2016年8月の地平線通信

8月の地平線通信・448号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

8月10日。きのう東京では38℃という酷暑となった。今日も34℃はある。しかし、深夜になると風が吹いて、秋の気配も。麦丸が信州上田の母親の実家に行っているのできのうもひとり深夜ジョギングをした。4、50分だけだが、少し生き物の感覚を取り戻せる。そういう感覚を持ち続けることが私には必要なのだ。

◆連日のオリンピック報道。できるだけクールに付き合うつもりが、いつの間にか深夜であろうと早朝であろうと、優先してウォッチしている自分に呆れる。きのうなんか体操男子団体が失敗続きで「予選4位」と知って、こりゃダメだ、と完全に自分の視野から断ち切ったのに、一夜明けてみたら、なんと一面トップに「体操日本 復活 男子団体金!」の大見出しが。ふぇー、どうしたらいいんだ、

◆水泳もすごい。荻野、瀬戸の「金、銅コンビ」で始まり、きのうは、200メートルバタフライの坂井聖人(まさと)があの怪人、フェルプスにわずか0.04秒差の銀メダル、男子800メートル・リレーも54年ぶり銅メダルだと。昨夜はとうにピークを過ぎた、と思っていた卓球のあの福原愛が向かうところ敵なし、の強さでびっくりした。要するに、こういう「何が起こるかわからない事態」がただ好きで私は“最強のミーハー”と化すのだ、と思う。

◆先週末、久々に南三陸町に行った。わずか2日だったが、考えること多い旅だった。南極の越冬体験から気象庁を辞めて南三陸町に移り住んだあのひーさんの秘密基地を深夜訪れたこと、佐藤徳郎区長の山仕事の現場を見せてもらったことが印象深い。詳しくは、屋久島から駆けつけた新垣亜美さんのレポート(12ページ)にまかせ、ここでは、あの大川小学校のその後を。

◆児童74人と先生10人が50分も校庭で待たされたあげく北上川を遡行してきた津波にのまれた現場はことし3月、震災遺構として正式に保存されることが決まった。遺族や住民は保存と解体で意見が分かれていたが、石巻市は津波被害の教訓を伝承することの大切さを重く見たのであろう。校舎全体を保存した上で、周辺を公園にして犠牲者への追悼や祈りの場とする考えだ、という。

◆その大川小の校庭には、いまは慰霊碑が建っている。津波の犠牲になった全員の名前が刻まれ、この日も車でいくつものグループの人たちがお参りに来ていた。中には外国人もいる。「お参りの方へ 供え物(飲食)はお参り後に必ずお持ち帰りください。ご遺族の心情をご理解いただきご協力ください」との立て看が立っている。私は今回学校の裏山への登路を確認し、これなら、簡単に登れる、と確信した。大川小の出来事は、どうやって生きるか、明日11日に迎える「山の日」の象徴的出来事と、いまも私は捉えている。

◆その11日、はじめての祝日「山の日」とあって、日本のあちこちで記念の行事が計画されている。まず、全国山の日協議会が企画している記念式典が、皇太子をお招きしてあの上高地でひらかれる計画だ。山登りが大好きな皇太子殿下は、さすがに上高地まで穂高や槍の登山をかねて行くわけにもいかず、どうやらヘリを使っての入山となるだろう。

◆セレモニーに参加する予定だった政治家は“主軸”の顔ぶれに異変が起きた。全国「山の日」制定協議会の会長、谷垣禎一氏は自転車事故(頸髄(けいずい)損傷という、かなり深刻な状態らしい)で自民党幹事長職をおり、「山の日」どころではなくなった。日本山岳ガイド協会の会長である谷垣さんは、温厚な人柄もあって自民党だけでなく各党の国会議員が「山の日」成立のために動いた。

◆「山の日」運動を積極的に支えてきた丸川珠代環境大臣はいつの間にかリオに飛んでいた。オリンピックの開会式に出るためだ。8月2日の内閣改造で突如オリンピック担当大臣に指名されてしまったのだ。そして、皇太子ご自身も実は「山の日」どころではない、深刻、かつ喫緊に対応しなければならない状況にいる。8月8日15時、天皇がビデオメッセージで「生前退位」の意向を全国民に向けて話されたのだ。

◆「私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。」これは、皇太子に天皇になれ、と言っていることだ。

◆ともあれ、「山の日」は私にとって因縁の深い出来事だ。先月の地平線報告会「ヤマって、なんスか?」は、その意味で計画させてもらい、地平線らしい、素晴らしい内容だった、と思う。この通信でその全容をお届けする。そして、明日11日。私自身は早朝から「山の日」の講演のため広島に飛びます。(江本嘉伸


先月の報告会から

ヤマってなんスか?

長野亮之介 服部文祥 多胡光純 丸山純(進行)

2016年7月22日 新宿区スポーツセンター

■『山の日』を前にして山を考える。山の日の制定に関わってきた江本さんがかねてから構想していた企画に、地平線ヤマ系の見事な三つ巴の顔ぶれが集結した。タイトルがとても秀逸。「ヤマってなんスか?」。この度放たれたこの一見さり気なくシンプルな問いかけは、皆それぞれに自分のいる地点から川を遡り、時代を遡り、やがてはこの国の深遠なる山々へとこだますることとなる。

「山」を語るために強制出動させられた4人の登場人物

◆今回司会進行を務めるのは丸山純さん。急にバトンがまわってきて「あまり山を知らない」と困惑気味だったが、パキスタンでのトータル2年半の山暮らしを指摘されてしまい渋々承諾しての登壇。冒頭に「今回三人には近況なども含め、山について自由に語ってもらいます。どうなるかはお楽しみ!」と宣言し、江本さんの選出したお三方の丸山さんによる紹介から幕が開く。各人の特徴を今のうちに理解しておこう。

◆一番手はサバイバル登山家の服部文祥さん。11年前より狩猟の道へも踏み出し、今年には著書「ツンドラ・サバイバル」が第五回梅棹忠夫山と探検文学賞を受賞。2004年に発刊された国際山岳年公式報告書『我ら皆、山の民』には、当時の服部さんによる「山登りが日本を救う」と題した寄稿文が掲載されている。「科学の指針である地球開拓としての登山は役割を終えている。だが登山はまだ大きな役割を持っている。地球のサイクルを離れた文明人にもう一度身体感覚を取り戻させ、地球規模の視点を与える役割である。」と綴られた一文の紹介に、すかさず本人から「そう思ってたんすけど、救いませんでしたね〜」のカウンターパンチ。会場に一波乱ありそうな予感が漲る。狩猟からの気づきの観点を加え、服部さんの口から何が語られるのか。

◆二番手は、13年間にわたり国内外230ヶ所を飛び続けて来た“究極の上から目線”エアフォトグラファーの多胡光純さん。一昨年から京都の地元で農業を始め、平地ではない“山里”の住民の視点をも手に入れた。「人々の暮らしの空間を空から撮りたい」。常に目線を深め続ける、ある意味で鳥人間に一番近いと思われる多胡さんの眼には、山はどのように映っているのだろう。

◆三番手、地平線通信のイラストレーターとしてもお馴染みの長野亮之介さんは北大農学部林学科の出身。これまであまり話されて来なかったが、実は森林ボランティア活動を18年間やってきた木こりのベテラン。遊び心と本気が同居する山の守り人長野さんは、さぞや大きな懐でこの山の国を見つめているに違いない。

服部家は、ブレーメンの音楽隊状態

■「最近何してるの?」先ずは近況報告から。「2日前まで山にいました」と服部さん。新潟でとある専門学校の学生達と一緒にサバイバル登山の体験講義。「本気でやる奴はこういうところに来ない。とっくに自分でどんどんやって凄い奴になるか死ぬかどっちか。」とバッサリ。山岳ガイドを育てる名目だったが、こんなんで大丈夫?とちょっとガッカリ。その数日前は、昔の陸地測量部のルートを取材しに北岳バットレスへ。現代的に今ならどう登るか?の検証。一人だった為、ロープを付けずに敢行したが、本来は確保が必要なクライミングの現場。落ちたら死ぬから「ちょっと怖かった」と振り返る。

◆日々の暮らしのなかで撮影された写真群には、ブレーメンの音楽隊状態で動物達が次々に登場。獲ったイノシシや釣ったイワナ、飼い始めたニワトリやハチ、そこに寄ってくるネズミやヘビやハクビシン(→食べてしまった!)、ネズミ対策にはやっぱりネコ。一際注目を集めたのは、最近家族の一員となったばかりの野良の子犬。「絶対やるようになると思うよ」との友人の一言に、札幌まで日帰りで引き取りに行って来たのだとか。やる犬はタヌキも自分で獲るという。

◆「こいつがいい猟犬になるかわからないが、いつか一緒に犬を連れて長くサバイバル登山をしたい」と夢を語った。さらに服部さんは「これまでは現代文明を知ってしまった我々にはツンドラに暮らすミーシャ(「ツンドラ・サバイバル」に登場するチュクチ族の狩人。言葉がまったく通じないのに、服部さんと絶妙なコミュニケーションができた)のような世界を感じる事は出来ず、アルパインのような尖ったことをやることで見える世界が限界だと諦めていたけれど、狩猟をやってそうじゃないという感覚を得た。横浜で暮らしていても山梨の猟場とは意識で繋がっていて、鶏とか菜園とか全てが地続きに見えてくる。地道に出来ることを一個一個重ねていくことで、ミーシャの見ている世界が見えるんじゃないかって最近思ってます」と語気を強めた。

森フェス、沖縄でヤギ小屋作り、大工修行ー北大農学部林学科が専攻だった長野画伯

■長野さんは6月、長野県菅平高原で行われた「森フェス」を紹介。今年で6年目、長野さんが副実行委員長を務める。きっかけは2010年にコスタリカに行ったメンバーで、スキーロッジが無料で借りられることになり、何か報告しようということになった。森林率の多い長野県であっても、今時の人は山を知らない人が意外と多い。「少しでも突破口を開けられれば」との想いから、フェスのような楽し気な雰囲気のなかで、森のことを真面目に話しつつ、来場者に一つでも良いからうっかり知ってもらおうと毎回企画を考えている。

