11月12日。東京の朝の気温は13℃。快適な気温だが、明日夜からはぐっと下がり、この冬一番の冷込みとなるそうだ。9時53分、ズン、と揺れた。茨城県南部を震源とするやや強い地震。栃木、埼玉で震度4。東京では3だった。すぐ電灯を見る。揺れ方で咄嗟に地震の大きさを探り、覚悟を決めるのだ。
◆2011年3月の地平線通信のフロントは、こんな書き出しだった。「3月9日。東京は雲が多いが、晴れ。昼前、青森県から福島県の太平洋岸にかけて震度5弱の地震が発生、沿岸に津波注意報が出た……」これが3.11の予震だったことを後で思い知った。津波の後、とんでもない福島第一原発の大事故が起き、ありとあらゆる動きが東北に向った。
◆東京周辺ではもちろん「節電」が続き、3月19日、地平線会議は初めての「号外」はがきを出した。〈3月の地平線報告会は25日午後4時30分から7時までに変更します。会場の新宿区スポーツセンターの閉館時間がこの地震による「節電」で19時と変更されたためです……〉あの「節電」はどうしたのか?
◆きのう11日、北京で日中首脳会談がやっとのことで実現したかと思ったら、にわかに衆議院解散の話に。「解散の風が吹いたら止められない」というが、え、どうして?と、誰もが思うだろう。9日に新宿区長選挙があったのだが、夕方の投票所のガラン、として寂しかったこと! 投票率なんと25.8%だったそうだ。何をテーマとして選挙をやるのか。3.11のことはどうしたのだ。
◆読書の秋。先日誘われて神保町の古本市に行った際、久々にロシア語専門書店の「ナウカ・ジャパン」をのぞき、なんと、スターリンの全身とプロバガンダが印刷されている2015年版のカレンダーを発見した。1枚もので1200円。めずらしくて購入したが、他にいったいどんな人が買うのだろう? 書店の女性に聞くと、ここ数年スターリン・カレンダーは毎年売られていて、結構人気があるそうだ。「レーニンは、なぜかあまり出ませんね」。
◆かつて、ウランバートルのモンゴル科学アカデミー図書館前に4メートルの見事なスターリン像が建っていた。ベルリンの壁が壊されたあの時代、この像がいつ倒されるかが注目されていて、私はモンゴル滞在を延ばしてその瞬間を待っていた。やがてモンゴルのジャーナリスト仲間から、「どうやら、今夜やるらしい」、と連絡を受けて駆けつけた。夜になって巨大な投光器とクレーンが到着し、台座から壊し始めた。氷点下25℃と冷え込む中、4時間がかりの大作業だった。若者たちが倒されたスターリンの顔の上に土足で乗る姿に、一層寒々とした思いがした。1990年2月21日夜のことだった。
◆それがもうカレンダーでの復活。強い指導者にあこがれる、という発想がいつの時代にもあるのだろう。スターリンがどんな粛清をし、どんなに多くの人が犠牲になったかそういう人たちにとっては重要ではなく、彼のなした「善」の面を強調したい、との意思表示なのであろう。2011年7月にはロシア中部のペンザという都市に新たにスターリンの胸像が完成、第2次大戦の従軍兵士や共産党支持者らが集まり、除幕式が行われたそうである。
◆モンゴルのふるい知己のひとり、登山家のゾリグ氏から、実は、父親をスターリンの粛清でなくしたんだ、とある日打ち明けられたことがある。「ヤポン・タグノール(日本のスパイ)」の汚名を着せられ、処刑された、と。民主化が進み、過去のさまざまなことがタブーでなくなりつつあった時だった。当時多くのモンゴル人が同じ罪状で無実のまま、消されたという。
◆そのゾリグさんが交通事故で亡くなった、との知らせが先日届いた。私がいた東京外国語大学山岳部が1968年、モンゴルのアルタイ山脈で初登山を果たしたのは、ゾリグさんと当時山岳部の部長だった小澤重男さん(外語大名誉教授)の縁からである。入間市の小澤先生のご自宅を久々にお訪ねし、ふるい山仲間の旅立ちを伝えた。耳は遠いが、88才になった小澤さんはしっかりしておられ、なんと自宅に通う女性受講者たちにいまも、あの難解な「元朝秘史」を教えている、という。ゾリグさん85才。少し大げさな言い方を許してもらえれば、現代史の貴重なページを開いた2人である。
◆日本山岳会の自然保護委員会の会報を『木の目草の芽』という。そのことし8月号に大鹿村に住む会員による「南アルプスを破壊するリニア中央新幹線」という表題の厳しい論文が掲載されている。詳細をここに紹介する紙数はないが山の世界にもリニア計画を真っ向から批判する声があるのだ、ということを地平線の皆さんにはお知らせしておきます。(江本嘉伸)
10月の報告者は9月に『悪夢の超特急―リニア中央新幹線』(旬報社)を出した樫田秀樹さん。多くの問題を抱えているにも関わらず、ほとんど報道されないまま工事実施計画が認可されたリニア中央新幹線(以下、リニア)について、取材時のエピソードを交えながら話してくれた。
念のためにおさらいをすると、JR東海(以下、JR)が計画するリニアは、超電導磁気浮上式(磁石の反発する力を利用して動かす)の新しい新幹線で、最大時速は500キロ以上。東京−名古屋間を40分、東京―大阪間を57分で結び、2027年に名古屋間、2045年に大阪間までの全線開通を目標にしている。
冒頭、樫田さんはリニアの問題点をまとめたアニメ『リニア中央新幹線がやって来る ヤァ!ヤァ!ヤァ!』を流した。関係者の間で爆発的に見られているビデオだといい、下記のような問題点がコンパクトにまとめられている。(アニメはyoutube でも見られます)
◎消費電力(JRの発表では現行新幹線の3倍。スピードは約2倍なのでエネルギー効率が悪い。もっと電力が必要だという試算もある)◎建設費(9兆3000億円。JRが全額負担)◎電磁波の影響◎環境破壊(南アルプスを貫通し、中央構造線と糸魚川静岡構造線が交差する土地を通る。86%は地下トンネル。運転は中央制御室からの遠隔操作なので事故があっても現場判断ができない。大井川の水量が毎秒2トン減ると言われている)◎生態系への影響◎残土(運ぶのに千数百万台のトラックが行き交う。ウラン鉱床にあたる可能性もある)◎収益(2013年9月に山田佳臣社長(現会長)は「絶対にペイしない」と述べた)◎利便性(少なくとも2045年まで名古屋から先は乗り換えないといけない。中間駅も現状では不便)
樫田さんがリニア取材を始めたのは1999年。走行実験のために農地を手放した山梨県の農家らが「私たちは騙された」と声をあげたのがきっかけだ。農家らは大阪までリニアが開通すると考えてやむなく土地を明け渡したが、実験が繰り返されるばかりで本線の工事は一向に始まらなかった。JRは国家プロジェクト、国は民間プロジェクトであるといって、どちらも金を出す気配もなく、実験で技術を高めて海外に輸出するのが落としどころだと言われていたという。
話が急展開を見せたのは2007年12月。JRが突然、自費でリニアを建設すると発表した。1980年代には3兆円、90年代には5兆円と言われていた予算は9兆円に拡大。かつて反対運動をやっていた住民たちが山梨県で市民運動を立ち上げて少しずつ活動を始めたため、樫田さんも「チビチビ」取材を再開した。
「というのも、JRが広告を出しているせいか、どこの雑誌も扱ってくれなかったので思い切った取材ができなかった」(樫田さん、以下同)
東京、神奈川、山梨、静岡、長野、岐阜、愛知の一都六県にまたがるリニア計画。樫田さんは各県で取材した住民らの写真をスライドで映し出しながら、その土地が直面する問題点についてコメントしていった。
山梨県では、2008年に実験線の延伸工事が始まってからわずか1、2年で、あちこちの川や沢が枯れたという報道が出るようになった。そのひとつが上野原市秋山の無生野地区にある「棚の入沢」。簡易水道の水源だったが、樫田さんが11年に訪れると一滴も水が流れていなかったという。
樫田さんを現場に案内したのは、地元の家具職人・有馬孔志くんだ。彼は山梨県が実験線の誘致を決めた1989年に生まれ、物心つく前から家の前を毎日トラックが行き交う環境で育った。中学生になる頃から、なぜ自分の村は振動や騒音にさらされているのか、何のためにリニアを作るのかと疑問に思ってきたそう。樫田さんのブログを見て「いままでリニアについて何の情報も発していなかったことが計画を野放しにする結果になってしまった」とメールをくれたといい、他県で活動している住民らとの交流も続けている。
長野県大鹿村は、NPO法人「日本で最も美しい村」連合に加盟する風光明媚な土地だが、トンネル工事で発生する残土の行方が問題になっている。「各地でいろんな問題があるが、どうしても見捨てておけないのが残土問題」と樫田さん。東京―愛知間のトンネル工事で排出される残土は約6000万m3。東京ドーム一杯が100万m3なのでドームで計算すると60個分、ちょうど諏訪湖を埋められるだけの量がある。このうち大鹿村で出る残土は300万m3で、運搬のために一日最大1736台のダンプカーが通る試算だ。通行時間を午前8時から午後5時と仮定すると1分間に3台以上。村の狭い道路をこれだけのトラックが行き交えば間違いなく交通阻害が起こり、住民は10年以上にもわたって振動や騒音、土ぼこりや排気ガスにさらされる。子どもは外で存分に遊べなくなり、観光客の減少も予想されるという。
