2月10日。天気はいいが、風が冷たい。昨夜は一瞬、ゾッとした。メールがどうしても繋がらないのだ。ほかの日ならともかく、この地平線通信を今日印刷し、封入しなければならない。同時進行の経過がからむため締め切りを特別延長して書いてもらった最後の原稿は、結局メールで受けることができず、夜中の1時にファクスで送ってもらった。
◆明日(つまり、今日です)もこんな状態だったらどうしよう?と激しく悩みつつも、ともかく体力温存が第一、といったん寝てしまうのは「ホクシン・チョノ(「老獪な狼」を意味するモンゴル語)」のふてぶてしさであろう。
◆6時過ぎに起きて、すぐにパソコンをおそるおそる開く。なんと懸案のメールは無事発信されていた。ああ、よかった。この手の「わざ」は本当に苦手で、丸山純氏はじめ強力な援軍がいてくれてこそやってこれたのだが、今回も丸山君にはほんとうにお世話になった。同時に、「受信」より「送信」できないことのほうが、私には強烈なダメッジになることを理解した。
◆1月31日、午前4時に起きた。新宿から直通バスだと30分ほどで羽田空港に着けることをはじめて知った。まだ薄暗い街を新宿まで歩いて行くのは体に良いし、1230円払って乗ってしまえば、赤坂見附、新橋、浜松町、といつもの厄介な乗り換えをせずまっすぐ空港に着けるのは、ほとんど快感だ。
◆6時25分発の鹿児島行きで8時過ぎ早めに着いたのはいいが、目指す開聞岳の麓まで行く高速バスは10時近くまで待たなければならない。鹿児島中央駅までバスで行き、久々に枕崎線に乗った。2両連結の鈍行。日曜日の朝なので、通学の生徒も少なくのどかに青い海を見ながら行く。
◆野元甚蔵さんの一周忌に参加するための旅だが、とうにお寺での読経には間に合わない時間だ。「大山」という駅で降り、開聞岳を右に見やりながらご自宅を目指す。ちょうどご親族の皆さんが昼食を始めているところだった。すっかり馴染みになった方も多く、こちらに「客」の気分はない。久しぶり再会した4兄妹と会って、いろいろ語れたことだけで十分だった。
◆落合大祐さんがつくってくれた「野元甚蔵さんの米寿と長寿を祝う会」の映像のコピーをご兄妹のそれぞれに贈り、大いに喜ばれた。日本山岳会のルームをお借りしてお祝いした10年前の集いの貴重な記録である。せっかくだから開聞岳の麓でもう1日、と考えていたが、この日東京で開かれた植村直己冒険賞選考委の顛末が気になり、最終便をつかまえて、夜のうちに帰京した。
◆2月3日は、梅棹忠夫山と探検文学賞の選考委員会が都内であった。もう第5回である。今年の候補作は、『狩り狩られる経験の現象学』(菅原和孝著 京都大学学術出版会)『アホウドリを追った日本人〜一攫千金の夢と南洋進出〜』(平岡昭利著 岩波書店)『辺境の誇り〜アメリカ先住民と日本人〜』(鎌田遵 集英社)『ツンドラ・サバイバル』(服部文祥著 みすず書房)『ブルーウォーター・ストーリー〜たった一人、南極に挑んだ日本人』(片岡佳哉 舵社)の5作。いずれもかなりの力作で今回も侃々諤々の議論が展開され、最終的に全会一致で一作品に決定した。賞のルールがあって、今日ここでは公表できないが、もう間もなく発表されるはずである。
◆この日、「谷口けいさんを偲ぶ会」の案内が知人を経由して届いた。3月13日の日曜日16時から、青山葬儀場で会費制で営まれる。活躍が多方面にわたり、けいさんを慕う人々が多いだけに彼女の追悼の場の設定は難しかったのだろう、と推測する。「参加費は5000円。会費制とさせていただいておりますのでご香典は辞退させていただきます」とのお父上の意向からなんとなく汲み取れるものがある。けいさんを偲ぶには、山に行って、静かに彼女のことを考えるのが何よりもふさわしい、と考えている私だが、地平線会議を代表する立場としても行くべきか、と考えている。
◆2月6日、アラスカのフェアバンクスを23の犬ぞりチームが出走した。私たちが応援している本多有香さんもその中にいる。現地時間9日21時30分(日本時間10日15時30分)、5つ目のチェックポイント:イーグルに到達した模様(このレースの展開については、7ページを参照ください)。すでに完走を果たしている有香さんだから、以前ほどは心配していないが、今回はテレビ・クルーがつきっきりらしいのが、少し気がかりだ。ご存知のように有香さんはレース中は犬たちのことに120%打ち込み、その他のことには気を使いたくないからだ。
◆ 本多有香と犬たちの足跡を追うドキュメンタリー「犬と私の1600キロ 〜アラスカ・ユーコン 極寒の大地をゆく〜」(仮題)は、NHK BS1で、3月26日(土)22時〜24時「BS1スペシャル」として放映される予定だ。頑張れ、有香!!(江本嘉伸)
■まもなく5回目の「3.11」がやってくる。三陸の津波被災地では「復興」を目指し、今日も防潮堤や高台造成工事の槌音がやまない。一方で、学校は次々と統廃合し、若者は村や町を離れ続けている。2015年、震災後はじめての国勢調査があった。その速報値によれば、前回(2010年)調査と比べて4割近く人口が減った自治体もある。宮城県南三陸町は同約3割減り、同県で最も深刻な自治体の一つだ。今回の報告者は、その南三陸町にボランティアとしてかかわり、ついに移住を決めたという。人が去る街に、どんな魅力を見つけたというのか。
◆「ひぃさん」こと、石井洋子(ひろこ)さんは南三陸町のリンゴ畑のかたすみで暮らしている。「家」はトラックの荷台に乗せられた自作の小屋。この時期、外は氷点下。洗濯物は瞬く間に凍りつく。でも水が蒸発するより、氷が昇華するほうがはやいそうで、「冬はお洗濯がきもちいい」と話す。お風呂は近所に「借り湯」。トイレはあちらこちらで「それなりに」。元気象庁職員で、元南極越冬隊員。これまでやってきたことは、「自分の中ではつながっている」。それをほぼ満席となった地平線会議の場で報告してもらった。
◆岡山県倉敷市で生まれた。干拓地が広がる、田んぼの中。小さい頃は背が低く、偏食で内弁慶。冒険などするタイプではなかった。でも本が好きで、『さまよえる湖』(スウェン・ヘディン著)や、『コンチキ号漂流記』(トール・ヘイエルダール)などを夢中で読んだ。力はなくても、冒険には憧れていた。中学のころ、世の中で地球環境問題が注目されるようになり「自分も自然や環境にかかわる仕事がしたい」と思うようになった。
◆大学で物理学を学び、親に頼まれて受けた公務員試験に「まぐれ」で合格。物理専攻者には気象庁や国立天文台や国土地理院などの進路があった。気象庁に見学に行くと、金髪サンダル履きの職員がいた。公務員のイメージががらりと変わった。女性でも技術的な仕事をさせようという流れもあり、へき地勤務もあると言われ「喜んで」と答えた。気象庁は地球環境を監視して守るのが仕事。自分が子どものころ願っていた仕事につくことができた。
◆気象衛星センター(東京都清瀬市)で、気象衛星から送られる地球の画像を毎日見ていた。しばらくすると、南極に行ける仕事があると知り憧れた。以来、第三希望まで書く転勤希望欄にはいつも「南極」とだけ書いた。少しでも南極に近づこうと、秋田県に転勤し、「高層気象観測」を学んだ。風船を飛ばし、上空30〜35キロの空を連続的に観測する。秋田への転勤がきっかけで東北の人と自然に出会った。
◆各地のお祭りに参加しては踊り、山車や神輿を担いだ。山好きの職員に連れられ、山登りをはじめ「見事にはまった」。沢登りや自転車、シーカヤック、冬はテレマークスキーで雪山をあるいたりと、東北の自然に夢中になった。東北の自然は、どんな人里離れた場所でも、マタギが入り込み、人と自然とのつながりが感じられた。いつか自分も自然と関わりながら生きていたいと考えるようになっていった。
◆あこがれ続けた「南極行き」は11年後、「第49次南極地域観測隊」で実現した。岩と雪と氷しかないため、白と黒と青しかないと思っていたが、「南極は実に色彩豊かな場所だった」。朝やけ夕やけの時間が長い。南極の空気は文明の影響を受けていないため、光を散乱するものが少ない。そのため夜から朝にかけてはっきりしたグラデーションが空に現れるという。
◆「月明かり」ならぬ「星明かり」も感じられた。また昭和基地はオーロラが観測しやすいところにあり、天の川と緑のオーロラを同時に眺めることができた。オーロラは太陽風が地球の大気にぶつかって発光する現象。オーロラの観測をすることで超高層大気の様子がわかるのだそうだ。太陽風の影響を調べれば宇宙もわかる。「南極で、宇宙を感じた」という。
◆会場では、420本ものフィルムで撮影した美しい写真が次々に紹介された。すぐそばまで集まってくるアデリーペンギンたち。ライギョダマシを釣ろうと開けた穴から顔を出したアザラシ……。南極の写真が映し出されると、会場から突っ込んだ質問が相次いだのは、地平線ならではかもしれない。
◆南極越冬隊は29人の隊員だけで厳しい冬を乗り切る。暮らしを支えるのは、南極観測船「しらせ」に積んできた燃料や資材がすべてだ。食事はすべてプロの料理人がつくる。映画「南極料理人」は南極経験者には笑えないリアルさがあるという。料理人たちはいかに限られた食材で隊員たちを満足させるか工夫する。人が一人生きていくのに、年間1トンもの食糧を消費するのだそうだ。これは「南極に行ってはじめて知った」。
