10月15日。1年で最も、過ごしやすい季節。何よりも自分の生まれ月なので、愛着がある。何人かから「おめでとうメール」を頂いたが、率直なところもぞもぞする。「また1才歳を取りましたね」との意味だから。でもまあ、ありがとう。
◆9月28日は、青梅線の車内にいた。最近はあまり乗らないが、懐かしい路線だ。途中から青梅マラソンのコースを車窓から見ることができるから。40才を機に走り出し、最初の目標が青梅マラソン30キロだった。ばてたらあの電車に乗ればいいんだな、と平行して走る青梅線に慰められたものだ。
◆軍畑(いくさばた)の無人駅に降り立つと長野亮之介・淳子夫妻がいた。おお、と互いに手を挙げるが、偶然というわけではない。改札を出ると「国立奥多摩美術館」の矢印マークが。渓流沿いに10分あまり歩くと、遠くに建物が見えて来た。「あれじゃないかな?」と淳子さん。それが廃屋となった製材所に手を入れて若き芸術家たちがつくった「国立奥多摩美術館」だった。
◆中に足を踏み入れて、わぁー、と思った。狭いはしご段を下り、水がチョロチョロ流れる地下の展示場に行くと、「風獣土獣図」があった。巨大な黒い鯨と対峙するワニの胴体は、原色の赤で塗られ、力のこもった作品。関野吉晴が本気で描いたことがわかった。何よりもこの美術館の持つ「自由」がすごい。詳しくは、この通信の8〜10ページをご覧あれ。
◆ムサビには面白いおとなたちが育っている、とつくづく思う。壮大なスケールで好き勝手をやってきた医師、探検家の関野吉晴が教授でいることも無縁ではないだろう。若いうちに、いい大人と出会うことは、何よりも人を育てる、と考えている。そのことは、地平線会議を延々続けている結構大きなモチベーションだ。大東文化大学で非常勤講師をつとめる丸山純さんがユニークな地球体験を持つ大人たちを外部講師として呼び、はたち前後の学生たちの前で話をさせる、という試みを続けているのもそうした思いがあるからではないか。時に地平線報告会に現れる彼の教え子たちを見てそう感じる。
◆9月20日、いわき市に住む渡辺哲(あきら)さんの車で解禁となった国道6号線を走った。原発事故で「帰還困難区域」となった原発から20キロ圏の双葉、大熊、富岡3町間の14キロは許可車両以外の通行は禁止されていた。それが9月15日、3年6カ月ぶりに全面開放されたのである。しかし、徒歩は勿論オートバイや自転車での走行は、ダメ。車は窓を閉めておかなければならず、途中停車も認められない。線量がまだ高く危険だからだ。
◆線量計を持っての移動である。福島第一の門が近づくにつれ、数値はどんどん上がった。「8.24……」と後部座席の菊地由美子さんが大きな声を出した。結婚するまで福島で新聞記者をやっていた彼女にも福島の今は、信じられない状況だろう。やがて、富岡町に入った。私は初めてだ。驚いたことに、船や車が今なお打ち上げられ、ひっくり返ったままだ。
◆そして、楢葉町や飯館村ののどかな農村風景のあちこちに積み上げられた黒い袋の山、山、山。すべて除染済みの土だ。どうするのか、これだけの汚染土を。10月に入って、南相馬の上條大輔さんから「地平線の皆さん、福島の現実を忘れないで」と、メールが来た。「世間全体が国の戦略にはまり、もう原発事故が終息したような感じ。依然として原発からは放射能、汚染水がもれつづけ、山や森、農地や川は汚染されもはや海まで完全に汚されているのに……」
◆10月6日夕、1日早い誕生日を大阪天神橋筋6丁目の「テンカラ食堂」で祝ってもらった。地平線の結構ふるい仲間である井倉里枝さんがこの5月、友人と始めたばかりの食堂。高校、大学とデザインを学んだ井倉さんは「もの作り」に強い関心があり、「テンカラ」の名は「天から授かった仕事」の意味をこめたのだそうだ。鶏の天ぷら、焚き合わせ、漬け物、みそ汁、ご飯の定食が800円。美味しい!
◆7人がすわれるカウンター席と8人が会食できる畳部屋があり、その畳部屋を使わせてもらっての打ち合わせ。中島ねこさん、岩野祥子さんら大阪の強力な地平線仲間、そしてなんと、豊岡市の植村直己冒険館の吉谷義奉(よしとも)館長ら市職員3人も参加した。いや、正しく言えば、3人は豊岡から車で2時間半かけて私をここに送り届けてくれたのだ。
◆すでにお伝えしているように、来月23日、植村直己冒険館20周年に合わせて、「11.23地平線報告会in豊岡」を開く。いろいろ厄介な裏方仕事がある。その打ち合わせで前日台風の様子を気にしながら豊岡に入り、館長たちとあれこれ相談、翌日、大阪地平線(そういう呼び方は正式にはないが)の主軸との顔合わせを兼ねて一緒にこの食堂に来たのである。
◆そんなわけで、11月は、はるばる兵庫県まで遠征します。この機会に冒険館を知っておくのも役に立つ、と思う。知らない場所は面白いですよ。(江本嘉伸)
「ジムで鍛えている」という締った体つきで登場した森田さんは、報告会の10日前にヨーロッパから帰国したばかりでまだ本調子ではない気配。「眠くて思考がまとまらないんだけど……」といいつつ、「35年前の僕はようやく物書き1本でやろうと決めたばかりの駆け出しで、当時は”カンボコ”の時代でした」と口火をきった。’79年にスタートした地平線報告会の第一回開催日が、今回の報告会と2日違いの9月28日であることを踏まえた枕話だ。“カンボコ”とは、感動と挫折(ボコボコ)を表す造語。取材で知る未知の世界に感動し、それを表現する難しさに凹む。情報源の乏しい時代、カンとボコの落差は今より激しかった。その凹凸の狭間で揉まれ、情報に接する森田さんの独特な勘が磨かれたのかもしれない。
森田靖郎さんは地平線会議発起人の一人。南米、中国などを始め「多分人生の半分は」世界中を旅しながら、世の中で起きている事象の“本質”を探り、数多くのルポルタージュや小説の形で発表してきた。「出来事の表層を追うつもりはない。何か気に掛かると、直感に従ってゆっくり調べ、現場にこだわり、人に会って話を聞いて行くうちに、だんだん深層にもぐり、奥に横たわる大きな流れに辿り着くのが僕のやり方」と森田さんは言う。
3.11以降、森田さんの直感のアンテナに触れたのはエネルギー問題だ。いち早く脱原発を宣言したドイツの倫理感が気になった。なぜ火元の日本ができない決断が、北方のゲルマン民族の国で支持されたのか? ドイツに長期滞在し、釣りをしながら人々と語り合う中で幾度も耳にしたのは「森に行けば分かる」と言う言葉だった。
古来栄えたあらゆる文明でエネルギーの確保は最重要課題だ。中でも一番重要な熱源、すなわち火を作り出す木を、最大に蓄積するのが森だ。それだけではなく、衣食住に関わるすべての恵みを与え、そこに依存するあらゆる生命を育む森は、ヒトの理解を越えた偉大なる《存在》だった。森の神秘に対する探究心は宗教を生み、哲学を育て、文明を育んだ。
森田さんは異国の森で、過去の人達が残した畏敬の念の痕跡を目にする。教会や祈祷場の跡だったり、「アジール(聖域/権力の及ばない特別な場)」の名残などだ。それは日本文化に深く根ざす「結界(神聖な場)」の存在に似ていた。古くから森には結界が作られ、しめ縄や山門や鳥居、石畳などで俗世間と隔てられた。祠や神社もしかり。後に成立した日本仏教宗派には拠点を「総本山」と呼び、山すなわち森と深く結びついている例も少なくない。
「森田家は比叡山を抱く天台宗だったので、仏教は森から生まれたという感覚も自然に持ってました」と森田さん。天台宗のはずの森田さんの母上はロシア正教の洗礼を受けており、異なった宗教の出会いが新たな文明を生むかも?と興味を持ったそうだ。
原発に対する当面の判断は違うものの、日本とドイツ両国には、かつて同じように自然を崇拝する文明があった事が伺えた。その文明はどうなったのか。「文明には賞味期限があるのでは?」と考えた森田さんは《文明周期説》という学説に行き当たる。「ざっくり言えば、大きな文明のトレンドは1600年周期くらいで入れ替わるという説」と森田さんは説明する。
「今のトレンドはアメリカに代表される西洋文明(便宜的にアメリカ文明と呼ぶ)。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教など、砂漠で生まれた一神教を基盤にし、自然を人間の対立項と位置づける文明です。今それが経済的にも思想的にも行き詰まっている。相次ぐ天変地異など環境の変化に対応しきれないのも、文明の内部崩壊の兆候かもしれない。アメリカ文明の賞味期限は21世紀に終わるという説も」と森田さん。私達は20世紀から21世紀への《世紀またぎ》を経験した。その上、もしかすると《文明またぎ》を経験できるかもしれない。では次の数百年を担う文明は何だろう? そのヒントは、各地の森に残された前の文明の痕跡に有るのでは?
