1月13日。東京の気温は、マイナス1℃。初氷が張った。これはかなりの暖冬、という証拠らしい。1925年以来、初氷の記録は気象庁にしっかり残されていて、「最速記録」だった1953年の初氷は11月12日だった。ことしはその年に較べて、なんと2か月も遅いのだ。
◆2016年最初の地平線通信を沈痛な思いとともにお届けする。昨年12月21日、あの元気な谷口けいさんが大雪山黒岳の登攀終了後、滑落、翌日遺体で収容されたのだ。最近は冬になると北海道にスキーをしに行き、その後どこかの山を登攀することが多かったらしい。今回は4人の仲間(男ばかり)と黒岳を目指した。北陵を登攀し、下降は一般ルートからスキーで下ろう、という計画だった。壁を登り、無事登攀を終了して安全な場と思ったところでザイルをほどいたあと、何かが起こった。
◆当時、かなりの強風だったというから突風でバランス崩したか、不慣れな(スキーにも登山にも使える)兼用靴であったため足元を誤ったか、悔やんでも悔やみきれない一瞬のことだった。その一瞬のけいさんの気持ちを思うと、やりきれない。年を越しても、ずん、と心に空洞ができてしまったような喪失感は消えない。
◆日本にとってかけがえのない生命だった、とあらためて思う。単に女性登山家の遭難死として扱われるべきではない、とりかえしのつかない出来事だった。そのことに日本のメディアがまだ触れていないが、英紙「ガーディアン」は1月4日「世代をリードした登山家の死」の見出しで、素晴らしい笑顔のカラー写真とともに谷口けいのことを長文の記事で紹介し、その生き方を讃えた。
◆米山岳誌「Alpinist」も、本人とのインタビューをもとに、谷口けいのことを詳しく伝えた。ヒマラヤのカメット峰(7756m)南東壁新ルートの登はんが高く評価され、2009年4月に登山界のアカデミー賞といわれる「ピオレ・ドール(金のピッケル)賞」を女性として初受賞した彼女は、6泊7日に及んだ戦いについて、それだけの時間をかけたからこそ自分は山と一体化することができた、と語っている。
◆「目標に向かって突っ走るような登り方はいや。土足で他人の家に入り込むことはしたくない。ドアをノックするように山と対話し、その中に自分が浸れるような登攀をしたい」谷口けいの思想が欧米のメディアだけに理解されるとは思いたくないが、わがメディアが女性登山家の単なる遭難事故扱いに終わっていることは、残念だ。
◆谷口けいさんに地平線会議に来てもらったのは、2010年1月26日の369回地平線報告会だった。その1か月前、聞きに行った彼女の講演会でけいさんが本来持っている挑戦の心、人としての豊かな資質、発信力は、登山の世界だけの問題ではない、むしろ地平線会議的な場で、発信してほしい、と強く確信した。多忙なけいさんだったが、どうしても地平線で、と頼むと、年頭の報告者となることを引き受けてくれた。
◆おそらくけいさんのほうにも自分の世界を広げておきたい気持ちがあったのだろう。報告会の直後にもらったメール。「江本さん、あれこれお忙しい中、わたくしなぞのことをお忘れでなく、感謝感激しております。感激と言えば、先日我が家に届いていた『岳人』に、江本さんが書かれていた「谷口けいの冒険」にはビックリ仰天しました。ちょっと、あれ読むと、谷口けいって凄い人みたいじゃないですか!褒め過ぎですよ!!」
◆当時、私は「岳人時評」という連載を受け持っていて、その中でけいさんのことを正直に書いたのだ。メールは続く。「だけど嬉しかったのは、「冒険家」に憧れる私の気持ちをすごーく分かって頂いてるってことが伝わってきたことです。そのせいで、江本さんのページ読んでよ〜と知人に自慢しています。客観的に、自分のことを書いてもらったことは初めてです。書いてくれたのが江本さんで、本当に嬉しく思います」
◆その後、家に来てもらったり、入院先の病院へ見舞いに行ったり、結構会う機会もあったが、日本にいない人だからメールでのやりとりが意外に多かった。地平線通信をとても大事にしてくれていて、そのせいか私はけいさんにはどんなことでも話せる気がした。おそらくけいさんのほうでもそれに近い感覚だったのではないか。
◆先月の通信でも書いたが、挑戦的な人生を生きる冒険者にはいつか死と向き合う瞬間があり、時にはそのまま帰らなかったりする。そういう人たちのことを私はどう伝え続けることができるだろうか。年頭の地平線通信を谷口けいの旅立ちに手向ける号とします。(江本嘉伸)
■年末の報告会場は人でいっぱいになった。地、海、池、それぞれの「底」にまつわる報告。高校時代に丸山純さんに誘われてはじめた洞窟探検から、仕事での資源探査、近年取り組んでいる井の頭公園・井の頭池のかいぼりボランティアまで。それぞれの底の話を、いったいどんな流れで展開していくのか。旧友の丸山さんと話を掛け合いながら、興味津々の報告会がスタートした。
◆最初に映し出されたスライドには「地底線報告会」とある。一瞬、誤字かな?と思った。神谷さんは「これまでの私自身の活動を考えた時、この方がふさわしいかな」と、ユーモアを交えて、一番目の底、「地の底」の話が始まった。
◆神谷さんが地平線会議に初めて顔を出したのは、地平線発足当初の1979年。早稲田大学の大学院で資源工学について学んでいた頃のこと。78年に大学卒業、80年に大学院を修了した。その後、金属鉱業事業団に就職し世界各地で金属資源探査などを行ってきた。
◆大学進学から就職して資源開発に至る道筋は、高校時代に入部した地学部がきっかけだった。神谷さんは高校入学当初、馬術部に入部した。スクリーンには 馬術部で障害物を飛び越える神谷さんの姿が。馬術部の先輩からも素質を見込まれ「将来オリンピックを目指す人材」とまで言われた。しかし、丸山さんが書いた「ケイビングの手引き」で洞窟探検に魅力を感じ、地学部に転向。それから洞窟探検にのめり込んだ。
◆洞窟の魅力は人跡未踏の地に踏み込む楽しさ。 地学部では電気探査という先進的な調査手法も取り入れた。 電気を流して地底を探るものであった。76年夏、日本で一番深いといわれる縦穴鍾乳洞の白蓮洞で、洞窟探検の仲間が大雨で閉じ込められた。この時一緒に閉じ込められたテレビ局カメラマンが坂野皓さんだったこともあり、探検部仲間の恵谷治さんが救援隊として東京から駆け付けた。
◆高校地学部での洞窟探検を経て、大学では資源工学を専攻した。その後も洞窟探検を続け、日本ではワイヤー梯子による昇降が主流だった時代に、先進技術である「シングルロープテクニック」をフランスから初めて日本に持ち帰った。大学院のときにはフランスで研修し、学生最後の休暇を使って一か月間、ネパールでトレッキングするなど、洞窟探検と並行して山歩きも楽しんだ。
◆80年、資源開発に関わる政府系組織、金属鉱業事業団に就職して、資源に関わる仕事をスタートさせた。82年には休暇を利用してフィリピンのサマール島の洞窟も探検。初めての海外出張は太平洋のど真ん中で、海底資源の調査に一か月間参加した。人間の生活には、食料は不可欠だが、資源も必要。石器時代以降、道具を使い始めた人類は資源を活用して生きてきた、と。
◆私たちの身の回りにあるものと資源の関係について、データをもとに説明していった。資源とは、石油、天然ガス、石炭、ウラン、金属、セメントなどの非金属、宝石、バイオマス、さらには水、大気に至るまで、私たちの生活は様々な資源に依存している。しかし、日本は資源のほとんどを輸入に頼っている。
◆硬貨の材料にもなっている金属をはじめ、鉄の防錆処理に使われる亜鉛、自動車のバッテリーに不可欠な鉛、電気製品の基盤に必要な銅や金、ニッケル、錫、アルミ、カーテンなどの防燃材に使われるアンチモンなど、資源と活用事例が次々とスライドに映し出される。資源は私たちの生活に密接に関わっているのだ。
◆現在の国内鉱山の状況と神谷さんが発見に関わった鹿児島にある菱刈鉱山が紹介された。銅の生産はチリが世界第1位で、近年銅地金の消費量は電気製品の普及に伴って世界的に急増している。また、電気自動車や携帯機器に使われるバッテリーの材料としてリチウムの需要が急増している。チリのアタカマ塩湖では塩水中にリチウムが多く含まれるため、それを抽出して生産している。
◆スマホなど身近な電気製品は、チリの鉱物資源と切っても切れない関係なのだ。鉱山開発は、環境負荷も大きく、労働者や住民の人権にも関係しており、経済性に加え、多くの問題を解決しながら、進めなければいけないという。資源の利用事例、採掘方法、世界各国の採掘量や消費量など、大学の講義さながらのスライドは、データのグラフやフロー図を交えて次々進んでいく。
◆当たり前のように出てくる専門用語に、技術系の仕事を長年続けてこられた、経験と知識の厚みを改めて感じた。スクリーンには、チリの銅鉱山を撮影した映像が。 鉱山の採掘方法には2種類あり、露天掘りと、坑内堀りがある。最初の動画は露天掘り鉱山の採掘現場で、想像を超えるスケール感。それは3×4kmの楕円形状を深さ1km掘った巨大な穴。
◆その中をコマツの300トンダンプがコンボイを組んで鉱石や捨石を運んでいく。そして、巨大なショベルがダンプに鉱石を積み込む。普段見ることのできない現場の映像に、会場には驚きの声が。続いて、坑内堀りの現場。深い坑道の奥で、自動化された鉱石ローダーが次々と鉱石を運び出していく。クラッシャーという機械に大きな鉱石を流し込むと、大きな石が簡単に粉々になっていく。
