5月11日。気温25℃。東京は曇り。新聞各紙はそろってアメリカのオバマ大統領が今月27日、広島を訪問することを大きくトップ記事で伝えている。核兵器がいかに残酷な卑怯なものであるかを仕掛けた国のリーダーが知ることは大事なことだ。謝罪は条件ではなく、すこしでもリアルに理解することが。
◆北朝鮮からは、今日まで朝鮮労働党第7回大会の模様が連日のように伝えられている。120人もの報道関係者が集結したのに、党大会の取材はいっさい許されず、ほぼ毎日針金工場や産婦人科病院の見学に向けられた、という。最終日に選ばれた30人ほどが会議場の取材が許されたが、それもわずか10分足らず。おいおい、どうして記者たちを呼んだのだよ、と思いつつ、昔のことを思い出した。
◆1972年8月、私は初めての中国1泊2日の旅から帰ったところだった。上海舞劇団という、毛沢東の妻、江青が肩入れしていたバレエ団が日本で公演を終えて帰国する際、日本航空、全日空の特別機が上海へ飛んだ。国交のない当時、もちろん航空機の往来はない。近く実現するであろう日中航空路線をねらう両社がそれぞれ1機ずつを用意した。
◆そしてせっかくの一番機、メディア各社からも1人ずつ試乗できることになったのだ。私の新聞社では、社会部で「国際派」とみなされ、“竹のカーテン”の中国に関心を持っていた私を選んだのである。国交のない当時、中国大使館はなかった。私はよく恵比寿の「中日貿易弁事処駐東京連絡処」というところに顔を出していた。短い滞在だったが、文化大革命が完全には終息していなかった、垣間見た中国は、驚くほど貧しかった。そのことはいずれ書く。
◆8月17日(そういえば、我らが本多有香は、まさにこの日に生まれたのだ)、延長希望は認められずわずか1日で帰された私は「1泊2日の駆け足旅行記」という情けない記事を書いた。「江本君、今度は北朝鮮に行かないか?」と言われたのはその直後だった。
◆南北赤十字会談という北朝鮮と韓国の歴史的な会談が平壌で間もなく開かれる。韓国から代表団が板門店経由で入る予定で日本からも数社の取材が認められている。しかし、私のいる新聞社が申請した元ソウル特派員は北朝鮮、具体的には朝鮮総連のメガネに叶わなかった、この際行けるなら君が行ってくれないか。そういう話だった。
◆閉ざされている場所ならなんとしても入り込んでみたい。そういう地平線の思想が私の根っこにある。のちのチベットもモンゴルも、北極もそういう試練の場であった。行きます、と即答して総連の知り合いに連絡を取った。あなたならなんとかなるかもしれない、とにかく発ってください、ということになった。
◆平壌での南北本会談は8月30日に始まる。入国許可が出るまで待っていられないので8月26日、香港行きの飛行機に飛び乗った。国交も航空協定もなかった当時、中国に入るのは香港経由しかなかった。ここで平壌から東京の本社に電報が届いたことを知った。「welcome visit of correspondent Emoto Yoshinobu to our country want to know arrival date Pyongyang and course Korean Journalist Union」よかった!間に合うかもしれない。本来、内容が問われるのが私の仕事だが、目的とする事象に間に合ったかどうか、は時に内容以上に大事なのだ。
◆翌27日、香港から羅湖を経由して中国入り、税関のチェックを受けて広州行きの列車に飛び乗った。水牛が水浴びし、バナナが実り、白壁には「毛沢東思想勝利万歳」「農業は大寨に学べ」などのスローガンが掲示されていた。この国ではまだ文化大革命の残り火が消えず広がっていることを、10日前の上海での歓迎イベントでも思い知ったが、あれだけの強烈な嵐が一気に終息することはできないのだろう。
◆広州で飛行機に乗り、20時過ぎ北京空港着。やれやれ。ここからが、今回の本番である。北京では文革報道で各国の記者たちが追放された閉ざされた世界で、日本の朝日、読売、共同通信の記者たちが頑張っていた。なんというか、ここは存在するだけで独特の緊張感があった。
◆8月29日午前5時には起きて北京空港へ。7時30分、飛び立った中国民航機はいったん瀋陽で着陸したあと、10時すぎ鴨緑江を越えて朝鮮の領域に入った。正午過ぎ、だだっ広い平壌空港に着陸。13時30分には大同江ホテルに着いた。労働新聞の論評員、日本語を話すパクさんが私を迎えてくれた。
◆本論はここからなのだが、たまたま当時のメモが出てきたので、今回は「44年前の北朝鮮入国まで」を書いた。金正恩がまだ誕生していないどころか、父親の金正日ですら表に出ていなかった時代。1か月に及んだこの時の旅のことは、実は帰国後何も書けなかった。私の新聞社のソウル支局が閉鎖されるという思いもかけない事態が起き編集幹部から「とにかく何も書くな」とストップをかけられたのだった。北朝鮮で何を見たか、は次の機会に。(江本嘉伸)
■とうとうきたか……栄えある444回目の報告者である宮城公博クンの話は、江本さんがよく言う「報告すべきタイミング」で、しかも極上の時が巡ってきた中での報告だったと思う。なぜならば、スライドをまじえて紹介してくれたとんでもない登攀「黒部横断ゴールデンピラー」の直後であること、初めての著書『外道クライマー』が3月に上梓され彼の人気がうなぎのぼりで高まりつつあること、そして、こんなことをやり続けている彼が生きて自ら語れること……それらがドンピシャにはまったタイミングだったからだ。2年前は、こんなタイミングが巡ってくることをまわりも、本人も想像していなかったと思うのだ。
◆宮城クンはまたの名を“舐め太郎”といい、インターネットでは“セクシー登山部”というブログに“韓国エステとウインタークライミングの融合”という副題までつけて自身の山行記録などを発表してきた。名前も内容も実に破廉恥で、エロ本ばりのいやらしい表現や、雪山で撮影したビキニの女性の映像までてんこ盛りで(実際はビキニの女装趣味の男性の映像、なのだが)、雪山でのトレーニングである「雪上訓練(せつじょうくんれん……ときにせっくんと呼ぶ)」をわざわざカタカナで“セックン”と表現し、おいおい、どこまで人の下劣な関心を煽ろうとしているんだよ、というほどのエロモード満載の山ブログを展開していた。発見したばかりのころは、まあ、若さだけが取り柄の、自己顕示欲にまみれた人なんだろうなと思ったものだ。
◆しかし、彼のブログの文章を読むと、その登山の記録は興味を引くものだった。表現も巧みで、むむっとうなってしまう表現が随所に散見されてついつい引き込まれてしまう。ちょっと哲学的で思索的で、もっと彼の文章を読んでやってもいいかもな(上から目線)……と思い始めていたちょうどそのころ、私は宮城クンから直接のアプローチを受けたのだった。「今度、女子と一緒に山へ行くので一緒に行きませんか」というもので、山をはじめて数ヶ月だけれどモチベーションの高い女子を連れて冬の錫状岳を登りに行くので、一緒に行こう、ついてはテント泊の技術について彼女に教えてほしいというものだった。冬の錫状岳といえば、それなりの経験があるアルパインクライマーが通うエリアであり、そこに初心者の女子を連れて行くという発想に度肝を抜かれたが、基本的に面白がりの私は、二つ返事で行くことが決まった。
◆はたして初対面の宮城クンの印象は「常識的なふつうの人」。降り積もる雪をラッセルしながら岩場までのアプローチでも、それなりに話しが盛り上がり、話のツボも共有できそうで、それまでもっていた変態のイメージは払拭されることとなった。自己顕示欲もうるさいというほどではなく、むしろフツーの若い男と比べれば自制が効いて落ち着きさえ感じるほどだった。年は違うが、まあ、肩の凝らない、どちらかというと気の合う友達になれそうだな、というのが第一印象となった。
◆報告会でもハナシがあったが、宮城クンは、サブカルおたくからアルパインクライミングの世界に入るという、めずらしい経歴を持つ。山をはじめたきっかけは自主映画を撮るためで、そこで山登りそのものに「何かある」と直感し、独学で山を学んできたという。サブカルチャーの定義とは「社会で支配的な文化の中で異なった行動をし、しばしば独自の信条を持つ人々の独特な文化」であり上位文化に対しての下位文化と位置づけられるらしい……。そもそもサブカルチャーには既存のヒエラルキーに対する批判という視点が存在している。そう考えると、いまの宮城クンの立ち位置がよく理解できる、と思う。