ポスト・アメリカ文明を探る森田さんの旅は、その原風景ともいうべき米カリフォルニア州のレッド・ウッドの森歩きから始まった。ちょうど国民皆保険制度案を巡る国会紛糾でアメリカの国家予算が麻痺していた時期だ。その影響で旅が滞る中、森田さんの思考はアメリカ社会の考察に及んだ。《社会保障は個人の責任。割り勘で人の分まで負担などしたくない》という考え方はアメリカの文化を規定するフロンティア精神に基づくと分析する。個人主義と言えば聞こえはいいが、利他に価値を置かない考え方だ。
対照的なのは、自然と共存し、小集団の共益を重視した先住民の文化。それを一掃して新たに作り上げた社会では、力の強いものがより多く取る事が無条件の正義だった。新天地が提供するささやかな再生可能資源にはあまり目を向けず、外から資源を持ち込む。爆発的なエネルギーを内包した化石資源を獲得してからはこの傾向に拍車がかかった。消費を前提にした資源使い捨て経済圏の拡大が最優先事項となり、人はローンというバーチャルな金融商品を抱えた《消費者》に矮小化され、化石資源と市場を確保するために際限なく軍事費が膨張する。「フロンティア精神が、アメリカン・ドリームを喰ってるわけです」と森田さんは表現した。
では、プレ・アメリカ文明の名残はどこにあるのか?「今のヨーロッパ文明の源になった古代ギリシア時代には人間重視の文明があった。人々は多様な神が共存するおおらかな宇宙観を持ち、小さい事はいい事だと考え、経済圏の膨張を望まなかった」と森田さん。オークを聖なる木として崇め、自然への畏敬の念を忘れなかったという。しかし続くローマ帝国は拡大した領土を治めるためにキリスト教を導入する。リーダーを権威づけるのに唯一神の存在は都合が良かった。それが今から約1600年前の事だ。
折悪しく地球は寒冷期に入る。森に向けられていた畏敬の念が神に集約されると、森は単なる《資源》として《消費》する対象になった。人口圧力が少ない時代とはいえ、数世紀に渡る乱伐は野生動物の減少を招き、天敵の減ったネズミが数を増やし、やがては中世のペスト大流行につながる遠因ともなったと森田さんは指摘する。もちろん歴史的にはもっと複雑な要因が絡むはずだが、話はジェットコースターのようにドラマティックに展開する。プロテスタントの誕生、十字軍の遠征、そして東西文明の交流からルネサンス、現代へと話は加速。この間、文明をリードする主体の変化や過去の再評価はあったが、大きい事はいい事だという拡大主義の流れは変わらなかった。アメリカに次いで現代のギリシア、ローマを歩いた森田さんの目に映ったのは、中・近世の遺構ばかり。「ローマ時代のアジールにいってみたけど、オークは無くて、修道院などに変わってました」。古代ギリシア文明の名残はオークの森と共に消えていた。
「ここで僕の旅はちょっと行き詰まったんです」と森田さんは告白する。「文明の背中を探しに行ったつもりなのに、尻尾すら掴めなかった」。ただ、森田さんの勘は、古代ギリシア文明を構成する要素の何かが次の文明のヒントだと示唆していた。では次の文明を担うリード役は誰なのか? 「東西の文明が交代すると考えると、中国が有力候補。でもやっぱり違う」と森田さん。
「今の中国は日本以上に資本主義にどっぷり浸かっている。共産党高級幹部の子弟はアメリカのエスタブリッシュメントが通う学校で資本主義帝王学を学んでいるのが実態」と明かす。世界中に広がる中国コネクションの中で流通するウラ資金は460兆円とも。「ただし、共産中国以前のシナ文明は自然環境に学んでいた。道教や儒教などの奥深い自然主義哲学を生んでいる。大陸で生まれたこれらの思想に一番影響を受け、今も継いでいるのが日本なんです」。
8〜9世紀、地球は再び温暖期に入り、日本はモンスーン気候の影響が強くなる。この時期に大陸の思想を日本に紹介した二大天才が最澄と空海だと森田さんは言う。環境変化に翻弄され、自然の移ろいに敏感になった日本人に、仏教的思考は無常観を醸成するきっかけを与えた。一方で、自然の底知れぬ力の前ではなりふり構わず八百万の神(大自然の象徴)にもすがる、八方美人的倫理観の形成もまたこの時期になされたというのが森田さんの見解だ。
砂漠で生まれた排他的な西欧の一神教文化や、中国やアメリカのように従前の文化を一回ご破算にしてゼロから立て直す《更地文化》と違い、日本文化は自然に逆らわず、入ってきたものをとりあえず受け入れ、持ち前の文化に重ね、やがて吸収してオリジナルにしてしまう。この柔軟な対応こそが、古代ギリシア文明に通じる未来の文明のヒントなのではないか?
