2015年6月の地平線通信

6月の地平線通信・434号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

6月10日。都心は、移動性高気圧に覆われて朝から晴れ渡り、気温は26℃。さらに上昇気味だが、猛暑日とまではならないだろう。真夏に向かうこれからの日々、麦丸の散歩は、空気のひんやり感が残る朝のうちに済ませなければならない。それにしても、9才になった麦丸、真っ白が売りだったのに、このところ耳、尾、背中などあちこちが薄茶色に濃くなってきた。おいおい、今更変身しなくてもいいよ。こんなこともあるのだね。

◆おととい8日、9日と富山県立山で国立登山研修所の専門調査委員会というのがあって、出かけた。北陸新幹線の「かがやき」という特急に初めて乗って驚いた。この地平線通信の編集の真っ只中なのでパソコン持参だったが、ついに開くことはなかった。何というか、止まらな過ぎなのである。大宮の次に止まるのは、なんと長野、その次はもう富山なのだ。ほとんど2時間で富山駅に着いてしまった。そんなことが北陸に向かう列車であっていいものか、とこれだけは私のきわめて個人的な体験から思う。

◆「登ったり、降ったりのメモ」とタイトル書きしたふるい大学ノートがある。書き出しは「1959年7月17日」と聞いて引かないでほしい。そう、私が初めて北アルプスで20日間の長期合宿に参加した時の「山日記」なのである。当時18才。ひょろひょろしていてお世辞にも山男の風格はない。本格的な山はこれが初めてだった。

◆日記の最初の一行は、こう始まる。計量表示に注目。「AM10時 ザックを背負って学校へ。個人装備は米(5升 約2貫)も入れて5貫ちょっと。野菜仕入れたり、石油買いに行ったり。パッキング。大きな圧力ガマやザイルや野菜や肉やお菓子なんかを超特大のリュックに詰め込む。膨れてゆくリュックをはらはらしながら見ている。12貫とちょっと」ほぼ当時の私の体重だ。

◆剣岳に定着合宿したあと、薬師岳、黒部五郎岳を超えて槍穂まで、バテバテの20日間。そこで体験したことは、半世紀をはるかに過ぎたいまも鮮明に体が覚えているが、この通信で今日書くべきは、富山に至る列車の話だ。〈「21時15分上野発の「急行北陸」。うつらうつら スースー ゴトンゴトン……。何度も眼をあけてまた閉じて知らない駅に止まって走る。空が白んでくると、もう朝。日本海が見えた。静かな冷たい海。〉そんなふうにして、翌7月18日、午前6時50分、富山駅に着いたのだった。ほぼ9時間あまり、急行列車にいたことになる。北陸というのは、そういうアプローチを経てこその場であった。それが、なんと2時間ほどで富山駅なのだ。

◆ここで富山地鉄に乗り換えるのだが、終点の立山までは今回も実にのどかにゆっくり進んだ。20もの小さな無人駅が続くのだから仕方ないが、今年から新幹線の超速と富山地鉄のノロノロ電車の対比は、こんなにもはっきりしたわけだ。これは、売り物になるかも。とにかくほぼ1時間がかりで、立山駅に着いた。そこでは間もなく創立50周年を迎える国立登山研修所の将来などについて話し合われたのだが、私は3.11以後、登山という行為には人のいのちを守る、鍛える思想が一層求められている、という持論を話させてもらった。

◆口永良部島が噴火した5月29日午後、四ツ谷駅に近い信号わきで立っているといきなり「わっ!!」と後ろから両肩を掴まれ、飛び上がった。大学教授であるはずの関野吉晴がニカニカしながら立っていた。ああ、彼も……。近くの試写会場で「水と風と生きものと 中村桂子 生命誌を紡ぐ」というドキュメンタリー映画の試写会が間もなく始まる。生命誌学者、中村桂子氏の対談相手としてこの中で縄文号の航海をやりとげた関野も出演しているのだ。

◆2時間あまりの長い映画の中には多彩な才能が次々に登場した。中でも、実際のチェロ奏者に演奏してもらいながら、宮澤賢治の「セロ弾きのゴーシュ」を中村さんが朗読するパートは面白かった。3.11以後、中村さんは「人間は生き物であり、自然の中にあることこそが原点」という考えを強く持ち続けているようだ。

◆6月4日は、長野市で梅棹忠夫山と探検文学賞の授賞式があり、受賞者である中村晢さんと話す機会があった。選考経緯を私が述べる役割だったが、その中で中村さんが受賞作『天、共に在り』の最後の部分で賢治の「注文の多い料理店」を引用して現代の日本の行き方に強烈な疑問を呈していることへの共感を話させてもらった。

◆あちこち飛んで申し訳ない。5月の深夜、NHKスペシャルで「見えず聞かずとも夫婦ふたりの里山暮らし」というドキュメンタリーに感銘を受けた。丹後の山里でつましく暮らす60代の夫婦。目も耳も不自由な妻のため夫は触手話を学び、昼間は百姓仕事にいそしむ。若い時から宮澤賢治とトルストイを読みふけったという夫は「農業の大切さを2人から学んだ」という。宮澤賢治という人間力に多くの人が動かされている時代である。(江本嘉伸


先月の報告会から

崩壊の素顔

━━ネパール大地震緊急報告━━

安東浩正 貞兼綾子

2015年5月22日  榎町地域センター

■4月25日にネパールで発生した大地震。日本のメディアは連日、カトマンズにある歴史的建造物の倒壊や救助された人々の姿が映し出されていた。「メディアと実際の違いを伝えたい」。現地から帰国したばかりの安東さんの報告が始まった。安東さんは「地震のときの話は、通信に書きましたが」と前置きして、Googleの衛星写真を活用しながら、当時の行動を説明した。

◆地震当時、マナスルを一周するトレッキングルートにいた。全18日間の予定で、最終目的地タル村まで歩いてあと1時間だった。地震の揺れは1〜2分ほど続いたが、最初は揺れがわからなかった。地震に気付き、頭上にある崖の崩落が心配になり、落石の影響が少ない場所に避難した。ヒマラヤの高峰に挟まれた2000mほどの深い谷間だったからだ。安東さんはこのトレッキングツアーの最終地点をタル村に設定した。それは、この村からチベット文化圏に入る、個人的に好きな土地だったから。同行者をより魅力的な場所に案内したいという、安東さんの思いが表れている。地震を引き金に、ヒマラヤ全体が落石の嵐となり、ダイナマイトを次々と爆発させたような轟音がとどろいた。

◆安東さんが初めてカトマンズを訪れたのは1990年。最初はバックパッカーだったが、山岳部出身の安東さんには物足りなくなり、カトマンズから自転車の旅に切り替えた。厳冬期チベットの自転車による冒険、山と溪谷から出版された書籍『チベットの白き道』はダルバール広場が出発点となっている。25年間、安東さんにとってネパールは居心地のよい国の1つだった。長年通い続けたカトマンズでは迷路のような路地も地図無しで歩いて行ける。同時に、レンガ積みの建物が多いカトマンズが、地震が起きたら大変なことも理解していた。

◆地震発生後、安東さんら一行は小走りでタル村に向かった。タル村は特に被害はなかったが、村の水力発電施設への落石で停電していた。一泊した後、バンディプル、チトワン国立公園を経由し、地震発生から4日目に当初の予定通りカトマンズ入り。「水や食料が不足している」「疫病が流行している」など様々な噂が飛び交っていた。カトマンズに向かう途中、すれ違うバスは、屋根の上まで人でいっぱいだった。田舎に実家がある人はすぐにカトマンズを脱出しようとしたのだ。ネパールのバスは通常時でも屋根の上に乗る事が出来るそうだ。ネパールに行ったら体験してほしい事の1つと、安東さんらしい一言が。

