8月12日。毎年恒例となった「記録的猛暑」だが、ことしはほんとうにすごい。四谷荒木町周辺の路地は、部屋を冷やすクーラーが吐き出すあたたかい空気でまさにヒートアイランド地獄だ。遠く長崎では、猛烈な豪雨。午前10時、「諫早駅でもう3時間も電車が止まっています」と、たまたま長崎を目指していた福島の超人ランナー、渡辺哲さんが伝えてきた。どうして、そんなとこにいるのか。顛末はこの通信の9ページに。
◆御巣鷹山慰霊の日だ。30年前のこの日、524人が乗ったジャンボ機が墜落、奇跡的に助かった4人を除いて520人は死亡した。あの時、痛切に思ったことがある。自分だったら墜ちてゆく機内で最後のメッセージを書き残せただろうか、という自問だ。どれほどの恐怖と524人は戦ったのか、いつか自分もそんな瞬間に遭遇することがあるかもしれない。あと30分あまりで人生が終わる、と理解した時、何ができるだろうか。
◆来年から実施される国民の祝日としての「山の日」も御巣鷹山と関わっている。お盆休みにつなげるほうが企業も受け入れやすいのではと、実はいったん8月12日に決まりかけた。しかし、群馬県選出の小渕優子議員が御巣鷹山慰霊の日と祝日が重なるのは……、と異を申し立て急遽1日前にずらせて8月11日としたのである。きのうは各地で「1年前」のプレイベントが行われた。
◆そして、間もなく戦後70年の8月15日となる。終戦の時、4才10か月だった私は、多少は判断力も備わりつつある年齢だっただろうに、戦争が終わった瞬間のことは何も記憶がない。自分はどこか鈍いのだろう。B29の襲来で「空襲警報」のサイレンが鳴るたび、防空頭巾を被って、防空壕に逃げ込んだことは明確に記憶しているし、父方の縁で愛知県の田舎に疎開した日々のことは忘れないが、なぜか戦争の凄惨な現実よりいつも腹が減っていた記憶ばかりが鮮明なのだ。
◆先日、久しぶりのメールと共に一冊の本が送られてきた。『ブルーウォーター・ストーリー』。舵社の出版で、著者は片岡佳哉さん。あっ!と思う人はかなりふるい仲間だ。8月17日は、地平線会議の36回目の誕生日だが、発足当初は、探検、冒険の日本人の行動を記録することが主眼だった。探検・冒険年報『地平線から』を毎年刊行し、その都度大集会を開いた。しかし、金銭の支援はどこにも求めなかったから、最後には正直、疲れてしまい、『地平線から 第八巻 1986〜88』(1990年2月20日発行。編集長は白根全)をもって以後休刊としている。
◆この「八巻」は力のこもったものだった。388ページ、河野兵一の「こげつく青春」、惠谷治の「被曝最前線キエフ潜入記」、吉川謙二の「二つの単独行 北磁極徒歩往復とアマゾン河遡行計画」など、濃密な原稿が詰まった一冊、なんといっても表紙が素晴らしかった。南極の氷の海に漂う小型ヨットをマストのてっぺんから撮ったものだったのだ。
◆それが片岡佳哉さんだった。当時35才、艇長7.5メートル、幅 2.3メートル、排水量2.2トンという小型ヨット「青海(あおみ)号」で南極半島の多島海を抜けて1986年3月15日、世界最小艇による単独南極大陸到達をなしとげた。その顛末は「八巻」に「光と氷の国、南極へ」のタイトルで記録されている。その行動に驚愕した私たちは第5回地平線賞を片岡佳哉さんに贈った(他に4人の受賞者がいた)。
◆あの後、片岡さんとは白根君ともども東京で会ってビールを飲みながら、出版の相談もした。「ヨットの多田さん、文藝春秋の設楽さん、そして自転車で現れた江本さん、あの晩のことは、20年を過ぎた今でも記憶に残っております」と後に片岡さんは書いている。多田雄幸さん、設楽敦生さん、植村直己の親友だった2人は、今はいない。当時文藝春秋社から航海記を出すという話が進んだが、結局、気に入ったものが書けないまま、いったん頓挫してしまったようだ。それが、なんと20数年ぶりに生き返ったのだ。文春ではなく舵社から。
◆「たった一人、ヨットで南極に挑んだ日本人」という副題のこの本、印刷に少し問題ありだが、カラー写真をふんだんに使った、豪華なつくりだ。地平線会議を代表して1部預かっているが、関心ある人は是非舵社から買ってほしい(1800円+税)。お礼に最近1年分の地平線通信を送った。探検・冒険年報の存在を通じて地平線会議を知っている片岡さんはどうとらえただろうか。
◆「本の後書にも書きましたが、私が望んでいるのは、『文明以前から我々が持っていた冒険心や、自然の掟を忘れないでほしい。それが、人類存続の要となるのだから』ということなのですが、お送りいただいた地平線通信を読ませていただき、私が目指すものとの共通点を探してみたいと思っております」と返信があった。うーむ。でも、とにかくこの驚くべき片岡さんの南極行、是非皆さんの前で一度話してほしい。(江本嘉伸)
今回の報告会は、いくつかの点でいつもと比べて異例だった。まず、おなじみ新宿区スポーツセンターの会場は、報告者の加藤大吾さんの申し出により机が取り除かれ、椅子だけが弧を描くように並べられた。
地平線会議は「地平線」の名の通り、国内外の彼方に出かけて行われる冒険や挑戦について語られることが多かった。ところが今回の報告者は、山梨県都留市という都心からバスでわずか80分の土地に暮らし、森の中に自作した家で、家族とともに、移動するよりはむしろ、深く根を張って生きている。
冒頭、江本さんからこの点について前置きがあった。「今回の報告会はいつもと少し違う。だが僕は彼のやっていることもまた冒険だと思っている。地平線も435回を続け、いよいよこういう人も出てきたかという思いだ」と。
加藤大吾、42歳。職業を問われれば、農家、大工、非常勤講師、ライター、NPO理事と多岐に及んでいる。妻と4人の子ども、さらには犬、ニワトリ、ヒツジ、そして1頭の馬とともに暮らしながら、生態系のなかに暮らしを位置づけることに挑戦し続けている。スライドを見せながら、その推移を順に追った話が始まった。
東京・四ツ谷生まれ。2歳から6歳まで父の仕事の都合で青梅市で過ごしたものの、超都会っ子として幼少期を過ごした。
小中学生時代は自転車旅行にあけくれ、高校に入ると一転、今度はラグビーにのめりこんだ。だが父と衝突し、1年ほどの家出を経験する。家に戻ったのは卒業間近だった。
卒業後はスポーツの専門学校に進学。さまざまなアウトドアの基本を学び、ライフセーバーとして、人命救助の訓練を積むなど肉体面を鍛練した。
1994年、NPO法人「国際自然大学校」に入社。自然体験を通して人間と自然、あるいは人と人との関係を学ぶ「環境教育」に出会った。
やがて妻、美里さんと結婚し、2001年には長女が誕生する。02年、東京都世田谷区で主宰する事業、アースコンシャスを立ち上げた。03年には長野県飯山市に拠点を移して冒険学校の設立を始めたが、この事業が1年ほどで頓挫してしまう。
04年、家族とともに東京に戻った。だが「今日は一度も土を踏んでいない」「雨のにおいがおかしい」と東京の暮らしに強烈な違和感をもった。「ここは自分たちの場所じゃない。自然のリズムの中で暮らしたい」。そう思わせたもう一つの理由に、長女陽(はる)ちゃんの存在があった。体重890グラムという超未熟児で生まれた陽ちゃんは右目が見えない。発達も遅かった。「子育ての場所として東京はふさわしいのだろうか」との思いがあった。
企業向けの研修やCSR(企業の社会貢献活動)の企画実施などを生業とし、仕事がある日は東京で働き、休日には車にキャンプ道具を積み込み、関東周辺の移住先となりそうな土地を歩いて回った。理想の土地を見つけるまでには1年もの時間がかかったが、その時間は同時に、今後の将来について夫婦で話し合う時間にもなったという。奥多摩、房総半島、伊豆半島などをめぐり、たどりついた先が、現在も暮らす山梨県都留市だった。