大鹿村の山根沙姫さんはIターン2世で山が大好きなママさん。ある日、小学生の子どもがリニア推進の下敷きをもらってきて驚いたのがきっかけでリニア問題に関わるようになった。是も非も分からない子どもにこんなものを配っていいのか。山根さんは全戸を訪ね歩いて調査を実施し、その結果を機関誌「リニアを考える新聞」にまとめた。なかには意見の異なる人もいるが顔の見える付き合いを続けているという。
2013年9月、JRが2年間かけて行った環境アセスメントの結果を見て、にわかに焦り出したのは静岡県。大井川の源流部にトンネルを掘るため、水量が毎秒2トン減少する予測であることが判明した。牧ノ原市の西原市長は「市は水源を100%大井川に頼っているのに2トン減ったら私たちはどうなるのか。しかも本当に2トンで済むのか。JRは真摯に向き合って欲しい」と訴える。静岡市議会の自民党幹事長の繁田さんも「静岡のお茶は大井川が育ててくれる。朝に出る靄が生育にいいのに水量が減って靄が出なくなったらお茶産業にとっても大問題。絶対に環境保全をやるべき」と言う。
静岡県には残土置き場も想定されている。トンネル工事で出る残土の8割は搬出先が未定だが、残りの2割は大井川源流の河原6カ所と標高2000mの稜線上に置く計画だ。しかし、河原に置く土は雨が降ったときに水を濁らせ、山に置く土は山体崩壊を招く危険性があるという。そもそもどうやって山の上に土を運ぶのかと疑問に感じたが、山の地下にトンネルを掘ってベルトコンベアを設置して残土を山の上に持ってくるという、なんとも驚くような計画だそう。南アルプスは2014年に世界遺産の前段階であるエコパークに登録されたが、「10年後には残土が積まれている。エコパークの登録がどうなるか見物だ」と樫田さんは言う。
岐阜県には日本最大のウラン鉱床がある。もし、トンネルを掘り進めてウラン鉱床にぶつかったら、ウラン残土が出てしまう。樫田さんは人形峠を取材した数年前、田んぼの近くに野ざらしになっているウラン残土の山を20カ所くらい目撃したそう。携帯した放射線測定器を近づけると、年間1ミリシーベルト以上を計測。同じ人形峠にある低レベル放射性廃棄物の保管庫では同程度の廃棄物が厳重に保管されているが、この違いは何なのか。
「廃棄物は原子炉等規制法で縛られている対象物だが、ウラン残土は当てはまらないので法律上はその必要がない。50年経っても一旦掘り出してしまったものは放っておくしかない」
リニアのトンネル工事でウラン残土がでた場合はどうするつもりなのか。樫田さんがJRの岐阜県の環境保全所に訪ねたところ、「東日本大震災の放射能汚染瓦礫の処分法を参考にする」という回答があったという。
「つまり、県外に持っていってくれる自治体を探すということを示唆した。これをある週刊誌に書いたところ、広報を通さないで取材をしたということで、以後JRからは取材を拒否されている」
樫田さんの話を聞いた限りでは、リニア取材は要所要所で壁にぶつかるような印象だ。今回の著書も、もともとは別の某出版社から今年3月に出る予定で、翌週には書店に並ぶという段階で取りやめになってしまった経緯がある。
「過激なタイトルが上部団体の某大学の関係者の目にとまり、そこで初めて中身を読んだらしく、これは駄目だということになった。大学の関係者や卒業生にも鉄道や超伝導技術の研究者がいるのに、この本の内容が大学の意見だと思われるのは困るという理由だった」。
その後、半年にわたって出版社を探しまわり、ようやく出版にこぎつけたのだという。なかなか出版元が決まらなかった理由の一つは「あまり知られていない問題だから部数が読めないこと」だったそう。
各県でさまざまな問題を抱えるリニア計画。だが、「リニア計画で一番問題なのはリニアの技術そのものではない、推進の仕方だ」と樫田さんは言う。住民説明会を開いても、時間が来たら打ち切り。「質問は3問まで」などと制限があり、再質問は受け付けない。公開討論会は一度も開かれていない。反対運動を報じるのもわずかな地元紙だけだ。
樫田さんはこれから起こると予想される水枯れと立ち退き問題(東京─愛知にかけての200〜300世帯)に触れて、いったん話を終えた。
江本さんは「どのメディアもひと言も発信していない問題に切り込んだ彼の姿勢を評価したい」とまとめて、この報告会に参加していた各界の専門家(?)にマイクを回す。
まず、某出版社の岡村隆さんは発売に至らなかった幻の本を持参し、経緯を話してくれた。そのタイトルは『リニアに乗って日本を壊そう!』で、帯の惹句もかなり過激。「体力のない出版社が本を売るために刺激的なほうに走ってしまった。中身とも違う羊頭狗肉の形。部下が担当したものだが、私の監督不行き届きで迷惑をかけて申し訳なかった。結果的に私どもの本より丁寧なつくりでいい本になっている」
国土交通省関係で防災を専門にしている花岡正明さんは、自分の管轄ではないことを前置きした上でこう話した。「東南海地震に備えて、東海道新幹線以外の輸送手段があるといいと考えていたが、飛行機程度の運送能力しかないと分かった。しかもフォッサマグナもあるのに、本当に掘れるのかと心配している。技術的に相当難しいところを選んでしまったという感じがする」
地学教師の三輪主彦さんは、「危険性のあることについて事前に話してくれたことは素晴らしいことだ」と讃えた。「東海道新幹線のためにトンネル工事をしていた最中に北伊豆地震が起きて、丹那断層が1メートルずれたことがある。列車が通っていないときだからよかったが、それくらいのことがあることは承知しておいたほうがいい。リニアは地面から10センチ浮上させるのも問題で、自然界に反している。自然の中にモデルになるものがない大変な技術で、浮き上がっているから止めるのも大変。磁力で持ち上げるので電磁波が出るが、その影響は全く分かっていない。分からないまま進んでしまっていいのかなと感じている」
鉱山開発に詳しい神谷夏実さんは「技術的にはチャレンジングで面白いと思う。ただ、ディスコミュニケーションを感じる。開発をするときには地域社会とのコミュニケーションが一番大事とされているが、うまく取れていない。昔の成田空港も、原発もそうだった。もう少し丁寧にやるべき」と話した。
最後に樫田さんはこんなエピソードを話した。リニア計画では非常口を平均5キロ間隔で設けているが、一番離れているところでは20キロほどの距離がある。もしその真ん中で緊急停止した場合、運転手もいないのにどうやって1000人もの乗客を避難させるのか。そう質問した際のJRの回答は「周りのお客様同士で助け合っていただきます」とのことだった。
「何かあったときに助け合うのは当然だが、自分がパニックになっていたらどうしようもない。JRとして最悪の場合をどうシミュレーションしているのか聞いているのに、安全です、問題はありませんといって説明を打ち切ってしまう。私はただ、ちゃんと話し合おうと言っている。必要なのはコミュニケーションだ。でなければ事故があるまで問題を認識されなかった原発の二の舞になってしまう」。(菊地由美子)
■もしかしたら、江本さんから「報告会で話せ」との電話が来るかもしれない。そう思ったとき、地平線ポストに投稿するための送信ボタンをクリックする手が止まった。リニア中央新幹線についての本を出版したとのお知らせがポストに載ればそれで十分と思っていたからだ。
そもそも、リニアのことなんか地平線報告会のネタにはそぐわないし、個人的な体験でもない。しかし…。ちょっと考えた。地平線会議はここ数年間、原発絡みのネタで報告会を実施している。それはひとえに事故が起きたからだ。事故が起きる前から、少数の住民、少数の研究者、少数のジャーナリストはその危険性に警鐘を鳴らし続けていたが、それは国やマスコミだけではなく、一般住民も軽視していた。
10月17日に国が着工認可をしたリニア。日本史上最大規模の水枯れと残土排出が起こる。品川から名古屋までの約9割がトンネルなのに、万一緊急停止した場合の脱出計画も確立されていない。あの成田空港の三里塚闘争に次ぐくらいの家屋や田畑の強制収用が起こる。すごい問題だ。だが誰が継続的に取材しているかと言えば、私を含めたフリージャーナリスト2人だけ。なんだ、これは。
あるテレビ局は「問題は分かるけど、実際に事件や事故が起きてからでないと取材できない」と言った。逃げである。山梨県のリニア実験線では既に水枯れと処理できない残土が発生している。メディアは大スポンサーであるJR東海を恐れている。
と振り返った時、地平線会議という場で、何か事故や問題が起こってから伝えるのではなく、その前に話すんだ、声を出すんだという事実を作っておくのは悪くないと思い、送信ボタンをクリックした。同じ思いを抱いていたのであろう。数日後に江本さんから「話せ」の電話が来た時には即答で引き受けた。ただし、あまり面白い話にならないであろうことは予想済みで、実際、いつもの報告会とはそれなりの温度差があったと思う。そこらへんはご勘弁ください。それでも、会場からはこの問題を懸念する発言が、かれこれ30年来の付き合いである地平線仲間から寄せられ、みんなそれなりにいろいろと考えて生きているんだとの共感を覚えた。また、置かせてもらった拙著はほぼ完売。本を買ってくれた皆さん、ありがとう。