◆南極には世界の淡水の97%が集まるといわれるが、液体の水はほぼない。昭和基地の水が足りなくなると、雪や氷を溶かして水作りが始まる。だがそれには燃料がいる。「南極での暮らしは、大量の燃料消費に支えられている」。自然とのつながりの中で暮らしたい。そう思うようになって以来、どんなライフスタイルが自分に合うか、考えていたという。古民家ではない、いわゆる田舎暮らしもちょっとちがう……。
◆そんな時、島根県で子どもたちに自然体験を教える「しまね自然の学校」の岡野正美さんに出会い、焚き火小屋を知った。火が焚けるかまどがあり、ご飯が炊ける。「そこにあるものを生かしながら、光や空気を感じることができる心地よさ。薪が積んである風景が美しかった。これが近いかもしれない」と思った。そんな岡野さんが2011年1月、ロケットストーブを完成させた。もともとはアメリカの大学の先生が開発したもので、日本でも一部の人がつくって使っていた。
◆岡野さんのロケットストーブを見たとき「こいつはすごいなと思っていた」。ロケットストーブとは煙突の周りを断熱することで、熱を逃がさず、煙の中の成分まで二次燃焼させる燃焼効率の高いストーブのこと。散歩で拾える小枝や松ぼっくりでも、実用的な燃料になる。ペール缶とステンレス製の煙突などを使って自作することができるのも特徴だ。
◆南極から帰り、福島地方気象台で勤務を再開する。そこで東日本大震災を経験した。はじめて沿岸被災地に行ったのは2011年4月、桜が満開のころだった。「山積みのガレキから煙が出ていた。ショックを受けた」。ロケットストーブが被災地で役に立つはずと感じ、一斗缶で作れることや、瓦を積み上げるだけでも作れることなど、まずは情報を発信した。でもなかなか実際に作ったという人が現れなかった。
◆「じゃあ届けるしかない」そう思いたち、ロケットストーブをつくって届ける活動を始めた。ガソリンスタンドでオイルを入れるのに使われるペール缶を二つつなげたものが被災地に向いていると判断した。やがて協働の輪は広がり、ガソリンスタンドの人が缶を集め、ドラッグストアの人が発送用の紙おむつの段ボールを集め、石井さんは出来上がったストーブを現地に届けるという部分を担った。島根で作ってもらい、福島に送ってもらい、最後に自分が愛車インプレッサに満載して往復した(一度に最大8基も積み込んだ)。
◆持っていくと「これはいいね、ほしい」と言われた。はじめは避難所などで煮焚きや緊急用に使っていたが、キッチン付きの仮設住宅に移った人からも「ほしい」と言われた。煙も出ず、安全なロケットストーブは仮設の外で使えた。火をたくと、近所の人が集まってくる。すると、そこにはお茶やお漬けものが集まり、焼き芋が始まる。「ロケットストーブは物資の支援だけど、コミュニティーを取り戻す自立のためのツールなんじゃないか」と考えた。
◆子どもたちも火をおこして、自分たちで作って食べた。三陸地方はこれからも何十年かごとに津波が襲う。その時、生き延びられるように、子どもたちに火を使うことなどを教えたいと考える大人もいた。届けたストーブの数は160台以上に上っていた。どこのボランティア団体にも所属せず、ロケットストーブを届けるという支援を続けるうちに「支援って何だろう」と考えるようになった。
◆南三陸には「お茶っこ」でもしようと、誰でも招き入れてもてなしてくれる文化があった。津波にのまれず残った畑でできた野菜を使った漬けものを出してもらった。「支援しなくてはと思っていたが、たんに物資を配るような支援に疑問を持った。本来的に豊かな風土の中で助け合って生きている人たちはむしろ幸せそうだと見えることもあった」。
◆風景の中には、白菜が干してあり、柿があり、石積みがあり、木で船をつくる船大工が残っていた。「生活と自然のつながりや豊かさを見せつけられた。ここの人たちは自立していた。大切な人や家も流されてしまったけれど、大事なものは残っていた」と話す。気象庁の転勤は都市部が中心。いつしか「支援をする側ではなく、お漬けものを出す側になりたい。仲間に入りたい」と思い、移住することを心の中に決めた。
◆2013年3月、気象庁を辞めた。移住しようと思ったが住むところがない。そんなとき、島根の岡野さんにトラックハウスを提案された。中古のトラックを手に入れ、その荷台に家をつくることになった。本当にほしいものはつくるしかない。
◆家作りの一部始終を見ておきたいのと、少しでもいいから出来るところを自作したい、その中で、岡野さんにもの作りなどを学びたいという気持でテントと寝袋を持って島根に通い続けた。ようやくなんとか暮らせる形になったのは2015年。仕事を辞めてから2年がたっていた。
◆こうして「ひぃさん」は今、南三陸のりんご畑の一角で暮らしている。「暮らしを変えたいと思ったとき、それまでの便利さから離れてみないといけない。本当に必要なものは、美しい風景であり、心地よさであり、おいしさだ。南三陸にはそういうものが整っている」。「気象庁やめてどうやって食べていくの?」と聞く人もいた。だが、「そこに人が生きているのだから必ず仕事はある」と思った。
◆いま、「私の勘は間違っていなかった」と笑う。暮らしはじめると、人のつながりが次々と広がり、いまは大工見習や電気工手伝いをし、パン屋も始めようとしている。「気候変動、政治、経済、どれをとってもこれから困難な時代になりそうだけど、南三陸はそういうのを超越して豊かに暮らせる土地だと思う。南三陸で自立した街がつくれれば、日本や世界を変える地域にだってなりうる」と自信たっぷりに話すようすが印象的だった。
◆私も震災後、被災地に何度か通った。南三陸町ではスパイダー(蜘蛛仙人)こと八幡明彦さん(2014年5月、交通事故で逝去)の小屋を訪ねた。八幡さんもまた「南三陸には暮らしのすべてがそろっている」と言っていたのを思い出した。東北で誰かと出会う度、ほんの少しだけ自分の暮らしの軌道も修正された。今のところ東京でやりたいことがあるし、移住するほどの勇気はないけれど、影響を受けたわずかな変化は将来、案外大きな差になるのではないかと感じている。次回はぜひ、南三陸で石井さんにお会いし、ロケットストーブにあたってみたいと思った。(今井尚)
■仙台駅で新幹線から在来線に乗り換え、車窓からひろがる雪景色を眺めてようやく、ほっとした気分になった。「帰ってきた」という安堵感。都市の、はてしないエネルギーと物質、人人人……から抜け出した安堵感。そしてようやく、どうやら無事に地平線会議の報告者としての大役を果たせたらしいという安堵感を、下校時間前の閑散とした車内で静かに感じていた。
◆「東京には興味がないんです」と、江本さんから地平線会議にお誘いを頂いた時に、はじめそう答えたと思う。東京という都市には、興味を失ったのだ。地平線会議というのも、東京に人を呼んでお話させて文化人気取りの人たちだろうかと、まったくもって失礼であると思いながらその印象が拭えなかった。だいたいその場でわたしがお話できることなどないとも思っていた。
◆それにもかかわらず、江本さんから熱心にお誘いを頂き、これは断りきれないと受けてしまった。「地平線会議に集まる人たちは面白いから会っておくといい」そんな言葉にも誘われて。その直後、その面白い人たちにお会いする機会が訪れた。屋久島在住の新垣亜美さんが南三陸町に来られていて、仮設住宅での子どもたちのお泊まり会にお誘いを頂いたのだ。仮設住宅に集まったメンバーの方々が、震災直後からこの地域に関わり信頼関係を築いてこられたということは、子どもたちの楽しみ様からもよくわかる。
◆一緒になって遊び、調理し、食べ、そして大人だけの時間。楽しかった。震災のことにとどまらず、南極、屋久島、ネパールなど話題は広く世界をまたに掛け、それは実際にそこで呼吸した人の口から出た言葉なのだ。ああ、これが地平線会議なのかと思った。
◆年末になって、江本さんから過去の地平線通信などの「資料」を頂いた。びっしりと書き込まれた通信のすみからすみまで読んだ。すっかり寝正月だ(笑)。Facebookなどのソーシャルツールで簡単に情報発信し、「お友達」に「いいね」して拡散してもらえる時代に、手づくりの冊子を発行し続けるエネルギーに、地平線会議の実力を感じた。
◆明確な意志を持って積極的に行動する個々が集まった集団と言えばよいのか。世界を飛び回る行動力と同時にこつこつと小さなものを作り上げる行動力。それが37年も続いている。頭が下がった。ネットで情報を拡散しても、署名を集めても動かないものが、動くとすればこんな力なのかもしれないとも思った。その仲間に入れるなら、とても素晴らしいことだと思った。
◆地平線会議の悪しき(笑)印象は拭えたものの、さてなにをしゃべろうかということには頭を悩ませた。南極には行ったものの、それは長期海外出張のようなもので、私自身何かを成し遂げたわけでも、何かを立ち上げたわけでもない。しょうがないので、生い立ちから今までの一風変わった人生をひと通り話させてもらった。これまでの報告とはちょっと違ったものだったかもしれないと思う。聞いてくださった方がどんなふうに感じたか、この号でのレポートを私も楽しみにしている。