報告会はときおり突如として中断され、加藤さんは聴衆に、ここまでの報告について隣同士で話し合い、質問してほしいと投げかけた。異例の会場セッティングはこのためだった。大人たちが少々戸惑いながら顔を見合わせる中、明日からモンゴルに行くという少女の〓さんが、真っ先に手を挙げた。「山の中に暮らしていて、電気や水道はどうしているの?」地平線メンバーならではの実践的な質問だ。大人たちからも話の途中途中で、質問が出るようになった。
スライドは原野の森を映した。40年ほど前に建てられ放置された古家が残る約660坪の山の斜面。もはや森にもどりつつあった荒地を再開拓することから「かとうさんち」は始まった。
とはいえ加藤さんに、技術は何もなかった。インターネットで技術を学び、仲間の力を借りつつ、5×10メートルのログハウスが最初に出来上がった。
2006年、まずはこの家に移住し、隣接する古家の改修作業が始まった。主な柱を残し、スケルトン状態にまで解体した後、廃材を寄せ集めて再生した。材料費としてかかった費用は約20万円という。え、まさか。会場からも思わず驚きの声が上がった。完成後、ログハウスはゲストハウスとなり、改修した古家が生活の場となっていく。
農業も同時に始めていた。10年ほど放棄されていた田んぼを借りることに成功し、仲間とともに水田に戻した。初年度、合鴨農法にもかかわらず慣行農法と同様の収穫量を得ることができた。「あいつは米を作れる」。このことは移住してきた加藤家が、地域住民に受け入れられる第一歩となった。「農業ができるということは、田舎ではパソコンができることよりも重要な意味をもつ」と加藤さんはいう。
野菜をつくり、米を作り、麦を育て、うどんをつくり、ラーメンをつくった。
大豆の殻(枝豆のさや)は干してヒツジに与える。米の藁も与える。人間が使えないものを、肉やミルク、さらには羊毛といった人間が使える形に変えてくれる。
小屋に藁を敷きつめておけば、床を発酵させることでにおいを防ぎ、糞尿や残渣も肥料として使うことができる。その堆肥でさらに作物を育てるというサイクルができる。
さまざまな生き物がつくりだす生態系のサイクルを途切れさせずに循環させることで、人間はその循環の中から時々、恵みを得ることができる。「僕はこの仕組みこそ合理的な生き方だと感じた」という。
「人間のうんちはどうするのですか? モンゴルでは家畜の糞を乾燥させて燃料にしているみたいです」モンゴル行きの少女からさらに質問が出た。おもわず大人たちから「いい質問だ!」と声が上がる。
だが残念ながら日本では人間の糞尿を畑にまくことは法律で禁止されているそうだ。おしっこは問題ないとしても、うんちは医薬品を服用していれば残留成分が問題となる。不特定多数の訪問者が訪れる環境では、寄生虫の問題もあるそうだ。うんちについてはさらに質問が出た。「糞土師・井沢正名さんに学んだ地平線メンバーだけに、うんちについてはみんな放っておけないのだ」と江本さんが補足する。
加藤さんの暮らしが少しずつ変化し、生態系の中に位置づけられるようになると同時に、育てる作物や動物も少しずつ変化していった。
たとえば大豆の生産。埼玉県で育てられてきた在来品種「借金なし大豆」。雑草をとらずに放置して育てると、強いものだけが生き残る。世代を重ねるごとに、ついに雑草に負けないものだけが生き残っていったという。
養鶏場から導入したニワトリは最初、産卵率が落ちないよう、卵を抱かないように慣らされていた。だがさまざまな品種と掛け合わせ、世代を重ねるうちに、次第に卵を抱くことを思い出していった。
犬たちは人間は目が利かなくなる夜に、近づくイノシシを警戒し、蛇などを退治してくれるようにもなった。
実は私は加藤さんが2010年11月に出版した著書『地球に暮らそう〜生態系の中に生きるという選択肢〜』のお手伝いをさせていただいた。東京や都留で何度も打ち合わせを重ねるなかで、農業、薪ストーブ、狩猟など毎回、話を聞くたびに新鮮な驚きがあった。だがそれよりも、訪れるたびに加藤さんの暮らしがいつも進化し、前へ前へと進んでいたことが、私の関心を引き付けた。どこにいくのか一緒に見てみたい。そう思った。
実質的には自費出版で、リトルプレス(小規模出版)としては異例の初版4千部を全ページカラー印刷した。大量の在庫が残ることも心配されたが、杞憂に終わった。2014年には改訂・増刷が決まり、同年には台湾で翻訳本も出版された。現在、同書の続編を編集中であり、今秋にも上梓される予定だ。
生態系の中に暮らすようになるにつれて、加藤家の幸福感は増していったという。でも次第に、自分たちだけが幸せになるだけでは本当の幸せにはたどりつけないことを感じるようになった。
たとえば子どもは学校に通う。「学校の質が上がらなければ、幸せにはなれない。地域の子どもたちや、ひいては都留市全体が幸せにならないと、本当に幸せにはなれない。そう感じるようになっていった」という。
街を変えよう。そんな思いから、2010年2月にNPO法人「都留環境フォーラム」を設立し、環境を意識した街づくり活動をはじめていく。現在の主な事業内容は、(日)在来作物の普及活動(月)馬耕文化の復活(火)里山暮らしワークショップ(農業や大工)だ。
なかでも最近、メディアでも注目されるのが馬耕だ。現在の日本では、有機栽培農家であってもトラクターを使って耕作を行うため、石油にたよって生産をしている。「もし、くわ一本で耕そうとすると、1日あたり2反くらいで限界。さらにできた作物の移動はどうする? 徒歩か?」
そこで馬が候補に挙がる。アメリカのクオーターホースと日本の在来馬・道産子の掛け合わせ。特徴のひとつは、笹や雑草を食べてくれること。えさ代はあまりかからないという。もちろん馬糞は田んぼで使える。
馬耕の復活はまだ道半ばというが、報告会当日も馬についてはずいぶんと具体的な質問が出た。
また最近は、JICA(国際協力機構)を通して海外の人が視察に訪れるようになった。先進国・日本に、最先端技術を視察しにきた人たちにとって、山の中で暮らす日本人の存在は新鮮な経験になるようだ。
「こんな日本人もいるのか」「ここはおじいちゃんの家と一緒だ」と言われるという。そんなとき加藤さんは問いかける。「何を大切にしたらあなたは幸せになるでしょうか?」。
報告会でも同じ質問が聴衆に問いかけられた。「子ども」「家族」「文化」「ご先祖様」「自然」などと答えが出る。
その上で「あなたの国が豊かになるためには何が必要か」と改めて問うと、彼らの意見は揺れる。「経済発展や、開発が必要」という意見と「自然や文化、伝統を守るべき」という意見。かなり白熱するという。
加藤さんはいま、「ここに、何かヒントがありそうだ」と感じているという。彼らだけの問題ではなく、日本人もまた問われている。前号の地平線通信の予告欄には加藤さんの報告について「ポスト311の時代の農的暮らし」と表現されていた。経済的発展のピークを超え、大きな災害によって生き方が問われ、ダウンサイジングに向かういま、どうしたら幸せになれるのか。
加藤さんが投げかけるもの。それは前述の著書のサブタイトルにもあるように「選択肢」を提示していることだ。誰もが加藤さんのような暮らしを始めるのは難しい。でも加藤さんの家を訪ね、農的暮らしの知恵を知ると、これなら自分でもできるかもと思うことが必ずある。