◆緊張の面持ちでカトマンズに到着。意外にも新鮮なフルーツや魚まで売られている状況。安東さんはあっけにとられてしまった。被害状況を確認しようと、カトマンズ盆地を歩いた。まずはタメル地区。外国人旅行客が多いエリアだ。タメルは鉄筋の建物が比較的多いため、ほぼ無事だった。おいしいカツ丼が食べられる「絆」という日本食のお店も無事で、地震から7日目には開店していたという。「絆」のカツ丼は日本で食べるそんじょそこらのカツ丼よりもうまいそうだ。

◆タメルから歩いて1時間弱の場所に、旧王宮のダルバール広場がある。タメルと旧王宮の中間地点にある、迷路のように密集した、庶民の暮らす地域でも崩れた建物は多くなかった。 安東さんが最も好きな場所だったダルバール広場にあるシバ寺院は完全に崩れてなくなってしまっていた。 2〜300年前の古い建物の被害は大きかったが、それでも古い建物の4分の3は残っている印象だ。 カトマンズで一番犠牲がでた建物は水道塔*。1930年頃の建築でレンガを積み上げた塔だ。眺望の良い水道塔には、当時100人ほどのネパール人がいて、倒壊してしまった。

◆地震発生当初、安東さんはカトマンズが壊滅状態にあると想像していた。しかし被害を確認し、この状態ならまだ復興できると感じた。東日本大震災での津波の被害を見てきた立場からすると、そこまで大変な被害とは思えなかったそうだ。カトマンズでは全体の建物の1%全壊、5%半壊して人が住めないという印象だった。

◆地震から5日目、一旦帰国。その翌日、予定していた別のツアーは地震の影響でキャンセルになった。しかし安東さん自身のフライトはキャンセルせず、自分の目で被害の状況を確かめるため再びネパールにもどった。日本から支援に来ている自衛隊もカトマンズでは活動することがあまりないような状態。ネパール全体で約8000人以上が亡くなったと言われるが、食料やテントが不足しているのはカトマンズじゃないという事がわかった。それはどこなのか?

◆特に被害がひどかったところは3か所。1つ目はシンドパルチョーク地区。死者2〜3000人。2つ目はランタンリルンの麓にあるランタン村で死者約170人。土砂崩れにより村全体が壊滅してしまった。そして3つ目は震源地に近いゴルカ郡にあるバルパックという村。そこでも100人以上亡くなった。

◆ネパールは最貧国と言われている。観光が主な産業だ。実際とは異なる報道による、風評被害が心配なのだ。彼らが自立するためには観光産業を衰えさせないことが大切だと安東さんは力説した。それは一緒に働くネパールの友人への思いなのだろうと感じた。休憩に入り、安東さんがネパールから買ってきたクッキーが会場に振る舞われた。

◆後半の部が始まった。貞兼さんは、報告会の前日21日にネパールに旅立ったため、落合大祐さんが撮ったビデオでの登場となった。貞兼さんとランタン村との繋がりから。貞兼さんがランタンリルンの名を知ったのは、お母さんが持っていた雑誌からだ。ランタンリルンへの登攀が解禁されたことがきっかけとなりランタン村へのトレッキングルートが拓かれた。その雑誌にはランタンリルンの写真が掲載されていて、「すごくきれいな写真だった」。1961年か64年の大阪市立大学山岳部が遠征のときに撮影した写真だった。

◆その後、貞兼さんは1975年に初めてランタン村を訪れた。カトマンズからトリスリまでジープで移動して、そこから1週間歩いてようやくランタン村に到着した。その時は「ただ友だちの家にお訪ねするという感じ」で、 直前にチベット人のキャンプに長くいたこともあり、特別な印象はなかった。当時は外国の文化が入っておらず、彼女らは民族衣装であるロングドレスの裾で鼻水を拭き、そのままお皿を拭いたりと、不衛生という印象が残っている。ランタン村への旅行者が増えるに従って、そういった習慣も消えていったそうだ。

◆ランタン村出身の青年の、「ツーリズムというものが人をダメにしてしまう」という言葉に、貞兼さんは目から鱗の思いだった。それまで心があったものが、お金に変わってしまった。 お金を儲けるために、家畜を手放して、ホテルやロッジを建てる人が増えた。ランタン村の人々が大切にしてきた宗教心や伝統的な年中行事、そして家畜や農業、それがツーリズムによってないがしろにされる、という思い。そして、このままではいけないという思いを、青年は感じていた。

◆ランタン村は標高3500mにあり、人々は3000mから5000mという広いエリアで、家畜と移動し、高地に生息している薬草を採取して、それを売ったお金で生計を立てていた。それが国立公園として多くのトレッカーが集まるようになると、ロッジやガイドなど旅行者相手のビジネスで現金収入を得る人が多くなった。

◆80年代に入ると、ランタン村を訪れるトレッカーは村人の人口の何十倍にも達した。旅行者に食事を提供するため、煮炊きに必要な薪の確保が問題になった。国立公園に指定されると、木の伐採や景観の保護が求められた。彼らは本来、木は伐らず、倒木を薪としていたが、トレッカーの増加により自然に存在する資源の把握が出来なくなっていたようだ。木を守るために、標高の低い場所に村を移動させる計画まで検討された。表面化したエネルギー問題だったが、実験的な沢での発電をきっかけに、電気によるエネルギー対策が進められるようになった。たったの2ワットだったが、電気のある生活に村人達は可能性を感じたのだ。そして1986年にランタン村のエネルギー開発を支援するために貞兼さんはランタンプランを立ち上げた。

◆1975年から続けている人口動態を記録したノートを取り出した。整理し直そうと考えていたという。「今回の地震で亡くなった大勢の人を思うと切なくてさ」と貞兼さん。ランタン村の570人のうち、地震で約170人が亡くなり、約400人が残った。「ランタンリルンの下に、タルナというすごい素敵な場所があって、余生はそこで過ごそうと思っていたのにね」と貞兼さんは寂しそうだった。

◆今回のネパール訪問でミッションと考えていることがある。土砂崩れで壊滅した村を、どこに再建するのか?そして彼らの経済的な立て直しをどう考えるのかを彼らと話し合いたい。彼らの心身の復興と、村の再建活動を長い目で支援していきたい、そして地平線会議のみなさんにもご協力頂けたら、と締めくくった。

◆今月の報告会は、お二人の異なる視点から、ネパール大地震について語られた。双方に共通していたのは、ネパールに住む親しい人々への思いだった。安東さんは最初に旅行者としてネパールを訪れ、自転車による厳冬チベットの冒険やヒマラヤへの起点とした。最近では、ご自身が企画するトレッキングツアー等でも頻繁に通い、現地の信頼している友人たちと一緒に仕事もしている。そして、ネパールは観光が大きな収入源である事を指摘し、復興を支えるためには、観光客を減らしてはいけない、という思いが強い。

◆一方、貞兼さんは40年に渡ってランタン村に通い続け、家族同然に付き合ってきた村の人々がいる。貞兼さんご自身も、今回の地震でランタン村という大切な場所と人々を失ったのだ。親しい人々の復興を、長い目でサポートしたいという思いがある。お二人の語りには、ネパールで生活している親しい人々への思いやりがつまっていた。(山本豊人

*注:1932年のネパール地震で倒壊してその後再建された塔は「ダラハラ塔」または「ビムセムタワー」と呼ばれ、水道塔ではなく見張り塔の役割だったらしい)。

報告者のひとこと

さあ、私とネパールに行こう!!

