2015年1月の地平線通信

1月の地平線通信・429号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信表紙

1月 14日。地平線会議にとっては、36回目の新年である。9時半頃、南三陸町志津川の佐藤徳郎さんに電話で挨拶をした。お元気そうだったが、ちょっと口調が落ち着かない。「いま、四駆がかからなくて様子見てるところなの。アイスバーンでこのままでは上がれないんで」。少し冷やせば、四駆がかかりそう、と聞いていったん電話を切る。

◆仮設暮らしの佐藤さん(2013年3月の地平線報告者)は、漁業者ではなく、農業者である。数キロ離れた土地を独力で開墾し、新たに自分のビニールハウスを7棟作った。荒れ地をひとりで掘り返すその開墾の現場に宮本千晴さんと訪ねたことがある。2度目に行った時には見事にホウレンソウが実っていた。

◆生育の順番に、7つのハウスのホウレンソウを出荷するので冬の今も毎日のように畑に通う。今日も明日の出荷に備えてハウスに向ったところだったが、凍り付いた山道の登りでストップした。急な山道なので四輪駆動とならなければ動けない。もう14、5万キロは走っているおんぼろ(失礼)軽トラダンプ、故障があってもおかしくないが、なぜか15分ほど冷やすとかかるようになるという。

◆10時過ぎ「大丈夫でした、なんとか四駆かかりました」と電話があった。無事、ハウスにたどり着けたようだ。志津川には大晦日の31日、雪が降り始め、元日までに12、3センチほど積もった。車が動けなくなっては困るので、新年早々仮設住まいの人も総出で雪かきをしたそうだ。

◆3.11からやがて4年。東北の復興は、目に見えて進んでいるところと遅々として進まないように見える地域とに二分化した状態で進んでいる。約200人が暮らす佐藤さんの住む中瀬地区については、はじめ「仮設暮らしは2年」とされ、次に「どんなに遅くなっても4年たてば」高台の「復興住宅」に移り住めるはずだった。それが最近になって「最速で平成28年8月には」というふうにトーンダウンした。高齢者が多く、1日も早く移りたいのに、「さらに2年かけないと」という事態になったことに、人々は呆然としている。

◆行政の安全第一主義が徹底し過ぎていて、「ちょっと天気が悪ければ工事はストップする。一番遅いスピードで高台移転を進めているようだ」と、佐藤さんはもどかしさを訴える。農地を買い取っての「戸建て」となれば、さらに先の話になる。3.11の問題は、終わるどころかいよいよこれからが正念場なのだ、と私たちは知っておくべきだろう。

◆ところで今日は、歌会始の日。NHKのテレビ画面は天皇、皇后も出席しての歌会始の様子を映し出している。高校時代「木苺」という、短歌の同人誌のメンバーだったこともあり、歌には少し関心がある。ことしの御題は「本」だった。「おさがりの 本を持つ子は 持たぬ子に 見せて戦後の 授業始まる」新潟県の吉楽正雄さんの歌。思わず年齢を確かめた。77才。教科書がひとりひとりに行き渡らない時代だったのだ。

◆しかし、この年齢の方は多分戦前に就学し、「サイタ サイタ サクラガ サイタ」で始まる古い国定教科書で1年生になったのだと思う。「ススメ ススメ ヘイタイサン ススメ」と続くので自ずと内容はわかるだろう。1947(昭和22)年4月、いわゆる「新制教育」が始まったが、私は、その最初の1年生だった。その時の国語教科書の冒頭の詩をよく覚えている。「おはなをかざる みんないいこ きれいなことば みんないいこ なかよしこよし みんないいこ」。ユニセフ憲章のようなこの詩には単調だがメロディーがついており、今でもしっかり歌えるのが我ながら不思議だ。

◆「鬼畜米英」「ほしがりません、勝つまでは」などを暗唱させられていた日本の子ども達は、急に「皆さん、お互い仲良くしましょうね!」と、言わされる教育の洗礼を受け始めた。幸か不幸か私はその第1号だったのである。はじめから負けた国の少年として意識していたから、横浜の町に進駐軍がずかずか入り込んでくるのも不思議と思わなかった。子ども心に日本が素晴らしい正義の戦をして敗れた、とは思えなかったこともある。

◆今年は「戦後70年」ということでありとあらゆる「総括」が始まる気配だ。夏頃出されるであろう「総理大臣談話」が今から注目されているが、私はよほど現代史と周辺国の感情を勉強した上でなければ、やらないほうがいい、と考えている。頼むから、上から目線で紡ぎ出される言葉を過信しないでほしい。そのことは政治家たちの責務であろう。

◆そして、今年は未(ひつじ)年。正月明け早々、羊のおいしい肉がモンゴルから“密輸”されてきて、素晴らしいご馳走にありついた。地平線仲間がモンゴルの友人から預かって運んでくれた貴重な羊。解凍してナイフで削りながら食べると、草原のあの香りが漂うようだった。チビの麦丸がガルルル……、とうなり声をあげ、ライオンのような牙で飛びかかるのが恐ろしかったが……。(江本嘉伸


先月の報告会から

時代の渦を写す!

渋谷典子

2013年12月26日  榎町地域センター

■2014年最後の報告者は写真家の渋谷典子さん。渋谷さん(愛称はテンコさん)は東京写真大学を卒業後、ワークショップ写真学校の東松照明ゼミや森山大道ゼミで学び、1976年からフリーの写真家として活動を開始。ちょうど地平線会議が発足した79年頃に全盛期を迎えた「竹の子族」や「ロックンローラー」「新宿」などのドキュメンタリー写真を撮ってきた。その一方で、20年近くにわたり、映画のスチールカメラマンとしても活躍。三船敏郎主演のヤクザ映画『制覇』(82年公開)に始まり、高倉健主演の『夜叉』(85年)や『鉄道員』(99年)、吉永小百合主演の『玄海つれづれ節』(86年)など、写真誌の取材も含めて11本の映画に関わった。その経験は2013年11月に刊行された渋谷さんの著書『映画の人びと』にまとめられている。報告会では、前半に映画のスチールカメラマン、後半にドキュメンタリー写真家として撮ったたくさんの写真を見せてもらった。

◆テンコさんが映画のスチールを撮り始めたきっかけは、一本の電話だったそう。写真誌の編集者から「東映で女性カメラマンを探しているから、会ってみないか?」という内容だった。男ばかりだったヤクザ映画の現場を女性の視線で撮らせて、宣伝の材料にしようという意図があったようだ。映画に興味のあったテンコさんはそのオファーを受けて初めての現場へ。「朝でも昼でも夜でも出会った人みんなにお早うございますといいなさいと、それだけ習って送り出されました」。

◆映画の世界でのテンコさんの立ち位置はちょっと不思議だ。もちろん役者とは違う。映画の作り手とも違う。撮った写真はポスターやチラシ、パンフレットなどの宣伝材料に使われるという意味ではスタッフの一員なのだけど、完璧な当事者というより映画に情熱をかける人たちを間近に目撃した人という印象。『映画の人びと』の副題にも「女性カメラマンの映画撮影現場体験記」とあって、やっぱり独特の距離を感じる。報告会でも本でも、映画という特殊な現場でテンコさんが出会った驚きや場の雰囲気が率直に語られていた。

◆たとえばスチール写真はどのように撮るか。本番のカメラが回っている間にシャッターを切ると音がフィルムに入ってしまうので、スチールカメラマンはテストのときなどにムービーのカメラのすぐ横あたりから撮るそうだ。このとき背中を向いている役者がいると宣材には使えないので、重要なシーンでは本番のカットがかかってから、いったん撮影の現場を止めて向きを変えて再現してもらう。セット中に聞こえるように「スチールお願いしまーす」と声を張り上げるのはテンコさんにとって緊張の一瞬だったという。「ポスターに使われるようないいシーンでこそ現場を止めなければいけないのだけれど、いいシーンはやっぱり盛り上がっていて、いい流れになっているので申し訳ない気持ちだった。でも照明が変わってしまうと同じものは撮れなくなるのでそのときにやるしかない。初めて止めたときは前の日から緊張して、えいやっていう感じで言いました」

◆その他にも、照明や音声、記録など映画に関わる様々な仕事に携わる人の姿をテンコさんのカメラはとらえていて、記録の人はシーンの終わりで登場人物の服のボタンがどこまで留まっていたかとかグラスの酒はどこまで入っていたかまで細かく記録するのだとかいう、観客には馴染みの薄い特殊な役割についても語られた(詳しく知りたい方は本で!)。

◆ミーハーな一人として見逃せ(聞き逃せ)なかったのは、撮影の合間に見せるスターたちの素の表情や撮影にかける意気込みのエピソードだ。三船敏郎は黒沢映画に出たときに「役者は現場に台本なんか持ってくるな」と言われてから台本を持たずに撮影に挑んでいた。緒方拳はとても真面目な印象の人で現場でも監督と長い時間をかけて打ち合わせをしていた。

