6月15日。雨がパラつく梅雨空。毎年、この日を少しの苦さとともに思い出す。1960年のこの日、国会議事堂衆議院南通用門付近で激しいデモ隊と機動隊がぶつかり合う中、樺美智子さんが死んだからだ。22才の東大生。当時、外語大の学生だった私もデモには行っていたが、本心は、ノンポリ学生だった。山登りのほうが大事で、6.15のこの日もたまたま穂高に行っていて、途中ラジオで悲報を知った。自分もいるはずの国会でひとりの女子学生が死んだ、という事実が、以来、「6.15」が「苦い日」として心のどこかに刷り込まれている。
◆その6.15の昼前、舛添要一都知事が辞職願を出した。このところ、ずっとテレビ、新聞、週刊誌で最大のニュースだった人だ。2年数か月前、猪瀬直樹都知事が辞職、舛添さんが登場した時、都民のひとりとして一応、「国際政治学者」だし、猪瀬さんがひどかったので私は少しは期待したのではなかったか、と思う。しかし、やはりダメだった。オリンピックこそ自分の最高のパフォーマンスの舞台、と勘違いして、プライドの高さだけが、異様に印象に残る人だった。
◆いい加減、という意味では猪瀬の前の石原慎太郎のほうがはるかにいい加減だったのではないか。都庁に来ることも少なく、それを批判する声は小さかった。傲慢なキャラがかえって信奉者を増やす場合もある。つくづくリーダーの器(うつわ)というものを考えさせられる。
◆地平線会議を立ち上げた時、当面の活動資金として最初「1万円カンパ」というのをやった。大御所の西堀栄三郎、宮本常一さんからもカンパしてもらった。そうだ、今西さんにも協力してもらおう、と宮本千晴、初代年報編集長の森田靖郎、それに私の3人で京都の今西錦司宅まで押しかけた。その際、この機会に今西さんの話を聞かせてもらおう、とお願いした。今西さんは快く1万円をカンパしてくれ、インタビューに応じてくれた。
◆その際、リーダー論がテーマの一つとなった。そしてリーダーの条件として、今西さんは第一に「人間的魅力」をあげた。「この人間的魅力というものは、作ろうとしても作れへん。生まれつきなんや。あの田中角栄なんか実物に一度会うたら、すごく魅力を感じて好きになるそうですよ」と。第二は「使命感。これはある程度修養がきく」第三に「洞察力」だった。うーむ。猪瀬や舛添や石原に当てはめるのはいやだが、リーダーとしての魅力なんて安倍首相にはないし、岡田民進党党首にもあるだろうか? オバマ米大統領が広島でスピーチした時には言葉を持っている政治家、と感じたが……。日本の政治家、そして私たち大人よ、もっと言葉を持て! と叱咤したい。
◆国民の祝日「山の日」(8月11日)がいよいよ今年から始まる、というので講演、文章を頼まれることが多い。5月28日には、日本山岳文化学会という組織の総会で『「3.11」から「8.11」へ 「山の日」に向けて、今、考えること』というタイトルで1時間ほど話した。50分も校庭で待たされたあげく、山に逃げずに津波に呑まれた石巻市立大川小はじめ、東日本大震災の現場をあらためて画像で見てもらった。おとなたちはどうして生徒たちを山に逃がせなかったのか。先月の佐々木豊志さんの報告会で強調されていた「生きる力」こそ私は「山の日」の一番大事なテーマと考えている。
◆7月に発行される『季刊民族学』という本でも、「山の日」に関連して、少し長めの「ジャンジャンの思想」という文章を書かせてもらった。今西錦司、梅棹忠夫ら京都の山男たちが中学時代に開拓した「山城三十山」という標高7〜800メートルの低山を縦横に歩く喜びをいまに伝えたかったのである。市販はされない本なので、できれば最寄りの図書館で聞いてみてほしい。語源はよくわからないが、ジャンジャンは「藪漕ぎ」の意味。「道のある山なんか行かないんや。どこでもジャンジャン」(梅棹さん)サバイバル登山家の行動論に遠くつながる考え、と思う。
◆6月10日、カナダから来た本多有香さんと3か月ぶりに対面した。植村直己冒険賞の授賞式に出席するためで、話す時間を少しでも減らしたい有香さんの陰謀で今回も「聞き役」として講演会場に参じたのだ。どんな展開だったのか、東京での「お祝いビールパーリー」を含め詳しくこの通信でレポートしてもらった。
◆色紙を頼まれると、有香さんはなんと自分の名に加えて29頭のわんこの名をしっかり書いた。この際、地平線の皆さんに、全頭の名前をそっと教えます。「マイキ ジョーカー スパイダー スノーボール ファイヤーフライ ダンボ カッコマン ビビリ サーガ エイティー ライラック チューリップ ヒョロリ トゥルーパー ロビン ペチュニア 奴子 茶豆 厚手 薄手 ブルーノ アロウ ダスト チェイサー フォーゼ ドライブ 一号 V3 アギト」(江本嘉伸)
■「生きる力」ってなんだろう? 報告会場に立った佐々木豊志さんは顔を覆うヒゲが印象的で、熊のような風貌の人だった。これまでの活動について、95年の阪神淡路大震災でボランティアに参加したことから、報告は始まった。
◆95年当時、佐々木さんはテレビ関係の仕事をしていた。自然学校を立ち上げるため、その年の3月で会社を辞める予定だったそうだ。震災が起こった1月は、残りの有給休暇中。JON(Japan Outdoor Network)の繋がりで交流のあった、ホールアース自然学校の広瀬敏通さんと一緒に、すぐに被災地に入った。
◆「阪神淡路大震災に関係する写真は一枚も撮っていません」と、この時のことは、語りだけで報告が進められた。地震の凄まじさ、被災者の悲しみを目の当たりにすると、写真を撮影する気持ちにはなれなかった、と。阪神淡路大震災のボランティアでは、最も被害の大きかった東灘区の避難所、東灘小学校に入った。そこでは「避難民主体で動く支援」という方針を掲げた。その結果、避難所で生活する住民の意識は自立し、最終的に自衛隊が引き上げる際も、住民による運営がスムーズに進んだそうだ。
◆その後、自然学校開校に向けて、ログハウスの材料をアメリカで買い付け、それを自身で建て、翌96年にくりこま高原自然学校を開いた。中越地震、中越沖地震の時には、自然学校を運営しながら後方支援。開校から12年後、2008年には岩手宮城内陸地震が発生。今度は佐々木さん自身が被災者となった。震源は自然学校の直下だったという。地震は縦揺れで、建物への被害も大きく、基礎部分が崩れた。その修理は8年かかって、昨年ようやく終わったそうだ。
◆報告会場のスクリーンには地震の縦揺れの凄さを想起させる写真の数々が。大地に埋まっていた大きな岩が、地震の衝撃で飛び出し、大きな穴の横に転がっていいるもの。地震の衝撃で軽自動車ほどの大きさの岩が、一瞬にして宙に浮いたことを想像させる写真だった。岩手宮城内陸地震では山崩れの被害が凄かった。佐々木さんが自然学校に通うために使っていた道路も、山と一緒に崩れてしまい、高さ150mの絶壁ができた。その後の2年間は避難指示で事業を失っていたそうだ。震災からようやく立ち直る、というタイミングの2011年、東日本大震災が発生したのだ。
◆東日本大震災では、RQの支援活動に立ち上げから参加、「東北本部長」として現場で指揮をとった。被害者には低体温症で亡くなった人が全体の8%いることをテレビの報道で知り、バイオマスネットワークの人脈を生かして、ペレットストーブを寄付した。さらに仮設住宅の問題点にも触れた。被災地での仮設住宅建設は、基本的にプレハブ建築協会の会員企業のハウスメーカーだけしか参入できない仕組みになっているそうだ。自然学校のスタッフが、被災した時に入居したときの経験からの問題提起だ。
◆現在の仮設住宅は、住環境としての機能性や素材が与える心理的な作用、地元の経済効果など、様々な面で被災者を中心に考えられたものではない、と指摘する。しかし、災害救助法では、災害発生日から30日以内に建設着工が基準となる。そのため、佐々木さんが仮設住宅の問題について声を上げた時点で、対応するのはほぼ不可能な状態だった。そうした仮設住宅への考え方から生まれたのが、登米に建てた「手のひらに太陽の家プロジェクト」だった。
◆建設には、即決でモンベルの辰野さんからのサポートを受けた。それは地元の木材を使って、地元の大工さんの手仕事で建てられた。自然由来の塗料を使うためノーケミカル、ウールの断熱材、電気や暖房は自然エネルギーを活用するなど、細部にまでこだわった。スクリーンの写真からは、木の温かみと、安心感が伝わってきた。佐々木さんがこの取り組みを通じて感じのは、「福島で被災した子供たちと、親たちにとって良かった」と言うこと。福島の子供たちは原発による汚染の影響で、野外での活動が不自由だ。そんな不満を抱える親子に、安心して遊べる環境を提供しているのだ。
