようとする人間が4割前後いることに絶望する。
◆そしてその大国に今も入り込もうとする人々が絶えないことをしばらく南米に逃亡して行方不明中だったカーニバル評論家、白根全氏が昨夜遅く、伝えてきた。《7月から3カ月ほど南半球に逃亡潜伏していた。オリンピックとはまったく無関係なブラジルの超ど田舎やら、フライフィッシング+温泉付き@ペルー・アンデス5000メートルの氷河湖やらと、相変わらず「酒とバラの日々」ならぬ「放浪と無頼の日々」である》との書き出しのメール。レイアウトをほぼ終えており、さすがに今回の通信には載せられなかったが、現場は地平線の何よりもの宝物。ここで核心部分は紹介したい。
◆《それにしても、行く先々で出会う世界の濃厚な現実に多少なりとも触れてしまうと、もはや極東島国の寝とぼけた茹でガエル状況はお笑いネタでしかないように思えてくるものだ。現場は常に躍動し、ヒトの思惑には関係ないままに暴走している。今回は太平洋岸から大西洋岸まで陸路でつなごうと、首都リマからクスコ経由でアマゾン側の街プエルト・マルドナドへ。その間、長距離バスのターミナルなど交通機関の結節ポイントでしばしば出会ったのは、なぜか家族連れの黒人グループで、そのほぼすべてがハイチ人だ。それに加えて、ブラジルとの国境界隈はヨレヨレでたどり着くキューバ難民の姿も増えている。》
◆日本のメディアでは、こういう実情はまず報道されない。記者たちが「現場」に出ること自体、意外に少ないのだ。白根は続ける。《聞けばエクアドルが入国規制緩和で入り易く、また現地の流通貨幣が米ドルそのままなので、短い滞在期間中にアルバイトで出来るだけドル紙幣をため込み、ペルー経由でとりあえずの出稼ぎ先であるブラジルを目指すルートが確立されているという。もちろん、最終目的地は米国かカナダ……》
◆後は、次号で詳しく書きなおしてもらおう。ただ、リオ五輪への醒めた反応と閉会式での「マリオ首相」の登場についての現地の反応だけは省かないでおく。《加えて、日本での大本営発表的な報道とは異なり、現地リオでのオリンピック開催とはいえ、ブラジル人選手が登場したとき以外ほぼまったく無視の状態がかなり笑かしてくれた。とりわけ、閉会式のカーニバル騒ぎで盛り上がっていたところに、某国首相が土管からコスプレで登場したとたんに超シラけた顔で席を立つ観客の多々あったことをこの場をお借りして報告しておきたい。》
◆日本では、国会でも都議会でも、4年後の東京オリンピックの施設について「仕切り直し」の緊迫した議論が続いている。「わずか15日の祭りのために」どこまでやるのか、小池都知事の見直し奮闘ぶりは正しい、と1964年の東京オリンピックを自分の仕事始めとした立場で思う。オリンピックはそれほど大したことではないです。それより今も、未来に向けて「3.11」のことが大事だ、と。
◆あれから5年7か月になる。RQという活動を自然学校の人たちと立ち上げ、地平線の多くの仲間たちが東北支援に汗をかいてくれた。私も何度も足を運んだ。多くの人が「過去のこと」と見なしはじめているその東北で、いまも南三陸の女性たちの中に入り、きめ細かな活動を続けているNPO法人、WE(ウィメンズ・アイ)の仕事を私は驚きの気持ちで見守っている。今回「南三陸においしいパン屋さんを」という彼女たちの新たな提案をこの通信で詳しくお伝えした。皆さん、できれば応援してください。あるいは、彼女たちを支援する私を横から助けてください。詳しくは8、9ページを。(江本嘉伸)
■「あなたはシリアの現実を見るべきだ」。多くのシリア人が故国から逃れた。途中で溺死する人たちも続出した。それは何が原因なのか? そう問いかけた記者に、バシャール・アサド大統領は答えた。「原因は戦争かもしれないし、テロリストへの恐怖かもしれない。だがシリア政府は人々の支持を得ている。シリア政府のせいではないことは確かだ」。9月23日の報告会の前日、AP通信は大統領へのインタビュー全文を配信した。アレッポはシリア軍に包囲されておらず、国連の救援物資輸送トラックを爆撃したのはシリア軍ではない。一国の大統領がここまで明らかな嘘をつかなければならないほど深刻な内戦とはいったい何なのか。「シリアの現実」を見てきた桜木武史さんは、きっと饒舌に説明してくれるに違いない。と思って、報告会に来たのだが……。
◆「桜木さんはこんなことをやっているのに、めちゃくちゃ「あがり症」。人前で喋るのがすごく苦手らしい」。聞き手、丸山純さんの紹介で始まった報告会は、いきなり拍子抜け。確かに目の前の報告者は、惠谷治さんや桃井和馬さんといった百戦錬磨の戦場ジャーナリストといったイメージからはほど遠い。開始10分。今年1月に出版され、山本美香記念国際ジャーナリスト賞を受賞した著書『シリア 戦場からの声』を丸山さんが絶賛しているあいだ、当の桜木さんはなかなか喋らない。
◆戦場ジャーナリストを志したきっかけは?との問いかけに15秒も考え込んでから「高校生の頃に本多勝一さんの『戦場の村』という本を読んだから」とポツリ。他の本多勝一の著書は?『カンボジア大虐殺』とか『ニューギニア高地人』とか?とたたみかける丸山さんに、「はい」と一言。当人がほとんど話さないまま、話題は最初の著書、『戦場ジャーナリストへの道 カシミールで見た「戦闘」と「報道」の真実』に。
◆桜木さんは大学を卒業後、カシミール紛争を取材対象に決め、インド北部、ジャンム・カシミール州の州都スリナガルに腰を据えた。1987年3月、州議会選挙で市民の人気が高かったはずの「イスラーム統一戦線」という政党がわずか4議席しか取れなかったのがきっかけで、不満を抱いた市民がパキスタンへ渡ってゲリラ化。1989年からインド政府と戦い続けている。これまでインド軍兵士5500人、イスラム武装勢力2万1000人、市民4万7000人が戦闘の犠牲になっているという。ここまで実は桜木さんのメモを丸山さんが読み上げる形で進行し、桜木さんは丸山さんの10分の1も喋っていない。
◆地元の新聞社を回り、手製のプレスカードを下げて、英語のわかる記者と一緒にインド軍が武装勢力と対峙する前線へ。いきなりゲリラに拷問されて死んだ市民の遺体や、反政府デモを目の当たりにした。スクリーンに映し出された写真を見ながら、少しずつ桜木さんの唇が動き出す。「これは初めての取材で、イスラム武装勢力の一員と疑われた若い男性がインド軍に逮捕されて、拷問を受けて遺体となった現場です」「大きなテロ事件があって、その翌朝住民に武装勢力が紛れていないかチェックしている様子です」。
◆まるで訪れた観光地のことを話すようだが、桜木さんの行動スタイルが面白いのは、英字紙などで情報を集めてから出撃、ではなく、いきなり現地の新聞記者と一緒に現場へ飛び込んでしまうことだ。何が起きているのかおそらく自分でもわかっていない。それがかえって生々しいリポートを描く効果を生んでいる。脈絡がなく、辻褄も合わない。でも現場で起きているのはそういうこと。私たちが新聞やテレビで接するニュースはそうした断片を継ぎ合わせて「商品」に仕立てたものなのだから。
◆2005年、泊まっていたスリナガルのホテル前で戦闘が始まった。「なんか興奮してしまって、外に出たら撃たれました」。血まみれの痛々しい写真。右顎が吹き飛ばされた。現地の病院で気管切開し、大使館がチャーターした飛行機でデリーの病院へ搬送。2週間の入院後、ようやく帰国して、顎骨の再建手術を受けた。肩甲骨を1/3削って顎に移植するという信じられない手術だ。チャーター運賃90万円、医療費が100万円。でも「治ったら、また行こうと思った」。顔に包帯、食事もままならない状態での職探しである。幸いにしてトラックドライバーの仕事があった。夜のコンビニ配送は、顔の包帯を気にしないで済んだ。以後、お金が貯まると退職して取材へ赴き、帰国しては同じ会社に再就職を繰り返し、なんと15回に及ぶという。
◆続いてスクリーンにはケシの花畑。カシミールではなく、アフガニスタンのジャララバードだ。ここから始まり、アヘンやヘロインに溺れるパキスタンの人々も取材した。が、タリバンと麻薬の話題は日本ではあまり関心を得られず、スズメの涙の原稿料で大赤字。記事を書く気力をなくし、またトラックを運転しながら、ラジオのニュースを聞いていると「アラブの春」が気になった。「中東にも一度行ってみたい」。