◆登山の世界は、ブルジョアの遊びであるという歴史の上に成り立っている。「外道クライマー」の解説に探検家であり作家の角幡唯介くんが見事な冒険論を展開しているように、そこには敢然たるヒエラルキーが存在していて、宮城クンはあえてそれを暴くような言動を繰り返す。それは単に自分を安全圏に置いたまま批判するだけではなく、登山を韓国エステと融合してみたり、裸で凍った滝に挑んでみたり、眉間に皺を寄せたくなるような下劣な事柄と登山をかけあわせ、自らその場に自分を立たせることで、あんたたちのやっている上品をみせかけた登山とはしょせんその程度じゃないんですかとでも言いたげに、ヒエラルキーを崩そうと挑んでくるのだ。
◆ただ、宮城クンが特異なのは、ヒエラルキー批判というちょっと威勢のいい若者であればだれでも思いつきそうな枠を超えて、一歩踏み込んで、登山界がヒエラルキーに絡めとられているうちに失いつつあったその核心…創造性や冒険性の追求という王道を体現し、命がかかるようなぎりぎりの現場に身を置いていることだ。『外道クライマー』にも詳しく書かれているが、冬の称名滝などの登攀は、当時だれも手をつけていなかったという意味で創造的で、命がかかるという意味で冒険的で、彼はそんな登攀をいくつも成し遂げ、ヒエラルキーに縛られ本質を見失いつつある登山界が抱える命題に対し真っ向からドヤ顔を向けているように見える。
◆しかし、これらの登攀が成し遂げられたのは、宮城クンの実力もさることながら、ともにロープを組むパートナーである、世界の佐藤裕介らの存在が大きい。実際、称名滝の冬期登攀や台湾のチャーカンシー、黒部横断ゴールデンピラーの発案は、パートナーたちによるものだ。しかし、社会的な意味で冒険を位置づける感覚は、おそらくだれよりも相対的に物事をとらえるバランス感覚のある宮城クンにかなわないのではないかと思う。
◆逮捕されて大問題となった、那智の滝の登攀劇を知ったとき、社会的に「やってしまった」ことを事前に想定し理解していたのは、宮城クンだけだったろうな、と思った。クライマーとしての純度の高い佐藤裕介くんや大西良治さんは、登攀への情熱が先行しすぎて、ここまでの社会的なインパクトを想定していなかっただろうと思う。宮城クンは、アルパインクライミングというニッチな世界とサブカルチャーという大衆文化をひとりの人間の中に同居させることのできるバランス感覚と、それを一般化し言語化できる表現力を併せ持つ、とても稀有な存在であり表現者だと思う。
◆それにしても、今回の報告会では、改めて宮城クンの現状把握能力やバランス感覚に気づかされた。というのも、報告会ではまず2014年のパキスタンカラコルムのK6遠征の写真から紹介をはじめたからだ。パキスタンの鋭い光に映し出された映像は美しく、迫力がある。仲間2人とルートの核心部は抜けたものの天候悪化で敗退した遠征だったが、語る内容は「大きな壁と同じようにふもとの小さな石などボルダーにも登って楽しむんです」「海外の壁はスケールが大きいけれど日本の壁とやることはかわらないんです」「こういう海外の壁は日本で登りこむことと生活技術があればできるんです」「登るより氷の壁を削って寝床を作る方がたいへんなんです」など、キャッチーな写真を見せながらも日本の登山とさほどかわらないことを端々に入れて話す。
◆そして、「若手クライマーの死亡率の高さ」や「自分も良くいままで生きてこれた」などアルパインクライミングは死に近い行為であること、死なないためには「登る技術とともに生活技術、これをやったら死ぬなという臭覚のようなもの、下りる技術」が必要であり、そのうえで「より高く、より困難で、だれもやっていないことを目指す」。それが、アルパインクライミングなのだと説明する。それを前提として説明したうえで、「本当は黒部のハナシだけしたかったのだけど、写真がしょぼいので」と黒部横断ゴールデンピラーの写真に移る。
◆黒部横断ゴールデンピラーとは、2016年2月3日から3月2日、32日間をかけ、佐藤裕介、伊藤仰二らとともに行った登山で、その内容は、長野側の赤岩尾根から鹿島槍を経由し、牛首尾根を下り十字峡を徒渉、トサカ尾根末端壁(劔沢大滝左ゴールデンピラー)を冬季初登、黒部別山北尾根、真砂尾根、別山尾根から劔岳に登頂し、32日目に早月尾根下山というもの。「岩と氷というヨーロッパの風土と異なる日本において、最も厳しい状況は何かといえば他の国に見られないほどの豪雪」。そこで、最も厳しい時期を選んで、長野側から富山へと抜ける豪雪地をつなげ、かつ、その中心部に位置する未踏の壁を登攀する計画がこの登山だった。
◆ひとり35〜40kg背負っての入山。「はじめから待機することを想定しているので、食糧はハムやチーズ、ラードを多めに持参し充実していた」。核心のゴールデンピラー手前では、天候と積雪の安定を待つため19日間雪洞で過ごす。「晴れても積雪が安定するまで待機しなければならなかった。外でラジオ体操したり、テント内ではフォーメーションCという合理的な過ごし方を編み出したり、お互いをマッサージしたり、ネットで気象情報を入手したりして過ごした」。
◆そして22日目十中八九だめでしょと思いながらもゴールデンピラーに近づき状況を見て登攀を成功させた。「K6からの下山でかかった時間は半日、今回の中心部である黒部別山から逃げようとしたら富山側でも長野側でも1週間はかかる。K6より黒部の方が充実した」という。「装備は熱に弱い6.5mmダイニーマを使うなどギリギリの選択をした」「マニュアルに書いてあった、じゃなく、この壁に登るには何が必要かと合理的に考えた結果の選択だった」。
◆冬にそんなとんでもない山行を成功させた宮城クン、夏は沢のゴルジュ登攀を中心に活動する。「山は下から状況を観察できるけれど、ゴルジュはそこに行くまで状況がわからないので総合的な技術とともに本能で物事を感じる能力が必要になる。世界には踏破されていないゴルジュが無数にあり、地底や海底や火星と並んで人類としての未知がまだ残っている」。「暇があればグーグルアースで世界中のゴルジュを探してます」。
◆そういえば「おれファッションにも関心が高いんです」とナナメから物をいう宮城クンは、山ファッションにおいても一家言あるらしい。「山の世界に山スカートを広めた四角友里さんはパンクですよ。ファッションに詳しい俺にはそれがわかるんです」。宮城クン曰く、山ではファッションにおいてもヒエラルキーが存在しており、四角さんは山スカートやあたらしいスタイルを提案しそれらを壊し揺さぶろうとしているというのだ……。
◆しかし、そんなファッションフリークを自任する彼の報告会当日のいでたちは、垢の染み付いた薄汚れたクライミングジャケットにタオルを首から下げ、ひげは伸び、どうみてもレゲエのお兄さんか土方の仕事帰りですかと聞きたくなるような小汚いスタイルだった。まあ、これも、ファッションに関心が高い彼である以上は、計算しつくしたのちの、おれの立ち位置みたいなものの表現……だよね。きっと。(恩田真砂美)
■2時間半は意外と短いとは聞いていましたが、本当に短い。話したかった部分の核心部がまるで喋れなかったので不本意かつ、来て頂いた人に申し訳なかったなぁと……。
◆ゴルジュ突破とアルパインは文化としてますます先細ってます。もう先細り過ぎて針の先端が見えなくなるぐらい先細っているのですが、その芯の部分は今も昔も変わらず存在し続けています。それは山をエゴイスティックな表現行為と自覚して自然と向き合い続けることです。間違えても間違わなくても死ぬかもしれないのですから、山に対してどこまで主体的でいられるかということが、覚悟を自分の責任にできるかどうかを左右します。
◆マナスル初登頂のように登山が国威発揚の意義を持っていた時代ならヒーローになれたであろうクライマーが僕の周りにいくらかぶらついています。それは不遇であると同時に、何も背負わされないことで自由を約束されています。誰かのため、なんていうような余分な装飾を抜きにして、欲望に忠実に歩める今は、クライマーにとっては幸福な時代なのかもしれません。