◆その後仕事絡みで沖縄へ。毎回外間夫妻の暮らす浜比嘉島に立ち寄り、ヤギ小屋を作ったりしている。家畜のある暮らし。凄く可愛がっていても、あっさり屠殺場に持っていく。食べることと世話をすることが普通に同居している世界。島なので、魚介類や畑が日常のなかにあり、少なくともスーパーで切った肉を買うのとは全然違う。食べることと行動範囲が伴うという意味では、服部さんの話と近いところがあるのではと話す。

◆長い間林業に携わってきた長野さんは、最近は建築への興味が湧き、信州の大工のもとに通っている。昭和30年と比べて林業従事者は50万から5万人、自給率は90から20%を切る現状があり、だからこそ素人が手を出せる状況になっていると解説。切ってから出すのが大変な間伐材の殆どは森に置きっ放しになる。そもそも、住宅に使うために植えている筈だ。「木をどう使うか?」自分で木を伐り、製材し、家を作る。その工程を手伝っているという。

田植えの失敗から学ぶ「引き継ぎ」の大事さ 空から360度繋がる自分の世界

■最近丸山さんとの二人三脚で初めての著書『空と大地 世界と日本に描いた16のフライトライン』を完成させた多胡さんは「空は立て続けに物が見えてくるために、原稿に句読点をなかなか入れられなかった」と原稿書きの苦労を振り返る。週末は百姓。先月3度目の田植えを終えたところ。友人達の手も借りて手植えをしているが、去年丸一日かかった作業時間が、今年は3時間で終わった。本来後ろ向きに苗を植えてゆくべきところを、前回は前向きに進みながら植えていた、という。ヒモの打ち方一つでも要領の良し悪しがガラッと変わる。要は、習えば何てことないことを引き継いでいない為に生じる段取りの遠回り。「引き継ぎ」こそが重要なキーワードと話す。

◆「自分はどういう場所に暮らしているか」。古民家とのご縁で引っ越しをした多胡さんが捉えた、地元(京都府木津川市加茂町)の山々の映像が映し出された。山のピークまで一気に駆け上がり、遠くまで流れるように繋がる360度の自分のいる世界。「句読点が無いって気持ちわかってもらえますか?」川を渡り竹林を抜けると茶畑が……。「この先どうなんだ?」とずーっと行ってしまう。家も入ってくる。昔だったら映像作家として外したかった人工物が今ではむしろ欠かせない。

◆農機具のあるあの小屋があるから作業が出来るという発想。棚田の急斜面であればある程その価値がある。最近は撮った映像を地元の人々と一緒に観る。なぜなら撮った映像は“その土地の宝”だから。多胡さんの抱いている山とは、登って制覇するのではなく、気づかせてくれる存在。その多くは便利過ぎて教えられていない(引き継いでいない)。撮ってだしの映像を皆で観ていると、その都度皆さんがいろんな話を聞かせてくれ、山に向ける目線が自然と深まってゆくと語る。

「本物に飛び込みたい」3人の生い立ちに共通するハングリー精神

◆三者三様それぞれのフィールドワーク。何がそれを分けるのか。「元々どうして3人はこうなっていったの?」丸山さんの素朴な質問から暴露ばなしのような展開に……。「虫やザリガニを採ってたのは要素としてあったと思う」。横浜育ちの服部さんは中高はハンドボール部。「本物の現場」が足りないとは何となく思っていた。例えば友達の親が離婚して、家から出て行っちゃったとか聞くと「なんかコイツ格好いいな」、その友達が自分の知らない世界、深い世界を知っているみたいに感じていた。普通のおだやかな家庭だったのでそういう修羅場を知らなかった。

◆高校の時出会ったのが本多勝一の本。そういう引け目からタフな世界への憧れを抱き始める。本物の現場は登山にあるのでは? 「ヘタクソでも根性とやる気さえあれば」と、虫取り好き体質に体力も加わり、相乗効果で山登りにのめり込んでいった。自分にしか出来ないこと、いましか出来ないことをやらなければ意味が無いとの想いから、次第に岩登りや冬山へと移行していったという。

◆旧保谷市に育った長野さんは、子どもの頃から犬を飼っていて、ムツゴロウさんの生き方に憧れていた。夏冬は長野県の両親の田舎にも行っていたがこじ付け原体験程度の思い出。「俺もボンボンだったので……」と高校時代はテニス部だったことを告白。「なんか足りねーな」と感じていた当時は高度経済成長期。公害などの環境問題もあり、「こんな生活してていいのか?」とにかく東京を出たい気持ちが強く、大学選びは北大か琉球大か信州大と決めていた。北大の獣医学部が人気過ぎて、山仲間より「林学なら山に行ける」と聞きつけて林学科へ。最初の夏に40kg背負って大雪山を縦走。以後、山に入って遊びまくる日々を過ごす。

◆「全然山と関係ないです」。世田谷生まれ、埼玉育ちの多胡さんにとって、小学校の時父親といった富士山はつらい思い出。中高は水泳とバレーボールを経て、獨協大の探検部へ。バイクのガソリンからストーブを点けてお湯を沸かす当時のカップヌードルのCMに「カッケー!これ俺もやりてー!」と憧れた純情なエピソードも。植村直己さんの本が好きで、悶々としながらも「燃やすような人生を送りたい」と思っていた。賀曽利隆さんや風間深志さんのトークショーにも足を運び、バイクへの憧れからラリーに出たいと自転車で北海道へ。山の特訓とは無縁の比較的自由な探検部時代だった。

◆山を意識するようになったのは撮るようになってから。初めはその空間を前に視点が欲しくて必死に意味づけを探していたが「そうじゃない。自分は育てられているんだ」と意識が変わった。それから「山とは何だろうか?」と周囲の空間から見ていくようになっていった。そこに人が現れてきて、「どういう暮らしをしているんだろう?」と、自分なりの理解度が深まってゆくプロセスを説明。次第にどの山の面を顔としてアングルを決めるか。皆さんがどっちを向いて暮らしているか、暮らす人の心の拠り所なども意識するようになったのだそう。同じ時代を生きる三人の「本物に飛び込みたい」というハングリー精神はどこか共通している。

ヤマ・里・裏山・奥山

◆むかしむかし、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に……。私達日本人は古来より山と密接に関わってきた。ヤマという言葉が指し示すものってなんだろう? 「多分ヤマってのは結構幅広い言葉な気がする」と長野さん。登っている時は地形がヤマと思っていたが、林業を知ると平地でもヤマ仕事と呼ばれる。日本みたいに国土の3/4が森林の場所では、地形のヤマから平地のヤマまで何を示しているかで山は違ってくるという。

◆「集落があって、その周りに田んぼや畑がある。川や道もある」これが「里」。「里の縁の部分のヤマ。インフラ前、山はエネルギーを採る場所。日常的に出入りするヤマ」これが「裏山」。里と裏山が合わさって、人の住む「里山」となる。おじいさんは裏山へ薪や山菜を採りに行き、おばあさんの洗濯していた川はひとつの交通路でもあった。そしてその奥にある「普段は人は入らない。ケモノの領域の世界のヤマ」が「奥山」と呼ばれている。もともとは全て森だった。深い森には怖い場所だから畏敬の念がある。先人は開拓してしまったことに対して、土地の神様に許しを乞うような意味で地鎮祭を行い、神社には奥山の名残りとして鎮守の森が祀られている。「全体が里山であり奥山でありヤマなんです。日本は全体がヤマの国」長野さんによる素晴らしい里山学の講義に聴衆は頷いた。

◆服部さんは「昔の記録によれば、今では秘境と呼ばれる黒部や北岳のような奥山でさえ、山小屋が幾つもあり、生活の延長だった」と話す。畏敬の念を抱くと同時に、今よりもずっと肝の据わった山師系の人々(ある種のスペシャリスト)が昔はたくさんいた。インフラや電気が来ることで我々のイメージを逆に縮めてしまっているとも指摘する。

◆多胡さんの眼には、山は“水の道”のように映るという。生駒山の典型的な里山の構成がよくわかる貴重な映像。上から見ると、山から降りてゆく沢筋は貯水池に一旦貯められる。その周辺の山のふもとには神社やお寺ある。昔から水は大事に守られてきた。更にそこから下へ下へと田んぼを抜けて落ちてゆき、住宅地には新しい暮らしがある。「水を辿れば人の暮らしがある」と言い切る多胡さんの解説と映像には、ドローンではおよそ捉えきれないであろう迫力があった。

山登りは日本を救うか? 救っていない……

◆「山とは何?」という本題のテーマに服部さんが切り込んでゆく。「若い頃は自分の肉体をぶつける場所だったが、今はそうではない。野性的な大きなエリアがなくなっちゃったので、山に行かないとたくさんの魚や山菜が無かったり、サバイバル登山のようなものが成り立たないため、仕方なく山に行っている。もしも日本に原始の世界がデカくあれば、地平線でも丘でも、山に限らずとも自分の旅が楽しめるかもしれない。

◆自分は山特有の地理的な障害などの面白い部分も全部含めて山に行き、その先で狩猟を始めて勉強をさせてもらった。前述の「山登りが日本を救うかもしれない」。それは現代文明に毒されてしまった脳みそを少しはクリアにするスパイスを与えてくれるかもと思っていたんですが、今はどっちかと言うと「登山の方が文明に負けちゃった」というイメージ。2002年国際山岳で梅棹さんが述べたように「子どもを山へやってください」という想いがあると思うが、重要なのは、ちゃんと山登りをしたら何割かは死ぬんです。本来ならば人はそこまで覚悟を持たなくてはならないが、それがない。

◆山での学びの裏には生きるか死ぬかの体験をした場合というものが付くはず。日本の登山者の殆どが、自分達が自分達の楽しむべきフィールドを自分で壊していることに何も感じていない。林道、登山道、山小屋、食べ物を持ち込む……。これらの事が当たり前になっている。全てが悪いことではなくいろいろあって良いけど、自分達が何をやってて、それがどういうレベルかを意識しないと俺は駄目なんじゃないかと思う。山で学べるかはそこにかかっている。