「世界中で、戦乱や経済危機で立ち往生している国を見てから帰国すると、日本はいつもビックリするほど平和で普通。この『普通であり続ける事』が大事なんじゃないかな」と森田さん。平和憲法を守って70年も戦争をしていない日本の存在は世界でも希有だ。それができたのは何でも飲み込んでしまう日本文化の特性によるものかもしれない。次の文明のヒントは、日本文化に見られるこの底知れぬ柔軟性にあるのだろうか? 森田さんは「外に探すつもりだったあらたな文明のタネが、実は足元に埋まっていたような感じ」と語った。
「今日は、まだ自分でもまとまっていない考えを中間報告のつもりで話したので、曖昧ですみません」と話を締めくくった森田さん。いつもながらビジュアル無し、原稿無し、手元の資料にちらりとも視線を配らずに滔々と語る濃密な報告だった。終了前の約30分ほどの時間を使い、江本代表世話人のインタビュー形式で森田さんの取材に関するエピソードが散文的に披露された。森田さんの育った時代の神戸にはまだ戦後闇市の名残があり、多彩な外国人の姿も珍しくなかった。そうした原体験が、中国やNYをはじめ混沌とした都市の取材に有利だったのかもしれない。
森田さんが取材現場で大事にしているのは「根っ子」を掴む事だという。犯罪を追うなら、犯罪者当人よりも家族や関係者から取材を始める事で、犯罪の根っ子が見える。その根っ子をつなげて行くと時代が見えてくるそうだ。趣味のアユ釣りの話なども披露し、最後に江本さんからのリクエストを受けて趣味のケーナで「カルナバル・グランデ」という曲を吹いて下さった。「一年以上吹いてないので」と照れながらの演奏だった。(長野亮之介)
15か16の遊び盛りの頃、勉強はもちろん新聞など縁のない私が、たった一行の記事を、いまも記憶の脳裏に焼き付けている。朝日新聞の文化欄に掲載された小林秀雄(評論家)の記事には、「慣習とは自覚せずに繰り返すこと。伝統とは、自意識を持って“それでいいのか”と考えて繰り返すこと」とあった。短く、それでいて的を射た表現、以後、私は短い言葉こそ天才だと信じている。
「恋」とは「異質を求め」、「愛」は「同質を確かめ合う」という短い言葉の出会いに人生を彩らせた。「“異”性」に心ときめかせ恋に落ち、愛し“合”うことを知る。旅と放浪の違いを、「旅は帰る所がある。放浪は帰らないことが最善」と放浪家で詩人の金子光晴は言い切った。二十歳の頃、帰らない旅に憧れ、「カネの北米、女の南米、耐えてアフリカ、歴史のアジア、ないよりましなヨーロッパ」と、ヨーロッパをないがしろにしてきた。
「知らない」ということがどれほど罪なことか、「無知」が「無恥」であることを、半世紀後に思い知った。旧東ベルリンの街角のカフェで「この人生が生きるに値するかどうか……、それが人生の上で最も重大です」と、ドイツ人に森に誘われたことから、「森」を人生の根本道場と仰ぎ、ヨーロッパを旅する度に、「文明」と「文化」はどこが違うのかを求め、「文明の背中を追う旅」を繰り返してきた。 ドイツ人は、文化の「精神性」、文明の「物質性」を強調する。文明家アーノルド・J・トインビーは、人類の歴史を国家や民族の単位でなく、文明を単位としてとらえることを提唱している。その後、歴史家の間では、「文化を人々の間に共有された生活様式の総体」と定義し、「文明を文化の大きなまとまり」としている。この説明は私にとって、長いし、インパクトに欠けている。「無恥」を恐れずに言うなら、「文化とは固有のモノで、文明は国家や民族を超えて伝播するもの」と……短くしてみた。
さらに西洋と東洋の違いを、「神は在るもの、神は来るもの、神は立つもの」、一方、「仏は成るもの、仏は往くもの、仏は座るもの」と、神と仏の違いを短い言葉にすれば身近になる。文化と文明は、人類にとって役割が違うはずだ。取扱いを間違うと紛争になることもある。シリアとイラクの国境や、イスラエル建国には、大国のご都合主義の国境線がある。国境線を拒む紛争は、文化圏ではなく、文明圏で発生した問題である。平和や地球環境の問題と取り組むには、国家間レベルでなく、文明間レベルで見た方がいい。
人類が地球に出現したのは700万年ほど前、文明が発生してから1万年にもならない。地球誕生(46億年前)から今までを24時間(1日)で見るなら、今という時は、まだ数秒にしかならない、始まったばかりなのだ。地球は、まだまだ未知の領域だ。今の人間は、地球に対して大きな顔をし過ぎではないか。たまには博物館に行ってみるのもいい。地球に畏敬を感じながら、素手で未来を切り拓いた先人たちの気持ちが少しはわかる。(森田靖郎)
■きゃー、ごめんなさい、宣伝させてください! 9月19日(「のじゅくの日」)に『バスに乗ってどこまでも』(双葉社)という本が出ました。『EX大衆』という月刊誌で2年間ひっそりと続けていた連載をまとめたもので、高速バスに乗って北は秋田、南は岡山まで(この中途半端さ!)行ってみるという、旅行エッセイ本です。往復の高速バス代、現地での食費、交通費、観光代、全部ひっくるめて、予算は1万円(宿泊はもちろん野宿であります!)という企画だったので、それはもうケチケチケチケチ、旅行しました。
◆高速バスには旅情がない、そしてしんどい、しかも危ない。安さだけが魅力だと思っていたのですが、たくさん乗ると、愛着が生まれるのであります。「関越自動車道高速バス居眠り運転事故」の後、法改正されて安全対策が(だいぶ)強化されましたし、最近のバスには空気枕や毛布が常備、各席にコンセントが付いていたり、どんどん快適になっています。旅情だって、気の持ちようだ! なんて、ついつい、バスをおすすめしてしまう……。さらに、「なにか販促イベントをやろう」と考えて、溢れ出るバス愛! マイクロバスを自分でレンタルして、「ミステリー《野宿》ツアーのようなもの」をしちゃうことにしました。
◆運転手はたいちょー(小林祐一)さんです。たいちょーさんは、RQのボランティアから帰り、「あると役に立てる」とすぐに大型免許を取ったとても行動力のある、スバラシイ人なのです。なのに、初めてのボランティアドライブが、こんなものに……! 10月18日(土)日帰り(希望者は野宿泊)。行先は着いてみてのお楽しみ。本ご購入者さま限定。なんと0円で参加できますので、もしもお暇でしたら、ぜひご参加ください〜。レンタル代、恐ろしく高かった……。せっかくだから、満席にしたいです……。って、ほんとうに、最初から最後まで宣伝だ〜!(野宿野郎旅行社 http://nojukuyaro.net/bus/ かとうちあき)
編集長宛追記:ごめんなさい、完全に宣伝になってしまいました。わたしはすっかりバスづいており、大館・北秋田芸術祭に行こうと、今日12日夜発の夜行バスに乗って秋田へ行き、明日の夜発で秋田から東京へ帰る予定です。14日の早朝の高速道路は、台風でやばいんじゃないか(運休なら運休してくれたらよいのだけれど、事故とか……)と、ちょっと怖いです。(加藤千晶)
■ご無沙汰しております。ようやく暑さも一段落、畑仕事にいい季節となってきました。と思ったら台風が! 今回の台風はほんと、怖かったです〜。以下、その顛末を書きましたので読んでください。
◆一時はフィリピン近海で900hPaという驚異的な強さになっていた台風19号。島の漁師が「今回の台風は危ないぞ。18号とは全然違う、海が変だ」と言っていたのが一週間も前のこと。その頃の気象庁の予報では沖縄本島は進路から少し外れ大東島に向かうことを示していた。「また大東島か、気の毒に」と思っていたのだ。
◆台風からはまだまだ遠いのに9日ごろから強風が吹き、10日はまだ強風域というのに暴風で、外にいると何度も体が風にふらつく。さらに宅配便のお兄ちゃんが「比嘉の海岸沿いは高潮でかなりヤバい状況ですよ!」と。海の方を見に行くと今まで見たことがないほど荒れていてバシャバシャと潮があがって来ていた。牧場に行くといつもはのんびりしている昇も「やっぱりこれはただの台風じゃない予感」といって、念入りの台風対策だ。
◆予報はどんどんと沖縄本島寄りに変わっていく……。これってもしかして直撃かも!? 悪い予感はあたり、11日夜、930hPaで沖縄を直撃の予報に! それも時速10キロというゆっくりしたスピードだ。大潮にもかさなっている。ひょえ〜!