私は今年、加藤さんからもらった種をまき、カボチャとインゲンが大きく育った。5歳の娘はそれを収穫し、はじめて「胡麻和え」を作ってドヤ顔だった。都会で暮らしていても、ちょっとだけ「生態系の中に生きる」を取り入れることは、まだまだできそうだと思った。(今井尚)
僕は、山梨県都留市に移り住んで、「生態系の中に暮らす」という挑戦を続けてきた。森を開拓し、斜面を整地し、基礎を打ち、家を建てて移住した。すべて仲間と共に手作り、もちろん、電気、水道、ガス、すべてのライフラインを作ってきた。これと同じように、畑も田んぼも、子供の教育もだ。
ここ数年で、こういった話を人の前でさせてもらえるようになってきた。決まって、いつもの質問が大半を占める。今日は、そこに対する僕の逆襲をしてみたい。
大抵の質問は、今の日本の社会背景を反映している。なんだか日本国民が持つ、刷り込まれてきた常識を感じることがある。
大抵の最初の質問はこれだ。「建築や農をどこで学んだのですか?」もちろん、僕にそんな経験はない。この質問の背景は何か?「教えてもらうということに慣れすぎている」ということだと思う。「教えてもらうよりも、如何に学ぶか?」が、大事で、学びの主人公は自分だ。自分で必要なことを学べばいい。そもそも、自分しか学びたいことの確信の部分を知らない。そして、「準備万端にしないと動き出さない」という、もう一つの背景も見え隠れする。僕にとって、今持っている知識や能力はどうでもいい。身につけてしまえばいい。そもそも、何かをやってみないと何を学んでいいか、なんてわからない。これが真実だと思う。
最後の方で出てくる質問は「奥さんがすごい。いったいどんな奥さんなんですか?」いつも、僕は心の中で思ってしまう「そんなに奥さんに縛られて、抑圧されてるの?」僕が様々な冒険(移住、家畜導入、新たな建築など)に出るとき、どれほど、慎重に、そして大胆にその魅力を話し、相談し、理解を求め、日頃から家族に尽くしているか。やることをやらなければ、家族といえど持続することは難しい。家内もすごいのだけれど、僕の家庭を思う気持ちはもちろんのこと、家庭教育も最善を尽くしているのだ。自分がしていないことを棚に上げて、奥さんがすごい? 一体なんなんだ? 自分に非はなく「どうせ理解してくれない」「冒険に出られないのは奥さんの理解力の不足が原因だ」とでも言うのか? ことが運ぶように周辺環境を整えていくのは冒険の基本だろう。そう思うのだ。だから、次にお会いした時の質問は「どれだけ家族に尽くしているのですか?」を期待している。
僕はできのいい脳みそを持っていない。そして、スムースにことが運ぶことは少ない気がする。数え切れないほどの失敗を重ねてきた。その中で学びつづけ、自分で体得した知恵を蓄えてきた。理想とする世界を手に入れるには信じ続けることが必須だと思う。如何に自分を信じ込ますことだできるか? ただそれだけがあれば十分だと思う。「夢はなんですか?」っという質問も多い。いつもは、その辺りにある何か「来年はこうして、こうして、」っと答えているけれど、実直に答えるとするなら「いや、現実ですから」っと、なってしまう。なぜなら、すべては実現するからだ。
安全なところから、心を打つような言葉は生まれてこないだろう。僕は実践者として生態系の中に暮らし続け、僕の本能や衝動のままに、自分に素直に、抑圧をすり抜けて自由に、やりたいことだけをやって生きていく。そういう生き方、暮らし方で、幸せに生きていけるというモデルとなり、自分自身の人生を提示する。次の世界には個人や地域の個性が十分に発揮されて、暮らしぶりの多様性が世界に広がっていくのだ。(加藤大吾)
■かつて南米ボリビアで、ツーリングに使用していたバイクのスピードメーターケーブルのギアの歯が全部飛んでしまったことがあった。もうこれは北米からパーツを取り寄せるしかない、と、青くなっていたら、バイク屋さんが「ないなら作ればいい」と言って鉄の塊を削ってギアを作り出してしまった。まさに、目からうろこ、の瞬間だった。
◆その時は真理を見つけたような気分だったが、いざ日本に帰ると、その真理を使う機会がない。日常生活の中で何かの部品を作ろうなんて考えないし、もし作れば余計にお金も時間もかかる。結局、そんな日々を積み重ねると、自ら何かを創造することもなく、もう「作ろう」という発想すらできない。報告会の加藤大吾さんの話を聞きながら、そんなことを思い出していた。
◆江本さんが、自然の中に自らの思い描いた理想郷を作り出していく加藤さんの姿を「これも冒険だと思う」とつぶやいていたが、まったく同感だ。惹かれるのは「常識」とされていることを鵜呑みにしないで、一つ一つ忍耐強く、それが事実かを自分で確認していくこと。家は本当に素人が建てられないのか? 無農薬では本当に作物は育たないのか? きっと周りから何をバカなことを言っている、と、言われたに違いない。
◆しかし結果を出していけば周りは認めざるを得ない。自分の理想郷を作るのだ。それも自分たちだけが良ければいいという偏狭な理想郷でなく、持続可能で周囲にも自分たちが試行錯誤の末に見つけたものを還元し、共生し、世の中に広げていくための理想郷なのだ。貴重な報告会。もっと大勢の仲間に聞いてほしい。(世界一周ライダー 坪井伸吾)
■坪井慎吾編集による「決定版30年史海外ツーリング」(ラピュータ出版)好評発売中! 1985年から2015年まで5年ごとにWTN−J(海外ツーリング愛好団体)のさまざまなライダーが自分の体験を書いている。定価1944円、360ページの大作。
■我らが地平線イラストレーター、長野亮之介画伯の2年ぶりの個展が、9月19日から、神宮前のギャラリーで開かれます。題して「ケモノケ展」。「ケモノ」と「モノノケ」を合体させたタイトルらしいが、そう言えば、画伯の描く世界、なんとなくそのような雰囲気もはらんでいますね。
詳しくは、来月の通信で詳しくお伝えしますが、9月19日といえば、23日まで5連休がスタートする日。少し遠くの地平線仲間もこの機会にぜひ地平線会議の良心(そう言っていいかな?)、長野画伯の独創的な作品群を鑑賞しに来てください。(E)
●個展タイトル:「ケモノケ展」
絵師敬白 「ケモノケ」はケモノとモノノケの造語です。地平線通信の絵でもそうですが、ヒトを動物や何だか分からないものなどに見立てて描く事が多いです。この視点で今までの絵をピックアップして解説とともに展示する予定です。
●場所:GALLERY HIPPO(ギャラリーヒッポ)/東京都渋谷区神宮前2丁目21 http://www.gallery-hippo.com
●会期:2015/9/19(土)〜27(月):水曜日定休
地平線通信435号、さる8日印刷、封入作業をし、9日郵便局から発送しました。 発送作業に来てくださったのは、以下の皆さんです。間もなく88才の吉日を迎える重さんは、所用があり、ついでに応援に立ち寄ってくださった。落合君は、ネパールの震災状況を報告する集まりがあるのに、真っ先に来てくれ、中途で集まりに向かいました。
金井重 落合大祐 松澤亮 森井祐介 高世泉 江本嘉伸 前田庄司 杉山貴章 福田晴子
作業のあとは、いつもの「北京」で楽しく歓談しながら、ラーメンや餃子を味わう。この時間、毎回いろいろな話題が飛び出すのだが、この日は奥さんが「見送ってくれなかった」ため、自宅に火をつけ、4人の子どもを死なせた自衛官のことが、あまりにも強烈な事件ゆえに関心を集めた。皆さん、ありがとうございました。
