9月10日。大阪以西は30℃を越す真夏日というのに、午前10時の東京の気温は、23℃。北海道白老町では250ミリの豪雨。相変わらず、気象災害と隣り合わせの日本列島だ。昼過ぎ、小石和男君から電話。「意外にボランティアが少ないんです。今日は予定していた人数が揃わなくて……」。広島市安佐北可部東6丁目の大規模土砂崩れの現場からだった。
◆自分に何かできることはないか、と9月6日夜、長野県松本の自宅から車で12時間かけて現地に入った。県外者だったが、RQ関係の人が先に拠点となる宿舎を確保し、手伝っていたので、現場入りを許された。しかし、すぐには被災地がどこなのかわからない。「ごく普通の町並みで、どこで何があったのか、簡単にはわからないんです」。
◆階段状に新興住宅地が建ち並ぶ、東京のどこにでもあるような町並み。それがひとたび、土砂災害に巻き込まれた住宅の現場にたどり着いてみると、目をおおう悲惨さだった。どうやってこれだけの泥を除くことができるのか、息を呑んだ。難しいのは、3.11の現場と違って、通り一本離れた住宅地や商店街では普通の暮らしが続いていることだ。大型重機や車両を乗り入れ、町や通りを根こそぎ片付けるなんてことはできない。車を通れるようにするまでが大仕事なのだ。
◆家一軒一軒がそれぞれ独立した被災現場と考えたほうがいいのだろう。小石君の仕事も、一軒ごとの事情を聞き、何人、どんな仕事をするボランティアが必要かを聞くことだったらしい。大量の雨と土砂に襲われ、埋まった住宅や道路は、この先どれほどの時間がかかるか見えないほどのレベルだった(広島の被災地支援については、8ページ参照)。
◆カメラマン兼環境活動家のようなことをしている小石君とは、RQボランティアで知り合った。最近は地平線にも顔を出すようになり、先月はこの通信の発送作業を手伝ってもくれた。彼の話を聞きながら、3.11とは違ってこのレベルの災害は、今後もあちこちで起きるのではないか、との思いをあらためて強くする。
◆山国日本では、家も傾斜地に建てるしかないことが多い。日頃から身を守る、いのちのことを考える発想を身につけて生きることがいかに大事なことか。たとえば、再来年、2016年から実施される国民の祝日「山の日」(毎年8月11日)では、実はこういう視点が重要なのではないか、とつくづく思うのだ。
◆おととい夜、楢葉町からいわき市に出ている渡辺哲君からメールが入った。「江本さん、こんばんは。国道6号の通行止め解除が9月15日(月)となる見込みです。次に来られる時は真っ直ぐ南相馬方面に行ける事となりました。取り急ぎご連絡までです」おおっ! ついに6号線が通れるようになるのか。
◆原発事故で帰還困難区域となった双葉、大熊、富岡の3町は、海沿いの国道6号線でつながれていた。それがあの事故以後、業務車両以外の一般車両は完全に通行を禁止され、わずか14キロの距離をはるか北東の川俣町、飯館村をまわり道して(4時間はかかった)南相馬に出ていのだ。その規制を国が15日に解除する方針を決めたらしい。らしいというのは、まだ地元紙の報道だからだが、多分大丈夫だろう。3年6か月ぶりに全面開放される6号線の復活は、福島だけでなく東北の被災地を結ぶ道としても素晴らしい。
◆日本中がテニスプレーヤーになってしまったこの2日間。錦織圭の全米オープン快進撃に大方の無節操なにわかファンは、24才の若者の優勝を9割方信じ、WOWOWの「15分でスピード契約できます」サービスに殺到したが、世の中甘くはなかった。決勝では、198センチのクロアチアのチリッチ(25才)に0-3で完敗し、WOWOW(なぜかここしか中継しない)を契約して早朝6時からの決勝を声援していた人々は、次の錦織の勇姿を見るまで無数の洋画を見て英語力をつけるしか能はなくなった。
◆そう。マッチごとに伝えられた錦織の英語は素晴らしかった。言葉としての英語を自然に身につけているので、インタビュアーが安心して質問しているのがわかった。「国際ビジネスコミュニケーション協会」という組織がまとめた2013年の各国の平均スコアによると国際的な英語能力の試験TOEICで、日本人の平均スコアは512点。48の国・地域中40位なんだそうである(1位はバングラデシュの895点。2位はインド861点)。イチロー氏もこの件については圭君に学ぶべし。
◆いま、とても気になること。スコットランドが今月18日、英国からの独立の是非に関する住民投票を実施するというニュース。北海油田の利権が背景にあるらしいが、どうなるか。(江本嘉伸)
■424回目の地平線報告会は、8月16日に27歳になったばかりの冒険家の関口裕樹(ゆうき)さん。5月の報告会で、話し手の田中幹也さんに憧れる若者として登場した人物だ。関口さんが「冒険家」になろうと決めたのは16か17歳の頃。当時から今日に至る10年間を振り返って話したいと思います、という出だしで報告会は始まった。
◆幼いころ、母子家庭で育った関口さん。母親は働きに出ていたため、おじいちゃん子だった。そのおじいちゃんもカナダ北極圏に出かける前に亡くなり、現在は家族構成としては母親と2人である。小学校のときはサッカー少年で、チームではキャプテン。中学校で始めた空手は地元山形県では無敗で、すべて優勝。ところが全国大会の2回戦で日本一強い中学生とあたり完敗。それ以降、空手はなんとなくやめてしまった。目標を見失った関口さんの、何かをしたい、という強い思いに「冒険」のイメージがピタリとはまる。そうだ「冒険家」になろうと思った。しかし冒険って何だ?
