4月8日。花祭りの日というのに、関東の北ではなんとあちこち雪が降っている。気温も零度近くに下がった。つい先日の夏日はどうしたのか、あの美しい桜はどこへ消えたのか。真冬の寒気が大陸から下ってきたためで、コートにマフラー、町はまたまた冬の衣装に舞い戻った。
◆5日の日曜日、珍しい客がやって来た。四万十の主、山田高司である。2007年、2008年と四万十川の源流から太平洋まで贅沢な企画に2年続けて参加したが、その企画のリーダーが山田だった。最源流まで登り詰め、河口めざして徒歩、自転車、カヌーで下る5泊6日の旅。いま、青年海外協力隊員としてカンボジアにいる、当時香川大学の学生だったクエこと水口郁枝さんとはこの時に知り合った。ここ数年体調を崩して療養中の身で、今回は友人に紹介され、東洋医学の治療を受けに上京した、という。でも、とにかく乾杯しよう、とビールのグラスを合わせた。
◆山田高司とは長いつきあいになる。地平線で出会った人物の中でも最もスケールの大きい行動者と言っていいだろう。初めて会ったのは、彼が農大探検部の学生で、地平線会議が発足して1年たつかたたないか、という時期だった。南米の三大河川、オリノコ、アマゾン、ラプラタをつなぐ壮大なスケールの川下りをするという計画書を持って仲間2人と新聞社にやってきた。話を聞いて本気なのだ、とわかり、見開きの紙面を使ってこの冒険計画を紹介した。
◆1981年5月30日に山田高司が書いてくれた手紙がある。「前略 お忙しい日々が続いていると思います。地平線会議の方はいかがですか?」で始まる3枚の手紙。当時は、読み始めて絶句した。強盗にやられた、というのだ。「我々は5月21日無事マナウスに到着しました。予定よりかなり早い到着となっております。といいますのも、ベネズエラのプエルト・オルダスにて強盗に会い、予定が狂ったためです」。こうして手紙が届いたのだから、無事だったのだけれど。
◆「4月2日カヌーを捜すため河に行った帰り、林の中の細道で2人組の強盗に会ったわけです。一人はピストル、一人はナイフを持っており、ホールドアップのあと、地べたに伏せさせられ、所持品、パスポート、カメラ、時計、金、チェック等を盗まれてしまったのです」。日常の一コマのように、淡々と書いているので、大したことない出来事のようにみえるが、剛毅、かつ沈着冷静な山田高司たちだからこそ無事切り抜けられたのだと思う。
◆この探検行の後、山田たちはパタゴニアに転身した。湖、河、フィヨルドリオ・パイネという川を下ろうとしたが、「氷河の溶解激しく、コース予定のRio Paineが増水、パイネ山群一周の際、この川を渡れず、いかだを作って下ろうとしたのですが、枯れた木では浮かず、結局2度も泳ぐはめとなりました」とハガキ(1982年1月30日付)に書いてきた。
◆いま、読み返してみて、肉筆の書簡、ハガキというものがいかに大切か、ということを考える。私の乱雑な仕事部屋には多くの行動者からの手紙、はがき類が埋もれている。ヒマラヤでの遭難など、すでに亡くなっている方からのものも少なからずある。地球の、かなりの辺境と目されてきた場所からもスマホ・メールが普通に届く時代、紙に日記を書く、手紙を書く、という文化を私たちはなくそうとしているが、それでいいのか。
◆三大河川航下の後、山田高司は、「青い地球一周河川行」という壮大な計画をぶち上げ、実行した。<1985年> アフリカ・セネガル川、ニジェール川 <1986年> ニジェール川、べヌエ川、シャリ川 <1987年> ウバンギ川、コンゴ川 <1988年> ロンドン大学で地球環境生態学聴講、1990年まで中国・長江、黄河、黒龍江、メコン川……、ときりがない。
◆そして1991年以降はNGO「緑のサヘル」に参加し、チャドの砂漠化防止のための植林活動を展開するのである。故郷の四万十に帰ってきたのは、1998年だった。森林組合に入って林業に従事し、2001年からは、廃校活用で注目されていた「四万十楽舎」の実質的な責任者となった。
◆普段は東京を会場として報告会をやっている地平線会議は、神戸、山形、兵庫県豊岡、福島、大阪、沖縄など各地に繰り出して「現地報告会」も開いてきた。2003年3月には四万十川のほとりの河川敷に繰り出した。山田高司が実行委員長をつとめる「四万十・黒潮エコライフフェア」というイベントに特別参加したわけである。賀曽利隆、石川直樹といった旅人に来てもらい、テントの会場で「地平線報告会 in 四万十 ─地球の風を四万十に─」と銘打ってやった。
◆夜は、「四万十楽舎」に皆で泊まり、恒例の地平線オークションで盛り上がった。山田高司がいるおかげで、四万十の地が好きになり、2007、8年と「四万十ドラゴン・ラン」に参加した時はカヌーを操るのが気に入ってついには太平洋でサーフィンに挑戦したほどだ。へっぴり腰で中腰までしか立てなかったが。
◆好漢、山田高司。まだ私よりも20才も若い(!)この男が森や川遊びに長けたたぐい稀な「ネイティブ日本人」であることは別の機会に紹介したい。(江本嘉伸)
■第431回目の報告会は、のどかな映像で幕をあけた。田んぼのあぜ道に女の子がぴょこぴょこ走ってきて「はじまるよったらはじまるよ、地平線会議はじまるよー!」。手拍子しながら体いっぱいで歌う姿に、思わず会場から拍手! 報告者は、5才になったあまりちゃんのパパとママ、天空の旅人の多胡光純さんと木のおもちゃ作家の歩未さん夫婦。異なるフィールドを舞台に表現活動をする2 人の物語、はじまり、はじまり!
◆2人は活動のベースとなる「そらともり株式会社」を2009年に設立した。「そら」こと多胡さん、「もり」こと歩未さん。横ならびに座り、夫婦漫談さながらに対談形式で報告会は進んだ。歩未さんが「まずは起源をさぐりましょうか?」と切りだせば、「じゃあ学生時代から!」と多胡さん。まだ出会う前、それぞれどこで何をしていたのか?
◆さかのぼること20年。多胡さんは獨協大学探検部に所属しカヌー三昧の日々。大きな空間が好きで、とくに魅了されたのがカナダ北部とアラスカ。「大地を旅し、高台にのぼって被写体が包まれる空間をのぞむ。土地のバックグラウンドがわかる瞬間がたまらない」。卒業後はアルバイトしながら旅をつづけ、さらなる高さを求め28才で空飛ぶ道具モーターパラグライダーの訓練を開始。1年後カナダで「天空の旅人」になった。「飛ぶと枠がなくなる。地球が見えてもっと旅したくなる」。
◆歩未さんは、武蔵野美術大学在学中からおもちゃ作家になりたかった。卒業制作「かせきごっこ」はその年の優秀賞に。卒業後、働いてためたお金でドイツへ。おもちゃ職人ノベルト氏の人柄と工房窓からの眺めに感銘を受け、弟子になりたいと直談判。2年間の修行生活では「技術よりも、生きかたを吸収してきた」。ノベルトさん一家は自らの手で家をリフォームし、夜は庭でワインを飲みのんびり語らう。「好きなことを仕事に、マイペースではたらいて。豊かな生活に驚きだった」。25才で帰国した歩未さんは、京都の加茂町にアトリエarumitoyをオープンした。
◆多胡さんが異国の空を舞い、歩未さんが自身の城を構えた2004年の秋。東京で「地平線会議300回記念集会」が開催された。このとき彗星のごとくあらわれた多胡さんは報告者として、歩未さんは裏方のタイムキーパーとして、報告会中に初対面。修行話であっという間に意気投合し、2006年結婚。結婚1週間後には1ヶ月の海外ロケへ出た多胡さん。マダガスカルでバオバブの木々の上を飛ぶ映像を見つめていると、不思議なくらい心がからっぽになり、意識がぐんぐんすいこまれていく。
◆夫の不在中、歩未さんは制作に没頭。「くしゃっとして、するっともとに戻って、えっ!てなる」。この発想を形にした「クォーター親子」は、ユニークな球型動物。机に置くと一瞬で4分割してぺちゃんこになるが、持ち上げるとまた球体に。ドイツで苦戦した試作品第1号から10年。研究と改良を重ね、赤ちゃんがなめても安全な天然色素で染めた最新版が2014年グッド・トイ賞を受賞した。
◆「人の暮らしは川の周辺に広がる。源流のチベットから下流の上海まで飛べば、今の中国がわかるかも」と、2010年長江に挑んだ多胡さん。「好奇心に導かれて旋回し、感動をそのまますくいとるように飛ぶ」と映像を解説。山を越え、カメラは雲南省イージンカ村の集落をとらえた。「人は初めてモーターパラグライダーを目撃すると棒立ちになる。でも2度目は手をふってくれる」。もっと見たい、知りたい。「目の前で展開される光景に夢中で向かっていった時代」だった。
◆外へ出る多胡さんとは対照的に、歩未さんはアトリエにこもる。初の動くおもちゃ「知りたがりやのzappie(つぁっぴぃ)」は、「あほっぽさがarumitoyらしい」と商品化。ネーミングの由来は「落ち着きなくそわそわする」という意味のドイツ語。家の前を通る幼稚園バスの窓にならぶ、外の景色をのぞこうとする園児たちの表情から思いついた。頭に浮かぶイメージをスケッチブックに描き、どうすれば実現できるかいつも試行錯誤。
