7月13日。長崎県対馬では「50年に1度」の記録的な大雨が降ったそうだ。東京も厚い雲に覆われ、午後4時にはしっかり雨となった。参院選挙が終わったと思ったら、明日14日は都知事選の告示だ。まさにドタバタというしかない展開が続く。とにかくまっとうな人間を知事に選ばねば、と思う。
◆7月10日、市ヶ谷のJICA地球ひろばで、日本山岳会主催の「マナスル初登頂60周年および国民の祝日『山の日』施行記念事業」が行われた。「『マナスル』から『山の日』まで60年、いま未来に伝えること」というテーマ。1956年5月、マナスルを目指した日本山岳会隊が初登頂に成功してから60年という節目の年のイベントである。
◆展示コーナーでは日本山岳会の創立からマナスル登頂に至るまでの経緯、山の日事業委員会の「山の日」が決まるまでのポスターなどの展示に加えて「ネパール大地震と復興支援展」としてランタン谷の地震直後の様子、その後の支援活動の模様などが写真と映像で伝えられた。中でも注目を集めたのが体長2メートルのゾモ子。我らが長野亮之介画伯の力作で、皆さん、是非見に行ってみて。詳しくは6ページに。
◆会場で汗をかいたスタッフには「高尾 山のお弁当」というものが出た。おにぎり3個とお菜類が汁気がこぼれないよう工夫され、山で運びやすいようにしてあるのだ。1個780円なり。駅弁に多用されているプラスチック、ビニール類は、もちろんいっさい使われていない。高尾山のてっぺんから見渡す富士山、丹沢山塊のイラストが描かれた厚紙の包装箱「このお弁当は、公益社団法人 日本山岳会の協力によって国民の祝日、8月11日「山の日」を記念して心をこめて作りました」と書いてある。
◆そして「Enjoy the Japanese Traditional Bento Lunch」と英語の説明も。「広島で始まったものを是非東京でも、と言われまして」とお弁当を作った八王子のお弁当屋さんの説明に、ああ、そうだった! と思い出した。
◆14年前になる。「国際山岳年」だった2002年6月第一土曜日、私は「しまなみ海道100キロ遠足(とおあし)」という長距離レースを走り終え、翌日曜日、東広島で「第1回広島『山の日』県民の集い」に駆けつけた。「国際山岳年日本委員会事務局長」として「山の日」について話をさせてもらったのだ。あの時、はじめて「山のお弁当」というのをいただいた。そのアイデアが今になって東京で活かされたわけである。
◆「山の日」について続ける。広島で話した直後の2002年7月6、7日、静岡県富士宮市で1200人が参加する「富士山エコ・フォーラム」を開いた。小泉首相からのメッセージも寄せられたこの会場で私たちは「富士山からのメッセージ」を発表した。長めの文章で申し訳ないが、私が「山の日」について考えてきたことなので以下に引用する。
◆「日本は、国土の70%を山と森が占める山の国です。山から涌き出る水は、命のみなもとであり、その水が稲をはぐくんできました。また、山をおおう緑の森は、たっぷりと水をたくわえ、新鮮な大気をつくりだしてくれます」
◆「山は、日本人にとって神でもあったのです。どこに住んでいても、日本人は、みんな『山の民』なのです。しかし、私たちは、しだいにその山々のありがたさを忘れていきました。とくに、経済発展の道をひたすら追い求めてきたこの半世紀、山々の破壊と汚染は、知らぬ間にどんどん進んでいました」
◆「いま、もっとゆっくり山や森と向き合い、山の大切さを思い起こすことが必要なのだ、と私たちは、気づきました。富士山に集った私たちは、きょう、ここで誓います。知的好奇心をもって山の美しさと力強さを学びます。山々の大切さを、科学的に明らかにし、その環境を壊さないようにします」
◆「日本だけでなく、世界の山々に対して、同じ畏敬の心と愛情をもって接します。山に生きる人々の生活・文化を尊重し、多くの他の生き物たちのすみかとなっている山の自然を守ります。そして、毎年、そういう思いを新たにするために、日本に 『山の日』をつくることを提案します」
◆このメッセージは、「Mt.Fuji Declaration」と翻訳して2003年6月末、フランスのアルプスの麓の町、シャンベリーで開かれた「国際山岳年総括会合」で私が各国代表の前で読み上げた。「YAMA」という日本語を覚えてください、とも話した。結局、残念ながら当時は風を巻き起こすことはできなかった。2009年以後、日本山岳会はじめとする皆さんが本気で取り組み、国会議員も賛同してくれ、祝日「山の日」が決まった。が、一体何をすればいいの?
◆今月の報告会、「ヤマってなんスか?」(もちろん長野画伯の創作)私が強くお願いした顔ぶれによる「山の日地平線流放談会」である。乞う期待!(江本嘉伸)
■タイトルは「火星のジョーモン人」。通信に描かれた長野さんのイラストは、タコ型の火星人になった村上さん。月に家を建てるのが夢らしい、どうやら近く「火星」に行くことになったって!? ちょっとSFみたいな話を期待してか、今回は子どもたちがたくさん集まった。村上祐資(ゆうすけ)さん、37歳、横浜在住。ふだんは大学で講師をしたり、ラジオのパーソナリティもしている。人前で話すのは緊張しなくなっているというが、伝統ある地平線の場に出て、ちょっと緊張気味だと話し始めた。
◆子どものころ興味を持ったのは人間がつくるさまざまな「道具」だった。教科書で縄文時代の石器ややじりなどを見て興味をもち、黒曜石を割って、自分で作ってみた。これで肉が切れるのかと、自分の指にあててみると、思いのほかぱっくりと切れ、血がぼたぼたと垂れた。道具が作れた。そのことに満足し、にやにやしていた。大学では建築の道に進んだ。建築はおそらく人間がつくる道具の中でもっとも大きく、暮らしにかかわる「道具」だ。「好きな建築は団地」という。同じサイズ、同じデザインの家がたくさん集まってできる団地。でもベランダを見れば、干してある洗濯物はそれぞれ違い、そこにはいろいろな人生がかいま見れた。そんな風景を見るのが好きだった。
◆ところが大学で学ぶ建築には、洗濯物は出てこない。無機質な空間に、おしゃれな家具が並ぶ世界。「ここに人は住んでいないな」と思った。アカデミックな建築の世界に違和感を感じながら悩んでいた時、建築雑誌「SD(スペースデザイン)」の0011号「特集 ヒューマン・センター・デザインの可能性」に出会った。「この1冊が僕の人生を変えた」。
◆アメリカのアリゾナ州に「バイオスフィア2」という建物がある。地球の生態系(バイオスフィア1)に対して、完全に密閉されたもう一つの生態系という意味で名付けられた建築だ。この建物は雨風はもちろん、空気さえも出入りしない。人類が将来宇宙で暮らすことになった場合を想定し、建物のなかには熱帯雨林や海、農場など地球のすべての環境がとじこめてある。
◆1991年から2年間、ここで男女8人の研究者が暮らした。設計上は、酸素濃度は一定に保たれ、食糧なども自給自足ができるはずだった。うまくいけば交代で100年にわたり生活・研究ができる、はずだった。ところが実際はうまくはいかなかった。研究者は施設内でいろいろな研究を予定していたが、ほとんどの時間は下草刈りに費やされてしまい、研究はできなかった。
◆思ってもいない生き物が入り込んで増えてしまったり、誰かが倉庫から食物を盗んでしまったり。人間関係もそうとういろいろあったようだ。極めつけはコンクリートが酸素を吸ってしまい、酸素不足に陥ったこと。「バイオスフィア2」は失敗と批判をされたが村上さんはそうとらえなかった。「僕はすごい成果だと思った。いずれこういうことがきちんとできれば人が宇宙に行ける。雷に打たれたようだった」。
◆卒業設計では「月面基地」をテーマにした。建築学科の世界では、敷地がわからないところに設計をするのはタブー。そこでNASAの画像などできる限りのデータを引っ張り出し、その影や日の高さから月面の地形を推定。なんとか「宇宙建築」で卒業することができた。大学院に進んでからも宇宙建築をテーマに研究を進めたが、やればやるほど腑に落ちないことがあった。
◆「バイオスフィア2の参加者たちが苦労したことが、建築の世界では解決できていない」。長い間とじこめられて暮らしている人たちが何を考えているか、研究室でずっと考えていても無理だと思った。バイオスフィア2に代わるものは何か? それを考えたとき南極が思い浮かんだ。南極観測隊への参加は簡単ではなかったが、あらゆる免許をとり、自分が役立つことをアピールし続けた結果、4年がかりで南極行きの切符を手に入れた。