◆2012年3月、観光ビザでシリアのダマスカスを訪れた。もとよりジャーナリストを歓迎しない国、観光客を装ったほうが反体制派に接触しやすいという目論みはあったが、結果としてシリアを観光できる最後の時期となった。シリアには「アラブの春」が遅れて訪れた。アサド大統領の独裁に反対する人々が立ち上がったのが2011年。当初は平和的なデモを行う民衆と政府との対立だったのが、市民が武器を取って「自由シリア軍」となった。
◆2012年初めにアルカイダ系の「ヌスラ戦線」が登場する一方でアサド政権にはレバノンのヒズボラやイランが加勢。間隙を縫ってクルド人たちも立ち上がった。2013年春にはイラクからISが侵入して人質事件を起こした。自国民を殺された米国が仏などと有志国連合として参戦。一方でIS掃討を名目にしたロシアがシリア政府に肩入れするに至って、もはや米露対立の縮図となっている。
◆ドロドロになったシリアの状況は、勢力図を眺めているだけではわからない。私が思うに、天気図と同じく、反体制派の蜂起からいまに至る経緯を何枚もの地図にプロットしていって、やっと見えてくる。だが天気図と異なるのは、どんなに眺めても明日明後日の行方が見通せないことだ。
◆ようやく聞き手よりも桜木さんの言葉が多くなってきた。反体制派にまとまりがないのが問題なのでは?「バラバラってわけでもないんですけど。ロシアとアサド政権が空を支配しているので不利。反体制派の士気は高いんですが」。スクリーンの写真を見ながら進行する。最初にダマスカスを訪ねたときには、有名な市場、スーク・ハミディーエは賑わっており、まだ商品が並んでいた。カシオン山から見下ろす市内も平和だった。パルミラ遺跡には人はいなかったが、観光客として行くことができた。アサド政権の支持集会が各地で開かれる一方、モスクの中では毎週金曜日に反体制派が気勢を上げていた。政府軍が包囲するモスクの中で見たプラカードには、「スンニ派の血は一つとなって聖戦に向けて立ち上がろう」と書かれていた。
◆ダマスカスの中心部からバスで20分のドゥーマは反体制派が唯一支配している町。桜木さんは留学生を装ってここにアパートを借りた。星が3つ並ぶ旧シリア国旗が公然と掲げられていた。デモと葬式の繰り返し。デモ帰りの市民を政府軍の狙撃手が撃つ。「本当に毎日人が殺されて」。桜木さんは遺体を撮ることに抵抗感があったが、人々はこれを撮って伝えてほしいと願った。しかしシリア自由軍のライフルに対して、政府軍は戦車と装甲車を繰り出し、迫撃砲で町を廃墟にすることをいとわない。ドゥーマはすぐに陥落した。「今じゃもうたくさん亡くなっているか、村を出てしまっているか。とにかくすごかったです」。桜木さんはこのとき、シリアに2ヵ月滞在して帰国した。そのすぐ後にアレッポとダマスカスで一斉に武装蜂起が起きた。
◆2012年7月、トルコ国境のアザーズを反体制派が占拠したことで、最前線アレッポへの道が外国人ジャーナリストに開けた。世界遺産の古都アレッポはボロボロになっていた。収集が停まり、いたるところにゴミが散乱しているのが問題になっていたが、この頃はまだ住民が多く、クルマも走っていた。パン工場も稼働していたが、たびたび攻撃の標的になっていた。病院には市民だけでなく、負傷した兵士も運び込まれた。担ぎ込まれたヌスラ戦線の兵士もこっそり撮影した
◆桜木さんはだんだん戦闘に深入りして行った。2014年5月の1ヵ月間は最前線を見るだけでなく、「従軍記者」として反体制派とともに戦うことになった。そのときの映像がすごい。アレッポ市内で集合住宅に立てこもり、政府軍と対峙する。乾いた銃声が響く。「この壁の向こう側がアサド政権の支配地域です。距離にして約50メートル」。こちらからもあちらからも弾が飛んでくる。うわーっと丸山さんが思わず声を上げる。「怖いね」。
◆大声を出せば政府軍に聞こえる距離。味方も「こっちには日本人がいるぞ」と大声で無用な挑発をする。政府軍と異なり弾薬に限りがある反体制派は節約しながら、ライフルを一発ずつ撃って威嚇する。ダイナマイトも手榴弾も自家製。「地獄砲」と名付けられた迫撃弾も多用された。ときには味方の陣地に着弾したが、撃つ時も投げるときもみんな笑っている。
◆スッカ・ジャパスは2014年3月に自由シリア軍が奪還したエリアだ。電気水道は一切なく、井戸水が頼り。夜は真っ暗。戦闘に参加しながら武器には手を触れなかった桜木さんは、主に食事の運搬を担った。銃撃戦の最中、兵士が走り回り、ホコリの立つボロボロの建物の中で、平然と食事している若者がいる。戦闘と日常とが交錯している。これが市街戦なのか。桜木さんは一緒に戦う仲間たちに溶け込み、内面に入り込んで行った。
◆銃弾の飛んでくる壁の向こうに飛び出し、相手の陣地をどこまで後退させられるか。最前線は、いわばフロンティアだ。地平線会議では探検や登山など行動者にとっての「地理的フロンティアの消滅」が一時期話題になったが、私が思うに桜木さんはスッカ・ジャバスでまさしくフロンティアに接したのだと思う。荻田泰永さんの北極点到達を阻む地球温暖化は「環境フロンティア」だし、サバイバル登山家、服部文祥さんが挑むのは「文明フロンティア」だ。東日本大震災や熊本地震で傷ついた被災地への救援活動は「災害フロンティア」かもしれないし、大国ですら外交的リーダーシップを持てない世界情勢の中で「紛争フロンティア」はますます広がって行くだろう。地平線会議に関わる人たちのフィールドは、消滅するどころか、広がる一方の無限の荒野のように思えてくる。
◆「これから前線に向かいます。これから戦いに行くムジャヒディーン軍です」。桜木さんが毎晩21時に運送会社から配送に出発するのと同じように、武器を手に出撃する若者たち。英語が話せるため通訳を買って出てくれたファラズダックの姿が映像に。実はこれが彼の最後の姿。この日の夜、彼は亡くなったのだという。目の前に迫撃砲が落ちる。「それまで死ぬということはあまり考えていなかったんですけど、そこで仲間と『タケシがここで死んだらどうしたらいい?』という話になった」。この続きは受賞作『シリア戦場からの声』のハイライトでもあるので割愛する。
◆なぜこんな苦しい思いをしながら桜木さんはシリアへ行くのか? 「インドやパキスタン、アフガニスタンの取材は興味からだった。でもシリアでは初めて『こんな世界がある』と伝えたいと心の底から思った。ケタ違い。何とか伝えなきゃと思ったから、シリアにのめりこんだ」。どうしてこんなに暮らしたいほどシリアが好きなのか?「日本人の友達よりシリア人のほうが多いですからね」と桜木さんは笑わせる。「爆弾が落ちてくるのはいいが、住むところと仕事がないのがシリアの困ったところ」。そう答える桜木さんに、最初のシャイな姿の面影はまったくなかった。
◆桜木さんはダマスカスでの最初の取材でさまざまな人を頼ったが、そのひとりが小松由佳さん。彼女は2006年8月に日本人女性として初めてK2に登頂し、植村直己冒険賞を受賞した登山家でもある。2008年に初めてシリアを訪ね、写真家として難民の姿を追っていた。報告会には生後6ヵ月の長男を抱いて参加。乳児の「サーメル」という名前は、シリア人の夫の亡くなった兄の名前からだという。小松さんにも報告をお願いしているそうなので、桜木さんとは異なる角度からのシリアの話をぜひ聞いてみたいと思う。
◆米ケリーと露ラブロフの両外相が主導した9月12日の停戦合意は、ここに至ってカラ手形となってしまい、アサド政権はアレッポへ総攻撃をかけている。9月27日の英フィナンシャルタイムズは、アレッポの反体制派地域にわずかに残った市民の声を伝えている。「爆撃が止むと、人々は我先に水や食糧を求めて走り回るのです」「朝起きると、きょうも生きていると実感します」。その声は私たちに届いているだろうか?桜木さんの話を聞いてしまったことで、FT記者のリポートが深くまで刺さった。(落合大祐)
Q「顎が吹き飛ばされたと言ってたんだけど、いま顎がついているのはどうして?」
