5月 13日。昨夜の豪雨が嘘のような快晴。午前2時に寝たのに6時前に目が覚めた。このフロント原稿を書かなければならない。
◆間もなく、ガタガタ揺れだした。6時13分、東北地方で地震が起きたのだ。岩手県花巻市で震度5強、石巻、気仙沼、登米などでも5弱。ここ新宿区は震度2だ。東北、秋田新幹線は一部で運行を停止した。あの3.11当日、我が家も「震度5強」だった。麦丸を抱きかかえて電線がびゅんびゅんと鳴る外に飛び出したことを思い出す。「5強」。なんと迫力ある数字だ。
◆すぐに、この地震で福島の第1、第2原発に異変はありません、とレポートが続いた。いちえふ、にえふ。4月17、18日、その現場近くで「福島・浜通りを巡る移動報告会」を実行したばかりの私たち地平線会議にとって、以前より身近になった場所だ。あの周辺の町や村で見せつけられた黒いフレコンバッグの山、山、山……。死の街という表現は申し訳ないが、浪江町の無人の風景。廃校となった請戸小学校……。
◆参加できなかった仲間たちにもできるだけありのままの福島を伝えたい、との思いで今月の地平線通信をつくっている。皆さんに間もなくお届けする通信433号は、そんなわけで24ページと、普段の倍の量になる。書き手だけで42人だから、仕方ないです。地平線イラストレーターの長野亮之介画伯の似顔絵も面白いのでどうかじっくり読んで福島の現状の一端を理解する資としてほしい。
◆福島から帰って数日して大きな地震が起きた。日本ではなく、ヒマラヤの国、ネパールで。4月25日11時56分(現地時間)、カトマンズ北西77キロ、ガンダキ県ゴルカ郡付近を震源とするマグニチュード7.9(震度はばらつきあり)の大地震。日本でいえば「6強クラス」だったのだろう。死者8000人を超える、と伝えられている。
◆きのう12日も強烈な余震があった。午後0時50分(日本時間同4時05分)ごろ、今度はネパール東部の中国国境近くでマグニチュード7.3の強い地震が。100人以上が死亡した、と伝えられる。レンガ造りなどもろい構造の建物が多いので、「震度5」でも日本よりはるかに怖ろしい、とカトマンズにいる地平線の旅人は伝えてきた。地震をあまり知らないヒマラヤの民にとって、突然の揺れがどんなに怖ろしいか、想像を絶する。
◆4月27日、目黒のネパール大使公邸で小さな集まりがあった。今年は、エベレスト日本女子登山隊の田部井淳子さんがエベレストに女性として初登頂(1975年5月16日)して40年になる。大使がそのお祝いをしてくれることとなり、登山界を代表する顔ぶれが招かれていた。その直前にネパールに起きた地震。田部井さんはこんな事態では、と返上を申し出たが、大使は、ネパールの真の友人の皆さんだからこそ今回の地震に見舞われたヒマラヤの民のことを思う場に、と趣旨を変更して会は、行われた。
◆日本山岳会、日本山岳協会、勤労者山岳連盟など日本の山岳関係者が居合わせたこともあって、ネパールをどう支援するか、話し合いが持たれ、後日、山岳5団体共同の義援金を「ネパール大地震救援募金」として、募集することとした。参加した女子隊の有志がカンパを呼びかけ、その場でいくばくかの現金が集められ、大使館に贈られた。
◆私もこの集まりに参加した。そうなのだ。もう40年がたったのだ。あの時、エベレスト6400メートルの前進ベースキャンプの氷河の上で田部井さんのから頂上からの最初の声を聞いたのだった。そばには隊長の久野英子さんがいた。雪崩でキャンプがつぶされる事故にもめげず、果敢に挑戦し、女性初登頂をなしとげたエベレスト日本女子登山隊は隊長以下、15人の日本の女性登山家たちが参加していた。凱旋帰国した際は、天皇皇后両陛下にもお会いする栄誉に浴した。しかし、不思議なことに隊長の名はゆっくり消えていった。
◆今世紀のはじめ、NHKの『プロジェクトX』という番組でこの女子エベレスト隊のことが取り上げられた時も、久野さんは頑なに出演を拒んだ。その結果、この隊は田部井さんが隊長であるかのような印象を残した。当時、健在だった久野に私は電話で聞いたことがある。なぜ、そんなに拒否するんですか? 久野はこう答えた。「『プロジェクトX』は好きな番組ですが、社会性のあるものがテーマと思っていた。私たちのエベレストは所詮趣味の登山ですから、そういう番組には値しません」。聞いて、おいおいと思った。登山計画の当初、その程度の意識で新聞やテレビを引っ張り込んだんですか?
◆実は、今回、アメリカ在住の映像ジャーナリストが40年前の知られざる日本女性たちの挑戦のドキュメントを作ろう、と企画、私も取材を受けた。当然、久野英子隊長にもコンタクトしたが、健康が優れないこともあり、撮影はならなかったようだ。そして、最後の消息は、なんと訃報だった。4月17日。合掌。(江本嘉伸)
地平線会議初の移動報告会。人数限定の事前申し込み制であることから、参加者は、受け手であるとともに送り手としてこの報告会に臨んだ。右ページの「ぼっかされだ(ぶっこわされた、の意味)里に花の咲ぐ」ルートマップ(長野亮之介さん作)のポイント番号と記事のタイトル番号を照合しながら、道筋を辿ってほしい。(ねこ)
★掲載されたイラストは署名入りを除きすべて長野亮之介さんです。
■集合時刻の11時前にほぼ全員が到着。今回の案内人は、楢葉町出身の渡辺哲さん、天栄村在住の滝野沢優子さん、南相馬市在住で3年前の福島報告会でもお世話になった上條大輔さん、そしてごぞんじ賀曽利隆さん。賀曽利さんはバイクでバスを追うつもりだったが直前にバスに乗ることが決まった。震災前から東北太平洋岸を走り続け、震災後も10回以上走っている賀曽利さんが加わったのは心強いかぎり。それにしても、これだけ現地に精通した案内人が揃ったツアーはほかにないだろう。
◆案内人による自己紹介を兼ねた挨拶の後、新聞記者時代に福島勤務だった菊地由美子さんが編集した「旅のしおり」(長野亮之介さんのイラストとルートマップがすばらしい)で日程を確認しながら、バスは最初の訪問地である渡辺さん宅をめざして国道6号を北上。今宵の宿である「いわき蟹洗温泉」を通り過ぎて、広野町に入ると右側に東京電力広野火力発電所の巨大な煙突が姿を現した。地震と津波で広野火力も大きな被害を受けたが、原発事故の避難区域から外れた後に懸命の復旧作業を行い2011年7月には全5機が運転を再開している。原発の代わりに電力を供給している広野火力の役割は重要だという。
◆楢葉町に入ると、避難指示解除準備区域では初となる24時間営業のコンビニ(時給は1500円)を左に見ながら、現在は福島第一原発の廃炉作業の最前線基地となっているJビレッジへ。構内道路の通行は可能だが停車はできないため車窓から眺めるにとどまったが、作業用の資材や宿舎等を見ることができた。
◆「あれがわが家です」とバスの前方を指さす渡辺さん。Jビレッジを過ぎてまもなく、水田が広がる開けた田園風景のなかに緑色のシートをかぶった“黒い壁”が見えてきた。黒い壁とは、除染による放射性廃棄物を含んだ土砂等が入った大型の土のう袋(フレコンバッグ)のことで、この後いやというほど見ることになる。道路の反対側には集落があり、仮置き場から一番近い家が渡辺さんのご自宅だった。バスを降りて仮置き場付近の放射線量を計ると、0.23〜0.50マイクロシーベルト。思っていたよりも高い値ではなかったが、住宅地の目の前に放射性廃棄物が山のように積んである姿は異様で衝撃的だった。
◆まだ新しい渡辺家は庭木の手入れも行き届き、人が住んでいないとは思えないほど。庭先で渡辺さんから震災当日とその後の状況を神妙な面持ちで聞く。海までは1キロ弱くらいだろうか、津波は海と集落の間を走る常磐線の手前で止まったため津波による被害は免れたが、その後の原発事故で避難を余儀なくされた。震災直後は雨戸を閉めていたそうだが、泥棒に家の中が荒らされてからは警察の指導もあって雨戸を閉めないようにしているそうだ。家のすぐ裏には「春の小川」に出てくるような美しいせせらぎがあり、夜になると川原のけもの道を通ってイノシシやサルが出没することもあるらしい。
◆美しい田園風景に似合わない黒い壁はもうじき中間貯蔵施設に運ばれる予定だと聞いた。土木工事に携わっている仕事柄この黒い袋はよく見かけるが、しばらくはここで見た光景がよみがえってきそうだ。渡辺家を離れる前に賀曽利さんが気勢をあげて叫んだ「楢葉の復興!」を心から願ってやまない。(山形県)
■天神岬スポーツ公園の楢葉町が見下ろせる岬に立つ。海からの風が強い。すぐに目に入るのは、広野火力発電所の巨大な3本の白い煙突だ。その北側には津波で押し流され、まばらになった防風林。内陸に目を移すと黒と青の放射性廃棄物を入れた土嚢が山積みにされている。今回案内をしていただいている渡辺哲さんの自宅はもう少し山より。波が届かなくて本当によかったと思う。
◆バス中で配られた楢葉町災害記録誌に、ここで撮影された10.5メートルの津波の写真がある。写真を撮られた方は自分の町が津波に呑まれていく姿を見ていたはずだ。同時に13人の命も消えてしまった。……心に浮かぶ言葉を、同じ思いで景色を眺めているであろう誰かに伝えたいが、目が合うと弱い笑いしか出ない。皆言葉少なくゾロゾロと向いの公園に移動する。崖から少し離れると風はない。満開の桜の下で和やかな空気が漂う弁当タイム。温厚な渡辺さんは始終にこやかだけど、眉間のしわが少しずつ深くなっていくように見える。
◆時計を見ると、もう出発時刻だ。慌てて展望台まで走る。旅人の習性か、その場で一番高い場所に上り、全体の地理を把握せねば気が済まない。階段を上がり北を向くと、海辺の断崖が延々と続き、2Fがかすかに見える。僕は今日まで、原発はその地域で一番自然災害に強い場所を探して作られたものだと単純に信じていた。ところが事実は違うようだ。資料によると2Fは楢葉町と富岡町に、1Fは双葉町と大熊町にまたがる場所にある。
◆バス内で、寝過ごしたメンバーが竜田駅まで一人で来ている、とアナウンスが入る。やった。彼女のおかげでルートに入っていなかった駅にも行ける。竜田駅はマンガ『いちえふ』で描かれていた常磐線の南側の終着駅だ。ここで今回一番印象に残った出来事があった。壊れた自販機の前でふざけていた僕らに、駅前に停まっていたタクシーの運転手が近づいてきて「不法侵入だ!」と怒ったのだ。不法侵入かどうかはともかく、楽しそうに被災地観光していた僕らが不愉快だったのは間違いなく、そんな気持ちにさせてしまったことを申し訳なく思った。
◆2年前一人でバイクで来たとき、富岡駅前も2F横の波倉地区も、浪江の請戸地区も走った。閉鎖された道の前にガードマンが立っている場所も入れる、と、聞いてはいたが、人がいるところには興味本位で近づけなかった。今回自力で入れなかったエリアの奥深くまで見せてもらえたことに本当に感謝しています。原稿を書いている今日、講演会の予定があるので来てくれたお客さんにも福島で自分が見たことを伝えます。
◆追加。日本中どの地域のローカルネタでも話せる、賀曽利隆さんの知識に心底驚きました。定点観測って大事ですね。賀曽利さんに習い僕もまたここに来ます。(東京都 ライダー)
■桜吹雪の中でお弁当を広げた天神岬の展望台からは、波倉地区へ続く海沿いの景色がよく見えた。海岸線のすぐ近くまで木々が茂り、のびのびと美しい。遠くに眼をやると異質な埋立地が海面上に黒く長く延びている。東京電力福島第二原子力発電所、2Fだ。遠くから見ても、そこだけが人工的だと感じた。
◆バスは、津波で全滅した波倉地区の集落跡地を通り、防波堤の近くで停まった。少し前まで残っていた家の土台は、すっかり撤去されてしまったとのこと。渡辺哲さんの説明が無ければ、そこに何があったのかわからない。津波で30軒ほどの家屋が流され、8名の方が亡くなられていた。周りを高台が囲み、波が入り込んできたら、水が溜まってしまいそうな場所。防波堤は津波で壊れたままになっている。2Fは、高台を挟んで、すぐ向こう側に建っていた。原子力発電所のこんなに近くに人家が在ったことに驚いた。海を見下ろす場所に、小さな祈りの場が設けてあった。
◆震災の後、集落側には新たに埋立地が造られ、「特定廃棄物保管場所」という看板が立ち、コンクリートくずや金属くず、木くず、可燃系混合物等の置き場となっている。防波堤の壊れた部分には、大きな波がしぶきをあげて流れ込んでいるのだけれど。