■ネパール地震から1ヶ月以上たった今、あれだけニュースを騒がせていた話題も、すっかり日本の報道から消え去ってしまった。まあ報道なんてそんなもの。でもね、人々の記憶からすっかり忘れ去られたわけじゃない。これから当分の間、一般の旅行者はネパールに行こうとしないだろう。ぼくの回りでも、行く予定だった人が訪問を取りやめる現実がたくさんある。本人がその気でいても、家族の同意を得られない、新婚旅行の相方が……、などの理由で。

◆大した産業のないネパールにとって、観光客激減は相当なダメージ。なんとか訪問者を呼び戻そうと、ネパール安全アピールの声が現地から聞こえてくる。たとえば私の知る旅行社からのお知らせを直訳しよう。『ネパールに75ある県のうち地震の影響を受けたのは8県のみ。主な幹線道路も空港も被害はない。世界遺産8か所中、過度にダメージを受けたのは2か所のみ。カトマンズでは90%のホテルが安全であるとされ営業している』

◆エベレスト地域のロッジもほとんどが営業中。35あるトレッキングルートで、影響を受けたのは2つのみ。電話、インターネット、ATMなどすべて稼動中。つまりは観光が関与するほとんどの場所は、すでに問題なく旅行できる。にもかかわらず観光客はいない。これじゃあネパールがかわいそう。

◆地平線報告会の後、ぜひネパールに行きたいという方が何人もおられた。そういう言葉が聞けるなら報告した甲斐もある。震災地だからボランティアをしなくちゃとか難しく考えなくても、すばらしい山の景色を楽しんで来ればいい。そして現地で貢献できそうなことを自分で実践したらいい。東北の震災復興とは異次元に違い、素人がボランティアで活躍する場所もないと思う。

◆もともと簡素な建物で、自分たちで作ったものだから、すでに多くの建物は自分たちで直しつつある。深刻なダメージを受けた山奥の村々ももちろんあるが、そこは元々訪問が困難で、それは国連にまかせよう。普通にネパールを旅行することだって、現地人にお仕事を与え、経済復興に貢献する。ただ行きたくても、きっかけがないとなかなか出かけられないようだ。例えば地平線会議は先月に福島を訪問しましたね。そういうきっかけを皆さんがお待ちならば、今年の秋にも私がネパールにご案内しましょう。何をどうしたいかは参加者の意見をまとめて決めましょう。興味のある方は安東浩正まで!  安東浩正


口永良部島最新情報

口永良部島大噴火報告

 自然災害が各地で続いている。鹿児島県の口永良部島では、新岳が爆発的噴火を起こし、全島民が避難する事態となった。避難先の屋久島では、東日本大震災の際、南三陸町で2年近く長期ボランティアとして活動した新垣亜美さんが小学校の先生をしている。被災された人々のことをよく知る新垣さんに、現状の一端と、一般にはあまり知られていない口永良部島のことをリポートしてもらった。(E)

■5月29日(金)午前9時59分、鹿児島県口永良部島の新岳が爆発的噴火を起こした。噴煙が火口から9000m以上の高さまで上がり、火砕流の一部が約2キロ離れた海岸にまで達した。全島に避難指示が出て、島民は着の身着のままで島を離れた。噴火から8日目の6月6日(土)現在、約70名の口永良部島の住人が、ここ屋久島に避難されている。

◆今日6日は屋久島町社会福祉協議会から要請があり、3か所ある避難所の1つである老人ホームに昼食の配膳ボランティアに行って来た。老人ホームには30名が避難されている。通常の入所者もいるので肩身が狭そうだ。食事は、入所者がレクリエーションなどをするホールでとる。近くのスーパーから届いた弁当を机にならべ、デザートのスイカを切り、お茶と味噌汁の用意をする。食事はホームの厨房で用意していると思っていたがそれはできず、味噌汁だけはついでだからと作れるようだ。食事後の洗い物も、スイカを切るのも、ホーム内にある社協の事務所の水道だった。夕食は毎日バスで外食しているとのこと。

◆今日ボランティアで集まったのは私を含めて6名、全員が女性だった。民宿を経営している方や、家族が口永良部島で仕事をしたことがある方、主婦の方。「東日本大震災の時は仕事が忙しくて何もできなかったから、どうしても来たかった」という調理師の女性もいた。意外だったのは、避難所のある宮之浦地区だけでなく島中から集まっていたこと。6人とも今回の件でのボランティアは初めてだったが、いきなりリーダーを決めて動いてくれと言われた。

◆何がどこにあるのかも手順もわからないので、社協の方がつきっきりで教えてくれる。なんで経験者を入れないのかと思ったが、島内に限られているボランティア登録はすでに200名を超えているようで、社協は「登録者に一度は活動の機会を」と気をつかっているようだ。先週の中頃からは、避難されている方のための住宅の掃除が始まっている。

◆住宅は避難所がある宮之浦だけでなく、他の地区にも用意されている(古いものもあり、修理も必要らしい)。住民の意向を聞いて割り当てるようだが、親しい方々と離れて暮らすのは不安だろう。避難期間がどのくらいになるか、島への一時帰島ができるのか。全く先が見えない今は動きようがなく、ただ待つ事しかできない。避難が長引けば生活再建は厳しくなる。家屋や家畜はどうなっているか。「死んでもいいから帰りたい」という方もいるという。

◆私が働く小学校にも、噴火の翌週から口永良部島の子どもと教職員が通いはじめた。職員は「ここにいても何もできない、早く島へ戻りたい」と言う。子ども達はすぐに友達ができ、休み時間に大人数でのドッジボール等を楽しそうにしている。子どもの笑顔を見るとほっとする。ただ事情で転校する子がおり、仕方がないとは言え、急に離ればなれになる事はやはりかわいそうだ。

◆予測はできていた自然災害だった。だからこそ死者もなく避難もスムーズにいったのだろうが、その後の避難生活や生活再建までの道筋までは、なかなか準備が行き届いていなかったのかもしれない。でも、何事も準備なんてしきれない。やはり柔軟な対応力が必要なんだなあ……。

◆噴火当日、私は2年生の算数の授業中だった。10時20分頃、防災無線で避難を呼びかける放送が入った。しかし、噴火の音も振動も無かったし、授業に夢中で放送もあまり聞こえなかった。隣の教室の先生が驚いて呼びに来てくださったので初めて気づいた。津波の避難か?とドキッとしたが、防災無線をよく聞いていると「口永良部島の人はただちに番屋ヶ峰に避難してください」と緊迫した声で繰り返している。噴火と分かり、窓の外を見ると灰色の噴煙が見えた。

◆(この項、6月9日追記)あれからやがて半月。はじめは、あくまで一時的な避難、とらえられていたが、長期化は必至の状況だ。屋久島に公営仮設住宅を建設することが決まり、9日には公営住宅の抽選が行われた。でも、やはり情報提供がうまくされておらず、エラブの方でも今日が抽選日だと知らなかった人がいた。屋久島では夕方の定時放送で、公営住宅用の家電の提供を呼びかけている。牛は屋久島に運んでくる計画が進んでいるようで、少しほっとした。

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■口永良部島は正しくは、熊毛郡屋久島町口永良部(熊毛郡は屋久島町と、種子島の中種子町、南種子町)。人口は約140名、屋久島は1万3000名なので、同じ島でも規模はだいぶ違う。屋久島町は26の集落に分かれており、口永良部島もその1つ。屋久島の運動会や駅伝には、口永良部島チームも参加する。ちなみに私は熊毛郡の教育事務所に登録しているので、種子島や口永良部島勤務になる可能性もある。今年度は口永良部島の金岳小中学校で期限付き教諭の空きがあったので、私が異動するのでは?と、半分冗談で噂になっていた。