◆要するにそうやって人間が自由にお金を使って気持ち良く買えば良いじゃん的風潮が山登りにまで来ちゃってる。山そのものがそっちに侵食されちゃって「山登りが日本を救う」っていうのは負けたイメージ。山登りも文明に飲まれている。人類史的な意味を取り除いても、登山には人を惹きつけるものがあるのでは? 山登りが純粋になることで登山の意味がより明確になるかと思っていたけど、そうはなってないような気がする」。服部さんの鋭い洞察に会場は静まり返る。

狩猟者はドライ。自分もいつかは死ぬことを意識している

◆「山が生活の延長とは切り離されて、登山は挑戦することに意味があるというスポーツ的な位置づけになっているのかも」と長野さん。すると服部さんは「狩猟者はドライ」と語る。「大きい獲物を自分で殺すので、自分もいつか死ぬ側になることを誰もが意識している。狩猟を始めて実感するのは、若い時は自分、自分と、“俺は他の人間とは違う”と思っていた自意識が、いつしか“俺って他の動物と違う”という「俺は服部文祥の前に人間なんだな」という意識に変わったこと。

◆人間なんだから人間っぽく生きた方が面白いはず。ならば人間のように生きるにはどうすれば良いか?そんな関わりのなかで「獲物を撃つ」「山に登る」「ニワトリを飼う」をやっていくのが今は一番面白い。『山の日』はその先にあるかも知れない」。狩猟を始めるにあたって、登山の基本的な技術と体力は自分的にとても重要だったことも付け加えた。狩猟仲間と対等にやれてこれたのは、それまでの「俺は山を登ってきた」という肉体的な自信も手伝って、先を怖がらずに思い切って突っ込むことが出来たから。逆に今でもトレーニングを怠ると、怖くて山に行けなくなっちゃうのだそう。

◆長野さんが「山の上まで木があり動物が住んでる日本という山岳国だからこそ、山登りと狩猟(生き物)との対比も出来る。多分ヨーロッパなどの岩雪だけの山とは違うはず。」と発言すると、服部さんは「日本人として育ってきて、ヨーロッパに行ってもゲストなんです。それだと多分ヨーロッパでずっとやってきた奴より深いところにいくのは難しい。自分が深いところにいくには結局、土着の生活を積み重ねてゆくしかないんじゃないかな。でもたまにミーシャみたいな人に会うと凄い刺激を受ける。「生きていて良かった」ということしか考えないです。やっぱり思うのは、自分が必死で狩猟をやってきたからミーシャとわかり合うことが出来たということ。結局、土着の生活を続けていって、時々飛行機乗って(ガソリン、エンジンをガンガン使って)行かせてもらう。それが現代的な山登りなんですかね(笑)」と締めくくった。

山仕事の現場に、長年にわたって育まれた山と人との友情のような感慨を覚えた

◆長野さんが写真と共に一連の山仕事の作業風景を解説。主な現場は植林された人工林や二次林。作業道を作り、間引きの伐採から切り出し、そして製材まで、ロープやチェーンソーなど新旧織り交ぜた様々な道具を駆使して作業は進行する。山全体をイメージしながら、あらゆる知識や技術が集約されてきた山仕事の現場に、長年にわたって育まれた山と人との友情のような感慨を覚えた。

◆人工林であるが故に台風や鹿の被害を空から目にしてきた多胡さんは「人が山に手を入れる必要性」について質問した。服部さんは「どの時間軸で考えるか、誰の価値観で考えるかで違う。ほっとけば治る。ただそれは我々の知らない凄い長いスパンなのかも。」と応える。多胡さんは吉野で出会った棟梁が江戸時代からの1000年単位の視点を持っていることに驚いたという。長野さんは「戦後ははげ山ばかりになった。日本の森って原生林は2割以下しかない。殆どが人工林か二次林。歴史のなかでどこかで手を入れている。時間軸の問題、何が正しいでは無く、今生きる我々が何を使っているか、そういうことじゃないか」と総括した。

◆最後に一言。服部さん「いつも自分のやりたいこと、目の前のことをただやってきただけなんで。今は来た犬に期待しています。奴がやってくれるかはわからないけど、何か、自分がイメージしてない世界をもしかしたら見せてくれるのかも知れない」。長野さん「林業の世界では50代後半でもひよっこ。関われる範囲で関わり、そこから派生して建築など大工仕事もいろいろ楽しんでいきたい」。多胡さん「これからも空から記録していく。「みんなで見よう」。知らなければアクション出来ない。たくさんの情報が入ってくる世の中は便利ですけど、やっぱり生で見て、一次ソースの下で判断していかないといけない。それで何か思ったことがあったらやり取りしていきたい」。

とてつもなく大きくて大切な世界が目の前に広がっているような……。3人の語り部と進行役がすばらしかった報告会だった

◆野性味溢れる三人が、山を駆け巡った2時間半の放談会。遭難せずに無事に帰って来れたのは、丸山さんの冷静かつ的確な進行が素晴らしかったからに他ならない。終わってみれば、何かとてつもなく大きくて大切な世界が目の前に広がっているような感覚に包まれていた。同時にあるのは、私達が引き継がれるべき多くの大事なものを忘れる程に遠くまで来てしまっているという感覚。

◆いつもの地平線と違うなと思ったのは、山を前に語る時、皆一様にして自我が消えてゆくような語り部になっていたこと。どこかとても謙虚で山を尊ぶ姿勢がそこにあって、まるで山の神様が人間に語らせているみたいな不思議な時間だった。おそらく僕にそう感じさせた理由は、三人の持つ意識の純度の高さではないかと思う。いたって普通の少年時代を過ごし、きっかけの扉は小さくとも本能で嗅ぎ取った方角を信じて自ら学び教えを乞い、遠回りをしようとも一歩一歩歩み続ければ、どんな時代であれ本物の世界に辿り着けるのかもしれない。山の神様、古より受け継がれてきた山の民の魂はこの時代にも確かに息づいていましたよ! あと江本さん、「ウミってなんスか」を是非ともお願いです。(車谷建太 津軽三味線弾き)


報告者のひとこと

生活にとって山の日はすくなくともマイナスではない

■大気がかなり不安定なため、出発を遅らせたので、書いている。太平洋高気圧の勢力が強ければ、今頃、黒部でイワナを釣っていた。

◆2002年に国際山岳年というのがあった。その年の5月に青山のウィメンズ・プラザで記念イベントが開催され、その会合が私にとって、初めて多くの人の前で登山報告をした場だった。いっしょに登壇したのが、山野井泰史さんと石川直樹君だったから、私は人数合わせの引き立て役だったのだろう。それでも、自分が話す側になり得るんだというのはちょっと驚きだったので、よく覚えている。

◆私を呼んだのは江本さんで、当時は日高全山に行く前、サバイバル登山を始めてまだ3シーズンしかたっていなかった。思い切ったというか、参加者にとってはかなり「?」な人選だったと思う。「山の日」は、その国際山岳年から作ろうという動きが具体化したらしい。私も知らずにほんの少し関わっていたというわけだ。

◆14年前は不意打ちだったが、今年は山の日のイベントに呼ばれても断れるよう、ずっと前からちゃんと登山の予定を入れておいた。ところが、地平線は7月下旬だった。また江本さんに呼ばれて、のこのことやってきて、人前で話した。私の登山にとっては山の日なんてどうでもいい。だが、やっぱり山に魅力を感じる人が増えれば、岳人や私の本を買う人が増えるかもしれない。生活にとって山の日はすくなくともマイナスではない。登山者が増えれば、面白い登山をする若者が増えて、人生の彩りも増す。

◆というわけで大気は不安定なままですが、明日一番の北陸新幹線に乗ります。(服部文祥 8月2日)

われわれは、大切な知恵を引き継いでいないのでは?

■撮るためには視点が必要だ。だから山を撮るならば山を知る。それが僕にとっての山との関わりである。その知り方として、山を歩き見て聞き、そしてそれらを確認するために飛ぶ。そして気づきを得る。山の斜面に連なる棚田の一つ一つは、山の頂からにじみでる湧き水でつながっている。拳ほどの太さの一本の水路でだ。この手の話しを聞くと俄然、山に向ける姿勢が変わってくる。そしてその湧き水の頂点を乗り越えた先にはどんな世界が広がっているのか。その世界を包み込む空間はどうなっているのか。それを知るのが空の旅だ。

◆山で知ることは生きる術や生活の知恵であることが多い。得てして、それらは機械化を享受する今の暮らしとは真逆の方向にある。そして、それらの知恵は戦前までは当たり前に引き継がれてきた習慣であることに気づかされる。高度経済成長を経た後に生まれた我々は、豊かさを享受する暮らしのまっただ中に育ち、それはそれで良き面も多分にあるが、大切なそれらの知恵を引き継いでいない。

◆きっとそれは、人間力という言葉に置き換えられるのものではないか。人間力の低下を意識し、それと対峙する男が服部文祥なのでは。経済発展に傾倒する流れから、そうでなく人間らしく生きる流れが脈々と浸透しつつある昨今。その力を目覚ましてくれる空間が自然であり山であると信じている。手前味噌ではあるが、我が家で耕す一反半ほどの田んぼも小さくはあるが知恵と人間力と笑いの泉である。(天空の旅人 多胡光純

自然すら「消費」の対象になってしまった……

■奥山でケモノと対等に向き合う瞬間を求めて彷徨う服部君と、奥山・里山を俯瞰してその連綿たる連なりに感動しまくる多胡君。二人の行動には自然に対する《畏れ》があると思いました。かつては開拓した森の一部を鎮守の森として身近に残し敬った日本人。しかしいつのまにか自然すら消費の対象と考えるようになってしまった気がします。

◆登山を初め、自然に接するレジャーも、自然を消費するばかりではかつてのマス・ツーリズムのように不毛でしょう。私が関わっている林業の分野もそんな空気に犯されているのかもしれません。家をはじめ、船、樽、炭、ホダ木などあらゆる生活資材としての木をを供給する、社会から感謝される仕事だったはずですが、今やそこに求められるのは均質性と経済性ばかり。割れたり、捻れたり、腐ったりする〈個性〉は欠点とされます。