◆気がつくと、遥かかなたにいたはずの海上保安庁巡視船が、ずいぶん近くまで移動していた。40人近い数の男女が突然現れて、写真を撮ったりうろうろしたりしているのだから、そりゃあ怪しかったことでしょう。
◆ほんの数日の福島滞在。現場に立って、見て、地元の方に話を伺ったことで、やっと町の位置や建設物の立地場所が腑に落ちてきた。「あるくみるきく」の大切さ。放射線は見えないという当たり前のこと。素晴しく美しい里山に並ぶ汚染土の入った黒いフレコンバッグ。防護服を着たこと。立ち入り制限のゲートに立つ太った監視員。人気のない町に咲く桜。洗濯物を干したままの家。作業員で込み合うコンビニ……全部が現実。
◆津波も、原発事故も、無かったことにならないように、見たことを忘れずにいたいと思う。(岐阜県)
■去年の夏にJR富岡駅は相馬野馬追い祭りと浪江出身の祖母の実家の墓参りの際に立ち寄っている。駅舎は津波で流され駅前の建物は破壊されていた。常磐線の線路の海側は背の高い雑草に覆われ津波に流された車の残骸が見えた。駅前には国道6号線の自由通行の北限の富岡町まで来た人たちが様子を見ている、そんな富岡駅前だった。
◆それから1年、駅舎は撤去され海側の瓦礫の撤去もだいぶ進んだと聞いていたがあのときの印象とさして変わることはあるまいと思っていた。だがその津波で破壊された駅舎が撤去されさっぱりとした駅前に立ち呆然とする。これがあの去年訪れた富岡駅と同じ駅前なのかと。津波で破壊され廃墟と化した駅舎でもあるのとないのとでは印象がまるで違うのだ。
◆そのあまりの違いにうろたえつつ歩き出し撤去されてないままの駅前の中華料理屋とデイリーヤマザキを確認し商店街を北に北にと進む。廃屋となった家の空き地に様子を見に足を踏み入れると驚いてそこにいた雉がバタバタと飛び立ちぎょっとする。商店街が途切れた広い十字路。そこはひっきりなしに瓦礫撤去と除染作業の車が往来している。
◆去年は何もないからと常磐線より海側に行かなかったが、富岡に向かう国道6号線から海側に見えた白いカバーに覆われた建物があったので気になりそちらに足を進める。黒いフレコンバッグを運ぶユニックと呼ばれるクレーンつきの除染作業のトラックと頻繁にすれ違う。作業員の方々と目が合えば会釈する。土埃が舞う。あわててマスクを着ける。
◆やがて両脇に除染で発生した放射性廃棄物の入った黒いフレコンバッグの山がみえてくる。津波の浸水域の瓦礫を撤去し砂利を敷いて整地しシートを敷いた上にその黒い袋に入った廃棄物は白い文字で番記され簡素に内容を記載され3段から5段にそれは丁寧にきちんと積み上げられてある。モニタリングポストがあり0.222μSv/毎時と表示されている。これらの津波浸水域にある放射性廃棄物はあくまでも仮置きらしく各ブロックには「仮置場」との看板がある。
◆県道391号線につきあたり左折して富岡川にかかる橋の上からその全景を捉えようとするが高さが足りない。左手の海側に見える富岡漁港は津波を受けて破壊されたままだ。391号線右手には囲いに覆われた大きな廃棄物処理の作業場が見え大きな作業音が聞こえる。そのはるか先には福島第二原発の煙突も見える。その作業場がどんなところなのか気になりつつも時間がないので富岡駅に向かった。津波の浸水域に放射性廃棄物を保管し処理する危険性というか狂気。そしてそれを黙々と作業する人々の日常。この状況をどう受け入れ理解したらいいのか今も考え続けている。(東京都)
■バスを降りると夜ノ森地区。第1原発から約7キロの、名前の通り幻想的な桜並木。散り始めの桜並木の美しさの中に心がひやっとするような怪しさを感じるのは、「防犯カメラ作動中」「通行証確認中」の文字たちのせいだろうか。桜みちを歩くとすぐに放射線量の測定器のサイレンが鳴りだした。
◆帰還困難区域の境のバリケードにさえぎられた桜並木や赤白のコーン、道端の水路から伸びるホース(他の参加者に聞いたところ、水位を下げるために水を吸っているのでは、とのこと。なんのためにかはわからず)、桜並木をくぐる除染作業車を見ていると、ここに本当に人が住んでいたのかという気持ちになる。とにかく「しん」としていて思わず「本当にこのバリケードの向こうには人が一人も住んでいないんですか?」と隣の参加者に聞いてしまった。「人がいないからここはもうすでに町じゃなくて地区なのかもしれないですね」。冷たい言葉だ。「地区」。
◆桜はもう散り始めだったが、道端に元気なタンポポをたくさん見つけた。夜ノ森だけでなく今回の福島行を通して、とにかくタンポポが多い印象を受けた(放射線のせいなのだろうか?)。地面にへばりつく大量のタンポポはなんだか周りの景色と比べて生命力が強すぎて少し怖かった。
◆震災の被害をどんな形であれ実際に受けた人と、普段そこまで影響を感じずに被災地の外で生きている人には、きっと震災に対しての考え方や感じ方に温度差がある。私がどんなに細かく推測して理解しようとしても、実際の怒りや悲しみまでにはなかなか届かないし、逆に被災者の方は被害を受けていない人の考えはわからないと思う。その温度差を今回感じることができて本当に良かった。この温度差こそが、分かり合うこと助け合うことを放棄せずにいられる理由になる。何回も福島に行ってみたい。訪ねるたびに、私の言う「復興」という言葉に重みが増していくんだろうな。福島の復興を。(東京都)
■イラスト注釈:この魚はサケやマスを参考にして描いたもので、被災地の川に放たれた魚たちがまた大きくなり戻ってくるようにと、そしてそういった放流して帰ってくるお魚と、遠く旅をしても帰巣本能で地平線会議に帰ってくる皆様方が似ているなと思い、描きました。(みお)
■浪江町のスクリーニング場で受け取った防護服に身を固めた数人(防護服を持ち帰りたい人はここで着ることができない。汚染された防護服は廃棄処分のため)を含む私たち一行37人は、許可証を提出後バスで居住制限エリアの請戸地区へ。一面見渡す限り原っぱ、西には低い山、山桜が咲いて美しい景色。しかし、2月の下見で来られた時には、まだまだ船や車が山積みだったらしい。遅ればせながら着々と片づけは進んでいるようだ。
◆バスが停まったのは原っぱの真ん中、交差点角にある小さなお墓の形をした慰霊碑前。卒塔婆が何枚も立ち、花束もたくさん供えられている。卒塔婆には梵字と「東電原発事故被災者・動物慰霊」と書かれてあり、「東電」の前に「国策大愚」の文字が{で書き足されている。残された者の無念が伝わる。
◆線量は0.12?0.22μSv/h。南の低い山の端からいちえふがのぞく。近い。10km足らずだという。なのに(いちえふからこんなに近いのに)数値が低いのは海沿いだからか? なのに(こんなに線量の数値が低いのに)津波の被災地としては避難指示解除準備区域になったのが最後というのは、いちえふから10km圏内だからか? 津波被災直後に、10km圏内のため救助に入れず、置き去りのまま亡くなった人もいると聞く。いちえふからの距離だけで線引きしてしまったための悲劇! この地区では126人が亡くなっている。
◆バスは請戸小学校に。半円形の屋根の体育館と明るい2階建てのモダンな校舎。近づいてみると、1階は無残な状態だが2階は窓ガラスも割れず、津波はそんなに高くなかったと思える(被災翌日の調べでは、校舎の壁に150cmの高さの波の跡があった)。校舎に入ってみる。1階の教室は、壁が剥がれ窓枠は歪み、体育館の床は一部大きく落ちている。舞台には「祝 修・卒業証書授与式」の横断幕が綺麗なままで国旗・校旗と共にかかっている。
◆2階の教室は、何もなかったかのように(たぶん)元のまま。図書室の本は整然と並び、家庭科室の食器は少し倒れ、音楽室にはピアノが埃をかぶって弾き手を待っている。黒板には、復興支援に来られた方たちのメッセージ。全国の消防局・陸上自衛隊・天理教団・警察・仏信会・建設会社・機動捜査隊・九条会……北海道から九州から……いっぱいの気持ち。「みんなうまく避難できて良かったね」「ふだんの生活をとりもどす」「未来を信じて」「俺達は忘れない」「請戸大好き」「いつの日かここに帰れることを願っています」「福島の治安守ります」等々。その中に一行縦書きで「卒業式の練習が始まります」。元の生活が垣間見える。
◆埃の積もった机の上に鳥の羽が散乱する。動物が鳥を捕まえて食べたんでしょう、とのこと。体育館や全教室の掛時計がすべて3時38分で停まっている。電気時計のため、津波到達時に全館一斉に電源が遮断されたのだろう。不幸中の幸い、請戸小の子どもたちは全員避難できて無事。多くの犠牲者を出した地域もあるが、目の前に海の見えるこの地域だからこそ、危機意識も高かったのかもしれない。
◆ふだんはトラックの行き交う道路も、この日は日曜日のためひっそりと静まり、私たちのバスが通り過ぎた後には、水仙や大きなタンポポが咲き乱れ雉子が悠々と道路を渡り、一見長閑な、しかし住人のいない不気味さを見せつけられた。何もないだだっ広い草地も、近寄ってみると家屋の土台が草に埋もれて残り、賑やかだったはずの集落を考えずにはいられない。(大阪府)
■正午過ぎ、バスを降りると、そこはゴーストタウンだった。津波の影響はないようで建物はあらかた残っている。しかし、地震の影響からか平行四辺形にひしゃげた建物がそこかしこに目についた。
◆まずは目の前の浪江駅を見てみることにした。外階段をのぼり、閉じられた入り口に立つ。ガラス越しに中を見ると、駅員のいる改札や窓口、待合用の椅子、各種旅行パンフ、吉永小百合の立て看板が目についた。「大地震のため、運転を見合わせます」と書き残されたホワイトボードが、原発爆発後の避難の慌ただしさを物語っていた。
◆人の営みが4年前でストップする一方、経年劣化は着々と進んでいた。福島民報の新聞配達所には、震災1か月前に公開が開始された映画「毎日かあさん」のポスターが日焼けした状態で残っていたり、「福島第一1号機原子炉建屋で爆発 放射性物質拡散」(3月13日)と記された山積みの新聞の束が見えたりした。
◆ほかには、室内干しの状態で放置され日に焼けてしまったタオル、雑草に覆われ錆びつつあるBMW、引退する前の松井秀喜が日に焼けて印刷が薄くなった自販機の広告……といったものも街中で見かけた。
◆持参した線量計で放射線量を測ってみた。道路の縁石の周囲に生えているたんぽぽの花は2.36μSv毎時、立派な蔵のある民家の雨樋下は12.49μSv毎時、2階建て集合住宅の雨樋下は22.41μSv毎時。雨樋が高いのは放射性物質が蓄積するからだ。
◆一方、駅前の空間放射線量は0.84-1.53μSv毎時。この数字を1年分で計算すると、7.36-13.4mSv(ミリはマイクロの1000倍)となり、国の定める線量限度1mSvよりもずっと高くなる。このままだとやはり住めない。
◆12時40分すぎ、「安心して暮らせるやさしいまち」と記された駅前の標語を目にしながら、急いでバスに乗り込んだ。この街が賑わいを取り戻すのはいつになるのだろうか。着席しほっとしながらも、街の未来に暗澹とした思いを抱いた。
◆浪江駅を出発したバスは、ほんの数分でとまった。そこは、かつてのコンビニの敷地を利用した加倉スクリーニング場だった。「放管員」という腕章をした東電職員(放射線管理員)に靴の裏の放射線量を計ってもらう。「230ベクレル。基準値以内です」。測定結果を伝えてくれる放管員たちの表情は硬い。
◆ところがだ。「テレビでよく見るサッカー解説者、松木安太郎さんに似てますね」と声をかけると放管員は「そうですか」と言って、にっこり笑ったのだった。(東京都)
■誰もいない。津波の跡が放置されたままの富岡町。玄関も窓も枠だけになり晒されている。津波が来ていない浪江町では洗濯物が干され自転車や車もきちんと停められたまま。「避難は一時的ですぐに帰ると信じていた」。新聞販売所には配達されなかった12日付の福島民報の束。放射能は目に見えず、しかし移動中のバスや街中で測定器は鳴り続ける。浜通りの風景は美しい。避難区域の瓦礫の横の赤、紫、黄の色彩々に咲く花、澄み切った川、除染袋の後ろの丘には淡い桜や萌黄色の木々。でも人は帰れない。(東京都 石原玲)
