2015年10月の地平線通信

9月の地平線通信・438号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

10月14日。爽やかな秋の日が続く。四谷荒木町の飲み屋街のど真ん中でさえ、麦丸との朝の散歩は気持ちいい。ことしの夏はあっという間に過ぎ、もう冬将軍が猛スピードで近づいているのに驚く。

◆10月4日、我が家に近い新宿区歴史博物館というところで、久々に講演会をやった。チベットの友人、ケルサンの提案がきっかけだった。新聞社の社会部時代に出会ったケルサンとは、ウランバートルのレストランで突然声をかけられるなど、時にとんでもない場所で遭遇する。あの時はモンゴルに多数保存されているチベット大蔵経の収集コピーが目的だったと思う。今回は近くに開店したチベット・レストランで出会ったことがきっかけだった。

◆1993年、1994年にかけて私は『西蔵漂泊チベット魅せられた十人の日本人』という本を出した。『山と渓谷』という月刊誌に2年3か月連載させてもらった内容を上下2冊の単行本にして出版したものだ。10人は、明治時代の河口慧海、能海寛、寺本婉雅、成田安輝、大正時代の矢島保治郎、青木文教、多田等観、そして昭和になって、野元甚蔵、木村肥佐生、西川一三。いずれも日本人であることを隠しての「潜入」だった。

◆全員20代か30代はじめの若者。潜入の目的は、仏教の本質追究、外交活動、冒険旅行などさまざまだった。チベットの専門家でもない私が彼らの旅にひかれたのは、航空機も列車もないあの時代、自分の足で世界の“秘境”に旅立ち、彼の地で暮らした日本の青年たちがどんな思いで旅立ったのか? その後の人生をどのように生きたのか? という好奇心、そして彼らの生き方を伝えなければ、との使命感からだった。根底にチベットへのあこがれがあった。

◆余談だが、この本については作家の故司馬遼太郎さんから丁寧なはがきを二度も頂いた。以下は、その一部。「西蔵への筆者の思いは、小生にも共通したものがあります。小生は中国人には自分の親戚以上の親しみを覚えますが、チベットや内蒙古、台湾へのあつかいを見ると、紀元前以来の帝国主義だと思います。ハラのたつことです。これはおそらく日本人の潜在的なおそらく奈良、平安期にもあったのではないか中国周辺の異民族への共感の伝統によるものだと思います」上下巻二度にわたり、心のこもった文章が綴られていて、贈本へのお礼であるにしても嬉しかった。はがきにびっしり万年筆で書かれたあの司馬さんの文字が懐かしい。

◆10人といっても、私が直接話を聞くことができたのは、昭和の3人だけだ(多田等観さんとは電話で話したことがあるが)。とりわけ、西川、野元さんは私の本の出版記念会に来て頂いたほか、私たちが主催した2001年12月のフォーラム「チベットと日本の百年」に特別ゲストとしてお招きし、その後も親しく交流させてもらった。西川さんは2008年2月、野元さんはことしの1月、天に旅立たれた。10人のチベット旅人がいなくなった今、お二人を偲びつつ、講演会をさせてもらったわけである。会場をほぼ満席にしてくれた参加者に感謝したい。

◆10月7日の誕生日を、山形の最上町で迎えた。5年前の「古希」の誕生日は、太平洋から歩いて、の課題をやって(途中テントで2泊して)富士山の頂上に立ったのだったが、今回は、ずっと楽に、仙台から車に便乗して大場満郎さんの冒険学校に泊めてもらったのだ。14年前、町の肝いりで建てられた学校、緑に囲まれて、予想以上に素晴らしいものだった。11月22日の「日本冒険フォーラム 2015」に向けての打ち合わせだったが、何よりも若い時代、真冬でもTシャツ一枚で鍛えていた大場君が、いまどんな環境にいるのか見ておきたかったのだ。いい話をすることができた。それにしても、彼が読書家なのには驚いた。

◆12日は、3才下の弟の一周忌の集いがあった。どこでも同じと思うが、親族が近況を知るのは、法事だけの時代だ。互いに幼少の時代を知るきょうだいにとっては、とりわけ老いを確認しあう現場ともなる。まあ、自然に生きる、とはそういうことだ。晩年はスポーツどころではない健康状態だったが、弟は、大学でラグビー部だったので、今回のワールドカップでの日本ラグビーの大躍進を知ったら、と快晴の秋の日、しばしラグビーが話題となった。

◆先々月のこのコラムで紹介した、南極に小型ヨット「青海」で突入した片岡佳哉さんと時にメールのやりとりをしている。「地平線会議は、皆様手弁当でやってらっしゃること、お金の臭いが全くしない集まりであること、今の世の中の方向性とは少し違う、未汚染の雰囲気を感じております。まるで、未開地の村に行ったみたい??」と最新のメールにあった。

◆30年を超えてこういう活動の真ん中にいると、10年、20年の時間を超えて突然知人に再会し、そのやりとりの中で自分たちがやってきたことの意味に気づかされることがある。そう。未開の村なのかも。本気でやり続けていればよろしい、と司馬さんなら言ってくれるかもしれない。(江本嘉伸)(江本嘉伸


先月の報告会から

ただいまクジラとり修行中

高沢進吾

2015年9月25日  榎町地域センター

■ポイントホープに23年通っている高沢進吾さん。話は、まずエスキモーという呼称について。アラスカではエスキモーは差別用語ではない。彼ら自身、自分たちの事を「イヌイット」ではなく「エスキモー」あるいは「イヌピアック」と呼ぶ(編注:カナダではイヌイットと呼ぶことが一般的)。

◆植村直己の本を中学時代にすべて読んだ、という高沢さんがアラスカへ通い始めたのは25年以上前、初めての海外旅行がアラスカだった。エスキモーの町バローへ行ってみたものの、ツアーバスからエスキモーの居住地を見る程度で不満だらけのものだった。そこで今度は1人でエスキモーの町コツビューへ行き、海岸にテントを張り、地元の人たちの行うサケ漁などを見たり、話をしたりして過ごした。

◆コツビューへ2回ほど行った後、もっと小さな町へ、と思い、空港で行先を見ていると、かつて植村直己の本で見た地名があった。ポイントホープだ。その海岸でテントを張っていると、外国人が珍しいのか子どもたちが遊びに来る。ときにその子どもたちにいたずらをされることもあった。2日目の夜、大人がやって来て、何か言っている。当時はまだ英語は苦手で、よくわからなかったが、「家に来ないか」と言ってくれているようだ。その夜はその人の家に泊めてもらい、また遊びにおいで、というので、ポイントホープに通うようになった。

◆当初アラスカ通いは、サラリーマンとしての夏休みを利用しての短期滞在に過ぎなかったが、2000年に会社を辞めたことをきっかけに、ポイントホープに長期滞在するようになった。ちょうどその年、ずっと世話になっていた友人がクジラ組のキャプテンに。高沢さんが現地入りしたのは、彼がクジラを獲った数日後でクジラの解体はあらかた終わっていたが、その後の処理等を手伝うなかでクジラ組の一員として認められ、翌年からはクジラ猟に加わるようになった。

◆一体、クジラ猟とはどんなものか。高沢さんは写真と映像でクジラ猟でのチームの仕事ぶりやクジラ祭りの様子を詳しく解説してくれた。クジラ猟を行うクジラ組とは、キャプテンに率いられたチームで、何組かが共同でクジラを狩る。猟の季節は4月上旬から6月上旬。春、北極海の氷が緩んでクラックができ、そこを北上するアグヴィック(ホッキョククジラ)を狙う。

◆海岸からキャンプまで、乱氷上にスノーモービル用トレイルを人力で整備し、大きなクラックに面した氷の上にキャンプを作る。テントやコータック(風よけの布)を張り、氷や雪の上でカモフラージュとなる白い上着カッティグニスィックを着て海を見張る。ボートは、伝統的にはアゴヒゲアザラシの皮を張った大型オープンデッキカヌー、「ウミアック」を使う。

◆パドルの先端が尖っているのは、海に薄氷が張ったりシャーベット状になった時にウミアックを漕ぐ際、海面にパドルを差し込み易いためではないか、と高沢さんは考えている。このパドルの先を海に入れて、柄の部分に耳を当てると、クジラの鳴き声など水中の音が聞こえる。会場ではゴープロ(GoPro ヘルメットカメラ)を水中に入れて録音した貴重なクジラの声が流された。

◆食料としてベルーガ(シロイルカ)等の海獣も狩る。ベルーガはライフルで撃ち、沈む前にフック付きのロープを引っかけて回収する。キャンプにはホッキョクグマが現れることもある。ホッキョクグマは彼らの狩猟対象の一つだが、大物のクジラを狙っている最中は、解体に手間のかかるホッキョクグマを狩っている余裕はないので、ホッキョクグマの足元にライフルを撃ち込んで追い払うのだそうだ。