◆シリアスな場面、笑えるほど滑稽な場面、非日常の依存性、想定の範囲外から襲ってくる猛威に対して、深く自分を見つめながら生きるということに向かい可能性を取捨選択するというゲームが登山であり、そこに探検というものを付け加えるとゴルジュ的になり、スポーツ性を見出すとアルパインっぽくなり、自然崇拝をつけると黒部的になりますね。とはいえ、どれも安易にカテゴライズできるような代物ではなく、遊びとして終わりのない深いものです。(宮城公博)
■宮城公博さんの話のうまさわかりやすさおもしろさが、もしかしたら行為そのもののスゴさを見えにくくしちゃってないかなと思った。今のペースで進んでゆけば、そう遠くないうちに死んじゃうな……。有能な若手クライマーに対してそのような言い方は失礼きわまりないことは百も承知だけれど。 宮城さんの取り組んでいるようなアルパインクライミングがどのようなものか少し説明したほうがいいと思う。
◆不確定要素と理不尽を積み木のように積み上げた危うい世界。最新の装備で身をかため、充分な体力トレーニングを積み、たしかな技術を磨き、あらゆる科学技術を駆使して気象データを集めたところで、失敗するときは失敗するし死ぬときは死ぬ。 長い時間をかけてコツコツと精進をつづけてゆけばやがて血となり肉となるだの、死ぬ気になってことにあたるならば道はかならず開けるだの、そんな安っぽいサクセス・ストーリーとは次元がちがう。
◆報告会の会場で写されたカラコルムの山での記念撮影の写真だが、3人のうちの1人は昨秋にソロでヒマラヤの氷壁に向かい行方不明になっている。 余談になるがわたしが二十代のころに席を置いていた同人・登攀クラブ蒼氷は会員数は数名だったが、平均すると1年に1人ずつ山に消えていった。たしか創立10年めで山での死者がちょうど10人だったと思う。山で死んだら一人前なんて冗談半分でいっていたけれど、本気で取り組むとはそういうことでもあった。
◆さらに余計な一言をいわせてもらうならば、我が山岳会、山岳部は創設いらい山での事故死はゼロですと言っているところは、創設いらい活動らしい活動をしていない、あるいはやった気になっているだけともいえる。挑戦をやめるか死ぬか。それが真摯に追求する人の運命。そうした意味では、闘牛や最前線を撮影する戦場カメラマンの世界にも似ている。自殺が目的で行っているのではもちろんない。より厳しくより困難な状況にあえて身を置き、そこから生へ生へと安全圏に向かって脱出してゆく。 宮城さんが取り組んでいるのは、まさにそういう神の領域における行為なのだ。
◆登れて反骨精神旺盛で表現力に長けている若手クライマーの存在は、すっかりエンタメ化してしまった昨今の登山界では貴重だ。目立っている人の多くが登れずマニュアルどおりのことしかしゃべらず。 宮城公博さんのキャラは、登山界においてもはや絶滅危惧動物に近い。だから早死にしないで生きのびてくれ! そして毒舌辛口によりいっそう磨きをかけて、登山界でゴロゴロしとる根性の腐った輩をバッサバッサ斬ってくれ!!(田中幹也)
◆5月の連休は「熊本地震」被災地のボランティア作業に参加するため、九州へ行ってきました。東日本大震災では全国の多くの方々にご支援頂きましたので、少しでも被災地で力になりたい、そんな思いからバイクと共に大阪から新門司へのフェリーで九州に渡り、熊本へ向かいました。
◆まず益城町へ入りました。今回甚大な被害を受けたエリアです。益城町へ向かう途中、崩れた塀やブルーシートで覆われた家屋等所々見ることはあったのですが、益城町に入った途端、様子が一変しました。1階部分が押し潰された建物、全壊した家屋が多く目を覆うばかりでした。当時はまだ規模の大きな余震が継続して発生していたため、本格的な復旧作業は行われていないように見受けられました。また、ボランティアで作業をしている方よりも、建物の被災状況を確認している方を多く目にしました。
◆作業は益城町の北側「大津町」で行いました。GW中は「県外のボランティアは受け付けない」との報道も聞いたのですが、この場はそのようなことはなく、町の総合運動公園内に置かれていたボランティアセンターにて、保険への加入や作業時に使用する備品(ヘルメット、スコップ、土嚢袋等)の支給を受けることが出来ました。
◆作業内容としては個人宅の片付けの依頼が最も多いとのことでした。今回は家屋周辺の倒壊したブロック塀を男性5人で寄せ集め、軽トラ6台分のブロックを仮置場へ運び込む作業を手伝いました。家主の方はご高齢でこのような作業は出来ず、とても喜んでおられました。破損した屋根をブルーシートで覆う依頼も多いのですが、作業中の転落事故が数件発生しているとのことも聞きました。
◆滞在中は同公園内でテントを張りキャンプをしていたのですが、余震による家屋倒壊の危険を避けるため、駐車場には避難の方の車が30〜40台停まっていました。ここには自衛隊が常駐しており、仮設風呂が設営されていました。まだ水道が復旧していないエリアも多く、避難している多くの方々が利用されていました。
◆また、今回はバイクの機動力を生かして、阿蘇周辺の被災状況を見て回りました。大規模な土砂崩れで崩落した「阿蘇大橋」は、現場を目の当たりにすると今後復旧にはどれほど時間を要するのか、想像もできませんでした。阿蘇山南側の俵山峠を越える県道28号線も通行止め。通行止の立て看板の脇をすり抜け、行ける所までと進んでみましたが、トンネル手前の道路が崩落しておりバイクでも走行不可能でした。地獄温泉、垂玉温泉へ通じる県道111号線(南登山道)も道路崩落や土砂を撤去する工事で通行出来ませんでした。この2湯には以前訪れたことがあったため現状を確認したかったのですが、辿り着くことが出来ずに残念でした。
◆今回、熊本でのボランティア活動は1日だけでしたが、被災直後の現場へ赴き、現場での作業に携われたことは自分自身にもプラスになったと感じています。まだ余震も収束しておらず、多くの方々が学校・体育館等での避難生活を余儀なくされていますが東北の被災地と同様に何らかの形で今後も支援していければと思っております。(福島県いわき市 渡辺哲)
■熊本が二度目の震度7の揺れに襲われた3日後、再開した全日空便に乗って羽田空港から熊本県益城町を訪ねた。市街地を歩くと、いたるところで家が崩れ、地面はひび割れ、電線が垂れ下がり、土ぼこりが舞っていた。まだ重機が本格的に活動を始めていないせいか、現場はやけに静かだった。いつまた余震が来るかもしれない恐怖を感じながら、人間の力ではどうすることもできない無力さを感じつつ、重々しい気持ちになった。
◆そんななか、避難所となった益城町のある小学校で出会った2人の女の子が印象的だった。彼女らは手作りのくまモンの帽子をかぶり、台車に牛乳を乗せ、思いっきりの笑顔で、避難者が身を寄せあう体育館を歩く。「牛乳いりませんかぁ〜!」その声は館内に大きく響いていた。牛乳を受け取った男性は「本当に救われた気持ちになるよ」と目を細めた。
◆彼女たちも避難者だ。2人はそれまでは「あいさつする程度の仲」だったというが、この活動をきっかけに友情が深まったそうだ。さらに彼女らは「今まで話したことがなかった町の人と話ができるのが一番楽しい」「牛乳の子だって声をかけてもらえるのがうれしい」と話す。震災からわずか数日にもかかわらず、彼女らは本当に前向きで、まっすぐ前を向いていた。(今井尚)
■地震学に大森公式という日本人の名前のついた重要な公式がある。緊急地震速報はP波とS波の到達の時間差から算出される。この時間差が震源からの距離に関係していることを示したのが大森房吉、東京帝国大地震学教授で世界的な権威であった。地震学教室には助教授として今村恒明がいた。1891年10月濃尾地震(M8.0)がおきた。死者7273名、全壊建物14万棟、岐阜県の根尾谷では延長距離約80km、左横ずれ変位量8m、最大上下変位6mの巨大断層が出現した。この断層は特別天然記念物で、私も何度か訪れた。地学の教科書には必ず載っている。さらに3年後に直下型の明治東京地震(M7)が起きた。当時のランドマークだった凌雲閣も崩れた。