◆「こんなのも作ってます」と歩未さん。「あ、これ、しゃべるやつじゃん」と多胡さん。「成長もするしね」。「よく食べる」。スライドに写ったのは、生まれたての人間の赤ちゃん。「来てくださーい」と呼ばれ、元気なあまりちゃんが登場。一番好きなママのおもちゃは「zappie!」。
◆ここで休憩時間に。お子さんの参加が多いはずと、原典子さんが焼いてくださった美味しいクッキーがふるまわれた。会場のうしろには、眺めているだけで心温まるarumitoyのおもちゃがずらり。その横ではモーターパラグライダーのエンジンがぴかぴか赤く輝く。多胡さんと歩未さんが来場者の質問に丁寧に答える間、子どもたちはにぎやかに会場を駆けまわっていた。
◆後半はスランプの話。海外を中心に飛んでいた多胡さんは、やがて行きづまりを感じるように。「海外の被写体には力があり、すぐ感動してそれなりに撮れてしまう。だがわからない、自分はいったい何に感動してカメラワークをしているのか」。自問自答するうち、自然を撮りたいのだと自覚。よりよく撮るためには?とまた悩み、日本人として日本の自然を知り、自分の「尺」をもつ必要性を強く感じた。
◆日本の里山を知ろうと、多胡さんは新潟県山古志村へ。村では棚田の最上段で養鯉を、2段目より下で稲作をする。タンパク源に乏しい山奥で継承されてきた知恵だが、山古志ブランドの錦鯉は今や世界で大人気。多胡さんは村に寝泊まりし、親しくなった村人になぜ鯉を養殖するのかと疑問をぶつけた。期待していた答えは「芸術性の追求」。しかし実際の返答は「錦鯉は金になる」。雪深い傾斜地で生業を営む人のリアルな声だった。
◆福島の四季を撮るプロジェクトでは会津地方只見川を飛んだ。「白神山地の4倍ある日本一広いブナ原生林が今なお残るのは、28個ものダムが存在するおかげ」と地元の人。多胡さんが見とれた浅瀬もダムが作りだしたもの。周辺には電力を関東へ送るための電線。美しい風景を空から眺め、足で歩いてそこにまつわる情報を聞き知るたび考えさせられる。「きれいな部分だけ出すやりかたもあるが、安直にそこに行きたくない」。日本を旅した多胡さんは、結局また自分の目線を問われた。
◆2012年改装オープンした阪急うめだ本店おもちゃ売り場には、歩未さんが仲間と共作した高さ1メートル半のおもちゃが飾られた。これまで手がけたなかで一番大きい作品だ。一番ちいさいのは、新作「うとぴれすと」。大人の指先ほどの動物、家、木、かきねなど約40種類のパーツを、好みに配置して箱庭のように遊べる。制作中に出る木の端材で作ったおもちゃで、「うとぴれすと」の語源は「ユートピア」+「レスト(余り)」。「空間を自分の世界観で演出し、広がっていくユートピアをずっと表現してみたかった」。
◆歩未さんは5年前に出産。育児に追われ、いざ仕事に復帰したときは制作ペースが大幅に乱れて戸惑ったという。「日々仕事をこなすことで精一杯。エネルギーをクリエイティブに注げなくなった」。やっとの思いでzappieを生みだしたが、「はたと気づいた。このまま思ったことを形にするだけでいいのかな」。ものづくりの根本的な疑問を感じるように。
◆同時期に壁にぶつかった2人、「ひょんなことから農業はじめました」。家庭菜園をやりたくて近所の人から借りた休耕田が1反半もあり、畑と田んぼにした。「やると言ったからには引き返せない」と膨大な雑草抜きに向き合うが、終わりのない単調作業で多胡さんは心が折れそうに。横にいる歩未さんに聞くと「草抜きのときに草抜きのことなんて考えてないよ、私」と涼しい顔。
◆感化された多胡さんは、農作業中さまざまな思考をめぐらすようになった。土地で暮らす人の話を聞き、彼らを包む空間を撮る自身のスタイルについて、「日本でこれを繰り返せば今後も表現はできる。しかし自分がもっと地に足をつけるべきだ。人様の生きざまを撮るだけでは空間の傍観者」と考え、自分の世界観を提示する作品を作ろうと決めた。その第一弾が国内外で撮りためた映像をおさめる全3巻のDVDだ。
◆「自分の世界観の提示に全力を捧げ、作品のもとで人生を動かすもりさんのスタンスに魅せられた」と多胡さん。作品制作には5年前から思いがあったが、当時は自分の軸がわからず動けなかった。「今もこれが自分の目線だとは言いきれない。でも少なからず発信していかなければ」。完璧なんてない。この波のなかで活動し、自分の世界観で日本を撮る。「派手さはないが着実にこの活動を積みあげていきたい。なぜなら母国だから」。これが、多胡さんの「やっぱり日本プロジェクト」。
◆歩未さんは考えていた。「いったい何がやりたいのか?」。充実感が大きかった阪急の仕事を思い返し、「自分だけでなく社会的に意味がある仕事をしたい」という気持ちが高まった。ふと隣を見ると、「そらさんはカメラをかつぎ上がって下りてくるだけ(笑)。でもその映像を見た人が、感動したとか、泣けたと言う」。映像の情景とそれを見る人の間に何らかの接点があり、心を動かされるのではないか。多胡さんの映像には公益性があるのだ、と自分なりの答えを出した。
◆その視点を自身の活動に転換し、行き着いたのが「環境問題に関わりたい」。以前から、間伐材のことが気になっていた。間伐材とは、戦後の植林政策により密生しすぎた森で、太陽光が地面まで届くよう間引かれる栄養不足の細い木。柔らかすぎて加工しにくく耐久性もないため、おもちゃには適さない。チップにしてプレスする利用方法が常識範囲だが、そこに正面からおもちゃ作家として関わってみよう。歩未さんの新たな挑戦だった。
◆コマ撮りした「うとぴれすと」の楽しい映像が流れ、1コマごとにパーツが増えて最後は京都府木津川市の風景に。奥には山、山、山。山の上に重要文化財指定の海住山寺。手前には浄瑠璃寺、蟹満寺。右奥に大仏鉄道。ところどころに柿の木、たけのこ。畑にやってきたサルやイノシシ。家や軽トラなど人の暮らしも。「材料は木津川市の間伐材。私がやりたいのはその土地で出た間伐材の地産地消、それを日本全国で展開できたら」。
◆アトリエの端材を再利用するアイデアは、社会のもったいないを活かす夢へと広がった。「こんないいものがあるんだと、その土地について発見してもらえたら嬉しい」と歩未さん。「自分の世界観を表現する活動を、公益性をもちながら全国で拡大していきたい」。これが、歩未さんの「やっぱり日本プロジェクト」。
◆「振り返ると2人の活動が意外なところでリンクしていた」と歩未さん。「意外なところで嫉妬して、魅せられて」と多胡さん。それぞれの取り組みを通じ、「母国への理解を深め、日本人としてものづくりの道を深めたい」。その延長線上には「世界もいいねプロジェクト」の展開も見すえる。人生のバイオリズムが似ていると話す2人は今、「さあ、また山をのぼっていこう」という地点。ここから、これから、どんなものが生まれていくのだろう? 家族の物語はつづく、つづく!(大西夏奈子)
■「ドローンは脅威ではないですか?」。報告会の最後に当てられた質問が、この会をいっそう引き締めた気がしている。ドローンとは無人航空機を指しマルチコプターの名で知られる。このツールの登場で小学生でも空撮ができるようになった。質問は、ドローンがあるのに、わざわざリスクを冒してなぜ飛ぶの? 意味あるの? この先空撮で喰っていけるの? と言うことだと理解している。
◆ドローンの登場で空撮業界の勢力図は変わった。お陰さまで「そら」の仕事は減った。正直、ドローンを研究し、購入寸前までいき、そして気がついた。地上で想定した予定調和を撮るために飛ぶのではない。空を自由に舞い、被写体を包み込むその先の世界を知りたいのだと。簡単にいうと、自分で飛び、自分の目玉で見たいということだった。
◆商業路線でいくならば、ドローンに分がある。けれど、それに沿いたいとは思わなかった。そうと決めたらあとは作品勝負の世界である。一枚の空撮写真から、一本のフライトラインからどこまで魅せることができ、語れるか。自分自身、活動の真を問い、見る側も当たり前に問うてくる時代になった。
◆新たな10年が始まろうとしている。一方、「もり」の間伐材うとぴれすと。これもまた材料を間伐材に変えただけで済まされる生優しいものでは無いと見ている。間伐材で作られたオモチャは世の中に何となくあるが、アートになっていないと「そら」は思う。間伐材をネタに売れれば良いというレベルで収まっている。そこに「もり」のアート性と間伐材との融合であるみワールドの展開を狙う。しかも間伐材の地産地消が構想に練り込まれている。
◆これまた、新たな10年が始まろうとしている。どちらかの活動が安パイに寄り、片方がトライアルなら家計も助かろうものの。どうやら「そら」と「もり」のバイオリズムはそうでは無いようだ。一緒に活動の失速を味わったことはあったけれど、一緒に上昇したことってあったっけ? 双方勝負にでちゃうので、共倒れにならぬよう、今後とも「そらともり」見守ってやって下さい!(「そら」こと天空の旅人 多胡光純)