■福島へ出発の朝、不覚にも寝坊……大遅刻しました。江本さんと渡辺さんが急遽アレンジしてくださり、竜田駅でみなさんと途中合流できて本当にありがたかったです。いわき駅から竜田駅までJR常磐線の鈍行で31分。土曜日の昼下がりだからなのか、乗客は数人だけ。四ツ倉駅をすぎたとたん右手一面に海が広がり、左手には線路そばに鳥居が所々立っていたのが印象に残りました。竜田駅から北の路線は、まだ復旧していません。立ち入りの可否、補償金の有無、賛成・反対。核は人々の間に、ぬぐえない線引きをしてしまう。そのことをずっと考えさせられています。(東京都 大西夏奈子)
■バスは今夜の宿、蟹洗温泉に到着。太平洋を望みながら風呂に入り、夕食会場へ。まずは支配人の話を聞く。冒頭は「事前に頂いた地平線通信を読みました」。震災当日、何百メートルも潮が引いたのをこの目で見た。客の避難誘導をしながら職員の行動を冷静に見ていた。建物は復旧できたが今困っているのは人手不足。除染作業なら日当1万5千円。とても勝てない。建築ラッシュでいわき市の人口は増えているが、子供が住めない町でもある。沖にはウニやアワビが沢山あるが誰も獲らない。米は日本一安い。これが現実である、と話された。
◆続いて宮本さんの乾杯挨拶。「福島で原発の被害に遭った人たちも、放射能はなくても大きな被害を受けた三陸の人たちも、それ以外の所にいる人たちも、真正面から本当の解決の仕方を見つけていけるように祈念しつつ、乾杯!」
◆江本さんが長野画伯のイラストを紹介し、北村さん制作のウサギの衣装を着て登場すると、場内シャッターの嵐が起こる。不思議の国のアリスからの作成秘話を披露。そして、これからも地平線会議は福島にこだわり続けると宣言する。
◆恒例の自己紹介(飲食をしつつ時に席を離れることもあったため、全ての人を記載出来なかったことをご容赦願います)。大西さん:最近になって友人が原発の事故現場で長靴が溶けるような高熱の中を突入し、制御作業をしていたことを知った。飯野さん:5時間かけて来ました。山形映画祭をよろしく。高世さん:人が生きている所は破壊されても美しい。父が本を出したのでよろしく。20歳との自己紹介におじさんたちからどよめきの声が起きる。
◆西牟田さん:2011年に3回福島に来た。人形峠やブラジルなども取材した。三輪さん:子供の頃、東京で広島カープの試合を見に行き今では考えられないが「原爆、 原爆」とヤジが飛んでいた。久島さん:この報告会のために考えたキャッチフレーズ「ふ抜けのくしま、ま抜けのひろし」。長谷川さん:バイクで海外ツーリング、チェルノブイリにも行った。原子力発電所前での記念撮影に怒りを覚えた。花岡さん:元国交省防災担当でくしの歯作戦の指揮者の一人だった。滑川さん:隣に座った飯野さんと山形の映画で繋がっていた。菊地さん:20代の時、福島で働き夫と知り合った。震災時は出産直後で何も出来なかった。江東区の公務員宿舎に1000人もの避難者がいる。今日は彼らの顔が思い浮かんだ。
◆加藤千晶さん:1回目の福島訪問ではわからなかったことが、今回よくわかった。のんきと反省しつつ、野宿をしていきたい。丸山さん:バスが曲がるのに苦労するような狭い道を選んでしまうほど、案内する場所の選択にこだわった渡辺さんの思いを強く感じた。シリアスでなくても今、来て見るべきであり感じることが大事だ。伊沢さん:出せなければ食べられない。食べなければ生きていけない。食べないと出せないとどちらが苦しいか? 奪った生命をどう返すか、野糞でこそ返せるのに誰も考えない。
◆滝野沢さん:動物を通して福島を見ています。福島県民よりも皆さんの方が考えているかもしれない。賀曽利さん:今回はバイクを置いてバスに乗った。20歳の高世さんが今日参加しているのは両親が出会うきっかけを作った私の報告会のおかげです。…記録係の落合さんは飲食よりもビデオ撮影を最優先していたことを申し添えます。
■福島駅前にJ3福島ユナイテッドの試合日程を掲載した大きな看板がありました。戸外でスポーツをすることの賛否はありますが、それでもガンバレ福島!!(大阪府 佳則)
■実は、私は福島に行くこと、気が重かった。反感を買うかも知れないけど、福島の現状はテレビの世界だった。知ってしまうことが内面的に怖かった。しかし今回、素人&一般peopleの偏見を覆すような、むちゃくちゃ濃くて、誠実で、正直な人たちのガイドのおかげで、真実を知ることは怖くないことがわかった。蟹洗温泉での報告会第2部。外見的には「社員旅行の宴会」っぽいけど、お酒が入りながらも、参加した各人が、福島・浜通りを巡る移動報告会の前半の行程を真摯に受け止めて、感じたままを言葉にするのが印象的で、なんだか嬉しかった。参加させていただき、ありがとうございました。(大阪府 実千代)
■電気も水も止まった被災地で最も困るのがトイレ問題。3.11では糞土師ならではのノグソの技を活かしたボランティアを決意し、現地へ手紙を出したが音沙汰なし。ノグソへの偏見はこんな非常事態でも解消されないとは! 志は萎え、以来被災地に足を運ぶことはなかったが、そこに降って湧いた福島・浜通りを巡る移動報告会。すでに4年が過ぎてしまったが、原発事故による現状をこの目でしっかり確かめたいと参加を決めた。
◆津波被害や除染後の大量のゴミ袋が広がる光景は予想通りだったが、最後の目的地・飯舘村へと県道12号を西に進むにつれ、予想外の風景が出現した。除染した跡に撒く山砂を採るために、木々の繁る緑の山肌がザックリ削り取られている。原発事故は除染という二次被害に加えて、こんな三次被害までもたらしていたのだ。バスが飯舘村に入る八木沢峠越えにかかると、車窓には穏やかな春の林の風景が広がり、うっかり観光気分に陥りそうになった。ところが峠の先に待っていたのは、これまで見たこともない異様な光景だった。
◆飯舘村は帰村を決意し、30年掛けて全村除染することになったという。来春の避難解除に向けて家の周りや田畑だけでなく、すでに山林の除染も始まっていた。立ち木がありながら林床に落ち葉が無い。それは皆伐された林よりはるかに酷い、不気味な眺めだった。養分たっぷりの落葉層があれば、木は切られてもたちまち元気に若木が生えてくる。長年掛けて育まれてきた林の命を無にする不条理。そうまでしないと故郷は取り戻せないのか。
◆30年間の除染費用を村人全員で分けるとすると、一人当たり3億円になるという。それでも故郷を捨てずにゼロから再出発しようという飯舘の人の重い決断には頭の下がる想いだった。そして原発再稼働への更なる憤りが込み上げてきた。
◆2006年と2007年に、私は飯舘村を訪れている。生きている虫に寄生してキノコを生やす冬虫夏草の探索と撮影が目的だった。アリに生える奇妙な冬虫夏草のコブガタアリタケが、世界で初めてこの飯舘村で見つかっていた。そして2006年の調査では、新たにツブガタアリタケという第二の新発見もあった。これらは林内の小枝にしがみついて死んだアリから発生する。たかがアリに生える微小なキノコかもしれないが、林の除染をすればほぼ確実に生息環境は消滅し、その命は息絶える。
◆この調査は村営の「きこり」を宿舎に日本冬虫夏草の会の行事として行われたが、その際に菅野村長が挨拶に見えられて、新しい村づくりの計画など様々な話を伺った。その夢(目標)には私も共感しきりで、自然環境の素晴らしさと相まって将来移住するならここしかない!と理想郷を発見して喜んだのを、つい先日の事のように思い出す。そんな私の夢まで奪った原発が憎い!(茨城県)
■午前11時09分、ゆっくり大型バスが動き出し、地平線初の『移動報告会』がスタートした。鉄道や高速バス、飛行機などでいわき駅前に集合したメンバーは、途中合流組を含めて総勢37名。車窓に広がる晴天や桜の花が、案じていた「被災地訪問」の緊張感を吹き飛ばすほどに明るく、爽やかだった。今回の案内役、滝野沢、渡辺、菊地、上條、賀曽利の各氏にマイクが渡り、挨拶が続く。
◆走り始めて40分、バスは広野の町に入った。土曜日ゆえ、道路はガラガラ。「平日は工事関係者の車で朝夕大渋滞。コンビニも混みあう」という光景は想像つかないけれど、「原発に一番近いコンビニでは、時給が1500円」の説明に特需ぶりが窺えた。12時ちょうど、楢葉に到着。バスを降り、整然と積み上げられた汚染土の黒い袋を横目に、渡辺邸を訪問する。次いで、弁当を受け取りに仮設商店街へ。
◆見ると、同じ並びの食堂『おらほ亭』の店先に、手書きのメッセージが貼られていた。その文面、「お仕事でこられておる皆々様おつかれ様です。一時の帰宅でおいでの皆々様“前を向いたりうしろをふりかえったり うしろを向いたり前をむいたり”ね」は、斜め前に聳える巨大なメタリック看板の、「ならは エネルギー福祉都市 自然と科学が創造する豊かな郷土」に向けられていたのかも。
◆再びバスで少々移動。海を望む天神岬の公園で弁当を開く。展望台に立つと、前方の丘の上に、2Fのアタマが僅かに覗いていた。バスに戻ったところで、賀曽利さんから一言。「あまり知られていないけれど、実は2Fも危なかった。持ち堪えたのは、現場の人たちの頑張りのお蔭です」。知らなかった。やっぱり、「関東以北が死の世界になるのを食い止めました」では、いくら美談であろうと、東電にとって宣伝材料には不都合だったのか。
◆常磐線竜田駅で大西さんをピックアップ(ここまで鉄道が復旧)。ついでに、駅舎そばの草地で線量を測ってみる。数値は0.24μSv/hで、いわき駅前の約2倍。ここから1Fは北に20km弱だ。その1号機の爆発当時、渡辺さんは楢葉町南隣の広野町に避難していた。午後3時過ぎの爆発音と衝撃波も、最初は「町内の火力発電所で何か起きたのか」と思ったそうだ。が、午後5時過ぎのニュースで1Fの事故だと知り、「これはヤバい!」といわき市への避難を決めたのだった。
◆我々のバスは北上を続け、午後2時55分、富岡町の境界を越えた。「ここはバイクや自転車での立ち入りが禁止されてますが、それは無人の検問だと脇から入り込めるから」。滝野沢さんの説明を耳に市街地を走り、駅前で停車。バスを降り、倒壊した家屋裏手の草むらに踏み込むと、突然、線量計の警報音(0.30μSv/h超えで作動)がピーピー鳴り出した。これを最後に聞いたのは、都内で2年以上も前のこと。しかも地表近くの測定だった。さすがにドキリとする。
◆ピーピー音はバスに戻っても止むことなく、町役場の先で0.70、最後の「夜ノ森」地区の桜並木道では、空中線量でも2.0を超えた。その警告音が唐突に沈黙したのは、初日の行程を全て終え、宿に向かって常磐自動車道を南下中、トイレ休憩で楢葉PAに入った時だった。汚染地帯を出たんだな、と安堵する。
◆2日目は、支配人の斎藤信一さんの挨拶と見送りを受け、午前8時40分、宿を出発。昨夕とは逆に常磐道を北上し、9時23分には線量計の警報音が鳴り始め、戻ってきたのを痛感した。大熊町に入ると、脇道はすべて柵で封鎖されている。滝野沢さんは、12年に犬猫レスキューで入った際、『不法侵入』で警察に始末書を書かされたそうだ。10時50分、双葉町の新たな名所となった大看板、『原子力明るい未来のエネルギー』の前に到着。しばし停車する。この標語の作者は、町の看板撤去計画に対し、「負の遺産として残すべき」と訴えているという。虚ろで貧しい単語の羅列が、一転、最強の逆説的メッセージになったのだから、皮肉と言えば皮肉だ。
◆そこから約10分で、浪江町にあるプレハブ作りのスクリーニング場に入る。隣接するド派手で無人の結婚式場と、その駐車場に間借りしたプレハブ小屋の賑わいが、ここでも印象的な対比を見せていた。職員から防護服を受け取って着替え、バスに乗り込む。昨日の富岡駅前と較べれば、同じ津波被災地でも、こちらの請戸小学校や慰霊碑周辺は「根こそぎ」状態だった。
◆その一方で、津波を免れた内陸の浪江駅前は、無人であることを除けば、一見、普段通りの町並みが広がっている。が、ウグイスの美しい声に線量計のピーピー音がハモり続ける、シュールにして不気味な世界でもあった。途中、立ち寄った町役場では、敷地に『パンドラの箱』風の石製オブジェを発見。本当に希望は残っているのかね。そう訝りつつ定礎に目をやると、揮毫者(元町長)の名前らしき『叶』の文字が刻まれている。シビアな現実の前では、私たちの無邪気な日常など一片のジョークに過ぎないのか。そんな思いに囚われた。