◆電車からBRT(津波で壊滅した気仙沼線を走る「バス高速輸送機関」)に乗り換え、峠を越えると南三陸町だ。海と暮らしの間に立ちはだかるような防潮堤や、大きく削られた山に建つ「今時の」住宅、かさ上げのために高く盛られた土を見ると悲しい気分になる。地平線会議の報告では、南三陸のいいところをいっぱい話したけど、こんな現実もある。目を背けるわけではないけれど、社会構造に由来するこれらを変えたいのなら、自分自身の暮らしを変えて、ほんとうに豊かな人生、本当に豊かな地域のために実践するしかないと思っている。
◆トラックハウスに帰りつき、ロケットストーブに火を入れる。またわたしの日常が戻ってきた。東京の「ルヴァン」のカンパーニュをストーブで炙り、友人にもらった栃の蜂蜜で頂く。旨い。東京では「女わざと自然とのかかわり」展を見に「食と農」の博物館まで足を伸ばした。東北の女性の手わざを丹念に集めて「女わざ」という手づくりの冊子に綴ってきた会と博物館の共同企画であった。
◆東北の布たちを東京で見る。手わざに費やした膨大な仕事量(=愛?)を感じた。ぜひ東北でやってもらいたいなぁ。今回、視点を東京に移し、色々な人とお話できたことで、南極と南三陸という極端に限定され狭くなりかけていた視野を回復することができて、なんだか気持ちがすっきりした気がする。
◆都市は諸悪の根源と思う一方、東京には東京の伝統やいいところがある。一方田舎には田舎の悪い所もある。それもわかって、昔に戻る「田舎暮らし」ではなく、ロケットストーブのあるような新しい田舎暮らしをしたいと思って南三陸に来た。まだ仮暮らしのトラックハウス生活がこれからどうなるのか、不安がないわけではないけれど、今回の報告会で「まちがってない。」との手応えを感じることができました。
◆熱心にお誘いくださり、色々と面倒を見てくださった江本さん、ありがとうございました。おいしいカレーをご馳走さまでした。素敵なイラストと、つながりにくい電話にも関わらず本質に迫る予告を書いてくださった長野さん、技術的なサポートと準備でお世話になりました丸山さん、ありがとうございました! 会えた人も会えなかった人も、ありがとうございました。南三陸はやっぱり素敵なのだ。ぜひ、遊びにきてくださいね!(石井洋子)
◆この年末にも、子どもお泊まり会をしに南三陸町志津川を訪れた。2011年の夏からはじめて10回以上になるが、仲間共々、行く度に成長していく子ども達に会うのを心から楽しみにしている。仮設住宅の集会所に集まり、みんなで遊んでご飯を作って食べて寝るだけなのに、仲間と過ごす時間のかけがえのなさを思わずにいられない。子ども達も無意識のうちにそれを感じてくれていることだろう。
◆そんな集まりに、ひょんな事からうれしいゲストが参加してくれた。1月の報告者である、ひーさんこと石井洋子さんだ。ひーさんは行き当たりばったりな私たちのやり方を察してさりげなく手伝ってくださり、気づけば子ども達ともうち解けて一緒に笑っていた。翌朝にはロケットストーブで美味しい焼き芋作り。おかげで今回も楽しい会になった。お泊まり会のあとは、大人達の時間だ。報告会に行けないと分かっていた私は欲張って南極やカヌー旅、ボランティアや移住生活などの話を聞きまくった。
◆いま南三陸町入谷で生活のベースとなる家探しをしているひーさんは、「居心地のいい場所で暮らしたい」と言う。「ここには空き家や土地はいっぱいあるけれど、水があって、日当りもよかったりするいい所には絶対に人が住んでいる。40年前の地図を見ても、その頃からちゃんと住んでいるんだよね〜」。そんな話を聞くと、移住のむずかしさと共に、人々の知恵の素晴らしさと土地の魅力を感じ、この地にますます惹かれていく気持ちがわかる気がする。話に夢中になり、いつの間にか時計は深夜2時をまわっていた。
◆翌日の朝食には、ロケットストーブで焼いたパンをごちそうしていただいた。自家製ワイン酵母のパンは、美しい紫色。林で拾ったクルミ入りだ。挽きたてコーヒーと一緒に、ゆっくりと味わった。そしてひーさんは、大工仕事に出かけていった。震災から5年が経とうとしている今、ひーさんとの出会いは、ちょっと大げさだけれど東北の希望のように感じた。被災地からこんな素敵なことも生まれはじめているんだと。ひーさん、南三陸で、また一緒においしい物を食べながら、ゆっくり話がしたいです。(屋久島 新垣亜美)
■「遠い世界の話だろう」と思って臨んだ報告会だったが、意外にも私の日常生活に繋がる要素が幾つかあり、最後まで興味深く聴いた。まず気になったのは、越冬生活のワンシーン。イグルー(室温−35℃!)でのパーティーにチラリと映ったカセットコンロだ。煮炊きや暖房で私が頼りにしている市販品は、冬場、室温が10℃を切ると悲しいほどの弱火になる。たぶん、あれは南極仕様の特注品だな。そう思って報告会後に確認したら、「普通のカセットボンベ2本を、交互に温めながら使っている」の返事。「ウチやホームレスの皆さんの暮らしの工夫は、実は南極標準だったんだ」と嬉しくなった。
◆『南極越冬』と聞くと、私は西堀栄三郎さんのエピソードが頭に浮かぶ。「遠征途中の雪上車からパーツが脱落したおり、手元にあった紅茶を凍らせ、その固着力で修理箇所をがっちり補強した」というあの逸話だ。しかし、そんなのは昔の話。現代では運び込んだ多量の物資に囲まれ、何の不自由もなく越冬生活を送っているに違いない。そう思っていた。けれど彼女の話を聞く限り、今も昭和基地は無いモノを創意工夫で手作りする、ワクワクの世界らしかった。
◆朝目覚めたら、住まいのトラックハウスの周辺を散歩し、拾ってきた枝などをロケットストーブにくべて湯を沸かす。そんなふうに1日を始める石井さんの目には、木材や松ぼっくりが全て燃料に見えるという。私も、ケリーケトル(やかん付き薪ストーブ)や自作のウッドガスストーブ(缶コーヒーと発泡酒缶を組み合わせた廃物利用)で遊ぶようになって以降、紙や棒っきれは木質燃料そのものだ。40〜50gの木片があれば、チマチマと仕事机の上でコーヒーを沸かすことができる。道端の分厚いマンガ雑誌など、何リットルもの熱湯が捨てられているに等しく、ため息が出る。
◆ツボを押さえた長野画伯の「報告者プロフィール」にも拘わらず、当初、私には石井さんの転身の真意が掴めなかった。その疑問も、力強い本人の言葉で聴くうちにスッキリ晴れた。無いものだらけの南極暮らし。全てを奪われた被災地での支援活動。なにも無いからこそ見えてくる、豊かな自然や人との繋がり。そして、その大切さ。石井さんの選択は、筋の通った、極めて当然の流れだったのだと納得した。
◆かつて訪れた国々で、森林や鉱山を先進国の資本が貪り食っている現実に、私は少なからぬショックを受けた。帰国後、いま有るモノを遣り繰りして暮らす面白さに目覚め、ついには、菓子袋1枚捨てるにも後ろ髪を引かれるようになった。お蔭で部屋は半ばゴミ屋敷と化している。そこに住む私の目に、石井さんのガランとしたトラックハウスの中は、惚れ惚れするほど美しく、輝いて見えた。(後端技術研究家:久島弘)
■軽トラックの荷台に家の土台になる骨組みを作った写真を見たとき、昔アマゾン川を下ろうと作ったイカダの骨組みが頭に浮かんだ。「本当に欲しいものは自分で作らないと手に入らない」石井さんがサラリと口にする言葉に、勝手にものすごく共感する。
◆もちろん背景はまるで違って、石井さんはこれからここに住むという覚悟のもとに自分の居場所を自分で作っている。僕らはただ旅の1コマで手段としての自作の家。それでも未体験の現場に日々起こる出来事が、危険であり新鮮であり、その場で対応して適切な答を見つけ出さなければいけない点は同じだ。「洗濯物は凍らせた方が渇きが早い」「お湯のほうが水よりも早く凍る」
◆元気象庁職員でもある石井さんには、その原理も分かっているにちがいないが、頭で分かっていることと体験することは別。驚きや発見が含まれている話は、なんとも楽しそうだ。冬の南三陸で自作の軽トラハウスは寒くないのか? 暖房は?との問いには、暖かい寝袋を持っています。うーーん、大丈夫なのか? と、言いたくなるが、そんなのは余計なお世話だ。自分が住みやすいように自分で作った家なのだから、基準は世間ではなく、自分でいいのだと思う。
◆話を最後まで聞いて、ほとんどマイナスの言葉がないのに驚いた。これだけ強烈に自分であれば、生きるのがしんどいのでは、と思ったからだ。でも自分の直感に正直であることと、周囲に溶け込んで生活を作り出していくことは矛盾しないのかもしれない。見習うこといっぱいでした。(坪井伸吾)
■あるころから南三陸町内で「ひぃさん」の噂が聞こえてきた。「ロケットストーブ?」「南極にいたそうだよ」「自作の家つきトラックだって」。ウィのパン講座に参加してくれるようになり、自ら育てた小麦でパンを作る「ここむぎ」の活動も始めた。竹テントを作り、稲刈りもした。でも、そんなひぃさんの来歴をゆっくり聞いたことはなかった。
◆10月末に開催し、江本さんと地平線仲間も参加した「ウィの現場をめぐる2日間」、あれっ、待てよ? 江本さんや地平線会議の方々だったら「ひぃさん」と話が合いそうだな。夕食に誘ったのは直前だったが、必然の出会いだったのだろう。江本さんが、ひぃさんすごいよ、俺の目に狂いはないよ、と呟いたと思ったら早速、新年の報告会のご案内が。さすが!