◆口永良部島は新しい火山体でできた東部と古い火山体でできた西部からなる、長径12キロ、最大幅5キロの小さなひょうたん島。集落や学校、温泉は東部に集まり、今回避難先となった番屋ヶ峰があるのが西部だ。

◆ちょうど2年前の6月、この島の標高657mの古岳へ登山に行った。口永良部島のことを、この辺りの人はエラブと呼ぶ。エラブは屋久島の人にとっても「自然豊かな島」で、釣りやダイビング、温泉を目当てに行く人もいる。

◆屋久島からフェリー太陽で1時間半。船が大きく揺れるので、仲間もみんな横になってやり過ごした。レンタカー屋は無く、民宿の車を借りて登山口へ。車のフロントガラスに大きな笹の葉がバシバシとぶつかってくるのは避けようがない。鹿も屋久島以上によく飛び出してくる。牧場にヤギが見えたが、牛の牧場に野生のヤギが入り込んでいるらしい。そして、所々に白い壁に囲まれた避難所があった。

◆火山島としての歴史は古く、過去にも噴火を繰り返してきた。昭和に入ってからも噴石で集落が消失し、死者負傷者を多数出したことがある。古岳は今回噴火した新岳のすぐ隣り。梅雨の雨の中、笹薮をこいでしばらく登ると視界が開け、そこからは富士山を登っているようなガラガラした黒やピンクがかった溶岩の道だった。眼下には切り立った崖と海、鬱蒼とした森が見える。

◆幻想的な世界。山頂に近づくと、硫黄の臭いが鼻につくようになった。そんな環境でも地にはびこるように生える植物たちがたくましい。山頂、というか火口付近には黄色い硫黄の塊も見える。ガスが多くでているかもしれないので、それ以上は近づくのをやめた。

◆下山後は、もちろん温泉!湯向温泉と西之湯を堪能した。宿の夕食では細い筍の丸ごとフライが山盛りで出てきて、とても美味しかった。口永良部島の筍は絶品で、島民は島外に出た家族にもよく送っている。翌日は金岳小中学校を見学しに行った。校舎に併設されている小さな資料館には写真や古い道具、大きなエラブオオコウモリの標本が飾られている。昨日からの激しい雨で浸水したようで、校長先生が一生懸命に入口をモップがけされていた。(そういえばこの時エラブで会ったのは、宿の方とこの校長先生だけだ。)

◆全校児童10名ほどとはいえ、二階建て校舎には教室のほかに音楽室、理科室、図書室、家庭科室、職員室などがこじんまりと、でもきちんと整えられている。日曜日で子ども達はいなかったが、ここで元気に学んでいる姿が目に浮かんだ。そんな平和な日常が早く戻るよう、心から祈っている。(新垣亜美


ランタン谷レポート

貞兼綾子さんのランタン谷現地緊急報告

■報告会リポートにもあるとおり、ネパールに長く通うチベット民族学者の貞兼綾子さんにはビデオで報告していただいた。貞兼さんは報告会の前日、5月21日にネパールへ向けて出発していたからだ。ビデオ収録を行った時には、貞兼さんが長年フィールドワークを行ってきたランタン谷での悲劇的な被害が既に伝わってきていたが、ビデオではむしろ震災までのランタン谷の人々と貞兼さんとの関わりについて話してもらった(が、それは亡くなった古い友人たちのことを彼女に思い出させることでもあり、気の毒なことをしてしまった)。以下はネパール入りした貞兼さんがFacebookを通じてリポートしたランタン谷の被害、そしてランタンの人々の復興への動きをまとめたもの。地平線通信に転載するにあたり、貞兼さんに確認してもらいつつ、落合が一部加筆、削除している。この他にも貞兼さんに同行している建築家でチベット支援NGOルンタプロジェクト代表の中原一博さんがFacebookにたくさんの写真をアップしているので、ぜひアクセスしていただきたい。一方でSNSでは多くの人の目に触れる都合上、まだ詳細には書けないこともあるようだ。次はビデオではなく、ご本人にぜひ報告会で話してもらいたいと思う。(落合大祐
━━1 カトマンドゥにて

■予想していたこととはいえ、やはり村人との再会はきついものでした。四・七日のネーバル(死後7日目ごとの法要)の参加者はランタン村出身者たちとラスワ郡北部(トーメン、チリメ、シャルパゴなど)の被災関係者や国境で隣り合うキロン地方出身の在ネパールチベット人たち。女性たちの死者を弔うマニ朗誦が、お寺の中庭でずっと続いていました。(5月23日 21:08)

◆失われた家、失われた田畑、失われた家畜そして失われた愛する人たちの命。遺されたものたちが、異郷ながらここに一つになって暮らしていることになんとも表現できない悲しみと同時に感動がありました。感動というのは、一村の住民が分散することなく、ここに、このように避難生活をしているということ。多方面からの支援や励ましもあることと思うけれど、一番の支えは帰村まではと互いに励まし合う仲間と一緒にいるということではないだろうか。

◆カトマンドゥの息子テンバたちは今日、ご高齢のネパールのコイララ首相と会見しました。亡くなったものたちへの弔いの気持ちを抑えられない在家僧や、家畜がどうなったか探したいゴタルー(牧畜専従者)たちへヘリコプターのサーヴィスが許可されたこと。その他、将来の帰村に備えての幾つかの支援を取り付けたようです。(5月23日 21:44)

■カトマンドゥ着5日目。ネパールのモンスーン到来の前兆のようで、夜になると時折大雨が降ります。その都度、この部屋の2箇所に雨漏り。平家のコテッジなので瓦がずれているのでしょう。ごみごみしたチャットラパティの交差点から少し入ったところながら、かわいいイングリッシュガーデン風のお庭には、西洋アジサイ、ハイビスカス、小菊、その他トロピカルなお花や樹木が旅人の気持ちを慰めてくれます。

◆25日午後1時半から、ランタンワたちが避難生活をしている通称イエローゴンバ(Phuntso Choling Monastic School所属の僧70人余りのゲルク派の寺院)の教室の一つを借りて、「新しい村をどこに置くのか」について、村人20人くらいと話し合いました。参加者はこのカトマンドゥ・ランタン・コミュニティ内で組織されている25のグループの代表者たち。最初に「ランタンプラン」側からの趣旨説明。選定にあたっては、候補にあがった地点をヘリで観察、その映像や衛星画像を元に日本側で危険性などをチェックの上、村に提示するということが了承されました。

◆村側の意見は紛糾しました。問題は、これまで挙げられている地名は雪崩、地滑り、土石流、岩の崩落など危険性が考えられる場所が多いこと。またこちらが提示しても「あそこは昔から恐ろしいところだと言われている」などいろいろ。「こんなふうだとおれらの住むところはどこもダメになる。チチ(=私)たちが言っている場所も候補に入れよう」というような次第で、最終的に4つの地点を候補に選びました。

◆明日のフライトサーベイは、カトマンドゥ大学のリジャンさん、村から2名と私。中原さん[同行している建築家の中原一博氏]とリジャンさんの学生が撮影を担当します。村の候補地の観察と今回の大災害を発生させたランタンリルン山群の撮影もします。どのようなメカニズムで崩壊し村を壊滅にいたらしめたかの解明につながればと思います。その他、新しい村の社会経済基盤の復興についても聞きたかったのですが、次回への持ち越しになりました。(5月26日 15:21)