■今村恒明は地震学者として、研究の成果を世に問い、震災の軽減をはかるべきだと考えていた。そこで雑誌「太陽」に「市街地における地震の損害を軽減する簡法」という論説を発表した。当時観測網はまだ貧弱で、科学的予知が無理であることは今村も承知していた。しかし起きたときに準備が整っていれば被害は軽減されるとあえて警告を発した。1万人も亡くなった安政江戸地震(1855年M7)から50年を経た1905年のことだ。しかし新聞は「今村博士の大地震襲来説、東京市10万人大罹災の予言」と報じたため大騒ぎになった。上司の大森は人々の心を沈静させるために今村に訂正記事を出すように指示した。大森は「東京には今後何百年も安政地震のような大地震はない。もしあっても大火災を起こすことはない。10万の死人を生ずるというのは、根拠のない浮説にすぎない」と述べて今村を非難した。
■しかし18年後の1923年9月1日関東大震災(M7.9)は起こった。「大地震はない、10万人の死者なんて」と大森は言ったが火災で10万人以上の人が亡くなった。今村のいうとおり水道設備をきちんとしていればこんなに大きな被害は出なかった。地震時、大森は学術会議でオーストラリアにいたが急きょ船で帰国した。しかし心労で倒れ、2ヶ月後に亡くなった。
◆今村は「関東大震災に於いては、其災害を軽減する手段があらかじめ講究せられなかったのは為政者の責任であった」と当局を非難したが、大森房吉に対しては「立場上仕方がなかった、大森先生も震災を深く憂慮していた」と擁護した。その後今村は自費で観測を続け、東南海地震の警告を発した。しかし1944年東南海地震(M7.9)1946年南海地震(M8.0)が立て続けに起こった。関東大震災以上だったが戦時体制下ではすべて秘密にされた。名古屋の航空機製造が全滅しあのゼロ戦はすべて壊れた。この地震が敗戦の決定的要因になったが、情報は戦後も秘匿された。1980年深溝断層をみて私はとんでもない地震だったということを知った。
■2011年1月NHKで「地震列島・日本の教訓」で今村博士が取り上げられた。3月に東日本大震災がおこって教訓は生かされなかったが、NHKには立派な人材がいると思った。しかし熊本地震のさ中NHKの会長は政府のいうことだけを報道するように指示したと伝えられている。
◆今回の熊本地震でも震度7のあとに家に戻って次の震度7で下敷きになって亡くなった人が大勢いた。気象庁は大地震のあとには余震があることは十分承知していた。だから声を大にして「まだ帰ってはいけない」と連呼するべきだった。しかし混乱させてはいけないという無言の圧力が勝って、控え目に「余震に気をつけて」というだけだった。
◆地震の予知能力は今村先生の時代からほとんど変わっておらず、いつどこでどんな規模の地震が起こるかは分からない。しかし現時点で分かっていることはすべて公表すべきだろう。「デマに惑わされる!」と政府は心配するが、現地対策本部長を5日で解任された防災副大臣やあやしい復興大臣などに比べれば人々ははるかに賢い。
◆ある場所でいつか地震が起こるということは分かっている。ある場所はすでに日本の活断層地図で示されており、「歪」のたまり具合もかなり分かっている。東南海付近、今回の中央構造線に沿った断層帯、フォッサマグナの断層帯など危険地帯は示されている。いつ地震が起こるかは分からなくても危険地帯であれば、今村先生の言うように備えをすることはできる。
◆近年それらの地域では準備が整えられてきている。四国の高知県側では津波の避難経路が示されたり、避難タワーが各所に造られている。行政の対応はかなり進んでいることは確かだが、肝心の人々の関心は薄い。もっと知識高め情報を得ることが必要だ。自分の命は自分で守らなければいけない。
◆わが恩師である町田洋さんは自然の脅威を3つに分けた。1.避けられる脅威、2.逃げれば大丈夫な脅威、3.あきらめるしかない脅威。「あきらめろ」とは乱暴なと思うが人知を越えた脅威というのは実際にある。例えば桜島の内側にある錦江湾は姶良カルデラと呼ばれる火山性の窪地だ。2万9千年前大噴火をして火砕流を噴出した。その厚さは30mにも達した。
◆当時南九州に住んでいた人は誰も逃れることはできなかった。北朝鮮に白頭火山がある。これも超巨大噴火をした。火山灰は日本各地にも広がっている。噴火したのは10世紀、つい最近の出来事であるが、この噴火によって日本に通信使を派遣していた渤海(ぼっかい)という国そのものがなくなった。これら二つの例は「あきらめるしかない」災害で、遭遇したらどうしようもない。
◆逃げられる脅威、今回の熊本地震、5年前の東日本大震災の津波、福島第一原発の被曝など、被災した方々には酷な言い方だが、逃げることはできた脅威だ。逃げることができなかったのは情報の伝達が悪かったからだ。いまの時代、完全に安全な土地は日本中ほとんどない。どこにいても何らかの脅威にさらされるが、自分自身に知識があり、情報伝達を欠かさなければ逃げることはできる。活断層の上に住んでいることを知っていれば、いざという時の逃げ方が違う。断層のつながりを知れば、次は自分のところだという心構えもできる。
◆避けられる脅威 今回の熊本地震をみてもほとんど被害のない建物もたくさんある。阪神大震災以降に建てられた家は耐震基準が強化されている。一昨年のネパール地震の時にはほとんどの家屋が倒れ大ぜいが下敷きになった。ネパール家屋を耐震強化をしておけば助かったものを。避けられる脅威には徹底的に備えておかなければいけない。自分の家やオフィスでも家具は固定しておく。下に潜れるような頑丈な机を用意する。ガス器具は最新式にするとか……。
■いまは「ブラタモリ」や、googleの画像などで、断層に対してかなりの関心が高まっている。今回熊本地震は日本最大の中央構造線(断層線)の延長上の活断層が動いたものだ。中央構造線をgoogle画像で確かめて欲しい。長い目で見ればこの一連の断層帯は必ず動く。しかし備えあればこの断層活動も「逃れることのできる」災害に変わる。
◆ところで今回活動した活断層の北東側には伊方原発があり、少し外れるが南西側には川内原発が稼働している。もし伊方原発が壊れれば放射能でむこう100年ぐらい瀬戸内海は死の海になる。こうなってしまったら「あきらめるしかない災害」だ。しかし今考え方を変えて、原発の場所を変えれば「さけられる」脅威になる。「川内原発は安全」と規制委員会が言うから大丈夫と政府・NHKは報道するが、これは権威ある大森先生の言葉と同じだ。今村先生の勇気が今の時代必要だ。新聞テレビは正しく報道して欲しい。一般人ももっと自然の脅威に知識・関心を持ってほしい。
◆私は地平線でも「体力があれば知力も付いてくる!」と言い続けてきた。最近体力は衰えたが、知力は多少残っている。これからは「自分の命は知力で守る」をテーマにしようと思っている。(三輪主彦)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況をハガキなどで添えてください。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。
奥田啓司/天野賢一/金子浩(10000円 地平線通信をいつも楽しんでいます。いつまで払ったか定かではありません。今年分と残りは寄付でお願いします)/津川芳己/鹿内善三/村田憲明/太田忠行(いつも地平線通信をお送りいただきありがとうございます)/小林祐一/大野哲也(文化人類学を勉強しており、中でも現在「冒険・探検」に関心を寄せています。冒険と探検についていろいろと調べているうちに地平線会議という存在を知り参加しました)/須田忠明(8000円)/向晶子(4000円)/森美南子/李容林
■地平線通信444号は、4月13日に印刷、封入作業を終え、翌14日新宿郵便局に託しました。作業に汗かいてくれたのは、次の皆さんです。多忙な中、ありがとうございました。
車谷建太 伊藤里香 前田庄司 森井祐介 関根皓博 杉山貴章 武田力 江本嘉伸 落合大祐 松澤亮 石原玲
熊本地震が起きたのは、我が家に集配にやってきた新宿局員にできたてほやほやの地平線通信444号を渡した数時間後でした。