◆高倉健と初めて会ったときには電磁波のバリアーが周囲に張り巡らされているかのように感じて近づけなかった。でも、とても気配りをする人でかつ芸人好きで、ビートたけしと共演したときには最寄りの駅まで花束を持って迎えに行ったり、志村けんには「弟子志願の高倉です。こちらは寒いので風邪をひかないように」とメールを送っていたり。しかも、(笑えないこともある)オヤジギャグが好き! 吉永小百合はソープ嬢を演じた現場で、小さいビキニに透け透けのドレープ姿でも堂々と歩き回って女優魂を見せていたとか、藤田まことは売れない時代に全国のキャバレー回りをした経験から、また売れなくなったときのために、そのときの楽譜を捨てずに持っていたとか……etc。

◆テンコさんが最後に入った映画の現場は『鉄道員』だ。『夜叉』で高倉健を撮って間もない頃にやはり高倉健主演の映画『あ・うん』(89年公開)のスチールカメラマンとして声がかかったが、乳飲み子を抱えていたために断念した経緯があったので、「高倉さんが東映で19年ぶりに撮るこの映画はどうしてもやりたい」と志願したそうだ。

◆雪の中に真っ直ぐに延びる線路脇で高倉健が天を見上げる、全体に青みがかった風景が印象的なポスターはテンコさんが撮ったもの。この場所に立った瞬間に浮かんだ構図だという。「このとき高倉さんは役に入っているのが分かったのでテストでもシャッターを切れずに、監督のカットがかかった瞬間に撮った。遠くに見える信号は青ではなく赤でなければいけないと自分では思っていたので、カットまで赤が灯っていてくれてラッキーだった」

◆映画では終盤、死を目前にした主人公の前に死んだ娘が成長した姿で現れる。このシーンでもテンコさんは写真を撮ることができなかったという。「一脚を持って手をカメラではなく胸のあたりに置いていて、その手を動かすことすらできなかった。動く手が二人の視界に入っちゃいけないと思って。みんなフリーズ状態で微動だにしない。セットがひび割れるんじゃないかというくらいの緊張感でした。私もここは撮らないのが仕事だと思って撮らずに、あとでスチールの時間をもらいました」

◆『鉄道員』を撮り終えてテンコさんは映画の世界から身を引いた。従来のドキュメンタリーの仕事に重心を置くことと、子どもと過ごす時間を増やしたいと考えたからだと著書に記している。

◆後半は、そのドキュメンタリー写真が披露された。ひとつひとつに時代の空気が反映されていて、懐かしさを感じたり、自分の知らない歴史を初めて目撃した気分になったりした。テンコさんの代表的な仕事のひとつである竹の子族は、ピーク時にはロックンローラーの踊り手と合わせて6000人、ギャラリーが10万人もいたという。私は70〜80年代の流行を語る系のテレビ番組などでしか見たことがなかったのだけれど、ひとりひとりの若者の表情がくっきりとして印象に残った。

◆そのなかには後に自殺した元アイドルの沖田浩之の姿もあった。テンコさんが撮った対象はその他にはこんなものたちだ。中上健次。都立高校の入学試験を毎年解くというビートたけし。ボクサーの小林光二。新宿ゴールデン街。伊勢丹のライトアップ。建て替え中のコマ劇場。花園神社。さくらや。「笑っていいとも!」最終放送日のアルタ前。都立西高アメフト部。早稲田大学祭でのボディビルダー。零戦とエノラ・ゲイの滑走路。そして反原発デモ。

◆70年代から現在に至るまでの様々な写真のなかには、いまは無くなってしまったものもたくさん写っていて、なんだかとてもドラマチックだ。その一枚がかつてあったものの存在証明をするばかりでなく、時代の空気をも思い出させるのだから写真の力ってすごいと改めて思う。現在進行中の反原発デモを撮り続けているのも、いまの人に見てもらうだけでなく後世の人に伝えたいからだとテンコさんは言う。いまの時代の写真を未来の子どもたちはどんな思いで見るのだろうか。(菊地由美子


報告者のひとこと

報告したからには、今、取りかかっているテーマはきっちり形になるまで撮り続けなくては

■自分が会場の皆さんに向って話す、初めての地平線報告会。まさか私が報告者になるなんて、青天の霹靂。地平線会議には35年前、友人の中村易世さんから、「面白い報告会があるから来ない。写真が凄いから」と誘って貰い、おそらく3回目位から参加。途中、結婚、子育てと、中抜きがあり、21世紀初の報告、関野さんの「グレートジャーニー」から復帰。次月が石川直樹さんの「ポールトゥポール」。さすが地平線会議は凄い、とてつもない人たちがいる。と、また足を運ぶようになりました。今月はどこの世界に連れて行ってくれるんだろう、どんな写真を見せて貰えるんだろうと毎月楽しみにしていました。

◆2013年11月、初めて出した本「映画の人びと」を読んでいただいた江本さんに、「『映画の現場』のこと、70年代から撮り続けている『新宿』、80年代に撮っていた『竹の子族』、新たに取り組んでいる『反原発デモ』のこと等、今まで撮った写真のことを語ってくれればよいから」と、お誘いがありました。私のしてきたことや写真は、地平線会議の今までの報告者の方たちとは違うと思いましたが、一度皆さんに私の写真を見ていただき、感想を聞かせていただくのも良いのでは、と思い引き受けました。

◆初めての打ち合わせから当日の準備まで、その間、通信作成、発送。側で見ていて世話人の方々のご苦労が良くわかりました。今回はとくに、暮の忙しいときに丸山純さんが私の写真を147カットすべてスキャンしてデータを作ってくださり、恐縮しました。今年で36年目に入る地平線会議。継続の凄さを、改めて感じます。人前で自分の写真について報告するのも初めて、それも2時間以上も。グダグダな報告になってしまいましたが、終わってから「もっと他の写真も見たかった」と数人から声が掛かり、やって良かったと思いました。報告したからには、今、取りかかっているテーマはきっちり形になるまで撮り続けなくてはと、気も引き締まりました。今後、写真展、写真集等、発表していけるよう、頑張ります。(渋谷典子


地平線ポストから

福島年頭報告

福島は今もこんな状況なのに、県外に行くとほとんどの人が福島のことを忘れているか、理解していないことにびっくりします

 地平線会議のみなさん、明けましておめでとうございます。

 この2年ほど、冬の3ケ月間は東南アジアをカブでツーリングしていて、2013年はタイのメーサローンで、2014年の新年はベトナムのゴックホイという田舎町で迎えたのですが、2015年は久しぶりに日本で過ごしました。

 私事で恐縮ですが、昨年3月末に父が亡くなり81歳になる母の認知症が進んでしまったため、実家のある千葉・流山と福島・天栄村を行き来する生活となったのが理由です。

 この先、しばらくは長い旅はできなくなりましたが、それがいやだともつらいとも思わず、今はそういうときなんだ、と当たり前のように受け止めているのが自分でも不思議です。今まで本当に自由にやらせてもらい、自分のために生きてきたので、しばらくは母の認知症と向き合いながらできる範囲のことをやっていくつもりです(そんなわけで、年賀状は控えさせていただきました。喪中ハガキもなんだか書くのがイヤだったので、年賀状をいただいた方には、脈絡もない時期に何かしらのハガキが届くかと思います)。

 福島原発被災地でのペットレスキュー活動はずっと続けていて、今は葛尾村をメインに、浪江町・双葉町へも通い、月3、4回は被災地へ出向いています。

 給餌レスキューボランティアはごくごく少なくなり、自然と担当エリアが決まってきましたが、エリアによって状況はずいぶん違います。

 全村避難の葛尾村は、多くの住民が比較的近い田村市や三春町に避難しているので、自警団の方々が毎日村へ来るし、住民の方もちょくちょく戻っています。一般人も許可なしで入域できます。

 私たちは、残された飼い犬猫や、TNR(不妊手術をして同じ場所に戻すこと)をした飼い主のいない猫たちのフォローをしています。基本的に給餌のみで許可もあり、自警団の方々とも馴染みになったので、職質などもなく至極平和に活動できます。飯舘村もだいたい同じような状況です。

 2007年春の避難指示解除に向けて除染も全域で行われていて、毎日村の人口以上の作業員が入るので震災前よりも交通量も多く活気があります(冬の間は除染作業は休み)。村史上初の自販機も導入され、帰宅時間には1ケ所しかない信号で、これまた村史上初の渋滞も起こります。

 一方、旧警戒区域の浪江町・双葉町へは許可証が必要です。ここに詳しく書くことはできませんが、入域しても大っぴらには活動はできません。職質されることもあります。

 2つの町は対照的で、浪江町では避難指示解除準備区域を中心に除染がどんどん行われていて、黒いフレコンバックが大地を埋め尽くしていっています。浪江ICが開通したことで、今まで一般の人が通れなかったR114からR6に抜ける部分は開放されました。