◆粉々になった鉱石は、浮遊選鉱が行われ銅が濃縮されていく。露天掘り鉱山や使われるダンプ、ショベルのスケール感、クラッシャーの破壊力など、全てが想像を超えていて、現場の映像は圧倒的だった。2010年9月、神谷さんはチリのサンティアゴに赴任したが、ちょうどその時、チリの鉱山で落盤事故が発生、地下700mに閉じ込められた鉱山労働者33名の救出劇がテレビ中継されていた。
◆話は駐在員としての暮らしにも及んだ。初めての海外駐在はロンドン。ロンドンのシティーは世界の資源開発の投融資と金属取引の中心地。築100年の古いレンガの家で暮らした。2度目の駐在はオーストラリアのキャンベラ。家族で暮らすには住みよいところだが、独身者には退屈な所かもしれない、と。2002年1月には大規模な山火事が発生、自宅から5キロの所まで火の手が迫ってきた。避難するか迷うほど、恐怖を感じたそうだ。
◆3度目の駐在、チリのサンティアゴへは最初は単身赴任だったが、その後日本から高校生の娘さんが来て、一緒に生活した。アンデスの山々から朝日が差し込む高層マンションに暮らした。娘さんが撮影した自宅マンション内の動画も映され、神谷さんの駐在員生活を垣間見ることができた。
◆娘さんはチリ滞在中にパタゴニアを訪れて、帰国後は大学のサークルで本格的に登山を始めた。昨年の夏には山岳登山研修で北アルプスの剣岳に行き、講師の谷口けいさんに教わったそうだ。偶然にも、けいさんと娘さんとは山で交流があった。「12月22日に大雪山系黒岳で滑落事故のため亡くなった、谷口けいさんのご冥福を祈りたい」と述べて一旦休憩に入った。
◆後半は、二番目の「海の底」に関する話題に。海底資源探査について、神谷さんが登場するNHKスペシャル「ジパングの海」(2013年9月放映)を紹介。神谷さんが日本代表団として、ジャマイカに本部を置く国際海底機構に出向き、公海海底のコバルトリッチクラストの探査権を申請するものだった。映像に神谷さんが登場すると、会場からは「おぉ」「かっこいい」という声も。
◆高校時代に丸山さんが書いた「ケイビングの手引き」がきっかけとなり、地学に興味を持った。その神谷さんが日本代表団として海底の資源探査を申請したことを思うと、高校時代の出会いに感慨深いものを感じた。会場では深海底調査で採取した資源のサンプルが回覧された。海底資源には大きく3種類ある。マンガン団塊、コバルトリッチクラスト、海底熱水鉱床。マンガン団塊は握りこぶしほどの黒い塊で予想以上に軽く、海底熱水鉱床は重く感じた。
◆コバルトリッチクラストはアクリル樹脂に封入された標本だった。日本の経済水域は世界第6位の広さだ。意外に広い経済水域には、多くの海底資源が眠っている可能性があり、調査船「白嶺」を使って深海底を探査している。水深5000mを撮影した映像には、泥の海底に、握りこぶしほどの黒い塊がゴロゴロ転がっていた。サンプルで見た、マンガン団塊。海の底の黒い塊と手元にあったサンプルがリンクして、不思議な気持ちになる。人跡未踏の深海底にあった黒い塊がはるばる会場に来ているのだ。
◆水深2000mのクラスト鉱床、同じく海底2000mの熱水鉱床の映像が流されていく。チムニーと呼ばれる、上に向かって伸びる煙突形状の鉱床から、ブラックスモークと呼ばれる鉱物資源を多く含んだ熱水が噴き出ている様子は興味深かった。熱水鉱床周辺では熱水に含まれる硫化物の影響で、バクテリアが豊富にあり、それを捕食する甲殻類のゴエモンコシオリエビやカニの仲間、魚など、多くの深海生物がいる。海底の資源開発でも、環境へのダメージを抑えることが求められる。
◆地の底、海の底、に続いて、三番目の「池の底」へ。井の頭公園・井の頭池のかいぼりボランティアについてだ。2014年1月、東京都の環境改善事業の一環で井の頭池は27年ぶりにかいぼりが行われた。目的は2つ、水質改善と外来生物の駆除だ。ポンプで水を抜くと、池の底には、200台を超える自転車をはじめ、中型バイクや傘など大量のゴミが沈んでいた。また、ブラックバスなど特定外来種の生物も数多く生息していた。
◆昔、水草の除去のために導入したといわれる1m近いソウギョも獲れた。たも網や投網やかご罠を使って捕獲し、仕分けして在来種を残す。また、冬場、アメリカザリガニは冬眠で捕獲できないため、夏場にフローターに乗って池に入り、かご罠を使って駆除する。季節を通して活動をしていると、井の頭池の生態系が見えてくるそうだ。
◆日本全国で問題になっているミシシッピアカミミガメも目立った。そして東京都の絶滅危惧種に指定されているニホンイシガメは、クサガメとの交雑が確認されている。クサガメは江戸時代頃に中国から入ってきた種と言われており、2015年からは外来種として駆除の対象になった。ヘラブナも品種改良種なので駆除対象だ。2014年のかいぼりで水の透明度が上がり、夏には水草が一時的に再生した。水草のある昔の環境に戻すことは重要な目標だ。
◆その他、ボランティア隊で遠征した、横浜市の三ツ池公園の池でも、バケツいっぱいのウシガエルのおたまじゃくし、ブルーギルの子など、その他の地域でも外来生物の繁殖力が印象的だった。井の頭公園では、かいぼりの啓蒙活動で、スジエビ、テナガエビ、モツゴなど、在来生物を展示している。2015年11月からは弁天池のかいぼりも行われており、弁財天付近の湧水を水中撮影し、「井の頭池の底で、こんこんと水が湧き出ていたのは、ちょっと驚きでした」と神谷さん。「これも一つの『チテイセン』ですね、こちらは『池』ですけど」と締めくくった。
◆高校時代、馬術部のエースだった神谷さんが、丸山さんの文章に吸い寄せられて地学部に入った。洞窟探検に出会い、鉱業の道に進んでからは、世界各地の「底」を探査している。子どもの頃から身近だった井の頭池。そのかいぼりも地球の底を探検する行為のひとつ。高校生の時に目覚めた探検の心は、井の頭池のかいぼりでも生きている。映像、写真、資源サンプル、現場の貴重な記録。神谷さんの知識と経験。 三つの「底」が神谷さんの探検的な好奇心で一つに繋がった。 それら全てが2時間半に凝縮されていて、年末の報告会に心地のよい達成感を届けてくれた。(山本豊人)
■人生を振り返り浮き上がってきた言葉は「底、底、底」でした。「底」は普段目に触れないけど、人間の生活を支えています。その見えない底を追い求めてきました。洞窟探検に始まり、仕事は鉱山開発。洞窟探検は、この狭い日本でも人跡未踏の空間を発見する可能性があります。人間の生活、経済活動に必須なエネルギー資源や鉱物資源の鉱床は地底のどこかに隠れており、未知の鉱床を探すことは探検そのものです。
◆底の世界は、普段我々の目に見えないけれど、重要な役割を演じているのです。報告会では、こうした見えない底の姿を紹介したいと思いました。特に、資源については、日本は消費する資源のほぼ全量を海外からの輸入に依存していることと、こうした資源がハイテク製品や生活の隅々で利用されているということを伝えたいと思いました。口だけではうまく説明できないと思ったので、ちょっと難解な図表を使ったことをご容赦ください。
◆10年に及ぶ海外生活を経験しましたが、2年前、水質が悪化し外来魚ばかりになったご近所の「井の頭池」が目にとまりました。そして、自然の池への再生に向けた「かいぼり」事業にボランティア参加することになりました。「池底線会議」の始まりです。地平線のかなたの資源開発と、身近な井の頭池を見ながら、人間と自然との共生を模索していきたいと思っています。井の頭池は、これから3月までかいぼり中で、池底と生き物たちが見られる貴重なチャンスです。池の横にある白いテントの「かいぼり屋」にもぜひお立ち寄りください。(神谷夏実)
12月号の「あとがき」で書いたように、毎月この通信を書き続けている身なので、ことしから特別に年賀状を書くことはしないことにした。しかし、賀状をいただくのは、別のことで嬉しい。「返信不要です」と今年も多くの方から年頭の挨拶をいただいた。以下、独断で。恒例の賀状挨拶を披露させていただく。(E)
■今度鶴岡から天童の山あいの古民家に引っ越してきましたが、その後も水道管やボイラーの破損、屋根の雨漏り、などでなかなか落ち着けませんでした。こちらは雪も以前の半分以下で畑も600坪あるので春からはサルやイノシシと戦いながら畑作りに励みたいと思っています。今はワシやタカ、ミミズクを訓練しているのでまた遊びにお出で下さい。(山形県 松原英俊 鷹匠)
■「ヒマラヤの東ー山岳地図帳」を1月末にナカニシヤから出版します。四半世紀に亘る最後の辺境ー南チベット、東チベット、四川、雲南、青海―糖鎖の集大成です。英語・日本語・中国語の三か国語版で、菊倍版304× 218mm、352ページ、地図53葉、写真540枚です。(東京 中村保)
■サインバイノー! ことしもちへいせんでかつやくしたいです。では、バヤルタイ(さようなら)。ゆずきより。(八王子市 小学1年・モンゴルの草原で馬の手綱を持った写真とともに)
■12月にスリランカの山に登ってきました。(京都市 一等三角點研究会会長 大槻雅弘)