◆その日は朝から外には一歩も出られないくらいの暴風雨だったが、前回の台風で懲りて屋根の修理の甲斐あり雨漏りは数滴に済んでいたし、雨戸を閉め釘で打ち付けて、テレビを見ながら「じっと我慢だねー」と家の中でテレビを見ながらごろごろしていた。
◆夕方、うるま市から「避難準備警戒情報」が出た。夜8時に満潮だからと念のため6時ごろ前の川を見に行った昇が戻ってくるなり「晴美ー! 水がそこまで来ている。公民館に電話して! 避難するぞ!」「え? 犬たちはどうするの?」「連れて行くしかないでしょ」急いで着替えと食糧と寝袋をザックに詰めて外に出ると、前の道はすでに膝の下まで水が来ていた。海からの水が上がってきたのだ。暴風雨の中ずぶぬれになって犬たちを車に乗せて公民館へ。すでに昨日から避難しているという島人が何人もいた。
◆なんだかほっとした。犬たち、ゴンとポニョの2匹は、裏の道具置き場の土間につながせてもらった。幸い停電はなく、島人とおしゃべりしていると気がまぎれるし、テレビを見たり三線弾いたり。昔はこんなだったよーという話も聞けて楽しかった。何よりもトイレが家の中にあるのがうれしい((注:外間家は、トイレが家の外にある)。ゴーゴーとうなる雨風の音もここなら気にならなかった。
◆夜10時ごろ、誰かが「“目”に入ったな」といった。そういえば外が嘘のように静かになっている。出てみると雨も風も止んでいて生暖かい空気。「今のうちに家を見に行こう」と車に乗って家へ。幸い家の中は冠水してなくて無事。だけど家の前の道にやらぶの大木が倒れていて通行不能になっていた。
◆さらに海岸に通じる道はすぐそこまで潮が来たらしく木々やペットボトルなどのおびただしいゴミが道に堆積していて通行不能。島人たちが次々と家から出てきて道に出ていた。「大丈夫だったか」「1時間もすると返し風が来るぞ」「返し風の方が危ないから気をつけろ」と言葉を交わしていると、なにやら焦げ臭い。見るとホテル浜比嘉島の方の電信柱の電線がオレンジ色の炎をあげて燃えているではないか!!
◆じーじーと大きな音をさせてボーボー燃え上がっていた。思わず119に電話した! すると対岸の島の消防署からポンプ車を向かわせるから誘導のためにそこで待っていろという! 返し風が怖いので公民館に戻りたいと言ったが「いてください」というので泣く泣く10分くらい待っていたがなかなか来ないので公民館に戻った。電話しなきゃよかったと思った。しばらくしてポンプ車がきたがそのころはもう火は鎮火していた。たいしたことなかったのに電話してすみません、と謝った。
◆あまり眠れなかったが朝7時ごろ、持ち寄った食材でみんなで朝ごはんを作り食べた。まだ風は相当強かったが雨が止んでいたので助かった。先に牧場へ行った昇から「ヤギ小屋、ヤギたち全員無事。被害もなし」との連絡受けほっとした。うちは何も被害がなかったが、近くの家畜小屋が全壊していたり屋根瓦がほとんど吹き飛ばされている家があったり木があちこち倒れていた。そして畑の農作物は……。早めに植え付けを済ませていたところは全部だめになっていた。
◆うちは忙しくて遅れていたのでまだ一部の植えつけだけだったが、植えつけたらっきょうが流されていた。また最初からだなー。でも誰も怪我なく動物たちも無事でよかった、よかった。でも浜集落の方もかなり潮が来て、浸水した家もあるそうな。海中道路は砂が道路を覆い開通に時間がかかったそうな。
◆田舎暮らし、島暮らしにあこがれる人もいるけどこんな暮らしも楽じゃない。自然から恩恵を受けるけど、時には体当たりで向かってくる。新しい頑丈な家に住んで畑も酪農もしていなければこんな苦労も心配もない。でも今回公民館に避難して、田舎ならではの人とのつながりが気持ちをこんなにもほっとさせるんだなあと感じた。次はもっと早く公民館に行こうっと! 江本さんも、くれぐれも十分注意して下さいね。フェイスブックになんか載せようとして危険な写真を撮りにいかないようにしましょう!(外間晴美 台風一過の13日、海の文化資料館にて。海中道路の途中に建つ資料館も台風の影響をもろに受け館内は水浸し。朝からスタッフ総出で資料館の掃除をしたところ)
編注:外間昇・晴美夫妻の住む浜比嘉島があるうるま市では、今回の台風19号の最大風速を48.8メートルと記録している。
■日本山岳会創立110周年記念事業の一つとして、学生による遠征派遣企画が掲げられた。誰が何処へ行くのか──。行きたい者、行きたいけど学校が……、海外の山へは行ってみたいけどほかにもやりたいことが……、となかなかメンバーは集まらない模様。一昔前なら、ヒマラヤへ行ってみたい!! 海外の山へ!! なんて無条件で飛びついたであろう、有難いお話(しかも日本山岳会という大きな看板がバックに付いている)なのに、今どきの学生たちにとっては選択肢が多いのか、就職活動に影響するからなのか、はたまた勉学に励みたいからなのか、一時は盛り上がる遠征企画もなかなか形にならないでいるようだ。
◆そんな中で、男子がまとまらぬなら女子で遠征隊を作っていこう、と国立登山研修所で学生リーダー研修に参加した女子学生仲間に声を掛けて、さっさと女子遠征隊を作ってしまった井上隊長以下3名。女子学生のみの遠征隊は、日本山岳会史上初の試みとなった。
◆遠征先の山は、今年ネパール政府が新たに解禁した100座近くの未踏峰の中から選ばれた。かつてムスタン王国と呼ばれ、独自の自治で発展してきたチベット仏教域にある、チベットとネパールの国境ライン上、6242mのマンセイル峰。国立登山研修所の講師として、今回の遠征メンバーの女子たちと関わってきた経緯から私もこの遠征に顧問として参加することになった。
◆顧問とは何ぞや?と思ったが、今どきの女子学生なるものは、親も学校も心配で手放しではヒマラヤなどへは出せないということらしく、山での安全のみならずネパールという(危険だと思われているらしい?!!!!)国での身辺安全の保証として私は位置づけられているようだった。何はともあれ、ムスタンは私にとっても初めての地域で、1991年に開放されたばかりの、かつての「塩の道」でもあり、河口慧海氏の足跡があちらこちらに残されている魅力的な土地でもあった。
◆登山隊メンバーの女子学生に登攀技術も海外経験もまるで無いことは分かっていたし、普段自分がやっている自由勝手な山登りとは違うということも私にとっては大きな新しいチャレンジだった。遠征出発前は、「組織」の責任を背負っているという負荷が大きかったけれど、40日間の遠征中は、彼女たちのしでかす毎日のビックリに新鮮な学び多き日々であった。もちろん、氷河やクレバスや高所も初めてだけど、ツァンパもダルバートも異民族も初めてなのだ。そんな色々に順応しつつ、未だ誰も踏まぬ頂に辿り着けたことは大きな感謝。数々の失敗と発見を糧にして、彼女たちが次世代の山ヤを育てていく存在になることを願っている。(帰国途中の中国・広州発 谷口けい)
追記)私が今回初めて目にした4つの宝(ムスタンの秘宝?):素晴らしい色彩のストゥ―パ(仏塔)、5000m以上で出会った不思議な花、6000m近くで出遭った小動物のミイラ化した死骸(この標高なのでユキヒョウだと思う)、そしてモンスーン明けの日に頭上を飛んだアネハヅルの南下編隊!