◆そして、2016年4月14日の熊本地震。佐々木さんはRQ九州を立ち上げた。通称赤紙が貼られた危険家屋の中から、住居者の大切なものを取り出す作業は危険が伴う。しかし、そういった作業にこそ、ボランティアの需要が多くある。作業する側もかなりの覚悟を持って参加しているという。この報告会の翌日には再び九州に向かうという。95年の阪神淡路大震災ボランティアから、中越地震、中越沖地震、岩手宮城内陸地震、東日本大震災、16年の熊本地震まで、佐々木さんは自らが被災者として、また支援する側として、約20年間に起こった震災に関わってきた。そのなかで「ひとつとして同じ震災はなかった」と佐々木さん。その度に現場で課題を見つけ、問題に取り組んできたのだ。
◆地震の話に続いて、自然学校での取り組みに進んだ。佐々木さんの自然学校では、自然環境や野外活動を通して「生きる力」を育んでいる。元々「生きる力」とは、96年に当時の文部省が掲げたキーワードだという。その内容に佐々木さんは共感した。変化する社会環境の中で、自ら課題を発見し、自ら問題を解決していく力。その中でも「自分自身で課題を見つける力」が一番大切だと佐々木さんは言う。
◆「生きる力」は、社会、生活、自然、の体験の中で育まれるそうだ。体験学習は、「体験、振り返り、分析、次の行動を改善する」というプロセスの繰り返しで学ぶ。そして冒険教育とは、成功するかわからないが、現状の快適な環境を抜け出し、チャレンジすることの大切さを学ぶものだ。佐々木さんは大学時代、教育の専門家を目指して学び、そこで冒険教育と出会った。その冒険教育のルーツを辿ると、「OBS(Outward Bound School)」にたどり着く。それは第二次大戦中に欧州でクルト・ハーンという教育学者が掲げた教育法だという。
◆体験学習と一般的な学校での学習の違いは何か。それは、体験学習は暗黙知、概念学習は形式知だという。佐々木さんは、それを「火を起こす」ことに例える。火の発生には、「熱、酸素、燃料」という3要素が必要だ。これらの知識は書物などから得られる形式知だ。しかし実際に子供たちが火を起こす時には、なかなか上手くいかない。酸素が必要だからと空気を送り込み過ぎると火が消えてしまう。内部の熱が足りないから、空気を送り込んでも消えるということを学び、内部の温度が上昇するまで待つ、という対応をとる。そこで空気を送り込むと、ボッと一気に炎が上がる。こうした体験プロセスで得られるのが暗黙知だという。
◆自然学校での取り組みに続いて、佐々木さんのバックボーンについて話は展開する。なぜ、佐々木さんは自然学校を運営するに至ったのか? それは中学校の時に登った岩手山がきっかけだったそうだ。佐々木さんは、岩手県の遠野に生まれ、気仙沼、一ノ関、盛岡で高校まで育った。佐々木さんが入学した中学校は元気が良すぎる、いわゆる荒れた学校だった。気骨のある先生たちが学校立て直しのために集められ、中学生と向き合った。
◆その方針は、学校行事を見直し、大きな自然の中で学ばせるものだった。先生たちはクラスをまとめるための準備として、身体の大きなリーダー格の生徒を選び、事前に山で鍛えたそうだ。選ばれた佐々木さんたちは、最初に練習として姥倉山に登った。先遣隊として登った山は、快晴で楽しいものだった。その後、改めて学年全体で行った岩手山は嵐。中学生にとっては辛い山行になった。自然相手のため、誰に文句を言うわけにもいかない。ただ厳しい自然を受け入れ泥道を進んだ。その時、先生たちは生徒たちのためにスイカを担いでいたという。
◆岩手山での自然体験に始まり、登山、サイクリング、農家での農作業の手伝いなど様々な体験をした。網張スキー場から八幡平へ向かう三ツ石までの冬山にも登ったそうだ。佐々木さん自身が、今中学生を連れて行くのはためらうほどの山だという。先生から受けた体験教育がもとで、佐々木さんも教員になりたいと思うようになった。中学三年の9月から受験勉強に励んで、成績は急上昇し高校進学、筑波大学へと進んだ。大学時代、冒険教育と出会い、冒険キャンプのリーダーの経験を積み重ねた。しかし大学三年生の時、決定的な失敗をしてしまう。
◆担当した子供とのミスマッチやその時の身体的な疲れから、夜中に雨が降り出した時に、睡魔に負けて担当の子供を助けに行けなかった。翌朝、その子供と対面した時、このまま教員にはなれない、と感じたそうだ。それからは教員を諦めて、山岳写真家を目指してヒマラヤに通っていた。どこかで逃げていたところもあり、それで食って行くことはできなかった。
◆その後、教育と山に詳しいということで大学の先生から声がかかり、日本テレビの関連会社で働くことになった。仕事は日本テレビが運営していた「スクスクスクール」というサマーキャンプに関するものだった。中学生時代、岩手山に登った一日がその後の価値観に大きな影響を与えた、と佐々木さんは振り返る。ことしから始まる国民の祝日、8月11日の「山の日」には、「山に入って、向き合い、成長する、そんな日になればいい」と佐々木さんは言う。
◆さらに話は「社会関係資本」という考え方に及んだ。佐々木さんはグローバル経済のあり方に疑問を抱き、都会での生活に区切りをつけた面もある。95年に放送されたNHKのテレビ番組、「エンデの遺言」でミヒャエル・エンデはお金についての問いかけを行っている。その番組を見た時、佐々木さんの疑問は間違っていなかったと感じたそうだ。自然学校の運営は震災やリーマンショックで厳しい時もあったが、何とか持ちこたえた。それは、通常お金が必要なことでも、人と人とのつながりによる労働力の交換、廃材の利用など、昔の日本でも行われていた「結(ゆ)い」のような相互扶助の体制があったから。グローバル経済の資本は否定しないが、その一方で社会関係資本を築くことで、社会の変化や災害などの危機により柔軟に対応できるのではないか、と。
◆そして森林はエネルギー資源だと佐々木さんは言う。 日本のエネルギー自給率は6%しかない。木の成長には間伐が不可欠だが、それをペレットストーブなど熱エネルギーに活用すれば、電気や石油の使用率を下げることができる。電気から熱エネルギーにする時のロスを考えると、暖房には木材を使ったほうが効率的。せめて、その部分だけでもとの思いで、地域での林業の取り組みを行っている。
◆最後に、養老孟司著の「バカの壁」で登場した脳内一次方程式「y=ax」の考え方をもとに、佐々木さんの自然学校での取り組みに当てはめて、締めくくられた。「y」は自分の生き方、「x」は知識などの形式知、そして係数「a」は体験教育で得られる暗黙知。知恵のある行動を導くためには、形式知と暗黙知の両方が大切だという。データを駆使して、ご自身が歩んできた方向性を示しつつ、これまで体験したボランティアや自然学校での活動を伝えた。その内容は暗黙知と形式知がバランス良く組み合わさった、「知恵がある行動」の報告会だったように思う。(山本豊人)
■5月の報告会で『“生きる力”ってなんだろ?』というお題目で話をさせていただいた。私は野外教育・冒険教育に関わり「自然学校」という業態を通して社会に関わり続けてきた。我が身を振り返れば、個人事業として始まった自然学校が次第に公益性が高い事業が多くなり、2003年にNPO法人くりこま高原・地球の暮らしと自然教育研究所を設立し、2008年には岩手・宮城内陸地震で被災し、里山で新しい事業を展開する森林資源の活用を推進する為にNPO法人日本の森バイオマスネットワークを設立。さらに2011年東日本大震災で再び被災し以後の活動に大きな変化を生み組織も改組した。
◆現在は、自然学校から派生した様々な組織と連動しながら活動している。主要な活動テーマは、[1]青少年の育成・野外教育事業・子どもキャンプ[2]自然ガイド・エコツアー[3]青少年自立支援・不登校、ひきこもり、ニートの寄宿制度 [4]農的な暮らし創造の実践 [5]指導者養成・講師講演派遣 [6]森林資源循環・森林育成 [7]災害支援活動などが挙げられる。2度の震災を経て生き延びたくりこま高原自然学校は、設立時からスタッフ、人材育成、人事の考え方に、他の業態にない大きな特徴がある。
◆まず基本的な考え方が、「雇用する」「雇用される」という関係ではなく「共に事業を生む」という考え方が根底に流れている。従って求人をするということもなく、スタッフになる条件に同意できれば受け入れる仕組みになっている。全スタッフの合意で各スタッフの給与も決定される。給与の考え方は、「グローバル経済、グローバルなお金に翻弄されない」という、外部から見ると、ある意味でストイックな給与体系に見えるかも知れない。「持続可能な豊かな暮らしを創造する」ことを実践するために、自然学校のスタッフは、施設に住み込んで、暮らしを創る作業を共にしている。畑を耕し、家畜を飼い、日々「同じ釜のメシを食らう」という24時間ともに暮らして取り組んでいる。