◆「南極に行けば、どんな場所に行っても通用する答えがあると思っていた」。ところが「玉ねぎの皮をむくように」どんどん人間の暮らしの核の部分に迫っていきながら、越冬を終えたとき、何もなくなってしまった感じがした。ただ一方で「すでに理解はしているはずだ」という確信はあった。帰国後、むしろ現地にいるときよりも南極を意識している。あれから6年たって、最近ようやくそれが言葉にできるようになってきた。
◆いま「極地建築家」と名乗っている。「厳しい環境の中にこそ、美しい暮らしがある」という思いから、富士山測候所やエベレストベースキャンプなどの暮らしを体験してきた。冒険家ではない。冒険家を「見たことのないものへのあこがれを行動にうつす人」とするならば、極地建築家は「ここしかない場所をつくる人」だという。そして、「『ここしかない場所』をつくるには、その場所をよく観察することから見えてくるものがある」と村上さんは言う。
◆およそ1世紀の昔、アーネスト・シャクルトンは南極について「極寒、長い暗黒、命の保証なし」と描写した。現在の昭和基地では死亡事故が起きれば観測ができなくなるため、命の面ではかなり保証されているが、それでも100年前と南極の環境は変わっていない。南極は「当たり前がない世界」だった。普段なら10分で終わる簡単な作業が、極寒の地では1時間かけてもできないこともある。
◆今でも、「気を抜いたら誰かが死ぬ世界」。でも一方で、「気を入れすぎても人は生きていけない現実もある」と村上さんは言う。南極観測隊は入念に人選をしている。選考では南極でやりたいことについて強い意志を持った人を選んできた。だが強い意志を持つ人は心が折れやすい。現地滞在中に、あるいは帰国後に、心を病んでしまう人がいるのも現実だという。自分の心を自分でほぐせる人、もし人の心もほぐせる人ならなおいい。必要なのは「よく食べて、よく寝て、よく笑う」こと。「生き延びる生活」だけでは、人は生きていけない。「これは被災地でも同じことが言えるのではないか」と村上さんは言う。
◆南極であれ、宇宙であれ、建築は周りを取り囲む「死にあふれた世界」と「生の空間」の間にあって両者を分けている。英語にはISOLATIONとINSULATIONという二つの言葉があり、どちらも日本語では「閉鎖」と訳される。建築はまさに広い世界の中から、ある空間を閉鎖するものとしてある。
◆しかし前者(アイソレーション)には、あるものや状況から「隔離する」という意味があり、後者(インサレーション)には「保護する」という意味がある。建築をアイソレーションだと思った瞬間、人は病んでしまう。逆にインサレーションと思う人は、そこで生きていける人だ。
◆極地建築に必要なのは、送る側の論理に、送られる側の論理を加えていくことだ。NASAをはじめこれまでの宇宙研究は「火星の平均気温は何度?(答えはマイナス65度)」などといった宇宙に関する問いを立て、その穴埋め問題をするように膨大なデータを集めていった。そしてそれに対応する解答を見つけていった。でもそれらはすべて人間を宇宙に送る側の論理だ。実際に宇宙に行き、そこで暮らす感覚は「数字上のスペックをいくら集めていっても分らない」と村上さんは言う。
◆宇宙に行く人間が何を感じるのか、何が求められるのか、そのヒントを求めて、村上さんはこの秋から「火星」に行く予定だ。「火星」といってもそこは仮想の火星。アメリカのNPOマーズソサエティ(火星協会)が主催する「MARS160」という計160日間の閉鎖環境での滞在実験に、日本人として唯一人、参加することになったのだ。
◆今年9月からまずはアメリカのユタ州にある宇宙基地を模した直径8メートル、2階建ての閉鎖環境施設で80日間、来夏には北極カナダのデボン島にある同様の建物で80日間、それぞれ滞在する。役職は「副隊長」。書類選考でしぼられた約200人の中から、村上さんを含む7人が選ばれた。あしかけ3年にも及んだ選考で、なぜ自分が選ばれたのかはわからない。ただ、選考のための2週間の滞在で、極地建築の暮らしにおける「言葉の大切さ」を感じた。
◆村上さんは言葉を大きく二つに分けて説明する。ひとつは「最近どうですか?」など、相手のことを思ってかける「発見することば」。もう一つは、何かを相手に「説明することば」だ。自分の思いや意思を伝える「説明することば」はどうしても、相手にYESかNOかを突き付けてしまうため、度が過ぎると喧嘩になってしまう。「常に自分にブレーキをかけて、発見することばをかけるよう心掛けています」。
◆これまで国際宇宙ステーション(ISS)での「長期滞在」は、半年くらいがスタンダード。2030年にも予定されている火星の有人探査ではそれをはるかに上回る期間が必要となる。「今までのやり方は火星では通用しない。誰にも意味づけられたことのない世界を知る必要がある」と話す。
◆報告会は休憩を挟み、後半はこの1年間取り組んできたネパールの支援についての話になった(その概要は地平線通信446号参照)。震災前から子ども向けのワークショップとしてプラスチック製のドームテントをつくるプロジェクトを進めていた村上さんは、震災後、このドームが役立たないかと現地に持ち込んだ。現地からのリクエストで大型化し、改良したドームは約1年間で8棟がネパールに届いた。なかでも震災から1年となる2016年4月25日、古いエベレスト街道の拠点の街ジリに、調布市内の小学生・内田馨くんの提案でできたドームが建った。実際に現地まででかけ、ドームを届けた内田君も報告した。
◆「名前だけは知っていたけど、どんな国かは知らなかったネパール。僕はついて行っただけで、村上さんにしかられたりもしたし、僕が行った意味があるのかどうかもわかりません。ただ今回行ったことで、いろいろ知れたし、ありえないことをしたし、今日村上さんが報告してくれた『当たり前のない世界』があることを知ることができました。日本のほうが進んではいるけれど、ネパールにも素敵な生活があった。そういうことが分かってよかったです」(内田馨くん)
◆村上さんは当初、ドームを送る活動が現地の人たちにとって迷惑になっているんじゃないかと、不安を感じながら進めていた。だがドームづくりを通し、仲間が広がったり、ネパールの人たちと同じ時間を過ごすことができたりした。ドームという物を送るということよりも、かけがえのない一つの時間を過ごせたことで、十分ではないかと感じている。「ドームにかかわってくれたすべての人たちの心の中に、いつまでもネパールが残ってくれれば」と村上さんは話す。(今井尚)
◆極地建築家のやるべきことは、厳しい環境に暮らす人々に「ここではないどこか。」を示すことではない。生き延びるためではなく、生きている実感を気づかせてくれる、そんな暮らしを整えること、「ここしかない」場所で日常を作り出すことだ。厳しい環境のなかにこそ、僕らが見習うべき「美しい暮らしかた」がきっとある。だから、南極やエベレスト、模擬火星環境など、極地とよばれる場所に身を置いてきた。
◆そんな僕のことを冒険家とよんでくださる方々がいるのだけれど、そのたびに小さな違和感がうまれてしまうのだ。それはきっと、僕が「場所を移動」していないから。移動せず、永くそこに留まること。僕を冒険家とするならば、厳しい環境のなかでどれだけ美しく「時間を全う」することが、僕の冒険なのかもしれない。
◆ニッポンは島国だ。僕らの地平線の前に広がるこの広い海原を、「隔てる壁」あるいは「繋がる道」ととらえるのか。2014年の火星訓練。アメリカ人3名、イギリス人、フィンランド人、ブラジル人がそれぞれ1名、そして日本人の僕で構成された国際チームのクルーたちとともに、ユタの砂漠にある模擬火星基地で、約2週間の火星実験生活を過ごした。
◆そのなかで僕は「こいつは敵わないな。」そう思わされるような、根本にある意識の違いを、他国のクルーから見せつけられていた。それは彼らがいつも「地平線の先に見ているもの。」彼らにとっての火星とは、本当に地平線のすぐ向こう側にある場所なのだ。島国ではなく、大陸に生きているからだろうか。ただ一歩、一歩と、歩を進めて行きさえすれば、必ずやたどり着ける場所なのだ。