 逆に双葉町は除染がまったく行われておらず、無人の町。あの日から時間が止まったままです。その双葉町と大熊町は除染物質の仮置き場として国有化されることが決まり、そこからのレスキューを最優先に動いてくれている人たちもいます。

 レスキュー活動をいつまで続けられるのか、この先どうなるのかわからないし、動物保護関係では人間同士の仲違いや面倒なことも多く、労力的にも経済的にも大変で、正直、一切放り出せたらラクなのに、と思うこともしばしばです。

 それでも、福島の原発事故は終息していないし、被爆しながら懸命に生きている小さな命がある以上、やめられないのです。

 震災直後のゴーストタウンのような警戒区域とは打って変わり、現在は除染業者や復興関連業者の車が増え、2014年9月に国道6号線が開通、3月には常磐道も全線開通予定、楢葉町や浪江町ではコンビニもオープン、楢葉町役場に復興商店街もできました。少しずつ、確実に復興に向かっているものの、福島では動物のこと以外にも、まだまだ問題が山積みです。

 そんな状況なのに、県外に行くとほとんどの人が福島のことを忘れているか、理解していないことにびっくりします。

 「福島は危ない」(福島といっても広いのに)、「子供が外で遊べない」(遊んでます!)、「福島に行くと鼻血が出る」(美味しんぼ問題。誰も相手にしていません)などネットやマスコミの情報を鵜呑みにし、福島に一度も来ていないのに福島を語る人たちも多くて、唖然としたり憤慨したりすることも少なくありません。

 そうした誤解や風化を防ぐためにも、これからは、前線活動だけでなく、発信する方向にも舵を取って行かなくては、と思っています。

 震災直後も避難せず福島に住み続けていること、ペットレスキューで継続的に被災地の最前線を見ていること、被災者の生の声を聞いていることで、私なりに伝えられることもあります。

 4月に地平線会議が予定している現地報告会には私も参加します。地平線会議の皆さんにも、ぜひ福島の現状を見て知ってほしいです。世界的にもこんな場所は他になく、しっかりと見ておくべきだと思います。(滝野沢優子

3.11 今も……

浪江町の「希望の牧場」に行ってきました

■12月29日から1月1日にかけて福島県双葉郡浪江町にある「希望の牧場」に行ってきました。29日の夕方に岡山を出発し13時間かけて、浪江町の牧場に着きました。「希望の牧場」は原発事故以降、高放射能地域で警戒区域に指定されている(福一から14キロ)ところで牛を飼い続ける吉沢正巳さんの牧場で、支援者などと共に一般非営利社団法人として運営を続けています。いきさつは『原発一揆』、針谷勉、株式会社サイゾー」に詳しいのでそちらをご覧ください。

◆早朝に牧場に着いた直後から牛の餌やりの仕事が待っていました。白いフレコンバックに詰め込まれた餌を吉沢さんがタイヤショベルに吊り下げて運んできて、牛舎の中央コンクリートに開封して全体に分散させます。我々はその餌を首を出して待っている牛たちに均等になるように雪かきスコップで押し出していきます。餌は、リンゴ絞りかす1袋、もやしかす2袋、スーパーからの野菜くずがゴミ収集車でそのまま運び込まれたもの、枯草1ロールが1牛舎分で、2牛舎の餌やりを行います。途中休憩を1回しますが8時から始めても午前中いっぱいかかります。

◆餌やりは30、31日、1月1日と3日間行いました。30日の午後は吉沢さんの車で請戸漁港や浪江駅周辺などを案内していただきました。放射線量が高いので許可証のある車しか入ることができません。崩れた家や乗り上げた船などは片づけられずに残ったままです。浪江駅前などはゴーストタウン状態です。新聞配達店には配達前の新聞が積まれたまま置いてありました。31日の午後は牛舎の防風ネットの設置を手伝いました。古く使わなくなった牛舎の防風ネットを電気ドリルやバールなどを使い留め具を外してネットを外すのに3時間以上かかりました。

◆外したネットを現牛舎の外に取り付けるのに2時間ほど。作業はタイヤショベルのショベル上に乗りこんで牛舎の軒下に近づけてもらい充電ドリルで取り外し作業を行い、また専用金具で止めていきました。1月1日の午後はお正月なので牧場内のお姉さんの自宅前で餅つきを行い、吉沢さん,お姉さん,我々ボランティアでいただきました。空間線量は2〜4μSvなので、外での作業は相当の被ばくをしたと思います。もちろん家の中でも1.8μSv程度はあるので安全ではありません。

◆吉沢正巳さんは、手塩にかけた牛を出荷ではなく、東電と国の決定で殺処分することには納得がいかず、警戒区域になっても避難所から餌をやり続け、今でも330頭もの牛を飼い続けています。政府が浪江町の中を部分的に除染して復興団地を作る計画を進めていることに対して、漁業も農業もできない土地で、子供たちも住めない土地で復興団地を作る意味がどこにあるのか、と問いかけます。

◆周辺の田んぼも除染が進んでいますが、その田んぼに来る水は上流のダムで,その湖底には大量のセシウムが沈殿しているということです。それでも田んぼは除染され続けられています。そんな田んぼのコメを誰が買うのかと訴えます。また、自分も300頭もの牛を生かし続けることの意味がどこにあるのかと自問し続けています。しかし、東電や国の事後処理には納得がいかず、原発事故と国の無責任さを訴え続ける意味でも牛を飼い続けると言っています。一時、ネットやメディアで交通事故で半身不随の牛を引き取ったことが話題に出て、支援者が広まったということですが、毎日の餌やりだけでも大変な作業と言うことが分かります。それも、放射能汚染、牛の糞尿汚染のされた牛舎でおこなうのですから心が折れないのが不思議なくらいです。普段の協力者は、吉沢さんのお姉さん、針谷さん、木野村さん、伊藤獣医、などです。こんな少人数で300頭もの牛を飼い続けるということがどんなに大変なことか。それを痛感しつつ、1月1日の夕方、牧場に別れを告げました。

★追記:放射能汚染をどのように考えるかを多くの人に改めて考えてほしいから、地平線通信に載せていただけるのは大歓迎です。書き足りないことで現地で知ったことと言えば、リンゴ絞りかす、もやしかす、枯草ロールのフレコンバッグは提供いただける方々の好意によるもので無料ということですが、牧場の2トントラックで取りに行き、積み込む作業は自前で行わなければなりません。これは、吉沢さんと針谷さんのように大型免許を持った方しかできません。私たちが訪れたときは針谷さんが那須の枯草ロールを取りに行っており、戻ったのは深夜ということでした。翌朝の1月1日の餅つきにも顔を出さなかったので、針谷さんにはお会いできませんでした。後から聞いたところではインフルエンザで高熱を出していたと言うことです。このような作業は継続してやらなければならない上に、誰でもが支援できる作業ではないので、これを続ける覚悟は相当なものが必要と感じました。(岡山 北川文夫


地平線会議から、福島特別報告会についてのお知らせ

■地平線会議では来る4月18日(土)19日(日)の2日間、福島県の被災地をめぐる「福島移動報告会」を計画しています。具体的な行動予定は目下準備中ですが、いわき市集合、大型バスをチャーターして被災地をまわり、進行するバスの中、宿舎で今、福島で起きていることを見聞きし、考えたい、と思います。詳しくは次号の通信で。遠隔地の方にも参加してほしいので早めにお知らせします。


3.11 今も……

防災の教科書のような東松島。この町と出会ったことは、偶然にしては出来すぎている

■2014年12月下旬に、東名・野蒜地区を訪れた。9月に行った時は、いよいよ復興のスピードが衰えたかと思ったが、今回行ってみると、道行くダンプの数が増え、高台移転地を通る仙石線もついに繋がっていた。6月には運行が再開される。ただし、高台造成工事と住宅建設が終わり、人が住み始めるのは早くても平成28年の終わりだ。元の山すその町に暮らすと決めた人も、高台移転を待つ人も、電車に乗るために山を登っていくことになる。年寄りが多い地域だ。長いエスカレーターなど、駅に行きやすい設備ができるといい。

◆今回は久しぶりに、いつも挨拶で済ませてしまうおばあちゃんたちとゆっくり話すことができた。311までは少し離れたところに住んでいた従姉妹が、311をきっかけに近所に移り住み、仲のいい幼馴染も加わって、どうやらいつも寄り集まってはわいわいやっているようだ。独り暮らしのおばあちゃんは、随分心強くなったことと思う。年をとってからの被災と住宅購入は大変だったと思うが、笑いの絶えない様子を見ていると、むしろ近くに来れてよかったねと思う。

◆「お茶飲んでけ」から始まり、お昼ご飯は半ば強制的にご馳走になった。「あの店に行くよりここで食べる方がおいしいでしょ」って、きっとその通りだ。この人たちを見ていると、どんな状況に陥っても、生きている限り必ず立ち直っていける、と思える。彼らの姿は新しい道を歩もうとする私にとって、そのまま応援歌となる。人生で出会う一つひとつの出来事にはちゃんと意味がある。