◆誰かの話を聞いて憧れたわけではなく、興味も知識もあったわけではない冒険。まずは冒険とは何かを調べるために学校の図書館にあった冒険関連の本を片っ端から読んでみた。印象に残ったのは、永瀬忠志さん『サハラてくてく記』、池田拓さん『ビーグル海峡』だ(池田拓さんは関口さんと同じ山形県出身の旅人。北米横断、南米縦断を単独徒歩した後、26歳で事故で死去。今回のレポーター坪井は南米で出会ったことがあり、この名前があがったことはうれしい)。山野井泰史さん『垂直の記憶』、平山ユージさん『ユージ・ザ・クライマー』。凄い衝撃を受けた。この時期にたくさん一流の人の本を読んだことは、わからないなりに自分にとってプラスになった、という。
◆ともかく何をするにしてもお金がいると思い、高校時代はアルバイトして将来のための資金を作り、同時にマラソン、筋トレ、などで体も鍛えている。わからなくても動く。動くと次の目標が見えてくる。関口さんの姿勢はぶれず、高校を卒業するとすぐに徒歩日本縦断の旅へ踏み出した。2006年5月、北海道の宗谷岬からスタート。基本は野宿と決めたが、初日は野宿がとにかく怖くてほとんど眠れなかった。初めての旅は沖縄の喜屋武岬まで2715キロ、109日間の徒歩旅だった。
◆翌2007年、自転車による日本一周。いずれは世界に出ると決めていた関口さんが、スキルを身につけるための旅。2008年韓国徒歩縦断。ソウルからチェジュ島。2009〜2010年、雄大な自然の中にテントを張りながら自転車でオーストラリアを一周。最高峰コジアスコにも自転車で登頂した。オーストラリア人は自転車を止めると、すぐに心配して車が止まってくれるほど親切な人たちで、出会いはいい思い出になっている。
◆関口さんはオーストラリアから帰国したころからブログをはじめ、現在はFacebookに記事も書く。ただ自分のルールとして、現地からの発信は絶対にしない、と決めている。困難なルートを行くときにメールなどに気をとられると、成功の可能性が下がる。行動する人がネット配信するのは当然という現在の風潮の中で、自分は冒険の質を下げるような行為はしたくないし、みなさんにも考えてもらいたい、という。
◆2010年台湾徒歩縦断。台湾は徒歩に加えて玉山(新高山)にも登る。確実にキャリアは重ねているはずなのに、この頃からやる気がしなくなってきた。例えばオーストラリアを自転車で一周すると、周りは大冒険と言ってくれる。でも実はそれは時間をかければできる。誰でも出来ることをやるのは冒険家として矛盾してはいないか、と、思うようになったのだ。
◆近年、関口さんは真冬の北極圏や真夏の砂漠に挑戦しているが、その大きなターニングポイントとなったのが、田中幹也さんをHPで知ったこと。厳冬期の過酷な自然条件のカナダに、自転車やソリを引いての徒歩などで一人挑む。冒険の成功率の低い悪条件の中で自分の限界まで全力を出し切る。結果大きな凍傷を負って帰国する。読んでいて胸が熱くなった。自分がやりたかったことはこれではないのか。幹也さんの辛口と言われるコメント。それはまさに自分の話したかったこと。今まで自分が言語化できなかったイライラを幹也さんが自分の代わりに言ってくれている。
◆今の自分の冒険哲学の根底には田中幹也がいる。でも幹也さんと同じようなことをするには、自分には寒さに対する経験がない。そこで2011年、冬の北海道を自転車で走ってみた。スパイクタイヤを履くと、まったく滑らない。ところがマイナス20℃で足の指が凍傷に。今思えば、寒さに対する装備がまるでわかっていなかった。ここで話は日本での生活についてに。
◆高校卒業後、関口さんは就職していない。23歳から支援してもらっているスポンサーは、現在9社に。ただ支援はモノがほとんどで、活動資金は主に夜のアルバイト(某大手牛丼屋)で稼いでいる。関口さんいわく、日本の登山界・冒険界はスポンサーに関しては否定的だという。自分が好きでやっている冒険を仕事にすべきではない、という風潮がある。でも自分はスポンサーを肯定的にとらえている。優秀な人間にスポンサーがつくのは当然で、もっと冒険者の社会的地位を上げ、冒険に集中できる環境を作っていかないといけない。
◆自己資金でやるのが美しいと思うのなら、それはそれでいい。でも自分は24時間、365日、冒険のことだけを考えていたい。ここにいる人たち全員にこのことは考えてもらいたい。常に冒険について考え続けてきた関口さんだからこそ言える強い言葉である。ちなみに冒険から帰ってきたら住所不定だった関口さん。現在は登山家の大内尚樹さんの経営するアパートに、冒険中は家賃はいらない、という好条件で住まわせてもらっているそうだ。
◆2012年、厳冬期アラスカ自転車縦断。州都アンカレッジから北極海のデットホースまでの1400キロ。冬季は世界でまだ誰も完走していないが自分ならできる、と挑戦するも700キロ地点でリタイヤ。足の指が凍傷になったこともあるが、本当の理由は恐怖で、圧倒的な自然の力を感じ、その場にいることがもう耐えられなかった。ただ凍傷は勉強で防げると再起を決意。「凍傷は寒いからなるのではなく無知だからなる」は、極北サイクリストの安東浩正さんのアドバイスだ。
◆日本にいるとき、関口さんはクライミングをトレーニングとして取り入れている。クライミングは偶然出会った登山家、柏瀬祐之さんに教えてもらった。柏瀬さんは難易度だけが基準だった登山界にインタレストグレード、面白いか面白くないか、という基準を作り出した人。登山において最低の安全確保はするが、後は好きにやらせてくれる。上から命令されるのがイヤな関口さんには最高の師匠だ。
◆そして2013年厳冬期、再びアラスカへ。冬のアラスカは緯度が高いため日照時間が極端に短くなる。おまけに一晩で自転車が埋もれて消えるほどの雪。坂のアップダウンも激しく、楽なはずの下りもこの気温下では耐えがたいほど寒い。マイナス20度前後だった気温は分水嶺の峠を越えた途端に一気にマイナス44度にもなる。道の終点デッドホースには石油基地があり北極海は見ることができない。でもゴールは自分で決めればいい。
◆こうしてついに厳冬期自転車アラスカ縦断は達成したが、ひとつだけどうしても納得できないことがあった。何が何でも到達したい、という思いが強く、現地の知り合いに補給をお願いしたことだ。補給はズルで、美しいスタイルではない。その件は今も悩んでいる。2014年、徒歩厳冬期カナダマッケンジー河、400キロ。23日間徒歩。凍って道になった川の上をホームセンターで購入したソリを引いて歩く旅。途中でかつて植村直己さんの北極圏1万2000キロを現地支援した方の親族と出会い、自宅で植村さんの遺品を見せてもらう。
◆そしていよいよ「プラス50℃の世界」。本日のタイトル、「ギャップ100℃の恍惚」の、もう一方の世界だ。ただ関口さんの厳冬期冒険のキャリアから、この挑戦には周囲から疑問の声が聞こえてきた。しかし違うのだ。関口さんは失敗を恐れずに厳しい自然に挑戦して、自分の限界を追及したいだけ。暑い寒いは関係ないのだ。こうしてラスベガスをスタート地点にして760キロ、デスバレー自転車の旅が始まった。デスバレー最深部は海抜マイナス86メートル。意外にも、世界で最も暑い場所の一つは北米カリフォルニア州にある。今回の旅は水が生命線なので、自転車の前輪両脇に18.75リットルのボトルをとりつけた。