■一人での報告会ならまだしも、二人でしかも夫婦でなんてもちろん初めての事で、打合せが討論になり口論になったりして、なんとか「対談」の形にまとまりました。何度もネタ合わせを繰り返しおおかた骨組みができた頃、江本さんから「出だしが大事だからっ!」とクギをさされたので、大慌てで例のオープニングVTRを作ったのでした。
◆今回の報告ではラストの「やっぱり日本プロジェクト」まで持って行く為に本来なら話すべき部分をバッサバッサと削りました。ドイツへ行くまでの話もしていないし、ドイツでの話、人生観の話、制作自体の話、紹介した以外のおもちゃ達の説明もしませんでした。それでも、今の段階で二人が目指す方向性こそが話したかったので、ちゃんとそこの部分が語れた事は私達にとって大きな収穫であります。
◆自分たちの活動の過去と未来を整理する非常に有意義な経験でした。自分の事は全く客観的に理解できないので、どのようなポイントを話せばいいのか、どこら辺に面白みがあるのか、どこら辺は理解されないのか等、本人には当然すぎて通り過ぎてしまう部分を二人で夜な夜な洗い出す作業は新鮮な驚きすらあり、一人では成し得なかったとつくづく思っております。
◆そらさんにぐぅの音も出ないほど突っ込まれて答えに窮し、腹も立てつつ答えを探る。なんでこうも私は「説明」する内容を持ち合わせていないのだろう……と。「こう思ったから」「こうしたかったから」と小学生みたいな理由ばかりが出て来るのです。それがそらさん曰く、直感と勢いでだけで生きてきたという事らしいのです。そんな私を深く掘り下げる作業にお付き合いくださったそらさんには感謝です。
◆それから、大変な言い忘れがあったのを帰宅してから気がつきました。言い忘れというよりは、すべてが終わってようやく思い出したというべきか……。先にも書いたように、江本さんからありがたいアドバイスをいただいた際、「結婚式の写真を入れるべし!」との命が下り、拒否すると「オレが勝手に出すぞ!」との脅しまで入り、泣く泣くその写真を入れる事になったのです。
◆ですから結婚のくだりはなんとかすっ飛ばしたい一心であっという間に通り過ぎたのですが、実は江本さんは我が家の「顧問」だったという事を二人して急に思い出したのです。顧問とは辞書に「相談を受けて意見を述べる役」とあります。と言うことは、江本さんは我が家の重役という事なのです。Oh! 薄情者でごめんなさ〜い!
◆それにしても夫婦でトークして、ムスメまで出動させるなんて、こんなのは地平線だけのバージョンです。他では考えられません。そんなある意味ホームのような会なのに地平線報告会は緊張しました。魔物がチラ見してたかも。(あるみ)
みんなのまえでちゃんとおはなしできてよかった。ゆずちゃんといっぱいあそべてたのしかった。ちへいせんかいぎたのしかったね〜。(らいよんぐみ(進級しました!) たごあまり)
青山のアジア会館で開かれていた報告会以来の久しぶりの参加となり、会場の新宿スポーツセンターは想像していた以上に立派で、なにやら昭和が懐かしく1997年(平成9年ですが)に企画開催した写真展「地平線発」が遠く昔のように思えた瞬間、見知った顔・顔・顔、江本さんの後ろ姿を目にしたとたん、あの頃の苦しくもピュアな感性が甦ってきた。多胡さんご夫妻の「鳥の眼と森の心」は何を見ているのか? 私たち二人の眼と心の原点も“地平線”にあったような気がしている。
「空」を舞台に映像制作する多胡さんと、「森」の木を素材として自己表現する歩未さん。多胡さんと歩未さんの報告は「創造者とは何か」に集約されていた、と思えた。多胡さんは社会から作り手へ、歩未さんは作り手から社会へと視点が広がり表現者から創造者へと目覚めた。もの作りに美意識は必須だろう。しかし何をもって美とするか。多胡さんのように、自分の「尺」を持つために、地元の人と話をし、地に足を着ける必要がある。そして風を待つ。
中国の六朝時代に「風(かぜ)と景(ひかり)」の意味から「風景」が成立したと言われ、1894年志賀重昂(しげたか)の『日本風景論』によって「風景」という言葉が一般に広まったとされる。山を撮影し、木を加工する多胡家にとって木のある風景はなくてはならないもの。美術批評家の中村敬治が述べている。「木を気にし木の気に触れてきがふれて、それを機に人は芸術家となる」。
「日本プロジェクト」を立ち上げた二人。日本の素顔を求めて上空から母国の四季の姿を撮る多胡さん。歩未さんは日本の森と間伐材に着目し、公益性を深める。美の基準をもつため行動を起こした。福島県の只見川河畔林には、世界遺産である白神山地の4倍のブナの森が広がるが、28のダムもあり電線だらけ。真実を求める多胡さん、すべてが美しく撮れてしまう自然の風景に潜む理不尽な現実をいかに映像に反映させていくか、今のところ明快な回答はないと言うが「淡々と撮影を続けて行く」と、創造者としての宣言に聞こえた。
自然を深く見詰めた画家セザンヌの言葉とされる「感覚の実現」をすでに多胡さんは達成されているだろうが、一流が一流を超えていくように良質の映像作品を鑑賞することが大事な気がする。表面的な美しい映像だけでは終わらないビル・ビオラの高速度撮影による超高精細映像をスローモーションで映し出すビデオ作品《グリーティング/あいさつ》(1995)や、フレデリック・ワイズマンの善悪が反転してくる映像ドキュメンタリー映画《法と秩序》など、心打つ映像作品にヒントがありそう。
聞く力を伴った誠実な話しぶりだった多胡さん。きっと人間を撮ってもよい映像を撮れる。ドローン映像とは異なる人間空撮の魅力発揮はこれからだと期待している。(アートプランナー・影山幸一/編集・本吉宣子)
■お久しぶりです。お元気ですか? 私のカンボジアでの活動期間は残り1年になりました。カンボジアに、活動場所に何を残せるか。帰ってから日本の教育にどう貢献するか。考えて進めていかないと、あっという間に過ぎてしまいそうで、怖いです。
◆カンボジアは1年で一番暑い時期にさしかかりました。昼間、水浴びしたり、おでこに冷却シートを貼ったりして何とか過ごしています。喉もすぐ乾くので、500ミリリットルのペットボトルの水が一瞬にして無くなります。「こんなにたくさん飲めるか」と初めは思っていたココナッツジュースも楽々飲み干せるようになりました。「こんなに甘いもの飲めるか」と思っていたサトウキビジュースも美味しいです。
◆テレビが無いので、夜はYouTubeを見たり、映画を見たり、本を読んだりしています。映画「キリングフィールド」、「地雷を踏んだらサヨウナラ」(26歳で亡くなったカメラマンの一之瀬泰造の映画)は1970年代のカンボジアの様子を生々しく映像化してあります。本や写真で見るのとはまた違い、銃で撃たれるシーンや地雷を踏んでしまうシーンは目をつぶりたくなりました。この、のどかな国に本当にこんな過去があったのかと改めて思いました。
◆少し嬉しかったのはクメール語がちょっとだけわかったこと。1年前の私とは違うんだな。と感じた瞬間でした。最近は学生の教育実習を見に行っています。どの教室にも電灯が無く、薄暗くムシムシする中で小学生も学生も頑張っています。時々ごちゃごちゃしているクラスがあり、学生になめた態度をしていた子どもがいたので、叱ろうか(強めに)と考えました。結局叱らず……。カンボジア人は人前で怒られることが嫌いと聞いたことがあるし、ちょこっと見に来ただけの外国人が口出ししていいのかと迷ってしまいました。
◆今思えば、叱っておけばよかった。私はもう9か月も学生をサポートする立場にいたのに! 自分が教師のとき、支えになったのは味方の先生がいることだった。大切なことを思い出しました。何をしても残された期間はあと1年。教師としての自覚を持って、悔いの無いように活動していきたいです。(水口郁枝 ブノンベン在住)
■カナダのホワイトホースで犬たちと暮らす本多有香さんが3月、アイディタロッド・レースに挑戦、3月21日18時26分(日本時間22日11時26分)、10頭の犬たちとノームのゴール・ラインを踏んだ。スタートから12日と8時間32分55秒。出走した78チームのうち55位だった(12チームは途中で棄権)。もちろん、日本女性として初めて。
◆アイディタロッドは、アラスカのアンカレッジとベーリング海峡に面するノームを結ぶ、「世界最大の」と形容される犬ぞり長距離レース。今年は雪不足で、例年3月第一土曜日スタートと決まっているその3月7日にスタートできず、雪を集めてコース作りに費やし、2日遅れの3月9日、フェアバンクスからのスタートとなった。