■昨年の夏、江本さん率いる日本人6人で初めてのモンゴル旅を経験しました。帰国してからもモンゴルの草原が忘れられず、言葉を勉強してジョローチ(運転手)のナラさんと電話で話したり、日本最大級のモンゴル祭り ハバリン・バヤル(在日モンゴル留学生会主催のモンゴルの春祭り。)に行ったり、国技館でモンゴル人力士を応援したり、1年間モンゴルとの繋がりを途切れさせることなく再訪の機会を心待ちにしていました。
◆昨年帰国の途に就く空港で、片言のモンゴル語で「あなたと一緒に馬に乗りたい」と言った私の言葉と、「サッカーボール(草原に向かう途中、サッカー少女の柚妃にナラさんから買っていただいた)をあなたにあずけます。来年ください」と言った娘の柚妃の言葉を真剣に受け止めてくれたナラさんからアルハンガイに行こうと誘ってもらい、今夏のモンゴル行が叶いました。6歳の柚妃とふたりでモンゴルに渡り、現地でナラさんと合流しての三人旅です。
◆必要な野菜や水などを積んでいざ出発! ランドクルーザー(トヨタの四駆)で力強く走って行きます。ウランバートルから西へ500km、前半は舗装道路ですが後半はでこぼこの土の道、最後は轍すらない草原をひた走ります。アルハンガイのハイルハンというソム(郡)で暮らす11人の遊牧民家族のゲルに泊めてもらいました。
◆翌朝から家族の仕事を見せてもらいました。昨年の旅では私たち旅行者だけがぽつんと離れたところにゲルを建ててもらって暮らしたので、静かでよかった半面遊牧民の生活にはさほど触れることがなかったので今年の私たちは興味津々です。この家族は牛、馬、羊、ヤギの4種類の家畜を飼っています。馬と牛からは乳を搾り、ヒツジは羊毛に加えヤギと共に乳や肉にもなります。馬は三群れもあり数が多いので家族の中の若者7人が総出で世話に当たっていました。
◆この季節は早朝から夜まで1時間半に1回馬乳を搾るのが主な仕事で、それを馬乳酒にします。馬は性格が臆病で動きが俊敏なので逃げ回るわあちこちでけんかが勃発するわで人も馬も毎回転びながら格闘していました。まずは一群れずつに分け、その中から仔馬だけをロープに一列に繋ぎます。仔馬を一頭ずつロープから離して母馬にあてがい少しの間乳を吸わせます。ある程度吸ったらまた繋ぎ母馬の乳をバケツに搾ります。
◆仔馬を繋ぐ係(力がいるので男性三人)、親馬の群れをひとところにまとめておく係(女性二人と小学男児)、そして馬乳を搾る係(女性一人、15歳娘がとても上手)で効率的に仕事を進めます。全部の母馬から乳を搾ったら馬はすべて草原に放たれ自由に草をはみます。ただし、こういうやり方はモンゴル全体に共通するものか私にはわかりません。大体、馬乳酒はモンゴルでも西のほうでは搾らない、と聞きます。
◆さて、この仕事が終われば私たちは馬に乗ることができます。私、柚妃、ナラさんの三人で一頭ずつに乗りどこまでも続く草の丘をそよ風に吹かれながら歩きました。これを朝、昼、夕と5時間ほど毎日することができました。馬に乗る時は振動で内臓が動くのを防ぐためブスという帯を胴にきつく巻きます。なだらかな丘を越えた向こう側にある小さな湖ではどこかの牛たちがごろごろ昼寝をしていたり、草原では馬やバイクに乗った遊牧民を見かけて声をかけ合ったりすることもありました。
◆草原滞在4日目ぐらいにこれまでは駆け足だった馬を疾走させることができました。ふわりとスピードに乗る瞬間の気持ち良さ! 前傾姿勢で風を切って走ると見慣れた草原もまた違った景色に見えました。
◆遊牧民は馬に乗って家畜を追うだけでなくバイクも活用しています。この家族も4台持っていて、中学生ぐらいの子供も乗っていました。パタパタと軽い音を立てるバイクを自在に操り器用に牛や羊を集めていきます。柚妃も15歳娘のバイクの前に乗せてもらって仔牛を追っていました。
◆私は馬に乗って草原のあちこちに散っている牛を集めてゲルのそばの囲いまで追う仕事を手伝わせてもらいました。牛はのんびりしているので至近距離まで近づかないと立ち上がろうとしません。いったん立ち上がれば列を作って帰っていくので楽なのですが、立ち上がらせるために一頭ずつに近づいて「フシ!フシ!」と声をかけなくてはいけないので馬を細かく操る技術が必要です。
◆牛は1日4回集めて乳搾りをします。仔馬のように繋ぐことはありませんが、母牛から仔牛を離して乳を搾ります。離された仔牛はまだ吸い足りないので指を口元に持って行くと吸い付きます。柚妃は手ごと吸いこまれてびっくりしていました。
◆搾った牛乳は薪ストーブに載せた鍋で一昼夜煮てから冷まします。鍋一面を覆う白い泡が消えると黄色いクリーム状の厚い膜が張ります。それを切り取って畳んだものがウルムで、ジャムや砂糖と一緒にパンに載せるととてもおいしい朝食になります。
◆毎回の食事は家族の女性たちも作りますが、昨年の旅で見事な料理の数々を作ってくれたナラさんが今回も大活躍でした。羊肉を使った様々なモンゴル料理、たくさんの野菜を炒めてから蒸し煮にしたもの、韓国風のピリ辛煮込み料理などどれもおいしかったです。草原の生活では私にできることがとても少ないので、ジャガイモ剥きなどの出番を虎視眈々と窺っては手を出していました。
◆この家族には2人の17歳、15歳、3歳の合計4人の娘と、26歳を筆頭に小学男児までの四人の息子がいます。仕事が一段落すると柚妃も一緒に全員でサッカーやバスケット(草原にゴールが一本ぽつんと立っている)をして遊びます。子供たちだけでなくお父さんやおばあさんとも仲良くなり、最後にはなんと柚妃に仔馬を、私には仔羊をプレゼントしてくれました。赤ちゃんが産まれたときに母娘に贈る習慣があるそうで、ちょうど柚妃の誕生日だったのでそれに倣ったということです。仔馬はそらちゃん、仔羊はホニっちと名付けました。
◆日本の我が家には柚妃の父親が住んでいますが(はたから見ると普通の三人家族)、このとーちゃん、マンガとDVD以外の世の中の何に対しても興味がないという変わり者です。休みの日には食事以外のすべての時間をマイペースですごし、4年ほど娘をほとんどどこへも連れて行ったことがありません。会話もほとんどなく、まぁこんな環境で私は娘を一人二役で育てているわけです。
◆娘に対して普段は細かいこともたくさん言いますが、広い視野と大きな心を持った人間に育てたい気持ちが毎回の母娘旅に駆り立てるのです。亡くなってもまだいろいろな場面で教え励ましてくれる私の父(江本さんの山の親友)、モンゴルのナラさん、そして時には江本さんにも娘は育てられているから大丈夫、まっすぐ元気に育っています。そして人だけでなく、娘をたくましく大らかに育ててくれるモンゴルの草原。柚妃にとっては二つ目の故郷のようなあの場所に、これからはいつでも帰ることができます。(瀧本千穂子)
■ねじ釘でガッチリと固定された雨戸は、さしもの強風にもさほどガタつかない。ともすれば台風の威力を侮りたくなるが、外に出れば渦を巻いた風雨が四方八方から吹き付け、息が詰まる。すべての窓が閉め切られ、室内のムワッとした空気が二台の扇風機でかき回されていた。7月9日。沖縄県うるま市の浜比嘉島に逗留して二日目。瞬間最大風速50mともいう台風9号の暴風雨のため、《地平線ダチョウ・スターズ2015(以下「スターズ」)》メンバー5名と5才のみーちゃんは合宿先の民家に閉じ込められていた。
◆2008年秋に浜比嘉島で開催した移動報告会「地平線あしびなー」に先立つ夏、島の方々との交流を目的に地元の比嘉ハーリー大会にチーム参加したのが、スターズ誕生のきっかけだ。サバニという漁船で300mの折り返しコースを漕ぐタイムレースで、一艘に操舵手と十名の漕手が乗る。地元近隣チームひしめく中でスターズは異例のポンコツ・ナイチャー(内地人)チームだ。大会前に数日の練習をして臨むが、初参加の年、スターズは初戦を制して二部のベスト8に残った。たまたま強豪チームが参加しない幸運だった。