◆考え方さえ変えれば、その個性こそが別の価値を生むかもしれないのに。都合の悪いものを避けて排除するだけではなく、自分が理解できない存在をまずは認めて畏れ敬う意識が、今こそ必要なのだと思います。先日のクロストークの中に、そんな思いが滲み出ていたら良いのですが。山の日が、そういう事を考える日になればいいのですが。(長野亮之介

地平線会議的「山の日」報告会の舞台裏

■新たに施行される「山の日」に向けて、地平線報告会でも「山」について考えてみたいという話を江本さんから聞いたのは、去年の夏のことだ。2002年の国際山岳年がらみの活動を通じて自身が山の日の制定を提唱しながら、その後のなりゆきや現状に対して江本さんがずっと「地平線会議としてひとこと言いたい気持ち」でいることは、よくわかっていた。では、誰に出てもらうか。エア・フォトグラファーとして空から日本の山を見てきたし、最近になって山里で農業を始めた多胡光純君にまず白羽の矢が立ったのは当然だ。そして、長野亮之介画伯。林学科の出身で林業や里山の取材を続けてきたし、最近では山仕事や森遊びにも多くの時間を割いている。さらにサバイバル登山家の服部文祥君は、国際山岳年のとき以来、江本さんが「山」を語るときに常に彼の方法論や行動を念頭に置いて発言してきたというから、外せない。

◆私は、子どものころから登山にあこがれながらも洞窟探検に行ってしまい、その後はパキスタンの少数民族の村に通うだけになってしまったので、「山の日」には興味がなかった。だから、多胡に了解をもらった、長野に司会をやらせることにした、文祥も都合がついたなどと聞いても、はあはあと聞き流していたのだが、7月になっていきなり、お前が司会をやれと言われて仰天した。長野画伯からの提案だという。くそ、逃げやがったなと電話で文句を言ったところ、「丸山さんなら登山のことも少しはわかるし、なんといってもパキスタンじゃ、長く山里暮らしをしてきたでしょ」と指摘されて、なるほどと納得させられてしまった。

◆しかし、よく考えてみるとこの3人、接点がありそうでいて、ない。話がかみ合うのだろうかと不安だったが、順番に自分の話をするだけのリレートークになってしまっては、つまらない。最初から並んで座って3人で勝手に盛り上がってもらおうと、独断で決めてしまった。パネルディスカッションではなく、単なるトークショーととらえれば、話がどこに飛ぼうが、オチがきちんとつかなかろうが、ぜんぜんかまわない。これだけの役者たちの、三者三様の語り口を聞けるだけでも意味がある。事前に3人とメールで連絡をとり、近況や現在の考えを軽く聞いただけで、本番に臨んだ。

◆当日はまず、国際山岳年日本委員会が発行した冊子『我ら皆、山の民』(2004)を紹介した。やや堅めの論考が並ぶこの本のなかで真っ先に目に飛び込んでくるのが、ヒラリー卿のインタビューと梅棹忠夫さんの講演、そして文祥君が書いた「山登りが日本を救う」である。その一節を読み上げたところ、書いた本人からすかさず否定的な見解が出てきたので、司会としてはおおいにあわてた。なんとか最後にここに立ち戻ってくれば、話をまとめられるかもと期待していたからだ。このあたり、車谷君の書いた「報告会レポート」に、やりとりがいきいきと載っている。

◆続いて、江本さんが『季刊民族学157号』(2016年7月25日発行)に書いた「ジャンジャンの思想──『山の日』に考える」という原稿を、校正刷りのPDFを上映しながら紹介した。梅棹さんが初代館長を務めた、国立民族学博物館が刊行する季刊誌だ。ここで江本さんは、国際山岳年から山の日制定までの流れをまとめ、梅棹さんが講演で話した「子どもたちを山へやってください。…日本の科学を支えているのは山ですから…」という一節に触れる。そして、梅棹さんの原点である京都一中の登山スタイル、北山の道なき道を行く「ジャンジャン」について熱く語ったあと、地平線会議の紹介(自慢)から梅棹忠夫探検文学賞、その第5回の受賞者である服部文祥紹介と駆け抜け、最後は裏山に逃げずに津波にのまれた大川小学校の例を引きながら、梅棹さんの「子どもたちを山へ……」に落とし込む。

◆もしこれがシンポジウムだったら、基調講演として本人にしっかり語ってもらうところだが、江本さんがしゃべりだしたら、30分ではとうてい収まらないはずだ。3人に声をかけたのは江本さん自身なのだからと、司会者権限でここは我慢してもらうことにした。私のお役目はここまで。あとは、3人に自由に語ってもらうだけだ。報告会の内容については車谷君じつにうまくまとめてくれているが、幾つか個人的な感想を述べておこう。

◆まず痛感したのは、三つの視点が重なることで、こちらの理解も立体的になるということだ。下から沢筋を攻めていく文祥君、「上から目線」で水系を追いかける多胡君、そして里山学の知見を生かして時間軸の話にまとめる長野画伯。それぞれのいきいきとした体験の現場から放たれた言葉が、さまざまな方向から「獲物」を突き刺していくような印象をもった。多胡君の撮った俯瞰映像に他の2人が突っ込むシーンにも、それを感じた。3人に来てもらえて、本当によかった。

◆さらに個人的な感想として、なぜ登山に進む人と、そうでない人がいるのか、やっとわかった。少年時代の文祥君は横浜の丘陵地帯を駆け回り、長野画伯は奥武蔵や秩父でオリエンテーリングに熱中したという。その後、文祥君は本多勝一さんの著作に触れてより困難な人跡未踏の領域を求めていく(私も洞窟へと転じた)が、画伯はムツゴロウさんの世界へと惹かれていった。青春時代に本多さんにかぶれるかどうかで、人生が決定的になるのだ!

◆つたない司会を支えてくれたお三方と、盛り上げてくれた会場のみなさまに心から感謝したい。(元洞窟屋・元牧童の丸山純


日常の山――7月の報告会を聞いて、山好き編集者のひとこと

■「山の日」に乗っかれとばかりに、山業界はあれこれと“特別な”登山イベントを打っているが、地平線のテーマはそうではなかった。登る山ではなく、“日常の”暮らす山。三人のトークを聞いていると、少し前に話題になった本を思い出した。『里山資本主義』という本だ。ここでの詳しい紹介は控えるけど、つまるところ「里山」と称揚しながら、そこで生まれる“資産”を「都市」で売るための話で、過疎の村だって上手くすればビジネスが成り立つのだと主張する。

◆もちろん僕らはお金が動いてナンボの資本主義の世界に生きているのだから、これはこれで認めざるを得ないことなのだが、読んでいるとだんだん尻がむず痒くなってくる。「山」も「里山」も、もはやお金に換算しないと、その価値を見出せなくなってるのかということは、そこにあるのは、すなわち都会におもねる今の「山」の姿だ。「山」ってどうして、こんな風になってしまったのだろうかと考える。

◆かつて故郷に錦を飾ると言って、山を飛び出した若者は、そのまま都会に住みついて2世、3世。都会は人で膨れ上がる一方で、山村はあちこちで消滅している。人だけではない。木も水も土も石も、都会を作るためにせっせと材料を供給し続けて、こちらも荒れ放題になってしまった。それこそ齧られてカリカリになってしまった親の脛。それでも僕らは、水にしろ空気にしろ、食い物にしろ、この脛にいまだしゃぶりつかなければ生きていけない。

◆とはいえ、僕らの咀嚼能力もずいぶん落ちてしまったもので、山が差し出してくれるものを、都会風にこってり味付けしないと食えなくなってしまったし、ついには素材の価値すら見いだせなくなってきている。これは登山シーンにおいても変わらないと思う。

◆果たして、「山の日」を迎えるにあたって行われた報告会。ヒリヒリした登攀記録を聞くのもたまらないが、こうして手を伸ばせば届いてしまう山もまた山であり、実はそちらの方がより切実だったりもする。普段、思いもしなかったこと、例えば人が人として自然の中で生きることのややこしさとか、いろんなことを考えさせられた。ただ、多胡さんの映像が山も里も街も、すべて境なくひと続きの大地であることを改めて教えてくれて、何となくそれが全ての答えのような気がした。(竹中宏 雑誌編集者)


本多有香特別展のお知らせ

6月、植村直己冒険賞を受賞した本多有香さんの足跡を写真と言葉で追う特別展が豊岡市の植村直己冒険館で開かれます。

犬と、走る 〜マッシャーになった本多有香の物語〜

◆期間:2016年(平成28年)8月20日(土)〜11月29日(火)
◆開館時間:午前9時から午後5時(入場は4時30分まで)
◆休館日:毎週水曜日(水曜日が休日の場合は翌日)
◆入場料:個人 大人500円、高校生200円、小・中学生150円


地平線ポスト・夏だより

炎暑の熊本でコンクリートブロックを砕く

■7月末、会社の夏休みを利用して熊本県益城町東無田の被災地を訪れた。今回お世話になったRQ九州の事務局がある美里町から軽トラックの荷台にネコ(土木作業用の一輪車)、テミ(取っ手のない大きなチリトリ)、そして、コンクリートブロックを砕くためのハンマーなどを乗せ、朝一で東無田に向う。東無田が近付くにつれ、屋根にブルーシートを張った家だけでなく、潰れた家とそのそばに設営されているテントが目につくようになる。テントに住人が住んでいるのかは分からない。潰れた家は潰れたままで何も手を付けられていないようにも見える。

◆その日のボランティアの人数は重機や瓦礫の運搬を手伝ってくれた人も含めて9名。震災が発生してから3ヶ月半という日数を考えれば、少ないように感じる。午前中の作業はまず割れた瓦の撤去。潰れた納屋の脇に山積みになった瓦をひとつひとつ手で集め、テミに入れ、順番にトラックのそばにいるひとに渡していく。梅雨明けの熊本は暑く滝のように汗が流れる。瓦は結局トラック一台分になった。事務局の人に話を聞くと、町の集積所が震災ゴミを受け付けるのは8月いっぱいまでだという。その時期を過ぎてしまうと、こうした瓦礫を出したくても、それ自体が難しくなる。ある意味で時間との勝負だ。