◆ラスベガスから気温40度の中を進んでいくと、数時間で熱中症になりゲロを吐く。自信はあっというまに打ち砕かれた。さらに核心部に迫る坂をくだると気温は10度も上がり、50度に。気絶しそうになり岩陰に避難した関口さんは、そのまま12時間日陰から動けなかった。普通砂漠は温度差が激しいものだが、デスバレーは深夜12時で気温がなんと42度。朦朧とした意識の中で見た月と星空が妙に鮮明に記憶に残っている。翌日、もう自転車に乗れず、ひたすら押して、デスバレー内にあるビジターセンター、ファニースクリークにたどり着く。ここで静養し、なんとか残りも走りきったものの、暑さには最後まで対応しきれず、いくら休憩しても体力は回復しなかった。
◆「ギャップ100℃」の話はここまでで、残りの人生をかけて北極冒険をしたい、と語る関口さん。今自分に足りないのは語学力だと感じ、春からはフィリピンに英語留学する予定だ。
◆今回の報告会、正直、冒険という言葉の連発に最初は違和感を覚えたが、24時間365日冒険のことだけを考えていたい、とまで言い切られると、逆にすがすがしくて気持ちよかった。実際関口さんは自分に欠けているものを常に探り、目標に向かって最短コースで進んでいる。同じ土俵には立てなくても、地平線会議は関口さんが投げかけた問いに応えられる貴重な場であり、参加者は単なる観客ではなく、報告者の対戦相手でもあるべきと感じた。(熱射病を克服する方法を知りたい。暑さには強い、坪井伸吾)
■「母が未婚でシングルマザーの家庭で育ちました」。そんな話題でスタートを切った僕の地平線報告会。その後も過去の冒険のスライド説明と合わせてスポンサーを付ける事や冒険をウェブ配信する事の是非、死生観について等、普段思っててもなかなか言えないような話題も一切の遠慮無く言いたい事を話させてもらった。会場にいた人に僕の真意がどこまで伝わったか分からないし、一部の人からは極論とも捉えられたかも知れないが、個人的には言いたい事が言えたと思っているし、そういったディープな冒険論が言えるのが地平線報告会の魅力だとも思っている。
◆報告会後も濃い時間が続いた。二次会の会場では冒険についての核心的な質問を受け、帰宅してからもレポートを書いて頂ける坪井さんからの鋭いメールインタビューを受けた。そしてそうした質問の一つひとつが自分にとっての冒険をより一層深く考えさせてくれるきっかけになり、そういった意味でも今回の報告会は多くの事を得られた素晴らしい場所だった。
◆それと僕が死生観について話したからだろうか。普段からよく「関口君って死にそうだよね」「関口君死なないでね」とマジ顔で言われるが、今回も来場してくれた人から同じ様な感想を言われてしまった。だけど僕にはまだまだ叶えたい夢ややりたい冒険が無限にあり、その為にも僕は全力で生き続けます。高校生の時から始まった冒険家人生はずっと変わらずにこれからも僕は冒険の為に生き、冒険が僕を生かしてくれるんです。最後に当日会場に来て頂いた方ありがとうございました。(関口裕樹)
■2011年の6月に3年がかりの航海で石垣に着いた「縄文号」と「パクール号」は上陸以来武蔵野美大、科学博物館に展示した後、分解して武蔵野美大のグランドの片隅に、テントにくるまって寝ていましたが、二艇とも7月に旅立って行きました。行き先は兵庫県豊岡市の植村直己冒険館です。いずれは別館ができた時に展示される予定です。当面は分解されたまま保存してもらいます。11月に一時的に縄文号のみ本館で展示してもらいます。2月の豪雪や初夏の大雨でテントが壊れてしまい、かなりダメージを受けました。もう二度とこれらのカヌーで航海することはないと思います。やっと嫁ぎ先が決まってホッとしているところです。
◆8月に13年ぶりに一家揃って家族旅行をしました。目的地は南部アフリカです。南アフリカ、ジンバブエ、ナムビア、ザンビアに行ってました。以前の家族旅行の時小学4年生だった娘は22歳になっていて、だいぶ役に立つように成長していました。「父はなくても子は育つ」と言うけど、本当ですね。行く前にエボラ出血熱は大丈夫かと心配されたのですが、流行していた西部アフリカには入りませんでした。久しぶりにのんびりした、ほのぼのとした旅でした。
◆最近は、奥多摩の軍畑にある奥多摩美術館での展覧会に出展するための作品作りに追われています。7月はじめ、美術館を運営している卒業生たちがムサビの私の研究室にやってきました。「関野さん、絵を描いてみませんか」と言います。「絵は描けないし、美大にいるとはいえ、高校生の時以来、絵を描いたことはないよ」と告げたのですが、「絵が下手なのは分かっています。だから頼んでいるのですよ。上手く描こうなんて絶対に思わないで描いてください。お願いします」というので、「写真ではダメなのか」と尋ねると、「写真を使ってもいいけど、絵の具で絵も描いて欲しいんです」。
◆長野画伯のようにスラスラと描ければ喜んで引き受けるのですが、犬を書いても、これ猫じゃないのと言われるほど、絵心がありません。「無理だよ」と、一旦断ったのですが、「是非描いてください。下手なだけに人の心を動かすものが描けるはずです」と説得してきました。「しばらく考えさせてくれないか」と言って別れましたが、その後も彼らに、「関野さんが絵を描いたらきっと面白いですよ。下手でもいいものができますよ」とおだてられ、「写真を主にして、少しだけ絵を描けばいいか」と思って作品を作ることにしました。「でも、描くならば、真剣に描いてください」と、おだてる割には注文も多いのです。
◆写真展は何回も試みましたが、知らない人に絵を見せることになるとは夢にも思っていませんでした。美術館スタッフと相談しながら案を練っていきました。結局出来上がりつつあるのは「風獣土獣図」です。俵屋宗達の「風神雷神図」をもじったものです。風獣は同じ個体が極南北から熱帯までまたにかけて回遊するクジラ、土獣は生まれた川から絶対はなれないワニを、それぞれ一体ずつ厚い合版に描き、切り出しました。およそ2メートルあります。
◆それに絵の具で色を塗りました。4×5メートルの壁面の上部に絵の具で宇宙を描き、中下段には私が今まで見てきた光景の中で、地球を感じた写真を三十数枚パネルにして展示します。その壁面の前にクジラとワニを対峙させます。風獣と土獣で地球の風土を作ります。地に足のついた土獣世界は空気が澱んできますが、風獣がそのよどみを一掃してまた旅立って行きます。
◆その二獣の周囲に500枚、私が四十数年間で出会った人々の顔写真をパネル貼り、一枚一枚別々に配備します。最近は毎日のように奥多摩の美術館に通って作業をしてますが、他の作家から「関野さん、楽しそうですね」と言われています。新しいことをやる時って結構夢中になり、おもしろいものです。
■青梅線軍畑駅から歩いて10分、高水三山の登山上り口を登って行ったところに、古い製材所を改修した国立奥多摩美術館があります。9月13日から10月13日まで、土日祭日の正午から午後8時まで展示しています。時間があったら、高水三山をハイキング(3〜4時間)がてらでも、見に来てください。(関野吉晴)