◆16頭の犬たちでスタートした本多チームはチェックポイントで犬を預け、最後は10頭でのゴールとなった。すでにトップのゴールインから4日も経ち、フィニッシュ・ラインあたりに人は少なかったが、ゴール地点に近づき、最後の直線に入るあたり「ユカ・ホンダが間もなく到着します」とアナウンスされると、観客が30人ぐらいに増え、有香と犬たちのゴールを迎えた。中に、あの佐藤日出夫カメラマンもいて、地平線会議に素晴らしい本多有香の笑顔を送ってくれた。
◆今回のアイディタロッド、トップは若干27才のダラス・シーヴィーで、8日18時間13分6秒。彼は2012年にはユーコン・クエストでも優勝しており、二つの大きなレースの両方を制した歴代4人の中の一人となる。女子では、45才のアリー・ザークルが5位と健闘、時間は9日4時間44分25秒だった。彼女もマッシャーを本職とするベテラン。有香は、著書『犬と、走る』で、(参考までに言うと、116ページです)ユーコン・クエストでも女性として唯一優勝(2000年)している尊敬すべきマッシャー、と書いている。
◆以下、本人から届いた一報全文。不明な部分もそのままにしておくので、読み手はしっかり判読してください。(E)
★ ★ ★ ★
■詳細はものすごく長くなるので、簡潔に要点だけかきます。携帯からなので、誤字は必ずありまづ。すみまでんb。
◆セレモニースタートでは雨が降り、砂利の上をソリで走ったりと大変でした。わらしのアイディタライダーが恐ろしくでかくて、生牡蠣に中ったバカな私は体調も良くなかったのでソリの操縦がものすごく大変でした。スタートしてすぐに、4回優勝しているジェフ・キングにソリを壊されてしまい、まっすぐに進まないソリを片方のランナーだけで重心を取りながら40マイル進むはめになりました。そうかんたんbではなく、2回も転ぶ始末でした。
◆フースリア前後でレース史上最低記録のー60度以下(推定。温度計が測定不可)を記録し、ほとんどの犬やマッシャーが凍傷になりました。私も指先と顔になってしまいまぢた。今は、指先の皮がおもしろいようにむけて、顔も色が戻ってきています。
◆海岸のシャクトゥーリックでは酷い吹雪で、ほとんどのチームが吹雪が終わるのをそこで待機したた目、後から来たマッシャーは場sypがなく、ただでさえ風の強い村のなかでも何も風をよけつばぢょが無い所に犬をキャンプさせなければならず、犬には可哀想でした。風でトレイルが分からず、苦労しながら進みました。後半は犬たちも調子を上げていたので、最後ははやkyつくことができました。
◆やっぱりうちの犬はすごいです。ありがとうございました。(本多有香)
■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含ませてくださった方もいます。地平線会議は、手弁当の、まったくのボランティア活動で支えられていますが、紙代、印刷費、会場費、報告者の交通費など最低の経費は毎月かかります。ご理解の上、ご協力ください。当方のミスで万一漏れがあった場合は、必ず江本宛てお知らせください。アドレスは最終ページにあります。
石田昭子/秋元修一/多胡啓次(10000円 5年分)/浅井信雄/北村操(4000円)/南澤久美(10000円 5年分)/久島弘(10000円 5年分)/天野賢一(4000円)
■地平線通信431号は、3月11日印刷、封入し、12日発送しました。今回は、クロネコメール便では最後の発送でした(来月からは、郵便局を通しての発送となります)。はじめは、人が少なくて心配したのですが、珍しく長野亮之介画伯が現れてくれ、しばし仕事をしてくれました。発送に駆けつけてくれたのは、以下の方々です。ありがとうございました。
車谷建太 森井祐介 前田庄司 江本嘉伸 長野亮之介 加藤千晶 福田晴子 石原玲
★作業を終えていつもの「北京」へ。ラーメン類が新鮮で美味しかった。
■四国札所19番立江寺の境内に数人の中学生がたむろしていた。野球の清原選手がまもなくこの寺に来るという。ネットには絶望の淵に立った清原選手が救いを求めて徳島県内の四国88か所の寺を巡っているとある。菅元総理も困った時に遍路旅に出たと報じられたこともある。日本人は困りごとがあると神頼みの旅に出る。頼む相手は神でも仏でも何でもいい。最近は人気なのは四国88か所巡拝、熊野古道巡拝、秩父札所巡礼などだ。
◆私も昔から「巡礼」とか「遍路」には興味があった。四国88か所巡拝は空海=弘法大師ゆかりの寺を巡るもので1200年の歴史がある。長く人気が続く理由はよくわからない。きっと何かあるはずだが、それは行ってみなけりゃわからない。古稀を期に、とりあえず四国遍路に出るという気になった。奥さんに決心を告げると「共に70歳まで生きることができたことに感謝の旅にしよう」という。金剛杖をお大師さまに見たて、それを携えて行くことを「同行二人」(どうぎょうににん)という。我が家はジジババの同行二人になった。何がわかるか不明だが、老人二人で、桜が咲き始めた四国へ1週間の歩き遍路旅にでた。
◆第1番霊山寺はJR高徳線の坂東駅近くにある。駅から歩いたがお遍路さんにまったく会わない。しかし寺につくと観光バスツアーの白装束・菅笠の遍路さんでごった返している。白の死装束はまだ早い。簡易な衣装の輪袈裟だけにした。朱印帳は順番待ちが長そうなのでカット。お賽銭を出すだけにする。お大師様は姿かたちや賽銭をみて御利益を下さるわけではあるまい。わが家風でいいと勝手に判断する。
◆バス遍路なら荷物は増えてもいいが、歩き旅では輪袈裟一つでも重い。遍路とは歩き旅だと思っていたが、バス遍路が主流だと理解。遍路ブームだが遍路みち沿いの町の寂びれ方はひどい。バスが停まれる寺の周辺だけが賑わうだけのようだ。
◆準備を整え順調に番号を増やし、第10番切幡寺を過ぎた。その寺から四国の大河吉野川に架かる潜水橋を2つ渡り、第11番にむかう。11番藤井寺から険しい山に入る。いよいよ山岳宗教らしくなる。気がつくと岩石が青石に変わっている。秩父長瀞の青石(結晶片岩)と同じ岩石だ。第14番の常楽寺は青石の上にじかに立っていることが人気だとガイドブックには書いてある。「オオーッ! これが人気の秘密か!」と興奮した。
◆熊野古道も青石地帯の奇岩で役行者が修行したという。秩父34か所札所も青石の本場だ。さらに青石地帯には「朱」の原料である水銀(丹生)の鉱山もあった。弘法大師は山に分け入って鉱山を探したり平地では井戸を掘り溜池をこしらえた。今でいう鉱山技師である。彼が四国の険しい場所で修業した意味が少しわかった。
◆吉野川の南、紀伊半島南部、南アルプス東縁の青石地帯は中央構造線という日本最大の大断層に沿っている。秩父もその延長線上にある。南アルプスの分杭峠は今や日本最大のパワースポットとして人気があり深い山の中なのに大勢の人が詰めかけている。鉱山学者・弘法大師はこの青石パワーを知っていたのだろう。もう一人山岳仏教の祖である役行者も熊野でこのパワーを体得したのだろう。さらに弘法大師が高野山で丹生を探していたのは有名な話だ。「そうか!四国遍路の人気の一つは青石パワーだ!」
◆ちょっと不思議なのは四国西側に突き出ている佐田岬半島は“青石”半島だが、この周辺には札所がまったくない。このあたり断層の横ずれは大変大きく地盤は不安定だ。弘法さまはこのことを知り、修行を避けたのかも。今そこに伊方原子力発電所が立っている。弘法さまの知恵がまったく生かされていない。
◆第1番の裏手に大きな赤い鳥居があった。長い参道の奥には阿波一宮・大麻比古神社が鎮座していた。賀曽利さんの後塵を拝して全国一宮巡りをしている私は当然お参りをした。しかし神社に参ったことを話したら、遍路は「寺」巡りの修行で「神社」に参ったらご利益を失うと言われた。昔は神仏習合が当たり前だったから、神も仏も一緒と私は思っている。お遍路さんたちはだれも神社に眼を向けない。そんな料簡の狭いことではいけない。弘法大師が聞いたら怒ると思うが、どうだろうか? 私は神仏をともに拝むことにしたので時間も距離も多くなった。第12番焼山寺には神仏習合の祖である「役行者」が祀られており、ご住職は両方拝んでもなんら不都合はないと教えて下さった。
◆この役行者がおられる第12番焼山寺へは、遍路みち最大の難所である「遍路ころがし」を越えなければならない。11番からの距離は13km、標高差は600mあり、途中3か所の上り下りがある。それでも高尾山から陣馬山ぐらいだからのんびり行けばよいと9時に出発したのが大間違い。「まぁ3時には頂上の宿坊でビール!」と思っていたがとんでもなかった。3時になってもまだ高度差が200mも残っていた。日が長くなったとはいえ森林の中はもう薄暗い。奥さんは怒る気力もなく、ただ息をするのがやっと。この時期のビバークがどんな結果になるかは想像できる。夢遊病者状態で宿坊までたどり着いたが、奥さんは靴を脱ぐことさえもできない状態。「遍路ころがし」をなめていたことを自覚。