◆瓦の撤去が終わった後、今度は近くの道路脇でブロック塀とそれの基礎となる石柱を重機でトラックの荷台に積みこんでいるところに移動する。ブロックひとつひとつが重いことはもちろんだが、中に鉄線が入っているものがあり、集積所に持っていく前にそれを取り除かなくてはならない。炎天下の中、鉄線を取り除くためにハンマーを振るってコンクリートブロックを砕き続けた。簡単に砕けるブロックもあれば、何度ハンマーを振るっても砕けないものもある。

◆筋肉が悲鳴を上げる度にその手を休め、そして、喉を潤すために麦茶を飲む。それをその日の作業が終わる16時まで繰り返した。今回ボランティアに伺ったお宅では、一度目の大きな余震の後、阿蘇に避難し、本震の被害を免れたということだった。本震の後、家に戻ってみれば全てが倒壊していて、もしそのとき家の中にいたならば、下敷きになっていた可能性が高かったという。

◆結局その日瓦礫の撤去のお手伝いができたのは、2軒。2軒目の家のブロックはまだまだ残っていた。もちろん、周りを見渡せば、まだ手を付けられていない、もしくは手を付けられない家がたくさんあった。RQ九州の活動はひとまず9月末までという。自分ができることは、それほど大きくない。それでも、9月にもう一度熊本に訪れようと思っている。(光菅修

「内向きの感情」と「寛容な理性」の衝突

■「神奈川県のうちと同じ施設で元職員が19人の入所者を刺殺する事件が起きた。緊急職員会とか朝から対応に追われたよ。言いようのない重い空気で言葉がでなかった。山田君が言っていた『内向きの感情』の攻撃化のひとつだろうか」

◆7月25日から地元の重度障害者施設の夏休み期間の障害児の体験のお世話をする仕事をはじめた矢先、所長の言葉だった。施設の名前は「はた希望の家」、野外遊び仲間の山本医師が5月からここの所長になっていて、その縁で手伝っている。入所者への暴力行為が全国でも近くでも起きており、くれぐれも広い心で接してください、のような挨拶があったばかり。19人もの重度障害者を犠牲にした津久井やまゆり園の事件はここの職員たちにも動揺を走らせたようだ。

◆犯人はヒットラーの影響を口にしているらしい。他者への羨望が嫉妬、憎悪にかわり、異物や弱者までも暴力で排除してもよい『内向きな感情』の思想が社会の行き詰まりで暴走した。その反省から第2次大戦後は国連やEUをつくり他者を認め合う『寛容な理性』が『内向きな感情』を抑えようとしてきた70年だった。仕事始めの日に山本先生と、こんな話をした。

◆「文明の衝突、テロやそれに対応して難民への締め出し行為、国内でもヘイトスピーチなど他者の排除や弱者への暴力などの『内向きの感情』が激化しているみたいですね」。「寛容な理性」よりも「やわらかい心」のふんばりどころ。と思うけれど、2001年の「9.11」以降の感情の攻撃化の前では心もとない、としかいえないのがもどかしい。

追記1、山本先生はウルトラじーじこと原健次さんが四万十ドラゴンランで指を骨折した折、診察してくれたお医者さんです。

追記2、ただいまこの地で山水河原者(サンズイカワラモノ)修行中。以前は師はお年寄りでしたが、後生おそるべしで若い人でも学者にして狩猟採取名人がいまして、こうべを低くして習っています。つい先日もオオウナギ調査の折にウナギやアユが大漁でした。場所は秘密です。ここ高知県南西部は東京から交通距離で最も遠いところです。いわゆる秘境で自然と野生の文化はいっぱい残っています。(山田高司 四万十川住人)

新しいアトリエと取り組んでいることしの夏

■残暑お見舞い申し上げます。飛騨の夏はあっという間。なんとなく焦って、毎年、あれもこれもと手を出してしまう。でも、今年の夏は、一つのことに取り組んでいる。染織のアトリエを2010年に諸事情で閉じた後、モノづくりは実家の居間と台所で行なってきた。集中して作業するときも、途中まで制作しては、全部片づけて、という繰り返し。ついつい取り掛かるのが億劫になってしまっていた。

◆昨秋開催したグループ展の後、ちゃんとした制作スペースが欲しくなり、ようやく、小さな家を友人とシェアすることに決めた。寺の多い町の一角に建つなんでもない民家。すぐそばを細い川が流れている。杉木で床板を張り、舐めても大丈夫という上質のオイルを塗って、アトリエらしくなってきた。

◆カーテンはベージュ、年代物の畳の上にはイグサの敷物。染めの作業のために、瞬間湯沸かし器を取り付けて、ガス台も置いた。お勤めしながらの作業はなかなか進まない。ギシギシ音がする穴の開いた台所の床は、近いうちに板を張り詰めて、堅固にする予定。和柄の古布やデニムを使って裂織をしたいなぁと思っていたところ、最近開店した民芸店から裂織コースターの注文が入って、驚き!夏の間のアトリエ再開を目指している。(飛騨高山在住 アトリエ月の舟 中畑朋子

楢葉町キャンプ場で5年4か月ぶり、仲間と焚き火を囲んで

■先月の7月1日、東日本大震災以降閉鎖されていた地元楢葉町内の「天神岬キャンプ場」が再オープンしました。早速、再開を盛り上げよう、と町役場の有志10人程でキャンプしてきました。このキャンプ場は太平洋が一望出来る高台に位置し、近くには温泉施設も併設されており、震災前は多くの家族連れで賑わっていた所なのです。当日は軽トラ1台分の薪を準備し、夜通し焚火を眺めつつ様々な事を語り合いました。

◆震災から5年4か月、一時は警戒区域となり、町全域への立入りが出来なかった時のことを思うと、感慨深いものがありました。昨年9月に町の避難指示が解除され、住民たちは自宅に帰って以前の暮らしができるようになったものの、実際には住民の帰還はあまり進んでいません。それでも役場職員の方々は役場本庁舎に戻り、帰還に向けての環境整備に、懸命に取り組んでいます。

◆自分も地域の復興に協力していきたい、そんな思いからこのキャンプ場でライダーを集めたイベントが出来ないか、と思案しています。一人でも多くの人に現地に足を運んでもらい、実情を見て知ってもらいたい。そんな思いを持ち続け、今後の地域再生に協力していきたいと考えています。(渡辺哲 楢葉町住民)

オリンピックに釘付け!

■こんにちは。大阪市の窓口で税金の相談や申告書の書き方を毎日仕事として市民の皆さんにお話している岸本です。五輪サッカーは1敗(対ナイジェリア)1分け(対コロンビア)と苦戦していますが、3試合目(対スウェーデン)は勝てるかもしれないと思っています。今まで国際大会に出場する日本代表は相手をリスペクトしすぎて守備を固め、最小失点に抑えるがシュートすらほとんど打てずに無得点で負けることが多かったのですが、今回のチームはミスから失点を重ねても、気落ちすることなく攻め続けて得点を取るという日本らしからぬ性格を持っています。

◆なので2試合勝てなくても気にすることなくスウェーデン戦も戦ってくれるのではないかと期待している次第です。オリンピックのテレビ観戦は楽しいですね。萩野と瀬戸の金・銅メダル獲得は無条件で嬉しいし、柔道や卓球で日本のエースがコソボや北朝鮮の選手に負けるとがっかりはしますが、彼らの置かれている厳しい政治環境を思い描くとそれもあり、かとも。関西の夏の風物詩、甲子園の高校野球も始まりました。五輪、高校野球、プロ野球にJリーグと一日中昼夜を問わずテレビの前に釘づけになってしまいそうです。お互い無理をしないように気をつけましょう。(大阪 岸本佳則 地平線サッカー評論家)

毎朝、ミニトマトを収穫する夏。農業者になって、生活も考えることも一変しました

■伊賀で農業を始めてそろそろ1年が経とうとしています。初めて担当したのは春先のレタス。並行して2月からはトマトの育苗を担当。育てた子たちが一人前になり、6月からは毎朝ミニトマトを収穫しています。採りながら毎日食べて、味を確かめます。味って毎日変わるんですね! 全然知りませんでした。

◆水をやりすぎるとボケた味になり、切り気味にすると甘さが乗ります。梅雨時、まったくおいしくなかったのは光合成ができなかったから。「おいしくないから出したくない」日も正直あります。けれども出さなきゃ出さないでお客様も自分たちも困ってしまいます。安定した味を出すことの難しさを思います。こういうことと向き合いながら、野菜もわたしたちと同じように生きてるんだな、ひとつの命なんだなってことを実感します。

◆南極でも東北被災地でも「命」、「生きること」と向き合ってきたけど、農業をやるようになってより一層「いのち」とか「生きる力」について考えるようになりました。農業で生きていくのはたーいへん。日々、サバイバルです。同じ人生を歩んでいることが信じられないほど、農業者になって、生活も考えることも一変しました。今の方が断然おもしろい。生きるってことは、自立するってことですね。(伊賀の百姓になった 岩野祥子

自分のすべてを注ぎ込んで旅する鎧武者と普通に話ができてしまう違和感

■日が落ちた頃に電車は総武線「西千葉」についた。2時間前に山辺剣と携帯で話す前は、そんな駅の存在すら知らなかった。山辺は、戦国武将好きが高じて、自分で鎧を自作、その衣装一式を手押し車に乗せ、日本中のお城を5年も歩いて旅している。最近Facebookを始めた彼の書き込みで、近くまで来てると知り、つい様子を見に来てしまった。