■年末年始はオマーンの山に行ってきます。地平線の活躍、いつも読んでます(川越市 田部井淳子)
■15年前退職の挨拶状に書いて宣言した「夢と元気の配達人」の役割はまだしばらく持ち続けていたい。ことしはアジア・メコン川を考えています。(鎌倉市 永久カヌーイスト 吉岡嶺二)
■いい正月でーびる。今年もゆたしくにげーさびら。ゴンもすっかりおじいさんですが、ポニョはゴンが大好き。(浜比嘉島 外間昇・晴美 2ひきのわんことの海辺の家族写真)
■2月から植村直己さんの地でもあるグリーンランドにある世界最北の村シオラパルクに入り、単独徒歩で1200キロを歩きます。2017年は100年前の探検家白瀬中尉の足跡を伸ばし単独徒歩で南極点まで歩きます。遠かった南極は射程距離にあります。(秋田市 夢を追う男 阿部雅龍)
■3年前より厳冬の津軽の山に通っている。ここでの津軽とは津軽半島のみならず青森県の西側半分をさす。このあたりの山は、太宰治の小説『津軽』にも登場する津軽富士こと岩木山、世界最大のブナが生育する白神山地、雪中行軍中に199人の死者を出し史上最大規模の遭難となった八甲田山など何かと話題性がある。
◆いずれも1000メートル級の山で、岩場もほとんどなく技術的困難はない。ところが厳冬の津軽の気象条件は悪い。街ですら連日の風雪にみまわれ、街の風景はモノトーンに沈む。海沿いでは平地ですら風速40メートルを超す烈風で、積もるはずの大雪も吹き飛ばされる。おまけに冬の日本海側は雷が多い。1000メートル級の山とて、けっして侮れない。太宰治のいう、「ここは本州の極地」という表現も、厳冬の津軽の山の稜線に立ってみると妙に説得力がある。
◆八甲田山では温泉のある登山口からして積雪量が3メートルをゆうに超えるし、山麓の国道からすでにホワイトアウトにみまわれる。小説となり映画化もされた『八甲田山 死の彷徨』では、猛吹雪のなかで平常心を失い発狂してしまうシーンがある。ドラマには誇張や脚色がありがちだが、八甲田山においてはじゅうぶんあり得る。
◆また津軽には7つの雪が降るというはなしがある。こな雪、つぶ雪、わた雪、みず雪、かた雪、ざらめ雪、こおり雪。なんともロマンかきたてるではないか。ところが現地で目にしたのは、大量降雪と気が狂いそうなホワイトアウトをもたらす雪とテントやウエアをすぐに濡らす水分を多量に含む雪の3つだった。
◆厳冬の津軽の山を舞台に、爆弾低気圧の直撃するもっとも成功の確率の低い時季にあえて入山し登頂を試みる、というのが3年前から取り組んでいるテーマである。「リアル厳冬季の山旅」と名づけてみた。大量降雪、ホワイトアウト、強風の3つの悪コンディションのなかで、過去3年間で7回トライした。
◆2013年1月初旬、岩木山(1625m)9合目にてホワイトアウトで敗退。2014年1月初旬、岩木山9.5合目にてホワイトアウトで敗退。3月初旬、白神岳(1232m)標高970m付近にてヒザ痛で敗退。2015年1月初旬、岩木山8・5合目にて息もできない強風で敗退。2月初旬の白神岳は、最高峰(1235m)には立ったが主峰(1232m)は踏まず。ホワイトアウトで正確には断定はできないがたぶん踏んでいないとおもわれる。だから敗退。
◆2月中旬の八甲田山・大岳(1584m)は、標高1400m付近にて強風で断念。3月初旬、八甲田山・大岳は登頂したけれど稜線に達したころは冬型気圧配置がゆるみはじめていくぶん安定したコンディションだったので「リアル厳冬季」からはわずかに外れてしまう。だから敗退。というわけで7回トライして全滅だった。
◆見方によっては、無理やり敗退とこじつけてしまったものもあるかもしれない。でも個人の冒険における判断基準は、一般的な価値基準ではなく当事者自身の感性に委ねられるとおもう。なによりも自分のやりたいことこそが最高の冒険なのだから。
◆何度トライしてもできないと嫌になって投げ出してしまうものがある。いっぽう何度トライしてもできないからこそ逆にのめりこんでしまうものがある。今の自分にとっての厳冬の津軽はもちろん後者。両者のちがいに難しい説明はいらない。きっと自分とその対象との相性につきる。ただやりたいからそれをやる。
◆厳冬の津軽に求めているのは、ピークや踏破といったどこかに到達するものではない。グーグルアースでおおよそのことが、すくなくとも机上ではわかってしまう今の時代に、到達や踏破は昔にくらべたら意味はうすれてきている。厳冬の津軽に求めているのは深い体験だ。ときとして自分の足も見えないほどの猛吹雪や重いザックを担いだ人をも吹き飛ばす烈風を体感しながら、厳冬の津軽そのものと対峙してみたい。
◆冒険とは地図上を塗りつぶす作業にとどまらない。独創的な計画をつくりだすことをふくめた行為そのもの。そもそも先人の足跡を辿るだけでは、思考をめぐらせる機会もすくないし、かぎりなく「作業」に近くなる。試行錯誤をくり返しつつ前へ進むことにおもしろ味はある。この冬も年が明けるころにまた鈍色につつまれた独特の世界をつくりだす厳冬の津軽を再訪する。まわりに見えるものすべてがまっ白におおわれる。連日の風雪で何も見えないことによって、はじめて見えてくる何かがあるはずだ。
★ ★ ★ ★
◆さて津軽の準備をしていた年末の12月21日に日本を代表するアルパイン・クライマーのケイちゃん(谷口けい)が、北海道の大雪山系の黒岳・北壁を登攀終了後に墜落死亡した。彼女の軌跡はヒマラヤやアラスカの困難な氷壁登攀、日本国内の冬季登攀と一部を除けば組織的登山ではなく、いずれも2〜3人によるリスクの高い登山(冒険)であった。
◆リスクの高い冒険をつづけていればいつかは……。そうはおもいたくないけれど、それがリスクの高い冒険の現実でもある。なによりも当人こそが行動を通して痛感していたであろう。死のリスクと対峙することによって、はじめて生きているという実感をつかむことができる。だからけっきょくは優秀な奴、純粋な奴から逝ってしまう。それでもやっぱりリスクと真摯に対峙する人といえども、あまりはやく逝ってほしくない。
◆かぎりある人生のなかで、やりたいことを実現するためにつねに精一杯でことにあたっていたケイちゃん。そうした意味で彼女の人生に悔いはなかったであろう。とにかく事故の翌朝に早くも遺体が見つかったのが何よりだったかもしれない。(田中幹也)
★谷口けいさんが姉のように慕っていた登山家、寺沢玲子さんから長いメールをいただいた。今回の遭難の顛末を含め、けいさんの人柄、生き方が伝わる貴重な文章なので、寺沢さんの了解を得て、この通信に掲載させていただく。寺沢さんは、地平線通信の良き読者でもある。(E)
■江本さん、けいちゃんの事故の件でお電話いただきながら返信できず申し訳ありませんでした。私は今回の事故の直接の関係者ではないのですが、事故連絡を受けたけいちゃんの北杜の友人たちが彼女の家で2015年秋のネパール・パンドラ登山計画書を見つけ、留守連絡所として名前があったため事故直後に私にも連絡をしたといういきさつがあったそうです。なお、その直後にけいちゃんの父上からも連絡をいただきました。
◆事故当日の12月21日夜には<遭難>は報道でも流され、電話やメールで携帯はパンク状態でした。22日朝、<発見>そして<死亡確認>の報せが入り、急遽父上とけいちゃんが<山の父>と慕っていた飛田和夫氏、それに私が一緒に旭川へ飛び、警察署で遺体の本人確認をしました。ひどく損傷しているといわれていた顔も、打ち身や擦過傷で腫れてはいるものの一目でけいちゃんと認識できるほどきれいで、酔っぱらって眠っている時のようでした。
◆当初、死因の特定に2〜3日を要すると言われていたのですが、父上の熱心な懇願も功を奏したのか翌23日午前には死因は「脳挫傷」、午後には遺体を引き取れる事になりました。しかし、<警察署から指定斎場まで>と聞いていた葬儀社では羽田空港から斎場までの搬送しかしない事が判明、念のためお世話になった事のある札幌の葬儀社に連絡を取ったところ、急遽当日の夕方便にて搬送できる事になり、無事けいちゃんを実家のある我孫子へ連れ帰り、近くの斎場に安置する事が出来ました。
◆けいちゃんは24日は実家に泊まって25日からキリマンジャロ添乗に出かける予定でした。父上は「けいらしい、予定通り我が家に帰ってきた」「奇跡のように順調に事が運んだのは早く帰りたいというけい本人の意思が作用したようだ」と寂しそうに笑っておいででした。父上の言葉ではありませんが、21日の事故の後、本当に順調に22日には発見収容、23日には我孫子へ搬送、24日に通夜そして25日には葬儀を終え、箱に入って軽くなったケイちゃんは予定より一日遅れたとはいえ実家に戻る事ができました。
◆けいちゃんとは彼女が2004年のゴールデンピーク北西稜に参加する事になってからのつきあいで、これ以降私は自然と平出和也・谷口けいコンビの一連の海外登山の留守番本部を引き受ける事になりました。我々の頃のヒマラヤやカラコルム登山と異なり、情報伝達の方法が格段に進歩しているため、2008年のカメット南東壁登攀では予定日数を大幅に過ぎた10月5日、頂上から<初登攀成功>の一報を衛星電話による肉声で伝えてきました。