◆クジラが現れたらボートを出し、クジラを追う。クジラに打ち込む銛の先端には火薬が入っており、銛の先端が当たれば銛の頭がクジラに撃ち込まれ、体内で炸裂する。傷ついたクジラを追跡しながら数本の銛が撃ち込まれ、絶命に至る。獲れたクジラは何艘ものボートで引き上げ場所まで曳いていく。獲れた場所が遠いと何時間もかかる。

◆氷の縁まで曳いてきたクジラを引上げる前に、解体の目印として長い柄付きナイフで切れ目を入れる。その際、マクタック(皮と皮下脂肪)を切り取って茹で、作業に集まった人たちに振る舞われる。そして氷の厚い場所を選んでクジラをロープと滑車2組を使って大勢(かつては町中総出)で氷の上に引上げる。引き上げは2、3時間かかる作業だが、氷が薄いと体長1フィート当たり1トンとも言われるクジラの重みで、氷が割れることもあり、そうなるとまたやり直すことになる。

◆解体作業はこの体長15mのクジラで丸3日かかった。クジラ肉の分配ルールは、尾鰭が最初に銛を打った組のキャプテンの取り分である等、伝統的に決まっている。かつては人が食べない部分も、犬橇用の犬の餌や、脂肪層を燃料にするなど、無駄なく利用されていたが、今は氷上に放置される。解体終了後、クジラの頭の骨を海に帰す。こうすればまたクジラになって戻って来てくれる、という伝統的な考え方による。現在では皆クリスチャンで伝統的な宗教とは無縁になってしまったが、この習慣は今も守られている。

◆解体されたクジラ肉は新鮮なうちに食べるだけではない。尾の身を永久凍土に掘った地下の天然冷凍庫に入れて熟成させる。秋に最初の氷が来た時に町の人々に振舞われるのだが、とても匂いが強く「砂糖と一緒に食べたら死ぬ」と言い伝えられている。他にも血とマクタックと肉を熟成させてミキアック(高沢さんのエスキモーネームでもある)というものを作る。

◆エスキモーの文化、伝統も日々変化している。ボートは2005年頃にはウミアックとモーターボートを併用していたが、2015年現在ではウミアックはほとんど使わずモーターボートが主流になっているそうだ。また、現在のエスキモーは近代的な家に住んでおり、キャプテンの家のキッチンは広く、皆でミキアック作りの作業ができるほど。また、今では多くの家庭に炊飯器があり、クジラ肉、魚、牛ステーキ等の付合わせとして米飯が食べられている。

◆6月になり氷が薄くなると、北上するクジラもいなくなり、クジラ猟のシーズンは終わって、ウグルック(アゴヒゲアザラシ)猟の季節が始まる。ボートからライフルで撃たれたアザラシは、沈む前に銛を打ち込み、顎にロープを掛けて陸へと曳航していく。ウグルックは皮をウミアック用に、皮下脂肪をシールオイルとして利用する。肉は干肉や茹肉等として食べるが、寄生虫が多いせいか生食はしない。

◆ウミアックに張るためのウグルックの皮は女性が縫い合わせる。縫い方も特殊で水が入らない様になっている。ウミアックには8頭分位の皮が必要で、基本的には毎年張り替えるので、沢山獲って来るように、とキャプテンは奥さんに尻を叩かれることもある。もっとも、最近はウミアックの使用頻度が下がっているため、2、3年に1回の張替えで済ませるようになっている。

◆夏にはウミガラスの卵採りもする。高い崖に産卵するので、体の軽い高沢さんがロープで断崖に吊下げられて、ラクロスのラケットのような道具で卵を1個づつ集める。採集できる期間は1週間から10日間位で、今年は3回崖に通い、70〜80個程採取した。これでもまだ少ない方で、1回で100個以上採ることもあるという。味は鶏卵よりも濃厚で美味しく、高沢さんはこっそり卵かけ御飯にして何度か食べたそうだ。他に陸上での狩猟としては、カリブー猟も行なう。

◆クジラ猟の後、6月中旬に「クジラ祭り」が3日間に亘って開催される。初日はミキアックがやって来た全ての人に配られる。2日目にはアヴァラック(尾鰭)の薄切りが、クジラ猟のキャプテンからクジラの猟に係った人たちに配られる。アチャック(自分と同じ名を持つ者)やウーマ(自分の配偶者と同じ名を持つ者)と呼ばれる人たちにも配られる。かつてエスキモーの間では、「名前」はとても大切なものだったことの名残りだろう。

◆クジラ祭りではエスキモーダンスも踊られる。ドラム(クジラやセイウチの肝臓の皮を張った大きな団扇太鼓)で伴奏し、それに合わせて歌い踊る。男踊りと女踊りがあり、女性の踊りは日本の盆踊りに少し似ている。ナルカタックと呼ばれるブランケットトスは、輪になった人がウミアックの皮で作ったナルカタックを持って、人を天高く放り上げる人力トランポリンだ。今ではクジラ祭りの時にぐらいしか行われなくなったが、本来は平らな氷原で遠方を望見する為の技術だったらしい。

◆よくケガ人が出るそうで、毎年救急車が待機している。高沢さんの映像の中では、マスクラットやクズリの毛皮等で手作りした晴れ着を着た女性(この1年の間に男の子、男の孫が生まれた女性)が、ナルカタックで飛びながら餅撒きの様に色々な物を投げていた。結構高価な物も投げられるのだが、それらを拾えるのは70歳以上の女性だけだ。

◆次々に言葉と映像で伝えられる極北の世界の現実。会場には、ウミアックの皮の一部やホッキョククジラのヒゲ、高沢さん手作りの模型(ウミアックとそれを載せるソリ)も持込まれた。現地では猟に出られない時など結構ヒマなので、ウミアックの模型を作ったり家事などを手伝うそうだ。他にもウル(女性用扇型ナイフ)、クジラの解体図を描いたトートバッグ、アザラシやウミガラスの絵を描いた手拭等(すべて高沢さんが作ったもの)も販売された。

◆「極寒 零下40℃ アラスカの鯨狩り」というDVDの販売もあった。これは1976年のテレビ番組のフィルムが知人の映像制作事務所で発見されたもので、それを高沢さんが解説を付けて自分で売っているという物。このドキュメンタリーが伝える猟のやり方は当時と基本的には変わっていないという。この映像をポイントホープの人々に見せたところ、現在の物よりも薄いオーバーパンツや、強風や降雪の中でも猟をする当時の姿を見て「寒い、寒い」と言っているそうだ。

◆質疑応答では、高沢さんが通い続けるポイントホープの15年間の変化や、現在のエスキモーの状況の話が中心になった。この15年間で海氷は明らかに薄くなり、今年は特に薄く、海獣の様子もいつもの年と異なっていた。ポイントホープは人口約700人(ピーク時は約900人)の小さな町で、アメリカ大陸で最初期に人類が定住したのではないか、と言われている地域。海獣の肉は売買が禁止されており、皆現金収入の為に猟以外の仕事をしている。

◆石油の配当金なども各人に入るため生活は比較的豊かで生活保護は貰っていない。配当金でアンカレッジへ行きショッピングしたり、ディズニーランドへ旅行する人もいる。また、ポイントホープはドライビレッジ(酒類禁止地域)なのだが、酔っ払って喧嘩をして逮捕される人もいる。

◆現在ではクジラを獲っても利用せずに捨ててしまう部分が増えたし、若者は、ハンバーガー等が好きでクジラ肉やアザラシの肉をあまり食べなくなった。とはいえクジラ猟を続けているのは、食料確保、そしてクジラ猟師だというアイデンティティのためだろう。肉をあまり食べなくなったとはいえ、マクタックは今でも皆の大好物であり、クジラが全面禁猟になった場合に備えて代用品が作れないかと考えているほど。

◆なお、我々のイメージと違って、ポイントホープの人達は、あまり生肉を食べず、茹で、干し、熟成、冷凍などして食べる。彼らにとっての冷凍肉は日本人にとってのサケルイベと同じく調理法の一種で生肉ではない。同じエスキモーとはいえ、食べる動物の種類や食べ方は、場所や地域によって結構違うのだ。あっという間に過ぎてしまった150分の報告会。高沢さんのHPウェブサイト 「Arctic Town of Alaska」、ブログ「カイジュウノツカマエカタ」に、さらに詳細に書かれているのでぜひ参照して欲しい。(松澤亮


報告者のひとこと

文化というのは常に変わり続けていくもので、誰にも止めることはできない

■これまで聞く側として時々参加していた地平線会議。ここで報告する人たちは、自分にとって憧れの人たちだった。そんな場所に無名の自分が報告者として参加することになるとは、一度も考えたことがなかった。関係者の方々、集まって下さった方々に改めてお礼を申し上げたい。

◆エスキモーという名称を知らない人はいないと思うが、今もイグルーに住んで狩猟をし、生肉を食べて生活していると思っている人が多いのではないだろうか。そんなイメージを覆すべく、現在のエスキモーについての話をさせていだいた。我々日本人が西洋文化を吸収しながら、良くも悪くも日本独自の文化を保ち続けているように、彼らも西洋文化を吸収しながら、自分たちの文化を保ち続けている。