◆久しぶりに会った山辺は、昔と変わりない。研ぎ澄まされたギラギラした目をしているわけでもなければ、浮浪者臭を漂わせているわけでもなく、不気味なほどにフツウだった。サイゼリアに入りビールで乾杯。まずは数日前、警察に絡まれた話を聞く。野宿のこと、天気のこと、道路事情のこと、共有できる経験は僕にもあるので話は合う。しかし話せば話すほど違和感がある。自分のすべてを注ぎ込んでいる旅人と、安全圏から様子を見に来た僕では、立ち位置が違う。なのに会話にズレが生じないことに違和感がある。

◆ネットで常につながっている。その気になれば携帯で話ができてしまう。旅という非日常はネット普及によって日常の延長線上にその場を変えた気がする。昔はよかった、と、いいたいわけではない。変化が感じられるほど長く旅に関わってこれたことに感謝。そして今も昔も変わらないのは「動く人が一番エライ」という自分の中の順位。(坪井伸吾

【鎧武者関連情報】

★江本さん、こんにちは。山辺です。千葉、東京を通りいまは神奈川県の小田原にいます。最後の難関、箱根をどう越えるか。それが問題。旅もゴールが近づいているので、事故なく怪我なく病気なく、無事に帰れるようガンバります。(山辺剣 8月7日)

コーヒー焙煎会で美術展

■この夏私は「ものづくり」に燃えていました。何をつくっていたかというと、「美術の楽しさを共有する場」です。年明けから少しずつ準備を進め、8月の初めに展覧会という形でお披露目をし、多くの方々にご来場いただきました。

◆私は小さい頃から絵を描いたり、自分の手で何かをつくり出したりすることが好きでした。そうして美大に進み、社会に出てからもものづくりを続けている今、「美術が好きな人たち」だけではなく、もっとたくさんの人たちと、美術の楽しさを共有したいと考えるようになりました。

◆友達の家を訪ねるような気軽さで作品を見に来てもらえたらいいな。コーヒーを出したりして、ゆったりくつろいでもらいたい。そうだ! せっかくだから、ただできたものを見てもらうのではなく、つくる過程を一緒に楽しめたらなおいいよね……。そんな流れから、生豆を煎ってみんなで飲む、月に一度のコーヒーの焙煎会を始めました。その作業は一見とても地味ですが、煎った豆がはぜるパチパチという音が聞こえると、毎回「わ〜!」と歓声が上がります。焙煎の前には一品持ち寄りのごはんを食べながら、あれこれ雑談をしています。

◆美術は、美術館やギャラリーだけにある特別なものではありません。例えば縄文人が「こうしたらもっとカッコよくなるよね」と(?)装飾的なうつわをつくったように、面白そうなことを見つけたら、気軽に試してみる。それができる場づくり、仲間づくりを、これからも続けていきたいです。(木田沙都紀

小笠原母島での上映会は大成功!

■報告会が終わった翌朝7月23日午前11時、竹芝桟橋を出港する小笠原丸へと乗り込んだ。父島と母島の空撮が目的。だが、モーターパラグライダーの離発着地の使用許可を全く得ることができていない状況。かなりブルーであった。島はただでさえ敷地が限られ、離発着に必要なスペースはほぼ学校や公共施設などに限られる。しらみつぶしに当たったが全敗だったのだ。敗因は、初動の遅さと、行政は夏休みに入るので訳の分からんよそ者は蚊帳の外。現場にいって解決するほかないとの覚悟だった。

◆そんな状況を報告会に参加してくれた島旅作家の河田真智子さんが知り、報告会開催中から電話で島民の協力者探しがはじまっていた。巻き返し作戦と出港とがタイムリーな展開。結果、母島島民と観光協会の強力な力添えを得て、離発着地は望んでいた最上級を使用することができた。そして本日8日、小笠原で撮った映像の上映会を母島で行うまでにいたった。告知は3日前にも関わらず島民73名の参加で村民会館は溢れた。お盆で島民が減る中、驚異的な集客だと知った。

◆この上映会とは「撮った映像にはその土地の宝が映り込んでいる」という精神と「地元の協力なくしては、モーターパラグライダー空撮はできない」とを掛け合わせ着地した新たな活動方針だった。具体的には、モーターパラグライダーで空を飛び、鳥の目線で撮った空撮映像。それをいの一番に地元のみなさまにご覧になっていただくことを実行するというものだ。空からの映像には多くの気づきがあり、きっと地元の人ならではの解釈が生まれるだろうと。

◆撮影完了と同時の未編集、撮って出しの即興上映会を撮影現場で無料でおこなう。今回の小笠原の撮影から開催しようと密かに心に決めていたが、これまた島民の全面的な協力を得てとんでもない上々のスタートを切った。今後、日本全国、世界各地、愛車の白熊で空撮&上映会の巡業をおこなう。お近くに白い翼が出没の際にはご覧になっていただきたい。

◆また、この星を引き継ぐ子どもたちにぜひ見て欲しいと切に願っている。現在8月9日午前1時47分。あと30分で離発着地の評議平運動場へ移動開始。そして母島最後のフライトに挑む。実は台風5号の影響で母島では一度も飛べておらず、上映会では父島の映像を流した。それでも大成功。台風一過のラストチャンスを生かせるか? フライト後、14時発の母島丸で父島へ移動し19時より父島で上映会をおこなう。

追記 母島での撮影は成功し、父島の上映会では200人を越える島民が訪れた。(天空の旅人 多胡光純


通信費、カンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで添えてください。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。

高橋千鶴子/笠原克彦(10000円 毎号楽しみにしています。登場する方に本多有香さんはじめ刺激的な人が多く、省みてこちらは忸怩たる思いにさせられます)/三澤輝江子(10000円 出席したい!と想いつつ、数年が経ち、通信費も滞納。5年分お送りします。息子に参加するようにすすめています。いつも新しい世界をありがとうございます)/前田良子(平成28年度分地平線会議代金。今回で止めます。長い間若者達の冒険旅行で知らない世界を教えて頂きありがとうございました。皆様の御健康と御発展をお祈り申し上げます)/大澤英幸(8000円)/松田仁志/川村志の武(5000円 2年分+カンパ)/桜井恭比古/黒沢仁 /石原卓也/世古成子/新保一晃/田中良克(9500円)/河村安彦(9500円)


あの「ひーさん」の秘密基地に潜入!! 南三陸で出会った山暮らし

■8月5日から7日までの2泊3日で、宮城県南三陸町を訪れた。震災直後からのボランティア仲間で地平線通信の発送人でもある伊藤里香さん、そして山関係の原稿や講演、地平線通信編集で超大忙し!な江本さんも一緒だ。夏真っ盛りの東北、一面に広がる緑の田んぼと遠くに見える山々。見慣れた景色に心がほぐれていく。今回の旅では、今年からはじまる「山の日」の直前ということもあり、改めて東北で生きる人の自然との関わり方を現場で見て感じたいという思いがあった。そしてさっそく、その1人である「ひーさん」こと石井洋子さんに再会できた。

◆ひーさんは、ボランティアで訪れた南三陸町の自然と人々の暮らしに惚れ込み、気象庁を辞め、住む場所も決めないままに自作のトラックハウスで移住してしまった筋金入りの行動者だ。今年1月の地平線報告会の報告者でもある。偶然にも今回お会いした8月5日に移住1周年を迎えたひーさんは、着実にこの地に根を張りはじめていた。今はトラックからハウスを降ろして定住しており、「カタツムリから、ナメクジになりました!」と笑った。

◆南三陸町の内陸の集落・入谷に土地を見つけたのは6月上旬。5年間放棄されていた牛小屋と、その周辺の土地を借りられることになった。トラックハウスはクレーンで降ろしたのかと尋ねると、なんと手動、しかも1人で上げ下げできるように作ってあるという話にびっくり。「ぜひ家を見たい!」と言って引かない江本さんに根負けしたひーさんの案内で、夜11時過ぎ、ひーさんの秘密基地に潜入した。

◆集落から少し離れ、山に向かう。家へと続く細い道の入り口には、紙袋で作ったお手製のポストがあった。道の先に、四角いコンテナのようなハウス(外装がかっこいい)がどん、と置かれている。これを1人でトラックから降ろしたのか……。改めて感心してしまう。ハウスの奥には大きな牛小屋、そして森に囲まれた草地がある。牛小屋は骨組み以外を解体して、作業場に改築するそう。すでにロケットストーブや梅干しが置いてあり、フライパン等の生活用具がかけられている。ここからどんな暮らしを作っていこうか?と想像するのが楽しそうだ。

◆家の中には生活用品がコンパクトに収められている。必要最低限のもので工夫して快適に暮らすという所にも、登山や極地生活の経験が活きているのだろう。天窓をあけると、寝床のロフトから見えるのは満天の星空。1日の終わりに最高の眺めを楽しめる。水も電気もガスもない暮らしだが、山水は使い放題、電気はソーラーパネルを利用したわずかな電力で充分だ。燃料は、山に行けばいくらでも薪がある。

◆ひーさんは月2回の朝市で『ロケスト』というお店を開き、ロケットストーブで焼いたパンやスコーンを仲間と一緒に売っている。私はトマトソースのピザトーストとお手製桃ジャムのせトーストをいただいたが、どちらも絶品! こちらも腕を上げている。実演販売はインパクトがあり、お客が立ち止まって興味深そうに見て行く。市場のスタッフもゴミとして出た割り箸を集めて「今日の燃料にどうぞ」と持って来てくれていた。他にもご近所付き合いや大工仕事、山の手入れ、子どもキャンプ等を通して人のつながりがどんどん広がっている、ひーさん。近況をご本人に書いていただけることを期待している。

◆ひーさんの暮らしぶりを見ていると、木を切って火を起こし、パンを作って食べるように、働くことが生きることに直結していた。ここから人の生活に本当に必要なものが見えてくる。食べ物、住む所、そして困ったとき助け合い喜びを分け合える仲間。それがあれば、先がはっきり見えなくても心の底で安心感をもって暮らしていける気がする。これは田舎の暮らしそのものだ。現実的にはそういう生活はできなくても、知恵と技術を身につけることはできるのではないか。そして、それを実現できる手段が登山なのだと、改めて思った。