◆幼いころの思い出、南極大陸の地を踏んだ感動が素晴らしい写真とともに語られたのだが、個人的に一番惹かれたのはそんなひぃさんが東日本大震災で感じ、動き、職を辞して南三陸町に来た芯にある思いだった。人間に必要なものを与えてくれる自然のめぐみとともにあり「結い」の伝統が残るこの土地の魅力。感じていたことを、すうっと染み込む言葉にしてくれた。
◆その思いは、町のみんなにも少しずつ伝わっているようで、この冬は地元の小学校やシニアの寄合所でもお話を頼まれたんだそう。この土地からはじめること、くらしを組み立てること、南三陸町から本物の価値を伝えていくひぃさんに期待してます!(NPO法人ウィメンズアイ(ウィ)副代表 塩本美紀)
■初めて地平線会議の報告会に参加させてもらったが、現在の南極の在り方や、そこがどのような場所であるのかが、じつによくわかった。そして何よりも、その人の考え方ひとつで、そこでの生活も大きく変わり、また楽しみ方も変わっていくものなのだと、実感した。ラグビー部に所属しているためあまり自由な時間はとれないのだが、いろいろな話をお聞きしてとても地平線会議に興味が湧き、また参加してみたいと思った。(小林佳司 大東文化大学環境創造学科3年)
■石井洋子さんの報告に参加し、貴重な体験を聞けて嬉しかったです。南極という極限の土地にしかない景色や、越冬隊における細かい決まり事など、そこでの生活は魅力あふれるものばかりでした。またロケットストーブを使った住民たちへの復興支援のお話や、南三陸町にトラックを改造して住むといった、普通の人が考えないようなアイディアで、支援活動や生活をしていらっしゃるのが、とても羨ましかったです。
◆東日本大震災のあと、私は福島県の白河市という出身地から大学進学のために埼玉県へ引っ越しましたが、今では地元へ帰って街に貢献するといったこともなく、何かしたいという思いだけがあってもできないという心苦しさがあります。石井さんのような支援が、次の大震災が起きた際にあってほしいし、そして自分もそれらができる人になりたいです。
◆石井さんの生活には、コミュニケーション力によって、たくさんの驚きや楽しさに溢れていました。報告会で石井さんは「たまたま……だった」という表現を使うことが多かったのですが、私はその「たまたま」は、彼女の力によって必然にそうなるように自分や周囲を変えてきた結果なのだと思います。人に自分を覚えてもらうことが、こんなに多くの体験をさせてもらうことにつながるのだなと、“人生”を学びました。(佐藤雄也 大東文化大学環境創造学科3年)
■1月24日の全国的な大寒波で、屋久島も雪景色になった。島の中央部にある2000m級の山岳ではいつものことだが、平地で5cmの積雪は記録的な大雪だ。南国特有の大きなクワズイモの葉に白い雪がうっすら積もっている姿は、違和感満載だった。その日、口永良部島(エラブ)の知人から「子ども達は雪の中でずっと遊んでいます!」とメールが届いた。
◆口永良部島は2015年5月29日の新岳噴火から約7ヶ月間の避難生活を経て、昨年末の12月25日に島民の帰島が許されたばかり。噴火警戒レベルは5(避難)のままだが、警戒範囲が火口から2〜2.5kmに縮小されたことで、10世帯20名を除く島民の帰島が可能になった。避難は数年間になるかとも言われていた中での急展開、慌ただしい引っ越しだった。
◆1月15日でフェリーの無料措置は終わったが、この時点で帰島したのは79世帯130人のうち43世帯74人のみ。家が住める状態ではない人や健康面で不安のある人、避難中に始めた仕事を続けている人など、まだ多くの人が屋久島の仮設住宅や鹿児島の親戚宅に身を寄せている。
◆年内帰島が決まったとき、正直、エラブの子ども達は喜ぶのだろうかと思った。便利で遊ぶ友達もたくさんいる屋久島での生活に慣れて、エラブに帰りたい気持ちは薄れてはいないのかと。エラブから見たら、屋久島は都会だ。屋久島の人口は約1万4千人。学校は小学校8校、中学校3校、高校も1校ある。
◆さすがに24時間営業の店やコンビニはないけれど、スーパーは何軒かあるし大きな病院やドラッグストア、弁当屋、パン屋にカフェ、なんとモスバーガーもある(洋服はスーパー内にしか売っていないけれど)。一方でエラブには小さなスーパーが1軒と診療所があるのみで、食堂も歯医者も床屋もない。歩いている人もほとんど見ない。噴火前にエラブに遊びに行った時、走る車のフロントガラスに伸び放題の竹の葉がバシバシぶつかってきて、何て人の存在感が小さい島なんだと驚いた。
◆だから、エラブよりも人がいて、自然もある屋久島にいた方が楽しいんじゃないかと思ったのだ。その考えが違うと気づいたのは、先日、久々にテレビでエラブの様子を見たときだ。その映像は年末年始に撮影されたもので、大人達は海へ伊勢エビ漁に出たり、竹で年越しの飾り付けを手作りしていた。子ども達はカニを捕まえたりそこら中を走り回ったりと、思うままのびのび過ごしている。
◆年末まで小学校で一緒に勉強していた子たちだけに、元気そうな姿にほっとした。年明けには、高台に登って迎える初日の出。うっそうと緑が繁る金峯(かなみね)神社への初詣。そんな映像を見ていると、ああこれが静かな島の日常なんだなあと、少し島民の気持ちに近づけたような気がした。余計なものがないぶん、目の前のことをしっかり感じて、存分に楽しんでいる。不便そうな島の生活だけれど、生きて行くのに本当に必要な物ってそう多くはないんだろうな。満足そうな島民達の顔が印象的だった。
◆エラブの人々からは、津波で全てを失ってもなお故郷に帰りたいという東北の人々の思いに通じるものを感じた。ちなみに屋久島では自給自足生活もできるし、その真逆で買ったものだけでも生活できる。もちろん、両者の中間の暮らしも可能だ。屋久島に移り住んでもうすぐ4年目に入るけれど、この2年間は学校の仕事で少々あわただしく過ごしすぎている。今年はもうちょっとのんびり、エラブ島民を見習っていこうと思う。(屋久島 新垣亜美)
■世界一過酷な犬ぞりレースの一つといわれるユーコンクエストに、マッシャー(犬ぞり師)の本多有香さんが現在参戦しています。今年のスタート地点はカナダのフェアバンクスでゴールはアラスカのホワイトホース(毎年入れかわる)、コース全長は1000マイル(1600km)。第1走者から3分おきに出発し、第6走者の本多さんは現地時間2月6日午前11時15分にスタート(日本との時差18時間)。大好きな犬たちとの旅が始まりました!