A「それは大きな手術をして、16時間ぐらいかけて肩の骨を顎に移植して、いまは骨があります」
■人前で話すことが苦手な僕にとって、丸山さんとのインタビュー形式での報告会は助かりました。また地平線会議は講演会ではなく報告会だからこれまでやってきたことをそのまま伝えればいいから。2時間なんてあっという間だよ。江本さんに言われた通り、気が付けば時計の針が9時を回っていました。
◆就職活動を一切することなく大学を卒業して、フリーのジャーナリストになりました。もちろん自称です。名刺の肩書にはジャーナリストと印字されていますが、原稿料より取材費が上回り、赤字を補填するため日本ではトラックのドライバーをしています。取材中には危険な思いを何度もしました。カシミールでは右下顎を撃たれ、重傷を負いました。パキスタンでは、ヘロイン中毒者に注射針を突き付けられました。シリアでは何度となく目の前に砲弾が着弾しました。
◆「どうしてお金にならないのに、そんな危険な場所に足を運ぶんだ?」周りの人たちは僕にそんな疑問を投げかけます。正直、僕も明確な答えを導き出せていません。ただ、カシミールでもシリアでも死と隣り合わせで暮らす人たちに僕は引き付けられました。そして彼らと時間を共有することで、その土地に愛情を抱くようになりました。
◆特にシリアでは何人もの友人を失いました。シリアでの日々を思い起こすと、今すぐにでも向かいたい衝動に駆られます。ただ現在のシリアを見れば、もう二度と足を運べないかもしれないと悲しくなります。僕は話すことより書くことを生業としています。今は、週6日、トラックのハンドルを握る日々ですが。それでも今回、地平線会議でお話しをさせていただいて、苦手でもこうして僕が取材してきたことを声にして伝える必要があると感じました。
◆地平線会議を迎える日までは胃が痛くて緊張でドキドキしていましたが、今回、報告会を終えて、お話しができて良かったなあと心から思います。本当にありがとうございました。(桜木武史)
■先日の 地平線報告会。すばらしかったです。丸山さんが桜木さんの横に座って「会」をすすめるのがとてもよかったです。人に合わせ、場に合わせ、会場の、刻々と移り行く「場の雰囲気」を瞬時瞬時に感じ取って工夫されてる丸山さん。報告会の「時間空間」が 丁寧に育まれてゆくような感じ。
◆ぼく的には「桜木さん。ご自身と間近にお目にかかれて、お話しできたこと」。ほんとうにうれしかったです。ナマに「顎」を観察確認できたこと。お話を聴いただけではわからないこと。ぼくは、彫刻を創っていて、「人」がイチバン難しいです。それでも、「人」を創りつづけてる。「人」は数百は創ったとおもいます。ほとんどがダメです。発表できるほどの作品は、まだ、生涯、数点くらいしかできてないです。人は、知れば知るほど「わからん」ことの方が増えて来るし。永遠継続のテーマかもしれないです。
◆人を創るときは、いつもまず「一緒に居る」とか「対話をくりかえす」というところから 徐々に始めます。ですから、デッサンを繰り返し、実際に塑像しだすまでは 半年以上かかったり、対話だけで 完了したり、ドローイング数十枚で完了してしまったりします。なかなか彫刻制作開始までは行けないです。「桜木さん」という「歴史上の本人の顎」を見せていただいたこと。感動感激感謝でした。下あごの半分は、義歯。顎を正面から見せていただくと傾いてる。左肩甲骨の一部を左顎に移植して「顎」を創った。
◆その後、顔つきや発音(滑舌)は変わらなかったとのこと。そこが、スゴいなっておもった。自分は「こうありたい」という強い意志が「自分」自身を形成してゆくさまをまさに間近に視ることができた。というか。そのように言う言葉表現は 失礼なのかもしれないのだけど。ぼくは、すごい勉強になりました。ほんとうにほんとうにもう大怪我しないでほしいし、まさか死なないでほしいです。
◆二次会の「北京」では握手してもらった。ついそのとき「まだ右手があるうちに」って言ってしまった。周りの友だちから「なんてことを言うんだ」って怒られました。じょうだんですって、桜木さんに言ったら笑ってくれましたけど。ぼくは、いっつも軽薄だからなあ。(緒方敏明 彫刻家)
■お久しぶりです。実は先週、ビビリが肩の骨の腫瘍が原因で昇天しました。年ではあったので仕方なかった、と言い聞かせていますが、悲しいですね。28匹になりました。ところで、植村さんの賞のお陰で母校(岩手大)と前の職場から支援金が届き、九州だったかのログハウスの会社からも応援したいと支援金が届き、こちらでも前回フィルムを撮ってくれたcbc(カナダ放送)がファンドレイジングしてくれたり、お世話になっている人に「ひどい資金繰りなのは知っているけど出て欲しい」と頼まれたり、終いにはヒュー・ネフからスポンサーとなって金を出すから出ろ、と言われ、クエストに出場することにしました。まだエントリーしてませんが。相変わらずバタバタですが、頑張ってみます。(本多有香 カナダ・ホワイトホース)
■大地震で壊滅状態になった、ネパール・ランタン谷の牧畜の民にゾモを贈ろう、というランタンプラン(代表、貞兼綾子さん)の支援活動に賛同する写真展が10、11月の2か月、富山県立山カルデラ砂防博物館に移動して開かれています。 会場準備では博物館の飯田肇さん(雪氷学が専門、立山や立山カルデラの自然を中心テーマとして博物館活動を行っていらっしゃる)を始め、スタッフの皆様に大変お世話になりました。ありがとうございます。中島敦子さん(地平線会議、ゾモ普及協会サポーター)にはゾモ子(長野亮之介画伯制作)の着付け、展示エリアの飾り付けに活躍いただきました。立山カルデラ砂防博物館エントランスホール・特別展「ネパール・ランタン谷 悲劇をのりこえて」の会場に居ます。みんな来てね!!! 初公開の写真パネルも有るよ。(兵頭渉)
【会期】10月1日(土)から11月27日(日)
9:30〜17:00(最終入館 16:30)
【場所】富山県立山カルデラ砂防博物館
ホームページhttp://www.tatecal.or.jp
〒930-1405 富山県中新川郡立山町芦峅寺ブナ坂68 TEL 076-481-1160
【公式facebook】https://www.facebook.com/tateyamacalderasabomuseum.official/
【休館日】月曜日
【観覧料】有料(小・中・高校生は無料)
★博物館は立山黒部アルペンルートの富山側の起点、ケーブルカー・立山駅そばに建ってます。
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。地平線会議は会員制ではないので会費は取っていません。皆さんの通信費とカンパが通信制作はじめ活動の原資です。どうかご理解くださるよう。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで添えてくださるとありがたいです。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。
渡辺一枝(6000円 長い間通信をお送り下さってありがとうございました。今後はどうぞ、お止め下さい。たぶん、この3年分ほど通信費納入滞っていたと思いますのでお送りします)/菅原茂(10000円 毎号通信が届くのを楽しみにしています。3年分(6000円)+カンパ(4000円)/小高みどり(10000円)/山本豊人(2000円)/秋葉純子(2000円)
■7月23日、鳥取県の境港に日本全国から9台のバイクが集まりました。1台は2人乗りのサイドカーなので、総勢10名。旅行社「道祖神」主催のバイクツアー「賀曽利隆と走る!シリーズ第18弾」、「目指せ、イスタンブール! シベリア横断&シルクロード横断50日間」に参加する面々。我々は境港からパナマ船籍のフェリー「イースタンドリーム号」でロシアのウラジオストックに渡り、シベリア横断ルート→カザフスタン縦断ルート→シルクロード横断ルートの1万5000キロを走ってトルコのイスタンブールを目指すのです。我が相棒はスズキの400ccバイクのDR−Z400S。これまでに「ユーラシア大陸横断」、「サハラ砂漠縦断」、「南米アンデス縦断」などを走っています。