◆報告会では、くりこま高原自然学校のこだわり・理念は、冒険教育と体験学習法にあること、そして2度の震災で試された自然学校の役割と自然学校の教育についてお話した。災害に直面した時に私が言い続けてきた「野外教育、冒険教育は自然体験活動を通じて生きる力を育む」ことが本当に正しかったのか問う時に、実は、経済の考え方にその特徴があり、自然の摂理に従う経済、暮らし方が災害に強く、地域振興にとっても大切な考えだと思っている。グローバル経済に100%依存しない、翻弄されない考え方を大切にしている。
◆それは、「お金」は人間が作った道具であり、神様が作って自然界に存在するものではない考えで、「道具は目的を達成するために作られ、正しい使い方をするとその目的を達成できハッピーになる。しかし、目的外に使用したり、間違った使い方をすれば、怪我をしたり時には大きな問題を起こす」という考えである。現在の社会問題や紛争の原因をたどると、お金の問題、経済の問題に行き着く。このことは、多くの人が正しいお金の使い方をしてないことになると考えている。
◆100%グローバルな経済に依存しないということは、グローバルマネーだけではなく、別のお金を持つということになる。自然学校は、複数のお金を持っていてグローバルなお金だけに価値を求めていない基本姿勢がある。震災時に起こる経済はグローバル経済だけではく、ボランティア経済が存在している。紙幣というグローバルなお金が介在しなくても、人が動き、物が動き、サービスも動く。大きな震災では行政では復興予算が計上される。
◆これはグローバルマネーであるが、震災直後や復興にはグローバル経済だけではなくボランティア経済で動くことがたくさんあり、復興を牽引したり、後押しをしたり、その可能性に東北地方の農山村のコミュニティには「結い」という関係性がある。グローバルな「お金」とは別の「お金」が存在していると見ることができる。
◆例えば包丁という道具を見た時、何を切るのかで、どの包丁を使うか決まる。出刃包丁、刺身包丁、果物ナイフ……様々な包丁から目的に応じて包丁を選ぶ。「お金」も様々な種類の「お金」を持っているべきだと感じている。
◆くりこま高原自然学校は複数のお金を持っている。例えば、自然学校では冬の暖房は全て薪ストーブであり、建築廃材の処理に困っている工務店から廃材をいただいている、質のいい廃材はストックして建物の材料をして使う、さらに廃材を置くために敷地内に道を作っていただいている。「冬のエネルギー」「建築材料」が手に入り、「道ができる」。このやり取りにグローバルのお金は介在しない。
◆また、自然学校のスタッフは近所の高齢になった農家さんの冬場の屋根の雪下ろしに汗をかくときがある。夏場には今度は野菜などをもらったりする。このように、グローバルなお金が介在しなくても、関係性が成立している。匿名性で競争原理で使われているグローバルマネーに対して、非匿名性で共生を生み出す「結い」や「ボランティア経済」「地域通貨」が今後の持続可能な社会を創造するためには必要な「お金」だと感じている。
◆顔が見える関係で、共生する関係に介在するお金が、自然学校が目指している持続可能な平和で豊かな未来を創ると信じている。社会学でいう社会関係資本(Social Capital)であり、自然学校はこの社会関係資本を大切にしてきた。このことが自然学校がグローバル経済に翻弄されないで活動し続けることができた理由でもある。震災からの復興も、地域の振興、さらにこれからの社会のあり方にとって「社会関係資本」をどのように生かすことができるのか? 「社会関係資本」を生かすことができる人と社会制度が今後の社会に重要になると信じている。(佐々木豊志)
■この春、アリンガノ・マイス(2007年にハワイからミクロネシア連邦のサタワルに住むマウ・ピアイルグに寄贈された双胴の航海カヌー)のクルーのひとりとして、スターナビゲーションを体験しながらオセアニアの海を航海してきました。2月28日にパラオ共和国に入国し、航海の準備をした後、3月15日にコロールの船着場から出航し、ミクロネシア連邦のヤップ州の島々(ングルー、ウォレアイ、イフルーク、エラトー、ラモトレック、サタワル)、そして、北マリアナ諸島のサイパンを経由して、69日目の5月22日にグアムに上陸しました。
◆距離にして約1,550マイル(2,500キロ)。実際の航行距離は、航海の間ずっと北東寄りの風が吹いていたため、ヤップ州東端のサタワルまで何度もタッキングを繰り返さなければならず、約2,500マイル(4000キロ)でした。カヌーでの初めての航海でこれだけの期間と距離を旅した日本人は他にいないかもしれません。クルーはキャプテン・セサリオ(マウ・ピアイルグの息子)の息子ディラン(7歳)を含む10名でパラオ、ミクロネシア、日本、USAの出身者の混成チームでした。
◆「水平線しか見えない世界で、自分が一体何を感じるかを知りたい」、「アリンガノ・マイスに乗って航海してみたい」、「スターナビゲーションを体験してみたい」、そんな想いから今回の旅は始まりました。これまでモロッコの北端からはじまり、西アフリカ、中央アフリカの国々を通り抜け、南アフリカのケープタウンまで旅したアフリカ縦断やカナディアン・カヌーでのユーコン川下りを経験していますが、今回の旅はそれとは比べものにならないくらい過酷なものでした。
◆船酔いによる吐き気、初日からサタワル到着まで続いた夜勤による睡眠不足、缶ミートの単調な食事、降り止まない冷たい雨、デッキが壊れそうなほど大きな音で砕ける波、そして、いつまで経っても見えない島影。途中5日間ほど嵐にも遭い、セイルを下ろし、漂流もしました。特にはじめの4週間は4日に一度は心が挫け、早くここから逃げ出したいと思うほどでした。
◆そんな苦しい航海でしたが、その分、今の自分に自信を持つことができました。また、旅を通じて自分の中に新しい景色や記憶が増えたことも確かです。ずっと見てみたかった360度水平線の世界、ウォレアイで今も何かを守っているように海岸線に佇む日本軍の兵器の残骸、ングルーの空を舞うたくさんの海鳥、帆走するアウトリガー・カヌー、サタワルに降る柔らかい雨、夕焼けに紅く染まる空とイルカの群れ、ずっとこちらを覗いているような満月、島を出る私達を見送る人達の歌声、カヌーの上でくだらない冗談を言い合って、笑い合ったクルー達の笑顔。そして、グアムで別れを告げるときに震えていた仲間の声。そんな風景や記憶が自分の中で何かの意味を持つのは、もう少し時間がかかる気がしています。
◆今回の航海は2,006年、ハワイ島にマイス建造の手伝いに行き、マウやセサリオと知り合ったことがきっかけになって実現したものでした。以前からセサリオに機会があればマイスに乗って航海してみたいと伝えていたところ、グアムで開かれる太平洋芸術祭にカヌーで向かうので、その航海に参加しないかと2013年に誘われたのです。
◆もともとはサイパンからグアムまでの航海に参加する予定だったのですが、最終的に出発地のパラオから乗船することになりました。現在マイスはグアムからサイパンに戻り、これからミクロネシアの島々を経由して、パラオに戻ることになっています。2000年の春に伝統航海術(スターナビゲーション)の存在を知ってから、足掛け16年で今回の航海の機会を得ることができました。今後どんな旅をしていくかは未定ですが、機会があればまたマイスに乗って航海してみたいと思っています。(光菅修)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで添えてください。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。
瀧村英之/伊藤寿男(10,000円)/国枝忠幹 /那須美智(20,000円 いつも楽しく読ませてもらっています。皆さまのご活躍には驚くばかりです。もう8年近く会費をお支払いしていないので2万円送ります)/大竹紀恵(10000円 地平線通信をお送りください。よろしくおねがいします。5年分になるでしょうか。小村寿子様にご紹介いただきました)/筑摩輝平/塚本昌晃 /丸本智也/光菅修
■■第20回植村直己冒険賞の授賞式と記念講演会が、6月11日に植村さんの出身地である豊岡市日高町の日高文化体育館で行われた。周囲は水鏡のような水田とすぐそこに在る濃い緑の山々がどこか懐かしく美しい。雲間から時折陽が差し込む過ごしやすい天候に恵まれ、会場には約850人の市民が訪れた。
◆地元の小学生が合唱でオープニングを飾り、中貝宗治市長が「育てた犬とどこまでも走りたいと、単身で挑戦を続ける人生そのものが冒険」とたたえ、選考委員の椎名誠さんが、「素早く、気持ち良く受賞が決定した。最近気になるのはオトコがだらしなくなってきている……」と選考評を話し、いよいよ本多有香さん登場、市長から賞が贈呈された。
◆続いて受賞者本多さんの挨拶。「昔から、テレビで見たり本を読んだりしてきた植村直己さんという日本の偉大な冒険家の賞をいただけることになり、ほんとに、身に余る光栄です。……ありがとうございました」。……み、短い!