◆あの時の<登頂成功>と<What's next!>の嬉しそうな声は忘れる事ができません。後日、平出が自分の職場であるICI石井スポーツのために動画を作成したのですが、その未編集の頂上部分を送ってきてくれ、カメット登山計画に協力してくれた方々への感謝の言葉や嬉しそうに「What's next!」を繰り返す二人の姿に留守番の苦労が報われた思いがしたものです。残念ながらこの動画を保管していたパソコンもハードディスクも壊れてしまい、今は見る事ができません。翌2009年、この登攀が評価されたピオレ・ドール選考会場からは受賞報告を携帯に、授賞式の様子をメールに添付送付してくれました。そして読売スポーツ大賞授賞式には二人の保護者代わりにと私を招待してくれました。
◆ご存じのように私は古いタイプの登山愛好者なので、一緒に出かける仲間や留守本部を引き受ける際には、そのご家族とも事前に連絡を取り合うようにしています。けいちゃんのご両親や兄嫁さんとは食事会をしたりしました。また、けいちゃんたちの登山が山場に入ると、一報が入る瞬間に備えてメモセットを手放せず、携帯のアンテナが立たないところにはいられないという不器用なところもあり、いきおい行けるのは岩登りのゲレンデとなります。
◆カメットの一報は飛田さんと一緒にいた小川山(廻り目平)のリバーサイドというルートで受けました。登山予定が大幅に遅れてあちこちから心配する連絡も入っていたので我々のクライミングは即中止し帰宅、二人のご家族や関係者へ朗報を流しました。
◆昔からあの壁に興味を抱いていた登山者は結構いたのですが、今の人たちには想像もつかないほどインドの国境問題は厳しく、仮想国境インナー・ラインを越えての登山は長い間軍関係者との合同隊など特別許可を受けられる場合にしか実現不可能だったのです。実際にインドのクン西壁(7077m)やアクタシ南西壁(7016m)初登頂などで知られる広島山岳会の名越實氏などは若い頃からあの壁に注目、二人が向かった事を我が事のように喜んでいました(その名越さんは2013年暮、単身向かった横尾尾根で消息を絶ち、一年半後の2015年6月6日に槍沢ロッジ対岸のルンゼ下部で発見されました)。一部の若手インド人クライマーにとってもやはりあの壁は憧れの的でした。
◆このピオレ・ドール受賞で登山界でも有名人となったけいちゃんは、それまでにも登山関係者以外の沢山の友人に囲まれていたのが更に多くの人たちとの世界が広がっていきました。それでもその一人一人との付き合いを大切にする姿勢にはただただ感心させられました。だからこそ、時々は腹立たしくなるほどの<お願い事>も何とかしてやろうと思わせられたのです。
◆特に、先に逝ってしまった仲間たちへの想いの深さはこちらがハラハラするほどでした。帰国して数時間の自由時間しかなくても次の荷物を我が家にデポして可能な限りご遺族を訪ねたり、捜索活動に参加したり……。大切な人を失って打ちひしがれていた方々は、そんなけいちゃんに沢山元気や勇気をもらったのではないかと思います。
◆私が感じたけいちゃんのこれまでのヒマラヤ登山は「誰かの計画に乗る」でしたが、2015年秋のパンドラは自分から対象の山を打ち出したような感がありました。完登はなりませんでしたが彼女にしては珍しく再登攀の意欲大で、既に装備もカトマンズにデポして帰国しました。実家に数日間滞在すると言っていたのに実家には一泊だけして、親しい恩田真砂美さん宅へ泊って北杜に戻る事にしたとの事。翌日急遽数人に<召集>がかかり昼食を共にし、昼食会解散後はドイツへ向かう私の夫たちの見送りを一緒にしてくれ、恩田さんの帰宅を待つ間二人で夕食を摂りながらあれこれ四方山話をして別れました。
◆その一週間後、秋にチャムラン北壁登攀中行方不明になったけいちゃんの大切な仲間、今井健司氏の奥様や遺児蒼司ちゃんを励ますハイキングのガイド役をかって出てくれた時の姿が今でも目に浮かびます。ハイキング後の食事会では「寺沢さんや飛田さんは後回し」といたずらっ子のような笑顔で参加者たちを積極的にもてなしていました。今井さんの奥様もそんなけいちゃんを心の頼りとしていたようです。
◆その晩は飛田さんとけいちゃん宅に泊まり、久しぶりにゆっくりあれこれ話をしました。そうそう、その夜、これまでは「さだまさし」が好きだという私に「彼の歌は嘘っぽくて嫌い」と非難めいた事を言っていたけいちゃんが、何と延々と「さだまさし」の曲を流しているのです。さては私に気を遣ったか……と内心思っていたところ、なんでもどこかからの帰国便で「風に立つライオン」を観て感動、それ以来「さだまさし」をじっくり聴いたら心にしみたのだそうです。葬儀で流す曲を相談された時その話をしたら皆さん驚いていましたが、葬儀会場では生のピアノ演奏で「さだまさし」の曲が静かに流れていました。
◆10月には来日したパキスタン人女性初エベレスト登頂者のエスコートを任された私を心配してパキスタン大使との打ち合わせにも同行し、山の選定を含む登山の一切をも仕切ってくれました。<男手もあると心強い>などと半ば強引に飛田さんまで借り出してくれ、大使館to大使館一泊二日の奥穂高岳登山を何とか実現してくれたうえ、突然お願いした大使館での歓迎スピーチも引き受けてくれました。
◆アラスカからの帰りは空港から我が家に直行して汚れきった衣類を洗い(私に洗わせ)、まだ匂うと幾度も洗い流していました。今にして思えば我が家より空港に近い友人も沢山いたのに、私は彼女の雑用係だったのかと思わず苦笑してしまいます。我が家にとってけいちゃんは殆ど里帰りする娘状態でした。
◆我が家で<地平線から・一九七九>を探し出したけいちゃんは、「江本さんは私の大好きな人」だと嬉しそうに話していました(結局この号は彼女が持ち帰り、戻ってきませんでした)。そして「江本さんのカレーは絶品」とベタ褒めでした。そのくせ、誰かが私を「エモカレー」をご馳走になりに行こうと誘うと渋るのです。
◆後でわかったのですが、どうも江本さんとはゆっくり話したいので三人だけで会える時をねらっていたようです。その後、ご多忙な江本さんに無理強いして二度ほど二人でお邪魔しましたね。余った「エモカレー」をお土産にいただいた時には「図々し過ぎ!」と私を責め、そのくせしっかり冷凍させて自分が我が家に来た時に食べていました。そんなところはまるで子供のようでした。
◆こうしていろいろな事を思い出してみると、けいちゃんには無理難題を持ちかけられもしたけど、肝心なところではいつも助けられていた事に気がつきます。強くて優しくて、だけど実は寂しがり屋でもありました。時々、何故かけいちゃんと1993年3月に宝剣岳でガイド中に逝った岳友笠松美和子のイメージが重なる事があります、全く異なるキャラクターなのに。
◆つい最近聞いたところによれば、事故当時ケイちゃんは兼用靴を履いていたとの事。あまりスキーが得意ではなかった頃の彼女が「滑るためだけのスキーではなく、ヨーロッパのクライマーのように兼用靴でスキーと登攀を組み合わせて実行できたらステキだな」と恥じらうように笑っていた顔を思い出します。いつかきっと……そんな思いを胸に抱いていてこの日があったのだとしたら、結果として自分の生命を失いましたが、私は登攀終了点でロープを解いた時のけいちゃんの気持ちを想像してしまいます。
◆最後まで己のステップアップを試みた「挑戦者」だったのだとけいちゃんを褒めてあげたい、同行者やご家族それに沢山の友人に大変な迷惑と衝撃と悲しみを与えたけれど、「トイレ」だけが大きな話題となってしまった事故だけど、<よく頑張った!>と言ってあげたい、いまだにけいちゃんのために泣けずにいる私もけいちゃんの最期がそんなだったとしたら心が軽くなって泣けるような気がします。
◆谷口けい(本名は桂)はやはりいつも前を向いている挑戦者でした。事故そのものを登山界を含む一般社会に非難されたとしても、私は挑戦者として生を終えたケイチャンを理解してあげたいと心底思います、江本さんもきっと同じ思いではないでしょうか。(寺沢玲子)
■ケイさんはいつも突然「明日泊まりに行っていい?」とメールをくれた。もうちょっと早く言ってよ! と思うこともあったけど、予定は突然決まる。手帳にはフセンがびっしりと並んでいた。なぜフセンなのか不思議だったが、今ふりかえれば、常にいちばんやりたいことを考え続けていたからなのかもしれない。本当にやりたいことなのか、すべきことなのかを問いかける。そんな生き方を徹底していたからだ。
◆遊びの予定ばっかりで仕事してないじゃん、とつっこんでも「仕事なんかしてる暇ないよあたりまえじゃん」と返された。1年先の予定まで黒ペンで手帳に書き込む自分からすると、どうやって生きてるんだと不思議だったが、仕事も納得できるものだけを選んで受けていたようだった。
◆山を駆け、友達を大切にし、世界の美しいものを見て、美味しいものを味わって食べる。誰もがあこがれる、しかしなかなか真似できないそんな生き方を20代で選択し、みごとにそのスタイルを確立していた。だから、ケイさんが運んでくる風はいつもエネルギーにあふれて生き生きしていた。
◆私が企画して仕事をしたこともあった。意図をすぐに汲んでくれ、アウトプットはケイさんらしさの伝わるいいものばかりだった。山にも一緒に登った。怖がりな私に、冬の厳しい岩や氷を登る楽しさを教えてくれたのは、ケイさんだ。寒さに震える岩壁でも、テントの中でも、どれもいつも最高に楽しかった。