■兵庫県豊岡市の植村直己冒険館では、来る11月、開館20周年行事にあわせて、冒険館敷地内で縄文号を公開、関野吉晴さんの記念講演等を企画しています。この企画に地平線会議も協力、まだ実物の縄文号を見たことのない仲間、あるいは植村直己冒険館自体を是非見てみたい、という人たちを中心に、久々に冒険館に集まろうと考えています。期日は、11月23日の祝日。植村直己冒険館での開館20周年記念事業が前日の22日に地域の住民を対象として少し離れた日高農村環境改善センタ−で行われますが、私たちは23日に冒険館に集結するつもりです。詳細はこれから決まりますので、とりあえず予定しておいてください。
目下、計画されている内容は、
23日(祝) 植村直己冒険館
9:30 オープニング
館内見学(無料)
カヌー、植村関係の展示物紹介
11:00 記念式典(中庭)
・あいさつ
・経過報告
・記念ミニ講演会(関野吉晴氏)
カヌーの横で「海のグレートジャーニー」をテーマに。
13:30 地平線会議との連携催し(予定)
となっています。催しの内容は未定。焼きそば、おでん、玉子かけご飯、焼鳥などの飲食ブースも開店する予定です。
交通手段、宿泊場所などについては来月の地平線通信で。
■地平線会議では、1999年7月に写真展『地平線発』を日高町(合併前の)で開催してもらったことがあり、その際7月24日には冒険館で、第236回地平線報告会を開きました。今回の試みは15年ぶりのこととなります。(E)
■地平線通信424号、8月13日印刷、封入を終え、翌14日、メール便に託しました。お盆の時期と重なり、頼りとする常連の皆さんの多くが参加できず、SOSメールを出して、協力をお願いしました。多くの皆さんが駆けつけてくれ、助かりました。本当に。汗をかいてくれたのは、以下の方々です。ありがとうございました。新垣さんは屋久島から、山中さん、小石さんはエコセンとRQの縁で来てくれました。
武田力 森井祐介 新垣亜美 福田晴子 石原玲 小石和男 山中俊幸 前田庄司 坪井伸吾 江本嘉伸 関根皓博 八木和美
■旅の漫画を描いています、河村です。地平線会議では、いつも多くの方と出会え、いろいろと刺激を与えていただき、このような機会を与えてくださりありがとうございます。先日、地球の歩き方ムック主催の「第1回『今、こんな旅がしてみたい!』コミックエッセイ大賞」で優秀賞に選考されたと連絡がありました。以前江本さんにお渡ししたアマゾンの漫画での受賞です。とても嬉しいですが、まだこれが仕事に直接つながるというわけでもないので、これをステップアップのためのいい機会ととらえ、今後より一層努力して、世の中に認められる作品を描いていきたいと思います。いつか地平線会議でアマゾンの話を発表できるよう、がんばりますので、今後ともよろしくお願いいたします。とりあえず報告させていただきました。(河村太郎 漫画家)
■僕は、2年ほど前からリニア中央新幹線の取材を進めていました。マスコミでは「時速500キロ。夢の超特急」との報道が多いリニアですが、報道の通り、環境アセスの手続きもほぼ終わり、今年の10月にも着工されるかもしれないところまで来てしまいました。しかし、この計画は日本史上最大の環境破壊を生むかもしれないのに、JR東海というスポンサーに「配慮」するマスコミはほとんどその問題を報じません。問題点を整理すると、
★長野県の諏訪湖を埋め立てることができるほどに膨大に発生する建設残土はどこで処分するかも決まっておらず、
★かろうじて決まっている静岡県では、大井川上流部と南アルプスの標高2000メートルの稜線に残土が積まれ、
★山梨県の実験線の周辺だけでも、トンネル工事の影響で、既に、いくつもの川や沢が枯れ魚が一匹もいなくなり、
★長野県の小さな村では、工事が始まると一日最大1736台の大型工事車両が12年間も朝から晩まで走り抜け(1分間で3台以上)、
★南アルプスには史上初めて25キロという長大なトンネルが掘られ、膨大な異常出水が起こり、
★全区間でおそらく数百世帯が立ち退かされる。
■ところが、マスコミが報道しないのは分かるにしても、フリージャーナリストでも報道するのはほぼ私一人という信じられない状態です。また、南アルプスに残土が積まれ、長大なトンネルが掘られることに異を唱えるアルピニストにはほとんど会ったことがありません。どこかの山岳会が「見直しを」と声を上げた事例は1団体を除いて知りません。山を愛する人たちよ。声を上げてほしい!
◆総工費9兆円という、2014年にして早くも21世紀最大の超大型事業と断言してもいい事業へのこの沈黙はなぜなのか。原発は、事故が起こったからマスコミもフリーも現地でその後の情報を丁寧に伝えている。それはそれでいいのです。しかし、誰かが死ぬ、とんでもない公害が起こる……といったことで初めて重い腰を上げる日本政府と同じく、フリーも一般住民も、着工前のリニアには極めて関心が薄いようです。要は本質が見えているかどうか、だから行動するかどうかなんですけどね。その本質を見極めた人たちこそ、報道されずとも、爆発前から反原発を淡々と主張していました。リニアの取材を通して、初めてそういう人たちを尊敬することができました。
◆僕はあちこちでリニアの記事を書いていますが、どうやらJR東海からは要注意人物にされているらしく、今、取材拒否されております。また、これはJR東海の圧力ではないのですが、印象的だったのが、今年の3月。それまでの取材をまとめて、ある出版社からリニアに関する単行本を出す予定でした。実際、3000部が印刷され、来週にはさあ書店に並ぶというタイミングで、その出版社の上部団体である某大学が「この本の意図が大学の意図と思われるのは困る」とのJR東海に「配慮」した理由でもって、出版停止と相成りました。
◆えー、そんなことが小物のオレに起こるのかよと驚きつつも、それからは、その出版社の方々も「申し訳ない」と協力してくれての再出版先探しが始まりました。しかし、いくつもの出版社に当たれども当たれども反応は鈍く、ここなら間違いないという出版社でも「世に知られていない問題だから売れる部数が読めない」と契約には至りませんでした。「世に知られていないから出版すべきじゃ」とも思いましたが、出版社にすれば売れなかったら社員が食えないから仕方ないのです。
◆ところが8月上旬、「これはもう無理かな」と諦めかけたときに突然出版先が決まりました。それも、出版停止となった本が断裁される前に引き取った10冊のうちの1冊をある出版社の社長に見せていたのですが、翌日に社長じきじきに「出版します」と連絡をくださったのです。その即断には驚きと嬉しさを同時に覚えたものです。
◆3月からの半年間の出来事を加筆し、先週、最終ゲラができました。9月中旬、「旬報社」から『悪夢の超特急 リニア中央新幹線』とのタイトルで書店に並びます。JR東海はその本を「事実誤認が多い」と言うかもしれない。しかし、本を出すには目的があります。今回の場合、その最大目的はただ一つ。これだけの巨大事業なのに、まだ一度も賛成派や反対派、有識者、自治体、JR東海が一堂に会する公開討論会が開催されていないのです。