◆本多さんの活動紹介ビデオ(先日放映された番組のダイジェスト版)上映後、『犬と走る喜び』と題し、人前だとたちまち話し終えてしまう本多さんの希望により、江本嘉伸さんとの対談形式で講演会開始。受賞に対する率直な感想を聞かれ、「冒険をしているわけではないので、相応しくないと思いました」との返答を皮切りに、カナダの拠点のこと(自ら森を切り開き、ログハウスを建て、犬小屋を作った)、日々の暮らしのこと(太陽光発電や水汲み)、犬の訓練やレースのこと(犬たちは練習とレース本番の区別がついている、植村直己さんの大きなソリとはずいぶん異なる)、現在29匹の犬がいるが、これ以上増えると餌代がかさんで厳しいことなどなど、多くのスライドを用いて紹介。
◆中でも強調されたのは「犬はレースで走ることを喜んでいる」というものであった。仮に演題に付け足すなら、『“喜ぶ”犬と走る喜び』ということになるだろうか。最後に、江本さんからの「しんどいんだけど、犬たちと一体になって喜ぶ、そういうことですよね?」に、元気に「はい!」と答えて、約50分の講演会は、終始観客にあたたかく見守られる雰囲気のまま終了した。
◆質疑応答では、「1人でいて寂しくないですか」の質問に「犬がいるんで。元々1人が好きだし、寂しいと思ったことはないです」。「犬とうまくいかない時は厳しくしているか」の問いには「怒るのではなく、しつけるということはしています」。「犬の名前はどうやってつけるの?」については「姉や甥がつけてます。ウルトラマンや仮面ライダーの名前とか」。花束を贈呈され、舞台袖に戻る際、最後は駆け足になっている本多さんに、多くの人がほほえんだと思う。
◆授賞式終了後は、場所を地区公民館に移し、「受賞者を囲む会」が開かれた。紅白幕が壁に巡らされ、受付で渡された配席図を見ると、9テーブル各々に本多さんちの犬の名前が冠され、テーブル中央に置いてある表示紙には犬名と写真まで付されていた(イラスト参照)。手作りの料理に舌鼓を打ち、地域や関係者の皆さんから言葉をかけられ、その心のこもったもてなしに、また、楽し気な本多さんの様子を見るにつけ、但馬の地に冒険賞がある良さを感じた。
◆翌日は出石そばを食べに連れて行ってもらった。小皿にのった皿そばを同席者の誰より多く、計23枚たいらげた本多さんであった。8月27日・28日には、植村直己冒険賞20周年を記念し、歴代受賞者を招いたイベントが冒険館で行われるそうだ。きっとまたあたたかくて刺激的な催しになるだろう。(中島ねこ)
■6月10日夕方、梅雨入りした屋久島での奇跡的な快晴に後押しされるように、大阪へと飛んだ。1日に2便ある屋久島から大阪への直行便はこの時期、視界不良ですぐに欠航になる。予約した瞬間からずっと天に祈っていたので、飛行機が飛んだ瞬間に心の中でガッツポーズ! 伊丹空港からバスと電車を乗り継ぎ、兵庫県豊岡市の江原駅に着く頃には、時刻は23時をまわっていた。駅には植村直己冒険賞授賞式を翌日に控えている吉谷館長(植村直己冒険館館長)が迎えに来てくださっていて、申し訳なさとありがたさで恐縮してしまう。やっと辿り着いたホテル。最上階のスイートルームには翌日の準備に勤しむ江本さんと有香さんの姿が。テーブルの上にはもちろん、お約束どおりにビールの缶が積まれていた……。
◆翌日の授賞式のことは、中島ねこさんがその素敵な感性で書いてくださっていると思う。いつも通りの飾らない(飾れない?)有香さん。会場の方々もそんな有香さんを分かってくれたようで、江本さんとのやりとりの中で彼女が戸惑ったりはにかむ度に、ちょこっと笑いが起こった。人なつこいと言われている植村さん縁の賞らしく、あったかい雰囲気だった。
◆それにしても、不思議だ。こんなにも人を惹きつけてしまう有香さんの魅力って何なんだろう。過酷なレースを駆け抜けた功績も、人生をかけてやりたいことを貫く姿勢も、文句なしに素晴らしい。でもそれだけじゃなく、やっぱり彼女自身の持っている何かが、多くの人の心をつかんでいるように感じてならない。受賞式のあとに近くの公民館で行なわれた「受賞者を囲む会」。心づくしの手料理を作ってくれた地元のおばちゃん、おじちゃんたちもみ〜んな、有香さんを好きになっていた。
◆ホテルに戻り、数人で「話すのが苦手」なことについて冗談まじりに話をしていたときのこと。「数学や物理みたいに、答えやゴールが見えているものに向かって、そこへ行くために色んな手段を考えるのだったら得意だし、大好きなんだけど〜」という。まさに今やられていることも、そうなんだろうなあと思う。やりたいことがあって、それに向かってがむしゃらに頑張る毎日。今の時代「やりたいことが見つからない」という若者も多いが、大きな夢だけでなく、身近なところにも「やりたいこと」ってあるはずだ。
◆例えばもう完成しているという手作りのサウナの中に、今度はお風呂を作りたいという。「バイプをこうして、熱を利用して〜、でも銅は高いから〜……」と、有香さんは手振りを交えて目を輝かせ、語ってくれた。やりたいこといっぱいの有香さんは、本当に「幸せ」なんだと思う。だから、彼女の周りの空気が澄んでいる。有香さんを見ていると、自然の中で一から手づくりしてきた暮らしの素晴らしさ、29匹の犬たちと心を通わせることの喜び、そして極北を駆け抜ける犬ぞりの魅力がたっぷり伝わってくる。
◆そしてまた、人間としての大きさも感じる。大胆さと繊細さ、まじめさと適当さ(すみません)、情熱と冷静さ、喜びと悲しみ……いろんな相反するものを、豊かに抱えている人だなあと思う。だから多くの人が自分に近い所で彼女に共感し、自分に無い所にあこがれを抱くのかという気もする。考えても考えても、なんだかよく分からない。やっぱり、「犬たちとの生活が最高に楽しくて幸せ!」という結論になるんだろうなあ。うん、それが一番だ!(屋久島 新垣亜美)
■本多有香さんの植村直己冒険賞の授賞式を観に豊岡市まで伺いました。授賞式という事で関係者による形式的なイメージでしたが、関係者はもとより町の沢山の人達にささえられた暖かい授賞式でした。
◆町の人達自身が植村さんの思いを大切に伝えていこうとする思いを強く感じ、改めて植村直己という冒険家の事をより知りたくなりました。本多さんの記念講演は江本さんとの対談形式で、相変わらずの本多さんの調子でしたが、その不器用な感じも地元の人になじんだのか、本多さんは地元のおばちゃん達に大人気! さすが、本多さんです。そして暖かいおもてなし、豊岡のみなさんありがとうございました!(佐藤日出夫 マッシャー有香ほぼ専属カメラマン 名古屋在住)
■東京では13日、お馴染みの中華料理店「北京」で「お祝いビールパーリー」が開かれた。パーリーというのは、いつぞやの「出版記念パーリー」のときと同じでパーティーの意味。会場内はそのときに作った、わんこたちの写真のタルチョをはじめ、カラフルな電飾や金銀キラキラのパーティーモールがあちこちに飾り付けられ、若干のクリスマス感を醸し出しつつお祝いムードに。“有香さん応援団”の面々であっという間に席が埋め尽くされると、終始熱気にあふれる会になった。
◆進行役の長野さんの頭には、これまた久々の登板となった精巧なわんこヘルメット。まずは丸山さんから乾杯の音頭があると、江本さんと有香さんから豊岡で行われた授賞式と講演会について報告があった。といっても、主に喋っているのは江本さん。たまに有香さんが何か発言して場が沸くと、「豊岡でもそうだし、いつもだいたい1:9で江本が喋っているのに、有香がぽろっと言う1割のほうにインパクトがある」とブツブツ……。有香さんは、「犬はいくら?」「未婚?」という小学生の率直な質問が強く印象に残ったそう。
◆その後、車谷くんがお祝いにと津軽三味線で「じょんがら節」を演奏したのを皮切りに、応援団のうち13人にマイクが回って怒濤の祝辞タイムに突入。まずは九里さんが有香さんとの出会いのエピソードを披露し、「舟津(圭三)さんに紹介されて東京駅近くで昼に会ったが、いきなり『ビールでいいですか』と言われて夜まで延々飲んだ」と言う。翌日、四ッ谷の喫茶店で江本さんに紹介した際にも最初から「ビール」の言葉が出たとか。
◆続く朝日新聞の近藤さんも初対面でビールを飲んだ思い出を交えつつ、「100人の植村候補生がいてもモノになるのは一人か二人。その一人が間違いなく有香さん」と断言。「候補生は名誉や金を求め始めると途端に不純になる。普通は30歳くらいで変節するが、有香さんは43歳になっても変わらない。今後もやり方を変えないだろうし、名誉に興味がなければ金儲けも下手。是非このままでいって下さい」。
◆会場で回覧された植村冒険賞のメダル入り表彰盾にも、有香さんが17年をかけて「犬と走る」という夢を実現したこと、そして「ここまで本気で夢の実現に挑戦し行動する生き方は多くの人に勇気と希望を与えた」との文面があったけれど、名誉も金も求めずにただひたむきにやってきた有香さんってやっぱりすごいと感じる。誰しもこうなりたいとか、これをやって生きていきたいと夢見ることはあるかもしれない。だけど、他人から分かりやすく評価されたり、完走や入賞したりという目に見える結果が長くついてこない切り詰めた生活のなかでも好きなことを好きと信じて続けていくって実際にはとても精神力のいることだ。
◆会場ではCBCによる取材映像(※)も流された。その序盤、帰宅した有香さんが車を下りて犬舎に向かう後ろ姿が俯瞰で映し出されていた。向かう先には尾を振ってクルクル回りながら喜びを露わにする29匹のわんこたち。有香さんってば、なんだか大家族の母ちゃんみたいなんだ。わんこたちに迎えられてきっといま有香さんのなかにパワーが満ちてきている。ああ、これが力の源泉なんだって思える素敵な瞬間の映像だった。
◆その後は江本さんがアカペラでモンゴル民謡「旅ゆく鳥」を歌い、エモ邸に6年間も置かれたままだった有香さんのサックスが引っ張り出されてカッコイイ演奏が披露されたようなされないような曖昧な一幕があり、つまりビールの酔いが場に充満して多少グダグダの流れになりつつ、和やかに、でも熱い時間が過ぎていった。
◆ところで、「文学賞はたくさんあるけど冒険賞はこれしかない」という触れ込みの植村直己冒険賞。わたし自身は本当の意味で賞の価値を理解できていないと思うのだけれど、賞のいいところは多くの人が有香さんのことを知るきっかけになることだと捉えていた。そうして有香さんの生き方に触れたなら、その人はきっと何かを感じる。そんな人が一人でも増えるなら素敵なことだ、って。でも、有名になりたい欲があまりない有香さんにとっても受賞は文句なく嬉しいことだったのだろうか。少しだけ心配になってパーリーの後で訊ねてみた。