◆ちょっと四国遍路旅を楽観視していた私たちに、お大師さまは試練を与えてくれた。「もう70歳、越し方行く末をもう少し考えなさい!」ということかもしれない。翌日は降り道でも大きく息継ぎをしなければ歩けなかったが、目の下の鮎喰川の絶景を見ているうちに、「おかげ様で無事に遍路ころがしを越えることができました。感謝!」という気持ちになった。翌日は足はまだ回復していないものの気分もよくなり、再び3万歩を歩けるまでになった。「遍路ころがし」を乗り越えれば次への自信につながると言われるそうだ。我が家の遍路旅は1回で終わる危惧もあったが、青石パワーをいただき、多少の自信もついた。7泊8日、よく歩き、さまざまな出会いがあった。次の遍路旅が楽しみになってきた。遍路仲間、清原さん! 次もがんばろうね。(三輪主彦)
■グリーンランドの最北端にシオラパルクという村がある。北緯77度47分、住民が暮らす世界最北にある北極圏の村だ。長年、機会があったら訪ねてみたいと思っていたエスキモーの小さな村である。あの冒険家の植村直己さんが『極北に駆ける』で、初めて北極圏と出会って1年間を過ごしたこの村に、今2人の日本人が暮らしている。
◆「エスキモーになった日本人」大島育雄さんと、地平線通信430号にも投稿が載っていた極地探検家の山崎哲秀さんだ。そして最近、ノンフィクション作家の角幡唯介さんも加わった。あの小さな村に日本人が3人。「ここには、私が世話になった多くの友人たちがいる。彼らをぜひ訪ねてほしい」。そんな植村さんの声が聞こえてきそうだ。極寒の3月初め、私は彼らと会うためにシオラパルクの村を訪れた。
◆山崎さんとは30年以上の付き合いになる。彼が高校在学中に植村さんを知り、その行為に憧れてアマゾン河を筏で下り、グリーンランドの単独徒歩縦断の夢を抱いたころ、その思いを綴った手紙が私の勤める雑誌の編集部に届いた。爾来、1年に1度くらいだが付き合いが続き、ようやく私のシオラパルク行きが実現した。コペンハーゲンで1泊したのち、世界遺産の「アイスフィヨルド」があるイルリサットまで飛行機を乗り継いで1泊、3日目にして、しかも2度乗り継いでヘリコプターでシオラパルクに入ったのである。
◆猫の額ほどのヘリポートで山崎さんは小さなソリを持って待っていてくれた。大きなザックを積んで5分も滑らせただろうか、彼が借りている家にひとまず落ち着いた。6畳ほどの広さの部屋が2つ、玄関口には1畳ほどのトイレと物置のある、エスキモーの典型的な家の造りだという。温かいコーヒーを飲みながら、久しぶりの再会に話がはずんだ。ここ10年は秋から翌年の春まで、犬ゾリを操りながら、無償の気象観測を続けているという。11頭のエスキモー犬の世話と、ソリの制作や手入れ、そして気象観測が日課だ。犬を走らせてトレーニングし、いくつかの定点で気象観測する日常はそれなりに忙しい。
◆山崎さんの家からは、一面、何キロにもわたって海氷が張りつめ、遠くには氷山を望むことができる。氷の厚さは1メートルもあるだろうか。海岸線にわずかな凹凸はあるものの、概して安定した海氷がえんえんと続く。まるで「蒼と白」の世界だ。外はマイナス30度、やはり寒い。それでも人が生活するぬくもりを感じてしまう。人間の感覚なんてアテにならないと思いながらも、鼻の奥がしびれたように「ツン」とする。
◆ピンと張りつめたような緊張感もあるが、風さえなければ、低い太陽でも昇ったあとはちょっと和らぐ。この海氷に40戸ほどの家屋が寄り添うように建っている。最近は空き家が多く、過疎化が進んでいるという。かつては狩猟で生計をたてていた腕のいいエスキモーの漁師たちも、1人去り2人去りして、冬の村は閑散としていた。ここから60キロほど南のカナックという村へ、収入のいいオヒョウ釣りのため、家を建てて移り住んでしまうからだ。
◆もちろん電気はひかれ、村の役場には公共のシャワー、日用品のマーケットもあって生活には困らないが、生肉や毛皮などの現金収入の道が「動物保護」の名のもとに市場から閉め出されつつある。結果として、それなりの時間と元手がかかる若い猟師のなり手が少なくなってしまう。
◆翌日は大島さんの家を訪ねた。現在、奥さんのアンナは病気療養のためカナックに住み、高台に建つ大きな家に1人で暮らしているという。優しそうな目がぐるぐるとよく動く、笑顔が印象的な人だった。「日本じゃ1回仕事についちゃうと、途中でやめられないじゃないですか。だからその前に、1度、外を見てみたかったんですよ」。
◆大学の北極遠征についていったら、グリーンランドの大自然に魅せられて、居心地がよくて、結局40年居ついてしまった。アザラシやセイウチなどの狩猟とオヒョウ釣り、見よう見まねで覚えた狩りで何とか収入の目途もたってきた。さらになめし皮の技術も身につけて、腕をかわれて南部まで教えにいくほどだ。驚いたのは日本語の会話が完璧なこと。「本を読むのが好きで、だから日本語も忘れないんです」。
◆その大島さんを師匠と仰ぐのが山崎さん。彼について日帰りで3回ほど犬ゾリを走らせ、最後はシオラパルクからカナックへ、4泊5日の小旅行に出た。犬の食料やテントを積み込んだソリの総重量は400キロ。極地服という厚手の防寒着にカミックというブーツを履いて、ソリに乗る。「ハック、ハック」(走れ、走れー)。山崎さんの掛け声とともに、11頭のエスキモー犬は一斉に走り出す。
◆犬は扇状につながれ、1頭のリーダー犬が先頭を走る。途中、何回かもつれたロープを解いてやりながら、休ませることも。1日の行程が終われば、犬を2〜3頭ずつテントの周囲につなぎ、万が一のシロクマ対策にした。私はといえば、何もせずに犬ゾリに乗っていただけだが、不思議とやり終えたという達成感があった。それにしても、氷上に寝るときはさすがに寒い。明け方になると、どうしても寒くて犬のように丸まってしまう。あまりの寒さに、なんだか夜が怖くなってしまったほどだ。
◆シオラパルクでもご多聞にもれず、子どもたちの間ではスマートフォンが人気だ。ネット環境も整っている。それでも彼らはエスキモー語を話し、危ういとはいえ狩猟を生活の基盤においている。変わるシオラパルクと変わらないシオラパルク。言葉や独自の文化をどうやって守り、伝承していくのか。大島さんは従来からの狩猟という方法で、山崎さんは観測ベースの建設という夢を抱いて文化を継承しようとする。そしてこの付近のエスキモーはだれもが植村さんに親近感をもっていた。「私が8歳か9歳、ナオミにエスキモー語を教えていたころが懐かしいよ」。そう言って目を細めるのだった。(神長幹雄)
■江本さんほか皆さん、ご無沙汰しています。フリーライターの西牟田靖です。3月に新刊を発売したところ、有難いことに江本さんが「ひと言書いてみろ」と原稿を依頼してくださいました。そんなわけで宣伝も兼ねて、今回、久々にペンを執ってみました。人と本との関わり合いをテーマにした『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)という本をなぜ出すことになったのか。その経緯について順を追って書いていきます。
◆地平線会議には1993年から通っていて、今までに2回報告させていただきました。かつての旧日本領を巡った「サハリンの鳥居」(287回、2003年7月)。日本の国境の島々を回った「ニッポンはじっこ紀行」(355回、2008年11月)です。
◆それまでは見たままを雑誌やガイドブック、個人的な日記帳に書いて終わりでした。しかしその二回はテーマが実に大きく、しかもそれを包括的・網羅的にまとめようとしたために、単にまわったと言うだけでは全然書けなかったのです。地理的な広がりだけでなく、歴史的な深さも求められました。そんなわけで参考資料を何百冊と買い込み、それらを読み込んだ上で、1年〜2年がかりで書き進んで何とか本としてまとめたのです。前者は『僕の見た「大日本帝国」』、後者は『誰も国境を知らない』です。
◆本は出せましたし、それぞれ売れたり評判になったり、はたまた読者である女性と結婚できたりと、頑張ったことの報酬のようなものがちゃんと返ってきました。ところがです。そうやって成功し、同じスタイルで本を制作していったことで悩みが深まりました。ひとつは収入の問題、もう一つは蔵書の問題です。ノンフィクションは儲からない。そのために家計に大きな負担をかけました。さらには買い込んだ蔵書が家族と住む家や書斎として借りている部屋を圧迫していったのです。
◆そして2012年2月、書斎を安い木造アパートに引っ越したところ、危機的状況に陥りました。蔵書でアパートの床が埋まってしまったのです。「このままでは本で床が抜けてしまうかもしれない」と思い、不安になりました。ただ同時にある考えが浮かんできました。どのぐらい本を置いたら床は抜けるんだろう。実際に抜けた人はいるのかと。だったらそれを追及して、書いてみるのはどうかと。自分の危機的な状況の解決と他人のケースへの興味を自分のネタへと転化したというわけで、これはある意味、職業病というか業のようなものですね。