みなさ〜んこんにちわ! お変わりありませんか。京都の多胡家です。我が家には、幹の直径が30センチを越えるモチの木が2本生えております。冬場から春先にかけて、毎日のようにその葉を落とし、時に雨樋が詰まるぐらい。その落ち葉も落ちきり、寒々しさを感じておりましたが、いつのまにか枝葉には新芽がつき、再び、こんもりとした緑のモチの木に戻りました。新緑と落ち葉がまみれる様子など、今まで気に留めたことはありませんでしたが、季節は少しずつ確実に前に進んでいるようです。
◆5月に入り、農業の方もピッチが上がってきております。周辺の農家さんも週末はトラクターや軽トラで行ったり来たり。我が家もご近所さんの協力のもと、5月3日に3度目の田起こしを終え、7日に苗代を仕込みました。田植えは6月12日。こちらは茶畑の関係で、田植えは遅いのです。
◆娘のあまりは今年から小学校1年生。うちから600メートルほどの所に彼女がかよう小学校があります。木造の校舎は明治時代に建造された築140年。各学年1クラスずつのつくりで、昔も今も、地元瓶原(みかのはら 現加茂町)の子ども達で賑わいます。全校生徒は50人程。とてもこぢんまりした田舎の学校ならではの、上下の触れあいや田植えや餅つきなど行事が目白押し。なんやかんや地域参加型の小学校のようです。すでに親にも何度かの招集が掛かっています。当の本人は毎日大車輪の小学校生活を楽しんでいるようです。
◆私ごとになりますが、現在、本を書いてます。2003年から始まった空の旅が13年をむかえ、心境や活動方向の変化を感じるようになり、一区切りをつけたい。そして再びその先の空へ飛んで行きたいと思っていたところでした。2014年に出したDVDもその一環でしたが、今回は出版の機会を頂き、執筆に奔走しております。詳細は後日改めてお伝えしますが、文字を繋ぐという作業に怖さを感じております。常に覚悟を問われ、なかば事情聴取を受けているような気分になることも。一方、楽しんでスラスラ書けるところは、自分で仕掛けたプロジェクトだったり。そんな甘いもんじゃないと怒られそうですが、貴重な経験のもと、これから望む空をどう展開するか考えてます。歩未も工房で元気でやってます。(多胡光純 京都)
■5月1日に練馬区の光が丘公園で開催されていた日本最大級のモンゴルの春祭り、ハワリンバヤルに行ってきました。娘の柚妃と一緒においしいモンゴル料理を堪能した後は、モンゴル語教室の出張レッスンで先生の真似事を少々。モンゴル語は初めてという日本人8名ほどに初歩のモンゴル語を教えるのですが、モンゴル人の先生のアシスタントとして娘は発音のお手本、私はキリル文字の読み方をレクチャーしました。
◆スーテーチャ(モンゴルのミルクティー)を飲みながら、日本語にはない発音に苦心しつつもみんな楽しそうに学んでいました。私たち母娘は夏に二度モンゴルの草原に行き、帰国後大好きなモンゴルに近づきたい一心で少しずつ言葉を覚えていったのですが、気付けば初歩はとっくにクリアしてたと気づかせてくれた体験でした。
◆その後ステージ鑑賞に移動してモンゴルの伝統楽器の演奏やロックスターの音楽、子供たちによる舞踊などを楽しんでいると、プログラムにはなかった旭天鵬(現大島親方)のインタビューが始まりました。「誰か質問のある人〜」というMCの問いかけに真っ先にピッと手を挙げたわが娘(地平線報告会に来られている方にはその様子がお分かりになるかと……)。なんと旭天鵬がステージ上に招きあげてくれました。「力士生活と親方生活、どっちが楽しいですか」の質問には、「つらいことや苦しいことがたくさんあったけど力士生活の方がずっと楽しかったよ」と。
◆名前を聞かれて柚妃ですと答えると、「えー!うちの娘もゆずきだよ !偶然だねぇ」と言われびっくりしました。その他にも、逸ノ城と写真が撮れるチャリティーイベントではお手製のうちわを振って猛アピールし、何百人の中の30人に選んでもらい大喜びでした。緊張で顔がガチガチに固まっていても、娘のモンゴル愛と力士愛はそれにも勝っているのです。(瀧本千穂子)
■ゴールデンウイークは埼玉に帰省していました。用事であまりゆっくりとはできませんでしたが、母に録画を頼んであった有香さんのテレビ番組を見られてよかったです! 地平線通信で有香さんの心理状況や大変なレース環境のこと、テレビクルーとの関係のことなどを読んでいたので、どんな番組になったのかと思っていました。
◆でも、どこまでも続く森と雪原の中を走る犬と有香さんの姿が画面に映った瞬間、「有香さんが好きな世界はこれかー!」と、どーんと伝わってきました。犬と一緒に自然の中を走り抜ける幸せは、本当にかけがえのないものなのでしょうね。有香さんの家をお友達が訪れるシーン、有香さんが何かの肉を解体していたのが、すごく気になりました(笑)。うさぎかな? 前に報告会で聞いた、カナダの森の中での生活の話が蘇ってきました。
◆そして、犬、かわいすぎでしたね!! 1頭1頭、もっとよ〜く見たかったです。「うちのわんこは世界一!」の裏表紙みたいに。あの犬たちが成長して活躍している姿に感動してしまいました。有香さんが「マッシャーは学校の先生みたい」と言われていたのが、よくわかります。犬もそれぞれに個性があって、困らされたりもするけれど、みんなめちゃくちゃかわいくて、成長していく姿にたくさんパワーをもらって。私も早く屋久島の子どもたちに会いたくなりました(笑)。
◆有香さん、また仕事で毎日忙しくされているのでしょうね。今回のレースは気持ち的にもとても辛かったでしょうが、次の目標に向けて犬たちと一緒に頑張ってほしいです。応援しています。6月は授賞式ですね。江本さん、また報告を楽しみにしています!(屋久島 新垣亜美)
■「那智の滝事件」「裸ハーネス」「雪中ビキニ」……これらを社会通念、常識に照らせばいずれも「外道」の所業であって、実際にタイホもされている。なのに本人は開き直って、こともあろうか『外道クライマー』のタイトルをつけて本を出してしまった。まったくもってケシカラん話……と言いたいところなのだが、実はこの本が売れている。無名の新人の本が出版即重版なんて、この本が全く売れない時代に、もはや奇跡であり、出版業界においては慶事である。
◆で、読んだ人に話を聞いた。「マジ、腹抱えて笑ったッすよ」と言うのは、最近クライミングジムから登山に嵌ってしまった、三十歳ぐらいの若者。四十半ば過ぎのライターは、さすがにライターだけあって、その文章表現力を褒めた上で、「出てくる人のキャラのエッジが効いてるのが成功の要因かな。登場人物があってはじめて成立する本だね」と評する。
◆確かにキャラクターの立った登場人物が縦横無尽に動き回って笑わせてくれるというのは、今どき売れるエンタメ小説の必須条件である。が、なんかそんな話を聞いても、僕の中では何となくしっくりこなかった。ちなみに僕のことを少しだけお伝えすると、昔、学生時代に某老舗山岳会でシゴキに耐えかねて社会人になってケツをまくってしまったヘタレ中年である。仕事は一応、編集者である。
◆たしかに『外道クライマー』は面白い本である。特に文章がやたらに上手い。しばしば素人が風景描写をするとアホのように形容詞を盛り込んで、気が付いたら景色自体が翳んでしまうのだが、これは違う。簡にして要。最小限の表現で大瀑布の見せたいところをくっきりと浮かび上がらせている。しかも、そこを登るシーンでも、どうしようもなく貧弱なプロテクションで絶望的であるにもかかわらず、時おり軽快なレトリックを挟み込んで重苦しくならないよう上手い具合に“死”の臭いを薄めている。よくある山岳小説だと、主人公が突然スーパーマンになって、得意満面に切り抜けるシーンである。
◆いずれにせよ恐るべし「外道」の筆力! と言いたいところだが、実は筆力だけあっても決して書けるものではない。なぜなら景色を描くにおいては、その景色の何に感動したかを絞り込まなければ、なかなか簡潔な表現は導き出せないし、登攀シーンだって、ただガムシャラに登っていては、自分やパートナーの動きを記憶することは出来ない。ということは、ヤバいところでも、十分に風景を楽しむ余裕があって、登攀にもある程度の確信があるということになる。つまりは登攀能力までも、ズ抜けているのである、この「外道」は!