◆彼らは火星までのプロセスを、課題を解決し、消去していく道のりとして捉えている。はっきりと、火星をゴールとして見据えている彼らには、目の前には道がある。僕ら日本人の多くは、火星の地にひとが立つなんてことを、リアルに感じていないだろう。見えない海を想像し、宇宙船という渡し舟を持たぬ限り、まさかその先へ行けるとは思ってはいまい。あるいは少しばかり水際で遊んでみる程度だろうか。僕でさえそうなのだ。日本人にとって火星は、月のようには、身近な存在にはなっていない。残念だけど火星にはまだ、かぐや姫はいないのだ。
◆その一方で日本人は海の向こう側を、対岸という一括りで捉えている。火星も月も南極も、「全部があっち側」というとても大らかな括りで、僕ら日本人のなかには存在している。大陸で生きてきた彼らにはそうはいかない。地平線の先に見える、あの丘を目指して歩くのか、あるいはあっちの木を目指すのか、とことん納得いくまで議論を重ねる。より確かな目標を指し示してくれるリーダーが必要になる。それが今まさに、火星をめぐって議論されていることだ。片道でいくのか、それとも往復なのか?まず衛星を目指すのか、あるいは月を経由するのか?など、議論は尽きない。僕は「全部があっち側」こんな価値観をつくってくれた、日本の地平線を誇りに思っている。それぞれが育ってきた場所でいつも眺めていた地平線。その違い。大昔のニッポン人も、同じ地平線を見ていたはずだ。火星のジョーモン人として、僕は僕の冒険物語を綴っていきたい。(村上祐資)
■2015年11月22日、明治大学で開催された「2015 日本冒険フォーラム」の記録が仕上がりました。オールカラー112ページ。「なぜ、極地なのか」のテーマでパネリストの大場満郎、岩野祥子、武田剛、荻田泰永さんが見せてくれた極地の素晴らしい写真がふんだんに盛り込まれています。豊岡市と植村直己冒険館の制作ですが、実際の編集作業は、丸山純さんと江本があたりました。すでに手にした方からは素晴らしい、との高い評価が寄せられています。非売品。地平線会議には協力へのお礼として数十部をいただきました。部数に限りがあるのでご希望の方に「送料含め1000円切手」と引き換えにお送りすることにします。この通信の最終ページにある江本の住所宛「日本冒険フォーラム記録希望」として切手をお送りください。報告会場でも一応お分けするつもりですが部数はあまりありません。(E)
■アーティストブック『志摩という国』が送られてきた。G7(志摩サミット)が終わったので、秘密になっていた「首脳に贈られたお土産」が公表されたそうです。オバマさんもメルケルさんも、失脚したキャメロンさんも持って帰ったとのこと。「ブック」と名付けられているが、立派な風呂敷に包まれています。包みを開けると桐の箱が出てきました。箱は真珠(チタンの留め具がついている)を配した帯で巻かれています。それを外し、箱を開けるといい匂い。ヤマモモの樹皮などで染色した松坂木綿の布で包まれた「ブック」が出てきました。
◆箱に収まっているのはネパール手すき紙に油彩台紙が折りたたまれています。厳かにそれを開くと「志摩という国」というタイトルが出てきました。素手で開くのは畏れ多く、手袋をはめて本を取り出し、中身を開きました。手すきの台紙の上に、伊勢和紙に志摩を紹介した文章が1枚づつ貼り付けられ、48ページの経典のように折りたたまれた超豪華本です。
◆なんと!その著者は宮本常一さんと私三輪主彦なのです。編集者は「これらの文章は36年前、志摩民俗資料館の開設に際して作られた小冊子に掲載された文章です。志摩の歴史の奥深さ、面白さを伝える文を多くの人に読んでもらいたいと、原文のままよみがえらせることにしました」と書いています。早速自分の36年前と対面しましたが、「こんなこと書いていたんだ!」と新たな発見。さらに英訳をみると名文です。すばらしい能力を持った方が翻訳してくださったんだ。
◆いつだったか宮本千晴さんに「協力してやって!」と言われていました。それがどこをどう通ってG7の公式お土産になったか、その経過は国家機密(?)だそうですが、まさかこんな豪華本になるとは思っていませんでした。36年前に宮本常一さんの指導の下に、志摩の鵜方で民俗資料館の資料集めをしていました。私も弟子の山口清彦君らを連れ、賀曽利隆さん達と歩きまわっていました。
◆そのとき「あるく みる きく」の精神を宮本先生から受け継ぎました。このブックを送ってくれた編集者の竹内さんは「三輪さんは36年もまえからブラタモリをやっていたんですね!」と評してくれました。私は現在「ブラタモリ」を真似て「ぶらりバー」と称する「化石川探索」をやっています。実は「私の方が古い!」ということを世界首脳にアピールできた!のです。この豪華本の一員に加えてもらったこともうれしいのですが、36年前から今と同じようなことをやり続けているということを再認識できたこともうれしいことでした。
◆ところで、この豪華本はG7伊勢志摩サミットの行われた志摩観光ホテルだけで販売しています。50部限定、1部10800円です。我が家の財務大臣(奥さま)の許しを得て、私がその1割を買い占めました。ホームページ(http://shima-sco.com/)を見たらすでに完売だそうです。(三輪主彦)
■「こんな風に3週連続で沖縄に来ることは、もうないだろう」と思いながら、飛行機に乗り込んだ7月8日、金曜日。9日の朝、与那国島で 僕を迎えてくれたのは2艘の完成間近の草船だった。今僕は国立科学博物館主催の「3万年前の航海徹底 再現プロジェクト」の出発の島、与那国島にいる。9日夕方には舷側につける最後の波除けが完成し、航海で使用する草船が完成した。船体の材料はヒメガマ。そして、それを結ぶのがトウツルモドキ。ヒメガマは与那国島の湿地で刈り取り、トウツルモドキは山の中で刈ってきたものだ。
◆11日に船の魂を起こす完成式を、与那国島の笛と太鼓、そして、銅鑼の音の中で行った後、草船2艘は出発地であるカタブル浜に移動した。12日朝現在、台風1号の影響がまだ残り、風、波ともに高いため、当初の予定だったこの日の出航はできなくなった。予報では風と波が若干穏やかになるのは、14日の夜中以降。出発は最速でも15日になるのではと予想している。
◆今回の草船は帆を使用せず、舵取りを含め、各船7名の漕ぎ手で与那国島から西表島を目指す。与那国島から西表島まで直線距離は約70キロ。実際には80キロほどを漕ぐことを予想、草船自体はあまり速度が出ないので、約40時間の航海を想定している。これまで6月の最後の週末から与那国島や西表島、内地から来た人たちと練習船づくり、本番船づくり、練習船での漕ぎ練に参加してきた。今回、残念ながら、僕は漕ぎ手に選ばれなかったが、漕ぎ手のみんなには無事に西表島に辿りついてもらいたいと思っている。(光菅修)
■平年の梅雨明けは6月23日の慰霊の日前後ですが、今年も早めに梅雨があけました。あの雨ばかりだった日々が嘘のように連日太陽ギラギラ。今年は特に暑い気がします。夜も30℃近くあるので扇風機かけっぱなしでも寝苦しい日が続いています。さあ、ハーリーシーズン到来です。去年は、はるばる本土から集まってくれた長野亮之介隊長をはじめとする地平線ダチョウスターズでしたが、なんとその時は台風の直撃でハーリー大会は中止となり、一度も櫂を握ることなく何しに来たかわかんないまま浜比嘉をあとにしました。
◆よし、今年こそはその悔しさをはらしてもらいましょうと早めに隊長長野亮之介に連絡を入れたら、ガーン、今年は森に遊びにいくから行けないな〜とのつれない返事(泣)。いいよわかったよ。今年はレディース対抗の部を作り賞金もあるというので、海人の奥さんや本土出身者、日頃比嘉の行事を裏から支えている、レディースと見えなくもない比嘉のお母さんお姉さんに声をかけ、近くに住むやぎ飼い仲間のMさんも加わり10人なんとかかき集めチームを作りました。その名も「比嘉でこぼこレディース」
◆みんな子育てや仕事に忙しいので、結局練習は一回もできず。正直転覆するのも覚悟していましたが、さすがそこは浜比嘉の女たちです。打ち合わせも練習もしてないのにみんな大きなかけ声で櫂をあわせ、会場からの声援にはレース途中にもかかわらず手を降る余裕(笑)! 対戦相手の男性教員チームと最後までデッドヒートを繰り広げ、会場は笑いと歓声で大盛り上がり!