◆ともかくそうやって本を巡る旅がスタートしました。物理的にどこに行くという旅ではなく、本と人の関係を巡る極私的な旅です。その模様は幸い「マガジン航」というネット雑誌に2年にわたって連載することができました。一口に本と人、人と蔵書といっても、そこは手を変え品を変え、あらゆる角度から光を照らし、見ていきました。どのぐらいの重さで床が抜けるのかを一級建築士に聞いてみるだけでなく、抜けた事故を目撃した新聞記者や床が抜けた有名作家の家族に話を聞きに行って実際に事故が本当にあることを確認しました。
◆部屋が本で埋まった状態で暮らしたため死亡の発見が遅れた作家の家族に聞きに行ったり。またはそうした蔵書を残して死んだ場合本はどうなっていくのかとか。たまりすぎた本を捨てたり、売ったり、電子化したというケースの体験談を聞いてみたり、または電子化を代行する業者に話を聞きに行ったり、専用の書庫を作ってみた話を聞いてみたり、震災での体験について方々に話を聞きに行ったり……といった一見するとバラバラに思えてしまう話を聞いて回り、じゃあ自分の床抜けの問題はどうするのか、という解決例をしめしたところで話を締めくくりました。
◆連載が終わったとき、2014年の7月でしたから2年3か月にわたって記事を書き続けたと言うことになります。自分自身の境遇の話と取材は現在進行形でおこないました。そのために、当初、予想していなかったことまで書かなくてはならなくなってしまいました。実は昨年の3月末、妻が3才の娘を連れて家を出て行きました。その別居そして離婚へと至る経緯、そしてそのことで蔵書をどのように整理したのか、ということまで書かなければ、蔵書を巡る旅が完結しません。それを書かなかったり、ぼかしたりして終わらせたとしたら、それはラストを省いたミステリー小説のようなものです。ということで、妻に了解を取って書けるところまではその経緯をつまびらかにしました。
◆3月5日、連載に大幅な加筆修正を加えて、本として出版しました。発売以来、読売新聞や朝日新聞、週刊文春に婦人公論と大手メディアからの取材依頼が相次いだこともあって、すごく好評です。発売から二週間足らずで増刷がかかりました。ベストセラーとなるならばまさに10年振り。石の上にも3年どころか、10年やり通してようやくのヒットってことになります。
◆普通なら本というものは出すだけでうれしいものですが、今回についてはそれだけではありません。売れれば売れるほど、自分の身の回りにおこった不幸の顛末が世の中に知れ渡るわけです。だから心境は複雑です。事実、妻も「良かったね」と成功を喜ぶ一方、内心は売れることが嫌だという気持ちもあるようで、それがわかるだけに僕も何といって良いのかわかりません。今までのように外国や僻地をテーマにし、他人を書いているだけならこんな悩みは抱かずにすんだのですが、身近なテーマだけにこうした問題が起こってしまうようです。
◆蔵書の多さに困っている人、買ってみて損はしないと思います。『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社) 税込みで1728円です。よろしくお願いします。(西牟田靖)
■地平線の皆さん、先月の通信で紹介させてもらった、ドキュメンタリー映画「縄文号とパクール号の航海」の上映、4月30日までの続映が決まりました。東中野駅前の「ポレポレ東中野」で時間は午前10時10分からと午後8時からの2回です。毎日ではないですが私とゲスト、監督との対談、トークも行います。今のところ11日に作家の田口ランディさんと、22日に作家の池澤夏樹さんとトークすることが決まっています。また決まりましたら報告します。これまでもいろいろな方に登場してもらいましたが、その中で江本嘉伸さん、服部文祥さんのトークの内容、ご本人の了解のもと紹介させてもらいます。(関野吉晴)
江本さんに感想をお聞きしようと思います。
江本 関野さんとは40年以上の付き合いになりますが、この映画を、純粋にオーディエンスとして観て、うーんすごいな、とあらためて思いました。すべてを自然から作り、移動を人力だけでやり通した事実を。
関野 このプロジェクトは(太古の航海を厳密に再現するような)実験航海ではありません。要するに、太古の人たちに思いを馳せながら彼らが何を考えて旅をしたんだろうか、何が辛く、何を喜びとして旅をしたんだろうか、といったことを実感したかったんです。同行した若者たちにも、「気づき」を得て欲しかった。
江本 ゆっくりした時間で航海が続いた最後、台湾の成功港を出てから日本の石垣島近くまで2日で300キロという台風の追い風を受けたスピードも驚きでした。そして、3.11が衝撃的ですね。あれも我々の目の前にある、大きな「気づき」だと思います。辛いことだったけれども、深いことを教えてくれた。関野さんと日本人クルーが2週間被災地に行って支援活動するけれど、その描写が入ることで、さらに考えさせられる映画になったと思います。
そしてあの同じ日、仲間だったリーダーのザイヌディンさんの訃報が届いたこともショックでした。私は、映画の全編を通して流れる彼の歌がこのドキュメンタリー作品の質を、深く高めた、と感じています。
関野 本当にショックでした。多分、漁をしていてなんらかの発作が起きたのではないか、と推測しています。死ぬような男ではなかったから。
江本 私は新聞記者をやっていたので、今回の挑戦の一部始終をよくぞ記録し続けてくれた、とも思います。だって監督の水本君や他のスタッフが頑張ってカメラを構えていなければ、今回の挑戦の現場は誰も知ることができないんですよ。
あと、繰り返し同じメンバーで、ああいうチャレンジを続行出来たことには正直、驚いた。関野さんの力でしょう。奇跡に近いのではないのかな……。
関野 確かに、登山隊にしても学術探検隊にしても、だいたい終わって成田に帰ってきたらもう二度と顔を見たくないという人が多いじゃないですか。
江本 そうそう、多いんだよね実は(笑)
関野 文化、年齢、言葉、国籍、宗教も全部違う人間同士だったんですけれど、一緒に生活していくなかで、それぞれが変化できたのだろうと思います。
江本 クルーが熱心にメッカの方向に向かって祈る場面がありましたが、マンダール人たちは皆熱心なイスラーム教徒なんですか?
関野 全員イスラーム教徒ですが、さまざまですね。あのように熱心に祈りを捧げていたのは彼1人だけです。お酒にしても、飲むときは飲む者が多かった。
江本 当然、彼らに幾分は報酬を払ってるんでしょう?
関野 報酬じゃなくて、彼らがいなくなったら家族が困るんです。稼ぎ頭ですから。行きたくても、親の反対か奥さんの反対があったら絶対来れないです。それで諦めた人がたくさんいるんですが、彼らは来ることができた。その代わり、留守中の間の収入を保証しなきゃいけなかったということです。
江本 なるほど。
関野 実は、船大工の棟梁がいて、彼も来ると言っていた。僕は、船を作った人が一緒に日本に行くと言ったら、ひどいものは作らないだろうということで、ホッとしたんです。ところが、途中で彼は降りました。その理由は、お金が目的だったからです。そういう人には来てほしくないです。
最後まで同行した彼らはお金が目的ではなくて、「誇り」でした。
江本 この機会にひとこと。2002年に国際山岳年というのがあり、私は事務局長を勤めました。その際私たちが提唱した「日本に山の日を」という呼びかけが、最近になって山岳関係者の間で新たな運動となって盛り上がり、キャンペーンが実って「国民の祝日」として国会で採択されました。来年2016年8月11日から祝日「山の日」が始まります。私が提起した「山の日」の思想とは、今回の対談シリーズでも登場する服部文祥さん(彼には国際山岳年当時もいろいろ協力してもらいました)のサバイバル登山の考え方、関野さんが今回やってきたように自然の材料でものを作り、自分の力で移動することにかえる、山の民であることを自覚することなんですよ。気になるのは、いまの日本ではこの祝日があっという間にイベント化して軽いお祭りになってしまうかも、という危惧なんです。僕らがやりたいのは、この映画で関野さんがやっていることと、深いところでつながる、その事を覚えておいてほしい、とお願いしておきます。
関野 こんにちは、関野吉晴です。
服部文祥さんは、サバイバル登山家として有名ですが、最近作家デビューされたんですよね。
服部 たまたま歴史のある文芸誌(『新潮』2015年2月号)に載せてもらいまして。
関野 服部さんがK2に登頂された時のお話を元にされていると思いますが、あれはノンフィクションでは書けなかった?