それにしても、リニアの品川・名古屋開通は2027年、品川・大阪開通は2045年。うわあ、そのとき、オレ何歳になってんだと考えるとゾッとする話である。ただ、これだけインターネットが普及しても、世の中にはまだまだ知られていない事実がごまんとある。現場に行く、人に会う、人から話を聞く。東京から名古屋、そして大阪の間でそれを繰り返していたら、いつかはお金が尽きるが、ここで中途半端には終われない。
とはいえ、11月下旬から3年ぶりにマレーシア・ボルネオ島の熱帯林に出かけてきます。これで26回目でしょうか。(樫田秀樹)
■樫田秀樹さんの発表から数日後、JR東海の中央新幹線着工に関わるホームページを閲覧しました。環境事業についての資料や具体的な建設過程の構想など、沢山の資料を見ることができます。正直言って半分くらいしか理解できないし、疑問も持ちづらい内容です。前情報なしに資料を読んでいたら、新幹線の着工にはデメリットはそれほどないか、安全な範囲であると考えていたかもしれません。地平線で聞きかじった知識を元にコールセンターにも疑問を投げかけてみました。面倒そうにしない女性の明るい声。悪い印象は持ちませんでした。
◆ホームページを見た理由は、樫田さんの「リニア建設の問題点は技術面ではなく推進のしかた」という言葉が気になったからです。普段の生活もある地元住民一人一人が、着工への知識を備えるのは難しい。だからこそ質問会や意見交換の席が設けられているのだと思います。質問を再度受け付けない、時間で区切ると言ったJR東海の裏話は、ホームページで見ることはできません。
◆先月の地平線会議には、そうした公式の場には出てこない最先端の議論があったように思いました。報告会終盤で様々な分野の方が意見を交わしている様子に、途中からメモを取ることを忘れました。砂防フロンティア研究所の花岡正明さんが工事における技術面のむずかしさを唱えた一方で、大井川の水が毎秒2トン減ることについての現実的な見解も見せていました。一緒に来ていた水文地理学専攻の友人もしきりに頷いていました。地学の専門家の三輪主彦さんの「物体を70cm浮かせるのは、自然界に反することです」という発言には、ハッとさせられました。
◆飲み会の席では江本さんが「これが地平線なんだよ」と嬉しそうに語る姿が印象的でした。お話したのは初めてでしたが、このような発表の場が30年以上も続いていることには驚きましたし、あり続けてほしいなあと思いました。まだリニアの問題が世間で騒がれていない頃から取材を続けていた樫田さん。大きな問題であるのに社会で騒がれたのはつい最近に思えます。99年の山梨県の実験線受け入れから疑問を持ち続けていたアンテナと、追い続ける根気を素直に尊敬しました。飲み会の席では非常に物腰の柔らかな方だっただけに、熱の入った発表からは、一冊の本に取材活動を纏めて発表を行うまでの苦労や、建設予定各地の現状を伝えたいという思いがあったように感じました。興味深いお話をありがとうございました。
◆申し遅れましたが、私は法政大学探検部5年の滝川大貴と申します。今年の春ごろから地平線に来るようになりました。スリランカ遺跡調査の岡村隆さんの後輩にあたり、2010年の発表では一回生隊員として、少しだけ発表に携わったことがあります。現在は南米の巨大猿にまつわる伝説を調べていて、来年1月から3月までベネズエラの密林に行く予定です。環境問題と猿の行方は密接で、樫田さんの発表を見て、環境破壊という方向からアプローチをしてみることを思い立ちました。(滝川大貴)
■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、以下の皆さんです。数年分をまとめてくださった方もいます。万一、記載漏れがありましたら、必ず江本宛てにお知らせください。アドレスは、最終ページにあります。振込みの際、近況、通信の感想など「ひとこと」を添えてくれると嬉しいです。
香川澄雄(20,000円 これまで未納の通信費とこれからの通信費として)/松田仁志/久永裕子(8000円)/小原直史/島田利嗣/菅沼進
■優月と言う孫がいます。「地平線通信8月号」の瀧本千穂子さんの記事に字は違うが音は同じ名のお子さんの話が出ていました。しかもモンゴルの話です。いつも「地平線通信」を先に読む美智子(私の連れあい)が、これ面白いよ、といってもって来ました。いちいち肯きながら読みました。柚妃ちゃん来年も是非行ってほしいですね。瀧本さんの文は道路やジョローチ(運転手)さん、食事とモンゴルの地方旅行の特徴と醍醐味をいきいき捉えておられるので今更私がとの気もしますが、あふれるようにでてくる数々の思い出の断片を伝えるとしたら、「地平線」の皆さん以外あり得ないと思いますので書かせていただきます。
◆私もモンゴルについてはそれこそ数え切れない思い出がありますが、やはり地方旅行の思い出は中でも強烈なものがあります。1965年といえば、読者のほとんどの方が生まれていないか、記憶にない昔と思いますが、国連のセミナー出席のため、タイに在勤中の先輩をさそってモンゴルを初訪問しました。当時モンゴルとは外交関係がなく、今の北朝鮮とちがい、日本と戦争状態にあると主張していた社会主義国でした。本省の幹部会に黒板をもちこんで、訪問の意義を説得して実現したもので、敵国官吏扱いで牢屋に直行も覚悟せよと上司に言われてのものでした。
◆しかし、現地では緊迫感がなく、モンゴル語を話す私には意外に好意的で、肩すかしをくった感じでした。モンゴル初の国連会議ということで、手が回らないのか、あれもだめこれもだめが多く、ガイドがいないとの理由で地方視察の実現は困難でした(交渉相手は旅行会社ですが、裏にモンゴル政府の思惑あり)。しかし、友達になった大学生(国連会議でバイト中)にガイドになってもらうことで旅行が実現しました。
◆運転手、ガイド、先輩と4人で草原に出ると、当時は草丈は車高ぐらいあるし、鶴が道ばたでぽかんと立っていて、車が近づくと慌てて飛び立ちフロントガラスにどしんとぶつかったりするような状態でした。老人であり都会の運転手の方をそのままお願いして行ったので、ダシンチレンから南下したあたりで道に迷い、彼が人に質問すると、「鶴が峠の上あたりを飛んでいますが、あの峠を越えなさい」との返事でした。私が見たとき鶴はもう次の峠の上にかかっておりましたので、案の定次の峠を越えてしまいました。さらなる迷いにはまったわけです。途方にくれていると、遠くに人がくるから聞こうといいますが私には見えません。ではそっちへ向かおうというと、なーにあの人はこちらに向かっているのでここで待っていればよいでした。気の長い話です。
◆わたしは、瀧本さんのように羊二匹をいっぺんに屠ったことはありませんのでうらやましいのですが、草原での羊や山羊は格別でした。1971年だったと思いますが、モンゴル外務省のプレブさんらとボルガン県など北部に旅しました。ザーマルという最初の町で羊を煮てもらい、各自羊肉の塊を見開き2ページの新聞紙にくるんで携行しました。以後3日間の食料です。
◆原野を旅し町や村を視察しましたが、町での食事を除きその間の食事はこの肉でした。食事時間になるとその肉と携行したボルジョーミという炭酸水をとりだしてひたすら食べる生活でした。もっとも家族全員が昼寝中の民家(ゲル)で勝手にアイラグ(馬乳酒)を頂戴しました。当時それは普通のことのようでした。この旅で羊の肉に慣れたばかりか、以後私にとり最高の食肉となりました。
◆ウランバートルで生活したときは、市場でモンゴルおばちゃんと争っていい肉の取りあいに手をだしたものです。その旅でトイレの大を四人で四方を向いて背中合わせにしゃがんでしたのと、夜、木星をさして私はあの星なので日本であの星を見たら思い出してくれとプレブ(木曜、木星の意)さんが言ったのを忘れられません。残念なことにプレブさんはその旅のあと数年で星となられました。
◆3月を除き(3月はモンゴル人も恐れる砂嵐の時期ですので)すべての月に、道なき道を車を走らせて、すべての県への地方旅行を経験しています(なんか得意になっているようですね)。というのも、小回りのきく少額援助で「草の根」援助として知られる日本政府のODA開発援助があります。これはご想像がつくように、困っている地域の困っている人への支援が主ですので、目的地は通常の観光地なんかではありませんし、多くの場合モンゴルの普通の人が行かない辺鄙な交通不便な場所で、時には危険な場所でした。ですから、「地平線」の皆さんにあまり負けない冒険の数々を仕事でやらせていただいたと勝手に思っています。
◆世界の各地に派遣されている外交官の中にそういう不便な場所に喜んで行く人は少ないらしく、当時本省で統括しておられた畏友奥克彦大使(日本政府よりイラクにおける米国の復興人道支援室 (ORHA)に2003年長期出張、着任半年余で銃撃され殉職され2階級特進し大使になられた)が、よろこんで地方にでる私に年度末近くになって予算を回してくださいました。
◆在外勤務出発前夜、私が交わした1杯の杯は奥大使とその周りの人たちであったことを思いだしながら、モンゴル担当としては大いに助かるとともに、生きた予算を使うことができて今更ながら感謝でいっぱいです。当時予算が余ってしまったと奥大使が説明しておられ、このような幸運が2年連続しました。もしかしたら、当時モンゴルがゾドという雪害に見舞われていたので、奥大使の思いやりであったのではないかと、今気づかされました。そういえばマイナス40度オーバーの厳冬でも何度も原野に出たことを思い出しましたので、あれはゾドだったと。