◆いやー、やっぱりハーリーは楽しいな、達成感半端ない。日頃は裏方の女性陣、ほんの2分間足らずの晴れ舞台だったけどみんな口々に楽しかった〜と笑顔。この2分にかける集中力といったら! 経験してみないとわかりませんぞ。何人かから「今年は本土から来ないのかー」と聞かれました。ダチョウスターズは間違いなくハーリーにかかせないチームとなっていますよ。比嘉の人みんな待ってます。来年はぜひお待ちしています。
◆さてレディース部門の優勝賞金をかっさらったのは米軍の女性チームでした。米軍はよくも悪くも沖縄に根を張っています。本土でもニュースになったと思いますが先日同じうるま市内で元海兵隊軍属による残忍な女性強姦殺人事件がありましたが少なくとも私の周りの人はあまり米軍人を敵視することはなくて、なくなった女性への悲しみがひたすら大きく、またどちらかというとこの植民地状態を野放しにしている日本政府に怒っているように感じます。
◆ここ浜比嘉島は戦争であまり被害を受けなかったのと外部の人に対するおもてなし精神が昔から旺盛らしく、戦後は米軍人が浜比嘉によく遊びに来ていい関係を保っていたそうでその話は結構おもしろいのでまた今度。で、ハーリー会場でも和気あいあいとした風景でした。でもやっぱりYナンバーの車は運転が荒いしぶつけられてもたぶん泣き寝入りなので近寄りたくないしビーチで酒飲んで騒いでいる上半身裸の刺青まみれのアメリカさんたちに会うと避けますね。
◆やぎ飼い仲間に戦争帰りの元軍人がいます。退役してしばらくして頭がおかしくなりそうになり、そんなときにやぎが癒してくれた、やぎが自分を救ってくれたと言ってとってもやぎを可愛がっています。でもその人、退役後仕事についてなくて、「生活どうするの?」って聞いたら「金がなくなったらまた軍に入るさ」だって。恐ろしくなったさー。やぎのために戦争に行かないでねと言いました。
◆ということで、やっぱり最後はやぎの話になってしまいました。そろそろやぎ小屋の掃除しに行かなくちゃ。ではまた。
追伸、3月末で海の文化資料館勤務が終わりました。しばらくはやぎ飼いと畑に専念です。そのうち何か始めます。(外間晴美 浜比嘉島住人)
■きょう7月10日から東京・市ヶ谷のJICA地球ひろばで、貞兼綾子さんが長く関わってきたネパール・ランタン谷を紹介するパネル展が始まった。日本山岳会の人たちが中心に、貞兼さんを始めとするNGOランタンプランが主催する形になっているが、「ゾモTシャツ」のために結成されたゾモ普及協会の面々がいつものように暗躍している。
◆7月10日に日本山岳会が「マナスルから山の日まで」をテーマにイベントを開催するので、その一角でランタン谷の紹介ができないかと発案されたのが同会副会長の大久保春美さん。2月には貞兼さんを交えてさっそく打ち合わせを始めた。パネルだけじゃつまらないから、マネキンとか本物サイズのゾモを置いたらどうでしょうと言い出したのは私。そしてゾモTシャツの絵師でもある長野亮之介画伯に、ダンボールでいいので、等身大のゾモを作ってください、とお願いした。
◆いよいよ会期が近づいたものの、画伯は「森フェス」の準備で忙しい。あきらめていたところに「なんとかできました」とのメールが届いた。「大きさは高さ160cm、全長200cmです。張り子の赤ベコのように、クビがふらふらと少し動く設計です。うまく行けばね。前日に玄関前に出しておきますのでピックアップしてください」。画伯が沖縄出張中の留守宅を訪ねると、思ったよりも大きい! 会場との調整を担っている横内宏美さんは、展示できてイベント当日だけかも、と不安なことを言っていたが、確かにこの大きさは……。
◆クルマに積み込んで、会場へ。ダンボールではなくしっかりした木製の組み立て式になっているので、いちばん小さい頭部の部品から運び込む。少しでも大きさのインパクトを和らげるために。が、兵頭渉さん、武田力さんと一緒に組み立てて行くうちに、2メートルの巨体がバレてしまった。「大きい! だけど、カワイイ!」Tシャツと同じく目をつむった愛らしい姿にみんなイチコロ。会場担当者に恐る恐るお伺いを立てると、戸惑いながらもなんとか了承してくれて、2週間そのまま置けそうだ。
◆デザイナー田中明美さんが「あたいはゾモ子、16歳」とストーリーを考えてくれて、きょうからは「ゾモ子」の名札も下げている。ゾモ子がこの展示の主役を乗っ取ってしまったようだが、パネルと映像も見応えがあるものに仕上がった。「世界一美しい谷」と言われたランタン谷のかつての光景は貞兼さんの十八番。昨年4月に突然振りかかった災厄の実態を、名古屋大学や防災研、JAXAなど研究者が衛星画像やドローンを使って解明するあたりはちょっとオタク的に興奮する。そして悲劇を乗り越えて村の再建に取り組む人々の姿……。
◆JICA地球ひろばでは7月10日から23日まで2週間、その後京王線高尾山口駅に併設された「高尾599ミュージアム」、富山の「立山カルデラ砂防博物館」へ巡回するので、ぜひみなさん「ゾモ子」に会いに来てください。(落合大祐 7月10日)
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◆JICA市ヶ谷ビル 2階展示スペース:
7月10日(日)〜7月23日(土)9:00〜21:30
◆高尾599ミュージアム 2階市民ギャラリー:
8月1日(月)〜8月9日(火)8:00〜17:00(最終入館16:30)
◆富山県立山カルデラ砂防博物館:
10月1日(土)〜11月27日(日)9:30〜17:00(最終入館 16:30)
■6月25、26日。長野県菅平高原で二日間に渡って開催された“信州森フェス!”に遊びに行って参りました! この時期に森にいるなんて、なんだか不思議。通例ならば今頃は、外間夫妻の暮らす浜比嘉島で毎年行われるハーリー大会(サバニのレース)に向け、“地平線ダチョウスターズ”の旗の下、日夜ひたすら掛け声に合わせて櫂を漕ぎまくっている筈なのだが、今回は隊長の長野亮之介さんから「森フェスとハーリー大会の日程が被ってしまった」との通告が……。
◆毎年森フェスにも関わっていると伺ってはいたものの、聞けば今年は2年前から長野県に移住している僕の親友の加藤士文(しもん)君(2006年の中島ねこさんの報告会で一緒に音楽担当として参加させて頂きました)が森のお話の枠を担当し、ケーナ奏者の長岡竜介さんや糞土師の伊沢正名さんなど、地平線会議に縁のある方も登場するという。そんなお祭りが愉快でない筈がない! すぐさま僕は友人達(菊池由美子ちゃんと美月ちゃんも一緒に参加)に声をかけ、期待を胸に一路森を目指したのでありました。
◆メイン会場になっていたのは、スキー場を一面に望む風格ある巨大なロッジ。大木と石造りの織り成すそのダイナミックな建築物に一歩足を踏み入れれば、三階から地下まで蟻の巣穴の如く配置された多目的スペースや客室が見事にステージやショップに様変わりしていて、ワクワク感は一気に急上昇。各ブースを担当しているのは、主に長野県に暮らす若者達で、森とひととの関わりをテーマに展開するワークショップや生活品やフードはどれもクオリティが高く、家族連れの多い来場者の関心や好奇心を高めるものばかり。
◆単純にフワッと盛り上がるのではなく、時に真面目に語りかけ真面目に受け止める。僕は一般的な「フェス」と謳われるお祭りに疎いけれど、地元の人と移住者が(割合は半々くらい?)、この土地で自然と共に生きることと真摯に向き合いながらも遊び心を忘れずに、これからの暮らしの在り方のイメージや技術をしっかりと共有し合っている姿に、「この村はいい村だな」と素直な感銘を覚えました。
◆初夏の爽やかな青空の下、たくさんの子供達が裸足で元気に走り回っている芝生エリアに寝転んで、風に乗って流れてくる長岡さんのケーナ演奏を聴きながら鹿肉ハンバーガーを頬張っていると「ここは天国か!」と突っ込みたくなる。相当数のビールを煽り続けた僕は子供達と輪になって無邪気に笑い合っているうちに自分が大人であることすら忘れ、士文君のお話のパートの中で久しぶりにコンビで三味線共演をさせてもらった頃には、すっかりこの森の住人になった様な心持ちに……。気がつくとあっという間に山の向こうへ日は沈んでいた。
◆夜、長野さんが近くの温泉に連れて行ってくれた。今回、映画関連の人脈を生かして森に纏わる2本の映画の上映を担当していた長野さん。何日も前から現地入りし、イベント準備の傍らで手伝っている居候先のペンションの新築工事のことも楽しげに話す。僕の知る限り、木の伐採や大工仕事などの暮らしの技術に長けている長野さんは、ふとしたご縁で繋がった土地や人々の暮らしの現場に赴いて、持ち前の遊び感覚と想像力を発揮して最強の居候助っ人になってしまう天才だと思う。“長野居候之介”と改名しても良いくらいに。5年前、長野県在住者が主催し運営する森フェスの第一回から運営に関わり、いつの間にやら今では副実行委員長をしているというのも妙に頷ける。