◆7月27日、ウラジオストックを出発し、M60(国道60号)を北へ。雄大な風景の中を時速100キロ超で走ります。ぼくのDRが先頭を走り、その後に参加者のみなさんのバイクがつづくのですが、バックミラーに映る後続のバイクのきれいなラインには胸がジーンとしてしまいます。
◆ハバロフスクからはM58(国道58号)でアムール川河畔の町ブラゴベシチェンスクへ。2002年にもこのルートを走ったのですが、その時は100キロ以上の区間がダートで、雨に濡れたツルツルの路面にはおおいに泣かされました。それが今では2車線の舗装路。交通量が格段に増え、どの車も時速100キロ以上の高速で走っています。車はトヨタが圧倒的に多いのですが、高級車レクサスの新車も多く見かけます。シベリアの発展を象徴しているかのようなシーンです。ブラゴベシチェンスクからチタまでは2002年当時は、まだ道もなかったのですが、今では2車線のハイウエイが延びています。
◆チタからはM55(国道55号)でイルクーツクへ。モンゴルへとつづく大草原が地平線の果てまで広がっています。天も地もとてつもない大きさ。地球がまるで円板のように見えてきます。その中をバイクで突き進む解放感、自由奔放感。草原からはプーンとハーブの匂いが漂ってきます。天然の大ハーブ園といったところでしょうか。ウランウデを過ぎると、右手にはバイカル湖が見えてきます。思わず「おー、バイカルよ!」と感動の声を上げてしまいました。シベリア鉄道のガードをかいくぐってバイカル湖の湖畔でバイクを止めると、ウエアを脱ぎ捨て、バイカル湖に飛び込みました。湖水は思ったほど冷たくはなく、全身でバイカル湖を感じ、シベリアを感じ取るのでした。
◆イルクーツクからはM53(国道53号)でクラスノヤルスクを通り、西シベリアの中心都市ノボシビルスクへ。「シベリア横断」は世界の「大河紀行」でもあります。クラスノヤルスクではエニセイ川(5550キロ)、ノボシビルスクではオビ川(5568キロ)に出会いました。クラスノヤルスクにしてもノボシビルスクにしても北極海の河口からは4000キロ近く離れているのに、滔々と流れるエニセイ川やオビ川の川幅は1キロ以上もあるのです。日本の川とは比較にならない大きさ。いつの日か、これらの大河の船旅で北極海まで行ってみたいと思っているカソリなのです。
◆ノボシビルスクからカザフスタンを縦断し、最大の都市アルマトイに到着。ここでは「アルマトイ」という高層ホテルに泊まりました。夜明けとともに起きると、6階の部屋のベランダから天山山脈を眺めました。高峰群は雪山。同室のBMWR1200GSに乗る「スーさん」こと鈴木幹さんの入れてくれたコーヒーを飲みながら天山山脈の雪山を見つづけました。それはまさに至福の時。
◆天山山脈はシルクロードのシンボル。その北側を天山北路、南側を天山南路が通っています。アルマトイを通っているのは天山北路になります。カザフスタンとキルギス、中国の3国国境に聳える天山山脈のハン・テングリ山(7010m)はカザフスタンの最高峰、そのすぐ南に聳えるキルギスと中国の国境に聳えるポペーダ山(7439m)は天山山脈の最高峰になります。
◆8月19日、アルマトイを出発。シルクロード横断ルートを西へ。天山山脈の山裾を走るのですが、西に行くにつれて天山山脈の山並みは低くなり、やがて視界から消えていきました。ウズベキスタンに入ると、シルクロードの中心都市として2000年以上、栄えてきたサマルカンドへ。ここでは町の中心のレギスタン広場を歩き、チムール帝国の霊廟のグリ・アミール廟を見ました。
◆それらの世界遺産以上に心に残ったのは、旧市街の町歩きでした。迷路のような小道をひたすら歩き、多くの人たちに出会いました。サマルカンドからはシルクロードの聖地ブハラを通り、中央アジア最後の国のトルクメニスタンへ。国境を越えたところでウラジオストックからの走行距離は1万キロを突破。トルクメニスタンの首都アシガバートからイランに入りました。
◆イランに入って最初の食事は「チェローカバブー」。羊肉を串焼きにしたカバブーに長粒米の白飯が添えられています。白飯がチェロー。国境を越えるごとに食べ物が変わっていきますが、その食べ歩きは「アジア横断」の大きな楽しみです。イランではカスピ海沿岸の町々を通ってシルクロード要衝の地タブリーズに向かいましたが、この道はA1。「アジアハイウエイ」の一番の幹線です。トルコ国境までが「アジアハイウエイ」で、トルコに入ると「ヨーロッパハイウエイ」になります。
◆トルコの国境の町ドーバヤジットはクルド人の町です。トルコとイラン、イラクの3国にまたがって住むクルド人の人口は約3000万人。その半数がトルコに住んでいます。クルド人は国を持たない世界最大の民族。独立を目指すクルド人とトルコ軍の争いは絶えることがありません。町外れの軍の基地にはおびただしい数の戦車が並んでいましたが、砲身はドーバヤジットの町に向いていました。
◆ドーバヤジットからはトルコ中央部のアナトリア高原を横断し、奇岩が林立する「世界の奇景」のカッパドキアへ。その中心のギョレメの町に泊まりましたが、我々の宿は「岩窟ホテル」。イスタンブール到着の前日はシルクロード要衝の地サフランボルに泊まりました。ここにはキャラバンサライ(隊商宿)が残っているのですが、我々の宿はそのキャラバンサライでした。
◆9月6日、欧亜を分けるボスポラス海峡をフェリーで渡ってイスタンブールに到着。ウラジオストックを出発してから42日目のことでした。1万5000キロを走り切ってのイスタンブール到着です。ウラジオストックで泊まった「赤道ホテル」の前で、「目指せ、イスタンブール!」と全員で大声を張り上げて走り出したシーンが、無性になつかしく思い出されてくるのでした。(賀曽利隆)
■ご無沙汰しています。本日『季刊民族学』(注1)届きました。「山の日」については通信で読んでいるのでよくわかっていましたが、こうしてひとまとめにすると裾野が広がりますね。地平線会議の思想を「山の日」の思想と共有するのは江本さんならの発想で感心しました。
◆私は山の日が8月11日に決まったことにはまだ違和感があります。政治家の、祝日をお盆休みに繋げて経済効果を上げる、という戦略の片棒を担いだようで、政治家の手柄になるような形で制定されたことは、江本さんたち関係者の「思想」を踏みにじることになりそうです。各地にある意義ある日にして欲しかった。でもまあ政治家に頼らなければ成り立たない現実。山の日が出来ただけでいいか。という思いでいます。
◆政治家に踏みにじられないように、江本さんが奮闘してくれている姿を、この記事を読んで感じました。元気があっていいなあという感じです。
◆昨日、志摩に行ってきました。伊勢志摩サミットの公式お土産の「アーティストブック」の製作者(注2)に三重県から功労賞が送られ、そのパーティーに参加してきました。オバマさん安倍首相らが並んだ場所で記念写真をとってきました。残念ながらそのホテルには泊まれませんでしたが(値段が……)。
◆その前日は京都で奥様の仕舞いの舞台でした。10回目の舞台に立つまではやめないという執念で頑張っています。私は相変わらずビデオ係、荷物もちで付いています。でも時々はお暇をもらって、最近は倭姫命の足跡をたどる旅を続けています。三輪山を追い出された天照大神は倭姫を御杖先として宇陀、伊賀、甲賀、近江、などをめぐって伊勢にたどり着くのですが、その途中はかなりの難所です。
◆10月3日も、伊勢本街道をたどりました。奥さんと一緒だったのでレンタカーで行きましたが、それでも大変な難所で、雨の中車で一泊しなければならないかと思うぐらいに山深いところでした。賀曽利くんも368号線の峠では難儀しただろうと思います。近況はそんなところです。私の体調はまだオリンピック頃までは持ちそうです。それまでに倭姫の足跡たどり、四国遍路の後半、東海道再びなど、忙しく歩き回っています。今月は伊南川100kmの手伝い。後半は四万十の山田君のところから四国遍路出発です。(三輪主彦)