◆一緒に旅した、そして生涯忘れられないジョローチさんも何人かいますが、もう定年になって夏場観光案内をしているバヤラーさんが忘れられない人です。彼は私とは「家内にも劣らない強い絆で結ばれている。なぜなら命がけの危険な目に何度もあっている。その意味で家内とは違う絆であり、私は生涯あなたのジョローチだ」と言ってくれたのがなんとも泣かせる台詞でした。瀧本さんのお話で、柚妃ちゃんがジョローチさんの夢をみて来年も会いに行くと決心したそうですが、是非行って欲しいし、また新たな発見と出会いがあると思います。草原でいいジョローチさんとその人となりに触れることは、大げさに言えばモンゴルの魂に触れるような気がするものです。
◆皆さんは見渡す限り地平線までの草原を想像されるでしょう。たしかにそういう場所はたくさんあります。地方にでると毎日400キロほど、草原、岩山、轍の跡のあるほこりだらけの悪路、穴ぼこだらけの山道、ほとんど道がないところを走りますが、ホブドとアルタイの間439キロはほとんど1日平坦な草も少ない平原でした。昼食のときは宇宙の真ん中で、ぼそぼそパンと肉を食べ、スーテイチャイ(乳茶)を飲んでいると言った感覚でした。こんなところではトイレタイムが困ったものでした。お互いがお互いを見ないという原則で旅しました。
◆アルハンガイ県のツァガンノール(湖)からフブスグル県のジャルガラントへ越えるとき手持ちの高度計(コンパスと高度計は必携でした)で高度3000mを越えた峠がありました。峠といっても道があるわけではなくランクルで山を越えるわけです。今は道が地図上にあり、高度2656mとあります。
◆麓ですでに夕刻となり、雨が降り薄暗くなっていました。やがて中腹でミゾレになりました。車輪の花模様に詰まった泥が凍り始めてきました。やがて雪にかわり、あたりは榛松のような灌木となり植生も変化してきました。川が右斜面にあるときは飛ばした石がはるか下で川に入る音がしていましたが、雪の中を上がるにつれ、あたりは音もなくなり、車が岩と木の根につまずき滑るキュキュッとする音だけで、峠というより尾根越えで、結局2、3時間の予定が10キロに10時間もかかってしまいました。タイヤの溝の泥は氷と化し、つるつるのタイヤでした。
◆あとで聞くとジャルガラントから夜中の12時ぐらいまで至近の峠に迎えを出してくださっていたそうです。超一流のジョローチのおかげで命を救われた旅でした。ですから絆が固いのです。バヤラーは一級ジョローチでとても細かい運転技術を持っています。地方へ出るなら一級ジョローチと行くのが大事です。ウランバートル郊外に運転テスト場がありましたが、山の急斜面で8の字を書くテストにバスがいどんでいました。一級ジョローチの道は厳しいです。
◆こんなモンゴルでしたが、本年6月ウランバートルに行って驚きました。児童公園もつぶしての建設ラッシュ。全国の幹線道路の舗装が日程に上がっていました。六カ国協議にも呼ばれない北東アジアの孤児モンゴルでしたが、今年の上海機構会議では、エルベグドルジ大統領のイニシアティブでプーチン大統領、習近平主席との三者会談が開かれ、今後この枠組みは継続されるというのですから時代も大きく変わりつつあります。ますますモンゴルが近くて楽しい国になりそうですね。(花田麿公 元モンゴル大使)
年末年始の予定がまだ決まっていないみなさまへ、北八ヶ岳の山小屋・黒百合ヒュッテで12月31日から1月4日まで毎晩開かれるフォルクローレコンサートのお知らせです。演奏者は地平線会議でおなじみのケーナ奏者長岡竜介さん、奥さまでアニストの長岡のり子さん、そしてチャランゴ(ギター)奏者の寺澤むつみさんです。
なんとこの年越しコンサート、35年間一度も欠かさず続いているのだそうです、すごい! 大きな楽器を大事にかかえて、長岡さんとのり子さんは毎年年末になると雪をかきわけ山へ入ります。8年前からは、元気な祥太郎くん(8才)も一緒です。
心に温かく響き、一度聴いたら忘れられなくなる長岡さんのフォルクローレ。某品行方正楽団は長岡家におんぶにだっこで大変お世話になっており、長岡ご夫妻には一生頭が上がりません。長岡さんとのり子さんを見ていたら、人柄は音色にあらわれるのだなあとしみじみ思ってしまいます。
それでは長岡さん、コンサートに向けてひとことお願いします!
「素敵な雪山を眺めながら、アンデスの山々に思いを馳せてみてくださいね」。
今年はどんな思い出が生まれるのでしょうか?(O)
日時:12月31日〜1月4日まで19時ごろから毎晩演奏
場所:北八ヶ岳山小屋・黒百合ヒュッテ(長野県茅野市宮川11284-1。
長野県茅野駅から渋ノ湯までバスで約50分、そこから徒歩で3時間
問い合わせ先:03-3709-1298(長岡竜介)
■キューバはヘンだ。このたび、キューバ訪問潜伏滞在29回目をマークした私がいうのだから間違いない。では、さらば。と行きたいところだが、これでは話にならない。そもそも、キューバといえば急場しのぎのブエナビスタ・ソシアルクラブかチェ・ゲバラかってなもんだが、一度ハマると大変なことになる。『キューバの呪い』とも呼ばれる極めて深刻な状態で、そのうち寝ても覚めてもああキューバ、キューリとミツバでまたキューバ、と口から泡を吹く末期症状に至る日も近い。
◆さてさて、去る10月28日の第69回国連総会で、「アメリカの対キューバ経済・通商・金融禁輸措置を解除する決議案」が賛成188カ国、反対2カ国(アメリカ、イスラエル)、棄権3カ国(マーシャル諸島、パラオ、ミクロネシア)という大差で採決された。国連加盟国193カ国のうち実に97.4パーセント、大絶賛アメポチ・ハポンですら賛成している。過去23年間連続で圧倒的多数の賛成票を集めており、世論はずっとキューバの味方をしているわけだ。
◆賢明なる読者諸兄は当然ご存知だろうが、ごく一部のあまり賢明ではない読者のために記しておくと、アメリカ合州国とキューバ共和国の間には国交がない。マイアミから飛行機でわずか1時間弱の至近距離にありながら外交関係は結ばれておらず、冷戦構造が崩壊した今日でもいまだ例外的な敵対関係が維持されたまま。
◆対キューバ経済封鎖は1962年以来続けられてきた禁輸措置で、対象は観光から第3国による貿易まで多岐に渡る。アメリカ市民は法律上キューバに渡航できず、ドルや外貨を支払うことは利敵行為となるため、第3国経由でキューバに入国した場合でも、10万ドル以下の罰金または2年以下の懲役が課せられる建前となっている。外国企業でも同様で、例えばキューバの港湾に入港した外国船籍の貨物船は、アメリカの港には半年間入港禁止。つまり、国連憲章から国際法、民族自決権、内政不干渉原則、自由貿易原則、国内政策の域外適応など、国際関係上のあらゆるお約束に反した内容なのである。
◆この措置がイデオロギーに基づくものでないのは、中国やベトナムなど共産党一党独裁体制の国家とも国交を結び、貿易を拡大している事実からも明らかだ。ではなぜ、世界中から非難を浴びながらキューバだけは頑なに拒んでいるのだろうか。答えはただ一つ、そうです、あのひげのおっさんです。すでに政治の表舞台からは完全に引退したが、フィデル・カストロのカリスマ性たるやますます磨きがかかった感すらある。アイゼンハワー以来、歴代アメリカ大統領11人を相手に一歩も引かず、超大国の面子をコケにし続けてきた許しがたい天敵ともいうべき存在だ。
◆ネルソン・マンデラ亡きあと、世界史に燦然と輝く最後の希望の星、となると左巻き一直線に見えてしまいそうだが、やはり彼はただの政治家や革命家とは味わいが違う。独裁者のイメージが強いが「練り上げられた虚像と憧れを託す大衆の幻想の接点」という英雄の定義付けからはほど遠い。キューバにフィデルの銅像は一つも存在しない。憲法で個人崇拝を禁止し、小学生が作文にフィデルみたいな人になりたいと書くとバッテンがつけられるという、不思議な国家なのだ。
◆そのキューバが、このところ凄まじい勢いで動き始めている。7月11日にはロシアのプーチン大統領、その2週間後には中国の習近平国家主席が立て続けに公式訪問し、両国とも軍事から貿易まで多数の新協定を結んだ。その間に、「アラブの春」ならぬ「ハバナの春」を思わせる、スンスネオやピラミデオと呼ばれるSNSを利用した反政府活動を企む外国籍の若者グループが摘発され、資金源はやはりCIAでした、という落ちまで一緒だったり。ネットや携帯も急速に普及しているし、国営レストラン4000軒の完全民営化やら性的マイノリティーの公認、不動産売買の全面解禁など、社会主義国とは思えない大胆な開放改革路線がスタート。アメリカとの行き来や送金もどんどん自由化されている。
◆古くはチェルノブイリで被爆したウクライナの子供たちを事故以来毎年2000人ずつビーチ・リゾートに招待し、無償でリハビリ治療を施したり、今や世界中を恐怖に陥れているエボラ出血熱対策では、現地の最前線でキューバ医療チームが大活躍。目指すは豊かで持続可能な社会主義国って、こんなヘンな国こそ曰くつきのノーベル平和賞授与か、国ごと世界遺産に選定というのがおよろしいのでは……?(ZZz−カーニバル評論家@この項続くかも?)