◆いろいろな国のクライマーに出会ってきたけれど、あれほどのエネルギーと楽しむ力を兼ね備えた人を私はほかに見たことがない。そのスケールの大きさは、クライマーとしても人としても稀有な存在だった。日本は、世界レベルの人材を失ってしまった。私はまだ、ケイさんに会えないということがよく理解できずにいる。はじめて、世の中には飲み込めない事実というものがあるのだということを知った。
◆しかし、だれよりも困惑したのは、ケイさんではなかったか。残された者のつらさを知るケイさんはいつも「私は山で死なないよ」と言っていたのだから。(恩田真砂美)
■昨年11月に「日本冒険フォーラム」に参加した。会場は明治大学。福宮学長は「植村直己さんは前へ前へという明大スピリッツを体現された方でした」とご挨拶。その一か月後に谷口けいさんの訃報に接した。明大OGで常に前向きな姿勢で日本女子登山界を牽引して来た方だ。冥福を祈る。
◆谷口さんにお会いしたのは南アジアでのフィールドワーク的活動の報告が主となっていた4月の第32回雲南懇話会。5名の講師の中で最初が私でインド旅行記、次が谷口さんのヒマラヤ登山記。演台でのパソコン設定時に谷口さんと会話ができた。「自然界で8千mを超える能力がある生物はアネハヅルとインドガンだけと言われてます。インドでは見ることができず繁殖地のモンゴルで撮った愛の舞を踊るアネハヅルのつがいです」「私も大学時代は自転車でツーリングしていたんですよ。アネハヅルの写真も一緒ですね。私のパワーポイントにもあるんですよ」とおっしゃった。
◆講演のムスタン未踏峰6442m遠征記ではヒマラヤ山脈を横断するツルの圧倒的な映像に度肝を抜かれた。雲一つない青空の下、世界の頂きを越えるアネハヅルが写真の枠内だけで31羽。僥倖に巡り合えたとしか言えない凄いショットと感心した。明るく颯爽、エネルギッシュな話しぶりにも魅了させられた。会場では隣席。何事にも真摯に取り組み前に向かうパワーを注入していただけた。これが一期一会なのか。
◆ムスタンはネパール・中国国境チベット仏教圏。女性初のピオレドール賞受賞はインドのカメット未踏壁登攀によるもの。死後の霊魂が現に生まれ変わる輪廻転生思想はヒンズー教・チベット仏教において顕著でダライラマ制度が象徴的。霊魂はソウルでありスピリッツ。アネハヅルに姿を変えた天女となって世界の屋根を超える新たな旅を始められるのかと思ってしまう。(芳井健一)
長野亮之介+丸山純の“もへじ堂”コンビによる恒例の「地平線カレンダー」の2016年版、12月の地平線報告会で発売されました。タイトルは『幻州けものけ一座由来譚』。あやしげな美しさを醸し出す、不思議な世界。ぜひ1部をお求めください。地平線会議のウェブサイトで。
■谷口けいさんとは、知床の海を一緒に漕いだ。2014年8月のことだ。登山家でありシーカヤックガイドでもある新谷暁生さんが主催する知床半島をシーカヤックで一周するツアー、「知床エクスペディション」に、けいちゃんも私も客として参加していた。
◆けいちゃんが来ることはもちろん知らなかったし、彼女がシーカヤックをやることも知らなかった。新谷さんもそうだしけいちゃんもそうだけど、登山もやるし海も漕ぐ人に少なからず出会う。わたし自身もそうだ。自分自身について言えば水は苦手で、「地に足をつけているスポーツが好き」とずっと思っていた。
◆けれどカヤックで水面をうろうろするようになってみるとこの遊びがとても好きになり、水への怖さはそれほどでもなくなった。地球の感じ方が山とは違う。シーカヤックは地球とのつながり方がダイレクトで心地いい。谷口けい、という名前はもちろん知っていた。メディアでよく名前を見たし、ムスターグアタやシブリンを登ったときのパートナーが平出和也君だったことで、余計にその名前が私の頭にインプットされた。
◆平出君とは、彼が涸沢の常駐隊にいたときに知り合いになった。私は大学時代、夏休みに剣沢の野営管理所でアルバイトしていたことがある。富山県警山岳警備隊と、金沢大学医学部の診療所と同居して、警備隊やお医者さんの飯炊きなどしていた。その時のバイト仲間が、涸沢の常駐隊(北ア南部山岳遭難防止夏山常駐隊)に入ったので、彼女に会いに常駐隊をたずねたとき、平出君に会ったのだ。
◆その時は山が好きな青年のひとり、くらいの認識でいたし、実際まだ無名だったと思う。自分のアクティビティの中で出会っていく人は、出会った時点では特別な人ではない。ただその名前をメディアで聞くようになると、知り合いであることを誇らしく思う気持ちが生まれる。平出君の名前を谷口けいさんと一緒に見るようになってうれしかったし、その後、カメラマンとしての彼の活躍を見るたび、かっこいい!と思った。
◆その平出君とパートナーを組む世界的な登山家けいちゃんと知床の海を一緒に漕げるとわかったときはうれしかった。独特な人生の歩みをしてきた人と直接接するのはおもしろい。わたしが新谷さんのツアーに参加するのは、知床の海を漕ぎたい、ということよりは、新谷さんと一緒に時間を過ごしたい、という理由の方が大きい。わたしは新谷さんの人生との向き合い方がとても好きで、それは彼の著書から感じたことなのだけれど、だからぜひ、彼を生で感じたいと思っていた。
◆2013年のツアーに参加したことでようやく新谷さんを直接知ることができ、それは想像していた以上に素晴らしい出来事だった。少しでも長い時間、一緒に過ごしたい。一挙手一投足を見ていたい。新谷さんは何を見ていて、何を感じて、どう判断するんだろう。どんな言葉を使うのだろう。新谷さんから言葉で聞く、というよりは、彼の行動そのものを見て聞いて感じ取りたい。わたしにとっての新谷さんはそんな存在だ。
◆2013年のツアーで半島を一周できなかったリベンジもあるけど、新谷さんとの時間を可能な限り作りたい、そんな思いもあっての、2014年、再度のツアー参加だった。けいちゃんに、なぜ海を漕ぎにくるのか、尋ねたような気もする。でもどんな答えだったか忘れてしまった。ただ、似たような感覚なんだなと思ったことは覚えている。
◆けいちゃんも新谷さんを慕っていた。ユニークな個性を慕って集まってくるユニークな個性たち。人の一生は本当にあっという間なので、生きている自分が、このわずかな時間の中で直接会える人たちっていうのは、奇跡的な存在だと思っている。知床の濃密な自然の中で、新谷さんやけいちゃんと9日間、一緒に過ごせる時間が自分の人生に生まれたことは、奇跡の中の奇跡だった。
◆知床の海を漕ぎながら、けいちゃんにいろいろ聞いてみた。とは言え突然出会ってしまった目の前の登山家に、あらためて何を聞いたらいいのかわからなかった。結局、思いつくたびにポツリポツリと聞いてみる感じになった。印象に残っているのは、高所恐怖症なこと、寒いのは苦手なこと、トイレが近いこと。笑っちゃった。それなのにあんなハードな登山をするんだ。人間っておもしろいなあ。
◆わたしも、怖いのに、競技スキーで時速100キロ以上のスピードでかっとんでいたし、本当に落ちて本当に死んじゃうんじゃないかと思いながらフリークライミングもやっていた。「わたし、何でこんなことやっちゃってるんだろう」と思いながらもやり続けてしまうこと。けいちゃんにとっての登山もそんなものだったのかなあ。
◆けいちゃんと過ごしたわずかな時間の中で、わたしがけいちゃんに感じた印象は、すがすがしい風、という感覚だ。ツアー中誰かが、「ビッグな登山をするのに、お金はどうしているの? どうやって暮らしを立てているの?」といったことも聞いていた。けいちゃんの答えは、「うーん。なんとかなっていくものだよ」くらいのものだった。けいちゃんを見ていると、その通りなんだろうなと思った。話の中で、山梨に小さな家を借りて自分に馴染むスタイルでの暮らしを営んでいるようだった。
◆人生に渡って自分らしくあり続けた人。純粋にやりたいことをやり、風のように生きた人だったと思う。朝食のパンを切ったり、コーヒーを入れたりといったチームの仕事を、新谷さんに次いで、誰よりも早く、さりげなくしてくれた。自然体で気が利く人。人の面倒もさりげなく見られる人。さわやかでかっこよかった。43歳で逝っちゃったのはすごく残念。そうなんだけど、けいちゃんの訃報を聞いたとき、仕方ないと思ったし、すがすがしい生きざまを見せてくれてありがとう、そんな風に思った。(岩野祥子)
谷口けいさんが亡くなった。誰もが思いもしなかった形で、あまりにもあっさりと。ふと、けいさんは、あの健康そのもののようなけいさんは、立ちくらみする質だったのかもな、と思った。生命はやはり奇跡で、だからやはり危うく、脆い。
人間は地球の与える己が環境の中で、生き物としてどこまで自由に振る舞えるように作られているのか、確かめずにはいられないものらしい。多分他の動物も多かれ少なかれそうなんだと思うけれども、人間は概念などという認識の仕方を持ってしまった。人それぞれに海だの山だの、寒さだの熱さだの、垂直だの距離だのとカテゴリーを思い定めて追求する。はては極限の中でなお生き、自由でいることの確認だ。我が身がそれに応えられていると感じる間は他に代えがたい達成感となる。馬鹿げているがすばらしい。