◆11年4月、上條さんは南相馬の小高地区へ自衛隊と一緒に入り、瓦礫処理と遺体捜索に当たった。「自衛隊が作業に掛かる前に、ぼくら重機乗りが中の物を引っ張り出す。そのあとを彼らが人の手でどかすんです」「ぼくも子供がいるので、鯉のぼりや新入生のランドセルを見るのが辛かった」(上條さん)。2週間で2人の遺体に遭遇した友人もおり、その彼は、その後1週間、ご飯が食べられず、夜も眠れなかったそうだ。
◆午後0時52分、防護服ツアーを終えた我々は、先とは別のスクリーニング場に到着。元はコンビニだったという建物は、かつての痕跡を全て消されていた。その外観に、「看板外されているところが多いけれど、『死の町』に当社のコンビニがある、というのはイメージ的に悪いからでは」と、滝野沢さんがコメント。ここで汚れた防護服を返却し、靴底の汚染を測定してもらった後、飯舘村に向けて出発する。12号線を進み、いつしか道は八木沢峠(「なだらかな阿武隈山地でただ一つ、名前の付いた峠」by賀曽利さん)へ向かう登りになった。
◆林間に点在する小さな平地が不自然に白っぽいのは、汚染された田んぼの表土を剥ぎ、山砂を入れたためだとか。上條さんによると、復興特需で、一帯では山砂の採取や森林の伐採が違法に行われているらしい。黒い背広の関西訛の3人組がやって来て、「ハンコ押してくれ」と地権者に迫った。そこは補助金で植林した場所だから、山砂の採取は出来ない。が、彼らがスーツケースの中から取り出した札束は、「補助金を返還しても余るくらいの金額」だったという。「地権者だけでも200人くらいいるから、全員に払ったとしたら凄い額です」と上條さん。
◆午後2時10分、最後の訪問地の飯舘村を後に、福島駅目指して山を下る。川俣町に入ったら、当たり前のように人の暮らしが営まれており、その風景に心が和んだ。動物レスキューで走り回っている滝野沢さんも、「川俣で初めて人家の灯りを見るとホッとする」と言う。宿泊が許されない飯舘は、夜が真っ暗なのだ。
◆福島駅まで、あと僅か。江本さん、宮本千晴さん、滝野沢さん、渡辺さんの順に再びマイクが回り、「被災地を見ること以上に、福島の持つ魅力を味わえた。浜通りの復興を心より願っています」と賀曽利さん。最後に上條さんが「いまの状態を見られるのは今年だけ。人が入れるようになればスピード的に復興が進む。日本で起きたことを、いま一度記憶に残し、今後の生活の中で色々考えるキッカケになれば、と思います」と力を込めた。
◆そして、「お家に帰るまでが遠足ですので、気をつけて」の菊地さんの言葉を胸に、福島駅で一次解散。新幹線組、バス組と別れ、それぞれに家路を目指す。疲労感は全くなかったのに、いわき駅前から八重洲行き長距離バスに乗り込んで間もなく、眠り込んでしまった。他のメンバーも同様らしく、さすがは被災地を知り尽くした面々が練り、下見を重ねて組んだプラン。最後まで参加者の耳目を捕らえて離さず、疲れも感じさせぬほどに濃密な2日間だった。(東京都)
■ここ数年、なぜマウンテンバイクで旅をしているかというと、自転車ならばクルマではどうしても見過ごしてしまう景色に出会えるし、好きなところで停まって写真が撮れる、加えてタイヤの細いロードバイクでは躊躇してしまうような砂浜や林の中にもどんどん入って行けるからだ。
◆南相馬市の旧小高町から浪江町に入るあたりの県道は脆い断崖の上で、それまで走って来た田園の道からすると不自然なほど人の匂いがしない林の中を通り抜ける。しばらく走ると「東北電力浪江・小高原子力準備本部」という電柱の看板があってこの林が予定地として保全されていたことがわかった。高台を下りるとようやく里の暮らしが見えてきた。新橋建設中の県道を経て請戸に入る。小さな家が建ち並び、路地の入り組んだ町では10万分の1の地図は役に立たなくなる。町中の小川に真っ白な鶴が悠然と立っていたりして、この共存ぶりが嬉しくなった。ひょいと飛び出す子供たちに気をつけながら潮の匂いの方に走ると、低い防波堤の向こうに魚市場。朝の漁を終えた白い漁船が整然と並んでいた。これが2009年夏のこと。
◆私が行く先々で、その土地の震災前の光景を思い出したり、写真を見せたりできるのはそういう旅をしているからだ。いまも帰還困難区域になっている請戸を「地平線移動報告会」として再訪することができた。賑やかだった町並がまったく失われていることに絶句した。初めて訪れた人たちには、元からここが荒野だったように見えてもしかたない。だから一緒にいた皆さんに私の記憶をうまく伝えられないことがもどかしくて、5年前に撮っていた数枚の写真もそれを補足するには足りなかった。
◆このもどかしい思いは、震災で家を失った人たち、津波で町が流されてしまった人たち、原発災害で故郷に戻れなくなってしまった人たちに共通する思いだろう。見聞きしたことを元にそれを解きほぐすことが「復興」の最初のステップなのではないだろうか。4年経ったのに、まだ福島ではそれさえもできていない、と思った。(東京都)
■『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(東浩紀編)というムックを読み、それまであざとさを感じて敬遠していた「ダークツーリズム」という概念に、大きな可能性を見る思いがした。「スタディーツアー」では旅が個人の内的レベルでとどまってしまうが、ダークツーリズムなら、宮本常一が「観光」という言葉に込めた地域文化の振興や人間交流への思いも取り込んでいける。
◆今回の移動報告会はまさにダークツーリズムを地平線流に実践する場だったわけだが、なるほど、負の遺産や死の現場に実際に自分の身を置くことで、たった二日間の団体旅行が人生のなかでも忘れがたい、じつに深い体験を参加者にもらたしてくれることがよくわかった。汚染土を入れた黒い袋の山がそこかしこに積まれた被災地と、都会の喧噪に包まれたいわき市や福島市がこんなに近いことも、現地に行かなければけっして実感できなかっただろう。参加してよかったと、つくづく思う。渡辺哲さんをはじめ、お膳立てと案内をしてくださった4人のバイク乗りたちに心から感謝したい。
◆しかし一方で、まるで映画のオープンセットのような、人の気配のまったくない街並みを歩き回ったときの居心地の悪さが、あれ以来ずっとつきまとって離れずにいる。けっして「死の街」などではなく、当時の洗濯物が風に翻っているなど、突然ぶったぎられた日常がなまなましく残されたままなのに、私たちはそれを庭先から覗き込んで、カメラを向けてきたのだ。福島の人たちがいちばん怖れているのは事態の風化なのだ、いま自分はこれを見ておかねばならないのだといくら言い聞かせても、後ろめたさはぬぐえない。白い防護服をまとった者も混じる異様な一団を住民の方々が見たら、どんな思いをいだくだろうか。
◆いまになってみると、今回は実際に被災した福島在住の仲間たちが招いてくれたという免罪符があったからこそ、二日間、個人的な思いのなかで自由に過ごせたような気がする。ダークツーリズムは、こちらが押しかけるのではなく、地元が価値を認め、企画し、招いてくれてはじめて成立するものだと、つくづく思った。(東京都)
■安倍首相が世界に向けて「福島の原発は安全にコントロールされている」と胸を張った結果、オリンピックの招致が成った。「首相たるものがウソ言っちゃいかんぞ」と思ったが、招致合戦に勝った歓喜で、原発不安の声は吹っ飛んだ。
◆今回、自身が被災者である渡辺君の案内ということで、地平線会議の浜通りを巡る移動報告会に参加した。首相の言葉で、多少は復興が進んでいると期待していたが、請戸小学校の抜け殻の校舎を見たら、「なにこれ?」4年前の宮城、岩手の状況と同じだった。床が抜けた体育館は卒業式準備のまま、時計は津波の時間で止まっている。校舎の2階は読みかけの本がそのままになっている。
◆移動して浪江の町に行った。ここは津波には襲われていないが、放射線量が高いために全員が避難して、猫一匹あるいていない。線量の高いところはは22.40μSv/hだった。映画のセットみたいだ! とだれかが呟いていた。駅前の新聞配送所の中を窓越しに見たら、福島第一原発の爆発記事が載った新聞が配送されずに積み重なっていた。あの日から時間が止まったまま何も動いていない。
◆避難解除地区の除染作業を見た。住宅は一軒ずつ足場を組んで清掃している。田畑は表土を剥がして新しい土と入れ替えをしている。剥がした汚染土は黒い袋に入れて畑の隅に積み重ねている。ほとんど満杯でその先の行き場もない。それでも今できることは家々や田畑を除染することぐらいだ。しかし作業人の健康と莫大な手間と費用、諸問題が山積だ。除染とは放射性物質をちょっと移動させるだけ。「除染が済んだ家に戻れ!」と言われても、年寄り以外だれも戻ってこない。
◆メルトダウンした原子炉炉内には大変な量の放射性物質が残っている。数十年間は作業にもかかれない。放射性元素の半減期は量が半分になる時間である。セシウム137の半減期は30年、60年で1/4、90年で1/8にしかならない。炉心から安全にとりだすまでには数百年かかる。半減期が長い放射性元素も残っているから、さらに年月が必要だ。後世にとんでもない負の遺産を残したことになる。
◆人体への放射能の影響は何世代にも及ぶ。確率的には小さいが、確実に人類全体に波及する被災だ。我々は人類の時間をはるかに越える「自然の時間」を不遜にもコントロールできると勘違いした。原子物理学者のアインシュタインも湯川秀樹も「原子力は人類にはコントロールできない」と反核を明言した。現代技術は湯川秀樹を越えたとでもいうのか。
◆とりあえず数十年はじっと現状維持。東電・政府、私たちは各地に散った人々のケアをすることが大事だ。原発の再稼働など犯罪行為でしかない。(東京都 4月25日、480μSv/hの放射線が測定された下板橋の公園の近くに住む)
■無人の浪江駅前を歩いた。所々地震によって壊れてしまった所があるが、ほとんどの建物は外から見る限り無事だ。一見普通の街並みに見える。計測器の小さな警報音が鳴り続けていなければ、のんびりした旅行気分になりそうだ。それなのに、人はいない。ここは違うんだ。見えない放射線はもちろん怖かった。それよりも、こんな場所を造り出してしまった行為が怖くなった。静かな街に、目に見えない怖いものが充満していて息苦しかった。(東京都 小田洋介)
■請戸小学校が、津波の被害があってもなお、いい学校だったんだな、いまも愛されているんだなとわかる佇まいで、浪江町の伝統工芸・大堀相馬焼の大きなタイル絵や、廊下のあちこちに埋め込まれている小さなタイルたちに心掴まれて、請戸小学校や大堀相馬焼のことを帰ってから調べまくっています。物見遊山で申し訳ないなと思いつつ、二本松に移転したという工房に行ってみたい。楢葉町へも、蟹洗温泉へも、また行きたいです。(神奈川県 加藤千晶)
■私は電気が無いと暮らしていけない生活をしています。ガスも水もガソリンもとても必要です。それなのに計画停電も節電もノドモトを過ぎてしまっています。今回ふくしまを見学して、原子力を災害大国ニッポンで稼働させる危険を目の当たりにしました。原子力は脱石油依存の大きな望みだったはずです。しかし他人様が作ったライフラインに頼り切っている私にいったい何ができるのでしょう。考えていきたいと思います。(東京都 黒木道世)
■一面に背の高い菜の花が咲き乱れている畑があった。周りは一面に枯れ草が繁っている。いや、すぐにも作付けの準備がはじまりそうな土の広がりも見える。え、もうこのあたりでも作物が作れるようになっているのか? あちこちに黒い巨大な土嚢がびっしりと並べてあるのに? なんだか刈り取った牧草のロールのようだ。気がつくと、ずっしりした瓦屋根の棟がまるでしっくいで飾ったように白いシートと黒い重しで覆われている家があちこちにある。そして落葉広葉樹の多い背後の丘陵には山桜のピンクとコブシかヤマナシの白い花。岬の公園の桜もいじらしいほどはかなげで、すがすがしい。
◆だが、少しずつ目の感じる違和感を頭が追いかけはじめる。あの菜の花は花の咲く前にいなくなった主人に見せる機会のないままに毎年その営みをつづけていた、ということだよな。ぬぺっと整地された畑は普通の耕起とは違う。準備ではなく、汚染された表土を削った跡だ。枯れ草の生い茂っている田畑はまだまだ広い。あの黒い土嚢の長城はまだまだ増える。そうか、ここは最近まで入れない土地だったのだ。まるで打ち捨てられた映画のセットのように、地震と津波で破壊されたまま草に埋もれはじめている廃屋の町があり、震災の翌年の訪問で見た土台だけ残る集落跡に水仙の花が咲いていた。