地平線通信425号(2014年9月号)、9月10日印刷・封入作業をし、翌11日メール便で発送しました。発送作業に来てくれたのは、以下の方々です。安東さんは、今回はモンゴル帰りで、草原の酒や、チーズを何種類もお土産に持ち帰ってくれ、みんなで楽しませてもらいました。八木さんは広島の被災地支援から帰ったばかり。ありがとうございました。
松澤亮 森井祐介 落合大祐 石原玲 三五千恵子 江本嘉伸 安東浩正 前田庄司 加藤千晶 杉山貴章 山本豊人 八木和美
■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、以下の皆さんです。数年分をまとめてくださった方もいます。万一、記載漏れがありましたら、必ず江本宛てにお知らせください。アドレスは、最終ページにあります。振込みの際、近況、通信の感想など「ひとこと」を添えてくれると嬉しいです。
小高みどり(10,000円)/嶋洋太郎/鰐淵渉/竹下郁代/江川潮(5000円)/高野久恵(5000円)/檜垣陽三(20,000円 5年分の通信費+1万円カンパ)/櫻井恭比古/日野和子
■植村直己さんが、冬のマッキンリーで消息を絶って、ことしで30年になる。1984年2月12日、43才の誕生日に植村さんは厳冬のこの山に単独初登頂をなしとげながら、二度と帰らなかった。地平線会議では、当時毎年刊行していた探検・冒険年報『地平線から VOL.6 1984〜85年』の表紙を植村直己さんの写真で飾り、「植村直己の時代」と題する論考を私が書いた。
◆植村さんの没後10年経った1994年4月1日、彼の故郷、兵庫県日高町(現在は合併して豊岡市)に植村直己冒険館が誕生した。地平線会議では、当時全国各地で催していた写真展『地平線発』を日高町で開催したのにあわせ、冒険館で「236回報告会・冒険の瞬間」を実行した。1999年7月24日のこと。館内敷地で野宿したのも懐かしい思い出だ。
◆その植村直己冒険館が彼の没後30年のことし、創立20周年を迎えた。記念に、関野吉晴さんたちの手作りカヌー「縄文号」「パクール号」を収容し、あわせて20周年記念イベントを実施する、とのこと。その際、市民の皆さん向けに、関野吉晴さんの記念講演等が企画され、「縄文号」(現在は敷地内にシートをかぶせて寝かせてある)も、帆を上げて特別展示される、と聞き、久々に地平線報告会をここでやろう、と地平線会議は決意した。
◆東京近辺の方には遠路となるが、この冒険館、優れて内容ある、面白い展示に溢れる。冒険館周辺の自然も素晴らしい。植村直己をあまり知らない人にとっても、興味ある人にとっても貴重な機会となるだろう。連休です。11月23日の予定を早めに入れておいてください。(E)
■目下、計画されている内容は、次のようなものです(11月22日夜は、日高農村環境改善センター多目的ホールで、市民対象の関野吉晴氏講演会がある)。
●11月23日(日・祝)
その1 関野吉晴氏寄贈のカヌー「縄文号」展示
(2009年4月、インドネシアを出港し石垣島まで4700キロの航海に成功)
その2 2013冒険賞受賞者 田中幹也特別展
極寒テントで生まれたユニークな哲学「田中幹也ひとり言」が展示されている。本人も今回参加するので直接解説も。
9:30〜10:00 開会(オープニング)
場所:植村直己冒険館中庭
秋に合ったカントリー音楽のオ−プニング演奏
10:00〜15:00 冒険館で秋を味わい楽しむ
館内 (写真展、植村語録展、寄書き等)
中庭 飲食・物産コーナー(焼きそば、地元野菜販売等)、体験・交流コーナー(ツリーイング・クラフト等)、おもてなしコーナー(お茶会、森の音楽会等)
など。
13:30〜14:10 記念式典(セレモニー)
場所:植村直己冒険館小ホール
14:30〜17:00 地平線特別報告会(タイトルなどは「仮」)
場所:植村直己冒険館小ホ−ル
第1部 関野吉晴 『「縄文号」を前に、今考えること』
第2部 極地の21世紀 植村直己の時代とどう変わったか。装備、食料などモノで見てみる
荻田泰永 北極点無補給単独到達を目指して
岩野祥子 南極観測越冬隊2回の経験を持ち、カナダ北極圏にも踏み入れている科学者。
コーディネーター 江本嘉伸
夜 民宿で地平線特別報告会第2部
昼の報告会では語り尽くせなかったチャレンジャーの思いを聞く。
★プログラムの最終案は次号の通信で。
●11月24日(月曜 振替休日)
特別展示を含む植村直己冒険館観察
冒険館のスタッフの案内で冒険館周辺の小探検
■民宿は、大広間と2階に10畳の部屋が3室ある家に「食事つき1人3000円」でお願いする予定。食事の確保のために申し込み制にします。
なお、地平線報告会では受付(参加者名の書き込み)はしっかりやりますが、冒険館がこの日は無料開放のため、いつもの500円の参加費は取らない方針です。
■申し込みは、メールかはがきで江本宛てに。
〒160-0007 新宿区荒木町3-23-201
です。
■報告会の内容や現地の受け入れ状況など、これからも刻々と変化していく情報を共有していくために、とりあえずブログを開設しました。参加しようと思っている人は、ときどきチェックしてみてください。
■一昨年の秋、「とにかく毎週、山を歩いてみよう」と思い立った。以来、自宅に近い奥多摩を中心に、ハイキングコースの日帰りからテントや避難小屋に泊まっての数日の山旅まで、時々は日本アルプスや八ヶ岳へも足を延ばし、現在まで続けている。犬も歩けば棒に当たる(当たる相手の吉凶はさておき)。「お金がないから」「他人と関わるのが面倒臭いから」とじっとしているよりは、空気が掻き回されて巡るはず……などと意識したわけでもないのだが、心の窓のくすみが多少は取れてきた気がしないでもない。
◆<彼ら>と出会ったのは、そんな旅を始めてまだ間もない時期だった。青梅線の御嶽駅から高水三山のコースを歩いた日のこと。三山最後の高水山の頂上を踏んで、直下の常福院で可愛らしい狛犬と紅葉をめでてから、膝が笑うほどの急坂を里へと下った。買ったばかりの新しい靴が合わずに痛むせいもあり、軍畑(いくさばた)駅への舗装道路をトボトボと歩いていく。と、曲がり角の向こうに、赤錆が浮いた扉に「国立奥多摩美術館」と大きく書かれた建物が見えてきたのだ。
◆目を疑った。以前から何度も通っている道だが、たしかここは役目を終えた工場のようなところだったはず。それが「国立」? 「美術館」? 扉の前にギターを抱えた男の人が立っていて、「こんにちはー」と声をかけてくれた。「いかがですか。今日が最終日なんですよ」と言うが、美術館が最終日とは、いったいどういうことなのだろう。中にあるのはどんな人たちの作品なのか。どうしてここでやっているのか。
◆聞きたがる私のために、ギターの人は奥から背広姿の若い男性を連れてきてくれた。「はい、この人が館長でーす」。ジャラーン♪とギターが鳴ったか鳴らなかったか。わかったことは、武蔵野美術大学の卒業生たちが数人で、閉鎖された製材所のこの建物をアトリエとして借りているということ。彼らを中心に、若い作家たちが集まって開いている展覧会だということ。そして館長佐塚真啓さんが登山にも親しんでいる人だということ。彼と私には何人か、共通の山好きな知人がいる、というオマケもあった。しかし一番の疑問はあまり明かされなかった。「国立って何なの?」「まあ、国といっても、いろいろありますし」