地平線会議の報告会でけいさんの話を聞いたのは2010年1月26日だった。新垣亜美さんが生命あふれるクライマーらしく、谷口さんの健やかさに共鳴する詳しい報告を書いてくれている。老齢のわたしでさえ、まるで一緒に登っているように、高度感や寒さ、筋肉のふるえやこなしていけるバランスの喜びを共感してしまう報告だった。けいさんの笑顔は明るく、純粋で健やかで、そのクライミングが死との境界線にぎりぎりまで近づくものでありながら、境界が動物的な確かさと平静さによって明確に見えていることに驚嘆した。
にもかかわらず、けいさんの立ち位置と境界の近さにはおののかざるをえず、存在のかけがえのなさを痛感した。この人たちはわれわれの宝なんだと。レポートの最後に、どうか生きつづけてほしい、死ぬなよ、と書かずにはいられなかった。
だからその後もけいさんのことが気にかかった。とくになぜかその笑顔だ。けいさんの笑顔は明るく、静かだ。でもそれだけではない。どういう顔をしたらよいのかちょっと戸惑っているような何かがある。あれは何だったんだろうと、考えるでもなく考え続けた。そしてようやく分かった気がした。
なんだ、そうか。わたしが彼女の後に死の影を見ていたのではない。彼女自身がいつもそれを身近に見据えているがゆえのまなざしだったのだ、と。
わたしは自分を登山者と名乗ることさえ恥ずかしいことしかやっていないが、人間は死と道連れで生きているんだということだけは学んだと思う。
だけどけいさん、残念だ。寂しいよ。宮本千晴
■ただ、すごいショックです……。クエストの完走後に帰国した時、飲み会でご一緒して、嬉しくて写真を撮らせてもらいました。けいさんには、本当にあの1度きりしか会えなかったので、ファンとしてはもっと積極的に会いに行けばよかったと今更悔やんでいます。やってる事も一本スジが通っていて、澄んだ清流のような雰囲気で、カッコ良いと思っていました。本当にもう、残念でなりません。(本多有香 カナダ・ホワイトホース)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。当方のミスで万一漏れがあった場合はご面倒でも必ず江本宛てお知らせください。近況など「ひとこと」を添えてくださると嬉しいです。アドレスは(メール、住所とも)最終ページにあります。
湯浅ふみ子/中嶋敦子(5000円 2年分+カンパ) /渋谷典子/宮崎拓(地平線通信いつもありがとうございます)/秋元修一(4000円)/平本達彦/長澤法隆
「3.11カラハジマル日めくり鮭カレンダー」が第67回全国カレンダー展で見事「第2部門銀賞(経済産業省商務情報政策局長賞)」に選ばれ、13日、ゲートシティ大崎で表彰式が行われた。画伯も出席しました。おめでとう! なお、あと200部ほどあります。注文は、カレンダーの予約申し込みサイトから。 http://saket311.naganoblog.jp/
※長野亮之介画伯がイラストを担当した「3.11カラハジマル日めくり鮭カレンダー」は、地平線会議とはまったく別の団体(鮭Tプロジェクト)が制作・販売しているため、地平線会議のサイトからはお申し込みいただけません。
■谷口けいさんとは7年ほど前の夏、私が北アルプスの山小屋で働いていたときに初めてお会いした。剣沢雪渓を下った所にひっそりとある小さな小屋をけいさんは気に入っていて、仕事で近くに来ると、よく足を伸ばして遊びに行っていたという。そこでは小屋の仕事を手伝って、名物のカレーライスを美味しそうにおかわりして食べていたと聞く。
◆ちょっと気むずかしい山小屋のおばちゃんも、明るくてちゃきちゃきと働くけいさんのことをとても気に入っていた。「またおいでよー」「うん、またね!」とハグして別れる姿が印象的だ。本当に自然に、心も体もその地に溶け込んでいたように見えた。きっとけいさんには、そんな大切な場所がたくさんあって、大好きな人たちが世界中にいたんだろうな。けいさん、あなたのはじけるような笑顔と明るい笑い声を、みんな忘れません。どうか安らかに。(新垣亜美 屋久島)
■一昨年の秋、ムスタン山群の未踏峰マンセイル峰に学生たちを連れて登ったのちの報告会でのこと。それまでもメールなどで何度かやりとりさせていただきながら、ようやくお会いできた谷口けいさんとお話しするなかで、けいさんが「めばえっ子」だったと知りました。
◆千葉県我孫子市のめばえ幼稚園は森の中にあり、急な斜面や、ぐらぐら揺れる自作の遊具で子どもたちが遊んでいます。母親たちの間でもちょっと賛否が分かれるほど、勉強よりも、わんぱくに育てるのがポリシー。「変わった幼稚園だった。だから私、こんなふうになっちゃったのかも」と笑ったけいさん。
◆その幼稚園にいまは娘が通っています。もう少し大きくなったら、こんなすごい「先輩」がいたんだと話してあげたいと思います。あまりにも突然の訃報、ご冥福をお祈りします。(今井尚 小学生朝日新聞記者)
「江本さま すっかりご無沙汰しております。「相変わらず、全然日本に居りませんケイです。夏の初めに、一日だけのタイミングで帰国していた本多有香さんに会うことが出来ました(地平線会議へは行かれなかったのですが)。世界で頑張っている日本女性にはとても惹かれる者があって、有香さんには会いたかったんですよね。だから一日だけタイミングがあって、とてもラッキーでした。それから、400回目記念の地平線会議、本当に行かれなくて残念でした。毎回、江本さんからの通信を読んで想いを巡らせています」
「すっかりご無沙汰しています。私は今、久しぶりのパキスタンに山登りに来ています。今日は一山登って下山してきて、憩いの地フンザにて2日間の休養中。パソコン借りて、久しぶりにメールを見ていました。角幡さんの『アグルーカ』、賞とったんですねー。素晴らしい。今日は私は、『世界最悪の旅/チェリー・ラガード』読んでいました。冒険読み物は、歳をとってもワクワクさせてくれますよね。
◆2013年夏、ナンガパルバットでの登山家殺害事件が起きて、パキスタン遠征出発間際だった私達は、外務省からも直々に自粛要請(という程きつくはなかったけれど、本当に行くのか?という)連絡をもらったりして、協議を重ねたのですが、楽天的で刹那的に(?)生きている私としては、「今」行きたいこと、やりたいこと、は「今」を逃したらその冒険的要素や実行意義が半減すると思っているので、やっぱり「行く」という結論でした。
◆罪無き、カラコルムの山麓に住む人々にもやっぱり会いたかったし。今が駄目で未来(来年とか)が大丈夫だなんていう保障も無いし。最初に目指すのは、「白きたおやかな峰/北杜夫」ディラン峰(7266m)。小説の中で、あの高みでいったい何が起きたのだろう?何故に、頂上直下で皆敗退したのだろう?どんな景色を見たのだろう?そんなにも雪は深かったのか?氷は硬かったのか?想像が膨らむ、あの山の頂へ行ってきました。
◆心が折れそうになるくらい、セラック地帯(西面)のルートファインディングに右往左往させられ、更に心が折れそうになるくらい、長い長い西稜の登高と、最後に出てきた氷壁。それでも素晴らしい景色を満喫してきました!地球の芸術ってやっぱり素晴らしい。そして、生きてるって素晴らしい。
◆今は無事に下山してきて、フンザの谷の風(=ナウシカの谷の風)に心を和ませているところ。この後、本命のシスパーレ峰(7611m)南西面に向かいます」。
■1月10日、東京市ヶ谷防衛庁裏JICA国際会議場で「2015・大なだれ、悲劇の実態と復興に向けて」と題したシンポジウムが開かれた。主催はランタンプラン。地平線会議とも縁が深く、第436回地平線報告会でランタン村について語っていただいた貞兼綾子さんが代表を務める団体だ。大なだれが襲い、復興が求められているのは、団体の名前が表す、ネパール・ヒマラヤ山麓のランタン村。
◆会場はいつもの地平線報告会とは少し雰囲気の違う参加者が席の多くを占めていた。発災のまさにその時、ランタン・リの登頂を目指す遠征隊があり、その隊を代表して兵頭渉さんが、地震のその瞬間ランタンの山で何が起こっていたのかを、映像とアニメーションを交えて、生々しく伝えてくれた。
◆地震前と地震後の写真の比較から、山頂付近の雪庇や氷雪が地震の衝撃で崩落し、山容が大きく変わった様をみることができ、ここに限らず、多くの場所で同じようなことが起こった事が想像できた。ベースキャンプでの体験談からは、流れ下った雪が、その下に存在する物に与えた影響が容易に想像された。ベースキャンプからの救出ヘリより撮影されたランタン谷、ランタン村の映像が流された際に、貞兼さんがハンカチを取り出し目がしらを抑えるシーンは、僕自身の心にグッときた。
◆藤田耕史さんからは、ランタン谷を襲った雪氷土砂災害を、今回ドローンを使って撮影した映像や、衛星画像、別の調査チームから提供された映像を使って、3D化した地震前後の地形図をつくり、度重なり襲った、雪崩、土砂崩落等によりランタン村を埋め尽くしたそれらが、どの程度の量であるのか、そして衛星観測による温度分布等によりそれが何であったのか、そうした村の被害の実態が報告された。