◆このような結果を招いた自分たちのどうしようもなさを考える。なんでこうなるのか、どうすればいいのか。ぼくらはみんな無責任なのだ。やばいことは他人に預ける。どうすべきかを考え抜かない。地元勢の上條さんはすべてが金に見えるようになってしまったと嘆く。補償を受けるために放置された車のつぶれたタイヤ。しかしそれは取り敢えずとれる行動。非難はできない。
◆ひとつだけ先人たちの智恵と意志を見た気がしたのは渡辺さんの家の海側に生き残っていたタブとおぼしき照葉樹の木立群だ。おそらく1933年の大津波の後頃であろう。近隣の村にも見られる。明らかに村の総意と智恵でここに松でなく照葉樹の防潮林が作られた歴史があったのだと思う。被害者を出さなかった請戸小学校と海の近さも心に残った。しかしここの問題は結局放射能だ。いま子供や子供の可能性を抱える若い人たちは帰宅を断念し、戻るのは多くが年寄りになりそうだという。それでいいのではないかと思う。つまるところ未来を作るのはそれぞれの覚悟と行動で、復興ではなく開拓なのだ。(東京都)
夕食会で聞いた長谷川さんの自己紹介が印象的だったので、イラストと共に原稿をお願いした。(ねこ)
■高台造成の傍らで、津波で洗い流された教室に泥だらけのランドセルが残る請戸小学校、富岡では黒い袋が積み上げられた放射性廃棄物保管場所の近くで、柱だけになった家が未だにあるのを見て、取り残された被災地に大きな衝撃を受けた。宿泊した蟹洗温泉で、ほとんどの人が参加して午前1時まで続いた二次会は、私の知る限り地平線史上最大の盛り上がりだった。昼間見た光景を忘れるために、皆よく飲みよく喋ったようにも感じられた。(東京都 武田力)
■いわき駅に集合し、皆でバスに乗り楢葉町の渡辺家へ。のどかな風景の目前に黒いシートに包まれた放射性廃棄物が積み上げられている。線量計はさほど高くない(0.18μSv/h)。天神岬公園から望む広野火力と満開の桜が見事だ(0.31μSv/h)。常磐線のいわき側終点「竜田駅」、塞がれた北行線路、代行バスの被爆表示(原の町へ1回乗車の場合、1.2 μSvの被爆)。波倉地区では、破壊された防波堤から奇跡的に危機を脱した2Fを望む。富岡駅周辺の地震と津波による無残な爪痕(0.30μSv/h)。夜ノ森地区の桜トンネルと「夜ノ森ソーラータウン分譲中」の看板。そして、高い放射線量(3.12μSv/h)。翌日は、6号線を北上して1Fに最接近(車内で2.55μSv/hを記録)。双葉町「原子力明るい未来のエネルギー」看板の皮肉。防護服を身に纏い、帰還困難区域の請戸へ。低い放射線量(0.09μSv/h)の矛盾。浪江駅周辺の死んだ街並(0.85μSv/h)。通算被爆線量5μSvとともに、未来への負の遺産の重みをずっしりと感じた旅だった。(神奈川県 斎藤孝昭)
■津波はここまで来たのだ!! ねじ曲がった車輌、土台だけ残る街、水没して白骨化した杉林と対象的に何と言う樹か、想像の水平線から上に緑が茂っている。バリケードに立つ警備員と巡回のパトカー以外に人は居ない。鶯鳴き、桜や草花が咲き誇るその街角の線量計は21.4μSv/hの値を示した。戻りたくても戻れない人の街に数十分だけ居る事の息苦しさ。今ここで、日々現実と戦っている方々のお話を聞けた事に感謝する。そして考え始めた。自分は自分の現実と真剣に戦っていけるのかと。(東京都 長野昭一郎 )
■農家の気配がない耕作地の地面をトラクターならぬ黄色いパワーシャベルが圧迫し、その横に汚染土で満腹の黒い土嚢が行儀良く並ぶ。作業員さえ入れない田畑では延び放題の草の中に灌木が育つ。近く繋がっていた人と自然の距離が、ここでは止めようもなく遠くなるばかりだ。まして山をどうやって「クリーンに」出来るというのか。線量計の警告音に馴れ始めた自分を意識しながら、「アンダー・コントロール」のまやかしに反吐が出る思い。(東京都 長野亮之介)
■仕事柄、災害発生の直後または真っ最中の立ち入りが制限されている被災地での緊急調査に携わってきました。今回の被災現場では家屋や構造物が破損したメカニズム、対策事業の根拠となる法規・技術基準と実際の執行方法に思いを巡らしていました。東日本大震災への復興は津波に対する高台移転・地盤かさ上げが含まれ、10年、20年かかると考えていました。福島では、さらに眼に見えない放射能被害が加わり、もっともっと長い年月を要する対応は私の理解を超えています。(埼玉県 半月前に国土交通省を退職し、無職・無収入の花岡正明)
■今回いわきから開通したばかりの6号線を北上し、第1・第2原発を間近に見ながらの報告会。原発事故のため4年経っても震災の状況そのままの浪江駅前商店街や請戸小学校、そして富岡町を目にし、ここに居た方々の思い、除染後のフレコンバッグの累々と並ぶ風景、新緑の山笑う美しさ、足元のたんぽぽの可憐さどれも現実。復興のさまも見ることでき、濃密な二日間で空っぽ頭が重くどうしたらよいのやら。今までよりもっと福島に思いをよせます。(東京都 横山喜久)
■『FUKUSHIMA×フクシマ×福島』というタイトルの写真集がありましたが、どんな呼び名を使ってもこぼれおちるもの、捉えきれないものがあり、カメラのレンズや目に映ってはいたけれど本当はなにを見ていたのか考えるためのヒントがちりばめられた貴重な二日間でした。参加できてよかったです。(東京都 森元修一)
■渡辺哲さんより預かった線量計を見ながら、徐々に数字に馴れていく。そして、すぐに身体に影響が出ないことにも安心してくる。すると、数字が大きくなるとびくびくしていた自分が大胆になってくる。もっと上がれ、とまで思えてくるのである。皆で行った渡辺家の前、毎時0.23〜0.5マイクロシーベルト、年間2ミリシーベルトから約4ミリシーベルト。放射線管理区域でも年間1ミリシーベルトなのに……。それでも渡辺哲さんは、明るく笑いながら、キッパリと「住む」と言った。(京都府 加藤秀宣)
■被災地を見て、なぜか地球バイク旅の途中で立ち寄ったモンゴルを思い出しました。モンゴルの大草原で、日本人のDNAに一番近いと言われる、ブリヤート人たちの家に泊めてもらったり大変お世話になったんですが、彼らはとっても自分たちのルーツ、故郷を大事にしていました。原発事故によってそんな故郷を失ってしまった人たちが、日本にいるんだと思うと、なんとも複雑な気持ちです。今回、福島のいろいろなことを知ることができて勉強になりました。これからも、しっかり考えていきたいです。(東京都 滑川将人)
■昨年9月に江本さん&渡辺さんの視察隊に同行した縁で、企画・実行者の末席に加えていただきました。その旅の途中、富岡駅前あたりだったと記憶していますが、江本さんが「やっぱり地平線のみんなに見せよう」と宣言して、この企画が始動しました。
◆今年2月には滝野沢さんも加わって再び下見を敢行。この時点ではマイクロバスを借りる計画で、私自身も大型バスは反対でした。観光バスで乗りつければ物見遊山のツアー感がでてしまうし、気の合った仲間が集まればどうしても楽しい雰囲気が出てしまう。多くの人に福島を訪れてほしいと思うし、みなが終始暗い顔をする必要はないと思うけれど、そこで暮らしを失った人たちのことを思うといまでも葛藤があります。それに、あっという間に“風化”が進んでいる現状をみると、そもそも参加希望者はすくないのではないかという諦めに似た空気も、いわき駅前でビールに地鶏をつつく私たちの席には漂っていたように思います。結果的に予想以上の人が現状を見たいと思っていたことがわかって、私はすこし胸を打たれたのでした。
◆福島で駆け出しの記者をしていたころ、毎日の事件取材の中でだんだん人の死に慣れて鈍感になっていく自分が嫌だなと思っていました。そうしてドライに割り切っていかないと日々の仕事をとてもこなせないわけですが、それによって失われていくもののことをよく考えていました。
◆震災後に初めて福島を訪れたとき、自分の知らない福島の光景を直視するのがとても辛かった。でも二度、三度と通ううち、震災直後のような姿のまま晒されている崩れ落ちた家屋やそこにあった生活の痕跡、里山に黒袋が積まれている異様な景色にだんだん慣れてくる自分がいて嫌だなと思うようになりました。なぜ嫌なのかというと、その現実を諦観とともに受け入れつつあるように感じるからなのかもしれません。受け入れることで始まる行動もあるけれど、失われていく(例えば怒りなどという名の)エネルギーもあるように思うのです。
◆なんだか話がちっともまとまりません(笑)。まとめるつもりもありません。割り切って結論を出さずにぐずぐず考え続けていこうと思います。(東京都)
■大震災4年目の浜通りは、大きく変わった。3月1日に常磐自動車道の全線が開通したからだ。今回の移動報告会がスムーズにできたのも、そのおかげによるところが大きい。南北に分断されていた浜通りがやっとひとつになった感がある。浪江ICから国道114号で浪江の町中を走り抜けて国道6号に出たが、まさかこの区間を通り抜けられるようになるとは。
◆国道6号の交差点から海岸一帯の請戸地区に入れたのは、江本さんや渡辺君らの尽力で許可証が取れたおかげ。原発の爆発事故で一般人の立入禁止のつづく請戸地区には、3.11の大津波の惨状がまだそっくりそのまま残っていた。浜通りを何度となくバイクで走ってきたぼくにとっても初めて見る光景。海岸のすぐ近くにある請戸小学校は、幸いにも全校児童が無事だったと聞き、ぜひとも「震災遺構」として残してもらいたいと思った。
◆宮城県石巻市の大川小学校は多数の児童と教職員の方々が亡くなったので、校舎を残すことには賛否があるが、児童全員が助かった請戸小学校ならばできるのではないか。大津波に襲われた請戸小学校の校舎をひと目、見るだけで、平成の大津波のすさまじさがよくわかる。「震災遺構」として残すことになった岩手県旧田老町の「田老観光ホテル」と同等の価値があると思う。
◆請戸地区を見てまわったあとは、JR常磐線の浪江駅前へ。ここも許可証がないと、一般人は入れない地区。まったく人気のない駅周辺を歩くのは不気味でもあった。2011年3月11日の14時45分まで町はにぎわい、浪江のみなさんはごくごく普通の生活を送っていたのに……と思うと、胸が締め付けられるようだった。浪江駅前の新聞販売店には、配達されずに積み上げられている地元紙の「福島民報」が残っていた。一面には「原子炉建屋で爆発」の大見出しがおどっていた。
◆3.11を境にして時間が止まってしまったかのような浪江だが、町民のみなさんが戻り、町が賑わう日が一日も早く来ることを願わずにはいられなかった。(神奈川県)
■実は今回のこの企画には正直乗り気ではありませんでした。それは震災直後でもなくもう4年が過ぎ、今さら被災地を見て感じて何かしらの行動に出れないのでは、他の旅行客のツアーと同じになってしまうのではと思ったからです。見て感じて行動にでれず何もせずただ、ため息をつき、涙をこらえても何も変わらないのです。酒をのみ大盛り上がりを見せても福島は良くならず悲惨な状況を見てもなお楽しめる心は上條にはないのです。そんなだらしのない地平線メンバーを見たくはないとの思いからです。少しでも地平線メンバーは行動に出れる人達だと思っていたかったのです。
◆あの場で聞けなかった事、言えなかった事を書きます。皆さん、福島第一原発は、東京電力、それは関東電力なのです。皆さんは節電に気をつかっていますか? あの震災以降自然災害に備えていますか? 被災地を見て感じて行動に何かしら出てくれますか? 一緒にこの福島に住み、地域の復興に力を貸してくれますか? 生活費は全て福島で稼いで生活してくれますか? そんな事をずっと考えていました。
◆南相馬で生き、バラバラな家族を養い生活をする事、地域の復興を考えても力が足りず、資金も協力者もいない、この福島県内でお金を稼ぎ生きていく事がどれほど大変か。家族が自分達の意志では無く他人の力でバラバラになった事がどれだけつらいか。被災地と呼べるこの福島県浜通りには、各市町村によってそれぞれの環境で苦悩が違います。一人一人が様々な環境のなか苦しみ生活をしています。被災者や被災地を見てかわいそうだと思いますか? かわいそうだと感じたならやめてください。俺たちはかわいそうな人ではないのです。福島に何らかの事を感じたなら行動に出てください。何をしてよいかわからない人は聞いてください。手伝ってください、力を貸してください。自分を無力だと思わず行動に出てください。それが福島を日本を変えて行く一歩なのです。(南相馬市住民)