服部 そうですね、ノンフィクションでは書きにくいことを作品にしたいという気持ちは常にありました。
関野 僕も読んだんですが、ちょっと凍りつきました(笑)
服部 それは良かったです。作品は、自分の手を離れたら読んだ人のものだと思っているので、関野さんの中で心の動きがあれば、作り手として嬉しいですね。
「縄文号とパクール号の航海」ちゃんと見るのは今日で3回目なんですが、お疲れ様でした。いい旅ですよね。3回見てそう思っているんですけれども。
関野 やはり時間がないと出来ないですからね。
服部 我々が移動すると言うと、「効率よく目的地へ」と考えてしまいがちだけど、今回の航海は移動そのものが目的なわけだから、効率やスピードは意味がないんだなと思いながら常に見ていました。
かつて海を渡って日本に来た人たちも、おそらくあんなタイムスケジュールで進んでいたのかなと。今年はここまで、来年は良い風になったらちょっと進むといったように、自分の生活や人生そのものを乗せて動いていたのではないかと思ったんですが、いかがですか?
関野 その点に関しては、僕は少し違うと思っていて。
僕達は3年かけてインドネシアから日本に来たけど、昔の人は、一世代毎にひとつの島を移動していたんじゃないか。
つまり、昔の人は、島に着いたらそこにとどまって、島から出る必要がなければ出なくていいわけです。人口が増えるなど、色んな事情で必要に迫られたときに島を出る。日本を目指してきたわけではなく、一世代に一回くらい次の島に渡っていったら日本に来てしまったということだと思うんです。だから、今回の航海は昔の航海とは遥かに違う旅というか、スパンが違うんですね。
服部さんは『サバイバル登山入門』という本も出されていますけど、ライトも時計も使わず、サバイバルしながら、なおかつ先鋭的な登山をしているので、すごいなと思っています。
服部さんの「ズルしない生き方」というのを初めて聞いたとき、感銘を受けたんですよ。
服部 目指してはいるんですが、実際はズルだらけです。でも、今回の航海の考え方とほぼ同じですよね。「全部自分でやってみたい」という。なんでやってみたいのかと聞かれると、答えるのが難しいんですけどね。
関野 目指すところは、登山だけでなく、生き方全体においてもズルをしないことなんでしょう?
服部 そうですね、最終的には生き方全体を目指しています。最初はせめて山の中、せめて自分の登山では自力でやりたいというところから出発していますが。結局山って、生活の番外編として存在するので、土台である生活の影響を受けてしまうんですね。だから、生活の方も自力にしないと、山も自力ではやりきれないんです。
でも、生活も全て自力でやるには時間がかかる。非効率だけど自力であることは、本来受け入れるべきことなのに、日本人は効率が良くて気持ちがいいことばかり追い求めているから、非効率なことは無駄だ、馬鹿だ、賢くないと思ってしまうんですね。僕も子供の頃からそういう価値観の中で育ってきたので、それを浄化するのが難しい状態ですね。
関野 この航海でも、船大工を探したときに、「ばかじゃないの、最先端技術がある日本から来て何でそんなことやるんだ」ってみんなに言われました(笑)。
服部 個人的には、最後の質問の先にあった、現地の人も旅に誇りを持った、やったことに関して、インドネシアの人々も評価して、参加したがったという話が好きです。
最初、ばからしい、と言っていた人たちが自力を見せられて、それが、楽しくてよい(なんか価値がある)ものなんだと伝わったのだとしたら縄文号の旅は、すばらしい旅だと思います。
■トークの最後に会場から、危ない旅を続けることと「死」の折り合いをどう付けているのか、という質問があった(よくある質問だ)。関野さんは折り合いを付けていない、と答えていた。関野さんのような人は、危険だから「やらない」という考え方はしない。多少危険だけど「やりたい」、だから死なないように気をつけながらやる、というだけである。
◆その点、インドネシアクルーはどうだったのかが気になって、関野さんに聞いてみた。必要に迫られたわけでもない非効率な旅をインドネシアの人はどうとらえていたのか? 現地クルーも旅が進むにつれ、日本まで行きたいという思いが強くなり、インドネシアに残った家族や知り合いからも評価されるようになった、とのことだった。
◆なんでわざわざ手作りのカヌーなんだ? と言っていた人々が、実際に行為を見せられて、「自力の旅」の魅力に気がついていく。家族が父親のやることに誇りまで感じるようになる。これこそが、縄文号の旅の最大の成果だったのではないかと、思った。
■3月の小林天心さんの文章を読ませていただき、44年前の砂糖キビ刈り隊の際、旅行手続きをしてくださった天心さんのこと思い出しました。キューバ研のことや山本満喜子さんのことなどを書いて下さり、また70年募集時のことなど私が知らないこともあり、おかげさまでキューバ砂糖キビ刈りブリガーダ(隊のこと。以下ブリガーダ)派遣に至る過程が地平線の方に伝わってよかったと思います。私たち参加者の間では、あのブリガーダは日本における国際ボランティアの先駆けだった、という話はよくしますが、「日本の海外旅行黎明期に括目されるべき大事件だった」という小林さんの言葉は、長く旅行業界でお仕事をされてきた方ならではの見方ですよね。
◆71年まではまだ1ドル360円の固定相場の時代。36万円にしても高額な参加費を、学生たちはどうやって工面したのでしょうか。殆どはローンを含む借金ですが、親・祖父母・兄姉からは「出世払い」というゆるやかな返済方法が許されていたようです(新聞では「親のすねかじり」という言葉も使われています)。出資した家族からすれば、自分に果たせなかった夢を「何でも見てやろう」タイプの若者に託していたように思います。
◆まだまだ経済成長は続くと信じられていた時代の大らかさが、中流家庭の親たちの気前をよくさせたのでしょう。また退職して参加した人たちも、選り好みをしなければ仕事はいくらでもある時代でした。グローバル化した厳しい今とは比較できません。70年の国勢調査で国民の8割が自分は中流と答え、欧米諸国からは「ウサギ小屋に住む中流」と揶揄されながらも、どことなく余裕があり未来もあったあの時代こそ、私には日本が最も豊かだった時代に思えます。
◆2月号の原稿では2003年の再訪時のことまでしか書きませんでしたので、その余のことを少し書き足しておきます。ソ連邦崩壊後キューバが経済的困窮に陥っていた時代には、ブリガーダの仲間たちが先頭に立って、「キューバに自転車を送る会」、「キューバに鍼を送る会」の二つが物的支援をし、関西の人たちも、それぞれの場所で何らかの支援活動をしていました。その後他のいくつかのグループを交えて2003年に「キューバ友好円卓会議」が結成され、キューバ関係の情報収集や広報活動、フォーラムなど各種イベントを開催しています。
◆2004年に、私は「キューバに自転車を送る会」の加藤玲子さんと一緒に、ブリガーダのキューバ人4人を日本に招待し、日本の仲間たちに呼びかけて東京と京都で集まりました。また2006年には、70〜72年の参加者と家族・友人合わせ総勢20名でキューバに行き、サンタクララの博物館で当時の写真に加え、ブリガーダの旗、マチェーテ、ポロン(水差し)、キビ刈り用の手袋、作業服など、キャンプで使われていた物を展示する「Brigada Hasta la Victoria Siempre写真展」を開催しました。オープニングには当時の仲間と関係者、家族、友人など150人近い人が集まって、にぎやかに交流しました。写真展は、その後一年間同博物館で継続展示されました。
◆06年の訪問時、物資は随分豊かになったけれど、人々の口から出てくるのは不満の声ばかりでした。経済の自由化を進め、金儲けに奔走する人々の節操のなさを訴える声でした。でも、家に招待してくれて出される食事は美味しく、種類も多くなり、肥満を心配してヨガや太極拳に励む人たちが増えていることも印象に残りました。
◆天心さんの文章から、忘れていた様々な記憶が蘇ってきました。私がキューバに行ったのは71年1月末、帰国したのは72年11月初めです。この間、あさま山荘事件などいろいろな事件がありました。日本にいなかったため私には記憶としてありませんが、キューバに行った人たちは、警察から相当厳しく追及されたと思います。
◆私ですら、とある財団法人に勤めていた73年、ちょうど私が休みだった日に、警察から聞き込みが入りました。逮捕した人の手帳に私の名前があったそうです。常任理事(女性)がうまく言って追い返してくれたらしいのですが、前の年にやはり警察が来て、逮捕状もないのに教室の生徒を無理やり連れ出したことがあって、常任理事は警察に反感を持っていました。そのおかげで私は救われましたが、70年の学生参加者がその後の集まりに出てこないばかりか、その頃の人にはもう会いたくない、と言っていることが、今になって分かるようになりました。71年の人でも、いまだにキューバを黙して語らず、一切の連絡を拒んでいる人もいます。(キビ刈りの話が当人たちからあまり語られていないのは、そのあたりのこともあるのかもしれません)。