◆しかし、専門家として藤田さんらが求められていた、調査結果を踏まえてつくられる、3月帰村や、今後の村再建のために生かされるはずのハザードマップの、貞兼さんや村人の求める形での提示は、この場では結論が出なかった。チベット学者として、ランタンプランの代表として、そしてランタンの村人の“母”として、30年間以上にわたり村とともに歩いてきた貞兼さんからは、今回の非常時にあたり村人がとった行動が賛美の言葉とともに伝えられた。
◆そして貞兼さんは「ランタンプラン」を村を再興するという目的の為に再開する決意を語った。「ゾモ」の牧畜をそのための手段とし、乳をチーズに加工、販売する事で、村人たち自身が立ち上がる術を手にするという、ランタンプランが新たに目指すビジョンも語られた。
◆貞兼さんがシンポジウムの中で一貫してこだわった事は、一刻も早いハザードマップの提示だった。専門家、研究者としての「それ」と、貞兼さんや村人の住民としての「それ」は、認識に根本的な違いがあるようで、貞兼さんと藤田さんの間に、意思のすれ違いのようなものを生んでいた。それは、奇しくも研究者である藤田さんがまとめの中で仰った、危険をどう伝えるか? どう折り合いをつけるか?「絶対安全」はない、まさにその事に対する認識の違いだったように思える。
◆会場の模様は、ランタン谷の人たちに中継され、最後に貞兼さんがチベット語で呼びかけた。「この映像を見ることができるのは、君たちカトマンドゥに住んでいる者だけですが、村人全員にここにいる私たちからメッセージを送ります。長くて寒い冬にも終わりがあります。まだはっきりと目に見えないけれども、春が近づいています。春になれば君たちが言う『美しい村』の建設が始まりますね。チチ(貞兼さんのこと)たちもできることで応援を続けます」
◆会場から学者、専門家からの質問も次々に飛び出し、熱のこもった4時間だった。藤田さんは、まとめの中の最後の言葉としてこうしめくくった。「東日本大震災後の東北と同じ課題」。それは、僕が今回のシンポジウムを通して、感じ、思ったことだった。(小石和男 東日本大震災被災地、ネパール大地震被災地でボランティア活動)
地平線通信440号(12月号)は12月9日印刷、封入を終え、10日午後、新宿郵便局から発送しました。この号は「日本冒険フォーラム」特集のかたちとなりましたが、他の原稿をおさえ気味にしたので、16ページにおさまりました。作業に駆けつけてくれたのは、以下の皆さんです。
森井祐介 伊藤里香 石原玲 落合大祐 江本嘉伸 安東浩正 前田庄司 久島弘 山本豊人 松澤亮
人のリストに入ってもらい、皆で美味しく「北京」の味をいただきました(餃子だけでなく、実はカレーラーメンなんてのも人気です)。皆さん、ありがとうございました。
■シンポジウムの登壇者が登山家、氷河研究者、チベット学者と「異種格闘技」のような顔ぶれなら、その報告を食い入るように聞く参加者の面々もすごい。北大の白岩孝行さんが進行を務めたパネルディスカッションの前の前に「先に質疑応答を」と会場に呼びかけるとすぐに手がいくつも挙る。
◆藤田耕史さんの雪崩シミュレーションに一言もの申したのは氷河研究の第一人者で『残照のヤルンカン』の著者でもある上田豊さん。なかなか完成しないハザードマップについて貞兼さんに弁解口調なのは雪崩研究の第一人者、雪氷防災研究センターの上石勲さん。JAXAで衛星写真を解析して雪崩の全容をいち早く明らかにした永井裕人さんの顔も見える。
◆ランタンの復興で観光業はどうなるのかと貞兼さんに質問したのは地平線でもおなじみ向後紀代美さん。ランタン谷へのチーズ導入に多大な貢献をした吉田牧場の吉田全作さんも吉備高原から来られていた。そして奈良から5日間かけて自転車で走ってきたというのは、1978年にランタンリルンに初登頂、昨年も大阪市大隊の隊長を務めた、あの黒部の主、和田城志さんだった。
◆質問の手が挙がらなければ自分が質問するから、と意気込んでいた江本さんの心配はまったく杞憂に終わり、まるでリレートークのように濃い時間が過ぎて行った。貞兼さんを囲む高峰のごときネットワークに唖然とする一日になった。(落合大祐)
■タイトルの通り、三輪主彦さんが知的好奇心を全開にして楽しんだ、ランニングにまつわる紀行文だ。時系列ではなく、7章のテーマにそった38のコースに「瀬戸内海 歩いて渡る しまなみ海道」「ぼけ防止 並ぶ病院 石神井川」のように俳句風のタイトルが詠み込まれている。文体は軽やかなのでサラサラ読み進められるが、ときおりドキリとする話も深刻さを醸し出さないように巧みに混ぜられている。本の表のテーマはもちろん「走り」だが、この本は御年72歳の三輪さんが人生を語っているようにも思える。
◆かつて三輪さんはサブスリー(2時間台)ランナーだった(タイムにこだわる様子は文中に登場する江本さんのコラムに書かれている)。その三輪さんはいつしか超長距離の世界に入り、仕事の休みを使い日本縦断や東海道を走ったりする。さらにアラビア半島では40度の炎天下で、中国では標高3600メートルで、と「走る」ということのあらゆる可能性に挑戦。今辿りついた場所を映画フォレストガンプの走りに例えている。
◆ガンプの走りとは、一言で言うなら、心の命ずるまま。歩くのも走るのも止めるのも自由。理由などいらない、という悟りの境地。本の前書き部分にも「あの汗と涙と根性のランニングの世界にさわやかな風を……。頑張るのもいいが、頑張らなくてもいい走りができる。引退などしなくても生涯走っていられる」などの三輪節が展開されている。
◆地学の先生でもある三輪さんの本領が存分に発揮されているのが、第3章の「ぶらタモリ まねて作った 散歩コース」だろう。東京の自宅から日帰りで楽しめる三輪さんが考え出したお手軽ランニングコースだ。だがただ距離を稼ぐために走るのではない。例えば吉祥寺にある井の頭池を水源とする神田川は、川の始まりから隅田川に注ぐ終わりまでを、自分の体で確かめることができる。隅田川に出れば、次は海まで行ってみるのも面白そうだ。「ブラタモリ」のように三輪先生に地形のなりたちを説明してもらえれば、さらに楽しいだろう。
◆マラソン、いや「走る」ということは、もっと自由であっていいはずだ。長野亮之介画伯による表紙は、松尾芭蕉に扮した三輪さんがすがすがしい表情でこれから進む道を遠望する姿が……。すべてのランナーが自分なりの走り(道)を見つけられればいいなと思う。(三輪さんの弟子、坪井伸吾)
★2015年暮れ、久々に森田靖郎さんからメールが届いた。個人メールだが、皆さんに読んでほしい内容なので、了解を得て通信に転載させてもらう。(E)
ご無沙汰しております。
新刊の案内とともに、近況などをお知らせしようと、一筆申し上げます。
昨年(2014)は、ほぼヨーロッパで過ごしましたが、今年(2015)は、アメリカで過ごしました。
北カリフォルニアの小さな町で、一軒家を借り、オーガニックの野菜畑と、朝市での買い物、時には近くにあるワイナリーで、読書と執筆という生活です。
ヒッピーの発祥地と言われる町は、民度が高く、品性があり、それでいて伝統的な暮らしを守る、とても素晴らしい環境です。隣人に、NHKのシルクロードの音楽作曲者でシンセサイザーの音楽家、喜多郎氏の自宅もあり、時々お邪魔をしました。また、フォルクローレなんかも演奏することもあって、楽しい日々でした。
そうした日常と離れて、ヨセミテ・バレーやキングス・キャニオンのいくつかのトレールを踏破することも出来ました。「聖なる老樹群」……、現存する地球最大の生き物は、老いることなく、命の魂が迸(ほとばし)り、悠久の森に佇み、数億年という時間の流れを一時に留めています。その臨場感に、身が震えるほどでした。 アメリカの原風景を見ることで、地球上の環境問題などの深刻さを身近に感じるだけでなく、命というものが、どのように取り扱われるかを改めて考えることが出来たことは、私にとって収穫でした。
アメリカに居ると「自分の国の現実」を、より客観的に見ることができます。安保法案、憲法改正……そして戦後レジームなど。
20世紀末、中国や東欧、そして中東の国々で渇望していたものは「正義」と「自由」でした。民主革命の「種」は、天安門事件(1989.6.4)で弾け、ベルリンの壁の崩壊、ソ連の解体、冷戦の終結、そしてアラブの春、IS(イスラム国)へ……。「天安門事件」は、歴史を切り裂いたターン・オブ・センチュリーとして特筆すべきものです。
これまで「天安門事件」を裏から表から、さまざま角度から、何度も書き直してきました。「これ以上、書くことがなくなった……」と、書き尽くしてこそ、本物のモノ書きになれると、今の視点から、『六四天安門事件』を書き上げました──。
原因と結果は一致する。原因(天安門事件)を遡り、結果(今の世界)を見れば、不透明なこれからの社会を読み取ることが出来る。「自分が生きてきた時代の現実を見る」ことで、戦後レジームの生き証人となれると思います。
次回作は、「昭和」「戦後レジーム」です。日本の21世紀の礎となったのは、昭和です。それも、戦前・戦中の満州、上海時代です。戦後レジームの原点を求め、21世紀の日本の方向を探るつもりです。
21世紀は、前回の報告会(2014.9.26『未来のルーツを歩く』)で話したように、「文明戦」がいよいよ現実化してきました。国境を超えた文明の戦いです。
20世紀の最大の産物である「資本主義」と「民主主義」はどうなるのでしょうか?