■4月の地平線移動報告会に参加して頂いた皆さん、遠いところ福島県・いわき市まで来て頂き、本当に有難うございました。今回の移動報告会のきっかけとなったのは、昨年2014年9月に江本さん、菊地さんを福島の浜通り地域へご案内した際、当時まだ津波被害そのままの姿で残っていたJR常磐線「富岡駅」を見て江本さんが、「ここは地平線メンバーに是非見せたい」と発した一言が始まりでした。この度参加された皆さんのご協力により当報告会を無事に開催することができ、その準備の一端を担わせて頂いた事をとても嬉しく思っております。
◆東日本大震災から早4年もの時間が経過していますが、今回ご覧頂いたように福島第一原発周辺は津波で破壊された家屋や車が未だに放置されているエリアが残されています。そんな風景を見ると、今後の地域再生など程遠いもの……と諦めに近い感情をぬぐい去ることが出来ません。
◆原発事故は町をズタズタに寸断し、地域コミュニティーを崩壊させてしまいました。時間が進むに連れ、故郷への帰還意識は徐々に薄れていくことでしょう。特に30代以下の若い世代の帰還意識はどの町も低いのが現状です。今後避難指示が解除されたとしても、若者世代が戻らなければ、地域は衰退の一途を辿るのみです。非常に厳しいのですが、これがこの先の原発周辺地域の受入れざるを得ない現実ではと思います。
◆でも、そんな状況でも何とか前を見据えて進んで行きたい、何の根拠も無いのですが、そんな気持ちが自分の根底にはある気がします。やはり元の町の賑わい、安らぎを取り戻したい、そんな思いからでしょうか。
◆楢葉町は震災から1年5か月経過した2012年8月10日に警戒区域から避難指示解除準備区域へ再編成され、日中の自宅への行き来が可能となりました。それまでは自宅近くのJビレッジに検問が設けられ、住民でも立入ることが出来ず、「何故すぐ目の前の自宅に行くことができないのか……」と、悔しさと悲しさが入り混じり何とも複雑な気持ちであったことを思い出します。
◆ただ今も尚、富岡町・大熊町・双葉町・浪江町の帰還困難区域では、自宅への行き来が国の許可無しでは一切出来ません。道一本隔てて、バリケードで封鎖されている風景はどう見ても異常です。そんな地域がまだ現存しているということ、そして今後の見通しすらたっていない地域があることを是非とも忘れないで頂きたく思います。
◆ 福島の復旧・復興はまだまだこれからです。今後も住民として自分に出来うることに積極的に取り組んでいきたく思っております。(楢葉町住民)
■福島移動報告会に参加されたみなさん、ありがとうございました。2月に下見を行ったときは、「みんな、もう福島のことなんて興味ないかも」と思ってたのですが、37名もの参加者が集まり、真剣に被災地を見て私達の話に耳を傾けてくださって、本当に感謝感激です。福島県民でも被災地のことなんてこれっぽっちも興味がない人が大半なのに、遠くから参加された方も多く、放射線や福島に関する知識もしっかりしていてするどい質問も多く、さすが地平線会議のメンバーだな、と改めて感心しました。
◆今回、私が一番見ていただきたかったのは、浪江駅前の「死の町」。双葉町や大熊町は浪江以上に時が止まったままですが、基本的に住民の一時帰宅以外の入域を許可していないため、旧警戒区域で私達が見ることができるのは、今回行った楢葉町、富岡町、浪江町(許可証が必要)のほか、南相馬市小高区になります。特に浪江町は東電関係者の接待などに使われた飲食店も多く、駅前通りにはたくさんのお店がありましたが、見ていただいた通り、現在は人っ子一人いません。カラスの声だけが空しく響く、まさしく「死の町」です。毎回、ここへ行くたびに、「兵どもが夢の跡」というフレーズが頭をよぎります。
◆浪江町は原発立地ではない(計画はあった)のですが、双葉郡の中心地だったそうで、原発で潤っていたことは否定できず、原発とともに町が発展してきた経緯があります。避難されている浪江町住民の方は、「行くたびに荒廃して見るのが悲しくなるから」と、一時帰宅する回数も減ったそうで、実際、最近は住民の方に会う機会はごく少なく、町を行きかうのは除染などの作業車や警察車両ばかり。町中には地震で崩壊寸前の建物も多く、それらは徐々に解体が進んでいます。
◆きっと、そのうちすべてが壊され、何ごともなかったかのように整地されてしまうのでしょう。富岡駅も、昨年秋までは津波で壊された駅舎が残っていました。浪江町の海岸沿い・請戸地区も、少し前までは船や車の残骸があちこちにあって津波被害の惨状を伺い知ることができたのですが、移動報告会のときはすっかり片づけられてしまって残念でした。帰還困難区域を除く旧警戒区域は、除染作業が真っ盛りです。黒い袋だけが延々と増え続ける、異様な世界です。除染作業は福島県中に広がっていて、我が天栄村も、今年、ようやく除染が始まります。
◆2011年4月からずっと、残された犬猫への給餌レスキュー活動を通して原発被災地を見続けています。許可証なしでゲリラ侵入していた頃の緊張感はもうないし、悲惨な光景を目の当たりにすることもほとんどなくなりましたが、工事車両ばかりが行きかう現在の被災地を見るたびに虚無感を感じる今日この頃です。元通りに復興するまでにいったい何年かかるのか? それまで私は生きているのか? そもそも、元通りになるのか?
◆震災から5年目。今後、風化が進んでますます気にされなくなることと思いますが、私は福島県民の立場で、しっかりと福島の今後を見届けたいと思います。(福島県天栄村住民)
■「団体行動が苦手ですからね」。バスを降りると三々五々散ってしまう(しかもなかなか戻ってこない)参加者たちに、誰かが自らを棚に上げ苦笑する。だが、今回の移動報告会では、団体であることの良さも感じた。それぞれの場所で、あるいは車内で、場の共有により得られるものも多くあるように思えたからだ。これは、普段の報告会にも言えることかもしれない。
◆地平線会議という団体として、福島の地を訪ねるわたしたちがまずできるアクションは、「伝える」ことだと思った。これが、参加者全員に原稿を依頼した理由であり、今はあまり聞き慣れない「特派員」という言葉を使った所以でもある。
◆「全員書き手案」を後押ししてくれた通信編集長や編集スタッフ、似顔絵作成をかって出てくれた長野画伯、いつもより盛りだくさんなレイアウト作業をこなしてくれた森井さん、ありがとうございました。そして、原稿依頼に快く応じてくださった参加者兼伝達者のみなさん、お疲れさまでした。これで、ようやく移動報告会全行程終了です(紙面の都合上、割当て字数が少なく、似顔絵がなかったみなさん、ごめんなさい)。
◆この通信を読まれる方に、さまざまな視点による福島の今が伝わるよう願います。(福島・浜通りを巡る移動報告会レポートとりまとめ人 大阪府)
■ガタガタの未舗装のジープ道を、ちょっと足早に下り歩いているときだったので、すぐには気づかなかった。けれど違和感を感じ足を止めると地面が揺れていた。とっさに頭上を気にする。なにしろ断崖の真下に続く道なのだ。ここはマナスル山群とアンナプルナ山群の間を流れるマルシャンディ川の深い渓谷。両脇にヒマラヤの8000mが聳える只中だ。付近では巨大な落石もあるのだろう。ダイナマイトが爆発するような音が響いてきて、ヒマラヤの山全体が重低音のうなりをあげている。
◆谷の奥では大きな土砂崩れで砂塵が上がっている。きれいな水が流れていた渓流は、見る見る茶色い濁流にかわってゆく。ぼくはネパールにはよくくるのだけど、今回はマナスル山域をトレッキング中で、あと1時間で長いトレッキングも終わるところでの地震だった。
◆揺れは1?2分ですぐにやんだ。目的の最寄の村は深い渓谷の中でも比較的に平ら、つまり比較的に安全なところだ。そこまで行くにはふたつのルートがある。川の西側のジープ道か、東側のトレッキング道か。どちらも断崖の崖下の道だ。多少はましだろうとジープ道を小走りにゆく。そこも崖をくりぬいたような道だ。半分くらい来た所で、大きな余震がきた。対岸のトレッキング道で大きながけ崩れと落石が起こり、巨石が谷底に激突するたびに大爆発の音がヒマラヤに響いた。こっちのルートにしてよかった?。
◆村では村人は建物の崩壊を恐れて外に出ていた。村の水力発電の送水管が落石でつぶれて停電中だが、崩れた建物はない。その地震、ぼくら地震慣れしている日本人には大した揺れでもない。だけれど地震を知らないネパール人には一生一大事の大地震のようで、もっと大きな地震が起こると思って外にいる。小さな余震があっても、ぼくら日本人はこれなら大丈夫と平気でいるのに、地元民はその度に建物から飛び出している。電話は通じなかったが、時々誰かの電話が外部につながると情報が断片的に入ってくる。カトマンズは大きな塔が倒れて大騒ぎのようだ。
◆あとからわかったのだが、震源はラムジュン地区で、我々は震源に驚くほど近くにいた。翌日には地区中心のベシサハールにジープで移動したが、余震を恐れて建物の外でタープの下で過ごしている人もいるが、とくに崩れた建物もなく、けが人が出たとの話もない。その翌日にはインド国境のタライ平原まで下るが、地震の影響はなく、象の背に乗ってサファリにも出かけた。地震なんて本当にあったのだろうか?ただカトマンズからインドに向かう幹線道路は、脱出しようとする人々の車で大渋滞だった。日本ではネパール全土が大惨事であるかのように報道され、死者は5000人を超えているという。
◆地震4日後にカトマンズへ向かう。水と食料を買いだめしてゆく。渋滞はなくすんなりとカトマンズに入れ、市内の道路も問題なく、そのまま空港近くへ。崩れた建物もあるがほんの一部で、店も開いているものも多く、各種フルーツから採れたての魚も店先にある。人々も普通に往来していて、一見地震などなかったかのようだ。一番の繁華街である旅行者エリアのタメル地区は、建物が密集していて、全部崩壊しているものと思っていたが、実際は崩壊した建物などない。ひとつだけ傾いた建物があっただけで、土産店なども半分くらいは開いている。
◆旧王宮地区のダルバール広場は世界遺産の建物の多くが崩れていた。こちらは残念なことになっている。でも全滅ではなく思ったよりマシかな。レンガつくりのエリアでところどころ崩れ、鉄筋建ての建物でも崩れているものがあるが、全体からするとほんの一部といえる。日本の東北の震災現場を見たことがあれば、それに比べてカトマンズの被害は大きくはない。これならカトマンズは復活できるという安心を感じた。比較する対象を持つかそうでないかで、感想は異なるのだろう。しかし報道されていたのは何だったのだ?
◆地震5日目には予定通りにいったん帰国の途に着いた。カトマンズ空港はとくに混んでなくフライトのキャンセルもない。しかし中国空軍やインド空軍の救援輸送機がやたらと来て、旅客機の離陸は遅れた。いったん日本に帰るが、その翌日には再びカトマンズへ向かう。最初からその予定だったこともあるが、いくつもの疑問がある。どうして震源近くは被害が少ないのか? なぜ日本の報道は、水や食料が不足し病気の蔓延など、不安を煽り立てるようなことを書くのか?真相を少しでも確認しておきたい。ネパールが非常事態なのは疑いなく、それを放って逃げてくるようなことがあってもならない。
◆再びネパール入りしてから一週間、あちこちを回ってみた。自衛隊は高級ホテルに泊まって暇そうにしていたし、救援物資は各国からたくさん届いている。崩壊したと思われたバクタプールも震源近いゴルカも思ったほどの被害でない。被害の大きかったというヒマラヤの山奥の村々までは訪問できてはいないが、全体的に言ってネパールはきっと立ち直れる。それよりも観光立国ネパールから多くの外国人の姿が消えたことが気になる。ツアーのほとんどはキャンセルになり、地震の影響が皆無のポカラですら、ホテルはがらがら。過剰な報道にもよるのではないか。震災の悲惨な部分だけクローズアップされすぎてないか?