地平線通信10月号(426号)、10月15日に印刷、封入作業を終え、翌16日に発送しました。作業に参加してくれたのは、以下の皆さんです。ありがとうございました。
森井祐介 松澤亮 加藤千晶 福田晴子 前田庄司 白根全 江本嘉伸 日野和子 落合大祐
■江本さんへ。大変ご無沙汰しております。お会いしたら、どこからお話しようかな?と思う今日この頃。山のお話になりますが、この度、マサ(戸高雅史さんのこと)が山と溪谷社ABCシリーズより、『はじめよう親子登山』という本を出版させて頂きました。登山の入門書ではありますが、いつも野外学校FOS(Feel Our Soul)として自然や山に人々をいざなう時に大切にしている心得といいますか(自然のなかで、その人が限りなくその人らしく開かれる場として、いま、やまにいこう やまをあるこう)、マサの根底にある呼びかけかと思うのですが、これまで撮りためた写真を使い、一般の方々に、子どもと自然に歩む世界の魅力を表現する一冊になりました。
◆マサの「やまと山の違い」など、その違いってなんでしょっ?と、マサのこだわり、頓智じゃないですけど、書き上げるのに非常に時間をかけておりました。この10年、自然と山を舞台に子育て・子育ちしてきたご報告でもあるような……。子どもの視点で自然に出逢い、山遊びから山登り、岩登りときてますが、まだまだ続いていきそうです! 今週末、娘は飛行機で宮崎に飛んで、九州ツアーのマサと空港合流で比叡山クライミング。私は留守番長になってしまい、いろんな意味で自分が怖いです(汗)。とほほ……。(とだかゆうみ)
名物の 古本市に出合いけり
宝島だねさあ探検だ
古典の森 下の小径は 現代詩
絵本の表紙は猫の合掌
王の墓 守る奇石の鎮墓像
頭に鉄の飾もつけおり
韓国のスローグループと交流の旅(十月二日〜十月八日)
鎮墓像 架空の野獣ぞ生き生きと
目鼻もくっきり声も聞こえて
(国立公州博物館)
この海の ミネラルよしと塩田の男
油の流出にしばし絶句す
(都草島塩田見学)
早朝の たいこの音に誘われて
あみだ様の前 ただ座りけり
(仏教寺に宿る)
あごひげの「野草手紙」の著者に会う
飄飄としたファン・デグォンさんに
(「野草手紙」=獄中からの通信ミリオンセラーと親しまれています)
仏教の 伝来せし海はこの海と
わが庭のごとく寺からの道を
デグォンさんの 取りくむ「生命と平和村」
たしかな歩みに集う楽しさ感動
デグォンさんらと
「麗光(ヨンガン)原発やめよ」と叫び
町を街道を「月曜デモ」に
(月曜デモ=地元麗光原発反対の定例デモに参加しました)
◆浦和駅西口から通りぬけ専用通路を五〜六分、旧中山道を渡って青天井の古本市に出合いました。天気は上々、さあ宝島の探検です。古典や全集は森の貫禄、下の小径は現代詩ですね。絵本もどつさり。表紙の孫悟空は空から、地上では猫が断然多いですよ。
◆一匹の子猫がしっかりと立つて青い目でじっとこっちを見つめています。どうしたの、つい声をかけてしまいました。あっそうなの、絵本『モモのこねこ』八島太郎・八島光作、八島太郎絵の子猫さんね。日本の偕成社から〇九年の出版ですが、'一九八一年の再版ですか。八一年は私も初めての旅。ロスやサンフランシスコに長々逗留し『からすたろう』の作者八島太郎さんが人々に親しまれているのを見聞きし、友人はひとり住まいの光さんのお手伝いに通つていました。ニャンニャン(絵本の中でもモモは子猫をこう呼んでいます)あなたの言いたいことはよくわかりました。ありがとうね。私は絵本をつかんで会計さんを探し、彼の掌の上に韓国の五百ウォンも並べてしまいました。日本の五百円と同じ大きさなので間違い易いのです。会計さんは見せて下さいと言つてしみじみ見入つています。
◆十月に入って一週間の韓国の旅では待望の『野草手紙』の著者ファン・デグォンさんにお会いすることができました。デグォンさんは一九五五年ソウルの生れです。ソウル大を卒業後アメリカへ、一時帰国の一九八五年スパイ容疑で逮捕され、国際的な動きや社会の変化の中で釈放されましたが、なんと獄中生活は十三年二ヶ月です。死と直面する日々、獄舎の隅の野草のエネルギーを頂き娘に送つた手紙の本が『野草手紙』です。その野草の絵がまた素晴らしいのです。
◆デグォンさんの住む「生命と平和村」に案内して頂き、更に「月曜デモ」に参加し、デグォンさんの日常にほれぼれして帰国しました。韓国の旅はさすがに疲れました。ローカルコミュニティの見学や交流、お寺さんに泊めて頂いたりと。珍島沖では心からの哀悼を捧げました。
◆帰国してもついふらふら出歩いてある日の夕方、なんという嬉しき素晴らしい贈物、銀杏が届いていたのです。幼馴染の秋の味覚。怪しくなつた脳にもいいと言うのが嬉しいですね。毎日食べすぎないように注意しながらポッキポキ、エネルギーも湧いてきました。彼女は犬を連れて武蔵野を散歩しての収穫です。素敵ですね。彼女の爽やかな姿があらわれてきました。地平線通信の読者なら御存知ですよね。七月号の長野画伯の絵を御らん下さいませ。
◆長い黒髪のすらりとした女性とプラスチックのゴミを集めてきたワン公と。ゴミと取組んで二〇年、小島あずささんです。私は報告会のあと彼女の著書『海ゴミ│拡大する地球環境汚染』(中公新書)をつかんでの立話。地平線会議の嬉しい御縁がそもそものスタートで、今月の御縁という幸せの町姥です。しあわせ町姥のおすすめは地平線通信八月号の「プラスチックの渚から」の再読です。
先月の通信で予告したように、11月の報告会は、兵庫県豊岡市の植村直己冒険館20周年の趣旨に協力するかたちで、その冒険館で行います。植村直己さんが冬のマッキンリーに登頂後、行方を絶って30年。彼の貴重な映像や遺留品を保存しているこの冒険館であらためて43歳で逝った冒険者をしのび、同時に地平線会議が歩き続けて来た35年あまりの時間を振り返ろうと思います。
今回、地平線の皆さんに向けて植村冒険館へ、と呼びかけているもうひとつの理由は、関野吉晴さんと若者たちがインドネシアの島人たちとつくったカヌー「縄文号」「パクール号」が冒険館に保存されることが決まったからです。この11月には縄文号が帆を上げたかたちで、冒険館の中庭にお披露目されています。植村直己冒険賞受賞者でもあるドクトル関野にもこの機会に報告者になってもらい「縄文号の上で、風、波、潮、雷に翻弄されながら、考えたこと」のタイトルで話してもらいます。
そして、もうひとつのテーマは「極地」です。植村直己さんはエベレストの日本人初登頂者(世界では26人目)として知られますが、ヒマラヤ登山以上に極地で行動することが多かった。その現場を、いまの極地を知る2人に語ってもらいます。
■■■11月23日(日)■■■
★9:30〜10:00……開会(オープニング)
場所:植村直己冒険館中庭
秋にふさわしい、カントリー音楽によるオープニング演奏
★10:00〜15:00……冒険館で秋を味わい楽しむ
【館内】(写真展、植村語録展、寄書き等)
【中庭】飲食・物産コーナー(焼きそば、地元野菜販売等)、体験・交流コーナー(ツリーイング・クラフト等)、おもてなしコーナー(お茶会、森の音楽会等)など
★13:30〜14:10……記念式典(セレモニー)
会場:植村直己冒険館小ホール
★14:30〜17:00……地平線特別報告会 Part 1 会場:植村直己冒険館小ホール
【第1部】「縄文号の上で、風、波、潮、雷に翻弄されながら、考えたこと」(関野吉晴)
【第2部】「極地を歩く知恵──あの時代と現在」(荻田泰永+岩野祥子+江本嘉伸)
植村直己さんがあこがれた北極点と南極点。そこはどんな世界なのか。異なる動機で南北の極地に向った2人の行動者に、21世紀の極地探検の現状を語ってもらう。植村直己の時代と行動スタイル、装備などはどう変わったか。ヒントとなるモノを見せてもらう。
荻田泰永:北極点無補給単独到達を目指して2015年も挑戦。最新の北極海の氷の状況を身体で知っている冒険家
岩野祥子:南極観測越冬隊に2回参加した経験を持ち、カナダ北極圏にも足を踏み入れている地球物理学者
江本嘉伸(コーディネーター):1978年冬、植村直己さんが北極点到達した際、日大隊に同行するかたちで取材。1988年にはソ連(当時)側から、ヘリで北極点に降り立つ
★19:00〜23:00……地平線特別報告会 Part 2 会場:民宿・可愛人屋
【第3部】「極地探検のオモテとウラ」(昼の報告会では語り尽くせなかった報告者の思いや裏話を聞く)
【第4部】「恒例! 地平線リレートーク」(参加者の皆さんが次々と語り継ぐ時間)
■■■11月24日(月・振替休日)■■■
★「植村直己冒険館じっくり&たっぷり見学」(特別展示を含む)
★「冒険館周辺の小探検」(冒険館のスタッフの案内で)
★「クライミングウォールにチャレンジ」(植村冒険賞受賞者・田中幹也による特別レッスン)
★「出石そば挑戦」(さて、君は何皿食べられるか!)