◆「ハーリー合宿の前に毎年コレやってたんですか?」僕が思わず突っ込むと、「遊びだからね!」当たり前の如く笑いながらのツッコミ返し。いや〜、長野さんのこうゆう感じが人間的に大好きなんですよね〜。「面白そうだな。よし、やってみようか!」長野さんのこの一言に心動かされ、彼の魅力に惹きつけられる人は多いだろう。全てを遊びに転換してしまう“天然仕掛け人”長野さんは、きっと他にも日本中の知らない土地にまだまだ強烈な遊びスポットを隠し持っているに違いない。大満喫の二日間。蓋を開けてみれば、そんな長野さんの本気な遊び心に脱帽な森フェスでありました(笑)。(車谷建太 津軽三味線奏者)
2017年末に白瀬中尉の足跡をたどりつつ南極点単独徒歩到達を目指す、秋田県出身の極地冒険家、阿部雅龍さん(2015年10月「南極の白い跡」報告者)が2016年春、トレーニングで挑戦したグリーンランド徒歩行中、薄氷を踏み抜いて海中に転落した。スキーを履いたまま泳ぎ、氷上でランニングして体を温めるなど冷静な対応で生還を果たした。事故直後に記録した時系列のメモをもとに、北極の海からの生還模様を報告してもらった。(E)
■2016年春、グリーンランド北西部、世界最北の村シオラパルクから南の集落サビシビックへの往復1200kmを歩く計画をスタートさせた。2017年末に白瀬中尉の足跡を伸ばしての南極点単独徒歩到達を目指しており、その最終調整が目的だ。2月10日に羽田を発ち、デンマーク経由でグリーンランド、シオラパルクから50km程離れたカナックへ。日大山岳部OBでグリーンランドにハンターとして帰化している大島育雄さんの娘さんのトクさんが経営するゲストハウスに滞在後、シオラパルクに入った。
◆シオラパルクは想像通りの場所だった。今でも多くの犬ぞりが現役として活躍していて、軒先のやぐらにアザラシやセイウチが積んであり、「あぁ、本で読んでいた植村さんや大島さんの世界だ。」と嬉しくなった。大島さんの70歳になる今も犬ぞりで狩りに行く姿は、丸太のような上腕三頭筋、子供のような笑顔とともにとても格好いい。これこそ男だ、という感じがする。「最近は毛皮をなめす仕事が多くてね、今年はもう6頭目なんだよね。やる仕事は幾らでもあるんだ。」と話していた。
◆3月3日。歩き出す。3月中旬には気温は-42℃まで下がり、海も再凍結の兆しを見せ始めていた。過去2年の遠征で装備や食料の見直しをした事で-40℃でも暖かく感じた。出発時のソリ2つの重さは計150kg。南極点まで歩くときの重量を想定した重量だ。3月23日(水)南のチューレ空軍基地へ向かう犬ゾリ2チームに出遭う。この事が自分も南へ行けるという“勘違い”を生んだ。犬ぞりは速度が速くソリも長いので、より薄い氷でも走れるのだ。
◆3月24日(木)9:30 テントを出る。海岸にキャンプしていた為、岸の定着氷から海に行くために、乱氷を越えて荷物を運ぶのに苦労する。12:00 Kap Radcliff(ラドクリフ岬)へ到着。崖が切り立っている為に岸に定着氷はなく(もしくは通行が厳しく)海氷上を歩く。対岸のKap Leiningen(レニンゲン岬)へは直線で15km、一気に向かおうと思う。
◆13:00 岸の近くを歩くが、潮流が強いために海氷同士がぶつかり割れた蓮の葉のような丸い氷を渡るのが怖く、“少し良さそうに見える”沖の方へ。この頃から対岸の南斜面から太陽が顔を出し気温が一気に上る。奇しくも潮が強くなる満月の日。
◆14:00 氷が自分の重さでたわんでいるのが分かる。まるでベッドのマットレスの上を歩いているようにフワフワする。落ち着くために、イヌイットへのお土産用に持っていた普段は吸わないタバコを一本吸う。これ以上は危険だと思い岸へ戻り始める。15:00 立っても確実に大丈夫だという氷まであと10m、という所で落ちる。片足が沼に足を突っ込んかのようにズブズブと沈んだら、もう片足も沈み、スキーを履いたまま海に垂直に首まで落ちた。
◆入った瞬間は温泉のように暖かい。スキーを履いてるので泳げない。潮の流れが自分を氷の下に引きずり込もうとする。身体のハーネスとソリが結ばれているので泳いでも進めない。氷の上に這い上がろうとするが、氷に肘をついて力を入れるたびに薄氷が崩れて海に落ちるという事を何度も繰り返す。何度も落ちる。「このまま本当に溺れて死んでしまうのか」と絶望を感じる。約10分ほど海中であがく。海であがきながら家族や多くの人の顔が浮かんでくる。このまま死んでたまるか、と思う。
◆一度冷静になって周囲を見渡すとソリ2台が小舟のように海に浮いている。ソリをひっくり返さないように慎重に這い上がってソリに馬乗りになる。ソリの上には防水バックが幾つも入っているのでそれが浮きの役割をし乗っても半分浮いている。ただし次第にソリに水が入り沈んでくる。身体は震えているが寒いという感覚がない。指先もなにも感じない。ソリの上に上がった瞬間に濡れた衣服が全て凍りつく。
◆誰も来る訳がないが「死にたくない!」と力のかぎり100回くらい叫ぶ。叫んだら吹っ切れて、「どうせなら最後まで出来ることをしてあがいてやる」と思う。15:30 ソリの荷物からショベルを取り出し、カヌーのパドルの代わりにして薄氷を叩き割りながらわずかに漕ぎ進む。薄氷を歩くので泳ぎにくくてもスキーは脱がないと決断する。ハーネスとソリを結ぶロープのカラビナを慎重に外す。1つ決断を間違うと悲劇につながる。
◆ソリの上から薄氷へ。氷への負荷を軽くする為に表面積を多くする。氷の上に大の字になって匍匐前進、もしくは芋虫のように這って進む。氷上は真っ平らで手でつかめるものがなにもない。這うようにして進むしかない。ソリ2つを海上に残して自分だけ海氷にでる。低体温症の症状が出て身体は激しく震える。判断力の極端な低下を感じる(実際に海から落ちた後の記憶は飛び飛びである)。氷上に積雪がある状態であれば雪の上を転がって雪を払うという行為を繰り返せば衣服は乾くが、積雪がないのでそれが不可能。
◆15:40 スキーを履いたまま氷の上を2時間ほどマラソンする。体温を上げて低体温症を治すのと、身体の熱で衣服を乾かすためだ。汗をかくと逆効果なので汗をかかない程々の速度でゆっくり走る。意識は朦朧としていたので2時間も走った事をあまり覚えていない。17:30 ソリを取りに戻る。カナックの町までは直線でも60km。海氷状態が良くないので迂回する必要があるので100kmほど歩く必要がある。装備なしの空身で助かる可能性は低いと判断したからだ。
◆が、ソリを取りに行く時にまた海に落ちる。必死の思いで1つのソリを救出。このソリには食料と寝袋とインシュレーションジャケットが入っていた。18:00 再び30分ランニング。もちろんスキーは履いたままだ。18:30 もう1つのソリを回収に行くが回収できず。この時に10回くらい落ち直す。何度も落ちているうちに、落ちる瞬間に自分から前に倒れて体重を分散する事で膝までしか落ちない事に気付く。何度も落ちることで人間が学習する事が嬉しくて落ちながらニヤニヤと笑みが溢れる。
◆19:00 太陽が水平線に沈んでいくのが見える。夜が来る前に急いで完全に安定した氷のある岸の方へ戻る。20:00 太陽が完全に沈む。この時はあくまで僕に続行の意志があり、出来れば歩いて戻るつもりだったので夜を過ごすことを考える。-30℃以下の夜をテントとストーブなし。衣服はまだ濡れたままで一晩(12時間程度)過ごさなければならない。ソリの袋から荷物を全て出して、袋の中に寝袋を入れて横になる。ソリの袋のジッパーを締めても頭は出るが随分と違う。夜にあまり風が吹かなかった事、天気が急変しなかった事が幸いだった。
◆身体が異常に震えるが、身体の震えは効率的に体温に変えられる事を知っているので、「むしろもっと震えろ、震えるだけ体温が上がる」と思っていた。震えのエネルギーを出すには食物が必要なので、寝袋で横になりながらチョコクッキーを貪り食べる。指先が凍傷になっているのを感じていたので(この時点で指先の感覚がほとんどない)、温度の高い脇下に両指先を挟んで凍傷が進まないようにする。何度も意識が遠のいて、実際に何度か意識が落ちる(寝たのか気絶かは不明)が、どうせならあがいてやると思いながら意識を保つ。起きたら徒歩を再開するつもり満々であった。