◆15年間ポイントホープの猟に関わり続けて気が付いたことは、文化というのは常に変わり続けていくもので、誰にも止めることはできないということ。例えば今回の話の中心となったクジラ猟。形態は変わりつつも、有史以前から現在に至るまで、延々とクジラを捕り続けているが、近年、ウミアックの使用頻度は減り続け、モーターボートが主流となっている。

◆食べるものの変化は最近始まったことではないが、近年、野生の肉を食べる量は明らかに減っている。若者は野生の肉よりもハンバーガーが大好きで、電子レンジで加工する冷凍食品、炭酸飲料も欠かせないものになってしまっている。日本人の自分がアゴヒゲアザラシを食べている横で、居候先の主人はハンバーガーを食べていることもある。そんなときは「どちらがエスキモーなんだ?」とお互い笑い合っている。

◆初めてポイントホープを訪れた際に1歳だった女の子は、今や男の子の母親になり、最初に仲良くなった友人を始めとする多くの友人知人が天に召されてしまった。ポイントホープに係るようになって、長い年月が経ったと感じるが、この先も彼らが自分のことを受け入れてくれるのなら、彼らと一緒に猟を続けながら、変わり続ける彼らの文化を見つめて行きたいと考えている。

◆今回、自分の話がどこまで参加者のみなさんに伝わったろうか。写真を見ながら思いつくままに喋ってしまったので、勘違いされたり、理解できなかったりしたことも多々あるのかもしれない。クジラ以外の猟の話、食べ物や文化の話などを聞きたいという方がいらっしゃるようであれば、また報告会へ呼んでいただけると幸いです。(高沢進吾


━━地平線会議からのお知らせ━━

11月の地平線報告会は、「極地」をテーマに22日の「日本冒険フォーラム2015」に相乗りするかたちで実施します

 先月の地平線通信にチラシを同封しましたが、豊岡市の植村直己冒険館主催の「日本冒険フォーラム2015」、ことしは4年前同様、地平線会議が全面協力して、連休中日の11月22日、東京・御茶ノ水の明治大学アカデミーコモン・アカデミーホールでやります。今回のテーマは「極地」。植村直己さんが生前厚く信頼していた文芸春秋社の湯川豊さんが「植村直己を語る」と題して基調講演するほか、大場満郎(北極点・南極点到達)、岩野祥子(南極越冬2回)、荻田泰永(北極点単独無補給徒歩挑戦中)、武田剛(南極越冬。元朝日新聞記者)さんら極地の旅人が知られざる極地の世界について縦横に語り尽す計画です。市毛良枝さん(俳優・登山家)をゲストに、コーディネーターは江本がつとめます。詳しくはお手元のチラシをご覧ください。

 先月号の「あとがき」で書いたように、今回は「439回地平線報告会」を兼ねる企画とします。1000人を収容する広い会場ですが、冒険館の方針で事前申し込み優先とさせてもらいます(参加費は無料です)。

 申し込みは、チラシ下方にある申し込み先(植村直己冒険館内)にメール、ファクス、はがきでお願いします。地平線会議に直接申し込みも受けつけます、「地平線ポスト」宛てメールかファクスで(宛先は、この通信の最終ページに明記)。申し込み者には「2015日本冒険フォーラム 入場整理券」が送られてくる予定です。(この入場整理券は10月30日の地平線報告会の場でも希望者にはお渡しします。その際、用意する参加希望リストに一応記名して、整理券をお受け取りください。)

 なお、11月22日当日は午前10時から山崎哲秀さんの「極北のエスキモー民族と自然紹介展」はじめ、地平線会議とも縁の深い方々の興味ある企画が展示される予定で、昼前からの参加者のために特別にお弁当(多分500円)も用意されます。

 「極地」をめぐって、盛り沢山の、面白い内容になると思います。どうかふるってご参加ください。詳しくは、10月の報告会で。(E


地平線ポストから

シルバーウイーク終了とともに激減したボランティア

━━常総市堤防決壊現場その後

■9月の下旬、先発で入ったRQの八木和美事務局長に続き、常総市災害ボランティアセンターに入りました。広島、そしてネパールと、様々な現場でお顔を拝見した方々が集まっていました。発災一週間が過ぎた、常総市水海道駅前周辺の景色は、歩道に山積みにされた家具等を除けば、その災害の爪痕はあまり感じられませんでした。それがとんでもない勘違いだということは、後からわかるのですが……。

◆僕のボラセンでの仕事は、ニーズ調査と、マッチング、担当エリアは、三坂新田、沖新田をその中に含める、五箇と呼ばれる地区。堤防決壊現場より1キロメートルほど下流の、稲田がその土地利用の大部分を占める地域です。現場へ向かう道すがらみかける、根元より倒されたガードレールが、越流した水のすごさを表していました。しかし、ガードレールをなぎ倒すほどの水の力も、五箇地区の一軒を除き、その他の家屋を破壊することもなかったようで、その違いが何に因るものなのか? いまだに疑問は解決していません。

◆シルバーウイークに向けての、ボランティアのニーズは、浸水し、使えなくなった家財の運び出しがメインになりました。しかし、床上浸水をうけた家屋は、見た目と違い、床下の土、壁の断熱材等がカビることで、時間経過とともに住む方を苦しめることになります。少しでも早くそのお話をして、その作業も行いたいのですが、一度、早い段階でそのお話をしたことで、比較的良好だった関係が少し距離を置かれるような関係になってしまったことがあります。

◆実は、床下の工事に関しては、様々な詐欺商法がある上に、災害に乗じた詐欺商法への注意を促す防災放送がひっきりなしに流れている状況なのです。胡散臭く思われるのも当然といえば当然なので。家財運び出し等のボランティア作業を進めながら信頼関係を築き、床上げの作業の話を切り出すタイミングをはかりました。

◆五箇地区のお宅の多くに船が用意されていました。昔から、浸水の被害に苦しめられた地区のようで、その船が移動の手段になったのだそうです。お宅自体も周囲より1m程高くしてあり、過去そのおかげで浸水被害を避けることができたようです。しかし、今回の浸水は、その過去のケースを超えること1m以上、諦めにも似た雰囲気が、住民の方々のお話の隅々に聞こえました。

◆今回の常総市の災害、あまり語られてはいませんが、鬼怒川の決壊とともに、八間堀の越流が、常総市役所をそのエリアに含む、市中心部の水海道に大きな浸水被害をもたらしました。シルバーウイーク終了とともに激減したボランティア、同じ程度の被害といわれている、新潟中越の豪雨災害のボランティア数約4万5千人、今回のボランティア数はその半分にも届きません。

◆死者の数=災害規模のような世間の災害に対する「眼」。まるで4年半前の東北をみているかのような堤防決壊現場の上三坂、そして、余りに広い被災現場、次々生まれるニーズ、常総市では今も人手を求めています。(小石和男


通信費とカンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。地平線会議は会員制ではないので会費はありません。通信費とカンパが活動を支えてくれています。当方のミスで万一漏れがあった場合は、必ず江本宛てお知らせください。アドレスは最終ページにあります

竹下郁代/嶋洋太郎/大嶋亮太/菅原茂(5000円 うちカンパ3000円)/小島あずさ/野元菊子(5000円)


「SSTR」、「123109874」って何の暗号!? ともかくも、カソリは走った!

■みなさ〜ん、お元気ですか。報告会にも行けずに(行かずに?)、バイクで走りまわっています。4月18日、19日の「福島・浜通りを巡る移動報告会」を終えたあとのカソリをお伝えします。いわき駅前でみなさんを見送ると、渡辺哲さんと駅前の「ホルモン焼き」の店に入り、宴会開始。「渡辺君、いや〜、ご苦労さまでした!」。さんざん飲んだあとは中華料理店で2次会。2次会が終わると渡辺さんと別れ、いわき駅前の「東横イン」に泊まりました。

◆翌日からはスズキの650ccバイク、V−ストローム650XTを走らせ、東北の太平洋岸を北へ。東北太平洋岸最北端の尻屋崎と本州最北端の大間崎に立ち、大間港から津軽海峡フェリーで函館に渡り、反時計回りで北海道を一周しました。北海道は寒かった。釧路を出発した朝は氷点下4度。冬の装備もしていないのでガタガタ震えながらバイクを走らせましたよ。無事、「北海道一周」を終え、函館港から青森港に渡り、今度は東北の日本海側を南下。4月28日に東京に戻りました。

◆5月から6月にかけては「鵜ノ子岬→尻屋崎」を走りました。鵜ノ子岬は東北太平洋岸の最南端、尻屋崎は東北太平洋岸の最北端。これが13度目の「鵜ノ子岬→尻屋崎」になりますが、大津波に襲われた東北太平洋岸の全域を見てまわる絶好のコースなのです。女川も志津川(南三陸町)も気仙沼も盛土の工事が進み、風景が一変していました。

◆下北半島を一周したあと、青森駅前の「東横イン」でひと晩泊り、翌日は青森港を4時15分に出発。青森港は冷たい濃霧のヤマセに覆われ、何も見えませんでしたが、この時間が青森港の日の出なのです。青森からは東北道→磐越道→日本海東北道→北陸道→能越道と高速道をひた走り、能登半島突端の禄剛崎に立ったあと、18時50分、青森港から1222キロを走って羽咋市の千里浜にゴールしました。