◆櫂を漕ぐ息が合うと、舟は宙を滑るように進む。二分程の苦しい全力疾走の中で味わった、その胸のすくような一瞬が忘れられず、以来継続して参加してきた。今年は二年ぶり6回目(たぶん)の参加。今回のメンバーは東京からの合宿組が長野亮之介(隊長)、車谷建太、菊地由美子(と美月)、久島弘、塚本哲(長野友人)の6名(加藤千晶もメンバーだが、台風で飛行機が欠航し不参加)。地元組が外間晴美、昇、藤田智恵美(晴美友人)他内地からの移住者二名。海宝道義さんからご提供頂いた揃いのTシャツにアイロンプリントでチームロゴもバッチリいれ、12日の大会に備えたのだが…
◆東京を発つ時から台風が来る事は分かっていた。でも台風一過の晴天に賭けた。しかし勢力の強い9号は無情にも長々と島を蹂躙し、潮を含んだしょっぱい強風と滝のような雨はいつまでも止まない。10日朝、大会中止決定! 身の危険を感じる暴風に体を傾けるようにして海の見える所まで行くと、護岸に砕けた波が宙に弧を描き、巨人の手のように道路を叩いていた。我らがスターズは外間さんの実家にこもり、酒とトランプ遊びの3日間を過ごす。雨風の合間を縫って入りに行ったコザの銭湯のおばあは「台風には勝てないさー」と当たり前のようにつぶやく。島のおじいは「まじむんかじ(悪い風)さー」と表情も変えず言った。
◆幻の大会当日、ようやく弱まった雨の合間にスターズはTシャツを着て海岸に集合。他のチームは誰も来ない(当然ですが)ので、不戦勝だ。ついに舟にさわる事すらないまま、幻の優勝写真を撮って今年のスターズは幕を降ろした。あきさみよー!!(長野亮之介)
★編注:「あきさみよー!」は、「驚いた!」の意味だそうです。
■この夏も、宮城県南三陸町志津川の中瀬町を訪れた。震災後の夏から始めた仮設住宅の子どもたちとのお泊まり会はもう10回を越えたが、子どもたちは成長しているものの人懐こさは変わらず、本当にかわいい。町の中は工事のため道が変わり、道路脇が盛り土されていて、車で走っていても周りの景色が見えにくい。津波で被害に遭った戸倉小学校はようやく再建され、この10月から子どもたちが通えるようになるという。町も人の暮らしも、少しずつ変化している。地平線会議でも報告していただいた中瀬町行政区区長の佐藤徳郎さんに、近況をお話しいただいた。(新垣亜美)
■明日(8月11日)で被災から4年5か月。決して短いとは言えない期間が過ぎたが、復興の進み具合は思わしくない。ここ志津川の高台移転計画では、旧市街地の町民の多くが、新しく開発される東、西、中央の3つの地区に行くことになった。私たち中瀬町行政区の人々が移り住む西地区は志津川高校の裏山を削って整地され、災害公営住宅が62戸、一戸建てが48戸建てられる。そのうち中瀬町の住人は約半数で、あと半数は他の地区からの入居だ。津波を逃れて残った周囲の住宅数軒を合わせ、一つの新しい地区が生まれることになる。一戸建て希望者がもらえる区画の広さは80haから120ha。我が家は震災前、約300haの土地があったが、狭くなるのは仕方無い。区画の抽選は近々行なわれる。
◆一戸建て用地は造成中で、引き渡しは27年11月に18戸、残り30戸は28年12月になる。そこから自力再建で家を建てるとなると、29年度内に移転できれば早い方だろう。自分も来年で65歳になり、金融機関からの融資が受けられなくなる。幸いにも長男が家業の農業を継いでいるので、融資を受けられる状態ではある。
◆町の様子も変わり続けている。町の中央を流れる八幡川の左岸は商業地域になる計画で着実に復興が進んでいるが、右岸は依然として町の方針すら出せていない。右岸は24ヘクタールの災害復興公園を作る構想だったが1年前に見直され、公園の面積は当初の計画の4分の1になった。残り4分の3の地区は未だに用途が決まっておらず、仮埋め立てをしている状態だ。
◆国が方針を出すのが遅いので町が振り回されている。JRは20日前に気仙沼線の廃線を決定した。あまりにも判断が遅すぎるのではないか。それによって町の中央に駅を持って行く計画が頓挫し、町の復興計画も見直されている。また、志津川の海には高さ8.7mの防潮堤の建設が予定されており、旧市街地の埋め立てはおおよそ10mにもなる。着々と盛土されているが、正直そこまで必要かと思う。今は町から海がほとんど見えず、少し高台へ行くと水平線がかろうじて見えるだけだ。
◆自分が行政区の区長となって、来年で10年目が終わる。高台移転はあと2年は経たないと終わらないので、高齢者がそれまで元気でいられるかが一番気にかかっている。自分の仕事である農業は、被災した農地の基盤整備がやっと7月から本格的にはじまった。ただ全ての工事が遅れているため、来年の3月までの工期だが半年の遅れは覚悟している。8月までにはビニールハウスが復興予算で建てられるので、そうすればようやく収入の目処がつき、住宅の事や今後の生活の見通しがつくだろう。被災から何年経過したら、以前のような生活に戻れるのだろうか。(南三陸町 中瀬町行政区区長 佐藤徳郎)
■7月12日、女の子を出産した。5歳1か月の娘、2歳7か月の息子に続き3人目となるが、3回の妊娠・出産のうち、今回が一番きつかったように思う。お産自体はあっという間の安産だったが、お産を迎えるまでは不安や恐怖心との闘いの日々だったのだ。
◆妊娠9か月の時、上の子二人を乗せた自転車で事故を起こした。交差点の真ん中で自動車と接触し、転倒。助けてくれた方々を前に、恐怖と安堵、自責の念で近所の道路上で号泣してしまった。胎動は感じていたものの、お腹の子が心配で夜は眠れず、翌朝に病院で赤ちゃんの無事を確認しようやく安心した。
◆翌週の妊婦健診では「お産が進み始めている」と言われた。正常な進行度合いとのことだったが、産まれていい時期まで1週間足りなかった。早産になってしまうかも?と、極度に心配になった。その週の予定は全てキャンセルし自宅安静と決め、「まだ産まれないで」と心の中で念じながら落ち着かない日々を過ごした。
◆不安な一週間を越え、いつ産まれても問題ない時期に入った。今度は「いつ陣痛が来るか」のソワソワとの戦いが始まった。上の子二人といながら、夫が不在という状況下で陣痛が来たらはたして自分は冷静に対処できるのか。経産婦なので陣痛が来たらすぐに産まれてしまうかもしれない。いくら準備をしても安心できず、情緒不安定になった。
◆一週間後、お腹も心ももう限界、という日曜日の朝、家族皆が目覚める頃に、陣痛は少しずつ始まった。赤ちゃんがこちらの状況を慮ってくれたのでは、というくらいベストなタイミングだった。産道を頭が通過する時はお尻に猿ぐつわがはまっているような痛さだったが、陣痛開始から二時間余りで産声を聞いた。
◆もともと子どもは苦手だった。決して円満とは言えない家庭(親にも色々事情はあっただろうし、両親は私と姉を一生懸命育ててくれたけれども)で育った私は結婚自体に嫌悪感と諦めがあった。円満な家庭で育たないと円満な家庭を作れない、というコンプレックスもあり、子供を持つなど私の人生の選択肢には皆無だった。
◆新卒で入社した会社では若手にも責任ある仕事を任せてくれ、やりがいがあってのめりこんだ。月に数回、海外出張に行ったり、仕事で遅くなった日はヘロヘロになってタクシーで帰宅したり、仕事中心に生活が回る日々で結婚には関心がなかった。結婚してみようか、と思う相手には会社で出会った。結婚したのち、子どもも一人くらいは産んでみるかな、と考えるようになった。