◆有香さんは「最初は『えー!』って思った。大きすぎる賞だから」と答えた上で、「でも(受賞を)喜ぶ人がいるんだよって説得されて、そうかなって思った」と言う。新潟のご家族はもちろんだと思うけれど、きっとこの日の会場にいた誰もが「すごく喜んだ人」。有香さんが評価されたことを一緒に誇らしく感じていたし、そのことを知ってもらう機会にもなってよかったと思う。
◆最後に集英社インターナショナルのヤックンこと薬師寺さんから花束の贈呈があり、あっという間にお開きの時間に。薄々気がついているかもしれないが、この日のパーリーも周りの人が熱心に有香さんを語るのが9割で、本人の声は1割も聞けていなかったかも。ここは!とマイクを向けられた有香さんは「忙しいなか集まって下さってありがとうございました」と頭を下げると2秒くらいフリーズ。「た、たのしかったです。ものすごく楽しかったです」。短い挨拶に会場が笑顔になって会はまるく収まった……と思いきや、わたしは聞き逃さなかったのだ。有香さん、「あと5、6杯飲んでいたら江本さんからマイク奪っていたかも」ですって! なんと、ビールを飲ませる量が足りていなかったなんて〜!! ということで有香さんの“しゃべくり”の続きは、またいつか何かのお祝いビールパーリーで!(菊地由美子)
※"Underdog: World's Toughest Dog Sled Race"、アドレスは https://youtu.be/1N0sW698aYs
■本多有香さんに会ったのは2年前の『犬と、走る』出版記念パーティー以来ですが、変わらぬ笑顔とビールの飲みっぷりに安心しました!! これからも「ど根性!」で犬たちと一緒に走り続けてください。(飯野昭司 山形)
■きのうのビール飲もう会では、本多さんや皆さんの笑顔がたくさん見られて楽しかったです。その後、落合さんのクルマで数名と江本さんのお宅になだれこみ、缶ビールを飲んで、朝起きて(通信の編集作業に追われる江本さんの邪魔になりながら)飲んで、昼過ぎに新潟へ向かう本多さんを見送りました。
◆頭がグラグラで本多さんとどんな話をしたのかよく思い出せないのですが、唯一はっきり覚えているのは、本多さんはシラフだと人の目を見て話すのが苦手で、どうしても目線が下がってしまう。すると相手が男の人の場合、もしかしてオレのチャックがあいているんじゃないか……。と心配させてしまうことがある。冒険館のイベントでも、本多さんとの会話中に自分のチャックを触って確認していた男性が2人くらいいた、という話でした!?。
◆ビール会の舞台となった北京のママには、今回も多くのわがままを聞いていただきありがたかったです。本多さんはこの先3〜4年は来日予定がないようなのですが、また特別なお祝い事ができて、北京で皆さんとビールが飲めたら最高です!(大西夏奈子)
■信じられない話ですが、植村直己さんの冒険賞を私がいただけることになりました。何故このただの犬バカが植村さんの賞を?と、色々と思うところはあると思うのですが、私なりに感謝しながらいただくことにしました。授賞式が兵庫県豊岡市で行われるという事で、交通費を支給してもらい仕事を休み犬の世話を近所のマッシャーに頼んで現在日本に来ています。なんだかんだあって、現在29匹もいる犬舎です。仕事も4つ掛け持ちでやっているので、これが終わったらすぐに帰ります。
◆人の良すぎる植村直己冒険館の館長吉谷さんや素敵な話をしてくださる豊岡市の中貝宗治市長、そして心暖かくもてなしてくださった周りの皆様のおかげで、江本さんにほとんど話をさせて逃げる形ではありましたが無事に楽しく授賞式を終えることができました。小学生の合唱やかわいい中学生からの質問、心にしっかりと刻み付けています。食事会でお酌をしてくださった方々も、地元の料理をふるまってくださった方々も、蒸し暑いけれど自然豊かな環境も、目つきの悪いコウノトリたちも、ホテルの所有するヤギ(めぐみ)に会いに行った新垣さんの足首の血を吸いまくった虫たちでさえも、とにかくすべてが愛おしく有り難く感じました。いえ、やっぱり新垣さんの血を吸いまくった虫に愛情はわきません。訂正します。
◆というわけで、植村さんの故郷はこんなにも素晴らしい所なんだと知ることができました。本当に良かったです。ところで豊岡市に居る間私は、人生最初で最後になるであろう一泊6万円のスイートルームに泊まっていました。後で知った話ですが、椎名誠さんが急きょ泊まれなくなったおかげのようです。あの部屋に入った時に初めてものすごい賞をいただいたのだと心から実感しました。どうしていいのか戸惑ったのも最初だけで、あまりの快適さに帰りたくなくなったのは言うまでもありません。もちろん江本さんのお部屋は普通でした。
◆式には中島ねこさんや佐藤日出夫師匠、三輪主彦さん、虫さされで足首を腫らした新垣さんらも来てくださり、夜にはスイートルームで江本さんの歌声響く中楽しく飲むことができました。これから小学校で子供たちにお話をしに行きます。いつも通りの情けない展開になる予感はありますが、昨日出石そばをモリモリ食べたのでそばパワーで乗り切って子供たちに楽しんでもらえるように頑張ります。これが終われば、地平線の方々と「北京」で飲めるというご褒美つきです。
◆今まで本などで読んで知った気になっていた植村さんという人について、ちゃんと深く知ることができたのは本当にうれしいことです。冒険館にたくさんの方が押し寄せて、日本が素敵な国になっていく未来を期待しています。
「植村さんは人として当たり前のことをちゃんとやっていたことがよかったんだ」。館長さんの言葉です。(本多有香 6月12日 @豊岡)
■地平線会議のみなさま。今回のネパールは5月12日から2ヶ月の予定で出かけてきました。すでに6月3日に前半のミッションを終えて下山してきたところです。そして、明日12日には、後半の山場であるチーズ職人の吉田全作さんが日本からやってみえます。ゴタルー(Gothlo放牧専従者)たちにチーズ造りの研修をしていただきます。18日に彼と共に再入山するまで、酪農器具などをカトマンドゥで調達します。ほとんど全てです。
◆彼は「火と鍋と牛乳があればチーズはどこでも造れます」という人なので、不足の器具があれば作ってしまうかもしれません。前回が、といっても18年前ですが、そうでした。研修は6月18日から約3週間。ゴタルー一人ひとりが市場で扱える乳製品の造り手、酪農家を目指して欲しいと思っています。この新しい試みがこの谷に根付くかどうか?彼の研修に参加するゴタルーたちにかかっています。家畜と共にあるものたち同士。強い何かが生まれるにちがいありません。
◆少しさかのぼって報告します。キャンチェン(3800メートル)に到着の翌日5月18日、ゴタルーの一人ツェリン・ワンドゥが新鮮なミルクとヨーグルトをもって、やってきました。去年ゴタルーたちに購入したゾモに子どもが産まれて、搾乳ができるようになったそのお礼だと言って。彼の所有する家畜は全てヤクポ(オスヤク)とブリーモ(メスヤク)でしたから、冬の間は他のゾモを主体とする放牧グループとは別行動でした。
◆多くはランタン谷の入り口ボテコシ左岸の低いところまで下って行きます。ついでながら、ヤクポやブリーモはほとんどこのキャンチェン(標高3800メートル)周辺に野放しの状態です。子どもが産まれても、この時期は搾乳はしないのです。有用な家畜なので、子どもに乳をたっぷり与えるのでしょう。
◆5月23日、冬の放牧地から夏の放牧地へと、村周辺に移動してきました。昨年購入した45頭の半数くらいが子牛を産んだようです。子牛は不益ですが、母親のゾモからは搾乳が可能です。今回のミッションは、このランタン谷に酪農を根付かせること。後半に吉田牧場の吉田全作さんの研修が始まるまでに、どこまで理解されるか私の踏ん張りどころなのです。
◆これまでゴタルーたちはキャンチェンのチーズ工場にミルクを供給し、そのお金で経済の補完をしてきました。これから導入するものは、ゴタルー一人ひとりが市場でも扱えるチーズなどの乳製品を作る人になります。作った製品は新たなゴタルーの組織「ランタン酪農組合」が買い上げます。5月24日、ゴタルー21戸全員集合で会議を持ちました。会議場はユルの草地。背景に昨年の大なだれの生々しい痕が見えます。
◆半年ぶりのゴタルーとの再会です。説明会は順調に進みましたが、これが将来にわたって根付くものになるのか、どうか。後半6月18日からの吉田さんご指導の研修にかかっています。今年67才のダワは、「やってみなければわからない」と言います。昨年全頭を失い冬に5頭を購入しましたが、そのうち2頭が子牛を産みました。彼も研修に参加の予定です。家畜群は今月6月12日〜14日ころ、一気にキャンチェン周辺に上がってきます。
◆今回ゾモTシャツをゴタルーたちにもってきました。写真を撮っているときは気づきませんでしたが、何と嬉しそうな表情でしょう。翌日、早速ゾモTを着込んで町まで下るチメーに会いました。濃いめのピンクがよく似合っていました。ゾモ普及協会からの連絡によると、まだ注文が続いているそうです。ありがとうございます。私も密かに隠しもってきたピンクのゾモTで後半のミッションに精を出します! (貞兼綾子 ランタンプラン)
■例年より少し早く梅雨入りした屋久島は、意外にもさわやかな好天が続いている。でも、いつ、あのむわ〜っとした湿度100パーセント(本当にそう表示される)の日々が羽アリの大群と共にやってくるかと思うと、ちょっとだけ憂鬱。そんなさ中の14日、気象庁の火山噴火予知連絡会で、鹿児島県口永良部島・新岳の噴火警戒レベルが、最高の5(避難)から噴火前の3(入山規制)に引き下げられた。
◆ちょうど1年前の今頃には、隣の口永良部島から避難して来た子どもたちと一緒に学んでいた。昨年の5月29日午前9時59分、鹿児島県口永良部島(通称エラブ)の新岳が噴火。多くの方が屋久島で避難生活を送っていたが、12月末に避難指示解除となった。137人の島民のうち現在は8割ほどの方が島に帰られている。また避難区域の見直しがあるようなので、やっと帰れる方もいそうだ。
◆島での生活再建の様子を島民に聞いた。この3月で島で唯一の医者の任期が終わり、島には医者がいなくなってしまったという。4カ所ある温泉場も噴火の影響で2カ所がまだ使えない。もちろん登山もできないので、観光業の復活はまだ先になるだろうとのこと。