◆JR東海は住民説明会では「安全です」だけを繰り返してきました。マスコミも報道しない。そう、その構造は原発推進と重なるのです。そしてあの事故が起きた。取り返しのつかないことが起こる前に国民的議論を積み重ねるのが先ではないのか。そんな思いをこめた一冊です。取材はまだまだ続きます。(樫田秀樹)
■北海道に、今年も一足早い秋がやって来た。当地ではメシ炊き男の身分ゆえ、1、2日に1回は食材の買い出しに出る。けれど、あとは相変わらずの引き籠もり生活。ここ『貧乏工学研究所・北方支部』で、熱帯仕込みの後端技術と戯れながら過ごしている。人口わずか10万人ほどの小さな町だから、はっきり言って何もない。外出する気も起きないが、1軒だけ気になるリサイクルショップ(という名のガラクタ屋)があり、週に1、2回、足を運んでいる。
◆ある日、店内で、サハリンからのロシア人ツーリスト御一行に遭遇した。博多人形や茶道具、重箱などを根こそぎお買い上げ、だとかで、「日本文化の香り高いものが解る人たちですねぇ」と御主人はホクホク顔。店の奥を覗くと、長年ホコリを被っていた、どう見てもチープな作りの品々が悉く消えている。大喜びで帰っていった彼らを思い出し、私は何となく複雑な気持ちになった。
◆通路脇の床には、ペンチやスパナなどの工具類を詰め込んだ、重そうなプラスチック箱が幾つか並んでいる。叩き売り価格ながら、どれも傷みが激しく、「こんなモノ、売れるんですか?」と訊ねたら、「日本に嫁いできたフィリピン人の奥さんが、まとめ買いして国へ送る」の意外な返事。向こうでは日本製の新品は高くて手が届かず、こうした中古品に需要がある、と初めて知った。
◆カウンター前のボックスにも物語が潜んでいた。無造作に投げ込まれた折り畳みナイフや多機能ナイフは、4箱あわせて200本を下らない。しかし、行く度にチェックしているのにガラクタばかり。「模造品やマガイ物を仕入れてどうするんだ?」と不思議だった。が、ある日、疑問氷解。なんとこの方面にも常連客がおり、奥さんが店番に入っている時間を狙って現れ、あろうことかカウンター内に置かれた仕分け前の箱を漁り、掘り出し物を見つけるとテキトーな値段で持ってゆくのだ。「以前はね、革ケース入りのガーバーやバックが二束三文だったけど、オレがどんどん買うもんだから、シャチョーが値打ち知っちゃってねぇ」。そう宣った彼は、この日はメボシい物がなかったのか、「やっぱり毎日来なきゃ、ダメだなぁ」と呟きながら出ていった。
◆リサイクルショップはノークレーム・ノーリターンの世界だ。当然、アタリもあればハズレもある。品定めに全神経を集中しても、細工されて未開封に見えたブランデーは、飲んだ後で気分が悪くなった。それに懲りて、圧力鍋の検品ではいっそう慎重になり、「これ、大丈夫でしょうね」と主人の顔色を窺ったら、「大丈夫です!」の裏付けなき太鼓判。「もし姿見せなくなったら、鍋が破裂してクタバったと思って下さいね」のダメ押しにも、「はい。その時は新聞の『お悔やみ欄』探します」と笑顔のジャブが返ってきた。この圧力鍋は25年以上も前の製造で、メーカーに問い合わせても詳しいことは判らなかったけれど、問題なく作動。10年を超す同店での買い物中、ダントツのお値打ち品となった。
◆昨夏は、反ったマナ板の直しを思い立ち、鉋を探しに行った。時間をかけて選んだのに、持ち帰って刃を研いだら、錆の下に致命的なヒビ割れが隠れていた。結局、鉋としては使えず、今は鰹節を削るのに重宝している。聞くところによると、市販品の鰹節削り器にロクなものはないらしい。「大工の鉋は見習いレベルでも2万円、いっぱしの職人が使うものだと5、6万はする。ヘタな材木より堅い鰹節を掻く道具が、箱も含めて1万円以下で作れる訳がない」というのだ。その昔、酔った勢いでネット購入してしまった3万7500エンの鰹節削り器も、それまで使っていた5000円の倍の価値すらなく、今回の高級古鉋(2980円)の方が7倍半くらい良く掻ける。そんな高価な鰹節削り器を買う金があれば、まずは古道具屋で鉋を探すべし。その残金を鰹節に回せば、最高級の本枯れ節が10本近く買える。遅まきながら、そう悟った。
◆買い取りを頼まれた先では、売れ筋だけセレクトしたりせず、一括で引き取る、と御主人は語る。それゆえの玉石混合が、ここの品揃えの魅力になっている。ホームセンターや百均の品々は、『日常生活』という消化器官を通り抜け、チャーミングなオーラを放つようになる。その微光を受け、恍惚の表情で仕分け作業にいそしむ店長も、真剣この上ない眼差しでガラクタ洞窟を徘徊する常連客も、みんな幸せそのものだ。
◆マナ板直しの懸案は今も続いている。1台、目を付けた鉋があり、春先から思案していたら、先日消えてしまった。残念だけれど、「また出物があるさ」と思えば悔しくはない。何でもアリで、チャンスは繰り返し訪れる。ささやかな常識や思い込みが覆り、意外な発見も待っている。こんなに小さな町でさえ感じる、徐々に息苦しさを増す、この国の空気。ここが心休まる場所なのは、当然といえば当然か。
[85年夏の西ドイツは居候先のシェアハウスにて、ふだんテレビなど全く見ない学生たちがベッカーのウィンブルドン決勝戦に釘付け&初優勝で熱狂する姿に、「ああ、我々がこんな日を迎えられるのは何十年先なんだろ」と羨んでから29年。午前6時のラジオニュース(ここはテレビがない)で錦織の決勝進出を知り、「来年は願いが叶うかも!!」と1日中ウキウキ気分の、ミスターX(久島弘) 9月7日]
広島で起きた大規模土砂災害被災地の支援のため、一般社団法人「RQ災害教育センター」もいち早く「RQ広島」を立ち上げ、支援活動を開始した。ただし、当初は県外ボランティアは支援活動できない事態に。8月26日に現地入りした事務局長の八木和美さんに緊急報告してもらった。(E)
■8月26日、3.11後初の「RQ広島」を現地で立ち上げるために、人生初!の広島入りをしました。なぜRQを立ち上げることになったのか……。今回は、3.11時に京都から支援をいただき、唐桑VCでも活動をされていた西村仁志さん(広島修道大学准教授)が、個人でいち早く行動されたことが大きかったです。また、これまでにも伊豆大島での土石流、今年2月の関東甲信地方での雪害など、大きな災害が発生しましたがRQとして動くことができず、次の災害に備えるといいながら「次の災害とは一体いつなのか?」という議論がされていた矢先のことでした。
◆現地入り後は、西村仁志さん、志賀誠治さん(ひろしま自然学校)など、広島のエコセン世話人たちと行動を共にしながら、刻一刻と変化する混乱した状況に身体をなじませていました。その間、「RQを立ち上げたものの、存在が中途半端でどうしたらいいかわからない」状態が数日続き、やきもきしながら過ごしていました。大きな理由は、広島市社会福祉協議会が設置した災害ボランティアセンターとともに行動していたため、RQらしさ(?)を発揮できたとはいえなかったからです。
◆現地に行って「ボランティアは広島県内のみ」に限定されていることを知り、「あの、全国からボランティアを募集しているのですが、どうしたらいいでしょう?」と途方に暮れる日もありました。ボラセン運営スタッフには「支援P」といわれる他県から来ている人もいたため、RQも運営側スタッフとしてならOKという了解をもらい、個人ボランティアも「(他県から)来てしまった人を追い返すわけにはいかない」という暗黙の了解があったので、なんとかRQ広島の活動はスタートしました。