★注1:『季刊民族学』は、千里文化財団が発行している季刊誌。その「信州の山」を特集した157号に初めての「山の日」に寄せて「ジャンジャンの思想」という文章を江本が書いた。
★注2:地平線通信447号「おお!? なんだ、これは! G7首脳に贈られた秘密のお土産の話」参照。
★江本への私信だが、皆さんに読んでほしい内容なので、許可を得て通信に掲載しました。(E)
■江本さん、ウィメンズアイのパン工房建設の件、ご心配をかけています。資金も十分に集まらないまま勢いで見切り発車……わたしたちのいつものことですけれど、今回ばかりは実際に建物を建てて事業を営むという活動。正直、不安もいっぱいですが、今これをやるべきなのだ、という結論に至った経緯もどうか聞いてください。
はじまりは、みっちゃんこと栗林美智子の「どうしても美味しいパンが食べたい」という一言でした。震災後に仕事を辞め、ウィメンズアイの事務局長として宮城に転居してしばらくした頃。「あかん、どんどん南三陸が好きになる」と話すみっちゃんが、南三陸町の女性を対象に、パンづくりの講座をはじめたいと言い出したのでした。しかも、技術をあげる職人育成講座をやりたいのだと。
確かに、このあたりにはハード系のフランスパンなどを本格的につくるお店はなく、仙台や東京からのお土産にパンをとのリクエストもたびたびです。みっちゃんも、移住生活で欠乏症に陥ったもののトップが美味しいカンパーニュ(田舎風フランスパン)。
そんなみっちゃんが、南三陸町出身で天然酵母と国産小麦にこだわるパン職人さんと出会いました。また、フランスパンが焼けるような立派な業務用オーブン付きの工房が震災後の支援で町内に設置されているとの話を聞き、使わせてもらえないかと交渉も続けていました。その、あまりの熱意。熱意をかきたてたのは、町内で同じように「美味しいパンが食べたい、ないなら自分で作るしかない」と自宅でひとりパン作りをしている女性たちの声でした。
南三陸町でのパン講座は、ここで生まれ育った人、町にお嫁入りした人、Iターンした人など年齢も20代から50代までとり混ぜて、でも「猛烈なパン好き」という共通点だけをもって2015年5月に始まりました。町内の業務用オーブンは結局使えず(これは後述します)、講座は参加メンバーのうちのひとりのご自宅での開催となりました。
先生にパンを教わりながら、国産小麦の味をたしかめ、生き物である天然酵母をあつかいました。すると、参加メンバーたちのことばに、だんだんと、この土地への思いが湧き出てきたんです。「ここには何もない」と、町を去って行く人たちがある。でも、森里海が織りなす南三陸町の自然は素晴らしく、食べ物は美味しく、素材は豊か。からだにやさしく、この土地の風土を活かした美味しいパンが作れるんじゃないか。そんな美味しいパンを通して、地域の人にもっとこの土地のよさを見直してもらえるんじゃないか。
時間をやりくりし、無農薬小麦を作る手伝いをし、協力し合ってパンをつくり、イベント販売に挑戦しました。販売するためのパンを作るには、町内では使わせてもらえる場所がないため、1時間以上かけて石巻までパンを作りに出かけました。
南三陸町入谷、里山での「ひころマルシェ」に出店するためにパン講座のみんなが考えた屋号は「ここむぎ」です。午前中には売り切れ、幸先のいいスタートになりました。
するとその晩、参加メンバーの家に、ご近所のおばあさんから電話がかかって来たのです。こんなに美味しいあんぱんを食べたのは初めてだ、どうやって作ったのか教えてほしい、と。これは入谷の小豆を使っているのよと話すとおばあさんは驚いていたのだそうです。でも、お砂糖は白砂糖ではなく「てんさい糖」というものを使っているのよ。
初めての販売で、こんな反応がかえってきたことはメンバー達を勇気づけました。でも、町内の業務用オーブン付き工房は製造許可申請の関係で建設時の利用者枠組みを変えられず、新規加工場建設には多額の費用が必要となり、その費用をまかなうにはかなりの売り上げを生み出していかなくてはいけない。重ねて、女性たちにはそれぞれに仕事や家の事情があり、とても専業のパン屋さんをやれそうにはありません。
ここむぎのケース以外にも、副業でパンやお菓子を作って販売したいけれど、ハードルが高いとあきらめている女性たちは多いのです。一方、シェア工房の衛生管理責任を負うのはリスクが高く、誰もそのような損なことはやらない。
「誰もやらないのなら、シェア工房、私たちWEがやればいいじゃない」
こうして、小さく始めるチャレンジをサポートする工房「パン・菓子工房oui(ウィ)」の構想が走り出しました。理念を共有し、みんながすきま時間とスキルを持ち寄って、地域や社会に貢献できるシェア工房。いずれ、ワーカーズオーナーシップの協同組合として長く続けていきたい。そのために、信頼を核にした運営の方法を作って行く。建設資金を集めることも挑戦ですが、こちらも大きな挑戦です(生活クラブ生協のパン屋さんを参考にしています、これを教えてくれたMさんはなんと、新垣亜美ちゃんの友達! 地平線通信読者! 後でわかりました、なんという偶然)。
震災から6年経ち、「家建てたんだよー、遊びにけらい」と言われるたび嬉しくなる一方、南三陸町の人口は減り続けており、人口減少率29%と県内第2位、特に若い世代の減り方が目立ちます。町を担う人材の育成が急務だといわれますが、それ以前に、若い世代が「ここで暮らしていくこと」に希望を持てる、実現できる未来のビジョンが大事だと思うのです。WEのビジョンは、女性たちが自分らしくいきいき活躍できること。それが小さな実現でも、意味ある一歩ではないかと思っているのです。
今年は、自然農法で作った『はるよこい』が50kgできました。はやく、それを使ったパンを食べたい!(塩本美紀 WE副代表)
このたび、ウィメンズアイは南三陸町にパンと菓子の工房を建設します。この工房で地域に暮らす女性たちが自分らしい新しい働き方を見つけ、元気に活躍できる未来づくりに挑戦します。
この事業スタートの総予算は780万円です。詳細は以下のようになります。
■建設工事費 570万
■設備費 160万
■その他許可申請等の費用 30万
■雑費 20万
予算合計:780万
この内、350万円は企業からの支援金と個人寄付を頂いております。12月末の竣工までに、220万円、工房稼働予定の1月末までにさらに160万円を集めることを目標にしています。現在、あらゆる手を尽くして資金を集める努力をしていますが、まだまだ足りていません。つきましてはこのたび、工房建設の趣旨にご賛同いただける方を募り、ご寄付をお願いしております。なにとぞこのプロジェクトを支え、被災地・南三陸町から未来を作る手助けをしていただけませんでしょうか。
◆ご寄付をくださった皆様には、お礼状とともに、1月以降、プロジェクトの進展をお知らせする季節ごとの工房だよりをお送りいたします(3か月に1回)。
◆3万円以上のご寄付を下さった方は、加工場内の寄付者ネームプレートにお名前を掲載します(ご希望により)。5万円以上のご寄付を下さった方には、工房の美味しい焼き菓子商品ができた際にお送りいたします。(2月中旬以降順次発送)
ご寄付はお振込でお願いしております。
受付期間:平成28年12月1日まで(予定)
お振込みいただける場合は、 までお名前・ご連絡をご一報ください。領収書を発行いたします。
ゆうちょ銀行 金融機関コード9900
店番:818
預金種目:普通
店名:八一八店(ハチイチハチ店)
口座名:1966320
郵便振替口座:18190-19663201
口座名義:トクヒ)ウィメンズアイ
◆お問い合わせは、
で
NPO法人ウィメンズアイ事務局(担当:栗林)
■女性のまなざしを活かした、しなやかな社会をつくりたい。くらしの課題を感じとり、社会的な弱者に心を傾ける女性たちの力を地域に社会に注ぐことで未来をかえていきたい。そんな思いで「女性が自らをいかし元気に活躍できる」特に「東日本大震災の被災地で仮の暮らしが終わるとき、三陸沿岸の女性たちが自らの場所でいきいきと活躍している」をビジョンに、東日本大震災後から宮城県北部三陸沿岸で活動しています。