◆と、外道、外道を繰り返して褒め称えてしまったが、この宮城公博という男が本当に「外道」なのか、ということが、ある意味ここでの本題である。僕はこの本を読んで、ところどころでクスリと笑いはしたが、腹を抱えて笑うことはできなかった。むしろ読んでいて、懐かしいというか、最近の芸人ネタに多い「あるある話」を聞いたような感じがした。というのも、先にお伝えしたように、僕は昔、山岳会で少しばかりシゴかれた経験があって、その周辺には、かつて谷川岳で初登攀を争った猛者がゴロゴロいた。
◆すでに爺さんになっていたけど、その時でさえ、彼らのやることといったら、無茶以外の何ものでもなかった。町での武勇伝はさておき、山に入れば、ウブな新人を捕まえてテラテラに固まった富士山の斜面で、「おい、こっからアイゼン外して、キックステップ」と平然と言う。それが当時の僕にどの程度の恐怖を与えたか、想像してもらうしかないが、「落ちるときは掴まってやる」と心の中でつぶやいたのはたしかである。そんな昔話が、『外道クライマー』を読んでいると、あちこちで蘇ってきた。
◆谷川岳に通った彼らに昔話を聞くと、初登攀を争うために土合駅からテールリッジまで走ったとか、南陵テラスで喧嘩したとかは日常で、その争いに勝つために、あらゆる工夫、悪巧みもしていた。ミソもクソもシモも出てくる悪巧みである。今みたいに優れたギアのない時代の話で技術も違うので、もちろん同列に比べることは出来ないが、どことなく『外道クライマー』を彷彿とさせる。
◆僕は初登攀に全てを賭けていた彼らにずいぶんと憧れていた。憧れていたから『外道クライマー』を読んだとき、素直に「外道」とは思えなかった。憧れたあの先輩たちの中には確かに、確かに、ヒモとか無職とか親のスネかじりとか、学生の僕から見ても社会不適合者は多かったけど、山ヤとしては間違いなく「正統派」で、「外道」なんかではなかった。
◆誰も触れていない美しいルートを見出して、そこに自分のラインを引く。門外漢にとっては何の意味もなさないし、世の中の迷惑こそなれ、役には立たないけどそれで良し。ただただカッコいいと思う。到底及ばなかった僕は、今の時代にそれを求める宮城公博が、その仲間たちとともに、死なず、腐らず、登って登って登り続けて、未踏の景色を教えてくれるのを、これからも楽しみにしたいと言いたいところだが、正直、うらやましいというのが本音である。クソッたれ、俺の人生!(竹中宏 編集者)
■刻々と伝えられる現地からの映像。息をのむ被災現場でした。4月14日夜、熊本地方一帯を襲った地震。最初の地震以来、わずか5日の間に650回以上の地震が頻発。そのうち震度4以上は89回という、とんでもない事態です。5月に入り、3週間を過ぎても震度4、3クラスの余震が連日のように続いている。その現場から逃げられない人々、とりわけ幼児、お年寄りにとって、恐怖はいかばかりだったか、と思います。長期の車中泊でエコノミークラス症候群による死者が相次ぎましたが、そこでしか落ち着けない、というのはわかる気がします。まして、家族同様の犬や猫を抱えては。
◆今回の熊本地震にあたって、3.11をきっかけに活動を続けている一般社団法人RQ災害教育センター(RQと略。江本も役員となっている)は、九州各地の自然学校と協力、4月19日、「RQ九州」を立ち上げ、4月22日には、当センター代表の佐々木豊志と事務局長の八木和美を交えた現地でのミーティングを行い、正式にRQ九州が発足。行政では支援が行き届きにくい被災者を支援していきます。
◆そして4月29日、RQ九州のホームページを開設(RQ理事の落合大祐さんががんばりました)、災害ボランティアの呼びかけと活動支援金の受付を開始しました。
◆支援金は被災者に直接贈られる義援金とは違い、あくまで支援のためのボランティア活動に要するお金の支援です。自分は行けないが、是非応援したい、という方はどうか積極的にご協力ください。専用口座は、以下のサイトに。
◆そして、倒壊した家々への現地の救援活動は、実はこれからです。はじめは県外のボランティアは受け付けない、との地元の方針でしたが、連休が終わってボランティアが激減、多くの地域で人手を求めています。
当面、以下の説明会を開きます。
■5/17 RQ九州報告会・ボランティア説明会(東京)
RQ災害教育センターでは、RQ九州の立ち上げと支援活動のために、佐々木豊志代表理事、八木和美事務局長はじめ、何人かの理事が現地に向かいました。依然として余震が続くいま、被災地はどのような状況なのか。これからボランティアに行くにはどんな準備、心構えが必要なのか。5月17日(火)19時から「RQ九州報告会・ボランティア説明会」を開催します。
【日時】
2016年5月17日(火) 19:00〜21:00
【会場】
RQ災害教育センター
(東京都荒川区西日暮里5-38-5)
【地図】
http://g.co/maps/ykrad
【参加費】
無料
■チベット学者、貞兼綾子さんのネパール・ランタン谷支援の活動に深く共感し、活動支援のためゾモTシャツを制作、販売してきたゾモ普及協会が夏場に向けて、新たに2016年ゾモTシャツの販売を開始した。詳しくは、地平線会議のウェブサイトを参照ください。これまでのTシャツ売上はオトナ1,141枚(2,282,000円)、コドモ31枚(46,500円)合計2,328,500円(制作費を含む)。先月の通信で伝えたように、100万円をあやさんに届けた。
◆なお、ゾモ普及協会は、地平線会議の有志がすこしでも貞兼綾子さんの活動を支援したい、と立ち上げたグループ。代表は江本だが、実質的な労働は田中明美、横内宏美のチベット大好き旅人によるデザイン、包装の手内職に支えられている。ほかにウェブサイトによる販売、在庫管理を落合大祐、Tシャツイラストを長野亮之介が担当し、武田力、丸山純が支えている。(E)
■江本さんこんばんは。行者ニンニク届いて良かったです。あれは僕が山で採ったレア物ですよ。僕はいま北海道の函館にいます。早いものでこの旅も5年目に突入しました。2012年5月8日に神戸を出て、九州、四国、沖縄と渡り歩き、日本海側を北上。昨年8月に宗谷岬に立ち4年がかりで徒歩日本縦断になりました。たかが日本縦断に4年もかかるとは、だらしない奴だと思われますが、僕の場合は鎧兜を持って、城から城へと戦国武将になって進軍しているので、なかなか大変です。
◆旅に出る前に貯めた金も底をつき働きながらの旅路になりました。北海道には2014年9月1日に青森からフェリーで入りました。函館には地平線ねぶた祭会でおなじみの、古道研究家であり新撰組土方歳三研究の第一人者である、もーさんこと毛利剛さんがいます。もーさんは自転車で日本一周したあと、無料のゲストハウス「自遊旅」を主宰しています。冬になれば雪が積もり歩けないので、ここで暫くお世話になりながら、まずはバイト探し。
◆ニセコならスキー場があり冬も仕事があると思い、無謀にもヒルトンホテルに電話をしたら「すぐ来て欲しい」と言われ、あっさり決まりました。放浪者からヒルトンマンへ華麗なる転身。ヒルトンでは皿洗いを希望するも、なぜか製菓部門に配属され、毎日プリンやケーキを作っていました。ヒルトンでの日々はとてもツラく、毎朝5時に寮から社員バスで出勤し、地下のキッチンで何百人分のスイーツを作ります。人手不足だからレストランで接客したり、他部署に応援に行ったりと、とにかく忙しくて奴隷か囚人じゃないかってぐらいコキ使われ、夜に寮に帰って寝るだけの日々でした。
◆ほとんど太陽を浴びないもやし生活。バイトは2014年9月15日〜2015年2月28日までやりました。コキ使われたおかげて、かなりの額を稼げた点では感謝しています。ニセコで越冬し再び函館へ。もーさんが主宰する「松前登城ウォーク」というイベントが2015年4月25日にあるので、それに合わせて僕も北海道一周を開始。