◆私が日中のほとんどを過ごした安佐北ボラセン内の「困りごと相談コーナー」(あまり訪問者もなくヒマで退屈)には、高齢の独り暮らしの女性や、自力で土砂を片付けるのに疲れ果てた男性などが訪れ、ボランティアの助けを求めていました。しかし……そこはまだ避難指示エリア。「すみません。避難指示が解除されていないので行けないんです」とお断りするしかありません。つくづくと自分の非力さがつらくなった瞬間です。
◆東日本大震災と異なるのは、めったに起こらない災害ではなく、再び同じような気象条件が重なれば、いつでも、どこでも再発する危険性を孕んでいるということです。そして、もう一つ大きく異なることは、今回の土砂災害は、広島市内の「局地的な都市型災害」だということです。現地で不足しているものは何もなく、店舗はなにごともなかったようにフツーに営業しています。
◆昨日(9月3日)、広島市長が全国からのボランティアを受け入れる方針を表明しました。9月4日(本日)より、2つのボランティアセンターでは、「団体のみ」県外からのボランティアの受け入れが開始されます。今回、食品企業の規格外品などを引き取り、福祉施設等へ無料で提供する「フードバンク」という活動をされているNPO法人あいあいねっとと知り合うことができました。事務局長の秦野英子さんは、すばらしく知的でステキなスーパーウーマンです。その秦野さんが、今回の土砂災害についてFacebookで以下のように書かれています。本人の許可を得てご紹介します。(八木和美)
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■市長が、全国からのボランティアを受入れる方針を表明した。まだ、いろいろ制約をつけているらしいが、とりあえずよかったと思う。よかったと思いながらも、被災地域に暮らす者として気がかりがある。それは、おそらく多くのボランティアの方々が、「震災」のイメージで飛び込んでこられるだろうけれど、それで大丈夫なのか? ということ。広島の大規模豪雨災害は、甚大な被害を引き起こした深刻な災害だ。それは間違いない。間違いないのだけれども、今回は東日本大震災とは異なり「局地的な都市型災害」だ。
◆つまり、災害発生直後から、道一本隔てた都市機能は全て通常通り機能しているという状況がずっと続いている。にもかかわらず、マスコミは、画になるところを切り取って報道する。物語を伝えようとする……。それは理解できるし、必要なことだとも思う。けれど、県外ではそれが断片的に流れ、大きな誤解を生む要因になっていることも事実だ。適切な言葉が見つからないが、敢えて言えば「拍子抜け」したボランティアさんたちの姿や声に、これまで私は何度となく遭遇している。
◆事実、東日本大震災の現場に十数回通っている私が、もし今回の被災地に住んでいなかったら、報道をみて現場に入っただけだったら、同じような感情を抱いてしまうだろうと思う。ちょうど被災の只中の地域に住んでいるので、災害発生当初から公私ともにさまざまなお見舞い、お心遣いと、身に余るほどの支援の申し出をいただいている。その言葉、その想いの一つ一つにとても勇気づけられたし、心から感謝しています! 本当に。
◆でも、その一方で、多くの方々に「震災とは規模がちがうんだ=町全体は壊滅していません」「ハード復旧と同時進行でコミュニティケアをしないと、地域がこれからとんでもないことになるんだ=ある意味で排他的で県外の人は活動しにくい地域なんです」ということをご理解いただくのが非常に難しかった。その難しさは、今も続いている。だから、とても気がかりだ。
◆全国からボランティアに来てくださるみなさまへ。被災現場は疲弊しています。みなさまのお力が絶対に必要です。でも、あの「3.11」のイメージでお出でにならないでください。現場は、依然としてとても深刻な状況が続いていますが、あの未曾有の災害とは規模と状況が違います。そのことを心の片隅においてお越しください。お互いのために、よろしくお願いします。(秦野英子)
■大和郡山市民劇団 古事語り部座 公演「郡山千本桜」。6日土曜日、わたしの初舞台。日曜日、千秋楽。あっという間に駆け抜けていきました。昨夜は大盛り上がりの打ち上げをして、大して寝ていませんが、何ともすがすがしい気分です。舞台、気持ちよかったです!
◆初舞台は、さすがに少々緊張しましたが、「あ、わたし、舞台、平気だ」と分かった翌日の千秋楽は、全くと言っていいほど緊張しませんでした。芝居を終え、最後に役者が舞台に整列してお客様におじぎをします。そのときに、最高の笑顔で胸を張って舞台に立ちたい。その瞬間をイメージしながら、芝居の一コマ一コマを、丁寧に集中して進めていけた、そんな気がします。
◆芝居を通して感じたこと、学んだことはたくさんあります。舞台本番の緊張感、面白さ、楽しさ、気持ち良さもそうですが、何よりみんなで作り上げていく過程が本当に面白かった! 専業主婦、サラリーマン、子ども。9歳から70歳まで、さまざまな年齢、立場の人たちが集まりました。劇をやりたい、というだけあって、非常に個性的なメンバーでした。
◆平日チーム、土日チーム、全日チームと分かれて、5ヶ月間、稽古をしてきましたが、常に誰かが欠席し、なかなかメンバーが揃いません。常に代役を立てての稽古になりますが、芝居はチームワーク。役者が揃わないと、特に掛け合いや立ち回りなどは稽古しても稽古にならない。本番直前は、道具作り、衣装作りなどなど、稽古以外にもやることが山ほどあって、それぞれ家庭や仕事をやりくりしながら、必死のパッチで本番になんとかギリギリ間に合わせた感じです。
◆舞台は、自分だけが失敗しなければいいというものでは全くないですね。調子が悪いメンバーがいたら、声をかけ、励まし、フォローしながら、全体として進めていかないと流れていかない。舞台裏は戦争です。早替えあり、上手から下手、またその逆の移動ありで、このタイミングでこの人の動きを妨げれば、間に合わないなど、場面場面の人の動きもすべて把握して協力していかないと、ずっこけます。
◆「段取りを一つ間違うと事故る」と、あるとき脚本・演出を手がけた松村武さんが言いました。実際に本番が近づき、衣装を付けての通し稽古をしていくと、そのことがとてもよくわかりました。コンマ数秒で、間に合う間に合わないの世界でした。最終的な舞台セットで稽古できるのは、本番前の2日間だけ。階段が入ったことで、やっぱり間に合わないねという場面があちこちに出現し、本番直前まで動線の変更、タイミングの変更が入りました。
◆「一度言ったことは一発で修正して」というのも、稽古中何度も言われたことです。常にすさまじい集中力が必要でした。最後、2週間の集中稽古期間は、稽古から帰る度に体重が減り、芝居に費やすエネルギーがいかに大きいかということも身をもって実感しました。本当に楽しかった! ステージは気持ちいい。そしてまた舞台に立ちたいです。来年8月に、次の舞台の具体的な目標ができました。次へ向けて、1日でも早く始動したい気分です!(岩野祥子 9月8日)