◆04年の集まりに出てきた人たちは、皆さん、堂々とキューバを語って生きていました。職場では口に出さなかったとしても、個人的な場所では自由に語っていたと思います。また、キューバを出た後南米に行った人は71年が2人、72年は5人(うち3人は1〜3年中南米を旅行)、71年は他にヨーロッパに渡って中東、北アフリカに行った人など複数おり、そこからさらにアジアを回ってインドから日本に帰り、1年以上かけて世界一周した人も2人いました。海外旅行黎明期から自由化に向かう境目の時期に、キビ刈りをきっかけに飛び立った人たちの中には、時代を先取りして、時にヒッチハイクをしながら地平線的旅を楽しんだ人たちもいたのです。
◆キューバ砂糖キビ刈りブリガーダのことは、やはり参加した私たちがきちんと記録しておくべきことかもしれません。最近記憶があやしくなっているので、早くしないといけませんね。また山本満喜子さんのことも、私たちが記録して残してあげないといけないな、とは思っていました。満喜子さんのメキシコでの晩年のことなど、天心さんにお聞きしたいと思っております。思いがけない方からの反応を知って、さすが地平線は幅が広いな、と思いました。(大野説子)
■2008年の初夏、関野さんたちと奈良県吉野の刀匠・河内國平氏の工房を訪問した。鉄器づくりに必要な、砂鉄集め、たたら製鉄、ケラ(たたら製鉄で精製された鋼の塊)を鍛えて鉄器にすること。河内さんの紹介で技術を持つ人が次々と繋がった。同行した佐藤洋平とは、吉野からの帰り、京都鴨川の河原で野宿をした。翌日は大阪の国立民族博物館に脚を伸ばし、太平洋の島に暮らす人々の航海術や船について調べた。秋頃には九十九里浜での砂鉄集め、冬にたたら製鉄、と驚くようなスピードで船づくりは進んでいった。
◆自然の中から素材を探し出して、ものを作る経験は初めてだった。素材について、どういう行程で作られるのか知識はあったけれど、実際に経験すると、それは想像以上で、出来上がったケラの一片にも愛着が湧いた。たたら製鉄は本当に肉体労働で、炉から燃え上がる炎を見つつ、 汗びっしょりになり、頭はもうろうとしながら、ふいごを踏んで徹夜で風を送り続ける。
◆途中、工房の隅で仮眠をとりつつ、人が入れ替わり立ち替わりふいごを踏んだ。お祭りのような、ある種の興奮状態の中で、夕方に炉が壊されて出てきた熱々のケラを見た瞬間は、今思うと、一歳半になる娘が誕生した時、初めて自分の赤ん坊を見た感覚に近かった。
◆3月28日、「縄文号とパクール号の航海」と「スーパーローカルヒーロー」という二つの映画を観た。前者は関野さんたちの航海の記録、後者は地平線の友人、岩野祥子さんに教えてもらった映画で、広島の尾道にあるCDショップ『れいこう堂』の店長・信恵勝彦さんを追ったドキュメンタリーだった。二つに共通するのは、東日本大震災だ。信恵さんは震災で被災した家族を受け入れるため、尾道の空き家を探し、避難に必要な交通費の半分を支給するため、支援を募り、足りない部分は自分の持ち出しで補った。本人はショップ経営で経済的に余裕があるわけではなく、毎朝新聞配達をして生活費を稼いでいるのだ。尾道と震災について、その繋がりを初めて知って驚いた。
◆以前から、尾道という街が好きだった。海を望む坂道に古い住宅が密集し、狭い路地では人がすれ違うのも困難なほど。個々人が狭い敷地を最大限に活用してできた、街の形だ。その成り立ちが高度経済成長期の自動車の普及以前のものだから、道幅は歩きが基本になっていて、ヒューマンスケールがとても心地よい。4月4日、広島県の実家に帰省する用もあり、家族3人で尾道を訪れた。
◆初日は、空き家問題への取り組みで注目されているNPO法人の活動を見た。ここ5年で約80世帯の移住者に空き家を紹介したそうで、その数の多さに驚いた。次に、岩野さんからの紹介で、地元の友人ダイスケさんに会った。彼は尾道市の向島で築150年の古民家を再生しながら、シーカヤックのガイドをしている。「さっちゃんの友だちだから」と、初対面にもかかわらず、島を案内してくれ、信恵さんも紹介してくれた。
◆信恵さんは映画の印象以上に親切な人で、ゆるさと鋭い視点を織り交ぜながら、移住者の家探しついて話してくれた。その後、シーカヤックの古民家再生クラブハウスを見た。古民家は空き家になって何十年も放置されていたため、この1年間、空いた時間のほとんどを修理に費やした。春から秋までのカヤックガイドの収入で足りない部分は肉体労働で補っている。
◆翌日は尾道在住で関野ゼミの仲間、ヨコシ君宅にお邪魔した。彼の家は、大正時代の茶園建築。昔の大店の旦那が、お得意様をもてなすための建物で、家の隅々まで素材にこだわった作りだ。桜材の廊下、屋久杉の一枚板の戸、黒檀の床の間など現在では入手できない貴重な材料ばかり。数年前まで彼の祖母が住んでいたが、今は彼が引き継いでいる。「父親世代には、こういう家はお荷物物件でしかないんですよね」。
◆彼の父はその家を解体して手放そうと考えていたという。彼はその文化財級の建物を手入れしつつ、無料に近い金額でシェアハウスとして開放している。当日もカナダ人とベルギー人計5名が宿泊していた。二階の縁側の戸を開けて、昼から夕方までお茶をした。石垣、土塀、満開の桜、古い瓦屋根の家々。青空の尾道水道を望みながら、春のあたたかい風にのって桜の花びらが吹き込んでくる。信じられないくらい心地のよい、贅沢な時間だった。
◆そして、ヨコシ君はもう一軒古民家を再生中だった。それは取り壊し寸前の庶民的な家。屋根は崩れて、柱も傾いていたが、その家の佇まいに惚れた。何度も大家さんと交渉して買い取り、独りで修理を続けていた。ところが、作業中に電動丸ノコで指を切ってしまい、開放骨折の大怪我。傷を見ると、よく指が繋がっていたな、と思えるほど。今は指の関節を曲げるリハビリ中でもあった。「昔の建物が持つ良さを、そのままの形で人々に伝えたい」と彼は言う。
◆砂鉄を集めて、たたら製鉄でケラをつくり、鍛えて鉄器を作る。それで大木を切り倒し、船を作って、風と潮任せの航海をやり遂げる。奈良県吉野の工房で、関野さんからその説明を聞いた時、河内さんは一瞬唖然としていた。その4年後、船は目的地にたどり着いた。人の手で素材を生みだすことは、想像を超える労力が必要だ。効率優先の現代において、それは無駄な苦労と言われるだろう。しかし、労力を費やすことで見えてくるものがある。ものが生まれる過程を身体で体感し、身の回りにある道具が、全て地球の一部を材料に作られていることを想像する。大量消費が当たり前の現代だからこそ、この経験は大切な気付きを与えてくれた、と思うのだ。(山本豊人)
■たまには、トレーニングをせねば、と久々に高尾〜陣場山の山道ひた歩き(ひた走りではない!)に行ってきた。往復28キロになるこのコースは、山走りをやる登山者にとっては格好のトレーニングコースだ。以前は往復5時間を目標に走っていたが、さすがにそうはいかず、片道4時間ぐらいのの早歩き。それも片道だけでやめました。ジジイが息切らして山道を走るなんて、格好が悪い、公害と言われかねない、と言い聞かせて。
◆雨模様の天気だったので登山者は少なかったが、トレイルランナーたちにとってはちょうどいいコンディションで、次々に抜かれた。身体のバランスの良いアスリートタイプの若手ランナーは見ていて気持ちいい。ただ、一般登山道を走ることには無論、批判もある。ランナーと遭遇した登山者が危険を感じたり、ランナーが植物を踏み荒らしたりしないよう今後全国の国立公園で呼びかけをするそうだ。
◆それにしても、走りのライバルの三輪主彦が古希記念に夫婦で四国遍路旅をやったのは、偉い。連日あれだけ歩くのは普通の人にはできないだろう。私の古希は太平洋から歩きはじめ、富士山のてっぺんで70歳を迎えたのだったが、結構きついこともできたのは、山岳部の後輩の強い山男がパートナーだったからだ。おととし彼が逝ってしまい、いまだ少し呆然としている。
◆上のイラスト告知にあるように、4月の地平線報告会は、福島でやるため新宿の会場はお休みです。5月の地平線通信の発送作業は13日の水曜日になる予定です。詳しくは地平線会議のウェブサイトを。(江本嘉伸)
ぼっかされだ里に花の咲ぐ
東京電力福島第一原発(いちえふ)の爆発という、日本がかつて体験したことがない深刻な出来事から4年経ちました。自然災害ではなく、あきらかな人災によって日本日図に生じた空白は、未だ埋め戻す手だてが見つからないままです。 いちえふに程近く、第二原発が立地する楢葉町は全ての住民が避難していましたが、この4月6日からようやく自宅での宿泊が認められました。ただし3ヶ月間は「準備宿泊」という形です。 福島は今後どうなってゆくのか。地平線会議は今が正念場と考え、現地での移動報告会を企画しました。4/18朝、いわき市をスタートに国道6号線を北上。楢葉町、大熊町、いちえふ付近(通過のみ)、双葉町、浪江町、南相馬市などを巡る予定です。バス移動、宿泊が条件なので必ず事前申し込みが必要です。 今月は以上の形の報告会となり、東京での報告会はありませんが、参加できない方には通信で詳しく報告します。ご期待下さい! |
地平線通信 432号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶 福田晴子
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2015年4月8日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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