◆これは風間深志さんが主宰するSSTR(サンセット・サンライズ・ツーリング・ラリー)。日の出とともに太平洋岸をスタートし、日の入り前に日本海の千里浜にゴールするというツーリングラリーで、全国各地から1000台以上のバイクが参加しましたが、カソリの「1222キロ」は断トツの1位でした。

◆千里浜からは日本海の海岸線を西へ。下関まで走り、今度は下関からの「一人ぼっちのSSTR」。4時15分に下関港を出発。中国道→山陽道→舞鶴若狭道→北陸道と高速道を走りつづけ、最後は能登半島突端の禄剛崎に立ち、18時20分に千里浜に到着。走行距離は1108キロでした。そのあとは能登半島を一周し、神奈川県伊勢原市の我が家に戻るのでした。

◆6月14日(日)の南会津町南郷で開催された「ひめさゆりバイクミーティング」に合わせ、福島県を一周しましたが、まずは浜通りを北上。こうして繰り返し、繰り返し福島県の太平洋側の浜通りを見ています。四倉舞子温泉の「よこ川荘」に泊まりましたが、ここも地平線会議の面々と一緒に泊まった宿。女将さんは元気ですよ。宿の前の堤防の工事が始まり、大津波で流された隣の「なぎさ亭」は新たに建て直されて開業しました。

◆南会津町南郷での「ひめさゆりミーティング」には民宿「田吾作」の女将、というよりも地平線会議メンバーの酒井富美さんがご主人、息子さんと一緒に来てくれました。その夜は木賊温泉の民宿「若松屋」で泊ったのですが、渡辺哲さんも来てくれて、女将のえみ子さんをまじえての飲み会が深夜までつづくのでした。

◆6月24日からは1か月をかけての『ツーリングマップル東北』(昭文社)の実走取材。東北全域を1万キロ以上にわたって縦横無尽に走りまわりました。「東北はおもしろい!」を実感する毎日。この間、東北各地の「道の駅」をめぐりました。東北には全部で146か所の「道の駅」がありますが、その全部をスタンプラリーで制覇したのです。

◆残念ながら福島県楢葉町の道の駅「ならは」と岩手県陸前高田市の「高田松原」の2か所は休業中のままです。楢葉町は全町域の避難指示が解除されたので、道の駅「ならは」の一日も早い復活を願うばかりです。

◆1993年に誕生した「道の駅」は、最近の日本での数少ない成功例。今や日本各地に増えています。車やバイクで旅する者にとって道の駅の存在は大助かり。それだけに大勢の人たちが集まります。地元のみなさんの熱意が伝わってくる道の駅なのです。きれいなトイレを利用できるだけでなく、地元産の食材が買えるし、郷土料理を食べられるレストランも多くあります。今年も東北には3か所、新たな道の駅ができましたが、地方活性化の切り札になるような勢いです。

◆8月にはスズキの1000ccバイク、V-ストローム1000で台湾を走りました。標高3275メートルの峠、「武嶺」を越えられたのが何ともうれしいことでした。スズキの250ccバイク、グラストラッカーでは「東京→青森」の「林道走破行」の第1弾目。全部で14本の林道を走りつないで東京から青森まで走りました。9月から10月にかけては、V-ストローム1000で「123109874」を走りました。

◆この「123109874」って、何だかわかりますか。東京から国道1号→国道2号→国道3号と走りつないで鹿児島へ。日本本土最南端の佐多岬で開催された風間深志さん主宰の「最南端バイクミーティング」にゲスト参加したあと、国道10号→国道9号→国道8号→国道7号で青森へ。青森からは国道4号で東京に戻ったのです。日本の幹線道路を走って「日本が見えた!」といったら少しオーバーでしょうか。

◆この暗号のような「123109874」を走り終えて昨夜(10月10日)、伊勢原市の自宅に帰り着いたのです。このあと石巻で開催される「東北復興バイクミーティング」に参加します。そして福島県の白河から会津若松を通って新潟まで会津街道を走ります。この街道は佐渡金山の金銀が江戸に運ばれた「佐渡三道」のひとつ。「白河〜新潟」間の全宿場に立ち寄っていくつもりです。最後に「東京→青森」の「林道走破行」(第2弾目)では全部で16本の林道を走破する予定です。ここまでを10月中に終えたいのです。(賀曽利隆

去年のヒヤリ、を思い出し、ユニークな旅人と出会えた2015年夏の北海道旅

■8月24日から9月13日まで、長めの夏休みで北海道ツーリングをしてきました。第一目的は、去年と一昨年の北海道ツーリングと同様、「郷土富士」登山。自宅神奈川からの往復で約3日間はとられ、実質登頂できる日数は少ない中、今回は、阿寒富士、斜里岳(オホーツク富士)、羅臼岳(知床富士)に登頂できました。去年行けなかった西興部村の「行者の滝」に今回はあっさりたどり着けました。実は、去年ほんとうにヒヤリ、反省ものの体験をしたので地平線の皆さんには正直に話しておきます。

◆あの日は丁度災害レベルの大雨に当たりました。全道あちこちで通行止めのオンパレード。たまたま西興部(にしおこっぺ)村の友人宅に滞在中ですぐ近くの行者の滝を、大雨で迫力が増しているだろうから見に行こうということに(私の提案でした)。国道から分岐して4kmほどで着くという場所。走りやすいフラットダートで崖っぷちなど危険な箇所はないとの話で、危なかったらそこで引き返そう、と友人の車で出かけました。

◆滝へ入る道のちょっと手前の国道が全面通行止めに。となっていて、残念ながら行くことは叶いませんでした。問題は、その翌日でした。雨が止み、通行止めも解除されたので、1人でバイクで滝へ向かってみました。ダートも荒れていなく、サクサク進めます。ところが、滝まであと数百メートルという地点で行く手を阻まれました。

◆道路脇の斜面(ちっとも急じゃなく、それまで通ってきた道すがらのものと同じ)から根元から抜けた白樺の木が、道へバッサリ倒れ込んで塞いでいるのです。その倒木の手前からも斜面から流れ出た泥状の土が、足首以上の高さで道に堆積し、とても近づけたもんじゃあありません。見た瞬間、脳みそがギュッと締め付けられた気がしました。昨日、もし滝まで行けたとして、タイミングが悪かったら、その倒木によって閉じ込められた可能性がありました。最悪の場合、車が通るタイミングで木が倒れてきたかも……。自分の馬鹿さ加減にホンッ、とあきれました。

◆3.11の時、津波を見ようとして津波にのまれて亡くなった方も少なくない、と聞きました。そういう残念な話を知ってはいて、自分はそれはしないと思っていたのに、浅はかでした。災害レベルの大雨の中、滝を見に行こうとした私。判断が間違っていました。運に助けられただけ……。今年行ったら、去年の倒木や泥などはすっかり片付けられ、どこがその場所だったかわからないほどでした。

◆西興部村にあるウエンシリ岳の登山口をバイクで通りすがりに見てみたら、ちょうど下山してきた男性がいました。奥さんが後からゆっくり下りて来る、とのことで、しばし立ち話。そうしたら、彼は、国土地理院の地図で名前がある山をすべて登ろうとしている、とのこと。うろ覚えですが、全部で3000くらいあって、現在残りが200くらい? うへぇー、こんな人がいるのかと話に引き込まれて長話に。

◆私が北海道で1人で登山してて、やっぱり気になるのは、ヒグマ。ヒグマには遭いましたか?と聞くと、何回か遭ったけどクマ撃退スプレーを使うまでには至っていないとの こと。私が、東京の奥多摩でランニング中にクマに襲われた人がいますよ、と話したら、彼の方から「山野井さん」の名前が出てきました。なんと直接の友人でした。ということで、本人から直接聞いたクマアタックの様子を、それはもうリアルに私に話してくれました。こんなところで地平線会議がらみの人の名前が出るとは、世間は狭いです。その人は逆に地平線会議のことはご存知なかったですが。

◆鎧兜を持ってリヤカー徒歩旅中の山辺剣くんにも会いました。6月くらいに、旭山動物園に行きました〜、なんてメールをもらっていたので、もしかしてまだ北海道にいるかなと思い、現地でメールを出したら、まだいました。しかも、丁度、西興部に向かっているといいます。西興部の友人が管理人をしているおススメのキャンプ場を紹介し、山辺くんがたどり着いたその2日後にキャンプ場で合流しました。

◆彼とは、3年前の九州ツーリングで会って以来です。あの時と同じように(リヤカーの装飾はバージョンアップしてました)、淡々とマイペースで旅を続け、疲れたり悪天候なら停滞し、資金がなくなれば現地でバイト、という自由気侭な彼のままでした。私に対しては、泣き言のようなことも言ったりしますが、言うだけで、実際、困難は自分でしっかり対処してます。