◆3月25日 10:00 無事に夜を超す。太陽は上がっているものの寝ている場所はまだ日陰。シオラパルクに滞在中の犬ぞり探検家の山崎哲秀さんに衛星携帯で電話。もしかしたらヘリを呼ぶ可能性がある事を伝える。太陽が照って、体温が上がれば、歩き出す事をまだ考えていた。12:00 太陽が当たって少し気温が上がっても体調は戻らず。試しに寝袋の外に出るがまともに歩けない程に衰弱している事を知る。この状態でカナックまで歩くには天気がずっと良くても3日は最低でもかかると想定。到底、五体満足で済むとは思えず、撤退を決意した。
◆山崎さんに再度電話してヘリが必要な事を伝える。それからトクに電話。カナックの警察に行って貰いヘリを呼んで貰う事にする。警察には出発前に挨拶回りに行っていたのでこの流れがスムーズに進む。トクはプロのハンターでもあるので(海に落ちた経験もある)冷静に指示をくれる。GPSポジションを口頭と再度確認の為にショートメッセージサービスで送る。指先の感覚がなくSMSを送るのに大変な時間がかかる。
◆15:00 ヘリにピックアップされる。着氷は危険なのでホバリング状態でピックアップされる。殆ど歩けないくらいに身体が固くなっていて、引きずり込まれる形でヘリに乗る。この1時間後にはヘリが飛べなくなる天気が数日続いたらしい。ギリギリセーフであった。ヘリに乗ってクルーに暖かいジャケットを掛けて貰った時に、「助かった」と安堵すると共に歩き続けない事に悔しさがこみ上げる。
◆15:30 チューレ空軍基地へ。担架に乗せられて空軍病院へ搬送される。ベッドで低体温症を回復させる為にジワリジワリと暖めてくれる。足は凍傷になっておらず、手の凍傷も指先の細胞が少し死んでいるだけでヒドイ凍傷ではなかった。海に落ちて24時間以上も経って生きている事、凍傷の程度が軽いことに、医師は感嘆の言葉をくれた。「信じられない、普通はとっくに死んでいる」って。基地の皆が「助かって良かった」と言ってくれる。誰も僕が危険な行為をしている事を責めないのが嬉しかった。頭の中では、いかにして徒歩を継続するか考えていた。
◆体温や脈拍、心電図は4時間ほどで完全に回復し、凍傷の程度も軽いので検査入院で終わる。20:00 空軍のホテルへ。身体は歩くのが辛いほどに疲労している。指先の感覚はない。血液の流れが戻れば痛みが襲ってくるらしい。そのままベッドへ。3月27日 ヘリでカナックへ移動。トクの家にお世話になる。指先に血液が戻りだし、死んだ細胞が黒くなる。痛みが走り、フォークとスプーンがまともに使えない。1週間後の4月3日 再び歩き出す。フォークとナイフが使えるようになったが、指先の皮膚は硬化している。ルートを大幅に変えてまずはシオラパルク方向へ。憧れの冒険家達が過ごした土地で過ごせた事は、絵本の世界を旅しているようで幸せだった。次は人力車日本一周、そして南極点です。(阿部雅龍 夢を追う男)
■今春、私はカナダ最北の村グリスフィヨルドからグリーンランド最北の村シオラパルクまでの約1000kmを、一人でソリを引きながら踏破した。48日間の単独行だった。今回のルートは、カナダ極北部のエルズミア島の内陸部を越え、カナダとグリーンランド国境にあたる海峡を横切り、グリーンランド上陸後は氷床を登り、シオラパルクへと抜ける氷河を下るという、北極の様々な要素を盛り込んだルートと言える。
◆ルート全体を通しての難所は、第一にエルズミア島を東西に横切る「スベルドラップパス」の通過がある。今から100年ほど前に、ノルウェーの著名な探検家オットー・スベルドラップがこの地域を探検し見つけたルートだ。東西に延びる80kmほどの谷の南北には大きな氷床が広がり、夏になると谷の中央部から東西に分かれるように河が流れる。場所によって深い渓谷を成し、切り立ったゴルジュの底は幅60cmほどのソリがやっと通過できる間隔しかない。
◆最大の難所となるのが、カナダからグリーンランドに渡る海峡横断だ。北極海に通じるこの海峡には、夏の間に沢山の浮氷が流れ込み、冬になると激しい乱氷帯となる。また、年によっては結氷が悪く、海氷が南に向かって一気に流出してしまうこともある危険な場所なのだ。
◆3月30日。グリスフィヨルドを一人ソリを引いて出発した。50日分の物資を積んだソリの重量は約100kg。現地のイヌイットからも「本当にグリーンランドまで歩いて行くのか?」と心配されながら村を後にした。村を出発すると、まずはすぐ西側にあるフィヨルドを北上していく。かつて植村直己さんが北極圏12000kmの旅の中で、シオラパルクからグリスフィヨルドを通過した際は、島に上陸することなく海岸線を伝って来ている。しかし、現在では海岸線を行くルートは海氷減少の影響で通過することができなくなっている。ルートとしてより困難な島越えが必要になっているのだ。
◆出発から23日目、第一の難関であるスペルドラップパスに取り付いた。海岸線から広い谷に上陸すると、次第に左右の山の間隔が近くなり、谷は急峻になっていく。初日は凍結した河の上を進行したためソリの滑りが良く、予測以上に前進した。しかし、2日目にスベルドラップパスの困難な性質が見えてきた。
◆スペルドラップパスの南北には大きな氷床が広がっており、この谷には吹き下ろしの強い風が常に吹き続けている。この風によって、河が広がったところでは雪が全て吹き飛ばされ、川底の尖った石が露出した石地獄地帯となる。ソリの接地面は石によって削られ、その傷が摩擦となりソリの滑りが悪くなる。さらにダメージが深くなれば、ソリ自体の破損にもつながってしまう。
◆石地獄を通過すると、次に現れるのが深いゴルジュ地帯だ。夏には急流となるであろう深い渓谷の底を進んでいくと、20mほどの谷底が10mになり、5mになり、やがて2mほどにまで狭くなる。そこから見上げる空はほんのわずかしか覗くことができない。谷は狭くなるにつれて、同時に斜度も付く。すると、あちこちに凍結した高さ数メートルの滝が現れるのだ。
◆狭いゴルジュ地帯や凍った滝があるという話は、昔ここを通過したことがある知人のカナダ人冒険家から聞いていた。しかし、聞くと行くとは大違い。滝は次から次へといくつも現れ、登ろうにも何のホールドもないツルツルの氷の斜面。大した装備を持たない私は、考えた挙句にナイフで氷を削り、ステップとホールドできる切り込みを作ってよじ登っていった。よじ登ると滝の上からソリを引き上げ、ゆっくりと進む。
◆滝の次に現れるのが、巨大な雪の壁だ。狭いゴルジュが折れ曲がる度に、強風によって吹き溜まった雪が垂直の壁となって谷を埋めてしまう。極寒と強風で叩かれた雪は氷のように硬く締まり、突き崩すことは不可能。高さ3mほどの雪壁にスコップでステップを刻み、重たいソリをフルパワーで引き上げては壁の向こうに滑り落とす。しかしすぐ50m先には次の雪壁が見えている……。スペルドラップパスの核心部と言えるこの深い谷底は数km続き、ほぼ丸一日をかけてなんとか通過することができた。
◆カナダとグリーンランドが向かいあう海峡がスミス海峡である。エスキモーたちが移動の歴史の中でグリーンランドに渡って行ったのも、凍結した海峡を越えて拡散したと言われている。スミス海峡では南から北上する温かい海流と、北極海から南下してくる冷たい海流がぶつかり合うことで、アーチ状に海氷の橋(フローエッジと呼ぶ)ができる。シオラパルクのエスキモーたちは、カナダ側に狩猟に来るときにはフローエッジの縁に張った薄い新氷帯を犬ぞりで素早く通過する。犬ぞりのようなスピードを持たない徒歩のスタイルでは、この新氷帯を行くのは危険だ。途中でのんびりしていると海氷の流出に巻き込まれる可能性があるからだ。
◆スミス海峡から50kmほど北にせり上がったフローエッジのさらに北20kmほどの海氷上を、大きく回り込むようにルート設定をした。しかし、そこには乱氷帯が横たわっている。事前に衛星写真を綿密に分析し、乱氷の中に存在する平らな新氷のエリアを繋ぐように進んだ。最大の誤算だったのが、今年のグリーンランド側の降雪量の多さだった。海峡全体の乱氷帯に、さらに降雪が加わると進行ペースは極めて遅くなってしまう。綿密な衛星写真の分析によるルート設定のおかげで乱氷を避けながら効率よく進むことができたが、もしルート選びを間違えていたらかなり危なかったであろう。
◆こうして一つずつ難関を乗り越え、グリーンランド上陸後は氷床を標高1200mまで登り、そこから対岸に降りる氷河をクレバス帯に危うく入りかけながら下っていった。旅の途中ではホッキョクグマ1頭、オオカミ13頭と出会い、ウサギを食べ、5月16日に48日の苦闘の末にシオラパルクに到着した。話すことはたくさんあるのだが、ここではスペースの都合上さわりの紹介程度しかできない。かなりキツい行程であったが、同時に面白さにも満ちたルートだった。(荻田泰永 北極冒険家)