◆本多さんの軌跡はクエストのウェブサイト上で追いかけることができます(http://www.yukonquest.com/results/1072)。
◆それによると14匹の犬たちと走り始めた1日後、何かしらの理由で1匹がリタイア。そのまま13匹の犬たちと難関イーグルサミットを無事に越え、4つ目のチェックポイントのサークルシティでさらに1匹リタイア。12匹の犬たちと次なるチェックポイントのイーグルを目指しているのが最新状況で、全行程の約3分の1を走り終えました。
◆「色々あるんだけど頑張ってみます」とレース直前に話していた本多さん、現在順位は22人中10番目(1人がすでに途中棄権)。現地は晴れて風があまりなく、気温はマイナス5〜マイナス20度あたりを行ったり来たり。天も味方してくれているようです!(大西夏奈子)
東チベットの探検でいまや世界的に知られる中村保さんの労作『ヒマラヤの東 山岳地図帳(East of the Himalaya Mountain Peak Maps)』が2月はじめ、日本山岳会創立110周年事業の記念出版としてついに刊行された。大判334ページ、美しい写真と克明な地図、そして簡潔な文章による豪華なつくり。日本語のほか、英語、中国語訳も併記され、世界に向けた画期的な一書だ。
1934年生まれの中村さんは一橋大学山岳部時代、北穂高滝谷に初登攀の記録を残す登山家。石川島播磨重工に入社してからは、パキスタン、メキシコ、ニュージーランド、香港と20年を海外で企業戦士として暮らしたが、最後の香港駐在中に東チベットに足を踏み入れたのをきっかけに後半生を東チベットの未知の領域の探検に費やした。一方で日本山岳会発行の初の英文ジャーナル「Japan Alpine News」の編集長として海外の登山世界に発信を開始、迅速的確な情報のやりとりから、世界にその名を知られるようになった。
地平線会議では1996年9月の202回地平線報告会で「群龍の峰々」のタイトルで話してもらったほか、2009年6月には「チベットアルプスへのラブレター」と題して、2013年2月には盟友倉知敬さんとともに「今も知らないチベット」のタイトルで話していただいている。以下、中村保さんご本人から地平線通信にいただいた文章だ。(E)
元企業戦士、今老年探検家の私にとって10年という期間は一つの仕事をする時間の単位、区切りでした。 香港駐在中に始まったヒマラヤの東・チベットのアルプス踏査は四半世紀が経ちました。その間2014年までの間に37回も足を運びました。スポンサーは?と外国人からよく聞かれますが、すべて手弁当です。16年前に立ち上げた日本初の日本山岳会の英文ジャーナルと辺境踏査は車の両輪です。個々の記録は内外のジャーナルに発表してきましたが、広大なヒマラヤの東を概観・総括する文献・地図は存在しませんでした。それが出来るのは自分を措いて他にいない、いずれ纏めようと考え地図を描き始めたのが10年前です。
2008年に英国の地理学協会からメダルを受賞した折に、ケンブリッジ大学山岳会の重鎮から「半世紀は価値を失わない決定版を作って欲しい」との言葉に背中を押されて本格的な準備を踏査行と並行して進めました。
もともと海外向けをメインにしていましたので、英語をベースに日本語、できれば中国語の英・日・中の三ヵ国語版を考えました。一年半ほど前に、ほぼ素案が固まりつつある段階で、日本山岳会の創立110周年事業の記念出版にしようとことになりました。内外のたくさんの登山家・探検家の惜しみない写真の提供、協力、作図・編集で精緻な仕事をして頂いた竹内康之さんのご尽力、小泉弘さんの素晴らしいカバー装丁のデザイン、ナカニシヤ出版さんのご協力があって初めて地図帳を世に出すことができました。10年一仕事を実感しています。(中村保)
★『ヒマラヤの東 山岳地図帳(East of the Himalaya Mountain Peak Maps)』ナカニシヤ出版 10000円+税。長年のおつきあいである地平線会議には貴重な一部を贈っていただいた。おめでとうございます、そしてありがとうございました。
■貞兼綾子さんとランタンプランの「ゾモファンド」を支援するために始まったゾモTプロジェクトは11月中旬から体制を見直して、ある程度注文がまとまってからその分のTシャツを制作、まとめて発送することにした。Tシャツの出番が少なくなる冬場、50枚まとまるのに2ヵ月と踏んで、来年2月に発送すれば、とノンキに構えていたら、いつのまにか受注は100枚近く、しかももう2月だ。急いで冬眠から覚めたものの、在庫切れのサイズもあったり、発注数を間違えたりして、さっそく大騒ぎしている。2月14日(日)には「発送大会」を予定している。都合がつく方はぜひお手伝いいただきたい。
◆さて、1月中旬の某日に静岡県立熱海高校で貞兼さんの「授業」が行われた。昨年10月の文化祭で生徒さんがゾモTを販売してくれた、あのアタコーだ。教室は福祉類型 (コース)の実習室で、病院にあるような介護用の風呂やベッドが並ぶ、ちょっと変わった設え。2、3年生の32人が参加した。
◆1コマ50分の短時間に、ランタン谷の被災前後の変わり様を伝えるDVDを流し、貞兼さんが40年にわたるランタン谷との関わり、牧畜から観光への産業の変化、環境保全と産業の両立について話し、質疑応答もあり、と、さしもの高校生たちも居眠りする隙のない濃い授業となった。
◆授業の最後には昨年の文化祭でネパール復興をテーマに引っ張った元生徒会長の3年生、青木紘次くんが「貞兼さんの話を通じて自分たちが知らない習慣や文化について知ることができた。改めてネパール震災の大きな被害や悲惨さを感じた。私たち福祉類型が行ったゾモの支援が少しでも役に立って嬉しく思う。自分たちがネパール震災のことを忘れないようにしたい」としっかりと挨拶してくれた。嬉しいなあ。Tシャツ作戦に巻き込まれてよかったなあと思える瞬間だった。
◆7月10日に東京・市ヶ谷のJICA地球ひろばで日本山岳会が行うマナスル60周年と「山の日」施行記念イベントに合わせて、ランタン谷復興に関するパネル展示をすることになった。ランタンプランが中心だが、ゾモ普及協会の面々もまた裏方として忙しくなりそうだ。(落合大祐)
■糞土師として10周年目の2015年は、最大の危機の年でした。「食べて奪った命を自然に返す」という糞土思想を実現する究極のものがノグソです。それを追求し続ける私は、今世紀に入ってからの14年間で2回しか無駄にしていないウンコを、昨年は7回もトイレに流してしまったのです。その始まりが、昨年4月の地平線会議福島移動報告会で泊った、いわき蟹洗温泉ホテル。
◆2014年秋から悩まされていた口内炎(?)は、その頃には舌の裏に穴が空いて出血するなど、相当酷い状態になっていました。それなのに、病と自身の自然免疫力の勝負だ、負ければ最期が来たと覚悟を決めればいいのだと、病院にも行かず成り行きまかせにしていました。その夜も食べにくさを我慢しつつ深夜まで飲み食いしながら話に興じ、その無理がたたったか、未明に胃の痛みで目覚めました。
◆この状況に対処する最善の方法は、もちろん排便です。実は報告会2日目のノグソを確実に行うために、すでに尻拭き用の葉っぱ(ヨモギ)を用意し、最適のノグソ場所をホテルの近くに見つけており、夜道を自転車で帰るためにライトも持っていたのです。
◆ところが、そのホテルは靴箱の鍵をフロントに預ける形式をとっていて、靴が出せません。かといって部屋のスリッパでノグソに行くのは厳しいし、こんな時間にフロントで怪しまれながらウダウダしている時間も無い。やむなく部屋のトイレに入り、屈辱の便座の上で脂汗を垂らしながら息むこと数十分。その最中を同室の人に覗かれたりしながらも、すっかり出し切って体調回復。朝食は問題なく完食してこの一件は終わりました。
◆しかし舌は、その後ますます悪化し、5月上旬にあった3つの講演会は痛みとしゃべりにくさで悪戦苦闘。その先に決まっている幾つもの講演会を考えるとそのまま放っておく訳にもいかず、長年の禁を破って病院に行きました。診断はIII期の舌癌。舌を半分切除するという医師に反論し、「糞土師にとって舌は命です。しゃべれなくなるくらいなら手術はせず、死ぬまでに一つでも多く講演を続けます」。
◆すると、「いや、元通りに話すのは難しいかもしれないが、リハビリで話せるようになります」。医師のこの言葉を信じ、その時は切除手術を了承したものの、間もなく切らずに治せる小線源治療(放射線の出る針を直接舌に刺して癌組織をやっつける)の存在を知り、すぐに治療法を変更しました。
◆ところが問題は、放射線源を舌に埋め込むことで私自身が放射性物質になり、病室は放射線が漏れないようにガッチリ造られた隔離部屋で、もちろん外出は一切禁止。9日間の入院期間中はどう考えてもノグソは不可能です。入院日と退院日はなんとか回避したものの、その間に結局6回、大切なウンコをトイレに流してしまったのです。