◆女性たちが、地域、社会につながるプラットフォームとなること、女性たちが必要な力をつける機会をつくること、そして、災害を経験した女性たちの声を内外に届けるのが私たちの役目です。RQ市民災害救援センターの災害ボラティアとして集まった女性支援チーム有志メンバーでたちあげた団体RQW(RQ被災地女性支援センター、通称RQウーマン)が前身。震災直後の6月にRQWを任意団体として設立、2013年6月に名称を変更し、特定非営利活動法人ウィメンズアイ、通称WE(ウィ 代表理事:石本めぐみ)になりました。江本さんも理事のお一人です。(WE事務局)
■今年のシルバーウィーク、まず熊本に飛んだ。7月末に一度ボランティアに訪れていたが、もう一度熊本の現場に足を運びたいと思っていたからだ。初日の17日は熊本市内で一泊し、翌日、RQ九州でコーディネート業務をしている伊藤博暁さんと東無田の現場へと向かった。僕は小雨の降る中、前回の7月と同様にコンクリートブロックに残る鉄線を取り出すためにハンマーを振るった。そして、台風で倒壊した家屋から瓦が飛ぶのを防ぐため、取り壊し中の家の屋根に上がり、一枚一枚瓦をトラックの荷台に投げ入れた。
◆台風16号の影響で20日以降、外の作業ができそうにないことが分かり、その日のうちに帰りの航空券を変更し、月曜の昼前の便で羽田に戻った。そして、一度千葉の家に帰り、マンションの近くで購入したスコップと長靴を持って新幹線に乗り、岩手に向った。岩手に向ったのは、ある出会いがきっかけだった。
◆9月6日に映画『地球交響曲(ガイアシンフォニー)』の龍村仁監督を囲んでの懇親会があり、その場で僕は岩手県から来ていた女性と同じテーブルになった。懇親会が終わった後もしばらくその女性と監督の奥さんのゆかりさんと3人で話をしていたのだが、自然と話題は岩手県での台風10号の被害のことになった。高齢者が多い岩泉町は、なかなか台風による水害からの復旧が進んでおらず、まだまだボランティアを必要としているという。だから、台風16号で熊本での作業ができないと知ったとき、気持ちは直ぐに岩泉に飛んでいった。
◆岩泉町は予想よりもはるかに肌寒い。その日僕が担当した家は既に家主が避難し、いずれ取り壊されることに決まっているいうことだった。そして、その家は既に床板を外されていた。僕達は手に手にスコップを持ち、床の柱に残っている泥をこそげ落とした。残っている家の壁は下の方から既にカビ始めている。カビと泥の臭いはマスクをしていても、マスクを通して入ってきた。
◆今回のような泥出しのボランティアの経験は初めてで、既に取り壊しが決まっている中、この行為に果たして意味があるのだろうかと思った。床下はもともと土だったのだろう。掘っても掘っても泥はなくならない。家は既に取り壊しが決まっているし、周りの家にカビなどの臭いがいかないようにということだったが、その影響は限定的だろう。ある程度泥を出したのなら、それ以上の作業は無駄ではないかと、正直、不満を持ちながら午前の活動を終えた。
◆午後になり、今度は手に持つ道具をブラシに変え、柱に付く泥を丁寧に落とす作業をした。その作業をしたのは、たまたまだ。既にスコップで落とせる泥は落とし終わっているし、床下の泥はスコップでさらったとしても、きりがない。そんな気持ちの中、手に取ったのが、緑色のブラシだった。僕はブラシで一本一本柱に付く泥を落としていった。柱の上側、側面、そして、裏側と順番に綺麗にしていった。そんな行為をしているうちに、ふと、自分の中のある想いに気が付いた。「これってもしかして納棺師みたいなものかもしれない」
◆被災し、泥を浴び、既に取り壊しが決まった家。住民は避難していて、もう誰も住んではいない。ただ取り壊されるのを待つ家。それはもう亡くなってしまった生きものに近い存在なのかもしれない。消えていく前に、壊されてしまう前に、もう一度綺麗な姿でいさせてあげたい。そういう気持ちが柱にこびり付いた泥をブラシで落としている間に自分の中に自然と芽生えてきた。
◆それから僕は無心で柱の泥を落とし続けた。やがて15時半になり、近くの川で道具を洗い、その日の作業を終えた。その日の作業では柱だけでなく、玄関や縁側に残っていた泥も綺麗に掻き出すことができた。家を離れる時、その家が少し嬉しそうに微笑んでいるような気がした。
◆翌日は前日の反省を活かし、僕は一番男手が必要な家を選んだ。初日はどういう基準で行く場所を選択していいか分からず、最後に残った家に行ったからだ。もちろん、作業開始前にその作業のクライテリア(どこまで泥を掻き出せばいいかの判断基準)をリーダーに確認もした。前日はそれを確認せず、曖昧なまま作業を進めたので、自分の中で不満が生じた部分もあるからだ。
◆そして、その日、気を付けたのは、「声掛け」だ。ネコを運ぶとき、周りに聞こえるように、「これ、交換しますね」とか「もらっていきます」と声を掛けるようにした。「声掛け」は自分の今している作業を周りに伝えることで、結果として、仕事の安全化に繋がるからだ。狭い室内で作業しているから、頭を上げたら、そこにネコの持ち手があることもある。その日、ひとりの女性が作業中に誤って頭をぶつけて少し外で休んでいるのを目にした。
◆そんなことを意識しながらのその日の作業は、かなり進んだ。なにより驚いたのが、掻き出した泥の量だ。ネコで何十回運んだというのは比喩ではない。相当な量の泥が床下にまだ残っていた。たぶん、あの家の泥出しの作業は翌日以降もまだ続くのだろう。それでも初日よりも晴れやかな気持ちでその日の作業を終えることができた。
◆岩手は11月中旬から雪が降る。それまでには何とか片付けを終えたいとのことで、10月に入ってからも週末を中心として、盛岡駅から無料のボランティア送迎バスが出るという。全国各地から岩手にボランティアに来る人も増えたそうだ。それでも、まだまだ人手が必要な家は多い。時間がある人は是非岩手に足を運んでほしいと思う。(光菅修)
■11月5日(土)、11月12日(土)にそれぞれ別の場所、別の人たちとトークライブをします。11月5日は早稲田奉仕園リバティホール(東京メトロ東西線早稲田駅より徒歩5分)で17時からノンフィクション作家(『謎の独立国家ソマリランド』で第35回講談社ノンフィクション賞受賞)の高野秀行さんと、11月12日はイリヤプラスカフェ@カスタム倉庫(東京メトロ銀座線田原町駅より徒歩3分)で14時半(開場14時)からナイロビ最大のスラムで孤児の寺子屋運営をしている早川千晶さん、コンゴ川を2度丸木舟で下り、その顛末をまとめた『たまたまザイール、またコンゴ』で第1回斉藤茂太賞特別賞を受賞した田中真知さん、7年かけて自転車で世界一周した松葉京一さん、南米のアタカマ砂漠マラソンに挑戦するらんぼうさん、ケニアの伝統太鼓叩きの大西匡哉さん、東ティモールで壁画制作をしてきた山田拓也さんと一緒に旅の話をします。わたしはこの春に参加したオセアニアの航海についての話をする予定です。できる限り写真や映像を見てもらえるようにしたいと思っています。5日は定員80名、参加料1,500円、12日は参加料3,000円(アルコール、もしくはノンアルコール2杯分含む)です。地平線のみなさんのご来場、お待ちしています。(光菅修)
たまたまアジアの各地に住む機会を得た方なら同感していただけると思いますが、脱亜とか言いますが、私たちも他でもないアジアの一員だというようなことを気づかされることが時にあります。「ひとさらい」などはそんな話のひとつではないかと思います。
こどものとき、「蒙古が来るよ!」と脅され寝つかされたとよく人から聞きます。私はむしろ、夕方暗くなるまで外で遊んでいると「人さらいが来るよ!」と言われました。中国侵略に続き太平洋戦争が始まった頃、世田谷北沢の幼稚園で「ひとさらい」の話は普通に話されていました。
のちに福島県いわきに戦時疎開しましたが、そこでの小学校時代にも人さらいの話を聞きました。さらう人が「大学乞食」という具体名をもって言われることもありました。