◆東松島市は、被災地の中でも順調に復興が進んでいる町だと感じる。生活復興支援センターの職員にそんな印象を伝えると、その理由を教えてくれた。東松島市では、311以前から、市内全域一斉避難訓練を行うなど、防災への取り組みが熱心だった。「ここで災害と言えば地震と津波。訓練を一斉にやらないと意味がない」。その通りだが実行に移すのは大変なことだったろう。それを実践してきたことが、311で生きた。

◆地元の建設業者との連携の仕方が、あらかじめ定めてある。避難時の状況確認や災害直後の道路開通などだ。実際、自衛隊と協働で道路の瓦礫撤去にあたったことで、東松島市では、他の町より早く道路が開通したと聞く。災害ゴミの分別方法を事前に決めていたことは、100億円の削減につながった。防災に関心のある私にとって、東松島市は教科書のような町だ。この町と出会ったことは、偶然にしては出来すぎている。(岩野祥子

豊岡特別報告会その後

私のささやかなケーキが、少しでも皆さんのお役にたてたこと、素直にうれしいです

■いつもより分厚い地平線通信428号(12月10日発行)が届きいつものようにワクワクしながら江本さんのフロントページを読み進み、予告編で期待した植村直已冒険館での地平線報告会を紙面から体感できる幸せを感じながらページをめくりました。中島ねこさんの「メモ的あらすじ」ではもう自分もその会場に行ったような臨場感を味わい、次のページは関野さん、荻田さん、岩野さんの3人の報告者の内容を3人の聴衆がそれぞれの感性でまとめて読者に届けるという贅沢な紙面。続く報告者のひとこと、それも3人の……。

◆実は前日にケーキを何種類かお届けしていました。皆さんに行き渡るだけの数があるだろうか、どのタイミングで召し上がっていただけるのだろうかといろいろ想像していました。参加者の声を集めた紙面に「原典子さんのケーキにやっと出会えて」という見出しを見つけた時は本当にびっくりしました。書いてくださった遊上陽子さんありがとうございました。少しでも皆さんのお役にたてたことを素直にうれしく思いました。

◆しかし今回のスタッフの皆さんや報告者、投稿者の方々のご苦労からすれば微々たること。このあと私の名前が出るたびに今度は申し訳なくてドキドキして来ました。でもオレンジケーキが久島夫妻の結婚披露ケーキ入刀の役を果たしたのは嬉しいエピソードでした。毎月の報告会の会場にはなかなか行けませんがまたいつか宅急便でケーキをお届けしますね。35年間一度も休むことなく報告会を開き、地平線通信を発行し続ける皆さまに敬意を表して。(宇都宮市 原典子


【先月号の発送請負人】

■地平線通信12月号(通算428号となります)は、12月10日印刷、封入作業をし、翌11日メール便で発送しました。今号は「11.23地平線特別報告会 in 豊岡」についての特集号のかたちとなり、ページ数も20ページで厚めになりました。10日の発送作業には、暮れの多忙な中、以下の12人の皆さんが馳せ参じてくれました。ページ数も部数も多めだったので、助かりました。ありがとうございました。
◆参加してくれたのは、以下の皆さんです。 森井祐介 小石和男 永沼竜典 伊藤里香 前田庄司 安東浩正 江本嘉伸 杉山貴章 加藤千晶 久島弘 山本豊人 松澤亮


3.11 今も……

屋久島と南三陸 私の2つの大事な場所

◆明けましておめでとうございます。ここ屋久島も冬は寒いですが、そこかしこに咲き誇るツワブキの黄色い花が、心を明るくしてくれます。屋久島生活2年目は、小学校教員としてあわただしく過ぎて行きました。担任する2年生19人の子ども達は元気いっぱい。子どもや保護者、先生方とのつながりは、昨年いちばんの宝物です。島の風習や、何気ない家族の日常。実際に目にしたり耳にする暮らしの一コマが、生きる事の素晴らしさを実感させてくれます。人との関わりを通してこそ、その地に深く入っていけるものだなと、改めて思いました。そんな屋久島と同じく、私にとって大切な場所……宮城県。あの震災後に1年と少し暮らした地、なつかしい方々を、年末に再訪しました。

◆飛行機と夜行バスを乗り継いで丸1日。キーンと冷たい北国の空気を吸うと、ああ帰ってきたな、という嬉しい気持ちになります。宮城県北部の沿岸に位置する南三陸町は、東日本大震災の津波で6割以上の住宅が被害を受け、死者・行方不明者は800名以上にのぼりました。現在は震災前より約2000名減の1万5000人ほどが暮らしています。あの日からもうすぐ丸4年を迎えますが、津波浸水地は瓦礫の片付けは済んだものの、ほぼそのままの状態。さら地になった住宅跡や壊れた駅舎を見ると胸が痛みます。

◆浸水地は最大10mもの土地のかさ上げをした後、復興国立公園などになる予定です。今回見かけた光景では、かさ上げ工事のために、仮に作られていたコンビニなどの店が数件取り壊されていました。ある魚屋は店の両隣りに土が盛られ、土の壁に挟まれながら営業しています。人々に望まれて再建し、生活の支えになっているこの魚屋は、取り壊しぎりぎりまで営業するつもりなのでしょうか。新しい町づくりと人の暮らしが同時並行で進む今、もどかしい姿です。

◆志津川地区は高速道路の建設が進み、大手ドラッグストアやホームセンターもできていますが、住宅の再建はまだ先です。高台移転先の造成ができた所から抽選で割り当てられていく予定で、人によってはあと2〜3年は仮設住宅での暮らしが続くでしょう。ぽつぽつと住人が抜けていく住宅の運営、新しいコミュニティ作りなど、やってくる課題を1つひとつ乗り越えていくことになります。

◆まだ先は長いですが、子どもの成長ほど時の経過を感じさせるものはありません。震災当時中学生だったある男の子は、現在高校三年生。春からは南三陸町に残って就職するそうで、町の未来に希望が持てる嬉しい話です。そして、あの震災を乗り越えるために役立った「自然と共にある暮らしの知恵」を、ぜひ引き継いでいってもらいたいと願います。今回は屋久島で育てたサツマイモで、志津川の子ども達と一緒に焼き芋を作りました。東北暮らしの間に感銘を受けた「自分で食べ物を作る生活」に少し近づけたお礼のつもりでした。これからも自分にできる具体的な事を1つずつ増やしていきたい。直接東北のためになるわけではないけれど、あの震災から学ばせてもらったことを行動に移し、自分が変わっていく事が、せめてもの応援の気持ちだと思っています。(屋久島より 新垣亜美

豊岡特別報告会その後

ケーキ入刀の計らい、ありがとうございました。

■15年前の日高からの帰り、空いていた後部座席に乗っけた人は、今は助手席が定位置になり、そのお礼参りを兼ねて参加しました。レンタカーで大阪市内から3時間の筈が高速道路渋滞で約4時間半、地図を片手に到着しました。こうして出かけて行くのはいいですね。久し振りの顔や初めての人おいしいものにも出会えました。ほんのり香る山椒、栃餅シソ巻、鶏唐等々口にしたものはどれも私好みで素材の良さが料理に反映されているようで。報告会の内容と共に「おいしい但馬」が印象的な1泊2日でした。

◆それからみなさま、夜の部ケーキ入刀の計らいありがとうございました!! 進化し続ける冒険館、またゆっくり訪れたいと思います。……と書いたのが12月初旬。中旬に届いた通信の様々な感想やレポートは臨場感がありました。そして他の方々、例えば冒険館スタッフのみなさん、地元参加組でご馳走保存を手伝って下さったMさんなどの声も聞いてみたくなりました。下旬の帰省では新千歳→関西空港(日本海から入り豊岡上空を通過)の機内から神鍋山を探すも、あいにく厚い雲の中。窓際族の私としては、空から気になる場所が増えました。(北海道 掛須美奈子)

★久島弘さんと奥さんである美奈子さんは15年前、地平線会議が日高町(現豊岡市)の植村直己冒険館で特別報告会を開いた際、出会い、その後結婚された。その顛末を多くの方は通信でご存知と思います。11月23日、豊岡で2度目の報告会が行なわれた際、そんなわけで再び揃って参加頂いたお2人に原典子さんが焼いてくれたケーキを利用させてもらい、仲間の前でケーキカットをやってもらいました。ところが、肝心の掛須さんの原稿を編集長ミスで先月の地平線通信428号(2014年12月号)からは積み残してしまった。心からお詫びし、もう一言、美奈子さんに骨を折ってもらいました。掛須さん、そして原典子さん、ありがとうございました。(E