◆小線源治療をしていただいた医師からは、治療後の口内炎が治るまで3ヶ月は講演会を控えたほうがいいと指示されていました。しかし治療のために講演会を幾つも中止した悔しさと、その分を早く取り戻したいという焦りから、1ヶ月半休んだだけで9月から本格的に再開し、暮れまでに20回も講演してしまったのです。私のやっている講演は普通1.5〜2時間で、それにフィールドワークや二次会なども重なれば、午前中から夜遅くまでしゃべりっぱなしというのも珍しくありません。
◆これでは治るものも治らず、未だに酷い口内炎が続いています。再発や転移はまだ確認されていませんが、「命を取るか舌を取るか」と問われれば、今の私なら迷わず舌の方を取ってしまいます。始末が悪いことに、糞土師一番の生き甲斐が講演会なのです。(糞土師・伊沢正名)
★2月28日(日)には相模原市立博物館で、講演会「うんこはごちそう」があります。14〜16時ですが、サプライズと時間オーバーの可能性もあります。この機会に是非、深化したウンコ話を聴きに来て下さい。定員200名、無料です。
■江本さん お久しぶりです。おそくなりましたが結婚報告です。先月、バーバラこと桑原真弓さんと結婚しました。彼女と初めてあったのは2013年5月の地平線会議でした。山田和也さんの報告会でしたね。出会うきっかけをつくっていただいた地平線報告会には本当に感謝しております。ありがとうございました。
◆今日まで日野市の日野自動車で働いていましたが、今後は、来月から千葉県一宮町の農家で農業研修にはいります。1年間か2年間、農家で研修させていただいて独立就農を目指します。無農薬無化学肥料で多品種多品目の野菜を栽培する予定です。独立はまだ先ですが、2人で頑張っていきたいと思います。今後とも夫婦ともどもよろしくお願いいたします。(タムゴンこと田村暁生)
地平線通信441号(2016年1月号)は、1月13日に印刷、封入作業を終え、翌14日、郵便局から発送しました。2016年の年頭の通信は、谷口けいさんを悼んで、やや異例の特集号のかたちになりました。忙しい中、駆けつけてくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。
森井祐介 車谷建太 伊藤里香 前田庄司 杉山貴章 福田晴子 落合大祐 松澤亮 江本嘉伸
■鮭キャラを主人公に「雨ニモマケズ」の全詩を366枚のパラパラマンガに描く、というミッションを、鮭Tプロジェクトの酒席で自ら宣言したのは昨年6月だった。実際に描き始めたのは、個展終了後の9月末。シーン毎に詩を19パートに分け、1エピソードに約19枚。アニメのように少しずつ動かして描く為にライトテーブルを購入。作業画面サイズは14cm×5.5cmと小さいが枚数が多い。
◆画材はペン先の滑りが手に馴染むM社のボールペン。芯のサイズも極小から極太まで5段階ある。鮭一匹で賢治の詩を全て表現できるとは思わなかったが、描き進むに連れ、構想には無いサブキャラが予想以上に増えた。舞台も海中から宇宙まで想定外に膨らむ。物語が勝手に展開するという初めての経験をした。宇宙を表現するとインクの減りも光の速さだ。
◆できたイラストは日めくりカレンダーの中に組み込むので、長野在住のデザイナーT君とは密に電話連絡。資金調達と進行管理は村田憲明さん率いる制作チームにお任せし、創作チームのディレクションは僕が兼ねる。このボランティアカレンダーで支援する岩手県の大槌町は海と山が近接する農林漁業の街。暦の季節感が大事だ。これを「地元産物感」の味付けにしようと旧暦、月齢、六曜を入れた。
◆全体の3割くらいのページに資金協力個人の応援メッセージが入り、それ以外は友人のコピーライターに依頼する。日々見るものだから重くない方が良い。知る人ぞ知る「点取り占い」をイメージしたナンセンスを所望し、的確に応えて頂いた。カレンダー全体の厚みは5cmもあり、専用ボックスに入れた状態は、昭和の台所にあった大型マッチ箱を連想させた。「レトロ」、「マッチ箱」をデザインコンセプトに決める。
◆さらに表紙に穴を開け、カラクリ的な意外さの表現を狙った。T君には何種類もの試作をしてもらって検討を重ねた。最終的な表紙周りの絵と描き文字、デザインはT君の筆による。登場人物紹介のカラーリーフレットは、全国カレンダー展締め切り間際に滑り込みで間に合った。本体がモノクロなので、どこかで色を添えたかった。T君が独自に作った使用マニュアルも同様だ。
◆こうして完成した「3.11カラハジマル日めくり鮭カレンダー」は第67回全国カレンダー展第2部門経産省商務情報制作局長賞銀賞(長っ!)なる上位賞と、ドイツ・グレゴール国際カレンダー展銅賞を頂いた。チームワークの勝利でした〜。その後つい最近まで続いたすさまじき製本顛末は村田原稿をご参考に。(長野亮之介)
■江本さんから電話をもらった。「原稿を書いてみなさい。3.11カラハジマルカレンダーについて書きなさい。コンクールやボランティアや日本の未来について。地平線はそういう場所だから……」冒険家でも活動家でも変わりものでもないサラリーマンは戸惑いながらも少し嬉しくて明け方までパソコンに向かうのだ。断れないし自分の記録になるし応援してもらっている、育ててもらっている感じがするからだ。
◆でも今回ハードルが高すぎて締切りに間に合わず、電話をもらった時うっかり「忘れてました」とひと言……(実際は忘れていないけど書けていない)。その瞬間、江本さんは、「こんな大事なことを忘れているとは、もういい!」と電話が切れた。江本さんの怒りともガッカリともダメな奴だとつぶやく姿を想像して身が縮んだ。地平線通信は江本さんにとって命がけの真剣勝負の場所なのだ。仕事や生活に追われるせわしない日々の中で、震災を振り返り自分の生き方を見つめなおす貴重な場と時間をわざわざ与えてくれているのだ。期待に応えたいと思う。無理だけど。
◆まずは地平線関係者に心からお礼を伝えたい。3.11カラハジマル日めくり鮭カレンダーはほぼ村田と長野画伯がやりたくて少し強引にはじめた企画。当初は仲間も離れたし批判的なメールに落ち込んだりもした。鮭Tの寄付金は使いたくなかったし、協賛した企業名を入れるなんて美しくないと思った。長野さんや応援してくれるプロがいなければ完成しなかっただろう。制作費がどうしても足りず「READEYFOR」のサイトを使って100万円の資金を集めた。製本代を抑さえるのに述べ34日255人、ボラさんらと1枚1枚丁合作業を行った。
◆1万5千円の出展費を支払い、1000部売る為、締切りに間に合わせるため、払えぬイラスト費用の為、下心いっぱいの全国カレンダー展も上位入賞。おまけに世界から集められたドイツ国際カレンダー展では銅賞を受賞。嬉しいと同時に苦労が報われたと強く感じた快挙。長野さん、ご苦労様。そしてありがとう。地平線に登場する人たちや多くの鮭T応援者がメッセージとともにカレンダーを購入してくれ、おかげ様でもうすぐ完売になる。
◆今月末には第4期の鮭Tとカレンダーの寄付金100万円を大槌の中学校へ届けに行ってきます。無茶してやって良かったと思う。応援いただき本当に感謝です。だから取材で震災を忘れない為とか被災地を想い出して欲しいとか偉そうなことを言うけど、実際は被災地よりもカレンダー制作という愉しい企画に夢中になっていたのだ。被災地の為を思い支援いただいた人には申し訳なく思う。
◆でも義理や義務では続けられないのだ。遠い長野の安全な場所にいる僕は、被災地の為だけでは続けられなくなっている。忙しい日々の中で毎日大槌や福島を思い続けることは僕には無理だ。いつ支援をやめていいのだろうか。いつ忘れていいのだろうか。そう考えると苦しくなる。昨年夏、旧大槌役場の震災遺構の解体を公約に町長が変わった。「見るのがつらい、維持費が大変、区画整理が進まない」などで屋根に上がった船が降ろされ解体し更地になった。
◆更地のまえは何があったかなんて人は忘れてしまう。植物だって震災を忘れて翌年には花を咲かせる。なにが慰霊の公園だ。なにが鎮魂の森だ。そのくらいなら屋根に上がった漁船の方がよっぽど忘れさせない力がある。苦しくても金がかかっても被災地を忘れて欲しくないなら震災を体感した建物を残して欲しい。訪ねた時に手を合わせる場所を残して欲しい。せめて子供たちが成人するまで解体を待って欲しい。家族や家を失くしたわけでない遠い安全な場所で云うことではないが気になって仕方がない。今月1年ぶりの大槌訪問。ちゃんと記憶してこようと思う。たぶんまだ忘れてはいけないのだ。(長野市 村田憲明)