◆それでも、島民の頑張りで、焼酎用の芋の栽培など産業が少しずつ復活してきている。7月の大祭に向け、伝統の棒踊りの練習も行なわれている(これはぜひ見に行きたい!)。高校生になった子どもや山村留学の子どもが3月末に島を出たが、新たに赴任した学校の先生の子どもたちが入学し、少人数ながら小中学校も賑やかそうだ。
◆エラブの学校では、6月1日が海開き。学校にプールがないので、海で水泳の授業をしている。きっと大はしゃぎでやっていることだろう。夜になるとエラブオオコウモリの鳴き声で賑やかだと、島の知り合いが嬉しそうに言っていた。色々不便はあっても、やっぱり住み慣れた島での生活が幸せそうだ。ちなみにエラブオオコウモリは屋久島にはおらず、屋久島にいるヤクザルはエラブにはいない。12キロしか離れていない島なのに、面白いなあと思う。
◆警戒レベルが下がって良かったが、大事なことは自然の恩恵を受ける生活がいかに素晴らしいか、ということだ。そして自然の中で暮らす事でこそ、危険を察知したり身を守る知恵が身についていく。自然災害の多い日本だからこそ、子どもの頃から山、川、海に親しむことが大事だと思う。(屋久島 新垣亜美)
■6月は、スペシャルな月となった。なにせ、シールエミコさんと、本多有香さんが同時帰国していたのだ。私が大阪でシールエミコさんと会える予定だった日には、残念ながらエミコさん風邪のため、「テンカラ食堂ファンの集い」に切り替えとなってしまったが、遠くは北海道や東京や岡山から集まった方々とともに、美味しく楽しい時間を過ごさせてもらった。
◆その4日後、大阪のメーカーに挨拶に来た有香さんに合流。なんと、有香さんはエミコさんのファンだという。実はエミコさんも帰国前に本多さんに会えないかと話をしていたので、相思相愛であることが発覚(笑)。同席していた岸本実千代さんが素早くビデオ通話でつなぎ、楽しげな邂逅に立ち会えたのだった。翌々日、復活したエミコさんはカラオケを楽しんだとか。
■江本さんこんばんは。山辺です。函館の子、見つかって良かったですね。地平線からオファー出しましたか?(笑)手ブラの状態で、山の中に6日間も一人でいた精神力、対応力、根性は信じられません。僕も調べたら家を出て1493日も経っていました。よくまあ、ここまでカネが続いたと思います。
◆昨日やっと宮城県に入りました。南部藩から伊達藩へ。歩いていたら「通報されたから話を聞かせて」と警察が来ました。この旅では、もう何度も警察が来てるので攻略済み。「止まれ」と言われても「ただ歩いて旅行してるだけですよー」と歩き続けます。向こうもガンバって付いて来ながらアレコレ質問して来ます。
◆「ドコから来たの?」「ドコへ行くの?」「名前は?」しかしですよ、自分がドコの誰かも名乗らない、質問する理由も言わない自称警察官の他人に、なんで答えにゃならんのだ?「西から」「行けるトコまで」「名乗るほどの者じゃありません」急いでるのでさようなら。そう言って歩き続けます。それでもしつこく聞いてくる。それでもしつこく歩き続ける。
◆しばらくすると、パトカー置いてきたことに気付く。「パトカーとって来るから待ってなさい」誰が待つねん(笑)俺はただ歩いてるだけ。これ以外にも対策済みなので、いまは華麗にスルー出来てます。宮城からは山形、米沢、会津を通って関東に出ます。ホントは八戸から海沿いを通って仙台まで行きたかった。5年前、震災ボランティアで陸前高田にいたから、その後どうなったかを見て歩きたかった。「歩いてる姿を見たら元気をあげれるよ」とも言われた。
◆しかし、海沿いはまだまだ復興途中で整備されていない。道も悪くダンプカーが行き交い砂埃が待っていると聞いた。チャリで越えて来た人もいるが、歩きだと邪魔になるし、補給や寝床が困難に思えた。多くの人が亡くなった場所で野宿するのは怖い。もともと城巡りの旅だから、無理せず4号線を南下しました。除染されたとはいえ、福島では変なトコで野宿出来ないとも思います。いろいろ不安はありますが、大阪城まであと半年。ガンバって歩きます。(6月8日)
■5月12日に函館からフェリーで青森県の大間崎に渡り今日で20日目。今は岩手県の岩手町にいます。盛岡から北へ40km辺りの田舎町。今夜から雨が降るので、道の駅「石神の丘」で休憩がてら、ここまでの事を書きます。初日、函館は雨でしたが海を渡ると快晴。さっそく大間のマグロを食べて本州再上陸を祝いました。甲冑を着て、本州最北端の岬に立ち「この旅もあと半年で終わる」と思うと少しさみしい。
◆岬の食堂で女将さんが、ウニや海鮮丼をご馳走してくれた。幸先の良いスタート。翌日から下北半島を南下。むつ湾で獲れたホタテは、デカく分厚く旨汁が詰まっていた。青森の人は意外と明るくお話し好きなようで、歩いてるとよく声をかけられます。8日目に青森駅に到着。駅前でりんごジュースを買い乾杯した。青森のりんごジュースはスーパーに売ってる物とは全く違い、格別に旨い。なぜだろう?
◆青森からは七戸、八戸、二戸と旧南部藩のお城を巡り歩く。山を削り、空堀で囲った中世風の山城が多い。重機もない時代によく山中を平らにして、何メートルもの堀を掘ったと思う。18日目に岩手県に入る。青森に続き岩手の人も親切で、公園にテントを張っても追い出されたりせず、逆に話しかけられ応援されます。
◆九戸城に行きましたが、ここは今までとスタイルが違った。南部氏の城でしたが、秀吉の奥州仕置きの時に、豊臣風の城に作り替えたそうです。山を中心に曲線的な作りから、平らで直線的、土塁から石垣積み、空堀から水濠と一気に近世城郭へと変貌していた。大阪にいながらに岩手の大名の城を自分好みに作り替える秀吉。これほどの権力者は日本史上秀吉だけだと思う。
◆そして昨日、国道4号線の最高地点「十三本木峠」を越えて来ました。標高は458mと低いけど、30kmずーっと登り坂と言うのはほとほと疲れるもので、二度と歩きたくありません。これからは盛岡に行き、仙台、山形、米沢、会津と東北を南下します。東京には8月頃に着きます。日程が合えば地平線にも行きたいですね。それでは失礼します。(5月31日)(山辺剣)
■このところ写真展が合計4つ同時進行という、恐ろしい状況となっていた。すべてラテンアメリカ関連の写真だが、とりわけ気合が入ったのは大昔から騒ぎ続けてきたペルーの先住民写真家マルティン・チャンビだ。この自腹持ち出し企画は地平線通信でも紹介記事を掲載していただいたが、お陰さまで大好評の大盛況。平日5時まで、日曜祭日閉館という悪条件にも拘わらず、1週間の会期延長も含め26日間で合計1500名を超すペルー大使館始まって以来の大記録をマークした。
◆すかさず無鉄砲に悪乗りするのは、親ゆずりの悪い癖。まだ見足りないもっと見せろ出し惜しみするな等々のお声に答えて、再度展示する運びとなった。もちろん自腹アゲインだが、若干の作品を入れ替えて本邦初公開作品を含む32点と写真集や評伝などで構成。前回お運びいただいた方はもう一度、まだの向きはぜひこの機会にお運びくだされませ。やはりこの人、先住民という以前にとにかく天才である。
◆三宿のギャラリーSUNDAYにて、6月13日(月)から7月3日(日)まで。年中無休の入場無料、原則11時30分〜22時、水曜日のみ18時までとなっているが、イベントや貸し切り予約などもあるので、WEBか電話で要確認。http://sunday-cafe.jp/ またはTEL:03-6413-8055まで。
◆ついでに、6月24日(金)からは六本木ミッドタウンのフジフイルム・スクエアで「南米大陸 いちばん遠い地球」と題する写真展もスタート。野町和嘉氏、ドクトル関野氏、中村征夫氏ほか大巨匠の作品と一緒に、当方のカーニバル写真が9点ほど並びます。入場無料で7月13日(水)まで、10時〜19時で会期中は無休。
◆おっとっと、それより何よりマルティン・チャンビは写真業界でもかなり話題になったが、日本ではラテンアメリカ写真という分野がまったく知られていない、という恐るべき事実が判明した。ラテン系の写真集が日本で一番多くそろっているのは、実は我が家の本棚だったのだ。なぜか放置プレイ状態で無視されているだけかと思っていたが、本当に誰も何も知らなかったのである。
◆ラテン音楽やラテンアメリカ文学には熱狂的ファンもいるし、それなりに認知されているが、こと写真に関してはほぼ未開拓。これぞパイオニアワークではないかってなわけで、秋から写真評論家の飯沢耕太郎氏とラテンアメリカ写真のワークショップを始めるか、なんぞという思わぬ企画も生まれて、この先の展開が楽しみな今日この頃である。さてまた、近々に南半球方面へ出撃となる。では、さらば。(ZZz-カーニバル評論家)
■はじめて、お便りします。昨年の「日本冒険フォーラム」に参加させていただき地平線会議のことを知りました。「地平線通信445号」の表紙の題字をみて一瞬、懐かしさと、言いようのない感覚に陥った。そこには、「HORIZON KOMMUNIKATION 445」と読めた。おまけに行(ぎょう)が変わるトンツーが入っているではないか。この符号は実際にトンツー(モールス符号)を聞きながら、送信者と受信者との間で自動解釈される符号である。このことを知っている江本さんは無線通信士の資格保持者なのか?(失礼ながら)小生、無線従事者として親近感を感じます。
◆今は殆ど、使われなくなったトンツー。ITUに加盟していない国かアマチュア無線あるいは、ARDF競技でしか使われない。新幹線や在来線の緊急時の場合にSOS表示がある。モールス符号の代名詞である。Help me ! の表示よりもSOSのほうが非常感、緊迫感、緊急感があるのではないか。現在、1998年からスタートした新ルールに基づくGMDSS搭載がITUに規定されている。小生もこのGMDSSに規定されている仕事を現職としている(海外生活も含みます)。
◆トンツーのお話はこれくらいにして。小生は皆様のような、世界を相手に華々しい冒険等の経験がありませんが、今は、走ることに夢中です。それも、Long走やトレイルランニング。今年も昨年に引き続き、日本山岳耐久レース、STY (Shizuoka to Yamanashi)80km、サロマ湖50km (100kmは抽選漏れ)、高3の孫と走る、津軽ジャーニーラン200kmの予定されている。
◆小学生の頃は走るのが苦手で運動会はいやでした。オリエンテーリングを40年くらいやっています。地図読み、コンパスワークはまあまあ。走力をと思い走るようになった。しかし、今は、OL(オリエンテーリング)のHPを見るよりも、トレラン大会のHPを見るほうが多い。今しばらくは、走ることと現職との平衡を保ちながら何かに夢中になりたいと思っています。(愛媛県今治市 徳野利幸)