◆……結局、私はこの日、作品を鑑賞することはなかった。館内は足場が悪いというので、靴擦れで痛む足と数日前から続いている偏頭痛を理由にしたのだが、じつのところ、今の「磨り減った」自分には若手の「芸術作品」を鑑賞する余裕などないと感じたのだ。ひと目で意味がわかるもの、理屈で解釈できるもの、感性より惰性で流せるものしか、私には受け止められそうにない。悔しいけれど、そんな気がした。
◆その後も何度か「美術館」の前を通った。扉の「国立〜」の文字は貼られたままだったが、いつしか「国」の中の玉が消えて「口」になり、その次に通ったときは全部の文字がなくなっていた(ような気がする)。フェイスブックで「友達」になった佐塚さんからの発信も目にしていないし、もう「美術館」は終わりなのかな? ……と思っていた矢先のこの夏の終わり、「招待状」が届いたのだ(フェイスブックで)。
◆「国立奥多摩美術館13日間のプレミアムな漂流」。「二〇一二年開館しました本美術館も、二年という歳月、雨風に耐え、(中略)自然の猛威に脅え、更なる進化をとげてこのたびの展覧会開催に至りました」(リーフレットより)。なるほど、そういうわけか。一つの会期は終わるけれど、美術館は存在し続ける。そして次の展覧会を迎えて、またそれが始まるのだ。
◆美術館とは建物ではない。私は、ある「展覧会」が終われば間髪を入れずに次のが始まったり、「著名」な作品が常設されていたりする、大きな箱としての美術館しか頭になかった自分をののしった。<彼ら>の美術館は「会期」じゃなくても生きているんだ! さらに驚いたことに、今回参加の「今この世界を一緒に生き、漂う13人の作家たち」に、地平線会議でおなじみの関野吉晴氏が入っているではないか。
◆会期半ばの9月28日。まずは、2年近く前に<彼ら>と出会ったときのように、御嶽駅から高水三山をめぐるハイキングコースを歩き、常福院から少々荒れた急坂を下っていく。2年続けた山歩きのおかげで膝はもう笑わない。山道が終わり、集落内の舗装路を経て都道へ。美術館の扉には2年前と同じ文字が躍っていた。「国」の中の玉も復活していた。受付で発券を並んで待つほどのにぎわいだ。
◆ようやく入館して、まずはお目当てのトークイベント「美術は人のためになるのか?」を拝聴。アートの社会性を問うのかと思いきや、館長が「そもそも、美術って何?」といったことを言い出したりして、話は話者の数だけ深化していくのだった。議論が一時休戦となったところで、私は館内の作品鑑賞へと向かう。
◆彫刻、オブジェ、映像、インスタレーション……どの作品にも意図がむんむんと漂い、観る者に対話を強烈に迫ってくる。まだ磨り減っている私にもその濃厚な気配は感じ取れた。……来訪者たちから引っ張りだこの館長をようやく捕まえて、また聞いてみた。「で、国立の国って、どこなんですか?」「……まあ、日本じゃないのは確かですよねぇ」
◆館長は国立奥多摩美術館のフェイスブックサイトで今年5月、次のように述べている。「宣言したい。国立奥多摩美術館では、『美しい絵画』『立派な彫刻』は見れない。見せるのは『美術』という言葉が持っている可能性。この世界を敏感に鋭く意識化している人間からのメッセージ。『美術』という言葉に『わからない』という言葉をあてはめている人にこそ見に来てもらいたい」。<彼ら>が住むのはそういう、常に「移民」を迎え入れる態勢をとる「開かれた」国であり、館長はその国の首長なのである。(熊沢正子)
■9月13日から1ヶ月間開いていた展示会が、10月13日、無事終わりました。12人の作家による展示会で、土日だけ開場し、絵画、彫刻、映像、写真、現代アートから秘宝館に至るまで多様な分野の作品が展示されていました。パフォーマンスやトークイベント、ギャラリートークなど、毎日何かしらのイベントがありました。軍畑(いくさばた)という無人駅から徒歩で行く山里の会場にもかかわらず、千人以上の入場者がいたそうです。地平線会議の面々にも来てもらえました。
◆私の「風獣土獣図」はかなりの時間と労力をかけ、熱を持って制作しました。ズブの素人は私だけでしたが、40数年間の風の旅人人生の中で、得たものを吐き出したという軽い達成感がありました。私と彫刻家の牛島氏を除いて、館長始め30歳前後が多く、彼らの熱気に煽られながら制作ができ、評判はともかく、達成感はありました。
◆私の描いた宇宙、海、クジラ、ワニは子供が好んで描くモチーフだそうです。60の手習いとして見てもらいました。最終日はユニークな作品を作り出してきた、大家と呼ばれることを拒絶する彫刻の大家、牛島氏と若い館長佐塚と私が、若い彫刻家永畑氏を進行役として、トークイベントを行ないました。
◆私と牛島氏は二人合わせて120歳です。経済的には苦しいながらも、熱い志で作品を作り続けている若い作家たちが、馬齢を積み重ねた私たち二人に、「どのような思いで私たちを招待したのか」「30歳前後の時は何をし、何を考えていたのか」「今の若者たちに何を期待しているのか」問う形で進められました。
◆最後は前夜から24時間燻し続けた一頭の豚肉を皆でかぶり付き、エンディングとしました。観覧者の何人かは、最後のアマゾン風の豚の燻製を現代アートの作品と思ったようです。(関野吉晴)
■まず「場力」(ばぢから)が、すごいって思いました。周囲の環境循環と共に併走しながら時間軸をすごしてきた「建物」の力。新築の公民館だとかだと、こうはゆかない。都市部では、さらに不可能。こんな豊かな冗長を維持してる場は、都内にはなかなか無い。人為と環境との無理の無い共生が生み出している、ある種の美がそこかしこに活きている。「国立奥多摩美術館」と同時にタイムラグなく併走して在る渓流が美しい。近代美術館建築に付随して意匠としてつくった山水庭園では無いです。屋根の歪みに取り込まれた 落ち葉の描く情静が美しい
◆そして、アトリエ活用者らの「4年間の共生」のもたらす力。彼らの解き放たれた友愛による成果。とまることのない。これは、たんに「アート」に対する真摯な対峙ということじゃなくって、文字通りの「友愛」。ま〜『仲間』みたいな感じの意味です。で、そこを 大切にしながら、近隣との仲を、そこそこうまくやってるなって感じ。そういう息吹を感じた。ひとことでいうなら「おおらか」っていうことかな〜。もっというと「のんき」にやってる。そこがいい。業界戦略みたいなのを狙っていない。自己の道を踏みながら、ちゃんと「遊んでる」。
◆彼らの行為が、現場環境の中で「決して派手に見えない」ということがよかったです。そこに、彼らの気配りを感じました。たとえば、「実社会での行為芸術」をいい感じで歩んでる。まぁ「アーティスト主導」というのは、やっぱしいいですね。アーティスト主導というのは国民個々主導という意味でもあるんだけど。地域現場で突出(尖がらない)しないままに 育まれてゆく「夢」の活路。こうかなああかな、こっちかなあっちかな、というような迷いや思慮を、同行しながら人力で具現化が成されてゆく、その経緯を来訪者・観覧者が体感することができる現場。
◆とてもよいのは、彼らがそれぞれに凛として毅然として日々を立っているという印象。誠実真摯にちゃんと「ふざけてる」。アーティストっていうのは「じゃあ、ほかに どうしろっっていうのですか?」っていう態度を悠々と生きてゆかないといけない。アーティストの感性や生き方というのは、個々バラバラなのだけれども、そしてますますバラバラなほうがいいのだけれども、