◆一人産んでみると、発狂するくらい大変な日々の方が多いのに、二人目、三人目を望むようになった。私の場合、子どもという制御不能な存在に振り回されることに人生の醍醐味を感じてしまったのだと思う。子どもが単にかわいいだけの存在だったらきっとここまで魅力を感じないだろう。
◆かくして我が家に新しい一員が加わった。東京のはずれの小さな核家族。夫の労力と公の支援制度、文明の利器やネット通販等を総動員し、なんとか、産後4週間をしのいだ。来年4月には私も仕事に復帰する予定だ。経済的な厳しさ、働く間預ける場所がない、近くに頼れる親がいない、家の部屋数が足りない、会社に子育て社員を支援する基盤が無い等、新たに子を持つことでぶちあたる壁はいくらあるだろう。それがなんだよ、と私はいつもひそかに心の中で思っている。
◆くじけることもあるし、越えられない壁もあるけれど、自分自身がその不便さや不都合と少しずつ格闘していくことで、ちょっとでも道ができていけば良いと思う。(今回も恒例の安産祈願エモカレー&エモ料理に感謝。三羽宏子)
■広島〜長崎間を走る「ピースラン」を走りに行ってきます。広島を8日(土)に出発し、長崎には12日(水)に到着予定。原爆被災地を走り繋ぐピースランはずっと走りたいと思っていましたが、震災後、原発被災地の福島県ランナーとして、走らなければとの思いを一層強くしました。距離は約420km。5人あるいは10人でリレー式に走るのが普通で、広島が被災した6日にスタートし、長崎に原爆が落ちた9日まで走るのです。もちろんソロで走りきるランナーもいて、私もその1人です。今年は距離以上に暑さとの戦いになると思いますが、気持ちを込めて走ってきます。(8月7日)
◆江本さん、今、門司港です。予定通り昨日8日広島を出発しましたが、猛烈な暑さに苦戦しています。昨日は徳山まで(約90km)を走ったのですが、今日は大事をとり、50キロほど走ったところで途中電車で移動しました。明日は博多まで約80kmの行程です。メチャクチャな暑さで水分補給が生命線、日に20本のボトルを飲みながらのランニングです。(8月9日)
◆博多まで来ました。今日も強烈な暑さで体が参ってしまい、60km過ぎでバスに乗りました。バス停のベンチで横になって休んでいたら、そのまま1時間も寝てしまい、起きた時には足がつり、指先に痺れを感じたため、無理しませんでした。明日は佐賀県の肥前鹿島という所まで80kmの予定なのですが、作戦変更で夜中に出発し、日差しが強くなる前に距離を稼ごうと思います。今日はサウナに泊まっています。ボトルは今日も10本以上飲みました。胡麻塩の小瓶を持って走っているんですが、頻繁に塩分補給もするのて半分ぐらいはすぐなくなってしまいます。(8月10日)
◆江本さん、15時半に佐賀県の肥前鹿島に到着しました。夜中の2時半に出発し、前半50kmは走り、後半日差しが強くなってからの30kmは歩きでした。もうバテバテです……。今日もボトル15、6本の水を飲みました。給油スタンドで日に2、3回水をぶっかけてもらうのですが、長崎まで、と言うと呆れられています。好きなビールもほしくなく、ただ水ばかり飲んでいます。明日あと70キロ走れば、長崎着なのですが、走れきれそうもないので、途中から電車で行くか考えます。長崎には13日まで滞在し、14日の金曜日に空路羽田経由福島に戻ります。(8月11日)
◆江本さん、今朝は台風並みの嵐となったため、電車で長崎まで行くことにしました。今回はあまりにキツい走りとなったので、気持ち的にはホッとしています。現在大雨で諫早駅で電車止まってます。(8月12日午前10時 渡辺哲)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2,000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。当方のミスで万一漏れがあった場合は、必ず江本宛てお知らせください。アドレスは最終ページにあります。
高橋千鶴子/藤原謙二(5000円 老活に刺激を感謝 2年分とカンパ)/内藤智子(10000円 5年分)/石原卓也/山本豊人/鰐淵渉/加納麻紀子
最終ページで紹介しているように、今月の地平線報告会は、大地震で壊滅的な被害を受けたネパール・ランタン谷の村人たちを支援する貞兼綾子さんの現地報告がテーマです。貞兼さんは、自分の家族とみなしている村人たちの支援策として家畜のゾモを届ける目的で「ゾモファンド」を創設しました。そして、ランタン谷の人々を思うその心に動かされた私たちは貞兼さんとランタンの人々をを支援するため、「ゾモTシャツ」を考えました。
ゾモ。ネパールの山間地を訪れた人ならお馴染みのヤクと牛の混血種です。雄はゾ。雌であるゾモは乳量が豊かで良質のチーズを産み出す源となります。
シャツの絵は長野亮之介画伯に、デザインは、田中明美さん(「チベットと日本の百年」などチベット関連のイベントをやる時の仲間です)にお願いしました。そして、Tシャツは大槌町の支援のために長野のボランティアの皆さんがつくった「鮭Tシャツ」と同じTシャツ屋さん、美廣社の鶴田さんに頼んでいます。
目的は、ランタン谷の皆さんの支援ですが、あくまで鮭Tと同じく「着たくなるシャツ」を目指しています。その試作品がつい先日出来上がり、今、色合い、包装の方法など最後の調整をしているところです。
そして今月28日の報告会で、そのTシャツを販売開始します。
どうか、皆さん、ゾモTシャツを買ってください! 1着2000円、そのうち半分の1000円を「ゾモファンド」に贈ります。当面は100着しか作りません。反響次第で増やしていきたいのですが、追加分はお待たせするかもしれません。
このTシャツ支援のために集まった有志で「ゾモ普及協会」(代表:江本嘉伸)を結成しました。ウェブサイトは、http://dzomo.org このサイトでも8月の報告会後に注文受付を始める予定です。
なかなかおしゃれな着心地です。ゾモTシャツを着て、ランタン谷のゾモを1頭でも増やす試みに、なにとぞご協力ください。(江本嘉伸)
■ランタン谷に初めて行ったのは、25年も前のことです。ランタン谷は、荒涼としたエベレスト街道や、段々畑の連なるアンナプルナ方面のトレッキングとはまた違い、前半は緑の深い森の中や渓谷沿いを歩く道、後半は深い谷の奥に見え隠れする白い雪山や見事な氷河を眺められるバラエティに富んだ景色が楽しめるルート。ここは治安がよく、4月のシャクナゲ、8月の高山植物で知られ、まさに桃源郷というところでした。
◆私はまず「世界で一番美しいと言われる谷」というキャッチフレーズに魅かれたのですが、行ってみてここが本当に好きになってしまいました。その後ネパールを扱う旅行会社に働くようになってからも、ツアーを作って何度かお客様を連れて訪れました。
◆ヒマラヤの景色、人々の暮らし、咲き乱れる花々、なども魅力ですが、ランタン谷トレッキングで必ず楽しみにしていた所がありました。谷の奥、標高4000m近くのキャンジンゴンパにあるチーズ工場です。確かヤクの乳が原料で、棚にはたくさんの大きな黄色いチーズが貯蔵、熟成されていて、頼めば量り売りをしてもらえました。荷物になるのにもかかわらずザックに詰めて大事に持ち帰ったものです。今でも私はあのチーズの濃厚で素朴な味や香りが忘れられません。ああ、またあのチーズを食べたい!