◆東北旅2日目には、地平線報告者でもある志津川中瀬町の佐藤徳郎区長にお話を伺った。震災後に地区でまとまって避難生活を送って来た中瀬町の方々は、この8月7日に「分散会」を開いた。いま中瀬町仮設住宅には約180名が入居しており、その4分の3ほどの方が、11月までに災害公営住宅や新しく建てた家へ引っ越しをする。残りの方は仮設住宅での暮らしがあと約1年間続くが、このタイミングでのお別れの会となった。佐藤さんのご自宅は約1年後に完成する予定だ。そして、その家を建てるのに自分の山の木を使うという。

◆昭和20年に父親が購入したという杉と檜の山を案内していただいた。昔はこの山の木を使って、木造の農業用ビニールハウスを作ったそうだ。佐藤さんも父親を手伝い、山から木を担いで降ろしたという。今でも10年に1回は間伐し、手入れをしている。山道の入り口に、今回切り出した丸太が積み重ねられていた。それぞれに直径がチョークで書きこまれており、長さや用途別に分けられている。どんな材が何本必要かを記してある玉切り仕様書を見ると、家作りのイメージが少しわいてきた。佐藤さんは家作りに、大きなプラモデルを作っているような面白みも感じているようだ。作物も同じで、「作ること」の喜びというのは、人を本質的に元気づけるように思う。

◆佐藤さんは林業に従事しているわけではない(本業はホウレンソウ農家)が、いい材をとるために山の手入れをし、それを利用するという循環の中に暮らしていた。今回木を切ったあとには、次世代のために苗木を植えるという。山と共にある生き方を、自分も受け継いでいきたいと思った。(屋久島 新垣亜美


地平線の森

盆踊りの世界の間口は驚くほど広い!!

『今日も盆踊り』

  小野和哉 かとうちあき タパブックス 1600円+税

■盆踊りというのは面白い文化です。夏のこの時期になると、日本中どこにでも盆踊り会場が出現します。こんな風に言うと日本人がものすごく踊り好きな人種のようにも聞こえますが、実際に周りの友人に「盆踊りが好きか?」と聞いても、返ってくる答えはほとんどの場合「いや、別に」です。ならばあそこで踊っているのは一体どんな人たちなのでしょうか。

◆“野宿の人”かとうちあきが、盆踊り仲間である小野和哉と共に書き下ろした『今日も盆踊り』は、そんな踊り好きな人々のことを知りつつ、ほんのりの盆踊りの魅力にも触れることができるゆる〜い盆踊り本です。この本は、盆踊りの起源や成り立ちを紹介するような民俗学的な解説本でもなければ、盆踊りへの参加方法を紹介するようなガイドブックでもありません。

◆ただ盆踊りの魅力に取り憑かれてしまった2人が、よく分からないままに手探りで全国各地の盆踊りに参加してその体験をまとめた旅行記です。その緩さゆえに、盆踊りを愛する人たちと交流する様子がかえってリアルに伝わってきます。

◆取り上げられている盆踊り(イコール、二人が参加した盆踊り)は、古くから伝わる伝統的なものから、ごく最近に始まった新しいものまで、まるで節操がありません。その節操の無さが盆踊りの間口の広さをよく表しているような気がします。ひとことに盆踊りと言っても、全国には本当に多種多様の盆踊りがあって、それぞれに違った魅力を持っています。なにせ数百年の歴史を誇る文化ですから、手を広げ始めたらキリがありません。踊り好きにもいろいろな人がおり、そこで繰り広げられる人間模様も様々で、実に奥が深い世界なのです。

◆私自身、一時期は盆踊りに目覚め、岐阜県の郡上八幡に伝わる郡上おどりでは踊り上手の“御免状”も取得できるくらいのめり込みました。しかし私の場合は、盆踊りワールドのあまりの際限の無さにそこで尻込みしました。私の本分はあくまでも青森ねぶた祭の“跳人”です。私にとってこの世界はねぶたとの両立は難しい、そう実感しました。

◆とはいえ、盆踊りの世界を経験したことは、結果として自分自身の理想の跳人像を大きく変えることになりました。盆踊りのベテランはごく自然な流れるような所作で踊ります。体のどこにも力が入っているようには見えないのに、それが驚くほど美しく、そしてときに力強いのです。

◆跳人としての私は、ずっと“格好良く跳ねる”ことを目指してきました。そして格好良い跳ねというのは、ダイナミックで力強いものだと信じていました。しかし盆踊りを経験したことで、自分が目指したい理想像が、ただ力強いだけではなく、ベテランの踊り手のように自然で優雅な跳ね姿だということに気づいてしまいました。

◆跳人歴14年、それなりのレベルの跳ね手になったという自負はあります。しかしベテランの踊り手のような自然な動きを身につけるにはこの先さらに10年20年という年月が必要になるでしょう。跳人の世界も盆踊りに負けず劣らず奥が深いのです。繰り返しますが、盆踊りの世界の間口は驚くほど広く、この時期にはその気になれば毎日でも踊ることが可能です。まさに『今日も盆踊り』です。そしてのめり込めば底が見えないディープな世界です。そんな際限の無い盆踊りの世界に躊躇なく踏み込んでいく著者2人に少し嫉妬を感じます。(杉山貴章・ねぶた本番に向けて筋トレをしながら)


先月号の発送請負人

■地平線通信447号は、7月13日印刷、封入作業をし、翌14日、発送しました。 忙しい中、駆けつけてくれたのは、以下の皆さんです。阿部雅龍君(447号10、11ページ「北極海から奇跡の生還」を参照)は、よくぞ生きて帰ってきた、と言いたいのですが、何の後遺症もなく、ケロリとしていました。作業後、餃子の「北京」にも付き合わず、トレーニングがあるので、と、すぐ帰った。人力車の仕事で日頃鍛え抜いているからこその生還なのでしょう。
 車谷建太 伊藤里香 森井祐介 阿部雅龍 落合大祐 武田力 前田庄司 福田晴子 江本嘉伸 松澤亮


わんぱく相撲大会で来日したモンゴル少年3人の奮闘

■7月31日に両国国技館で「第32回わんぱく相撲全国大会」があった。3万3千人参加の地方大会を勝ち抜いた小学4〜6年生 390人とモンゴル代表の3人が、トーナメントを戦い頂点の横綱を目指す。数日前に大会実行委員の高橋さんと知り合い前日リハーサルにおじゃますると、国技館はお祭り独特の高揚感に包まれ、土俵下には入場行進を練習する子どもたちがずらり。あれれ、モンゴルチームはどこ……? なんと、まだスカイツリーの上にいて大遅刻だという!

◆わんぱく相撲は日本相撲協会とJCI(東京青年会議所)が共催。日本人のみの大会だったが、JCI有志の企画で3年前からモンゴルとハワイとパラオでも予選大会を開くようになった。大相撲同様、外国人の参加には賛否あるらしい。さて、やっとモンゴルチームが到着! 色白で小さな4年生ビルグーネー君、色黒で小さな5年生ソニャ君、色白で背の高い6年生ソソルフ君、コーチのガンホヤグさん、引率するJCIモンゴルの大人5人がタクシーから出てきた。隣にいたJCIのモンゴル担当者から「通訳の人が来られなくなっちゃって、代役お願いします」と頼まれびっくり。私の語学力ではとうてい無理だが、他にいないそう。とり急ぎ子どもたちを連れて土俵へ向かうと、2m手前で「ここから女人禁制」と止められた。

◆翌日、いよいよ大会本番。朝8時、まず練習風景を見に別棟の教習所へ。入口から中の様子をうかがうと土俵際にいたコーチに手招きされ、入りかけたところで関係者が「玄関の敷居から先は女人禁制です」。会場に戻りモンゴルチームを探して、西のマス席最前列の来賓席に発見。彼らと寝転がってくつろいでいたら「ニコニコ動画で生中継されてて丸見えです! きちんと座るようモンゴル人にも伝えてください」とスタッフに怒られた。「砂漠を越えモンゴル史上最強の小学生軍団が襲来!」と触れこみがあった大会唯一の外国勢は注目されていた。なかでも今年1月の白鵬杯で成田力道君を倒し5年生の横綱になったソソルフは特別で、試合前から取材依頼がいくつもあった。ちなみに白鵬杯とは、横綱白鵬関が個人的に主催する国際親善交流少年相撲大会だ。

◆9時になり、1・2回戦に出場する4年生131人が入場。土俵下で出番を待つビルグーネーは不安げだったが、いざ試合になるとしっかり勝ち、5年生ソニャも勝利。3人とも初戦を白星で飾り、3・4回戦へ。その4年生の試合前、急いで来てと呼ばれて裏の支度部屋に走れば、ビルグーネーが自分のまわしを指差し涙目で訴えていた。私が単語の意味をすぐ理解できず、話すうちに「まわしが後ろですれて痛い」んだとわかった。本物のまわしをつけるのは初めてのようで、締め直してもらうとまた何か言っている。英語ができる別のモンゴル人を連れてきたら「He says everything is OK!」と聞いて力がぬけた。

◆この直後、ビルグーネーは負けてしまった。土俵を降りるときの目は赤く、列を抜けどこかへ消えてしまったので追いかけたが、いざ面と向かうとなんて声をかけていいかわからない。子どもながら、彼らは人生を賭け、国を賭けた勝負師だ。大事な場面で役立てなかった自分が本当に情けなかった。ビルグーネーの敗退を目の前で目撃したモンゴルチームはリラックスムード一転、見た目は平静を保っていたけれど気持ちは凍りついていたと思う。次の5年生の試合でソニャも負けた。ふたりの試合を兄貴分のソソルフはのんびりと冷静に眺めていた。

◆もう後がないモンゴルチーム。彼らのアウェイ感を私は肌でひりひりと感じていた。諸事情で他の海外勢が来日できなかったこともあり、最前列で大会公式の黄色いTシャツを着て目につきやすかったこともあり、きちんと座るのが苦手なこともあり、周囲からやたら見られている気がしたのは考えすぎだろうか。いっぽう母国モンゴルからはメダルを持ち帰るように期待と重圧がかかる。でもさすが、ソソルフは6回戦まで勝ち進み、次の準決勝で負けて3位関脇になった。準々決勝になると巨漢の子ばかりで、163cm・53kgの筋肉質で締まったソソルフの背中は異質。よその国から来た遊牧民の男の子なんだと実感した。