エア・フォトグラファーの年頭の宣言

自由であり続けるために、飛ぶ。舞台は自分を包み込む空間。この国

■一反半程の休耕田を借用し、家族で農業を始めた。2014年2月のことだ。農業を営む大家さん指導の下、荒れ地に茂るヨシを刈り、根切りをし、鍬で起こし、水路を掘る。その後、種を蒔き、水をやり、終わることのない草抜きの日々。腰砕けから始まった農作業だが、みるみる健康体になっていった。四歳の娘がこの単調な作業に耐え、我々についてこれたのは驚きだった。トマト、トウモロコシ、シソ、賀茂ナス、黒豆、オクラ、空心菜、ジャガイモ、サツマイモ、エビイモ、大根、ブロッコリー、九条ネギ、そして米。一年を通して大地からは想像以上の恵みと喜びを授かった。

◆農業を始めた一番の理由は我々が暮らす加茂が好きだということが大きい。加茂は里山景色の広がる田舎だ。ご近所さんはほぼ兼業農家。我々も自分の食べるものは自分で創りたい。農業への挑戦は自然の流れだった。危惧していた撮影業との兼ね合いは、仕事が無くちょうどよかった。農作業がよき気分転換になり、地域との繋がりが段違いに深まった。そして今まで根無し草&風の吹くままにこなしてきた生活が次の段階に入った気がしている。

◆もう一つの収穫は撮影行で知り得たさまざまな知識、例えば、田と田を隔てる水路の太さは拳一つ分(岩手県骨寺)。棚田へ分配する湧き水は線香が燃え尽きるまでの時間制(新潟県松代)。標高2500メートルの急斜面、その八合目まで網の目のように広がる段々畑(中国雲南省)。実際に農作業を体験したことで、これら知識への理解に角度がついた気がする。撮影者としてフライトラインへの変化に期待をしている。

◆農業と並行して多胡プロデュースによるDVDの制作も行なった。被写体は点として存在するのではなく、広がり続ける空間に宿る一点である。被写体を包み込む空間こそ知るべきだ。これが撮影の基礎にある。なので、撮影はいつも寄り道だらけの飛行撮影になる。そしてその寄り道で遭遇する空間にいつも魅せられていた。自分は何に目線を注ぎ撮影活動してきたのか。四十路を迎え、それを実直に提示する必要がある、との思いに駆られていた。

◆その結果が『天空の旅人 多胡光純 日本を飛ぶ』として三つのDVDにまとまった。十年の飛行人生をまとめた作品だ。制作から販売まで全てを自力でやりきったことで、自分の立ち位置がみごとなほど浮き彫りになり、強みと惰弱さを痛感し、そこから派生する責任のすべてを自分で受け止めた。そして知った。自分の旗を立てる意味。その旗のもと活動を探求していく人生。そして旗を立て活動し続けている先人の生き様。さらに今まで活動を支えてくれた人々の思い。常々自身で口にしてきた「知識としてではなく、経験としてこの星を知りたい、だから自身で飛ぶ」。威勢良く放った言葉の重さを再認識した。

◆2014は転換期とし、2015は再び飛ぶ。テーマは日本。DVD作品を土台に活動を深めていく。そして、ここ数年活動方針で右往左往していた心にケジメもついた。自由であり続けるために、飛ぶ。その舞台は自分を包み込む空間。この国、この星をくまなく知ることだ。(京都府加茂 天空の旅人・多胡光純

新春山羊報告

羊の年、ヤギのいる浜比嘉島に珍客相次いで

■明けましておめでとうございます。今日も予想気温23℃と暖かいです。さて年末年始、こちらは旧暦重視なので普段と変わりませんでしたが、元旦の朝は沖縄のあちこちから初日の出を見にきた人たちで港やホテルの駐車場などは大混雑してました。

◆今年は未年ですが山羊の話を少し。昨年は地元の山羊飼いさんと一緒に「ペット山羊大集会」を春と秋の二回、牧場で開催しました。沖縄は山羊を食べる習慣がありますが、山羊を人生のパートナーとして可愛がっている人も意外と多く、畑の草取りに飼っている人はじめ、毎日お風呂に入れブラッシングしてる人、うちの中で一緒に生活している人(トイレのしつけもできてるって!)、毎日リードをつけてお散歩してる人等々、いろんな人がいます。

◆そんな山羊飼いさんが集まって、山や海岸を歩いたり情報交換したり山羊自慢したりの楽しい集いとなりました。うちの牧場には島山羊と呼ばれるいわゆる在来種もいて、色がついていたり体型が小さいのでペットとして飼いたいという人も来ます。日経新聞の取材を受けたりもして、今後も山羊の地位向上を目指して頑張って行こうと思います(笑)。

◆一方山羊を食べるというのは沖縄の文化です。家の新築や選挙当選祝いなどに山羊は欠かせないご馳走。小さい頃可愛がっていた山羊がある日自分の誕生日祝いにご馳走として出されていた、なんて経験を持つウチナンチュは少なくありません。

◆暮れも押しつまったある日、江本さんご存知の長濱さん(那覇で「拓洋」という薬膳料理屋さんを経営されていた)から電話があり、「甥っ子の居酒屋一周年祝いに山羊汁を出すのだけど山羊売ってくれませんか?」と。肉にして売るのはできないけど自分で食肉センターに持って行けるのならと返事すると、さっそく長濱静之・多美子さんご夫婦が甥御さんと私たちの牧場にやって来ました。いやー「地平線あしびなー」以来ですねえ、と再会をよろこびあいました。

◆で、希望より少し小さかったけど一歳の若山羊をご購入。軽トラの荷台に載せて見送るときは食肉センター直行と思うとちょっと胸が痛んだけど、私達はこれが仕事。ありがたいことです。甥っ子さんは具志川で居酒屋を経営されているということです。近いので今度一緒に行きましょう、江本さん。

◆ところで、先日から島にキャンプしている面白い人がいます。「宮崎鉄工」が製作した「宮崎式農輪車」とかいうものすごい古い年代物の三輪バイク(耕運機かと思った)に荷台を付けてやって来ました。新潟から神戸を旅をし、神戸からはフェリーで沖縄に来たそうで、長野のリンゴを売りながら旅をしているそうです。

◆朝ごはんに招待して話をしたのですが、なんとその人はムサビ出身の57歳、あの宮本常一さんの最後の教え子で、宮本常一さんの著書にあった浜比嘉島に来たかったのだそうです。あの写真の井戸に案内したらめちゃくちゃ喜んでました。宮本常一さんが病気でやめるまで講義をうけていた、とのこと。宮本先生の講義はすごく人気でいつも廊下まで学生が溢れたとか。講義の始まりは学生一人一人に出身地を聞いて「あー、あそこの近くかー」とその都度場所を解説するので、本当に日本中くまなく歩いているすごい人なんだと思ったそうですよ。

◆本業(?)は彫刻家だそうで石の造形をしているとか。あとウイスキーの古い樽の木で杖を作って売っているんだそうです。杖は猫や山羊など動物をモチーフにしたものだそうです。しばらくいるみたいですがなんか緒方さんに似てるような、でもテンションは賀曽利さんに似ているような、そんな感じの人です。地平線会議のことを話しましたのでいつか行くかも。でも家(新潟)に帰ったら山羊を飼うそうです。では今年もよろしくお願いいたします。(浜比嘉島の外間晴美

羊の国からの初日の出報告

羊の国の、真っ平らな草原で見た初日の出

■モンゴルのチンギスハン広場で年越ししました。マイナス30度の屋外で人気歌手が熱唱し、カウントダウンイベントを盛り上げます。観客が震えると司会者がすかさず「DJカモーン! みんな踊れー!」とさけびディスコミュージックが! もこもこ厚着した人たちがいっせいに踊ります……。12時をすぎると夜空は花火の嵐。広場中でシャンパンがあけられ、しぶきがかかってバリバリ凍ったりして……さ、寒かった……。

◆そのまま早朝のシベリア鉄道に飛び乗り東へ2時間、バガハンガイに初日の出を見に行きました。起伏なく地平線まで真っ平らなこの場所は太陽がきれいに見えるといい、鉄道が到着する前から、車や馬に乗った人が続々と集まってきていました。ちなみに旧正月のモンゴルでは元旦の初日の出に祈る習慣は本来ありません。在モンゴルの外国人がこの「初日の出列車」を発案し、やがてモンゴル人にも広まったとのことです。

◆さて、ヒツジ年! ヤギとよく対比されますが、私が見たところでは、人にほふられるときのようすがだいぶ違います。捕まえられた瞬間、ヤギの場合は「ギエー!」とわめいて力のかぎり遊牧民を蹴っ飛ばし抵抗する。でもヒツジは「メ……」と小さな声を出すだけでなされるがまま、びっくりしました。群れに属さないと行動できず、おとなしい性格といわれるヒツジ。しかし実体はスーパーアニマルです。モンゴル人の赤ちゃんはおしゃぶりの代わりに、ヒツジのしっぽの生肉(白い脂肪分でできている)を口にくわえてもぐもぐしますが、ここにあらゆるビタミンが含まれ、体が丈夫に育つというのです。