■中南米を愛する私にとって、白根全さんはこの20年弱(そんなに経ってしまったか!)、心の師匠です。先月の地平線通信で、その全さんが教えてくれたマルティン・チャンビ展。なんとしても行きたい。三宿なんて遥か彼方と思っていたが、案外うちから1時間で着くようだし、娘が幼稚園に行っている間に往復できる。
◆ある平日、2歳半の暴れん坊主のみ連れて、電車2本バス1本を乗り継いで三宿へ向かった。息子はラムネと飴をバカバカ食べ、吊革に挑み、電車の床に寝ころび……到着間際のバスで眠った。12キロを抱え、会場に着くと、幸いお客は私だけ。重たいのは床に転がしてやり、心ゆくまで写真を見ることが出来た。
◆頑張って来た甲斐のある写真だった。かつてバックパッカーで立ち寄ったクスコの町。町の匂いやインディオの服の質感まで思い出して、倒れそうに懐かしかった。
◆会場を2周し、写真集を拝見し、息子を拾い上げて隣のカフェへ。2人でお洒落なランチを堪能した。帰路も行きと同様の大騒ぎだったが、何とか幼稚園のお迎えまでに帰宅できた。全さんのおかげで、本当に良い一日を過ごせた。ありがとうございました。(黒澤聡子)
■一時帰国で大阪にいるエミことシール・エミコに6月に会ってきました。帰国後、風邪をひいてしまいなかなか治らずに心配していましたが、再会当日は、待ち合わせ場所の梅田に元気なあの「エミコスマイル」で待っていました。アレ?車椅子がない!杖だけ?今までは、移動に車椅子が必要でしたが、今回は、長い距離でなければ杖だけでも大丈夫。スゴイ!てっきり車椅子で来るのかと思い、ビックリしました。また、今まで服用していた(かなりきつい)痛み止めの薬も減ったとのこと。確実に元気になっています。エミ自身もそのことを実感しているようで、「今まで、ずっと地上に出てこれず暗闇の中にいた。助けてぇともがいていた。でもようやく光が見えてきた」。1か月間の滞在が終わり、無事、6月下旬にオーストラリアに戻りました。スティーブは1週間だけの滞在で私は会えませんでしたが、二人とも今回も大阪での滞在を満喫していたようです。来年は、東京にも来れるかな〜。(藤木安子 エミコ旧友)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで添えてください。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。
北村敏(5000円 2年分、のこりはわずかですがカンパです)/兵藤由香(5000円 通信費2年分+寄付です)/小林新(6000円 高齢になりましたので、とりあえず3年間分を送金させていただきます)/長瀬まさえ/水落公明/荒川紀子/横山喜久/三浦順子/小原直史/日下部千里/花谷泰広(10000円 いつもありがとうございます。そのうち必ず顔出します)/藤木安子(10000円 いつ最後に通信費をお支払いしたのか失念しており、とりあえず5年分、お送りしました)
■地平線通信446号6月15日に印刷、封入作業をし、16日発送しました。発送に汗をかいてくれたのは、次のみなさんです。ありがとうございました。とくに車谷君は今月もいち早く印刷の仕事をやってくれたので助かりました。通信は今月も16ページでしたが、4ページずつ印刷するために、森井さんがレイアウトしてくれたものを素早く受け取り、できた順から印刷すると、江本の最後の仕事(フロント原稿やあとがき)が落ち着いてできるのです。
車谷建太 森井祐介 光菅修 伊藤里香 江本嘉伸 落合大祐 武田力 前田庄司 松澤亮 杉山貴章
■多胡光純君と二人三脚で作ってきた『空と大地』が、ようやく完成した。A5判で、本文全128ページのオールカラー。地平線のメンバーなら、『うちのわんこは世界一』を少し厚くした本と言えば、イメージが湧きやすいだろう。副題に「世界と日本に描いた16のフライトライン」と付けたように、海外と国内でのフライトから16編を選んで、写真と文章で構成したミニムックだ。
◆もとになったのは、京都にある三洋化成工業という会社の広報誌で続けてきた連載である。5年にわたって、多胡君は巻頭の4ページと表紙の写真を担当してきた。それが30回を迎えて完結したので、単行本として総集編を出版してくれることになったのだ。三洋化成工業は一般の企業だが、これまでも広報誌の連載をまとめて何冊か単行本を刊行している。文化活動に熱心な地元の会社と出会えて、多胡君はとてもラッキーだったと思う。
◆ただし、営業マンが客先に持参する際にカバンに入れて何冊も持ち歩けるよう、厚さを128ページに抑えてほしいという注文が付いた。となると、連載の全30話を半分近くに減らさないと入らない。よく岡目八目というが、こういう作業はどの原稿にも愛着がある書いた本人には難しいので、私が読者目線でエイヤッと絞り込んでしまった。あの土地も入れたかった、あの写真も見せたかったという思いは残るが、おかげで多胡君らしさがにじみ出た原稿ばかりが並ぶ、密度の高い本になったように感じられる。
◆この本でいちばんプレッシャーだったのは、写真の表現だ。連載時の印刷を見ると、この部分はもっとインパクトのある色ではないかとか、もっと全体に高精細な印象ではないかと思われる写真が幾つもあった。印刷会社は多胡君の提出したプリント見本を極力再現しようとするが、もう一歩踏み込んで画像に補正をかけてもいい。これも感性のおもむくまま、エイヤッとやってしまった。本番の印刷が校正刷りよりほんのわずか浅くなってしまったのは残念だが、それでも、多胡光純の世界を「どうだ! すごいだろ!」と表現するレベルには到達できたと思う。
◆こうして写真と向き合ううちに、多胡君の写真のすごさがわかってくる。モーターパラグライダーの操縦は両手を使ってやるそうだが、静止画を撮影するとき、多胡君は左手一本で機体とエンジンを操りながら、右手に持ったデジタル一眼レフカメラの光学ファインダーを覗き込んで、シャッターを押す。ここぞという場面にならないとカメラを構えないので、1回のフライトで撮れる枚数は限られている。まさに、渾身の1枚なのだ。そういう撮影時の厳しい現実を知った目で改めて写真を見ると、この場面で多胡君がどんな気持ちでシャッターを押したかがわかって、厳粛な気持ちになる。連載にはほとんど載っていない地上で撮った写真も、無理を言って探し出してもらった。
◆写真が固まってきたところで、レイアウトに取りかかる。ところが、肝心の原稿がなかなか上がってこない。事前に、連載時の原稿に対して私なりの意見を書き込んで、いわゆる「校閲さんのアカ字」として戻してあった。そのせいで遅れているのかと思ったが、ようやく手にした原稿を見て仰天した。多胡君は、元の原稿を全面的にリライトしていたのだ。連載時の文章があまりにも「稚拙」で恥ずかしく、新たに書き直したいとずっと心に決めていたのだという。道理で時間がかかるはずだ。しかし、もう入稿の日が間近に迫っている。
◆おまけに、文体もまるで違った印象になっていた。連載時のものはテン(読点)が少なくて読みづらいと指摘しておいたのだが、今度はテンがやたら多くて、かえって読みづらい。たとえば普通なら「〜して○○」と続けてしまうところが、「〜し、」といちいちテンが入ってぶつぶつ切れるので、ここで読者は息をつかねばならず、なかなか前に進めないのだ。聞けば、江本さんの『黄河源流行』をお手本にして、文体を改めたという。江本さんのテンの使い方は独特で、素人が真似をしてはいけない。時間もないし、本人はすっかり自信をなくしているようなので、多胡君が「て」抜きした部分のほとんどに私が「て」を入れて文章をつなげ直し、一気にレイアウトしてしまった。
◆ところが、その後も多胡君は何度も何度も原稿を直してくる。やれやれ終わったと思っていた部分にまた直しが入り、レイアウトや文字修正をやり直す。さすがに私もキレてしまったが、「申し訳ありません」と言いながらまた直してくる。原稿のなかでは、いざという局面では一発で決める男であるように振る舞っているが、その文章を書いた本人は、一発ではなかなか決めてくれない、究極の粘着体質だったのだ。普通の人間ならもう体力も気力も尽き果てて妥協してしまうのに、並外れた体力があるために、多胡君はいくらでも自分のやった作業を再度見直し、改めていくことができる。それがおそらく、装備や技術のあくなき改良へとつながり、事故を起こさずに、あれだけの作品を撮れるようになった理由なのだろう。
◆著者・撮影者とこんなに緊密に連携し、互いの感性と気持ちをぶつけあってやった仕事は、これまでなかった。企画から編集、レイアウト、画像補正まで、自分を出し尽くしたという手応えがある。こんな極上の体験をする機会を与えてくれた三洋化成工業と多胡君に、心から感謝したい。見返しに配した長野画伯のフライトマップと巻末の江本さんによる解説もばっちり決まり、まさに最初にイメージした通りの本になったと思う。購入は多胡君のWebサイトから、どうぞ。http://www.tagoweb.net/(丸山純)