━━2 ランタン谷へ

■かく白きたおやかな峰も幾千年の営みのなかで、おのれの姿を変えるまでに凶暴になれるものか! 古の谷に住む人々は彼らへの恭順こそが、谷の平和を守る道だと教えてきた。人々は台地を耕し、牛を殖やし、厚く仏法を敬ってきた。リクチーを、テンジン・パサン夫婦を冷たい氷に閉じ込めた一瞬の暴力を憎む。ギュルメー夫婦を吹き飛ばした力づくの所作に怒る。

◆崩れた家の間にまるで這い出すように青いコートが一枚。わずかなやわらかい土の上に、この春先に植えたバレイショが20センチばかりに生育していた。本日は、初めてのランタン谷へのフライト。目的は、新しい村の候補地を確認することと、一村壊滅を引き起こした雪崩のメカニズムを解明すること。中原さんと学生2人の映像は日本に送られ、それぞれの専門家の分析を待って、再度村人に提示することになります。

◆新しい村は、以前のような公共施設の集まる中心的な村ではなく、幾つかに分散した村にならざるを得ない。今日のフライトでリジャンさんの判断から2ヵ所を選定しました。有名なパイロットらしく、およそ2時間のフライトで往復とも私たちの説明どおりのフライト、雪氷の専門家などが希望する至近距離からの撮影もすることができました。5000メートルくらいまで飛んだと思います。(5月28日 17:27)

━━3 サカダワ

■昨日は陰暦4月15日。チベット暦のサカダワ[釈迦が地上に降誕、成道し、涅槃したとされる満月の縁日]、このコテッジの庭の西南の方向に満月が昇り、すぐに高い建物の陰に隠れてしまいました。異郷の地で仰ぐ月も、谷で見る月も違いはないけれど、かの地で見る満月のなんと明るかったことか。ランタンワたちは、カトマンドゥの東と西の仏教聖地で亡くなったものたちの生前のご恩を今生の人々へお返しするために、全ての巡礼者たちに飲み物などを配りました。

◆ここへきて、村へ帰る機運が盛り上がってきました。昨朝、若者たち8人がランタン村のあるラスワ郡の郡庁所在地、ドゥンチェに出発しました。知事や軍へ帰還の申請に出かけたようです。軍隊も3、40人編成で村への道造りに入るのだとか。村人たちも雨季前にすべき農事のこと、家畜のこと、放置された家財道具のことが心配でないはずはありません。それよりなにより、自分の村を自分の目で確かめたいというのが本当のところだろうと思います。

◆4月25日から49日目[6月12日]、忌明けの法要を当地で終えた後、帰村の動きは本格化すると予想されます。新しい村をどこに置くか? これまでなんども衛星画像やインターネットにばらまかれた写真を眺めてきました。村人たちからも候補が挙げられましたが、日本からも都度危険性の指摘があったりして、なかなか常住の村を定めるのは難しいことでした。

◆壊滅的な被害を受けたランタン村(ユル地区)は、以前は東側の台地にありました。それが約80年前[1934年1月15日]のネパール大地震で同様の被害を受け、現在地にシフトし、今回再び被害を受けました。「あそこは怖い場所」と言い伝えられていることにはそれなりの理由があること。ツーリズムの影響とは言いたくありませんが、ロッジ群はどんどん集落の西へと広がっていて、今回の雪崩に呑み込まれてしまいました。そういうわけで、28日のフライトで2地点を絞り込みました。それでも完全に安全とは言えません。注意深く進めようと思います。(6月2日 16:33)

━━4 六・七日を過ぎて

■当地へやってきて2週間が経過しました。市内のあちこちでレンガやコンクリートの塊を取り除く作業が続いていますが、そういう周辺の状況をみる余裕もなく日々が過ぎています。建築家中原一博さんとギターを抱えた高木北斗君は昨日早朝、1週間の予定で、ランタン谷の入り口シャブルベンシ方面へ出かけて行きました。

◆今日は、ネーバル[中陰法要]六・七日。4月25日の大震災から42日目の法要が、カトマンドゥの東、ボーダナートの北側の丘にたつコパン・ゴンバで営まれました。ゲルク派の寺院で、外国人にも開放された学習コースがあるようです。開祖ジェ・ツォンカパを本尊に頂く広い本堂の両側に、村人たちが男衆と女衆に分かれて僧侶たちの読経に合わせて祈り続けています。

◆亡くなった176名の写真と名前が掲げられ、それを確認する家族もあります。私もナマ(嫁=テンバの妻)もまだ見ることができませんでした。妻を亡くした夫、夫を亡くした妻、父親を亡くした5歳の女の子、まだ10代の二人の姉妹は父親と妹を亡くしました。嫁いでオーストラリアに住むケーサンは、2人の兄夫婦、弟、姪や甥など家族の11人が亡くなったと言います。

◆折悪しく、ネパールの統一10年課程修了試験(SLC=School Leaving Certificate)が終わり、カトマンドゥから村に帰省していた14、5人の学生や子供たちも雪崩に巻き込まれて犠牲になりました。その中にはノルブの2人の息子もいました。ノルブ夫婦と息子2人が犠牲になり、ノルブの両親にはノルブの小児麻痺の長男が遺されました。なぜ49日なのでしょうか。ネーバルのたびに氷の下に置き去りにされたものたちへの執着心が初期化されて、とてものことにお見送りできません。

◆とはいえ、村の若い衆やゴタルー(牧畜専従者)たちは、家畜のことや家・ロッジの被害状態のことが気がかりで、2日前に村へ向けて徒歩で出発しました。先に郡や軍の入山許可を申請しに出かけたドゥンチェの8人を入れて、総勢52人。1週間の予定です。昨日からモバイルの電波が通じなくなりましたが、ランタン村の入り口、リモチェまでの4つのランドスライドを迂回し、今日か明日か、ゴラタベラ手前の“ゲモトントン”の大きな地滑り地を越えるあたりまで達しているのではないかと、女たちで予想し合いました。そこを越えればもう村の領域。家畜たちもその辺りから上方にいるはずです。いずれにしても、全員無事にカトマンドゥに戻ってきてほしいと願っています。

━━5 美しい村にしたい

■こうした帰村の動きの前に緊急に話し合っておくべきことがあり、ランタン・カトマンドゥ・コミュニティのリーダー2人に集まってもらいました。テンバとプンツォ。ここだけの話ですが、彼ら2人は震災後いち早く「ランタン災害緊急支援ファンド」[ランタン・ディザスター・リリーフ・ファンド]をスペインから世界に向けて発信しました。スペイン在住のランタン村出身のパサン・プティのスペイン人の夫がHPを作ってくれているのだとか。

◆ついでに言えば、私たちが訪ねたのは、彼ら村民がソエンブーの寺院の一角にテント村生活を始めて1ヶ月近く経つころでした。テント村はチリひとつなく綺麗で、法事、食事、トイレ・シャワー、外からのお客の対応や支援の窓口など統率がとれていて正直に言えば、びっくりするほどでした。彼ら2人は、テントやシート集めから、トイレの使い方にいたるまで、1週間は不眠不休の奮闘をしたのですね。空撮に同乗する村人2人が、テンバとプンツォだったことは、そういう思い入れの強さもあったからでしょう。

◆1)新しい村の位置 ランタン・リ遠征隊の動画、日本から送られてきた資料映像や写真、危険地帯を記した地図などを見ながら、被害の状況を把握、可能性を示唆しました。安全と言われた場所でも避けるべきポイントもあり、適地の選択肢が狭まる中から、村の東側とタンシャップの一部を想定しました。彼ら2人も125戸(うち、今回地震と爆風の影響は受けたものの雪崩を免れた2集落41戸を含む)がばらばらにならずに住める位置はここしかないと思ったようです。