戦後豊かになるにつれて「ひとさらい」の話は聞かなくなったように思います。ところがその後、誘拐事件がおこるようになり、少年時代に覚えたこの忌まわしい理不尽な感覚がそれとともに思い出されました。でもそれは営利目的で、金を払えば無事生還できるという仕掛けつきで、現状に戻れるという一縷の希望がありました。ところが、現実は多くの場合いたいけな子供の死が待っているという非情なものでした。
最初の海外赴任はホンコンでした。ホンコンには二つの顔があると言われ、安全なイメージの「国際観光都市、東洋の真珠ホンコン」と、怖いイメージの「暗黒都市ホンコン」というものでした。現在とことなり、1960年代末から70年代初めのホンコンは東西冷戦下、そして中露対立(中ソ対立と言われた)があり、しかも中国国内では文化大革命が発動され、激動の時代でした。対日感情が悪く、よく総領事館にデモが来たり、一度、爆発物のように見せた小箱が届けられ、ホンコン当局の爆破処理班が出動してきたこともありました。
もちろん仕事はきわめて緊迫したものでしたが、他方で、当時ホンコンには中国人のもつ伝統社会がしっかり生きており、広東人の文化が咲き誇っていましたので、そのような社会、伝統を観察して、勉強することができ、またとない経験も積みました。
そのなかで今でも強烈な印象のある事件が発生しました。現地で働いている日本人のご夫人が、海峡渡海船である「スターフェリ−」の乗船口で、一瞬目を離した間に、手品のように子供をさらわれた事件でした。探しに探しても見つからず、痛ましくも夫人はしまいに毎日スターフェリーの乗船口にぼーっと立っているようになったとのことでした。このほかにも映画館でさらわれたというような話も聞きました。どうもそのような誘拐、子供の人身売買は結構現在の中国でもあるらしく、上海で日本人の子供が犠牲になった例も聞きました。
社会保障のない当時のホンコンで子供がさらわれるのは、人々が老人になっても食べて行ける方策の一つで、路上の新聞売り、物売りに育てあげ日銭を稼ぐことが目的なのだそうです。
そのような背景で興味深いことをもう一つホンコンで経験しました。当時各ビルには白タクが運転手ともどもたむろしていました。私どもは隣のビルの白タクを利用させてもらっていましたが、ある日、白タクの運転手の一人から三歳の愚息を養子に欲しいと申しこまれました。私たちはびっくりして、帰国時には連れ帰るのでとただちに断りました。
しかし、それは私の理解不足でした。養子になっても日本につれて帰ってもいいというもので、それには中国社会独特の仕組みがありました。有望そうな子供に目をつけその養育費の一部をごくわずかでも現在の財力に応じて月々支払い、将来子供が成人してからその収入の一定の割合を送金して貰うというものでした。このような養子を増やしていけば、老後心配せずとも済むようになるそうです。考えてみると、幼時誘拐とこの養育資金投資制度には共通する問題がありそうです。さらに自分で産んで育てず、誘拐するわけを聞くと、すでにあるていど育っているので、養育費の節約につながると説明を受けました。
のちにマレーシアのペナンに勤務していたとき、シンガポール発行の中国系紙に驚くべき記事を発見しました。誘拐した子供を「重量」で取引しているのは、子供を肉としてしか見ていないからで、せめて子供を一人一人の単位で見てほしいというものでした。子供の人権を言っているわけです。背景にかなり広範なこども人身売買があったのでしょう。
子供の誘拐、人身売買は社会保障がない時代の東アジアの重要な取引で普通闇マーケットで行われているようですが、日本ではかなりオープンだったのかも知れません。夏目漱石の『我が輩は猫である』に「苦沙弥君、君も覚えているかも知れんが僕らの五六歳の時までは女の子を唐茄子の様に籠へ入れて天秤棒で担いで売ってあるいたもんだ、ねえ君」とあります。もちろん人身売買は奴隷船を引き出すまでもなく欧米にも普遍的にあったようです。北朝鮮による拉致事件も、この文脈で一度検討してみる価値がありそうに思われます。(花田麿公)
■桜木武史に初めて会ったのは、今年の5月か6月、神保町の新聞記者や編集者がたむろする酒場でのことだった。旧知のノンフィクション作家が連れてきたから、ちらりと見た時、どこかの若い編集者だと思った。チェックのシャツによれたチノパン。オドオドしていて、飲み屋にも慣れていないのは明らかだった。20代後半か暗がりのせいもあって僕はそう判断したが、もちろん、すべて見当外れだった。「面白い男を紹介するわ」と言って彼を紹介してくれた作家の口からは、意外なプロフィールが飛び出した。
◆「彼、桜木君。こんど山本美香賞とった戦場ジャーナリスト。シリアに何回も入っていて、凄い本書いている。文章も抜群にいい」作家は山本美香財団の理事でもあり、桜木の著作『シリア 戦場からの声』を見せてくれた。桜木は恐縮しっぱなしの様子でカウンターに座っている。戦場ジャーナリストと聞いて、幾人かの顔を浮かべて、その誰とも違う彼の風体に、いささか拍子抜けしたが、まず読むべきはその本であった。手に取ってぱらぱらとめくって、すぐに、あることに気が付いた。(この本、ずいぶんとカギ括弧が多いな)
◆戦場に限らず、辺境を描いた本は、しばしば独り語りか情景描写、さもなくば事情説明がうねうねと続くものである。人のいない地域なら、ある程度致し方ないことなのだが、この本は明らかに違った。それどころか、端々に目につく“タケシ”の文字。(この男、戦場で話しかけられている!)そう思って、あらためて桜木の顔を覗き込んだら、彼は「エヘヘ」と笑って、「たいした本じゃないですから……」と言った。僕もつられて「いやいや」と笑い返してみたものの、改めて1ページ目から読み始めると、2ページ目で人が死んでいた。本人とも相当に近い間柄で、しかも戦場のど真ん中。笑い話じゃないだろう。
◆さらにページを繰ると、シリアに向かうまでの回想が始まった。コンビニ配送の兄ちゃんが、シリアに行くという展開。目先の生活と戦場が容易に結びつくハズなどないのだが、桜木は高邁な理由などは一切並べず、〈赤坂の駅から徒歩10分、シリア大使館の前で私は深く息を吸い込んだ。行くか。〉と書くと、さっさと飛び立ってしまった。どういうわけか、この〈行くか〉の文字が目に焼き付いてしまい、まんまとこの本と桜木に捕まってしまった。
◆桜木が確かな筆で描く「戦場」には人の息遣いがあった。寝て、起きて、飯を食い、家族を持って、そして仕事に出かけるようにして笑顔で前線に赴く。そして銃をとり、殺し殺される。生身の人間が市街戦を展開しているのだから、当たり前のことなのだろう。地平線の報告会で桜木が披露した前線の映像にもまた、弾を掻い潜りながらも笑い飯を食う普段着姿の兵士たちがいて、何人かは桜木に「どうやってそんな所に入れたの?」「なぜ、そんな写真が取れるの?」と聞いた。すると桜木は一瞬逡巡するような表情を見せながら、独特の半疑問の口調でこう答えた「うーん、友だち?」
◆地図と数字でしか語られない今どきの「戦争報道」には、まず出てこない言葉である。攻撃が無人爆撃機ならば、報道の多くもまた俯瞰図である。出てくるのは地名と指導者の名ばかりで、そこには兵士や住民はいない。ましてや友だちなんて。戦争の語り人がいよいよ絶えてきた日本で、もはやリアルな戦争を感じることは難しい。だからこそ、この本であり桜木武史というジャーナリストは重要だ。「戦争って人がやっていることなんだよ」。そんな、当たり前のことを、桜木武史はニコニコしながら、僕らに突き付けてくる。(竹中宏)
【先月号の発送請負人】
■地平線通信449号(2016年9月号)は、9月14日印刷、封入作業を済ませ、15日郵便局から発送しました。18ページと厚めの通信だったので、いつもは通信を仕上げた安堵でぼんやり座り込んで役立たずの江本も、結構役立ちました。時間もいつもよりかかり、作業を終えた時には21時近くになっていました。
作業に汗かいてくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。編集が完了していない段階で印刷に取り掛かってくれた車谷君に今回も助けられました。
車谷建太 伊藤里香 森井祐介 前田庄司 江本嘉伸 武田力 福田晴子 松澤亮
いつもの「北京」で、定食やラーメンを取ってみんなでシェアしつつ、今度台湾に行こうか、などと話が弾みました。