◆今回の私のツーリングの最後は、台風(鬼怒川氾濫ほか大被害を出した、あの台風!)の影響で帰宅が遅れると困る(帰宅後すぐに仕事があるので)ため、予定より早めに青森に渡りましたが、そんな日は、山辺くんは道の駅で野宿連泊です。そして、夜「風でテントが破れてもうダメだ」なんてメールが入りましたが、翌日には「あの後シュラフカバーにくるまって寝た」とのメール。テントも直したそうです。彼は大丈夫です。この先もきっと。

◆北海道は空いている広大な土地が多いからか、太陽光発電の施設がやたらと目につきました。「設置作業中」のところも2か所ありました。風力発電は数か所で見ましたが、羽が止まってるところもあり、うーん、活用されているのかな? 自然エネルギー利用が増えるのはいいようにも思えますが、私はちょいと疑問符です。風力発電はバードストライクの問題もあり、そして風力発電も太陽光発電も、施設を作る時、そして、その施設がいつかダメになり解体や処分をする時、そこでエネルギーを使うことになるはず。電気が必要だからと、なんで新しく施設を作る方向にいってしまうのでしょうか? まず、節電をもっと進める、節電することで、今の日本は十分電気は足りていると思う私です。(旅する主婦ライダー 古山里美


ゾモTシャツ賛歌

ゾモTという名のエール

■初夏の爽やかなある日、まだチベット学者の貞兼綾子さんが4月25日のネパール大地震後の1回目の調査に出かけている時、江本さんから気合のこもった声で電話がかかってきました。「綾さんをTシャツで応援しよう!」。この呼びかけに応えて、「地平線」と「日本人チベット行百年記念フォーラム」(2001年)の数人のメンバーが集まりました。

ゾモ

◆綾さんを応援するTシャツだから“綾T”? 最初は漠然とそんな路線で、とにもかくにも第1回目の会議がエモ邸で開催されました。そして、綾さんが40年間にわたって支援してきたカトマンズの北方、チベットとの国境近くにあるランタン谷やそこに住む人々の生活に思いを馳せたとき、生活に欠かすことのできない“ゾモ”(牛とヤクの混血種の雌)という家畜をテーマにすることに決定。ゾモのTシャツ=ゾモTを普及させよう! ゾモを知ってもらおう! という思いを込めて「ゾモ普及協会」(丸山純さん命名)が結成され、失われた家畜を増やし牧畜業を再建するために綾さんがたちあげた“ゾモファンド”を応援していこうということになりました。

◆イラスト作成の役にたつネタ探しにチベット人の友人に話を聞いたり、チベットの実家で飼っているゾモの写真を送ってもらったりして、綾さん曰く「ゾモそのもの!」な長野画伯の素晴らしいイラストが完成!! キンカップシャモ(帽子)をかぶって、ランタンを首にさげ、嬉しそうに歩くゾモ。チベット人の友人によるとゾモはステキなレディーなのだそうです。

◆足下の雲の中には“4 2 5”というチベット文字の数字(地震の起こった日)が隠されています。背にはヒマラヤの山の中に“ゾモ”とチベット語が書かれていて、ランタン村の人が見たら、思わず「クスッ」と笑ってしまいそう。イラストを見て、ますます大勢の人に着てもらいたいと、ゾモ協メンバーはTシャツの色やプリントの位置、サイズに工夫を凝らしました。そして何よりも、綾さんとランタンの長い長〜い物語がTシャツを手にとった人に伝わるような仕掛けができないかと……。小箱に入った小さく折り畳んだTシャツ。箱の内側に貼った「ランタン谷とゾモのお話」。Tシャツのゾモの顔を見ながらお話を読んで、世界で最も美しいと称されたランタン谷を思い描いてくれたらいいな。そこにいつか行ってみよう!と思ってくれたらいいなと願ってやみません。それは、私たちゾモ協メンバー自身の願いでもあるからです。

◆ラッピングや発送はゾモ協の女工2名が日々奮闘しています。そんな最中、毎日新聞にゾモTの記事が掲載され、静岡県の熱海高等学校から文化祭でゾモTを販売したいとのお申し出を受けました。熱海高校の傍には、48年前にネパール王室から贈られたというヒマラヤ桜(11月に開花するとのことです)があり、そのヒマラヤ桜の縁で文化祭のテーマのひとつがネパール支援なのだそうです。文化祭は10月30日、31日(一般公開は31日のみ)。若さあふれる文化祭なので袋入りのカラフルなゾモTが登場します。

◆綾さんは今週、お土産にゾモTを持って再び現地に赴かれます。キッズサイズの“子ゾモT”も含まれています。実は現地では、手っ取り早く稼げる観光業などに就く人が増え、地道な牧畜に携わる人が減っているそうです。ランタン谷の子どもたちが、ゾモと共に歩んできた生活を少しでも記憶にとどめながら、ゾモのように優しくパワフルにランタン谷の新しい姿をつくっていってくれたら嬉しいな。そんな日本からのエールが長く続くようゾモTの普及に励みたいと思います。

◆今日現在(10/11)ゾモ12頭分のゾモTが皆さんのお手元に届いています。目指せ100頭!! がんばるゾモ!!

http://dzomo.org
http://facebook.com/dzomo (田中明美

いただいた方はだれでも幸せな気持ちになりますね

■4月にネパールで大きな地震が発生したとのニュースが報道され「大変な被害が住人を襲ったのだろうな」くらいの他人事のような感覚のまま日常の生活を送っていた私に地平線通信がいち早く現地の惨状を伝えてくれました。地平線のネットワークの広さとそれにかかわる人の想いの深さに一撃をくらったようでした。ランタンプランの代表を務める貞兼さんを通して被災地を支援しようと、安易な金銭による募金ではなくTシャツを作った皆さまにエールを送りたいです。

◆ビニールのテープをそっと剥がして箱を開けました。ゾモのイラストが可愛らしく、取りだして広げたい気持ちを押さえて「ランタン村とゾモのお話」を読みました。皆さんを突き動かすものの原点が見えたようでした。パッケージも素晴らしくこのままプレゼントすればいただいた方はだれでも幸せな気持ちになりますね。

◆包装や発送にも多くの方々の思いを感じます。長野さんのイラストのカウベルがランターンになっているのは「さすが!」と感心しましたよ。今回私は3枚送って頂き、1枚を私用に、あとの2枚は近くに住む地平線通信愛読者であるご夫婦に「ハイ、これあなた方のゾモTシャツ!」と予約も聞かず届けました。もちろんお二人は喜んで買ってくれました。(宇都宮市 原典子


高沢進吾さんの話を聞いて思い出した、ビーバーでの「ポトラッチ」

■東日本大震災の支援で作った「鮭T」を販売させてもらって以来、4年ぶり2回目の地平線報告会。ささやかながらアラスカと北米先住民に縁がある私は、ポイントホープのクジラ漁の現状を聞けるということで楽しみに出かけました.。

◆2008年の8月。私はアラスカのユーコン川のほとりにある人口80人ほどの村、ビーバーにいました。友人が主催した「フランク安田没後50周年のメモリアルポトラッチ」の手伝いをするためです。フランク安田は、ご存知の方も多いと思いますが、新田次郎の小説『アラスカ物語』で描かれている実在の人物。

◆100年以上前にアメリカに渡り、北極海沿岸の村ポイントバローでイヌピアット族の女性と結婚してエスキモーとして生き、クジラの不漁による飢餓と伝染病の蔓延によって危機的な状況に陥った村人たちを救うべく、ブルックス山脈を越えたアサバスカン族のテリトリー内であるユーコン川のほとりに新しい村ビーバーを作って移住させた日本人です。

◆今でもビーバーには、イヌピアット族の血を受け継ぐ人たちとアサバスカン系語族の人たちが共存しています。フランク安田を実際に知る村人も何人かいて「とても穏やかで寡黙な人だった印象」だと聞きました。メモリアルポトラッチというのは、とても簡単にいうと、日本でいう法事のようなもの。過去の偉大な人物を偲び、その功績を皆で思い返すための行事で、アサバスカン系語族やトーテムポールの文化があった南東アラスカあたりの部族で行われます。

◆2008年は、村を作ったフランク安田が亡くなって50年の節目の年でした。フランク安田に憧れ、10年以上毎年カヤックでユーコン川を下ってビーバーを訪れていた友人は現地の人々と親しくなり、フランク安田の功績をこの先に伝えていくためにと、このポトラッチを企画したのでした。

◆ポトラッチでは基本的に、主催者が食事やギフトをすべて用意することになっています。手伝いで参加した私は村の人たちと一緒にもてなしのギフトや料理を作ったり、会場設営をしたりしました。ゲストは100人以上。近隣の町の人たちや、遠方に住んでいて村にゆかりのある人々に加え、このときは、フランク安田の故郷である石巻市からも市民の代表団が20数名訪れていて、みんなで食事をしたり、踊ったり、歌ったり、祈ったりしました

◆ちなみに、もてなしの料理として作った大鍋いっぱいのムース肉のカレーが大好評。こってりとしたムースの脂のうまみがカレーによく合うのです(ただ一度使った器は、何度洗ってもムースの脂でギトギト……)。村ができた当時と同じ民族がそこに集い、互いの民族の食べ物を食べ、踊り、語らう。感慨深いひとときでした。