「文明化社会」とは、人間にとって敵なのか、味方なのか?
こうした疑問を同じように抱いている人たちがサンフランシスコのある集団に居ました。数兆円という巨額の寄付を国家や政府の施設ではなく、実態のない企業集団にしております。なんの目的で? 何をしようとしているのか……。それは次回作ということになります。
帰国後も、相変わらず「ノドの渇く話」と、執筆です。
江本さんそして地平線会議にも、2016年はいい年でありますよう、お祈り申し上げます。
2015.12
森田靖郎
■何を今更と言われそうですが、昭和の戦争について今更だから言っておきたいというのが去りゆくもののサガとでも言えましょうか。戦争を経てきた世代としてやはり言うべきことは言おう、と思います。
◆当時7歳まで経験した戦争は昨日のことのように鮮明に覚えています。昭和19年秋東京で連夜の爆撃に耐えかね、12月7日いわき市小名浜の親戚に一泊し、父の高校時代の校長の実家のある四倉の在に母と弟と疎開しました。そこでも爆撃にあって夜中に爆風にあおられつつ逃げ惑い、人肉の焼けた臭いが長く部落にただよっていました。
◆東京に残った父が住む世田谷北沢の家は一帯が焼け野原になり、父の話では被爆の翌朝、私の幼友達の豊ちゃんがうちの前の水たまりに顔をうずめて冷たくなっていたそうです。焼け野原に父を探しに上京したのですが、弟のおもちゃの自動車の前輪を見つけて住んでいた場所がわかり、やがて父手製の地下壕から父が出てきて、寝るところないからすぐ福島に帰れといわれました。
◆焼け野原の三日後には京王線が動いたとか、いわきから東京へは8時間かかったが列車が何とか運行されていたとか戦争版クールジャパンもありました。しかし、このような「自分の被害を語る」ことばかりが9割以上の「戦争を語りつぐ」が果たしてそれだけでいいのか、外務省に奉職し、近隣国に在勤してきた者として国内の観点との間に違和感を持ち続けました。
◆アジアの在勤地で現地の人々に家族レベルでいろいろ聞かされ、恨みつらみもたくさん聞きました。仕事の重要な一部はまさに戦争の後始末でしたので。先進国中心の外交しか知らないと、時に強い軍隊をもってかっこよくやりたいとの欲望にとらわれるかも知れません。でも、途上国専門である私はちがう観点から戦争を振り返っています。
◆そしていくつかの疑問が生じてきました。そもそも私たちは昭和の戦争について正しく知らされ、学んできたのか、というものです。近隣国の青少年はその内容はともかく昭和の戦争について本当によく知っています。私の疑問と、とりあえず私がつけた「おりあい」の一部は次のようなものです。地平を拓く読者の皆さん、是非ご意見聞かせてください。
◆一般の理解では昭和の戦争(本当は昭和戦争と命名したいのですが)は1945年8月15日に戦争が終わり、1951年のサンフランシコ平和条約で法的に決着したというもののように私には思えます。そこでこの条約に参加した国々を改めて調べてみました。新聞記者であった父がスクラップブックを買ってくれ、この条文と関係ニュースをスクラップするように言ったとても思い出深い条約です。
◆日本を含め49か国が署名したのですが、こんなに多くの国と本当に戦争したのかと思います。肝腎の日本をとりまく北東アジア5か国(中国、韓国と北朝鮮、モンゴル、ロシア)は一国も入っておりません。署名国はアジア5か国(ヴェトナム、ラオス、カンボジア、フィリピン、インドネシア、いわゆるヨーロッパの植民地だったところ)、大洋州2か国、南アジア2か国、西アジア6か国、アフリカ4か国、ヨーロッパ7か国、南北アメリカ22か国です。
◆なんか日本の相手は米州諸国だったらしいですよね。ところが、日本人はこの条約で戦争に決着したとせいせいしていたように思います。では、北東アジア諸国との媾和はどうなったのでしょう。中国とは国民政府の台湾と1952年に日華平和条約、中国とは1972年の日中共同声明と1978年の平和友好条約を締結しました。韓国とは1966年になって日韓基本関係条約を結びました。
◆そして、ロシアとは1956年日ソ共同宣言、モンゴルとは1972年の外交関係樹立声明と1977年の日本モンゴル経済協力条約で、北朝鮮とは2002年の日朝平壌宣言でそれぞれ政府間では一応の形はつけてきました。でも所詮政府間の決着です。国民の間で和解されたのではないことはご承知のとおりです。だから、きちんとしたけじめでなかったので、ときに膿んで、傷口がじゅくじゅくしてどうもすっきりしません。そのため周辺諸国でいらだちがあり、それが日本側を刺激して反中、嫌韓、ヘイトスピーチになります。
◆戦争中米軍が地上から日本人を一掃するといって絨毯爆撃とかしたり、有名なハイドパーク覚え書きで、ドイツには使わなかった原爆をルーズベルト米大統領とチャーチル首相が「原爆は日本に使っていいな」と合意したりした人種蔑視を私たちが見習っていいものでしょうか。私にはこうなったのは、武士らしく潔く自分の非を認めたり、謝罪する心を日本人が忘れたからだと思えてなりません。
◆つまり、あの戦争を正しく理解し、総括しなかったから出来なかった。例えば私たちは、8月15日に戦争を止めましたが、法的に合意したのが9月2日米艦ミズーリ号上での降伏調印でしたので、その間ロシアが責めてくる不測の事態がありましたが、それは退却のしんがりをきちんと守備する武士の知恵を忘れたからだと思います。
◆私たちは[1]中国とアジア、[2]米国とその連合軍、[3]ソ連とモンゴル、[4]朝鮮半島の統合と4つの戦争や侵略をしました。ブラス、米軍の原爆投下、ソ連軍とモンゴル軍から受けた抑留という二つの国民的被害をうけました。これらは、分けて総括すべきではないのかというのが私の意見です。そして、和解とは所詮心の問題だから私たち国民の心構えが問われているので、それを周辺国の人々にウォッチされていて、はては私たちの心が見透かされているように思えてなりません。(花田麿公 元モンゴル大使)
■植村直己冒険館主催の「日本冒険フォーラム」の記録をまとめている時に飛び込んだ谷口けいさんの訃報。植村直己さんがデナリに消えた時、11才だったけいさんは、植村さんの本を読んで深くあこがれるようになった。彼のあとを追って明治大学に入ったが、当時は伝統ある山岳部は恐れ多い、と自転車部に入って自分を鍛えた。
◆山岳ラン、カヌーなどのレースにも参加するうち、本格的なクライミングの世界に入り込み、いつの間にか日本を代表するクライマーとなっていた。高度に強いことが、登攀行動の範囲をぐんぐん広げていった、と思う。本を読むことにも貪欲だった。
◆新聞、書籍など紙媒体が売れない時代、と言われてどれくらいになるだろうか。大体、学生はもうパソコンすら持たず、すべてをスマホでやりくりしている、というではないか。断捨離だとか言って、捨てて捨てて捨てまくるのが美しい、という風潮がほんとにいいのか。地平線会議の周辺には紙媒体、本を好きな人たちが今も大勢いる、と信じてコラム「地平線の森」をスタートさせました。三輪主彦さんの本、ほんとに面白いですよ。(江本嘉伸)
焚き火サバイバル
「南極って、色彩にあふれているんですよー」というのは石井洋子(ひろこ)さん。第49次南極越冬隊に気象庁の気象観測員として参加しました。「刻一刻と変わる空の色は、日本では見たこともない多彩な色です。オーロラも出るし、白一色じゃないんです」。 帰国後、福島気象台駐在中に東日本大震災が起こりました。ちょうどロケットストーブの魅力にはまり官舎から戸建て住宅への引っ越しを3月12日に予定していた、その前日でした。荷造りは完了していたため、幸い被害は僅少。早速ロケットストーブを持って被災地支援に飛び回ります。ことのき出会ったのが、宮城県南三陸町の豊かな自然でした。「森と里と海が近接してて、生きる為に必要なものが全部あるんです。そして人のコミュニティがちゃんと生きてた」。 南極生活以来、自然に近い暮らしをしたいと思っていた洋子さんの心の琴線に触れた町でした。「助け合って生きるのは南極も同じ。でも環境は正反対。この街には火を焚く文化も生きていたし、私もこの仲間に入りたいと思った」。 洋子さんは仕事を辞め、2tトラックの荷台に住居を手づくりして、南三陸町に移住しました。「本当に欲しいものは自分で作らないと手に入らない」という洋子さんの目に映る被災地の豊かな暮らしを語って頂きます。 |
地平線通信 441号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2016年1月13日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
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◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
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