◆同時に、人は独りでは生きれない。独りでは社会は成しえない、ということをアーティストたちは本能的に知っている。だから、必然的に共生を育んでゆく。アーティストが提示する「現実生活のバランスとハーモニー」が垣間見える。だから、ある意味で アーティストというのは超然としていないといけないです(笑)。ま、怠惰については勤勉みたいにね。そこをうまい具合に海洋の民バジャウのように、ゆらゆらフラフラ自分勝手に部族してゆくことが芸術家たちの使命。先生や国策や金持ちたちから「何様なのだ!」とか激怒されながら、ケケケのケと、「されど」の道を歩んでゆく。それが実社会ということ。
◆「生きる」という日々は ほんらい超然たる行為 自然循環の側に立場する思慮,つまり それは「ほどよい人為」が 経緯として「形」として 随所に視えて「国立奥多摩美術館」来訪者は、飽きることが無いということでもあります。一般に知られるリメイクというのではない。経年劣化をそのままに後手後手の補完をしているたたずまいが、「行為」として美しい。ある意味の潔さを感じる。人力が自然循環と向き合う謙虚な姿勢といえると想います。彼らは自然環境の猛威に対して最低限度の抵抗しか成してはいない。「これでいいのだ」という、正当な「いいかげんさ」がすがすがしい。
◆子どもの棲み家(隠れ家)のような、いい意味での「若さ」が活躍してる感じ。周囲の環境と同調しながらね。「風通しがいい」って感じ(このことは、劇団やアートイベント企画を育む経緯でとても重要だと、ぼくは思っています)。そもそも「芸術」ということは偏向と欠落の賜物だとおもいます。そして、社会文化が自然循環と併走しながら育まれ、真の進化(この言葉は妥当性に欠くと思うけど)を成してゆくためには、冗長やほころびを許容してゆくような柔軟な社会性が不可欠だとおもいます。
◆野性のままに、文化してゆく。そこから社会が育まれてゆきはしないか。画一的な一方向的な「神」(概念)から離脱し ナマナマしく「伝説」を描いてゆこうではないか。「国立奥多摩美術館」へ来訪すること。それぞれの参画者と「出会い 向き合い 語り合い」ーそれこそが社会人の社会人たる行為であり文化を育む一歩だとおもいます。傍観していた風景へと参加してゆくこと。風景に登場すること。風景の主体となること。そのときあなたはなにものからか視られ、描かれているかもしれない。(緒方敏明 彫刻家)
■ブログの更新を4、5日怠けると「生きてる?」というメールがくる。昨年心臓が止まりかけ入院して以来、インターネット見守人が増えた。私も古稀プラス1歳になり、世の人たちから介護を受ける立場になった。よくもまあ古来稀な年齢まで生きることができたものだと驚いている。地平線会議を始めた30歳代の頃「今年60のお爺さん」や「古来稀なり」の年齢は想像外だった。
◆しかしアラ古稀の賀曽利さん、オーバー古稀の江本さんら地平線仲間は相変わらず驚異的元気さを誇っている。体力だけの「地平線三バカ」と称された我々だが、私は二人とは違って金井シゲさんのような「円熟」の境地を目指し、密かに隠遁生活に入ろうとした。しかし円熟は、シゲさんのように体力があってこそ到達する境地だということが入院生活で分かった。
◆昨年の入院は救急車よりも早く奥さんの押す車椅子で入院。ここ数年で3回目となると奥さんの手際が大変よくて、ほとんど後遺症なし。退院後はちょっと休養して再び体力派に戻るべくリハビリを開始した。医者は治療を勧めるが、もうそんなに時間は残っていない。休養もそこそこに桜の季節から1日5千歩の散歩、5月にはスキー歩行で鳥海山。心臓にステントを入れたばかりの先輩が「大丈夫だよ!」と言うので一緒させてもらった。
◆昔、谷川岳衝立岩に初登ルートを刻んだ4歳上の爺さんだが軽々と登って行った。それを見たら「私だって!」という気になり、翌月からの歩数は1万歩を超えるようになった。7月に入って大好きな暑さの中、歩数は2万歩、月間60万歩になった。ここ8年ほどやっている「猫の手クラブ」の桃ブドウの中山農園の作業も半減して「歩け歩け」に励んだ。
◆夏に入って50mなら走ることができるようになったので、休んでいたオーバー60歳のサッカーを再開。前には賀曽利君を誘って時々試合をしていたが、今は週1回のペースだ。調子が上がってサッカーはここ毎試合得点している。年寄りサッカーでも得点はなかなか難しい。そして10月、毎年お正月に国立競技場で行われる東西対抗サッカー、「東京代表に推薦したよ!」との連絡が入った。
◆国立はオリンピック用に改修中なので来年は味の素スタジアムとのこと。サッカーの代表は55年ぶりだ。何を隠そう(隠していない)私は高校のころ関東大会の東京代表だったのだ。せっかく円熟をめざしたが、再び「お正月に味スタで得点を!」という目標ができてしまった。賀曽利君に「一足先にサッカーの聖地に行くので再来年はおいでよ!」と挑発するなど、まだまだ円熟にはほど遠い毎日になってしまった。
◆地学をやっていたのなら、御嶽山の噴火について、広島の土石流について、もっと社会的な発言をしろ!と言われそうだが、古稀の人間はどうも自己中で、こんな近況報告しかできません。申し訳なく思っています。まあとりあえずお正月のサッカーまでは自己中でがんばるぞー!……奥さんがそばで「なに言ってんのよ!」とお怒りの様子です。(三輪主彦)
御嶽山がたいへんなことになっている。いまさら陳腐な言い草だが、地球という巨大な物理的塊のパワーに、人間のなんと小さなことか。私にとっては特別に懐かしい山だから、ことさらリアルに「恐い」。
親の転勤で中学時代を木曽の小さな学校で過ごした。二年生の時、学年登山で先生に連れられて白い綿のトレパンに麦わら帽子で登った。人生初の3000m峰。ハイマツに驚いた。蒼く濁った火口湖に驚いた。校長先生のゲートル姿が白黒写真に残る。かようにたいていの信州っ子は、中学時代にそれぞれの「地元の名峰」をモノしているのである。あの県の子供にとっては、思春期の通過儀礼だ。
あれから50年になった昨年、学年の有志(つまり全員63〜64歳)20人ほどで「半世紀、見守ってくれてありがとう」の思いをこめて「お礼まいり」に登ったばかり。日程も昔と同じ7月に設定したから、青空もハイマツも昔のまんま。今回の惨劇の現場となった八丁だるみから剣が峰に至るルートを、各地からやってきた「御嶽講」の信者さんが白装束の集団で「六根清浄」を唱えながら登っていたのも昔と同じだった。
そんな場所での今回の噴火遭難。不条理を感じるが、同時にあることに感慨を覚えた。遭難報道の中で、犠牲者や目撃者に何人も「カップルで登っていた」人がいるのである。中学登山ではついぞ見かけなかった人たちだ。で、ここから先、不謹慎ながら前回、このコラムで触れた「出かけるオトコ、残るオンナ(とその「ルサンチマン」)」というテーマに照らしてみると、なんとも時代の流れを感じずにいられない。
半世紀前、学校登山や「講登山」以外で、3000mに登る女性はそうは多くなかった。(女人禁制、というルールも一部にあったしね)。山岳部でも山岳会でも女性は少数派。男女ペアで登る、という発想はまずなかった。今日のカップル登山の背景にはもちろん、ルートの整備や情報の充実、装備の向上で山が「屈強オトコだけのものではなくなった」、ということがあるけれど、「夫婦、恋人、楽しみは一緒でね」という行動規範の普及があるのではないか。