◆今回の高沢さんのお話の舞台は、ポイントホープ。フランク安田がいたポイントバローとは少し離れていますが、同じイヌピアット族ということで、クジラ漁の方法や食べ物のことなど、たくさんの興味深い話が聞けました。その中で私が個人的に気になったのは、先住民を取り巻く現状です。

◆ポイントホープは「ドライビレッジ」、つまりお酒を持ち込むことを禁じている村。にもかかわらず、お酒を飲んでクジラ漁のリーダーが捕まったということでしたが、私が訪ねたビーバーでも同じことが起きていました。極北の先住民にアルコールが広まったのはほんの200年ほど前。それまでお酒を口にしたことがなかった先住民の人たちは、今でもアルコールにとても弱く、深酒して暴力的になる傾向があるようです。

◆実際、ビーバーに滞在していた時、深酒した住民が刃物を振り回して警察に捕まるという事件もありました。アルコール依存や薬物依存、それに伴う子どもの虐待などは、カナダ・アメリカの先住民の世界においてはあまり積極的には語られない、けどとてもとても深刻な問題です。私はそのことを約1年のカナダ、ユーコン準州ホワイトホース滞在時(語学カレッジの寮に住んでいました)に学びました。

◆そもそもの発端は、19世紀から100年近く続いた寄宿学校制度。5歳になった子どもを強制的に親元から離れさせ、中学や高校卒業くらいの年まで英語しか話してはいけない環境に身を置かせることで、文字を持たず口承でしか伝統や文化を伝えられない先住民の世界を壊し、白人社会に同化させることを目的とした政策でした。自分の民族の言葉を無くして家族とすら意思疎通ができず、かといって白人社会では差別され居場所を見つけられない。生きるための智恵を受け継げず、土地に根ざした生き方もわからない。いわゆる「アイデンティティーの喪失」が、現代に続く様々な問題の根っこにあると知りました。

◆ホワイトホース滞在中、カレッジの寮生の中に、アルコール依存や暴力行為を繰り返してしまう人たちがいました。話を聞くと、彼らに共通するのは幼いときに親から受けた虐待でした。彼らの親、もしくは祖父母が寄宿学校制度の犠牲者。負の連鎖が続いていくことにぞっとしました。

◆ただ、そんな中でも消えゆく各部族の言語や文化をなんとか残していこうと、先住民語の講師の養成をしたり、口承されてきた物語を本にして残そうとしたりする活動をしている先住民たちもいます。私は彼らに出会い、言葉や文化が奪われる問題の根深さと同時に、「自分を日本人たらしめているのは何だろう?」と考えるきっかけをもらった気がします。

◆「捕鯨に対する国際的な風当たりが増していて、近い将来、彼らはクジラ漁ができなくなるかもしれない」と、報告会の中で高沢さんは言っていました。また同じことが繰り返されるのかと思うと、とても悲しくなります。お話の中にあった「クジラを捕って、そのアゴの骨を海へ帰し、再びクジラの恵があることを願う」という営みが、彼らをイヌピアック族たらしめているのだと私は感じます。クジラ肉よりもビックマックを好んだり、モーターボートやスノーモービルが当たり前になったり、暮らしは変化していくものだと思いますが、彼らの魂に深く根ざす営みだけは、これからも変わらずに続くといいなあと心から思います。(西牧結華 松本市)

西川一三さんの映像に、「姫髪」の前をうろついた昔が……

■過日は直前の申し込みにも関わらず、「チベットと日本の現代史 もう一つの戦後70年」へ参加させていただき、本当にありがとうございました。チベットにあこがれた若かりし頃に、何とか西川一三氏にお会いできないものかと「姫髪」(西川さんが理美容関係の卸業をしていた盛岡市の店の名)の前をウロウロした事がありました。

◆お話する機会がありながらもやはり恐れ多すぎて……。単にチベットに興味を持っているというだけで、あの当時自分の意思とは無関係にチベット行を決められ、その後の人生まで狂わせられた人たちに安易に声をかけてよいのだろうかとの思いがあったからです。

◆ですから2001年のフォーラムでは西川氏だけではなく野元甚蔵氏の生のお話が聴ける!と参加させていただきました。今回、江本さんの講演でお二人のあの時の映像を拝見、目頭を熱くしながら改めて思いました。何故もっと早く、臆する事なくこの時代の方々の生の声に接する事をしなかったのかと。

◆「その時代に身をおいていなかった者には絶対に理解できない」とよく言われますが、それでも受け継いでいく事、いかなければならない事が多々あります。江本さんが今回このような形でお二人の追悼の意を込めてレクチャーなさった事、深く心に沁み込みました。また機会があればお声掛けください!

◆近況です。最近は何故か古い縁絡みで突拍子もない場所へ行く機会が多く、9月は突然インドのアルナーチャル・プラデシュ州アッパー・シアン地区のジャングルを歩いてきました。降りっ放しの雨や蛭、スズメバチや蟻、何より足首までもぐるぬかるみや細い稜線の急斜面が連続して、目指す聖山エコ・ドゥンビングにはあとわずかのところで到達できませんでしたが、未だにアニミズムが息づいている地でした。

◆何より感慨深かったのは、ブラマプットラ川上流域のシアン川をこの目で見る事ができた事です。ヒマラヤ探検史の有名な一コマであるキンタップがヤルツァンポに流した丸太はここを通過したのかと思うと感無量でした。最近では角幡唯介氏の『空白の五マイル』でこの逸話も巷に知られていますね。何故この地へ……は長くなるので、いつか江本さんとはこのお話を肴に杯を酌み交わしたいと思います。

◆社会科のおさらいのようですが、アルナーチャルについて少し説明します。英領インド時代にはアッサム平原での茶園経営をするイギリスにとってはこの周囲の部族は「法による統治は難しい野蛮な人間たち」とみなされ重要視されていなかったのが、二十世紀になると国境を明確にしなければならない事態となり1914年、<シムラ会議>でイギリスと当時のチベット政府の協議で<マクマホン・ライン>と呼ばれる国境を設定します。

◆1947年にインドが独立、1950年の憲法施行に伴いこの地はアッサム州に組み込まれ、そして1954年、周辺の辺境地区はまとめてNorth-East Frontier Agency(通称NEFA:北東辺境管区)としてアッサムから分離されます。独立後のインドはこのマクマホン・ラインを踏襲していますが1949年に成立した現中国はこれを認めず、60年から小規模な紛争を繰り返し、62年には中印国境の数か所で多数の死者を出す紛争に発展しました。

◆その後この地は1972年には中央政府直轄地となり、1987年2月に州に昇格しています。なお、中国は現在もアルナーチャル全体を自国の領土と主張しています。ちなみに、アルナーチャルの西側はチベット系住民が多く、1959年のダライ・ラマ十四世の亡命時のルートでもあり、タワンはダライ・ラマ六世の生誕地でもあります。そのせいか観光化もされています。

◆段々身体も時間も自由にならなくなってきましたが、これも縁、しばらくはこの地に関わってみようと思います。またお会いできる日を楽しみにしております。どうぞお身体大切に!(寺沢玲子

映像で再会した野元甚蔵さんに、じんとしてしまい……

■わー、わー、野元さんだー! 10月4日、新宿区歴史博物館で行われた江本さんの講演会「チベットと日本の現代史 もう一つの戦後70年」。途中で映された2001年のフォーラムの貴重な映像では、地平線会議で二度の報告をされる以前、だからわたしの記憶よりも少しお若い野元甚蔵さんにお会いすることができました。お話しぶりは変わらず、あたたかく、実直そのもの。映像の力ってすごいなあ。動いて喋っているお姿を見ると、それだけで、じんとしてしまうよ……。

◆講演は西川一三さんと野元さんと長く親しくあった江本さんが、お二人のチベット行だけでなく、(江本さんの見られた)お二人のその後の人生を伝える内容。最後に貞兼綾子さんが「歴史的な行為をした人のその後の生き方をフォローする人は実は少ない。とても大事で、有難いこと」というような(ご、ごめんなさい。ものすごくざっくりです)感想を言われて。

◆当たり前のように享受してきたけれど、わたしにとって野元さんが「本(歴史)の中のすごい人」だけでなく、「生身の人」とも感じられるようになったのは、江本さん、地平線会議のおかげなのだなあ、と思ったのであります(って、なんかちょっと飛躍しているかもしれないです)。会場には野元さんのご家族もいらっしゃって、お話しを伺うチャンスだったのに、急な仕事が入ってしまったわたくしめは、後ろ髪を引かれながら帰りました。(加藤千晶

 スクリーンの父の声に思わず涙が……

■江本さん、先日は本当にありがとうございました。新宿歴史博物館のスクリーンに映し出された西川さんと父の姿と声……。懐かしい声が流れると、「ああ、父さんだ」と、思わず泣いてしまいました。隣に座っていた菊ちゃん(次女、菊子さん)は、私は泣かないよ、でも嬉しかった、と言っていました。