■「土の人と風の人は水と油か?」21世紀早々の高知県内では、 NPOボランティア活動関係者の間で、このテーマでの話し合いが、たびたび持たれていた。違和感を覚えた。土の人(地元の人、地縁社会の人)と風の人(NPOの人、情報社会の人)が対立して、協働できない問題が起きている、とのこと。土の人が頑迷なのか、風の人が高飛車なのか? 話を聞くとどっちもどっちだった。
土の人は土地のことには詳しいが、新しいモノやよそ者への警戒心がある。風の人は知識人や学者、新しい情報と技術を知っているが、往々に上から目線。お互い謙虚に相手を立てられればうまくいくが、そう簡単にいかないのが世の常らしい。
地(土)、風、水、火(油)、これに空が加われば、古代インドの宇宙を構成する五大元素になる。宮本武蔵の「五輪書」とレヴィ・ストロースの「野生の思考(パンセ ソバージュ)」(注1)にならって、「野生の五輪書」序論を……。
かつてアフリカで砂漠化を止める植林NGOに参加した時、いい風の人になろうとした。風の人は情報(新技術、金銭)を運んでくる。風には土地を潤す涼風もあれば、土地を荒らす暴風もある。土の人と風の人をつなぐ水の人が要る、と考えるようになった。土の人は地元の暮らしの名人。水の人は、土の人と共に泥水につかり、汗水流し土地の実情をよくわかることから始める。水の人は、土の人と風の人とをつなぐ役をするが、労多くして報われないことも多い。果実は土の人が、賞賛は風の人が得る。これを影で喜べるのが水の人。
オシム元サッカー日本代表監督も、水を運ぶ人がいないとサッカーには勝てないと言った。土の人と泥臭くゴールをを守り、風の人が華麗なゴールを決める手助けをし、控えめにそれを喜べる水の人。水の人が機能すれば、土の人と風の人も、うまくいく。
火の人。地(土)水風の人ときたら、世には火の人もいる。文字通り人の心に火をつける人。日本に岡本太郎、長嶋茂雄、アントニオ猪木、世界にゴッホ、チェ・ゲバラ、ボブ・マーレーが思い浮かぶ。これら火の人に火をつけられ、人生観を決め燃える人になった例は、枚挙にいとまなし。空の人。人々を救う宗教や思想を生み出す人。このニセモノは、とてもアブナイ。地水火風までの人に、いい人もよくない人もいるが、それほど大問題ではない。地水火風から自然の力をおさめ、空の境地まで行ける人は、何百年か千年に一人出るかどうか。
「悟りを開いた」「神の声を聞いた」は、証明しようがない。その一歩手前で間違うと、あやしい信者や信奉者をあつめて、暴力機関となること多し。要注意。「大切なモノと危険なモノはよく似ている」。土の人のホンモノとそうでない人の見分け方。しっかりしたワザとチエを身につけた土の人は出しゃばらない。聞かれもしないことをしゃべらない。多弁の土の人はエサ取り(注2)になりやすし。
風の人のホンモノとそうでない人の見分け方。向いている先が権威、地位、名声、金銭で、土、水の人を見てない人は危ない。口ではなんとでも言えるのでエサ取りになる風の人あり、要注意。水の人。よき水の人は見分けやすい。土の人に敬意を忘れず、一緒に泥にもつれ汗水流すことをいとわない。風の人に媚びない。これは心身ともに体力がいる。燃え尽き症候群に注意。
火の人。これは、いいもわるいもないトリックスター。清濁正邪美醜を越えている。火をつけられても、つけた人は責任を一切感じていないので、自己責任。よき土(地)の人はその土地に根ざして経験の蓄積からワザとチエを身につけている。よき水の人はつぶれ役をいとわない。火の人と風の人は天才型だが涼風にも暴風にもなる。空の人のニセモノはくれぐれも要注意。権威、権力、名声、金銭、利権が絡むと地水火風空の人は簡単に良くない地水火風空の人になる。第2の四万十ブームの時代、多数この例がみられた。
高知のNPO界で「土の人と風の人は水と油か?」と話題になっていた時、オシムさんの「水を運ぶ人」をヒントに、お互い歩み寄ればと話したことを、今書いている。ユーゴが分裂する前のサッカー代表監督だったオシムがイタリアW杯で各民族のスター選手ばかりを使えとの政治家・マスコミからの圧力をかけられた。オシムはわざとそのようにして負け、次の試合で勝った時に、「サッカーには汚れ役を厭わない水を運ぶ選手がいないと勝てない」と言ったと記憶する。
その言葉を38年続く地平線会議。ときにオシムの言葉を思い出す。
(注1)「野生の思考」レヴィ・ストロース=宗教はアヘンみたいなモノといったマルクスに西洋中心主義をみて、西洋生まれのイデオロギーもアヘンみたいなモノと喝破。西洋が未開としてきた人たちのチエとワザの再評価を最新科学で説明。日本の江戸のワザと縄文のチエを過剰評価。
(注2)エサ取り。釣り用語、エサを食い散らし、ハリにはかからない狙い魚以外の雑魚、小魚。タイを狙ってつけたエサのエビを取っていく魚の例、フグ、ベラ、ハギなど。2000年代を挟んで、循環型流域圏、持続可能な森林モデルで四万十が注目された「第二次四万十ブーム」の時、公金(交付金、助成金、補助金)が四万十に流れた。それをエサ取りのように取って行った「風の人」「土の人』たちがいた。その人たちのことを四万十の仲間内ではエサ取りと名付けて、隠語としています。(山田高司 四万十住人 東農大探検部OB)
■ふえー。予定した原稿が来なかったり、締め切り過ぎて深夜予告なしに原稿が飛び込んだり、今回もスリリングな展開でありました。地平線通信は、ひとつひとつ考えさせられる文章で成り立っているので、仕上がった時は、ぐったりしてしまうほど編集作業は消耗戦でもあります。
◆先月の通信、フロントの題字について「アラビア語は数字だけは左から書くのでは?」と指摘を受けました。毎月、ありとあらゆる知恵を絞って独創的な「地平線通信」を表現している長野亮之介画伯、シリアがテーマだった先月はアラビア語に挑戦した。確かに「944号」と読める。右から綴るのは正しいが、数字は別なのでは,との指摘だ。独創的であることが大事なのだが、明らかな誤りは本人の勉強にもなるので、ありがたいです、どしどし指摘してください、と長野画伯から。なお、今月のは「黒部別山の尾根図がモチーフ」とのことです。
◆先月のこの欄でふれた上智大学の「ロシア語上級」、無事スタートした。今回の受講者は結局7人。私以外は全員モスクワかサンクトペテルブルクに2、3年勤務したか留学経験を持つベテランで、モンゴルの草原でアカデミーの学者たちと鍛えた私は相当の規格外れ。図々しい、と思う。ヒヤリングも難しいがテキストが意外に難解で明日(毎週木曜日夕、90分の授業がある)用に渡されたテキストはなんと「核廃棄物の埋設」。ひゃー、こんなの日本語でも言えないよ。ともかく毎週一度独特の緊張が続く秋の人生です。(江本嘉伸)
好きやからしゃあないな
「最初に刺激を受けた山が面白すぎて、好きになっちゃったから、もうしょうがないんやね」と言うのは登山家の和田城志(せいし)さん(67)。大阪市大山岳部の山行で黒部剱沢大滝に出会い、その厳しく美しい秘境に一目惚れしました。 以来、冬の剱、黒部を駆け巡ります。「より高く、より困難、より遠くへ」という志は必然的にヒマラヤへと誘い、'78のランタン・リルン初登頂をはじめ、カンチェンジュンガ、ナンガパルバットなど数々の難峰、難壁に足跡を残してきました。第一線を退いた今は野宿旅、自転車旅、トレッキング、ヨット旅などに軸足を移し、国内外を精力的に旅しています。 今月は“怪物登山家”ともいわれた和田さんがこよなく愛するアルピニズムの魅力と、2014年に行った、ヒマラヤ全山を5ヶ月でトラバースした旅のお話など、山狂い、旅狂いの人生模様を語って頂きます。 当日は大阪から自転車でいらっしゃる予定!! お楽しみに! |
地平線通信 450号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2016年10月12日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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