◆このイベントは、松前藩主「武田信広」が歩いた昔の道を松前城まで辿るもの。もーさんは失われたこの道を研究している。僕の役目は、登城して来た人々を甲冑姿で出迎えること。城内は桜が満開。武者姿で歩いていると観光客から喜ばれた。北海道の人は本州と違い、ガツガツ来なくて遠慮がち。反応の良さは断トツで関西で、甲冑着てたらひっぱりだこ。次いで九州、山陰が盛り上がる。島根県では「日本一周してる武将がいる」と噂になり各地で目撃情報がラジオに寄せられ、町行く人から「見つけた」とか「ラジオで探してましたよ」など言われちょっとしたニュースになりました。
◆北海道一周のルートですが、函館から時計回りに歩いて、宗谷岬、納沙布岬、襟裳岬を経て約6ヶ月かかりました。礼文島で漁師をしたり、美幌峠で台風に遭いテントが破れたり、網走でサケを釣ったり、知床で久島さんに会ったり、納沙布岬で爆弾低気圧に遇ったり、日高で雪が降り吹雪の峠越えをしたりと、酸いも甘いもありましたが、冬目前の11月に函館に生還出来ました。
◆この時、所持金1万円。しかたないので、またヒルトンに行きました。2回目なのでソツなく労働。社員登用の誘いも断り再び流浪の民となり函館で旅の準備しています。旅の再開まではゲストハウスのもーさんと古道調査の傍ら、藪漕ぎで遊んでいます。沢を登り崖下り、誰も来ない道なき道には山菜も沢山残っていて、斜面一面行者ニンニクが生えています。
◆こういう場所をいくつか知っているので、いつもリュック一杯採れます。余りにも採れ過ぎたから、江本さんに送った次第です。北海道いいですよ。このあと僕は、5月から青森の大間に渡り大阪まで歩いて帰ります。東京にも立ち寄りますので、その時はよろしくお願いします。もう南の方は歩いたから、大阪城でゴールです。
◆何が起こるかわからないもので、南から先に行ってなければ熊本城には行けなかったでしょう。テレビで見ると凄く壊れて壊滅的被害と言っているが、城は倒れてないし、石垣が少し崩れただけ。領民を収容し籠城しても、まだまだ余裕で戦える戦闘力があり、壊滅してるようには見えません。熊本城の瓦は建物が重さで潰れないように、地震が起きると落ちる仕組みになっています。石垣も昭和の改修の時に、清正時代とは違う積み方をした箇所が崩れています。
◆熊本城は加藤清正が豊臣秀頼に危機が迫った時に避難させるため作った城。そう簡単には崩れません。そのためか、大阪落城後に秀頼が九州に落ち延びたという噂もあります。真田幸村が秀頼を連れて九州に行ったとか、天草四郎が秀頼だったとか。鹿児島には豊臣秀頼の墓がありロマンを感じます。しかし立派な城というのも大変ですね。あんな巨城をこの不況の時代に修復するのは県を滅ぼす一大事ではないでしょうか? いまは修復するにも厳しい規則があり適当に作れませんから。
◆江戸時代には火事や地震で壊れた城を、金がないから建て直さないこともありました。ですが熊本城は観光資源。修復しないわけにはいかないですね。熊本城には井戸や抜け穴など加藤清正が数々の仕掛を施しているから、この際全て調査して、発掘現場を公開しながら焦らずゆっくり復元するのが一番かもしれない。ちょうど姫路城の改修が終ったばかりで職人さんもヒマなのでは? 今現在も熊本城は細川護熙元総理の持ち城。お金はなんぼでもありそうだし。領民に愛される城は何度でも甦ります。城が建つのは地元の誇りと情熱。がんばりましょう。(山辺剣 北海道から)
熊本地震が起こる半月前、私は熊本空港で車を借りて阿蘇南麓を一路、宮崎県延岡市へと走らせていた。目的はいま世界的に注目を集めるロッククライマー・白石阿島さん(14歳)に会うためだ。
3月22日、白石さんのインスタグラムとフェイスブックに彼女が宮崎県の比叡の岩場で、「ホライゾン」という「国内最難の1本」ともいわれる非常に難易度の高い岩登りの課題を登ったことが報告された。その難易度を登った女性は過去にいない。その難易度を登ったクライマーとしても世界最年少となる成果だ。
笑顔が印象的な一見普通の14歳のどこからそんなに強い意志とエネルギーが生まれるのか、どうしても会ってみたかった。
宮崎県比叡山周辺の民家。この日、彼女はクライミングの休息日だった。コタツに当たりながら開口一番、「本当にいまでもまだ信じられない気持ち」と、数日前に達成したばかりの感動を話してくれた。
今回登った「ホライゾン」という課題は、スポーツとしての岩登り(スポーツクライミング)の中でも特に、ロープを使わず高さ数メートル程度の岩を登るボルダリングという分野のもの。
トンネル状に穴があいた岩の天井部分にぶら下がり、横に移動しながら登る。「ほとんどさかさま状態。しかも長い。持久力が必要で、一番難しい核心部分が最後に出てくるので、精神力も必要」と言う。
白石さんは去年12月にもこのエリアを訪れ「ホライゾン」に挑戦した。初登者であるプロ・フリークライマーの小山田大(こやまだ・だい)さんの指導を受けながら、体の動きはすべて理解することができたものの、ついに登れなかった。「くやしくて、くやしくて、涙が出た」
ニューヨークに戻ったあとも、日本でやり残してきたこの課題のことが忘れられなかった。「やったことのない難易度。でも、がんばったらできるかもしれないとトレーニングしてきた」と振り返る。結局「やっぱりもう一度挑戦しなければ」と春休みを利用して再来日することを決めた。
挑戦3日目だった。岩が少し濡れていて状態は悪かったが、ついに登りきった。
ボルダリングには課題ごとにV0から最高V16までの難易度が付けられる。「ホライゾン」はそのうちのV15。成功した3月末時点での年齢は14歳だった。
白石さんは生まれも育ちもアメリカ・ニューヨーク。1978年に渡米した舞踏家の父・久年さんと母・ツヤさんのもとに生まれた。
6歳のころ、よく散歩に訪れていたというセントラルパークで、高さ数メートルの岩を遊びで登ったのがすべての始まりだった。当時フィギュアスケートを習っていたが、「すっかり岩登りに夢中になった。岩登りも体の動かし方が面白く、まるでダンスしているみたい」と言う。その後、練習用のジムに通いはじめ、優秀なコーチに学び、めきめきと腕をあげた。8歳でV10を達成すると、アメリカのクライミング界で注目を集めるようになった。
その後も年々、確実に難易度をあげていった。ロープを使って十数メートル以上の壁を登るリードクライミングでも去年3月、スペインで難易度5・15a(世界最難は5.15c)を成功させた。こちらも女性初、世界最年少だった。
現在はアウトドアメーカー各社がスポンサーとなり、世界各地の岩場を歩く。去年は雑誌「TIME」が選ぶ「最も影響力のある10代 2015」にパキスタンのマララ・ユスフザイさんらと並んで紹介された。
「(集中しきらず)ぶらぶらやっても遠くまではいけない。集中してやれば、たとえできなくてもどんどん近づくことができる」という。
「クライミングは、ほとんど落ちていることのほうが多い。何度やってもできそうにない時は、いつできるんだろうって、いつも思う。くやしくて、あきらめたいと思うこともある。でも、あきらめない。すごく難しいことだけど」
落ちたら立ち上がって、またやってみる。「クライミングは人生と通じる」と話す。
白石さんが次にどんな記録を出すのか、世界中のクライマーたちが注目する。それには「プレッシャーもあります。でもそれは私の目標でもあり、サポートになる。(みんなの期待を)私の力として使っています」。登り続けるモチベーションは、「世界で最も上手なクライマーになりたい」という1点だ。
「阿島」という名前は父の故郷、愛媛県の地名。ニューヨークとはまったくの別世界だが、日本の精神的なものを受け継いでもらいたいとの願いが込められている。白石さんの当面の夢は「2020年に東京でオリンピックに出ること」だ。東京オリンピック大会組織委員会はスポーツクライミングを追加競技としてIOCに提案している。
いま日本では年々スポーツクライミングへの関心が高まっている。日本山岳協会によると競技者人口は推計60万人。全国のクライミングジムの数は2015年現在435。7年前の4.5倍に増えた。国内では新たな岩場のエリアも開拓され、岩と山の楽しみ方が広がっている。宮崎・比叡について白石さんは「素晴らしい課題が多く、まだまだ沢山の(課題となりうる)岩も多い。世界中のトップクライマーが来たいと思うはず」と言う。