◆ゲルを温かく覆うフェルトはヒツジの毛。床に敷きつめ断熱材にするのは乾燥させたヒツジのフン。冬のゲルはサウナみたいにぽかぽかで、極寒の環境においてヒツジは衣食住すべての面から遊牧民を支えます。また、清らかさをあらわす白色に包まれたヒツジは神聖な存在でもあります。魂が抜けてしまった人にヒツジのフンを燃やした煙をくゆらせて、魂を肉体に戻す「魂込め」の儀式をする占い師もいるそうです。

◆知恵がつまったモンゴル人とヒツジの暮らしについて、共同通信の配信記事で「モンゴル式ヒツジのヒミツ」という連載を書かせていただきました。一部地方紙の暮らし面に載せてもらえるかもしれないそうなので、もし見かけられた方は読んでいただけたら嬉しいです。(大西夏奈子


通信費とカンパをありがとうございました

■先月の通信でお知らせした後、通信費(1年2000円です)を払ってくださったのは、以下の方々です。数年分まとめて払ってくださった方、カンパを含ませてくださった方もいます。地平線会議は、すべての仕事を手弁当で、持ち出し覚悟で続けていますが、それでも通信費の制作、印刷、発送には紙代、封筒代などあわせて毎月6万円あまりかかかり(ページ数によって変わります)、皆さんの支援はそのまま通信制作に活かされています。当方のミスで万一漏れがあった場合は、必ず江本宛てお知らせください。アドレスは最終ページにあります。

■新堂睦子(10000円 ジョージ・マロリーのエピソードが語り継がれているよう、植村直己氏の足跡も伝えられていくのですね。1万円のうち8千円はボランティアの皆さんに敬意を表して寄付します) /上延智子/原田美由樹/宮崎拓(いつも力作の地平線通信をありがとうございます)/成川隆顕/萩原浩司/渡辺久樹/河田真智子/中嶋敦子/田村玲子(10000円)/黒澤聡子(10000円)/中村保(10000円)


2015年子連れ新春大冒険レポート

やったな私! 四谷三丁目までの挑戦だけど……

■今年の目標は「私のしたいこともする」と決めた。この4年、妊娠→出産→妊娠→出産を繰り返し、今や2児の母だ。自分以外の家族を優先するのがふつうになっている。人見知りで外遊びが大好きな3歳の娘、歩けるようになったばかりの1歳の息子。2人を中心とした毎日は、家事と公園とスーパーに行くことだけで終わる。不思議なことに、それだけでてんてこ舞いしている。

◆かつては、中南米諸国と東アフリカをバックパッカーで旅し、日系社会青年ボランティアとしてブラジルで2年過ごした私だ。今だってどこかへ行きたい。それでも、小さい子供を2人抱えた専業主婦としては、狭い範囲をちょろちょろするばかりでも仕方ないと思っていた。だが、最近になって「公園とスーパーのお母さん」に自分からなろうとしていないか、それは如何なものかと反省するようになってきた。通信では、子連れで出かけている地平線ママさんたちが散見される。そうか、行けるんだよなあ。それで私も、子供がしたいことだけでなく、自分のしたいことも考慮していこう、と考えたのだ。

◆手始めに2人の子を連れて、バスと電車を乗り継ぎ遠出することにした。私は出かけたいのだから。最初の外出先は、四谷三丁目のおもちゃ博物館にした。高校時代の友人とそこで落ち合うという、私も子供もハッピーな計画だ。近所にお住いの江本さんにダメもとで連絡してみると、ラッキーにもお時間を頂けるとのこと。年始からいい感じだ。

◆1歳の息子は抱っこひもの中に入れ、3歳の娘と荷物を乗せたベビーカーを押す。娘は元気に歩けるけれど、都会のスピードにはついていけないし、私の注意も行き届かないから、ベビーカーに乗せてしまった。バスで最寄り駅へ向かう。ここまでは大丈夫、何回か出かけたことがあるから。次はJR。各駅停車に乗ったのに、手すりにつかまれないほどに混んでいた。良かった、すぐ優先席に座れた。

◆ただ、抱っこちゃんの息子だけでなく、膝の先っぽに娘も座らせ、手をぴんと伸ばしてベビーカーを抑えるのは至難の業。30分弱そのままで、やっと降りる。一駅だけだが、地下鉄に乗り換えだ。なんということか、乗り換え口の階段にはエレベーターがない。仕方なく、娘を歩かせ、息子と荷物とベビーカーをかついで上り下りする。到着駅でも同じことをした。

◆おもちゃ博物館で友人と楽しく過ごし、江本さんと久しぶりにお喋りし、あっという間に15時半。娘は「ママのお友達のおじいちゃん」と江本さんを表現したが(すみません)、その江本さんが同情してベビーカーを改札口まで抱えて降ろして下さった。助かりました。車内で息子と娘が爆睡してしまい、あまりの重たさに絶句。あちこちでエレベーターを探して歩き回った。

◆気が張っていたから頑張れたけれど、ずっと9キロの息子を抱っこしていたせいか、首と肩と腰がパンパンに。まあ、しんどかったけれど、楽しく出かけられた。人からしたら、たいしたことないことだと分かってはいるけれど、やったな私! と思った。あとは、友達に会いたい。美術展なんかにも行きたい。もちろん地平線報告会にも行きたい。徐々に、外に出ていこうと思います。(黒澤聡子


ウィメンズアイ恒例の「WE 活動展 南三陸じかん in 鎌倉」を開催します。

■江本さんあけましておめでとうございます。今年もウィメンズアイ恒例の「WE 活動展 南三陸じかん in 鎌倉」を開催します。あの震災のことを忘れない、私たちが活動している津波被災地の今を知ってほしい、という思いで始めてもう3回目。例年のように、写真展と南三陸町の美味しい食の提供、販売、南三陸町の女性たちもお呼びして賑やかにやるつもりです。

◆今回は、南三陸町を舞台にした「波伝谷に生きる人びと」の自主上映会もあわせて企画しました。震災以前に民俗学調査に入った若者が、祭りと講を軸に海のめぐみを一身に受けてくらす人びととの出会いからドキュメンタリー映画制作を志し、数年間通い続けて変わりゆく漁村の日常を記録してきたこの作品。あの日監督自身はここで津波にあい、フィルムは奇しくも「喪失したのは何なのか」を語る物語ともなりました。この初夏に劇場公開をめざしています。1日限りのイベントとなりますが、ぜひ足を運んでいただけたらと思います。

◆WE 活動展 vol.3

南三陸じかん in 鎌倉

〜海と暮らす町、南三陸町の豊かな生活文化と美味しい食を伝えたい〜

【日時】 2015年1月24日(土)11:00〜20:00
【場所】 @古民家スタジオ イシワタリ 鎌倉市長谷1-1-6(最寄駅; 江ノ電 由比ケ浜) http://hoian.sakura.ne.jp/

 映画『波伝谷に生きる人びと』上映会
  震災直前、南三陸町の漁村「波伝谷(はでんや)」の日常を記録してきた貴重なフィルム
   我妻和樹監督、出演者のお話会 15:00〜15:30 *無料
   上映会 15:30〜17:46 *無料

詳しくはこちらを。 http://womenseye.net/archives/2936(塩本美紀)


チベット踏査報告

Blue Sky Expedition 
南チベット 2014 年秋 4,500km遠ざかる辺境

■2013年秋、不用意にも哲古錯(シェグ・ツォ)を見下ろす5,000m地点で高山病に倒れたため断念した踏査の雪辱、再挑戦である。メンバーはいつもの老年探検隊、中村保(79)、永井剛(82)、新谷忠男(70)。

◆10月11日に成都を発って東チベットの林芝空港に着いてからラッサからシガツェに向った10月25日までの間、肝心のところで7日間快晴に恵まれた。これほど終日ブルー・スカイを楽しんだのは珍しい。短期間にランド・クルーザーで4,500kmを走破した効率的な踏査行だった。「Blue Sky Expedition」と名付けたゆえんである。

◆2008年北京オリンピック、ラサ暴動以降、東・南チベットへの外国人の入域は年々難しくなっている。今年(2014年)は統制・検閲が一段と厳しくなった。20年来の付き合いである「四川大地探検公司」を通じて早目に8月には許可申請を始めたが、一筋縄ではいかなかった。第1回目の申請が却下されたのは10月8日出発予定の10日ほど前である。即座に第2回申請をし、最終的に許可証が航空便で届いたのは成都を発つ前日であった。土壇場で出発できた。許可証が無いと成都空港でチベット行きのチェックインはできない。かくして慌ただしく林芝空港へ飛び立った。

◆東チベットについて言えば、波密(ポミ)から然烏(カンリガルポの入口)までの川蔵公路は外国人に開放されているが、横道にそれることは許されない。林芝空港の近くには五つ星の豪華ホテルが建設中で、中国人観光客には宣伝しているナムチャバルワの見えるツァンポー大峡谷観光スポットに外国人を入れないのは不可解である。理解し難いのが中国である。