◆高所にある小さなヒマラヤの村キャンジンでチーズ工場を運営するのは、大変なことだったと思います。日本のNGOがランタン谷で活動しているということは看板などで知ってはいましたが、地平線会議に縁のある方だったとは、恥ずかしながら今回の大地震があるまで知りませんでした。
◆ネパールが未曾有の大地震に見舞われたとラジオで聞いた時、私は混乱し、沖縄の地で情報を共有する人もいなくてどうしたらいいかわかりませんでした。電話もつながらず現地の情報もわからず、心配でしょうがない日々が続きました。職場のパソコンを通じてやっと現地の情報を得、知人たちの無事を確認することができましたがインターネットで入ってくる壊滅状態の町の様子に愕然としました。そして、なんとランタン谷が崩壊し埋まってしまったらしいという情報。信じられませんでした。神様は罰を当てる人を間違えている、と思いました。
◆ランタンプランに、旦那と話し合ってヤギ一頭分の募金をしました。こんなことしかできないけど、前を向いてがんばってほしいと思います。あれから3か月余りがたち、現地の友人からのメールは暗くありません。ネパール人はえらいなあ、へこたれない民族なんだなあと思います。10月からは旅行のベストシーズンが始まります。できるだけ多くの人がネパールに観光やトレッキングに行ってほしいと思います。それがきっと復興につながるだろうから。いつか必ずまたランタン谷の人々が村や寺院を復興しあの地に暮らせることを願っています。これからも応援しています。貞兼さん、悲しみに負けずがんばってください。(外間晴美 浜比嘉島)
地平線会議は毎月ほぼ第4金曜日に報告会を新宿区スポーツセンターという施設で開いていますが、ことし11月から2016年3月までこのセンターが耐震補強工事に入るため、全館休館となることがわかりました。また、10月については第4金曜日の23日の予約は取れなかったため、第5金曜日の30日に地平線報告会を行います。
11月22日には、御茶ノ水の明治大学ホールで植村直己冒険館主催の「日本冒険フォーラム」の開催が決まっており、その際は4年前と同じく地平線会議が全面協力するつもりです(前号で予告したように今回の冒険フォーラムは「極地」をテーマとします)。このフォーラムの直後の11月から4か月、地平線報告会の会場は目下は未定というわけです。
新宿区とその周辺で候補会場を探していますが、万一、会場について良きアドバイスあれば、教えてください。なお、この期間は「第4金曜日」にこだわる必要はない、特別な期間だからこそ、土日でも他の平日でもいいのでは、と考えています。かなり流動的になる、と思うのでよろしくご理解ください。
1979年9月に第一回地平線報告会を開いたのは、港区赤坂8丁目のアジア会館でした。アジア会館が改築されたのをきっかけに新宿区内に移り、牛込箪笥区民センター、榎町地域センター、そしていまの新宿区スポーツセンター、とさすらってきました。会場は決まり次第、早めにお伝えします。(E)
■今年も青森のねぶた祭り(8月2日〜7日)に行ってきました。途中4日の夜勤が休めなかったので、東京まで新幹線で往復出勤。働いても大赤字だけれど、翌5日のねぶた運行に間に合ったからいいんだって思えてしまうくらい、好きが高じております。
◆期間中はキャンプ場にいるのですが、なにより跳ねるのが楽しくって。へんな脳内物質が出ているのか、今年はお酒もあんまり必要としない異常事態で、旅人たちの集まるキャンプ場のよさも薄れて感じがちだったのだけれど。夜中に家族連れキャンパーのお子さんが熱中症になり、念のため救急車を呼ぶ事態になったとき、みんな心配して動くし、ぶじを知って喜ぶけれど、「小さな子にキャンプなんかさせるから」といった責めの言葉を誰からも聞かなかった。それでなんか、やっぱりキャンプ場に集まる人たちはいいなって思いました。
◆そして、跳人(はねと)の衣装を着さえすれば誰でも参加可能な、ねぶた祭り! 地元の「跳人バカ」たちが集まる「私たちのねぶた」のねぶたで初めて跳ねてから、今年でたぶん7年目になります。最初に会った時は小学生になったばかりで小さかった男の子は、高校1年生に。いつもお父さんと一緒だったのに今年は友だちを引き連れて参加して、180センチの身長で力強く、高く跳ねている。その成長っぷりを見て、ほろりときちゃいました(そして跳ね負けるから、口惜しい)。
◆毎年この期間だけ集まって跳ね合う、地元の人たちの顔を見ると、ほんとうに嬉しくって「帰ってきたなー」って思うし、ねぶたが終わると「ああ、夏が終わった」って寂しくなります。まあ、まだ長い長い、祭りや盆踊りざんまいの、楽しい残暑がつづくのだけれど……。(遊んでばかりの 加藤千晶)
■小野和哉・かとうちあき『今日も盆踊り』(タバブックス 1600円+)発汗、いや発刊!。盆踊りもとにかく踊ってばかり。いろいろ手を出して生きている野宿野郎、「盆踊ラー」という人種の仲間入りもしていた。(E)
■今年の夏のヨーロッパアルプスは異常に暑いようですね。今はフランスのシャモニにいるのですが、気温が高すぎてモンブラン登山の拠点となるグーテ小屋が落石で危ないので閉めるだか何だかで、それもその日にならないとわからないという、いかにもフランスらしい情報で、今日からモンブラン登山に出発なのに、どうしていいやらまったく困ったものです。
◆さて、フランスはともかく、日本の夏といえばやっぱり祭り。祭りなくして夏は始まりません。地平線会議の仲間に野宿系の連中がいますが、毎年8月初旬の青森ねぶたに参戦するって知ってましたか? もう10年以上続いているのです。跳人(はねと)って役割で参加します。なにゆえに地平線と「ねぶた」なのか? 地平線といえば旅と冒険のネットワーク。実は青森ねぶたには日本全国から自転車やバイクの旅人が集まるのです。ついでに野宿系の連中も。最近はちらほら外国人の旅人も見かけるので、そのうち世界の旅人が集まるようになるかもです。
◆今年のねぶたを報告しておきましょう。多くのライダー、チャリダーの参加する「青森県板金組合」は勝負に出ました。24台ある大型ねぶたの大賞を決める三、四日目の審査日は、いつになく掛け声の調和がとれてました。ラッセラーラッセラーってやつです。これがきれいにそろうと快感ですね。超盛り上がります。大賞は逃したものの第四位入賞、なかなか悪くない結果です。
◆祭りをぶち壊すためにこれまた全国から集結していたヤクザまがいの「カラス」は、昨年あたりからほとんどいません。笛を吹いてる高校生レベルがいましたが、気合の入った怖いライダー、チャリダーのお兄さんたちを前にタジタジでかわいいもんでした。かつて本職ヤクザのカラスにビンで頭をかち割られた時代に比べると、寂しいくらいです。
◆また、今年はチャリダーが異常に多く、60台弱でのキャンプ場から会場へのコンボイ走行なり、その半数近くが日本一周中の個人チャリダーで、ネットでつながってここに集結している。冒険もスタイルが変わってきた。
◆しかし今年は地平線の連中から新規の参加者がいなかったですね。夏が近づくといつもぼくはねぶた参加者を地平線報告会の時にリクルートするのですけれど。キャンプ場では祭りの6日間の間、毎晩宴会なのですが、たくさんいた方が楽しいじゃないですか。まだ来たことがない人も来たことがある人も、来年は行くつもりで覚悟しておきましょう。ねぶたが始まらないと夏は始まらない。ねぶたが終わると夏は終わる。そんな熱い夏を来年はぜひ! 参加希望者は安東まで。ラッセラー! (8月11日 シャモニにて。跳人チャリダーの安東浩正より)
■7月12日、日本ジャーナリスト会議(JCJ)から電話があり、拙著「悪夢の超特急 リニア中央新幹線」が第58回JCJ賞に選出されたと知った。よし。受賞できるかなと密かに思い抱いていただけにホッとした。マスコミどころかフリージャーナリストですら取材しない超巨大ネタに一人取り組んできたのは、我ながらよく続いていると振り返っている。