7月12日、3.11以来 避難指示地域と指定されていた福島県南相馬市内のほとんどの地域の避難指示が解除された。JR常磐線の小高(おだか)〜原ノ町駅間9.4キロの運転が再開され5年4か月ぶりに乗客を乗せた列車が小高駅に到着した。小高は、2012年7月、「無窮の大地に無常の風が吹く─飯舘村、南相馬市の現場を見、考える地平線行動」とのテーマで399回地平線報告会をやらせてもらった現場のひとつ。たくさんの自転車が残されていた駅駐輪場の風景を覚えていますか? その際、宿舎を含めて全面的にお世話になった上條大輔さんに南相馬はいまどんな状態なのか、率直に書いてもらった。(E)
■いよいよ南相馬市でも大きな区である小高区の居住制限が解除になります。しかしながら、戻る人たちはほとんど居ないでしょう。南相馬市で残る集落は一つだけただしそこは高線量の浪江町津島地区との山境で元々世帯数も少なかったところなのでまず解除になる事もないし、戻る人もほぼ100パーセントないと思います。
◆小高区がこの時期に解除になるのも政治的なことと思っている人もいます。なぜならばこの地域の一大事業、相馬野馬追の神事があるからです。でも、小高町は現在除染中で沿岸部では瓦礫撤去以外何も進んでいません。他県から来る人達から見れば瓦礫がない分進んでいるようにみえるでしょう、しかし地域に住む者から見ればさほど前進はしていません。
◆最近になり南相馬市のホームページ空き家バンクで小高区の住宅が販売で出てきているのを見ると驚いてしまいます。一体誰が買うのか。土地に関しては浜通り全体的に相場や鑑定は当てにならず、売る人買う人の気分で決まるところが多いようです。太陽光発電による山林伐採もとりあえずひと段落し、後は山砂採取の人達の山林伐採がまだまだたくさんあります。ダンプや重機は依然沢山走っており、うんざりする交通状況はまだまだ解消されないと思います。
◆今現在上條は、経営するNPOの法人で奮闘中です。しかしながら背負っているモノが大きすぎ多すぎで正直頭が円形脱毛症でまばらになるくらい、考え、悩み生活しています。現在経営する法人では、林業と障がい児の放課後等デイサービスを運営をしています。林業は昨年まで5人ほどいましたが今は1名です。障がい児の放課後等デイサービスは震災前に営業、その後休業していましたが、要望に応え4月より再開しました。しかしながら、まだまだ利用者の人数が集まらず、赤字です。このままいけば9月には閉めるでしょう。
◆わがデイサービスは震災前から地域の最後の駆け込み寺のような位置付けでした。今もその役目を果たしています。しかしながら、重度でも軽度でももらえるお金は一緒で、毎日の利用者が大勢いないと経営が成り立ちません。本当は今の法人の体力では再開したくなかったのが本音です。しかしながら苦しみ悩み相談にくる保護者や他の施設で受け入れ拒否をされた子供達を見て見ぬふりはできず何とかやっていけないかと毎日毎日過ごしています。
◆正直、早くこの南相馬市から出て、少しでも楽に生活をしたいと思う毎日です。補助金や助成金を貰わず、スポンサーもなく、他人からも称賛も何もなく、地域の問題を少しでもと生きています。自分個人の欲望や満足の為にスポンサーや、様々な援助を得て称賛や賞をもらい、過ごせる冒険家の方々がうらやましいです。少しでも、お金に余裕があるのなら、そのお金をまわしてほしいです。まあ人それぞれ価値観や人生観は違いますが、自分の為だけにしかお金を使えない人は上條的には尊敬も何とも思いません。障がい児者の問題は他人事ではない、明日は我が身です。
◆南相馬市では、除染事業や復興関係のおおよその事業もひと段落が付きそうです、しかしながら今度は廃炉作業員や港湾の復興事業等による作業員の宿舎が沢山出来始めており、作業員は益々減らない感じです、最近の作業員宿舎の土地の貸し借りの契約は20年単位だという話もききます。
◆今回解除になる小高区ではほとんどの人は戻らず高齢者の町になると思います。南相馬市では来年小高区にあった2つの高校を統合し1校に、4つあった小学校を1校にし、再開したいといっていますが、多分成り立たないでしょう。地域では、働く人が余っている業種と足りない業種がはっきりとしてきました。製造業の工場勤務者やダンプ運転手、重機のオペレーターは比較的足りているようですが、林業や医療、介護、福祉、コンビニや飲食店は全然足りていません。
◆この働く人の職種の偏りをどう見るかにもよりますが、上條は地域の民力が低下し、人間力が益々下がっていくと考えています。なぜならば働く人達はやりがいや生きがいではなく、暮らしの環境条件を一番に考えているという事がわかります。冷暖房完備、汚れず、個性もいらず、責任もいらない、楽に仕事ができる方を選んでいるのがよくわかります。地域はこの震災特需がなくなった時どうなるのか? 心配です。高卒の人達は公務員か、他県に行ってしまうのでしょうね。
◆林業も同様で働く人が全然いません。まだ除染事業に流れているのがほとんどだと思います。県外や南相馬市以外の事業者が来て山の仕事をしています。先日はその除染事業や震災復興事業に参加していた新潟県の土木会社が大型倒産しました。負債額は7億円と言われていますがもっと大きいだろうと話が出ています。
◆日本全国の多くの人達が勘違いをしているこの福島の問題、助成金、補助金、賠償金、移転料、様々のお金に関する事はごく一部の人だけに関することだという事です。少なくとも上條にはなんの関係もない。
◆今回地平線通信に初めて弱気な発言内容を書きました。それほど追い詰められていると言う事です。今の上條の心情です。(上條大輔 南相馬住人)
■この通信のフロントを毎号数字で書き始めることは皆さん気がついていると思う。今月で言えば「7」。もちろん「7月」の意味だ。400号を越えているので、冒頭の数字で何月の通信であるかわかるのは、便利なんです。
◆しかし、もっと便利なのは、地平線会議のウェブサイトだ。たとえば今日も10年前の7月号のフロントには何を書いたか知りたくてチェックしたらあっという間に出てきた。サイトの左のテーブルの「Tasushin」という箱をクリックすると「2006年7月号」がすぐ出てくるのだ。丸山純さんらがもう20年以上も毎月このサイトを構築している。実は、すごい財産が積み上げられているのかもしれない、と思う。お天気や都知事選のことなどその日の出来事をなるべく書いているのはひそかに30年後に読む人のことを考えて、だ。
◆で、2006年7月の地平線通信フロントにはくるみ、雪丸の2ひきの愛犬を相次いで失ってショックを受けていた私に新たにチビ犬がやってきたことが書かれている。[家に帰ると、電話があった。6年前、雪丸を突然連れてきた近所の犬好き家族の奥さんからだった。「雪丸の血筋のわんこが5月1日、四国に生まれた。間もなく東京に来ます」。可愛がってくれる雪丸の家に是非、というのだ。あと1年はふたりの思い出だけで生きよう、と決めていたので心底狼狽した。
◆しかし、6月29日、ちび犬は飛行機で東京にやって来た。一応面会だけ……と言って会った。雪丸そっくりだが、まだ1.4キロしかないチビがしがみついてきた途端、運命だ、と言い聞かせた。2か月のこのチビ犬は、滅茶苦茶明るい。ムギッ、と何かをかもうとする姿が可愛くて『麦(むぎ)丸』と命名した。]
◆皆さん、地平線会議のウェブサイトは宝の山ですよ。(江本嘉伸)
【Web版注】地平線通信447号の紙版のあとがきで、最初の段落が丸ごと抜け落ちてしまいました。Web版では全文掲載します。紙版では読めないところも読める地平線会議のウェブサイトは宝の山ですよ。(T)
ヤマってなんスか?
むかしむかし、おじいさんが山で刈った「シバ」って何でしょう? おばあさんはなんで川で洗濯するの? ウラヤマってどこ?ってゆーか、ヤマって何? 昔話には頻繁にヤマという語が出てきます。かつて人の暮らしとヤマには密接な結びつきがありました。地形的にも山岳地帯の多い日本に住む私達は「山の民」とも言えます。 今年8月11日は初めての「山の日」施行の日。今月は独自のスタンスでヤマに係り続けている3人をお招きし、ヤマって何?を考えるクロストークをして頂きます。 |
地平線通信 447号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2016年7月13日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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