◆ブータン国境、マクマホン・ライン(実質的なインドとの国境)に接する全ての県(洛扎、措美、隆子、錯那)は外国人オフリミットである。打拉日(タラリ)山塊のある措美県もその対象である。2005年にNHKが「天空の湖」として紹介した普莫雍錯(プマユム湖)も現在は外国人非開放地域に入っている。

◆9月末から外国人のカイラース・ツアー、巡礼が突然禁止となった。チベット族でも特別の許可が必要である。その理由は西蔵軍区の幹部は知っているだろうが、一般には誰に聞いても分からない。チベット族への締め付けが続くなかで、建設工事ラッシュである。ラサから東への幹線道路、郭格拉日居山群の北側の川蔵公路と南側のヤルン・ツァンポー沿いの公路は高速道路の建設が始まっている。迂回していた加査(ギャツァ)と桑日(サンリ)間のヤルン・ツァンポー峡谷帯は川沿いに新道ができ上がっていた。辺境の地に建設の槌音が響いている。

◆青蔵高原鉄道の延長であるラサ・シガツェ間260kmは8月から営業運転が始まった。早速乗ってみた。片道3時間の快適な汽車の旅だった。締め付けられているチベット族に多大な利便を提供している事実も書かないと一方的になろう。ネパールのインフラが一向に整備されないのとは対照的である。

◆以下、山域別に記す。

 【郭格拉日居(ゴイカラ・リジュ)山群】数座の未踏の6,000m峰があるが氷河は発達していない。幹線道路からは殆ど見えない。未探査の山域で踏査の記録はない。今回のターゲットにしたが成果は不十分だった。

 【ヤルン・ツァンポー南岸の山塊】長く気にかかっていた山塊である。情報としては全く空白である。米林から桑日までの間に3つの山塊が旧ソ連20万分の1地形図に載っている。うち、朗県の南と東寄りの2つの山塊には氷雪と氷河が示されていて興味がそそられる。東の山塊には6,045m峰と柯馬干布5,861mがあり、南の山塊は4つの6,000m峰を擁するボボナム・チプラ山塊である。両者とも辛うじて写真に収めることができた。桑日の東、新道からヤルン・ツァンポー越えに見上げる6,150mの岩峰の連なりは壮観である。予期しない発見であった。

 【中国・ブータン国境】4,980mの湖、普莫雍錯から南に望む大パノラマは、国境上の未踏の東商夾布(トンシャンジャブ)7,207m、6,833m峰、韓国隊が無許可で2002年9月に初登頂したカンプーカンI峰7,204m、1999年に日本隊が初登頂した良崗崗日(リャンカン・カンリ)7,535m、世界最高の未踏峰・ガンカー・プンスム7,570mから更に東に6,600〜7,000m峰の連なり、クーラ・カンリ主峰7,538m、中央峰7,418m、東峰7,381m、モンダ・カンリ6,425mまで見渡せる。壮観である。

 【ラサ/ヤルン・ツァンポーの南、山南(ロカ)の山塊】ラサとクーラ・カンリの間およびその東の顕著な山塊と主なピークも視野に捉えることができた。聖山・雅拉香波(ヤラシャンポ)6,635mの主峰は2007年10月に山形県山岳連盟が初登頂。僅かに低い鋭角的で顕著な南峰は未踏。打拉日(タラリ)山塊は2000年に日本ヒマラヤ協会隊が西面を偵察し、6,480mのピークを登ったが、主峰6,777mと他の5つの6,000m峰は未踏である。

 【マクマホン・ラインへ】西蔵軍区と公安辺防隊の許可が取れず、隆子県の解放軍のチェック・ポストの手前から引き返さざるを得なかった。マクマホン・ラインの至近までは行けなかったが、康格多(カント)、チョモI峰、II峰、ネギ・カンサンの遠望を写真に収めた。

1913、1914年に中国、英国、チベットの三者で行われたシムラ会議が中国・インド国境問題の発端となった。英国全権のマクマホンがブータンから東の地域の国境を主にヒマラヤ主脈に画定する提案をした。この時に地図上に書きいれた線がマクマホン・ラインである。インドはこの線までアルナチャル・プラデッシュ州の一部として実効支配している。マクマホン・ライン上には25座を超える6,000m峰が連なり、かつてアッサム・ヒマラヤと呼ばれていた。

 【念青唐古拉山西部と納木措】長大な念青唐古拉山(ニェンチェンタンラ)西部は今回の踏査の対象では無かったが、開放地域であること、晴天に恵まれたこともあって、窮母崗日(チュンモカンリ)7,048mの南面に入り、当雄(ダムシュン)から5,190mの峠を越えて聖湖・納木錯(ナムツォ)の北岸に行った。雪に覆われた念青唐古拉西部連山が紺碧の納木錯に映える美しい姿に感動することができたのは幸運であった。(中村保

★中村保さんは、1990年4月以来37回の東チベット探査行を行なっている。この間、『ヒマラヤの東』『深い侵食の国』『チベットのアルプス』の三部作を山と渓谷社から刊行、2012年に東京新聞から出した『最後の辺境 チベットのアルプス』は、「梅棹忠夫山と探検文学賞」を受賞している。また、これらの探検の報告を英語で発信し続けて来た功績も大きく、英王室地理学協会からバスクメダルを受賞、数々の国の山岳会の名誉会員に選ばれている。2014年10月には国際山岳連盟UIAAの名誉会員に選ばれた。(E

全さんの2015年初仕事

 こちとら春からカーニバル写真展だぜっ!

■新年すっかり明けまして、おめでたいのやら何なのやらよくわからぬ今日この頃。寒いのは大嫌いな当方としては、首をすくめて「冬きたりなば、春トウガラシ。キムチ鍋で汗まみれ」などと訳のわからぬことを呟く毎日である。

◆さてさて、アホな前振りはさておき、それより何よりカーニバル! きっちり年中行事と化しているカーニバル攻略だが、これほどまでに豊穣で奥深い世界があったのかと、毎年行く先々ごとに感動してしまうのはいったいナゼなのであろうか。大雑把にいってしまえば、そこにはそれぞれのお国柄や現地情勢に応じた、生命のダイナミックな息遣いがあふれているからなのだろう。リオのような巨大なエンターテインメント系から鄙びた村祭り系まで、その内容も規模もさまざまだが、共通するのは理不尽な日常から離脱し、弾ける祝祭のリズムに身も心も委ね、全存在をカーニバルまみれに発熱する人々の眩しい姿そのものだろう。これぞ、人間の正しい有り様なのである。カーニバルは正しい! 

◆すっかりライフワークとなってしまったカーニバル通いだが、この阿鼻叫喚状況を言語化することは極めて難しく、かの大文豪ゲーテでさえ「描写不能」と記しているほどである。とはいえ、さすがに疾風怒濤期の大作家、1788年に目にしたローマのカーニバルの情景を、著書『イタリア紀行』ではえんえんと(岩波文庫版では40ページ以上に渡って)解説している。思うに、時の移ろいにも変わることなく、このアナーキーな祝祭空間ではリズムや色彩、デザインや演出など五感のすべてを強烈に刺激される極端な入力超過状態となる。生身の人間にとっては最大限の刺激に全身を翻弄され、感性の限界を試されているようにさえ思えてくるほどだ。せめて、目の前に展開する反逆の甘い香りに満たされた情景をきっちり写真に残すべく、いい加減な性格も忘れてカーニバルの数日間だけはマジに撮影に没頭してきた。

◆てなわけで、毎年師走の声を聞くと、その年に撮影したカーニバル写真の中からお気に入りを2〜3点選んで年賀状を作成するのが慣いとなっている。近年では、年頭のカラフルな賀状を楽しみにして下さる奇特な向きも多い。某荒木町界隈在住の某女史から、「今年の絵柄はオトナシ過ぎじゃない?」などと突っ込まれたりはご愛嬌。新春を寿ぐ祝祭写真を並べて、こぢんまりと「謹賀新年ハッピー・カーニバル写真展」をかます運びとなった。

◆そこで困り果てたのが写真のセレクト、もはやカット数すらよくわからないほどの祝祭コレクションから、これぞというベスト・セレクションを選び出すのは不可能に近い荒業だ。何とか楽な逃げ道をと模索した結果、年賀状シリーズからという安直な路線を採用した。現代アート系ギャラリーカフェ「SUNDAY」@三宿にて2月15日まで開催されているので、ご用とお急ぎでないお暇な方はお立ち寄りいただければ幸い至極に存じます。ついでに、ギャラリー・トークをせよとスポンサー筋から指令が出され、ドクトル関野氏に客寄せパンダ役をお願いしたところ、「全ちゃんには借りがたっぷり溜まっているので、何なりとお申し付けください」と快諾していただいた。縄文号とパクール号のような2ショット新春漫談トークは1月25日(日)で、こちらも夜露死苦! 詳細は http://www.wild-navi.co.jp/2015/01/news51_carnival_photo/ を参照のこと。大幅に宣伝と化してしまいましたが、どうかご海洋のほど。

◆ところで話題は音を立てて変わるが、昨年11月の地平線通信に久方ぶりのキューバねたを掲載したのがまるで予言だったかのようなアメリカとの唐突な国交正常化、路線変更にはびっくり驚かされた。寝ぼけ眼でそのニュースを解読し始めた矢先、5秒後には某荒木町在住の某E本氏より着信。「1月後半は日本にいるか?」とのお問い合わせに、つい思考停止したまま2月初旬のカーニバル出撃までは都内某所に潜伏予定と、脊髄反射で答えてしまった。返事をしてから、あっ、やっべ〜と思ったが時すでに遅し。1月の報告会はキューバ話でよろしく〜、と言われて断る間もなく電話は切れてしまったのであった。キューバは長年の趣味であり道楽なのだが、その姿を語るのはとにかく難しい。どんな立ち位置でどういう展開にするか、逃げ遅れたドジで今から頭痛が痛い〜。(ZZz-カーニバル評論家)


今月の窓

何をすればよいのだろう?