それぞれのイベントの内容や移動方法、開始時刻などは現在調整中です
▼地平線特別報告会は14時30分から始まりますが、地平線の皆さんは、できれば13時30分の「記念式典」に間に合うように冒険館をめざしてください。
▼18時に、マイクロバスで冒険館から民宿へと移動します。
▼宿泊は、階下に大広間が、2階に10畳の部屋が3室ある民宿に「食事つき1人3000円」でお願いできないか、調整してもらっています。ほかに飲食代(酒+おつまみ)として1500円をいただく予定(飲まない人、学生の割引あり)。食事の確保のために、事前に申し込みをお願いします。
▼申し込みは江本まで、かはがき(〒160-0007 新宿区荒木町3-23-201)で。
▼あるいはブログ(http://chiheisen.net/toyooka2014/)の「申し込みフォーム」を利用してください。ブログには冒険館へのアクセス方法や時刻表、イベントの内容、よくある質問とその答えなど、新しい情報も掲載しています。
■地平線会議のみなさん、こんにちは! 植村直己冒険館です。このたびの冒険館開館20周年記念感謝祭に合わせ、地平線会議特別報告会をはじめとする様々な催しにみなさんのお力をお借りできることになり、心から感謝しております。今、こちら豊岡市は、紅葉真っ盛りです。関東方面から、あるいは京都大阪よりお越しいただくみなさんは、車窓から見える景色がだんだんと山あいに入っていくことを感じていただけると思います。
まだまだ原風景が広がるこの地こそ、植村が生まれ育ったふるさとです。地方の土地、食べ物、人を、まるごと楽しんでください! 熱く、温かく、にぎやかな1日を地平線会議のみなさんと一緒に私たちも楽しみたいと思います。
『弁当忘れても傘忘れるな』と言われるくらい、しぐれ天気の多い兵庫県北部ですが、11月23日だけは、手持ちの雨具で終わることを願っています。
スタッフ一同、お目にかかれることを楽しみにお待ちしています!
〜見どころ・食べどころポイント〜
★2013「植村直己冒険賞」受賞者★冒険家が「食」でおもてなし
チーム関野によるダイナミック料理が登場……イノシシのいぶし焼きにカリブーの肉、パクール号でも食べられたインドネシアカレーも楽しみです。
★地元の方々によるバザー
おでん、山菜おこわ、豚汁……採れたての地元野菜をふんだんに使ったメニューに舌鼓をうってください。もてなす人々の“但馬弁”が、うま味を引き出します。
★オプショナルツアー
【神鍋山登山とお鉢めぐり】
山陰海岸ジオパークのひとつ、神鍋山は関西唯一の火口がある火山です。約2万年前まで火山活動が続いていました。 整備された登山道を歩くこと15分、広大な火口が広がる頂上に到着。約15分でお鉢めぐりもできます。
★【おすすめのお土産】
とち餅……トチの香りがふわっと広がるほろ苦いとち餅は、神鍋の名物。
出石そば……新そばの季節です。今年も美味しいそばが採れました、ぜひ味わってください。オススメのお店は、冒険館スタッフにお尋ねを!
するめイカのこうじ漬け……秋から冬にかけての但馬の珍味。ご飯がすすむ、お酒がすすむ“こうじ漬け”は、やみつきになりますよ。
■福島・いわき市の渡辺哲です。11月の兵庫県豊岡での報告会に参加します! 植村さんの冒険館へは初めての訪問となりますので、今からとても楽しみです。植村さんがマッキンリーで消息を絶たれたのが43歳の時。私も同じ年齢となり、このタイミングで冒険館を訪れる事が出来ることを、とても嬉しく思っております。
◆植村さんが南極大陸横断の距離感を掴むために、歩いて日本列島3000キロを縦断されたのが、1971年(昭和46年)で私の生まれた年でした。そんな事を考えておりましたら、「よし走って植村さんの故郷へ!」とビビッ、とひらめいてしまいました。京都駅から冒険館まで約140キロと長い走り旅となりますが、ジャーニーランナーにとっては丁度いい(?)距離です。今回は大学時代に初めて手にした植村さんの本『青春を山に賭けて』をザックに忍ばせ、かつて植村さんが駆け回った野山を眺めつつ、冒険館を目指したいと思っております。
◆ところで、東日本大震災から3年8か月が経過した現在も、福島県は原発事故の影響による様々な問題が山積している状況が続いております。我が故郷の楢葉町は来年4月以降の帰町を目指し、様々な準備が進められておりますが、週末に自宅へ戻っても、除染業者や工事関係の車両ばかりが目立ち、住民の姿はあまり見かけることはありません。今後、避難指示が解除された場合、早々に帰町出来る人、戻りたくても戻れない人等状況は様々ですので、川内村の遠藤村長がおっしゃっているように「直ぐに戻らなくとも、戻れる環境を作ることが大事」という視点での地域再生に少しでも協力していきたいと考えております。(渡辺哲 ウルトラ・ランナー)
これまでチョモランマも含めて国内外の山旅を続けて来ました。多くが一人旅、南米で若いころのSeki野さんと同宿したこともあります。お気楽に山と旅が出来たのも妻が留守してくれたから。その妻をインドヒマラヤに案内し、戻って一月で彼女は脳溢血で倒れました。当時、横断山脈登山隊隊長だった私、小康を得た妻に“すまん”と詫びながら出かけました。登頂を果たし帰国して1か月後に妻は逝きました。12年前のことです。「ボケ帽子」と名付けた妻の帽子を被って茫然ボーっとしていた2年間。
<だちゃかん(ダメの金沢弁)、何かせな>とだんだん思いはじめ、ふるさとの白山のためなら残る人生をささげられるかもと考えました。
2005年、「白山神駈道登山文化振興会」なる、今に至るも代表兼雑務吾一人の会を立ち上げました。妻の3回忌、63歳になってのこと、10年前です。
“白山カミカケドウ、それって修験道宗教?” 違います、白山の登山道の呼称で[はくさんかみかけみち]と呼んでください。実は私が創った名前です。もちろん勝手にではなく白山信仰の総本社白山比口羊(ひめ)神社にも相談しました。
南北に長く連なる白山連峰。加賀平野から見る白山は白鳥が大きく翼を広げたような凛として気品ある姿。飛騨や美濃の山々から見ても美しい。豪雪地帯の独立高峰、四囲に流れ出す手取川・庄川・長良川・九頭竜川が育む多くのいのち。その神々しい姿と水の恵み、霊峰白山と言われる由縁です。1300年前、平安の昔に北の稜線に加賀禅定道、南の稜線に美濃禅定道、中央西の稜線に越前禅定道が開かれ明治になるまで困難をものともしない登拝登山者で賑わっていました。
しかし今、白山登山と言えば登りは砂防新道(工事用ボッカ道)の中飯場・高飯場で昼飯を食べ、下りは観光新道(白山観光協会設立記念道)という俗な名前に変わった越前禅定道残部の利用がほとんど。最初の白山ならそれもいい、だが雄大純白なスカイライン上の加賀・美濃両禅定道を歩いてこそ「あ〜霊峰白山だ……」ですぞ。
越前禅定道はほとんど消滅、加賀禅定道は見捨てられ一時廃道の憂き目、美濃禅定道だけかろうじて登山口石徹白(いとしろ)住民の努力で1300年途絶えることなく存続。しかし加・美両禅定道も不便なアクセスと長さ困難さで人影まばら、登山口の過疎・高齢化でいつか消滅するかも……。で、私は「おっしゃー、白山への恩返し、素晴らしい禅定道を1300年後まで残すよう頑張るぞ」「安易さ楽さの登山文化ではなく困難覚悟の禅定道を歩く登山文化を広めるぞ」と決心。
古来からの修験登山文化を見直し現代風にアレンジ、白山から新しい登山文化を創造して世界に発信するくらいでなければ1300年は無いと考えたのです。滑稽なドン・キホーテ振りです。
加賀禅定道18km・美濃禅定道19km。加・美両道を股に掛け北から南、南から北へと一気に歩き通す場合に限り合わせて37km道が白山神駈道。白山神の加護無しには歩き通せない天空の古道です。
一日での通し歩きを荒行、二日なら難行、三日は苦行と名付けました。白山というピークは無く、2702mの御前ヶ峰を最高に、2000m以上かそれに近い10の峰々を越えて行く道、全コースの標準タイム合わせて約24時間。大峰奥駆道に倣い加賀から美濃が「順駈」、美濃から加賀が「逆駈」です。果たして一日の荒行が可能かどうか。まず自分でやってみました。
エッサエッサの山歩きトレーニングを「これでもかぁー」という程やり、64歳の秋に大雨をついて逆駈、65歳の秋に好天の順駈をどちらも有志数人と18時間で歩き通しました。私のようなおじ児でも出来るということで3年目の2008年から9月の連休に白山神駈道登山する方の支援を始めました。新聞、山岳雑誌、ブログに要綱を公表。以後毎年、順・逆交互に荒行・難行の支援活動を行ってきました。登山者が30名になったら白山神駈道が世に知られた証し、ならなくとも10年でやめるつもりでした。
行政やスポンサーを取り込んでのイベントにしたくないので多い年でも10数人止まり。協力者のMさん、浜比嘉島の地平線会議にも参加した方ですが、2009年5月、私がリーダーの雪黒部横断登山中に滑落死。辛くてその年の第4回はよほど止めようかと思いました。昨年「岳人」に第8回の山行記事が載りましたが、今のモンベル新「岳人」は相手にもしてくれません。今年も少なく荒行登山者8人だけ、直前に97歳の母が亡くなり大変でしたがサポートしました。根気よくやってきましたが大して広まらずとうとう来年は第10回。私の死後であってもいつかこの運動が当初目標の壮大な地平線にたどり着くと信じ、73歳になるおじ児も二日の難行で歩くつもりです。6月ころ「神駈」で検索すればブログで要綱が分かります。E本さん、みなさん来年いっしょに歩いてみませんか。(金沢 西嶋錬太郎)