■前著「地球で暮らそう〜生態系の中生きるという選択肢〜」とあわせて2冊を夢中で読んでしまった。都会育ちの加藤大吾さん(2015年7月、437回地平線報告会「一粒から一馬力へ」報告者)が、山梨県都留市で600坪の藪だらけの土地を開拓し、家族や仲間と手作りで暮らしをつくりあげていく5年間が前著。「やったことあるの?」「ないよ! 全部!」という言葉が物語るように、全開の好奇心と観察、創意工夫で新しい暮らしをつくっていく。「教えてもらっただけの知識は貧弱だ。自分の理論で育てて作り上げた知識は、血が通っていて確信が持てる。失敗しても屈しない」というように、体もフル回転、頭もフル回転の実践だ。
◆今回の2冊目は、その後5年間。加藤さんの暮らしや考えの進化がある。家族が増えて、子どもたちが成長し、家畜も増えて、そのエピソードのひとつひとつが楽しい。同じ姿の鶏にクローンのような違和感を感じた加藤さんは、10種類の鶏を一緒に飼ってみる。生まれてくる子どもは色も模様もトサカも尾っぽもいろいろ。一匹一匹の個性や状態を丁寧にみながら世話ができる。
◆衣の自給を意識して羊を飼い、農作業における石油への依存への違和感から「馬耕」にたどりつく。生態系にそった暮らしを目ざしていく中で、家畜とのつながりが強くなり、幸せ感が増していくのがわかる。「上手にさぼる」方法も加藤流でおもしろい。「畔塗り」「代掻き」「雑草対策」「種取り」など、「へぇ〜」と思うような新発想で驚く。
◆一方で、自給率は上がり、収穫物を販売できるようになったとき、ぎっしり詰まった米袋が紙に交換されてもうれしくないことに気づいたそうだ。うちの子どもが紙に変わってしまうような感じ。家族とその時々で訪れる誰かと一緒に食べたいのだと、減反し「ちょっと足りないぐらいにつくること」に転じていった。
◆加藤さんは、今、多様な暮らしの選択肢のひとつとして、その実践を積極的に国内外に紹介している。それがこの本であり、「かとうさんちの体験プログラム」だ。そして、家族の物語から、地域の物語も本気になって描き始めた。NPO都留環境フォーラムで「環境に配慮したまちづくり」を切り口に、在来野菜の種の保存、馬耕復活継承活動など、地域全体の幸せをつくっていく活動で、新しい地域のモデルがまた生まれてきそうだ。
◆「生態系にそった暮らし」という言葉に惹かれる人には「君もやってみないか」と肩を押されるようなメッセージ、そうでない人も、幸せのカタチを再考する機会がもらえる、元気になる一冊である。(三好直子 青年海外協力隊ボランティア技術顧問)
■大変遅くなりましたがあけましておめでとうございます。とはいえ浜比嘉島の元旦は2月8日でして、現在三線と踊りの特訓中! というのは島の三線弾きの先輩が相次いで「忌中」なため公の場に出てこれず、旧正月元旦の奉納舞踊は若手が中心。どうなることやら! 本腰入れて若手への継承が必要との思いを新たにしています。
◆沖縄は年明けから変に暖かい日が続き、梅雨のように雨ばかり、はたまた先日は何十年に一度(?)の最強寒波が沖縄にも襲来し、本島では気象庁観測始まって以来、奄美では115年ぶり!の降雪を記録!(みぞれですが)。ここ浜比嘉島でも一瞬みぞれが降ったみたいです。いや〜ほんとに寒かった! めったにひとけたに下がらない気温が最低5℃ですよ!満足な暖房なんてありませんから、ほんと凍えました。
◆「久しぶりに靴下履いた」とか「生まれて初めてエアコンの『暖房』を入れた」という人もいました。大寒波の襲来したあの日は宜野湾市市長選挙でありましたが、寒波の影響で投票率があまり伸びなかったせいか自民党が推す現職が再選されちゃいました。その数日後にはまた25℃超えでまたまた大雨。なんという天気でしょう。いま最盛期のきび刈りも、雨ばかりで滞り、製糖工場は一時操業停止したとか。畑はぬたぬたでハーベスタも入れないみたい。うちの牧場もぬかるみ、泥だらけ。雨や湿気が嫌いなヤギたちには辛抱の日々が続いています。
◆さて、南の島のここ最近の話題を送れと言うエモ師からの指令、とはいえほとんど島から出ずに一日中ヤギと土にまみれテレビもインターネットもあまり見ないので話題と言ったらヤギのことしか……。でもヤギつながりでいろんなおもしろい人と知り合うことができたという話を少し。
◆先日、奄美大島から20代の若い女の子がやってきました。奄美出身の知人の紹介で、5日間島に滞在しヤギの世話を手伝ってもらいました。彼女は東北出身ですが奄美大島の廃校を利用した農業法人で働いているそう。ヤギ、ニワトリ、合鴨を飼い、田んぼや畑、養鶏をはじめて1年になるそうです。が、なかなか思うようには進まず、12頭いたヤギの半数が病気で死に、ニワトリや合鴨は卵を産まなくなり、野菜の出荷先の確保もできず、今は補助金で回しているそうですがその頼みの補助金も3月で打ち切りに。
◆ということで、とりあえずヤギの飼い方を勉強しに来たんだとか。本人も補助金頼みの運営は行き詰まるのはわかっていたらしく、いずれ故郷で自分のやり方で農業をしたいという夢を持って、今はいろいろ疑問を感じながらもがんばっているそうです。ヤギ小屋の掃除、放牧の補助、草刈り、蹄の爪切り、などなど暗くなるまで牧場仕事。夜はまた火を囲んで夕食食べながらいろんな話をしました。
◆ヤギの飼い方は教科書なんかない、うちも試行錯誤で失敗しながらやっているけど、うちにいる間は少なくともストレスなくいろんな草をおなかいっぱい食べて野山を駆け回って遊んだり喧嘩したりしてヤギらしく過ごさせてあげたい、でもセリに出すときはやっぱりさびしいよねー、なんていう話をしました。
◆そうそう江本さん、知っていましたか? 奄美はミカンコバエという害虫が見つかり、奄美からのかんきつ類の出荷がまったくできなくなっていること、さらにかんきつ類だけではなくマンゴやパパイヤなどのすべての果物、ピーマンなどの一部の野菜に至るまで、なんとむこう2年間出荷禁止だそうです。丹精込めて育てた今が旬のタンカンは奄美の特産品。県がすべて買い取って廃棄だそうです……。
◆本土の子や孫にも送ってやれないっておじいが悲しがっていたと。こんな重大なニュース、あまり報道されないのが不思議です。奄美は琉球弧の仲間なのに鹿児島県だからかなあ。さて、「また来ます!」と笑顔で奄美に向け発った彼女でしたが、乗ったフェリーが悪天候で与論島までしか行けず、飛行機使ってようやくたどり着いたということでした。
◆つい先日は、牧場によく遊びに来る子のご両親と夕食を共にする機会があり、話をしたらなんと、あの飛騨高山の織女、中畑朋子さんをよく知る方と知りびっくり! 価値観が同じ人同志というのは初対面でもすぐに打ち解け、話題が尽きませんね。田舎暮らしの知恵やものづくりのこと、IAEAのことなどとても勉強になりましたし楽しい時間を過ごしました。岐阜の山の中で築150年の古民家に住み若い頃は山岳部でK2に遠征したこともあるというとっても素敵なお父さんでした。
◆島から出なくてもいろんな人との出会いがあり、地平線の仲間も次々と遊びに来てくれるのは本当に幸せなことです。去年は樫田秀樹さんや新井由己君が遊びに来ましたし週明けには渡辺久樹一家が遊びに来てくれる予定です。これからもいろんな人がどしどし遊びに来てくれるような場所でありたいと思います。
◆PS.先月号のケイさん追悼号、心にしみました。私はお会いしたことがありませんがすごく素敵な人だったのでしょうね、皆さんの文章を読んでいると想像がつきます。お会いしたかったな、残念です。ご冥福をお祈りします。(浜比嘉島 外間晴美)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパ(実は、37年の地平線活動を支えてきたのは、地平線の汗かき人たちの負担をせめて軽減しよう、という有志のカンパです)を含めてくださった方もいます。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。振り込みの際、通信で印象に残った文章への感想、ご自身の近況などをできれば添えてください。皆さんの感想は書き手を励ます大きな力となります。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。
原田美由樹(長野市)/辻野由喜(高槻市 2016年もよろしくお願いします)/福原安栄(生駒市 本年度の通信費を送金します) 北川文夫(岡山市)/立石武志(5000円 和歌山県串本町 同じ町ですが転居しました)/大塚善美(宇都宮市 新聞で報じられた小さな記事の中だけでは分からない、奥深い、人の営みを掘り下げた1月号を感動して読みました)/岡朝子(4000円 2年分の通信費です。報告会でと思っておりましたが、なかなか行くことができず送らせていただきます) /黒澤聡子(今年も子連れで参加します)/河野典子(10000円 下関市 今年も地平線通信を楽しみにしています)/新堂睦子(10000円 2000円は通信費、8000円はボランティアの皆さまのご苦労に!)/上延智子/宮部博(20000円 岐阜市 毎月、地平線通信を送っていただき、どうもありがとうございます。しばらく通信費を納めていなかったので、2万円送りました。報告会には、2006年2月の大阪[報告者:坪井伸吾、前田歩未さん]が最初で、2007年11月の賀曽利隆さんなど今まで5回程度参加しています。機会があればまた行こうと思っています。よろしくお願いします)/渡辺京子/金井重/日野和子/塩本美紀