 その日は道が尾根の斜面を次第に高く上って行き、いまでは稜線に近いところまで上がっていた。朝別れて以来ずっと連れの姿を見ていない。

 目の前には深いアルンの谷があった。対岸にもこちらと同じような長大な尾根が走っている。その尾根を割る支流の奥にマカルーが白くそびえていた。そのあたりのアルンの谷底はせいぜい1500メートル程度だから7000メートル近い標高差をそっくり見ていることになる。振り返り気味にその壁を見ながら一人で歩く。ときたまネパールの旅人たちとすれ違う。

 道端に石を並べた休み台がある。山地のネパールの人たちは皆円錐を逆さにしたような背負い篭を額に掛ける紐で背負って旅をするから、この休み台に腰を掛けると、篭がその後にちゃんと座ってくれる。すぐに歩きだせる姿勢で休めるわけだ。

 隣に荷を下ろした男が話しかけてきた。いくつか聞かれたが、分かったのはどこへ行くのかという問いだけだった。ああ、これからネパールに行くよと返事をする。何日かかるかと聞き、返事をもらったが、しかとは分からない。それでも男は一応納得したらしく、なにか言い残して先に歩きだした。ネパールとはカトマンズのことだ。大和(日本)にいて大和(奈良)に行くというのと同じだ。

 異人に慣れた人たちだなと感心した。何時間か村もない山中のど田舎である。茶色に変色した上着は着ているものの、ふんどしの下は焦げ茶色に日焼けした素足で、もちろん履物も履いていない。こちらも汚れてはいるが、シャツとズボンと山靴を付け、キスリングを背負った異形の外国人だ。臆する風もなく、用心する様子もない。ただの旅人としか見ていない。

 感心したのは自分が子供だった頃、郷里の村にはじめてアメリカ人の兵隊が来たときの自分たちの反応を思い出したからだ。そうか、この人たちの生活の中では北のチベット系の人たちも、南のインド的な人たちも日頃接する身近な隣人なのだと。

 それにしても連れはどこを歩いているのだろう。山登りを済ませた後の日本人がわたしの他に二人、シェルパが一人、同じくシェルパ族のクックとキチンボーイが前後して歩いているはずなのに誰も見ない。

 ふと対岸の道に少し変わった人影が歩いていることに気づく。対岸の道も尾根の斜面を横断して続いているが、こちらの道よりもずっと低い。目をこらすとかろうじて仲間の五人だと分かる。どこで河を渡ったのか。こちらはその橋に行く分かれ道を見逃したということだ。

 すれ違った人を捉えてこの先河を渡る橋があるかと尋ねる。橋があることは分かったが、どこにあるかまでは分からない。それでも今日のうちにたどり着けないことだけは分かる。対岸にはちらほら村も見えるが、こちらは村が出てこない。飯なし屋根なしの野宿になると腹を決めて、橋を見のがさないようにできるだけ谷底に近い道を選んで歩きつづけた。

 夕方やっと水田のあるところに出る。冬である。稲刈りと脱穀を終えたところのようだ。テントのような小屋掛けが二つあり、子供づれの夫婦がいた。橋がどこにあるかと尋ね、今夜ここに泊まる許可を求める。主は今日でよかった、ここの仕事は今日で終わったから、明日ならいなかったといい、夕飯に招いてくれた。おかずは岩塩とトウガラシを搗き砕いたものだけだ。おかみさんが目をしょぼつかせているのでお礼に目薬を渡す。橋はまだ二時間ほど先だという。

 翌朝朝食をもらえないかと主たちのテントに行くと、主は袋を逆さに振って見せた。昨夜お前のために持っていた米をみんな炊いてしまったから、今日はおれたちも飯抜きなんだという。厚かましさを恥じた。

 と同時に、我が身と引き比べてみて、この貧しい百姓たちに異邦人にも自然に対応できる感覚が備わっていることに感嘆した。考えてみるとこれまで世話になった土地の人たちはみなそうだった。

 土地の人たちにも会わない道をたどると、聞いたとおり橋があった。アルンの激流を渡る竹綱三本の長い吊り橋である。対岸の斜面を横切りながら上り、昼すぎちょっとした町に入るあたりで連れに追いついた。

 もう五十年も前の、たったこれだけの話である。しかしただの頼りない一人の人間としてその土地と人間に触れ合う機会が幾重にも重なると、知らず知らず世界が続いていることを知る。そこの人たちも同類であるという感覚ができてしまう。違いよりも共通するベースの方が自然に見えてしまうようになる。

 人間はやはり動物だと思う。生身で五感を持って触れ、動物として知ることが必要なんだと思うようになった。学び、考えるのはその上にだ。自分でできないときは友人たち、仲間たちの体験がいい。語ることのプロたちやマスメディアでは足りない。足りないだけでなく危ない。だから地平線会議なのである。

 いま世の中にいやな緊張と亀裂がある。五重の塔の芯柱が要る。それは各人の直接の異邦体験だと思う。せめて仲間の語る地平線会議なのだ。

 では年寄りたちはいま何をすればよいのか?(宮本千晴


「一家に1部、地平線カレンダーを!!」

■恒例の地平線カレンダーが12月26日の報告会当日、完成、販売を開始しました。長野亮之介+丸山純の“もへじ堂”コンビによる作品。今回のタイトルは『南州的里森悠民図絵』。長野画伯がこれまで歩いたベトナム、タイ、エクアドルの里山に暮らす人々の生活ぶりを描いたものです。1部500円。申し込みは地平線会議のウェブサイトからよろしく!


あとがき

■1月10日、久しぶりに能海寛研究会に参加した。のうみ・ゆたか。島根県の東本願寺の学僧。「仏教の本質を求めて」チベットに潜入し、1901年4月、消息を絶った。33才だった。その求道の生涯を追って『能海寛 チベットに消えた旅人』(求龍堂)という本を書いたこともある。

◆研究会ができて20周年のことし、かって能海が学んだ駒込の東洋大学で記念の研究会を開く、というので参加した。一応、研究会の「顧問」でもあり。島根の田舎から上京した能海は、一時井上円了が創始した「哲学館」で学んだ。もう1人のチベット探検家、河口慧海も同窓である。

◆26才の青年だった井上が、「哲学こそ諸学の基礎」として哲学館を創立したことをあらためてすごい、と思った。あの時代の青年たちはパソコンも携帯も持たないのに、なんと知的だったのであろう。日頃「箱根駅伝」でしか意識しない東洋大学のすごさを図らずも想起する機会となった。(江本嘉伸


■今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信裏表紙

キューバの呪い

  • 1月23日(金) 18:30〜21:00 500円
  • 於:新宿スポーツセンター2F

「最初はさあ、'30年代の魔都ハバナのイメージを追ってキューバに行ったわけ。頽廃のカケラを求めてね。でも思ったよりずっと奥深いキューバにハマっちゃった」と言うのはカーニバル評論家の白根全さん。'89年の初訪から今までに29回も通うほどキューバ共和国に魅せられています。

アメリカまで145kmのカリブ海に浮かぶ小国でありながら、'59年の革命以来、社会主義国として独立を保っているキューバ。超大国と敵対し続けながら独自の音楽、文学、芸術にラテンの陽気な文化が息づき、福祉のみならず教育、医療、スポーツは世界的高水準。フィデル・カストロというカリスマ的指導者を抱いていますが、偶像崇拝を禁じ銅像もお札の肖像もありません。宗教の信仰も原則自由です。

「キューバはあらゆる意味で世界の例外の国なのよ。このオモシロさの呪縛から逃れたいけど逃れられないわけですよ」と全さん。昨年末、54年間国交断絶していたアメリカとの関係改善が発表され、今後の動向が注目されるキューバ。今月は、この25年に渡り、ソ連との蜜月時代から今に至るキューバの変化を定点観測してきた白根さんに、ナマのキューバの姿を語って頂きます。お聞き逃しなく!!


地平線通信 429号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶 福田晴子
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/


発行:2015年1月13日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方


地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)


◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議


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