◆プンツォは言う。「新しい村は、民家は1階建て、2間とキッチン、トイレ付き。家畜はテント。どのロッジも2階建以上は作らず6室12人とする。これまでのように、大きなロッジはますます大きく、ガイドの飲み食いをただにして客を引き込むやり方はダメだ。これだと小さな宿は干上がってしまう。外観も重要だ。建物の色、形を統一した美しい村にしたい」と。建設費のことは政府やICIMOD[国際総合山岳開発センター]など国際機関への働きかけなどを考えているようです。

◆2)帰村と村の復興 帰村は49日の忌明後にゴタルーを中心に避難者の半分が戻り、後の半分は村への道が整備された9月のモンスーン明けころになるようです。農業と牧畜と観光業は、規模の差はあれ、足りないものを補完する形で村の経済は成り立っていました。今回の震災でどれだけの経済的な損失があったのか、数字では表せませんが、農地のダメッジは大きく、また家畜の半分くらいを失い、谷が閉じられた状態では観光業の再開は早くても秋以降。もちろん今年は農地からの収穫はほとんど望めません。テンバたちは帰村後の食料として支援物資をすこしづつ荷揚げして、一律に分配するようです。このように書いているとなんだか虚しくなりますが、カトマンドゥ・コミュニティが分散することなく、これまで運営されてきたのです。彼ら山の民のヴァイタリティを信じるしかありません。

◆3)ランタンプランからの支援 多くのみなさまからご支援いただいていますので、彼らの生活基盤に役立つものをと考えました。2件あります。ひとつは、牧畜復興のためにゴタルーにゾモ購入の資金援助、ゾモファンド(Dzomo Fund)。もう一つは、「寺の再建計画」支援。まだ腹案の段階ですが、ゴタルーや村人との話し合い、そして後者については中原さんともう一度現場へ入って見積もりなどしていただかなければなりません。具体的になりましたら、お知らせします。(6月6日 3:50)


「綾Tシャツ」を作ってランタン谷の復興を応援しようっ!!

■家族同様につきあってきた多くの仲間たちとの別れ、辛い再会。そして、新たな村作りと再起への決意。あやさん、貞兼綾子さんのランタン谷の村人への思い、その行動力は、今回のネパール大震災で起きたことを痛切に私たちに教えてくれる。近くに住んでいた者たちがばらばらにならずにどうやって集団移転できるか、という命題は3.11で知り合った南三陸町中瀬の人々が直面した課題でもあった。今回何よりも強く感じているのは、貞兼綾子というチベット学者の「故郷の人々」への強い思いだ。あやさんを支援するために何かしたい。そういう気持ちから「綾Tシャツ」を作ろう、と思い立った。すでに活動しているランタンプランとも連携しつつ、このTシャツはあくまであやさん個人が行動しやすいようにするのがねらい。絵は、もちろん長野亮之介画伯に頼む。長い仕事になるだろう。どうか、いまから支援の仲間に入ってほしい、とお伝えしておく。詳しくは後日。(江本嘉伸


地平線ポストから

「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」

■6月4日、久しぶりに江本さんと会った。長野の信濃毎日新聞社での「梅棹忠夫山と探検文学賞」の受賞式でだ。今年の受賞は30年以上アフガニスタンの現地で活動を続けるペシャワール会の中村哲著『天、共に在り』であった。以前青年海外協力隊の仕事をしていた頃のこと。セネガルからの帰路、チャドやエチオピア、カンボジアなどの国に立ち寄り、歩いて井戸やポンプなど水事情を聴いて回った。そして、パキスタンの中村先生の病院も訪ねたことがある。先生は不在であったが野戦病院のようで、いろいろなタイプの地雷が展示してあった。

◆アフガン難民の病院スタッフがキャンプの井戸を案内してくれ、直径や深度、水質や井戸の作り方を調べることができた。その20年前からのペシャワール会の個人会員である。今回受賞作の本を購入する際に事情を説明し、個人的に受賞式に参加することが許された。入口には『北極男』『犬と走る』などの候補作も並べられている。選考経緯を述べるのは江本さん。おもえば長野市で行われるこの文学賞が自分と地平線会議を結び付けてくれた。

◆毎月送られてくる活字ぎっしりの地平線通信。先月の福島移動報告会のレポートは不法侵入だと怒ったタクシー運転手の気持ち、南相馬在住の方の正直な想い、配達されなかった12日付の福島民報の束、訪れた人……、そこに住む人の思いが詰まっていた。だから地平線通信を読み切るにはエネルギーや覚悟がいる。お前はどうなんだと軽く流せない文章がそこかしこにあるのだ。

◆その地平線の江本さんと受賞式後に震災仲間と3人で飲んだ。地平線通信なので正直に白状するが、居酒屋のメニューを見て江本さんが最初に注文したのは抹茶アイスとビールだった。この日、長野に来る直前、上田駅でひどく美味しそうな「あんこアイスクリーム」なるものを見て食べたくてたまらなかったんだとか。で、ほんとうに生ビールと一緒においしそうに食べていた。

◆付け加えると受賞式後に会場にウエストポーチの忘れ物があって誰だろうって本人の目の前でしゃべってポーチの中から携帯まで出していたのに気づかなかったのは江本さんだ。極めつけは帰り道、長野駅から上田駅までの切符を買うのに一万円を入れ目的地を押したのにおつりも切符も出てこないと戸惑う江本さん(そりゃ「1枚」のボタンを押さなきゃダメよ)。そんな江本さんと飲んだのだ。

◆ネパール大地震で大きな被害を受けたランタン村。先月の通信に書かれたランタンプラン代表の貞兼綾子さんを鮭Tシャツならぬ「綾Tシャツ」で応援したいという。思うと同時に行動に移すのだ。思いつけばすぐに電話する。福島の移動報告会もきっとそうだったのだろう。そして厳しい環境の中で頑張る人の応援が好きなのだろう。とくに頑張っている女性を応援せずにはいられないのかもしれない。また若い原石を見つけては地平線通信の場で「伝える」という磨きをかけ育てるのが愉しいのかもしれない。

◆行動。継続。発信。そして面白がれる空想力。エネルギーの有り余る人はソウイウモノだ。マグロのように泳ぎ続けなければ生きられないのだ。その日、江本さんの万歩計は10500を超えていた。中村先生や江本さん、地平線の人達のように自分も自分らしく生きられるだろうか。「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」次回、鮭Tプロジェクトの長野画伯へのお題でもある。

◆ちなみに長野画伯が実行委員を務める「第4回信州森フェス」は6月27〜28日菅平で行われる愉しいイベントだ。お近くの方は足を運んで見て下さい。詳しくは http://shinshumorifes.web.fc2.com/ 信州森フェスで検索を。(長野市 ペシャワール会会員 鮭Tプロジェクト 村田憲明


通信費とカンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含めてくださった方もいます。地平線会議は、個人のまったくの手弁当の活動で支えられていますが、紙代、印刷費、会場費、報告者の交通費などそれなりの経費はかかります(たとえば、5月は、紙、ビニール封筒などを購入したので発送費を含めて10万円以上の出費でした。ならすと毎月少しずつ赤字です)。ご理解の上、ご協力ください。当方のミスで万一漏れがあった場合は、必ず江本宛てお知らせください。アドレスは最終ページにあります。

秋葉純子/金井重/黒木道世(4000円 2年分)/森高一/高世仁(8000円)/奥田啓司/山本美穂子(江本氏によろしく)/藤田光明(2年分)/太田忠行(5月の通信で田部井淳子さんの陰にいた久野英子隊長を思い出しました)/森脇逸男(10000円)/阿佐昭子(いつも地平線通信をありがとうございます。なかなか報告会に伺えず、残念なこの頃ですが、心の冒険はハチャメチャやっています)/藤本亘/水落公明(3000円 いつも地平線通信をお送りいただきありがとうございます。引き続きよろしくお願いします。通信費と些少ですがカンパとして3000円をお送りさせていただきます。当方難病を発症し、日常生活をふつうに送れることの有難さをを痛感している今日この頃です)/菊地千里(10000円 いつも楽しく読ませていただいています。また、未払いにもかかわらず送ってくださって申し訳なく思っています。さかのぼって5年分を払い込ませていただきました)


福島特派員レポートに感動しました!