◆14年前のあのフォーラムの後も、父は二回にわたり上京して、暖かい雰囲気の中、地平線の皆様に自分の体験談を聞いていただきました。皆様に囲まれて嬉しそうに生き生きと話していた父の姿は 本当に幸せそのものでした。フォーラムの直前に出版していただいた本(『チベット潜行 1939』悠々社刊)のことも忘れられません。亡き母は 「子ども達にだけでもお父さんの辿った人生を本にして欲しい」という願いがありましたが 父の頑張りと何よりも江本さんのお陰様で母の願いが叶いました。

◆常に人に優しく己に厳しい“真実一路”の父でしたが 私たち子供もこの言葉を大事にこれからも歩いていきます。江本さんとお仲間の皆様との素晴らしい出会いに幸せな人生を終えることが出来ました。心からお礼を申し上げます。地平線会議の皆さま、ありがとうございました。(中橋蓉子1 野元甚蔵さん長女)


〜〜けものけ展ノート〜〜

■「亮之介の描く物の怪の絵を見てみたいなあ」と会話の中で何気なく丸山純さんが口にしたのは7月末頃だったか。9月末に開催予定の個展会期が迫る中、気ばかり焦るものの何もできないでいた闇に光明が射した瞬間だった。

◆イラストレーターという仕事柄、様々な「お題」に絵で応えて来た。解題に当たり、すでに寓意を秘めたキャラはしばしば有効だ。例えば画面にナマケモノが登場するだけで、ある意味が伝わるでしょ(ともすれば退屈な喩えに陥るリスクもあるけどね)? この意味で化け物などもこれまでいろいろ描いてきた。早速ノった僕の様子を見て丸山さんにも火が点いたようで、こうなれば一気に歯車が回り始める。

◆「獣」と「物の怪」を合体させた造語「けものけ」も提案して頂き、個展の構成も固まり始めた。因みにあとで検索したら片仮名の「ケモノケ」という言葉を使ったマンガが存在した。「こっちは平仮名だから被らない」と言う判断で、独自の造語を通す。オリンピックのロゴ騒動ではないが、創造力の共時性はしばしば起こり得るんだなあ。

◆テーマの中心となる絵はお気に入りのダンボールアートにした。厚めの段ボール箱に描いたキャラ絵を切り抜く。平面のパーツを立体的に見せられる面白い技法だ。これも前回の個展の際に丸山さんからヒントを頂いて始めた。僕の仕事の大半は自分のアタマの中だけで完結するのだが、丸山さんとの仕事はアイデアのキャッチボールの中で自分の狭い枠を越えられる所が醍醐味だ。

◆「けものけ」達の絵を持って都内あちこちのパワースポットで撮影する「けものけ巡礼」という計画もそんな中で発想された。時間切れで実際の撮影は主に僕と丸山さんの自宅近くでのロケに留まったものの、ヤブ蚊の猛攻撃と訝し気な近隣住民の視線に曝されながらの撮影は刺激的な遊びだった。個展会場に展示したこれら写真への関心は高かったようで密かに報われた思いだ(絵ではなく、写真を所望して頂いた方が三組いらした)。

◆こうして丸山さんをはじめ友人達の尽力で、今回の個展【けものけ展〜長野亮之介の絵仕事】無事終了しました。地平線会議の皆様にも多数お運び頂き、おかげ様で期間中約250名の来場者を数えました。ありがとうございました。

 個展が終わればまたヒマになると思いきや、礼状を書く間もなく、東北大震災の支援カレンダー【3・11カラハジマル日めくり鮭カレンダー】の制作に追われております。好評をいただいている鮭Tプロジェクトの最終企画。宮沢賢司の「雨ニモマケズ」の全詩を365枚の日めくりパラパラマンガ形式で表すカレンダーです。クラウドファンディングで募った基金も達成し、やるしかない! 無事完成の暁には12月1日から1000部限定売り出し予定。御興味のある方、よろしくお願いします〜。http://saket311.naganoblog.jp/e1796102.html(長野亮之介 絵師)


先月号の発送請負人

 地平線通信437号、16日に印刷、封入作業をし、翌17日、新宿局から発送しました。今回は11月に予定されている「日本冒険フォーラム 2015」のチラシを通信に同封しました。そのため、わざわざ、兵庫県豊岡市から植村直己冒険館の吉谷義奉(よしたに・よしとも)館長が発送作業に加わってくれました。通信に同封したチラシを遠く豊岡から自分で車を運転し、運んでくれたのです。
吉谷館長、カンパもありがとうございました。森井祐介 松澤亮 車谷建太 吉谷義奉 江本嘉伸 伊藤里香 前田庄司 落合大祐


生きることに真摯に取り組む『そらともり』の道のりに関われる嬉しさを感じた

今年3月の第431回地平線報告会の報告者、天空の旅人・多胡光純さんと木のおもちゃ作家・多胡歩未さんが、永住の地を決め、新たに自宅と仕事場を構えた。以下、その記念パーティーの様子を中心にお届けする。なお、ふたりの詳細については、3月の報告会レポートを参照されたい。

■梅雨のある日、多胡家からニュースが届く。「今の家から50mほど移動した古民家に、自宅・仕事場とも引っ越します。新装オープンを記念して仕事仲間や友人を招くパーティーを9月20日に予定!」。訪ねるたび「加茂さいこお!!」と聞いていたから、きっといつかはそうするんだろうな、と思ってはいたが、やはり突然の朗報だった。その後、時に苦戦しながらも、思い描く新たな拠点作りにがっぷり組み合っている様子が伺えた。

◆パーティーに向け数人で前乗り。懐かしい以前のアトリエや住まいから確かに目と鼻の先に、新居はあった。築80年という離れ(=住まい)にお邪魔すると、木の香りが迎えてくれた。一枚板のカウンターキッチンや肌触りの良い木の床。太陽光発電を導入し、床暖やIHなども備えられ、快適に暮らせそう。梁やそのまま残されている昔の建具が、趣きを添える。ロフトから垂れ下がる数本の輪飾りは、父娘の労作。パーティーの飾り付けに使うそうだ。翌日午後2時からのパーティーに向け、娘の天俐ちゃんも一緒に、それぞれの持ち場で準備をした。

by arumi

◆当日の朝、きのうは工事で入れなかった、道に面した築100年の母屋側を案内してもらい、全容を把握。2階建ての母屋の1階に、そらともり株式会社の事務所、店舗(ギャラリー)、アトリエが並んでいる。隣接するモーターパラグライダーのエンジンピットには、収穫した米を入れる大型冷蔵庫もある。あとで見せてもらった屋根裏的2階も、居心地良さそうであった。快晴の空の下、稲穂が実る田んぼや彼岸花、その周囲の山々に朝日が差し込み輝いている。

◆午後2時、店舗の受付で多胡夫妻に迎えられた客人は、ゲストカードに氏名を記入し、記念の品を受けとり、森のイメージでディスプレイされた木の作品たちに囲まれる。段差を上がり、広々とした板張りの事務所に移れば、壁にしつらえたスクリーンに映し出された大画面の映像が、空からの旅にいざなってくれる。アトリエやピットでは、糸のこや宙吊り(!)の「体験コーナー」も。中庭で料理を味わい、歓談する。どの人の表情も朗らかだ。

◆お客さんたちがひと通り回れた頃合いで、スタッフも含め総勢約50人が事務所に集合。腰を下ろして多胡さんの話を聴き、空撮映像を観た。映し出されたのは、5日前に撮影したという地元加茂の空からの風景。タイトルは『瓶原(みかのはら)を飛ぶ』※。土地勘がある分フライトラインの選択に迷ったものの、「いつも通り上空で目にした感動をそのまま掬い取る方向で撮影した」という7分半の作品に触れ、これが今日多胡さんが伝えたいことのきっと全てだと思え、胸がいっぱいになった。

◆歩未さんも、会場の声に促され、少しだけ挨拶。ドイツ時代のお気に入りの『教会の2本のとんがり屋根』と、加茂の窓の外に見える『2本の山桜』を重ねる、この地への想いも聴いた。天俐ちゃんは、ちょっと離れたところから見ていた。

◆実は、家をずっと探してはいたが、土地柄新築は難しいなか、空き家探しも難航。いつも散歩で前を通っていた、手入れが行き届いた当時の家主さんの生家に引かれ、今年の1月に意を決してお願いに行ったところ、「(ずっと見てきた)あなたたちなら」と快く譲ってもらえたのだという。2004年のarumitoyオープンから続く流れ(ふたりはこの年に出会っている)が織りなす不思議とともに、心の声に耳を澄ませ、向き合い、行動につなげてゆくふたりが呼び込む必然を感じる。

◆「お礼」としてゲストに贈られた記念の品は、先述のDVDと干支のピック。このピックは、改装にあたって切ってしまった庭のモチノキと伽羅木の再生を願って作られた。創造者として、生活者として、生きることに真摯に取り組む『そらともり』の道のりに関われる嬉しさを改めて感じた日であった。へろへろでニコニコなふたりを囲み、その夜は更けていった。