「亭主が定年退職したら女房と旅行に行く」という「お約束」ができたのは、おそらく昭和50年代からだ。昭和56年、国鉄(現JR旅客会社)は「フルムーン」企画を発売する。中年以上の人なら、往年のスター、上原謙と高峰三枝子が熟年夫婦に扮して旅するテレビCMを思い出すはず。うれしはずかし、「苦労かけたね」「あなたこそおつかれ様」という夫婦関係を、旅行資本が設計したのだ。
が、ほぼ同じ時期に「ナイスミディパス」という国鉄商品が出たことをご存じか。これは「30歳以上の女性が、2人、または3人で旅行するのにお得」という設定で、たしかまだ若かった野際陽子サンが、帽子にドレス、ハイヒールというスタイルで女友達と「うふふ」という感じで出掛けていたっけ。70年代、アンノン族として(この言葉、知らない人は検索してね)旅を経験した女性たちが長じて、つまり家庭持ちになって「女性同士」旅することがおおっぴらな商品になったわけ。
ところが、このサービスは平成20年に終了する。なぜか。「女同士で旅行?当たり前じゃん」ということで、商品として推進するまでもなくなったのか。あるいは「どうせならカレシと旅行するもーん」と、商品として陳腐になったのか。一方でフルムーンは今も健在。これまた、よく売れるからなのか、そうでもしないと熟年夫婦は旅に出てくれないからなのか。
いずれにせよ、「カップルで旅行・登山」は当たり前となった。そのモデルはおそらく欧米の「旅をするのも一緒でなくちゃ」というカップルカルチャーだろう。 幕末の開国で、横浜に欧米の商船が出入りし始めた時、船長が妻を伴って上陸したことは驚きの目で迎えられた。漱石の描く「三四郎」では、熊本から初の上京途中、浜松で白人の夫婦が手を取り合って歩くのを目撃、「ああ、美しい」と感嘆する場面があった。日本山岳会の提唱者として知られるウェストンは、夫人とともに日本の山々を渉猟した。彼らが彼らの社会で上層部に属していたことも、「けっこうな身分の方は夫婦(恋人)ご一緒」と見られ、階級的な憧れがあったのかもしれない。
50年前の中学登山は、「先生に連れられた田舎の子供同士」の行動だった。昨年夏は、社会の波にもまれてきて、ちょっと疲れて「オトコ・オンナの現役を離れた60代」の旅だった。二回とも「○○さん」呼ばわりはなくて「○○ちゃん」呼ばわりである。そういう山旅もすがすがしくていいものだ、と思う。同時に、初々しい恋人たち、信頼深い夫婦、そうした人生の盛りのカップルがあの噴火に消えたと思うと、切なく、惜しく、悔しくなる。
さて、「比較的やさしい3000m峰」と言われながら実は「活きた火山」でもあることが露見した御嶽は、噴火のとたんに「カップルで登る」対象どころではなくなった。火山は極端な例だが、世の「ご一緒規範」の広がりの中、「自然の、あるいは社会の危険があるかもしれない=その分個性的・刺激的な旅」はまだまだ「ご一緒モノ」とはされにくい。オトコが勇躍、単身で、あるいはオトコ同士で挑むのだ(とされる)。ではそのボーダーはどこにあるのか? これって、実は案外グレイじゃありません?
というわけで、この項折りあれば再び To be continued。(北村節子)
■フロント原稿に関連して、自分の若き日のこと。1960年11月16日、はたちになったばかりの大学3年当時の日記。「串田先生の家へ十人ほどで行った。奥さんと笛で合奏してくれた」もう半世紀以上になるのか。串田孫一先生は、東京外国語大学で当時確か「倫理学」を教えておられた。それ以上に山岳部の部長だったので若い分際で何かとお話させてもらった。「誰が書いたかわからない不気味さ」など、無署名責任回避的新聞記事批判などユーモアをまじえた独特の発言が印象深い。
◆その2日後の日記。「深田久弥氏宅を向さんと訪問した。なんといい人だろう。話を聞きながら地図や写真を見せてもらいながら、もう眼の前にヒマラヤがあるような気がした。」(11月18日)。日本百名山で有名な深田さんは『ヒマラヤの高峰』という名著でも知られる。当時共同通信の記者だった向一陽さんは、外語山岳部の黄金期をつくったひとりで、その後はアマゾン探検、アタカマ高地探検などエネルギッシュに活動した。地平線会議をつくるにあたっても、西堀栄三郎、今西錦司さんら多くの学識豊かな先達から応援を受けた。もちろん、著名な学者だけが素晴らしい、というのではないですよ。
◆「江本さん、犬は?」と、先日、田中幹也君のお祝いの会で久々に会った山野井泰史さんに聞かれた。いや、前のはもういなくて……と言うと「知ってますよ、麦丸でしょ?」。そうだ、彼は地平線通信を読んでいるのだった。何年か前、奥多摩の今の家に引っ越した際、以前あげていた先代のわんこ、くるみと雪丸の写真が新居の壁に貼られているのを、「山と溪谷」の山野井夫妻特集で見て感激したことがある。ひそかに用意していた麦の写真をあげました。妙子さんも元気だった。ふたりは動物好きなのである。(江本嘉伸)
素朴なギモンの深層
「誘致に賛成して恩恵を受けるはずの地元から、“なんかヘン”という声が聞こえてきたんだよね」と言うのはジャーナリストの樫田秀樹さん(55)。夢の超特急と謳われるリニア新幹線計画に違和感を覚えたのは、実験線を受けいれた山梨県の不協和音を耳にした'99年頃でした。 マレーシアのサラワクで、先住民の声を軽視した森林大規模開発問題を長年追っていた樫田さん。このときも、大きな力に対して上がった小さな声が気になりました。「取材してみたら、一民間企業の計画としては非現実的に見えた。その後動きも沈静化したから忘れてたんだけど…」。'07年に「まさかの」リニア営業方針明記。以後JR東海は実現に向けて説明会等を開始します。 「これから30年以上にもわたり今の段階で9兆円かかる大プロジェクトなんだから、地元はもとより国民の合意をとるのが当然だと思う。それが全然できてないまま、耳をふさいで突っ走ってるように見える。どこか、原発と同じ匂いがするんです」と樫田さん。情報公開と意見交換をナゼしないの? 理があるなら堂々とすればいいのに? でも大手マスコミはこの素朴なギモンに共鳴していません。 この9月『悪夢の超特急リニア中央新幹線』を上梓した樫田さんをお迎えし、ジャーナリストとしての生き方とリニアの話を伺います。 |
地平線通信 426号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:森井裕介/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐 加藤千晶 福田晴子
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2014年10月15日 地平線会議
〒160-0007 東京都新宿区荒木町3-23-201 江本嘉伸方
地平線ポスト宛先
pea03131@nifty.ne.jp
Fax 03-3359-7907 (江本)
◆通信費(2000円)払い込みは郵便振替、または報告会の受付でどうぞ。
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議
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