■江本さん、こんにちは!! 仙台の小村です。昨年電話でお話しした時、「脚が痛い」と言いましたが、夏からどんどん膝が痛み、とうとう11月中旬、半月板の手術をしました。すぐ良くなると思っていましたが、いまも杖なしでは歩けません。そのような訳で、4月の福島の移動報告会は是非参加したいと思いつつ、重さんも参加しない為断念しました。

◆そして433号を15日入手、息も切らせず、あっという間……。2日間で隅から隅まで読みました。地図も似顔絵も、そして特派員レポートも、本当に素晴らしく、でも原発事故の遺したもののすごさに、心から反感を覚えています。時たまTVで見る、死の町と化した映像と合わせて、恐怖です。当家も福島天栄村の標高1,000メートルの地に家があり、月に一度位行っていますが、庭の山菜、きのこは口に出来ません。0.3マイクロシーベルト位はいつでも計測します。

◆地平線に集まる人々の多才さにも驚嘆しています。通信の中で目にするお名前の数々、三輪主彦さん、丸山純さん、宮本千晴さん、菊地由美子さん、賀曽利隆さん、滝野沢優子さんはじめ、坪井伸吾さん(この時私は出席してお話を聞きました!)や多胡光純さん等々、まだまだ紙面を通じて私と近しい方々がいます。最初は金井重さんに紹介されて、後には関野吉晴さんの体験にワクワクしながら……。

◆中島ねこさん、ご苦労さまでした。こんなに沢山の文字がありながら、殆ど誤字・脱字がないことも驚きです。江本さんの記者魂でしょうか? とても安心して読むことが出来ます。酒井富美さんの宿には以前数回泊まりに行きました。これも通信を読んでいたからです。毎月届く地平線通信に、どきどきワクワクしながら、楽しみにしています。これからもよろしくお願いします。(仙台市 小村寿子 76才 5月20日 封書で)

除染の真っ只中で、福島レポートを読んで考える

■地平線通信に書くのは随分久しぶりです。この時期は買い込んだ本や、毎月届く雑誌をなかなか読めずにいますが、環境調査の仕事で宿に連泊する時は割と時間ができるので、地平線通信と本を持参。5月の通信は、先月の福島・浜通りを巡る移動報告会の参加者による特派員レポートのスタイルで、震災直後の姿を見ている人、今回初めて被災地を訪れた人、さまざまな人のそれぞれに感じた思いが言葉になっていて、うむうむ、なるほどと頷きながら読みました。

◆そして翌日から2日間、除染作業真っ最中の場所で仕事をすることになり、思わず江本さんにメールしてしまいました。この仕事は3年目で、鳥の繁殖期に合わせて4月、5月、6月に行われ、今年が最後。仕事で来ているので、詳しい場所は書けないが、皆さんが見た黒い大きな土嚢がどうやって作られているかとか、人間ではなく、野生の生き物から見た今の福島のことなどを。

◆人家周りが終わって、農地の除染が行われてますが、耕したばかりの畑みたいなのが、除染完了直後。草がまばらな荒地が除染後少し時間が経ったところ。丈の高い草が生い茂るのが未除染地。まず刈り払い機で草刈りをし、それを集めて土嚢に詰め、運ぶ。それから表土を剥がして集め、土嚢に詰め、運ぶ。田んぼ一枚で恐ろしい量です。重機を扱う人は直接埃を浴びないけれど、歩いて作業している人たちは、巻き上がる土煙をもろに浴びています。空間線量は低くても、土はけっこう線量が高いはずですね。マスクして、普通の作業服でやってます。

◆今回の鳥生態調査の仕事は、嵩上げや、内陸移転等で新しく作られた道路の環境影響に関するものですが、どう考えても、新しい道路より「農地が放置されていること」と「除染と言う名の破壊」による影響が大きいと思います。日本の里山と水田という環境に適応し、依存してきた生き物たちには、田んぼにも水路にも水がないというのは生きていく場、子孫を繋ぐ場がないということ。カエルなどは壊滅的で、子育てにそれを餌としてよく利用するサシバにも影響があるでしょう。

◆山際まで田んぼや畑があるので、そこでバリバリと草を刈り、重機で轟々と土を剥がす、そのタイミングが繁殖期にかかってしまい、営巣を放棄してしまう鳥も多いです。通常新しく道路や風力発電の計画等あれば、希少な生き物や植物がないか事前に環境調査が行われ、希少種が確認されれば、影響を小さくする対策がされるのですが……。

◆最近東北を訪れ、水の入った水田地帯を見た知人がFBで、「世界中旅したけれど、この美しさは世界に誇れるレベルだということに、住んでいる人達は気づいているのか?」と書いていました。そう、失うまで気づかなかった人もいたかもしれない。そう思った。(山形市 網谷由美子


先月号の発送請負人

■地平線通信433号は、5月13日印刷、封入作業をし、翌14日、郵便局に来てもらって発送しました。433号は、福島移動報告会特集としたので、全体で24ページの大部に。発送作業の人手が間に合うか心配でしたが、杞憂でした。なんと、15名もの人が駆けつけてくれたのです。◆いつも感じるのですが、それぞれの分野で独自の活躍していて、決してヒマではない人たちが、印刷、封入、ラベル貼りなどの単純作業に駆けつけ汗をかいている姿は、格好いい!と思う。参加してくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。(E
   森井祐介 車谷建太 福田晴子 八木和美 高世泉 小石和男 石原玲 伊藤里香 落合大祐 前田庄司 白根全 江本嘉伸 加藤千晶 武田力 杉山貴章

   
今月の窓

過保護時代における地平線会議と「旅学」

■田村善次郎さんと宮本千晴さんの監修による、『宮本常一と歩いた昭和の日本』(農文協・あるくみるきく双書、全25巻)が、2012年に刊行された。その各巻冒頭まえがきに「私にとって旅は発見であった。私自身の発見であり、日本の発見であった」という宮本常一さんの文章が引用されている。「この双書に収録された文章の多くは宮本常一に魅せられ、けしかけられて旅に出、旅に学ぶ楽しみと発見の喜びを知った若者たちの旅の記録である」と、監修者は同じ前書きに書いている。まさしく、『あるくみるきく』が発行されていた1967年から88年まで、20年余りにおける北海道から沖縄までの、若者たちによる旅の記録の抜粋である。

◆地平線通信433号に、福田晴子さんの「旅学と地平線会議」という一文が寄せられている。ここで彼女は、宮本常一さんがおこした日本観光文化研究所のスピリットが、現在の地平線会議に色濃くつながっていることを指摘し、さらに「宮本常一の『旅学』は、旅人だけが学びを得るのではなく、地域の人々と相互に啓発し合うことで完成する」と書かれている。さきの「あるくみるきく双書」には、まさにそうした若者たちの各地における体験と学びがあふれており、ページをめくって飽きることがない。同時に、この間わずか数十年における日本各地の変貌ぶりにも愕然である。