■北極点挑戦にはレゾリュートを起点としてスタート地点となるカナダ最北端ディスカバリー岬へのチャーター機での移動、そして北極点到達後にピックアップを受けるチャーター機と二度のフライトが必要です。二度のチャーター料だけで13万ドル(現在のレートで約1500万円!)必要となります。円安でさらに困ったものです。この費用の捻出が出発前までに整わなければ、いくら準備が整っても挑戦する事はできません。現在、まだ資金の目処は立っておらず、資金集めに奔走する毎日です。一般の方々からのカンパも募らせていただいています。個人の方は一口1万円からで遠征中の音声配信やレゾリュートからのポストカード送付。さらに3万円以上で北極の氷プレゼント。企業小口協賛は一口5万円からで、会社や商品のロゴマークを入れて北極での写真撮影を行います。
詳細はhttp://northpoleadventure.jimdo.comもしくは電話03-6659-4411荻田泰永北極点事務局。正直、現在のところ非常に苦戦しています。(荻田泰永)
■地平線通信が届くようになってから、もうどのくらい経つでしょうか。封筒が透明になったのは前のマンションに住んでいたときです。仕事帰りに集合ポストで通信を見つけると、エレベーターの中で、まず袋の上から画伯の絵を見、後書きを読み、部屋に入って袋から出して1ページ目を読み、中を開いて知っている名前を探して読みます。残りは持ち歩いて電車の中とか、ちょっと時間が空いたときなどに取り出して読みます。読めば違う世界が見えて、「何かしたい!」とか「がんばろ!」とか思えてくる。
◆今は、隣同士がくっついた長屋のような一軒家に引っ越して、通勤も自転車になり、こんな読み方をすることもなくなりましたが、それでもずっと地平線通信に励まされています。引っ越しのことを通信(注:通信費の欄)に載せていただいたのがきっかけで、先日、わたしの職場「テンカラ食堂」に地平線の仲間が来てくれました。江本さん、ねこさん、がんちゃん(岩野祥子さんのこと)、遊上さん、加藤さん、それから植村直己冒険館の館長さんと豊岡市役所の方々。今月開かれる地平線特別報告会in豊岡の作戦会議を私の店でしてくれたのでした。
◆テンカラ食堂は、私が今年5月に友達と開いた「ごはん屋」です。東京の三軒茶屋の病院で寝たきりで長く入院している父がいて、父がいなくなる日が来たら、ちょっと立ち止まろうと、なんとなく思っていました。2年前に父が逝って、それまで勤めていた障害者作業所を辞めました。お酒と料理が好きだから店でもやろうか……とは思ってはいたのですが、いざとなるとその方向には動き出せず、知り合いのNPOを手伝ったり、旅に出たり……。どうするんだろ? ワタシ……みたいな日々。
◆動き出したのは、今いっしょに店をやっているヨシコさんと知り合ったときです。彼女はひとり暮らしなのに自分のごはんをきちんと作って、ランチョンマットをしいて食べていると言います。お菓子やパン作りも得意で、友達を呼んでごちそうしたり、総菜をタッパに詰めて忙しい友達に送ったり……。2度目に会ったときの会話です。「そんなに料理が好きで、店やりたいと思わない?」『やりたい』「やらないの?」『今、やるお金ない』「店っていくらあったらやれるの? たとえば100万円あったらやれる?」『やれる』「100万円ならなんとかなりそうだけど、いっしょにやる?」『やる』
◆子どもの頃から団体行動が苦手で、旅もほとんどひとりのワタシが「いっしょにやる?」と声をかけたのも驚きましたが、やると言った彼女にもびっくりです。それからしばらくこの件は放っておかれるのですが、「もうすぐ失業保険きれるから、店やるなら急がないと……」と彼女に急かされ、そこから店探し。2件目に見た元居酒屋を借りました。不動産やさんが「ほんとにここでいいんですか〜?」と言うほど、人通りは少なく、店の中も前の人が置いていった物が散乱、壁もギトギト……。黙々と掃除をし、入り口を改装したらだいぶいい感じになって、今年の5月に開店しました。
◆店がやりたい! というより、仕事を造りたかったんだと思います。あのとき彼女も無職で、ワタシも無職で、ハローワークで職探しみたいなことはしたくなくて、世の中にふたり分の仕事が作れたらいいな〜と。人のつながりや、お金やモノの流れが感じられる仕事。開店して半年があっという間に過ぎました。日々アタフタとその日を乗り切るのに精一杯ですが、しあわせを感じる瞬間が増えました。コツコツまじめに機嫌良く働いてたら生きていける世の中だといいな〜。そうやって何が起こるか? 何が生まれるか? 楽しんで続けてみたいと思います。
◆「テンカラ食堂」のテンカラは「天ぷらと唐揚げ」ではなく、最寄り駅「天神橋筋6丁目」(通称テンロク)のカラオケ屋でもなく、相方ヨシコさんが辞書をみて気になることばをメモ用紙にたくさん書いてきてくれた中から選んだ名前です。開店までの一連の流れから、どうも自分で考えて動いてる感が薄く、天の采配とでも言いますか……。「天から(テンカラ)もらった仕事と思ってがんばろう」と。この名前がこれから先私たちを支えてくれるような気がして決めました。こんな店ですが、お近くにお越しの際はお立ち寄りください。
★テンカラ食堂 大阪市北区本庄東1-12-17 070-5669-6210(井倉里枝)
日祝、第1木曜定休 11:30〜14:00&17:00〜22:00 今日の定食800円(夜もありま〜す)夜はお酒とアテも出してます。(井倉里枝 「地平線報告会in豊岡、参加します! たぶん10年以上地平線と関わっていますが、3度目の報告会参加です〜」)
『地平線通信』を読んでいたら、なつかしいお名前を発見! ペンをとらせていただきました。信州っ子の北村節子さんの山旅の話はいつか聞きたいと思っていましたので、通信の御嶽山の記事をなつかしく読ませてもらいました。北村さんにお会いしたのはエベレストから帰った頃、40年も前のことですネ。3000mに登る女性は今は多いんでしょうか? リタイアし、娘に連れられ、安達太良山や茶臼岳に行きましたが、3000m越えの山は無理です。いつかウエストン夫妻をまねて島々から徳本峠を越えて上高地へおりたってみたいと思いますが、膝が痛くて、どうでしょうか。
明神の山小屋でみつけた洋髪に長いスカートのウエストン夫人とウエストン、綿入ればんてんのガイドの古い写真の絵葉書に心を打たれました。「志があれば怖いものなし」と教えてくれました。女のわたしは男の記録からは残念ながら導かれません。北村さん、ぜひ、あなたの第一線で仕事をしながらの山旅を通信にのせつづけてください。女性群にはありがたいですよ。
話はかわりますが、今通信でご活躍の若い女性の方々に少し本を紹介させてください。3年前、アイルランドへの旅にいざなってくれたデニーズ・ホール著『アイルランドの石となり、星となる』です。アイルランドにルーツを持つ女性がひとりで手を荒しながら石づくりの田舎屋をスィートホームに造り替える話です。司馬遼太郎の『街道をゆく』のアイルランド紀行よりおもしろかったです。
赤毛に染め替えたデニーズ・ホールには万歳! 機会があったら、メイ・サートン著『海辺の家』と『82歳の日記』も。本の中に荒涼とした海辺の家での老女の写真、冬の荒れた海や庭が、「こうして老いはやり過ごすのだ」と教えてくれます。 蛇足ですが、わたしがアフリカ旅を2回経験できたのは40年前の新聞のコラム「マイ東京」でのカメルーンへの旅の募集記事でした。「アムカス探検学校」、なつかしい言葉ですね。(賀曽利洋子)
■11月。高校卒業試験の再試験のために遅れていたカンボジアの小中学校の新学期がいよいよ始まりました。9月、10月は語学や理科の研修に行ったり、国内旅行をしたりしましたが、中でもカンボジアのラタナキリ州にあるビラチェイ国立公園を歩いたことは忘れられません。国立公園内に住む人々の80%近くがクメール人ではない山岳民族で、独自の言語を使います。2泊3日で山に登りましたが、雨季だったので、朝や夕方に雨が降りました。
◆1日目、すでに私は心が折れそうでした。大きな荷物を背負って、ぬかるんだ山道を5時間半(多少の休憩はありましたが)歩き続けました。途中、何本か川を渡りました。崖のようなところから竹を伝って降り、現地ガイドが渡してくれた竹2本の上を歩いて渡ったり、増水している川を泳いで渡ったりと、一歩間違えば死ぬかも……と思うことが何度もありました。5キロ以上ある荷物でも、大きなビニール袋に入れてしまえば川の中で浮いて、ビート版のように使うことができる! というのは驚きでした。
◆川を渡ったあと、私が初めて出会う恐怖が待っていました。ヒルたちです。いつの間にか手足にくっついて血を吸い、ひっぱってもなかなか取れません。あまりの気持ち悪さに「もーやだ!!」と何度叫んだことか。仲間も20代女子3人なので、キャーキャー言いながら山道を登りました。その頃にはあたりは真っ暗で足元も見えず、ヒルがいるような気がするけど確認できない怖さで疲れ切っていました。
◆川の音がする場所が、1日目のゴールでした。簡単な木の枠に、ブルーシートをかけて、その下にハンモックをかけて寝ました。もちろん、ヒルは全部とりましたが流血はしばらく続きました。大きなアリ(噛まれるとものすごく痛い)もたくさんいて、私たちはアリやヒルがハンモックに上ってくるのではないかと心配でした。とにかくその夜は、あまりぐっすり眠れませんでした。
◆次の日の朝、私たちはきれいな滝を見ることができました。昨夜は音だけが聞こえたので、期待していました。カンボジアの川はほとんど濁っているため透き通った水や滝を見て感動しました。現地ガイドが竹のコップに淹れてくれたコーヒーがとても美味しかったです。朝食をすませ、再びヒルのいる森を進みました。現地ガイドは私たちの靴に石鹸を塗ってくれました。ヒルよけだそうです。