◆必要なのはネパールは訪れても大丈夫だよってことを知らせ、自粛することなく観光客に戻ってきてもらうことである。世界遺産の建物群は4分の3は残っているし、無傷のところもある。その部分だけでも訪れる価値はある。ヒマラヤの白く輝く峰峯は、地震前と変わることなく、神々しくもたおやかにつらなり、天空へと聳えている。(5月11日、安東浩正@大理@雲南より)
■巨大地震の真っ只中、ネパールに居ました(居ます)。震源地ラムジュン近くの割には、被害の殆どないマナンで地震に遭いました。被害は殆どなくて無事だったのですが、外界との連絡がまるで通じず、それでもカトマンズはヤバそうだと直感したので、そのまま予定通りにトロンパス越えて、昨日ムクティナート、今日はムスタン入口のカグベニというところまで下りてきて、ようやくネットワークが繋がるようになったところです(停電ばかりで安定しませんが)。
◆とても多くの皆様に心配していただいていたようで、メール沢山入っていましたがネット状況良くないので全ては見れず。取り急ぎ、江本さんにメールしました。ネパールに居ながらにして、ネパールの被害状況がまだよく分かっていませんが、マナン・エリア、ムスタン・エリアは被害ほとんどないです。この後、ポカラへ移動して、情報をしっかり把握してからカトマンズ経由、日本に帰る予定です。(5月2日 谷口けい @Kagbeni, Mustang)
■江本さんようやく通信可能なポカラまで下りて来ました。色々な情報がありましたが、ポカラは全く被害なしだそうです。風評被害(?)で、一大観光地も閑古鳥。いつも思いますが、メディアの情報は受け取り手の問題もありますが、一面だけで全体を意味してるわけじゃないってことを改めて思います。ジョムソンでは、カリガンダキ(川)の南東側に大きな断層があり、家屋の倒壊もありました。ポカラは地盤が硬いのだそうです(地元の人曰く)。
◆国内線はこの辺りでは1/3位しか運航していなく、急いでも町に下りられなかったので、ムスタン地域では村ごとにゴンパ詣りしながら、震災があっても美しいヒマラヤの峰々を仰ぎ見ながら、ゆっくり下りて来ました。マルファ村では、ちょうど満月のブッダ誕生祭儀に出くわし、年に一度108の経典が村人に背負われて村を廻り、河口慧海記念館に運び込まれるところに遭遇しました。河口慧海記念館は、地震で数か所亀裂が入ってしまっていました。いつの日か直してあげたいですね。
◆私と一緒にトレッキングしていたスタッフ達の村の家は、全員の家がそれぞれ倒壊したと言っています。シェルパ族はクーンブ地方、グルン族はゴルカ地方で、共に2回の地震で被害を受けたと伝え聞いている地域です。ただ、彼らはしきりに家族と連絡を取りたがっていますが、悲壮感はないんです。そこがネパール人気質ともいうべき、尊敬すべきところでしょうか。壊れちゃったら直すしかないさ、みたいな。前向き現実的な生き方というか。偉大なるヒマラヤの高峰と共に生きていると、そんな大らかな感じになれるのかな?
◆あと、エベレストはもう人間の傲慢で登っちゃいけない時期に来ているような気がします。去年も沢山の命が奪われ、また今年も。人間の勝手な気持ちで高峰の頂を手に入れようとするのなら、自然だって勝手な気分で身震いするってもんですよね。(5月6日 谷口けい@Pokhara, Nepal)
■森田靖郎さん、小説・東京チャイニーズ「悪」シリーズ第4弾『悪党』を刊行! 子書籍として精力的にライフワークと取り組んでいる作家の森田靖郎さんが「悪業」「悪血」「悪銭」に次ぐシリーズ最新刊『悪党』を上梓。「資本主義末路に咲くあだ花、中国株式会社」「国家犯と違法犯が同居する国」「黄金夢か悪夢か」の見出しが。アマゾン、kindle 、楽天koboで配信中。
■金井重さん、歌集『町姥のうた』を刊行! 「敗戦で18才+70年 あっという間でした。山姥になれない町姥のひとり『町姥のうた』です。手にとって頂ければ幸です」と、お送りくださった。(E)
エモノトモシャさま及び地平線会議のみなさまへ。
心配をおかけしています。以下は、5月5日に昔の仲間たちに向けて発信したものです。エモノトモシャさんのご厚意によって、この地平線のスペースを割いていただきました。いつもタイムリーに声をかけていただき感謝します。
既にご存知のように、4月25日現地時間お昼前、ネパールでM.7.9の大地震が発生しました。その日から十日が経過、日本のメディアやインターネットでも首都カトマンドゥや山岳地帯の被害状況が明らかになってきました。
私が1975年以来通い続けたネパール=ヒマラヤ、ランタン谷の村はほぼ壊滅的なダメッジを受けました。農業と牧畜、そしてネパール有数の景観を有する観光地としての利点を活かした観光業、これらに依拠して成り立ってきた村でした。大地震後の地滑り、村の北側から雪と氷を伴った雪崩によって、村人の生きる術を失ってしまいました。
今、村の総人口の三分の一を失い、残ったおよそ400人は一部はトレッカーたちが集まるキャンチェンに、その他は郡庁のあるドゥンチェやさらに下方の町、そしてカトマンドゥに分散して避難しています(カトマンドゥの息子の情報)。
ここに1枚の写真があります。私が長く下宿していた家の一家の写真です。1987年ころ。リクチと夫のダワ、長女セルプティ(1973年生)、長男のテンバ(私のカトマンドゥの息子、1977年生)、そして次男ギュルメー(1980年生)と次女ツェリン・ダワ(1983年生)の6人。今回の大地震で息子は父親のダワ以外の家族を亡くしました。それはまた私の家族でもありました。
今、村人たちも何をどのようにしてよいのか、途方にくれているのではないかと思います。私も何をどこから進めて良いのか、何ができるのか。ともかく残された村人たちにあって、話し合い、現場を見てこようと思っています。長くチベット仏教のお寺や仏塔を手がけて来た在インドの友人(日本人)がキャンチェンのゴンバ(お寺)の図面を描いてくれると言ってくれました。この混乱で私も彼らの心の支えも立て直さなければならないことを忘れてしまっていました。5月20日前後の出発を予定しています。何か彼らの「新しい村」作り、復興の道筋のお手伝いでもできればと思います。
1986年に立ち上げたランタンプランの仲間たちが、緊急にランタン谷の再建・復興支援の呼びかけを提案してくれました。わたしたちでできることは限られていることは承知しています。みなさまの力もいただきながら、かつてこの村に明るい電灯を灯したように、ほんの少しでも希望の道筋がつけられればと念願します。ご賛同ご協力の輪を広げてくださるようお願いします。
ランタンプラン代表・貞兼綾子
お振込先:
みずほ銀行 大岡山支店 普通預金 1865095
京大雪氷生物グループ 代表者 幸島司郎
お振り込み後、langtangplan@gmail.com宛に住所、氏名、所属(地平線会議など)、電話番号、メールアドレスをお知らせください。
お知らせいただいた個人情報は、募金に関する連絡以外には使用いたしません。
なお、募金いただいた方の氏名を公表させていただくことがありますが、公表を希望されない方はイニシャルのみの公表としますので、お振り込み後にご連絡いただく際にその旨お知らせください。
貞兼さんは、『チベット研究文献目録』(亜細亜大学アジア研究所)、『風の記憶 ヒマラヤの谷に生きる人々』(春秋社)などの著書で知られるチベット学者。東洋文庫でチベット研究をしていた1974年、初めてネパール入り、予定していた3か月の滞在予定を急遽変更し、以来79年まで5年間にわたりネパールのトリブバン大学研究員としてチベット系民族について学ぶ。79年から81年まではパリのEcole Pratique des Haute Etudesでチベット学を修め、1986年には研究活動と平行して、家族のような関わりを持ちつづけてきたランタン村支援のため「ランタンプラン」というNGOを設立、その代表となった。「自然と人の調和を展望しながら村人による薪に替わる熱エネルギーの導入に助力する」ことが目的で、氷河の水を利用した水力発電システムを使っての段階的な電気供給とそれを利用した地場産業の拡大、同時に環境問題に関する啓蒙活動とリーダーの育成を目指してきた。その活動については2001年6月、第259回の地平線報告会で話してもらった。2001年12月、東京で開催したフォーラム「チベットと日本の百年」を江本らと企画、実行した。(E)
■5月はじめ、苗床の設置を無事終えた。3月の報告会で伝えたが、多胡家は、自分の食べるものは自分で作る、と家族あげて農業宣言し、実行しつつある。とは言え、自分が世界としてきた「空」に関わる事象からは目を離せない。報告会でもふれた「ドローン問題」だ。
◆「ドローンは防災関連・人命救助・オリンピックなどの警備使用にも有効活用でき、要は車と同じ使う人次第なのです」。放射線物質をくくりつけたドローンが首相官邸の屋上で発見。その翌朝のニュースで我がモーターパラグライダーの師匠がコメントしていた。1月にはホワイトハウス敷地内にドローンが墜落しているのが発見され、厳戒な警備体制とは何かが問われたばかりだった。4月、ネパール地震ではその災害の模様がドローンで写し撮られた。今までのリポーターが最前線で取材するスタイルとは一線を画し、人の目が届かない部分を低空で空撮。地震の詳細は瞬時に世界に伝わった。
◆ドローンはいずれ規制で飛ばせなくなる。だからその前に飛ばし、撮りまくる。このツールが抱える暗部だ。実際に去年、世界最古の国立公園・米国のイエローストーンナショナルパークではドローンで飛行が禁止され、その後、全パークがそれに沿った。いずれ日本もそうなる。業界では折角育ち始めた新規産業の芽を摘んでしまうのはと心配する声も。妥協点を探るべく、ハリウッド映画産業や火山噴火口の研究など公共性のある撮影は、許可を得て飛ばしているのが現状だ。
◆「思っていたより規制が早かった」とユーザーは言う。一方で従来から飛ばしていた模型飛行機のラジコンユーザーはとばっちりを受けている。「例の事件起こしたあれね」。ドローンだろうが模型飛行機だろうが、空を無線で飛ぶモノは一般人からみれば同じなのである。せっかく今まで地域との関係性を保ち飛行エリアを確保してきた努力も水泡の危機にさらされている。
◆空を飛ぶ一人として思うこと。空は自由である。空は万人のものでもある。しかし度を超した行為には縛りが為されるのは世の常である。その点、ドローンは年齢を問わず、しかも劇的に世界中に普及した。惰弱なドローン文化のもと、その暗部がマスコミには取り上げられ、干されている。
◆繰り返すが、我々には飛ぶ権利があり、飛ばす権利がある。それを主張するならば、空の先人が築き守り抜いてきたモラルを守り、飛ばされる側の身になることが責務として課される。それが為されないならば、空の自由は無く、飛ばすべきではない。空を飛びたい、空から望んで見たい。それは飛べない人類の根源たる願いでもある。共存の道をユーザー自身で閉じてはいけない。
◆蛇足。多胡家農業経過2015。田越しから田植え、はさがけまで手作業でやることにした。5月の頭、苗床設置完了。加茂の田植えは6月。2014年、1年目の収穫 米300キロ 野菜12品目。農業に若干の手応えをつかんだので、2年目の今年は全て手作業で挑戦することにしました。とくに「はさがけ」(稲穂の天日干しのこと)の方が、断然旨いとのことで。【京都府 天空の旅人 多胡光純】
■こんな日はお店をはじめて良かったとしみじみ思います。5月3日、テンカラ食堂にシール・エミコさんと地平線のなかまが来てくれました。「おかえりエミコさん」の会です。エミコさん、岸本夫妻、久島さん、緒方さん、遊上さん、加藤さん、ねこ(中島)さん、東京からの日帰りでルナ(村松)さん、と江本さん(江本さんは滞在2時間で東京にとんぼ返り!)。
◆手伝いを引き受けてくれたねこさんとルナさんは12時に来てくれて、13時の開始時間近くに、ほかのメンバーも集まりだしましたが、みんな席に着きません。入り口の外でエミコさんと迎えに行った岸本夫妻の到着を待っています。エミコさんが来ました。私はカウンターの中にいたけれど、笑うような明るいエミコさんの声が聞こえてきて、しばらくして戸口に懐かしい笑顔が見えました。
◆テンカラ食堂をはじめて、そろそろ1年が経とうとしています。ふたりで始めた店ですが、相方は体調を崩しリタイヤ。3月からひとりで奮闘中です。今更ですが、飲食店とはなかなかにハードな仕事です。8時半に来て、店を出るのは0時半。メニューを考え、買い出し、仕込み、片付けを繰り返す日々。体力的にはキビシイけれど、これでストレスがたまらないのは、相当にオモシロイ仕事とも言えます。閉店後、片付けを終えて思い返せば、あの人が来て、この人が来て、朝には想像もつかなかった1日になっています。(あの人が来なくて、この人も……という日もあります)