■歌舞伎“義経千本桜”のルーツとして、勘九郎さんや猿之助さんもお参りした、源九郎神社の伝承をもとに、奈良大和郡山の狐にまつわる物語で構成された舞台は、2012年に結成された市民劇団“古事語り部座”の第2作目。前作は3年がかりで仕上げたのに、今回準備期間は5か月。岩野さんは2期生ながら、源九郎狐のモデルとなった武将役として、背筋を伸ばし、堂々とした語り口で魅せてくれました。
◆最初は、1人で何役もこなす出入りの激しさのなか、ご本人の姿を見つけては、友人の岸本夫妻とドキドキわくわくで見守っていましたが、ホールを満席にした300人以上の観客と共に、壮大なスケール感を味わったり、ご当地ネタにほころんだりするうち、いつしか物語に加わっていました。帰りは舞台のひとつである柳町商店街を歩き、余韻に浸ったのでした。そしてもちろん岩野さんは、最後の挨拶で、いい顔してました!!(中島ねこ)
■先月の通信でお知らせした以後、通信費(1年2000円です)を払ってくださった方々は、以下の皆さんです。数年分をまとめてくださった方もいます。万一、記載漏れがありましたら、必ず江本宛てにお知らせください。アドレスは、最終ページにあります。
鹿内善三/大澤英幸(3000円)/小石和男(5000円)/永田真知子/村田忠彦/松本典子/長瀬まさえ(3000円)/藤本亘/陶山満夫/津本あかね
■朝青龍を見た。8月20日、チンギスハーン広場沿いの高級ビル前に立っていた。おしゃれな青いスーツ姿の彼に導かれ黒いジープから続々と降りてきたのは、十数名の日本人女性。「日本モンゴル友好書道展」出展者の方々で、メンバーは主に政財界人の夫人だという。
◆このなかに86歳になる安倍首相のお母様もいたそうだ。9月上旬には野田前首相もモンゴルを訪れ、日本の要人が頻繁にモンゴル政府と接触している。あるジャーナリストによると、「拉致問題の交渉は、個人が面と向かい口頭で話せる場でなければできない」。解決への道のりをひそかに、着々と進んでいると信じたい。
◆日本と北朝鮮の仲介役としてたびたび話題になるモンゴルだが、近年は経済面でも世界の注目を集めた。2011年にGDP成長率17.3%を記録し、2010〜15年の同成長率世界ランクも1位に。しかしその後、急展開。今年になりデフォルト(債務不履行)危機の噂が流れたのだ。世界最大規模の鉱山を抱える国の発展に期待し2012年に発行されたチンギス国債(1500億円)を、政府が別用途やわいろでバラまいてしまい、国内の外貨準備高が激減したらしい。元本の支払い開始時期は2017年に迫る。
◆7月末、大手企業の代表者約100名とともに、エルベグドルジ大統領が来日した。経済セミナーや交流会が催され、初の68階建ビル建設計画など好景気がアピールされた。モンゴル陣営は日本からの投資を期待したものの、2013年末には円建てのサムライ債(300億円)が発行されており、数年越しで実現した「経済連携協定(EPA)」締結を除けば、特に大きな利益はなかったといわれる。
◆デフォルトなのか世界No.1なのか? 確かめたくて、8月の3週間モンゴルに滞在した。地方の遊牧民、UB在住の市民、経営者、政治家。モンゴル人、日本人、さまざまな立場の人に話を聞いたが、「生活は厳しくなっている」という声が大多数。パンなどの物価が上がり続け、母親たちは悲鳴をあげる。「高くて買えないから市場で生肉のにおいを嗅ぐだけで幸せ」とこぼす人も。しかし路上では、昨年以上にメルセデス・ベンツ社のジープがたくさん走っているように見えた。「新車をキャッシュで買うのが流行っている」とある経営者は言う。
◆ゲストハウスで出会ったドバイの実業家によると、「モンゴル全土をバイクで旅した。どの道を走っても建設業の中国人がいた」。道路工事案件を中国企業が次々受注している話は、友人からも聞いていた。中国人男性と結婚するモンゴル人女性が最近増え始めていることも。モンゴル人が抱く強い嫌中意識は、過去の常識になりつつあるのかもしれない。カフェで相席した若いモンゴル人女性は「上海大好き!」とその魅力を熱っぽく語った。
◆7月以降、「土地法」の改定案が物議をかもしている。現行法では、モンゴル国土を外国人は所有できない。しかし改定案では条件を満たせば可能になる。モンゴル人に言わせれば「外国人=中国人」。土地目当てでモンゴル人と結婚する中国人に買い占められるのではと、不安がる人も多い。国民の反発を招き、決着は秋の国会に持ち越された。
◆8月21日、習近平国家主席がモンゴルを訪問した。国家主席の訪問は11年ぶり。習氏とエルベグドルジ大統領は「全面的戦略パートナーシップ」に署名。26項目で協定に署名。日本が先に締結したEPAをはるかにしのぐ規模で相互協力をうたった。チンギス債の返済額を軽く超える2400億円相当の二国間通貨スワップ協定も結ばれ、モンゴル経済界は今わいている。Bank of ChinaのUB進出予定もあり、ドルに代わり元のパワーが強まるのは確実だ。
◆9月3日、プーチン大統領もモンゴルへ。中国同様、エネルギーや資源開発、鉄道輸送などの協力強化に関する15の合意文書に調印した。モンゴル国土上で中国とロシアを縦一直線につなぐ鉄道、高速道路、パイプラインの建設計画があり、中ロモの3国間で今後さらなる連携をはかるそう。中ロ両国から、「将来モンゴルとビザなし交流を可能にしたい」という話も出た。「中国の人口にはかなわないから」と友人は震えていたが、「ロシアなら嬉しい」とも言う。中国はモンゴルをいずれ「回収」しようとしているのでは?と警戒する声に対し、習氏は訪問時のスピーチで「モンゴルの主権、独立、領土完全性を尊重する」と表明した。
◆中国経済への依存が深まるモンゴルには自国を支える産業が必要だ。長い目で見て私が個人的に期待しているのが、ゴビ砂漠を拠点とする「アジアスーパーグリッド」。2011年に孫正義氏が発案したこの夢物語は、太陽光と風力で膨大なエネルギーを作り出し、モンゴルから中国・韓国・日本へ電力供給する壮大なプロジェクトだ。実務を請け負うニューコムグループの担当者に聞いたところ、「各国への電力供給実現はまだ先のステージ」。現在は、どの地点でどの機器を用いれば効率よく電力を生み出せるか、実験段階にある。まずは国内への安定供給を目指し、発電量を増やせれば中国へ輸出する。人類に必要なエネルギーの半分量を生産できるという説もあるが、「技術の向上と面積次第では全量も不可能ではない」と話す。
◆さて、モンゴルといえばやっぱり草原。親友に誘われて行った親戚大集合のお祭りには圧倒された。9人兄弟から生まれた子孫400人(これでも出席率3割)が2泊3日一緒にすごし、互いに知り合う。血縁関係内の結婚を防ぐのが大きな目的だと聞いた。昼間はチベット仏教儀式や相撲大会やコンサートが盛大に行なわれ、夕方からは草原の上でディスコタイム。鮮やかな民族衣装で着飾った老若男女が、踊る、飲む、はしゃぐ! 月焼けしそうなほどまぶしいスーパームーンのもと、音楽は夜明けまで鳴り響いていた。(大西夏奈子)
8月最後の土曜日の昼下がり、羽田空港へ向かうモノレールは夏の終わりの気だるい空気に包まれていた。これから石垣島経由で沖縄本島へ5日間の出張。私にとっては141回目の沖縄だ。