■伝説のノヴリカと、いきなり書いては、不遜に思う人もいるかもしれない。1999年まで存在していたNOVLIKAという小さな展覧会の企画会社の名を、初対面の旅人が覚えていて発した言葉だった。スキージャンプの葛西選手の代名詞として耳にするレジェンドの意味ではなく、噂ほどのことであったかと思う。
◆新聞の数行の記事から世界を旅する地平線会議を知り、1972年から1997年の66か国と北極、南極の2地域の日本とは異なる風景を展覧する写真展を企画し、1997年には全国を巡回する写真展の開催まで漕ぎ着けた。多くの貴重な体験記録の連関が全体を作り出し、記録である写真が芸術作品にもなる。
◆会場と写真作品のレイアウトを構成し、同時進行して全作品を掲載した小さな写真集を、ロバート・キャパの作品集を参考に制作していた。1997年7月11日、JR大崎駅に直結した品川のO(オー)美術館で、初めて地平線会議39名の写真展を開催することができた。
◆デジタル社会が台頭し、アナログ写真の最後の時期でもあった。ポジやネガのフィルムから紙焼きをし、それらを車で京都の額縁職人へ持ち込み経年変化に強い額装を100万円で請け負ってもらった。「デジタルアーカイブ」を知ったのはその頃だった。現物をデジタル撮影して記録し、現物の保存およびデジタル化したデータを保存と同時に資料として活用するという、文化財にとっては優れて有効な手法であり概念である。
◆美術作品を見ることを生業とする者には魅力的な新しい言葉であった。O美術館の展示では丸山純さんが写真をデジタル化し、パソコンモニターでも写真を閲覧可能としてくれていた。それから20年ほど、記録に関係するこのデジタルアーカイブの動向を定点観測してきた。旅にとっての要諦は記録でもあろう。
◆“旅人”と“記録”にかかわる点で「地平線会議とデジタルアーカイブ」というテーマは地平線会議にとっても有用に機能し、とりわけアナログからデジタルへと移行してきた旅人にとっては議論が尽きないことだと思う。日記はもちろんのこと、辺境の地や山頂などにおける写真・映像記録、少数民族などのオーラル・ヒストリー(口述記録)、切符、チラシといったエフェメラルな旅の資料など、旅人はアーカイブの生産者である。
◆「デジタルアーカイブ」の世界では、これらデジタル資料のネットワーク化と活用について、また東京オリンピック・パラリンピックに向けた日本の情報発信の整備が進められている。私は恒久的な国家事業として、日本人の記録と記憶を保管・活用しながら国民の生命をつなぐデジタルライフラインの拠点として「国立デジタルアーカイブセンター」を構想している。
◆ところで「デジタルアーカイブ(Digital Archives)」と「アーカイブズ(Archives)」は似て非なるものであることはあまり知られていない。「アーカイブズ」はギリシア語のアルケイオンを語源とする記録資料または公文書館を指し、「デジタルアーカイブ」は上記に書いたとおりだが、1990年代の半ばに東京大学名誉教授の月尾嘉男氏が提起した和製英語で、最近はボーンデジタルの増加から、主にデータベースを使用したデジタル資料という意味で「アーカイブ」と略されて使われることが多い。月尾氏はシーカヤッカー新谷暁生氏のサポートでアルゼンチンの南端、ホーン岬をシーカヤックで巡った冒険家でもある。人間の尺度をもって地球を体験記録する地平線会議の人々とも無縁ではない。
◆話は写真展に戻るが「地平線発」は、東京・品川、練馬、神奈川・横浜、戸塚、島根・金城町、兵庫・日高町と2年間で6ヵ所をめぐり、写真は229点すべて兵庫県豊岡市の植村直己冒険館に受贈していただいた。手元にある写真集を見るたびに当時を思い出すが、江本嘉伸さんと凸版印刷へ出向き、150ページを超えるフルカラーの写真集を無償で作ってもらえたことは幸運であった。気合いが入っていたのであろう。長野亮之介さん筆の雲のマークが入った写真集はJR飯田橋駅の印刷博物館に保管されているはずだ。
◆心残りは、O美術館での映像によるデジタルアーカイブを忘れたことである。惠谷治さんの貴重なコーランや白根全さんの美しいとんぼ玉などの個人コレクションも展示し、千葉の田園を走る小湊鉄道の枕木を配置、照明はライト・アーティストを起用して有機的な展示空間を作った。写真展の会場に存在していた美の時間と空間を映像記録することにより、記憶を鮮明にし、より多くの人と独特の空気感を共有しながら旅人たちの生きる力を後世へ伝えたかった。
◆今ではテロやIS、地球環境の変化などにより、写真展の写真にあるような地球の風景は見られないかもしれない。写真展に訪れた最初の入館者が両親だったのは意外だったし、出展者のご家族が多く来館して下さったことは本当に嬉しかった。記録があれば消去できるが、記録がなければ復元も再生もなく、まして歴史や平和などは遠のいてしまう。
◆写真展を終えた1999年、10年間続けてきた会社を解散した。写真展の赤字が原因ではない。確かに資金もマンパワーも写真展にすべてをかけてきたが、経営学部を出た芸術志向の社長の行き詰まりが会社を閉じた理由であって、最後の仕事がたまたま写真展「『地平線発』21世紀の旅人たちへ」であっただけである。冒頭に書いた伝説のノヴリカとはこのことである。地平線で多くの旅人と出会い、多様な価値観に触れ、そして動いた。私たちにとって写真展「地平線発」は、人生の転機となった記憶に深く残る写真展であり、現在も全力を尽くすための基点となっている。(影山幸一/本吉宣子)
■1月20日、大崎の「ゲートシティー大崎」で開催されていたカレンダー展最終日に行った。今回の通信で、絵師の長野亮之介、企画推進者の村田さんが書いているように、「3.11カラハジマル日めくり鮭カレンダー」が全国カレンダー展で見事「第2部門銀賞」に選ばれ、その展示が行われていたのだ。エスカレーターを降りると、目立つ場所に分厚い「日めくりカレンダー」が展示されていた。ドイツで開かれているグレゴール国際カレンダー展(日独カレンダー展)でもこれが「銅賞」を受賞した、との一報も入り、苦労がいっぺんに報われただろう、と思う。残りは僅少と聞く。
◆大崎の会場というと、私は写真展「地平線発」をすぐ思い出す。「ノヴリカ」という美術展企画会社の影山・本吉ご夫妻の熱意で今では実現不可能と思われる見事な写真展を大崎の「O美術館」でやらせてもらったのだ。写真そのものの見せ方も素晴らしかったが、会場全体の装丁が実に味のあるものだった。写真カタログ「地平線発」は、あの時の貴重な財産である。今月の窓は、お2人にあの当時と未来に向けての思いを書いてもらった。
◆以前にも書きましたが、3月の報告会は、会場の都合で28日の月曜日となります。場所は今月と同じく新宿コズミックセンターです。報告者は、著書『ちょっとそこまで走り旅』(創文企画)を出したばかりの三輪主彦さん。走り旅と言いながら、実は非常に人生の含蓄に飛んだ深い本です。送料含めて1500円。できれば、事前に読んでおいてほしいので、希望者は江本宛て、メールかファクスに氏名住所を書いて送ってください。すぐ手配しますので。(江本嘉伸)
終わりの始まり
ノンフィクション、フィクションなどを書き続けている森田靖郎さんは、いま一度、見直すべき事象が「天安門事件('89年6月4日)だと語ります。この事件をきっかけに、長く「正義」と「自由」を渇望していた東欧や中東でも民主化運動が起きます。 20世紀という時代から21世紀の時代を引き出したこの事件を森田さんは今の視点で書き直しました。《※電子書籍『六四天安門事件』amazon等》世界を見渡せば、内戦、テロ、難民、異常気象……。21世紀のこの状況を森田さんは「文明末」と言います。 文明の終わりと始まりを求めて、一昨年はヨーロッパ、昨年はアメリカに暮らしました。そこで見出したのが「文明戦」という見方です。日本では安保法案、憲法改正など、自分の国の現実に向きあうことになったと――。 「20世紀を生きてきた僕等が、21世紀をどのように生きるのか」森田さんに語って頂きます。 |
地平線通信 442号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2016年2月10日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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