◆一夜明け、最終日はお台場へ。私は行けなかったが、子供たちは初めて見るはずだった海よりも、目の前の100円ショップに夢中だったそう。頑張ったご褒美にとJCIモンゴルのプレジデントからもらったおこづかいで、新学期のノートやお母さんのファンデーションを買ったとか。夜には私も合流し、宿に送る名目で子どもたちを宴会から連れ出して、こっそり後楽園へドライブ! ソソルフが行きたがっていたのを覚えていた高橋さんの粋なはからいだった。

◆夜の遊園地はネオンがきらびやかで子どもたちの目も一層キラキラ輝いた。緊張から解かれ、のびのびはしゃぐ3人を見られて私も嬉しかった。ソソルフがサンダードルフィン(くるくる回るジェットコースター)に乗りたがり、ひえーと内心ひるみながらつきあうと、地上80mで眺めるスカイツリーに大喜び。3日間そばにいて、彼の肝の座りっぷりに惹かれた。声変わりしているせいか、遊牧民の気質か、ひょうひょうと精神が一本そびえ立っていた。夢は憧れの白鵬のような横綱になること。モンゴル相撲でも県大会で優勝する実力派だが、将来は日本で相撲をやると決めている。

◆いつかまた会えるかなと余韻にひたる間もなく、故郷バヤンホンゴル県に帰ったコーチとソニャのお母さんからFacebookを通じて頻繁に連絡がくる。草原に生きる未来の横綱たちのこれからが楽しみで、心熱くなる。(大西夏奈子


今月の窓

18年ぶりのデナリ、今度は単独で。

■北米高峰デナリの最終キャンプは、標高5200メートルの雪上にある。ぼくは昨夜ここに到着し、風に翻弄されながらもどうにかテントを張った。18年ぶり二度目となるデナリ遠征も最終局面を迎えていた。朝になっても天気は崩れていなかった。早いうちに出発すればよかったのだが、単独だとつい気持ちがゆるんでのろのろしてしまう。

◆他の数隊が出発した後、自分も最終キャンプを発った。テント内に、寝袋やマット、余分な食料を残し、頂上に向かうためにぼくはテントを出た。まず長大な斜面を左にトラバースしていく。登りはロープなしでこなせると思うが、ロープの確保なしで、ここを無事に下れるだろうか、と考えてしまう。デナリは標高こそヒマラヤの高峰におよばないが、北極圏に近い高緯度にあるため、気象条件は過酷そのものだ。下りの危険を考えると憂鬱になるが、単独でここまできた以上、仕方ない。

◆長いトラバースを終えて右に曲がり込むと視界が開け、デナリパスと呼ばれる場所にでた。そこから稜線上を登っていくと、徐々に高度感が出てくる。登りはアイゼンの前爪を蹴り込んで登ればいいが、下りは…とまた考える。しかし、ここまできて引き返すという選択肢はない。

◆とにかく登って登って登りまくれ。自分にそう言い聞かせ、先行していた四人のイタリア隊やそれ以上の人数で連なっていたメキシコ隊を追い越した。やがて、今日の先頭を行く三人のアメリカ隊の後ろにつく。いくつか斜面を越えながら、最後にはアメリカ隊も追い越し、ぼくは一人トップに立った。これより先、頂上までのあいだに人は誰もいない。自分の中にある山への畏れよりも、嬉しさのほうがわずかに上回り、高揚する。

◆そんなときに雲が出始めた。頂上稜線の後ろから、天に向かって猛烈に雲が吹き上げてくる。雪面を駆け抜ける風が見る見るうちに強まる。「まずいな」と思っていると、あたりが白くなり、雪も吹き付け始めた。そして視界がなくなった。待っていても、天候回復の兆しはなく、行くしかない。ようやく稜線に出た頃には、目も開けられないような吹雪になってしまった。

◆直立していると危ないので、前屈みになりながら稜線を進む。この稜線上で飛ばされたらおしまいだ。「慎重に、とにかく慎重に」と自分に言い聞かす程度の余裕はあった。細い稜線を歩く。遠くに頂上が見えていれば希望ももてるのだが、真っ白で何も見えないので、当然不安になる。いつ着くのか、まだ着かないのか。激しい吹雪のため、たどっていた踏み跡も消えてしまった。

◆頂上には杭が刺さっているはずだ。18年前もそうだったし、最近登頂した登山者の写真にも写っていた。が、踏み跡も消してしまうような吹雪である。もしかしたらあの杭も雪に埋もれて見えないかもしれない。杭が見えずに頂上を通り過ぎてしまったのか。そうも思った。

◆一つのこぶを越え、二つのこぶを越える。いくらなんでもこのあたりで頂上に着かないとおかしくないか。そう思ったとき、何メートルか先に杭が見えた。頂上に着いたのだ。二度目の頂だったが、横殴りの雪と灰色の空しか見えなかった。結局、イタリア隊とメキシコ隊は引き返し、アメリカ隊だけがぼくの後を追って頂上に到着した。登頂した彼らの一人にカメラを渡し、杭の横で自分のことを撮影してもらう。頂上での写真は、そのまま登頂証明になるから、必ず撮っておかねばならない。ぼくもアメリカ隊からカメラを渡されて、三人の写真を撮影した。

◆18年前のデナリ登山は、自分にとって初めての高所登山だった。ぼくの体は極限まで疲弊し、高度障害で顔をむくませ、眠気と戦いながらどうにか頂上に立ったのを覚えている。あのときは這う這うの体だったが、今日までの間にぼくは何度もヒマラヤに通い、経験値をあげた。一人でこの頂に立てたことで、今までの遠征が無駄でなかったことを誇りに思う。

◆天気は相変わらずだったが、帰り道は不安が払拭されて少し気持ちに余裕がある。黙々と下った。心配した下りだったが、案外ロープなしでも下れるものだ。それでもいつも以上に慎重に下った。頂上稜線でのあの強い風を思い出し、最終キャンプに張ったテントが飛ばされているのではないか、と心配していたのだが、ぼくの小さな黄色いテントはそこにあった。

◆20時、テントの中に潜り込んで一息つく。もう食料もほとんど残っていない。二時間ほど休憩し、22時に意を決してテントを撤収する。荷物をパッキングしてさらに安全な4300メートルのキャンプに向けて、下りにかかった。もちろんこんな時間に下るやつもいないし、登ってくるやつもいない。孤独なくだりを続けていくなかで、4500メートルのコルで、鳥を見かけた。このあたりには登山隊が食料などを埋めているので、それを漁りに来たのかもしれない。ようやく出会ったもの言わぬ生き物に励まされる。

◆ウエストバットレスという最後の斜面を下る頃にはスタミナが尽き、足首も悲鳴をあげていた。何度も立ち止まり、ようやく4300メートルのキャンプ地に帰り着いたのは夜の0時前後だった。そこでまたテントを立てねばならない。自立するタイプのテントなのをいいことに、ぼくはペグを打ち込むのも放棄した。風も吹いていないし、自分が潜り込めばその重さでテントが飛ぶことはないだろう。寝袋に潜り込むと、ようやくほっとした。一人でデナリに登れたこと、そして安全な場所に帰ってこられたこと、その安堵感が何よりも幸せだった。腹も減ったし、体の全部を使い果たしてもう動けないが、ぼくは満たされていた。わずか二週間の登攀が、ここまでの充足感を与えてくれる。だから登山はやめられないのだ。(石川直樹


あとがき

■先月号の「あとがき」の書き出し部分が消えてしまっていました。例によって私の原稿がギリギリ時間で印刷段階でのチェックができなかったためで、大いに反省。そんなに重要なことを書いているわけではないのですが、気にはなるので最初の段落と次の段落の途中まで再録しておきます。

[あとがき]■この通信のフロントを毎号数字で書き始めることは皆さん気がついていると思う。今月で言えば「7」。もちろん「7月」の意味だ。400号を越えているので、冒頭の数字で何月の通信であるかわかるのは、便利なんです。
◆しかし、もっと便利なのは、地平線会議のウェブサイトだ。たとえば今日も10年前の7月号のフロントには何を書いたか知りたくてチェックしたらあっという間に出てきた(以下略)。

◆「山の日」に関して、フロントの文章の続きをひとこと。私は日頃から登山を楽しんでいる人であれば、「山の日」は、山に登ることはやめて、山を見る日、山を考える日だ、と思っている。あるいは子供たちや、山に関心を持たなかった地域の人に山を知ってもらう日。その場合、できるだけ「山」の定義を広く考え、どんなに低くてもいい。ほんの少しでも高いところに上がってみる習慣を身につける、教える。

◆大川小はじめ3.11が残した教えをこの祝日を機にしっかり学んでしまおう、という提案。根底に、「国際山岳年」の 共通スローガンであった「We are all mountain people(我ら皆、山の民)」という言葉の力がある。ところで、「世界山の日」というのがありますが、いつか知っていますか? 知らなくていいです。毎年冬の12月11日だから。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

モモタロウ・アマゾンを行く

  • 8月26日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター 2F大会議室

「寝袋に入ったまま川に飛び込み、筏の下に隠れて息を殺してましたね」というのは宮川竜一さん(27)。今年3月、アマゾン川中流域で夜中に強盗に襲われたときの様子です。宮川さんは19歳の時にアマゾン筏下りに挑みましたが、納得のいかない旅でした。依頼5年の準備を経て、'14年3月から再挑戦を始めます。

映像表現者でもあり、役者でもある宮川さんは、この度を「ダンシング・アクロス・ザ・アマゾン」と名づけ、各地で自ら踊っては、その様子を記録し、毎日のようにフェイス・ブック等から発信し続けました。

一人旅の供にはリャマや牛を連れ、筏旅にはサル、イヌ、オウムと、まるで桃太郎。ネット時代のユニークな道中の顛末はいかに? お楽しみに〜!


地平線通信 448号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2016年8月10日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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