★GMDSSは、「Global Maritime Distress and Safety System」の略。「海上における遭難及び安全に関する世界的な制度」
■第6回【信州森フェス!】が来たる6月25日(土)、26(日)に長野県上田市で開催されます。コスタリカの森林保護を支援するNPO「にっぽんこどものじゃんぐる」主宰の福永一美さんを実行委員長に、「遊びながら“うっかり”森林の事も少し知ってしまう場」というコンセプトを持つ手作りフェスです。2010年に以前から友人の福永さんと一緒にコスタリカを旅したつながりで私(長野)も副実行委員長に名を連ねてます。
◆面白がりばかりの実行委員8名は皆手弁当ですが、豊富な人脈を生かして多彩な出演者に協力して頂いてます。今年は糞土師の伊沢正名さん、ケーナ奏者の長岡竜介さんという地平線会議ゆかりのお二人にも講演、演奏して頂く他、本橋成一監督の「アラヤシキの住人たち」、民映研出身の今井友樹監督の「鳥の道を越えて」の上映もあります。もちろんフェスだからバンド演奏もありますが、ロック、サイケデリックロック、なんとクラシック、フォークまで色とりどり。
◆販売展示ブース、フードも多数出店しますが、いずれも「森や自然との共生」をコンセプトとして持つ出店者に限っています。会場は天竜スギの6m通し柱を配した元スキーロッヂで、丘の上の別天地です。入場無料(映画は有料)。ご興味ある方、まずはサイトを覗いてみて下さいね〜。(地平線イラストレーター長野亮之介)
★信州森フェス!公式FBページ
https://www.facebook.com/shinshumorifes.info/
■6月7日午後、長野駅前の平安堂長野店で、第5回梅棹忠夫山と探検文学賞の授賞式が行われた。先月の地平線通信で本人が書いているように、受賞者は『ツンドラ・サバイバル』を書いた服部文祥氏。長い間、「山」をテーマに新しい文章世界を築いてきた服部の初の受賞作だ。未読の人は、ぜひ読んでほしい。
第1部「サバイバル・ニッポン」、第2部「ツンドラ・サバイバル」の2部構成から成る。1部2章の「黄泉の山」は、傑出したクライマーであり、優れたカメラマンである平出和也との狩猟サバイバルの現場だ。滑落事故が起き、九死に一生を得ての生還劇は、ドキュメンタリー番組「情熱大陸」で放映され、多くの人に服部文祥の存在を印象づけた。
2部は、地平線仲間の中には、より懐かしく感じる人もいるかもしれない。2013年12月27日、416回目の地平線報告会で「チュコトのサムライ」のタイトルで話してもらった内容が中心だから。この旅もNHK・BSプレミアムの番組(2014年1月2日放送)で紹介されたので、報告会を聞き、ドキュメンタリーを見た身には理解しやすい。が、書かれていることは痛烈だ。
ロシア極北のチュコット半島で偶然出会った狩人、ミーシャとの氷原の旅が活き活きと描かれる。「デルスー・ウザーラ」を愛読し「ズルをしない生き方」を標榜してきた登山家が言葉は通じない狩人の心に出会い、「世界は生きるに値する」と感動する場面が印象的だ。
「ミーシャだけじゃない。私が知らないだけで世界中にそんな猟師がたくさんいる」こんなことを書ける作家は世界でも数人しかいないだろう。
チュコットに旅立つにあたり、服部は旅について次のような感慨を書く。
「旅の経験を積んだ『かわいい子』の末路がたんなる旅慣れた事情通にしかならないなら、旅とは、裕福な人間だけに許された『のぞき見物』になってしまう。」
すべての旅好きには、ぎくっ、とさせられる言葉だ。彼が人生の大命題であるとする「この世界に対してゲストでありたくない」という思想は、実は今年から始まる祝日「山の日」の根幹に本来あってほしいものだ。
服部文祥のことを初めて知ったのは、20年前、日本山岳会青年部K2登山隊のメンバーだった時だ。「岳人」に書いた文章が反骨精神に溢れ、おっ、と思った。当時の名は村田文祥。結婚して服部姓になった。その後の彼の生き方はご存知の通りだ。
著書の最後にミーシャからの手紙の写真が紹介されている。ロシア語なのでコピーを送ってもらったことがあり、7日の席で一部を披露させてもらった。
「私たちは、互いに通訳を介さなくてもわかりあえました。あなたと一緒だとまったく気が楽で、緊張しなかった。エルギドギンへの私たちの旅をよく思い出します。そして、もう一度あなたとチュコットのどこかを歩くことを夢に見ています。
服部さん、これがわたしの最後の望みです。もう一度あなたに会いたい!」
なんだか世紀の恋物語を読んだような気がした。(江本嘉伸)
■「物事は本当に小さなことから、大きなことにつながるんだって思った」。 先月、ネパールから帰国したばかりの小学5年生、内田馨(かおる)くんがこんなことを言った。海外旅行といえばリゾート地に行くのが常だった内田くん。たまたま新聞でネパールの支援についての記事を読んだことをきっかけに、周りの大人たちを動かし、この春、震災で被害を受けたネパールの街を訪ね、支援をすることになった。
◆今年4月下旬、私は内田くんとともにネパールを訪れた。目的は、震災から1年の節目となる日に、エベレスト街道の古い拠点、ジリの学校で子どもたちとともに手作りのドームテントを建てるためだ。ネパール地震以来、私は「極地建築家」で元南極観測隊隊員の村上祐資(ゆうすけ)さんとともに、ネパールにドームテントを送る活動にかかわってきた。村上さんは「月に家をつくる」ことを目標に、南極をはじめ富士山山頂、エベレストBCなど、厳しい環境での暮らしを体験し、極地の建築について考えてきた。
◆ネパール地震の直後、エベレストBC滞在の縁もあったネパールに入った村上さんは、プラスチック段ボールという素材でつくる手製のドームテントを現地に送る活動を始めた。子ども向け新聞の記者をしている私は、子どもたち自身が募金以外の方法で行える被災地支援の形の一つとしてこのプロジェクトに魅力を感じ、読者に呼びかけ、村上さんとともに子どもたちとテントを制作した。その後ドームはカトマンズ郊外の村に届けられ、現地で役立っている報告ができた。
◆ちょうどそのころ、抽選に漏れてこの活動に参加できなかった当時4年生だった内田くんの親から連絡があった。どうしてもネパールのために行動したいと思った内田くんは、校長先生に相談し、3学期に学校の授業で制作することになったという。その後、4年生約90人は総合学習の時間や自主的に放課後も残り、ドームテントを完成させた。テントは地震から1年になるタイミングで、先のジリという町の学校に届けられることとなった。
◆「せっかくなら、自分の手で届けたい」。村上さんの誘いもあって、内田くんも両親や校長先生の了承を得て、たった一人で参加することになった。10歳の少年にとっては大冒険である。カトマンズから車で悪路を揺られること1日。ジリに入った。訪ねた学校は、標高約2千メートルの町を見降ろす高台にある公立学校。5〜15歳を中心とする子ども約350人が通う。震災で、生徒は全員無事だったが、6棟の校舎が倒壊した。一部の校舎はすでに建てなおされ、残りの校舎も崩れた部分が補修され、現在、授業は通常通り行われている。
◆日本からの訪問客に子どもたちの視線が集まる。内田くんは校門をくぐるとき、前も見られないほどに緊張していた。ただ作業が始まると、身振り手振りで意思を伝え、子どもたちと汗を流す内田くんの姿があった。ドームが完成するとみんなで中に集まり、歌をうたった。
◆ここに至るまで1年もの時間がかかった。約9千人もの人が亡くなり、2万人以上が負傷した大地震。わずか1棟のドームが果たせる物理的な意味はわずかかもしれない。すでに緊急支援の時期も過ぎている。ただこの1棟のドームの背景には、村上さんをはじめ、ネパールという遠い国の震災に強烈な関心と意思を持って取り組んだひとりの日本の小学生がいて、彼を支えた学校の先生がいて、ネパールという遠い国のことを頭に浮かべながら作業した90人の児童の時間と思いがある。ドームを受け取った校長先生は「わざわざ遠い道を訪ね、子どもたちと関わって頂いたことに感謝します」と語った。
◆その日の午後、内田くんは「地震のおかげって言ったら変ですけど、震災が起きたから僕はネパールに来ることができ、ネパールの人たちと出会うことができ、喜んでもらえた。震災は悲しみだけがすべてじゃないと思った」と語った。この一年、日本とネパールを往復し続け、計8棟のドームを届けた村上さんは「ネパールには、震災のさなかにあっても祈りを欠かさず、丁寧に、しなやかに暮らす人たちがいます。支援から始まった活動ですが、僕は来るたびにネパールのことが好きになっていきました。今もなお被害に心を痛めている人がいるのもたしかです。また熊本の震災がおきた直後、ここに来ることについて考えたこともありました。でもネパールの人たちの姿を伝えることで、日本にも勇気を与えられるのではないかと感じています」と話した。
◆内田くんは近日、学校にもどって先生や仲間の前でネパールで学んだことを発表する予定という。みんなの前で、どんな話をするのか、ぜひ聞きに行こうと思っている。(今井尚)
【先月号の発送請負人】
■地平線通信445号は、5月13日に印刷、封入作業をし、14日郵便局に渡しました。今回は、はじめ少人数で心配しましたが、後から何人か駆けつけてくれ、無事作業を終えました。いつものように、「北京」で楽しく餃子会を開きました。今回は、江本の昔の取材話が多かったかな。汗を流してくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。
車谷建太 森井祐介 前田庄司 加藤千晶 江本嘉伸 伊藤里香 福田晴子 杉山貴章 松沢亮
■5月末から、貴州大学で日本語を教えている友人(日本人♀)を訪ねて6日間、ふらりと見て歩きの旅をしてきた。貴州省は、内陸中国南西部の、まあ、田舎です。大学は、中国政府が各州の拠点大学として指定する名門ではあるが、沿岸部に比べれば、大学評価もまだまだなのだそうな。100年以上の歴史を持つキャンパスはうっそうとした森のごとし。教室や学生寮(学生は原則全員、学内寮居住)の古いしっくいやレンガの低層ビルが樹木の間に密に並んで、クラシックと言うよりは、古色蒼然。
◆しかしその在籍者が5万人余、と聞いて驚く。貴陽市やその周辺に点在している9つの学部を統合するため新キャンパスの建設が進んでいる由、その工事現場には驚嘆した。山を削りながら、土ぼこりの中、同時並行で高層ビルを建てる。その規模、迫力、日本の宅地開発の比ではない。でかい!早い!そして力ずく!