初日は石垣島泊まり。今回は幸いホテルの部屋を確保できたが、昨年3月に新石垣空港がオープンして以来、石垣島は宿もレンタカーも取りにくい状態が続いている。新空港開港によりLCC(格安航空会社)が参入して航空料金の価格破壊が進み、入島客が急増、20カ月連続で前年比を超えているのだ。
人口48,658人(7月末現在)の石垣市に、昨年(平成25年)の観光入域総数は約937, 024人。単純計算でも1日あたり2,567人が来島していることになる。その前年(平成24年)の入域総数が708,527人だから、1年で23万人もの増加! 石垣島に住む友人は「島が沈みそうだよ」とつぶやいていた。
いっときはレンタカーの空きがなく、1日2万円なら(通常は1日3,000円台)と言われて唖然としたり、成田から2泊3日の航空券・ホテル付き29,800円のツアー(JTAの羽田‐石垣間の往復正規航空料金は10万円を超える)でやって来たという人の話に、のけぞったりした。
とはいえ、そのような価格は長続きせず、その後LCCは便数を減らし、現在はやや落ち着きつつある。それでも今回泊まったホテルのスタッフによれば、今も「爆発しそうな状態が続いている」とのこと。飲食店も混んでいるし、石垣島で宿を確保できない人たちが周辺の島々へ流れ、離島の宿も混んでいる。
このプチバブル状態について、石垣周辺の人々の思いは複雑なようだ。航空券が安くなる便利さ、来島者が増える喜び、観光産業が潤うありがたさなどの一方で、来島客の増加や客層の変化への戸惑い。かつて高い交通費を負担してまで訪れるのは、八重山に何かしらの興味関心をもつ人々だったが、最近は「なんとなく来てみた」という人たちが急増し、島の人いわく「話が通じない」とのこと。
観光客が増えることはよいことなのだろうか、初めて訪れた人のどれくらいがリピーターになるのだろうか。そんな疑問を抱かずにはいられない。島人の多くも、この状況が長く続くとは思っていないようで「儲けられるうちに、儲けよう」という人もいれば、働き手が確保できず、サービスレベルが維持できないことから、営業時間を短縮した飲食店もある。知り合いの飲食店オーナーは「内地からの航空券代も出すから、誰か働きに来てくれる人はいないかな」と言ってスタッフを探していた。
一方で、そのような喧噪・混沌とは一線を画しているのが、石垣島の南西に浮かぶパナリ島だ。正式名称は新城(あらぐすく)島で、上地(かみじ)と下地(しもじ)の2つの島から成る島だ。2つの島が「離れ」ているから、通称「パナリ」。人が住んでいるのは周囲約6キロの上地島のみ。下地島は1963年に廃村になって以来、島全体が牧場となっている。
そのパナリ島では数年前から島民関係者と島民が営む観光ツアー参加者以外の集落内への立ち入りを禁止している。「ここは観光地ではない」という意思表示だ。石垣島から高速船で35分ほどだが、定期船は就航していないので、観光客は島民主宰のツアーで訪ねるのが一般的。ほかに近隣の黒島や小浜島からスノーケリングツアーで行く方法もあるが、この場合、上陸はビーチまでで、集落には入れない。
パナリの海は、沖縄の島々のなかでも格別で、何度訪れても「わお?!」と歓声を上げずにいられない美しさを誇る。基本的に出張中に泳ぐことのない私が、これまでに唯一「泳いでもいいですか?」とお願いし、スノーケリングをしたのもここパナリだ。浜からすぐの距離にサンゴ礁が広がっているのが目に見えるのだから、泳がずにはいられない。そしてサンゴのまわりにカラフルな魚たちが戯れる、竜宮城のような海中世界を堪能した。
このように海もピカイチなのだが、集落も魅力的。島の人口(住民登録者)はわずか13人で、その多くが石垣島や西表島にも家をもち、行き来している。にもかかわらず、その数を超える家々が「まるで人が住んでいるように」手入れされた状態にあるのが不思議だ。島に住んでいなくても、先祖や祭りのために頻繁に島を訪れ、家を管理している人が大勢いるのだ。それゆえ廃墟がないどころか、石垣に囲まれた家々が並ぶ、昔ながらの風情が残っている。商店や自動販売機はなく、静寂のなかに鳥の声が響き、蝶が舞うパナリ島。その心地よさ、陰影の濃い島の風景を思い浮かべながら、島の人の暮らしの尊重と、観光客の受け入れの両立について考えをめぐらすのだった。(日野和子)
■毎月、この地平線通信が戻って来てしまうことが少なからずある。郵便と違ってメール便は、転居した場合など追跡はしてくれない。「転居先不明」の付箋をつけて舞い戻ってしまうのだ。江東区に住むM井さんのも2か月連続戻って来てしまったため「発送中止」とした。すると、「通信費として去年6000円支払ってくださっています。その前の支払いは1年空いた2011年。余力があれば郵便で追跡して差し上げた方がいいかもしれません」と、担当のS君。
◆そうか、とご本人が所属している山岳会の名簿から自宅の電話番号を見つけ「もしもし」。なんと本人が出てくれ「すいません、家の立て替えで一時的に住所移転してたんですが、工事終えて元の場所に。地平線通信楽しみにしているのでよろしく」。よかった。次の言葉につかまった。
◆「実はきょう剣から帰ってきたところで」えっ? どのルートで?「六峰を」ほう、何フェースですか?「いや、Cフェースですけどね」六峰は、剣岳の頂上に突き上げる八つ峰という岩稜の一角。A、B、Cフェースがあり、私も何度か攀じている。聞いて血がたぎった。M井さん、確か私より年長のはずだ。うーむ。行きたいぞ、剣。
◆話を戻して。舞い戻って来る通信には、結構手間をかけて追跡する。当方の問題で届かなかったら通信費を払ってくれている読者に申し訳ない、との気持ちからだ。先日は仲間がメール便のバーコード番号を控えておいて追跡し、2日後「問題の地平線通信、今日の14:54に投函されています」と報告してくれた。仲間たちの細かな仕事を含む地平線通信の制作です。(江本嘉伸)
未来のルーツを歩く
「21世紀は文明が大変換する時代。こんな時に生まれ会わせたのは僥倖だし、次にどんな文明が来るのか知りたい」というのは作家の森田靖郎さん。中国をはじめ世界を旅してきた森田さんは、アメリカに象徴される現代文明の閉塞状況や、世界的な気候変動などを、文明周期説の考え方で観察しています。 「国とか政治のモノサシやなく、もっと大きなスケールで見ると、変化の兆しが見える」と森田さん。次の時代の根底を成す哲学のヒントは森にあると指摘します。 人が森とどう関わってきたのか、それを探るために森田さんは昨年からアメリカ、ヨーロッパの森を数ヶ月に渡って歩いてきました。「1600年間続いたいまの文明の痕跡を歩くことで、未来が見えてきた気がする」。 今月は欧州から帰国直後の森田さんに、森に見た未来のルーツについて話して頂きます。乞御期待! |
地平線通信 425号
制作:地平線通信制作室/編集長:江本嘉伸/レイアウト:加藤千晶 福田晴子/イラスト:長野亮之介/編集制作スタッフ:丸山純 武田力 中島菊代 大西夏奈子 落合大祐
印刷:地平線印刷局榎町分室
地平線Webサイト:http://www.chiheisen.net/
発行:2014年8月10日 地平線会議
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