◆そして、店をはじめる時には想像もしなかった出会いに支えられて、1年つづけることができました。エミコさんと初めて会ったのはおそらく30代前半。(私とエミコさんは同い年で今年50歳!)私が店をやるなんて、その店にエミコさんが来るなんて、思ってもみなかった。カウンターの中から、座敷のにぎわいを嬉しく眺めつつ、時の流れと人生のおもしろさを感じた日でした。(大阪 テンカラ食堂店主 井倉里枝)
■娘の柚妃(ゆずき)と私が昨年モンゴルの草原を旅して以来モンゴルが大好きになったことを通信に書かせてもらったこともあり、GW中に日本における最大のモンゴルの祭りがあることを大西夏奈子さんが教えてくれた。
◆5月3日と4日の二日間、練馬区の光が丘公園の広い敷地を使ってモンゴルの味、芸能、モンゴル相撲、ファッションなどを一気に楽しめる盛り沢山な内容の「ハワリンバヤル」という祭りが開催された。おいしい羊肉のファーストフードであるホーショールやボーズを頬張りつつ、馬頭琴とホーミー(1つの声門から高さの異なる二つの音を同時に出す“人間楽器”)の合奏に酔いしれ、日本にいることを忘れてしまうような濃いモンゴルを楽しんだ。モンゴルのアイドルグループやポップスター、オペラ歌手などが次々と登場するのを特別ゲストである大相撲のモンゴル人力士たちがステージ前で腕や日傘を振ってノリノリで楽しんでいた。
◆トリを飾るのは、横綱白鵬と写真が撮れるチャリティーイベントだったが、数千人の観客に対したったの30人だけという狭き門だ。どうしても30人に入りたい柚妃は、初場所観戦の際に手作りした「白鵬うちわ」を振りながらアピールしていたところ、旭秀鵬が「この子!この子!」と柚妃を推してくれたおかげで29番目に選んでもらうことができた。
◆いざステージ上で白鵬と対峙する様子を見ていると、娘はモンゴル語で「こんにちは」と言い、白鵬は「お?!こんにちは」とモンゴル語で返してくれた。5月場所も見に行きます、とこれは日本語で言い、最後に「バヤルラー(ありがとう)」もちゃんと言えた。強くて大きい白鵬は、娘が階段を降りるときに手を貸してくれる優しさも見せてくれた。大好きすぎてドキドキした!という娘は、またもや得難い体験ができて嬉しそうだ。このように私たちは機会を見つけてはモンゴルとの交流を楽しんでいる。(瀧本千穂子)
■江本さん、お世話になっています。時折、地平線会議に参加させて頂いています。今年は、カナダ北極圏を一人で1000キロ歩いていて、今はカナダ最北端のグリスフィヨルドに向かっています。レゾリュートでは河野兵市さんのモニュメントにも行ってきました。今年は海氷が薄く、それを避けるために内陸部を歩いているのですが、2か月分の食料を積んだ130キロのソリをひいてアップダウンのある内陸を歩くのは、なかなか大変です。白クマが多数いる地帯を歩いており、ショットガンを抱えて寝ています。また、地平線で会えることを。(阿部雅龍 グリスフィヨルドで投函)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含ませてくださった方もいます。地平線会議は、手弁当の、まったくのボランティア活動で支えられていますが、紙代、印刷費、会場費、報告者の交通費など最低の経費は毎月かかります。ご理解の上、ご協力ください。当方のミスで万一漏れがあった場合は、必ず江本宛てお知らせください。アドレスは最終ページにあります。
栗谷寿一(10000円 5年分の通信費です)/前田良子(10000円 26年度、27年度分です。残りは寄付させていただきます)/岸本佳則・実千代/北村敏(4000円 2年分です)/酒井富美(10000円 いつもほんとうにありがとうございます)/鹿内善三/佐藤泉/中橋蓉子(7000円 父の葬儀の際はお心遣いありがとうございました。通信費2年分とネパール地震義捐金としてよろしくお取り計らいください。故野元甚蔵さん長女)/村田憲明(毎月通信ありがとうございます。鮭Tは昨年12月で12,911枚、681万円の寄付になりました。長野画伯のおかげです。あと1年やります)/森美南子/小林新(10000円 毎号楽しく拝読しています。前回10000円お送りした時は、通信に記録されなかったこと、お伝えしておきます)〈小林さん、電話したようにこちらの記録ミスでした。ごめんなさい。〉
■地平線通信432号(2015年4月号)は、4月8日、印刷、翌9日、発送しました。宅配メールが打ち切られたため、今回から郵便局の「ゆうメール」での送付となりました。年度初めの時期で、集まりが心配だったのですが、16人もの方々が参じてくれ、一気に仕事が進みました。汗をかいてくれたのは、以下の方々です。皆さん、忙しいのに、ほんとうにありがとうございました。
森井祐介 石原玲 落合大祐 小石和男 渋谷典子 杉山貴章 福田晴子 前田庄司 武田力 江本嘉伸 菊地由美子・美月 久島弘 山本豊人 松澤亮 八木和美
■社会人を経て大学院に入学した私は今春、「旅学の考察 ──宮本常一を中心とした“あるくみるきく”旅と社会教育の系譜──」と題する修士論文を提出し終えた。とはいえ論文とは言えぬ未熟さで、いくつものテーマが錯綜している。この場を借りて振り返ると、当初の目的は旅での学びの方法や効果を「旅学」と呼び、これを検証することであった。
◆旅と学びの関連を調べたところ、日本の修学旅行は戦前、国家のプロパガンダに利用されたことが明らかとなっていた。団体旅行では効率的な学習が可能な反面、主催者の意図した価値観の固定化という、教育の両義性がつきまとう。では、個人の自由な旅で得られる学びとその有用性とは、という素朴な問いが立った。
◆文献を探すと、『旅にまなぶ』等の宮本常一の著書が挙がった。他方で、旅好きの友人からは「地平線会議」の存在を教えられた。どういう「会議」か訳が分からぬまま覗きに行き、これは、と直観した。2013年から続けて関野吉晴氏、山田和也氏らの報告会に通い、地平線通信や年報、丸山純氏が下さった冊子を読むうち、まさに「旅学」の実例だ、と興奮を強めた。
◆同時に、「宮本常一の旅と似ている」と感じた。次第に、彼らの多くが宮本常一率いる観文研(日本観光文化研究所)の出身であり、そもそも地平線会議は宮本常一の御子息である宮本千晴氏が創設者の一人だと知ったのである。丸山氏が最初に下さった冊子が観文研の機関誌『あるくみるきく』であったと気付いたのは、だいぶ後のことだ。パズルのピースがつながったような運命を覚えた。当事者達を除くと現在、学界にも一般にも、若い世代では地平線会議に出入りする仲間でさえ、宮本常一と地平線会議のつながりを知る人はそう多くないのではないか。
◆修論では、宮本常一の「旅学」とその継承過程を整理することとした。宮本常一は民俗学者、在野の研究者、旅人、作家、篤農家、教育者、郷土の助言者といった多面的な顔を持つ。全国各地に、いずれかの顔を特に色濃く受け継ぐ人々がいた。たとえば組織としては、民俗学的な視点は民映研(民族文化映像研究所)に、郷土教育の哲学は周防大島郷土大学に、旅で学ぶ手法はかつての観文研に、顕著に体現されているように思えた。
◆観文研は、定住・定職のレールに乗らずふらりと旅をするような「無用の徒」の集まりで、宮本常一は彼らに大きな可能性を期待していたという。観文研で実践された「旅学」の手法が、「あるく」「みる」「きく」である。旅とはすなわち「あるく」こと。発見し、考えるために「あるく」。バスの窓から眺めるだけでなく、実際に足を使って現場を歩きまわる。「みる」時は、まず高い所に登って見て全体の地形を掴む。細部は一つの基準と比較しながら観察する。疑問を持ち、問いかけながら見る。相手の内側から見ようとする。そして必ず地元の人に話を「きく」。調査やインタビューというよりもっと謙虚に、相手の話したいことに耳を傾けるのが大切だとされた。
◆さらに、「記録する」、「発表する」というアウトプットが大きな効果を果たしている。機関誌『あるくみるきく』の制作が、その恰好の場であった。些細なことでもメモを取り、書きまとめ、知見を共有することで、そのままでは「私自身が面白がるだけで何の役にもたたない(『旅にまなぶ』)」旅が、何らかの意味を持つようになる。
◆地平線会議は、観文研のうち海外へ飛び出していた探検部出身者らのグループと江本嘉伸氏らが出会って誕生したのであり、その実践と意義は観文研と共通する点が多いと感じた。もっとも、地平線会議には多様な流れが混ざり合い、独特の色が生まれている。しかし面白いのは、宮本常一とまったく無関係な人にも、どこか宮本常一や観文研を彷彿とさせる要素が見られることだ。
◆歴史を遡るならば、古代の旅人とは狩猟採集民や遍歴の職人、芸人、行商人達である。彼らは定住農耕民にとっては異質な生き方をする「他者」であるが、新たな風を運ぶ情報伝達者でもあった。私は、宮本常一を古代から累々と続く旅人の流れの線上に位置付け、観文研や地平線会議の人々もまたその末裔と捉えた。近世に広まった一時的享楽を求める消費旅行とは異なり、生業や課題を携えた旅は、困難や苦痛の陰も伴う。安住者にとって、「旅学」の神髄は快適なホームを出て「他者」の立場を経験することではないか。そうした旅は老若男女も貴賤も問わぬ学びの機会となる。古来、巡礼は社会教育の場であった。
◆旅の学びには、一次情報に五感で接して自らの思考力を養うことが筆頭にある。団体旅行は仲間と絆や議論を深められる点が特徴だ。一方、孤独な旅では困難がより多い上に偶然の力がはたらきやすく、突発的事態への対処や予想外の親切が莫大な成長と印象をもたらすと考えた。ただし、宮本常一の「旅学」は、旅人だけが学びを得るのではなく、地域の人々と相互に啓発しあうことで完成する。自分の成果を優先し、他人の土地に踏み込むことの自覚や自省が足りない場合、それは「旅学」とは呼ばないのだろう。
◆今回の修論を通して私は、お世話になった数え切れぬ方々から、その方々が宮本常一から受けたであろうと同様の薫陶を受けた。温かい励ましとともに先生方をご紹介して下さった宮本千晴氏をはじめ、蔵書のご提供に加え「水仙忌」にもご招待下さった江本氏、並びにすべての御縁にあらためて篤い感謝を捧げたい。今後も、私の「旅学」の旅は続くと思われる。(福田晴子)
■5月3日「情熱大陸」というドキュメンタリーで久々に村崎太郎さんの姿を見て、懐かしかった。「反省猿のジロー」とコンビでかって大人気を博した「周防猿回しの会」のスター。東京進出の際、銀座の数寄屋橋公園の近くで猿芸を披露した時に取材した縁で、我が家にも来たことがある。当時はたちの青年だった。
◆このドキュメンタリーを高世仁さんが作ったのも、何か縁を感じる。次女の澪さん(はたちの外語の後輩)は今回の福島行に参加したし、妻の泉さんは、高世さんより昔、観文研の仕事をしていた時からの知り合いだ。
◆福島移動報告会の原稿だけで16ページ。そのほとんどすべてで中島ねこさんに編集長役をつとめてもらった。全参加者が書くというのは、大仕事だが、書かせるという役割にはさらにしんどい一面があり、それをやりとげたねこさんに感謝し、その力を讃えたい。
◆毎度のことながら、イラストの長野亮之介画伯の仕事には、感激した。そして、頭が下がった。彼の仕事ぶりをかたわらに見続けてきたことも、地平線会議という活動を力を落とすことなく続けてくることができた重要なファクターである。そして、レイアウトを一手引き受けの森井祐介さんにも今回はいつもの10倍のお礼を言いたい。福島には参加できなかったのに、参加者たちに配布した冊子の制作からこの特別号まで厄介な部分も含め実に楽しくレイアウトしてくれた。皆さん、ありがとう。(江本嘉伸)
崩壊の素顔〜ネパール大地震緊急報告〜
先月4月25日にネパール中央部で発生したM7.4の地震は私達日本人にとって他人事ではありません。死者八千人以上とも伝えられ、地域により被災の程度にはかなりの差があるようです。 当日、マナスル山域をトレッキング中だった冒険家の安東浩正さんは、幸い無事だったものの、下山して訪れた首都カトマンズの被災地の様子に息をのみました。「ダルバール広場のシバ寺院が跡片もなく、はじめて来て以来の25年間の思い出が崩れ去ったような思い」。 都市部はそれでも比較的救助活動が早かったのですが、地方では未だ被害の実体も十分に把握されていません。 チベット学者の貞兼綾子さんがこの四半世紀通うランタン村では、全村五百戸がほぼ壊滅したという情報が伝わっていますが、その原因が地震なのか雪崩なのかまだわかりません。 ヒマラヤ山脈を擁し、地平線会議とも縁が深いネパールで今、何が起きているのか。今月の報告会では安東さんをはじめ複数の報告者によってネパールの現状を多角的に報告します!! |
地平線通信 433号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島ねこ 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶 福田晴子
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2015年5月13日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
|
|
|
|