◆私は生来の三日坊主で、モノゴトが長く続いたためしがない。飽きるのだ。いろいろなことをやりたいため、一つに焦点が定まらない。学校のクラブ活動も1年以上続いたことがない。同じ理由で、取材活動にしたって、ある分野に特化して取り組んだことは数えるほどしかない。リニアはその数少ない一つだ。
◆生まれて初めて長く続いたのは、恥ずかしながら受験勉強。大学に入ったらアフリカに行くゾと決めていたため、つまりお金を貯めるため、学費の安い国立大学しか選択肢がなく、とにかく勉強した。次に続いたのが、そのアフリカ行きのため、大学入学後の2年間は学業以外のほとんどすべてをバイトに充てたことだ。でもそんな経験は地平線会議の面々は誰でもしているわけで、自慢にもならない。
◆その地平線会議に関わったのは34年前。アフリカで出会った大学生で同い年のU君の地平線報告会に参加したのが最初だった。当時の地平線会議には、いったい何の仕事をしているか分らない年上の人たちがウジャウジャいて、冒険や探検といった怪しい世界でメシを食っている現実は別世界だった。
◆報告会での「xx横断」「xx巡り」「xx滞在」などの個々の報告は文句なく面白かった。ところが、10年、20年と通い続けると、個々の事例に「スゲ!」と感心するよりも、それに関わる一人ひとりが、30代になっても40代になっても50代になっても、還暦を過ぎても、体力が落ちても、制約が多くなっても、とにかく「続けている」ことに共感を覚えるようになった。
◆34年前は30代だった賀曽利さんは、大病に倒れても、70歳近い今もバイクで「行くゾー(中)」と地球を走り、丸山さんはパキスタンの少数民族と関わり続け、白根さんはカーニバル評論の第一人者となり、河田さんは重度障がいをもつ娘さんを育てながら島旅を続け、江本さんは地平線会議そのものを続けている。最近の新聞記事では、リヤカーの永瀬さんがアメリカをリヤカー旅行すると知った。誰も自身の人生から引退しない。私が地平線会議で学んだのは、「どんな真面目なことでも、バカなことでも、とにかく続ける」ことの強さだ。続ければ必ず力になる。
◆もちろん、10代、20代の頃は理屈抜きでいろいろなことをしていい。そのなかでやりたい何かが見えてくる。私にしたって、20代は、サハラやオーストラリアの砂漠をバイクで走り、NPOの仕事でアフリカのソマリアで2年間過ごし、オーストラリアを徒歩横断するなど、気の向くままに違うことに取り組んでいたが、30歳で、マレーシア・ボルネオ島の熱帯林に住む先住民族との出会いには「これだ」と感じた。
◆森に命を委ねるその豊かな生活。波状攻撃のようにやってくる「開発」。逮捕されてもそれに抗う人々。果たして年に2度、3度と訪れるうちに、信頼関係が先住民族との間に生まれ、そこに詳しい人間になることで、現地案内、講演、執筆等々からの収入で生きていけると確信した。だが以前、報告会でも語ったが、1993年のいわれなき現地での逮捕と域外退去を機に、しばらくは現地行きを控えざるを得なかった。
◆心を傾けていたものが失われた失望感。そして正直な話、そんなときに自分のやりたいことを続けている地平線の面々を見ると、焦燥感を覚えた。同時に「取り戻さねば」との思いも強くなった。そして40歳になった99年。二つの出来事があった。春、逮捕と拘留の記憶に怯えながら、私は熱帯林に戻った。果たしてそれは、互いを忘れていなかった人たちとの再会を重ねる人生最高の旅となる。よかった、また続けられる。
◆そしてもう一つ。同じ年に始めた国内取材こそがリニア中央新幹線だった。これも熱帯林同様、とても理不尽な環境破壊(水枯れや残土放置など)や地域分断が起こるのに、マスコミがちっとも報道しない姿勢にカチンと来ていた。同時に、リニア通過予定地を訪ねると、日本の景色の美しさを再確認すると同時に、それぞれの地域で、その景色と地域を守りたいと闘う人々と知り合うことは楽しいことだった。
◆飽きっぽい私でもこの取材は続いている。リニアの取材を続けることは、財布が軽くなることを意味する。JR東海がほぼすべてのメディアで大広告主である以上、記事の掲載が難しいからだ。それでも続けた。そして、その取材記録をまとめた単行本も、3000部を印刷し、来週には書店に並ぶぞとのタイミングで、出版社の上部団体である某大学の指示で突然の出版停止。3000部は陽の目を見ることなく断裁された。
◆再出版先を見つけるのに5カ月かかり、やっと去年9月に出版が決まった。そういう難産の本だったので、今回のJCJ賞は嬉しい。続けてみるものだ。自分の好きなことをやるのは大賛成。だがそれが本当に価値をもつのは「続ける」場合でしかない。と私は思う。だから、本のサインを頼まれると最近は「継続は力」と書いている。それは、リニアの品川・名古屋開通の2027年までは取材を続けろという自分への檄だ。
◆とはいえ、名古屋から先のリニアの大阪開通が2045年って、取材をしようにもオレ生きてんかい? ですね。(樫田秀樹 地平線通信元編集長)
■7月末、珍しい客がやってきた。外間晴美さん。法事で沖縄・浜比嘉島から何年ぶりかの上京だ。ことし島で彼女と会ってきた森井祐介さんはじめ何人かの琉球愛好人士をまじえ、持ち寄りのささやかな歓迎会を我が家でやった。
◆が、何より素晴らしかったのは、晴美さん手作りのヤギのチーズだった。丸く、ひらべったく広げたチーズは、実に美しく、新鮮で美味しかった。浜比嘉島で「美ら海ファーム」を営んでいる外間昇・晴美さん夫妻は、現在40頭のヤギ、15羽のアヒル、そして1頭の与那国馬を飼っている。いろいろ工夫しながら暮らしているお二人、昨年秋、チーズ作りを思い立ったそうだ。
◆ランタン谷をよく知り、そこのチーズの味を知る晴美さんだからこそできる味なのだろう。失礼ながらつましい暮らしの中からランタン・プランのためにヤギ1頭分を寄付した外間さん夫妻の心をありがたい、と思う。そして、晴美さんたちが浜比嘉島にいる、という事実が沖縄という大きな存在を常に身近に感じさせてくれることに、感謝する。
◆歌手、菅原やすのりさんの訃報に驚愕。植村直己さんが健在の時、九段会館でのコンサートでお会いしたのが随分昔のことだ。8月8日を「地球歌の日」としてあちこちで歌い上げてきた。そんな縁で地平線通信もずっと送り続けていたのに、実は8月4日に亡くなっていたとは……。合掌。
◆加藤大吾さん、今日12日、家族で車ごとフェリーで北海道へ。チミケップ湖という静かな場所でI週間、家族だけの夏休みを過ごす、という。彼の生き方、今後も静かに広がってゆく気がする。(江本嘉伸)
ランタンの希望の灯
「なんかねえ、地球創生期みたいな灰色一色になっちゃって、涙が止まらなかった」去る4月25日のネパール大地震で壊滅状態になったランタン村の現況をチベット学者の貞兼綾子さんはこう表現します。 ヒマラヤ・トレッキングの基地として知られ、世界で一番美しい谷とよばれたランタン谷のランタン村は、チベット系住民が農・牧畜業と観光で生計を立てていました。地震で約30%の住民が亡くなり、生き延びた約300名はカトマンズで集団避難生活をしています。 「亡くなったリーダーに代わり、30代の若者達が復興委員会を立ちあげてシステマチックに活動しているのが希望なの」と綾子さん。まずは村の移転先が重要ですが、地形的に選択肢が少なく、難行しています。彼等の動きを見守りつつ支援したい貞兼さんは、「ゾモファンド」を立ちあげました。 今月は1ヶ月あまりの現地視察を終えて帰国した貞兼さんに、ランタン村の現状と未来について話して頂きます。 |
地平線通信 436号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶 福田晴子
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2015年8月12日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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