◆学生諸君は素朴にして勤勉。なぜ日本語を? と聞くと、圧倒的多数が「漫画」「アニメ」に魅せられて、と答えた。こまやかな心理描写にひかれた、とも。ところが、くだけたビールの席、目の前の女子に「中国の若い女性の美質って何?」と聞いたら「思想です」と返されて、仰天。「共産党思想を正しく理解して実践すること」と。「党員になるための講座に参加中」という学生も少なくない。信条なのか、将来のための便宜なのか、イチゲンの日本人には透視不可。漫画と共産党が若い男女の中に同居している。
◆このあと、友人の通訳付きで少数民族、トン族、ミャオ族の村への3泊の旅に出たのだが、その間も、「過去と現在の重なり」とでも言うような日常を目にした。例えば、できたて新幹線。待合室など空港のような巨大サイズ。駅舎に入るにもパスポートを見せてX線透視の手荷物検査ありというものものしさ。が、モダンなトイレでは、入口の係員に「水が出ない。使用不可」と遮られ、別のトイレでは、「自動蛇口」に手をかざすも水が出るのは7個中、2個だけ。車両は日本風の見慣れた造りだが、車両間の自動ドアが開かない。服務員が舌打ちをしてドアをこじ開けて固定し、そのまま行ってしまった。
◆訪れたトン族の村。人々は独自の言語を繰り、文字を持たない。歴史や決まりごとはすべて歌で伝えられる。文字化しようという運動もあるようだが、すでに衛星放送のテレビを通じて共通語としての漢語(普通話)が浸透し始め、人々は画面の下に表示される字幕で「漢語発音とその文字」を身につけつつある。
◆家屋にニワトリが同居、食事のたびに畑や裏山から野菜・野草を摘んでくるという生活。女性はみな同じ民族衣装の同じスタイル。自分で織った布を自分で染めて仕立てたという人もいる。そんな中、なんとWiFiが通じる。多くの人がスマホを持ち、おそらく闇だろう、上海のギャンブル会社のネット宝くじにリアルタイムで参加、一喜一憂する。
◆チャーターした車でミャオ族の村に移動した際は、幹線道路と高速道路に肝をつぶした。片側3車線の幅広道路。谷の深いカルスト地形の同省をとにかくまっすぐに走る。だから谷を横切る道路の高架の高く長いことと言ったら。空を飛ぶ気分。トンネルは長々、地下帝国に通じるがごとし。これまた日本の比ではない。建設には解放軍を動員したと聞いた。でかい!早い!力ずく! が、村の運転手は道中、ごみを窓から捨てる。道路わきには景色に似合わぬ派手な色のプラごみが点々。そういえば、たしか村の泥の道路も同様だった。
◆そしてミャオ族の村。田園ののどかさ……はいずこ? 村の斜面のてっぺんまで、外部資本だというホテル、民宿がびっしり。深夜まで大音量の流行歌が響き渡る。でかい!あっという間!力ずく! そしてここでも民宿やバーに通じる小路はプラごみ点々。
◆どうしても技術導入の素早さと、変わらない生活習慣と言うものとの時間差について考えてしまう。西欧社会では(良し悪しは別として)、様々な技術や制度は試行錯誤や社会の修正という手順を経て徐々に開発されてきた。それを扱う「お作法」も、並行して成熟してきたはず。途上国(便宜上、こう言わせて)は、「進んだ」技術に出会ったとき、その手順をスキップして突然、異世界に入る。日本の維新はその典型だ。だが、あの時代の「時間差」は、まだ「後発組の全力疾走」で、手痛い経験をも糧に、どうにか取り戻すことができた(ように見える)。
◆ところがコンピューターやケミカル素材が登場した今、それをもたらした社会と初めて手にする社会の「差」はあのころの比ではない。それを使う「お作法」習得には時間がかかる。貧しい村に都会の娯楽が無遠慮に入り込む。道端で自然に朽ち果てた包装材は、合成樹脂に変わってそのまま残る。広大な学舎や新幹線のメンテナンスは? 仰天の高速道路も、ゴミ箱になっちゃう?
◆先端技術を取り入れ、追開発するのはどの社会でも一部エリート。それをメンテナンスしながら使いこなすのは一般大衆。その意識・知識・技能の差の大小こそが、開発後の継続の姿を決めるのではないか。壮大な新幹線駅ができたら、そのトイレの蛇口をメンテするのは町の普通のワーカーだ。プラ製品ができたら、その廃棄を村の人々はどう扱う? 国家権力が進める先端エリートの技術を、大衆はきちんと後追いできるのか。
◆壮大な実験進行中の中国。でかく早く力ずくの先端技術はたしかに見た! 感服脱帽。が、それに社会がどう追いつくか。今後のウォッチのキモが見えてきた気がする。(北村節子)
■6月9日、2冊の綺麗な本が同時に届いた。一冊は多胡光純(たご・てるよし)さんの『空と大地』。モーターパラグライダーで浮遊しながら世界と日本の各地を撮影してきた空の旅の集大成。三洋化成工業という会社のPR誌に5年間連載したものをまとめた本。丸山純さんの制作で写真、文章の配置が素晴らしい。たごっちは、ある程度自分で売れるらしいので、入手方法はいずれお知らせします。
◆もう一冊は、地平線会議の皆さんに協力してもらった「2015 日本冒険フォーラム」の記録。きれいで貴重な記録に仕上がっている。植村直己冒険館の発行だが、編集全般をやはり丸山純さんが引き受けた。こちらは部数が少なく、地平線分としていただいた分から当日スタッフとして頑張ってくれた方々にはお渡しできるが、ほかの希望者にはどうするか思案中です。
◆ところで、地平線通信の表紙のイラスト題字、毎号しっかり読んでますか? 長野亮之介画伯がその月の報告会の性格をとらえ、最終ページのイラストと連動するかたちでアイデアを絞り出す。たとえば、先月の通信の表紙は「モールス信号」とわかった人はほとんどいないだろう。今号で指摘してくれた人がいた(江本自身はモールスはまったくできない)のでわかったが、別に読み手が皆わからなくてもいい、と画伯は考えているのだろう。で、今月の表紙の題字わかりますか?
◆亮之介流縄文模様である。よく見ると中に「地平線通信」の漢字が隠れている。才能ある画伯が毎月毎月、頭をひねって創り出すものが私にはなんとも楽しいのです。毎号、ありがとう!(江本嘉伸)
火星のジョーモン人
「もし火星に住むなら、大工さんもいない、十分な資材もない所でまず住居をどうやって作るのか? これ、極地と同じ課題なんです」と言うのは極地建築家の村上祐資(ゆうすけ)さん(38)。 旧石器時代の竪穴式住居に憧れて建築学の研究者になったものの、机上の学問に疑問を持ちます。現代において縄文人的アプローチで建築を考える場は宇宙だとヒラメキました。「宇宙は、縄文人にとっての森みたいのもの」と村上さん。研究室を飛び出し、宇宙の住居を考えるために南極越冬隊に参加。エベレストB.C.、シシャパンマB.C.などでの暮らしも体験しました。 現在は火星有人探査のための実験プロジェクト〔MARS160〕の7名のクルーに初の日本人として選ばれ、これから火星を想定した極地の閉鎖環境に160日間暮らすミッションを控えています。「宇宙をサバイバルの場ではなく、暮らしの場として考える発想転換が必要。極地建築家は、空間の設計だけでなく、時間とクルーの生活環境まで考える仕事です」。今月は村上さんに火星をめぐる冒険の話をして頂きます。乞御期待! |
地平線通信 446号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2016年6月15日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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