◆2日目は2時間休憩なしで歩き続けてヒルの森を抜けました。そこからは全て楽しかった気がします。現地ガイドが切った10m近くある竹を山から1本ずつ運び出す作業(計17本)も大変でしたが、それらで作ったイカダにのって川を下るのは気持ちが良かったです。その夜はホームステイで、ラタナキリのおいしいお酒を飲むことができ、満天の星空も見ることができました。
◆3日目は竹のイカダで川を2時間ほど下ってゴール。この3日間、はっきり言って自然を楽しむというよりも、ひたすらゴールを目指して頑張った気がします。生きててよかった。Facebookには同期が活動の苦難をアップしていて、「私はまだ壁にぶつかるほど活動をしていない」と気持ちが焦っていた期間でしたが、ラタナキリで過ごした3日間は私にとってとてもいい刺激になりました。これから大変なことがあってもひたすらゴールを目指して行きたいと思います。(カンボジア青年海外協力隊員 クエこと、水口郁枝)
■好きになりすぎるということは、どうしようもない苦しみを伴うことがある。わたしにとっての南極がまさにそれだった。初めての南極越冬を終え、昭和基地を離れる時、涙が溢れて止まらなかった。大好きすぎるこの場所に、もう2度と帰っては来られない。帰国してからも、ふとした拍子に南極の景色が思い出され、涙が出た。こんなに好きになるとわかっていたら、知らなければよかった、出会わなければよかった。南極になんて、行かなきゃよかった。そんなことばかり、繰り返し思う日々だった。
◆南極を知るまで、わたしの世界は生まれ育った愛知県豊田市と、そのとき暮らしていた京都市くらいだった。南極に国の仕事で行ったことで、日本人の代表としての自覚が芽生えた。南極で地球を感じ、地球を「自分たちの暮らす星」ととらえるようになった。視野が広がるとか世界観が変わるというのは恐らくそういうことで、けれどそれに本当に気付くためには、やはりある程度の時間と様々な作業が必要だったと思う。
◆南極に行ったことによるわたしの苦しみは、先に述べたことだけではなかった。身の丈以上のものを期待されたり、過大に評価されたりという状態は、たかだか25歳で南極に行ってしまったわたしにとっては重荷だった。どちらかと言えば自分はダメな部類の人間だと思って生きていた。自分がよく知る自分と世間がでっち上げる自分とのギャップ。ごまかしはきかないし、実力もない。求められることに対して、時間を割き、一生懸命取り組む以外、やりようはなかった。
◆しかしその積み重ねの中で、いろいろなことが、少しずつ拓けてきたのだと思う。南極に出会ってから14年が経つ。今は、自分がダメ人間だとは思わない。わたしにはすべきことがあり、する力もある。南極に行ったことで、わたしは「地球好き」になった。何て素晴らしい星に、絶妙なタイミングで生まれたのだろう。これは奇跡だと、南極で暮らしながら思った。さらに日本という国に生まれた幸い。それがなければ女性で南極越冬などという経験はできなかった。こういった奇跡を実感として知っていること。これがわたしの強みだ。この感覚は、自分の中にだけとどめ、満足して済ませていいものではない。
◆いつのころからか、社会のことを考えるようになった。3.11が起きた時、「日本の仲間が大変だ、助けに行かなきゃ」と思った。南極に行き、地球や日本のとらえ方が変わっていたわたしにとって、東北と関わることは当たり前のことだった。2011年はエネルギーのほとんどを被災地に費やした。被災した人たちから教わることは多かった。何より、どんな状況であろうと、前に進めば物事は前進すると知った。決断が速く行動力と財力のある人たちは、みるみる生活を立て直していった。震災とは無関係の関西での日常と、同じ国とは思えない被災地を行ったり来たりしながら、人々の行動を興味深く眺めてきた。
◆状況が落ち着くにつれ自分の中に湧き上がってきたことは、「自分が暮らす地域で災害が起きたら、自分はどう行動できるのか」ということだった。よその土地で人脈を築き、その土地の事情に詳しくなっても、それが自分の日常の何の役に立つだろう。被災地で見てきたことを自分の足元で生かしていけなければ、過ごした日々の価値が半減する。2013年に防災士の資格を取ったのは、焦りにも似たそんな思いからだった。
◆同じころ、自分の暮らす奈良県大和郡山市に市民劇団があり、この地に伝わる歴史を市民が演じていることを知る。浜比嘉での地平線会議で出会った「肝高の阿麻和利」がわたしに与えた影響は大きく、同じような取り組みをいつか自分の暮らす町でやりたいと思っていた。祭りや伝統芸能が盛んな町は災害に強い。人が集えばつながりが育ち、祭をすれば炊き出しの道具がそろうからだ。
◆2回目の南極越冬から戻って以降、背伸びをしながら続けてきた講演活動も7年目に入っていた。失敗と反省を繰り返しながらも、よりよいものを目指して努力してきた。この1年ほどで、聞いてくださる方々の反応が変わってきた。人々のストレートな気持ちに出会えば出会うほど、伝えたいメッセージがあり、それを伝える機会を持てることがどんなにありがたいことかを実感する。自分の人生に与えられたテーマが南極だったからこそ、人が、わたしの話に耳を傾けてくれる。
◆ひとりの人間を出発点に、社会や世界は変わりうる。わたしが南極を切り口に地球のことを伝えることで、どこかの誰かが世界にインパクトを与える人間に育つかもしれない。わたしはそのことを常に信じている。自分にできることは限られていても、できることを続けることで可能性は生まれ続ける。講演会に来てくださる人とわたしの人生が重なりあうのは1時間程度の短い時間だ。その時間を有意義に過ごすために、伝える技術を磨きたい。そんな折に出会った市民劇団は、地元でのつながりを築くためにも、表現力を高めるためにも、うってつけの舞台だった。
◆誰と居たいか、どんな話を聞きたいか、何をしたいか、どんな風に生きたいか、これらのことを考えていくと、目指したい自分の姿は明確になってくる。地球の46億年の歴史を1年とすると、人間の一生はわずか0.5秒だ。この短さの中に、苦しみ、悲しみ、喜び、楽しみが入り乱れ、人それぞれ、ひとりひとり、なぜかくも多様で面白い人生を生きるのか。からかわれているのではないかと思うほど、人間の生き様は滑稽だ。生きることは面白い。あっという間だから適当でいいのではなく、あっという間だからこそ大切に過ごしたい。
◆来年1月で40歳になる。ちょうどいい折に気持ちが定まった。持てる力は発揮すべきだし、その環境は自分で創りだすべきだ。1月が区切りとなる。する意味があると本当に思えることに、0.5秒の残りを使っていくことに決めた。(岩野祥子)
■ブリーダーが不要になった犬を捨てるのか、成犬の捨て犬のことがしきりにニュースとなっている。佐賀県ではマルチーズばかり18匹が捨てられていた、と報道された。やせ細って市街地や野原を彷徨っていたと聞くと、お前の仲間たちがあんなに苦労しているんだぞ、身の幸せをもっと感じろ、と傍らでぐっすり寝入っている太めの麦丸に言いたくなる。うち16匹は新たな飼い主のたちにもらわれていった、というので少しほっとしましたが。
◆犬といえば、本多有香さんの『犬と、走る』の書評が最近も出た。『母の友』12月号で、評者は、雨宮処凜さん。「一言で言うと、すべてが無謀だ。だけど、自分と他人を信じてしまえば、人生って意外とうまくいくのかもしれない。そこに『好き!』というパワーが加われば、多分無敵だ!」
◆その有香さん、目下、土地問題で苦戦している。犬たちと暮らす広さ5エーカーほどの土地を買い取ってほしい、と地主から言われているのだ。20000平方メートルぐらい。105000ドル(約1150万円)の売値は、あの土地としては、けして高くないそうだが、毎日の餌代に追われる有香さんにとっては目玉が飛び出るお金だろう。好きなことを貫くのは、しんどいことを伴う、とつくづく思う。何かいいアイデアはないものか。
◆きのう11日夕、東京に来たのでと、植村直己冒険館の吉谷館長と冒険賞担当の西村さんがふらり荒木町の我が家にやって来た。通信作業でそれどころではないんですよ!と言いつつ、1時間に限定してしばし23日の「地平線特別報告会in豊岡」について話す。せっかくなのでエモカレーを食べて帰ってもらった。初めてという巨漢の西村さん、美味しい!と、しっかり三皿食べました。では皆さん、豊岡で会いましょう!!(江本嘉伸)
地平線特別報告会 in 豊岡
今から30年前に、アラスカ・マッキンリーで消息を断った冒険家、植村直己さんは、残念ながら地平線報告会に登場する機会はありませんでした。でも、日本人の探検・冒険の記録を残すことをテーマにしている地平線会議では、植村さんの行動を追い続けていました。'85年に発行した年報「地平線から・VOL6」の特集は「植村直己の時代」。表紙は植村さんのド・アップでした。 今月、報告会の場となる兵庫県豊岡市の植村直己冒険館との縁も浅からず、'99年には同館で地平線会議発足20周年記念報告会を行いました。今月の報告会もまた、日本人の行動記録に残るであろうオモシロイ人達が集います。来たれ、豊岡へ! 詳しくは本誌中ページをごらん下さい。 |
地平線通信 427号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶 福田晴子
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2014年11月12日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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