これからも「世界中の岩場で、それぞれの地域の人と刺激を与えあいたい。世界じゅうにまだまだ岩はたくさんあるから!」(今井尚)
正直に告白する。5年前のことである。「梅棹忠夫・山と探検文学賞」という新しい文学賞が設立され、しかも第1回目だけは過去5年間に発表された作品が対象となると聞いたとき、その第1回は『サバイバル登山家』が受賞すると思っていた。登山を探検的に行ないながら、それを文字表現にしていくというのは、私の活動のど真ん中である。私以外に誰がもらうんだくらいの勢いだった
ご存知のように、第1回は角幡唯介君の『空白の五マイル』が受賞した。角幡君はその後もすごいノンフィクションを連発したので、審査員には先見の明があったわけである。その裏で私は、「もう、くれるって言っても、もらってやらないもんね」といじけていた。
最近よく思うのだが、本は誰かが読まなければ紙の束でしかない。文字に限らずどんな表現も、見たり聞いたりする受け手がいて、はじめて意味を持つ。なかでも文字表現は受け手が負担する労力、時間、技術(言語力)、出費が多い。楽譜を見て演奏するのと似ているのではないかと思う。もしくはプラモデルのほうが近いかもしれない。
組み上げられたプラモデルの製作者が、田宮模型やバンダイではないように、読者の頭の中に生まれた文字表現も書き手のものではない。
数年前まではそんなこと、つゆほども考えていなかった。だから「登山道を歩くのは登山ではない」とか「山小屋利用はレベルが低い」と、自分の言いたいことを書いていた。不快になるために読書をする人はあまりいないので、「お小言系」の原稿は一般に広く受け入れられることはない。
いまでも、裏表なく表現するのが誠実な態度だと信じている。それでも、あえて必要ないことは黙っていたほうがいいとか、中身は同じでも書き方ひとつで感じ方が違う、といった大人の態度も少しは身に付いた。
といっても優等生的な当たり障りのないことばかりでは原稿は面白くない。一つ一つのパーツを作るのが面白いから、ついつい手を動かしてしまい、完成したプラモデルを見て、作った本人が驚くというのが理想である。
落選の衝撃と傷心、あげくの拒否の誓いから5年が経ち、梅棹賞を私にくれると連絡が来た。「もらってやらないもんね」とは言わずに、いただきますと手を出した。文学賞をもらうのは初めてだし、評価されたら嬉しい。そしてプラモデルを組み立てたのは私ではない。もはや私の安いプライドで断るわけにはいかないのだ。
私がそんな殊勝なことを本当に考えているのか、と疑っている人は多いだろう。私は決して「いい人」ではないが、すくなくとも裏表が少ない人間ではある。だからいい人ではない、以下省略。上に書いたことは本心である。私の原稿が面白いと思って読んでくれる人が、世の中に少々いる。だから原稿依頼もぽつぽつある。印税10パーセントで本を出し続けてくれる出版社もある(ちょっとは売れる)。原稿を書く場所と読んでくれる人がいなければ、書き手として生き続けていくことはできない。書く場所と読み手という循環が書き手を支えている。一人一人が身銭を切って本や雑誌を買うことで、読者は書き手を養っているのである。
ずっと以前から「服部文祥っておもしろいかも」と思って読んでくれた人がいたおかげで、今がある。今回、文学賞という形で、そうした人々の審美眼が、社会一般に認められたという見方もできる。だとしたら、会ったこともない読者の審美眼を証明するためにも、文学賞はありがたくいただくしかない。そうすることで、ずっと以前から私の本を読んでくれていた人は、「今頃遅いんだよ」とか、「ようやくわかったか」と口にする権利がうまれる。すくなくとも私は「今頃遅いんだよ」とつぶやいている。
私は自分の知り合いを『サバイバル登山家』以前以後と「情熱大陸」以前以後で単純に区切ることができる。『サバイバル登山家』以前から、誠実さをもって私に接しようと努めてくれた人々には(仲が良い悪いとか、評価するしないは別として)古い仲間として信頼を置いている。そして(厄介なことに)地平線会議は『サバイバル登山家』以前に属している。ということは、ここまでの理屈を総合すると、地平線の面々は素晴らしい審美眼をもっている上に、私に仲間として信頼されているということになる。
補遺1「副賞」●梅棹賞の副賞は50万円。ここまで書いてきた理屈でいうとその何割りかは読者のものである。というわけで半分の25万円を仲間と飲み食いした。ついでに鹿を撃って、みんなに振る舞うというおまけもつけた。その鹿を撃ちにいくのに、角幡君と八幡暁君がつき合ってくれた。そのあたりのことは「岳人」に書いた。角幡くんは角幡くんで「BE−PAL」に書くらしい。副賞残りの25万円はライフル購入資金に充てた。
補遺2「文学賞」●そもそも文学賞なんか、内需拡大や出版文化の支援くらいが存在意義であり、雑文のネタとして分析し、自慢する価値があるのかは疑問である。今回そこには、あえて触れない。また「自慢は恥ずかしい」という感覚も持ち合わせているつもりである。ただ、こういうタイミングでしか書けないことを書いてしまえという欲が常に勝る。お祭りだと思ってください。
補遺3「執筆」●最近は「岳人」以外では、「フィールダー」「本の雑誌」で連載中です。「ウィルダネス」にも寄稿しました。「つり人別冊 渓流」にも書いています。「オール読み物」でネタにされています(角幡君連載中)。「月刊新潮」に創作第二作(発表する創作としては4作目)が掲載される……といいなあ。ちくま新書「サバイバル!」は改訂増補で近々文庫になります。『サバイバル登山入門』の第二弾も進んでいます。(服部文祥)
■広島のことがメディアで大ニュースとして取り扱われている最中、今朝のNHKテレビ「あさイチ」という番組で「ご長寿ペット」という気になるテーマをやっていた。我が家の麦丸は5月1日で10才になった。元気いっぱいで愛らしさは変わらないが、人間でいえば70才、私と似たもの同士だ。ここ1年、咳き込むようになったので獣医に診せると、心臓に問題があります、と言われた。本人には言っていないが「僧帽弁閉鎖不全症」という。
◆2月末、カナダから本多有香さんが植村直己冒険賞の記者発表で来日した際、麦丸の様子を見て心配してくれた。27頭のわんこと暮らしている有香さんは犬については私の1000倍の勘と知識がある。全治はしないのだ、とひそかに覚悟した。でも、元気であってくれれば、いい。これから先も、麦丸よ、そのままでいいぞ。
◆植村直己冒険賞の授賞式でその本多有香さんが6月に来日する。服部文祥の梅棹忠夫山と探検文学賞の授賞式も6月7日(長野市)だ。地平線の周辺で元気な動きが続くのは嬉しい。で、6月13日(月)19時、いつもの「北京」で「本多有香にビールを飲ませる会」をやります。希望者は大西夏奈子さんのへ。(江本嘉伸)
“生きる力”ってなんだろ?
「被災者だけでなく、現地で支援するボランティアにもサバイバルの力が試されるのが、大規模自然災害の最初の現場なんです」と言うのは佐々木豊志さん(58)。宮城県で主宰する《くりこま高原自然学校》のスキルを活用し、阪神淡路('95)、中越('04)、岩手・宮城('08)、東日本('11)など大震災の復興支援現場に最初に入って活動してきました。 今回の熊本地震でもRQの立ち上げに尽力しています。「熊本は今もオン・タイム。自然災害は同じことがないから、柔軟な対応能力が問われます」。 こうした緊急時の自発的なサバイバル力を養うのが“冒険教育”だと佐々木さんは言います。'41年にイギリスで提唱された野外体験で多様性に対応するノウハウが生きる力を養うという考え方です。 学生時代に冒険教育を学び、以来30年に渡って教育実践とリーダー育成に携わってきた佐々木さんは、支援の現場を通して、その有効性を再確認しました。 今月は佐々木さんの実体験をまじえ、“生きる力”について考えます。 |
地平線通信 445号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2016年5月11日 地平線会議
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