◆土地と人をつなぐのも、見る者がその風景に広がりや深みを感じるきっかけも、やはり人であるように思う。これからこの場所に多くの人が訪れることだろう。新たなテーマは『瓶原に集う』でどうでしょう?(中島ねこ

※瓶原:京都府南部、木津川市加茂町の地名。木津川の北岸にひらけ、聖武天皇の恭仁京が置かれた地

今月の窓

「待つ」

■バイクで世界を旅していたのは1985〜96年。アマゾン川イカダ下りが1992年。北米大陸単独マラソン横断が2005年だから、すべては昔の話になってしまった。北米ランの後、近所の郵便局で配達のバイトを始めた。毎日バイクに乗って楽しく働いていると、5年前になんと正社員になれた。47歳にして生まれて初めての正社員だった。局内に半数近い期間雇用社員があふれ、20年以上もそのままの人もいる中で、僕なんかが社員になったのは幸運としかいいようがない。

◆ところが最近、仕事中にイラつくことが多くなった。配達指定という2時間ごとに区切られた枠の中で、異常に郵便物が多い日は、気持ちに余裕がなくなってしまう。雨が降ってもカッパを着る時間も惜しい日に、迂回を余儀なくされる道路工事なんかと出会うと、どうしてもイラっとする。時間指定は守れなければ当然こちらに非がある。けれど数分の違いも許せない人と出会うと戸惑ってしまう。都会には「待つ」ことができなくなってしまった人たちがいる。

◆先日、NHKの対談番組「SWTCHインタビュー」で関野吉晴さんが「私は途上国の人たちと長く付き合ってきたおかげで、今の日本人が持っていない能力を身に着けた、それは、待つ、ということです」と話していた。その通りだと思った。現在の日本人に「待つ」は相当な努力をしないと身に付かない能力だ。でも僕は「待つ」能力を途上国で鍛えられて、多少は身に着けた。

◆僕が最初にその洗礼を受けたのはメキシコだった。北米の西海岸をバイクで走ると、サンディエゴで4車線だったハイウェイがメキシコに入った途端にオイルまみれの舗装がガタガタの道になる。道の両側には屋台のようなお店が現れ、小太りのおじさん達が場違いなモノを売りつけにくる。その町で銀行に両替に入って言われたのが「今お金がないので届くまで待て」。文句どころか、言葉すらでなかった。

◆何か聞き間違えたのかと、近くにいた客に訴えると、その人は不思議そうな顔で「待てばいい」と教えてくれる。お金のない銀行……。こんな銀行ありえない、日本なら即つぶれるぞ! ともかく、そんなもの待ってられないので、先にガソリンを入れに行くと、またもや「今ないので届くまで待ってくれ」。いったいなんなんだ!この国は。

◆仕方ないので列に入る。他の客を観察していると、後から来た車は自然に列に並び続け、そのうちヒマを持て余したドライバーたちはスタンドの日陰で寝てしまった。2時間後、タンクローリーが現れ、給油をすませた車は、何もなかったかのごとく去っていく。これはいつもの風景らしく、結局怒っていたのは自分だけだった。確かに「待つ」を時間の無駄だと思わないなら、待てば解決する問題なんて、問題ではない。これでは僕の怒りなんて、誰にもわからないだろう。「日本なら……」と説教しても「アンタの国ではそうかもしれないけど、ここはメキシコだし」と笑われると、事実に基づいた言葉には妙に説得力がある。

◆時間の感覚がないから予定が立てられず、何もかもが遅れる国。なのに彼らは楽しそうだ。毎日接しているとやがて、そんな時間の使い方しか出来ないからお前らはいつまでたっても途上国なんだ、って、怒りは、本当にそうなのか? という疑問に変わっていった。

◆なぜ腹がたつのか。それは自分が正しいのに、相手がその正しさを理解しないからではないのか。でも自分が正しいと信じているのは日本という国の常識に過ぎない。文化の違う国でそれが通じないのは、むしろ自然で、その違いを学ばないとその国に来た意味がない。そして学ぶためには日本の常識は邪魔でさえある。かなり苦労して、そこまで辿りついたら、あんまり腹が立たなくなった。そのうち自分の中のハードルはさらに下がって、日々起こり続けるトラブルに「まあいいか、死ぬことないし」と思えるようになると、時間の問題などたいしたことではなくなった。

◆ところが帰国してみると、日本はさらに「時は金なり」が加速した国になっていて、時間を有効に使えない人間など屑扱いだ。逆カルチャショックとでも言おうか、苦労して取り込んだ「緩さ」は自分を苦しめる原因になった。旅人の言葉で「日本の常識、世界の非常識」というのがある。世界の基準からすると、日本はかなり特殊な国だ。電車が1分遅れたら怒る国民なんて、世界のどこにもないだろう。

◆その厳格さがこの国の優秀さを支えてはいるが、度が過ぎると優秀どころか病気だ。だからか、「腹を立てない」みたいな本はゴロゴロある。それだけ需要があるのは、みんな普段から怒っているからだろう。その中で「まあいいか死ぬことないし」と何でもスルーしていたら浮世離れした人だ。

◆恐ろしいのは、腹が立たないと他人の怒りも分からなくなることで、何に怒っているのかも分からないと、人と話すのが怖くなる。勇気を出して怒りの原因を聞くと、行きつく先は時間の問題で、知るとつい小さなことに感じてしまう。しかし僕は忘れてしまった日本の時間感覚を取り戻す必要があった。それが共有できないと生きづらい。最近、堅気な生活をして、ようやく怒りを取り戻してきた気がする。時間に追われると確かにイラつくし腹が立つ。巡り巡って、やっと周囲に追いついた。でも遠い回り道は無駄ではなかったと思う。

◆僕は地平線にいる時は郵便局の話はしない。郵便局にいる時は地平線的な話はしない。どっちにいても常にどこかで裏切っている後ろめたさがある。バイク世界一周を終えたとき、180度方向転換して堅気な生活をしようと思ったが、自分の中の旅時間が大きすぎて無理だった。そもそも就職活動しようにも、僕は履歴書に職歴すら書くことが出来なかった。今は一応社員だが、これからも二つの時間を持つ世界をいったりきたりするのだと思う。(旅人 坪井伸吾


あとがき

■「大変ご無沙汰しています。ミシシッピーから帰ってきました。地平線の原稿、勝手に書いてみましたが、如何でしょうか。よろしく」と、永久カヌーイスト、吉岡嶺二さんからきのう13日、手紙が届いた。9月15日、シカゴ西方のクリントンから、トムソーヤの故郷ハンニバルまでの336キロを仲間2人と漕いだ10日間の旅。さすがに間に合わないので次号にさせてもらいます。でも、元気で漕ぎ続けている吉岡さんの近況は嬉しかった。

◆歯医者に行ったら、国民健康保険が使えなくなっていた。「後期高齢者用カード」が出されているはず、という。区役所に聞いたら9月19日付けで簡易書留を送った、と。例によって家中大騒ぎして探したがいま現在見つかっていない。代わりに、いろいろなお宝が出てきた。つくづく何か大事なものをなくしては、とんでもないものを見つける人生なのだ、と運命をかみしめる。お宝のことは、後日。

◆字がぎっしりで写真もマンガもないこの通信、読みきれないよ、という人も多いと思うが、ありがたい読者も少なくない。中には、毎号必ず感想を送ってくれる読み手もいる。私の文章についてのものが多いので宣伝はしないが、皆さんのひとことが書き手を元気づけるのだ、ということは知っていてほしい。

◆11月22日の「日本冒険フォーラム」、定例の地平線報告会と兼ねることにしたのは、本気で「冒険フォーラム」に集中したいからだ。「極地」というテーマに関心があまりない人でも、必ず得るものがあると思う。究極のテーマは、いつも「人間」だから。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

南極の白い跡

  • 10月30日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F

「幼少の頃体が弱かった僕には、はるかに遠い偉人だったけど、ずっとあこがれて来ました」。【夢を追う男】という肩書きを名乗る冒険家、阿部雅龍さん(32)がこう語るのは、日本人で初めて南極大陸を探検した白瀬矗(のぶ)中尉のことです。

明治45年(1912)に大陸のロス氷棚に上陸を果たし、行程の最南端を大和雪原(ヤマトユキハラ)と名づけて国旗を立てました。白瀬中尉と同郷、秋田生まれの阿部さんは学生時代にやはり冒険家の大場満郎さんが主催する冒険学校でスタッフ勤務。ここで一発発起します。南米大陸自転車縦断、アマゾン川単独筏下り、ロッキー山脈縦走などの経験を積み、30代でいよいよ南極に目標を絞りました。

今年3月から5月にカナダ北極圏単独徒歩500kmを走破。'16年にグリーンランド1200kmを予定し、'17年の南極上陸を目指しています。現在は浅草で人力車夫として毎日20km走りつつ資金準備。「白瀬中尉から僕が受けた夢を、次世代にも伝えたい」という阿部さん。

今月は阿部さんの夢を追う生き方を語って頂きます。


地平線通信 438号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2015年10月14日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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