◆さてここで福田さんは旅学というコトバを使い、ご自身の研究テーマについて語っている。何気なく読んでいてはたと思ったことは、観光学という分野は最近のはやりだが、旅学という分野というか表現はあったのだろうか、ということだ。インターネットをちょっと覗いてみたのだが、それらしきものは出てこない。しかし、観光学であれ旅学であれ旅行学であれ、様々な方面からの旅や観光分野の研究が、より活発に行われることこそ望ましい。彼女の「今後も私の『旅学』の旅は続く」に期待したい。

◆ところで観光学といったが、ここにおける観光にはふたつの側面がある。ひとつは光を観るであり、もうひとつは光を観せる、ということ。今までの観光はもっぱら、前者の光を観るほうに主眼が置かれてきた。ここでいう光というのは、各地における人や自然や文化、産業や暮らしなど、その地が発する光である。旅、旅行、探検や冒険、巡礼、交易、時に軍までを含め、人は何かしらの光を求めて移動した。知的衝動としての旅もまた然りである。旅を文化的な側面からとらえようとする立場は、圧倒的に光を観る側の視点からである。ところが最近の傾向では後者の、光を観せるというサイドに軸足が多く置かれるようになってきた。つまり光の提供者側と、そこにおける経済効果という面に関心が寄せられている。

◆わたしは勝手に、観光学の一般原理として「旅行の動機は、時間と予算を規定する」とか「滞在時間と消費金額は比例する」などと唱えている。「訪問者数とその満足度は反比例する」というのもある。日本に観光庁なるものが出来たのも、観光に経済効果が見込めるという一般的な期待によるものだ。過疎・高齢・衰退の日本各地が、観光振興によって救われるかもしれない。しかし、経済ありきの観光などたかが知れている。光にあふれる地域があってこそ、そこに人がやってくる。観光学も旅学も、ここだけはしっかり押さえておきたい。

◆それにつけても、最近の若者たちの一般的な傾向は「過保護」、親やオトナ世代による過保護である。大学の教員をしていてあきれ返った事例は、ヒコーキは危険なので、とか、留学はキケンなので、親が許してくれません、というケース。いまどきこれかよ、と思われるであろう。おまけに素直な子供たちは、それに対して反抗しない。親に対しても「やさしい」のである。ここで批判を受けるべきは親の方であり、子ではない。実態は親が「かわいい子には旅をさせぬ」のだ。親が自分のエゴを、子への愛と勘違いしたまま平然。引きこもりなどという70万人の家庭内難民もこの延長にありそうだ。ゼミなどで無理やり外国に行かせると、「えー、つまんねー」などと言いながら出かけ、嬉々として帰ってくる。いまさら海外なんてメンドー、とうそぶいていた連中が「聞くと見るとは大違いでした」と興奮している。いったんタガを外してやれば、あとは勝手にどんどん出てゆく。

◆最近の地平線通信誌上で、大野説子さんとキューバの話題をやりとりした。時あたかも、キューバとアメリカの国交回復がニュースになっていて、地平線会議でもおなじみの広瀬敏通さんから次のようなメールが来た。「68年に高校生だった私はベトナム反戦の全国組織つくりで京都に長逗留し、同志社大の新聞部?や京大の学生寮で関西の高校生たちと侃々諤々、連帯のための話し合いをしていました。キューバのサトウキビ刈り奉仕隊のニュースに接した当時、それまで全力疾走してきた(5回もパクられました)全共闘が党派に絡めとられていき、自分もそのコマになってたまるかという思いで悶々としていました。結局、参加費の壁で(キューバを諦め)、たしか、バイトで30数万円を手にしてインドに単身出たのです。それは長いアジア暮らしの始まりでした」と。

◆ここにも隔世の感。宮本観光学の話が思わぬ方向にそれてしまった。さて、それにしても気合いの入った433号だった。とりわけ長野画伯の似顔絵が紙価を高めてくれている。自分は都合がつかなくて福島での移動報告会に参加できなかったが、丸山純特派員が紹介されたダークツーリズムという東浩紀さんのネーミング(チェルノブイリ・ツァーについての)には、かねてから違和感を持っていた。ダークがきつすぎて、ツーリズムと全然そりが合わないのだ。せめてソンブラ・ツーリズムぐらいにしたらどうだろう。光と影(Sol y Sombra)のソンブラである。というわけでいつもながら、今月の発送請負人の皆さまほか、会議と通信を支えてくださる方々に、大いなる敬意と感謝です。(小林天心


あとがき

「福島特派員レポートに感動しました!」という仙台の小村寿子さんのお手紙は嬉しかった。ああ、しっかり読んでくれているんだ。福島特集編集長の中島ねこさんに知らせると「こういうの、ほんとに嬉しいです」と返信が。いちいち感想は書きにくいと思うが、人を元気づけるのは、こうした言葉なんですね。

◆「沢山の文章がありながら、誤字脱字がないことも驚きです」とも、小村さん。確かに習性で誤字には反応が早いほうだが、実は、ねこさんはじめ最終ページにある「編集制作スタッフ」が丹念に素早くチェックしてくれているおかげである。彼らの指摘を受け、レイアウトの森井祐介さんが私と電話で相談して素早く最終稿をPDFにして送ってくれる(この号も今日未明、午前2時37分に届いた)。

◆その森井祐介さんが心臓バイパスの大手術から生還して1年。検診結果も良好、と診断されて、近くの地平線仲間に声をかけ正式な快気祝い、それにちょうど77才になられた、と知り喜寿のお祝いを兼ねた集いを我が家でやった。5月27日、大勢は入らないので、長野画伯に似顔絵を頼んだ「森井祐介色紙」に多くの仲間の署名、一筆をもらって。

◆主賓の希望で今回は和食とした。とり肉とゴボウ、人参、油揚を事前に下拵えし、圧力釜で炊いた「炊き込みご飯」、銀ダラ、さわらなどの京粕漬けの焼き物、それに潮干狩りの収穫としてご近所から頂いたあさりと豆腐、水菜の汁物。画伯ほか大食漢も多かったので、もちろんエモカレーも別に用意した。画伯初の手作りケーキほか皆さんのプレゼントも心がこもっていて良かった。

◆鮭T仲間と飲んだ夜、長野から下車予定の上田まではわずか11分なのにすっかりいい気分になっていて、気がついたら「間もなく高崎」のアナウンスが。せめてよかったです「次は大宮」ではなくて。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

筆に含む南極の風

  • 6月26日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F

「ブリザードで三日間、エスペランサ基地に閉じ込められた時、あ、これが南極の風だってワクワクしました」というのは“風書(ふうしょ)家”の月風かおりさん。辺境の旅先で自然から受けるエネルギーを感じ墨で表現する作風を“風書”と名づけています。'02年にバイクで北米大陸を横断するツアーに参加した折に風書に目覚めました。

以来チベット、サハラ、パタゴニアなど世界各地の辺境で多彩な書の表現活動を実践してきました。「風土、風景、風貌など、目には見えないけどそこに有るものを、日本人は『風』という文字で表してきたんです。私は長年培ってきた書の技術で風を掴もうとしてるのかな」。

究極の辺境、南極に憧れた月風さんは、彼の地につながるかすかなツテを辿り、やがて国立極地研とのつきあいを始めます。そしてついに巡りあったチャンスが、アルゼンチン南極局が主催する、アーティストの為の公募プログラムでした。世界各国から選ばれた女性アーティスト七名の一人となった月風さんは、今年1/3〜2/4の一ヶ月、南極の風の声をききました。

今月は月風さんに風書の世界を案内して頂きます。南極の風はどのような墨跡を残したのでしょうか?


地平線通信 434号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶 福田晴子
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2015年5月13日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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